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コルドファン

索引 コルドファン

ルドファン(クルドファン、Kurdufan、Kordofan)はスーダン中央の地域。コルドファンの南端は南スーダンとの境目となっており、境界線に位置するアビエイが石油を産出することから、その帰属をめぐって激しい南北対立が繰り広げられている。.

48 関係: 南北スーダン国境紛争 (2012年)南コルドファン州南スーダン北コルドファン州ナイル・サハラ語族マフディー戦争ポートスーダンムハンマド・アリームハンマド・アフマドラッカセイヌバ族ボヘミアディンカ族ファショダ事件ダルフールアラブ人アラビアガムアビエイアビエイ地区イブラーヒーム・パシャエチオピア帝国オベイドカイロコルドファン州コルドファン語派シルック族スーダンスーダンの地方行政区画スーダン人民解放軍国際連合南スーダン派遣団第一次スーダン内戦第二次スーダン内戦紅海西コルドファン州英埃領スーダン雑穀東アフリカ時間木綿1779年1821年1883年1898年1983年1994年2000年2005年2008年2011年南部スーダン独立住民投票

南北スーダン国境紛争 (2012年)

南北スーダン国境紛争(なんぼくスーダンこっきょうふんそう)は、2012年に発生したスーダン共和国(北スーダン)と南スーダン共和国の国境紛争。同国境界部の油田地帯を中心とした争い。.

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南コルドファン州

南コルドファン州(جنوب كردفان Ğanūb Kurdufān)は、スーダン共和国の州。面積は158,355km2(2016年1月閲覧)、2008年当時の推定人口は1,406,404人。州都はガドゥグリー(カドグリ)。南コルドファン州はスーダン共和国の州で唯一石油を産出し、この地に住むヌバ族は政府軍の攻撃の目標にされている。.

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南スーダン

南スーダン共和国(みなみスーダンきょうわこく、Republic of South Sudan)、通称南スーダンは、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国である。 2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した。.

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北コルドファン州

北コルドファン州(شمال كردفان、Šamāl Kurdufān)は、スーダンの州。面積は185,302km2加藤「北コルドファーン州」『世界地名大事典』3、301頁、2008年当時の人口は2,920,992人。州都はオベイド。 北コルドファン州が含まれる地域には、数世紀の間Dar Hamid、Dar Hamar、Guamaa、Kababish、Bideriya、Shwehat、Yazeedなどの牧畜で生計を立てる遊牧民が居住していた。1994年にコルドファン州が北コルドファン州、南コルドファン州、西コルドファン州に分割され、北コルドファン州が成立した。2005年に西コルドファン州が廃止・分割され、北コルドファン州と南コルドファン州に合併される。 北コルドファン州は乾燥帯に属し、州の多くを砂漠が占めている。1960年代の半ばから干ばつによる砂漠化が進行し、非政府組織(NGO)と協調した再開発が進められている。また、NGOによってwomen's centresが設置され、多くの女性が収入を得られるようになった。.

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ナイル・サハラ語族

ナイル・サハラ語族(Nilo-Saharan langauges)はアフリカのナイル川、シャリ川の上流の地域(ヌビアも含む)に分布する語族。話者は言語学者メリット・ルーレンの1987年の調査によると1100万人とされる。.

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マフディー戦争

マフディー戦争(マフディーせんそう、英語:Mahdist War)は、19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンのマフディー教徒とエジプト、後にイギリス軍が戦った。これはマフディーの反乱とも呼ばれ、イギリスでは自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。.

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ポートスーダン

ポートスーダン(英語:Port Sudan、アラビア語:بور سودان)は、スーダン紅海州の州都であり、人口459,101人(2005年1月)の都市である。紅海に面し、スーダンにとって重要な港湾都市となっている。また、1905年にイギリスが敷設した紅海とナイル川とを結ぶスーダン鉄道の終点ともなっている。この鉄道は、ナイル川沿岸の豊かな農場から輸出市場へトウモロコシ、綿などを輸送するために使われた。市内には国際空港が存在する。ポートスーダンは、その素晴らしいダイビングとビーチのために観光客の間で知られている。また、紅海を挟んでサウジアラビアのジッダに向かう出発点ともなる。.

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ムハンマド・アリー

ムハンマド・アリー・パシャ(, 1769年? - 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 - 1849年)。メフメト・アリー(Mehmet Ali)ともいう。 エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。 最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父山口2006、26頁。、エル・キビール(大王)山口2006、104頁。と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。.

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ムハンマド・アフマド

ムハンマド・アフマドは、アラブ人ないしアラブの影響を受けた文化圏の男性名。.

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ラッカセイ

ラッカセイ(漢字: 落花生、学名: 、英語: peanut または groundnut)はマメ亜科ラッカセイ属の一年草。別名ナンキンマメ(南京豆)、ピーナッツ。.

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ヌバ族

ヌバ族(nuba)はスーダン共和国コルドファン地方のヌバ山地に居住するニジェール・コンゴ語族コルドファン語派の民族の総称。カトラ語、コアリブ語、タゲリ語、タロディ語、トゥムトゥム語に分類され、人口は約50万人。ナイル峡谷の民族移動に巻き込まれなかったため、独自の文化を形成した。.

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ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

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ディンカ族

19世紀後半のディンカ族の少女 ディンカ族(Dinka)は、南スーダンのナイル川流域のバハル・アル・ガザール地方を中心に居住する民族。人口は約100万人。自らはジエン(複数形: Jieng, 単数形: Muonyjang)と称する。非常に平均身長が高い部族として知られる。.

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ファショダ事件

ファショダ事件(1898年)当時のアフリカ 南北に伸びるイギリスの植民地(黄色)と東西に伸びるフランスの植民地(赤色)の拡大政策が現在のスーダンで衝突した Kodok)と首都ハルツーム、ナイル川の位置関係(現在は南スーダンに位置する) ファショダ事件(ファショダじけん)は、1898年、アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。 イギリスは1815年、早くもアフリカ最南端のケープ植民地を領有して、その支配地を北に拡大し始めた。その後、1875年にはスエズ運河を確保し1882年にエジプトを事実上の保護国化した後、ナイル川に沿って南下し始めた。1885年、エジプト統治下のスーダンでマフディー教徒が蜂起し、スーダンを完全に支配下に置くために、10年間ほどイギリスの南下政策は停滞した(マフディー戦争)。しかしその後、イギリスは2万5千の大軍を動員し、鉄道を敷きながら南下し、マフディー教国を破ってスーダンを支配下に置いた。このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南の(現南スーダン上ナイル州)にフランス国旗が掲げられていることを発見し、急遽、軍を派遣した。 フランスは1830年にアルジェリアに進出して以来、1881年にはチュニジアを、次いでセネガル、マリ、ニジェール、チャドのサハラ砂漠一帯を領有した。また、紅海沿岸のジブチ(仏領ソマリランド)を領有し、東部アフリカに橋頭保を築いた。 英領であるカイロとケープタウンを結ぶ直線と、仏領であるダカール(セネガル)とジブチを結ぶ直線は、スーダンのファショダ付近で交差する。このようにファショダは両国のアフリカ戦略上きわめて重要な地点に位置していた。 フランスはサヘル地域からさらに東部への進出を図って、マルシャン大尉率いる200名の武装探検隊を送った。一行はブラザビル(コンゴ)から蒸気船でウバンギ川を遡上し、ジャングルと砂漠地帯を横断し、1898年7月10日、ナイル河畔のファショダ村に到着した。 他方、キッチナー率いるイギリス軍の船隊はナイル川を南下して同年9月18日にファショダに到着した。 ファショダで遭遇したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた。しかし両軍の司令官(キッチナーと)の会見で、事態の処理を本国にゆだねることになった。 フランスの外相テオフィル・デルカッセはこの場面でイギリスとの軍事衝突を選ぶことは得策ではないと考えた。当時急速に勢力を拡大していたドイツとの衝突に備えてイギリスとの関係を悪化させることは避けるべきであったし、また、ドレフュス事件をはじめとする不祥事で当時のフランスの軍部は国民の信頼を失っており、遠くスーダンで戦争を遂行することは世論の賛同を得られないと思われたからである。結局、フランス軍が譲歩し、翌1899年ファショダから撤退した。 本事件は帝国主義の時代において英仏両国の関係が最も緊張した出来事であり、本事件以後、英仏関係は融和に向かうことになる。先述のとおりドイツ帝国の勢力拡大に直面した両国は、1904年、英仏協商を結んだ。その協商で、フランスはエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの優越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 その後、第一次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)を獲得したため、イギリスの大陸縦貫政策は完遂した。ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フランスの横貫政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し、事実上アフリカ大陸をイギリスと2分割したも同然であった。.

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ダルフール

ーダンでのダルフールの位置 ダルフールの旗 ダルフール(アラビア語 دار فور dār fūr ダールフール、英: Darfur、フール人の国/故郷)はスーダン西部の地域でリビア、チャド、中央アフリカ、南スーダンと接している。行政上では北ダルフール (Shamal Darfur)、南ダルフール (Janub Darfur)、西ダルフール (Gharb Darfur) の3つの連邦州に分割されている。現在、アラブ系民兵ジャンジャウィードと非アラブ系アフリカ黒人反乱に関わるダルフール紛争が継続している。ダルフール紛争での近年の死者は約20万、難民は数百万に上る。.

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アラブ人

アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。 7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。 もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。.

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アラビアガム

アカシア樹脂 アラビアガム (Gum arabic) あるいはアラビアゴムあるいはアカシア樹脂は、アフリカ、ナイル地方原産のマメ科ネムノキ亜科アカシア属アラビアゴムノキ、またはその同属近縁植物の樹皮の傷口からの分泌物を乾燥させたもの。吸水するとゼラチン様に膨潤する。 以外では、ソマリランドの、、ナイル地方の、コルドバ地方の (Red-bark acacia) 、 (Red acacia) から色の淡い良品が採取される。自然に生じた樹皮の傷口からも得られるが、効率よく採取するためには雨季が終了する2月から5月にかけて樹皮に切り付けを行う。.

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アビエイ

アビエイ (Abyei) は、アフリカ大陸北東部の内陸部、コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とするアビエイ地域の地名である。スーダンから南スーダンが独立する以前は、スーダンの南コルドファン州南部の地名であった。一方でスーダンは、州の下位行政区画に「地区」を設け、南コルドファン州の下位にはアビエイ地区と呼ばれる行政区画名を設けている。第二次スーダン内戦の (CPA) におけるアビエイ紛争の解決の取り決めでは、1905年にコルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とする地域をアビエイ地域と定め、その帰属はアビエイ地域の住民の住民投票により決定されるとした。しかし、どこまでをアビエイ地域の住民と定義するかで、南北スーダンの主張に相違があり、現在もまだ住民投票が行われておらず、アビエイ地域がどちらに帰属するか決定されていない。アビエイ地域はスーダンが実効支配している。なおこのアビエイ地域の南西部にアビエイの町がある。.

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アビエイ地区

アビエイ地区(Ab Yei District)は、スーダン共和国の西コルドファン州に属する地区(Distirct)のひとつ。一方、2011年に分離した南スーダン共和国に属する旧ワラブ州には同名のアビエイ郡(Abyei County)が設置されている。双方の行政区画に含まれるアビエイ地域は、帰属未定となっている。首府はどちらもアビエイ町(アビエイ地域内)である。.

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イブラーヒーム・パシャ

イブラーヒーム・パシャ イブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasza, 1789年 - 1848年11月10日)は、エジプト、ムハンマド・アリー朝の第2代君主(在位:1848年)。オスマン帝国のエジプト総督(ワーリー, 在任:1848年)。非常に優秀な政治家、軍人でエジプトの近代化に多大な貢献をした。.

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エチオピア帝国

チオピア帝国(エチオピアていこく、)は、1270年から1974年まで存続したアフリカ東部の国家。現在のエチオピアおよびエリトリアにほぼ一致する領域を支配し、最大版図は現在のソマリア、ジブチ、ケニア、スーダン、南スーダン、エジプト、アラビア半島の一部まで及んだ。欧米のアフリカ分割の最中にあって独立を保ったアフリカ最古の独立国である。 実際は複数の王朝が交代し、また皇帝の存在しなかった時代もあるため、エチオピアの歴代王朝の総称ないし国家の系譜と考えることもできる。また、前身のザグウェ朝もエチオピア帝国の歴史の一部として捉える説もあり、その場合に推定される国家成立年は1137年である。軍事クーデターにより、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に倒れ、帝国は終焉した。.

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オベイド

ベイド(الأبيض、Al-Ubayyid、El-Ubayyid、エル=オベイド、アル=オベイドとも)は、スーダンの都市。スーダン中央部に位置する、北コルドファン州の州都である。人口約341,000人(2008年)加藤「オベイド」『世界地名大事典』3、208頁。標高568mの地点に位置し、ハルツームから南西に350km離れている。古くからの全コルドファン地方の中心都市である。 住民の大部分はイスラム教徒であるが、少数ながらキリスト教徒も存在する。.

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カイロ

イロ(القاهرة,, アル・カーヒラ、, コプト語: ⲕⲁϩⲓⲣⲏ,, Cairo)は、エジプトの首都。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つ。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市でもある。.

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コルドファン州

ルドファン州(Kordofan Province)は、スーダンの旧行政区画(mudiriyat)の9つのうちのひとつ。英埃領スーダン当初に設置され、独立後の1974年に南北に分割された。その後、現在では北コルドファン州、南コルドファン州に加えて西コルドファン州の3つに分割されている。 州都はオベイド。人口は176万人で、旧9州の中では青ナイル州の次に多かった。.

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コルドファン語派

ルドファン語派(Kordofanian languages)はスーダン南部のいくつかの言語を地理的にまとめた、ニジェール・コンゴ語族の語派である。1963年にジョセフ・グリーンバーグが本語派をニジェール・コンゴ語族に含め、ニジェール・コルドファン語族として提唱した。コルドファン語派は現在も多くの分類でニジェール・コンゴ語族の最も遠い分派と位置づけられている。今日、Kadu family は除外されてナイル・サハラ語族に組み入れられる。他の言語は通常、ニジェール・コンゴ語族に含まれる。.

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シルック族

ルック族(外名: Shilluk, シルクとも。自称: チョロ, Chollo)は、スーダン中部の主に白ナイル湾曲部近辺上ナイル州西部に居住する民族。1970年時点の人口は約12万人。南スーダンでは、ディンカ族とヌエル族に次いで3番目に大きいエスニック部族集団である。 シルック族はナイル系民族の1つで、(シルック語: Dhøg Cøllø または Dhø Cølø)はかつてはナイル・サハラ語族のシャリ・ナイル諸語に分類され、『エスノローグ』では北ルオ方言諸語に分類されている。.

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スーダン

ーダン共和国(スーダンきょうわこく、جمهورية السودان、Republic of the Sudan)、通称スーダンは、北東アフリカに位置する国家である。首都はハルツームである。エジプト、リビア、チャド、中央アフリカ、南スーダン、エチオピア、エリトリアと国境を接し、東は紅海に面している。 アルジェリア、コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積2,505,813km2とアフリカ大陸最大の国土を有していた。.

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スーダンの地方行政区画

ーダンの地方区分 スーダンの地方行政区画は、18の州によって成り立っている。2011年7月に南スーダンが独立するまでは、25の州が設置されていた。.

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スーダン人民解放軍

historicalスーダン人民解放軍の旗(1983年) SPLA/M の紋章 南スーダンの独立記念式典に参加するスーダン人民解放軍の将校たち(2011年) スーダン人民解放軍の少年兵(2007年) スーダン人民解放軍・スーダン人民解放運動(スーダンじんみんかいほうぐん・スーダンじんみんかいほううんどう、英語:Sudan People's Liberation Army・Sudan People's Liberation Movement)は、1983年にジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら南スーダンの「非アラブ系」の世俗主義者が中心となり結成された旧反政府武装組織・政党。 ヌメイリ、、オマル・アル=バシールら北部の「アラブ人」主導の政権と第二次スーダン内戦で争った。1989年には国民民主同盟にも加盟している。2005年1月南北内戦の包括和平協定が結ばれ、ジョン・ガランを大統領とする南スーダンの半自治政府が認められたが、7月30日ジョン・ガランが死亡し、議長と南スーダン共和国大統領職はサルバ・キール・マヤルディに引継がれた。.

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国際連合南スーダン派遣団

UNMISSに派遣され、コミュニティ道路を整備する陸上自衛隊(2013年4月、ジュバ市ナバリ地区) 国際連合南スーダン派遣団(こくさいれんごうみなみスーダンはけんだん、)は、南スーダン共和国に展開する国際連合平和維持活動 (PKO) のひとつ。 2011年7月9日に北部スーダンから分離独立した南スーダン共和国の平和維持活動を主任務とし、司令部を首都ジュバに置く。約7000名からなる治安維持及び施設整備部隊と警官約900人を加えた8000人規模で構成され、市民保護目的の武力行使が認められている。 南スーダンでは日本のNGO(非政府組織)が、医療や教育・農業などで多く活動している。独立したばかりの国であるため、国際支援は政府の統治機能をつくることや農産物の生産性を上げることからも重要である。 自衛隊の南スーダン共和国の派遣については「自衛隊南スーダン派遣」を参照。.

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第一次スーダン内戦

一次スーダン内戦(だいいちじスーダンないせん)は、1955年から1972年までスーダン南部(2011年に南スーダンとして分離独立)で起きた内戦のこと。 1955年7月南部のヌザラで労働者のデモに警察隊が発砲し20人の犠牲者が出たことで発生した。翌1956年、スーダン独立が北部中心主義を制度化する形で行われたため南部の不満が高まり、南北間で戦闘が続いて、を中心とする南部分離主義が強まった。1969年5月に成立したヌメイリ政権は、1972年2月27日に南部とアディス・アベバ合意を締結し、17年間で50万人の犠牲者を出した第一次スーダン内戦は終結した。.

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第二次スーダン内戦

二次スーダン内戦(だいにじスーダンないせん)は、1983年に当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに南部の非アラブ系住民(大半が黒人とアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦である。2005年までほぼ22年間続いたことから約190万人が死亡し、400万人以上が家を逐われた。またこの内戦で、南部のヌエル族やディンカ族の子どもたち約二万人が、居住地を追われて孤児となり、スーダンのロストボーイズと呼ばれる集団避難民となった。数は少ないがロストガールズもいる。.

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紅海

左側の細長い海域が紅海 紅海(こうかい、יַם סוּף, البحر الأحمر, Mer Rouge)は、アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。 長さ2250km、幅最大355km、面積438,000km2、平均水深491m、最深部2211m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6%-3.8%と高い。北部にはシナイ半島があり、チラン海峡を通じてアカバ湾とつながっている。また、北西部にはスエズ湾があり、スエズ湾はスエズ運河を経て地中海とつながっているほか、南部はバブ・エル・マンデブ海峡を経てアデン湾とつながっている。同海峡は国際海峡である。 域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。エリトリアのダフラク諸島、サウジアラビアのファラサン諸島、イエメンのカマラン島などがある。 2011年12月から2012年1月にかけ、イエメン沖のズバイル諸島で海底火山の活動によって新しい島が生まれた。.

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西コルドファン州

西コルドファン州(غرب كردفان、ラテン文字表記:Gharb Kurdufan、West Kurdufan)は、スーダンの州。コルドファン地方に属し、州都は。南スーダンと国境を接する。人口は約141万人、面積は111,373km²で領域は廃止前と再設置後で変わらない。 西コルドファン州は元々1994年2月14日の行政区画再編時に北コルドファン州と南コルドファン州と共に新設された。だが、2005年8月16日に西コルドファン州は廃止され、南北コルドファン州に分割・合併された。その後、南スーダン分離独立後となる2013年7月13日に再設された。.

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英埃領スーダン

英埃領スーダン(えいあいりょうスーダン、イギリス・エジプト領スーダン、Anglo-Egyptian Sudan)は、1889年から1956年までの間、北アフリカにあったイギリスとエジプト(エジプト王国)の共同統治領。人口は8,079,800人(1951年)、面積は2,505,800km²だった。 「英埃」とは、イギリス(英吉利)とエジプト(埃及)、それぞれの漢字表記の頭文字を取った略称。 Egypt flag 1882.svg|ムハンマド・アリー朝の旗(1882年 - 1922年) Flag of Egypt 1922.svg|エジプト王国の国旗(1922年 - 1952年) Flag of Egypt (1952-1958).svg|エジプトの国旗(1952年 - 1958年) Flag of the United Kingdom.svg|イギリス領スーダンの旗 Flag of the Governor-General of the Anglo-Egyptian Sudan.svg|イギリス領スーダンの総督旗.

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雑穀

雑穀(ざっこく)(millet )とは、主穀ではない穀類の総称日本作物学会編『作物学用語事典』農山漁村文化協会 p.241 2010年『食料の百科事典』丸善 p.18 2001年。生物学的分類ではなく農学的分類である。日本では「主穀」は基本的に米を指すが麦を含めることも多いとされ、一般に米・小麦・大麦を除く穀類及び擬似穀類を「雑穀」とするが『丸善食品総合辞典』丸善 p.445 1998年、一方で「雑穀」に豆類を含めるかどうかについて分かれるなど曖昧さをもつ概念である。ただ、いずれも小規模に作付けされ、世界中で食糧や飼料として広く栽培されている作物である。それらの本質的な類似点は、生産性が低い環境に育つ小規模に作付けされた草本ということである。中国の新石器時代や韓国の無文土器時代など、原始的な社会の食生活においては、米よりもむしろ雑穀が重要部分を構成していた。.

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東アフリカ時間

東アフリカ時間(ひがしアフリカじかん、East Africa Time - EAT)は、協定世界時 (UTC) を3時間進ませた標準時(UTC+3)で、モスクワ時間や東ヨーロッパ夏時間と同じ時間帯にあたる。 この時間帯を採用している国が赤道付近の地域なので、年間を通じて日の長さの大きな変化はない。したがって、夏時間は採用していない。 東アフリカ時間は次の国々によって使用されている。.

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木綿

収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロース。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。.

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1779年

記載なし。

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1821年

記載なし。

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1883年

記載なし。

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1898年

記載なし。

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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2011年南部スーダン独立住民投票

2011年の南部スーダン独立住民投票は、2011年1月9日から15日に実施された、スーダンからの南スーダン分離独立の是非を問う住民投票である。 同年2月7日に最終結果が公表され、独立を求める票が圧倒的多数を占めた。これをうけて7月9日には、南スーダンがアフリカでは54番目の独立国家として誕生した。.

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