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ギヨーム・ド・ティール

索引 ギヨーム・ド・ティール

ヨーム・ド・ティールの年代記。ギヨーム(右の白衣の人物)が少年ボードゥアン4世の皮膚の病に気付いた場面。 ギヨーム・ド・ティール(Guillaume de Tyr, 1130年頃 - 1186年)は、十字軍時代のティール大司教でエルサレム王国の歴史を記述した歴史家。 1130年頃に十字軍の第2世代としてエルサレムで生まれた。両親はフランスかイタリア系の豊かな商人だったと考えられている。 当初エルサレムで教育を受け、後のボードゥアン3世の学友となった。その後、聖職者として西欧で教育を受け、1165年にエルサレム王国に戻りアッコンの司教座聖堂参事会員になった。その後、ティールの助祭長となり、王国の外交官としても活躍した。1170年にボードゥアン4世の教育係となり、ボードゥアンの皮膚の病に最初に気づいている。また、この頃からエルサレム王国の歴史の記述を始めている。 1174年にボードゥアン4世が即位するとギヨームは大法官に任命され、1175年にティール大司教となった。1177年には病気のエルサレム総大司教に代わって、モンフェラート侯ギヨームの葬儀をとり仕切った。1179年に第3ラテラン公会議に出席し、十字軍を要請するが成功しなかった。1180年に戻り、エルサレム総大司教の最有力候補者と考えられたが、王国の宮廷派と貴族派の派閥争いのあおりを受け、貴族派のトリポリ伯レーモンの被保護者と見なされていたギヨームは宮廷派の王母アニェスに嫌われ、選出されなかった。 その後もティール大司教を務め、歴史を記述していたが、1186年に亡くなった。 ギヨームの主な著作は23巻からなるエルサレム王国の年代記(Historia rerum in partibus transmarinis gestarum、「海の彼方でなされた事蹟の歴史」、あるいは Historia Ierosolimitana 「エルサレムの歴史」、あるいは単に Historia 「歴史」とも)であり、十字軍以前のシリアの歴史から始まり、第1回十字軍、エルサレム王国成立を経て、彼の死の1180年代で中断している。その著作では、王母アニェスを初めとして宮廷派の人物が悪く書かれているが、彼がエルサレム総大司教座などをめぐって政治的に宮廷派と対立した点に留意すべきである。.

22 関係: 十字軍大司教ボードゥアン4世トリポリ伯国ティルスフランスイタリアウトラメールエルサレムエルサレム王国第1回十字軍第3ラテラン公会議歴史的シリア1130年1165年1170年1174年1175年1177年1179年1180年1186年

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。.

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ボードゥアン4世

ボードゥアン4世(Baudouin IV, 1161年 – 1185年3月16日)は、エルサレム国王(在位:1174年 – 1185年)。エルサレム国王アモーリー1世の息子。.

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トリポリ伯国

トリポリ伯国(英語:County of Tripoli)は、レヴァントに建設された4つの主要な十字軍国家のうち、最後に建国された国家。サフィータ、タルトゥース、トリポリといった重要な都市を押さえていた。.

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ティルス

ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された史跡でもある。ティルスの現在の名前はスール(صور)ないしはティール(アラビア語で岩という意味)といわれる。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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ウトラメール

ヨーム・ド・ティールの年代記『海の彼方でなされた事蹟の歴史』(Histoire d'Outremer)の古フランス語訳本の挿絵 ウトラメール(ウートゥルメール、Outremer、outre 「向こう側」 + mer 「海」より)とは、第1回十字軍の後で設立されたレバントの十字軍国家群の総称。「外地」「海外領」とも。エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国の四つを代表とするが、特にエルサレム王国を指すこともある。 ウトラメールという語は、レバント、シリア地方、パレスチナなど東地中海の海岸沿いの地方と同義でも使用された。今日の国名でいえば、イスラエルの大半、パレスチナ自治区、ヨルダン、シリア、レバノン、トルコの一部(ハタイ県など)を包摂する地域に当たる。 フランスでは「ウトラメール」という語は海外一般を指して使われることもある。例えばルイ4世はイングランドで育てられたため、「ウトラメールのルイ(ルイ渡海王・ルイ海外王)」(Louis d'Outremer)と呼ばれる。 近代フランスにおいてもウトラメール(outre-mer)という語は海外を指して使われ、特に海外県・海外領土(DOM-TOM, départements d'outre-mer et territoires d'outre-mer)を指して使われる。.

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エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

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エルサレム王国

ルサレム王国(1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。.

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第1回十字軍

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 – 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。.

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第3ラテラン公会議

3ラテラン公会議(だい3ラテランこうかいぎ)は、1179年3月にローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の公会議。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世との対立によって引き起こされた問題を解決するため、教皇アレクサンデル3世によって召集された。.

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歴史的シリア

マン帝国時代のシリアを示した地図。歴史的シリアに当たる領域が含まれている。 歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。 なお、このシャームという単語は、単に地中海の東部沿岸地方のみを指したり、シリアの首都ダマスカスを指す場合もある。ヨーロッパではレバントとも訳される。 考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。 時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。 第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。 フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。.

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1130年

記載なし。

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1165年

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1170年

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1174年

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1175年

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1177年

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1179年

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1180年

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1186年

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ティルスのギョーム

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