ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

シモン・ド・モンフォール

索引 シモン・ド・モンフォール

シモン・ド・モンフォール シモン・ド・モンフォールの紋章 シモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort, 6th Earl of Leicester, 1208年 - 1265年8月4日)は、中世イングランドの貴族(第6代レスター伯)。イングランドの議会制度の基礎を作り上げた人物として有名で、不当な権力に反抗する不屈の闘士として、イングランドでは英雄視されている。 シモンの父はフランスのノルマンディー出身の名門貴族でありアルビジョア十字軍で活躍した、彼と同名のシモン4世・ド・モンフォール(第5代レスター伯)である。 シモンは1230年にイングランドに渡って、1239年にレスター伯となった。はじめはヘンリー3世の寵臣として重用され、その妹エリナーを妻として与えられるほどであったが、1248年にフランスのガスコーニュにおける統治に失敗してヘンリー3世の信頼を失い、対立するようになる。 シモンはヘンリー3世が失政を続けるのを見て、ヘンリー3世に反発する貴族を糾合して挙兵し、1258年に王権制限と貴族による国政監督組織を作ることを定めたオックスフォード条項を認めさせた。しかし1261年、力を盛り返したヘンリー3世がこの条例を一方的に破棄して再び王権強化を図ったため、1263年にシモンは再び挙兵(第2次バロン戦争)して、1265年にはヘンリー3世とその弟コーンウォール伯リチャードを捕らえて戦いに勝利し、イングランドの実権を握るにいたった。そして、イングランドの諸侯や聖職者、騎士から都市の代表などによる議会を召集して政治改革を行なおうとした。 これが、現在におけるイギリス議会の基礎となったのである。しかしシモンが召集した議会は寄せ集めに過ぎず、貴族の一部からシモンに権力が集中することを恐れた一派がヘンリー3世の子・エドワード1世と通じて反乱を起こしたため、シモンはこの鎮圧に向かったが、イーヴシャムの戦いでエドワード1世の反撃を受けて戦死したのである。 なお、コーンウォール伯リチャードの息子を暗殺したのはシモンの遺族の差し金であったと言われている。 Category:中世イングランドの人物 Category:レスター伯 しもん Category:1208年生 Category:1265年没.

24 関係: 中世ノルマンディーリチャード (コーンウォール伯)レスター伯ヘンリー3世 (イングランド王)フランス王国アルビジョア十字軍イングランド王国イギリスの議会エリナー・オブ・レスターエドワード1世 (イングランド王)オックスフォード条項ガスコーニュ第2次バロン戦争貴族1208年1230年1239年1248年1258年1261年1263年1265年8月4日

中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと中世 · 続きを見る »

ノルマンディー

ノルマンディーの地図 ノルマンディー(、、ノルマン語: )は、イギリス海峡に臨むフランス北西部の地方で、王政時代の州である。今日では地理的、文化的意味合いも持つ。ノルマンディ、ノルマンジーとも表記される。 ノルマンディー地域圏の総称である一方、ガーンジー島とジャージー島の代官区から構成されるノルマンディー公領は、ノルマンディー公の称号を持つグレートブリテン君主の宗主権下にある。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとノルマンディー · 続きを見る »

リチャード (コーンウォール伯)

170px 初代コーンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall, 1209年1月5日 - 1272年4月2日)は、イングランドの王族でジョン王(欠地王)の次男。神聖ローマ帝国の大空位時代における名目上のローマ王(在位:1257年 - 1272年)。兄にヘンリー3世、妹にスコットランド王アレグザンダー2世の妃ジョーン、ローマ皇帝フリードリヒ2世の皇后イザベラがいる。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとリチャード (コーンウォール伯) · 続きを見る »

レスター伯

レスター伯(Earl of Leicester)は、イギリスの伯爵位。12世紀にイングランド貴族の伯爵位として創設されたが、1837年の創設以降は連合王国貴族としての伯爵位となっている。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとレスター伯 · 続きを見る »

ヘンリー3世 (イングランド王)

ヘンリー3世(Henry III, 1207年10月1日 - 1272年11月16日)は、プランタジネット朝のイングランド王(在位:1216年 - 1272年)。ジョン王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの子。妃はプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の娘エリナー・オブ・プロヴァンス。 諸侯たちの反乱の中で幼くして王位に就き、フランスの領土問題とマグナ・カルタに象徴される議会問題を解決しようとしたが、50年を超える長い治世において目立った成果を挙げることはできなかった。非常に信心深く、エドワード懺悔王を好み、ウェストミンスター寺院を現在の姿に大改築したことで知られる。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとヘンリー3世 (イングランド王) · 続きを見る »

フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとフランス王国 · 続きを見る »

アルビジョア十字軍

アルビジョア十字軍(アルビジョアじゅうじぐん、フランス語:Croisade des Albigeois, オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年 - 1229年)は、1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。アルビジョワ十字軍とも。 他の十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により主に北フランスの諸侯を中心に結成されたが、南フランス諸侯の反撃の中で次第に領土戦争の色合いが強まり、最終的にはフランス王ルイ8世が主導して王権の南フランスへの伸張に利用された。独自の文化を誇った南フランスは20年に渡る戦乱により荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を受けることになる。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとアルビジョア十字軍 · 続きを見る »

イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとイングランド王国 · 続きを見る »

イギリスの議会

レートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこくぎかい、)は、イギリスの立法府であり、本国及び海外領土と王室属領の最高機関である。それ自体が立法府優位を有しており、その結果、本国とその領土における他の全ての政治的機関を上回る最高権力を有する。その長はイギリスの君主(現在はエリザベス2世)であり、その座所はグレーター・ロンドンに位置するシティ・オブ・ウェストミンスターのウェストミンスター宮殿にある。 議会は両院制で、上院(貴族院)と下院(庶民院)から構成されている。君主は立法府の3つ目の構成要素を形成する(議会における女王)。貴族院は2つの異なるタイプの議員を含んでいる。すなわち、英国国教会で最も上級の聖職貴族で構成される聖職上院議員、及び首相の助言に基づいて君主により任命される連合王国貴族と一代貴族とで構成される世俗上院議員である。2009年10月に最高裁判所が創設される以前は、貴族院はを通してを備えていた。 庶民院は、少なくとも5年ごとに行われる選挙に伴い、民主的に議員が選出される議院である。両院はそれぞれ、ロンドンのウェストミンスター宮殿(議事堂)内にある、互いに離れた議院に置かれる。憲法上の慣習により、首相を含む全ての大臣(ministers)は、庶民院議員であるか、あまり一般的ではないが、貴族院議員であるかであり、これらの大臣は、それにより立法府の各部門に対して説明責任がある。 合同法がイングランド議会<!-- ループリンク -->とスコットランド議会を通過したことにより合同条約が批准され、1707年にグレートブリテン議会が形成された。19世紀の初めには、グレートブリテン議会とアイルランド議会により合同法が承認されたことで、議会はさらに拡大した。これにより、後者は廃止され、前者に100名のアイルランド議会議員と32名の貴族議員が加わり、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会が創設された。アイルランド自由国が分離独立した5年後に、Royal and Parliamentary Titles Act 1927により、正式に議会の名称が“グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会”に修正された。 英国議会とその諸機関は、世界中の多くの民主主義諸国の模範となっており、「議会の母」または「諸議会の母」(the mother of parliaments)と呼ばれるまでに至っている。しかしながら、ジョン・ブライトは彼こそがこの形容語句を作ったのだが議会よりもむしろ国(イングランド)に関して、その語句を使用した。 理論上、イギリスの最高の立法権限は議会における国王に付与されている。しかし、国王は首相の助言に基づいて行動する上、貴族院の権限は縮小されているので、事実上の権限は庶民院に付与される。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとイギリスの議会 · 続きを見る »

エリナー・オブ・レスター

リナー・オブ・レスター(Eleanor of Leicester, 1215年 - 1275年4月13日)は、イングランドの王族。ジョン失地王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの間の末娘。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとエリナー・オブ・レスター · 続きを見る »

エドワード1世 (イングランド王)

ドワード1世(Edward I, 1239年6月17日 - 1307年7月7日)は、プランタジネット朝のイングランド王(在位1272年11月17日 - 1307年7月7日)。 ヘンリー3世の長男であり、1272年に父王の崩御で即位し、以降1307年の崩御までイングランド王として君臨した。内政面では法整備を進めたことや1295年に代議制議会の要素が強い模範議会を招集したことなどが特筆される。外交は近隣諸国との戦争に明け暮れ、ウェールズやスコットランドに侵攻して併合したり、アキテーヌを巡ってフランスと戦争するなどした。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて百年戦争へと繋がっていく。 渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとエドワード1世 (イングランド王) · 続きを見る »

オックスフォード条項

ックスフォード条項(Provisions of Oxford)は、1258年にイギリスのプランタジネット朝においてシモン・ド・モンフォール(第6代レスター伯)の率いる諸侯により制定された国勢に関する取り決めである。条項では、イングランド王ヘンリー3世に対して、大臣任命と地方行政権および王城の監督を管理する事になる15人の議員の手に委ねられた権力という新しい形式の政府を受け容れさせたのである。3年に1度、開催される議会では、英国議会の行動が監視される。この条項の意義は、イングランド王室が議会の権能を認知せざるを得なかったということである。 ラテン語、フランス語、中世英語によるもので、書式の確認がイングランド各地の州長官へと送付された。英語の用法は、イングランド政府のイギリス化であり、数十年以上続くフランス化に対する対抗手段、アンチドートであった。(この点は、マグナカルタ憲章がラテン語、フランス語であった事からも窺える。)200年来、ノルマン・コンクエストから始めて中世英語の公式文書が登場したのである。 この条項は、1259年にはウェストミンスター条項に置き換えられた。1261年には、ローマ教皇アレクサンデル4世による勅書に基づいたヘンリー3世の決定により覆され、国王側が権力を復帰させる結果となった第2次バロン戦争(シモン・ド・モンフォールの乱とも)は王党派の勝利となり、ケニルワースの地で終結宣言が行われる。 ロンドンにおける英国議会では、こうした文書が蒐集される形でコモン・ローに移行した。オックスフォード条項といえどもコモン・ローに対する文書法の優勢が勝ち取れる事はなかったし、この事は、シモン・ド・モンフォールら反王党派を憤慨させた。確かに、ノルマン朝以降のフランスに対する拡大とノルマン人貴族のイングランド化が進んだ事が主な要因なのであろうが、イングランドの王権がイギリス本土で定着する事になった事が意義として言えるであろう。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとオックスフォード条項 · 続きを見る »

ガスコーニュ

ーニュ(フランス語:Gascogne, ガスコーニュ語:Gasconha)はフランス南西部の歴史的地方名で、フランス革命時に既に成立していた州の一つである。現在のオート=ピレネー県やジェール県、ランド県などが該当する。 アルマニャックの生産で知られ、その名の由来となったアルマニャック地方は、このガスコーニュの中央部一帯を指す。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールとガスコーニュ · 続きを見る »

第2次バロン戦争

2次バロン戦争(だいにじばろんせんそう、Second Barons' War、1264年 - 1267年)はイングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とするイングランド諸侯が起こした反乱。ルーイスの戦いにより反乱側が支配権を握るが、イーヴシャムの戦いでシモン・ド・モンフォールが戦死した後、王権は回復した。しかし、その精神はエドワード1世の改革やその後のイギリス議会制に引き継がれた。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと第2次バロン戦争 · 続きを見る »

貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと貴族 · 続きを見る »

1208年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1208年 · 続きを見る »

1230年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1230年 · 続きを見る »

1239年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1239年 · 続きを見る »

1248年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1248年 · 続きを見る »

1258年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1258年 · 続きを見る »

1261年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1261年 · 続きを見る »

1263年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1263年 · 続きを見る »

1265年

記載なし。

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと1265年 · 続きを見る »

8月4日

8月4日(はちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から216日目(閏年では217日目)にあたり、年末まであと149日ある。.

新しい!!: シモン・ド・モンフォールと8月4日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »