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日本の脚気史

索引 日本の脚気史

日本の脚気史(にほんのかっけし)では、日本(大日本帝国)で脚気の流行が国家的問題となった明治時代から、脚気死亡者数が1千人を下回った1950年代後半までを主として、脚気の原因を巡る医学界の混乱とその収束、軍事上の要請が特効薬の開発に波及した経緯などを記述する。 日本で脚気がいつから発生していたのかは定かではないが、『日本書紀』に同じ症状の病の記述があり、元禄年間には米を精製する習慣が広まり、特に江戸で多く「江戸患い」と呼ばれ、経験的に他の精白されていない穀物を食べた。明治時代には、1870年(明治3年)には翌年にかけて脚気が流行。明治末までに毎年6,500人から15,085人死亡したとみられる。 海軍軍医の高木兼寛はイギリスの根拠に基づく医療に依拠してタンパク質摂取量不足が原因だと仮定して、洋食、麦食を試み、1884年(明治17年)の導入により1883年の23.1%の発症率を2年で1%未満に激減させた。理論は誤っていたものの疫学の科学的根拠は得られていたということである。だが、当時医学の主流派は理論を優先するドイツ医学を模範としいたため、高木は批判され、また予防成績も次第に落ち様々な原因が言われ、胚芽米も導入された。陸軍は科学的根拠なしで謎の対抗をし白米を規則とする日本食を採用、『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人が脚気が原因であった。陸軍はその後も脚気の惨害に見舞われた。農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると脚気様の症状が出るが、米糠、麦、玄米を与えると快復することを報告。翌年、糠中の有効成分を濃縮しオリザニンとして販売されたが、医界は受け入れなかった。伝染病説と中毒説が科学的根拠なく学説の域を出られないまま支配的で、栄養欠乏説は受け入れられなかった。1912年にポーランドのカジュミシェ・フンクがビタミンという概念を提唱。国産の栄養説を俗説とさげずんだが、外来の栄養説を後追いし、陸軍主導の調査会には、真因を追及する能力はなかったとも指摘される。陸軍が白米を止め、麦3割の麦飯を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった。 大正以降、ビタミンB1(チアミン)を含まない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分に摂らなかったため、脚気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も1910年に鈴木梅太郎が抽出したオリザニン(樹脂状の塊で、その後、結晶化に成功)は、ニコチン酸を含む不純化合物であり、その純粋単離に成功したのが1931年。、多くの患者と死亡者を出し、結核とならび脚気は二大国民病といわれた。ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)の26,796人がピークであり、1915年(大正4年)から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで年間1万人〜2万人で推移した(翌1939年12月1日、白米禁止と7分つき米の強制)。ようやく1千人を下回ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半のことであった1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人。 1975年(昭和50年)頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた。1997年(平成)には、死亡を含む重症例が相次ぎ、厚生省は高カロリー輸液の点滴の際にビタミンB1を投与するという通達を出した。アルコール依存症患者にも多い。.

8 関係: 岡田国太郎三浦謹之助プロスルチアミン須藤憲三高木兼寛森鴎外海軍カレー日露戦争

岡田国太郎

岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日) - 1945年(昭和20年)3月2日)は、日本の陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者。医学博士(滋賀県出身者として初の医学博士(博士登録番号42番))。.

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三浦謹之助

三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。.

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プロスルチアミン

プロスルチアミン(英: Prosultiamine、アリナミン)は、プロピルジスルフィドチアミンとして知られており、ビタミンB1欠乏症の治療薬として1950年代に日本で開発されたジスルフィドチアミンである。プロスルチアミンは、チアミン誘導体として脂溶性を増加させたものであり、腸管からの吸収に際しての輸送に律速されない。 プロスルチアミンについて次のような歴史が存在する。1952年(昭和27年)3月8日に京都大学衛生学の藤原元典は、武田薬品工業研究部と提携してニンニクとビタミンB1が反応するとニンニクの成分アリシンがB1(チアミン)に作用してできる「アリチアミン」ができると報告した。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミンB1製剤にはない特性があることを報告した。また、武田薬品工業は、アリチアミンの製剤化に力を入れ(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発を依頼されたこと)、1954年(昭和29年)3月、アリチアミンの誘導体であるプロスルチアミンの内服薬「アリナミン錠」が発売され、従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果を示した。アリナミンとその類似品の浸透により、当時、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることとなった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人と減少したのである。 しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった。 プロスルチアミンは服用するとニンニク臭くなるという問題がある。血液中でプロスルチアミンが分解するとチアミン(ビタミンB1)とともにニンニク臭の素のひとつであるN-プロピルメルカプタンが生じ、呼気に出てくるためである。この問題を解決した誘導体がフルスルチアミンである。.

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須藤憲三

藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、金沢医科大学学長、生化学者。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。また、「栄養」の命名者でもある。 当時は「営養」と書かれていたが「“営む”のではなく、“養い栄えさせる”のが栄養学の目的で、心身を栄えさせてはじめて頭も良くなるんだ」との主張の元、森鴎外、尾崎幸雄などの支持を得て「栄養」に改めた。 金沢医科大学病院に病院では初めて栄養部を設立1923年、栄養部長に大橋タカ子を登用。 日本の脚気史によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。.

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高木兼寛

木兼寛肖像画--高木兼寛生誕の地穆園広場内の案内板より 高木 兼寛(たかき かねひろ「けんかん」とも呼称される(有職読み)。、嘉永2年9月15日(1849年10月30日) - 大正9年(1920年)4月13日)は日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。.

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森鴎外

森 外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部入学時は第一大学区医学校予科卒業。 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。 晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。.

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海軍カレー

海軍カレー(かいぐんカレー)とは、大日本帝国海軍の糧食に由来する、カレーおよびカレーライスのことである。 特徴はカレーに小麦粉を炒めて作った粘度の高いとろみをつけたルーを使うことであり、家庭料理や食堂および給食など一般的に日本においてカレーライスと言う場合、この海軍カレーに類するものを指す場合が多い。 帝国海軍の流れを汲む海上自衛隊のカレーライスは、副食として、サラダ、牛乳、ゆで卵等が付けられ、栄養管理されている。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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