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クラウディア水道

索引 クラウディア水道

ラウディア水道(クラウディアすいどう、Aqua Claudia)は古代ローマの水道(ローマ水道)で、皇帝カリグラが38年に建設を始め、約14年間の工事の後に皇帝クラウディウスが52年に完成させた施設。アニオ川上流域のカエルレウス(Caeruleus)とクルティウス(Curtius)の泉を水源とし、約69km(46.406ローマ・マイルフロンティヌスの著書より )離れた帝都ローマに水を供給していた。ローマ水道の技術書の著者でありローマ水道長官でもあったフロンティヌスは、『この水道はローマで最も壮大な水道である』と述べている。新アニオ水道と同時に工事が進められ、水道橋の橋脚など一部の施設を新アニオ水道と共用している。日本語訳としてクラウディウス水道とされることもある。.

21 関係: 執政官古代ローママルキア水道マッジョーレ門チェリオ (イタリア)ネロラティーナ街道ローマローマ帝国ローマン・コンクリートローマ水道ローマ水道橋公園パラティーノパッススアニエーネ川カリグラクラウディウスクイナリアセクストゥス・ユリウス・フロンティヌス最高神祇官新アニオ水道

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

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古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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マルキア水道

マルキア水道(マルキアすいどう、Aqua Marcia)は古代ローマの水道(ローマ水道)で、法務官によりBC144年からBC140年に造られた施設。古代ローマ末期に機能停止したが、1586年にマルキア水道の施設の多くを流用する形で再建されたフェリクス水道として、現在まで機能している。.

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マッジョーレ門

マッジョーレ門(Porta Maggiore)は、イタリア ローマの古代ローマ時代の城壁であるアウレリアヌス城壁に設けられた城門である。この門は、プラエネスティーナ街道とラビカナ街道を通過させるために造られた門であったため、古代ローマ時代にはプラエネスティーナ門(Porta Praenestina)と呼ばれていた。 プラエネスティーナ門(現 マッジョーレ門)の起源は、52年に第4代皇帝クラウディウスがクラウディア水道と新アニオ水道を完成させたとき、街道を横断するため造ったアーチ橋である。”自然を制覇して水道を建造した”皇帝の勝利を記念した凱旋門として、真っ白なトラバーチン(大理石の一種)で造られている。 その後、3世紀にアウレリアヌス城壁を築くとき、すでに存在したローマ水道の水道橋の構造物を最大限利用したため、この凱旋門も壁に組み込まれ「城門」となってしまったものである。 405年には西ローマ帝国初代皇帝ホノリウスが見張り台を追加し、その基礎部分の痕跡は現在も残っている。 現在、この門がマッジョーレ門と呼ばれているのは1.4km離れたサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に向かう通りがこの門からまっすぐに大聖堂まで延びているからである。.

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チェリオ (イタリア)

チェリオ(Celio,Caelius カエリウス)は、ローマの街の元になったローマの七丘の一つ。チェリオの丘(Colle Celio,Mons Caelius)とも表記される。 アウレリアヌス城壁で囲まれるローマ市街地の南東に位置し、マッジョーレ門付近の高台を“付け根”とし、南西向きに長さ約2km、幅400mから500mの細長い丘Samuel Ball Platner, A Topographical Dictionary of Ancient Rome,, London: Oxford University Press, 1929.

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ネロ

ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)は、ローマ帝国の第5代皇帝。.

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ラティーナ街道

ラティーナ街道のカタコンベの壁画(4世紀) right ラティーナ街道(Via Latina)はイタリアのローマ街道の1つで、ローマから南東に約200km延びていた。 古代ローマのアウレリアヌス城壁のラティーナ門を起点とし、初期のローマ軍事史上の重要地点であるアルギドゥス山を通る。カンパニア州への経路としてはアッピア街道に先行して存在したと見られ、紀元前334年に建設されたラテン人植民地 Cales(現在のカルヴィ・リゾルタ)はローマと街道でつながっていたはずで、アッピア街道が建設されるのはその22年後である。地形に沿って建設されているため、真っ直ぐに通そうとしたアッピア街道よりも建設は容易だったと推測される。経路がほぼ同じラビカナ街道よりも先行して存在したが、後世にはラビカナ街道の方が好まれた可能性がある。 その後ラティーナ街道はサッコ川の谷を通り、現代のナポリに向かう鉄道に沿って進み、ヘルニキ族の町のそばを通り、アナーニ(ここでプラエネスティーナ街道と合流)、フェレンティーノ、フロジノーネなどを通る。フレジェッラエでリーリ川を渡り、アクイーノとカッシーノを通る。そして、アペニン山脈とロッカ・モンフィーナの火山群の間を抜けるのだが、もともとの街道はそこから突然北東に折れて山越えしヴェナフロに向かう。このためサムニウムの領域と接しており、イゼルニアやテレーゼ・テルメへの道があった。 内戦後、ラティーナ街道はマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスを含むローマ人グループが修理した。詩人ティブルスがラティーナ街道についての悲歌を書いた紀元前27年には、その修理の最中だった。 しかし、後世になってRufrae(現在のプレゼンツァーノ)から近道を通り、現代の国道や鉄道に沿った経路をとるようになった。2つの経路は現在のカイアネッロの鉄道駅のあたりで合流し、テアーノ、Cales(カルヴィ・リゾルタ)を通り、Casilinum(現在のカプア)でヴォルトゥルノ川を渡ってアッピア街道と合流する。ローマからCasilinumまでは、アッピア街道では129ローマンマイルの道のりだが、旧ラティーナ街道では135ローマンマイル、Rufraeで近道を使うと126ローマンマイルである。ラティーナ街道の名残はローマ近郊でよく見られる。ローマから40ローマンマイルの Compitum Anagninum までは現在の主要道路になっておらずよく残っているが、そこから先は現代の主要道路と同じ経路となっているためである。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ローマン・コンクリート

パンテオンはローマン・コンクリートを使用した一例である 現代のようなコンクリートが利用されるようになったのは、産業革命後である。.

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ローマ水道

ーマ水道(ローマすいどう)は、紀元前312年から3世紀にかけて古代ローマで建築された水道。ローマ水路とも。古代ローマでは、都市や工場地に水を供給するために、数多くの水道が建設された。これらの水道は古代の土木建設でもっとも偉大な業績のひとつであり、古代ローマ滅亡後1000年以上も、これに匹敵するものは作られなかった。現代においても、この古代の水道は多くの都市で実用に供され、実に2000年以上も水を供給しつづけている。 ローマ人は帝国内のどのような大都市でも、水道を建設した。中でもローマは最大の都市であり、500年かけて建造された11の水道から水が供給される、最大の水道の集積地であった。.

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ローマ水道橋公園

ーマ水道橋公園(ローマすいどうばしこうえん、Parco degli Acquedotti)はイタリア ラツィオ州 ローマのアッピア街道州立公園内の東側に位置し、ローマ水道橋が通過している区域を指している。面積は240ヘクタールである。日本語で、単に水道橋公園と訳されることもある。公園の英語表記はthe Seven Aqueducts Areaであり、これは古代ローマに造られた11本のローマ水道のうち6本が当公園内を通過しており、さらに16世紀に造られたフェリクス水道を加えれば『7本の水道』が公園内を通過していることによる。.

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パラティーノ

パラティーノ(Palatinus, パラティヌス、Palatino)、パラティーノの丘(Mons Palatinus モンス・パラティヌス)は、ローマの七丘のうちの一つ。最も歴史が古いといわれている。 パラティヌスの丘には、パラティウム(Palatium)とケルマヌス(Cermalus)の二つの頂があるが、紀元前3世紀頃以降は、パラティウムはパラティヌスの丘全体のことを指すようになる。 フォルム・ロマヌムとキルクス・マクシムス(大競技場)の間にある。古代にはローマ建国の英雄ロムルスとレムスがかつて住んだとされ、その後貴族の邸宅が建てられ、のちに初代皇帝アウグストゥスを筆頭に歴代の皇帝の宮殿が建てられたため、イタリア語や英語で宮殿(Palazzo, Palace)を意味する語の語源となった。.

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パッスス

パッスス(passus) は古代ローマで用いられた長さの単位。この単語は英語では「ペース」(pace)、フランス語では「パ」(pas)、日本語では「歩調」などと訳される。 1パッススは、2歩分に相当する長さで、5ペース(pes)に当たる。現在のメートル法に換算すると約1.48メートルに、ヤード・ポンド法に換算すると約4.83フィートに相当する。.

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アニエーネ川

アニエーネ川(Aniene)は、イタリア中部のラツィオ州を流れる河川。ローマ旧市街の北側でテヴェレ川に合流する。古代には多くのローマ水道の水源として利用された。.

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カリグラ

イウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(、12年8月31日 - 41年1月24日)は、第3代ローマ帝国皇帝(在位:37年 - 41年)。ユリウス・クラウディウス朝の皇帝の1人である。カリグラ(カリギュラとも表記)の名でよく知られている(幼少の頃に履いていた小さな軍靴に由来する愛称)。.

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クラウディウス

ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)は、ローマ帝国の第4代皇帝である。.

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クイナリア

イナリア(quinaria)は古代ローマの容積の単位。複数形はクイナリアエ(quinariae)。ローマ水道の水量は、最小の鉛管"5-pipe"(管径d.

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セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス

トゥス・ユリウス・フロンティヌス(Sextus Julius Frontinus、紀元40年ごろ - 紀元103年)は、紀元1世紀後半を代表するローマ帝国の貴族の1人だが、後世には主にローマ水道などに関する技術書の著者として知られている。.

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最高神祇官

トーガで頭を覆う、ポンティフェクス・マクシムスの装いをしたアウグストゥス帝 最高神祇官(さいこうじんぎかん)またはポンティフェクス・マクシムス(Pontifex Maximus)は、古代ローマの国家の神官職のひとつである。通常は神官団長、大神官、神官長、大神祇官長などと訳され、公の場で最高神祇官なる表記が使われることは希である。共和政ローマにおいてはすべての神官の長として神官団 (Pontifices) を監督した。閏月を決定する権限を持つ。任期は終身で、他の官職との兼任も可能。 ローマには伝統的なローマ神については専任の神官が存在せず、その職は高い権威と人格を認められた一部のエリートが市民集会の投票で選出された。宗教的権威を統治機構の権威の源泉としていたローマでは、政務官として選ばれるに足る人物でなければ神官職に選ばれることはなく、また神官職の権威は、選ばれた者に政務官としてふさわしいとの権威を与えた。 こうした神官職の頂点に立つポンティフェクス・マクシムスの権威は、他の官職と比べ何の権限も持たない割には非常に絶大で、神官団の中で最も権威と実績を持った高齢者が就任することが通常であった。ポンティフェクス・マクシムスにはフォルム・ロマヌムにあった公邸(レギア)が与えられた。 ローマ帝政の基礎を築いたガイウス・ユリウス・カエサルは自らの政治的成功のためにポンティフェクス・マクシムスの権威を利用しようと目論み、大量の借金で行なった買収工作により異例の若さでこの神職に就任している。こののちユリウス・カエサルの権威を継承したアウグストゥスもレピドゥスの死後ポンティフェクス・マクシムスに就任し、その神聖な権威を元首政の確立に利用した。 アウグストゥス以降もローマ帝国においてはローマ皇帝が兼ねるのを常としたが、3世紀以降の皇帝はポンティフェクス・マクシムスへの就任を拒むことが多くなり、その地位をローマ教皇に譲った。 ポンティフェクス・マクシムスは、現在もローマ教皇の称号の一つである。.

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新アニオ水道

新アニオ水道(Aqua Anio Novus)は、古代ローマの水道(ローマ水道)のひとつ。皇帝カリグラが38年に建設を始め、約14年間の工事の後に皇帝クラウディウスが52年に完成させた。クラウディア水道と同時に工事が進められ、水道橋の橋脚など一部の施設をクラウディア水道と共用している。この水道が完成したことにより、それまで単に「アニオ水道」と呼ばれていた水道施設(紀元前269年完成)は、「旧アニオ水道」と呼ばれるようになった。.

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