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ブラシダス

索引 ブラシダス

ブラシダス(Βρασίδας, ラテン文字転記:Brasidas, ? - 紀元前422年)はペロポネソス戦争の前半において活躍したスパルタの将軍である。若年にもかかわらず軍を指揮して戦った彼はペロポネソス戦争前期における最も傑出した軍事的才能の持ち主であった。 紀元前429年の夏にペロポネソス同盟側はアテナイの同盟国であるザキュントスやケファレニアをアテナイから切り離し、またケルキュラとの間に楔を打ち込もうとして、アテナイとそれらの同盟国との間に横たわるアカルナニアの地を勢力下に置くために軍を送った。しかし、この作戦でペロポネソス同盟軍は陸海で敗退した。これを受けてスパルタは、敗れて戻ってきたクネモス(その年のペロポネソス同盟連合艦隊の総司令官)の諮問団としてブラシダス、ティモクラテス、リュコフロンをクネモスのいたキュレネへと送った。彼らは同盟諸国に布告を出して77隻の艦船を集め、彼らは先日にリオンの海戦でペロポネソス艦隊を破ったアテナイの提督フォルミオンとの再戦を目論んだ。ペロポネソス戦争を記録したトゥキュディデスは引き続いて起こった海戦(ナウパクトスの海戦)におけるブラシダスの行動について言及しておらず、海戦でブラシダスはこれといった役割を果たさなかった。ともあれ、結論から言えばペロポネソス艦隊は四分の一の数の20隻のアテナイ艦隊に敗れ、コリントスへと敗走した。この敗北によってアテナイとその北西の同盟国との間に楔を打ち込むというスパルタの試みは最終的な失敗に終わった。 紀元前427年、アテナイに反旗を翻したミュレィレネ(ミュティレネの反乱)の救援に向ったが、助けが間に合わずに帰国した提督アルキダスとレウカス、アンプラキア艦隊13隻とアルキダスの相談役として送られていたブラシダスはキュレネで合流し、ケルキュラ方面での作戦を計画・準備した。というのもその時ケルキュラは親スパルタの寡頭派と親アテナイの民主派が内戦を起こしており、アテナイがそれに介入して将軍ニコストラトスを送っていたからだ。ケルキュラにやってきたアルキダス艦隊53隻は迎撃してきたアテナイ・ケルキュラ連合艦隊72隻を海戦で破った。この時、ブラシダスは敵に追い討ちをかけ、ケルキュラ島を攻撃することを提案したが、アルキダスはそれを容れずにギリシア本土側の基地へと引き返した。その後、エウリュメドン率いるアテナイの増援艦隊60隻が接近しつつあるという知らせを受けると、アルキダスは帰国し、ケルキュラ方面作戦は失敗に終わった。その後、ケルキュラでの内戦は民主派の勝利に終わった。 紀元前424年にトラキアへと遠征したブラシダスは、ブラシダスの軍を使ってリュンコスの豪族アラバイオスを征討しようとしていたマケドニア王ペルディッカス2世によって迎え入れられた。しかし、ブラシダスは戦わずしてアラバイオスを味方にしたため、アラバイオスを征服したいと思っていたペルディッカスはそれに不満を抱いて軍隊扶養額の負担分を二分の一から三分の一に減らした。しかし、翌紀元前423年にはペルディッカスの希望が通ったのかブラシダスとペルディッカスはリュンコス遠征を行った。ところが、ペルディッカスの援軍に来るはずだったイリュリア軍がリュンコス側に寝返ったためにペルディッカスは単独で撤退した。ブラシダスもその直後リュンコスを去ったが、ペルディッカスの勝手な行動に怒ったブラシダスはマケドニア領を荒らしたため、ペルディッカスはアテナイに接近し、同盟を結んだ。 紀元前422年、アンフィポリスの戦いで自らは選抜隊の重装歩兵150人を率いてアテナイ軍と戦い、戦い自体は勝利に終わったが、自らは戦死した。.

32 関係: 京都大学学術出版会ペルディッカス2世ペロポネソス同盟ペロポネソス戦争ナウパクトスの海戦ミュティレネの反乱マケドニア王の一覧リュンコスリオンの海戦レフカダ島トラキアトゥキディデスティモクラテスフォルミオンニコストラトス (アテナイの将軍)アルキダスアテナイイリュリアエウリュメドン (将軍)キュレネクネモスケルキラケファロニア島コリントスザキントス島スパルタ紀元前422年紀元前423年紀元前424年紀元前429年重装歩兵戦史 (トゥキディデス)

京都大学学術出版会

一般社団法人京都大学学術出版会(きょうとだいがくがくじゅつしゅっぱんかい、英称:Kyoto University Press)は、京都大学の出版部に当たる一般社団法人で、大学出版部協会の会員。主として京都大学における学術的成果を出版活動を通じて公表・普及することを目的とする。現会長は山極寿一、理事長は末原達郎。同会の出版活動に対して、梓会出版文化賞第20回記念特別賞、2011年度地中海学会賞が授与されている。.

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ペルディッカス2世

ペルディッカス2世(希:Περδίκκας Β、ラテン文字転記:Perdiccas II、?-紀元前413年、在位:紀元前448年-紀元前413年)はアルゲアス朝のマケドニア王である。.

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ペロポネソス同盟

ペロポネソス同盟の領域(赤) ペロポネソス同盟(ペロポネソスどうめい)は、紀元前6世紀末にスパルタ王クレオメネス1世によって結成された、スパルタを盟主とするペロポネソス半島の諸ポリスからなる同盟。 ペロポネソス同盟とデロス同盟の対立は、やがてペロポネソス戦争へと発展した。 紀元前371年にスパルタはレウクトラの戦いでテーバイに敗れ、ギリシアの覇権を失った。そして紀元前366年にテーバイの指導者エパメイノンダスによって同盟は解散させられた。しかし紀元前272年、ラコニアに攻め込んだエピロス王ピュロスをアレウス1世が撃退し、ペロポネソス同盟を再結成した。 Category:古代ギリシア Category:スパルタ Category:軍事同盟.

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ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路 ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、Πελοποννησιακός Πόλεμος、Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年)は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。.

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ナウパクトスの海戦

ナウパクトスの海戦(英:Battle of Naupactus)はペロポネソス戦争において紀元前429年にアテナイ艦隊とペロポネソス同盟艦隊との間で戦われた海戦である。.

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ミュティレネの反乱

ミュティレネの反乱は紀元前428年にレスボス島の中心都市ミュティレネによって起こされたアテナイに対する反乱である。ミュティレネはレスボス島を統一しようとしてスパルタやボイオティアなどと手を結んでアテナイへの反乱を起こしたが、翌年アテナイによって鎮圧された。.

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マケドニア王の一覧

マケドニア王の一覧では、マケドニア王国の国王の一覧を示す。.

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リュンコス

リュンコス(Λύγκος, )は、ギリシア神話の人物で、スキュティアの王オウィディウス『変身物語』5巻。、あるいはシチリアの王であるヒュギーヌス、259。。トリプトレモスが穀物を持って農耕を伝えるためにスキュティアにやってきたとき、リュンコスは穀物を人々に与えるという名誉ある功績を横取りしたくなった。そこでリュンコスはトリプトレモスを客人としてもてなした後で、眠っている間に殺そうとした。しかしそのときデーメーテールはリュンコスをヤマネコに変え、トリプトレモスを救った。.

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リオンの海戦

リオンの海戦(英:Battle of Rhium)はペロポネソス戦争において紀元前429年にフォルミオン率いるアテナイ艦隊とペロポネソス連合艦隊との間で戦われた海戦である。.

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レフカダ島

レフカダ島 (Λευκάδα / Lefkada、)は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ。 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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トゥキディデス

トゥキディデス(古典ギリシア語の母音の長短を考慮して音訳するとトゥーキューディデース。その他、トゥキュディデス、ツキジデスなどとカナ表記される。希:Θουκυδίδης、ラテン文字表記:Thukydides/Thucydides、紀元前460年頃 - 紀元前395年)は、古代アテナイの歴史家で、オロロス(Olorus)の子である。.

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ティモクラテス

ティモクラテス(希:Τιμοκράτης、ラテン文字転記:Timocrates)はギリシア人に見られる男性名であり、次のような人物が知られている。.

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フォルミオン

フォルミオン(希:Φορμίων、ラテン文字転記:Phormion)は、ギリシアの男性に見られる名前である。.

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ニコストラトス (アテナイの将軍)

ニコストラトス(希:Νικόστρατος、ラテン文字転記:Nicostratos、?-紀元前418年)はペロポネソス戦争期のアテナイの将軍である。 ニコストラトスはディエイトレペスの子である。ニコストラトスは紀元前427年の親アテナイの民主派と親スパルタ派の寡頭派との間に起こったケルキュラでの内乱を鎮めるために12隻の艦隊とメッセニア兵500人を率いて向った。彼は双方を和解させてケルキュラとアテナイの同盟を締結させてアテナイの味方にしようとしたが、双方が歩み寄らなかったために失敗し、内乱を恐れた寡頭派は近くの島に移った。その4、5日後にアルキダス率いるペロポネソス艦隊53隻がケルキュラへとやってきたため、アテナイ・ケルキュラ連合艦隊72隻との間で海戦が起こった。アテナイ・ケルキュラ連合艦隊は敗れたものの、エウリュメドン率いるアテナイ艦隊60隻の接近を受けてアルキダスはブラシダスの献策にもかかわらずケルキュラには攻め込まずに領地を荒らしただけで帰国した。その後民主派による寡頭派の虐殺が起こり、アテナイ艦隊は後続の艦隊と共にケルキュラを去った(このような民主派の勝利のためにアテナイとの同盟が締結されたかもしれない)。 紀元前424年夏、ニコストラトスはニキアス、アウトクレスを同僚の将軍として艦隊60隻、重装歩兵2000人と共にスパルタの目と鼻の先にあったキュテラ島へと送られた。彼らはキュテラ島を占領した後にラコニア沿岸を荒らし、次いでテュレアを占領、略奪してスパルタの将軍タンタロスと彼に味方していたアイギナ兵を捕らえてアテナイに送った。 翌紀元前423年の一年間のスパルタとの休戦協定の際、ニコストラトスはその儀式の参加者の一人となった。その後のブラシダスとマケドニア王ペルディッカス2世のリュンコス遠征の時には彼らと戦うためにニキアスを同僚将軍として艦隊50隻と弓兵600人、トラキア人傭兵1000人、アテナイ重装歩兵1000人と共にマケドニアのメンデおよびスキオネへと送られ、メトネ・スキオネ・ペロポネソス連合軍と戦ったものの、敵が有利な丘に布陣したために敗北した。その翌日アテナイ軍はスキオネ領を荒らした後、ニコストラトスとニキアスは軍を二分し、ニキアスはスキオネ領を荒らし、ニコストラトスはメンデ市を攻撃した。彼は駆けつけたニキアス隊と共にメンデを落とし、市内を略奪した後にアクロポリスのペロポネソス軍を監視する駐留軍を残してスキオネへと向った。アテナイ軍はスキオネ・ペロポネソス軍を戦いで破り、敵が逃げ込んだスキオネを封鎖し、それが完了すると守備隊を残して引き上げた。 紀元前418年にニコストラトスはラケスを同僚の将軍として歩兵1000人と騎兵300騎と共にアルゴスの援軍として送られたが、同年のマンティネイアの戦いでラケスと共に戦死した。.

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アルキダス

アルキダス(希:Ἀλκίδας、ラテン文字転記:Alcidas、生没年不明)はペロポネソス戦争期のスパルタの提督である。彼の指揮ぶりは良く言えば慎重、悪く言えば臆病である。 紀元前428年、アルキダスは提督に任じられ、40隻のペロポネソス艦隊を率いてアテナイの攻撃を受けていたミュティレネ(ミュティレネの反乱)の救援に向うよう命じられた。 紀元前427年にアルキダスはミュティレネのあるレスボス島へと向ったが、救援は間に合わず、ミュティレネの陥落7日後に途上のエンバトンでその報を受けた。この時、エリス人のテウティアプロスのミュティレネを落とした直後で油断しているはずの敵に攻撃を仕掛けるという提案、さらに同行していたレスボス人によるアテナイの同盟国であったキュメを占領してアテナイから貢納金による財源を奪うという提案のいずれもアルキダスは拒否し、帰国を決定した。帰路でミュティレネを落としたアテナイの将軍パケスの追跡を受けたが、無事逃げおおせた。 クレタ島近海で嵐に遭ったものの、ペロポネソスに戻ることができたアルキダスはキュレネでレウカス、アンプラキア艦隊13隻とアルキダスの相談役として送られていたブラシダスと合流し、ケルキュラ方面での作戦を計画・準備した。というのもその時ケルキュラは親スパルタの寡頭派と親アテナイの民主派が内戦を起こしており、アテナイがそれに介入して将軍ニコストラトスを送っていたからだ。ケルキュラにやってきたアルキダス艦隊53隻は迎撃してきたアテナイ・ケルキュラ連合艦隊72隻を海戦で破った。ブラシダスが敵に追い討ちをかけ、島を攻撃することを提案したが、アルキダスはそれを容れずにギリシア本土側の基地へと引き返した。その後、エウリュメドン率いるアテナイの増援艦隊60隻が接近しつつあるという知らせを受けると、アルキダスは帰国し、ケルキュラ方面作戦は失敗に終わった。その後、ケルキュラでの内戦は民主派の勝利に終わった。翌紀元前426年のスパルタによるトラキスでのヘラクレイア市の建設者として現れたのがアルキダスが歴史の舞台に立った最後である。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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イリュリア

イリュリアの位置 イリュリア(イリリア、Ἰλλυρία、Illyricum)は、古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた。 イリュリアの正確な姿は、現在の歴史家にも十分にはわかっていない。 イリュリア人の勢力範囲とイリュリア王国の領域とは必ずしも一致せず、さらに、 イリュリア王国の国境線はあいまいな部分がある。 例えば、ダルマティアは言語的にはイリュリア人に分類されるが、イリュリア王国には短期間しか所属していない。.

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エウリュメドン (将軍)

ウリュメドン(Εὐρυμέδων / Eurymedon、生年不詳 - 紀元前413年)は、ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍である。 エウリュメドンはトゥクレスの子である。ペロポネソス戦争中の紀元前427年、アテナイはケルキュラ内の寡頭派と民主派の党派争いに介入し、その一環としてエウリュメドン率いる艦隊60隻を送り、党派争いは民主派の勝利に終わった。エウリュメドンは翌紀元前426年のタナグラの戦いに参加してタナグラ・テバイ連合軍に勝利した。紀元前425年、シケリア島の内紛に干渉してシケリアに地歩を築くべく軍隊を送っていたアテナイは派遣軍への増援としてソフォクレスを同僚の指揮官としてエウリュメドンを艦隊40隻と共にシケリアへと送った。その途上有能な将軍であったが当時は将軍の地位になく私人だったデモステネスと合流した後、彼らはメッセニアのピュロスを奪取し、防壁を築いた。これを受け、ペロポネソス同盟側はアッティカに展開していた陸軍と、ケルキュラへと向わせていた海軍をピュロスへと送った。この出来事はピュロス・スファクテリアの戦いに発展し、絶対に降伏しないと言われていたスパルタ兵をスファクテリアで降伏させることに成功した。ピュロス・スファクテリアの戦いとは前後するが、デモステネスと離れたエウリュメドンとソフォクレスのアテナイ艦隊は予定通りケルキュラへと進み、政争に敗れて市を離れて略奪を働いていた寡頭派の亡命ケルキュラ人の篭る砦を攻撃して落とした。その後、そのアテナイ艦隊はシケリアに向ったが、シケリア人の間で休戦条約が締結されたために不要となり、帰国した。しかし、アテナイに戻った将軍たちは、シケリアを征服することもできたのに買収されて撤退したと人々に思われたため、ピュトドロス(先にシケリアにいた)とソフォクレスは追放刑に、エウリュメドンは罰金刑を受けた。 紀元前415年にアテナイによる大規模なシケリア遠征が開始されたが、それを率いた将軍のうちアルキビアデスが途中で逃亡し、ラマコスが戦死し、さらに残った唯一の将軍ニキアスが病に臥せっていたため、ニキアスは補佐の将軍をアテナイに求めた。そのため、紀元前414年に彼の労を軽減するために共同指揮官としてエウリュメドンはデモステネスと共に選ばれた。そして、エウリュメドンは10隻の船と共に冬至の頃にシケリアに送られた。増援を届けたエウリュメドンは一旦ギリシアに戻って各地で兵を集めつつ進んでいたデモステネスとアナクトリオンで合い、ナウパクトスにいたアテナイの将軍コノンからの援軍要請を受けて10隻を彼に分け与えた。その後、エウリュメドンはケルキュラで、デモステネスはアカルナニア周辺で兵を集めた。合流した彼らは道中兵を集めつつイタリアへと進み、トゥリオイを味方につけて援軍を受け取った後、シュラクサイを包囲していたニキアスの遠征軍と合流した。しかし既にアテナイ軍は敗勢にあり、デモステネスの決死のエピポライへの夜襲作戦も失敗に終わった。もはや勝利の見込みはないと考えたデモステネスは即座の撤退を提案し、エウリュメドンもそれに賛成したが、ニキアスの猛反対を受けた。その後、アテナイ軍はシュラクサイ軍の陸海からの猛反撃を受け、船上で戦っていたエウリュメドンは戦死した。.

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キュレネ

ュレネ (Cyrene) は、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、この地方にあった5つのギリシャ都市の中で最大・最重要を誇った。現在のリビア東部のことを「キレナイカ」(Cyrenaica) と呼ぶのは、キュレネにちなむものである。現存する遺跡の多くは、ローマの植民都市となった際に再建されたものであり、ローマ都市として再建されたギリシャ都市の優れた遺跡として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 現存する遺跡は、アフダル山地から流れ出る緑豊かな谷川に囲まれた高台に位置する。また、街の名前は、アポロンに捧げられた泉キュレネから付けられた。ギリシア神話におけるキュレネはラピテス族の王の娘であり、一目惚れしたアポロンによって北アフリカに連れ去られたとされる。.

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クネモス

ネモス(希:Κνήμος、ラテン文字転記:Cnemos、紀元前5世紀、生没年不明)はペロポネソス戦争初期のスパルタの将軍・提督である。彼は紀元前430年から紀元前429年までナウアルコス(スパルタの提督・ペロポネソス同盟連合艦隊総司令官職で、秋に始まり秋に終わる一年任期)を勤めた。 クネモスはペロポネソス戦争中の紀元前430年に1000人の重装歩兵と共にアテナイの同盟国ザキュントスに派遣されたが、ザキュントスを屈服させることができずに帰国した。翌紀元前429年の夏にスパルタはアテナイの同盟国であるザキュントスやケファレニアをアテナイから切り離し、またケルキュラとの間に楔を打ち込もうとして、アテナイとそれらの同盟国との間に横たわるアカルナニアの地を勢力下に置くために陸海の軍を送った。クネモスはその陸軍(2000人)の指揮を執った。しかし、彼はストラトス(:en:Stratos, Greece)近郊でアカルナニア人に敗れて撤退し、また艦隊47隻もリオンの海戦でフォルミオン率いるアテナイ艦隊20隻に敗れてアカルナニア方面作戦は失敗に終わった。クネモスは海戦に敗れた艦隊とキュレネで合流し、次の海戦を目論むスパルタからは諮問団(ティモクラテス、ブラシダス、リュコフロンら)と艦隊の再建の指令が送られてきて、彼らは再び同盟諸国から艦隊77隻を集めた。クネモス率いるそのペロポネソス艦隊は再び、今度は四倍近い戦力でフォルミオンに挑んだが、勝利まで後一歩というところで戦況をひっくり返されて敗れた(ナウパクトスの海戦)。 艦隊を解散する前にクネモスと他の指揮官たちはメガラ人の提案を受けてアテナイの港ペイライエウスを襲撃しようと計画した。彼らはメガラのニサイア湾の40隻の船に水兵を乗せて出航したが、敵の本陣を攻撃する危険を恐れて、もしくは風に流されたために標的をサラミス島のメガラ(前述のメガラとは別)を襲撃してサラミス島の各地を略奪して回った。彼らはアテナイの防衛部隊がやってくる前に捕虜や略奪品を奪ってニサイアへと戻った。その後クネモスは任期切れのために任を解かれたはずであり、それ以降の彼については不明である。.

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ケルキラ

ルキラ (Κέρκυρα / Kérkyra) は、ギリシャ北西部のイオニア諸島・ケルキラ島にある都市。イタリア語・英語名称での「コルフ」でも知られている。ケルキラ島(コルフ島)の主要都市であると同時にケルキラ県(コルフ県)の県庁所在地である。 ヴェネツィア共和国領だったときから重要な地位を占め、今では一大観光地となっている。複数の城を持つこの都市は、「カストロポリス」(Kastropolis, 城塞都市)としても知られている。 2007年には、旧市街が「ケルキラ旧市街」(コルフ旧市街)としてユネスコの世界遺産に登録された。.

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ケファロニア島

ファロニア島(Κεφαλονιά / Kefalonia)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的なイオニア諸島において最大の面積を持つ。島で最大の町はアルゴストリ。.

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コリントス

リントス(Κόρινθος) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。.

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ザキントス島

ントス島(Ζάκυνθος / Zakynthos)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的にイオニア諸島に属する。.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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紀元前422年

紀元前422年は、ローマ暦の年である。当時は、「カピトリヌス、ムギラヌス、メレンダが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元332年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前422年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前423年

紀元前423年は、ローマ暦の年である。当時は、「アトラティヌスとアンブストゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元331年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前423年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前424年

紀元前424年は、ローマ暦の年である。当時は、「クラッスス、フィデナス、ルティルス、イウルスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元330年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前424年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前429年

紀元前429年.

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重装歩兵

古代ギリシアの重装歩兵 重装歩兵(じゅうそうほへい, heavy infantry, hoplite)は、兜、胴、脛当て、盾による重装備の防御を施した歩兵。世界各地に発生して活躍した。ラテン語ではホプリテス(hoplites 重装歩兵)、剣闘士の場合はとくにホプロマクス(Hoplomachus 重装剣闘士)と呼称される。.

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戦史 (トゥキディデス)

『戦史』(せんし、Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου、History of the Peloponnesian War、ペロポネソス戦争史)は、古代ギリシアのアテナイ出身の歴史家トゥキディデスが著した歴史書である。.

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