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カルマル戦争

索引 カルマル戦争

ルマル戦争(カルマルせんそう, Kalmar War)は、1611年から1613年にかけて、デンマークとスウェーデンがカルマル地方を巡って争った戦争である。.

28 関係: 宰相山川出版社中公新書バルト帝国ポーランド王国ロシア・ツァーリ国ヴァーサ王朝デンマーク=ノルウェーアクセル・オクセンシェルナイングランド王国イェータ川カルマル市クネレド条約クリスチャン4世 (デンマーク王)グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)動乱時代知泉書館熊野聰百瀬宏領有要塞陸軍武田龍夫戦争新評論1611年1612年1613年

宰相

この項では宰相(さいしょう)について記述する。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

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バルト帝国

バルト帝国(バルトていこく、Östersjöväldet、スウェーデン帝国(Sverigesväldet)ともいう)は、近世ヨーロッパのバルト海及びその沿岸を支配した国家、スウェーデン王国が繁栄した大国時代の日本での呼称。スウェーデン人自身はこの政体を「帝国」とは呼ばなかったが、複数の言語、民族の領域を支配したことから日本ではそれを踏まえてこう呼ばれる。グスタフ2世アドルフのバルト帝国建国から、1700年代に始まった大北方戦争によってスウェーデンがロシア帝国に敗れるまでのおよそ1世紀間についてこう呼ばれる。スウェーデンでは「大国時代」(stormaktstiden)と呼ばれている。  .

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ロシア・ツァーリ国

ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.

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ヴァーサ王朝

ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 - 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 - 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年).

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デンマーク=ノルウェー

デンマーク=ノルウェーは、デンマークとノルウェーを中心に構成されていた同君連合。カルマル連合が1523年6月6日にスウェーデンの最終的な離脱宣言で崩壊して以後、特にノルウェー王国参事会が廃止された1537年以後の呼称である。デンマークにはスレースヴィ・ホルステン両公国も属していたが、それらは独自の行政単位であった。したがって、デンマーク・ノルウェー間での連合の解消は両公国との関係には影響せず、1864年まで同君連合を構成し続けた。 1814年1月14日、キール条約によってノルウェーはスウェーデンへ割譲されることとなった。ノルウェーにおいてはクリスチャン・フレゼリク王子が国王に選出され、エイツヴォル議会は憲法を採択した。しかし、ノルウェーの独立は国際的承認を受けられなかった。モス協定でスウェーデンはノルウェー憲法を承認し、ノルウェーは内政に関して高度の自治を獲得することとなった(スウェーデン=ノルウェー)。人口1,315,000(1645年)、1,859,000(1801年)。面積487476km。.

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アクセル・オクセンシェルナ

アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ Svartsjö宮殿にあるグスタフ2世アドルフとオクセンシェルナの像 アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ(Axel Gustafsson Oxenstierna, 1585年6月16日 - 1654年8月28日)伯爵は、スウェーデンの宰相、政治家、軍人。スウェーデン・ヴァーサ朝のグスタフ2世アドルフとその娘クリスティーナに仕えた名宰相。三十年戦争を戦い抜き、スウェーデンの官僚制度を整備して大国時代を作り上げた人物山田(2013,54)。 オクセンシェルナは1612年に宰相になった。1611年に開始されたカルマル戦争終結において重要な役目を果たし(クネレド条約)、名君グスタフ・アドルフと共に戦場を駆けめぐり、重臣として片時も離れる事なく、内政面で主君を支え続けた。官僚制度と商法及び郵便制度を近代化し、学問の重要性にも着目してウプサラ大学の学長に就任している山田(2013,55)。グスタフ・アドルフは軍事的天才であったが、短気で血気盛んな性格で、冷静で慎重なオクセンシェルナの手腕によって事無きを得る事も多かった。グスタフ・アドルフが軍事的資質を発揮できたのも、オクセンシェルナあってこそだと言える。この二人の性格をよく表したものとして、「オクセンシェルナよ。人が皆おまえのように冷静であったら世界は凍り付いてしまうな」「人が皆、陛下のように短気であれば、世界が燃え尽きてしまいます」という会話が伝えられている。 ドイツ(神聖ローマ帝国)で三十年戦争が始まると、スウェーデンはルター派プロテスタントに救いの手を差し伸べて参戦する。グスタフ・アドルフは軍を率いて北ドイツに上陸し、ブライテンフェルトの戦いなどでカトリックを破り、獅子王の勇名を馳せる事になる。1632年にはグスタフの援軍要請に応え、5万の軍隊を編成してドイツに渡っている。 1632年11月6日、復帰したヴァレンシュタイン将軍率いる神聖ローマ皇帝軍とグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍が激突した(リュッツェンの戦い)。混戦の中、グスタフ・アドルフは弾雨の矢面に立たされ、銃弾を浴びて落馬、戦死する。オクセンシュルナは指揮権を継承したザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトを補佐し、激戦の末、スウェーデン軍は皇帝軍を撃破した。しかしヴァレンシュタインを潰走させただけでは、偉大な名君の死を償う事は出来なかった。 死別まで変わらぬ友情を結び続けていたグスタフ・アドルフとオクセンシェルナだったが、政治的な志向ではグスタフ・アドルフは中央集権的であり、貴族階級の代表者であったオクセンシェルナの立場とは相容れない部分もあった。在位の中で、グスタフ・アドルフが助言を求めずに独自にした判断もある。しかし多くの場面でグスタフ・アドルフはオクセンシェルナの助言を常に求め、別行動の際にはその助言を得られないことを残念がった。その強固な協力関係は、制度の近代化とカトリックへの勝利という共通目的が生み出したものとされている。 グスタフ・アドルフの死後、オクセンシェルナはグスタフ・ホルンら同僚の将軍にスウェーデン軍の指揮を任せ、本国に帰還する。オクセンシェルナは、主君の遺子クリスティーナを王位に就け、摂政団の中心となってスウェーデンの国政を取り仕切った。オクセンシェルナは、王を失い弱体化したスウェーデン軍の劣勢を救うべくプロテスタント諸侯を糾合し、ハイルブロン同盟を結成するなどの成果を挙げ、三十年戦争の最終的勝利を演出して、見事大国の座を勝ち取るのである。その中でも反ハプスブルクを掲げながらも側面支援に留まっていたフランスを直接参戦させたことは見事な手腕といえる(ただしこれにはベールヴァルデ条約を更新したフランス宰相リシュリューの思惑もあった)。 晩年のオクセンシェルナは必ずしも幸福ではなかった。カトリックとの融和路線をとった主君クリスティーナは、グスタフ・アドルフの政策を引き継いで対決姿勢を崩さなかった彼を次第にスウェーデン政治の中心から遠ざけ、オクセンシェルナはやがて国政から引退する(オクセンシェルナは、三十年戦争の講和会議における女王の宥和政策に対する反対運動の先頭に立っていた)。そしてスウェーデンが三十年戦争の講和条約ヴェストファーレン条約によって北方の覇権を確立し、バルト帝国の座に君臨するのを見届けて、オクセンシェルナは1654年にこの世を去った。 グスタフ・アドルフとオクセンシェルナはお互いを敬愛していた間柄でもあった。今日のスウェーデンの首都ストックホルム、グスタフ・アドルフス広場には、グスタフ・アドルフの銅像があり、それを下から仰ぐ位置にオクセンシェルナの銅像がある。.

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イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

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イェータ川

流路 イェータ川(Göta älv)は、ヴェーネルン湖から流れ出て、スウェーデンの西海岸を流れる河川である。流域は、初期イェート人(:en:Geats)の居住地であるイェータランドに属する。クングエルブ(:en:Kungälv)の川沿いには、ボフス要塞(:en:Bohus Fortress)がある。ここで南西の方角へNordre川を分ける。さらに南へ流れイェーテボリ市でカテガット海峡へ注ぐ。 トロルヘッタンでは、ダム、運河の閘門、そして水力発電所が設けられている。閘門は、大きな貨物船さえも航行可能にし、またその川は、ストックホルムまで大部分が内陸を通る水路であるイェータ運河の一部を成している。 イェータ川の発電所は、トロルヘッタン周辺に集まっている鉄鋼産業に電力を供給し、産業革命に貢献した。夏の間には毎日数分間、ダムの放水路が開かれ、観光客が川を流れ落ちる水を見るために集まってくる。 いえたかわ.

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カルマル市

ルマル(Kalmar)は、スウェーデン南東スモーランド地方の都市。バルト海に面する。 13世紀から17世紀にかけ、カルマルはスウェーデンの主要都市の一つだった。1602年から1913年まで、カルマル司教区の首座があった。カルマル大聖堂は1702年からの歴史を持つ、古典主義建築の適例である。カルマル城を中心にすえた城塞都市として発展した。1658年のロスキレ和議の後、カルマルの重要性は失せ、19世紀までに産業部門に着手した。地理的にカルマルは、エーランド橋を渡りエーランド島へ向かう主要ルートである。.

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クネレド条約

ネレド条約(クネレドじょうやく)とは、スコーネ地方のクネレドで1613年1月20日にデンマークとスウェーデンの間で結ばれたカルマル戦争の平和条約である。イングランドによる調停と、スウェーデン宰相オクセンシェルナのデンマークとの交渉により、スウェーデン側が賠償金を支払う事で両国は合意した。.

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クリスチャン4世 (デンマーク王)

リスチャン4世(Christian IV, 1577年4月12日 - 1648年2月28日)は、デンマーク=ノルウェーの王(在位:1588年 - 1648年)。一般には、60年間にわたって善政を敷き、数多くの改革をおこなったデンマークの名君の一人と見なされている。しかし対外的には、三十年戦争の敗北等により国力の衰退をもたらし、北ヨーロッパにおけるデンマークの覇権は失われた。.

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グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)

タフ2世アドルフ(Gustav II Adolf, 1594年12月9日(グレゴリオ暦12月19日) - 1632年11月6日(グレゴリオ暦11月16日))は、ヴァーサ朝第6代、スウェーデン王国最盛期の国王(在位:1611年 - 1632年)。通称「北方の獅子」。グスタフ・アドルフとも呼ばれる。三十年戦争における主要人物の一人。 スウェーデン王カール9世と2度目の王妃クリスティーナの息子。娘は後のスウェーデン女王クリスティーナ。グスタフ2世アドルフの時代からおよそ1世紀の間のスウェーデンは、「バルト帝国時代」と呼称されている。1965年に発行された100クローネ紙幣に肖像が使用されていた。.

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動乱時代

動乱時代 (大動乱、スムータ、Смутное время, Smutnoye Vremya)は、ロシアの歴史で、1598年のリューリク朝フョードル1世の死去から1613年のロマノフ朝創設までの時代を指す。 1601年から1603年にかけて、ロシアは、当時の人口の3分の1に相当する200万人が死ぬというに見舞われた。また、1610年から1613年にかけてはツァーリ不在のに陥った。さらに1605年から1618年にかけてのロシア・ポーランド戦争で、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に占領され、民衆の蜂起が起こり、皇位簒奪者、皇位僭称者が次々現れた。.

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知泉書館

知泉書館(ちせんしょかん)は日本の出版社である。 2001年6月に設立、社長の小山光夫は創文社でキリスト教、西洋哲学関係の編集担当者であった。 哲学・思想、キリスト教関連著作を軸としつつ、東洋学、歴史学や、また心理学、社会科学関連等でも、学術研究・訳書を多く出版している。.

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熊野聰

野 聰(くまの さとる、1940年2月11日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.313 - )は日本の歴史学者。名古屋大学名誉教授。専門は中世北欧史。増田四郎門下。1994年から1996年まで日本アイスランド学会会長。.

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百瀬宏

宏 (ももせ ひろし、1932年3月1日 - )は、日本の政治学者で、津田塾大学名誉教授、広島市立大学名誉教授。専攻は、国際関係学、国際関係史、フィンランド近現代史。 東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。東京大学大学院修了後、東京大学教養学部助手、北海道大学法学部助教授・教授、津田塾大学学芸学部教授、広島市立大学国際学部教授。2005年3月定年退職。この間フィンランドのオウル大学、ヘルシンキ大学などで講義を行った。 元CHIR(国際関係史学会)日本代表理事。現在、北欧文化協会理事長。日本国際政治学会名誉理事。 2007年5月、フィンランド共和国よりフィンランド白薔薇勲章騎士一級章を受勲。.

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領有

有(りょうゆう)とは、領土などを自国、自分のものであるとすること。 特にこの領有という言葉は、自分のものであるという主張を意味し、領土編入の際、早い者勝ちというのが大半である。しかし、一番早く領有したとしても、領土問題に発展したり、あるいは紛争の大きな原因と指摘されている。条約などの取り決めによって領土が画定されていない時などの場合を言う。.

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要塞

堡式城郭の例。オランダのブールタング 要塞(ようさい)とは、外敵等から戦略上重要な地点を守る為に築かれた構築物。とりで(砦、堡、塞)、城砦(じょうさい)、城堡(じょうほ)ともいう。.

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陸軍

軍(りくぐん、army, ground force)は、主に陸上において軍事作戦を遂行する軍隊の一種である。.

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武田龍夫

武田 龍夫(たけだ たつお、1928年(昭和3年) - )は、日本の作家、元外交官、北欧文化協会理事。.

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戦争

朝鮮戦争(1950年 - 1953年) 核兵器を使用した戦争・広島市(1945年) 戦争(せんそう)とは、複数の集団の間での物理的暴力の行使を伴う紛争である。国際紛争の武力による解決である。対義語は対話。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。人類が、集団を形成するようになる有史以来、繰り返されてきたものである。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって違法性が認定されてきた。.

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新評論

株式会社新評論(しんひょうろん)は、日本の学術系中堅出版社。主に人文、社会、環境等の専門書籍を刊行している。.

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1611年

記載なし。

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1612年

記載なし。

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1613年

記載なし。

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