目次
153 関係: 同君連合、大トルコ戦争、外交革命、宣戦布告、尾崎賢治、中央ヨーロッパ、七年戦争、三十年戦争、休戦協定、ナポリ王国、ミドルパワー、マリア・テレジア、マルティン・ファン・マイテンス、マクファーランド・アンド・カンパニー、マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)、チェコ領スレスコ、チェシン公国、ネーデルラント連邦共和国、ハンガリー王国、ハーバード大学出版局、ハプスブルク家、ハプスブルク帝国、バイエルン選帝侯領、ポメラニア戦争、ポーランド、ポーランド・リトアニア共和国、モラヴィア、モルヴィッツの戦い、ユーリヒ公国、ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)、ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)、ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)、ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)、ライン川、ラインラント、リーグニッツの戦い (1760年)、ルイ15世 (フランス王)、レアルポリティーク、レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)、レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)、レグニツァ公国、ロイテンの戦い、ロシア帝国、ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)、ロスバッハの戦い、ヴロツワフ、ヴェストファーレン、ヴォルテール、ボヘミア、ボヘミア君主一覧、... インデックスを展開 (103 もっと) »
- オーストリア継承戦争
- フリードリヒ2世 (プロイセン王)
- 七年戦争
同君連合
同君連合(どうくんれんごう)は、複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のことである。同君連合の形態は大きく2つに分けることができる。同君連合の各構成国がそれぞれ独立した主権をもち続ける人的同君連合 と、各構成国を超えた中央政府が置かれて一元的にコントロールされる物的同君連合 の2つである。
大トルコ戦争
大トルコ戦争(だいトルコせんそう、1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリー、トランシルヴァニアを巡るオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の戦争である。 1699年のカルロヴィッツ条約締結でオーストリアは再興のきっかけを作り、オスマン帝国は衰退の一途を辿っていった。
外交革命
外交革命(がいこうかくめい、Umkehrung der Allianzen, Révolution diplomatique, Diplomatic Revolution)は、1756年に起こったヨーロッパの国際外交における重大な転換のことで、具体的には17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家とブルボン家が、七年戦争の前に同盟を結んだことを指す大野(1975)p.471。背景にはイギリスとフランスの200年間におよぶ世界的抗争(「第2次百年戦争」)と、ハプスブルク=ロートリンゲン家になってからのオーストリアと新興プロイセンとの抗争という、二つの対立軸がある。
宣戦布告
宣戦布告(せんせんふこく、declaration of war)とは、紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為(hostilities)を開始する意思を表明する宣言である。開戦に関する条約によれば、宣戦布告は戦争行為の開始前に行わなければならない。
尾崎賢治
尾崎 賢治(おざき けんじ、1930年3月26日 - 1984年8月12日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。本名は尾崎鑒治。
中央ヨーロッパ
中東 中央ヨーロッパ(ちゅうおうヨーロッパ、Mitteleuropa、střední Evropa、Europa Środkowa、Közép-Európa)は、ヨーロッパの中央部に位置する地域である。中欧(ちゅうおう)と表記されることもある。
七年戦争
七年戦争(しちねんせんそう、Seven Years' War、Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。 ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。
三十年戦争
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、Dreißigjähriger Krieg, Thirty Years' War)は、主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「三十年戦争」である。 ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立、オーストリア,スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を背景とし,オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した。当初は皇帝。
休戦協定
休戦協定(きゅうせんきょうてい)あるいは停戦協定(ていせんきょうてい、armistice)とは、戦争や武力紛争を行う双方の勢力が戦闘を停止するための協定。英語の "Armistice" は、ラテン語の arma(兵器)と stitium(停止)から来ている。
ナポリ王国
ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家である。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。
ミドルパワー
ミドルパワー(Middle power)とは、超大国や大国ではないが、一定程度の穏健な国際的影響力を持つ国家を指す。日本語では「中堅国家」と表記されることが多い。
マリア・テレジア
マリア・テレジア (ドイツ語:Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、オーストリア女大公(在位:1740年 - 1780年)・ハンガリー女王(在位:同)・ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年 1743年 - 1780年)。実質的な「女帝」(下記参照)として君臨した。実際の称号は皇帝ではなく、「神聖ローマ皇后」だった。神聖ローマ皇帝 カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の皇帝フランツ1世の皇后・共同統治者。 オーストリア系ハプスブルク家男系最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
マルティン・ファン・マイテンス
マルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens、姓は Mytens 、Mijtens、Meitens、Maitens、Maytens、Maydenz、Meydenz、 Mittenceなどとも表記される。1695年6月24日 - 1770年3月23日)は、オランダ出身の父親を持つ画家である。スウェーデンのストックホルム生まれで、ウィーンの王室で王室の人々の肖像画を描いた。
マクファーランド・アンド・カンパニー
マクファーランド・アンド・カンパニー(McFarland & Company, Inc.)は、ノースカロライナ州ジェファーソンを拠点とするアメリカの独立系書籍出版社であり、学術書、参考書、成年向けノンフィクションを専門としている。元社長で現在編集長を務めているのは、1979年に会社を設立したロバート・フランクリンである。マクファーランドは約50人の従業員を擁し、7,800タイトルを出版している。
見る シュレージエン戦争とマクファーランド・アンド・カンパニー
マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)は、バイエルン選帝侯(在位:1745年 – 1777年)。全名はマクシミリアン・ヨーゼフ・カール(Maximilian Joseph Karl)。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(神聖ローマ皇帝カール7世)と、その妃であった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇女マリア・アマーリエ(1701年 - 1756年)の長男。
見る シュレージエン戦争とマクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)
チェコ領スレスコ
チェコ領スレスコあるいはチェコ領シレジア(České Slezsko、Czeski Ślůnsk、Tschechisch-Schlesien、Śląsk Czeski)とは、シレジアのうち現在チェコに属する地域の名称である。今日では一つの地域としての行政的なまとまりはないものの、ボヘミア、モラヴィアと共に同国の三大歴史的地域の一つを占めている。 チェコ国内では北東部に位置しており、現在のモラヴィア・スレスコ州の大部分とオロモウツ州の北側に相当する地域である。かつてのオーストリア領シュレージエンと大凡重なる他、ズデーテン地方の一部に含まれる場所も多く、その地域はズデーテン・シレジアとも呼ばれている。
チェシン公国
チェシン公国またはテッシェン公国(Těšínské knížectví; Herzogtum Teschen; Ducatus Tessinensis; Księstwo Cieszyńskie)は、高地シロンスクのチェシンを首都とする独立公国で、シロンスク公国群の一つ。
ネーデルラント連邦共和国
ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家である。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。 連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。
ハンガリー王国
ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、かつて現在のハンガリーを中心とする地域を統治していた王国である。
ハーバード大学出版局
ハーバード大学出版局 (Harvard University Press, 略称HUP) は、ハーバード大学の出版局。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジのそば、およびイギリスロンドンにオフィスがある。を構成する。主に学術書を出版している。 設立は1913年1月13日だが、ハーバード大学での出版自体は1643年から行われている。 主な叢書にローブ・クラシカルライブラリー、The I Tatti Renaissance Library、Dumbarton Oaks Medieval Library、Murty Classical Library of India がある。インプリントにBelknap Pressがあり、そこから John Harvard Library を刊行している。
ハプスブルク家
ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家(ハプスブルクけ、、Casa de Habsburgo)は、オーストリア家( Haus Österreich、Casa de Austria)とも呼ばれる、ヨーロッパの歴史上最も著名で重要な王朝の一つである。 ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王に選出された。バーベンベルク家の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家に任命して一族の権力基盤をウィーンに移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国(王領ハンガリー)、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の単一国家として認識され、オーストリアと呼称していた。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。
バイエルン選帝侯領
バイエルン選帝侯領(バイエルンせんていこうりょう、Kurfürstentum Bayern)は、1648年から1806年まで存在した、神聖ローマ帝国の領邦である。帝国崩壊後にバイエルン王国へと発展した。現ドイツ・バイエルン州の一部にあたる。
ポメラニア戦争
ポメラニア戦争(Pomeranian War)は七年戦争の戦役である。この表現は1757年から1762年までのスウェーデン領ポメラニア、、ブランデンブルク辺境伯領の北方およびメクレンブルク=シュヴェリーン公領の東方におけるプロイセンとスウェーデンの戦いを指す。 この戦争の特徴はプロイセン・スウェーデン両軍の、どちらも決定的な勝利を収めることのなかった一進一退の動きにある。それは1757年、スウェーデン軍のプロイセン領への進出とともに始まったが同軍は撃退され、ロシア帝国軍が来援した1758年までシュトラールズントに封じ込められた。その結果、スウェーデン軍は改めてプロイセン領へ侵攻し、小規模なプロイセン艦隊を撃破し、南方の地をノイルピーンまで占領したにも拘らずプロイセンの主要な要塞であるシュテッティーンを奪うことも、ロシアの友軍と合流することもなく補給不足に陥った末、1759年の後半に戦役を中止した。
ポーランド
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、 ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称ポーランド(、ポルスカ)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。
ポーランド・リトアニア共和国
ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)、通称ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)は、ポーランド王とリトアニア大公の両方を兼ねた実質的に共通の君主によって統治された国、およびポーランドとリトアニアによる連邦である。16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国の1つであった。17世紀初頭の連邦の最大版図はほぼ100万平方キロメートルを占め、1618年の時点でのほぼ1200万人の多民族を維持したBased on (p.
モラヴィア
モラヴィア(Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(Morava)、ドイツ語ではメーレン(Mähren)と呼ばれる。面積は約26,000km2稲野「モラビア」『東欧を知る事典』新版、574-575頁。
モルヴィッツの戦い
モルヴィッツの戦い(モルヴィッツのたたかい、Schlacht bei Mollwitz)は、オーストリア継承戦争初期の1741年4月10日にプロイセンとオーストリアとの間で行われた会戦である。プロイセン軍が勝利した。この戦いは本継承戦争で一番初めに実施された会戦であり、この戦いでプロイセンがオーストリアを破ったことで、プロイセンが列強の地位に上ったことを諸外国に印象付けた。
ユーリヒ公国
1477年のユーリヒ公国 ユーリヒ伯爵と公爵の居城、ニデッゲン城の天守 ユーリヒ公国(独:Herzogtum Jülich)またはフーリク公国(蘭:Hertogdom Gulik)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。公国はを首都とし、その領域はラインラント低地の両岸に拡がっていた。公国の領域は現在のドイツ領ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部、そしてオランダ領リンブルフ州の一部にあたる。1423年にベルク公国と合併して以後、(Jülich-Berg)と呼ばれた。ユーリヒ公国の住民たちはオランダのリンブルフ地方の人々と言語的にも文化的にも近く、同じリンブルフ語方言を使っていた。
ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)
ヨーゼフ1世(Joseph I., 1678年7月26日 - 1711年4月17日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1705年 - 1711年)。ボヘミア国王・ハンガリー国王(在位:1687年 - 1711年)。先帝レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの長男 カール6世の兄である。
ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)
ヨーゼフ2世(Joseph II, 1741年3月13日 - 1790年2月20日)は、神聖ローマ皇帝・ハンガリー国王・ボヘミア国王(在位:1765年 - 1790年)。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。 ハプスブルク家の男系は母マリア・テレジアまでであり、ヨーゼフ2世らの代からハプスブルク=ロートリンゲン家となる。全名はヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)。
ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)
ヨアヒム2世ヘクトル(1555年頃、ルーカス・クラナッハ (子) 作) ヨアヒム2世ヘクトル(Joachim II. Hector, 1505年1月13日 - 1571年1月3日)は、ブランデンブルク選帝侯(在位:1535年 - 1571年)。ヨアヒム1世ネストルとデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの王ハンスの娘エリーザベトの子。ブランデンブルク=キュストリン辺境伯ヨハンの兄。ヘクトルの添え名(コグノーメン)はギリシア神話の登場人物にちなんだものである。
見る シュレージエン戦争とヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)
ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)
ヨアヒム・フリードリヒ(Joachim Friedrich, 1546年1月27日 - 1608年7月18日)は、ブランデンブルク選帝侯(在位:1598年 - 1608年)。ヨハン・ゲオルクの長男、母はレグニツァ公フリデリク2世の娘ゾフィア。バイロイト辺境伯クリスティアン、アンスバッハ辺境伯ヨアヒム・エルンストの兄。 1598年に父の後を継いで選帝侯となり、1605年からは精神を病んでいたプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの摂政を務めた。ヨアヒム・フリードリヒは1608年に死去するが、1618年にアルブレヒト・フリードリヒが死去した後は息子ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国も相続することになる。
見る シュレージエン戦争とヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)
ライン川
ライン川の流域地図 ライン川(ラインがわ、Rhein、Rhine、Rhy、Rhein、Rijn、Rhin、Rhenus)は、ヨーロッパを流れる川である。今日のドイツ語表記 Rheinは、古高ドイツ語・中高ドイツ語の Rîn、更にそれ以前の言語の*Reinosに遡り、「河川」を意味したと思われる。 スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かい、ストラスブールを越えて、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。 全長1,233キロメートル。そのうちドイツを流れるのは698キロメートルである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語の名詞には男性名詞、女性名詞、中性名詞があるが、河川のほとんどはドナウ川、エルベ川、モーゼル川など女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川、ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。
ラインラント
ラインラントの位置 1905年のラインラント ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。 フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。
リーグニッツの戦い (1760年)
リーグニッツの戦い(リーグニッツのたたかい、Schlacht bei Liegnitz)は七年戦争中の戦闘であり、1760年8月15日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いるオーストリア(ハプスブルク帝国)軍を破った。 両軍はシュレージエン地方の都市リーグニッツの周辺で衝突した。早朝にラウドン率いるオーストリア騎兵はプロイセン軍陣地を攻撃したが、これをツィーテン率いるハサーの反撃を受けて後退を強いられる。続いて両軍は砲撃合戦を始めるが、これはプロイセン軍の榴弾がオーストリア軍の弾薬庫に命中し、勝敗が決する。仕方なくオーストリア軍は歩兵戦列を前進させるが、プロイセン軍の激しい砲撃によって阻まれてしまった。アンハルト。
見る シュレージエン戦争とリーグニッツの戦い (1760年)
ルイ15世 (フランス王)
ルイ15世(、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世()。
レアルポリティーク
レアルポリティーク(ドイツ語:Realpolitik)、または日本語で現実政治(げんじつせいじ)は、が1853年に提唱した高野 清「」岡山理科大学紀要2, 99-109, 1966、イデオロギー、理想、倫理ではなく利害に従って権力を行使して行われる政治のあり方。国家間の外交においては執拗な国益の追求と関連する。ロハウなどによると、「力の自然法則の現実」によって導かれるオットー・フォン・ビスマルクの外交政策を現実政治の概念はよく表している。 John Bewによれば、強者は正当性だけで打ち倒せるものではなく権力と政治を理解して現実的な手法で目標を達成しようとすべきだということを革命に失敗したリベラルに向けて説いたのがロハウの当初の意図であり、現代の「レアルポリティーク」の解釈はそこから乖離している。
レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)
レオポルト1世(Leopold I., Fürst von Anhalt-Dessau, 1676年7月3日 - 1747年4月9日)は、プロイセンの軍人。アンハルト=デッサウ侯(在位:1693年 - 1747年)、プロイセンで最初の重要な兵制改革の主導者。プロイセンの将軍の中でも非常に人気の高い人物である。同時代の将兵からは老デッサウ人(Der alte Dessauer)と呼ばれて親しまれた。またこれとは別に、同名の息子(レオポルト2世)と区別するため老デッサウ、もしくは老レオポルトと表記されることがある。父はアンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世、母はオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの6女ヘンリエッテ・カタリーナ。
見る シュレージエン戦争とレオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)
レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)
レオポルト1世(ドイツ語:Leopold I, 1640年6月9日 - 1705年5月5日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)。さらにオーストリア大公・ボヘミア国王・ハンガリー国王(在位:1655年 - 1705年)。三十年戦争で衰退した帝国を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。 先帝フェルディナント3世と皇后でスペイン国王 フェリペ3世の娘マリア・アンナの成人した2番目の息子。また、ジギスムント・フランツ大公からチロルを相続した。優れた作曲家でもあり、バロック大帝とも呼ばれた。
見る シュレージエン戦争とレオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)
レグニツァ公国
レグニツァ公国またはリーグニッツ公国(ポーランド語:Księstwo Legnickie;チェコ語:Lehnické knížectví;ドイツ語:Herzogtum Liegnitz)は、シロンスク公国群を構成した公国の一つ。首都はレグニツァ。ボレスワフ2世によって創設されたもので、他の多くのシロンスク諸公国と運命を共にし、最初はボヘミア王冠領、次にハプスブルク君主国(オーストリア)の影響下にはいり、シュレージエン戦争の結果プロイセン王国に併合された。
ロイテンの戦い
ロイテンの戦い(ロイテンのたたかい、Schlacht von Leuthen)は、七年戦争中の会戦。フリードリヒ大王指揮のプロイセン軍が機動戦と地形を利用して数に勝るオーストリア(ハプスブルク君主国)軍を撃破した。先のロスバッハの戦いとあわせて軍事史上注目される戦い。この勝利により、七年戦争でのプロイセンによるシュレージエンの支配が確立された。 この戦いは、プロイセン (旧オーストリア領) のシュレージエンにあるブレスラウ (現在のヴロツワフ、ポーランド) の北西10 km (6マイル) にあるロイテン (現在のポーランド、ルティニア) の町で行われた。フリードリヒは、厳しい訓練で鍛えた軍隊と地形に関する優れた知識を利用して、戦場の一方の端へ迂回し、一連の低い丘の後ろに数的不利な自軍のほとんどを集中させた。思いもよらぬオーストリア軍の側面への斜行戦術を用いた奇襲攻撃は指揮官のカール公子を当惑させ、プロイセン軍の主要な攻撃が右ではなく左にあることに気付くのに数時間を費やした。プロイセン軍は7時間以内にオーストリア軍を撃破し、その年の夏と秋の戦役でオーストリア軍が獲得してきた優位性を全て奪還した。戦いの後フリードリヒは速やかにブレスラウを包囲し、12月19~20日にブレスラウを降伏させた。
ロシア帝国
ロシア帝国(ロシアていこく、Россійская Имперія、ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。
ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)
ロシア・スウェーデン戦争(ロシア・スウェーデンせんそう、Русско-шведская война)とは、1741年から1743年まで続いた、ロシア帝国とスウェーデン王国の戦争である。スウェーデンではハット党戦争(hattarnas ryska krig)と呼ばれ、フィンランドではハット戦争(hattujen sota)と呼ばれた。
見る シュレージエン戦争とロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)
ロスバッハの戦い
ロスバッハの戦い(Schlacht von Roßbach)は、1757年11月5日に行われた七年戦争における会戦である。僅か90分間の戦いで、プロイセンのフリードリヒ大王は、神聖ローマ帝国のライヒサルメ とフランス軍で構成された連合軍を打ち負かした。連合軍は合わせて 41,110人であり、22,000人のプロイセン軍を兵力で大きく上回っていた。 圧倒的な戦力差にもかかわらず、フリードリヒ大王は迅速な行軍、、斜行戦術を駆使して一方的な奇襲を成功させた。 ロスバッハの戦いは、単なる一会戦における見事な勝利というだけでなく、敗れたフランスがプロイセンへの軍隊の増派を拒否し、プロイセンの軍事的成功に注目したイギリスがフリードリヒへの財政支援を増やしたことによって、七年戦争の転機となった。戦いの後、フリードリヒはすぐにロスバッハを離れてブレスラウの郊外へ転進し、ロイテンの戦いに臨んだ。ロイテンでも彼は同様の戦術を用いて、自軍よりも圧倒的多数のオーストリア軍を再び打ち破った。
ヴロツワフ
ヴロツワフ(Wrocław 、 ブレスラウ)は、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオーデル川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。 ヴロツワフは歴史上、様々な国(ポーランド王国、オーストリア帝国、ドイツ、ハンガリー、プロイセン、ボヘミア)の一部となっていたが、1945年(第二次世界大戦後)にポーランド領となった。 ヴロツワフは、UEFA欧州選手権2012開催都市の一つとなった。また、2016年には欧州文化首都となり、2017年にはワールドゲームズ2017の開催地にもなった。
ヴェストファーレン
プロイセン領ヴェストファーレン州(1815年 - 1946年)、灰色はノルトライン=ヴェストファーレン州(1946年以降)。 ヴェストファーレン(Westfalen 、Westfalen )は、ドイツのドルトムント、ミュンスター、ビーレフェルト、オスナブリュックを中心とした地域である。ウェストファリア(ラテン語・, )とも呼ぶ。ノルトライン=ヴェストファーレン州およびニーダーザクセン州に跨る、ライン川とヴェーザー川の間にある。ヴェストファーレンの境界は時代により異なり、一意に境界を策定できないため、面積や人口などのデータは非常に異なる。面積は16,000から22,000km2に及び、人口は430万人から800万人である。
ヴォルテール
ヴォルテール(Voltaire)こと、本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。また、ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなどとともに百科全書派の学者の一人として活躍した。ボルテールと表記されることもある。 パリの公証人の子。姓は“アルーエ”とも表記される。Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名をもじった等、諸説ある。
ボヘミア
ボヘミア(Bohemia、Čechy、、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西に接するのはドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い革の帽子に革のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに好まれた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。
ボヘミア君主一覧
ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミアの君主であるボヘミア公およびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。 プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。
ボヘミア王冠領
ボヘミア王冠領(ボヘミアおうかんりょう)またはボヘミア王国の王冠(ボヘミアおうこくのおうかん、Česká koruna, země Koruny české、Krone Böhmen; Böhmische Krone, Böhmische Kronländer, Länder der Böhmischen Krone、Corona Bohemiae, Corona Regni Bohemiae)は、ボヘミア王国および王国と封建上の主従関係(レーエン)にある従属邦の集合体を指す国制概念である。この場合の「ボヘミアの王冠」とは、いわゆる「聖ヴァーツラフの王冠」と呼ばれる、国王が頭に被る物体としての王冠のことではなく、ボヘミア王の主権下に、ボヘミア国家を構成する諸身分が統合されている状態を表している。この国制概念は、1526年よりボヘミア王冠領が属していたハプスブルク帝国が1918年に崩壊するまで存在していた。
トルガウの戦い
トルガウの戦い(トルガウのたたかい、Schlacht bei Torgau)は、七年戦争中の戦闘であり、1760年11月3日、フリードリヒ大王率いるプロイセン陸軍が、レオポルト・フォン・ダウン元帥率いるオーストリア大公国(ハプスブルク君主国)陸軍を破った。
ヘンネルスドルフの戦い
ヘンネルスドルフの戦い(ヘンネルスドルフのたたかい、Schlacht bei Hennersdorf)もしくはカトーリッシュ=ヘンネルスドルフの戦い(Schlacht bei Katholisch-Hennersdorf、もしくはCatholisch-Hennersdorf)は、1745年11月23日に行われたオーストリア継承戦争における戦闘である。45年冬のラウジッツ地方でオーストリア(ハプスブルク君主国)、ザクセン連合軍とプロイセン軍との間に展開された一連の軍事行動のうちのひとつで、プロイセン軍がザクセン軍を急襲して勝利した。
ブランデンブルク
ブランデンブルク(Brandenburg)。
ブランデンブルクの奇跡
ブランデンブルクの奇跡(ブランデンブルクのきせき)は、七年戦争においてプロイセン王国が存亡の危機に陥った時に、僥倖を得てその危機を脱した故事である。ブランデンブルクの奇跡と呼ばれる事柄は実は2つあり、有名なわりによく混同される。
ブランデンブルク辺境伯領
現在のブランデンブルク州旗 ブランデンブルク辺境伯領(ブランデンブルクへんきょうはくりょう、Mark/Markgrafschaft Brandenburg)は、神聖ローマ帝国の選帝侯の一人であるブランデンブルク辺境伯の所領の領地。現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。
ブランデンブルク=プロイセン
ブランデンブルク=プロイセン(Brandenburg-Preußen、)は、ホーエンツォレルン家によるブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国の同君連合に対する、歴史学における呼称。ホーエンツォレルン家の宗家といえるブランデンブルク選帝侯家は分家であるプロイセン公家と婚姻関係を結んだが、1618年にプロイセン公家の男系男子が断絶すると、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公位を継承して同君連合が成立した。また、この婚姻関係と1614年のクサンテン条約により、クレーフェ公国、マルク伯領、ラーヴェンスベルク伯領も相続して領土に加わった。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(ブラウンシュヴァイク=リューネブルクせんていこうりょう、Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)、またはハノーファー選帝侯領(ハノーファーせんていこうりょう、Kurfürstentum HannoverまたはKurhannover)は、神聖ローマ帝国の9番目の選帝侯が領する領邦である。1692年にブラウンシュヴァイク。
見る シュレージエン戦争とブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
ブレスラウ条約
ブレスラウ条約(Vorfrieden von Breslau)は、1742年6月11日にブレスラウで締結された、オーストリア継承戦争におけるプロイセンとオーストリア大公国(ハプスブルク帝国)との間の講和条約である。 同年7月28日にベルリンで同内容の条約が最終合意として再締結されており、こちらをベルリン条約という。いずれにせよ、この条約によって第一次シュレージエン戦争は終結した。
ブジェク
ブジェク (Brzeg 、Brieg)は、ポーランド南西部の都市。1950 年からはオポーレ県の都市。2021年の統計では、人口は3万4778人である Data for territorial unit 1601011.。
ブジェク公国
ブジェク公国またはブリーク公国(ポーランド語:Księstwo Brzeskie;チェコ語:Knížectví Břežské;ドイツ語:Herzogtum Brieg)は、シロンスク公国群を構成していた公国の一つ。首都はブジェク。 ブジェク公国は1311年、レグニツァ=ヴロツワフ公国の分裂に際し、ヘンリク5世の息子の1人ボレスワフ3世によって創設された。1329年、ボレスワフ3世はボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従し、ボヘミア王冠領の一部となった。ブジェク公国は1419年にレグニツァ公国に再統合されたが、その後再び分立し、1664年にフリスティアンによって2度目の再統合が行われた。
プラハ
プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha発音記号 )は、チェコ共和国の首都。同国最大の都市であり、中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。プラーグ(英語: Prague発音記号 )、プラーク(ドイツ語: Prag発音記号 )、プラーガ(マジャル(ハンガリー)語: Prága発音記号 )とも呼ばれる。漢字表記は布拉格。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔の街」(City of a Hundred Spires)とも呼ばれる。
プラハの戦い
プラハの戦い(die Schlacht von Prag, Schlacht bei Šterboholy, bitva u Štěrbohol, bitvou u Prahy)は、1757年5月6日にプラハ城外で行われた、七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦である。プロイセン軍が勝利した。
プラハ包囲戦 (1757年)
プラハ包囲戦(プラハほういせん、Belagerung von Prag)は、七年戦争中の1757年5月に行われた、プロイセン王フリードリヒ2世によるオーストリア領のプラハの包囲戦。プラハの戦いの直後に行われた。
プリンストン大学出版局
プリンストン大学出版局(Princeton University Press)とは、独立系の出版社でプリンストン大学と近い関係を持っている。広大なや社会においてスカラーシップを広めることを目的にしている。 1905年にホイットニー・ダローによって設立された。その際にプリンストンコミュニティに印刷機を納品する形でチャールズ・スクリブナーが金融面で支援した。最初に出版した本はジョン・ウィザースプーン著「Lectures on Moral Philosophy」の新たな1912年版だった。
プロテスタント
は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に広義の福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。この諸教派はナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年、第一版、714頁。「」デジタル大辞泉、小学館、コトバンク。である。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
プロイセン王国
プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた。
プロイセン陸軍
1816年制定のプロイセンの戦旗(Kriegsflagge)。 プロイセン陸軍(独: Preußische Armee、英: Prussian Army)は、プロイセン国家の陸軍。1644年に設立されたブランデンブルク選帝侯国陸軍(Kurfürstlich Brandenburgische Armee)を前身とし、1701年から1919年まで存在した。1871年以降はドイツ帝国陸軍の一部となり、第一次世界大戦敗戦により1919年に解体された。 正式名称はプロイセン王国陸軍(プロイセン王立陸軍、Königlich Preußische Armee)。
プファッフェンホーフェンの戦い
プファッフェンホーフェンの戦い(プファッフェンホーフェンのたたかい、Schlacht bei Pfaffenhofen)は、1745年4月15日に行われたオーストリア継承戦争における戦闘である。オーストリア軍と、フランス軍とプファルツ軍の連合軍が戦い、オーストリア軍が勝利した。
ピョートル3世 (ロシア皇帝)
ピョートル3世フョードロヴィチ(、1728年2月21日(ユリウス暦2月10日) - 1762年7月17日(ユリウス暦7月9日))はロマノフ朝第7代ロシア皇帝(在位:1762年1月5日 - 1762年7月9日)、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公(在位:1739年6月18日 - 1762年7月17日)。ドイツ語名はカール・ペーター・ウルリヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ()。
ツォルンドルフの戦い
ツォルンドルフの戦い(ツォルンドルフのたたかい、Schlacht bei Zorndorf)は、七年戦争中の戦闘で、1758年の8月25日に行なわれた。
フュッセン条約
フュッセン条約 (フュッセンじょうやく、Frieden von Füssen) は、1745年4月22日にフュッセンで締結されたオーストリア継承戦争における講和条約である。バイエルンとオーストリアの間に結ばれた。 バイエルンはフランスの支援もあって戦争当初はオーストリアに対し優勢であり、カール7世はヴィッテルスバッハ家宿願の神聖ローマ皇帝となった。しかしオーストリアの反撃を受けてバイエルンに攻め込まれ、ミュンヘンの争奪が繰り返されることとなった。カール7世は逃亡して諸侯の宮廷を転々としているうちに健康を損ない、1745年1月に没した。 後継のマクシミリアン3世ヨーゼフはすぐにオーストリアとの和平交渉を開始したが、同盟国フランスの干渉もあってすぐには決断されなかった。しかしオーストリアの攻勢の前にミュンヘンを含むバイエルンの大半を占領され、さらに4月15日のプファッフェンホーフェンの戦いで連合軍がオーストリアに敗れたことから単独講和に踏み切った。
フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)
フランツ1世(Franz I., 1708年12月8日 - 1765年8月18日)はオーストリア女大公(「女帝」)マリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝(在位:1745年 - 1765年)。全名は、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Stephan von Lothringen)。ロレーヌ公としてはフランツ3世(在位:1729年 - 1737年)、トスカーナ大公としてはフランチェスコ2世(Francesco II 在位:1737年 - 1765年)。 マリア・テレジアとの婚姻により帝位を継承するが、家領のロレーヌ公国はフランスへ譲らなければならなかった。2人の間にはヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人(男子5人、女子11人)の子が生まれた。ルイ13世は曽祖父、アンリ4世は高祖父、フランツ・ヨーゼフ1世は玄孫、オットー・フォン・ハプスブルクは仍孫、カール・ハプスブルク。
フランス王国
フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、かつて存在したヨーロッパの王国である。
フリードリヒ1世 (プロイセン王)
フリードリヒ1世(Friedrich I.、1657年7月11日 - 1713年2月25日)は、初代の「プロイセンの王」。はじめはプロイセン公(在位:1688年5月9日 - 1701年1月17日)、またブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(在位:1688年5月9日 - 1713年2月25日)。 フランス王ルイ14世に憧れるような虚栄心の強い浪費家だった。父フリードリヒ・ヴィルヘルムや孫フリードリヒ2世に比し、凡庸な君主と評されるが、妃の影響もあって学芸を振興させ、プロイセンの国王となった。
見る シュレージエン戦争とフリードリヒ1世 (プロイセン王)
フリードリヒ2世 (プロイセン王)
フリードリヒ2世(Friedrich II, 1712年1月24日 - 1786年8月17日)は第3代プロイセン国王。 優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた。
見る シュレージエン戦争とフリードリヒ2世 (プロイセン王)
フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)
フリードリヒ・ヴィルヘルム(1652年ごろ) フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm, 1620年2月16日 - 1688年5月9日)は、ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公(在位:1640年12月1日 - 1688年5月9日)。プロイセン公国をポーランド支配から解放し、フェールベリンの戦いなどに勝利して領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯(der große Kurfürst)と称えられる。
見る シュレージエン戦争とフリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I., 1688年8月14日 - 1740年5月31日)は、第2代の「プロイセンにおける王」。粗暴で無教養だったが、財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に努め、兵隊王(または軍人王、Soldatenkönig)とあだ名された。
見る シュレージエン戦争とフリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)
フリデリク2世 (レグニツァ公)
フリデリク2世(ポーランド語:Fryderyk II Legnicki, 1480年2月12日 - 1547年9月17日)は、レグニツァ公(在位:1488年 - 1547年、但し1505年までは兄弟と共同統治)、ブジェク公(在位:1521年 - 1547年)、グウォグフ公(在位:1540年 - 1544年)。歴代のレグニツァ公の中で最も有名な人物で、極めて優れた財政運用能力を駆使して自らの公国をオドラ川まで拡大することに成功し、レグニツァ=ヴォウフ=ブジェク公国を創設、「大レグニツァ(legnickiej Wielki)」の異名をとった。ホイヌフ=オワヴァ=レグニツァ=ブジェク=ルビン公フリデリク1世の次男、母はボヘミア王イジーの娘ルドミラ。
フレゼリク2世 (デンマーク王)
フレゼリク2世(Frederick II, 1534年7月1日 - 1588年4月4日)は、デンマーク=ノルウェーの国王(在位1559年 - 1588年)。クリスチャン3世と王妃ドロテアの息子。
フベルトゥスブルク条約
フベルトゥスブルク条約(フベルトゥスブルクじょうやく, ドイツ語:Frieden von Hubertusburg)は、1763年2月15日にプロイセン王国とオーストリアなどの間で結ばれた七年戦争の講和条約である。
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I, 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)でオーストリア・ハプスブルク家当主。ボヘミア国王・ハンガリー国王(在位:1526年 - 1564年)。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップとカスティーリャ女王 フアナの間の次男で、先代皇帝カール5世(スペイン国王 カルロス1世)の弟。1531年から1556年までは兄の皇太弟としての共同ローマ王だった。スペインで生まれ育ちグレーシング、p.
見る シュレージエン戦争とフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント2世(ドイツ語:Ferdinand II, 1578年7月9日 - 1637年2月15日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1619年 - 1637年)・ハンガリー国王(在位:1619年 - 1625年)・ボヘミア国王(在位:1617年 - 1619年、1620年 - 1637年)。ハプスブルク家傍系の、内オーストリア大公家の出身。皇帝に即位する前のボヘミア国王時代に三十年戦争を引き起こし、皇帝即位後しばらくは戦いを有利に進めたが、皇帝権力の強化を狙いすぎたことで敵対勢力の反発を招き戦争を長期化させたまま崩御した。
見る シュレージエン戦争とフェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)
ドレスデン
ドレスデン(Dresden、)は、エルベ川の谷間に位置する、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都である。 3つあるザクセン州の行政管区の一つである、ドレスデン行政管区の中心都市であり、人口は約51万人(2008年)。 なお、ドレースデンと表記されることもある。
ドレスデン条約
ドレスデン条約(Frieden von Dresden)は、1745年12月25日に締結されたオーストリア継承戦争における講和条約である。 プロイセンと、オーストリアおよびザクセンとの間に結ばれたもので、この条約によって第二次シュレージエン戦争は終結した。
ドームシュタットルの戦い
ヨーゼフ・フォン・ズィスコヴィッツ伯爵少将の肖像画。 ドームシュタットルの戦い(Schlacht bei Domstadl)は、七年戦争(1756年 - 1763年)中の1758年6月30日、現在の付近で生起した戦闘である。オーストリア軍は大規模な護送部隊の護衛を打ち破り、護送部隊の壊滅と荷車の奪取に成功した。数々の襲撃のほとんどは、戦闘隊形を整えて行われたものではなく、待ち伏せからのゲリラ戦の形で敢行されている。その結果、プロイセン国王フリードリヒ2世はオルミュッツ攻囲戦の中断を余儀なくされた。
ドイツの歴史
ドイツの歴史(ドイツのれきし)では、ドイツの歴史を述べる。
ニサ (ポーランド)
ニサ(ポーランド語: Nysa )、あるいはヌィサは、ポーランド南西部、ニサ・クウォツカ川(グラッツァー・ナイセ川)河岸にある町。オポーレ県に属し、人口は48,849人(2019年)。ニサ郡の郡都である。周辺自治体を含めると、60,123人の都市圏を形成している。ドイツ語名はナイセ(Neisse、旧表記 Neiße)。
ホーエンツォレルン家
ホーエンツォレルン城 ホーエンツォレルン家(ホーエンツォレルンけ、Haus Hohenzollern)は、南ドイツのシュヴァーベン地方に発祥したヨーロッパの貴族、君主の家系であり、ドイツ皇帝やルーマニア国王も出した一族である。 家名は居城としていたホーエンツォレルン城に由来し、14世紀にツォレルンからホーエンツォレルンに改めた。なお「ホーエンツォレルン」は舞台ドイツ語および南部のドイツ語の影響を受けた表記であり、現代標準ドイツ語の発音では「ホーエンツォレアン」または「ホーエンツォラーン」と表記する方が近い。
ホーエンフリートベルクの戦い
ホーエンフリートベルクの戦い(Schlacht bei Hohenfriedberg)は、1745年6月4日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア(ハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。
ホッホキルヒの戦い
ホッホキルヒの戦い(Schlacht von Hochkirch)は、1758年10月14日に行われた七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦である。オーストリア軍が勝利した。
ベルリン
ベルリン州(ベルリンしゅう、Land Berlin)、通称ベルリン(Berlin、、伯林)は、ドイツの首都ドイツ連邦共和国基本法第22条(1)ドイツ連邦共和国の首都はベルリンである(Art 22 (1) Die Hauptstadt der Bundesrepublik Deutschland ist Berlin.) 。。16ある連邦州のうちのひとつで、都市州である。 ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク都市圏地域の中心に位置する。市域人口はおよそ万人で、同国最大の都市である。
ベルリン襲撃 (1760年)
ベルリン襲撃(ベルリンしゅうげき)は、七年戦争中の1760年10月、オーストリア軍とロシア軍が4日間にわたってプロイセン王国の首都ベルリンを占領した事態を指す。占領軍は同市から資金を徴収すると、の接近とともに撤退した。後に、ロシア軍の指揮官トートレーベン伯は、ベルリンの町を救わんとするプロイセン側から賄賂を受け取ったという告発を受けて裁判にかけられ、スパイとして有罪を宣告された。
ベルク公国
1350年頃のベルク伯領 1645年のベルク公国 ライン同盟の中のベルク大公国、1812年 ベルク公国(ベルクこうこく、Herzogtum Berg)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。首都はデュッセルドルフ。12世紀に成立し、17世紀まで独立国家としての地位を保った。その領域はおおよそライン川、ルール川、ジーク川に囲まれた地域に広がっており、現在のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部に相当する。ベルク公国の国名は、現在のに受け継がれている。 また1806年から1813年まで、フランス帝国の衛星国家ベルク大公国(ベルクたいこうこく、Großherzogtum Berg、Grand-duché de Berg)でもあった。
列強
代替文。
見る シュレージエン戦争と列強
アントワーヌ・ペーヌ
アントワーヌ・ペーヌ(Antoine Pesne、1683年5月23日 - 1757年8月5日)は、フランス生まれの画家である。1711年からプロイセン王国の宮廷画家となり、ベルリンの美術アカデミーの校長も務めた。アントワーヌ・ヴァトー、 ニコラ・ランクレ、フランソワ・ブーシェらと並んで、フランスのロココ美術の代表的な画家の一人とされる。
アンスバッハ侯領
1791年時点でのアンスバッハ侯領地図 アンスバッハ侯領(アンスバッハこうりょう、Fürstentum Ansbach)、すなわちブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領は、フランケン帝国クライスに属した帝国直轄地で、ホーエンツォレルン家の傍流が治めた。本家筋にあたるベルリンのブランデンブルク選帝侯家(1701年以降はプロイセン王家)と緊密な関係にありながらも、1792年まで独立した領邦を保った。この侯領の統治者の政治的な活動範囲は、もっぱらフランケン帝国クライス内とその周辺地域に留まった。
アウグスト3世 (ポーランド王)
アウグスト3世サス(August III Sas, 1696年10月17日 - 1763年10月5日)は、ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1734年 - 1763年)、ザクセン選帝侯(在位:1733年 - 1763年)。アウグスト2世の唯一の嫡出子、母は王妃クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト。ザクセン選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)と呼ばれる。数多くの異母弟の一人にフランス大元帥モーリス・ド・サックスがいる。
イェジ・ヴィルヘルム (レグニツァ公)
イェジ・ヴィルヘルムまたはゲオルク・ヴィルヘルム(独:Georg Wilhelm von Liegnitz;波:Jerzy Wilhelm Legnicki、1660年9月29日 - 1675年11月21日)は、レグニツァ公国及びブジェク公国の統治者(在位:1672年 - 1675年)。レグニツァ=ブジェク=ヴォウフ=オワヴァ公フリスティアンの長男で、母はアンハルト=デッサウ侯ヨハン・カジミールの娘ルイーゼ。
見る シュレージエン戦争とイェジ・ヴィルヘルム (レグニツァ公)
エリザヴェータ (ロシア皇帝)
エリザヴェータ・ペトロヴナ(Елизавета Петровна, 1709年12月29日(ユリウス暦12月18日) - 1762年1月5日(ユリウス暦1761年12月25日)、在位:1741年 - 1762年)は、ロマノフ朝第6代ロシア皇帝。ピョートル1世の娘、母はエカチェリーナ1世。
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン
200px エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン (Ernst Gideon von Laudon、1717年2月2日 - 1790年7月14日) は、オーストリアに仕えたバルト・ドイツ人の貴族、軍人。元帥となり、また男爵位を得た。フランス革命戦争時代に活躍したヨーハン・ルートヴィヒ・アレクシス・フォン・ラウドンは甥である。
見る シュレージエン戦争とエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン
エルベ川
流域 エルベ川(エルベがわ、、、Labe、、Elbe、低ザクセン語: De Elv)は、チェコ北部およびドイツ東部を流れ北海へと注ぐ国際河川である。全長約1,091kmはヨーロッパでは14番目に長く、このうち727kmがドイツ国内を占める。
エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、 (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。 プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。
見る シュレージエン戦争とエカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
オルミュッツ包囲戦
オルミュッツ包囲戦(オルミュッツほういせん、Belagerung von Olmütz)は、プロイセン王フリードリヒ2世の春季攻勢の中心となった攻城戦である。七年戦争中の1758年5月4日から7月2日まで続いたそれは、オーストリアに対する決定的な軍事行動として計画されたものであったが、オーストリア軍による補給線の寸断とプロイセン軍補給部隊の奪取により最終的に頓挫した。結局、フリードリヒ2世はボヘミアとモラヴィアからの撤退を余儀なくされた。
オロモウツ
聖ヴァーツラフ大聖堂 聖三位一体柱 オロモウツ(チェコ語:Olomouc 、ポーランド語:Ołomuniec )は、チェコの都市。モラヴィア地方の中部に属するチェコ第5の都市。2020年現在の人口は100,663人。ドイツ語ではオルミュッツ(Olmütz )。 オロモウツは上モラヴィア低地のハナー地方の中心都市でもあり、またモラヴィアのローマ・カトリック教会の中心地でもある林「オロモウツ」『世界地名大事典』4、755頁。ロマネスク様式、ゴシック様式の教会や市役所が建ち、記念物保護指定都市に定められている。オロモウツは首都プラハに次いで文化財を保有する都市であり、街の中心部にあるオロモウツの聖三位一体柱は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
オーデル川
流域 オーデル川(オーデルがわ。Oder, ポーランド語・Odra )は、中央ヨーロッパを流れる河川である。チェコ共和国北東部のズデーテン山脈に源流を発し、ポーランド国内のシレジア(シロンスク)を北西に向けて流れ、ポーランドとドイツの国境(オーデル・ナイセ線)沿いの延長187 kmを北に向かう。ナイセ川・ヴァルタ川などの支流を合わせた後、ポメラニア(ポモージェ)に入りシュチェチンの北にある潟湖()へ注ぎ、そこから3つの川(あるいは海峡)に分かれてバルト海に注ぐ。 全長は854.3 km、流域面積は11万8,861 kmにおよぶ。水位の変動が激しいことで有名である。 中流にはヴロツワフ(独:ブレスラウ)、下流にはシュチェチン(独:シュテティーン)などの都市がある。
オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)
オーストリア・ロシア・トルコ戦争(オーストリア・ロシア・トルコせんそう、、1735年 - 1739年)は、18世紀にロシア帝国、オーストリア(ハプスブルク帝国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島を主戦場として衝突した戦争である。
見る シュレージエン戦争とオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)
オーストリア継承戦争
オーストリア継承戦争(オーストリアけいしょうせんそう、Österreichischer Erbfolgekrieg, Guerre de Succession d'Autriche, War of the Austrian Succession, 1740年 - 1748年)は、神聖ローマ皇帝位およびオーストリア大公国(ハプスブルク帝国)の継承問題を発端にヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。
オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン
オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン(Otto Ferdinand Graf von Abensperg und Traun, 1677年8月27日 - 1748年2月18日)は、オーストリアの貴族、軍人。階位は伯爵、元帥。金羊毛騎士。姓はツォラオンの表記も。
見る シュレージエン戦争とオットー・フェルディナンド・フォン・トラウン
カール6世 (神聖ローマ皇帝)
カール6世(Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)。最後の男系男子で、狭義にはハプスブルク家最後の皇帝。さらにハンガリー国王(在位:同)・ボヘミア国王(在位:同)。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。 若年期は、スペイン・ハプスブルク家断絶後のスペイン王位を主張し、スペイン継承戦争を戦った。しかし、兄ヨーゼフ1世の急逝により神聖ローマ皇帝として即位。プリンツ・オイゲンの活躍により、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築いた。しかし、男系の後継者に恵まれず、1713年に国事詔書を布告した。1720年以降は、長女マリア・テレジアに家領を継承させるため、ドイツ諸邦や周辺国に対し、外交的譲歩を繰り返さざるを得なくなった。1740年にカール6世は崩御し、ハプスブルク家の男系が断絶。カールが後半生を傾け、所領と引き換えに取り付けた約束は反故にされ、オーストリア継承戦争が勃発した。
カール7世 (神聖ローマ皇帝)
カール7世(ドイツ語:Karl VII., 1697年8月6日 - 1745年1月20日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1742年 - 1745年)。ルートヴィヒ4世以来4世紀ぶりの即位となったヴィッテルスバッハ家の皇帝であり、ローマ王としてもプファルツ系のループレヒト以来3世紀ぶり、1437年以降唯一の非ハプスブルク系の皇帝である。 バイエルン選帝侯としてはカール・アルブレヒト(Karl Albrecht)(在位:1726年 - 1745年)、後にベーメン王も兼ねてカレル3世アルブレフト(チェコ語:Karel III.
カール・レヒリンク
カール・レヒリンク(Carl Röchling、または Karl Röchling、1855年10月18日 - 1920年5月6日)は、ドイツの画家である。戦争画や歴史画を得意とし、プロイセンの軍隊の英雄的な場面を描いてドイツで人気になった。
カトリック教会
カトリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を最高指導者として全世界に13億人以上の信徒を有する、キリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座(聖座、ローマ教皇庁)に置くことから、ローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。
クネルスドルフの戦い
クネルスドルフの戦い(ドイツ語:Schlacht bei Kunersdorf)は、七年戦争中の戦いであり、1759年の8月12日、フランクフルト・アン・デア・オーダーの東に位置するクーネルスドルフにおいて、 4万9000のプロイセン軍と7万1000の露墺連合軍が戦闘。フリードリヒ大王にとって最大の敗北となった。
クラインシュネレンドルフの密約
クラインシュネレンドルフの密約(Geheimkonvention von Klein-Schnellendorf)は、1741年10月9日に締結されたプロイセンとオーストリアとの秘密裏の休戦協定である。 すぐに反故にされた。
クルノフ公国
クルノフ公国(独: Herzogtum Jägerndorf, Fürstentum Jägerndorf, 捷: Krnovské knížectví, 波: Księstwo Karniowskie, 羅: Ducatus Carnovia)は、シロンスク公国群の一つ。首都は現在チェコの一部であるクルノフ。
クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン
クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン(Kurt Christoph von Schwerin,1684年10月26日 - 1757年5月6日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公国を経てプロイセン王国に仕えた貴族、軍人。爵位は伯爵、軍の階級は元帥。黒鷲勲章受勲者。「今世紀で最も偉大な将軍の一人」とフリードリヒ大王に評された、大王時代のプロイセンの主要な将軍の一人。教養人として知られ、演劇通の一面も持っていた。シュヴェリーン家はポンメルンで栄えた一族で、ブランデンブルク選帝侯時代から同じ一族の出身者がプロイセンに仕えて活躍している。
見る シュレージエン戦争とクルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン
グレートブリテン王国
グレートブリテン王国(グレートブリテンおうこく、Kingdom of Great Britain)または大ブリテン王国は、1707年合同法によりイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国が合同し成立した王国。グレートブリテン島全体を支配した、歴史上最初の国家である。イングランド・スコットランド両国のこの合同は、現代まで続く連合王国(イギリス)の基盤となった。
グロース=イェーゲルスドルフの戦い
グロース=イェーゲルスドルフの戦い(グロース=イェーゲルスドルフのたたかい、Battle of Gross-Jägersdorf)は七年戦争中の1757年8月30日、陸軍元帥率いる多数のロシア軍が陸軍元帥率いる少数のプロイセン軍に勝利した戦闘。戦術的勝利にもかかわらず、アプラクシンはケーニヒスベルクに進軍せず、戦闘が終わるとすぐに撤退した。
見る シュレージエン戦争とグロース=イェーゲルスドルフの戦い
グウォグフ
グウォグフ(Głogów 、Glogau グローガウ、Hlohov)は、ポーランド南西、シレジア西部に位置する都市で、ジェロナ・グラの南東、レグニツァの北に位置する。2021年の中央統計局(ポーランド語:Główny Urząd Statystyczny、略:GUS)のデータによると、グウォグフの人口は65,757人である。2002年から2021年の間に、人口は6.1%減少した。住民の平均年齢は42.8歳で、ポーランド全体の住民の平均年齢並みである。 グウォグフ郡(Powiat głogowski,:en:Glogow County)に属する。この郡は1999年からドルヌィ・シロンスク県に属するが、1975年から1998年まではレグニツァ県(:en:Legnica Voivodship)に属していた。
ケンブリッジ大学出版局
ケンブリッジ大学出版局(ケンブリッジだいがくしゅっぱんきょく、Cambridge University Press)は、ケンブリッジ大学の出版事業を手がける出版社である。1534年、ヘンリー8世により特許状が発せられたのを起こりとする世界最古の出版社、かつ世界第2の規模の大学出版局であり、聖書や学術誌の出版も手掛けている。 「出版活動を通して、大学の理念である全世界における学問、知識、研究の促進を推し進めること」を使命として掲げている。これは、ケンブリッジ大学規約中の “Statute J” に規定されている。そして、「公益のため継続的に出版活動を行い、ケンブリッジという名前の評価を高めること」を目的としている。
ケッセルスドルフの戦い
ケッセルスドルフの戦い(独:Schlacht bei Kesselsdorf)は、1745年12月15日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。
ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)
ゲオルク・フリードリヒ ゲオルク・フリードリヒ(Georg Fiedrich, 1539年4月5日 - 1603年4月25日)は、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯(在位:1543年 - 1603年)及びブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯(在位:1557年 - 1603年)。オポーレ公(在位:1543年 - 1549年、1556年 - 1558年)、プロイセン公領の摂政でもあった。
見る シュレージエン戦争とゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)
コリンの戦い
コリンの戦い(Schlacht von Kolin)は、七年戦争において1757年6月18日に起こった会戦である。この戦いでオーストリア(ハプスブルク帝国)はプロイセンに対して初めて勝利を収め、これ以降プロイセンは守勢にまわることになる。 プラハの戦いでオーストリア軍を破り、プラハを包囲していたプロイセン軍だったが、ダウン率いる援軍が着陣したため、フリードリヒ大王は軍の一部を割いてこれを牽制した。ダウンは一度後退したものの、増援を得て総勢5万の兵力をまとめると再びプラハに接近する。フリードリヒ大王はプラハ包囲を貫徹させるため、これを阻止すべく3万2千の兵で決戦を求めた。 6月18日、プラハ東方コリン郊外の丘の上に陣を敷くオーストリア軍にフリードリヒ大王は側面攻撃をかけた。しかしダウンの反撃にあってプロイセン軍は大きな損害を出して敗退した。
コトゥジッツの戦い
コトゥジッツの戦い(独:Schlacht bei Chotusitz)は、1742年5月17日にプロイセンとオーストリアとの間で行われたオーストリア継承戦争における会戦である。ホトゥジッツの戦いと読まれることもあり、また別にチャスラウの戦い(Schlacht bei Czaslau)とも呼ばれる。プロイセン軍が勝利した。
ザクセン選帝侯領
ザクセン選帝侯領(ザクセンせんていこうりょう、Kurfürstentum Sachsen)は、神聖ローマ帝国の領邦国家である。クーアザクセン(Kursachsen)とも呼ばれる。1356年の金印勅書により、神聖ローマ皇帝カール4世がザクセン=ヴィッテンベルク公爵を選帝侯に指定したことで成立した。選帝侯領は1806年にザクセン王国となった。
シレジア
シレジアは、現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的名称。交易の要衝であり、石炭や鉄・銅資源など様々な天然資源が豊富で穀倉地帯を持つことから、支配者は様々に変化してきた。
シロンスク・ピャスト家
ヴワディスワフ2世(亡命公) シロンスク・ピャスト家(ポーランド語:Piastowie śląscy;ドイツ語:Schlesische Piasten)は、ポーランドのピャスト家の嫡系。ポーランド公ボレスワフ3世(曲唇公)の長男ヴワディスワフ2世(亡命公)を始祖とする。
シロンスク公国群
シロンスク公国群またはシュレージエン公国群(ポーランド語:Księstwa śląskie;ドイツ語:Herzogtümer in Schlesien)は、1138年に成立したシロンスク公国が分裂して出来た微細な小公国群の集まりの総称。
シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿(シェーンブルンきゅうでん、)は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が、主に夏の離宮として使用した。 現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている(ID786)。
スペイン
スペイン王国(スペインおうこく、)、もしくはスペイン国(スペインこく、)、通称スペイン()は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。
スウェーデン
スウェーデン王国(スウェーデンおうこく、Konungariket Sverige, )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。1995年に欧州連合(EU)に加盟、ユーロは導入していない。北欧諸国のひとつであり、西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しており、バルト海を挟む形でバルト三国やポーランドとも接している。 人口は約1045万人(2021年12月スウェーデン統計庁による)。北欧諸国では最多の人口を有する。住民の大半は北方ゲルマン系(スウェーデン人)だが、北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らす。宗教は国教であるルーテル教会が大多数を占める。言語はスウェーデン語が公用語であり、他にサーミ語やフィンランド語などが存在する。
ゾーアの戦い
ゾーアの戦い(独:Schlacht bei Soor)は、1745年9月30日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア軍と少数のザクセン軍による連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。
サルデーニャ王国
サルデーニャ王国(サルデーニャおうこく、Rennu de Sardigna、Regno di Sardegna)は、13世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家である。領土は現在のイタリアとフランスにまたがり、サルデーニャ島、ピエモンテ、サヴォワとニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。 サヴォイア家が支配するこの王国は、19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、近代イタリア王国の前身となった。 本項ではサヴォイア家以前の「サルデーニャ王」についても略述する。
サンクトペテルブルク条約 (1762年)
サンクトペテルブルク条約(サンクトペテルブルクじょうやく、Treaty of Saint Petersburg)は1762年5月5日、プロイセン王国とロシア帝国の間で締結された、七年戦争の講和条約。 条約はプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世の即位後に結ばれ、このブランデンブルクの奇跡でフリードリヒ2世はオーストリアとザクセンとの戦闘に集中できた。
見る シュレージエン戦争とサンクトペテルブルク条約 (1762年)
国事詔書
国事詔書 (こくじしょうしょ、ラテン語: sanctio pragmatica / pragmatica sanctio、ドイツ語: Pragmatische Sanktion)は、ヨーロッパ史上で君主が発した、第一級の重要事について国家の基本法に匹敵する効力を発揮する詔書、勅令。特に神聖ローマ帝国後期に神聖ローマ皇帝が発したものが有名である。理想的な状況が維持できなくなり、支配体制の転換に迫られた際に発された傾向がある。 年代を特定せず固有名詞として使われる場合は1713年の国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を指すことが多い。これは神聖ローマ皇帝カール6世が、オーストリア大公位とハプスブルク家の領土を永久不可分とし、女系子孫の相続権の保証を取り決めたものである。
国事詔書 (1713年)
カール6世の詔書(1713年頃) 国事詔書(こくじしょうしょ、、プラグマーティッシェ・ザンクツィオーン)は、1713年4月19日に神聖ローマ皇帝カール6世によって発布された詔書(家法)である。ハプスブルク家世襲領の一体不可分が定められ、統一的な継承秩序を目的としていたと考えられる。
神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、Heiliges Römisches Reich, Sacrum Romanum Imperium, Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家、もしくは国家連合である。 9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。さらに1648年のヴェストファーレン条約により神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を獲得し、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。しかし皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。
神聖ローマ皇帝
神聖ローマ皇帝冠 主に使用されていた神聖ローマ帝国旗 神聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser, Imperator Romanus Sacer)は、神聖ローマ帝国の皇帝。より広い意味では中近世の西ヨーロッパにおける世俗の国を超えた最高権威である。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。
第一次シュレージエン戦争
第一次シュレージエン戦争(だいいちじシュレージエンせんそう、Erster Schlesischer Krieg)は、1740年から1742年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、18世紀中期に戦われた一連のシュレージエン戦争の始まりである。訳の違いからシレジア戦争とも呼ばれるが、本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。 主戦場はシュレージエンのほか、モラヴィアとボヘミア(ボヘミア王冠領)も含まれる。プロイセンは開戦事由に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発にはレアルポリティークと地政戦略上の影響もみられる。女性であるマリア・テレジアがハプスブルク帝国(オーストリア)を継承することに異議を唱えられたため、プロイセンがザクセン選帝侯領やバイエルン選帝侯領を出し抜いて勢力を増す機会となった。
第二次シュレージエン戦争
第二次シュレージエン戦争(Zweiter Schlesischer Krieg)は、1744年から1745年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、2度目のシュレージエン戦争である。
白山の戦い
白山の戦い(はくさんのたたかい、Bitva na Bílé hoře, Schlacht am Weißen Berg, 1620年11月8日)は、ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘である。
選帝侯
ハインリヒ7世時代) 選帝侯(せんていこう、Kurfürst)は、神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国および地域の領土や行政区画、町会等のうち、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。
見る シュレージエン戦争と飛地
開戦事由
開戦事由(かいせんじゆう)とは、戦争行動の正当化の理由を意味する国際法上の用語。
英墺同盟
英墺同盟(えいおうどうめい、Anglo-Austrian Alliance)は、グレートブリテン王国とハプスブルク帝国の間で締結された、1731年から1756年までの同盟。同盟が締結された理由は、イギリスの南部担当国務大臣ニューカッスル公爵がフランス王国の拡張を食い止めるにはオーストリアとの軍事同盟が不可欠であると考えたためであった。同盟はヨーロッパの勢力均衡を保つためにヨーロッパ列強が同盟相手をとっかえひっかえしていたの一環として行われた。しかし、同盟が外交革命で崩壊した結果、七年戦争が勃発した。
東プロイセン
14世紀の東プロイセン 東プロイセン(ひがしプロイセン、、、、)は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名である。ワイクセル川(ヴィスワ川)とメーメル川(ネマン川)に挟まれている。「プロイセン」を英語読みとした東プロシア、あるいは「東」をドイツ語読みとしたオストプロイセンとしても知られている。首都は、ケーニヒスベルク。 東プロイセンは、バルト民族のプルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団によって征服され、ドイツ騎士団国となった。ドイツ騎士団国は1525年にプロイセン公国となり、プロイセン公国は1701年に王国へ昇格した。1772年、ポーランド・リトアニア共和国の分割で西プロイセンすなわち王領プロイセン(ポーランド王国領であった)もプロイセン王国領となると、それまで飛び地だった東プロイセンは王国の残りの部分と陸続きになった。
最後通牒
最後通牒(さいごつうちょう)あるいは最後通告(さいごつうこく)(英: ultimatum)(ultimatum)とは、外交文書の一つで、国際交渉において最終的な要求を文書で提示することで交渉の終わりを示唆し、それを相手国が受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明することである。 一般的に国家間の国際紛争の場合は、相手が受け入れない時は交渉の打ち切りは軍事的な実力行使の段階に移ることを意味するため、戦争を宣言する行為に準ずるものとなる。
戦争前の原状
戦争前の原状(status quo ante bellum、または短縮して"status quo ante")は、ラテン語の成句。
戦略地政学
地政戦略学(ちせいせんりゃくがく、)、または戦略地政学(せんりゃくちせいがく)とは、軍事力及び国家安全保障に焦点を当てた地政学であり、地政学を戦略として利用する試みである。
擲弾兵
プロイセン軍擲弾兵。左手に着火用の火縄、右手に擲弾を持ち、肩にはヤーゲル(ライフル)銃を下げ、「Grenadiermütze」と呼ばれた特徴的な帽子を被っている。 燧石式擲弾発射器。当時の擲弾発射器にはマスケット銃の銃口にカップを取り付けた物も存在した。 擲弾兵(てきだんへい、Grenadier)は近世ヨーロッパの陸軍で組織されていた歩兵部隊の一種。当初は擲弾(Grenade)の投擲を主な任務としていた。19世紀中頃に本来の用兵での擲弾兵部隊は消滅したが、本項ではその後現在に至るまでの、擲弾の投擲を任務とする兵士及び「擲弾兵」の称号を持つ兵士についても述べる。
普墺戦争
普墺戦争(ふおうせんそう、Deutscher Krieg)は、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した。7週間戦争やプロイセン=オーストリア戦争とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。
18世紀
Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。
参考情報
オーストリア継承戦争
- オーストリア継承戦争
- カステラーヌ
- シュレージエン戦争
- ジェンキンスの耳の戦争
- ジョージ王戦争
- ブレダ会議
- マドリード条約 (1750年10月5日)
- 王宮の花火の音楽
- 第一次シュレージエン戦争
- 第二次シュレージエン戦争
フリードリヒ2世 (プロイセン王)
- クローステル・ツェーヴェン協定
- サンスーシ宮殿
- シュレージエン戦争
- ドレスデン条約
- バイエルン継承戦争
- フリードリヒ2世 (プロイセン王)
- フリードリヒ・デア・グローセ (戦艦)
- フリードリヒ大王のセクシュアリティ
- ブランデンブルクの奇跡
- ブレスラウ条約
- プール・ル・メリット勲章
- ベルリン王立磁器製陶所
- マキャヴェリ駁論
- 君侯同盟
- 国王行進曲
- 第一次シュレージエン戦争
- 第二次シュレージエン戦争
- 英普同盟 (1756年-1762年)
- 衛戍教会
七年戦争
- アトムの冒険
- カーナティック戦争
- ゴレ島占領
- シュレージエン戦争
- セント・フィリップ砦包囲戦 (1756年)
- フレンチ・インディアン戦争
- ブランデンブルクの奇跡
- ポメラニア戦争
- マルティニーク島侵攻 (1759年)
- マルティニーク島侵攻 (1762年)
- モヒカン族の最後
- 七年戦争
- 外交革命
- 英普同盟 (1756年-1762年)
シュレジェン戦争、シレジア戦争 別名。