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アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)

索引 アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)

アッピウス・クラウディウス・プルケル(Appius Claudius Pulcher、紀元前2世紀、生没年不詳)は、共和政ローマの元老院議員。父は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟にはプブリウス・クラウディウス・プルケルがいる。 197年から3年間。ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス配下のトリブヌス・ミリトゥムとしてアンティゴノス朝(マケドニア王国)のフィリッポス5世と戦う。紀元前191年にはセレウコス朝のアンティオコス3世と対戦、続いて執政官マニウス・アキリウス・グラブリオの指揮下でアエトリアに遠征した。そして紀元前187年にプラエトルとしてタレントゥム(現ターラント)の総督となる。 紀元前185年に執政官としてリグリアに出征、そして議会に強行介入して紀元前184年に兄弟のプブリウスをコンスルにさせ、自らはマケドニアとギリシアへ赴き、動向を探った。紀元前176年にはマケドニア王ペルセウスに対抗するために外交のためアエトリアに赴いている。.

26 関係: 執政官ペルセウス (マケドニア王)マニウス・アキリウス・グラブリオリグーリア州トリブヌス・ミリトゥムプラエトルプブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官)ピリッポス5世ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスアンティオコス3世アンティゴノス朝アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)アイトーリアガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官)ギリシャセレウコス朝ターラント共和政ローマ元老院 (ローマ)紀元前176年紀元前184年紀元前185年紀元前187年紀元前191年紀元前2世紀197年

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

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ペルセウス (マケドニア王)

ペルセウス(Περσεύς, ラテン文字表記:Perseus, 在位:紀元前179年 - 紀元前168年)は、アンティゴノス朝マケドニア最後の王である。印欧語ではマケドニアのペルセウスの呼び名が用いられることもある。新興目覚しかった共和政ローマと対立し、第三次マケドニア戦争を勃発させするも敗北。廃位され、ここにアンティゴノス朝は滅亡した。 紀元前179年、父ピリッポス5世が没するとペルセウスは王位に就いた。前年にはペルセウスの讒言で王族内でのローマの擁護者であった弟デメトリオスが処刑されている。ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍にペルセウスは嫉妬し、父ピリッポスをけしかけてデメトリオスを王位簒奪者として断罪、処刑させたと言う。これによりマケドニアとローマの関係は冷却した。 ペルセウスが王位に就くとローマとの関係が見直され、マケドニアは反ローマの姿勢を示した。ペルセウスはデルフォイを訪問する際に軍隊を率いて赴き、またローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにした。これらはローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。 紀元前171年に第三次マケドニア戦争が勃発。ペルセウスは戦争初期にはある程度の成功を収めるものの、次第に状況はマケドニアに不利となった。紀元前168年にピュドナの戦いで致命的な敗北を喫すると、ローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏した。 降伏後、ペルセウスは捕虜として獄につながれて廃位され、マケドニアは4つの共和国に分割され、これを以ってアンティゴノス朝マケドニア王国は同年に滅亡した。第四次マケドニア戦争でローマに反乱を起こしたものの、マケドニアはローマに吸収され、紀元前146年にマケドニア属州が置かれた。 2005年にイタリアのラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け、注目を浴びた。.

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マニウス・アキリウス・グラブリオ

マニウス・アキリウス・グラブリオ(Manius Acilius Glabrio)は、共和政ローマの元老院議員。主に東方ギリシアを活躍の場とした。 紀元前191年にスキピオ・ナシカとともに執政官となる。そしてセレウコス朝シリアのアンティオコス3世と戦い、勝利する。その後も東方の動向、とくにアエトリア同盟の結束に努める。しかしながら結束はうまくはいかずにティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスの介入により同盟の結束を保てるようになった。 紀元前189年にグラブリオはケンソルに立候補、しかし疎外され、シリアでの略奪品の横領疑惑で告発され、立候補を取り下げた。.

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リグーリア州

リグーリア州(Liguria)は、イタリア共和国北西部の州。州都はジェノヴァ。 リグリア海(地中海の一部)北岸に沿って広がり、西にフランスと接する。リグーリア海岸は南フランスから続く「リヴィエラ(イタリア語で岸の意)」の一部であり、温暖な気候と風光明媚な景観により、国際的な観光地として知られる。.

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トリブヌス・ミリトゥム

トリブヌス・ミリトゥム(tribunus militum)は、古代ローマの軍団(レギオー)における高級将校・幕僚。語義は「兵士の長」。「軍団司令官」などと訳されることもあるが、実戦の司令官ではなかったとされている。 共和政ローマでは、元老院議員クラスから選出され、1個軍団当たり定員6名が配属された。たとえば、コンスル(執政官)が4個軍団を率いると、計24名のトリブヌス・ミリトゥムがいた計算になる。 各軍団の6名は、2名ずつ3組に分かれ、2か月ごとに交代で軍団を統括した。マリウスの軍制改革以降では、レガトゥス・レギオニス(軍団長)配下の幕僚として働いた。実戦においてコホルス(歩兵大隊)やマニプルス(歩兵中隊)などの部隊を指揮することはなかったようである。.

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プラエトル

プラエトル(Praetor)は、古代ローマの政務官職の一つ。日本語では法務官と訳される。共和政ローマではコンスルに次ぐ公職で、インペリウムを保有し、主に司法を担当した。 その成立については諸説あるが、ローマ社会を統率する者が「コンスル」と呼ばれる以前の呼称として「プラエトル」が使われていたといわれるp4, Nicholas, Barry著、「An Introduction to Roman Law」(1975年、Oxford University Press) ISBN 0-19-876063-9。共和政初期には、プラエトルは軍事的な司令官の意味合いが強かった。また、階級闘争の過程で公職が開放される中で、コンスルがプレブスにも開放されたのに対して、紀元前337年にクィントゥス・プブリリウス・ピロが選出されるまではプラエトルに就任できたのはパトリキ(貴族)のみであった。紀元前305年に、それまでプラエトルがこなした業務はコンスルが行うようになり、プラエトルはインペリウムを保持しつつコンスルに次ぐ公職となった。 当初は1名であったが、紀元前227年以降増員され、ローマ市民権を保有するローマ市民に関する司法を担当する首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)と、ローマに滞在する外国人の司法を担当する外国人係プラエトル(プラエトル・ペレグリヌス)の2名が首都に配置されるようになった。その後、ローマが属州を獲得すると再び増員され、首都の2名以外はインペリウム保有者として属州総督の任にあたった。 ルキウス・コルネリウス・スッラがローマを掌握して改革を実施した際、プラエトルを8人に増員、性質も変化し、全員が首都に置かれて司法を担当することとなった。.

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プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官)

プブリウス・クラウディウス・プルケル(Publius Claudius Pulcher)は、共和政ローマの元老院議員。父はアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟には父と同名のアッピウス・クラウディウス・プルケルがいる。 紀元前189年にアエディリスに、紀元前188年にはプラエトルに、紀元前184年には前年の兄弟アッピウスに続いてコンスルに選出される。そしてエトルリア地方沿岸部の植民都市の建設を担う3人の委員の1人として任命された。.

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ピリッポス5世

ピリッポス5世(Φίλιππος Ε΄, ラテン文字表記:Philippos V, フィリッポスとも、紀元前238年 - 紀元前179年)は、アンティゴノス朝マケドニア王国の王(在位:紀元前221年 - 紀元前179年)である。父はデメトリオス2世で、息子にはアンティゴノス朝最後の王ペルセウスがいる。 ピリッポス5世は第一次マケドニア戦争、第二次マケドニア戦争にて西方からの新興勢力であった共和政ローマと戦ったが敗北し、以降はローマとの同盟関係を重視また利用してマケドニアのギリシア近隣での影響力の強化に努めた。.

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ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス

ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス(Titus Quinctius Flamininus, 紀元前228年 - 紀元前174年頃)は、共和政ローマの軍人、元老院議員。第二次ポエニ戦争後のマケドニア遠征で主に活躍した。.

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アンティオコス3世

■部分、紀元前225年頃) アンティオコス3世(Αντίοχος Γ' ο Μέγας、紀元前241年 – 紀元前187年、在位:紀元前223年‐紀元前187年)は、セレウコス朝の君主。 セレウコス朝のセレウコス2世の息子。兄弟であったセレウコス3世が暗殺されたのを機に即位した。前代まで縮小傾向にあったセレウコス朝の領土を拡大し、東方はインドにまで遠征して大王の称号を得た。紀元前189年ローマとの戦争に敗れる。.

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アンティゴノス朝

アンティゴノス朝(、紀元前306年 - 紀元前168年)は、アレクサンドロス3世(大王)のディアドコイ(後継者)の一人、アンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)の子孫がギリシャマケドニア地方に築いた、ペラを首都とする王国。.

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アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)

アッピウス・クラウディウス・プルケル(Appius Claudius Pulcher、 ? - 紀元前212年)は、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの元老院議員。父はプブリウス・クラウディウス・プルケル、息子は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、プブリウス・クラウディウス・プルケル、ガイウス・クラウディウス・プルケル。 紀元前217年、アエディリスに選ばれ、翌年トリブヌス・ミリトゥムへ、カンナエの戦いでハンニバルに敗れるが、彼は生き残った。紀元前215年にプラエトルに就任、この間にシチリア島のヒエロニムスとカルタゴの間を引き裂く事に努めるが、うまくはいかなかった。翌年もプロプラエトル待遇でこの地に留まり、マルクス・クラウディウス・マルケッルスに合流、レオンティウム(現レンティーニ)に駐留する。 紀元前212年にコンスルに選ばれ、クィントゥス・フルウィウス・フラックスとともにカプアを包囲、任期終了まぎわにローマに赴き、元老院を説得、再びコンスルに選ばれ、軍事権の延長の許可をもらった。そしてカプア包囲中にハンニバルと戦闘、カプアはローマに降伏したが、この戦闘で彼は負傷、降伏の直後に没した。ローマに反旗を翻したカプアの報復措置に彼は反対の立場を取っていたと言う。.

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アイトーリア

アイトーリア アイトーリア(Αἰτωλία / Aitōlía)は、古代ギリシアの地方の一つ。コリンティアコス湾北岸の山岳地方を指し、現代のエトリア=アカルナニア県の東部にあたる。.

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ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官)

イウス・クラウディウス・プルケル(Gaius Claudius Pulcher、 ? - 紀元前167年)は、共和政ローマの元老院議員。父はアッピウス・クラウディウス・プルケル。 アウグルに紀元前195年、プラエトルに紀元前180年に選ばれる。紀元前177年にコンスルに就任、イストリア半島に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度はリグリアへ、そして勝利を収める。紀元前169年にケンソルに選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルのティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして紀元前167年に外交業務のためにマケドニアへ赴き、同年死去した。.

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ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

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セレウコス朝

レウコス朝(セレウコスちょう、Αυτοκρατορία των Σελευκιδών、紀元前312年 - 紀元前63年)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがオリエント地方に築いた王国。セレウコス帝国またはセレウコス朝シリアと表記されることもある。 はじめメソポタミア(イラク)地方に興り、シリア、アナトリア、イランなどにまたがる広大な領域を支配した。長くアンティオキアを首都とした。.

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ターラント

ターラント(Taranto)は、イタリア共和国プッリャ州南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)。ターラント県の県都である。 南イタリアではナポリ、バーリに次いで3番目に大きな都市である。ターラントは重要な軍港と商業港を有し、製鉄所、石油精製工場、化学工場、造船所(軍艦)、食品加工工場等が存在する。また、ターラントは1940年にイギリス軍のタラント空襲があったことでも有名である。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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元老院 (ローマ)

チェーザレ・マッカリ画(1888年) 現存する帝政ローマ期の元老院議事堂であるフォルム・ロマヌムのクリア・ユリア 元老院(げんろういん、senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。.

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紀元前176年

紀元前176年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前184年

紀元前184年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前185年

紀元前185年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前187年

紀元前187年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前191年

紀元前191年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前2世紀

紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。.

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197年

記載なし。

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