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コモロの大統領

索引 コモロの大統領

モロの大統領(コモロのだいとうりょう)は、コモロ連合の国家元首である。コモロではこれまでにたびたびクーデター等の政治危機が起こっており、大統領以外の役職の者が元首となるケースも少なくないため、ここではそれらも含めて記述した。2001年に新憲法が採択された以降の元首は「大統領」(president)であるのが一般的になっている。大統領は現在、グランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島の持ち回りで選出されることになっている。.

16 関係: 外務省モハメド・ジョハルモハメド・タキモヘリ島アリ・ソイリアンジュアン島アーメド・アブダラアフメド・アブドラ・モハメド・サンビアザリ・アスマニイキリル・ドイニングランドコモロ島コモロコモロの国章元首2016年5月26日

外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称:MOFA)は、日本の行政機関の一つである。 外務省設置法第3条により、「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」を任務とする。.

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モハメド・ジョハル

イード・モハメド・ジョハル(Said Mohamed Djohar、1918年8月22日 - 2006年2月23日)は、コモロの政治家。1990年代初期にコモロの大統領を務めた。 ジョハルが最高裁判所長だった1989年、当時の大統領アーメド・アブダラがボブ・ディナール率いる傭兵に殺害され政府が崩壊すると、暫定政府の指導者となり、12月15日にはフランスや南アフリカ共和国の支援を受けて、ディナール一党を国外に退去させた。翌年の大統領選挙ではコモロ進歩連合を率いて出馬し、モハメド・タキを破って大統領に就任した。 大統領に就任したものの、ジョハルは議会を掌握することができず、小会派の離合集散が続き、政府は非常に不安定となった。1992年11月12日に議会選挙が行われたが、ジョハル派の選挙干渉が続き、各会派は選挙結果を認めなかった。1993年6月19日にはジョハルは議会を解散し、1993年12月の選挙でジョハル派の民主再生再結集は多数を獲得したものの、野党はこれを承認せず、政局は不安定なままであった。 1995年、この状況を見て取ったボブ・ディナールが三度コモロに来襲し、9月28日にはジョハルは捕らえられ、実権を奪われた。10月4日には、フランス軍によりクーデターは鎮圧されたものの、同月療養のためレユニオンに出かけた際に首相がジョハルを追放し、1996年1月までコモロに帰還することができなかった。民主選挙が布告されると、ジョハルはコモロへと戻ったものの、モハメド・タキに敗れ去った。2006年2月23日、ジョハルは首都モロニ郊外の自宅で87歳で死去した。.

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モハメド・タキ

モハメド・タキ・アブドゥルカリム(Mohamed Taki Abdoulkarim、1936年 - 1998年11月6日)は、コモロの政治家。1996年3月25日から死亡する1998年11月6日まで、コモロの大統領を務めた。 タキは1936年、グランドコモロ島のムベニで、スルターンの家系に生まれた。彼はマダガスカルで、その後フランスで教育を受け、公共事業の学位を取得した。グランドコモロ島に戻ると、サイード・モハメッド・シェイクの下でアンジュアン島の公共事業を行い、アーメド・アブダラと知己となった。1970年、サイード・イブラヒム・ベン・アリの政府で開発大臣となった後は閣僚を歴任し、1971年には教育大臣、1972年にはサイード・モハメッド・ジャファルのもとで地方開発大臣、1973年にはアーメド・アブダラのもとで都市計画大臣、1975年には内務大臣となった。 アリ・ソイリによるクーデターが起こると、タキはムベニに戻り、一市民として抵抗したが、1976年4月3日にソイリの暗殺を計画したとして逮捕された。傭兵ボブ・ディナールによるクーデターが起きると、彼は解放された。1978年から1984年まではアブダラ政権下で国会議長を務めたが、その後、アブダラと対立してフランスへと亡命した。 1990年にアブダラ政権が崩壊するとコモロに戻り、コモロ国民民主連合を結成して大統領選挙に出馬したが、コモロ進歩連合の党首モハメド・ジョハルに敗れた。ジョハル政権下で、タキは1992年1月7日に首相に就任したものの、同年7月15日に解任され、以後は野党として活動した。 1995年10月にジョハル政権が崩壊し、サイード・ケマルとともに3日間のみ大統領代行を務める。1996年に大統領選挙が行われると、タキは出馬して当選し、3月25日に大統領に就任した。 政権を握ったものの、タキにもコモロの宿痾である経済問題を解決することはできず、またグランドコモロ島と他の2島との格差を埋めることもできなかった。1997年に入ると、公務員給与の未払いから各地で暴動が起こり、8月にはコモロ政府の統治能力不足に見切りをつけたアンジュアン島とモヘリ島が相次いで独立を宣言するとともに、フランスに再植民地化を嘆願する状況となった。これに対し、タキは9月に鎮圧軍を差し向けたものの、退役軍人を主力とする両島軍に敗北し、事実上両島の支配権を失った。1997年9月9日にはタキは全閣僚を解任して暫定政府を樹立し、独裁化を進めた。その後も経済や独立問題が好転しないまま、タキは1998年11月6日に心臓発作で急死した。.

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モヘリ島

モヘリ島 (モヘリとう、Mohéli) 、別名ムワリ島 (Mwali) またはモヒーラ島 (Mohilla) はモザンビーク海峡にあるコモロ諸島の島の一つ。火山島。モヘリ島で一番高い山は標高790mのムツェ・ククレ山 (Koukoule) である。 この島はもともとアンジュアン島のヌズワニ・スルターン国に帰属していたが、1830年に分離してムワリ・スルターン国となり、1886年にフランスの保護国となった。1909年にフランスに併合され、スルターン制が廃止された。 1975年にグランドコモロ島(ンジャジジャ島)、アンジュアン島(ヌズワニ島)と共にコモロ(コモロ共和国)として独立。1997年にアンジュアン島と同様、コモロ・イスラム連邦共和国からの分離独立を宣言した。2002年にコモロ新憲法が採択され、コモロ連合への連邦再編と各島に独自の大統領と自治政府を設置するなどの自治権拡大が盛り込まれたため、コモロに留まることとなった。.

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アリ・ソイリ

アリ・ソイリ(1937年1月7日 - 1978年5月29日)は、コモロの政治家。社会主義者で、革命的な急進政策を実行したが、クーデターで殺害された。 ソイリはグランドコモロ島のジュワニで生まれ、農学を学んだ。 1970年にはサイード・イブラヒムの支持者としてコモロ人民民主連合を結成し、政界に進出した。この党は毛沢東主義の影響を受けていた。コモロ独立わずか1ヵ月後の1975年8月3日、ソイリは傭兵ボブ・ディナールを雇ってアーメド・アブダラ大統領を失脚させ、革命評議会を発足させてサイード・モハメッド・ジャファルを大統領の座に就けた。ジャファルの死後、1976年1月にソイリは革命評議会の議長の座に就いた。政権を取ると、ソイリは急進的な社会主義政策を推し進め、改革に乗り出した。1977年の選挙では、56.63%の支持を得て大統領の座に就いた。 ソイリは自給自足の経済と急進的な近代化を目指し、結婚式や葬式などの過度に豪華な儀礼の廃止を行い、また行政組織をスリム化して経費の節減を目指した。選挙権の獲得年齢は14歳にまで引き下げられた。 ソイリはまた、改革を徹底させるため、ティーンエージャーを中心にモアシーと呼ばれる政治警察を組織し、長老の支配する村落の旧習を改めさせようとした。これは、中華人民共和国の文化大革命時の紅衛兵をモデルとしていた。 これらの急進的な改革は旧宗主国フランスの反発を買い、援助が停止された。モアシーの専横は旧支配層だけでなく一般市民の間にも反発を生み、さらに行政機構のスリム化はただでさえ低い行政効率をさらに低下させた。民衆の不満は高まり、2年半の間に4回のクーデター未遂が起きた。 1978年5月13日、かつてソイリが雇ったボブ・ディナールが逆にパリに亡命していた前大統領アーメド・アブダラに雇われ、ソイリを襲った。ソイリはディナール一派によって殺害され、アブダラが復権し、急進的な改革はすべて旧来のものへと戻った。.

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アンジュアン島

アンジュアン島(Anjouan、別名ヌズワニ島・ンズワニ島-Nzwani、又はジョハンナ島-Johanna、)はモザンビーク海峡にあるコモロ諸島の島のひとつ。肥沃な土地を持つ火山島でンティグイ山(Ntingui、アンジュアン山とも言う)(1595m)が島で一番高い山である。 1975年にグランドコモロ島・モヘリ島と共にコモロ共和国(現在のコモロ連合)として独立した。 1997年にモヘリ島と共に独立を宣言し、以来、分離独立の動きがある。 高度な自治権を有しており、島議会、島の大統領職を有する。2007年、コモロ連合が島の大統領の任期が切れた際に島議会議長を島の大統領に指名したところ軍部(憲兵隊)が反発。コモロ連合関係者を島外追放して、独自の選挙を実施するなどコモロ連合と一線を画する行動を行った。2008年3月、コモロ連合は、アフリカ連合の支援による軍事作戦を展開。タンザニア軍、スーダン軍がアンジュアン島へ上陸、憲兵隊の武装解除を進め、同年3月25日までに島の全域を制圧した。.

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アーメド・アブダラ

アーメド・アブダラ・アブデルマン(أحمد عبد الله عبد الرحمن, Ahmed Abdallah Abderemane、, 1919年6月12日 - 1989年11月26日)は、コモロの初代及び第三代大統領。 アブダラはアンジュアン島に生まれ、1940年代に当時フランス領だったコモロの政府に勤めた。1961年、コモロ独立連合党を結成して、同年成立したコモロ自治政府の首班となった。1972年、選挙で勝利したアブダラはフランスと独立交渉を開始し、1975年7月6日、コモロは独立。アブダラは初代大統領に就任した。 しかし、独立以前からの各島対立がすぐに表面化、1975年8月3日、独立から一ヶ月もしないうちにアリ・ソイリによるクーデターが勃発、アブダラは出身地・アンジュアン島に逃れた。 ソイリは傭兵ボブ・ディナールを雇ってアブダラを襲い、軟禁したあとフランス大使としてパリに追放した。 しかし、クーデター政権が安定しないのを見て取ったアブダラは、ディナールと接近。1978年、逆にアブダラに雇われたディナールがソイリを襲って殺害。帰還したアブダラが再度大統領に就任した。 大統領再就任後は、1978年に新憲法を採択し「コモロ・イスラム連邦共和国」と国号を変更。 独裁色とともにイスラム色を強めていった。1982年、コモロ独立連合党を解散してコモロ進歩党を結成、唯一の合法政党とした。一方、経済に対しては無策であり、またクーデターに関与した傭兵たちに与えた利権が既得権益としてそのまま国にのしかかってきていた。これに対し国内の不満は高まり、1983年11月、1985年3月、1987年11月、三回のクーデターが計画された。これらはすべて失敗に終わったものの、国内の不満は高まる一方であった。傭兵たちは軍事及び経済の実権を握り、さらに多くのものを求めて、アブダラと深刻に対立した。 1989年11月26日、ボブ・ディナールの配下の大統領警護隊員によりクーデターが起こされ、アブダラは殺害された。 Category:コモロの大統領 Category:暗殺された政治家 Category:1919年生 Category:1989年没.

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アフメド・アブドラ・モハメド・サンビ

アフメド・アブドラ・モハメド・サンビ(Ahmed Abdallah Mohamed Sambi, 1958年6月5日 -)は、コモロの宗教家、政治家。2006年から2011年まで同国大統領を務めた。.

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アザリ・アスマニ

アザリ・アスマニ(Azali Assoumani, غزالي عثماني、1959年1月1日 - )は、コモロの政治家、軍人。大統領(3期)。アザリが姓。 グランドコモロ島の南西部で生まれる。1977年から1980年までモロッコの軍学校で学び、1981年コモロ軍に入隊。のちコモロ自衛軍司令官。1998年には大佐、参謀総長に就任。1999年4月のクーデターで政権掌握、5月に国家元首に就任。2002年1月に国家元首を辞任したが、新憲法下の4月に実施された大統領選で当選し、同年5月26日に正式に大統領に就任した。 ンズワニ島(旧アンジュアン)、ムワリ島(旧モヘリ)の独立運動に反対し、同運動指導の反政府勢力とは武力を背景にした和解で一応の問題解決にこぎつけ、国家崩壊の最悪の事態を免れた。しかしコモロ独立以来の「フランス領マヨット島の領有によるコモロ諸島統一」という悲願は果たせておらず、また世界最低レベルの生活水準、いまだにくすぶる島同士による対立が続く同国で、厳しい国家運営を強いられた。 アンジュアン島から選出される2006年5月14日の大統領選では、首相や連合議会副議長などを歴任したイブラヒム・ハリディを後継候補として支援したが、アーヤトッラーである無所属候補アフメド・アブドラ・モハメド・サンビが勝利した。同年5月26日をもってアザリの大統領としての任期は満了し、大統領職はアザリからサンビへと受け継がれた。2016年2月、グランドコモロ島から選出される大統領選に出馬し、グランドコモロ島の予備選では三位となったが、決選投票では首位に立ち当選した。同年5月26日より3期目の大統領職を務める。 Category:コモロの大統領 Category:クーデター政権指導者 Category:1959年生 Category:存命人物.

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イキリル・ドイニン

イキリル・ドイニン(コモロ語: Ikililou Dhoinine、1962年8月14日 - )は、コモロの政治家。2011年から2016年にかけて、モヘリ島の出身者では初めて大統領を務めた。.

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グランドコモロ島

グランドコモロ島(Grande Comore、Ngazidja)は、インド洋西部、モザンビーク海峡にあるコモロ諸島の島のひとつ。火山島。同じくコモロ諸島に属するアンジュアン島(ンズワニ島)、モヘリ島(ムワリ島)とともにコモロ連合を構成する。ンジャジジャ島(Njazidja)ともよばれるが、これは誤読が半ば定着したものである。 人口は2006年の推計で316,600人、面積は1,148kmとコモロ諸島で最も大きく、首府モロニはコモロの首都となるなど同国内で大きな権限を有してきた。しかしそれが他島の反発を呼び、現在では権限が縮小されている。 Category:コモロの島 Category:モザンビーク海峡 Category:インド洋の島 Category:インド洋の火山 Category:火山島.

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コモロ

モロ連合(コモロれんごう、Union des Comores)、通称コモロは、インド洋のコモロ諸島のグランドコモロ島(ンジャジジャ島)、アンジュアン島(ヌズワニ島)、モヘリ島(ムワリ島)で構成される国家。コモロ政府はフランス領マヨット島(マオレ島)の領有権も主張している。海を隔てて西にはモザンビークがあり、東南にはマダガスカルがある。首都であるモロニはグランドコモロ島(ンジャジジャ島)に位置している。 1975年7月6日、フランスから独立したものの頻繁にクーデターが発生し現在においても世界最貧国の1つであり、度重なる政治危機から経済発展が進んでいない。近海ではたびたびシーラカンスが捕獲される。.

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コモロの国章

モロの国章(コモロのこくしょう)には、中心に太陽と、4つの星が中に描かれた三日月が描かれている。その外側にはフランス語とアラビア語での国名が記されている。外縁部にはオリーブの葉が描かれ、国のスローガンである"Unité - Justice - Progrès"(フランス語で統一、正義、進歩)が記されている。 現在のコモロの公式国名は2001年よりコモロ連合(Union des Comores)だが、国章内の国名はコモロ・イスラム連邦共和国(République fédérale islamique des Comores)と書かれている。これは国章制定当時の古い国名だが、国名がコモロ連合に変更された後も国章が改められなかったことに起因する。 Seal of the Comoros (1975-1978).svg|1975から1978年までの国.

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元首

元首(げんしゅ)または国家元首(こっかげんしゅ、dux civitatis、chef d’État、head of state)とは、.

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2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。.

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5月26日

5月26日(ごがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から146日目(閏年では147日目)にあたり、年末まではあと219日ある。誕生花はワサビ。.

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