11 関係: 城柵、小乙下、出羽国、立身、青蒜、馬武 (蝦夷)、越国、鼠ヶ関、柵造、恩荷、渟足柵。
城柵
城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)が築いた軍事的防御施設である。 現代の歴史学では特に北東と南西の辺境に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。個々の城柵は、「多賀柵」など「柵」の字を付ける場合と、「多賀城」など「城」の字を付ける場合があり、城も柵も「き」と呼んでいた。北東は蝦夷、南西は隼人に対する備えとして置かれ699年(文武天皇3)12月には、のちの日向・大隅国府に近接した地点に三野(日向国児湯郡三納.
小乙下
小乙下(しょうおつげ)は、649年から685年まで日本で用いられた冠位である。664年を境に順位が変わり、下から2番目か3番目にあたる低い冠位であった。上は小乙上から小乙中、下は立身から大建に変わった。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
立身
立身(りゅうしん)は、649年から664年まで日本で用いられた冠位である。19階中最下位で、小乙下の下に位置する。.
青蒜
青蒜(あおひる、生没年不詳)は、7世紀半ばの飛鳥時代に津軽地方にいた蝦夷の有力者である。658年に津軽郡少領に任命され、飛鳥の都に上って小乙下の冠位を授けられた。.
馬武 (蝦夷)
武(まむ、生没年不詳)は、7世紀半ばの飛鳥時代に津軽地方にいた蝦夷の長である。658年に津軽郡大領に任命され、飛鳥の都に上って大乙上の冠位を授けられた。.
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越国
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。.
鼠ヶ関
ヶ関(ねずがせき)は、山形県鶴岡市の大字である。郵便番号は999-7126。.
柵造
柵造(きのみやつこ、さくぞう)は、7世紀の日本で辺境に置かれた城柵を治めた地方官である。658年に高志国(越国)の2柵にあったことが知られるのみで、存続期間、実像ははっきりしない。.
恩荷
恩荷(おが、おんが、生没年不詳)は、7世紀半ばの飛鳥時代に日本の秋田地方にいた蝦夷の人物。現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。658年に阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、朝廷への服属を誓い、小乙上の冠位を与えられた。.
渟足柵
渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)は、越国(高志国)にあった日本の古代城柵。「沼垂城」とも。 大化3年(647年)に築かれたとされる。詳細な所在地は不明だが、現在の新潟県新潟市東区にあったと考えられている。.