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李漁

索引 李漁

李 漁(り ぎょ、万暦39年8月7日(1611年9月13日) - 康熙19年1月13日(1680年2月12日))は、如皋市出身の明朝後期から清朝初期の劇作家、小説家、出版者である。幼名は仙侶、字は笠翁。覚世裨官と号する。.

16 関係: 十便十宜富士見ロマン文庫伊藤漱平伏見冲敬後藤安彦王概芥子園画伝聊斎志異辛島驍肉蒲団金聖嘆陳コウ子1611年1680年17世紀3D SEX & 禅

十便十宜

『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩『十便十二宜詩』のうちの十便十宜(2つの宜の詩は見つかっていない)のこと。『十便十二宜詩』は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたというもの。これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。慣用的に「十便十宜図」とも。大雅作の「釣便」は名高い。 「紙本淡彩十宜図〈与謝蕪村筆〉」・「紙本淡彩十便図〈池大雅筆〉」として、1935年4月30日に重要文化財、1951年6月9日に国宝に指定されている。 両者に制作を依頼したのは、鳴海宿の豪農・下郷学海である。学海は大雅の弟子で、大雅が尾張に逗留した際には学海宅に宿泊するなど交流があり、大雅が蕪村に呼びかけてこの共作が実現したという。志賀直哉は、大正時代に所有者だった松本枩蔵宅でこの実物を見て感動し、『座右宝』(自薦の美術図録。大正15年刊)のひとつに池大雅の「十便帖」を選んでいる。川端康成が家を買うのをあきらめてこれを蒐集しており、現在は川端康成記念館蔵。.

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富士見ロマン文庫

富士見ロマン文庫(ふじみロマンぶんこ)は、かつて富士見書房が発行していた文庫レーベル。1977年から1991年にわたって、200冊近くの海外の古典的な性愛文学・官能小説が翻訳出版された。現在では全て絶版。 創刊当初の帯コピーは「ホットなフィーリングをのせて世界のポルノグラフィーがやって来る」。他に「ナウでファッショナブルでエロチック」等。金子國義、池田満寿夫らが表題画を担当した。金子の画については後にコレクションカードとして限定復刻もされている。艶本叢書という性質から訳者や挿絵家については変名でのクレジットが複数あるとされる。.

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伊藤漱平

伊藤 漱平(いとう そうへい、1925年10月20日 - 2009年12月21日)は、日本の中国文学者。東京大学、二松學舍大学名誉教授。 愛知県碧海郡に生まれる。刈谷中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学支那哲文学科を卒業、大学院に進む、1949年北海道大学助手となり退学、1955年島根大学講師、1960年大阪市立大学助教授、1970年北海道大学中国文学科教授、1977年東京大学中国文学科教授。1986年、定年退官し二松學舍大学教授。2002年春、勲三等旭日中綬章受勲。 『紅楼夢』の訳者として知られ、『伊藤漱平著作集』全5巻がある。.

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伏見冲敬

伏見 冲敬(ふしみ ちゅうけい、1917年 - 2002年8月24日)は、日本の書家、篆刻家、中国文学者。 現在の静岡県静岡市清水区興津生まれ。比田井天来・桑原翠邦・高石峰・石田幹之助・小林高四郎に師事。國學院大學等の講師を経て、大東文化大学教授。1988年定年退任。翻訳家の伏見威蕃は息子。.

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後藤安彦

後藤 安彦(ごとう やすひこ、1929年5月28日 - 2008年2月16日)は、日本の翻訳家、歌人。本名、二日市 安。兵庫県西宮市生れ。 生来の脳性麻痺のため、堺市立熊野国民学校卒業後は自宅で暮らす。少年期から青年期にかけては幽閉同然に大分県で育った。1958年に桐三樹夫の推挙で短歌結社「中央線」入会。1964年に結社新人賞、1972年に作品賞を受賞。などを独学で数か国語を学び、翻訳家となる。ジョン・ガードナーやトマス・チャステイン(Thomas Chastain)など、推理小説を翻訳。障害者運動にも積極的に活動した。「車椅子の国会議員をつくる会」を立ち上げて代表をつとめようとしたこともあるが、すぐにつぶれたという。 代表的な著書に、小説家で前妻の仁木悦子をつづったエッセイ『猫と車イス 思い出の仁木悦子』がある。 また足利光彦の名でポルノ小説の翻訳をしていた。.

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王概

王 槩(おう がい、1645年-1710年以後)は、清の康煕年間に南京で活躍した文人、画家。詩文・画・篆刻にすぐれ、画は大幅の山水画を得意とし、人物・花鳥画も善くした。絵画教本『芥子園画伝』を弟二人とともに制作したことで最も知られる。初名は王匄。字は東郭、または安節。.

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芥子園画伝

芥子園画伝(かいしえんがでん)は、中国・清代に刊行された彩色版画絵手本。古くからの歴代画論に始まり、山水、花鳥などの技法を解説した絵画論として広く普及した。.

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聊斎志異

『聊齋志異』(りょうさいしい、聊斎志異)は、中国の清代の短編小説集。作者は蒲松齢(1640年(崇禎13年) - 1715年(康熙54年))。 藤田祐賢ふじたゆうけん、1923-2008年、元慶応大名誉教授。によれば「中國古来の筆記小説の系統を引く數多い文語體の小説の中に在って、短編小説として最も傑出しているということは、既に定評となって」おり、また今井弘昌いまいひろまさ、岐阜女子大学 教授によれば、怪異文学の最高峰と言われている。.

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辛島驍

辛島 驍(からしま たけし、1903年 - 1967年4月27日)は、中国文学者、東大文学博士。.

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肉蒲団

肉蒲団(にくぶとん)は、中国、清代の小説。好色文学のひとつ。別名、覚後禅。英語では Carnal Prayer Mat 。6巻20回。李漁の作であろうとされる。 主人公の青年、未央生が色道遍歴の末、仏門に帰依するという物語であり、その性描写で知られる。 物語中で、未央生と妻の玉香が元代の画家・趙孟頫の春画『三十六幅春画冊』を観る描写がある。またこの作品を題材とした、作者未詳の十六葉の春画冊(「玉香行水図」など)がある。.

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金聖嘆

金聖嘆(きん せいたん、金聖歎とも書く、1610年ごろ - 順治18年7月13日(1661年8月7日))は、明末清初の文芸評論家。 俗文学として低く見られてきた『水滸伝』や『西廂記』を古典と同様に高く評価し、その評注本を出版したことで知られる。 名は人瑞(じんずい)で、聖嘆は字とも、法号ともいう。.

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陳コウ子

陳 淏子(ちん こうし、1615年 - 1703年)は、名は淏、字は爻一、号は扶揺、西湖花隠翁など。中国浙江省杭州府銭塘県の人。明末から清代康煕年間にかけての文筆家兼出版業者であり、博物学者、園芸家である。康煕27年(1688年)、74歳の時に、園芸書『花鏡』を刊行した。長子は陳枚。.

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1611年

記載なし。

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1680年

記載なし。

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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3D SEX & 禅

記載なし。

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