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韋昌輝

索引 韋昌輝

韋 昌輝(い しょうき、Wei Changhui、1823年または1826年 - 1856年11月2日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から北王に封ぜられ、六千歳と称した。チワン族出身。 広西省桂平出身。富農の家庭に生まれ、科挙を何度も受験するが失敗に終わった。1848年、洪秀全の開いた拝上帝会に入会し、多額の寄進を行った。1851年、拝上帝会が金田蜂起を行うと、右軍主将・北王に封ぜられた。1853年、南京を攻略して天京と改称すると韋昌輝はその防備に当たった。しかしその翌年ごろより太平天国の実権を握った東王楊秀清と不和になった。 1856年、天王洪秀全の密勅を受けて燕王秦日綱と結んで、東王府を襲撃して楊秀清とその一党を殺害した。その数は2万人といわれる。翼王石達開が天京に戻り、死者の多さを非難したため、韋昌輝と石達開は対立することとなった。石達開は天京を脱出したが、韋昌輝は石達開の一族を殺害した。石達開が安慶で韋昌輝討伐の兵をあげると、太平天国軍の大半が石達開を支持したため、天王府の兵と東王府の余党により韋昌輝は殺害され、爵位を剥奪された。この事件を天京事変という。 Category:太平天国の人物 Category:貴港出身の人物 Category:1856年没 Category:チワン族.

10 関係: 天京事変太平天国の乱チワン族石達開秦日綱馮雲山桂平市楊秀清洪秀全

天京事変

天京事変(てんけいじへん)は、天京(南京)で1856年に発生した太平天国の指導部の内紛である。楊秀清(東王)、韋昌輝(北王)、秦日綱(燕王)が命を落とし、2万人余りが殺害された事変である。天京事変は太平天国が衰亡へ向かう転換点となった。.

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太平天国の乱

太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.

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チワン族

チワン族(壮族)(チワンぞく、チワン語: Bouxcuengh, 旧表記 Bouчcueŋь, ポウシューン)は、主に中国南部やベトナム北部に住居する原住民族である。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万人(2010年の第6回全国人口調査統計による)が住み、中国最大の少数民族となっている。言語はタイ・カダイ語族に属するチワン語を話す。壮族(そうぞく)、チョワン族、チュアン族と言う日本語表現もある。.

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石達開

石 達開(せき たつかい、Shi Dakai、1831年 - 1863年6月25日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。 広西省貴県出身。チワン族との説もある。洪秀全が開いたキリスト教秘密結社拝上帝会に加入。1851年に金田蜂起がおこると左軍主将となり、翼王に封ぜられ、各地で戦功をたてた。 1853年の西征開始後、安徽省で政務にあたった。石達開は天朝田畝制度による土地改革を行う条件が整っていないと判断し、「旧に照らして徴税する」、すなわち従来通り地主が小作人から小作料を徴収して政府が地主から徴税を行うという政策をとった。これを「安慶改制」といい、その後の太平天国の占領地での基本方針となった。もっとも小作人の抗租運動について放置したため、地主は小作料を上げることができず、小作人の負担は軽減された。 1855年、江西省で曽国藩率いる湘軍に勝利をおさめ、南昌をのぞく江西省全域を占領した。 1856年、天京(南京)で北王韋昌輝が東王楊秀清の一党2万人を殺害したことを石達開が責めると、韋昌輝は石達開の家族を殺害した。石達開が城外に逃れて兵を集め、韋昌輝討伐を開始すると、洪秀全は韋を殺害した。この天京事変の結果、太平天国の官僚たちは石達開が政務を執ることを期待したが、洪秀全は石達開を疑い、兄の洪仁発・洪仁達を登用して牽制した。不安を感じた石達開は1857年に天京から離脱し、江西省、湖南省、広西省を転戦した。 石達開は四川省を根拠地にしようと考えていたが、彼の軍の中には天京に帰ることを望む者もいた。1860年、部将の彭大順・朱衣点らは天京への帰還を主張したが、石達開が聴かなかったため、彭大順・朱衣点・吉慶元は自分の部隊を率いて天京に出発した。この部隊は途中で清軍の攻撃を受けて、彭大順は戦死したが、朱衣点・吉慶元の部隊20万人は江西省で太平天国軍と合流した。 部隊の多くが離脱した後、石達開は広西省で数万人の兵を集め、1861年、10万余りの兵を率いて湖南省・湖北省を経て四川省東部に入った。四川の南方から長江を北上しようと何度も攻撃したが、清軍に阻まれた。そのため頼裕新に北上を、李福猷に東進を命じて清軍の兵力を分散させる作戦をとった。しかし1863年5月、大渡河で渡河に失敗し、清軍に退路を断たれ、20日余り包囲された。糧食が尽き、包囲の突破にも失敗して兵力を失ったため、6月13日に部下の命と引き換えに四川総督駱秉章に降伏し、部将の曽仕和・黄再忠・韋普成とともに成都で凌遅刑で処刑された。兵のうち、老弱の者と新兵は解散させられたが、二千人が殺害された。.

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秦日綱

秦 日綱(しん じつこう、Qin Rigang、1821年 - 1856年)は、太平天国の指導者の一人。 広西省貴県出身。早くから拝上帝会に入信し、1851年の金田蜂起に参加して天官正丞相に任命された。1853年、翼王石達開に代わって安慶に駐屯する。翌年燕王に封ぜられ、北伐軍の救援に向かったが舒城で引き返した。武昌と漢陽が陥落すると、田家鎮まで救援に向かったが、12月に湘軍に敗北し安慶に撤退した。1855年、広済で湖広総督楊霈の軍を撃破し、武昌・漢陽を占領した。1856年5月、鎮江に援軍を率いて赴き、6月には鎮江守将の呉如孝とともに江蘇巡撫ジルハンガ(吉爾杭阿)と7千の清軍を殲滅し、続いて江南大営・江北大営を撃破した。同年9月、天王洪秀全は東王楊秀清を殺害するよう北王韋昌輝と秦日綱に密命を下し、2人は楊秀清と一族郎党を皆殺しにし、さらに韋昌輝は翼王府も襲撃した。石達開が天京を逃れた後、韋昌輝は秦日綱に追跡させたが、秦日綱は天京の外の太平天国軍の大半が石達開を支持していることを知り、追跡をあきらめた。韋昌輝が殺害された後、秦日綱は石達開の要求で洪秀全に殺害された。この事件を天京事変という。 Category:太平天国の人物 Category:貴港出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1821年生 Category:1856年没.

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韋(い)は、漢姓のひとつ。『百家姓』の50番目。 2007年の公安部の統計によると、中華人民共和国で65番目に多い姓だった。 チワン族の間で、覃と並んでもっとも多い姓のひとつであることが知られている。2013年の統計では、韋は広西チワン族自治区で「黄」・「李」に次いで3番目に多い姓であり、人口は304万に達した。.

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馮雲山

馮 雲山(ふう うんざん、Feng Yunshan、1815年頃 - 1852年6月3日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から南王に封ぜられ、七千歳と称した。 広東省花県(現在の広州市花都区)出身。最も早い洪秀全の支持者で、拝上帝会の創始者のひとりである。1844年から洪秀全とともに広西省で布教活動を始めた。洪秀全が広東省に戻った後も、広西省に残り、紫荊・金田一帯で布教を続けた。楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開・秦日綱らが入会し、1847年、洪秀全が再び広西省に到着した時には、拝上帝会の規模は大きなものとなっていた。1848年に清朝の官憲に逮捕されるが、拝上帝会の信者が賄賂を渡すことで釈放された。その後も拝上帝会は発展を続け、1851年、金田蜂起の後、馮は後軍主将・南王に封ぜられた。太平天国の初期の官制・軍制・暦法は馮雲山が定めたという。1852年5月、全州攻略中に清軍の砲弾に当たって重傷を負い、全州が陥落した後の6月10日に死亡した。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:広州出身の人物 Category:1852年没.

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桂平市

桂平市(けいへいし)は中国の広西チワン族自治区貴港市に位置する県級市。珠江最大の支流・西江と鬱江が合流する場所にある水運の要所である。.

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楊秀清

楊 秀清(よう しゅうせい、Yang Xiuqing、1821年 - 1856年9月2日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から東王に封ぜられ、九千歳と称した。 広西省桂平出身の客家人。炭売りをしていたが、早くから洪秀全が創始したキリスト教秘密結社「拝上帝会」に加入していた。1848年、拝上帝会の幹部の馮雲山が清朝の官憲に捕われると、洪秀全は救出のために広州に赴いた。これにより会員に動揺が広がったため、楊は独断でヤハウェの託宣(「天父下凡」)を行ったところ人心を静めることに成功した。馮雲山の釈放により広西に戻ってきた洪秀全は楊の「天父下凡」を認め、楊秀清は幹部の一員となった。 1851年、金田蜂起の後、洪秀全は楊秀清を正軍師・東王に任じ、他の四王より上位に置かれた。南王馮雲山・西王蕭朝貴が戦死すると、権力は楊秀清に集中するようになった。太平天国軍の進撃を実際に指揮していたのも楊秀清であった。1853年に太平天国軍は南京を陥落させ、天京と改称した。その後北伐と西征を決定したが、前者は壊滅し、後者は一定の成果を上げたものの清軍の主力を壊滅させることはできなかった。 この時、天王・洪秀全は名目上は各王の上にあったが、実際は楊秀清が実権を握っており、楊の決定に洪秀全は反対できなくなっていた。楊は度々「天父下凡」によって自らの命令に従わせた。やがて楊の専横ははなはだしくなり、洪秀全や他の諸王との対立は深まっていった。高島俊男「中国の大盗賊・完全版」によると、「天父下凡」によって洪秀全が天王府において人前で楊に平伏させられ棒叩きを食ったこともあったという。 1856年、楊は民衆に対して洪秀全と同等に自らに対しても「万歳」と称するようにとの内容の「天父下凡」を発するまでになった(当時、「万歳」は皇帝に対してのみ許されるもので、太平天国では洪秀全のみが「万歳」と唱えられ、楊秀清は「九千歳」で以下の諸王は八千歳、七千歳と続いていた)。洪秀全はここに至ってはもはや楊の増長を看過できないと判断し、ついに北王韋昌輝と翼王石達開に楊を討伐する密命を下した。韋昌輝は9月1日に天京に入り、翌日に燕王秦日綱とともに東王府を襲撃して、楊秀清一族と配下の兵2万人を殺害した。この際に、女性状元で楊の秘書であった傅善祥も落命したと思われる。これを「天京事変」という。この混乱をきっかけに、太平天国の勢力は衰退し、ついに清朝との形勢は逆転することとなった。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:貴港出身の人物 Category:1821年生 Category:1856年没.

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洪秀全

洪 秀全(こう しゅうぜん、)は清代の宗教家・革命家。キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした(太平天国の乱)。.

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