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羽田昶

索引 羽田昶

羽田 昶(はた ひさし、1939年10月14日「羽田 昶先生 略歴と業績」『武蔵野日本文学第19号』2010年3月14日、pp.60-61 - )は日本の能楽研究者 2013年02月13日。武蔵野大学客員教授、同能楽資料センター研究員、能楽学会常任委員。2012年第34回観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。共著の『能の囃子事』(1990年)で東洋音楽学会田邉尚雄賞を受賞。東京市大森区生まれ。.

45 関係: 南条秀雄友枝三郎増田正造宝生九郎宮増小林静雄小林責居杭巴 (能)三番叟一忠作者付喜多七太夫喜多七太夫長能砧 (能)翁 (能)瀬尾要百万 (能)音阿弥鞍馬天狗 (能)草子洗小町面霊気西野春雄観世宗節観世元雅観世元滋観世長俊謡曲賀茂 (能)黒塚 (能)近代能楽集能勢朝次能楽鵜飼 (能)野々村戒三金春禅鳳雷電 (能)松本金太郎 (能楽師)梅若万三郎 (初世)横道萬里雄水無月祓 (能)源氏供養海人 (能)

南条秀雄

南条 秀雄(なんじょう ひでお、1921年(大正10年)6月16日 - 1985年(昭和60年)11月10日)は、シテ方観世流能楽師。神奈川県横浜市生まれ。.

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友枝三郎

友枝 三郎(ともえだ さぶろう、1843年10月12日(天保14年9月19日) - 1917年(大正6年)5月26日)は、シテ方喜多流能楽師。 生涯熊本を拠点に活動したが、地元では同郷の「明治の三名人」櫻間伴馬と並び称される名手として知られた。また喜多流の古老として、若き宗家・14世喜多六平太を支えた一人である。友枝喜久夫は孫、友枝昭世は曾孫に当たる。.

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増田正造

増田 正造(ますだ しょうぞう、1930年1月3日- )は日本の能楽研究者、武蔵野大学名誉教授。 東京出身。府立一中、早稲田大学国文科卒。在学中から桜間弓川に能を学ぶ。戦後、観世華雪の能に感銘を受け、雑誌「能」の編集と批評活動を行う。武蔵野女子大学教授、同大に能楽資料センターを開設。2000年定年、武蔵野大学名誉教授。『能の表現』は分かりやすい入門書としてロングセラーとなった。『能と近代文学』で観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。.

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宝生九郎

宝生九郎(ほうしょう くろう)は、シテ方宝生流宗家が使用する芸名。八世から十三世、十六世、十七世の8人が名乗った。特に十六世が有名。.

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宮増

宮増(みやます)は、能「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」などの作者として、各種作者付に名前が見られる人物。計36番もの能の作者とされながら、その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている西野春雄「中作能の作者と作品(四)宮増の能」竹本幹夫「『自家伝抄』の資料性と能作者宮増」。 その作風は先行する観阿弥、また後の観世小次郎信光などに通じるもので、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い北川忠彦「謡曲作者宮増をめぐる試論」。 永享頃から室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。.

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小林静雄

小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが能・狂言事典、第二次世界大戦で戦死した。.

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小林責

小林 責(こばやし せき、1928年7月24日 - 2018年5月22日)は、能狂言研究者、武蔵野大学名誉教授。.

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居杭

『居杭』(いぐい、井杭)は、狂言の演目の一つである''居杭''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月7日閲覧。''井杭・居杭''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月7日閲覧。''居杭''、油谷光雄、Yahoo!百科事典、2012年9月7日閲覧。。「小名狂言」、あるいは「雑狂言」(大蔵流では「集狂言」)に分類される杉森、p.66.

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巴 (能)

『巴』(ともえ)は、木曾義仲の愛人である女武者、巴御前を主人公にした能楽作品。作者は観世小次郎信光とする古書もあるが不詳。女性を主役にした修羅能はこれが唯一の作品である。.

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三番叟

三番叟(さんばそう)は、日本の伝統芸能。式三番(能の翁)で、翁の舞に続いて舞う役、あるいはその舞事。能楽では狂言役者が演ずる。.

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一忠

一忠(いっちゅう、? - 文和3年(1354年)5月)は、南北朝時代に活躍した田楽法師。別名を石松。当時を代表する田楽の名人であり、猿楽を大成した観阿弥・世阿弥父子に大きな影響を与えた。鬼など各種の物真似芸に通じさらに舞歌幽玄の風を兼ね備えた名人として、世阿弥が『風姿花伝』で「此道の聖」、『三道』で「三体相応の達人」と絶賛している。.

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作者付

作者付(さくしゃづけ)とは、猿楽の曲目に関して、各作品の作者が誰であるかを列記した書物である。室町時代から江戸時代にかけて作られた数種がよく知られる。本項では、主要ないくつかの作者付の内容についても述べる。.

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喜多七太夫

喜多七太夫(きた しちだゆう)とは、シテ方喜多流の宗家が名乗る名のひとつ。 流祖北七大夫長能に始まる。二世以降は「喜多」を名乗る。十二世までの大夫は、代々「七大夫」と「十大夫」の名乗りを代わる代わる用いている。初世の他は、三世七大夫宗能、九世七大夫古能などが著名。.

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喜多七太夫長能

喜多 七太夫長能(きた しちだゆう ちょうのう / おさよし、天正14年(1586年) - 承応2年1月7日(1653年2月4日))とは、能楽シテ方喜多流の流祖。当時は北七太夫と名乗り、二代十太夫当能より「喜多」を名乗ったが、多くは初代も喜多七太夫と記される。後世、古七大夫(こしちたゆう)とも呼ばれた。別名、六平太。法名は願慶。 堺の目医者・内堀某の子とされるが、はっきりしない。7歳で能を器用に舞ったことから「七ツ太夫」と呼ばれた。慶長元年(1596年)、10歳で金剛座の一員として薪猿楽に出演したことが記録に残り、当時から人気の役者であったらしい。金剛太夫弥一の養子に迎えられ、金剛三郎と名乗り金剛座の嗣子となる。慶長10年(1605年)に弥一が没すると後継の大夫となり、またその直後に金春大夫安照の娘を娶るが、岳父・安照は三郎の才能を危険視し、芸の指導を行わなかったと伝えられる岩波講座 能・狂言 I。徳川家康に冷遇されたこともあって大坂の役では豊臣方に加わり、そのため浪人する。金剛大夫は弥一の実子・右京勝吉が継いだ。浪人中は京都で遊女に舞を教えるなど、能界を一時退いていた。 元和5年(1619年)、徳川秀忠の上洛に際し金剛七大夫を名乗って復帰、以後その愛顧を受けて芸界の首位を獲得する。当時各座の大夫格がいずれも若年であったことも幸いしたと考えられる岩波講座 能・狂言 I。特に大御所となった後は秀忠の七大夫への寵愛は著しく、これに追随する形で黒田長政、伊達政宗、藤堂高虎といった大名たちも七大夫を賞翫した。寛永4年(1627年)頃からは北七大夫を称し、自然と金剛座から独立した喜多座というべき一座を形成する。 この七大夫の類を見ない勢威を嫉視するものも多く、寛永11年(1634年)、「関寺小町」の上演をきっかけに閉門を命じられたのは、そうした同輩の策謀であったと考えられている。この際には伊達政宗が将軍・徳川家光を饗応して赦免させている。以後も芸界の第一人者として活動するが、慶安2年(1649年)に勧進能を行うため上洛の最中、伊勢桑名で馬方を殺害したことで領主の松平定綱との間に悶着を起こし、一時逼塞する。以後は四男で後継者である十大夫正能の成長もあり演能機会は減り、慶安4年(1651年)に徳川家綱の将軍宣下祝賀能に出演した直後に引退。承応2年(1653年)1月に没。 一代にして喜多流を創立し、記録に残っているだけでも1,000番を超える能を舞った七大夫は、秀吉時代から江戸初期を代表する能役者であり、以後彼に並ぶ業績を残した能役者はいないと評価されている岩波講座 能・狂言 I。.

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砧 (能)

『砧』(きぬた)は、世阿弥作といわれる能楽作品。成立は室町時代。『申楽談儀』に曲名が出ており『糺河原勧進猿楽記』には音阿弥による上演記録がある。夫の留守宅を守る妻の悲しみが描かれており、詞章、節づけともに晩秋のものがなしさを表現して、古来人々に好まれてきた能である。 なお、タイトルの「砧」とは木槌で衣の生地を打ってやわらかくしたり、つやをだしたりする道具のこと。この作品では、女主人公が砧を打つことが情念の表現になっている。.

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翁 (能)

翁(おきな)は、能楽の演目のひとつ。別格に扱われる祝言曲である。 最初に翁を演じる正式な番組立てを翁付といい、正月初会や祝賀能などに演じられる。翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、翁役は白色尉、三番叟役は黒色尉という面をつける。原則として、翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。.

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瀬尾要

尾 要(せお かなめ、1891年(明治24年) - 1934年(昭和9年)1月13日)は、シテ方宝生流能楽師。 「明治の三名人」16世宝生九郎の門下にあってその才気を謳われ、厳格な九郎をして将来の名人と言わしめた。しかし放縦な性格から破門され、その後能楽界に復帰したが大成を見ぬままに没した。その経歴から、泉鏡花「歌行燈」のモデルに擬する説がある。.

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百万 (能)

万」(ひゃくまん)は観阿弥原作・世阿弥改作の能の演目。作中では、実在の舞い手ともされる主人公「百万」の芸が披露されるとともに、失った子を探す母の母性が描かれている。狂女物の代表的な作品とされ、演能記録が多く人気が高い。知られている最古の演能記録は寛正6年(1465年)3月9日。 四番目物、狂女物、太鼓物に分類される。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の五流派の現行演目。一場物。 「百万」の大部分を引用して草子化した『百万物語』が万治3年(1660年)に作られた。ほかに絵入り謡本(京都国立博物館に寄託)、絵入り本とほぼ同じ内容で16世紀に製作された絵巻(国立能楽堂に所蔵)が現存している。.

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音阿弥

音阿弥(おんあみ、またはおんなみ、応永5年(1398年)- 文正2年1月2日(1467年2月6日))は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。三世観世大夫。.

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融」(とおる)は能の演目の1つ。五番目物・貴人物・太鼓物に分類される松本(1987)、p.110。作者は世阿弥(1363年? - 1443年?)。 平安時代の左大臣源融とその邸宅・河原院をめぐる伝説を題材とする。荒廃したかつての河原院跡に月明かりの夜、融の霊が現われるという趣向で、情緒ある詩的な「佳品」と評される。.

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鞍馬天狗 (能)

鞍馬天狗」(くらまてんぐ)は、能の演目の一つ。五番目物、天狗物、太鼓物に分類される。牛若丸伝承に題を採った曲で、大天狗と牛若丸との間の少年愛的な仄かな愛情を、華やかな前場と、山中での兵法相伝を行う後場の対比の中に描く。 作者は「能本作者註文」が宮増とするが、宮増についてはその実像がはっきりとは解っておらず、不明な点も多い。「自家伝抄」は世阿弥作と記すが、考えにくい石黒吉次郎「「鞍馬天狗をめぐって」。.

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草子洗小町

『草子洗小町』(そうしあらいこまち、草紙洗、草紙洗小町とも)は、能の演目の一つで、三番目物、現在鬘物、大小物に分類される。歌合を舞台に小野小町が、大伴黒主の姦策を機知によって退ける様を描く。 作者は世阿弥、また観阿弥などともされるが、不明能・狂言事典。ただし作品からは、「教養はないが劇作術にたけた」作者像が窺われる岩波講座 能・狂言Ⅵ。.

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面霊気

鳥山石燕『百器徒然袋』より「面霊気」 面霊気(めんれいき)は、鳥山石燕による妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、面の妖怪。.

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西野春雄

西野 春雄(にしの はるお、1943年-)は日本の文学研究者。法政大学名誉教授、専門は能楽・中世文学。.

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観世宗節

観世 宗節(かんぜ そうせつ、永正6年(1509年) - 天正11年12月5日(1584年1月17日))は、戦国時代に活躍した観世流猿楽師。七世観世大夫。諱は元忠、法名は、一安斎宗節。現代に至るまで観世宗家の通り名となっている「左近」を初めて名乗った人物ともされるが、後代の誤伝の可能性が高い表章「観世元忠(宗節)は「左近大夫」に非ず」(日本文学誌要42号)、1990年。 戦乱によって苦境に立たされた芸界にあって、家に伝わる伝書、謡本などを書写・整理し、また徳川家康に早くから接近して、後代の観世座隆盛の礎を築いた。.

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観世元雅

観世 元雅(かんぜ もとまさ、 応永元年(1394年)、あるいは応永8年(1401年)頃 - 永享4年8月1日(1432年8月26日))は室町時代の能作者、猿楽師。通称は十郎。初名は元次とも。法諱は善春。世阿弥の長男とされ、弟に『申楽談儀』を著した元能がいる。.

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観世元滋

観世 元滋(かんぜ もとしげ、1895年(明治28年)12月18日 - 1939年(昭和14年)3月21日)は、戦前のシテ方観世流能楽師。二十四世観世宗家。初名清久、後に元滋、そして観世宗家の通り名であった観世左近に改名。号は光雪(雪号参照)。混乱していた観世流の統一と発展に努め、当時の能楽界の指導者と目された能・狂言事典、前西芳雄の解説より。.

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観世長俊

観世 弥次郎 長俊(かんぜ やじろう ながとし、長享2年(1488年)? - 天文10年(1541年)?)は、戦国時代に活動した猿楽師。父・小次郎信光と同様に観世座の「脇之為手」として大夫を支え、また能作者として「江野島」「大社」「正尊」「輪蔵」などの作品を残した。.

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謡曲

謡曲(ようきょく)とは、能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。本来、「謡」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになった。謡曲は「謡の曲」という意味であり、この項目では便宜上能の声楽部分に当たる謡については措き、テキストとしての能の詞章やそれを収めた書籍について取り上げる。謡については謡の項参照。.

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賀茂 (能)

『賀茂』(かも)は、能楽作品のひとつ。別表記加茂、古称は矢立鴨。賀茂神社の縁起を気品高く、また勇壮に表現した能である。作者は金春禅竹ともいわれるが、不詳。戦国末期の素人能役者下間少進の演能記録「能之留帖」に頻出し、また、豊臣秀吉の命をうけて山科言経らが注釈をするなど、その当時からよく好まれた能である。.

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黒塚 (能)

55世梅若六郎による「安達原 白頭・長糸之伝」。前場の糸を繰る場面 「黒塚」(くろづか)は、能の演目の一つ。観世流では「安達原(あだちがはら)」。四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類される。いわゆる「安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した曲である。 作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる伊藤(1983)(後述)。 この記事ではあわせて派生作品についても記述する。.

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近代能楽集

『近代能楽集』(きんだいのうがくしゅう)は、三島由紀夫の戯曲集。能の謡曲を近代劇に翻案したもので、国内のみならず海外でも舞台芸術として好評な作品群である佐伯順子「『近代能楽集』」()。自由に時間と空間を超える能楽の特質を生かし、独自の前衛的世界を醸し出しているこれらの作品群は、写実的な近代演劇では描ききれない形而上学的な主題や、純化した人間の情念を象徴的に表現している「あとがき」(『近代能楽集』新潮社、1956年4月)。「舞台の多彩な魅力――『鹿鳴館』の成功」()。 1956年(昭和31年)4月30日に新潮社より刊行されたものには、「邯鄲(かんたん)」「綾の鼓(あやのつづみ)」「卒塔婆小町(そとばこまち)」「葵上(あおいのうえ)」「班女(はんじょ)」の5曲が収録され、1968年(昭和43年)3月25日刊行の新潮文庫版には、「道成寺(どうじょうじ)」「熊野(ゆや)」「弱法師(よろぼし)」の3曲を加えた全8曲が収録された。「源氏供養(げんじくよう)」という9作目も発表されたが、三島が自分の意思で廃曲とした三好行雄との対談「三島文学の背景」(国文学 解釈と教材の研究 臨時増刊号・三島由紀夫のすべて 1970年5月25日号)。原田香織「源氏供養」()。 翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Five Modern Noh Plays)をはじめ、イタリア(伊題:Cinque nō moderni)、フランス(仏題:Cinq nôs modernes)など世界各国で行われている。.

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能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).

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能勢朝次

能勢 朝次(のせ あさじ、1894年(明治27年)4月1日 - 1955年(昭和30年)2月25日)は、日本の能楽研究者、国文学者。京都府北桑田郡山国村に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学文学部国文科卒業。1924年(大正13年)大谷大学教授となる。以降、京都帝国大学、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京教育大学などで教職につき、1954年(昭和29年)奈良学芸大学学長となった。1947年「能楽源流考」で東京文理科大学文学博士。 中世、近世文学研究を専門とし、とくに能楽研究の分野では膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。主著は1938年(昭和13年)に上梓された『能楽源流考』(岩波書店)。「平安時代の猿楽」「鎌倉吉野時代の猿楽」の2篇と附篇の「田楽攷」からなり、能の発生から戦国末期までの能楽史を網羅する。以後、能楽史研究においては、本著の学説をいかに乗り越えるかが目標とさえ言われている。この著書により1940年(昭和15年)、帝国学士院(現・日本学士院)の恩賜賞を受賞する審査要旨については(日本学士院公式サイト)を参照のこと。。 他に岩波で『世阿弥十六部集評釈』上下巻、名著刊行会で『三冊子評釈』などの著書がある。『能勢朝次著作集』全10巻が1981~85年に思文閣出版で刊行された。.

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能楽

中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.

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鵜飼 (能)

(うかい)は能の演目の一つ。五番目物、鬼物、太鼓物に分類される。禁漁の罪を犯したために殺された漁師の悲劇と、その鵜飼の業の見事さ、そして「法華経」による救済を描く。 元々は摂津猿楽の榎並左衛門五郎の作品だが、世阿弥によって改作されたことが『申楽談儀』に記されている(後述)。.

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野々村戒三

野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9月7日 - 1973年(昭和48年)11月21日)は、日本の歴史学者、能楽研究者。号は蘆舟、芥叟。クリスチャン。 大分県生まれ。父・卓二は塩谷宕陰の門人で、母は三浦梅園の玄孫に当たる。 1901年(明治34年)東京帝国大学文学部史学科卒業。専攻は西洋中世史。 立教中学校の教員として勤めていた頃、校長の元田作之進の依頼で自宅を謡の稽古場として貸すこととなり、その稽古場の師匠が池内信嘉だったことから、能との関わりを持つこととなる。 以後明治学院・青山学院の教師を経て、1911年(明治44年)第三高等学校の教授に就く。折しも1909年(明治42年)に池内、吉田東伍により『世阿弥十六部集』が刊行され、能楽研究がその緒に就いた時期であり、野々村も能楽史の研究に従事するようになる。 1916年(大正5年)に関西学院、1920年(大正9年)には早稲田大学の教授に就任。1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)まで立教大学教授。 西洋史学者としての著作には『基督教史の研究』(1920年)、『パウロの研究』(1925年)などのキリスト教史、また南北アメリカ史、イギリス史に関するもの、あるいはギボン『ローマ帝国衰亡史』の翻訳(1929〜31年)などがある。 能楽研究者としては、能楽史に関する文献を多く発見・紹介、これに基づく堅実な研究で多くの功績を残し、特に近世能楽史研究においてはその先駆けと見なされている能・狂言事典、西野春雄による解説。観世流の現行謡本である「観世流大成版謡本」の編纂にも携わった。また能評も手がける。 能楽関係の主な著作に、『能楽古今記』(1931年)、『近畿能楽記』(1933年)、『能苑日渉』(1938年)、『能楽史話』(1944年)、『能の今昔』(1967年)などがある。また『謡曲三百五十番集』(1928年)、安藤常次郎との共著『狂言集成』(1931年)、『金春十七部集』(1932年)など基礎史料の刊行も多く行っている。ほか、吉田本を元にした『世阿弥十六部集』(1926年)など。.

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金春禅鳳

金春 禅鳳(こんぱる ぜんぽう、享徳3年(1454年) - 天文元年(1532年)?)は、室町時代後期の猿楽師。童名は金春八郎、俗名は竹田元安で法名は桐林禅鳳。当時を代表する猿楽師であったとともに、能作者、能楽論の著者としても知られる。.

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雷電 (能)

『雷電』(らいでん)は、能楽作品のひとつ。菅原道真が大宰府に左遷され憤死、死後雷となって内裏に祟ったというエピソードをもとに構成された能である。『太平記』、『北野天神縁起絵巻』などに取材しており、後世の歌舞伎『菅原伝授手習鑑』にも影響を与えたとされる。別称『妻戸』(つまど)。.

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松本金太郎 (能楽師)

松本金太郎(まつもと きんたろう、1843年10月12日(天保14年9月19日) - 1914年(大正3年)12月16日)は、シテ方宝生流能楽師。宝生九郎の高弟。 加賀藩お抱えの葛野流大鼓方中田万三郎の次男。宝生流シテ方の松本家に養子に入る。宝生九郎を支え、その片腕となって明治期の宝生流を復興した重鎮。晩年の徳川慶喜に謡曲を指南。その芸風は墨絵の名画にも喩えられ、後進の指導に大きな力があった。 次男が松本長。孫に松本惠雄、松本たかし。泉鏡花は甥(妹・鈴の子)。.

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梅若万三郎 (初世)

初世梅若万三郎(しょせい うめわか まんざぶろう、1869年1月3日(明治元年11月21日) - 1946年(昭和21年)6月29日)は、観世流能楽師。.

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横道萬里雄

横道 萬里雄(よこみち まりお、1916年10月12日 - 2012年6月20日)は、能の研究者・演出家。.

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水無月祓 (能)

『水無月祓』(みなづきばらい)は、能の演目である。作者は世阿弥とされることが多い。お互いに恋慕しながら別離した男女が、下鴨神社の夏越の祓で再会するというハッピーエンドの作品である。 作者については、世阿弥の著書『五音』に世阿弥作の扱いで書かれており、またこの曲に比定される「ミソギ川」の名が、同じく世阿弥の『五音曲条々』に見える。ただし『二百十番謡目録』には日吉安清の作とされている。 江戸時代には、数少ない例外を除いて上演が途絶えていたが、江戸末期に復曲され、2006年現在では観世流でのみ上演されている。 播州室津の遊女と京都下京に住む男との恋を主題に、下賀茂神社の故事をとりいれ、物狂いの見せ場もある夏の能である。.

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源氏供養

源氏供養(げんじくよう)とは、源氏物語およびその作者紫式部を供養するという、日本の中世に見られた文化である。 また、それを題材にした「源氏供養」という題の作品が、能を始め、いくつかある。それらについても解説する。.

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海人 (能)

『海人』(あま、別表記海士)は、能楽作品のひとつ。旧来世阿弥作ともいわれてきたが、世阿弥自身がこの能の一部について「金春の節である(申楽談儀)」と書いているところから、世阿弥の時代にはすでにこの主題の能があったことが推測される。 讃岐国志度寺の縁起、藤原氏にまつわる伝説を素材に、ドラマチックに作り上げられた作品。藤原房前の出生譚や、藤原氏の女性が唐の后になったという伝説、海底に奪われた宝物をとりかえす海人の伝承、房前が志度寺に寄進したことなどを題材としている。 わが命を犠牲にしてまで子の栄達を願う母の行動を主筋に、法華経による女人成仏などの宗教性も加味した人気のある能のひとつである。 この曲のクライマックス部分「玉ノ段」は、写実性にとみ、独立した仕舞としてもよく上演される。特殊演出である小書も多い。 幸若舞『大職冠』とも共通性がみられ、結末に縁起物語にみられるような詞章があるなど、能と他の芸能の関連性を考えるうえでも、貴重な作である。またこの曲をモチーフとした他分野の作品(地歌『珠取海人』など)も少なくない。.

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