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アンジュー=シチリア家

索引 アンジュー=シチリア家

アンジュー=シチリア家の紋章 アンジュー=シチリア家(仏:maison d'Anjou-Sicile)は、フランス王家であるカペー家の支流の一つで、アンジュー家と呼ばれる家系のうち第3のもの。カペー(家)系アンジュー家(仏:maison capétienne d'Anjou)などとも呼ばれる。.

48 関係: ナポリ・アンジュー朝ナポリ王国マルグリット・ダンジューマルゲリータ・ディ・ドゥラッツォマーリア (ハンガリー女王)ハンガリー・アンジュー朝ハンガリー王国ポーランド・アンジュー朝ポーランド王国ヤドヴィガ (ポーランド女王)ラヨシュ1世ラヨシュ1世のナポリ遠征ラディズラーオ1世 (ナポリ王)ルイ1世・ダンジュールイ8世 (フランス王)ルイ9世 (フランス王)ロベルト1世 (ナポリ王)ロベール1世 (アルトワ伯)ヴァロワ家ヴァロワ=アンジュー家ブランカ・デ・ナポレスフランス王国フランス語フィリッポ1世 (ターラント公)フィリップ3世 (フランス王)フィリップ6世 (フランス王)アルフォンス・ド・ポワティエアンドレア・ドゥンゲリアアンジューの領主一覧アンジュー家エレオノーラ・ダンジョカペー家カルロ (カラブリア公)カルロ1世 (シチリア王)カルロ2世 (ナポリ王)カルロ3世 (ナポリ王)カルロ・マルテッロ・ダンジョカルロ・ディ・ドゥラッツォカーロイ1世クレマンス・ド・オングリーシチリアシチリア王国シャルル (ヴァロワ伯)シャルル5世 (フランス王)ジャン2世 (フランス王)ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ

ナポリ・アンジュー朝

ナポリ・アンジュー朝は、フランス・カペー家の支家であるアンジュー=シチリア家による13世紀から15世紀にかけてのナポリ王国の支配を指す。この家系からはハンガリー・アンジュー朝も出ている。王朝の名称は、始祖シャルル・ダンジューがアンジュー伯の称号を有していたのに由来する。.

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ナポリ王国

ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.

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マルグリット・ダンジュー

マルグリット・ダンジュー(Marguerite d'Anjou, 1273年 - 1299年12月31日)は、ヴァロワ家の祖ヴァロワ伯シャルルの最初の妃。アンジュー=シチリア家のナポリ王カルロ2世とハンガリー王女マーリア(イシュトヴァーン5世の娘)の長女。イタリア名はマルゲリータ・ダンジョ(Margherita d'Angiò)。フランス王ルイ10世の王妃でジャン1世を生んだクレマンス・ド・オングリーは、マルグリットの兄カルロ・マルテッロ・ダンジョの娘で姪に当たる。 1290年に又従兄であるヴァロワ伯シャルルと結婚し、以下の子女をもうけた。.

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マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ

マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ(Margherita di Durazzo, 1347年7月28日 - 1412年8月6日)は、ナポリとハンガリーの王カルロ3世(カーロイ2世)の王妃。父ドゥラッツォ公カルロはカルロ3世の父ルイージ・ディ・ドゥラッツォの兄であり、マルゲリータとカルロ3世は共に父方の従兄妹同士である。母マリア・ディ・カラブリアは、ドゥラッツォ公カルロの同族の従兄であるカラブリア公カルロの四女で、カルロ3世が王位を奪ったナポリ女王ジョヴァンナ1世の妹である。 ドゥラッツォ公カルロは末子マルゲリータ誕生の翌年の1348年、ラヨシュ1世のナポリ遠征の最中にラヨシュ1世の配下によって殺害されている。 1369年、後にナポリ王となるカルロ・ディ・ドゥラッツォと結婚した。2人の間には1男2女が生まれた。.

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マーリア (ハンガリー女王)

マーリア(Mária, 1371年 - 1395年5月17日)は、ハンガリー女王(在位:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年)。ハンガリーとポーランドの王ラヨシュ1世の次女で、母はその2番目の妃エルジェーベト(エリザベタ・コトロマニッチ)。ポーランド女王ヤドヴィガの姉である。 父王の死により11歳足らずで女王として即位、母エルジェーベトが摂政となったが、実権は宮宰として権力を振るってきたミクローシュ・ガライが握った。 1385年にルクセンブルク家のジギスムント(後の神聖ローマ皇帝、ハンガリー名ジグモンド)と結婚した。同年12月、同族のナポリ王カルロ3世(ハンガリー王カーロイ2世)に迫られて一時王位を奪われたものの、翌1386年2月24日にエルジェーベトの策謀でカーロイが殺害されたことで復位した。 しかしカーロイの殺害により、その地盤でもあった王国南方のボスニア地方で貴族ホルヴァート兄弟の叛乱が勃発、政情が不安定化した。ガライ、エルジェーベト、マーリアらは叛乱の説得のためボスニア地方に向かったが、その途上の7月25日、ディアコヴァルで奇襲を受け、ガライは殺害、マーリアとエルジェーベトはホルヴァート一派に捕らわれ、ノヴィグラード(現クロアチア領)の要塞に幽閉された。エルジェーベトは1387年1月16日に幽閉先で殺害され、マーリアにも身の危険が及ぶが、最終的には6月4日に釈放された(一説には、これらの奇襲・幽閉劇はマーリアらと折り合いが悪かった夫ジギスムントが仕掛けたとも言われる)。 釈放後は、夫ジギスムントがハンガリー王に即位して実権を握り、マーリアは象徴的な地位にとどまった。 1395年に死去し、ジギスムントとの間に子供がなかったため、ハンガリーにおけるアンジュー家の血筋は断絶した。.

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ハンガリー・アンジュー朝

アンジュー朝時代のハンガリーの旗 ハンガリー・アンジュー朝(ハンガリー語:Anjou-kor)は、1308年から1395年までハンガリー王国を支配した王朝。フランス・カペー家の支族で、ナポリ王国を支配したアンジュー=シチリア家の支流による王朝である。この王朝下でハンガリーは黄金時代を迎えたが、王国衰退の遠因が発芽した時代でもあった。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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ポーランド・アンジュー朝

ポーランド・アンジュー朝(波:Andegawenowie)は、ハンガリー=アンジュー家によって1370年から1399年まで続いたポーランド王国の王朝。アンジュー朝と呼ばれる王朝の一つである。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ヤドヴィガ (ポーランド女王)

ヤドヴィガ・アンデガヴェンスカ(ポーランド語:Jadwiga Andegaweńska,1373年10月3日/1374年2月18日 - 1399年7月17日)は、ポーランド王(在位:1384年 - 1399年)。ハンガリー王・ポーランド王ラヨシュ1世(ルドヴィク1世)の末娘、母はその2番目の妻でボスニア太守スティエパン2世の娘であるエリザベタ・コトロマニッチ。女性の君主でありながら女王(regina, queen)ではなく王(rex, king)の称号を持つが、これはヨーロッパでは非常に稀な例である。ハンガリー名はヘドヴィグ(Hedvig)。カトリック教会の聖人で、女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人である。.

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ラヨシュ1世

ラヨシュ1世(Anjou I Lajos, 1326年3月5日 - 1382年9月10日 トルナヴァ)は、アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 - 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世 Ludwik I Węgierski, 在位:1370年 - 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュ(Nagy Lajos király)とも呼ばれる。 大貴族の台頭によって弱体化していたハンガリー王国は、父カーロイ1世の治世の下で大貴族の抑制と王権の強化に成功し、大国へと成長していた。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。 ラヨシュ1世はさらにナポリ王国の王位も狙い、同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対した。弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後、1347年には軍勢を動かして王都ナポリを占領したが、王位を得ることはできずに終わった。しかし、晩年の1382年には同じく同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位につけた。 ポーランドの画家ヤン・マテイコによる「ポーランド王ルドヴィク1世」としての肖像画。王冠、法衣、王錫はポーランドのもの。 男児が無かったため、死後ハンガリー王位は年長の娘マーリア、ポーランド王位は末娘ヤドヴィガ、そして彼女らの夫たちが継承することとなった。ただし、ハンガリー王位は一時マーリアとカルロ3世(カーロイ2世)との間で争われている。 対外政策に成功を収めて勢力を拡大し、ポーランド王も兼ねたことから、ラヨシュ1世は「大王」と呼ばれている。しかしバルカン半島への勢力拡大には失敗した。ヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争を起こし、このためアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展し、ワラキア・トランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた。また大貴族層の反発にも遭って、晩年には大貴族層に対して特権を与えるなどの譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を現わすものでもあった。 ラヨシュの王国(赤線枠)と宗主下の国(青字).

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ラヨシュ1世のナポリ遠征

ラヨシュ1世のナポリ遠征、あるいはナポリへの冒険(洪語:Nápolyi kaland)は、ハンガリー国王ラヨシュ1世率いる軍勢がナポリ王国との間で1347年から1352年にかけて行った戦争である。.

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ラディズラーオ1世 (ナポリ王)

ラディズラーオ1世(Ladislao I, 1376年2月11日 - 1414年8月6日)は、ナポリ王(在位:1386年 - 1389年、1399年 - 1414年)。名目上はエルサレム王、シチリア王、プロヴァンス伯、ハンガリー王でもあった。アンジュー=シチリア家最後の男系男子である。.

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ルイ1世・ダンジュー

ルイ1世・ダンジュー(Louis I d'Anjou, 1339年7月23日 - 1384年9月20日)は、百年戦争期のフランスの王族。フランス王ジャン2世と妃ボンヌの次男。ヴァロワ=アンジュー家の祖。兄にシャルル5世、弟にベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)がいる。イタリア語名はルイージ1世・ダンジョ(Luigi I d'Angiò)。 ポワティエ伯(在位:1350年 - 1384年)、アンジュー伯(在位:1356年 - 1360年)、アンジュー公(在位:1360年 - 1384年)、メーヌ伯(在位:1356年 - 1384年)、トゥーレーヌ公(在位:1370年 - 1384年)、名目上のナポリ、エルサレムの王およびプロヴァンス伯(在位:1382年 - 1384年)。また、コンスタンティノープルの皇帝(ラテン帝国の皇帝)も称し(在位:1383年 - 1384年)、1380年のプロヴァンス遠征以降はプロヴァンス伯とともにフォルカルキエ伯にもなる。1370年にメーヌ伯領をトゥーレーヌ公領と交換した。.

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ルイ8世 (フランス王)

ルイ8世(Louis VIII, 1187年9月5日 - 1226年11月8日)は、フランス王国カペー朝第8代国王(在位:1223年 - 1226年)。フィリップ2世の長男。獅子王(le Lion)と呼ばれる。第一次バロン戦争中にはイングランド王位も宣言している(イングランド王ルイス1世)。.

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ルイ9世 (フランス王)

ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスはSaint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。.

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ロベルト1世 (ナポリ王)

ベルト1世(Roberto I, 1277年 - 1343年1月20日)は、アンジュー家のナポリ王(在位:1309年 - 1343年)。カルロ2世の三男。母はハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリア。ロベルト賢明王(Roberto il Saggio)と呼ばれる。教皇党(グエルフィ)のリーダーと見なされていたマックスウェル・スチュアート(1999)p.167。.

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ロベール1世 (アルトワ伯)

ベール1世(Robert Ier d'Artois, 1216年 - 1250年2月8日)は、フランス王ルイ8世と王妃ブランシュ・ド・カスティーユの息子で、ルイ9世の弟。カペー家の支流アルトワ家の祖。 兄ルイ9世と共に第7回十字軍に参加してアイユーブ朝統治下のエジプトを攻撃したが、カイロへ進軍途中の1250年にマンスーラの戦いで敗死した。なお、エジプトを征服したあかつきには、ロベール1世をエジプト王に擁立する話があったという。 1237年にブラバント公アンリ2世の娘マティルドと結婚し、1男1女をもうけた。.

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ヴァロワ家

ヴァロワ家(maison de Valois メゾン・ドゥ・ヴァルワ)は、フランス王国の王家。カペー家の分家であり、フィリップ3世の四男でフィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルに始まる。1328年から1589年の間に13代の王を出したが、庶流は19世紀末まで続いた。ここではヴァロワ家及びその分家について解説する。.

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ヴァロワ=アンジュー家

ヴァロワ=アンジュー家(仏:maison de Valois-Anjou)は、フランス王家であるヴァロワ家の支流の一つ。アンジュー家と呼ばれる家系のうち第3のものであり、ヴァロワ朝第2代の国王ジャン2世と妃ボンヌの次男アンジュー公ルイ1世に始まる。 アンジュー=シチリア家(第2のアンジュー家)とは、アンジューの領主を祖とすること、カペー家支流であることで共通しているが、ジャン2世の父方の祖母であるフランス王妃マルグリット・ダンジューがアンジュー=シチリア家出身であることから、直接的な血統のつながりもある。アンジュー伯領もまた、マルグリットから息子フィリップ6世を通じてヴァロワ王家に相続された後、1356年にルイ1世に与えられ、1360年にアンジュー公へ昇爵された。 ルイ1世はアンジュー=シチリア家のナポリ女王ジョヴァンナ1世の養子となり、1382年の女王の死後に王位継承権を主張した。以後14世紀から15世紀にかけて、ヴァロワ=アンジュー家の当主はアンジュー=シチリア家の支流であるアンジュー=ドゥラッツォ家と、ナポリ王位やナポリ王家の所領であったプロヴァンスを巡って争った。この時期に起こった教会大分裂にも関わり、ルイ1世と子のルイ2世はアヴィニョン対立教皇クレメンス7世の支持を受け、ローマ教皇ウルバヌス6世がナポリ王位を公認したアンジュー=ドゥラッツォ家のカルロ3世、ラディズラーオ父子と争った。 ヴァロワ=アンジュー家は百年戦争さなかに不遇にあったフランス王シャルル7世を庇護し、1422年にルイ2世の娘マリーを嫁がせた。ルイ11世はシャルル7世とマリーの間の息子である。 マリーの弟ルネは、アンジュー=ドゥラッツォ家最後の当主であるナポリ女王ジョヴァンナ2世の養子となって1435年にナポリ王位を継承するが、トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世に敗れて1442年にフランスへ逃げ帰った。他方、ルネはロレーヌ公家の相続人イザベルと結婚し、1431年にロレーヌ公位を獲得している。ルネの長女ヨランドの子孫からは神聖ローマ皇帝フランツ1世が出ている。ヨランドの妹マルグリットは、百年戦争の和平の一環でイングランド王ヘンリー6世と1445年に結婚し、薔薇戦争では王に代わってランカスター派の旗頭となった。 最後の当主であるシャルル5世が1481年に嗣子無くして没し、この家系は断絶した。その後、ルイ11世の息子であるフランス王シャルル8世はヴァロワ=アンジュー家の継承権を主張してナポリに軍を進め、イタリア戦争が勃発する。.

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ブランカ・デ・ナポレス

ブランカ・デ・ナポレス(Blanca de Nápoles, 1280年 - 1310年10月14日)は、アラゴン王ハイメ2世の2番目の王妃。ナポリ王カルロ2世と王妃マリアの娘。イタリア語名はビアンカ・ディ・ナポリ(Bianca di Napoli)またはビアンカ・ダンジョ(Bianca d'Angiò)。兄にナポリ王ロベルトがいる。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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フランス語

フランス語(フランスご)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語のひとつで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語(またはウィ語、langue d'oïl)が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語とも書く。 世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語で、フランス、スイス、ベルギー、カナダの他、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29カ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2,300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合等の公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、'''フランコフォン''' (francophone) と言う。.

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フィリッポ1世 (ターラント公)

フィリッポ1世(Filippo I, 1278年11月10日 - 1332年12月23日)は、アンジュー=シチリア家出身のターラント公(在位:1294年 - 1332年)、アルバニア王(在位:1294年 - 1332年)、アカイア公(在位:1307年 - 1313年)および名目上のラテン皇帝(フィリップ2世、在位:1313年 - 1332年)。 ナポリ王カルロ2世とハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マリアとの間の子として、ナポリで生まれた。.

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フィリップ3世 (フランス王)

フィリップ3世(Philippe III, 1245年4月30日 - 1285年10月5日)は、フランス王国カペー朝第10代の国王(在位:1270年 - 1285年)。ルイ9世と王妃マルグリット・ド・プロヴァンスの次男。大胆王(le Hardi)と呼ばれた。 勇猛だが、単純で騙され易いと評された。当初は、低い身分(トゥレーヌ地方の小貴族)出身のピエール・ド・ラ・ブロース(時にはピエール・ド・ブロスとも)を寵愛して臣下の反感を買い、後には野心家の叔父シャルル・ダンジュー(アンジュー伯、後にシチリア王)の操り人形といわれた。.

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フィリップ6世 (フランス王)

フィリップ6世(Philippe VI de Valois, 1293年 - 1350年8月22日)はヴァロワ朝初代のフランス王(在位:1328年 - 1350年)。アンジュー伯、メーヌ伯を兼ねる。フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルと最初の妃マルグリット・ダンジューの子。最初の妃はブルゴーニュ公ロベール2世の娘ジャンヌ。最晩年にエヴルー伯・ナバラ王フィリップ・デヴルーの娘ブランシュ・デヴルーと再婚した。.

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アルフォンス・ド・ポワティエ

アルフォンス・ド・ポワティエ (Alphonse de Poitiers、1220年11月11日 - 1271年8月21日)は、フランス王子。ルイ聖王の弟。1241年よりポワティエ伯、サントンジュ伯、オーヴェルニュ伯。結婚によって1249年よりトゥールーズ伯となった。.

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アンドレア・ドゥンゲリア

アンドレア・ドゥンゲリア(, 1327年10月30日 - 1345年9月18/19日)は、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の最初の夫。カラブリア公。またはアンドレア・ダンジョ()とも。ハンガリー語名はアニョウ・アンドラーシュ()またはエンドレ()。ハンガリー王ラヨシュ1世の弟にあたる。.

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アンジューの領主一覧

アンジューの領主一覧では、アンジューの統治者並びに名目上の称号保持者を列挙する。.

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アンジュー家

アンジュー家(アンジューけ、Angevin)は、フランス王国のアンジュー地方を統治した貴族の家系。4つの系統がある。.

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エレオノーラ・ダンジョ

レオノーラ・ダンジョ(Eleonora d'Angiò, 1289年8月 - 1341年8月9日)は、シチリア王フェデリーコ2世の王妃。父はナポリ王カルロ2世、母はハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアで、2人の間の三女である。.

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カペー家

ペー家(Capétiens)は、フランスのパリ周辺、イル=ド=フランスに起源を持つ王家。2人の西フランク王を出したロベール家の後身である。家名は始祖のユーグ・カペーに由来するが、カペー(capet)とは短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であった。 カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。.

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カルロ (カラブリア公)

ラブリア公カルロ(Carlo, Duca di Calabria, 1298年 - 1328年11月9日)は、ナポリ王ロベルト・ダンジョとヨランダ・ダラゴーナ(アラゴン王ペドロ3世の娘)との息子である。.

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カルロ1世 (シチリア王)

ルロ1世(Carlo I d'Angiò, 1227年3月21日 - 1285年1月7日)は、シチリア王(在位:1266年 - 1282年)、後にナポリ王(在位:1282年 - 1285年)。カペー系アンジュー家(アンジュー=シチリア家)の祖で、フランス王ルイ8世と王妃ブランシュ・ド・カスティーユの子。ルイ9世の末弟。シチリア王位に就くまでの活躍により、フランス語名を元にアンジュー伯シャルル、シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou)と表記されることが多い。本項でも以降シャルルと表記する。 フランス南部やイタリア北部に積極的な勢力拡大を行い、ローマ教皇の支持を得てホーエンシュタウフェン家を滅亡させシチリア王国を征服し、さらには東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建設を夢見たが、シチリアの晩祷事件を契機に失敗に終わった。.

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カルロ2世 (ナポリ王)

ルロ2世の紋章 カルロ2世(Carlo II d'Angiò, 1248年/1254年 - 1309年5月5日)は、ナポリ王(在位:1285年 - 1309年)。シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)と最初の妃ベアトリス・ド・プロヴァンスの子。 1282年、父カルロ1世がシチリア晩祷戦争でシチリアを追われると、父と共にナポリに逃亡してアラゴン王ペドロ3世と戦う。しかし1284年、アラゴン海軍と戦って敗れて捕虜となった。 1288年、シチリアを完全放棄するという条件で釈放され、既に没していた父の後を継いでナポリ王として即位する。しかし父以来の宿願であるシチリア奪還を諦めず、1289年には巧みな政治工作でローマ教皇ニコラウス4世からシチリア王として戴冠を受けた。また、妃であるハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアとの間の長男カルロ・マルテッロを神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の娘クレメンツィアと結婚させた上、ハンガリー摂政を名乗らせて同国の王位継承争いに介入した(カルロ・マルテッロは1295年に23歳の若さで死亡したが、後にその息子のカルロ・ロベルトがハンガリー王カーロイ1世となる)。 こうした情勢を背景にして、ペドロ3世の三男のシチリア王フェデリーコ2世と戦ったが、シチリアを奪還することはできず、1295年に次女ビアンカをアラゴン王ハイメ2世(ペドロ3世の次男でフェデリーコ2世の兄、当時シチリア王を兼ねた)と、1297年に三男ロベルトをフェデリーコ2世の妹ビオランテと、1302年に三女エレオノーラをフェデリーコ2世とそれぞれ結婚させ、アラゴン家との和平を図っている。 カルロ2世は父からアカイア公国も継承したが、自身がシチリア王として戴冠した1289年に弟フィリッポ(1277年没)の未亡人であったイザベル・ド・ヴィルアルドゥアンがラテン帝国継承者の近親フロラン・ド・エノーと再婚すると、これに譲った。しかしフロランの死後(1297年)、1301年にイザベルがフィリップ・ド・サヴォワと再々婚して共治に乗り出したことには難色を示し、これを廃して自身の四男ターラント公フィリッポを公位に就けた(1306年6月5日)。 1309年にナポリで死去し、三男ロベルトが王位を継承した。.

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カルロ3世 (ナポリ王)

ルロ3世(Carlo III, 1345年 - 1386年2月24日)は、アンジュー家出身のナポリ王(在位:1382年 - 1386年)およびハンガリー王(カーロイ2世、II.

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カルロ・マルテッロ・ダンジョ

ルロ・マルテッロ・ダンジョ(, 1271年9月8日 - 1295年8月12日)は、ハンガリー王位請求者。ハンガリー語名でアニョウ・マルテル・カーロイ()、フランス語名でシャルル・マルテル・ダンジュー()とも呼ばれる。アンジョ=シチリア家の分枝の一つでハンガリー王家となったアンジュー=ハンガリー家の祖である。.

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カルロ・ディ・ドゥラッツォ

ルロ・ディ・ドゥラッツォ(Carlo di Durazzo, 1323年 - 1348年1月23日)は、ナポリ王国の貴族。アンジュー=シチリア家のジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォとアニェス・ド・ペリゴールとの間の息子。ドゥラッツォ公。.

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カーロイ1世

ーロイ1世(I.

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クレマンス・ド・オングリー

レマンス・ド・オングリー(Clémence de Hongrie, 1293年 - 1328年10月12日)は、フランス王ルイ10世の2度目の王妃。クレマンス・ダンジュー(Clémence d'Anjou)とも呼ばれる。.

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シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

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シチリア王国

チリア王国(シチリアおうこく、Regnum Siciliae, Regno di Sicilia)は、中世から近世にかけて、シチリア島やイタリア半島南部を支配した王国。現在は、その領域はほぼイタリア共和国領の一部となっている。.

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シャルル (ヴァロワ伯)

ャルル・ド・ヴァロワ(Charles de Valois, 1270年3月12日 - 1325年12月16日)は、フランス王フィリップ3世と最初の妃イザベル・ダラゴンの息子でフィリップ4世の弟。ヴァロワ家の祖であり、1328年に即位したフィリップ6世の父である。1284年に父フィリップ3世によりヴァロワ伯に叙せられ、また1297年に兄フィリップ4世によりアンジュー伯に叙せられた。.

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シャルル5世 (フランス王)

ャルル5世(Charles V, 1338年1月21日 ヴァンセンヌ - 1380年9月16日 ボテ=シュル=マルヌ城)は、フランス・ヴァロワ朝第3代の王(在位:1364年 - 1380年)。賢明王(ル・サージュ、le Sage)と呼ばれる。中世末期の行政機構の研究家フランソワーズ・オトランはシャルル5世を税金の父と呼ぶ。最初にドーファン(Dauphin)の称号を有した王太子である。.

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ジャン2世 (フランス王)

ャン2世(Jean II, 1319年4月16日 - 1364年4月8日)は、フランス・ヴァロワ朝の第2代国王(在位:1350年 - 1364年)。初代国王フィリップ6世と王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュの子。善良王(le Bon)と呼ばれた。.

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ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)

ョヴァンナ1世・ダンジョ(Giovanna I d'Angiò, 1327年 - 1382年5月12日)は、ナポリ女王(在位:1343年 - 1382年)。エルサレム女王、シチリア女王、アカイア公、プロヴァンス伯、フォルカルキエ伯の称号を有した。ナポリ王ロベルトの長男カラブリア公カルロと、フランス王フィリップ6世の異母妹マリーア・ディ・ヴァロワの娘。.

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ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)

ョヴァンナ2世(Giovanna II, 1373年6月23日 - 1435年2月2日)は、アンジュー=ドゥラッツォ家のナポリ女王(在位:1414年 - 1435年)。名目上はエルサレム、シチリア、ハンガリーの女王でもあり、また王位継承以前にはオーストリア公妃でもあった(ドイツ語名はヨハンナ・フォン・アニョウ=ドゥラッツォ Johanna von Anjou-Durazzo)。.

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ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ

ョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ(Giovanni di Durazzo, 1294年 - 1336年4月5日)は、ナポリ王カルロ2世と王妃マリア・ドゥンゲリアの末息子で、アンジュー=シチリア家の分枝アンジュー=ドゥラッツォ家の祖。グラヴィーナ伯(1315年 - 1336年)、ドゥラッツォ公(1332年 - 1336年)、アカイア公(1322年 - 1332年)。ジョヴァンニ・ディ・グラヴィーナ(Giovanni di Gravina)、ジョヴァンニ・ダンジョ(Giovanni d'Angiò)とも。兄にハンガリー王位請求者カルロ・マルテッロ、ナポリ王ロベルト、ターラント公フィリッポ1世らがいる。 1318年、アカイア女公マオー・ド・エノーと結婚したが、1321年解消した。アカイア公位はマオーから没収され、兄ナポリ王ロベルトを経て、1322年にジョヴァンニに与えられた。 1321年に結婚した2番目の妻アニェス・ド・ペリゴールとの間に4男をもうけた。.

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