14 関係: 労農党 (1929-1931)、尹基協射殺事件、川崎武装メーデー事件、平野義太郎、佐野博、佐野学、国際レーニン学校、第二次共産党 (日本)、田中清玄、非常時共産党、河合悦三、日本労働組合全国協議会、日本共産党労働者派、日本共産党技術部。
労農党 (1929-1931)
労農党(ろうのうとう)とは、1929年(昭和4年)11月に結成され1931年7月まで存続した日本の無産政党である。一般には1926年(大正15年)結党の旧労農党と区別して「新労農党(しんろうのうとう)」と称される。.
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尹基協射殺事件
尹基協(いん・ききょう/ユン・キヒョプ)射殺事件は、非常時共産党時代の1932年(昭和7年)8月15日に起こった、日本共産党東京市委員長(当時)村上多喜雄が日本労働組合全国協議会(全協)中堅幹部尹基協を射殺した事件。.
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川崎武装メーデー事件
川崎武装メーデー事件(かわさきぶそうメーデーじけん)は、1930年(昭和5年)5月1日に神奈川県川崎市で発生した、日本共産党による暴力デモ事件。.
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平野義太郎
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。 後藤新平の義理の姪婿で、獄中転向で有名な元日本共産党委員長佐野学、共産党系演劇人でインターナショナル訳詞者の佐野碩、武装共産党時代の党指導者佐野博、鶴見和子・俊輔姉弟とは姻戚に当たる。.
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佐野博
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日『日外アソシエーツ whoplus』「佐野 博(さのひろし)」の項 - 1989年4月4日『朝日新聞』1989年4月5日朝刊31頁)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。.
佐野学
佐野 学(さの まなぶ 1892年2月22日 - 1953年3月9日)は日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。.
国際レーニン学校
国際レーニン学校(こくさいレーニンがっこう、International Lenin School、略称はILS、ロシア語:Международная ленинская школа)は、共産主義インターナショナル(コミンテルン)第5回大会の決議に従い、コミンテルン及びその支部の「ボルシェビキ化」のための手段として1926年モスクワに秘密裏に設立された。日本ではレーニンスクール、レーニン大学と呼ばれることもある。学長はニコライ・ブハーリン(~1930年)、クラウディヤ・クルサーノヴァ。 1926年から1938年に閉鎖されるまでの間、この学校は3,000人に及ぶ共産主義者にそのためのトレーニングを行った。国際レーニン学校は最高幹部養成のための学校であると位置づけられており、コミンテルン関連機関である東方勤労者共産大学や西欧勤労者共産大学(en)などよりも上級の学校であるとされた。 学生には、労働者階級の歴史、帝国主義の政治経済学、マルクス主義の理論、及びソビエト経済事業における実践からまとめられたプロレタリア独裁の経験則が教えられた。学校の活動初期には、学生らはソビエト共産党のメンバーにもなった。 レーニン学校の学生たちは、全世界で1960年代までにわたり多くの重責に就きながら足跡を残した。彼等の中にはギリシャのニコラオス・ザカリアディス(en)、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、ポーランドのヴワディスワフ・ゴムウカ、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカーのような共産主義政府の首脳や、あるいはフランス共産党書記長であったワルデック・ロシェや南アフリカ共産党書記長であったMoses Kotaneのように重要な野党の指導者となった人物がいた。レーニン学校の学生には他にもハリー・ヘイウッド(en)やダビッド・アルファロ・シケイロス、朴憲永のような人物がいた。 日本からの留学者としては、帰国後に武装共産党時代の指導者となった佐野博や、高橋貞樹、アメリカ共産党日本人部経由で留学した健物貞一、木元伝一(ジャック木元)、鵜飼宣道(ジョー小出)らがいる。.
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第二次共産党 (日本)
二次共産党(だいにじきょうさんとう)は、1926年(大正15年)12月の第3回党大会(五色温泉大会)で再建されて以降の、非合法組織時代の日本共産党を指す呼称である。 広義には、1935年(昭和10年)3月、第二次世界大戦以前では最後の中央委員である袴田里見の検挙で党中央部が最終的に壊滅されるまでの時期が「第二次共産党」であるが、狭義には1929年の四・一六事件による党員大量検挙で組織がいったん壊滅するまでの時期を指す場合もある。.
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田中清玄
中 清玄(たなか せいげん、1906年3月5日 - 1993年12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIA協力者ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去。.
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非常時共産党
非常時共産党(ひじょうじきょうさんとう)とは、戦前の非合法政党時代の日本共産党史において、特に1931年(昭和6年)初めから翌1932年末までの間、風間丈吉らによる指導が行われていた時期の共産党を指す通称・俗称である。なお、この呼称は風間の著書(獄中手記)『「非常時」共産党』に由来するもので、現在の日本共産党は公式の名称として認めていない。.
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河合悦三
河合 悦三(かわい えつぞう、1903年6月29日-1966年8月20日)は、農民運動家。 兵庫県出身。京都帝国大学中退。筆名は名取文雄、木村荘之助。1926年日本農民組合京滋連合会書記となり、日本共産党に入る。1927年モスクワのコミンテルン本部に派遣され、27年テーゼの作成に参加。戦後、日本農民組合中央委員を務め、著述をなした。.
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日本労働組合全国協議会
日本労働組合全国協議会(にほんろうどうくみあいぜんこくひょうぎかい)は戦前に日本に存在した労働組合のナショナルセンター。略称は全協。.
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日本共産党労働者派
日本共産党労働者派(にほんきょうさんとうろうどうしゃは)は、1930年6月、水野成夫らを中心に結成され、1933年頃まで活動を続けた日本共産党の分派。一般には「解党派」の名称で知られている(なお、第一次共産党時代(1922 - 24年)に党の解散を主張した山川均らを「第一次解党派」とし、ここでいう解党派を「第二次解党派」とする見解もある)。.
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日本共産党技術部
日本共産党技術部(にほんきょうさんとうぎじゅつぶ)は、戦前の日本共産党の部署である。別名「テク」。共産党の非公然活動を技術的側面で支援することを目的として作られたが、特別高等警察のスパイ・飯塚盈延の指揮の下で、家屋資金局に再編され、犯罪的手段による資金獲得をも手がけた。 日本共産党の弁解によれば、特高(特別高等警察)のスパイにそそのかされ、赤色ギャング事件を起こしたという一説もある(岩波書店編集部編『近代日本総合年表』1968年11月、292頁)。.
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