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西東三鬼

索引 西東三鬼

西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の俳人。歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。.

62 関係: 加藤郁乎句またがり天狼 (雑誌)孝橋謙二季語一覧小堺昭三小林桂樹山口誓子岡山県出身の人物一覧岡山県立津山中学校・高等学校島津亮嶋田的浦嶋田洋一 (俳人)上田五千石三橋敏雄平畑静塔京大三高俳句会今日佐藤鬼房俳句俳句 (雑誌)俳句結社・結社誌の一覧俳人の一覧俳人協会賞カキノキ兵庫県出身の人物一覧石田波郷石橋辰之助現代俳句協会現代日本文学大系神田秀夫神戸文学館秋元不死男第二芸術無季俳句青山学院中等部・高等部須藤徹角川俳句賞鶏頭の十四五本もありぬべし鶴山公園舟崎克彦鈴木六林男阿部知代金子兜太橋本多佳子永田耕衣沢木欣一津山市津沢マサ子渡辺白泉...澁谷道斎藤玄新俳句人連盟新興俳句新興俳句弾圧事件文学忌日野草城日本の近現代文学史日本歯科大学の人物一覧1900年1962年5月15日 インデックスを展開 (12 もっと) »

加藤郁乎

加藤 郁乎(かとう いくや、1929年1月3日 - 2012年5月16日)は、詩人、俳人、俳諧評論家。.

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句またがり

句またがり(くまたがり、句跨り)は、行末以外の場所で、句、節、文など統語上の単位を区切ること。.

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天狼 (雑誌)

天狼」(てんろう)は、俳誌。1948年1月、奈良県丹波市町(現・天理市)の養徳社から創刊。主宰・山口誓子、編集・西東三鬼。.

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孝橋謙二

孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - )は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。 1940年10月与謝野晶子の長女の八峰(やつお、1907年3月生)と結婚。 戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「氷海」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。.

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季語一覧

季語一覧(きご いちらん)では、季語を分類し、列挙する。.

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小堺昭三

小堺 昭三(こさかい しょうぞう、1928年5月24日 - 1995年3月7日)は、日本の作家。 福岡県大牟田市生まれ。旧制福岡県立八幡中学校卒。火野葦平の秘書を務め、のち『週刊文春』のルポライターを経て作家となる。1951年「朝鮮海峡」で新潮社文学賞佳作、1959年「基地」で芥川賞候補、1960年「自分の中の他人」で直木賞候補。『密告―昭和俳句弾圧事件』(ダイヤモンド社、1979年)では西東三鬼を特高のスパイと断定し、三鬼の遺族から版元ともども名誉毀損で民事提訴され、1983年に敗訴した。 戦記、昭和史、近代史実録もの、官能小説、また政界・実業界実録ものなど、週刊誌記者出身らしい作風で知られた。.

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小林桂樹

小林 桂樹(こばやし けいじゅ、1923年11月23日 - 2010年9月16日)は、日本の俳優。群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)出身。旧制群馬県立前橋中学校卒業、日本大学専門部芸術科中退。サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、その生涯において253本の映画に出演した。.

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山口誓子

山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は京都府出身の俳人。本名は新比古(ちかひこ)。高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。.

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岡山県出身の人物一覧

岡山県出身の人物一覧(おかやまけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する岡山県出身の人物の一覧表である。.

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岡山県立津山中学校・高等学校

岡山県立津山中学校・高等学校(おかやまけんりつ つやまちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、岡山県津山市椿高下に所在する公立中学校・高等学校。併設型中高一貫校。略称は「津高(つこう)」。.

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島津亮

島津 亮(しまづ りょう、1918年 - 2000年)は、俳人。香川県生。旧制大阪外国語学校(現・大阪大学外国学部)蒙古語学科卒。1946年、応召先の天津から引揚げ、句作開始。鈴木六林男らの「青天」を通じて西東三鬼に会い師事する。1948年「雷光」創刊同人(1950年廃刊)。1951年「梟」創刊同人。1957年「夜盗派」同人(1960年終刊)。1960年「縄」同人。1962年「海程」創刊同人。1968年「ユニコーン」創刊同人。代表句に「怒らぬから青野でしめる友の首」など。この句は金子兜太が『今日の俳句』(1965年)で取り上げて広く知られるようになった作品で、同性愛的な趣があるとも評されている。1956年の作で、島津の句はこの頃より前衛俳句の傾向を強め、関西における前衛俳句運動の中心の一人となっていった。句集に『紅葉寺境内』『記録』『唱歌』『亮の世界』がある。.

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嶋田的浦

嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日磯部郷土史刊行会 編(1963):270ページ - 1950年4月11日秋元(1966):132ページ)は日本の俳人。本名は襄。三重県志摩郡的矢村大字的矢(現在の志摩市磯部町的矢)出身。的浦の号は、故郷・的矢が小さな港(浦)を成していることにちなんでいる。 嶋田青峰の弟であり、句作の才能は兄の青峰を上回っていたと評されている細井(1996):63ページ。.

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嶋田洋一 (俳人)

嶋田 洋一(しまだ よういち、1913年 - 1979年)は日本の俳人。東京府東京市生まれ。父の嶋田青峰、叔父の嶋田的浦も俳人である。 早稲田大学在学中に『早稲田俳句』を創始し嶋田(1966):149ページ、その中心人物として清新的な俳句活動を展開した。.

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上田五千石

上田 五千石(うえだ ごせんごく、1933年10月24日 - 1997年9月2日)は、東京都出身の俳人。秋元不死男に師事。「畦」創刊主宰。本名は明男。.

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三橋敏雄

三橋 敏雄(みつはし としお、1920年11月8日 - 2001年12月1日)は、俳人。東京都八王子市出身。実家は絹織物業であったが、家業が傾き進学を諦め、書籍取次の東京堂(後に取次部門は日本出版配給に吸収)で働きながら実践商業学校(現実践学園中学・高等学校)夜間部を卒業。1943年召集を受け横須賀海兵団に入団。戦後は1972年まで運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。 俳句は1935年、東京堂の先輩に勧められ社内句会に参加。1936年に「句と評論」「馬酔木」などに投句。1937年渡辺白泉の「風」に参加、白泉に師事し、新興俳句無季派の俳人となる。1938年「広場」同人となり、西東三鬼にも師事。1939年「京大俳句」にも参加するが、新興俳句弾圧事件により終刊に追い込まれた。戦後は西東三鬼主宰の「断崖」、山口誓子主宰の「天狼」同人。同人誌「面」・「俳句評論」同人。1967年、第14回現代俳句協会賞受賞。1986年「壚坶(ローム)」監修。1989年「畳の上」で第23回蛇笏賞受賞。三橋敏雄に強い影響を受け私淑のち師事した俳人に池田澄子、沼尻玲子などがいる。 戦後も無季俳句の好題である戦争にこだわり続けた。代表的な句に「かもめ来よ天金の書をひらくたび」「いつせいに柱の燃ゆる都かな」(以上『まぼろしの鱶』所収)「戦争と畳の上の団扇かな」(『畳の上』所収)などがある。.

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平畑静塔

平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、和歌山県出身の俳人、精神科医。.

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京大三高俳句会

京大三高俳句会(きょうだいさんこうはいくかい)は、京都大学関係者が中心となって設立された俳句会。旧制第三高等学校で日野草城、五十嵐播水らによって1919年7月に作られた「神陵俳句会」を前身として、1920年3月に創設。京大学生集会所で行われた発会式には高浜虚子も招かれた。運営は草城と鈴鹿野風呂が中心で、同年10月には山口誓子が参加、11月より『京鹿子』が実質的な機関誌として創刊された。 俳句会は1922年11月に一度解散されたが、1925年5月に井上白文地らによって復活された。1932年、『京鹿子』が野風呂の主宰誌となり、翌年に新たに機関誌『京大俳句』が創刊された。.

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今日

今日(きょう、こんじつ).

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佐藤鬼房

佐藤鬼房(さとう おにふさ、1919年3月20日 - 2002年1月19日)は、俳人。岩手県釜石市出身。本名は喜太郎。.

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俳句

俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。.

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俳句 (雑誌)

『俳句』(はいく)は、角川文化振興財団が発行する月刊の俳句総合誌。1952年6月、東京都にて角川書店より創刊。創刊号には創刊を祝う高浜虚子の「登山する健脚なれど心せよ」の句が掲げられた。編集は当初石川桂郎が担当し、のち発行人の角川源義、1953年11月より大野林火に移る。林火時代には社会性俳句の特集などを行い俳壇に活気を与えた。1955年2月には角川俳句賞が設立され、俳壇の登竜門として定着。またこの年から臨時増刊号として『俳句年鑑』を毎年1回発行するようになった。1957年1月には西東三鬼に編集がうつり、三鬼以後は角川社内からの人間が編集を担当している。.

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俳句結社・結社誌の一覧

俳句結社・結社誌の一覧では、著名な俳句結社および結社発行の俳誌を五十音順で掲載する。.

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俳人の一覧

主要な俳人・俳諧師の一覧を掲載する。.

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俳人協会賞

俳人協会賞(はいじんきょうかいしょう)は、俳人協会が主催する俳句の賞。1961年11月、協会設立と同時に開始された。過去1年間に刊行された協会会員の句集が選考対象だが、過去に同協会賞、現代俳句協会賞、蛇笏賞、芸術選奨などを受賞している者は原則として除外される。1977年からは、50歳以下の協会会員の第一句集を選考対象とした俳人協会新人賞が併設された。.

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カキノキ

ノキ(柿の木)は、カキノキ科の1種の落葉樹である。東アジアの固有種で、特に長江流域に自生している。。--> 熟した果実は食用とされ、幹は家具材として用いられる。葉は茶の代わりとして加工され飲まれることがある。果実はタンニンを多く含み、柿渋は防腐剤として用いられる。現在では世界中の温暖な地域(渋柿は寒冷地)で果樹として栽培されている。黒色の縞や柄が生じ、部分的に黒色となった材をクロガキと呼ばれて珍重されるが、産出量が極めて少ない銘木中の銘木である。.

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兵庫県出身の人物一覧

兵庫県出身の人物一覧(ひょうごけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する兵庫県出身の人物の一覧表である。.

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石田波郷

石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、「馬酔木」に拠ったのち、「鶴」を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句からはじまり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求、加藤楸邨、中村草田男らとともに人間探求派と呼ばれた。昭和戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。.

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石橋辰之助

石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)5月2日 - 1948年(昭和23年)8月21日)は、俳人。栗林一石路や橋本夢道とともにプロレタリア俳句運動に尽力した。別号に竹桜子。.

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現代俳句協会

代俳句協会(げんだいはいくきょうかい)は、全国規模の俳句団体。.

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現代日本文学大系

代日本文学大系(げんだいにほんぶんがくたいけい)は、1968年から73年にかけて、筑摩書房から発行された明治維新以降の日本文学作品の全集である。.

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神田秀夫

夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 1993年9月18日)は、日本の国文学者、評論家。東京府入新井村山王(現東京都大田区山王)生まれ。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。1937年、応召により同大学院を中退。復員後は目黒書店に入社し、総合誌『俳句研究』の編集に携わりながら俳句評論を執筆。1947年、石田波郷、西東三鬼とともに現代俳句協会を設立。同年以降、国会図書館司書、共立女子大学教授、成蹊大学教授、武蔵大学教授を歴任。学者としては古代から近世までの文学を研究領域とした。1993年9月18日死去、79歳。翌年に第6回現代俳句協会大賞が贈られた。.

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神戸文学館

かつて礼拝堂であった展示室 神戸文学館(こうべぶんがくかん、Kobe City Museum of Literature)は兵庫県神戸市灘区にある近代文学館。.

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秋元不死男

秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1977年7月25日)は、神奈川県横浜市出身の俳人。本名は不二雄。前号は東京三(ひがし きょうぞう)。別号に秋元地平線。島田青峰に師事し「土上」「天香」に参加。新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される。戦後は「天狼」参加を経て「氷海」を創刊・主宰。劇作家の秋元松代は妹。息子の秋元近史は『しゃぼん玉ホリデー』を手がけたテレビディレクター・プロデューサー。.

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第二芸術

二芸術 ―現代俳句について―」(だいにげいじゅつ げんだいはいくについて)は、岩波書店の雑誌『世界』1946年11月号に掲載された桑原武夫の論文。同年に同論文を表題作とする評論集(岩波書店刊)に収録された。俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべきと論じたものであり、当時の俳壇に大きな論争を引き起こした(第二芸術論争)。 この論文では桑原はまず作者名を伏せたうえで、大家の作品のなかに無名の作者のものを混ぜた15の俳句作品を並べ、作品からは素人と大家の優劣をつけることができないとする。ここから俳句においては大家の価値はその党派性によって決められるものであるとして批判し、また近代化している現実の人生はもはや俳句という形式には盛り込みえず、「老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」ものとして、強いて芸術の名を使うのであれば「第二芸術」として区別し、学校教育からは締め出すべきだという結論を導き出している。 桑原の挑発的な論調もあってこの論文は俳人たちの間で多くの反論を引き起こした。主な論者は山口誓子、中村草田男、日野草城、西東三鬼、加藤楸邨などで、山口と桑原は毎日新聞紙上で「往復書簡」のやりとりをしている。反論側の要旨は俳句の党派性などの弊害をある程度認めつつ、桑原の鑑賞力の低さや俳句に対するそもそもの非好意的な態度を批判するもので、中でも中村草田男が激しい反論を行った。戦後の当時は俳人たちも俳句のあり方を模索していた時期であり、この論争はその後社会性俳句運動などが生まれる遠因ともなった。.

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無季俳句

芭蕉の無季句「徒歩ならば杖つき坂を落馬かな」句碑(三重県四日市市杖衝坂)。ヤマトタケルが東征の帰途、傷ついた体を剣を杖代わりにして支えながらこの坂を登ったという伝説を踏まえる。 無季俳句(むきはいく)は、季語を持たない俳句のこと。また季語はあっても季感(季節の感じ)を持たない俳句や、季語の有無を問わず詩感(ポエジー)を第一義とする俳句を含めることもある宮坂静生 「無季俳句」 『現代俳句大事典』 548-549頁。川名大 「無季俳句」 『俳文学大辞典』 891-892頁。。「無季」に対し、句が季語・季感を持つことは「有季」(ゆうき)という復本一郎 「有季」 『現代俳句大事典』 586-587頁。。 無季の問題は江戸期、松尾芭蕉の時代から議論されてきた難題であった。近世に成立した俳諧(俳諧連歌)においては、連歌の約束事を継承し、発句(ほっく。最初の五七五の句)には必ず季語を入れるべきものとされる一方、連句の座を離れた場においては無季の発句もしばしば作られていた。近代になって独立した発句を俳句と呼ぶようになるが、「ホトトギス」を長く主宰した高浜虚子は、花鳥諷詠を俳句の本質として唱えて無季俳句を排斥し、俳句は季語を含むべきものとする伝統俳句の考えを普及させた。 近代俳句史においては、無季の問題は明治末期から大正期にかけての新傾向俳句運動、昭和初期の新興俳句運動、昭和30年代の前衛俳句運動という三つの俳句革新運動において提示され、時代ともに深まりを見せている。今日の俳壇においても、無季俳句に対する立場は個々の俳人や結社・師系などにより様々である。.

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青山学院中等部・高等部

青山学院中等部・高等部(あおやまがくいんちゅうとうぶ・こうとうぶ)は、東京都渋谷区渋谷四丁目にある私立中高一貫制男女共学校。高等部では、中等部若しくは初等部から入学し、又は幼稚園から入園した内部進学の生徒と高等部から入学した外部進学の生徒との間で、第1学年から混合してクラスを編成する併設型中高一貫校である。スクール・モットーは「地の塩、世の光」(マタイによる福音書より)。.

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須藤徹

藤 徹(すどう とおる、1946年10月1日 - 2013年6月29日)は、日本の俳人、文芸評論家。多田裕計、小川双々子の門下生。俳句を中心とした文芸誌「ぶるうまりん」の代表(編集・発行人)を務めた。「豈」同人。.

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角川俳句賞

角川俳句賞(かどかわはいくしょう)は、俳句総合誌『俳句』(角川学芸出版)が主催している公募の俳句新人賞。1955年、角川短歌賞とともに創設。未発表50句が選考対象。俳人の登竜門として知られており、「俳句界の芥川賞」とも呼ばれる。2015年度の選考委員は正木ゆう子、仁平勝、小澤實、高野ムツオの4名。.

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鶏頭の十四五本もありぬべし

鶏頭の十四五本もありぬべし」(けいとうのじゅうしごほんもありぬべし)は、正岡子規の俳句。1900年9月に子規庵で行われた句会で出された句であり、新聞『日本』11月10日号に掲載、同年『俳句稿』に収録された。季語は鶏頭(秋)。「鶏頭が十四、五本もあるに違いない」ほどの意味で、一般に病に臥せていた子規が病床から庭先の鶏頭を詠んだ句だと考えられている。元来評価の分かれている句であり、昭和20年代にはこの句の評価をめぐって鶏頭論争と言われる論争が起こり金井景子 「鶏頭論争」『現代俳句ハンドブック』 187-188頁、以後も現代に至るまで俳人や歌人、文学者の間でしばしば論議の対象となっている。.

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鶴山公園

山公園(かくざんこうえん)は、津山市にある歴史公園である。明治の廃城令で民間に払い下げられていた津山城の中心部を当時の津山町が町有とし、1900年(明治33年)に鶴山公園として公開した。津山城址鶴山公園ともいう。古地名としては「つるやま」だが、城の通称、および公園名は「かくざん」である。.

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舟崎克彦

舟崎 克彦(ふなざき よしひこ、1945年2月2日 - 2015年10月15日)は、日本の作家、詩人、作詞家、挿絵画家、劇画原作者。森窓一郎名義での作品もあり、著書は300冊以上にのぼる。影響を受けた文学者として、谷崎潤一郎、金子光晴、西東三鬼の3人を挙げている。柔道三段。2015年3月まで白百合女子大学教授として文章表現と創作の授業を講じる。.

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鈴木六林男

鈴木 六林男(すずき むりお、1919年9月28日 - 2004年12月12日)は、俳人。本名・次郎。 山口高等商業学校(現・山口大学)中退。初学時代は「串柿」に投句し、永田耕衣、加藤滋の選を受ける。学生時代に同人誌「螺線」を創刊、「蠍座」「京大俳句」「自鳴鐘」に関わり西東三鬼に師事、新興俳句運動に参加した。 1940年応召、中国大陸、フィリピン諸島を転々とし、1942年、バターン・コレヒドール戦での負傷により帰還、退院後に除隊。戦後に商業学校にもどり中退。「青天」「雷光」「夜盗派」「梟」「風」「頂点」などに関わり、社会性俳句の中心作家として注目を受ける。1971年、「花曜」を創刊・主宰。季を無季の地続きにあるものとして捉え、戦後も戦争句・無季句を詠み続けた。代表句に「遺品あり岩波文庫「阿部一族」」(1949年作)など。 1957年第6回現代俳句協会賞、1995年第29回蛇笏賞(句集『雨の時代』により)、2002年第2回現代俳句大賞受賞。また2001年に勲四等瑞宝章を受ける。1984年から1990年まで大阪芸術大学教授。2004年12月12日、肝不全のため大阪府泉大津市で死去。85歳没。戒名は禅林院鶴翁杜若居士。2005年3月、「花曜」は解散。「花曜」の同人・会員は、「六曜」「やまぐに」「光芒」「香天」「花象」「洛曜」などの雑誌を創刊し、活動を継続している。.

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阿部知代

阿部 知代(あべ ちよ、1963年7月23日 - )は、フジテレビの元アナウンサーで報道局の社員。俳人。群馬県桐生市出身。身長168cm。.

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金子兜太

金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。.

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橋本多佳子

橋本 多佳子(はしもと たかこ、1899年(明治32年)1月15日 - 1963年(昭和38年)5月29日)は、日本の俳人。本名、多満(たま)。旧姓、山谷。.

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永田耕衣

永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日 - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。本名軍二(ぐんじ)。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。.

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沢木欣一

沢木 欣一(さわき きんいち、1919年(大正8年)10月6日 - 2001年(平成13年)11月5日 )は、富山県出身の俳人。「風」を主宰、戦後の社会性俳句を主唱した。妻は俳人の細見綾子。.

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津山市

津山市(つやまし)は、中国地方の東部、岡山県の北部に位置する市。岡山県では第三規模の都市である。.

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津沢マサ子

津沢 マサ子(つざわ まさこ、1927年 - )は、俳人。宮崎県椎葉村に生まれる。1943年熊本県立甲佐高等女学校卒業。後藤是山の「東火」、古川克己の「四季」、大野我羊の「東虹」、西東三鬼の「断崖」に俳句を学び、1967年「俳句評論」に入門、高柳重信に師事。1977年、「俳句評論」の第5回五十句競作にて「不毛の夏」で佳作第二席。同年第24回現代俳句協会賞受賞。ほかに第4回俳句評論賞、第6回鬣TATEGAMI俳句賞などを受賞している。1981年まで「俳句評論」同人、その後は無所属。句集に『楕円の昼』『空の季節』『風のトルソー』『Oへの伝言』『津沢マサ子俳句集成』がある。現代俳句協会会員、日本現代詩歌文学館会員。子息に『ウルトラマン』にホシノ少年役で出演していた津沢彰秀がいる。.

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渡辺白泉

渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は東京出身の俳人。昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。本名威徳(たけのり)。.

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澁谷道

澁谷 道(しぶや みち、1926年11月1日 - )は、俳人。京都府京都市下京区麩屋町に生まれる。大阪女子高等医学専門学校に在学中、学生俳句会に参加し、精神科の教授であった平畑静塔の指導を受ける。1948年に同校卒業、のちに小児科内科澁谷医院を開設。この年に創刊された山口誓子の「天狼」に投句をはじめる。1949年、西東三鬼の雷光句会に参加。1952年「夜盗派」に同人参加。1959年「縄」創刊同人。1967年、橋閒石より連句の指導を受ける。1977年、金子兜太の「海程」同人。1978年、「白燕連句会」に入会し連句の実作を行う。1996年、俳句と連句の俳誌「紫薇」創刊同人代表となる。大阪市在住。 句集に『嬰』『藤』『桜騒』『縷紅集』『紫薇』『紅一駄』『蕣帖』『鴇草紙』『蘡』など、また随筆集に『あるいてきた』がある。古典の素養に裏うちされた緻密な言語感覚と幻想性が句の特徴。なお遠祖は『奥の細道』の旅の途上にあった松尾芭蕉一行を迎えた山形県新庄の豪商・澁谷盛信。ここから安西篤は、その作品には京風の雅な感性と東北の風土的心情とが撚り合わされていると指摘する(『現代の俳人101』)。.

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斎藤玄

斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。父は咀華と号した画家であったが、4歳のときに死別した。早稲田大学商科卒。大学在学中、「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。1943年、石田波郷を知り、俳号を玄に改めて「鶴」に投句、のち同人。戦後は銀行員としての多忙な生活のため句作を中断。1967年に銀行を退職し、北海道央信組の専務理事に就任。翌年に個人誌「丹精」を発刊。妻の癌死を題材にした「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」と題する句群によって俳壇に復活し注目される。1973年、「壷」を復刊。1979年、第5句集『雁道』で第14回蛇笏賞。他の句集に『舎木』『玄』『無畔』など。晩年は癌との闘病の中、自身の死を見つめる透徹した句を作った。代表句に「明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり」(『玄』所収)、「たましひの繭となるまで吹雪きけり」(『雁道』所収)などがある。1980年直腸癌により死去。66歳。1986年、『斎藤玄全句集』(永田書房)が刊行される。.

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新俳句人連盟

新俳句人連盟(しんはいくじんれんめい)は、日本の俳句団体。戦時下に弾圧を受けた新興俳句運動、プロレタリア俳句運動に関わった俳人が中心となり、1946年5月に設立。設立時の幹事長は栗林一石路、のち委員長制となり石橋辰之助が就任。戦時中の翼賛組織日本文学報国会俳句部会の俳壇支配に対し、民主的俳句運動を推進することを意図して組織された。活動目的として、俳句本質の究明、現代俳句の確立、封建的結社制度と意識の排除などを掲げた。同年11月より機関誌『俳句人』創刊。しかし翌年、政治と文学の問題をめぐり連盟内で対立が起こり、秋元不死男、西東三鬼、富澤赤黄男、平畑静塔などの有力俳人が脱退し、後に現代俳句協会を設立。以後は一石路、赤城さかえ、橋本夢道、古沢太穂、横山林二、見學玄、佐藤雀仙人らが政治性・社会性を鮮明にした活動を展開し、一石路の死後は古沢太穂が長きに渡り牽引した。会員は2008年に1000人に到達。地方支部は35を数える。また1972年より新俳句人連盟賞、評論賞(会員、非会員問わず応募可能)を公募、主催している。.

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新興俳句

新興俳句(しんこうはいく)とは昭和初期に始まった新俳句運動である。 1931年(昭和6年)、水原秋桜子は主宰誌「馬酔木」に「自然の真と文芸上の真」を発表し、高浜虚子の主張する花鳥諷詠俳句が些末な草の芽俳句を生み出しているとして、自然の真という素材を己のうちに溶かし込み、鍛錬加工した文芸上の真を求めようとした。 「馬酔木」独立の挙であったが、これがいわゆる伝統俳句からの脱却の端緒となった。秋桜子の主張は若い俳人の共感を得て「天の川」「土上」「句と評論」などの俳誌も活発に俳句の近代化を進めはじめた。近代的、都会的抒情の確立の運動でもあった。 「馬酔木」には、新素材の拡充と構成的手法によって注目されていた山口誓子が加入、叙情性豊かな作句をする秋桜子とともに新風の先頭にたった。 この新運動は連作俳句に積極的に取り組み、金児杜鵑花(「俳句月刊」主幹)によって、「新興俳句」の名称を与えられた。しかし連作俳句中の個と全、季語の有無が問題となり、無季や超季の容認まで行われるに及んで、秋桜子、誓子は無季俳句批判を行い1936年ごろよりこの運動から離れた。これ以降を後期と呼ぶ。 新興俳句は、秋桜子、誓子の離脱にも拘らず、反ホトトギス、反伝統の大きな潮流となった。モダニズム、ダダイスム、反戦的ニヒリズムなど様々な潮流もこれに合流した。 1935年、日野草城の「旗艦」が創刊され、俊秀を集め、「京大俳句」「土上」「句と評論」、新誌「傘火」(かさび)、「自鳴鐘(とけい)」などとともに、さまざまの芸術派的、社会派的試みを重ねた。 最初の総合俳誌である「俳句研究」(改造社)もこの運動に共感を示した。 日中戦争の始まった時期で、想像力による戦火想望俳句も試みられ、さらに厭戦句もつくられた。ついに1940年から1941年にかけて、「京大俳句」「土上」などの主要メンバーが治安維持法違反として検挙され、この運動は壊滅に至った。新興俳句運動は、現代俳句の母胎となる画期的な俳句革新運動であり、多くの秀作を残した。 代表的な俳人には、先述の水原秋桜子、山口誓子の他に、前期では高屋窓秋、石橋辰之助、横山白虹、篠原鳳作など。 後期では、平畑静塔、日野草城、西東三鬼、 富沢赤黄男、渡辺白泉、東京三(秋元不死男)などがいる。 新興俳句にかかわった俳人の多くは、戦後、日野草城の「太陽系」のちの「青玄」、山口誓子の「天狼」などに結集したが、新興俳句運動の名は消滅した。.

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新興俳句弾圧事件

俳句弾圧不忘の碑」(長野県上田市「無言館」近辺「槐多庵」前庭)http://showahaiku.exblog.jp/ 新興俳句弾圧事件(しんこうはいくだんあつじけん)あるいは昭和俳句弾圧事件とは1940年から1943年の間に行なわれた、治安維持法に基づく、新興俳句の俳句誌・俳人に対する一連の言論弾圧事件の総称である。対象となった俳人が逮捕され、俳句紙の多くは廃刊に追い込まれた。契機となった「京大俳句」への弾圧事件を「京大俳句事件」とも言う。.

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文学忌

文学忌(ぶんがくき)とは、作家の命日(例外あり)をその雅号やペンネーム、代表作などにちなんで、その文学的な業績を偲ぶ日としたものである。俳人の忌日など一部は季語になっている。.

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日野草城

日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は東京都出身の俳人。本名は克修(よしのぶ)。「ホトトギス」で学んだ後、「旗艦」を創刊、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作った。.

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日本の近現代文学史

日本の近現代文学史(にほんのきんげんだいぶんがくし)では、近代(戦前)と現代(戦後)における、日本文学の歴史を述べる。 明治維新後、西洋の思想や文化を取り入れる文明開化が推進され、文学にも大きな影響を与えた。言文一致運動もその一つである。言文一致の結果、日本語の書き言葉は、それまで日本文学において重きをおかれていた漢文の伝統から切り離され、明治中期には現代の日本語の書き言葉に直接連なる文体(「だ・である」調と、「です・ます」調)が確立した。文学という語自体、翻訳語として創り出されたものであり、この頃に現在一般に使われ私たちが考える文学という概念が生まれた。 第二次世界大戦の敗北の後、日本語の表記には現代仮名遣い・新字体化という改革が行われ、全国規模のメディアの発達によって、日本文学にさらに大きな変化がもたらされた。.

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日本歯科大学の人物一覧

日本歯科大学の人物一覧は日本歯科大学に関係する人物の一覧記事。.

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1900年

19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.

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1962年

記載なし。

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5月15日

5月15日(ごがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から135日目(閏年では136日目)にあたり、年末まではあと230日ある。誕生花はドクダミ。.

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