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ガイウス・テレンティウス・ウァロ

索引 ガイウス・テレンティウス・ウァロ

ガイウス・テレンティウス・ウァッロ (Gaius Terentius Varro) は、共和政ローマの政治家・将軍。紀元前216年、執政官の職に就いた。 紀元前218年、ウァッロはプラエトル(法務官)に選出された。第二次ポエニ戦争中の紀元前216年、ルキウス・アエミリウス・パウルスとともに執政官に選出された。同年8月2日、当日の軍の指揮官にあたり、ハンニバル率いるカルタゴ軍との決戦を望んだためカンナエの戦いが起こった。ハンニバルの包囲作戦によってローマ軍は壊滅的打撃を受けたが、ウァッロは逃亡した。 紀元前215年から紀元前213年にかけてウァッロはプロコンスルに選出されピケヌムを担当した。さらに紀元前208年から紀元前207年にかけてプロプラエトルに選出されエトルリアを担当し、ハンニバルの弟のハシュドゥルバルと対峙した。紀元前200年、ウァッロは大使としてアフリカへ赴いた。 Category:紀元前3世紀の古代ローマ人 category:ポエニ戦争 うあろ かいうす category:執政官.

28 関係: 執政官ハンニバルハスドルバルルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官)ルキウス・アエミリウス・パウルスプラエトルプレブスプロコンスルパトリキティベリウス・センプロニウス・グラックス (紀元前215年、213年の執政官)アフリカアエミリウス氏族エトルリアカルタゴカンナエの戦いガイウス・フラミニウスグナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス共和政ローマ共和政ローマ執政官一覧第二次ポエニ戦争紀元前200年紀元前207年紀元前208年紀元前213年紀元前215年紀元前216年紀元前218年8月2日

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

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ハンニバル

ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。 第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも、その戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど、戦術家としての評価は非常に高い。 チュニジアで流通している5ディナール紙幣に肖像が使用されている。.

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ハスドルバル

ハスドルバル (Hasdrubal) は、古代のカルタゴ人によく見られる男性名。「バアルこそ我が救い」の意で、ハスドゥルバルやハシュドゥルバルとも呼ぶ。以下、著名な人物を挙げる。.

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ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官)

ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス(Lucius Postumius Albinus、- 紀元前215年)は紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前234年と紀元前229年に執政官(コンスル)を務めた。紀元前215年の執政官にも選出されていたが、当時は第二次ポエニ戦争中であり、就任前にカルタゴと同盟したガリアとの戦いで戦死した。.

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ルキウス・アエミリウス・パウルス

ルキウス・アエミリウス・パウッルス (Lucius Aemilius Paullus, ? - 紀元前216年8月2日) は、共和政ローマの政治家・将軍。紀元前219年と紀元前216年の二度、執政官の職に就いた。ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスの父親にあたる。 パウッルスは紀元前219年にマルクス・リウィウス・サリナトルと共に執政官に選出されたが、その年の第二次イリュリア戦争において、ファロスのデメトリウスに敗北した。第二次ポエニ戦争中の紀元前216年、パウッルスはウァッロとともに二度目の執政官に選出された。同年8月2日のカンナエの戦いで、ハンニバル率いるカルタゴ軍に大敗し、パウッルスは戦死した。 パウッルスの娘、アエミリア・テルティア(アエミリア・パウッラ)はスキピオ・アフリカヌスの妻である。 カディス青銅板碑文には次のように記している。.

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プラエトル

プラエトル(Praetor)は、古代ローマの政務官職の一つ。日本語では法務官と訳される。共和政ローマではコンスルに次ぐ公職で、インペリウムを保有し、主に司法を担当した。 その成立については諸説あるが、ローマ社会を統率する者が「コンスル」と呼ばれる以前の呼称として「プラエトル」が使われていたといわれるp4, Nicholas, Barry著、「An Introduction to Roman Law」(1975年、Oxford University Press) ISBN 0-19-876063-9。共和政初期には、プラエトルは軍事的な司令官の意味合いが強かった。また、階級闘争の過程で公職が開放される中で、コンスルがプレブスにも開放されたのに対して、紀元前337年にクィントゥス・プブリリウス・ピロが選出されるまではプラエトルに就任できたのはパトリキ(貴族)のみであった。紀元前305年に、それまでプラエトルがこなした業務はコンスルが行うようになり、プラエトルはインペリウムを保持しつつコンスルに次ぐ公職となった。 当初は1名であったが、紀元前227年以降増員され、ローマ市民権を保有するローマ市民に関する司法を担当する首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)と、ローマに滞在する外国人の司法を担当する外国人係プラエトル(プラエトル・ペレグリヌス)の2名が首都に配置されるようになった。その後、ローマが属州を獲得すると再び増員され、首都の2名以外はインペリウム保有者として属州総督の任にあたった。 ルキウス・コルネリウス・スッラがローマを掌握して改革を実施した際、プラエトルを8人に増員、性質も変化し、全員が首都に置かれて司法を担当することとなった。.

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プレブス

プレブス(古典ラテン語:プレープス)とは古代ローマ社会における階級のひとつである。主にパトリキと対比して用いられる。日本語では「平民」と訳されることが多い。主にローマ社会での中流以下の階級を指したが、共和政後期からその意味は次第に薄れていった。 日本語への音写では「プレブス」と表記されることが多いが、古典ラテン語では s の直前の b は と発音され、また長母音と短母音の区別が失われるのは俗ラテン語の時期まで待たなければならず、この plebs の e は長母音であるため「プレープス」という表記の方が原音に近い。.

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プロコンスル

プロコンスル(Proconsul)は、古代ローマにおける公職の一種である。前執政官、代理執政官などとも訳される。同じ属州総督を担う官職にはプロプラエトル(前法務官)がある。.

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パトリキ

パトリキ(Patricii)とは、古代ローマ社会における階級のひとつ。貴族という訳があてられることもある。 パトリキ (Patricii) の語源は「父」を意味する「パテル(Pater)」であり、古代ローマ社会では上流階級、富を受け継ぐ者、選ばれた者、そしてノブレス・オブリージュの責務を負う者という意味合いがあった。その意味通り、古代ローマではエリート層として考えられ、共和政ローマ初期中期においては元老院を構成する人材を提供し続けてきた。「パトリキ」という言葉はたいていプレープス(平民)という下層階級と対比して用いられる。.

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ティベリウス・センプロニウス・グラックス (紀元前215年、213年の執政官)

ティベリウス・センプロニウス・グラックス(Tiberius Sempronius Gracchus, 紀元前213年没)は、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの元老院議員。紀元前215年と213年に執政官を務めた。父は同名のティベリウス・センプロニウス・グラックス、大グラックスの叔父になる(大グラックスの父はプブリウス・センプロニウス・グラックス)。.

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アフリカ

衛星画像 NASA) 南部アフリカ アフリカ(ラテン語:Āfrica、英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。阿州。漢字表記は阿弗利加。.

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アエミリウス氏族

アエミリウス氏族 (Gens Aemilia) は、古代ローマの氏族のひとつ。共和政ローマ初期から執政官を輩出したパトリキ系の家系である。.

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エトルリア

トルリア(Etruria)は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシア語ではテュッレーニア。 各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成し、祭祀・軍事で協力することもあった。 古代ギリシアとは異なる独自の文化をもっていた。当時としては高い建築技術をもち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である。 鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。 夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えをもつ稀な民族だった。.

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カルタゴ

ルタゴ(Carthāgō または Karthāgō カルターゴー、قرطاج Qarṭāj、Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。 「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。.

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カンナエの戦い

ンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高い。2倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった。カンネーの戦いとも表記する。 1018年10月1日にも同じ場所で戦闘が起こっており、これもカンナエの戦いと呼ばれる(英語版)。これは東ローマとノルマン人の間で行われた戦闘で、東ローマ側が勝利したものである。.

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ガイウス・フラミニウス

イウス・フラミニウス・ネポス(Gaius Flaminius Nepos, 紀元前217年6月14日没)は、共和政ローマの政治家、軍人。先祖に有力者のいないノウス・ホモ(新人)の一員として台頭し、プレブス(平民)出身の者としてグラックス兄弟よりも1世紀近く前に、自らも元老院議員となって未だパトリキ(貴族)が力を持っていた元老院の権威に立ち向かった人物である。.

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グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス

ナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス(Gnaeus Servilius Geminus、 ? - 紀元前216年8月2日)は、共和政ローマ時代の元老院議員。第二次ポエニ戦争初期で活躍、サルデーニャ、コルシカでの海戦でも活躍した。 2度(紀元前252年、紀元前248年)執政官を務めたプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスの息子であり、紀元前217年に執政官として選ばれ、アリミヌム近郊でハンニバル相手に対峙、そして同年4月にトラシメヌス湖畔の戦いで同僚執政官ガイウス・フラミニウスが戦死するとローマ海軍を率いて同年10月までサルデーニャ島、コルシカ島、北アフリカ沿岸区域での戦闘に従事した。その後は再び陸戦軍団の指揮に戻り、紀元前216年初頭にはプロコンスル(前執政官)として就任、ハンニバル配下の兵との小競り合いをする。そしてカンナエの戦いで戦死、この時彼は中央で指揮を執っていた。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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共和政ローマ執政官一覧

共和政ローマ執政官一覧(きょうわせいローマしっせいかんいちらん)は共和政ローマの執政官(コンスル)を年毎に記載した一覧。 伝説上の共和政開始の年紀元前509年から一般に帝政開始の年とされる紀元前27年までを「共和政」の範囲として記載する。 年初の1月1日に就任しその年を名前で呼ばれた正規執政官2名を各年の横に記した。正規執政官の辞任や死去によって欠員が生じた際に選ばれる補充執政官は「suff.」以下に記した。ただし補充執政官は網羅していない。人名の後ろのローマ数字は補充執政官を含めて何度目の執政官職かを表す。執政官職が停止されている年はそれに代わるものを記した。 人名は長母音は省略し「ll」「rr」は促音で表記した。.

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第二次ポエニ戦争

ハンニバル ハンニバルの進軍路 アルプス山脈を越えるハンニバルの軍 第二次ポエニ戦争(だいにじポエニせんそう、Secundum Bellum Punicum)は、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。 またこの戦争において、カルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。.

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紀元前200年

紀元前200年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前207年

紀元前207年.

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紀元前208年

紀元前208年.

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紀元前213年

紀元前213年.

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紀元前215年

紀元前215年.

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紀元前216年

紀元前216年.

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紀元前218年

紀元前218年.

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8月2日

8月2日(はちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から214日目(閏年では215日目)にあたり、年末まではあと151日ある。.

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