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衆徒

索引 衆徒

衆徒(しゅと)は、堂衆(どうしゅ/どうしゅう)とも呼ばれ、本来は平安時代以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと。大衆の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある。特に興福寺が守護職を務めた大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もある。.

77 関係: ほうらい祭り古市城古市胤仙古市胤栄古市澄胤多田氏大和永享の乱大内義弘大衆 (仏教)大谷光淳大阪大学大学院法学研究科・法学部奈良市妙顕寺学侶安達長景寺院法小野加賀小泉城 (大和国)小泉重弘山田城 (大和国)中国攻め中院定平下坂守一乗院久米田の戦い今井町今石動城俊堯圓證寺ヤマトタケシ僧兵出雲荘八宗体制論八幡神社 (奈良市東九条町)国民 (曖昧さ回避)知恩院穢れ窪之庄城筒井城筒井城の戦い筒井順永筒井順昭筒井氏範玄納銭方真宗高田派烏帽子形城花山院師賢行人 (仏教)養和の北陸出兵...西照寺護聖院宮豊地城豊田城豊田城 (大和国)豊田頼英貞治の変賀名生黒田荘興福寺奏状赤松満政藤原為房金春禅鳳通蔵主東大寺法華堂要録武家の棟梁永禄の変清閑寺源頼俊源重成源時光成身院光宣春日大社春日神木春日若宮おん祭日本の軍事史摧邪輪 インデックスを展開 (27 もっと) »

ほうらい祭り

ほうらい祭りを彩る巨大な人形「造り物」。氏子たちが担いで町内を練り歩く 金剱神社(金剱宮) ほうらい祭り(ほうらいまつり)は、日本の祭り。石川県白山市鶴来地区で毎年10月初旬に開催される祭りで、正式名称は金剱宮秋季例大祭(および秋季例大祭神輿御渡)杉山悟志, 金沢大学文化人類学研究室調査実習報告書, 1994。白山市の無形民俗文化財に指定されている。.

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古市城

古市城(ふるいちじょう)は奈良県に存在した中世の日本の城(平山城)。.

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古市胤仙

古市 胤仙(ふるいち いんせん、生年不詳 - 享徳2年6月24日(1453年8月8日))は、室町時代の武将。大和の国人で興福寺衆徒。古市氏嫡流古市胤憲の子。宣胤の兄。胤栄、澄胤の父。 同じ興福寺衆徒の筒井氏とは対立しており、嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡って大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟が対立した時、胤仙は経覚に与して光宣を破り、同年に管領畠山持国の指示で豊田頼英、小泉重弘らと共に大和の支配を任された。文安元年(1444年)2月には3名が経覚から改めて3名に官符衆徒棟梁・奈良中雑務検断職に任ぜられている(『経覚私要鈔』文安元年2月27日条)。 しかし、その後光宣が勢いを盛り返し、経覚派を打ち破った。胤仙も光宣の弟の筒井実憲を討ち取ったが、文安2年(1445年)に光宣に敗北、経覚派の拠点・鬼薗山城を奪われた。以降、胤仙は居城の古市城に拠って光宣との戦いを続け、文安4年(1447年)には経覚を強引に古市に迎え入れ、その権威を利用して筒井氏や一族内の反対派を抑え込もうとした。享徳2年(1453年)3月には光宣の弟・筒井尊覚(実憲の兄)を討ち取ったが、5月には自身も熱病に倒れて6月に死去。これをきっかけに筒井氏と経覚派は歩み寄り、翌享徳3年(1454年)に和睦した。 文化人でもあり、文安4年(1447年)には経覚を招待して連歌会を催した。この気質は2人の息子にも受け継がれていく。.

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古市胤栄

古市 胤栄(ふるいち たねひで/いんえい、永享11年(1439年) - 永正2年11月13日(1505年12月18日))は、室町時代から戦国時代の僧・武将。大和興福寺の衆徒。父は古市胤仙。弟に澄胤。娘に胤子。幼名は春童丸、通称は丹後公、諱は藤勝で、胤栄は法名。.

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古市澄胤

古市 澄胤(ふるいち ちょういん)は、戦国時代の僧、武将。大和国古市郷の土豪であり、東山時代の文化人大名でもある。興福寺の官符衆徒。.

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多田氏

多田氏(ただし)は、清和源氏の流れをくむ一族。摂津国川辺郡多田より発祥。家紋は獅子牡丹など。.

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大和永享の乱

大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)は、室町時代の正長2年(1429年)に大和で発生した戦乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった。.

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大内義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.

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大衆 (仏教)

大衆(だいしゅ)とは、多くの仏僧の集まり、また僧侶のこと。のちに主として僧兵のことを指すようになった。.

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大谷光淳

大谷 光淳(おおたに こうじゅん、1977年6月13日 - ) は、浄土真宗本願寺派第25世(現)門主・西本願寺および築地本願寺の住職である。諱は光淳。法名は釋専如(しゃくせんにょ)。.

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大阪大学大学院法学研究科・法学部

大阪大学大学院法学研究科(おおさかだいがくだいがくいんほうがくけんきゅうか、英称: Graduate School of Law and Politics)は、大阪大学大学院に設置される研究科の一つである。また、大阪大学法学部(おおさかだいがくほうがくぶ、英称:School of Law)は、大阪大学に設置される学部の一つである。.

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奈良市

奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.

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妙顕寺

妙顕寺城の跡。豊臣秀吉が建てた。京都市中京区押小路通小川西入る 妙顕寺(みょうけんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の大本山。山号は具足山。塔頭が九院ある(久本院、十乘院、泉妙院、法音院、恩命院、善行院、本妙院、實成院、敎法院)。.

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学侶

学侶(がくりょ)とは、中世における僧侶身分の1つ。仏教に関連した学問や研究、祈祷に専念する僧侶のこと。学僧(がくそう)と呼ばれる僧侶はこの身分であることがほとんどであった。 本来は大衆を構成する身分であったが、後に公家や武家などの実家の出自の高い僧侶で占められるようになり、検校や阿闍梨といった高位につく資格を独占し、寺院内での決定権を掌握するようになる。逆に身分が低い出自が多くこうした場から排除されて世俗の業務に従事させられた堂衆や行人はこの状況に不満を抱いて度々内紛を起こす原因となった。 Category:僧.

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安達長景

安達 長景(あだち ながかげ)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。安達氏の一族で、父は安達義景。安達泰盛の異母弟。.

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寺院法

寺院法(じいんほう)とは、寺院に関連した法制全般を指す。神社に関する法制を含めて寺社法/社寺法(じしゃほう/しゃじほう)とも呼ばれている。.

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小野加賀

小野加賀(おのかが)は、太宰府天満宮の神職の一家。.

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小泉城 (大和国)

小泉城(こいずみじょう)は奈良県大和郡山市小泉町(大和国添下郡)にあった日本の城(平城)。別名、片桐城、小泉陣屋とも呼ばれている。小泉陣屋時代は小泉藩の藩庁でもあった。.

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小泉重弘

小泉 重弘(こいずみ しげひろ、生年不詳 - 文安2年6月13日(1445年7月26日))は、室町時代後期の武将。大和の国人で興福寺衆徒。父は小泉重尋。弟に重栄、子に今力丸。 嘉吉3年(1443年)の大和は成身院光宣・筒井順永兄弟と大乗院門跡経覚が摂津河上五ヶ関務代官職を巡って戦っていた。重弘は経覚と古市胤仙・豊田頼英らと組んで筒井氏と争い、光宣を筒井城に追い込んだ。この年、重弘は胤仙、頼英と共に室町幕府から雑務権断職を与えられ、大和の支配を任された。 ところが、経覚派を支援してきた管領畠山持国が文安2年(1445年)に辞職、代わって細川勝元が就任すると状況が筒井氏有利に傾き、一進一退の最中、6月13日に戦死した。 死後、弟の重栄が重弘の遺児・今力丸を後見しながら筒井順永と戦ったが、長禄3年(1459年)に順永及び成身院光宣らの反攻を受けて小泉館で今力丸と重栄は切腹した。 Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:生年不明 Category:1445年没.

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山田城 (大和国)

山田城(やまだじょう)は奈良県に存在した中世の日本の城(山城)。岩掛城(いわがけじょう)とも呼ばれる。.

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中国攻め

中国攻め(ちゅうごくぜめ)とは、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する軍記物などでは「中国征伐」とも称する。。いくさは足かけ6年にもおよび、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長は横死して、そのまま未完に終わった。 ※文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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中院定平

中院 定平(なかのいん さだひら、生没年不詳)は、鎌倉時代末から南北朝時代前期にかけての公卿・武将。村上源氏は大納言定房の玄孫にして、陸奥守定成の子だが、家を中院と号する。元弘の乱の際は護良親王に属して幕府軍と戦い、建武政権とその後の南朝でも公家大将の1人として軍忠を抜きん出たとされる。初名は良定(よしさだ)。 なお、征西将軍府の要人として懐良親王に随従した中院義定(― よしさだ)と同一人と見なす説もある。.

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下坂守

下坂 守(しもさか まもる、1948年 - )は、日本の歴史学者。奈良大学文学部史学科教授。専門は日本中世史。石川県金沢市出身。.

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一乗院

一乗院(いちじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。天禄元年 (970年) 、興福寺別当定昭によって建立される。.

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久米田の戦い

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、永禄5年(1562年)3月5日、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現大阪府岸和田市)に布陣する三好実休に対し、畠山高政が攻め入った合戦。両軍併せて17,000から50,000の兵力が激突し、三好実休はこの合戦にて戦死を遂げ、三好氏没落の遠因となった合戦とされる。 同時期に、六角義賢が畠山高政と同調して京都でも三好氏と戦となったため、別名「南北接激戦」とも言われている。.

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今井町

今井町の町並 今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市の中部に位置する地区で、1~4丁目からなる。戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。.

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今石動城

今石動城(いまいするぎじょう)は富山県小矢部市に在った日本の城。.

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俊堯

俊堯(しゅんぎょう、元永元年(1118年)‐文治2年(1186年))は、平安時代末期の僧侶。第58世天台座主。源義仲の追従者で、明雲の死後に義仲に擁立されて天台座主となった人物。.

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圓證寺

圓證寺(えんしょうじ)は、奈良県生駒市にある真言律宗の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。戦国大名筒井氏ゆかりの寺院である。.

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ヤマトタケシ

ヤマトタケシ(やまと たけし)は、日本の人名。表記はさまざまである。しばしば、フィクション作品のキャラクター名としても使用される。 以下、特に断りのない限り、読みは「やまと たけし」。.

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僧兵

僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。.

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出雲荘

出雲荘(いずものしょう)は、大和国城上郡(現在の奈良県桜井市)にあった荘園。.

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八宗体制論

八宗体制論(はっしゅうたいせいろん)とは、鎌倉仏教および日本仏教史研究家の田村圓澄によって唱えられた日本の古代仏教に関する理論的枠組み。元久2年(1205年)に奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の停止を求めて朝廷に提出した文書『興福寺奏状』中の「八宗同心の訴訟」という文言に由来する佐藤(1991)pp.91-92。.

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八幡神社 (奈良市東九条町)

八幡神社(はちまんじんじゃ)は奈良県奈良市東九条(とうくじょう)町に鎮座する神社(八幡宮)。大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称された。また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から元石清水八幡宮と称し、或いは辰市(たつのいち)4箇郷の氏神とされたことから、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された。 なお、町内に当神社から勧請した同名神社が存在するので、併せて記載する。.

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国民 (曖昧さ回避)

国民.

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知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

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穢れ

れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・月経などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる。.

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窪之庄城

之庄城(くぼのしょうじょう)は奈良県に存在した中世の日本の城(平城)。.

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筒井城

井城(つついじょう)は奈良県大和郡山市筒井町にあった日本の城で、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。.

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筒井城の戦い

300px 筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)は、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)の間に筒井順慶と松永久秀によって大和筒井城周辺で3度に渡って繰り広げられた攻城戦を含む合戦。同時期に大和では本項の戦いと並行して東大寺大仏殿の戦いも起きている。.

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筒井順永

筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.

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筒井順昭

井 順昭(つつい じゅんしょう)は、戦国時代の大和国の大名。筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒であった。筒井城を居城とする。 大和に勢力を持っていた越智氏に対抗するため、当時の畿内の実力者・木沢長政と結び、勢力を拡大する。木沢長政の死後は、その残存勢力を破って拡大し、袂を分かちあっていた十市遠忠と和すなど、大和一国をほぼ手中に収め、筒井氏の全盛期を作り上げた。 しかし1549年(天文18年)病を苦にして家臣数人を連れて突如、比叡山に隠居。天然痘・脳腫瘍を患っていたという説がある。翌年に死去。嫡子の藤勝(順慶)はわずか2歳の幼子であったが、弟の順政、順国らが補佐し、大和支配を保った。 なお、順昭の供養塔である五輪塔(重要文化財)が、奈良県生駒市の圓證寺にある。.

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筒井氏

井氏(つついし)は、大和の戦国大名。大和国添下郡(明治30年以降は生駒郡)筒井から起こったと伝える。.

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範玄

(はんげん、保延3年(1137年) - 正治元年6月1日(1199年6月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧侶・歌人。藤原為業の子で、姉妹に三河内侍がいる(範玄の娘とする説もある)。 久安5年(1149年)頃に興福寺の覚珍の元に弟子入りし、その没後は同寺の玄縁の門人となった。嘉応2年12月30日(1171年2月6日)には法橋に叙され、承安3年(1173年)に権律師に任ぜられた。この頃に後白河法皇の信任を得て、その意向によって興福寺一乗院の院主に任ぜられ、安元元年(1175年)に元興寺別当になる。 ところで、本来摂関家の子弟が独占していた一乗院の院主に範玄が任命されたのは、承安3年に発生した興福寺衆徒の多武峰焼討事件をきっかけに院権力が興福寺への介入を強めようとした結果と考えられている。だが、これに反発する興福寺の衆徒は反範玄の動きを強め、身の危険を感じた範玄は治承元年6月1日(1177年6月28日)に院を逐電し、7月16日には反対派の衆徒が範玄の住房を破壊した。この反対派の動きは摂関家の支持を背景にしたものであったが、範玄を支持する衆徒も存在したため事態は緊迫した。これに対して朝廷は8月16日に範玄を一乗院院主と元興寺別当を解任し、権律師の地位を剥奪した。だが、翌治承2年(1178年)3月に行われた雷別社歌合には追われている筈の範玄が参加し、10月には権律師に復帰、治承3年(1179年)3月には権少僧都に進んだ。その後、以仁王の挙兵に関与した疑いで治承4年8月17日(1180年9月8日)に権少僧都の解任と所領の没収が行われた。間もなく復帰が許されたものの、この年の12月には平家政権の南都焼討によって興福寺が焼失している。その後遅くても養和元年(1181年)までに法眼に叙せられたものの、寿永2年12月4日(1184年1月18日)には今度は法住寺合戦に関連して木曽義仲の要求によって解任され、義仲没落後の元暦元年5月21日(1184年6月30日)に復帰している。文治元年1月13日(1185年2月14日)には権大僧都に任ぜられ、文治4年5月28日(1188年6月24日)には法印に叙せられている。度々の失脚にも関わらず範玄が復帰できた背景には、後白河法皇による各種の仏事における導師としての参仕や円勝寺・蓮華王院などの法皇ゆかりの修理事業などに深く関わってその信任が篤かった他に彼が興福寺の衆徒の中に自派を拡大させてきたことによる。この時期になると、興福寺の再建問題をきっかけとしてかつて反範玄派衆徒を支持してきた摂関家の九条兼実と範玄が急速に接近するようになった。 文治5年5月28日(1189年7月13日)に興福寺権別当、建久2年8月27日(1191年9月17日)に法隆寺別当、建久6年12月25日(1196年1月26日)に興福寺別当に補任され、南都仏教界の中心的存在となった。後白河法皇崩御後もその権力は衰えず、建久9年(1199年)3月に権僧正に任ぜられたが、同年11月に興福寺と和泉守平宗信の対立に際し、後鳥羽上皇は範玄の子・玄俊を興福寺の衆徒を扇動したとして佐渡に配流する。その直後の12月に範玄は権僧正と興福寺別当を「中風」を理由として辞任して籠居した。範玄の辞任は玄俊の件による責任の追及とそれに伴う健康悪化にあった可能性が高い。それから半年後に没した。 歌人としても優れており、『千載和歌集』に4首、『続後撰和歌集』に1首採録されている。また、自房でも歌合を開き、京都・奈良両方の歌壇で主導的な役割を果たした1人でもあった。.

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納銭方

納銭方(のうせんかた/なっせんかた)とは、室町幕府が土倉役・酒屋役を徴収するために土倉・酒屋の有力者から任命した徴税委託の機関である田中(2001)。土倉役・酒屋役は御料所や段銭・棟別銭などと並ぶ室町幕府の主たる財源の一つであり、明徳4年の制法により年間6,000貫文が納められることが定められた。当初は複数の山徒(比叡山延暦寺の衆徒)の土倉(山門土倉)によって構成される土倉方一衆がその任に当たっていたが、次第に生じるようになった戦乱や土一揆による納銭の減少を食い止めようとする幕府は、その役目を山門土倉ではない洛中の土倉・酒屋にも担わせることがあった。 「納銭方」という語には納銭徴収の幕府機関あるいは請負機関を指すとする通説があるほか、納銭そのものや納銭の出納ルート、あるいは賦課対象としての土倉・酒屋を指していたと考える研究者もいる。.

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真宗高田派

真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。.

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烏帽子形城

烏帽子形城(えぼしがたじょう)は、大阪府河内長野市喜多町の烏帽子形山にあった日本の城。別名「押子形城」。奥河内の名所である高野街道の沿線にあり、城跡は国の史跡に指定されている。現在は烏帽子形公園となっており、これについても併記する。.

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花山院師賢

花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総で没した。.

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行人 (仏教)

行人(ぎょうにん)とは、古代・中世日本の寺院内における僧侶の身分の1つ。高野山金剛峯寺において行人方(ぎょうにんがた)・総分(そうぶん)として呼ばれるものも同義である。 本来は修行者の意味があり、山伏などの修験者も含まれているが、寺院内部においては施設の管理や花・灯りの準備、炊事・給仕など専ら世俗的あるいは実務的な業務にあたる身分を指した。また、行人の中には実務の一環として寺領からの年貢徴収や寺院の警備にあたるものもおり、その中から僧兵などの武装をする者も現れるようになった。 学侶・堂衆(延暦寺では行人と同一視されている)などとともに大衆を構成したが、学侶よりも下の身分とみなされてときには双方の間で内部対立を起こすこともあった。 金剛峯寺では、宝徳2年(1450年)に学侶(学侶方)・行人(行人方)間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其や徳川家康の尽力で和議も行われたものの長続きせず、以後も250年にわたって両者の対立が続き、元禄2年(1689年)と享保元年(1716年)に江戸幕府によって行人に対する弾圧が行われている。明治維新以後、行人・行人方は解体されることになった。 Category:僧.

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養和の北陸出兵

養和の北陸出兵(ようわのほくりくしゅっぺい)とは、養和元年(1181年)7月頃から活発化した北陸反乱勢力に対する平家の追討活動のことである(養和元年11月まで)。.

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西照寺

西照寺(さいしょうじ)は、奈良県奈良市今辻子町にある浄土宗の寺院である奈良市史 社寺編 p.272。山号は紫雲山、院号は家康院現地配布しおりによる。奈良市史社寺編によると、光明山実相院西照寺。現地配布しおり。本尊は腹帯阿弥陀如来。.

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護聖院宮

護聖院宮(ごしょういんのみや)は、室町時代に存在した南朝系の世襲宮家の一つ。後村上天皇の皇子で、後亀山天皇の東宮(皇太弟)であった某親王を家祖とするが、近年の研究ではこれを惟成親王に比定する説が有力である。南北朝合一の後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概ね幕府体制に順応的な態度を取っていた。 宮号は、比叡山延暦寺の有力坊院である護正院(護聖院)に隠棲していたことに由来すると考えられている。同院は建武期から梶井門跡の筆頭門徒として室町幕府の政治的・軍事的な信頼が厚かったため、幕府が敵対を懸念する南朝皇族を託す先として適当だったらしい。「護聖院」の表記には、護正院・護生院・護性院・五常院などの字が宛てられることもある。.

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豊地城

豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった日本の城(平城)。.

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豊田城

*とよだじょう.

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豊田城 (大和国)

豊田城(とよだじょう)は奈良県に存在した中世の山城(日本の城)。.

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豊田頼英

豊田 頼英(とよだ らいえい、応永10年(1403年) - 延徳2年8月23日(1490年9月16日))は、室町時代の武将。大和の国人で、興福寺衆徒。覚英、憲英、慶英、英寛の父。大和豊田城主。下野公と称した。 豊田氏は山辺郡を拠点とした一族で、大和永享の乱で井戸氏と対立した豊田中坊は惣領とされる。頼英は分家の豊岡氏出身で豊田中坊が没落した後に台頭したとされるが、はっきりしていない。嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡る大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟の争いでは経覚に与して光宣を追い落とし、古市胤仙・小泉重弘と共に管領畠山持国から雑務権断職を与えられ、光宣が復帰するまで大和の支配を任せられた。 康正元年(1455年)、畠山持国の死後に起こった畠山義就と畠山政久の家督争いでは義就を支持、政久派の筒井順永を追い、長禄3年(1459年)まで官符衆徒筆頭となる。寛正3年(1462年)には東寺の領土である河原城荘の代官職を請負い、晩年には権律師に任ぜられた。延徳2年(1490年)に死去。享年88。.

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貞治の変

貞治の変(じょうじのへん)は、日本の南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(正平21年、1366年)、室町幕府の執事(後の管領)であった斯波義将及びその父で2代将軍足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件。「貞治の政変」とも。.

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賀名生

堀家住宅(賀名生行宮跡) 賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ。 もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。 後村上天皇の遷幸より前の1336年(延元元年、北朝の建武3年)12月21日、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月23日穴生に至ったが、行宮とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至った。.

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黒田荘

黒田荘(くろだのしょう)とは、伊賀国名張郡(今の三重県名張市)にあった東大寺領の荘園である。.

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興福寺奏状

興福寺奏状(こうふくじそうじょう)とは、元久2年(1205年)、奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書。法然弾劾の上奏文というべき性格を有していた。全1巻。『大日本仏教全書』に収載されている圭室「興福寺奏状」『日本歴史大事典』(1979)p.418。.

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赤松満政

赤松 満政(あかまつ みつまさ)は、室町時代の武将。室町幕府6代将軍足利義教の近習として権勢を振るった。播磨・備前・美作守護で赤松氏惣領であった赤松満祐と分家の有馬氏出身の有馬持家は従兄弟にあたる。.

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藤原為房

藤原 為房(ふじわら の ためふさ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、但馬守・藤原隆方の長男。官位は正三位・参議。坊城大蔵卿、勧修寺と号した。 博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。.

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金春禅鳳

金春 禅鳳(こんぱる ぜんぽう、享徳3年(1454年) - 天文元年(1532年)?)は、室町時代後期の猿楽師。童名は金春八郎、俗名は竹田元安で法名は桐林禅鳳。当時を代表する猿楽師であったとともに、能作者、能楽論の著者としても知られる。.

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通蔵主

通蔵主(つうぞうす、永享元年(1429年)? - 嘉吉3年10月4日(1443年10月26日))は、護聖院宮家の当主。室町時代の相国寺常徳院の僧でもある。禁闕の変を企てた後南朝の中心人物の一人。諱は不詳。 父は護聖院宮惟成親王の皇子世明王とされデジタル版 日本人名大辞典+Plus「通蔵主」朝日日本歴史人物事典「金蔵主」、兄弟に金蔵主がいる。.

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東大寺法華堂要録

東大寺法華堂要録(とうだいじほっけどうようろく)は、室町時代後期に東大寺法華堂の堂衆であった氏名不詳の僧侶による日記。原本は東大寺図書館所蔵。.

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武家の棟梁

武家の棟梁(ぶけのとうりょう)とは、武家(武士)の統率者である軍事貴族のこと。.

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永禄の変

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。.

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清閑寺

清閑寺(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。山号は歌中山(うたのなかやま)。本尊は十一面千手観音、開基(創立者)は紹継。『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺院である。.

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源頼俊

源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。.

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源重成

源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.

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源時光

源 時光(みなもと の ときみつ、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。文章生・勘解由判官源淳国の次男。兄弟に国光、資成があり、子に時国、頼成(頼氏)、弘国、俊光、頼実(頼房)、頼重、頼継、成国、国平、知光らがある。官位は従五位下、上西門院判官代、主殿助、右馬助、豊前守(『尊卑分脈』)。摂津源氏の一族である源頼弘の曾孫にあたる。.

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成身院光宣

成身院光宣(じょうしんいん こうせん、明徳元年(1390年) - 文明元年11月20日(1470年1月1日))は、室町時代中期から後期の僧・武将である。大和国人・興福寺衆徒筒井順覚の次男。兄に順弘、弟に尊覚、実憲、順永。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。.

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春日大社

一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.

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春日神木

春日大社中門・御廊 春日神木(かすがのしんぼく)とは、奈良春日大社において、榊(もしくは梛)の枝に春日明神の御神体(依代)である神鏡を付けて注連をかけて神木とした物。強訴の際の神威として掲げられることも多かった。.

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春日若宮おん祭

影向の松の前で行われる松の下式 春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)は、奈良県奈良市の春日大社の摂社若宮神社の祭祀として、奈良公園周辺で毎年12月17日を中心に数日に渡って行われる祭礼である。大和一国を挙げて盛大に執り行われ、1136年に関白藤原忠通によって始められてから八百七十有余年にわたり一度も途切れることなく開催されている。おん祭で奉納される猿楽(能)や雅楽、神楽や舞楽などの芸能は中世以前の芸能の継承・保存に大きな役割を果たしている。これらの奉納芸能は「春日若宮おん祭の神事芸能」として1979年(昭和54年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。.

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日本の軍事史

日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、豪族(国造)の私兵から律令制に基づく大規模な国家兵力たる軍団の設立、その廃止に伴う治安悪化のために私的に自己武装した武士の誕生、その武士の武力と主従関係が公的権力となった武家政権(封建制)、江戸幕府の文治政治による武力の抑制、19世紀の国際関係に対応するための近代的徴兵制に基づく国民軍たる帝国陸軍・帝国海軍の設立とその巨大化、第二次世界大戦の敗戦による日本国憲法による武力の放棄、さらに自衛に特化した自衛隊の創設という流れをたどり、現在に至る。.

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摧邪輪

弁『摧邪輪荘厳記』(執筆1213年、刊行1626年) 摧邪輪(ざいじゃりん)とは、鎌倉時代初期の建暦2年(1212年)、華厳宗中興の祖といわれる明恵上人高弁が法然が撰述した『選択本願念仏集』に対し、それを邪見であるとして反駁するために著述した仏教書柏木(2004)。全3巻。書名は「邪輪(よこしまな法説)を摧(くだ)く」の意。原文は漢文。.

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