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アレクサンドロフ (都市)

索引 アレクサンドロフ (都市)

アレクサンドロフの紋章 アレクサンドロフ(Алекса́ндров, Alexandrov)はロシア・ヴラジーミル州の歴史ある都市。モスクワから北東へ約120km。人口は64,824人(2002年国勢調査)。 16世紀初頭にモスクワ大公国の大公ヴァシーリー3世が街を建て、趣味の狩猟のための屋敷を設けたことにはじまる。 アレクサンドロフ郊外のセラヤ川 アレクサンドロフの宮殿・聖堂群、アレクサンドロフスカヤ・スロボダ アレクサンドロフの街は、1564年12月から1565年2月までの三ヶ月の間だけロシアの首都であった。突如モスクワからこの街に都を移したツァーリ・イヴァン4世(イヴァン雷帝)は、貴族たちの嘆願により、三ヶ月後にようやく宮廷およびモスクワ大公国の王権の象徴となる品々のモスクワへの帰還に同意した。しかしツァーリ自身はモスクワへ戻るにあたり、教会にオプリーチニナ制度の創設を認めさせた。 悪名高いオプリーチニナ体制下では、ロシア・ツァーリ国の国土が、従来の貴族会議の影響の及ばない新設されたツァーリ直轄領・オプリーチニナと、従来の制度が適用されるそれ以外の国土・ゼームシチナに二分され、オプリーチニナの中ではツァーリによる独裁が行われ多数の貴族・聖職者らがオプリーチニキにより粛清された。オプリーチニナの行政府はアレクサンドロフに置かれイヴァン4世はアレクサンドロフの離宮でオプリーチニキらとともに過ごしたため、1572年の突然のオプリーチニナ廃止までの間はアレクサンドロフが事実上の首都であった。その後もイヴァン4世は晩年の1581年までアレクサンドロフ離宮で過ごした。 アレクサンドロフスカヤ・スロボダ(アレクサンドロフ離宮、アレクサンドロフ集落)は、至聖三者大聖堂(1513年)など16世紀前半から17世紀にかけて建設された多数の聖堂や宮殿建築の複合体であり、頑丈な城壁や塔に囲まれている。現在は博物館が中にあり、イヴァン雷帝の生涯や業績などの紹介や、イヴァン雷帝の象牙の王冠などの収蔵品の展示を行っている。市街地にも古い聖堂や美術館などの見どころがある。.

20 関係: 人口モスクワモスクワ大公国レガリアロシアロシア・ツァーリ国ヴラジーミル州ヴァシーリー3世ツァーリイヴァン4世オプリーチニナオプリーチニキ至聖三者大聖堂1513年1564年1565年1572年1581年16世紀2002年全ロシア国勢調査

人口

人口(じんこう、仏: 英: Population、独: Bevölkerung)は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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モスクワ大公国

1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.

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レガリア

レガリア(regalia)・リゲイリア(regalia)は、王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品である。また、王の所有する特権(貨幣鋳造権、採掘権など)を指すのにも使用される。 「王の物」を意味するラテン語 regalis の複数形で、1530年代から使用されるようになった。 天叢雲剣などの刀剣、伝国璽などの印璽が用いられる例があるほか、西欧諸国においては王冠・王笏・宝珠の3種がよくみられる。あるいは広く、地位や官位を示す記章など。特に英米では、卒業式の正装一式をリゲイリアと呼び、ガウン・帽子・タッセル・フードなどからなる。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア・ツァーリ国

ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.

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ヴラジーミル州

ヴラジーミル州(ウラジーミル州とも、Владимирская областьヴラジーミルスカヤ・オーブラスチ)は、ロシア連邦を構成する州(オーブラスチ)の一つ。 面積2万9000平方キロメートル、人口152万3990人(2002年現在)。ロシアの古都ウラジーミルが州都となっている。かつてはウラジーミル大公国が置かれており、ロシアの中心地であった。.

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ヴァシーリー3世

ヴァシーリー3世(Василий III Иванович、1479年3月25日 - 1533年12月4日)はモスクワ大公(在位:1505年 - 1533年)。イヴァン3世の次男、母はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスの娘ソフィヤ。イヴァン4世の父。 1490年代、ヴァシーリーと異母兄イヴァンの遺児ドミトリーとの間で、双方の母親ゾエとエレナを中心に激しい後継者レースが展開された。イヴァン3世は1497年一旦は孫のドミトリーを共同統治者としたものの、1500年にはヴァシーリーを共同統治者および後継者に指名し、ドミトリーとその母親エレナは失脚した。この争いには正教会と「ユダヤ派」という異端との宗派対立も絡んでおり、ヴァシーリーは正教会側に担がれていた。 即位後は父親の領土併合・拡張政策を継承し、未婚で死去した二人の弟の領地を奪って分割相続の弊害を抑止した。さらにプスコフ共和国(1510年)、ヴォロク公国(1513年)、リャザン公国(1521年)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国(1522年)など近隣地域をモスクワ国家に組み込む。リトアニア大公国との戦いでも勝利してスモレンスクなどを獲得した。南方ではカザン・ハン国に親モスクワ派のハンを立てた。外交にも積極的で、神聖ローマ帝国やオスマン帝国、ムガル帝国に使節を送った。内政では地方行政を整備して直接統治に移行させ、財政・外交分野の専門家を登用して非貴族出身者にも役人となる道を開いた。また正教会との関係も一気に強まり、ツァーリが教会を保護する義務を負い、教会がツァーリ権力を支持するという形が定まった。 ヴァシーリー3世は1505年に即位すると伝統の花嫁コンテストを開き、1500人の高貴な娘の中からソロモニヤ・サブーロヴァを妻に選んだ。しかし子供に恵まれず、1525年、府主教ダニールに婚姻無効の宣言させ、彼女を修道院に幽閉する。1526年、タタールの血を引くリトアニア生まれの大貴族の娘エレナ・グリンスカヤと再婚し、間に後継者イヴァンおよびユーリーの二人の息子をもうけた。 この離婚と再婚の経緯に対しては、聖マクシム・グレクが反対したが、ためにマクシムは投獄されることとなった。マクシムはその前に、異端の出現による思想的混乱の終息をねらって聖書・各種祈祷書等を翻訳させるために、ヴァシーリー3世がギリシャのアトス山から呼び寄せていた修道士であった。 1533年12月に敗血症で没し、幼いイヴァン4世のもとで大貴族が権力を奪い合う時代が続いた。ヴァシーリー3世は狩猟や修道院巡礼を趣味とし、西欧の思想・技術にも関心を抱く開明的な君主だったという。.

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ツァーリ

ツァーリ(царь)あるいはツァール(ブルガリア語、セルビア語、ウクライナ語:цар)は、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された君主の称号。当初は、ギリシャ語の「バシレウス」と同様に東ローマ皇帝や聖書に登場する王を指す語であったが、やがて(大公の称号より上ではあるが皇帝の称号より下である)一部の国の王やハーンを指す語としても用いられるようになった。 ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ皇帝の有する称号として「カエサル」という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。モスクワ大公らが用いたこの称号を西欧語において「王」と訳すか「皇帝」と訳すかについては中世ヨーロッパにおいても外交上の問題として議論があった。漢語においても「王」とも「皇帝」とも訳す。 民話においては、「善き王」を意味する。.

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イヴァン4世

イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。.

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オプリーチニナ

プリーチニナ、オプリチニナ(опричнина アプリーチュニナ ローマ字表記:Oprichnina)は、ロシア・モスクワ国家の皇帝(ツァーリ)イヴァン4世が創設した制度。 1565年、イヴァン4世は国土をツァーリの私的な領地(オプリーチニナ)と公的な国土(ゼムシチナ、オプリーチニナ以外の貴族領)の二つに分割し、私的な領地オプリーチニナにおいて独裁権力を行使して従来の有力者である貴族らを弾圧した。 オプリーチニナとは「別個に設けられた財産」のことであり、イヴァン4世に忠実なエリート階級の親衛隊(オプリーチニキ)によって管理された。この財産にふくまれた地域の諸公・貴族らは処刑されたり、ゼムシチナに移住させられたりした。.

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オプリーチニキ

プリーチニキ(ロシア語:Опричники アプリーチュニキ ローマ字表記:Oprichniki)とは、イヴァン雷帝の直轄領オプリーチニナを治めるために集められた、ツァーリだけに忠実なエリート階級の親衛隊のこと。 オプリーチニキは階級を表す複数形でもあり、個人を表す単数形ではオプリーチニク(Опричник アプリーチュニク ローマ字表記:Oprichnik)となる。.

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至聖三者大聖堂

至聖三者'''」 至聖三者聖セルギイ大修道院内にある至聖三者大聖堂。1422年から1423年に建設された。 至聖三者大聖堂(しせいさんしゃだいせいどう、英語:Holy Trinity Cathedral、ロシア語:Троицкий собор トローイツキイ・サボール)とは、至聖三者を記憶する正教会の大聖堂。当記事では非カルケドン派のものも含めた世界各地に存在する至聖三者大聖堂の一覧を掲載する(下方)。大聖堂のみならず、修道院や通常の聖堂にも至聖三者を記憶する「至聖三者修道院」「至聖三者聖堂」「至聖三者教会」は数多くあり、当記事の一覧でも若干扱う。 「至聖三者」とは「三位一体の神」を意味する日本正教会の用語である。「三位」「一体」それぞれの語は日本正教会でも忌避されないが、「三位一体」のようにセットで用いられる事は日本正教会ではまれであり、「三位一体聖堂」「三位一体大聖堂」といった表記は日本正教会では用いられない。単に「聖三者」とも奉神礼では呼ばれるが、修道院や聖堂の名には「至聖三者」を用いる慣例がある。 トロイツキー大聖堂もしくはトロイツキー聖堂とも呼ばれるが、これはロシア語で「至聖三者」(Троица)を意味する形容詞"Троицкий"をそのまま片仮名で転写したものである。したがって、非スラヴ語圏の正教会(グルジア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会など)の至聖三者大聖堂には、トロイツキー大聖堂との呼称は滅多に使われない。.

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1513年

記載なし。

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1564年

記載なし。

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1565年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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2002年全ロシア国勢調査

2002年全ロシア国勢調査票(簡易調査プログラム) 2002年全ロシア国勢調査(Всеросси́йская пе́репись населе́ния 2002 го́да)は2002年10月9日から10月16日まで、ロシア連邦民およびロシア連邦内の外国人・無国籍者を対象に連邦国家統計局が行った国勢調査。 国際連合の基準では国勢調査の間隔は10年であるが、先回の国勢調査は共産党時代で、1989年1月に行われた。 この調査には48億ルーブルかかった。.

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