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ケルンテン公国

索引 ケルンテン公国

ルンテン公国 (Herzogtum Kärnten; Vojvodina Koroška ヴォイヴォディナ・コロシュカ)は、かつて南部オーストリアと北スロベニアにまたがって存在した公国。976年から1806年まで神聖ローマ帝国の構成国家であり、その後1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝直轄領であった。サン=ジェルマン条約によって公国の大半がオーストリアのケルンテン州となり、わずかな南東部分(現在のスロベニアのコロシュカ地方の半分と、イェゼルスコ市)は、新設されたユーゴスラビア王国に含まれた。一方で自治体タルフィスの含まれるカナルタール谷(de、イタリア語ではカナーレ谷)はイタリア王国へ割譲された。.

92 関係: 古ヴェルフ家大司教小協商住民投票マリア・テレジアマルガレーテ・フォン・ティロルマインハルト (ケルンテン公)マインハルト3世 (チロル伯)マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)チロルハプスブルク家ハプスブルク帝国ハインリヒ1世 (ドイツ王)ハインリヒ2世 (バイエルン公)ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ3世 (バイエルン公)ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ6世 (ケルンテン公)バイエルン大公ポンテッバユーゴスラビア王国ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルクヨーゼフ2世リンツリウドルフィング家ルートヴィヒ2世 (東フランク王)ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)ルドルフ2世 (ライン宮中伯)ルドルフ4世 (オーストリア公)ルイトポルト家レオポルト3世 (オーストリア公)ヴァーツラフ2世ヴィルヘルム (オーストリア公)トラボグラートプシェミスル朝ピエトロ2世 (シチリア王)ツィスライタニエンツェーリンゲン家フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)ドイツ語ベルトルト (バイエルン公)アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)アルブレヒト2世 (オーストリア公)アルブレヒト3世 (オーストリア公)アンナ・プシェミスロヴナ...イェゼルスコイタリア王国エリーザベト・フォン・ケルンテンエルンスト (オーストリア公)エッペンシュタイン家エッツォ家オーストリアオーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国オットー (オーストリア公)オットー1世 (ケルンテン公)オットー2世 (バイエルン公)オットー2世 (神聖ローマ皇帝)オタカル2世カール2世 (オーストリア大公)カール5世 (神聖ローマ皇帝)カール大帝クラーゲンフルトケルンテン州コロシュカ地方コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)ゴリツィアザルツブルクザーリアー朝シュポンハイム家シュヴァーベン大公シュタイアーマルク公国スラヴ人スロベニアスロベニア語タルヴィージオサン=ジェルマン条約公国公爵神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝第一次世界大戦東フランク王国1335年1919年976年978年 インデックスを展開 (42 もっと) »

古ヴェルフ家

古ヴェルフ家(Haus Alt Welf)は、9世紀から11世紀(1055年)までヨーロッパを支配した王家の一つ。古ヴェルフェン家(Haus Alt Welfen)とも呼ばれる。 この家系はネーデルラント南部のブルグント系とドイツ南部のシュヴァーベン系の2つの異流貴族から成っており、後世に別系統の系譜が接合されたといわれる。ブルグント系とシュヴァーベン系の2家は互いに抗争をしていたが、偶然にも同時期に同じ姓名を持った人物が並存していた。.

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大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。.

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小協商

小協商(しょうきょうしょう、英語:Little Entente)とは、第一次世界大戦後にチェコスロバキア、ユーゴスラビア王国、ルーマニア王国の間で成立した同盟関係(協商)。.

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住民投票

住民投票(じゅうみんとうひょう)とは、ある地域において、住民のうち一定の資格を持つ人の投票により、立法、公職の罷免等の意志決定を行う手法である。従って、住民投票は、選挙ではないため、混同しないよう注意する必要がある。.

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マリア・テレジア

マリア・テレジア (Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる(下記参照)。 オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。.

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マルガレーテ・フォン・ティロル

マルガレーテ・マウルタッシュ マルガレーテ・フォン・ティロル(Margarete von Tirol, 1318年 - 1369年10月3日)は、ゲルツ家最後のチロル女伯。ケルンテン公兼チロル伯ハインリヒ6世とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイトの一人娘。マウルタッシュ(Maultasch)の渾名を合わせてマルガレーテ・マウルタッシュ(Margarete Maultasch)とも呼ばれる。 1330年、ボヘミア王ヨハンの次男ヨハン・ハインリヒと結婚、1335年の父の死によりチロルを相続したが、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がチロル貴族を煽動、ボヘミア王ヨハンと戦争になりかけたが、1336年10月9日に和約が成立し、ルクセンブルク家はケルンテン公国の相続を放棄することと引き換えに、ヨハン・ハインリヒがチロルを相続することと決まった。しかしルートヴィヒは諦めず、マルガレーテとチロル貴族が結んで1341年、ヨハンは追放された。  次いでルートヴィヒ4世は長男のブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世(上バイエルン公ルートヴィヒ5世)とマルガレーテを再婚させた(1342年)。しかし、ルクセンブルク家派のローマ教皇クレメンス6世が介入し、ルートヴィヒ・マルガレーテ夫妻は破門され、ヨハン・ハインリヒの兄であるカール4世がルートヴィヒ4世の対立王となった。 1344年、ルートヴィヒ2世とマルガレーテの間にはマインハルトが生まれたが、ルートヴィヒ4世が1347年に死亡した後は従兄のオーストリア公アルブレヒト2世の働きかけで破門を解除され、マインハルトはアルブレヒト2世の娘マルガレーテと結婚した。 1361年、ルートヴィヒ5世の死後にマインハルト3世が上バイエルンとチロルを継いだが、1363年にマインハルト3世が夭折、チロルにオーストリア大公ルドルフ4世(アルブレヒト2世の子)が乗り込んで、マルガレーテを退位させてチロルを獲得した。上バイエルンはルートヴィヒ5世の弟・下バイエルン公シュテファン2世が相続した。 1369年にウィーンで死去した。ケルンテン=チロル系ゲルツ家は断絶した(ゲルツ伯を継承した同族はその後も健在である)。 Category:チロル伯 Category:イタリアの女性君主 Category:バイエルン公妃 Category:ブランデンブルク辺境伯妃 Category:カトリック教会に破門された人物 Category:ゲルツ家 Category:1318年生 Category:1369年没.

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マインハルト (ケルンテン公)

マインハルト(Meinhard, 1238年頃 - 1295年11月1日)は、チロル伯(マインハルト2世、在位:1258年 - 1295年)、ゲルツ伯(在位:1258年 - 1271年)、ケルンテン公(在位:1286年 - 1295年)。父はチロル=ゲルツ伯マインハルト1世、母はチロル伯アルブレヒト3世の娘アーデルハイト。ゲルツ伯アルブレヒト1世の兄。 1258年の父の死後、弟のアルブレヒトと共にチロルとゲルツを統治していたが、1271年に領土を分割、チロルを単独統治することになった。チロル伯はブリクセン司教とトリエント司教の臣下だったが、マインハルトは両者からイン川の領土をいくつか買収、グロシュ銀貨を発行して事実上の独立を果たした。神聖ローマ皇帝ルドルフ1世とボヘミア王オタカル2世との争いでは、ケルンテン公国を与えることを約束したルドルフ1世に味方し、1286年にケルンテン公国及びイストリア半島のカルニオラ公国を受け取った。この相続にさいして家系が断絶した場合は領土はハプスブルク家に帰属することを約束、後にチロル領有の口実となった。 1295年に死去、遺領は3人の息子が共同統治した。.

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マインハルト3世 (チロル伯)

マインハルト3世(Meinhard III,1344年2月9日 - 1363年1月13日)は、14世紀のチロル伯、上バイエルン公。上バイエルン公ルートヴィヒ5世とチロル女伯マルガレーテの次男。 1359年にオーストリア公アルブレヒト2世の娘マルガレーテと結婚。1361年に父が没し、上バイエルンとチロルを相続した。しかし、病弱でありその領土を巡って義兄のルドルフ4世と叔父のシュテファン2世が対立しており、マインハルト3世は初め叔父に引き取られてミュンヘンに連れて行かれるが、後にルドルフ4世によってチロルに戻された。 1363年、子が無いまま死去。直後にルドルフ4世がチロルに急行、チロル女伯マルガレーテからチロルを譲渡させたが、シュテファン2世が異議を唱え、戦争を起こした。最終的に1369年に和睦が成立、シュテファン2世が上バイエルンを取得、ハプスブルク家がチロルを領有した。 Category:上バイエルン公 Category:チロル伯 Category:ヴィッテルスバッハ家バイエルン系 Category:ドイツの幼君 Category:イタリアの幼君 Category:1344年生 Category:1363年没.

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マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)

マクシミリアン1世(Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1508年 - 1519年)、ローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)、オーストリア大公。 自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝(Maximilian der Große)と称される。また武勇に秀でな体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。.

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チロル

チロル、ティロール(Tirol、Tyrol)は、ヨーロッパ中部にある、オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域である。大部分の住民はドイツ系(バイエルン人・アレマン人の一部)で、イタリア側においても初等教育よりドイツ語が使用されている。 中世以来ハプスブルク家の所領であった「チロル伯領」にあたる地域で、第一次世界大戦後にオーストリアとイタリアに分割され、今日に至る。オーストリア側の北チロル (Nordtirol) と東チロル (Osttirol) はチロル州に属している。イタリア側の地域のうち、南チロル (Südtirol) はボルツァーノ自治県として、また「ヴェルシュチロル」(Welschtirol) とも呼ばれたトレンティーノはトレント自治県として、それぞれ独立の県となっている。この2県を合わせてトレンティーノ=アルト・アディジェ特別自治州を構成する。 チロル州とボルツァーノ自治県・トレント自治県はユーロリージョン「チロル=南チロル=トレンティーノ」を構成しており、これがかつての「チロル伯領」とほぼ一致する。.

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ハプスブルク家

ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.

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ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。 ハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗.

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ハインリヒ1世 (ドイツ王)

ハインリヒ1世(Heinrich I., 876年 - 936年7月2日)は、ザクセン公(在位:912年 - 936年)および東フランク王(ドイツ王、在位:919年 - 936年)。ザクセン朝の初代国王。それまでのフランク王国において行われてきた分割相続の慣例を廃し、世代を越えた永続的な国家領域を形成する基礎を築いた。また、マジャル人に対する防衛戦に成功し、北方のデーン人、東方の西スラヴ人と戦い、王国領土を拡張させた。.

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ハインリヒ2世 (バイエルン公)

ハインリヒ2世(Heinrich II., 951年 - 995年8月28日)は、バイエルン大公(在位:955年 - 976年および985年 - 995年)、ケルンテン大公(在位:989年 - 995年)。リウドルフィング家のバイエルン大公ハインリヒ1世とバイエルン公アルヌルフの娘ユーディトの間の息子で、神聖ローマ皇帝オットー2世の従兄にあたる。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の父。喧嘩公(der Zänker)とよばれる。.

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ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ2世(Heinrich II., 973年5月6日 - 1024年7月13日)は中世ドイツの王(在位:1002年 - 1024年)及びイタリア王(在位:1004年 - 1024年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1014年 - 1024年)。ザクセン朝第5代の王、第4代の皇帝。皇帝としてはハインリヒ「1世」だが曾祖父であるザクセン朝の初代国王ハインリヒ1世捕鳥王から数えて「2世」とするのが一般的である。父は初代皇帝オットー1世大帝の甥であるバイエルン公ハインリヒ2世、母はブルグント王コンラートの娘ギーゼラ成瀬、p.

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ハインリヒ3世 (バイエルン公)

ハインリヒ3世(Heinrich III., 940年 - 989年10月5日)は、ケルンテン大公(1世)(在位:976年 - 978年)、バイエルン大公(3世)(在位:983年 - 985年)、ケルンテン大公(再位)(在位:985年 - 989年)。ルイトポルト家のバイエルン大公ベルトルトの子。若公、若年公といわれる。 父バイエルン公ベルトルトが947年に死去した際、バイエルン公位は、父の兄アルヌルフ悪公の女婿で東フランク王ハインリヒ1世の次男ハインリヒ1世に与えられた。しかし、ハインリヒ1世の子でバイエルン公位を継承したハインリヒ2世が976年に神聖ローマ皇帝オットー2世に対し反乱を起こした際に、バイエルンはハインリヒ2世より取り上げられて分割され、そのうちのケルンテン(およびヴェローナとアクイレイア)は大公領として独立させハインリヒ3世に与えられた。しかし、同年、ハインリヒ3世は前バイエルン公ハインリヒ2世の反乱に与し(「三ハインリヒの反乱」)、978年に裁判にかけられ、ケルンテン大公位を剥奪された。 982年にハインリヒ2世のあとにバイエルン大公となっていたシュヴァーベン大公オットー1世が後継者なく死去し、皇帝オットー2世はバイエルン公位をハインリヒ3世に与え、947年の父ベルトルトの死から36年ぶりにバイエルン大公位がルイトポルト家に戻った。 しかし、983年のオットー2世の死後、ハインリヒ2世が新皇帝オットー3世の後見候補として名乗りをあげる中で諸侯と対立し、結果として母后テオファヌの摂政位就任を認めることとなり、その見返りとして985年、ハインリヒ2世に再びバイエルン大公位が与えられることになった。それに伴い、それまでバイエルン大公位にあったハインリヒ3世は、代わりに再びケルンテン大公位を与えられた。 989年、ハインリヒ3世は後継者なく死去し、ケルンテン大公位はバイエルン大公ハインリヒ2世に与えられた。.

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ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ3世(Heinrich III., 1017年10月28日 - 1056年10月5日)は中世ドイツの王(在位:1028年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1039年 - 1106年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1046年 - 1056年)。ザーリアー朝第2代のローマ皇帝で初代コンラート2世の子。西ヨーロッパのローマ皇帝としては最盛期を現出した。統治は父帝が死去した1039年からで、皇帝戴冠までの7年間は「ローマ王」を名乗った。以後、皇帝戴冠前のドイツ君主の称号として「ローマ王」が定着する。黒王とも呼ばれる。皇帝としてはハインリヒ「2世」であるが、皇帝でなかった東フランク王ハインリヒ1世から数えて「3世」とするのが一般的である。.

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ハインリヒ6世 (ケルンテン公)

ハインリヒ6世(Heinrich VI.

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バイエルン大公

バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.

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ポンテッバ

ポンテッバ(Pontebba)は、人口1,666人のイタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県のコムーネの一つである。 んてつは Category:ウーディネ県のコムーネ.

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ユーゴスラビア王国

ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija / Краљевина Југославија)は、バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年までの期間に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。.

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ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク

ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク(Johann Heinrich von Luxemburg, 1322年2月12日 - 1375年11月12日)は、ルクセンブルク家のボヘミア王ヨハンと最初の妃エリシュカの次男。神聖ローマ皇帝カール4世の弟、ルクセンブルク公兼ブラバント公ヴェンツェル1世の兄。チロル伯(在位:1335年 - 1341年)、モラヴィア辺境伯(1349年 - 1375年)。チェコ語名はヤン・インジフ(Jan Jindřich).

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ヨーゼフ2世

ヨーゼフ2世(Joseph II., 1741年3月13日 - 1790年2月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。 ハプスブルク家の男系は母マリア・テレジアまでであり、ヨーゼフ2世らの代からハプスブルク=ロートリンゲン家となる。全名はヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)。 父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行う。啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物であった。その急進的改革ゆえ「民衆王」「皇帝革命家」「人民皇帝」などのあだ名がある。.

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リンツ

リンツ(Linz、Linz an der Donau)は、オーストリアの都市。オーバーエスターライヒ州の州都。人口は約20万人。ウィーン、グラーツに続くオーストリア第3の都市である。また、ナチスのアドルフ・ヒトラーの故郷はその近郊のブラウナウ・アム・インである。2009年の欧州文化首都に選ばれている。世界で最も古いケーキとも言われるリンツァートルテ発祥の地としても有名である。.

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リウドルフィング家

リウドルフィング家(Liudolfinger, Liudolfings)は、中世ドイツにおいて国王および皇帝を務めたザクセン出身の諸侯の家系である。「オットー家」(Ottonen)、あるいは国王を世襲した家系としてザクセン朝と呼ばれる(同じザクセン朝と呼ばれたズップリンブルク家とは直接関係はない)。.

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ルートヴィヒ2世 (東フランク王)

ルートヴィヒ2世(Ludwig II.、804年 - 876年8月28日)は、東フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:843年 - 876年)。ルートヴィヒ1世(敬虔王)の子。母はその最初の妃エルマンガルド・ド・エスベイ。ドイツ人王(der Deutsche)と称されている。.

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ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)

ルートヴィヒ4世(Ludwig IV.

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ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)

ルートヴィヒ5世(Ludwig V., 1315年 - 1361年9月18日)は、14世紀の上バイエルン公。ブランデンブルク辺境伯、チロル伯も兼ねた。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世とヤヴォル公ボルコ1世の娘ベアトリチェの長男。シュテファン2世は同母弟、ルートヴィヒ6世、ヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世、オットー5世は異母弟である。 1323年、8歳で父からブランデンブルク辺境伯領を譲られ、1342年にはケルンテン公ハインリヒ6世の一人娘でヨハン・ハインリヒと離婚したマルガレーテと結婚した。この領土拡大政策は諸侯の反発を招き、マルガレーテとルートヴィヒ夫妻は破門、1346年にカール4世が対立王に擁立される原因になった。 翌1347年に父が没した時、義兄のマイセン辺境伯フリードリヒ2世をローマ王に推戴しようとしたが、拒否された。1349年にはギュンター・フォン・シュヴァルツブルクを対立王に擁立したが、ギュンターはすぐに退位した。同年、5人の弟と父の遺領を分割、ルートヴィヒ5世は上バイエルンを異母弟のルートヴィヒ6世、オットー5世と共同統治することになった(下バイエルンは同母弟のシュテファン2世、異母弟のヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世が治めた)。 1351年、ブランデンブルク辺境伯領をルートヴィヒ6世に譲渡、引き換えに上バイエルンはルートヴィヒ5世の単独統治となった(オットー5世も所領を譲った)。オーストリア公アルブレヒト2世の尽力で1359年に破門を解除されるが、1361年に46歳で死去した。 マルガレーテとの間の子マインハルトに遺領が相続されたが、マインハルトも1363年に夭折すると、ルドルフ4世とシュテファン2世が領土を巡って争うことになる。.

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ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)

ルドルフ1世(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、1218年5月1日 - 1291年7月15日)は、ハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主(ローマ王、在位:1273年 - 1291年)。ハプスブルク伯としては、ルドルフ4世。日本語ではルードルフとも表記される。ルドルフ1世のローマ王(ドイツ王)選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ、彼の時代にハプスブルク家はヨーロッパ有数の家門に発展する。 神聖ローマ帝国の大空位時代の中で、1273年の国王選挙において選帝侯たちはルドルフを御し易い人物と考えてローマ王に選出し、大空位時代は終結するピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻、214-215頁山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、72頁。ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらした。そしてルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やしていき、神聖ローマ帝国に地盤を作り上げた。ボヘミア王オタカル2世に勝利した後、ルドルフはウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地とされる。.

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ルドルフ2世 (ライン宮中伯)

ルドルフ2世(Rudoif II., 1306年8月8日 - 1353年10月4日)は、ライン宮中伯(在位:1329年 - 1353年)。上バイエルン公兼ライン宮中伯ルドルフ1世とドイツ王アドルフの娘メヒティルドの3男。アドルフの弟、ループレヒト1世の兄。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の甥。 父が叔父ルートヴィヒ4世との争いに敗れて追放、兄も名目上の君主のまま急死、甥のループレヒトは幼い為、後を継いだ。1329年にパヴィアで和睦が成立、ルドルフ2世を含むルドルフ1世の子孫のライン宮中伯継承を認められた。しかし、1353年に失明してしまい、間もなく死去した。弟のループレヒト1世が後を継いだ。.

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ルドルフ4世 (オーストリア公)

ルドルフ4世(Rudolf IV., 1339年11月1日 - 1365年7月27日)は、14世紀のハプスブルク家の当主、オーストリア公(在位:1358年 - 1365年)。オーストリア公アルブレヒト2世(賢公)とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトの間の長男。偽造文書の駆使や型破りな行動で知られ、「大公」(Erzherzog)の称号もルドルフ4世の詐称に始まった。「建設公」(der Stifter)と呼ばれる。.

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ルイトポルト家

ルイトポルト家(Luitpoldinger, Luitpoldings)は、中世ドイツにおいてバイエルン大公を輩出した諸侯の家系である。ルイトポルディング家、アルヌルフィング家ともいわれる。.

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レオポルト3世 (オーストリア公)

レオポルト3世(Leopold III., 1351年11月1日 - 1386年7月9日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア公(シュタイアーマルク公、ケルンテン公、内オーストリア公、在位:1365年 - 1379年)。神聖ローマ皇帝(ドイツ王)アルブレヒト1世の孫で、オーストリア公アルブレヒト2世とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトとの間の末息子。兄にルドルフ4世、フリードリヒ3世、アルブレヒト3世がいる。のちに神聖ローマ皇帝位の世襲化を果たすレオポルト系ハプスブルク家の祖。.

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ヴァーツラフ2世

ヴァーツラフ2世(Václav II, 1271年9月17日 - 1305年6月21日)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1278年 - 1305年)及びポーランド王(ヴァツワフ2世 Wacław II, 在位:1300年 - 1305年)。父はボヘミア王とオーストリア公を兼ねたオタカル2世(大王)、母はその2番目の妃であったスラヴォニア公ロスティスラフの娘でハンガリー王ベーラ4世の孫娘クンフタ。.

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ヴィルヘルム (オーストリア公)

ヴィルヘルム(Wilhelm, 1370年頃 - 1406年7月15日)は、ハプスブルク家の内オーストリア公(在位:1386年 - 1406年)。シュタイアーマルク、ケルンテン、クラインを治めた。レオポルト3世と妻ヴェルデ・ヴィスコンティの間の長男。.

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トラボグラート

トラボグラート(Dravograd,ドイツ語:Unterdrauburg ウンタードラウブルク)はスロベニアの市。ドラバ川により隔てられたオーストリア国境にある。.

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プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。.

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ピエトロ2世 (シチリア王)

ピエトロ2世(Pietro II di Sicilia, 1305年7月 - 1342年8月15日)は、トリナクリア王(在位:1321年 - )、シチリア王(在位:1337年 - 1342年)。アラゴン家(バルセロナ家)に属するため、スペイン風にペドロ2世(Pedro II)と呼ばれることもある。フェデリーコ2世とナポリ王カルロ2世の娘エレオノーラの息子。 1321年に、父からトリナクリアの王位を委ねられた。実際にピエトロがシチリアを完全に統治下においたのは、父が死んだ1337年以後のことであった。 ヴェンティミリア家、パリッツィ家、キアラモンティ家、アンティオキア家などの勢力が知られている貴族と王家との強い対立は、ピエトロ2世の王国の特徴だった。いくつかの状況において、ピエトロ2世はこれらの家に立ち向かうことができず、大きな権力や国有地を彼等に譲ることを余儀なくされた。 ピエトロ2世は1342年8月15日に王国を長男のルドヴィーコに遺し、カラシベッタにて急死した。在位はわずか5年であった。そしてパレルモの大聖堂にある先祖フェデリーコ1世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)の棺に埋葬された。.

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ツィスライタニエン

1915年に制定されたツィスライタニエンの共通国章。胸部にニーダーエスターライヒの赤・白・赤の盾章を掲げたオーストリアの双頭の鷲が、頭上にルドルフ2世の帝冠を浮かばせ、爪には刀剣や宝珠といったレガリアを握っている。 ツィスライタニエン(Cisleithanien)は、1867年以後のオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)において、オーストリア帝冠領(すなわち、ハンガリー王冠領以外の部分。二重帝国の北部および西部地域)を指すときに、政治家や官僚により非公式に使われていた呼称。直訳すると「ライタ川よりこちら側の地域」となる。「オーストリア帝国」との呼称は、アウスグライヒ以前の(ハンガリーを含む)帝国と紛らわしいため、ほとんど用いられなかった。ツィスライタニエンの公式名称は、「帝国議会において代表される諸王国及び諸邦(Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder)」であったが、1915年に「オーストリア諸邦(österreichische Länder)」に変更された。.

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ツェーリンゲン家

ツェーリンゲン家(Zähringer)は、ドイツの貴族の家系の1つ。現在のシュヴァーベン地方、バーデン=ヴュルテンベルク州とスイスを治めていた。11世紀にシュヴァーベン系とバーデン系に分かれ、シュヴァーベン系は中世に断絶し、バーデン系が引き継いだ。家名はフライブルク・イム・ブライスガウのツェーリンゲン城にちなんで名付けられた。.

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フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)

フリードリヒ3世(Friedrich III., 1415年9月21日 - 1493年8月19日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1452年 - 1493年)、ローマ王(在位:1440年 - 1493年)、オーストリア公、のちオーストリア大公。ローマ王としてはフリードリヒ4世、オーストリア公および大公としてはフリードリヒ5世。ハプスブルク家では神聖ローマ帝国の君主位についた5人目の人物で、皇帝戴冠を遂げた最初の人物である。 オーストリア公エルンスト(鉄公)とツィンバルカ・マゾヴィエツカの間に、インスブルックで生まれた。又従兄のローマ王アルブレヒト2世の急死後に王位につき、フリードリヒ3世以降はハプスブルク家が皇帝位を世襲していくことになる。.

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フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州(Friuli-Venezia Giulia)は、イタリア共和国の北東部に位置する州。イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はトリエステ。.

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フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)

フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I., 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)、オーストリア大公(在位:1521年 - 1564年)、ボヘミア王(在位:1526年 - 1564年)、ハンガリー王(在位:同)。 オーストリア系ハプスブルク家の祖であり、オーストリア、ドイツ、ボヘミア、ハンガリーを統治した。ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公とカスティーリャ女王フアナの間の次男で、皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の弟。スペインで生まれ、スペインで育ったグレーシング、p.

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フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)

フェルディナント2世(Ferdinand II., 1578年7月9日 - 1637年2月15日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1619年 - 1637年)、オーストリア大公(在位:1619年 - 1637年)、ボヘミア王(在位:1617年 - 1619年、1620年 - 1637年)、ハンガリー王(在位:1619年 - 1625年)。ハプスブルク家傍系の内オーストリア大公家の出身。三十年戦争を引き起こした皇帝として知られる。.

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ドイツ語

ドイツ語(ドイツご、独:Deutsch、deutsche Sprache)は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。 話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。 現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大(ヨーロッパ全土ではロシア語に次いで多い)であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。 しかし、歴史的にドイツ、オーストリアの拡張政策が主に欧州本土内で行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。上記の事情と、両国の大幅な領土縮小も影響して、欧州では非常に多くの国で母語使用されているのも特徴である。.

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ベルトルト (バイエルン公)

バイエルン公ベルトルト(Berthold von Bayern, 900年頃 - 947年11月23日)は、ルイトポルト家出身のバイエルン大公(在位:938年 - 947年)。 ベルトルトはバイエルン辺境伯ルイトポルトの息子で、バイエルン公アルヌルフの弟にあたる。926年にはケルンテンの伯として記録されている。938年に甥エーバーハルトが皇帝オットー1世によりバイエルン公位を剥奪された後、ベルトルトはバイエルン公位を与えられたが、その際に聖職叙任権などの権利を放棄することとなった。ベルトルトは、オットー1世の妹ゲルベルガかヘートヴィヒとの結婚が計画されていたものの叶わず、バイエルン貴族の娘ビルトルートと結婚した。ビルトルートはのちにノイブルク・アン・デア・ドナウのベルゲン修道院を創設した。943年、ベルトルトはヴェルスでハンガリー軍を破りハンガリーの侵略を防いだ。カランタニア(現シュタイアーマルク州)のキリスト教化はベルトルトによるところが大きい。 ベルトルトはオットー1世の治世を支えたものの、947年のベルトルトの死後、息子のハインリヒはバイエルン公位を継承することができず、兄アルヌルフの娘ユーディトと結婚していたオットー1世の弟ハインリヒ1世がバイエルン公となった。息子ハインリヒは皇帝オットー2世の治世下でケルンテン公(ハインリヒ1世)およびバイエルン公(ハインリヒ3世)となった。.

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アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)

アルブレヒト1世(Albrecht I、1255年7月 - 1308年5月1日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国の君主(ローマ王在位:1298年 - 1308年)。ルドルフ1世とゲルトルートの長子。.

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アルブレヒト2世 (オーストリア公)

アルブレヒト2世(Albrecht II., 1298年12月12日 - 1358年8月16日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア公(在位:1326年 - 1358年)。父はドイツ王アルブレヒト1世、母はケルンテン公マインハルトの娘エリーザベトで、兄にルドルフ3世(ボヘミア王ルドルフ1世)、ドイツ王フリードリヒ3世(美王)、オーストリア公レオポルト1世が、弟にオットー(陽気公)がいる。「賢公」(der Weise または der Lahme)と生前から渾名された名君で、領民から慕われた。政策としては、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、そしてハプスブルク家の三つ巴の時機にあって、平和路線に沿った外交を行った。在位中に戦争は1回しか行わず、その1回の敗北でスイスが事実上の独立を果たすが、こだわらず内政に没頭し、ハプスブルク家が「オーストリア家」として基盤を固めるべく奔走した。.

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アルブレヒト3世 (オーストリア公)

アルブレヒト3世(Albrecht III., 1349年9月9日 - 1395年8月29日)は、ハプスブルク家のオーストリア公(在位:1365年 - 1395年)。アルブレヒト2世とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトの間の三男で、長兄ルドルフ4世と次兄フリードリヒ3世の死後に、弟レオポルト3世と共に所領を相続した。 1366年に神聖ローマ皇帝カール4世の娘でルドルフ4世の妻カタリーナの異母妹に当たるエリーザベト(1358年 - 1373年)と結婚したが、子を生さないままエリーザベトは早世した。次いでニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の娘ベアトリクス(1355年 - 1414年)と結婚し、1男アルブレヒト4世をもうけた。 Category:オーストリア公 Category:ケルンテン公 Category:シュタイアーマルク公 Category:チロル伯 Category:ハプスブルク家 Category:1349年生 Category:1395年没.

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アンナ・プシェミスロヴナ

アンナ・プシェミスロヴナ(Anna Přemyslovna, 1290年10月15日 - 1313年9月3日)は、ボヘミア王ハインリヒ・フォン・ケルンテン(ケルンテン公ハインリヒ6世)の妃。ボヘミア王兼ポーランド王ヴァーツラフ2世の次女で、母はドイツ王ルドルフ1世の娘グタ(ユッタ)。.

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イェゼルスコ

イェゼルスコ(Jezersko, ドイツ語:Ober-Seeland)は、スロベニアの市。.

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イタリア王国

イタリア王国(イタリアおうこく、伊:)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。.

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エリーザベト・フォン・ケルンテン

Hofkirche) に置かれたエリーザベトのブロンズ像 エリーザベト・フォン・ケルンテン・ゲルツ・ウント・ティロル(Elisabeth von Kärnten, Görz und Tirol, 1262年頃 - 1313年10月28日)は、オーストリア公およびシュタイアーマルク公アルブレヒト1世の妻。夫が1298年にローマ王に選出されると、ローマ王妃となった。.

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エルンスト (オーストリア公)

ルンスト(Ernst, 1377年 - 1424年6月10日)は、ハプスブルク家の内オーストリア公(在位:1406年 - 1424年)。シュタイアーマルク、ケルンテン、クラインを治めた。エルンスト鉄公(Ernst der Eiserne)と呼ばれる。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の父。 内オーストリア公レオポルト3世と妻ヴェルデ・ヴィスコンティの間の三男で、長兄ヴィルヘルムの死後に所領を相続した。1392年にポメラニア公ボグスワフ5世の娘マルガレーテと結婚したが、子をもうけずに死別した。1412年にマゾフシェ公シェモヴィト4世の娘ツィンバルカと結婚し、フリードリヒ3世(オーストリア大公としては5世)、アルブレヒト6世ら9子をもうけた。ちなみにシェモヴィト4世は、エルンストの兄ヴィルヘルムとの婚約を破棄されたポーランド女王ヤドヴィガがその後結婚相手の候補とした人物であった。.

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エッペンシュタイン家

ッペンシュタイン家の旗 エッペンシュタイン家(ドイツ語:Eppensteiner)は、中世ドイツにおいてケルンテン公を世襲した貴族の家系。オーストリア国旗として知られる赤・白・赤の旗はもともとエッペンシュタイン家が用いたものであり、1122年に同家が断絶した後、シュタイアーマルクのオタカール家が領土とともに旗も継承し、オタカール家が1192年に断絶した後は、オーストリア公のバーベンベルク家がさらに継承した。.

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エッツォ家

ッツォ家またはエッツォーネン家(Ezzonen)は、10世紀から11世紀にかけて主にロレーヌ地方を領したドイツの貴族の家系。ロートリンゲン宮中伯(ロタリンギア宮中伯)位を世襲したが、公位は世襲のものでなく王が任命するものであるとするザーリアー朝ドイツ王の政策により、一族の中からシュヴァーベン公、ケルンテン公およびバイエルン公が1名ずつ任命されている。.

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オーストリア

ーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、、バイエルン語: )、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都は音楽の都といわれたウィーン。 ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。.

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オーストリア帝国

ーストリア帝国(オーストリアていこく、Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。 前身の、オーストリア大公国やボヘミア王国・ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。 厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。.

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オーストリア=ハンガリー帝国

ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.

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オットー (オーストリア公)

ットー(Otto, 1301年6月23日 - 1339年2月17日)は、ローマ王アルブレヒト1世と王妃エリーザベト・フォン・ケルンテンの末息子。兄アルブレヒト2世の共同統治者としてオーストリア公(1330年 - 1339年)、ケルンテン公(1335年 - 1339年)であった。オットー陽気公(Otto der Fröhliche)と呼ばれる。兄には他にボヘミア王ルドルフ1世、ローマ王フリードリヒ3世(美王)、オーストリア公レオポルト1世がいる。.

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オットー1世 (ケルンテン公)

ットー1世(Otto I., Herzog von Kärnten, 948年頃 - 1004年11月4日)は、ケルンテン大公(在位:978年 - 985年、995年 - 1004年)、ヴォルムスガウ伯(在位:955年 - 1004年)。ザーリアー家のロートリンゲン大公コンラート(赤毛公)と神聖ローマ皇帝オットー1世の娘リウトガルトの子。老公といわれる。.

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オットー2世 (バイエルン公)

ットー2世と妻アグネス オットー2世(Otto II, 1206年4月7日 - 1253年11月29日)は、バイエルン公兼ライン宮中伯。ルートヴィヒ1世とボヘミア公ベドジフの娘ルドミラの子。 1222年にライン宮中伯ハインリヒ6世(ハインリヒ獅子公の孫)の妹アグネスとヴォルムスで結婚。この縁が元でライン宮中伯とバイエルン公はオットー2世の子孫に代々受け継がれていく事になる。ホーエンシュタウフェン朝に忠実であり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の次男コンラート4世に娘のエリーザベトを娶わせている。 1253年、ランツフートで死去。遺領は長男のルートヴィヒ2世と次男のハインリヒ13世が共同統治する事になったが、1255年に分割、ルートヴィヒ2世はライン宮中伯と上バイエルン公となり、ハインリヒ13世は下バイエルン公として相続した。.

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オットー2世 (神聖ローマ皇帝)

ットー2世(Otto II., 955年 - 983年12月7日)は中世ドイツの王(在位:961年 - 983年)及びイタリア王(在位:980年 - 983年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:967年 - 983年)。ザクセン朝第3代の王で第2代の皇帝。初代皇帝オットー1世大帝とその2番目の妻ブルグントのアーデルハイトの息子。実質的に君主となったのは父帝が死去した973年からである。それまでは父帝の後継者としての共立王、共同皇帝であった。偉大なる父の偉業を受け継いで、その版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが、帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。.

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オタカル2世

タカル2世(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日ツェルナー『オーストリア史』、153頁)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)、オーストリア公(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世とドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。大空位時代にドイツ王に選ばれたカスティーリャ王アルフォンソ10世は母方の従弟に当たる。ドイツ語名Ottokar、ハンガリー語名Ottokárから、オットカール2世とも呼ばれる。 オーストリアを統治するバーベンベルク家の断絶後、オタカルは彼らの統治下にあったオーストリア、シュタイアーマルクを獲得する。東方においてはドイツ騎士団の征服事業を支援し、東プロイセンに勢力を拡大した。1273年に神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家のルドルフ1世と対立し、1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に敗れ、落命した。 オタカルはオーストリアの重要な支配者の一人として挙げられるが、彼の死後に書かれた年代記には偉大さとともに傲慢な人格も記される。それらの年代記は、19世紀の劇作家フランツ・グリルパルツァーのオタカル像にも影響を与えたツェルナー『オーストリア史』、154頁。.

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カール2世 (オーストリア大公)

ール2世(Karl II., 1540年6月3日 - 1590年7月10日)は、オーストリア大公(内オーストリア大公)。ハプスブルク家領のうちシュタイアーマルク、ケルンテン、クラインを治めた。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世と皇后アンナの三男。.

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カール5世 (神聖ローマ皇帝)

ール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。.

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カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

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クラーゲンフルト

ラーゲンフルト(独: Klagenfurt)は、オーストリアの都市。 ケルンテン州の州都。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、クラーゲンフルト=ラント郡の郡庁が置かれている。 2007年7月3日から公式名をクラーゲンフルト・アム・ヴェルターゼー(Klagenfurt am Wörthersee)へと変更した。またスロベニア語ではCelovecと呼ばれる。.

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ケルンテン州

ルンテン州(Kärnten)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はクラーゲンフルト・アム・ヴェルターゼー。.

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コロシュカ地方

'''3'''がコロシュカ地方(黄色) コロシュカ地方(スロベニア語:Koroška)は、スロベニアの伝統的な地方。行政単位としての意味は持たない。 この地方の主な都市はトラボグラート、スロヴェニ・グラデツ、ラヴネ・ナ・コロシュケム、チュルナ・ナ・コロシュケム、メージツァ、プレヴァリェ、ミスリニャ、ムタそしてラドリェ・オブ・ドラヴィである。 この地方は、隣接するオーストリアのケルンテン州と区別するために、スロベニア・カリンティア(英語:Slovene Carinthia)とも呼ばれる。.

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コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)

ンラート4世(Konrad IV., 1228年4月25日 - 1254年5月21日)はローマ王(在位:1237年 - 1254年)、エルサレム王(在位:1228年 - 1254年)及びシチリア王(在位:1250年 - 1254年)。ホーエンシュタウフェン朝第7代にして最後のローマ王。イタリア名はコッラード(Corrado)。父はシチリア王とローマ皇帝を兼ねたフリードリヒ2世、母はエルサレム女王イザベル2世(ヨランダ)。異母兄に先代ローマ王ハインリヒ(7世)、異母弟にサルデーニャ王エンツォとアンティオキア公フリードリヒ3世とマンフレーディがいる。シチリア王コッラディーノ(コンラーディン)の父。.

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ゴリツィア

リツィア(Gorizia)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万5000人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都である。 スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア側のノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。.

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ザルツブルク

ルツブルク(Salzburg)は、オーストリア中北部の都市で、同名のザルツブルク州の州都である。ドイツ語で特に区別して表記する場合、ザルツブルク市はStadt Salzburg、州はLand Salzburgとする。 郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、ザルツブルク=ウムゲーブング郡 の郡庁が置かれている。 旧市街と歴史的建造物は、1996年ユネスコ世界遺産に「ザルツブルク市街の歴史地区」として登録された。.

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ザーリアー朝

ーリアー朝(Salier、Salian dynasty)は、中世ドイツにおいてローマ王およびローマ皇帝を世襲したフランケン出身の貴族の家系である。「ザリエル朝」および「フランケン朝」(同じフランケン朝のコンラディン家とは直接は関係ない)ともいわれる。「ザーリアー」の名はフランク族の部族サリー族から来ていると考えられている瀬原、p.142-143。.

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シュポンハイム家

ュポンハイム家およびシュポンハイム伯領の紋章 シュポンハイム=クロイツナハおよび前方シュポンハイム伯領の紋章 シュポンハイム家またはシュパンハイム家は、ラインフランク族(リプアリ族、en)出身の貴族の家系である。その名は現在のバート・クロイツナハ郡にあるシュポンハイム城(en)に由来する。.

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シュヴァーベン大公

ュヴァーベン大公( -たいこう)は、神聖ローマ帝国の部族大公。ドイツ南西部からスイスにかけてのシュヴァーベン公国を支配した。領域についてはシュヴァーベンを参照。.

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シュタイアーマルク公国

ュタイアーマルク公国 () は、現在のオーストリア南部に存在した公国。1806年まで神聖ローマ帝国の領邦であり、その後も1918年までオーストリア=ハンガリー帝国のツィスライタニエンを構成していた。.

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スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

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スロベニア

ベニア共和国(スロベニアきょうわこく、Slovenija: )、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で 、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。.

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スロベニア語

ベニア語(スロベニア語: slovenski jezik, slovenščina)は、インド・ヨーロッパ語族に属するスラヴ語派のうち南スラヴ語群に属する西南スラヴ語の一言語。.

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タルヴィージオ

タルヴィージオ(Tarvisio)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約4500人の基礎自治体(コムーネ)。タルビジオなどとも表記される。.

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サン=ジェルマン条約

ン=ジェルマン条約またはサン=ジェルマン=アン=レー条約(サン=ジェルマンじょうやく、サン=ジェルマン=アン=レーじょうやくTraité deSaint-Germain-en-Laye、Traité de Saint-Germain、Treaty of Saint-Germain-en-Laye、Treaty of Saint-Germain、Trattato di Saint-Germain-en-Laye、Trattato di Saint-Germaine、Vertrag von Saint-Germain)は、第一次世界大戦の後の1919年9月10日に連合国側とオーストリア(第一共和国)の間で結ばれた条約の通称。フランス語、英語、イタリア語で作成され、フランス語版を基本の正文とする。正文であるフランス語の正式名称は « Traité de paix entre les Puissances alliées et associées et l’Autriche »、英文での正式名称は “Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Austria”、イタリア語での正式名称は «Trattato di pace tra le potenze alleate e associate e l’Austria»。ドイツ語の官報公示名称は „Staatsvertrag von Saint-Germain-en-Laye“。日本語での名称は「同盟及聯合国ト墺地利国トノ平和条約」。 この通称は締結が行われたサン=ジェルマン=アン=レーのサン=ジェルマン=アン=レー城にちなむ名称であるので、正確にはサン=ジェルマン=アン=レー条約と呼ぶべきかもしれないが、一般にはやや省略して(日本語はもとより英語、フランス語などでも)サン=ジェルマン条約と呼ばれる。この地で締結された条約は他にもいくつか存在している(サン=ジェルマン=アン=レー条約 (曖昧さ回避) 参照)。.

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公国

公国(こうこく)は、「公」すなわち貴族を君主として有する国。「王国」(Kingdom)が一般に「国王」を君主として有するのに対し、公国は「公」を君主として有する。英語のduchy(dukeが治める国、領地)とprincipality(Princedom, princeが治める国、領地)が「公国」と訳される。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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第一次世界大戦

一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.

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東フランク王国

東フランク王国(ラテン語:regnum Francorum orientalium、独:Ostfrankenreich)は9~10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国。ドイツの原型にあたる。 西ヨーロッパは9世紀初頭にローマ教皇から西ローマ皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝によって統一されていた。しかし大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。840年に第2代皇帝ルートヴィヒ1世が崩御すると翌年にフォントノワの戦いが勃発。843年のヴェルダン条約によって帝国は正式に三分割された。その東部分がルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世の統治領域となった東フランク王国である。 ルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は西ローマ帝国の権威を引き継ぐことができなかった。西ローマ帝国として正統だったのは中フランク王国である。しかし中フランク王国はまもなく北イタリアのみを統治するイタリア王国へと縮小した。西フランク王国もまた内憂外患で政情が安定しなかった。そのような状況で東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には西ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって西ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西ヨーロッパ最強だった帝国だが、やがて衰えてイタリアを失い神聖ローマ帝国、そして現在のドイツとなった。 カール大帝の直系であるカロリング朝の統治は911年までだった。西ローマ帝国の理念は女系のザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝に引き継がれていった。 帝国はごく一時期を除いて西フランク王国(フランス)を併合できなかった。これは西ローマ帝国がゲルマン系のドイツとラテン系のフランスに分かれる原因となった。.

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1335年

記載なし。

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1919年

記載なし。

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976年

記載なし。

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978年

記載なし。

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