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アポストル

索引 アポストル

アポストル.

6 関係: 使徒トム・アポストルダヌィーロ・アポーストルアポーストル家アポストル群島セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル

使徒

使徒(しと)は、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。広義には、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「遣わされた者」)および、その宣教者の称号である。 原語のギリシア語はαπόστολος (apostolos) で、「派遣された者」が原義である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない(apostolus、apôtre、Apostel、apostleなど)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、イスラム教においては、ラスール(rasūl, رسول)という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。.

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トム・アポストル

トム・アポストル(Tom Apostol、1923年8月20日 - 2016年5月8日)は、アメリカ合衆国の数学者。専門は解析的整数論。 ユタ州ヘルパーに生まれ、ワシントン大学で数学を学び理学士号と修士号を取得後、カリフォルニア大学バークレー校で数学で博士号を獲得。カリフォルニア大学バークレー校、マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア工科大学に勤めた。学部生、大学院生を対象とした重要な教科書を多く著した。.

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ダヌィーロ・アポーストル

ダヌィーロ・アポーストル(Данило Апостол、1654年12月4日 - 1734年1月17日)は、ウクライナ・コサックの頭領。1668年から1727年にかけてヘーチマン国家ムィールホロド連隊の連隊長、1727年から1734年にかけてはヘーチマン国家(左岸ウクライナ)のヘーチマン。「独眼の頭領」と呼ばれた。.

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アポーストル家

アポーストル家の紋章。 ウクライナのヘーチマン、ダヌィーロ・アポーストル ロシアの革命家、セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル アポーストル家(ウクライナ語:Апостоли)は、17世紀半ばから19世紀前半にかけて存在したウクライナ・コサック長官の氏族の一つである。モルダヴィア公国の士族出身。18世紀末にロシア帝国の貴族となった。アポストルとも。.

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アポストル群島

ウィスコンシン州アシュランド郡の地図(1895年)。北部にアポストル群島がある アポストル群島(Apostle Islands;“使徒群島”)はアメリカ合衆国ウィスコンシン州の北部、スペリオル湖ベイフィールド半島の先に浮かぶ22の島々の総称である。 島の多くはアシュランド郡に属し、サンド島、ヨーク島、イーグル島、ラズベリー諸島はベイフィールド郡に属している。 マデリン島を除く島々は全てアポストル群島国立湖岸の区域内に指定されている。島々はスペリオル湖・チペワ族にとっての精神的な故郷である。ヌーベルフランスの歴史家ピエール・フランソワ・シャヴィエル・ド・シャルルヴォワによって十二使徒ちなみアポストル群島(使徒群島)と名付けられた。.

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セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル

ルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル セルゲイ・イワノヴィッチ・ムラヴィヨフ=アポストル(Сергей Иванович Муравьев-Апостол、Sergey Ivanovich Muravyov-Apostol、 1796年10月9日 – 1826年7月25日)は、帝政ロシアの軍人。陸軍中佐。デカブリストの乱の首謀者の一人として処刑された。弟のイポリットとマトヴェイの二人もデカブリストの乱に参加している。 1796年10月9日にサンクトペテルブルクに生まれる。父イワンは外交官で、父の赴任先であるハンブルクとパリで少年時代を過ごした。帰国後、サンクトペテルブルク道路技術学校(Петербургский Институт Инженеров Путей Сообщения、Saint Petersburg Institute of Road Engineers)を卒業し、1811年ロシア帝国軍に入った。 1812年ロシア戦役(祖国戦争)が開始されると、各地に転戦した。ヴィテプスクの戦い、ボロジノの戦い、タルティノの戦い、マロヤロスラヴェツの戦いで勇戦し、ベレジナ川の戦いでの功績により、黄金の名誉の剣を授与された。さらに、ライプツィヒの戦いに従軍し、1814年アレクサンドル1世に従いパリに入場した。功二級聖アンナ勲章(Order of St. Anna)に叙された。 ナポレオン戦争後、彼は中尉(中佐?):en:poruchikに任命され、セミョーノフスキー近衛連隊長に任命される。1820年同連隊の反乱事件後、1822年ポルタヴァ連隊を経て、チェルニゴフ連隊に中佐として配属された。 1817年1月2日から1818年12月22日にかけて、フリーメイソンに加入している。1816年ムラヴィヨフ=アポストルは、「救済同盟」に参加し、さらに1818年「福祉同盟」にも参加している。1821年の「福祉同盟」解散後は、「南方結社」に参加し指導者のひとりとして「南方結社」と「統一スラブ派」の連絡・調整に当たった。ムラヴィヨフ=アポストルは、同じく「南方結社」の指導者パーヴェル・ペステリ大佐とともに共和国樹立、農奴制廃止を明確に支持した。 1825年デカブリストの乱が起こり、ペテルブルクの同志の蜂起が鎮圧されると、12月29日チェルニゴフ連隊の蜂起を指揮した。翌1826年1月3日政府軍によって鎮圧され、ムラヴィヨフ=アポストルは散弾によって重傷を負い捕虜となった。弟のイポリットは、戦いの中、血まみれの兄を見て戦死したと思い頭に銃弾を打ち込み拳銃自殺を遂げた。 1月20日身柄をサンクトペテルブルクの特別法廷に移される。ペステリ、ピョートル・カホフスキー、コンドラチイ・ルイレーエフ、ミハイル・ベストゥージェフ=リューミンの4人とともに首謀者とされ、四つ裂き刑を宣告されたが、後に絞首刑に変更された。 そして1826年7月25日、ペトロパヴロフスク要塞で刑が執行された。絞首台にかけられ、足元の踏み台が外された時、前夜からの雨で濡れた輪縄がはずれて、5人は、一度地面に落ちてしまった。その時ムラヴィヨフ=アポストルは「情けないロシアだ!」と苦々しげに一人ごちたと伝えられる。処刑後、ペテルブルク・コロデイ島に秘密裏に葬られた。.

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