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長宗我部氏

索引 長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.

318 関係: 功名が辻城川町さくらゆきかっぱの狛犬十河存保十河氏南国市名東城吸江寺吉田孝世吉田孝頼吉田貞重吉田重康吉田重俊吉田重親吉田氏吉田政重吉良城吉良親実吉良親貞吉良親正吉良氏吉松十左衛門境相論大友義鎮大平国祐大平氏大西頼包大西覚養大西郷 (三好郡)大野直昌大森城 (伊予国)大津城 (土佐国)天ヶ森城天霧城天正の陣如淵妙福寺 (徳島市)姫野々城姶良町姓氏宍喰町家紋の一覧宇和島城宇和島藩宇都宮正綱 (修理太夫)安国寺恵瓊安芸城安芸氏小島政章...小笠原成助小田町 (愛媛県)山城町 (徳島県)山崎の戦い山内一豊山田城 (土佐国)山本大岡豊城岩崎家岩崎弥太郎岩倉城 (阿波国)島親益島浪間川之江城川之江市上士中富川の戦い中島可之助中島重房中村市中村一氏丸山城の戦い常盤城丹羽長秀三好市三好康俊三好康長三間村三滝城三机村下朝倉村一宮城 (阿波国)一之森城一圓但馬守一領具足一条家 (曖昧さ回避)一条内政一条兼定一条房家一条政親幡多荘乾氏久武親信久武親直人名五百蔵左馬進五百蔵左馬進 (2代目)五百蔵氏伊予国伊予軍代伏原大塚古墳佐竹親直佐藤氏佐武義昌依岡左京進徳川家康後北条氏忍城の戦い信長の野望・革新土居清良土佐山内氏土佐七雄土佐一条氏土佐国土佐国分寺土佐神社土佐田村氏土佐物語土佐藩土橋守重土橋重治地下浪人北之川親安北代堅助ペルソナ4プリンセス・トヨトミ別宮大山祇神社喧嘩両成敗喜岡寺善福寺 (徳島市)カタバミるり姫祭り入交家住宅八流の戦い公文重忠元親夫人前田元敏勝瑞城国人国盗り頭脳バトル 信長の野望四万十川の戦い四国四国中央市四国平定四国攻め倒幕運動矢野城 (阿波国)石高制石谷頼辰砥部町福留儀重福留親政福留政親秦神社秦氏秦河勝秦泉寺豊後秋月種信 (商人)稲富祐直竹内惣右衛門竜ヶ森城篠原右京細川真之細川昭元細川政元紀州征伐緑僧都村織田信孝炎の蜃気楼田中弥平左衛門田中正吉田中新右衛門田村忠重甲州街道 (街道をゆく)甲之森城町見村無双OROCHI牟岐城白地城菅達長非有西園寺氏西方城覚城院香宗我部親氏香宗我部親泰香宗我部氏香川之景香川県香川親和香西佳清香西氏香長平野誰ガタメノ剣高山村 (愛媛県)高知県高知県の文学史高知県立歴史民俗資料館高知県道384号北本町領石線高石左馬助谷干城谷忠澄谷重喜豊岡上天神社豊薩合戦豊臣秀吉豊臣秀長豊永勝元越訴足利義助軍神ちゃんとよばないで黒岩種直黒川元春黒瀬城郷士與田寺阿古姫阿波国関ヶ原 (小説)薬丸兼将藤堂家信鑓場の戦い蓮池蓮池城 (土佐国)脇城野老山吾吉郎金山城 (伊予国)長宗我部右近大夫長宗我部康豊長宗我部俊宗長宗我部忠俊長宗我部信親長宗我部信能長宗我部兼序長宗我部兼綱長宗我部元親長宗我部元門長宗我部国親長宗我部盛親長宗我部盛胤長宗我部盛恒長宗我部親吉長宗我部能俊長宗我部重氏長宗我部雄親長宗我部水軍長宗我部文兼長浜城長浜の戦い若宮八幡宮 (高知市)柳生神影流柴田朝意桑名吉成桑名親光森城 (土佐国)植田氏武蔵 (格闘家)比江山親興氷室の天地 Fate/school life永原一照江川崎江村親家江村親俊池頼和池氏決戦III河後森氏河野通直 (伊予守)河野氏波川清宗法華津前延法華津氏法華津本城法谷寺津野倫明津野親忠津野氏渡辺教忠港山城滝山一揆朝倉城 (土佐国)本山城 (土佐国)本山寺 (三豊市)本山白雲本山親茂本山茂宗本山茂任本山茂辰本山茂良本山氏本能寺の変戦国大名戦国BASARAの登場人物戦国無双シリーズ戦国IXA戦国時代 (日本)戦国時代史料の一覧戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜戸島 (愛媛県)戸波親武戸波親清明神善秀明智光秀昼寝城浦戸城浦戸一揆浦戸藩海外出身の武士の一覧浜田善右衛門斎藤利賢新開実綱日和佐城日本のダムの歴史愛治村曽我部和恭1498年6月15日 インデックスを展開 (268 もっと) »

功名が辻

『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、司馬遼太郎の歴史小説。1963年(昭和38年)10月から1965年(昭和40年)1月にかけ、各地方紙に連載された。題名「功名が辻」の辻は「十字路、交差点、路上」という意味である。 司馬作品には珍しく、後に良妻賢母の見本ともなった、千代という女性を主人公の1人にした作品となっている。牢人から織田家に仕官し、後に長浜城主、掛川城主を経て土佐藩主となった夫山内一豊の転戦、苦悩、そして出世と、それを支え続けた妻の千代を中心に、合戦を通じて信長、秀吉、家康の3人の天下人が絡んでくる。史実や大河ドラマ功名が辻と違って、千代の母が法秀院という設定になっており、作品中では千代自身が縫った小袖のエピソードなども盛り込まれている。.

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城川町

城川町(しろかわちょう)はかつて愛媛県東宇和郡に存在した町。2004年4月1日、東宇和郡の他の町とともに合併し、自治体としては消滅した。地名としては残っている(西予市城川町○○と住所表記)。典型的な中山間地であるが、あえて「奥伊予」と自称し、1983年(昭和58年)から「わがむらは美しく」のスローガンのもと、決して背伸びしない、独自の地域おこし活動を行ってきた。農村の伝統文化も残っている。.

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さくらゆき

さくらゆきは、日本の音楽グループ。アクタープロ/亮所属。 「歴史系アーティスト」と自らを称し、歴史上の人物や出来事をテーマとした楽曲を制作しているツインボーカルユニット。 メンバーは小栗さくら、遠野ゆきで、以前の正式名称はさくらゆきの前後に全角アスタリスクが付くものだったが、現在は表記通りとなっている。.

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かっぱの狛犬

かっぱの狛犬は、愛媛県西予市明浜町高山の若宮神社にある河童の姿をした狛犬。.

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十河存保

十河 存保(そごう まさやす / ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。.

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十河氏

十河氏(そごうし)は、日本の氏族のひとつ。 古代讃岐に下った神櫛皇子の流れをくむ植田氏の一族であり、中世讃岐国の土豪である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成したが、戦国時代に鬼十河(十河一存)らの活躍により讃岐一円を制覇する。通字は「存」。.

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南国市

南国市の市街地を走るとさでん交通の路面電車 香長平野と南国市街遠望(岡豊城より) 南国市(なんこくし)は、高知県の市である。高知県の中東部に位置し、県庁所在地の高知市の東に隣接する。市の中心地は後免(ごめん)であるものの市役所など行政施設や商業施設は大篠地区の大埇(おおそね)に集中している。 高知県では第2位の人口であるが、都道府県第二の都市としては全国で最も人口が少ない。 四国山地が尽きて高知平野が開ける場所に当たり高知県の空・陸の玄関口となっている。高知龍馬空港があり、鉄道は土讃線・とさでん交通・土佐くろしお鉄道が走る。また道路では高知自動車道が走り、北部四国方面からの国道32号と室戸岬方面からの国道55号、徳島方面からの国道195号が交わる交通の要衝である。 しばしば「なんごくし」と誤読され、高知自動車道の南国サービスエリアも読みは「なんごく」である。 市名は『城東市』『嶺南市』『香長市』『後免市』『南海市』『南国市』の6つの候補の中から選ばれた。なお、国を「こく」と読むようにしたのは、「ごく.

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名東城

名東城(みょうどうじょう)は、徳島県徳島市名東町にあった日本の城。別名は経ヶ丸城・川越城。.

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吸江寺

吸江寺(ぎゅうこうじ)は高知県高知市にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。.

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吉田孝世

吉田 孝世(よしだ たかよ)は、土佐藩の馬廻り記録方。宝永5年(1708年)に軍記物語『土佐物語』を記述し、長宗我部氏の隆盛から滅亡へ至る過程を書き残した。吉田重俊の6代後にあたる子孫で、父は吉田正次、兄は吉田克治。.

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吉田孝頼

吉田 孝頼(よしだ たかより)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。.

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吉田貞重

吉田 貞重(よしだ さだしげ)は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。.

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吉田重康

吉田 重康(よしだ しげやす)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。土佐国上夜須城主。.

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吉田重俊

吉田 重俊(よしだ しげとし)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。.

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吉田重親

吉田 重親(よしだ しげちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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吉田氏

吉田氏(よしだし/よしだうじ)は、日本の氏族。その主な家系を下記に記す。.

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吉田政重

吉田 政重(よしだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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吉良城

吉良城(きらじょう)は、土佐国(現高知県高知市春野町 (高知県)弘岡上)にあった中世の日本の城。 別名・吉良峰城。.

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吉良親実

吉良 親実(きら ちかざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。吉良親貞の子。.

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吉良親貞

吉良 親貞(きら ちかさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部国親の次男。長宗我部氏の家臣。.

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吉良親正

吉良 親正(きら ちかまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。吉良親貞の三男もしくは次男。長宗我部氏の家臣。長宗我部家の家督を継ぐ前の盛親を養子としていた。天正14年12月12日(1587年1月20日)に戸次川の戦いで戦死した。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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吉松十左衛門

吉松 十左衛門(よしまつ じゅうざえもん)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。実名は光久。.

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境相論

境相論(さかいそうろん・堺相論)とは、中世日本における所領の境界を巡る紛争のこと。.

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大友義鎮

九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.

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大平国祐

大平 国祐(おおひら くにすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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大平氏

大平氏(おおひらし)は、土佐国高岡郡の蓮池城を拠点とする豪族。鎌倉時代初期 - 永禄9年(1566年)。藤原秀郷の末裔という。.

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大西頼包

大西頼包(おおにし よりかね、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての阿波国の武将。大西頼武の子、覚養の弟。上野介と称す。.

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大西覚養

大西 覚養(おおにし かくよう、? - 天正6年(1578年))は、戦国時代の阿波国の国人領主。出雲守と称す。覚用、角養とする史料もある。俗名は輝武。父は大西頼武、弟に頼晴、頼包。.

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大西郷 (三好郡)

大西郷(おおにしごう/おおにしのごう)は、阿波国三好郡に存在した郷である。 三好郡の西端に位置しているため「大西」郷と呼ばれた。南北朝時代の頃に存在したと思われる。現在では、三好市の池田町佐野、池田町馬路、池田町白地、山城町になっている。.

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大野直昌

大野 直昌(おおの なおしげ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。河野氏の家臣。山城守を名乗った。浮穴郡大除城主。大野利直の子。兄に友直、隆直、弟に直之など。.

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大森城 (伊予国)

大森城(おおもりじょう)は、愛媛県北宇和郡三間町に存在した日本の城(山城)。.

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大津城 (土佐国)

大津城(おおつじょう)は、高知県高知市大津にある中世から近世にかけての日本の城(平山城)。天竺城や大津御所の別名を持つ。.

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天ヶ森城

天ヶ森城(てんがもりじょう)は、愛媛県宇和島市に存在した日本の城(山城)。.

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天霧城

天霧城(あまぎりじょう)は、讃岐国(現香川県善通寺市、仲多度郡多度津町の市町境)にあった中世日本の城(山城)。 別名・雨霧城。讃岐香川氏累代の有事の際の詰城で、平時の居館は多度津町の本台山城東麓にあったとされる。.

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天正の陣

天正の陣(てんしょうのじん)は、1585年(天正13年)に全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命を受けた中国・毛利氏の小早川隆景率いる軍勢が伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸し、金子城城主金子元宅率いる地元勢力を制圧した戦い。「天正の陣」の呼称は伊予側からのものであり、個々の戦闘については、金子城の戦い、高尾城の戦いなどとも称する。秀吉による四国攻め(四国平定戦)の一連の戦いのなかのひとつ。.

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如淵

如渕(じょえん、生年不詳 - 天正16年(1588年?))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧。長宗我部氏の家臣。真西堂如渕(しんせいどう -)とも呼ばれることもある。吉良親貞の庶子で吉良親実の庶兄。吉良宣義の甥という説もある。.

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妙福寺 (徳島市)

妙福寺(みょうふくじ)は、徳島県徳島市に位置する寺院である。阿波秩父観音霊場30番札所。山号は白雲山。本尊は十一面観世音。宗派は真言宗大覚寺派。.

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姫野々城

姫野々城(ひめののじょう)は、高知県高岡郡津野町姫野々にあった日本の城。別名、半月城。津野氏代々の居城。.

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姶良町

姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県(離島以外の地域)の中部にあった町である。姶良郡に属していた。 県内の町村で最も人口が多い町であり、九州の町村では福岡県筑紫郡那珂川町に次いで2番目に人口が多かった。2010年3月23日付けで同じ姶良郡の蒲生町・加治木町と合併して姶良市となった。.

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姓氏

姓氏(せいし)とは、「かばね(姓)」と「うじ(氏)」、転じて姓や名字(苗字)のこと。ここでは歴史上に活躍した有名な氏族、家の「姓氏」を一覧として掲げる。.

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宍喰町

宍喰町(ししくいちょう)は、徳島県の最南端に位置した町。90%以上が森林を占め、太平洋に面しており、気候は温暖で多雨である。 2006年3月31日、海部郡の2町と対等合併し、海陽町となって消滅した。.

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家紋の一覧

家紋の一覧(かもんの いちらん)では、日本において使われている家紋の種類を一覧として掲載している。図案についてはギャラリーを参照。.

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宇和島城

宇和島城の縄張り(江戸時代前期) 代表紋章:宇和島笹 宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年(昭和12年)指定)。.

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宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。.

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宇都宮正綱 (修理太夫)

宇都宮 正綱(うつのみや まさつな、生年不詳 - 天正7年(1579年))は戦国時代の武将で、下野の宇都宮氏と同族である。 伊予国(現愛媛県)高山城主。天正7年(1579年)に長宗我部氏が岡本城 (伊予国)に侵攻した際に援軍として三間へ赴きそこで戦死した。正綱の首級は家臣が、持ち帰り、若宮神社 (西予市)の大松の根本に埋めたという。正綱の廟所は正綱公廟と呼ばれ、西予市が指定史跡となっている。 正綱は槍と馬の名手で黒瀬衆八騎の一人とされ、「宇和郡記」にも「正綱は宇都宮氏にして、武勇衆に勝れたる名士なり、岡本城激戦の時戦死す。」と書かれている。 まさつな Category:1579年没.

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安国寺恵瓊

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる“安国寺恵瓊”の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。.

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安芸城

安芸城(あきじょう)は、高知県安芸市土居に存在した日本の城(平山城)。江戸時代には土佐藩山内家家老の五藤氏が居住し安芸(安喜)土居として存続した。.

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安芸氏

安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。.

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小島政章

小島 政章(おじま まさあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐一条氏、長宗我部氏の家臣。.

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小笠原成助

小笠原 成助(おがさわら なりすけ、生年不明 - 天正10年(1582年))は、安土桃山時代の武将。長門守を称す。阿波小笠原氏の当主。一宮城を居城とした事から「一宮成助」とも呼ばれる。名の読み方は「なりすけ」で、成祐や成佐など同音異字の表記がある。妻は三好長慶の妹、野口冬長女。.

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小田町 (愛媛県)

小田町(おだちょう)は愛媛県の中予地方にあった町。現在は、喜多郡の内子町、五十崎町と郡を越えて合併し、南予地方の一部となっている。典型的な山村である。.

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山城町 (徳島県)

山城町(やましろちょう)は、徳島県の北部最西端、吉野川の中流域西岸に位置していた町。景勝地の大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)はラフティングや大歩危峡遊覧船、三傍示山や塩塚高原で知られる。本項では町制前の名称である山城谷村(やましろだにそん)についても述べる。 4月の第1土曜日には塩塚峰に広がる草原(塩塚高原)で野焼きがあり、20haを焼き尽くす。吉野川と銅山川(伊予川)、そして四国山地によって作り出された山地は今日でも落石や土砂崩れが絶えない交通の難所である。 2006年3月1日、三好郡内の5町村と合併(新設合併)して市制施行し、三好市となった。.

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山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.

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山内一豊

山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.

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山田城 (土佐国)

山田城(やまだじょう)は、土佐国(現高知県香美市土佐山田町楠目字楠目)にあった中世の日本の城。 別名・楠目城。.

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山本大

山本 大(やまもと たけし、1912年9月1日- 2001年8月19日)は、日本史学者。.

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岡豊城

岡豊城(おこうじょう)は高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡で、戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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岩崎家

旧岩崎邸 岩崎家(いわさきけ)は、三菱財閥の創業者一族。創始者・岩崎弥太郎とその弟で2代目当主の岩崎弥之助の2家系からなる。.

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岩崎弥太郎

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。.

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岩倉城 (阿波国)

岩倉城(いわくらじょう)は、徳島県美馬市脇町田上にあった日本の城。.

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島親益

島 親益(しま ちかます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の四男。別名は親房。.

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島浪間

島 浪間(しま なみま、天保14年(1843年) - 元治2年2月22日(1865年3月19日))は、土佐藩の江戸時代末期の志士。島 浪並馬(しま なみま)とも。他に通称・浪馬、並馬、名を義親。 現在の高知・長浜村塩谷に生まれる。父は戦国時代の四国の覇者、長宗我部氏の子孫であるとされる島重親。 坂本龍馬に従い土佐勤皇党の創設期に加盟するも、武市瑞山らと衝突して連判状から名を削除されたとされている。 文久3年(1863年)頃、藩命によって京へのぼり、一時三条実美の側臣として随行。三田尻・招賢閣には、逗留した者の名のなかに浪間のものとされる名前が記録されている。 その後、ほどなくして土佐を脱藩した那須信吾に仕え、天誅組を組織した吉村虎太郎に従う形で文久3年(1863年)8月17日、五條代官書を襲撃。桜井寺を本陣として「五條御政府」樹立を宣言した。その功により砲一番隊長に任ぜられた。 だが、時代は吉村に傾かず、京の政変によって朝廷より賊軍の烙印を押された天誅組は、擁立する中山忠光を護り浪間以下15名の精鋭とともに大坂へ落ち延びる。そこで長州藩邸に匿われる形で難を逃れた浪間は、機を見て忠光とともに長州へ流れた。 元治2年(1865年)、西国の攘夷運動をさらに活発化させるため、再び大坂へ赴いた浪間は、配下・井原応輔ら数名と岡山城下へ入り、遊説の為の金策に奔走。しかし、2月22日、運悪く盗賊と間違われた一行は関所で住人たちと斬りあいになり、包囲された挙句、落命する。捕縛されるのを好まず、自ら自刃したとも言われる。.

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川之江城

川之江城(かわのえじょう)は、愛媛県四国中央市川之江町の鷲尾山(城山)にある日本の城である。.

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川之江市

川之江市(かわのえし)は、愛媛県の東予地方、宇摩地域にあった市である。.

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上士

上士(じょうし)は、武士の身分のひとつ。江戸時代の上級藩士である。上士や平士、郷士などとわけたときの最上位の家格のことである。騎乗が許されたことから騎士とも。.

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中富川の戦い

中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。攻防戦は約20日間行われた戦いで、人的被害は阿波国史上最高のものであった。.

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中島可之助

中島 可之助(なかじま べくのすけ、又は、なかじま べきのすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。.

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中島重房

中島 重房(なかじま しげふさ、生没年不詳)は、戦国時代の武将、長宗我部氏の家臣。 中島氏は長宗我部氏の傍流といわれる。祖父・中島親吉は、国親・元親の宿老として活躍した。中島重勝は父とされる。父の重勝も元親の近侍衆として活躍。.

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中村市

中村市(なかむらし)は、高知県西部に位置していた市。 2005年(平成17年)4月10日、隣接する西土佐村と合併し、四万十市(しまんとし)となった。.

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中村一氏

中村 一氏(なかむら かずうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の1人。.

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丸山城の戦い

丸山城の戦い(まるやまじょうのたたかい)は、四国平定をめざす羽柴秀吉に伊予攻略を命じられた毛利輝元が、配下の小早川隆景と吉川元長に中国8か国の兵3万余をあたえて進発させた、いわゆる「天正の陣」の前哨となった伊予国丸山城(愛媛県西条市)の攻囲戦。丸山城の城主黒川広隆は戦わず降伏した。.

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常盤城

常盤城(ときわじょう)は、愛媛県南宇和郡愛南町に存在した日本の城(山城)。.

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丹羽長秀

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。.

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三好市

三好市(みよしし)は、徳島県西部に位置する市。四国4県の市町村の中では最も面積が大きい。.

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三好康俊

三好 康俊(みよし やすとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の一族。阿波岩倉城主。.

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三好康長

三好 康長(みよし やすなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波岩倉城主、河内高屋城主。三好長秀の子で元長の弟、康俊の実父。三好長慶の叔父。 諱は康慶ともする。剃髪して咲岩(しょうがん)と号した。.

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三間村

三間村(みまむら)は、1954年(昭和29年)まで愛媛県北宇和郡にあった村。現在の宇和島市北東部に当たる農村。昭和の合併で三間町,さらに平成の合併で宇和島市となり、現在に至っている。.

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三滝城

三滝城(みたきじょう)は、愛媛県西予市に存在した日本の城(山城)である。.

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三机村

三机村(みつくえむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県西宇和郡にあった村であり、現在の西宇和郡伊方町の中部、佐田岬半島のほぼ中央に位置する農漁村であった。瀬戸町を経て、現在は伊方町に属する。.

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下朝倉村

下朝倉村(しもあさくらむら)は愛媛県越智郡にあった村である。1956年(昭和31年)に上朝倉村との2か村の合併で朝倉村となり、自治体としては消滅した。朝倉村は平成の市町村合併で今治市となり、現在に至っている。.

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一宮城 (阿波国)

一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本の城。東山渓県立自然公園指定。とくしま市民遺産選定。.

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一之森城

一之森城(いちのもりじょう)は、愛媛県北宇和郡鬼北町に存在した日本の城(山城)。.

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一圓但馬守

一圓 但馬守 (いちえん たじまのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。宇多源氏京極氏支流であり、始めは土佐一条氏の家臣として後に長宗我部氏に仕える。初代は一圓氏直。父は一圓隼人、弟に一圓帰部。官位は但馬守。一円とも名乗る。安芸羽根城城主。.

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一領具足

一領具足(いちりょうぐそく)は、戦国時代の土佐国の戦国大名、長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、死生知らずの野武士なりと書かれている。.

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一条家 (曖昧さ回避)

一条家.

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一条内政

一条 内政(いちじょう ただまさ)は、安土桃山時代の公家。土佐一条氏第6代当主。権中納言・一条兼定の嫡男。.

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一条兼定

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。.

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一条房家

一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代の公卿(土佐国の国司)、大名。土佐一条氏の第2代当主。関白・一条教房の次男。.

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一条政親

一条 政親(いちじょう まさちか)は、安土桃山時代の人物。土佐一条氏第7代当主。一条内政の嫡男。名前は、父の偏諱「政」と、外祖父である長宗我部元親の「親」をそれぞれとったものとされているが、実名を確定する史料はなく、「政親」の名前も後世の創作とみられる秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面-土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって-」(初出:『土佐史談』215号(2000年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))。.

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幡多荘

幡多荘(はたのしょう)とは、土佐国幡多郡のほぼ全域及び高岡郡の一部を占めた荘園。現在の高知県四万十市・宿毛市・土佐清水市・大月町・三原村・黒潮町・四万十町のほぼ全域と中土佐町の一部地域(久礼)にあたる。.

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乾氏

乾氏(いぬいし)は日本の氏族のひとつ。.

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久武親信

久武 親信(ひさたけ ちかのぶ、生年不詳 - 天正7年5月21日(1579年6月15日))は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。久武昌源の子。久武親直の兄。.

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久武親直

久武 親直(ひさたけ ちかなお、生没年不詳)は、日本の安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。通称は内蔵助、幼名は彦七。.

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人名

人名(じんめい)は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。 山田太郎。典型的な形式の日本人の名前として、書類の記入例などに良く用いられる。なお「太郎」とは江戸期以前の、仮名(けみょう)の内の輩行名(はいこうめい)に由来する。 その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。.

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五百蔵左馬進

五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん、生年不明 - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。 五百蔵筑後守の子で、兄弟に六之進がいる。 天正14年12月12日に、六之進と共に戸次川の戦いで討死した。.

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五百蔵左馬進 (2代目)

五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。 桑名親光の次男で、初代五百蔵左馬進が戸次川の戦いで討死した後、左馬進の娘を娶り義父と同じ名を名乗った。子に、土佐の医師桑名古庵がいる。 慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに参加。西軍が敗れると主君長宗我部盛親に従い大坂に退却した。その後浅野家の家臣浅野良重を頼って紀伊の田辺に隠棲していたが、大坂の陣の際に盛親を慕って入城した。慶長20年5月6日に八尾の戦いで、盛親の馬前で討死した。.

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五百蔵氏

五百蔵氏(いおろいし)は、日本の武家の一つ。戦国時代の武家。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊予軍代

伊予軍代(いよぐんだい)は、長宗我部氏の家臣のうち、伊予国方面を担当した指揮官のこと。.

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伏原大塚古墳

伏原大塚古墳(ふしはらおおつかこふん)は、高知県香美市土佐山田町楠目にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。出土埴輪の一部は高知県指定保護有形文化財に指定されている。 古墳時代後期としては高知県で最大規模の古墳であるが、現在では墳丘は失われている。.

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佐竹親直

佐竹 親直(さたけ ちかなお、永禄9年(1566年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。上ノ加江城主佐竹義秀の子。蔵人佐。.

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佐藤氏

佐藤氏(さとうし)は、日本の氏族のひとつ。藤原秀郷をその源流とする。その由来は、左衛門尉の藤原氏の略とされる他、佐野の藤原氏、佐渡の藤原氏などの諸説がある。 130px 130px.

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佐武義昌

佐武 義昌(さたけ よしまさ、天文7年(1538年) - 元和6年(1620年))は、紀伊国の豪族で雑賀衆の一人。佐竹允昌の子。兄に佐武源大夫。通称伊賀守、源左衛門、慶誓。.

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依岡左京進

依岡 左京進(よりおか さきょうしん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐一条氏、長宗我部氏の家臣。伊与野城主。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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忍城の戦い

忍城の戦い(おしじょうのたたかい)は、成田氏の本拠である武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いである。 この城を巡っては、忍氏との文明年間(1469年から1487年。または延徳元年(1489年))の戦い、古河公方・足利政氏との享禄年間頃(1531年以前)の戦い、関東地方において勢力を拡大しつつあった後北条氏と関東管領・上杉氏との対立抗争に伴い発生した天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の戦い、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いなど、数度にわたって攻城戦が繰り広げられたが、本項目では、天正18年(1590年)6月16日から7月16日にかけて行われた戦いについて詳述する。.

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信長の野望・革新

『信長の野望・革新』(のぶながのやぼう・かくしん)は、2005年6月22日にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたWindows用歴史シミュレーションゲーム。「信長の野望シリーズ」の第12作。 2006年2月2日にPlayStation 2(以下、PS2)版も発売された。さらに2007年9月14日にはWindows版のパワーアップキット(PK)も発売、2008年3月6日にはPS2とWiiのwithPKもそれぞれ発売された。 Windows版無印(パワーアップキットなし)はWindows Vistaでは2007年8月7日のアップデート(Ver.1.03)を適用することにより起動するようになる。PKはVista発売後のリリースのため、初めからVistaに対応している。 またNetJoyシステムという、インターネットを活用した試みがされていることも本作の特徴である。.

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土居清良

土居 清良(どい きよよし/せいりょう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊予国大森城主。西園寺十五将の1人。江戸時代に土居水也によって『清良記』が著された。.

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土佐山内氏

土佐山内氏(とさやまうちし)は、日本の氏族。本家は山内を「やまうち」、各分家は「やまのうち」と称する。通字は「豊」。本来庶流の家ならば、読み仮名は変わらないが何故一説を持ってこのように、土佐山内氏の本家が備後山内氏の(庶流)を称して(やまうち)となって、その分家(支流の支流)が本流の(やまのうち)に回帰しているのか、不明である。.

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土佐七雄

土佐七雄(とさしちゆう)は、室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。.

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土佐一条氏

土佐一条氏(とさ いちじょうし)は、日本の武家の一つ。本姓は藤原氏で、五摂家の一条家の分家。家紋は「一条藤」。 戦国時代に土佐国に土着し、武家化した戦国大名。姉小路氏・北畠氏と共に戦国三国司の一つに数えられる。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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土佐国分寺

土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場二十九番札所。札所寺院としては単に国分寺と称するのが通例である。国の史跡に指定されている。 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり.

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土佐神社

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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土佐田村氏

土佐田村氏(とさたむらし)とは、土佐田村庄の豪族で戦国大名長宗我部氏の家臣。鎌倉時代、陸奥田村庄(田村市、三春町)を藤原仲教が領して田村姓を名乗り、子孫は鎌倉幕府評定衆等になった。室町時代、幕府の奉公衆になり、近江国野路村(草津市)の地頭を経て、戦国時代に土佐田村庄に入る。時を経て長宗我部氏の家臣となり、江戸時代は山内氏に仕えて下茅(土佐清水市下ノ加江)大庄屋となったり、宿毛領にて武士になった。秀郷流となってはいるが尊卑分脈には、小野宮流の系譜に藤原仲祐の子、仲教と記載されており本来は小野宮流藤原氏であったが秀郷流に養子に行った事などが推察できる。 藤原実頼-斉敏-懐平-資平-義綱-仲季-仲祐-田村仲教-仲能-重教.

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土佐物語

『土佐物語』(とさものがたり)は、土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世。宝永5年(1708年)成立。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土橋守重

土橋 守重(つちばし もりしげ、? - 天正10年1月23日(1582年2月15日))は、戦国時代の武将。雑賀衆の一人。土橋重隆の子。平次。若太夫。「守重」で広く知られるが、文書で確認できる諱は「胤継」。粟村城主。弟(子とも)に土橋重治。 紀伊国を代表する国人で、雑賀衆の中でも大きな地位を占めながら、根来衆の当主にも一族を送り込むなど、かなりの勢力を有した。はじめ、雑賀鈴木氏と共に石山本願寺に協力して、織田信長と敵対、三好氏に援軍を送るなどしたが、天正5年(1577年)3月に鈴木氏と共に信長に降伏した。しかし、織田氏への敵対姿勢を完全には崩さなかった土橋氏と、比較的織田氏に恭順的であった鈴木氏との間で確執が発生し、鈴木氏との勢力争いに発展、天正10年(1582年)1月23日に鈴木重秀によって守重は謀殺された。この殺害には土橋一門の名前も連なっており、単純に鈴木氏と土橋氏の確執という問題と共に、土橋一族内での内紛の要素や、織田氏による反織田勢力の駆逐計画も絡んでいたとされる。また、土橋氏の菩提寺が浄土宗西山派寺院である安楽寺であったことも明らかになっており、浄土宗を信じる土橋氏は一時期紀伊に亡命していた将軍足利義昭に呼応する形で宗派の異なる浄土真宗の雑賀鈴木氏と手を結んで戦っていたとする説もあり、本願寺と織田氏の間で和解の動きが出ると、本願寺の意向に従って戦ってきた鈴木氏と義昭の意向に従って戦ってきた土橋氏の間で意見の対立が生じたとする考えもある。 本能寺の変が発生すると、織田氏の支援を受けられなくなった鈴木氏は長宗我部氏・根来衆らの支援を受けた土橋勢に反撃されて紀伊を追われ、小牧・長久手の戦いを経て、天正13年(1585年)の秀吉による紀州征伐まで土橋氏が雑賀衆の主導権を握ることとなる。.

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土橋重治

土橋 重治(つちばし しげはる、生没年不詳)は、戦国時代の武将。雑賀衆の1人。土橋重隆の子。兄に土橋守重。 雑賀衆の一人として本願寺家と共に織田信長に抵抗した。 天正10年(1582年)1月23日に鈴木重秀によって守重が謀殺されると、居城に籠って織田に徹底抗戦するが、織田信張に敗れ、長宗我部家を頼って舟で土佐へ逃れた。 本能寺の変後、雑賀へ戻って来るが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に家臣として招かれるも、仇敵の重秀と同門になるのを良しとせず、断った。 天正13年(1585年)、秀吉の雑賀攻めで抗戦するも、砦を陥されて敗北。またも舟で土佐へ逃れた。 その後、北条氏政に仕えるが、小田原征伐で北条家滅亡後、毛利家に仕えた。.

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地下浪人

地下浪人(じげろうにん)は、土佐藩における身分の一種。 上士身分の浪人と区別して付けられた呼称であり、40年以上郷士身分であった者が、郷士身分を他者に譲って浪人となって、地域に居付いた者を地下浪人と呼んだ。ただ、まれに武家奉公人を一定期間務めた者や「篤行があった庶民」にも身分として認められる場合もあった。 土佐藩の武士身分は上士(上級武士)と下士(下級武士)に分かれており、上士は山内一豊に付き従って土佐に入った家臣等の子孫であり、下士は長宗我部氏の旧家臣や土着の豪族層等の子孫が主な者であった。上士と下士も細かく身分が別れており、下士の身分としては、郷士、用人、徒士、足軽、組外、庄屋等があった。 江戸時代中期になると貧しい郷士の中には、生活のために郷士株を農民や町人に売却して、下士よりも身分の低い地下浪人となっていく者も出るようになった。ただ、この場合は無禄無役ではあるが、士分の格式を維持した形であり、苗字帯刀は許されていた。生計手段としては、田畑を持っている場合は半農半士となった。町人として生計を立てた者もいた。 地下浪人から出世した有名な人物に、三菱財閥の創始者で初代総帥岩崎弥太郎、2代目総帥岩崎弥之助兄弟、沢村惣之丞などがいる。.

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北之川親安

北之川 親安(きたのかわ ちかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。西園寺氏、長宗我部氏の家臣、伊予国三滝城主。紀氏の末裔で紀 親安と称されることもある。.

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北代堅助

北代 堅助(きただい けんすけ、1833年(天保4年) - 1868年3月16日(慶応4年2月23日))は、江戸時代土佐藩の郷士、足軽。折衝隊六番隊士。堺事件十一烈士の一人。諱は堅勝、通称は堅介、北代健助とも書かれる。.

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ペルソナ4

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プリンセス・トヨトミ

『プリンセス・トヨトミ』(英題:) は、日本の作家である万城目学の小説。.

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別宮大山祇神社

別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市にある神社。伊予国一宮の大山祇神社の別宮。旧社格は県社。新四国曼荼羅霊場40番札所。.

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喧嘩両成敗

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)とは、中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。.

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喜岡寺

喜岡寺(きおかじ)は、香川県高松市にある真言宗御室派の寺院。山号は栄松山。本尊は不動明王。.

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善福寺 (徳島市)

善福寺(ぜんぷくじ)は、徳島県徳島市寺町に位置する寺院である。阿波西国三十三観音霊場2番札所。本尊は聖観音。宗派は真言宗御室派。.

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カタバミ

タバミ(酢漿草、片喰、傍食『野に咲く花 増補改訂新版』 346頁。、学名: )はカタバミ科カタバミ属の多年草。日本の地方名には「かがみぐさ」、「すいば」、「しょっぱぐさ」、「すずめぐさ」、「ねこあし」、「もんかたばみ」などがあり、『日本方言大辞典』には180種以上が記録されている。中国では「三葉酸草」、「老鴨嘴」、「酸味草」、「満天星」などの別名がある。 日本では近年、よく似たオッタチカタバミという帰化種が急増しているが、古い図鑑には掲載されていないため、カタバミと誤認されていることもある。.

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るり姫祭り

るり姫祭り(るりひめまつり)は、愛媛県大洲市白滝の白滝公園とその周辺において開催されている伝統行事と観光イベントとが合体した、祭りのこと。 戦国時代に当地を治めていたものの、長宗我部氏との戦いに破れ、白滝に身を投げた「るり姫」の悲話伝説にちなみ、例年、11月23日の祝日に、稚児行列や、るり姫観音からの花みこしの滝つぼへの投げ入れなどが行われている。また、特産品市なども行なわれる。大洲市との平成の市町村合併までは、長浜町及び町観光協会白滝支部にて、合併後は大洲市観光協会長浜支部主催により行われている。折しも、白滝公園の紅葉が紅葉する見ごろの時期であり、多くの観光客が詰め掛ける、大洲市内でも恒例の観光イベントの一つともなっている。 また、るり姫観音は近傍の白山観音とともに地元住民の崇敬の対象となっている。.

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入交家住宅

入交家住宅(いりまじりけじゅうたく)は伊賀国(現在の三重県伊賀市相生町)に存在した武家屋敷。.

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八流の戦い

八流の戦い(やながれのたたかい)とは、1569年(永禄12年)、土佐国で長宗我部元親と安芸国虎との間に起こった合戦。.

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公文重忠

公文 重忠(くもん しげただ)は、戦国時代の武将。天竺氏、長宗我部氏の家臣。.

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元親夫人

元親夫人(もとちかふじん、生年不詳 - ))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。土佐国の大名・長宗我部元親の正室。名は不明。.

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前田元敏

前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5月26日) - 1927年(昭和2年)1月24日)は戦前日本の英学者。土佐藩出身。岐阜県立岐阜県尋常中学校大垣分校初代校長、日本中学校教頭、郁文館中学校教頭。.

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勝瑞城

勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国盗り頭脳バトル 信長の野望

『国盗り頭脳バトル 信長の野望』(くにとりずのうばとる のぶながのやぼう)は、2008年6月26日にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたニンテンドーDS用ゲームソフト。同社の30周年記念作品の1つでもある。「信長の野望シリーズ」のタイトルを冠しているが、従来のシリーズよりもボードゲームの要素が強くなっている。『信長の野望Online』『大航海時代Online』と同じソフトウェア3部が開発を担当した。プロデューサーは『大航海時代Online』の開発ディレクターの竹田智一。.

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四万十川の戦い

四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、天正3年(1575年)に勃発した長宗我部氏と土佐一条氏の戦い。この合戦によって長宗我部元親の土佐(高知県)統一が決定的となった。渡川の戦いとも呼ばれる。.

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四国

四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市 四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。 ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい 国土地理院(注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78km2で、世界の島の中では、バナナル島(ブラジル)に次ぐ第50位の大きさである世界の島の面積順位より抜粋、出典 List of islands by area(島:オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) ------------------------- ------------------------- ------------------------- ------------------------- 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方」と言う地方公共団体(都道府県)別では、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4県が所在する。 。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土」あるいは「四国島」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの地方公共団体(県)があり、4県総人口は3,762,941人であり、概ね横浜市人口に匹敵する,。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。.

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四国中央市

四国中央市(しこくちゅうおうし)は、愛媛県の東端に位置する市。四国の他の3県(香川県、高知県、徳島県)に接している。.

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四国平定

四国平定(しこくへいてい)は、戦国時代末期に豊臣秀吉が天下統一事業の一環として行った長宗我部氏との一連の戦い。.

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四国攻め

四国攻め(しこくぜめ)は、安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。その前段階である、本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。.

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倒幕運動

倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒すための政治的な運動・活動のことである。 主として江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して政権打倒を目的とした幕末の政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す政治工作も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉幕府末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府倒幕の動き(正中の変・元弘の変)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。.

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矢野城 (阿波国)

野城(やのじょう)は、徳島県徳島市国府町矢野にあった日本の城。.

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石高制

石高制(こくだかせい)とは、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である石高を基準として組み立てられた日本近世封建社会の体制原理のことである。土地の大小や年貢量のみならず、身分秩序における基準として用いられた。.

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石谷頼辰

石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。奉公衆。.

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砥部町

砥部町(とべちょう)は、愛媛県の中予地方に位置する町である。 200年以上の歴史がある伝統工芸品「砥部焼」で有名。松山と高知とを結ぶ国道33号が縦貫する交通の便と、変化に富んだ緑豊かな自然により、松山市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいる。「住んでも 訪ねても いきいき砥部」をキャッチフレーズとしていたが、新町になってから公募による「清流とほたる 砥部焼とみかんの町」をキャッチフレーズとしている。全国的に砥部と言えば「砥部焼の町」と知名度が高い。アートの里プラン21やホップ・ステップとべと言った町総合計画でまちづくりを進めている。.

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福留儀重

福留 儀重(ふくとめ よししげ(のりしげ)、天文18年(1549年) - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。隼人佐。土佐田辺島城城主。福留親政(儀実)の子。福留政親の父。 長宗我部元親に仕え活躍したが、長宗我部氏が豊臣秀吉の四国征伐に敗れ降伏し、九州征伐の先陣として出陣し大敗した豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死した。 「福留の荒切り」と称された父親政に劣らず、土佐の童謡にも「蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われる程、武勇に優れる一方、禁酒令を破った主君元親を諌めるなど忠義にも篤い人物であった。隼人神社に父とともに祭られている。 Category:戦国武将 Category:高知県の歴史 Category:1549年生 Category:1587年没.

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福留親政

福留 親政(ふくどめ ちかまさ、永正8年(1511年) - 天正5年3月9日(1577年3月28日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。官位は飛騨守。隼人とも称した。別名は儀実。父は福留房吉(福留蔵人)と推定されている。子に福留儀重。家紋は六鳩酢草。 長宗我部元親に「親」の一字を与えられるなど信頼され、感状を受けた数は21回に及び、1563年に元親が本山攻めに向かい岡豊城の防備が手薄になった際に安芸国虎が攻めてくるも撃退した。『土佐物語』によると20人切り、『元親記』によると37人切りをしたと伝わる。その働きぶりは福留の荒切りと呼ばれた。元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど重用されていたが、1577年、伊予の戦いにおいて戦死した。 ふくとめ ちかまさ ふくとめ ちかまさ ふくとめ ちかまさ.

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福留政親

福留 政親(ふくとめ まさちか、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。土佐の戦国大名長宗我部氏の家臣。父は福留儀重。半右衛門。子に親茂。 長宗我部元親・盛親に仕える。関ヶ原の戦いで主家が没落し浪人、大坂の役では盛親の陣に参陣したという説もあるが、関ヶ原後は加藤嘉明、ついで井伊直孝に仕え、大坂の役では井伊隊に属し、徳川勢として参戦した(大日本史料・第十二編15~20)というのが事実で、没年は不詳であるが、1624年に徳川義直に仕えているので、少なくともその頃までは生存していたと思われる。 Category:戦国武将 Category:生没年不詳.

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秦神社

(はだじんじゃ)は、高知県高知市にある神社。旧社格は県社。.

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秦氏

氏(はたうじ)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。.

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秦河勝

河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。姓は造。秦丹照『惟宗系図』東大史料編纂所蔵(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』)または秦国勝「秦氏系図」『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記』所収(太田亮『姓氏家系大辞典』)の子とする系図がある。冠位は大花上。.

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秦泉寺豊後

泉寺 豊後(じんせんじ ぶんご)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。。.

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秋月種信 (商人)

秋月 種信(あきづき たねのぶ、生没年不詳)は李氏朝鮮出身の日本の武士、のちに浪人、豆腐製造者。種信という諱は秋月家系譜録に記されているもので寺石、551頁、通称の長左衛門という名でより知られている。朝鮮名は朴元赫、日本における幼名は長次郎寺石、549頁。 文禄・慶長の役の際朝鮮へと出陣した長宗我部元親に従って来日し、長宗我部氏の小姓を務めた。関ヶ原の戦いによる長宗我部氏改易の後に浪人となり、豆腐製造業を開始し、土佐に大陸風の堅豆腐を広めた。.

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稲富祐直

富 祐直(いなどめ すけなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、砲術家。稲富流砲術の開祖。丹後国弓木城主。.

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竹内惣右衛門

竹内 惣右衛門(たけうち そうえもん)は、安土桃山時代の人物。長宗我部氏の家臣、一領具足。.

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竜ヶ森城

ヶ森城(りゅうがもりじょう)は、愛媛県西予市に存在した日本の城(山城)。 標高約400mの山頂にあり、15世紀以降魚成氏が居城とした。魚成氏は西園寺氏に従っていたが、長宗我部氏に一時屈伏し、その後西園寺氏の傘下に戻っている。その後、天正11年(1583年)の長宗我部氏の侵攻により落城したという。.

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篠原右京

原 右京(しのはら うきょう)は、戦国時代から安土桃山時代の阿波国の武将。夷山城主。篠原佐吉兵衛の子。.

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細川真之

細川 真之(ほそかわ さねゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 通称は、六郎、掃部頭。阿波守護細川持隆の子。母は小少将で、三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫は異父弟にあたる。子に細川隆之、細川允之、畠山之照(畠山高政の養子)がいる。.

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細川昭元

細川 昭元(ほそかわ あきもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波・摂津・丹波守護。第19代細川京兆家当主。父は第34代室町幕府管領・細川晴元、母は六角定頼の娘。正室は織田信秀の娘で織田信長の妹・お犬の方。子に元勝(頼範)、円光院(秋田実季室)。 幼名は六郎、聡明丸。のち昭元と名乗るが、一時期信長政権下では信元(のぶもと)、信良(のぶよし)と名乗っていた(最終的には昭元に名を戻している)。.

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細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

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紀州征伐

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。 信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。.

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緑僧都村

緑僧都村(みどりそうづむら)は、愛媛県南宇和郡に1952年まで存在した村である。昭和の合併により南宇和郡城辺町となり、さらに平成の合併で同郡愛南町となっている。現在の愛南町の中北部に相当する。.

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織田信孝

織田 信孝(おだ のぶたか / のぶのり『』には「ノブノリ」との読み仮名がある。)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。.

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炎の蜃気楼

『炎の蜃気楼』(ほのおのみらーじゅ)とは、桑原水菜による日本のライトノベルシリーズ。コバルト文庫刊。イラスト担当は東城和実(1〜12巻)、浜田翔子(13〜40巻)。 シリーズの売り上げは累計630万部以上。 本編の前日譚である「邂逅編」・「幕末編」・「昭和編」も連載。ドラマCDやイメージアルバム(音楽CD)が発売された他、1994年から白泉社「セリエミステリー」(廃刊)にて浜田翔子作画で漫画化(未完)。2002年にキッズステーションでアニメ化・2004年には続編のOVAが製作されたり、2014年から昭和編シリーズの舞台化がされるなどメディアミックスは多岐にわたる。.

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田中弥平左衛門

中 弥平左衛門(たなか やへいざえもん、? - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は、戦国時代後期の武将。長宗我部氏の家臣。諱は辰広。 長宗我部家の一将として阿波侵攻に従軍。中富川の戦いの後、小笠原成助と新開実綱の謀反の動きを鎮圧すべく牛岐城攻めに参加し、その際、新開方の強豪、市原安倫と格闘した末に組み伏せ、首を討ち取る功を挙げた。その後は「市原の首を取ったからには、名字も取ろう」と市原弥平左衛門と名乗ったという。 天正14年(1587年)、豊臣氏の九州侵攻に際し、長宗我部勢として戸次川の戦いに参加。島津氏の猛攻を受けた長宗我部勢の壊滅に伴い討死した。 子孫はそのまま市原氏を名乗り、長宗我部家の改易後は土佐藩に仕えた。.

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田中正吉

中 正吉(たなか まさよし、生没年不詳)は、戦国時代後期の武将。長宗我部氏及び香宗我部氏の家臣。通称は市之助、市介。名は政吉、尭徳とも。.

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田中新右衛門

中 新右衛門(たなか しんえもん、生没年不詳)は、戦国時代後期の武将。長宗我部氏の家臣『山鹿素行全集,思想篇』第八巻、5頁。 長宗我部家の一将として八流の戦いに従軍。長宗我部元親率いる本隊の第二陣において福留親政らと共に安芸家の猛将平野弥之助を討ち取る。これにより安芸勢は大いに恐れて総崩れとなり、長宗我部家の勝利を決定づけたとされる。 上記のような武功の一方、家中では剽軽な人柄で知られていたらしく、「臆病」の漢字を人に聞いたところ「ムネの病と書く(臆の和訓は「むね」)と教えられ、「なるほど、合戦の時に槍を取ると吐いてしまう者がいるのは、その胸の持病が出るからなのですな」と答えたというユーモラスなエピソードが伝えられている。.

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田村忠重

田村忠重(たむら ただしげ、生没年不詳)は、戦国時代の長宗我部氏の家臣。室町幕府奉公衆である田村光忠の孫、田村重光の子。遠祖は小野宮流藤原氏で鎌倉幕府の重臣、藤原(田村)仲教でこの荘園を所有していた九州の大族大友氏の同門、鎌倉幕府、室町幕府の重臣である攝津(中原)氏の一族である。 長宗我部氏の家臣になり、土佐田村庄を領した豪族であった。幡多郡下ノ加江に住み、三原郷大狼内村に転居したあとまた下ノ加江に戻り、同村江口藤兵衛の女を娶った。慶長八年に同村初めての井戸を掘る。 Category:戦国武将 Category:生没年不詳 Category:藤原氏 土佐田村氏.

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甲州街道 (街道をゆく)

* 『甲州街道』(こうしゅうかいどう)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第1巻第3章。「週刊朝日」の1971年3月12日号から4月9日号に連載された。訪れた時期は1970年5月23日(土曜日)。.

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甲之森城

之森城(かぶとのもりじょう)は、愛媛県西予市に存在した日本の城(山城)。標高451mの山頂にあり、周囲は平地となっている。 紀実平が城を築き、以降、北之川殿と呼ばれる当地の紀氏が在城した。天正11年1月13日(1583年)に長宗我部氏の侵入を受け、当主の紀親安は三滝城で討死して紀氏は滅亡、当城も落城したという。.

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町見村

見村(まちみむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県西宇和郡にあった村であり、現在の西宇和郡伊方町の中部、佐田岬半島のほぼ中央に位置する農漁村であった。.

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無双OROCHI

『無双OROCHI』(むそうオロチ)は、コーエーより発売のアクションゲーム。PlayStation 2版は2007年3月21日、Xbox 360版は2007年9月13日、PlayStation Portable版は2008年2月21日、Windows版が2008年3月20日に発売。海外でのタイトルは、『Warriors Orochi』。 キャッチコピーは「その敵は、本当の敵なのか。」。.

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牟岐城

牟岐城(むぎじょう)は、徳島県海部郡牟岐町にあった日本の城。.

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白地城

白地城(はくちじょう)は、阿波国三好郡白地(現在の徳島県三好市池田町白地)にあった日本の城。.

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菅達長

菅 達長(かん みちなが、生年不詳 - 慶長19年12月26日(1615年1月25日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。本拠地は志知・釜口・岩屋・須本など諸説ある。.

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非有

非有(ひゆう、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての真言宗の僧。長宗我部氏の家臣。滝本寺非有(たきもとじ -)、非有斎とも呼ばれ、非遊と表記されることもある。谷忠澄の弟といわれるが定かではない。.

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西園寺氏

西園寺氏(さいおんじし)は、日本の氏族のひとつ。中世に伊予西部を領有した戦国大名の氏族。本姓は藤原氏。家系は閑院流。西園寺家の支流にあたる。.

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西方城

西方城(にしがたじょう)は、徳島県阿南市長生町にあった日本の城。.

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覚城院

覚城院(かくじょういん)は、香川県三豊市仁尾町にある真言宗御室派別格本山の寺院。詳しくは大寧山 不動護国寺 覚城院と号する。本尊は千手観世音菩薩。さぬき三十三観音霊場第十九番札所。.

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香宗我部親氏

香宗我部 親氏(こうそかべ ちかうじ)は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。香宗我部親泰の嫡男。幼名は千菊丸。通称は左近・弥七郎、内記。弟に貞親。 長宗我部元親の甥にあたる。当時、長宗我部氏は元親の嫡男・信親が戦死し、その後継者問題によって一族の主だった者が粛清されており、既に老齢であった元親・親泰兄弟や幼少である後継者・盛親の代理を親氏が行うことが多かった。 朝鮮出兵でも元親の代理で出陣して熊川の海戦で李舜臣ら朝鮮海軍と交戦するも、間もなく文禄元年(1592年)11月24日に21歳の若さで病死(戦死とも)した。.

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香宗我部親泰

香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の三男。.

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香宗我部氏

香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。.

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香川之景

香川 之景(かがわ ゆきかげ)は、室町時代末期から安土桃山時代の讃岐国の武将。西讃の守護代。一説に法名を釈通庵と伝わる。紋は巴九曜を用いている。 はじめは管領細川氏に仕え、三好氏に実権が移るとその旗下に入るが、安芸毛利氏の支援を得て独立状態を保つ。長宗我部氏が台頭すると織田信長に近づき偏諱を与えられ信景と名乗る(信景を別人とする説もある)が、後に長宗我部元親の次男親和を養子として傘下に入り、讃岐の国人領主の懐柔に奔走した。羽柴秀吉の四国征伐後に改易される。なお、通俗的な文献では「元景」とする用例もあるがこれは誤りである。.

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香川県

香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し四国の北東部に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松市。県名は旧讃岐国のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡である香川郡から採られた。面積が全国一小さい県だが、災害が少なくコンパクトな中に都市の利便性と豊かな自然が調和した生活環境を併せ持つ特徴を有するかがわ暮らしガイドブック(香川県発行)。.

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香川親和

香川 親和(かがわ ちかかず)は、安土桃山時代の武将。長宗我部元親の次男。.

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香西佳清

香西 佳清(こうざい よしきよ、天文22年(1553年) - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。讃岐国の国人。別名は宗可。「盲目の大将」と呼ばれた。.

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香西氏

香西氏(こうざいし、こうざいうじ)は、日本の氏族。河西とも書かれる。.

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香長平野

香長平野(かちょうへいや)は、高知県の中央部に位置する高知平野のうち、旧香美郡および旧長岡郡に属する部分をいう。 高知平野東部(香長平野)と南国市街遠景.

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誰ガタメノ剣

『誰ガタメノ剣』(たがためのつるぎ)は、戦国大名・長宗我部元親の半生を描いたシアターキューブリックの演劇作品。緑川憲仁作。初演は2008年2月に中野ザ・ポケットで全7ステージ上演された。初演から2年後の2010年1月20日から24日に伊國屋サザンシアターで再演された。.

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高山村 (愛媛県)

山村(たかやまむら)は、1957年(昭和32年)まで愛媛県東宇和郡にあった村であり、現在の西予市の最西部に位置し、宇和海に突き出した農漁村であった。明治から太平洋戦争前まで石灰の生産で栄えたが、その後はミカン中心の農漁村。昭和の合併で明浜町の一部、さらに平成の合併で西予市となり、現在に至っている。.

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高知県

知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.

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高知県の文学史

知県の文学史(こうちけんのぶんがくし)では、高知県における文学の歴史、すなわち高知の人々、あるいは高知を訪れた人々の手になる文学作品を通史的に解説する。.

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高知県立歴史民俗資料館

知県立歴史民俗資料館(こうちけんりつれきしみんぞくしりょうかん)は、高知県南国市にある博物館。高知県の歴史・考古・民俗に関する資料等の調査研究、収集保存および展示を行う機関である。.

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高知県道384号北本町領石線

知県道384号北本町領石線(こうちけんどう384ごう きたほんまちりょうせきせん)は高知県高知市北本町一丁目から同県南国市領石までを結ぶ一般県道である。全線が旧国道32号である。 北金田(きたかなだ)地区(高知県道374号との交差点)から一宮(いっく)地区(高知県道249号との交差点)までの区間は通称薊野(あぞうの)バイパスと言われる。 高知県交通のバスで行先が「バイパス経由○○」と表示されている場合、バイパスとは薊野バイパス区間のことを指す。.

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高石左馬助

石 左馬助(たかいし さまのすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の地侍。滝山一揆(本山一揆)の首謀者。実名不詳。.

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谷干城

谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。通称は申太郎、守部。号は隈山。 第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。位階勲等爵位は陸軍中将正二位勲一等子爵。 熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。.

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谷忠澄

谷 忠澄(たに ただずみ、天文3年(1534年) - 慶長5年11月7日(1600年12月12日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。弟に非有(諸説あり)。通称は忠兵衛。.

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谷重喜

谷 重喜(たに しげき、1843年5月23日(天保14年4月24日) - 1887年)は、土佐藩士、迅衝隊士、日本の陸軍軍人、自由民権運動家。最終階級は陸軍大佐。通称は谷神兵衛。.

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豊岡上天神社

豊岡上天神社(とよおかかみてんじんじゃ/とよおかかみてんじんしゃ)は、高知県南国市岡豊町常通寺島にある神社。式内社で、旧社格は郷社。 岡豊城のある岡豊山の西南麓に鎮座する。.

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豊薩合戦

豊薩合戦(ほうさつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争である。天正の役、天正の戦とも呼ばれる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

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豊永勝元

豊永 勝元(とよなが かつもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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越訴

越訴(おっそ)とは、再審などを求めて正規の法手続を踏まずに行う訴え。合法・非合法は問わない。 直訴と同一視される場合もあり、実際に両方を混同する要素も含まれているが、本来の性格としては直訴は「最高権力者」個人に対して訴えるのに対して、越訴は上級訴訟機関に対して訴えるものである。.

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足利義助

足利 義助(あしかが よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。2代平島公方。室町幕府14代将軍・足利義栄の弟(一説には義栄の子)。.

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軍神ちゃんとよばないで

『軍神ちゃんとよばないで』(ぐんしんちゃんとよばないで)は、柳原満月による日本の4コマ漫画。『まんがタイムファミリー』(芳文社)2013年9月号から11月号までゲスト扱いで連続掲載。その後、同誌で2014年3月号から休刊号である2018年5月号まで本格連載された。その後『まんがタイム』に移籍し、2018年5月号から連載中。また、『まんがタイムオリジナル』2016年6月号よりスピンオフ作品『ここから風林火山』の掲載が開始されている。 上杉謙信女性説を元に、ウザカワニートで、だらしなカワイイ上杉謙信の姿を描く。彼女をはじめ、登場人物の多くは大幅な拡大解釈やアレンジが施されているものの、物語の大筋としては史実に沿ったものとなっている。.

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黒岩種直

黒岩 種直(くろいわ たねなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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黒川元春

黒川 元春(くろかわ もとはる)は、戦国時代の武将。長宗我部兼序の次男。長宗我部国親の弟。.

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黒瀬城

黒瀬城(くろせじょう)は、愛媛県西予市に存在した日本の城(山城)。.

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郷士

郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。.

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與田寺

與田寺(よだじ)は、香川県東かがわ市にある真言宗善通寺派別格本山の寺院。山号は醫王山、院号は虚空蔵院。さぬき七福神の一つ(寿老人)、四国八十八箇所総奥の院。 本尊真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか ご詠歌:祈るより 仏に ちかい あらたなる よだのお寺へ参るうれしさ.

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阿古姫

阿古姫(あこひめ、生年不詳 - 承応2年7月15日(1653年9月6日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。.

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阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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関ヶ原 (小説)

『関ヶ原』(せきがはら)は、司馬遼太郎の歴史小説。徳川家康と石田三成の対立を軸に、天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いを描いた作品である。 『週刊サンケイ』誌上で、1964年(昭和39年)7月から1966年(昭和41年)8月にかけて連載された。.

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薬丸兼将

薬丸 兼将(やくまる かねまさ、生年不詳 - 天正4年(1576年))は、戦国時代の武将。出雲守。諱は兼政とも。号は湖雲、または孤雲。子は兼持。 肝付兼続の時代から重臣として仕えたといわれる。永禄4年(1561年)、兼続の名代として出席した島津氏の重臣・伊集院忠朗が開いた宴席にて、鶴の羹で供応されたことを、肝付氏の家紋についてのことで忠朗から侮辱されたとして激怒し、これが島津氏と肝付氏の抗争の原因であるとする後世の創作逸話があるが、実際にはこの時点で島津家と肝付家の抗争は始まっている。 兼将は兼続に従って島津氏と戦い、一時は鹿児島城下まで攻め入るほどであった。また、永禄11年(1568年)に肝付氏側が海上警備中に誤って浦戸(土佐国)の船を敵(島津方)と誤認して攻撃して相手方に死者を出した問題で、長宗我部氏の重臣江村備後に対して謝罪と今後の対応に関する書面を送っている(「肝付家文書」332号『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ二』)。 兼続の死後は肝付良兼に仕え、その死後は肝付兼亮に仕えた。しかし天正元年(1573年)、兼亮が母親の御南(島津忠良の娘)と対立すると、御南を支持して兼亮追放に協力した。翌年、肝付氏が島津氏に服属するにあたり、肝付氏の使者となった。天正4年(1576年)(異説あり)、伊東義祐との戦いで戦死した。.

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藤堂家信

藤堂 家信(とうどう いえのぶ、天正6年(1578年) - 寛永13年2月19日(1636年3月26日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。藤堂氏の家臣。通称は式部。近江国の磯の出身であり、元は礒崎金七といった。米原磯村の礒崎氏の系図によれば、礒崎刑部佐衛門の六男とされているが、武内家の系図では兄弟姉妹は3人になっており、妹の川崎三郎左衞門室と稲葉猪之助(大坂夏の陣で戦死。戒名は行安道哲)がいる。.

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鑓場の戦い

鑓場の戦い(やりばのたたかい)は、戦国時代に阿波国の名東郡黒田鑓場における三好実休と久米義広の戦闘。 鑓場の合戦『徳島市史』1巻ともいい、久米義広らによる細川持隆の仇討ちという側面から鑓場の義戦、あるいは三好氏に対する久米義広らの反乱という意味で久米の乱とも記される。.

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蓮池

蓮池(はすいけ、れんち)- 蓮の生えた池。夏の季語である大辞林 第三版,三省堂,「蓮池」 2017年4月23日閲覧。。.

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蓮池城 (土佐国)

蓮池城(はすいけじょう)は、日本の城。嘉応2年(1170年)に成立し、鎌倉時代-戦国時代は大平氏の支配となり、山内氏入国の頃には廃城となった。.

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脇城

脇城(わきじょう)は、徳島県美馬市脇町大字脇町にあった日本の城。別名虎伏城。.

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野老山吾吉郎

野老山 吾吉郎(ところやま あきちろう、弘化3年10月10日(1846年11月28日) - 元治元年6月27日(1864年7月30日))は、江戸時代末期(幕末期)の土佐藩士。名を輝朗、のち所山五六郎を名乗った。.

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金山城 (伊予国)

金山城(かなやまじょう)は、愛媛県宇和島市に存在した日本の城(山城)。.

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長宗我部右近大夫

長宗我部 右近大夫(ちょうそかべ うこんだいふ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の五男。諱は不詳。官位は右近大夫。.

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長宗我部康豊

長宗我部 康豊(ちょうそかべ やすとよ)は、江戸時代初期の武将。土佐の戦国大名・長宗我部元親の末子にあたり、六男。『長宗我部旧記』『古老噺』、『落穂雑談一言集』等に名前が残る。.

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長宗我部俊宗

長宗我部 俊宗(ちょうそかべ としむね、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の武士。.

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長宗我部忠俊

長宗我部 忠俊(ちょうそかべ ただとし、生没年未詳)は、鎌倉時代の武士。.

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長宗我部信親

長宗我部信親の墓(高知市・雪蹊寺) 長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。.

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長宗我部信能

長宗我部 信能(ちょうそかべのぶよし)は、土佐の豪族で長宗我部氏の第11代当主。 父は第10代の重宗。元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏から土佐介良庄(高知市介良)で起こった在地豪族の反乱を香宗我部秀頼と共に鎮圧するように命令された。 この信能の代から、長宗我部家は土佐の名主などを組織化して在地領主としての基礎を固めていった。.

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長宗我部兼序

長宗我部 兼序(ちょうそかべ かねつぐ)は、戦国時代の武将。土佐の国人領主。長宗我部雄親の子。.

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長宗我部兼綱

長宗我部 兼綱(ちょうそかべ かねつな)は、長宗我部氏の第13代当主。 父は第12代の兼能。正平22年/貞治8年(1367年)頃に所領を一部削られている。兼綱の跡は子の能重が継いだ。.

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長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

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長宗我部元門

長宗我部 元門(ちょうそかべ もとかど、生年未詳 - 1471年)は、室町時代の武将。土佐国の国人・長宗我部氏の第17代当主。長宗我部文兼の子。弟に雄親がいる。名は元勝(もとかつ)とも伝わり、「元」の字は、家の慣例により同国守護を兼ねる細川京兆家当主(元服当時は細川勝元か)より偏諱を受けたものである。 父・文兼より家督を継ぐが次第に父と対立。父に追放される。.

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長宗我部国親

長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代の土佐国の大名。長宗我部兼序の嫡男。長宗我部氏復興に尽力し、野の虎と評される。.

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長宗我部盛親

長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の四男。戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。 父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。.

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長宗我部盛胤

長宗我部 盛胤(ちょうそかべ もりたね、生年不詳 - 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。長宗我部盛恒の子。母は不明。.

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長宗我部盛恒

長宗我部 盛恒(ちょうそかべ もりつね、? - 慶長20年(1615年))は、戦国武将・長宗我部盛親の長男(嫡男)。子は盛胤。.

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長宗我部親吉

長宗我部 親吉(ちょうそかべ ちかよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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長宗我部能俊

長宗我部 能俊(ちょうそかべ よしとし、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。.

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長宗我部重氏

長宗我部 重氏(ちょうそかべ しげうじ、生没年未詳)は、鎌倉時代の武士。.

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長宗我部雄親

長宗我部 雄親(ちょうそかべ かつちか)は室町時代の武将。長宗我部文兼の子。 長宗我部氏の家督は父・文兼の隠居を受けて兄の元門が継いでいたが、文兼と元門は次第に対立して不仲となり、文兼は元門を追放して家督に復帰、雄親はその後に家督を継いだ。雄親は家督争いで混乱した長宗我部氏の内部をまとめるため、寺社勢力との関係強化や弟を他家に養子として出すことでの家臣団強化を図った。 文明10年(1478年)に雄親は死去し、跡を子の兼序が継いだ。.

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長宗我部水軍

長宗我部水軍(ちょうそかべすいぐん)は、戦国時代の大名長宗我部氏が率いた水軍。 長宗我部元親の四国統一の補給部隊として活躍し、豊臣秀吉に臣従した後は小田原征伐・文禄・慶長の役にも参戦し活躍した。池氏が中核であり、池頼和は長宗我部国親(元親の父)の娘を妻とするなど優遇されたが、後に自刃に追い込まれた。.

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長宗我部文兼

長宗我部 文兼(ちょうそかべ ふみかね、生没年不詳)は、室町時代の武将。.

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長浜城

長浜城(ながはまじょう).

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長浜の戦い

長浜の戦い(ながはまのたたかい)は永禄3年(1560年)5月28日に戦国時代の土佐国に割拠していた長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦。長浜表の戦いとも呼ばれる。長浜の戦いの本戦である戸ノ本での戦いは、長宗我部元親が初陣を飾った戦いとして有名である。.

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若宮八幡宮 (高知市)

若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、高知県高知市にある神社。旧社格は県社。社紋は「まり巴」。.

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柳生神影流

柳生神影流(やぎゅうしんかげりゅう)は、日本の剣術の流派。剣術家・柳生宗矩の直門・木村郷右ヱ門尉義邦によって阿波国(現在の徳島県)に伝えられた柳生新陰流(江戸柳生)の一つ。なお、柳生神影流は俗称であり正式には阿州柳生神影流兵法剣術という。.

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柴田朝意

柴田 朝意(しばた とももと)は、江戸時代前期の武士。仙台藩重臣。伊達騒動の主要人物の一人。通称の“柴田外記”で知られる。.

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桑名吉成

桑名 吉成(くわな よしなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。後に藤堂氏の家臣となる。長宗我部家臣時代は土佐国中村城代。諱は別に一孝。通称は弥次兵衛で、桑名弥次兵衛の名の方が知られる。.

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桑名親光

桑名 親光(くわな ちかみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。通称は太郎左衛門。 桑名丹後守重定の長男で、兄弟に平右衛門(次男)と親勝(三男)、従兄弟に桑名吉成(弥次兵衛)、子として藤次郎(五百蔵左馬進)がいる。 天正14年12月12日に戸次川の戦いで討死した。.

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森城 (土佐国)

森城(もりじょう)は、高知県土佐郡土佐町にあった日本の城(山城)である。.

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植田氏

植田氏(うえたし)は、平安時代後期から戦国時代にかけての日本の武家、讃岐国の讃岐氏の一族である中山城山著「全讃史」の讃岐国造世紀の項では、殖田氏(神櫛王系讃岐朝臣氏族)系譜が、他家への分出も含めて、詳しく記述されている。。初期の頃には殖田とも記される。家紋は扇。.

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武蔵 (格闘家)

武蔵(むさし、男性、1972年10月17日 - )は、日本の元空手家、元キックボクサーである。本名は森 昭生(もり あきお)。大阪府堺市南区出身。正道会館所属(参段)。近畿大学短期大学部商経科卒。実弟のTOMOと共に設立した個人事務所パウンド・フォー・パウンドに所属し、タレント、俳優としても活動する。血液型はA型。蜷川氏の子孫で、蜷川新の曾孫(後述)。 旧リングネームはムサシ。リングネームの由来は右も左も両方撃てる二刀流であることから。リングネームの命名は佐竹雅昭。弟はキックボクサーのTOMO。トレーナーは元WBA世界スーパーミドル級チャンピオンのフランク・ライルズ。.

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比江山親興

比江山 親興(ひえやま ちかおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。土佐国比江山城主。長宗我部元親の従兄弟。.

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氷室の天地 Fate/school life

『氷室の天地 Fate/school life』(ひむろのてんち フェイト スクールライフ)は、磨伸映一郎による日本の4コマ漫画作品。『Fate/stay night』(TYPE-MOON)を題材とした派生作品の一つ。原作および監修にTYPE-MOONがクレジットされている。作者による略称は「ひむてん」。 月刊ComicREX増刊『まんが4コマKINGSぱれっと』(一迅社)のVol.2(2006年)より連載開始。掲載誌の月刊化、独立創刊、書名の変更を受け、現在は『まんが4コマぱれっと』に連載中。.

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永原一照

永原 一照(ながはら かつあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐藩家老。滝山一揆を鎮定し善政により土佐山内氏の土佐治政に功績があった。.

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江川崎

四万十川 江川崎の広見川 江川崎のメインストリート 江川崎中心部 江川崎(えかわさき)は高知県四万十市北部にある地域。旧幡多郡西土佐村に所在する。本項では、同地域に存在した江川崎村(えかわさきむら)についても記述する。「人口統計月報」による2013年7月1日現在の江川崎地区の世帯数は672世帯、人口は1,590人である。 2013年(平成25年)8月12日に、江川崎のアメダスで最高気温41.0℃を観測、日本の最高記録を更新した。.

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江村親家

江村 親家(えむら ちかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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江村親俊

江村 親俊(えむら ちかとし、生没年未詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。通称は孫左衛門。父は江村親家。 早くから長宗我部元親に仕え、天正10年(1582年)には阿波一宮城の守備を任されている。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐が始まると、谷忠澄と協力して一宮城を守ったが、豊臣秀長の攻撃の前に敗れて開城した。主家の降伏後、元親の3男・津野親忠が豊臣秀吉への人質として赴くとき、親忠に従って伏見に赴いた。秀吉の朝鮮出兵でも渡海し、晋州城の戦いで武功を挙げ、1500石の知行を与えられている。.

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池頼和

池 頼和(いけ よりかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。土佐国長岡郡池城主。.

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池氏

池(いけ)氏は、日本の姓氏のひとつ。.

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決戦III

『決戦III』(けっせんスリー)は、2004年12月22日にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたPlayStation 2用シミュレーションゲーム。「決戦シリーズ」の第3作。舞台は戦国時代の日本、主人公の織田信長やその周りの家臣たちを操作し、ストーリーを進めていくゲームである。.

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河後森氏

河後森氏(かごもりし)は、日本の氏族。.

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河野通直 (伊予守)

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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波川清宗

清宗が築城したいの町の波川玄蕃城跡。土塁を残すのみ。 波川 清宗(はかわ きよむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。.

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法華津前延

法華津 前延(ほけづ さきのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国法華津本城主。西園寺十五将の1人。.

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法華津氏

法華津氏(ほけつし)とは、日本の氏族の一つである。本姓は清原氏とされ、法華津殿清原氏あるいは清家氏を称した。.

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法華津本城

法華津本城(ほけづほんじょう)は、愛媛県宇和島市に存在した日本の城(山城)。.

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法谷寺

法谷寺(ほうこくじ)は、徳島県徳島市南庄町にある寺院で、眉山山麓にある。山号は救世山。宗派は真言宗大覚寺派。本尊は薬師如来。寺印は十六弁菊である。蔵本運動公園裏に位置する。 地元では、峯の薬師さんと親しみを込めて呼ばれ、古より病気治しに霊験あらたかとの言い伝えあり。 法谷寺の奥の院として、タタリ谷常厳寺(徳島市南蔵本町3丁目32の奥)があり、現在は荒廃しているが、聖徳太子の墓所という言い伝えがある。.

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津野倫明

津野 倫明(つの ともあき、1968年 - )は、日本の歴史学者、高知大学教授。.

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津野親忠

津野 親忠(つの ちかただ)は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部元親の三男。.

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津野氏

津野氏(つのし)は土佐国高岡郡の豪族。土佐七雄の一つ。高岡郡のうち中西部の津野荘・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点とした。.

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渡辺教忠

渡辺 教忠(わたなべ のりただ)は、戦国時代の武将。西園寺氏の家臣。伊予国河後森城主。西園寺十五将の1人。.

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港山城

港山城(みなとやまじょう)とは伊予国、現在の愛媛県松山市港山の、海に面する西側の小丘陵に築かれた河野氏の河野水軍が拠点にした日本の城(山城)。湊山城とも書かれた。 三津の港を見下ろす丘の上にあり、港の警護と監視、有事の際に軍船で出撃するにはうってつけの立地であったと思われる。東西に細長く本丸と二の丸が伸びていた。現在は整備されていて面影はないが、かつては海岸線が入り組んでいて島のような状態であったという。 三津浜港の入口に位置する港山.

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滝山一揆

滝山一揆(たきやまいっき)は、1603年(慶長8年)11月、土佐国の山内氏領内において勃発した郷士・高石左馬助の扇動による武装一揆。瀧山一揆、本山一揆ともいう。.

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朝倉城 (土佐国)

朝倉城(あさくらじょう)は、高知県高知市にあった日本の城。.

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本山城 (土佐国)

本山城(もとやまじょう)は、高知県長岡郡本山町本山にあった日本の城。 本山氏の居城。現在、町の史跡に指定されている。.

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本山寺 (三豊市)

本山寺(もとやまじ)は香川県三豊市にある高野山真言宗の寺院で、山号は、七宝山(しっぽうざん)院号は持宝院。鎌倉時代再建の本堂は国宝で、本尊は絶対秘仏馬頭観音菩薩。四国八十八箇所霊場第七十番札所。 本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか ご詠歌:もとやまに 誰が植えける 花なれや 春こそたおれ 手向けにぞなる.

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本山白雲

本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで。.

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本山親茂

本山 親茂(もとやま ちかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。元の名を貞茂(さだしげ)といい、長宗我部氏へ臣従後に親茂と改名。.

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本山茂宗

本山 茂宗(もとやま しげむね)は、戦国時代の大名。土佐国本山郷より出た豪族。 武勇に優れた人物で、『土佐物語』では、「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」といわれる傑物だった。土佐七雄の中では最も勢力が大きかった。 山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大した。本城だった本山城を子の茂辰にゆずり、朝倉城に本拠を移して経営をたくましくした。天文9年(1540年)頃、契機を見て荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族・土佐吉良氏を滅亡に追い込む。さらに、土佐国の有力大名であった土佐一条氏の軍と戦うなど、本山氏の最盛期を築き上げた。長宗我部氏に対しては快く思っておらず、室町幕府に媚びていた長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と称した。 茂宗の死後、本山氏は長宗我部氏の反攻を受けるようになる。.

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本山茂任

本山 茂任(もとやま しげとう、1826年(文政9年) - 1887年(明治20年)8月28日)は、 江戸時代土佐藩上士勤皇派の武士。 維新の志士。松山県参事。春日大社、下賀茂神社の神職。 通称は左近兵衛、のち只一郎。竜沢と号す。前諱は茂樹。板垣退助の親族にあたり、文武に秀で、坂本龍馬や中岡慎太郎を厚く庇護したことで有名。坂本龍馬や中岡慎太郎からの手紙なども伝存している。.

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本山茂辰

本山 茂辰(もとやま しげとき)は、戦国時代の武将。土佐七豪族の本山氏当主。本山茂宗の嫡男。 土佐一条氏と敵対の姿勢を見せ、一条氏と通じていた土佐吉良氏の攻撃を決意。天文9年(1540年)、当主の吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけて留守になっていた隙を狙って攻撃を開始。本山氏側は軍を二手に分け、茂辰は城主が不在であった吉良峰城に向かってこれを落とした。一方仁淀川に向かった軍勢も宣直を討ち取り、土佐吉良氏を滅亡させた。 弘治元年(1555年)、父・茂宗の死を受けて跡を継ぎ、中央平野部の朝倉城に拠る。茂辰は依然一条兼定と敵対し、2月25日には高岡郡の蓮池城を落とした。しかし翌年から舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、国親及びその子・元親と抗争を続ける。永禄3年(1560年)5月、長浜の戦いで長宗我部氏に大敗。6月には浦戸城を失って朝倉城に立て籠もった。以後も元親によって朝倉支城を悉く落とされ、永禄4年(1561年)3月にも侵攻を受けて敗北した。 永禄5年(1562年)9月には元親の大規模な侵略を受けるが、子の貞茂の活躍で勝利した。しかし本山軍の被害も大きく、以後は長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩された。このため永禄6年(1563年)1月10日、朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退く。5月に茂辰は挽回のために岡豊に攻め入るも敗北。永禄7年(1564年)4月には本山城を棄てて瓜生野に籠もって抗戦するが、その最中に病死したとされているが、実はこれについては文献上に茂辰の名前が登場しなくなるというだけで、茂辰の死去日や場所を裏付ける具体的な史料が存在する訳ではなく、「行方不明」というのが正しい。 ところが、永禄7年から20年以上経過した天正年間末期に編纂された『長宗我部地検帳』に「本山大夫法師殿」という人物が登場する。茂辰の嫡男・貞茂(後に親茂)が長宗我部氏に降伏しその家臣となって以降に長宗我部氏の文書で「殿」の称号で呼ばれたのは本山氏嫡流の人物のみであり、貞茂(親茂)兄弟は別に記載があるため、「本山大夫法師殿」に該当する可能性があるのはその先代である茂辰しか考えられず、茂辰は永禄7年以降に出家して長宗我部元親の庇護下にあったする説が浮上した。この説を提唱した朝倉慶景は茂辰は降伏して出家を条件に助命されたものの、これに納得しない茂辰の妻(元親の姉)や家臣が貞茂を擁して抵抗を継続したと推測している。.

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本山茂良

本山 茂良(もとやま しげよし、生歿年不詳)は、江戸時代後期の土佐藩の武士。通称は右馬之助、のち彦弥。.

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本山氏

本山氏(もとやまし)は、土佐国の豪族。土佐七雄の一つに数えられる。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国BASARAの登場人物

戦国BASARAの登場人物(せんごくバサラのとうじょうじんぶつ)では、カプコンのアクションゲーム『戦国BASARA』シリーズに登場するキャラクターの一覧である。 この項目の記述には、原作ゲーム以外のメディア作品における独自設定や二次設定などを含まないものとする(メディア作品におけるオリジナルキャラクターについては主要な人物のみ記載している)。 なお、この項目では人物だけではなく作中に登場する兵器等についても記述している。また、この項目で用いるシリーズの便宜上の略称は以下の通りにする。.

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戦国無双シリーズ

『戦国無双シリーズ』(せんごくむそうシリーズ)はオメガフォースが制作し、コーエーテクモゲームス(旧コーエー)から発売されているテレビゲームシリーズ。シリーズの累計出荷数は2016年時点で700万本に達している。.

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戦国IXA

戦国IXA(せんごくいくさ)とはヤフーとスクウェア・エニックスが共同運営しているブラウザゲームである。開発会社は『ブラウザ三国志』と同じONE-UP。操作性・ゲーム性の異なる関連作品『戦国IXA 千万の覇者』については該当項目参照。 2010年8月2日〜現在.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戦国時代史料の一覧

戦国時代史料の一覧 ここでは、日本の戦国時代についての史料の一覧を記す。史料価値については諸書を按じたが、研究者間でも史料の評価については諸説があることには留意されたい。 なお、詳細は個々の項目を見られたい。.

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戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-

『戦極姫〜戦乱の世に焔立つ〜』(せんごくひめ・せんらんのよにほむらたつ)とは2008年11月20日に発売された、げーせん18のアダルトゲームである。 2009年11月12日に『戦極姫〜戦乱に舞う乙女達〜』と題するPlayStation 2版、PlayStation Portable版がイエティより発売されている。 2011年11月25日にはグラフィックを新しく描き直した新装版が発売された。主な変更点はイベントCGのクォリティアップ、PS2/PSP版準拠の立ち絵差し替え、店舗特典で人気の高かった源義経の追加など。.

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戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜

『戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜』(せんごくひめ3〜てんかをきりさくひかりとかげ〜)は、げーせん18より2011年6月17日に発売された18禁シミュレーションゲーム。2011年12月9日にパワーアップキット『戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜遊戯強化版-壱の巻-』が発売された。 システムソフト・アルファーより2012年3月29日にPSP版、2012年12月20日にPlayStation 3版、2013年1月31日PlayStation Vita版が発売された。.

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戸島 (愛媛県)

戸島(とじま)とは、宇和島港の沖合いの有人島である。三浦半島(蒋淵半島)の突端のすぐ先にある。日振島は戸島よりも、さらに西の九州側になる。1958年(昭和33年)に、周辺四村と宇和海村(現宇和島市)として合併するまでは属島の嘉島と共に戸島村を形成していた。.

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戸波親武

戸波 親武(へわ ちかたけ)は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。戸波城、十河城を居城としていた。.

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戸波親清

戸波 親清(へわ ちかきよ)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。土佐戸波城を居城としていた。.

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明神善秀

明神 善秀(みょうじん よしひで、生年不詳 - 1864年12月29日(元治元年12月1日))は、江戸時代後期の土佐藩上士。幼名は民之助。通称は明神源八。前諱は信貞。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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昼寝城

昼寝城(ひるねじょう)は、香川県さぬき市前山に築かれていた日本の城(山城)。.

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浦戸城

浦戸城(うらどじょう、Urado Castle, Urado-jo)は、高知県高知市浦戸(土佐国吾川郡浦戸)にあった日本の城。 戦国時代に長宗我部元親が居城とし、山内一豊も高知城に移るまで居城とした。現在は県の史跡に指定されている。.

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浦戸一揆

浦戸城の碑 浦戸一揆(うらどいっき)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果改易処分となった長宗我部氏の家臣が本拠地の浦戸城の明け渡しに反対して起こした一揆。.

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浦戸藩

浦戸藩(うらどはん)は、土佐国(現在の高知県高知市浦戸)に存在した藩。藩庁は浦戸城。.

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海外出身の武士の一覧

帯刀するウージェーヌ・コラッシュ 海外出身の武士の一覧(かいがいしゅっしんの日本のぶしいちらん)では、日本国外で出生し、日本の武家の一員となった人物を列記する。.

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浜田善右衛門

浜田 善右衛門(はまだ ぜんえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。 主君・長宗我部元親が讃岐国藤ノ目城(藤目城)を落とした後に桑名太郎左衛門と共に守将に任じられた。その後香川之景らに攻められ城を失う。天正6年(1578年)に再度藤ノ目城攻めに加わり戦死した。.

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斎藤利賢

斎藤 利賢(さいとう としかた) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は右衛門尉『美濃明細記』。春日局の祖父であり初代小田原藩主・稲葉正勝の曽祖父。美濃国白樫城主。 父は斎藤利匡。軍記・史書・系図等では斎藤和泉守利胤『美濃国諸家系譜』(または長井斎藤利安)。母は稲葉備中守通以(越智)女。妹に明智光安室。室は前妻に足利義輝の重臣蜷川親順の娘(蜷川親世の妹、後に離縁して石谷光政室)、後妻は明智光継(宗善)の娘。子に石谷頼辰、利三など。 斎藤道三・義龍父子2代に仕え、美濃山県郡に居住する。晩年の動向は不明だが、天正14年(1586年)5月23日に死去。 子らは明智光秀の重臣となったが、利三は本能寺の変後に戦死、石谷頼辰は土佐国に落ち延びて長宗我部氏に仕えた。.

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新開実綱

新開 実綱(しんがい さねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の家臣。阿波国牛岐城主。.

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日和佐城

日和佐城(ひわさじょう)は、徳島県海部郡美波町に位置する日本の城跡。別名は渭津城ともいう。.

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日本のダムの歴史

日本のダムの歴史では、日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は616年頃に建設された狭山池より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。.

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愛治村

愛治村(あいじむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県北宇和郡にあった村であり、現在の鬼北町の北部の農山村である。昭和の合併でいったん広見町に、さらに平成の合併で鬼北町となり、現在に至っている。.

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曽我部和恭

曽我部 和恭(そがべ かずゆき、1948年4月16日『声優名鑑』、503頁、成美堂出版、1999年、ISBN 978-4415008783 - 2006年9月17日)は、日本の男性声優、俳優、ミュージシャン。旧芸名及び本名は曽我部 和行(そがべ かずゆき)。血液型はA型。.

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1498年

記載なし。

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6月15日

6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.

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