ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

文明 (日本)

索引 文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

1644 関係: 功山寺加賀一向一揆加藤氏加治木饅頭城井正房埼玉県の記念物原胤房垣屋続成垪和氏お家騒動きよめほうとうけやき平 (川崎市)博多半田城十市遠清十三湊十刹印牧広次印融千代保稲荷神社千貫樋千葉孝胤千葉実胤千葉勝胤千葉輔胤千葉胤盛千葉自胤南総里見八犬伝南部重清南部氏南部氏歴史年表南部時政南条氏南条氏の当主・一族一覧南新宮社古市胤栄古市澄胤古今伝授古麓城古河城古河府古河公方古河藩右大臣右田弘詮司箭院興仙叙位名和顕忠名和氏...名立寺向島 (広島県)向阿吉原家住宅吉崎御坊吉川夫人 (尼子経久室)吉川之経吉川経基吉備津彦神社吉祥寺 (北九州市)吉田 (長野市)吉田の火祭吉田家日次記吉田兼倶吉田神社吉見信頼吉見頼興吉良義信吉良義真吉良義藤吉良氏君台観左右帳記坪野神明社坂之下 (所沢市)坂本城 (播磨国)坂本村 (岐阜県恵那郡)報専坊堀越公方堀越氏堀江景用塚原氏塩崎氏塩冶掃部介塩谷孝綱塩谷隆綱塩谷氏境根原合戦境港市壬生城壬生家壬生綱房多功長朝多宝院 (下妻市)多宝院 (能代市)多和神社多紀連山多田荘多聞院日記多賀宗直多賀高忠多賀郷多賀氏多賀清直多気城 (下野国)大原荘大友義右大友義長大友親繁大友親隆大友政親大宝寺政氏大宮長興大宰権帥大寧寺の変大山崎油座大山白山神社大崎上島大崎持兼大崎教兼大広寺大井城大井城 (美濃国)大井安房丸大井信定大井光照大井玄慶大井町 (岐阜県)大井行俊大井行真大井行満大井氏大井政光大井政朝大内義興大内氏大内政弘大内教幸大光寺町 (青森県)大矢知氏大石定重大炊御門信子大炊御門信宗大炊御門信量大炊御門経名大田原資清大隅石井氏大草松平家大菴須益大館城 (陸奥国)大胡城大胡氏大舘尚氏大舘持房大通寺 (南九州市)大虫神社 (与謝野町)大林宗套大恩寺 (豊川市)大村純前大村氏大條氏大森実頼大森氏大森氏頼大樹寺大水神社大永大永の内訌 (下野宇都宮氏)大津城 (三河国)大浦盛信大日房能忍天孫神社天室光育天寧寺 (彦根市)天嶽院天与清啓天翁院天野興定天沢寺天文本源氏物語系図太宰府天満宮太田城 (紀伊国)太田道灌太田道灌状太田資康太田資忠太田資頼太田資雄太田資清太政大臣夷千島王遐叉奥尻郡女院奉行衆如意輪寺 (茂原市)妙喜庵妙香院妙法寺 (鎌倉市大町)姫路城姉小路基綱姉小路済継嫁威谷季瓊真蘂存牛定専坊 (大阪市東淀川区)定善寺実如実玄実隆公記実隆本源氏物語系図宍戸元家宝鏡寺理久宝蔵寺 (古河市)宣胤卿記室住虎光室住虎登室町幕府宮城政業宮崎神宮宮崎港宮中・京中の式内社一覧宮腰宮森城守悦宗守館宗五大草紙宗像大宮司の一覧宗光寺宗碩宗祇宗湛宗晴康宇受賀命神社宇土城宇土為光宇土氏宇喜多宗家宇喜多久家宇喜多能家宇喜多氏宇高有光宇都宮城宇都宮錯乱宇都宮興綱宇都宮正綱宇都宮成綱宇野久重宇野政秀宇治市宇治橋 (伊勢市)安富元家安住院安国寺 (壱岐市)安国寺 (茅野市)安祥城安禅寺 (古河市)安養寺城安養院 (本庄市)安東氏安東政季安楽寺 (南丹市)宋銭寺部城対馬国対馬国分寺富士宮市富士忠時富山城 (備前国)富田 (高槻市)富樫幸千代富樫稙泰富樫泰成富樫政親寒川元家寒河江城寒河江知広寒河江為広寒河江氏密懐法小口城小寺則職小寺則職 (戦国時代)小山宿小山氏小山持政小峰朝脩小島勝言小川城 (駿河国)小川殿小張小判小倉城小笠原家長小笠原光康小笠原貞朝小笠原長定小笠原長弘小笠原長朝小笠原清宗小笠原政秀小田野氏小田治孝小田持家小畠虎盛小鹿範満小野神社 (町田市)小金ヶ嶽小折城小松寺 (小牧市)小梁川宗朝小泉久遠寺小泉長利小机城小早川弘平小早川弘景 (二代)小早川煕平小早川敬平小早川扶平尭胤法親王尼子久幸尼子経久尼子氏尼子清定専修寺専称寺 (山形市)専順射水神社山城国一揆山名宗全山名小太郎山名之弘山名元之山名豊之山名豊之の殺害事件山名豊重山名豊氏山名豊時山名氏山名是豊山名新九郎・小太郎の乱山名政之山名政豊山名政清山名教之山吉久盛山吉正盛山家城 (信濃国)山家昌治山崎城 (山城国)山中勝重山中貞幸山内直通山王信仰山科言綱山科本願寺山田城山田奉行山田三方山本光幸居多神社岡城 (筑前国)岡崎城岡本重親岩城常隆 (下総守)岩城親隆 (下総守)岩尾城 (信濃国)岩切氏岩出祭主館跡岩倉 (京都市)岩倉城 (尾張国)岩松家純岩松院岩松氏岩松成兼岩松明純岩松昌純岩津松平家岩戸寺 (国東市)岸地通島津季久島津常盤島津久逸島津忠広 (豊州家)島津忠廉島津忠国島津忠興 (薩州家)島津忠昌島津国久島津立久崇福寺 (岐阜市)崇禅寺 (大阪市)川口分店川崎城 (下野国)川内村川田景村川越市の歴史巣守左大臣左沢氏巫女舞上原元秀上原高家上原賢家上丸子 (川崎市)上善寺上領頼兼上野原町上野赤井氏上野長野氏上条城 (尾張国)上杉定正上杉定昌上杉顕定上杉持朝上杉朝良上杉朝昌上杉房定上杉房能上杉政真上杉政憲上末城不知行地還付政策不破八幡宮中御門宣胤中野区中院通秀中津町 (岐阜県)常山城常徳院 (世田谷区)常国寺常楽寺 (半田市)丹羽氏清丹生官省符神社丹生川上神社下社丹生都比売神社七口の関布多天神社世尊寺行季市谷亀岡八幡宮万寿寺 (大分市)万里小路冬房万里小路春房三好之長三好長秀三宿神社三宅城三宅記三島暦三上氏三上政実三帖和讃三井城三念寺三刀屋氏三郷村 (岐阜県恵那郡)三重塔三条実香三条実量三条公頼三条公敦三条西実隆三条西公条三河稲垣氏三河真木氏三河牧野氏三木城三木久頼三本松城の戦い三浦高救三浦時高下妻城下田城 (土佐国)下館城下館市下館羽黒神社下間蓮崇下野国下津城一向宗一乗谷朝倉氏遺跡一休宗純一色義秀一色義直一色義有一色義春一色氏一色政照一色時家一条冬良一条兼良一条房家一条政房一条教房九十九王子 (御坊市)九十九王子 (田辺市中辺路町)九十九王子 (田辺市・上富田町)九十九王子 (田辺市本宮町)九十九王子 (泉南市)九十九王子 (海南市)九品寺 (京都市)九条政基平塚城平河天満宮幸徳井家幸若舞乾坤院久遠寺久我通博久慈城久慈氏度津神社享徳享徳の乱享禄享禄・天文の乱京目京都府京極孫童子丸京極騒乱京極高清京極材宗京極氏京極持清京極政光京極政経庭田朝子康正二十二社二箇相承二階堂行詮二連木城二条尚基二条政嗣二本松持重二本松政国二日市駅広徳寺 (尼崎市)広祥院広橋綱光五十子の戦い五条為学五條天神社 (台東区)五所川原市庄氏了庵桂悟井原市井上元兼井伊直平井草川井波城事代主神社 (新上五島町)亀崎潮干祭今尾城今尾陣屋今川基氏今川義忠今川貞延今川氏親今井城 (武蔵国)今井信元今出川季孝今出川公興今出川教季今村城 (尾張国)今泉盛高今泉盛泰仁科神明宮仁科盛能仁科氏仁連宿仁済宗恕仁木貞長仁木氏延寿寺 (彦根市)建仁寺建武以来追加建昌城付喪神絵巻会合衆伊射奈岐神社 (天理市)伊丹城伊弉諾神社 (生駒市)伊勢国伊勢物語肖聞抄伊勢盛定伊勢貞宗伊勢貞忠伊勢貞親伊勢貞陸伊達氏伊達成宗伊賀八幡宮伊賀町 (岡崎市)伊東尹祐伊東祐堯伊東祐国伏見宮貞常親王伏見宮邦高親王伯耆一条氏伴野貞祥強訴弓ヶ浜半島住吉神社 (福岡市)佐保殿佐志能神社 (笠間市)佐土原城佐竹義俊佐竹義信佐竹義知 (山入佐竹氏)佐竹義舜佐竹義治佐竹政義佐野秀綱彦根市佛光寺佛照寺 (茨木市)征夷大将軍御塩殿神社御峰城御嶽山御供衆御霊神社 (奈良市)御霊神社 (三田市)御湯殿上日記徳大寺実淳徳大寺公胤徳大寺公有徳大寺維子徳山村 (岐阜県)後南朝後志国後土御門天皇後北条氏後花園天皇後藤職明後柏原天皇後法興院記忍城忍城の戦い保田妙本寺信州遠山氏信光明寺信国 (初代)信濃国分寺信濃村上氏快翁龍喜応仁応仁の乱応仁記応永心岩寺心敬志佐純元志摩荘土居清宗土岐氏土岐持益 (守護)土岐成頼土岐政康土佐光信土倉役土田秀久地震の年表 (日本)医光寺医王権現北原氏北小路俊子北山本門寺北川殿北勢四十八家北畠政郷北畠教具北見国北谷稲荷神社北郷忠相北郷持久北郷敏久北条早雲園太暦圓教寺トイレ遺構別所則治刈谷城分国法善光寺善隣国宝記善阿弥周桂本源氏物語和布刈神社アンコウキンリョウヘンコウ之慧鳳シイラ品川神社品川湊冨春院冷泉為広冷泉為和円久寺 (鎌倉市)円光寺 (姫路市)円楽寺円成寺内大臣内ヶ島為氏内ヶ島氏内藤弘矩内藤元貞出羽祐盛准后准大臣入来院重豊 (10代当主)入来院氏全岩東純全久院 (豊橋市)八幡神社 (奈良市東九条町)八代道慶八代日記八省卿の一覧八木城 (丹波国)八木氏公条本源氏物語六甲山六角高頼六角政堯六角政頼六条有房兼重元鎮元号一覧 (日本)元興寺光徳寺 (長野県立科町)光泉寺光教勝山館勝興寺勝間田城勝間田氏勝恵勢州七福神勧修寺勧修寺尚顕勧修寺経熈勧修寺藤子勧修寺政顕勧修寺教秀因幡国国崎町国府台城国分盛綱四畳半四方拝四日市港犬山城犬島犬田城の戦い皇代暦矢部定利矢部宗春矢部町 (町田市)矢部氏知立神社知恩院石城神社石川親康石川政康石丸利光石井忠國石井忠義石神井城石脇城玉置神社玉隠英與玉葉和歌集玉津島神社王滝御嶽神社火山噴火の歴史現存天守琳聖太子砥石城砂子 (川崎市)砂越氏砂越氏雄神奈川区神山 (松阪市)神山一乗寺神祇伯神祇管領長上神道大意神領奉行神谷神社祁答院氏祐泉寺祥啓祖父君神社福岡氏福住中定城福田方禅徳寺私年号秋月城 (紀伊国)秀麓斎稲垣重綱稲垣長茂稲垣氏俊稲村城穴山信懸穴蔵竹売竹林の戦い竺雲等連立原氏笠置寺第九飫肥役筑後川筑土八幡神社筑紫氏筑紫満門筒井城筒井順尊筒井順興筒井順永箸尾為国篠脇城節用集簗田氏簗田持助 (室町時代)米子城米山神社 (姶良市)米本城粒坐天照神社糟屋宿糺の森細川尚春細川之持細川元常細川元有細川勝久細川勝之細川勝元細川勝益細川勝氏細川義春細川頼久細川高国細川通薫細川持常細川成之細川成春細川政之細川政元細川政国細川教春 (野州家)紅葉八幡宮紀清両党続善隣国宝記続神皇正統記継桜王子練馬城緒川城織田寛広織田広近織田信定織田達定織田良信織田敏定織田敏広織田敏信置塩城美作国美和神社 (笛吹市)義忠羽咋神社羽生市真如三昧耶堂真宗大谷派竹鼻別院真宗出雲路派真宗高田派真宗興正派真光寺 (加須市)真珠庵真言宗山階派真淳真清田神社真木朝親猿橋烏丸資任烏帽子形八幡神社結城直朝 (白河氏)結城顕頼結城氏広結城政朝結城政朝 (白河氏)経覚経誉疋壇城瑞龍寺 (岐阜市)瑞渓周鳳瑠璃光寺生瀬皇太神社生根神社 (大阪市住吉区)用津院田原城 (三河国)田峰城田中千阿弥田代三喜田代町 (鹿児島県)甲斐敏光町広光町藤光甘露寺元長甘露寺親長熊倉城熊谷堅直熊野三山本願所熊野年代記熊野神社 (国分寺市)熊野那智大社熊本県の歴史畠山尚順畠山修羅畠山義就畠山義統畠山義豊畠山政国 (総州家)畠山政長照姫 (豊島氏)牧野古白牧野保成特芳禅傑牛の峠牛久保六騎狩野元信狩野正信狩野派益子勝宗益田宗兼益田市立雪舟の郷記念館益田兼堯益田貞兼益救神社相馬盛胤 (十三代当主)相良為続相良頼泰 (権五郎)相良長毎相良長泰 (肥後相良氏)相模トラフ巨大地震盛安寺瀬谷区白塚町白子 (鈴鹿市)白子港白山権現白山比め神社白岩氏白岩満教隠津島神社 (二本松市)花尾城花山院忠輔花倉の乱花輪ばやし芳賀高益芸阿弥韮山城鞍谷氏鎌倉大草紙鎌倉市内の寺院一覧遊佐長直道興荻窪八幡神社荻窪白山神社荘厳寺 (京都市)荒木田守武荒木田守晨草津温泉菊理媛神菊池能運菊池武経華厳寺菖蒲沼の戦い鏑木繁常青鳥城青松寺青木町 (高浜市)蠣崎義広蠣崎氏須山浅間神社須田永秀頂法寺順如願得寺願阿弥衆徒顕証寺 (八尾市)顕本寺 (桑名市)風流踊飯名神社飯尾常房飯尾之種飯尾為数飯倉 (東京都港区)飯盛山 (福井県)養寿寺西が丘西尾直教西岡の戦い西園寺実遠西園寺公藤西圓寺 (大垣市)西光寺 (福岡市)西本願寺西教寺饗土橋姫神社要行寺 (富士宮市)親長卿記馬ヶ岳城馬門原の戦い観世元雅観音寺城見聞諸家紋香取神宮香坂氏角宮神社駒形神社 (佐久市)角牟礼城駒野城設楽町言国卿記諏訪円忠諏訪頼満 (安芸守)諏訪頼満 (伊予守)諏訪氏諸川宿高城胤吉高城氏 (薩摩国)高原熊野神社高屋城高徳院高田 (柏市)高辻章長高辻継長高辻長直高辻長雅高梨政盛高橋弘厚高橋高種證誠寺 (鯖江市)鯨塚豊宮崎文庫豊島氏豊島泰経豊島泰盈豊島泰明豊川市豊地城豊橋市立西郷小学校豪徳寺貞宗財賀寺鳥の子紙鳥取市鳥居忠吉鳥羽 (洛外)賦引付鳳台院 (笠間市)鳴尾八幡神社賀年城越中一向一揆越智家栄足利尊氏足利将軍一覧足利義尚足利義稙足利義視足利義澄足利義政足利高基足利茶々丸足利成氏足利政知鶴岡八幡宮超勝寺鷲見氏鷹司兼輔鷹司房平鹿野氏鹿苑寺車斯忠黒印状黒川氏黒川景氏龍宮寺龍福寺 (山口市)龍穏寺龍角寺龍雲寺 (佐久市)龍造寺家純龍造寺康家龍泰寺 (関市)近衛大将近衛尚通近衛政家霧山城霧島神宮霧島神社茨木城蜷川親元蜂塚氏震動の滝能阿弥鈴木道胤船寺通船田合戦興宗寺 (福井市)興正寺興正寺別院蘭坡景し阿坂城阿弥陀寺 (防府市)阿蘇惟忠阿蘇惟郷阿蘇惟歳阿蘇惟憲阿野季綱蘆名盛高蘆名盛滋赤堀氏赤穴久清赤松則貞赤松政則赤沢政経鵜飼い関東地方薩南学派薬師寺元一門司区藤森神社葉室光忠葛西政信葛西晴重蒲生貞秀肝付兼久肝付兼忠肝付兼光肝付兼固那須資実那須明資蓬田城蓮如蓮専寺 (和歌山県由良町)蓮乗蓮秀蓮綱蓮芸蓮誓蓮沼城蓮悟蓮教醤油野尻城 (越中国)野尻城 (日向国)野方村針綱神社自性院 (新宿区)臼井城里見実堯里見義通金岡用兼金川城金光寺 (京都市下京区)金鑚神社金森 (守山市)金沢城金沢市金沢町 (秋田県)金沢柵金春禅竹金春禅鳳長宗我部雄親長宗我部氏長尾定景 (足利長尾氏)長尾忠景長尾為景長尾頼景長尾顕忠長尾顕景長尾重景長尾房清長尾景人長尾景信長尾景長長尾景英長尾景棟長尾景春長尾景春の乱長屋吉忠長岡氏長島城長島町 (岐阜県)長享長享の乱長井利隆長井秀弘長井館長生寺長瀬八幡宮長谷寺 (鳴門市)長船町福岡長興寺長興寺 (田原市)長野藤継長野藤直長野通藤長良川鵜飼長楽寺 (名古屋市)長楽寺 (白井市)長浜 (横浜市)長教寺 (魚津市)酬恩庵酒井氏酒井氏忠酒々井町鉢屋衆鉢形城若菜通若江城の戦い (室町時代)苗木遠山氏雨夜談抄雪舟雪江宗深雲際寺雲龍院雉子神社逸見繁経陰流陶弘護陶興房陶氏陽夫多神社陽願寺 (越前市)陀々堂の鬼はしり押小路烏丸殿柏市柳原資綱柳営秘鑑柿並弘慶柿本神社 (明石市)枚方市林重緒枕草子絵詞枕投げ掛川城恵光寺 (八尾市)捕鯨文化来迎寺 (守口市)東向殿東坊城和長東坊城益長東大寺続要録東大寺要録東大寺法華堂要録東寺東山殿御庭東常縁東郷氏 (薩摩国)東野村 (岐阜県)東陽英朝東条国氏東氏東漸寺 (古河市)東漸寺 (松戸市)東本願寺東昌寺 (茨城県五霞町)松原広長松平家広 (形原松平家)松平守家松平忠景松平元心松平義春松平親忠松平親善松平長親松平泰親松ヶ嶺城松田元藤松田元成松田氏松波城松浦弘定松浦党松浦政 (相神浦松浦家)村山浅間神社村上吉充 (3代)村雨 (架空の刀)村松山虚空蔵堂杉弘相根来寺根津神社栗田城栗田氏栂野和泉守桐生氏桶狭間桜島桜井町 (富田林市)桜木神社 (文京区)桂林遺芳抄梅宮大社梅谷寺楠葉西忍楠葉関楠木正虎楯縫神社 (美浦村郷中)横川景三横地城横瀬国繁横瀬泰繁横瀬成繁 (室町時代)横浜市の歴史橋本市櫛橋伊家櫛橋則伊正宗 (曖昧さ回避)正宗龍統正平地震正広正親町三条実興正親町三条実望正親町三条家正親町三条公治正長武家伝奏武並村武田信広武田信縄武田信親武田信高武田信賢武田信長武田信昌武田信景武田元信武田元綱武田国信武衛騒動比都佐神社毛利弘元毛利豊元毛利貞元毛利次郎の乱水口神社 (甲賀市)水島諸島水ヶ江城水谷氏水野義純水野氏水海城氷川神社 (中野区東中野)氷川神社 (中野区沼袋)氷川神社 (練馬区氷川台)氷川神社 (東京都港区元麻布)氷上姉子神社永平寺永享永正永正の内訌 (下野宇都宮氏)江古田・沼袋原の戦い江川崎江美城江田神社 (宮崎市)江戸江戸城の乱江戸崎不動院江戸通長江戸通雅江戸通泰池坊専応池坊専慶池田城 (摂津国)池氏沢村城河原山城の戦い河内十七箇所河内長野市河野円城寺河野西入坊河野通春河野教通油倉沼田氏沼袋波多野全慶泰岳寺法勝寺城法華寺 (姫路市)法華寺 (姫路市御国野町御着)法華寺尊順法華院温泉法蔵寺 (彦根市)法持寺泉龍院 (新城市)洞院家洞昌院 (伊勢原市)津田武永津高地域深江本町淀古城渡田温故知新書清原宣賢清凉寺清武城清水城 (出羽国)清水寺清水寺参詣曼荼羅清水磨崖仏清洲城清浄寺 (牧之原市)渋川万寿丸渋川政実渋川教直湯の峰王子湯川町湯田神社源康政源語秘訣源麗子源氏物語巨細源氏物語年立 (一条兼良)源氏物語聞書 (牡丹花肖柏)源氏物語提要源氏雑乱抄溝咋神社満願寺 (世田谷区)滝山城 (摂津国)持永氏朝倉孝景 (7代当主)朝倉宗滴朝倉光玖朝倉経景朝倉貞景 (9代当主)朝倉氏朝倉氏景 (8代当主)朝倉教景 (宗滴の兄)朝倉景綱朝倉景総朝倉景隆朝倉景職朝鮮通信使朝霞市朝比奈泰煕木原氏木寺宮邦康親王木ノ下城木舟城木造政宗木津城 (山城国)木曾家豊木曾義元末次氏 (出雲源氏)本太城本庄信明本佐倉城本土寺本地城本善寺 (奈良県吉野町)本善寺 (日向市)本国寺 (大網白里市)本照寺 (厚木市)本照寺 (高槻市)本荘八幡宮本行寺 (千葉市)本願寺本願寺の歴史本願寺鷺森別院本興寺 (金沢市)本蓮寺 (金沢市)本澄寺 (高槻市)月行事月舟寿桂有川神社有徳銭有馬純房有馬晴純有間町望月城最上義秋最上義春最上満氏最勝寺 (高島市)最福寺 (東金市)成田顕泰成田正等成田氏成高寺成身院光宣戸田宗光戸田氏戸次親家戸沢氏明宗 (僧)明建神社明円寺 (福山市)明珍信家春日山城春日神社 (練馬区)春日神社 (豊中市宮山町)昌雲寺 (掛川市)浦上宗助浦上則宗浦上則景浦上村宗浪岡城浜王子浜田城 (伊勢国)浄住寺浄土寺 (松山市)浄土教浄願寺 (高松市)浄興寺浄橋寺浅谷町斎藤又四郎斎藤妙純斎藤妙椿斎藤利親斎藤利藤斯波義孝斯波義寛斯波義廉斯波義達斯波義敏斯波詮高斯波郷長斯波持種斯波政綿新座市新善光寺 (京都市東山区)新納忠続新納是久新百人一首文明 (曖昧さ回避)日尾町日乗日底日光山縁起日光院日立鉱山の大煙突日置流日鎮日運日親日近城日野富子日野勝光日野衆日枝神社 (千代田区)日枝神社 (川越市)日朝関係史日本の城日本史の出来事一覧日有 (大石寺)日明貿易日慶旧鼠早稲田大学高等学院・中学部摂津国人一揆悟渓宗頓放光寺 (甲州市)放生院 (宇治市)放生津八幡宮放氏愛洲忠行愛洲氏敷地藤安敵討教行寺 (高槻市)慶光院慶覚寺 (金沢市)慈照寺慈願寺 (八尾市)慈恩寺 (寒河江市)扇谷上杉家払川館拾芥記智恩寺 (宮津市)10月31日11月11日11月11日 (旧暦)11月20日11月21日 (旧暦)11月27日 (旧暦)12月12日12月15日 (旧暦)12月16日12月22日12月27日 (旧暦)1469年1470年1470年代1471年1472年1473年1474年1475年1476年1477年1478年1479年1480年1481年1482年1483年1484年1485年1486年1487年1月15日1月16日1月18日2月16日 (旧暦)2月21日2月4日 (旧暦)3月18日 (旧暦)3月4日4月15日4月28日 (旧暦)4月2日 (旧暦)4月30日4月7日5月11日 (旧暦)6月14日6月6日7月20日 (旧暦)7月26日 (旧暦)7月27日 (旧暦)7月3日7月6日8月13日8月25日8月30日8月3日9月16日9月23日 インデックスを展開 (1594 もっと) »

功山寺

毛利家墓所 功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。 仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と功山寺 · 続きを見る »

加賀一向一揆

加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。.

新しい!!: 文明 (日本)と加賀一向一揆 · 続きを見る »

加藤氏

加藤氏(かとうし)は、日本の氏族のひとつ。 加藤氏は藤原氏の一族。日本の戦国時代から江戸時代の大名である加藤光泰や嘉明らが出自とする藤原北家利仁流や加藤清正らが出自とする藤原北家道長流などがある。そして、加藤氏の「加」は加賀の藤原からきたものと一般にいわれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と加藤氏 · 続きを見る »

加治木饅頭

加治木饅頭 加治木饅頭(かじきまんじゅう)とは、鹿児島県姶良市加治木町で江戸時代中期からつくられている蒸し饅頭の郷土菓子である。 桂庵玄樹が明留学の際に饅頭製菓も会得し、1478年(文明10年)薩摩入国の際にもたらしたとする説がある。その後、島津義弘が1607年(慶長12年)平松から加治木に移住するに先立ち1606年(慶長11年)から加治木館を建造したが、その際堀に架ける欄干橋の工事休憩中にお茶うけとして供されたのが今日の加治木饅頭の始まりとされる。 基本的な原材料は小麦粉・麹(甘酒)・砂糖・小豆・塩。酒饅頭であるため長らく加治木饅頭といえば皮は白色のみであったが、平成以降、皮生地に黒砂糖やヨモギ、ニンジン、紫芋などを練り込んで色づけされたものが商品化され、近年は彩のよい加治木饅頭が注目されてきている。 この菓子は、空港・駅の売店やデパート等では殆ど取り扱っていない。出来立てで熱々を提供するのが加治木饅頭の特徴であるため、製造直売ではないこれらの店舗ではこの特徴が出せないためではないかと解されている。加治木町では加治木饅頭製造組合を構成する菓子店7店のほか、製造直売店が国道10号線沿いに数多く立ち並び、熱々の饅頭を販売している。また、加治木町や隣接の姶良町ではスーパーの菓子コーナーに置いてあることも多く、住民に親しまれている。桜島サービスエリアの売店でも販売されている。 鹿児島県や宮崎県諸県地域(都城市、小林市など)での知名度は高いが、他の地域ではほぼ無名に近い状況である。.

新しい!!: 文明 (日本)と加治木饅頭 · 続きを見る »

城井正房

城井 正房(きい まさふさ)は、戦国時代の武将。豊前国の戦国大名。城井氏14代当主。城井谷城主。 大内氏に従っていたが後に反抗。大友氏らの援護をうけ善戦するも、大内氏に攻められ降伏。再び大内氏の支配下に入った。 室町幕府将軍・足利義稙の御前で「艾蓬(よもぎ)の射法」という先祖伝来の弓の技法を披露したという。享年は84。 まさふさ Category:戦国大名 Category:豊前国の人物 Category:1478年生 Category:1561年没.

新しい!!: 文明 (日本)と城井正房 · 続きを見る »

埼玉県の記念物

埼玉県の記念物(さいたまけんのきねんぶつ)では、埼玉県に所在する史跡、名勝、天然記念物について概説する。.

新しい!!: 文明 (日本)と埼玉県の記念物 · 続きを見る »

原胤房

原 胤房(はら たねふさ、生年不詳 - 文明3年9月9日(1471年10月22日)?)は、室町時代中期の武将。原胤親の子。胤隆、胤継の父。受領名は越前守または越後守。原氏は千葉氏の庶流。九州千葉氏の祖となった千葉宗胤の末裔との説もある。 円城寺尚任とともに千葉氏の執権であったが、両氏ともに千田庄・八幡庄内に所領を有していて領有をめぐり対立していた。享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに始まる享徳の乱の際、当主千葉胤宣と円城寺尚任は上杉氏に、胤房は成氏についたため対立が激化し、胤房は千葉城を襲い、康正元年8月12日(1455年9月23日)に胤宣と尚任を馬加康胤の加担を得て殺害、3日後の15日に胤宣の父胤直を、9月7日に胤直の弟胤賢も討ち千葉氏宗家を攻め滅ぼしたが、11月24日に胤賢の遺児千葉実胤・自胤兄弟を擁立した千葉氏庶流で室町幕府奉公衆の東常縁に敗れ逃亡、馬加康胤も翌康正2年(1456年)に常縁に討ち取られたとされる。 文明3年9月9日(1471年10月22日)に小弓城が上杉氏に攻められた際に戦死した「原越前入道」は受領名との一致などから胤房の事であるとされている。また、これを別人として文明11年(1479年)に91歳の長寿で没したとする説もある。 たねふさ Category:室町時代の人物 category:下総国の人物 Category:生年不明 Category:1471年没.

新しい!!: 文明 (日本)と原胤房 · 続きを見る »

垣屋続成

垣屋 続成(かきや つぐなり、文明14年(1482年)? - 元亀元年(1570年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山名氏の家臣。山名四天王の一人。 但馬国の国人で、山名氏からの信頼が厚く、文亀9年(1502年)から但馬守護代を務めた。永正9年(1512年) 、居城を鶴ヶ峰城に移し、ここを垣屋氏の拠点とした。 その後、織田信長の台頭に伴い、山名氏の同盟先を織田氏と毛利氏どちらかにするかで家中は割れると、続成は毛利氏と表明。そのため、同じ山名四天王である田結庄是義と対立し、元亀元年(1570年)、是義の奇襲を受けて、岩井村養寿院で自刃した。 なお子は垣屋氏系図から垣屋光成とされているが、文献が65年開いているため、その間に登場する垣屋続貫(つぐつら、続実(つぐざね)は通称)を子とし、光成を孫とする説もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と垣屋続成 · 続きを見る »

垪和氏

垪和氏(はがし)は、美作国久米北条郡垪和(現・岡山県久米郡)から発祥した武家の氏族。同郡垪和郷を拠点とした。 家紋は丸に抱き茗荷。 垪和は、文献・文書により塀和・垪賀・羽賀・方賀・芳賀などと書かれたが、垪和氏の家系がこれらの名字を名乗る関係はなく、いずれも"垪和=はが"が難読であることから来た仮借表記と見られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と垪和氏 · 続きを見る »

お家騒動

お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.

新しい!!: 文明 (日本)とお家騒動 · 続きを見る »

きよめ

きよめ(伎欲米、清、浄、清目など)は、汚穢・不浄の物の清掃に従事した特定の身分の人々。呼称として使われだしたのは、京都からで、遅くとも平安時代末期からである。「きよめる」事それ自体は、元来「きよめ」の理念が極めて重んじられていたのに対応して重視され、それに携わる人が卑賎視を蒙るものではなかった。しかし、宮廷での野犬掃討の任務である「犬狩り」が次第に下層の身分の官人の職務へと移り、最終的には都市の賎民の専業となりきったのと同様に、身分的に極度の卑賎視を蒙った人々の専業と化していく。.

新しい!!: 文明 (日本)ときよめ · 続きを見る »

ほうとう

日常食として食べられているほうとう 調理中のほうとう ほうとう専門店のほうとう 一般家庭のほうとう ほうとう(餺飥)は、山梨県を中心とした地域で作られる郷土料理。2007年には農林水産省により各地に伝わるふるさとの味の中から決める「農山漁村の郷土料理百選」の中の1つに選ばれている。.

新しい!!: 文明 (日本)とほうとう · 続きを見る »

けやき平 (川崎市)

けやき平(けやきだいら)は、神奈川県川崎市宮前区の町名。丁番を持たない単独町名であり、1985年(昭和60年)11月5日に住居表示が施行されている。郵便番号は216-0023。面積は0.178km2。.

新しい!!: 文明 (日本)とけやき平 (川崎市) · 続きを見る »

博多

博多総鎮守櫛田神社 博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市・福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。.

新しい!!: 文明 (日本)と博多 · 続きを見る »

半田城

半田城(はんだじょう)は現在の愛知県半田市に存在した日本の城(平城)である。坂田城とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と半田城 · 続きを見る »

十市遠清

十市 遠清(とおち/とおいち とおきよ、生年不詳 - 明応4年10月13日(1495年11月8日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。十市遠栄の子。八田遠勝の兄。子に遠相、遠為等。孫に遠治。大和十市城主。幼名は加賀寿丸。官位は播磨守。 永享12年(1440年)に父が自殺し、嘉吉2年(1442年)、室町幕府管領畠山持国の取りなしで十市氏の家督を継いで遠清と名乗った。遠清は播磨守を称し、興福寺に重用され寛正2年(1461年)には羽津黒井・草川両庄の検断職に任じられ、弟の遠勝を八田氏の養子に入れる等着実に勢力を拡大していった。独自の立場を維持する目的から当時の大乗院門跡経覚と筒井氏の内乱及び畠山氏のお家騒動には中立の立場を取っていた(持病説もあり)。 文正元年(1466年)11月、成身院光宣・筒井順永と越智家栄の対立を和解させたが、翌年に応仁の乱が勃発した。 遠清は筒井氏らと共に京都で東軍に属して行動したが、大和に転戦して越智家栄、古市澄胤らと戦った。文明3年(1471年)、楊本城を攻めて楊本範満父子を殺害すると楊本庄を押領、後に龍王山城を築く元を作った。同年8月、嫡男の遠相に家督を譲る。 ところが、文明9年(1477年)9月に畠山義就が河内に侵攻、越智氏も大和を制圧した為、遠清父子は筒井順尊・箸尾為国らが大和から逃れた後も十市城に留まったが、文明11年(1479年)、次男の遠為が西軍に通じたことから遠為を討ったが、やはり大和を去っていった。 以後、勢力回復を試みたが、筒井氏と共に逼塞する事態が続き、延徳3年(1491年)に遠相に先立たれ、4年後に自身も世を去った。後は孫の遠治(遠相の遺児)が継いだ。 Category:室町時代の人物 Category:戦国武将 Category:大和国の人物 とおきよ Category:生年不明 Category:1495年没.

新しい!!: 文明 (日本)と十市遠清 · 続きを見る »

十三湊

十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の許でとりわけ隆盛を極めた湊である。 地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(:じふさん)」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる「十三湖」「十三村」「十三」など、「十三湊」関連以外は江戸時代後期以降の読みを踏襲している。。 遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には国指定史跡となっている。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道61番地五所川原市十三古中道61()。本項ではこの遺跡についても述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と十三湊 · 続きを見る »

十刹

十刹(じっせつ、じっさつ)は、五山制度に基づく寺格の一つである。五山に次ぎ、諸山の上に位置する。日本では臨済宗の寺格をいう。.

新しい!!: 文明 (日本)と十刹 · 続きを見る »

印牧広次

印牧 広次(かねまき ひろつぐ)は、室町時代後期の武将。朝倉氏の家臣。 越前国の朝倉孝景に仕えており、優れた武将であると共に文官としての才もあった。幻雲文集(「続群書類従」所収)によれば、「居越州府。以司国務。」とあり、政務を見る一方、「膂力絶人。勇功蓋國。」などと武人としても賞賛されている。 文明7年(1475年)2月14日の犬山城での合戦で手柄を立てている(「文明乙未二月十四日。於州之大山合戦。」幻雲文集内印牧廣次書後、「同七年乙未二月十四日夜大野犬山夜討、印牧忠節」当国御陳之次第)。 次男・景久は宇野久重の養子となった。 Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文明 (日本)と印牧広次 · 続きを見る »

印融

印融(いんゆう/いんにゅう、1435年(永享7年) - 1519年9月8日(永正16年8月15日))は、室町時代の日本の学僧。『杣保隠遁鈔』を代表とする著作と多数の写本を残しており、1508年(永正5年)に書写した『塵袋』は国の重要文化財に指定されている。晩年は関東における真言宗の復興に努め、入寂の後、関東の談林60余ヶ所では印融の肖像を掲げて毎年供養したという。.

新しい!!: 文明 (日本)と印融 · 続きを見る »

千代保稲荷神社

南口大鳥居(2008年1月) 東口大鳥居(2006年5月) 多くの参拝客で賑わう門前(2006年5月) 千代保稲荷神社(ちよぼいなりじんじゃ)は、岐阜県海津市平田町三郷1980にある稲荷神社である。京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに、日本三大稲荷の一つともいわれることもある。地元の岐阜県西濃地方などではお千代保稲荷(おちょぼいなり)と呼ばれることが多く、通称「おちょぼさん」として親しまれている。 毎月月末の日の夜から翌日1日の明け方にかけ、夜通しで"月並祭"という縁日が開催されることでも有名。朝方まで営業しているお店も多い。.

新しい!!: 文明 (日本)と千代保稲荷神社 · 続きを見る »

千貫樋

千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市と駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。.

新しい!!: 文明 (日本)と千貫樋 · 続きを見る »

千葉孝胤

千葉 孝胤(ちば のりたね)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。千葉輔胤(岩橋輔胤)の嫡男。 生没年には諸説あり、嘉吉3年5月2日(1443年5月30日)生まれ、嘉吉3年7月18日(1443年8月13日)生まれ、文安元年(1444年)生まれともされる。永正2年8月19日(1505年9月26日)に没したとも言われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉孝胤 · 続きを見る »

千葉実胤

千葉 実胤(ちば さねたね)は、室町時代中期の武将。武蔵千葉氏初代当主。父は千葉氏嫡流の千葉胤賢。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉実胤 · 続きを見る »

千葉勝胤

千葉 勝胤(ちば かつたね)は、戦国時代の大名。本佐倉城(現在の千葉県印旛郡酒々井町本佐倉)城主。千葉孝胤の嫡男。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉勝胤 · 続きを見る »

千葉輔胤

千葉 輔胤(ちば すけたね / 岩橋 輔胤、いわはし - )は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。千葉氏の第21代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉輔胤 · 続きを見る »

千葉胤盛

千葉 胤盛(ちば たねもり、生年未詳 - 文明10年10月27日(1478年11月21日))は、室町時代の武将。九州千葉氏の第9代当主千葉胤紹(たねつぐ)の三男。 兄・胤朝(たねとも)と家督を巡って争ったが、文明10年10月27日(1478年11月21日)急死。子の胤棟(興常)は胤朝の養子となり、牛頭山城城主祇園千葉氏の初代となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉胤盛 · 続きを見る »

千葉自胤

千葉 自胤(ちば よりたね)は、室町時代中期から戦国時代前期の武将。武蔵千葉氏第2代当主(室町幕府からは千葉氏当主と認められた)。.

新しい!!: 文明 (日本)と千葉自胤 · 続きを見る »

南総里見八犬伝

『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、)は、江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。 文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と南総里見八犬伝 · 続きを見る »

南部重清

南部 重清(なんぶ しげきよ)は、室町時代後期の甲斐南部氏の武将で北面武士。甲斐の高下村で隠居後、仙洞田氏を興す。.

新しい!!: 文明 (日本)と南部重清 · 続きを見る »

南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

新しい!!: 文明 (日本)と南部氏 · 続きを見る »

南部氏歴史年表

南部氏歴史年表(なんぶしれきしねんぴょう)では、南部氏及びその支配した領域、盛岡藩及び八戸藩等に関する歴史事件等を年代順に並べて表記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と南部氏歴史年表 · 続きを見る »

南部時政

南部 時政(なんぶ ときまさ、応永17年(1410年) - 文明5年3月5日(1473年4月2日))は室町時代の陸奥の大名南部氏の第18代当主。南部通継、南部信実の父。.

新しい!!: 文明 (日本)と南部時政 · 続きを見る »

南条氏

南条氏(なんじょうし)は、日本の氏族のひとつで伯耆国の国人、戦国大名の一族。.

新しい!!: 文明 (日本)と南条氏 · 続きを見る »

南条氏の当主・一族一覧

南条氏の当主・一族一覧(なんじょうしのとうしゅ・いちぞくいちらん)では、伯耆の国人南条氏の当主・一族を集めた。なお、既に項目がある人物については除いている。.

新しい!!: 文明 (日本)と南条氏の当主・一族一覧 · 続きを見る »

南新宮社

南新宮社(みなみしんぐうしゃ)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社である。熱田神宮の境内摂社のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と南新宮社 · 続きを見る »

古市胤栄

古市 胤栄(ふるいち たねひで/いんえい、永享11年(1439年) - 永正2年11月13日(1505年12月18日))は、室町時代から戦国時代の僧・武将。大和興福寺の衆徒。父は古市胤仙。弟に澄胤。娘に胤子。幼名は春童丸、通称は丹後公、諱は藤勝で、胤栄は法名。.

新しい!!: 文明 (日本)と古市胤栄 · 続きを見る »

古市澄胤

古市 澄胤(ふるいち ちょういん)は、戦国時代の僧、武将。大和国古市郷の土豪であり、東山時代の文化人大名でもある。興福寺の官符衆徒。.

新しい!!: 文明 (日本)と古市澄胤 · 続きを見る »

古今伝授

古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と古今伝授 · 続きを見る »

古麓城

古麓城(ふるふもとじょう)は、熊本県八代市古麓町(旧 肥後国八代郡)にあった諸城の総称、近世に名付けられた城塞群である。古麓町の東側の山中に7城(曲輪)が存在したと一般に言われている。 平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」の名称で、八代城、麦島城とともに国の史跡に指定された平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。。.

新しい!!: 文明 (日本)と古麓城 · 続きを見る »

古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と古河城 · 続きを見る »

古河府

古河府(こがふ)は、室町時代・戦国時代に古河公方の政治権力を担った組織である。享徳の乱により関東における戦国時代が始まったときに、鎌倉府の遺産を継承して成立した。.

新しい!!: 文明 (日本)と古河府 · 続きを見る »

古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

新しい!!: 文明 (日本)と古河公方 · 続きを見る »

古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

新しい!!: 文明 (日本)と古河藩 · 続きを見る »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 文明 (日本)と右大臣 · 続きを見る »

右田弘詮

右田 弘詮(みぎた ひろあき)は戦国時代の武将。大内氏の重臣。長門国諏訪山城主。同じく長門国矢田城主とも伝えられる。.

新しい!!: 文明 (日本)と右田弘詮 · 続きを見る »

司箭院興仙

司箭院 興仙(しせんいん こうせん)は、戦国時代の武将・山伏・僧。本名は宍戸家俊といい、安芸宍戸氏の一族。毛利氏の一門衆の宍戸隆家の大叔父にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と司箭院興仙 · 続きを見る »

叙位

叙位(じょい)とは、位階を授けること、およびその儀式。授位(じゅい)ともいう。本項では前近代の日本における叙位について解説する。.

新しい!!: 文明 (日本)と叙位 · 続きを見る »

名和顕忠

名和 顕忠(なわ あきただ、宝徳4年/享徳元年(1452年) - 没年不詳)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。名和氏の第19代当主にして、宇土名和氏(名和系宇土氏)の初代。父は名和教長。兄は名和義興。幼名は幸松丸。子に名和重年、名和武顕。中世期における名和氏中興の祖。.

新しい!!: 文明 (日本)と名和顕忠 · 続きを見る »

名和氏

名和氏/奈和氏(なわし、なわうじ)は、日本の氏族のひとつ。伯耆国を本貫として勢力を張った。後に肥後国八代郡、さらに同国宇土郡へ移住した。.

新しい!!: 文明 (日本)と名和氏 · 続きを見る »

名立寺

名立寺(みょうりつじ)は、新潟県上越市名立区名立大町に所在する曹洞宗寺院。山号は江崎山。本尊は聖観世音菩薩。俗称はなだてでら(名立寺)。 越後三十三観音霊場第1番札所である岩屋堂観音堂を管理する寺院でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と名立寺 · 続きを見る »

向島 (広島県)

浄土寺山からの尾道大橋・新尾道大橋と向島 因島からの因島大橋と向島 向島(むかいしま)は、広島県尾道市に属する島。.

新しい!!: 文明 (日本)と向島 (広島県) · 続きを見る »

向阿

向阿(こうあ、文永2年(1265年) - 貞和元年/興国6年6月2日(1345年7月1日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての浄土宗の僧侶。向阿是心。證賢。 初め三井寺で出家したが、24歳の時仁和寺西谷法光明院の礼阿然空のもとに入り浄土門に帰した。学僧として活躍し『三部仮名抄』『浄土四要義』『往生要略抄』などの法語・教義書をまとめ、乾元2年(1303年)に兄弟子・専空より専修念仏院(専修院)を譲り受け、元弘3年(1333年)までに「浄華院」と改名、浄華院すなわち清浄華院の第五世として浄土宗鎮西派一条流を確立した。 向阿は亀山天皇皇子恒明親王や万里小路家、三条家など、皇族や公家の帰依を受けており、彼の活躍により一条流は浄土宗内でも突出した勢力を持つに至った。また和歌を良くしたとされ、道歌がいくつか伝わり、『新千載和歌集』にも収録されている。能書家としても知られており、向阿筆と伝わる切を収録する手鑑も複数存在する。 彼の著作である『三部仮名抄』は仮名交じり文の法語として高く評価され、天台僧であった隆堯はこの書を読んで浄土宗に転派し、応永26年(1419年)に同書を開版している。近世には法然上人の法語ともに浄土僧の布教に欠かせない必読の書物として盛んに開版され、多くの人々に読まれた。 近世になって『向阿上人絵詞伝』等の伝記がまとめられ、その多くが『武田系図』に載る甲斐国生まれの武田時綱の子で俗名を武田信宗とする説(『本朝高僧伝』他)を採っているが、中世の伝記や自著資料の記述との齟齬が大きく、別人と考えられている。また没年も貞和元年(1345年)とする説が知られているが、暦応2年(1339年)には故人となっていることが確認され(『中院一品記』同年七月廿五日条)、文明15年(1483年)『三井続燈記』(釈是心伝)や大永4年(1524年)『真如堂縁起』に記される建武3年(1336年)説が妥当と考えられている。(この年、弟子・玄心に本尊等を譲っている。(清浄華院文書「向阿譲状」)) 広く流布している證賢という名も自著名や『真如堂縁起』以前の資料には出てこず、典拠不明である。また、慈覚大師創建と伝える清浄華院も、実際の開山は向阿であると考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と向阿 · 続きを見る »

吉原家住宅

吉原家住宅(よしはらけじゅうたく)は、広島県尾道市の向島にある古民家。国の重要文化財。日曜・祝日のみ一般公開。 向島の豪農であった吉原家の住宅。建物自体は吉原家が所有し、吉原家を守る会が管理する。吉原家が所有する祈祷札などから建築年は寛永12年(1635年)と推定されており、建築時期が確定している民家としては日本で3番目の古さ、そのうち農家(庄屋)住宅としては日本最古。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉原家住宅 · 続きを見る »

吉崎御坊

吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。「史跡 吉崎御坊跡」の石碑が立つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉崎御坊 · 続きを見る »

吉川夫人 (尼子経久室)

吉川夫人(きっかわふじん、生没年不詳)は、戦国大名・尼子経久の正室。吉川夫人は後世の呼び名であり実名は不明。吉川経基の長女。吉川国経の妹。 他の兄弟に、石野経守、江田経純、国衙光経、茂経法。妹に笠間刑部少輔室、小河内清信室、綿貫忠澄室、多賀某室、三須清成室、波根泰次室、気比大宮司某室、万里小路賢房室がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉川夫人 (尼子経久室) · 続きを見る »

吉川之経

吉川 之経(きっかわ ゆきつね)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての武将。安芸国国人・吉川氏10代当主。 康正2年(1456年)、父吉川経信の死去により吉川氏の名跡を継ぐ。安芸分郡守護武田信賢と所領をめぐって争うが、小早川氏の仲介を受けて和解している。翌長禄元年(1457年)、周防国・長門国守護大内教弘が厳島神主家との関係で武田信繁(信賢の父)の佐東銀山城を攻めた際には、管領細川勝元の命を受けて毛利煕元ら安芸国人と共に信繁を支援して大内軍を撃退した(山本合戦)。その後、子の経基に実権を譲渡している。 応仁元年(1467年)の応仁の乱に際しては、東軍の細川方に加わって京都へと出兵し、相国寺周辺での戦闘にも参加した。この京都周辺での戦闘において経基は勇戦奮闘し、その武勇を天下に轟かせた。 文明9年(1477年)正月7日に死去。享年63。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉川之経 · 続きを見る »

吉川経基

吉川 経基(きっかわ つねもと)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・吉川氏11代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉川経基 · 続きを見る »

吉備津彦神社

吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は、岡山県岡山市北区一宮にある神社。備前国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称を「朝日の宮(あさひのみや)」。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉備津彦神社 · 続きを見る »

吉祥寺 (北九州市)

吉祥寺(きちじょうじ)は、福岡県北九州市八幡西区吉祥寺(きっしょうじ)町に所在する浄土宗の寺院。山号は誕生山。院号は聖光院。本尊は阿弥陀如来。開山は浄土宗鎮西派の祖である弁長。 境内に4種類10数本のフジが植えられており、その中のノダフジ3本は樹齢130年に達し、北九州市の保存樹に指定されている。フジの開花シーズン中の毎年4月27日から4月29日にかけて「吉祥寺藤まつり」が開催される。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉祥寺 (北九州市) · 続きを見る »

吉田 (長野市)

吉田(よしだ)は、長野県長野市の市街地北東部の地域名・町名。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉田 (長野市) · 続きを見る »

吉田の火祭

吉田の火祭(よしだのひまつり)文化財指定名称は吉田の火祭であるが、各種書籍等では吉田の火祭りと表記される場合もある。当項目では正式な文化財指定名称である吉田の火祭と表記する。は、山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる祭りである。日本三奇祭のひとつ。北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)である諏訪神社の両社による例大祭で、毎年8月26日の「鎮火祭」と、翌8月27日の「すすき祭り」の2日間にわたって行われる。 火祭りの名の通り、上吉田地区の金鳥居(かなどりい)から北口本宮冨士浅間神社にかけた約1キロにおよぶ本町通りの沿道では、高さ約3メートルの大松明70本から80本余りが燃やされ、各家ごと作られる井桁状に組まれた多数の松明も燃やされる。夕暮れ時、大松明に次々に火が点されると、吉田口登山道に沿った富士山の山小屋でも一斉に松明が焚かれる。麓の町と山は一体となって火祭りを繰り広げ、上吉田の町は火の海と化し深夜まで賑わう。 吉田の火祭は、北口本宮冨士浅間神社、諏訪神社、両社の例大祭としてばかりではない。祭事の背景には富士講や御師といった富士山への民間信仰や、富士五湖地域の風俗習慣、今日もなお神仏習合の姿が見られるなど民俗学的要素も多分に含まれている。2000年(平成12年)12月25日には、国によって記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択され、2012年(平成24年)3月8日には、山梨県内では3件目となる国の重要無形民俗文化財に指定された。文化庁による指定種別は、風俗習慣である。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉田の火祭 · 続きを見る »

吉田家日次記

吉田家日次記(よしだけひなみき)は、室町時代の神祇官人・吉田神社祠官である吉田家当主の手に成る日記の総称。すなわち、吉田兼煕の『兼煕卿記(かねひろきょうき)』、兼敦の『兼敦朝臣記(かねあつあそんき)』、兼致の『兼致朝臣記(かねむねあそんき)』、兼右の『兼右卿記(かねみぎきょうき)』の4日記を指し、狭義には、前二者のみの写本を指す場合もある。現存する吉田家当主の日記はこれらに限らないが、特に天理図書館に所蔵される室町期の日記を指して呼称する。 なお、『兼敦朝臣記』は兼敦が神祇大副に治部卿を兼ねたので治大記、『兼致朝臣記』は兼致が同じく左近衛将監を兼ねたので将大記とも称した。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉田家日次記 · 続きを見る »

吉田兼倶

吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。本姓は卜部氏。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉田兼倶 · 続きを見る »

吉田神社

吉田神社(よしだじんじゃ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉田神社 · 続きを見る »

吉見信頼

吉見 信頼(よしみ のぶより)は、室町時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏8代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉見信頼 · 続きを見る »

吉見頼興

吉見 頼興(よしみ よりおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。大内氏の家臣。石見吉見氏9代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉見頼興 · 続きを見る »

吉良義信

吉良 義信(きら よしのぶ、生没年不詳)は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)5代目当主。幼名は三郎。官位は従四位下、左兵衛佐、治部大輔。子は義元。なお嫡男早世のため家督は嫡孫の義堯に譲った。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉良義信 · 続きを見る »

吉良義真

吉良 義真(きら よしざね、応永29年(1422年)? - 文明13年7月21日(1481年8月16日))は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)4代目当主。西条城主。官位は従四位下左兵衛佐、治部少輔。吉良俊氏の3男。義尚、頼氏の弟。他に本光院に入り禅僧となった弟がいる。妻は細川持賢の娘。子に義信。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉良義真 · 続きを見る »

吉良義藤

吉良 義藤(きら よしふじ)は、室町時代後期の武将。後期東条吉良(下吉良)氏5代当主。三河国東条城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉良義藤 · 続きを見る »

吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と吉良氏 · 続きを見る »

君台観左右帳記

君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)は室町時代、足利義政東山御殿内の装飾に関して、能阿弥や相阿弥が記録したものの伝書。唐絵鑑定、茶陶を中心とした美術工芸史、茶華香道の基礎史料。内容は三部構成。第1部は六朝から元迄の中国画人の品評(上、中、下)と簡解、第2部は書院飾、第3部は「茶湯棚飾」、「抹茶壺図形」、「土物類」、「彫物」の図解。.

新しい!!: 文明 (日本)と君台観左右帳記 · 続きを見る »

坪野神明社

坪野神明社(つぼのしんめいしゃ)は、富山県富山市婦中町速星字坪野飛地991にある神社である。.

新しい!!: 文明 (日本)と坪野神明社 · 続きを見る »

坂之下 (所沢市)

坂之下(さかのした)は、埼玉県所沢市の大字『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1988年7月再版,P1087。郵便番号359-0012。.

新しい!!: 文明 (日本)と坂之下 (所沢市) · 続きを見る »

坂本城 (播磨国)

坂本城(さかもとじょう)は、現在の兵庫県姫路市書写にあった日本の城。南北朝時代に赤松円心によって築かれたとされる。北は圓教寺のある書写山、西は天神山に挟まれた平地にあった。.

新しい!!: 文明 (日本)と坂本城 (播磨国) · 続きを見る »

坂本村 (岐阜県恵那郡)

坂本村(さかもとむら)は、かつて岐阜県恵那郡にあった村である。 旧中山道沿いの村であり、現在の中津川市の西南部、木曽川の南岸に該当する。 村名は、坂本神社に由来する。.

新しい!!: 文明 (日本)と坂本村 (岐阜県恵那郡) · 続きを見る »

報専坊

報専坊(ほうせんぼう)は、広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。江戸中期に慧雲が出て、学僧を育てた。原子爆弾で全壊。境内には被曝したイチョウの樹が残る。.

新しい!!: 文明 (日本)と報専坊 · 続きを見る »

堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と堀越公方 · 続きを見る »

堀越氏

堀越氏(ほりこしし)は、清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる。 また、瀬名氏(せなし)も堀越氏と同じ系統の一族のため本稿で合わせて記述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と堀越氏 · 続きを見る »

堀江景用

堀江 景用(ほりえ かげもち)は、室町時代後期の武将。朝倉氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と堀江景用 · 続きを見る »

塚原氏

塚原氏(つかはらし)は日本人の姓氏。苗字。氏族として幾つかの系譜がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と塚原氏 · 続きを見る »

塩崎氏

塩崎氏(しおざきし)は日本の氏族の一つ。紀伊国潮岬を発祥とする津守系/桓武平氏系が多い。津守系が滅亡後、桓武平氏系が起こった。信濃国塩崎氏は清和源氏小笠原系。その他、藤原系、楠木系とその名を継続している。.

新しい!!: 文明 (日本)と塩崎氏 · 続きを見る »

塩冶掃部介

塩冶 掃部介(えんや かもんのすけ、生年不明 - 文明18年1月1日(1486年2月5日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将。通称は荒法師。出雲国守護代。京極氏の家臣。なお、掃部介とは諱ではく百官名である。 塩冶氏は出雲の国人。文明16年(1484年)、出雲の守護代尼子経久が主君京極政経によって追放された。掃部介は新たな守護代として月山富田城に入城する。 文明18年(1486年)元旦、毎年恒例の万歳が行われた。しかし、浪人となりながら富田城奪回を狙っていた経久の策で、城で毎年芸能を披露する鉢屋衆は経久と密かに手を組んでおり、尼子軍に夜討ちを仕掛けられた。これにより、掃部介は妻子を殺害した後、自害した。富田城脇に彼の墓が残っている。 ただ、掃部介の名は塩冶氏の史料には記載がなく、またそれらの史料にも掃部介に該当する人物は見られないため、近い人物は居たと思われるが、創作の人物と見るのが妥当であると考えられる。.

新しい!!: 文明 (日本)と塩冶掃部介 · 続きを見る »

塩谷孝綱

塩谷 孝綱(しおのや たかつな)は、下野国塩谷郡の戦国武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と塩谷孝綱 · 続きを見る »

塩谷隆綱

塩谷 隆綱(しおのや たかつな)は、下野国塩谷郡の武将。川崎城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と塩谷隆綱 · 続きを見る »

塩谷氏

塩谷氏(しおやし・しおのやし・しおたにし・えんやし 等)は、日本の氏族。氏姓における塩谷の読み方については、一般的には「しおや」だが、下野国塩谷郡を発祥とする塩谷氏が「しおのや」と名乗っているほか、「しおたに」「えんや」と呼称する塩谷氏もある。宇多源氏の塩冶氏(えんやし)とは別である。.

新しい!!: 文明 (日本)と塩谷氏 · 続きを見る »

境根原合戦

right 境根原合戦(さかいねはらかっせん)とは、文明10年12月10日(1479年1月2日)、下総国境根原(現千葉県柏市酒井根)にて行われた合戦。上杉定正の重臣太田道灌が、下総の土豪千葉氏の内紛に絡む形で始まった。.

新しい!!: 文明 (日本)と境根原合戦 · 続きを見る »

境港市

境港市空撮画像 境港市(さかいみなとし)は、中国地方の北部、鳥取県の西部の市。日本海側の重要港湾として栄えてきた街である。 白砂青松の続く弓ヶ浜半島は東南にそびえる大山を背景に風光明媚な景観を呈しており、「日本の白砂青松100選」や「日本の渚100選」に選ばれている。 日本の著名な漫画家の水木しげるの出身地でもあり、代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターの銅像がならぶ水木しげるロード、市が発行する住民票の写しの透かしに『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターが使われていること、米子駅と境港駅を結ぶ境線に「鬼太郎列車」が運転されていることでも有名である。 境港市は鳥取県内で最も人口が少ない市であるが中国地方で最も面積が狭く、人口密度は山陰地方最多である。.

新しい!!: 文明 (日本)と境港市 · 続きを見る »

壬生城

壬生城(みぶじょう)は、栃木県下都賀郡壬生町にあった日本の城。江戸時代には下野国都賀郡、壬生藩の藩庁が置かれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と壬生城 · 続きを見る »

壬生家

壬生家(みぶけ)とは、.

新しい!!: 文明 (日本)と壬生家 · 続きを見る »

壬生綱房

壬生 綱房(みぶ つなふさ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。下野宇都宮氏の家臣。壬生氏3代当主。権謀術数を駆使して芳賀高経等の重臣を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有した。晩年には下克上を果たし宇都宮氏から独立する。.

新しい!!: 文明 (日本)と壬生綱房 · 続きを見る »

多功長朝

多功 長朝(たこう ながとも、文明17年(1485年) - 永禄元年(1558年))は、戦国時代の武将。下野国の大名、宇都宮氏の家臣。多功城城主。多功氏は宇都宮氏の庶流である。多くの合戦に出陣し、活躍しており、宇都宮家中一の侍大将といわれている。父は多功建昌。子に多功房朝(房興)、多功綱継がいる。 多功氏は代々、宇都宮氏の重臣として多功城に拠り、数多くの合戦に出陣しており、宇都宮氏の有力武士団紀清両党、大須賀党と並び、宇都宮氏の武を支えた。 天文18年(1549年)那須高資との喜連川五月女坂の戦いでは宇都宮軍の先陣として奮戦し、大功を挙げたが、宇都宮尚綱の討死によって敗北している。 弘治3年(1557年)、宇都宮氏の忠臣芳賀高定の活躍によって壬生氏の壬生綱雄から宇都宮城を奪還して間もなく、永禄元年(1558年)に上杉謙信が会津の蘆名盛氏らと連合して上野国から下野国に侵攻してきた。小山氏の祇園城、壬生氏の壬生城を攻略され、多功城を攻撃した際には、これを撃退している。子の多功房朝、家臣の児山兼朝、簗朝光・吉朝父子、石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などが多功氏側の主な将だったという。先陣の佐野豊綱を討ち取るなど数多くの武将を討ち取る活躍を見せている。さらには敗走する上杉軍を追って上野国上州白井まで追いかけて追撃したが、太田資正の仲介によって和睦となった(多功ヶ原の合戦)。.

新しい!!: 文明 (日本)と多功長朝 · 続きを見る »

多宝院 (下妻市)

多宝院(たほういん)は、茨城県下妻市下妻にある曹洞宗寺院。一般的に院号の多宝院(多寶院)で知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と多宝院 (下妻市) · 続きを見る »

多宝院 (能代市)

多宝院(たほういん)は、秋田県能代市檜山字小間木にある曹洞宗寺院。地元ではシダレザクラの名所としても知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と多宝院 (能代市) · 続きを見る »

多和神社

多和神社(たわじんじゃ)は、香川県さぬき市志度にある神社。式内社で、讃岐国三宮と伝える。旧社格は郷社。.

新しい!!: 文明 (日本)と多和神社 · 続きを見る »

多紀連山

冠雪の西ヶ嶽(727m) 多紀連山(たきれんざん)は、京都府から篠山市、丹波市にかけて高い岸壁状に連なる500m~700mの山々の総称で、旧多紀郡にちなみ多紀アルプスとも呼ばれる。主峰は御嶽(793m)で西ヶ嶽(727m)、小金ヶ嶽(725m)の3つの峰が中心となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と多紀連山 · 続きを見る »

多田荘

多田荘(ただのしょう)は、摂津国川辺郡北部(現在の兵庫県川西市全域及び宝塚市北部、三田市東部、猪名川町の一部にあたる地域)に存在した荘園。摂関家(近衛家)領。初期清和源氏の拠点となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と多田荘 · 続きを見る »

多聞院日記

『多聞院日記』(たもんいんにっき)は奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である。.

新しい!!: 文明 (日本)と多聞院日記 · 続きを見る »

多賀宗直

多賀 宗直(たが むねなお、生年不詳 - 長享元年5月1日(1487年6月1日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。多賀清直の子。通称は兵衛四郎。号は大成。京極氏の家臣多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。諱の「宗」の字は(後述の和睦時に)京極材宗から偏諱(一字)を賜ったものと思われる。 京極氏のお家騒動(京極騒乱)では父と共に京極乙童子丸(後の高清)を擁立して乙童子丸の叔父京極政経(材宗の父)及び多賀高忠と衝突を繰り返し、父が文明11年(1479年)に亡くなった後も抵抗を続けたが、文明13年(1481年)に室町幕府の仲介で高忠と和睦、高清の補佐として事実上北近江の実権を握った。文明17年(1485年)に出家、大成と号した。 文明18年(1486年)8月、京極政経・材宗父子が出雲から上洛すると政経父子と結んで高清に反乱を起こし、高清を甲賀郡三雲に追放したが、10月に高清の反撃に遭い美濃へ逃亡、翌長享元年(1487年)に北近江に戻ったが、5月1日に国友河原で敗北、浅井郡月ヶ瀬の城館に逃れたが包囲され自殺した。 宗直の自殺で多賀出雲守家は断絶、高忠の豊後守家が存続した。.

新しい!!: 文明 (日本)と多賀宗直 · 続きを見る »

多賀高忠

多賀 高忠(たが たかただ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。京極高数の子。多賀氏の一派・多賀豊後守家当主で近江京極氏の重臣。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。 通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本(むねもと)。号は大源(たいげん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と多賀高忠 · 続きを見る »

多賀郷

多賀郷(たがごう、たがのごう)は、日本の陸奥国宮城郡にあった郷で、現在の宮城県多賀城市を中心とする。離れた二つの時代にあり、奈良時代から平安時代の多賀郷は、宮城郡を構成する10郷の一つ。戦国時代の多賀郷は、当時の小大名留守氏の支配域にかかる宮城郡北東部を指し、またそのうち中心的な町であった洞ノ口(現在の仙台市宮城野区岩切洞ノ口)をも指した。.

新しい!!: 文明 (日本)と多賀郷 · 続きを見る »

多賀氏

多賀氏(たがし)は、日本の氏族のひとつ。現在の滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社の社家で、後に武家に転向した。.

新しい!!: 文明 (日本)と多賀氏 · 続きを見る »

多賀清直

多賀 清直(たが きよなお)は、室町時代の武将。多賀高直(たかなお、昌宗入道)の子。京極氏の家臣多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。 応仁の乱の最中の文明2年(1470年)に持清が没し、持清の嫡孫孫童子丸を擁立した孫童子丸の叔父京極政経と義弟の多賀高忠に反発、政経の兄政光と共に孫童子丸の庶兄乙童子丸(後の高清)を擁立して西軍に寝返り、六角高頼・斎藤妙椿らと組んで政経・高忠と交戦した(京極騒乱)。一時は高忠の前に苦戦を強いられるが、文明4年(1472年)9月に六角高頼・斎藤妙椿らの加勢で高忠を破った。 文明7年(1475年)に出雲国人を率いた高忠が反撃したが、11月に土岐成頼・斯波義廉の援軍で勝利、北近江の領有を確実とした。文明4年に政光が亡くなってからは子の宗直と共に文明11年(1479年)に死去するまで乙童子丸の補佐と北近江の統治を行った。.

新しい!!: 文明 (日本)と多賀清直 · 続きを見る »

多気城 (下野国)

多気城(たげじょう)は、現在の栃木県宇都宮市田下町にあった中世の日本の城(山城)である。宇都宮氏の城だった。別名は多気山城塙静雄『とちぎの社寺散歩』(下野新聞社)。.

新しい!!: 文明 (日本)と多気城 (下野国) · 続きを見る »

大原荘

大原荘(おおはらのしょう)は、甲斐国(山梨県)の荘園。富士北麓の河口湖南岸(富士河口湖町)に所在。.

新しい!!: 文明 (日本)と大原荘 · 続きを見る »

大友義右

大友 義右(おおとも よしすけ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国の大友氏の17代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と大友義右 · 続きを見る »

大友義長

大友 義長(おおとも よしなが)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国の大友氏19代当主。初名は親匡(ちかただ/ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)。.

新しい!!: 文明 (日本)と大友義長 · 続きを見る »

大友親繁

大友 親繁(おおとも ちかしげ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。大友氏の15代当主。豊後・筑後守護。11代当主・大友親著の四男。初名は親重(ちかしげ)、のち親職(ちかもと)。その後に親繁に改名するがその時期などは不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と大友親繁 · 続きを見る »

大友親隆

大友 親隆(おおとも ちかたか)は、室町時代中期の武将・守護大名。大友氏の14代当主。10代当主大友親世の三男。.

新しい!!: 文明 (日本)と大友親隆 · 続きを見る »

大友政親

大友 政親(おおとも まさちか)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国大友氏の16代当主。15代当主・大友親繁の長男。.

新しい!!: 文明 (日本)と大友政親 · 続きを見る »

大宝寺政氏

大宝寺 政氏(だいほうじ まさうじ)は、室町時代後期の武士。大宝寺氏12代当主。羽黒山別当。武藤政氏とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と大宝寺政氏 · 続きを見る »

大宮長興

大宮 長興(おおみや ながおき、応永19年(1412年)-明応8年10月24日(1499年11月26日))は、室町時代後期の官人。小槻氏系大宮官務家当主。左大史・大宮為緒の子。初名は時繁。号は喜弥軒、後に文決軒。法号は寿官。官位は正四位上・治部卿。.

新しい!!: 文明 (日本)と大宮長興 · 続きを見る »

大宰権帥

大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と大宰権帥 · 続きを見る »

大寧寺の変

大寧寺の変(たいねいじのへん)とは、天文20年8月28日 - 9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と大寧寺の変 · 続きを見る »

大山崎油座

大山崎油座(おおやまざき あぶらざ)は、日本の鎌倉時代前期頃から戦国時代末期にかけて、京都の南西にある大山崎郷一帯(現在の京都府乙訓郡大山崎町および大阪府三島郡島本町)を本拠に、荏胡麻から作製した油を広範囲に渡って独占販売した特権商人から構成された座である。座の構成員は主として離宮八幡宮の神人であり、石清水八幡宮内殿への灯油貢納を本務とした。幕府や朝廷の庇護を受け、原料の仕入れから製油・販売に至るまで独占的な特権を得て、塩や染料・麹など油以外の商品も扱った。その販売対象地域は畿内を中心に広範囲に及び、筑前国博多筥崎宮の油座や大和国符坂油座などをしのぐ、中世日本最大規模の油座であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と大山崎油座 · 続きを見る »

大山白山神社

大山白山神社(おおやまはくさんじんじゃ)は、岐阜県加茂郡白川町にある神社。白山(標高862m)の山頂にある。 旧社格は県社。延喜式神名帳の美濃国賀茂郡大山神社という説がある。 現在の社殿は寛政年間以降の再建である。.

新しい!!: 文明 (日本)と大山白山神社 · 続きを見る »

大崎上島

周辺 2006年国土航空写真 大崎上島(おおさきかみじま)は、瀬戸内海芸予諸島の島。広島県豊田郡大崎上島町に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と大崎上島 · 続きを見る »

大崎持兼

大崎 持兼(おおさき もちかね)は、室町時代の守護大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と大崎持兼 · 続きを見る »

大崎教兼

大崎 教兼(おおさき のりかね)は、室町時代の守護大名。奥州探題。大崎氏の第7代当主。父持詮と同じく、教兼についても諸説紛糾しているが、以下、通説に従う。.

新しい!!: 文明 (日本)と大崎教兼 · 続きを見る »

大広寺

大広寺(たいこうじ)は大阪府池田市綾羽にある曹洞宗の仏教寺院。山号は塩増山。本尊は釈迦如来。代々池田城主の地方豪族池田氏の墓があるなど、古より池田氏との関係は密接である。牡丹の名所。.

新しい!!: 文明 (日本)と大広寺 · 続きを見る »

大井城

大井城(おおいじょう)は、長野県佐久市岩村田にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井城 · 続きを見る »

大井城 (美濃国)

大井城(おおいじょう)は岐阜県恵那市大井町にあった(日本の城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井城 (美濃国) · 続きを見る »

大井安房丸

大井 安房丸(おおい あわまる)は、室町時代から戦国時代の武将。信濃佐久郡十代大井城主。大井政朝の弟。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井安房丸 · 続きを見る »

大井信定

大井 信定(おおい のぶさだ)は、戦国時代の武将。信濃国小県郡和田城主。大井信広の次男。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井信定 · 続きを見る »

大井光照

大井 光照(おおい みつてる)は、室町時代から戦国時代の武将。信濃佐久郡大井城主。大井持光の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井光照 · 続きを見る »

大井玄慶

大井 玄慶(おおい はるよし)は、室町時代から戦国時代の武将。信濃佐久郡十一代大井城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井玄慶 · 続きを見る »

大井町 (岐阜県)

大井町(おおいちょう)は、かつて岐阜県恵那郡にあった町である。 中山道大井宿を中心にした町であり、現在の恵那市の中心地を構成する町の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井町 (岐阜県) · 続きを見る »

大井行俊

大井 行俊(おおい ゆきとし)は、室町時代-戦国時代の武将、信濃国佐久郡、長土呂大井氏、岩尾大井氏祖。大井行春の嫡子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井行俊 · 続きを見る »

大井行真

大井 行真(おおい ゆきまさ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、三代岩尾城主。大井行満の嫡子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井行真 · 続きを見る »

大井行満

大井 行満(おおい ゆきみつ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、二代岩尾城主。大井行俊の嫡子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井行満 · 続きを見る »

大井氏

大井氏(おおいし).

新しい!!: 文明 (日本)と大井氏 · 続きを見る »

大井政光

大井 政光(おおい まさみつ)は、室町時代から戦国時代の武将。信濃佐久郡大井城主。大井持光の嫡子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井政光 · 続きを見る »

大井政朝

大井 政朝(おおい まさとも)は、室町時代から戦国時代の武将。信濃佐久郡大井城主。大井政光の嫡子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大井政朝 · 続きを見る »

大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

新しい!!: 文明 (日本)と大内義興 · 続きを見る »

大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と大内氏 · 続きを見る »

大内政弘

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。.

新しい!!: 文明 (日本)と大内政弘 · 続きを見る »

大内教幸

大内 教幸(おおうち のりゆき、生没年不詳)は、室町時代の武将。弟・教弘と同じく6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教幸と名乗る。法名は道頓(どうとん)。応仁の乱の最中に主君政弘に対して反乱を起こした。.

新しい!!: 文明 (日本)と大内教幸 · 続きを見る »

大光寺町 (青森県)

大光寺町(だいこうじまち)は、かつて青森県南津軽郡にあった自治体。 1889年(明治22年)の町村制に基づき大光寺村として成立、1943年(昭和18年)に大光寺町となった。1955年(昭和30年)に周辺町村との合併により平賀町(大字)大光寺となり、さらに平賀町が2006年(平成18年)に合併して平川市となり、平川市大光寺となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と大光寺町 (青森県) · 続きを見る »

大矢知氏

大矢知氏(おおやちし)は、日本の稀少苗字。三重県四日市市大矢知地区をルーツとする。北勢四十八家の1つで大矢知城主。守護被官の一人。伊勢国朝明郡大矢知村が起源(ルーツ)である。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏で(清和源氏)の南部氏族。三重県四日市市に多数存在する名字である。.

新しい!!: 文明 (日本)と大矢知氏 · 続きを見る »

大石定重

大石 定重(おおいし さだしげ)は、戦国時代の武将。武蔵国守護代。山内上杉家の家臣。大石氏遠江守家5代目当主。高月城のち滝山城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と大石定重 · 続きを見る »

大炊御門信子

大炊御門 信子(おおいのみかど のぶこ、応永18年(1411年) - 長享2年4月28日(1488年6月8日))は、後花園天皇の下臈。女院号は嘉楽門院(からくもんいん)。右馬助藤原孝長女で大炊御門信宗の猶子。子に後土御門天皇・観心女王。 初め、非参議和気郷成の猶子となり、郷子と呼ばれる。その後、和気保家(郷成の子)の猶子となる。後花園天皇の寵愛を受けて宮中に召され、大炊御門信宗の猶子となって宮中に上がり「伊与」と号した。嘉吉2年(1441年)に儲君成仁親王(後土御門天皇)を生んだことから、准后とされ居住していた正親町東洞院殿より「東洞院殿」と呼ばれた。後土御門天皇即位後、女院とする話がたびたび上がるが実父の身分の低さが障害となり実現しなかった。文明13年(1481年)に重篤に陥ったことから急遽、7月26日になって嘉楽門院の称号が授けられたが、程なく快方に向かった。ただし、その後も『御湯殿上日記』などには「東洞院殿」という称号は登場しても「女院」の敬称はほとんど用いられていない。78歳で没した。 なお、実父の右馬助藤原孝長を『尊卑分脈』でたどると以下の通り。.

新しい!!: 文明 (日本)と大炊御門信子 · 続きを見る »

大炊御門信宗

大炊御門 信宗(おおいのみかど のぶむね)は、室町時代の公卿。 応永25年(1418年)1月従三位となり、公卿に列する。応永26年(1419年)3月陸奥権守を兼任。応永28年(1421年)正三位権中納言、応永32年(1425年)従二位権大納言に叙任される。永享元年(1429年)右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享4年(1432年)1月正二位に昇り、8月内大臣に任じられたが、11月左大将を辞任し、翌年(1433年)10月内大臣を辞任した。嘉吉2年(1442年)1月従一位に昇叙。享徳2年(1453年)に出家したが、その後の消息は明らかでない。 後土御門天皇の養外祖父であることから、文明12年(1480年)1月26日に太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという。 のふむね Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1391年生 Category:1468年没.

新しい!!: 文明 (日本)と大炊御門信宗 · 続きを見る »

大炊御門信量

大炊御門 信量(おおいのみかど のぶかず、嘉吉2年(1442年) - 長享元年8月4日(1487年8月22日))は、室町時代の公卿。後花園天皇(102代)と後土御門天皇(103代)の二帝に仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。実父は右大臣三条実量、養父は内大臣大炊御門信宗。妻は正親町持季の娘。子は右大臣大炊御門経名。 長禄元年(1457年)に従三位となり、公卿に列する。以降累進して、権中納言・権大納言・右近衛大将・左近衛大将を経て、文明11年(1479年)に内大臣となる。翌年従一位となり、左近衛大将を辞した。文明15年(1483年)に右大臣に任じられた。 Category:室町・安土桃山時代の公家 のふかす Category:三条家 Category:1442年生 Category:1487年没.

新しい!!: 文明 (日本)と大炊御門信量 · 続きを見る »

大炊御門経名

大炊御門 経名(おおいのみかど つねな、文明12年(1480年) - 天文22年3月24日(1553年5月6日))は、室町時代後期の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣に昇った。父は右大臣大炊御門信量。母は権大納言正親町持季の娘。 文明16年(1484年)叙爵。その後、左近衛少将・左近衛中将・権中納言を経て、永正7年(1510年)には権大納言となった。この職にある際の永正8年(1511年)加賀国へ下向している。おそらく他の公卿と同様に経済的理由によると思われる。永正12年(1515年)に帰洛。右近衛大将に任じられて再び朝廷政務に復帰した。永正15年(1518年)内大臣に任じられる。さらに大永元年(1521年)には右大臣に昇格した。翌年に従一位を授与された。大永3年(1523年)に右大臣を辞する。天文11年(1542年)出家し、自性院と号した。天文22年(1553年)に薨去、嗣子がいないために大炊御門家は一時断絶となるが、その後、中山孝親の子の経頼が相続した。.

新しい!!: 文明 (日本)と大炊御門経名 · 続きを見る »

大田原資清

大田原 資清(おおたわら すけきよ)は、戦国時代の武将。那須氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と大田原資清 · 続きを見る »

大隅石井氏

大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)は、桓武平氏三浦氏の一族。相模から大隅に下向し、鎌倉時代末期・南北朝時代・室町時代・戦国時代に活躍した武士で島津氏の重臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と大隅石井氏 · 続きを見る »

大草松平家

大草松平家(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。 宗家に対抗的で、3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に松平清康に叛したが敗れ、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は一時追放されたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康に忠を尽くして旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。.

新しい!!: 文明 (日本)と大草松平家 · 続きを見る »

大菴須益

大菴 須益(だいあん しゅえき)は、室町時代の僧。大寧寺六世住職、龍文寺四世、瑠璃光寺開山、安楽寺(和歌山)開山、長谷寺 (島根)開山、明窓寺 (島根)開山、豊龍寺 (山口)開山、鳳台寺二世。.

新しい!!: 文明 (日本)と大菴須益 · 続きを見る »

大館城 (陸奥国)

大館城(おおだてじょう)あるいは大館は、福島県いわき市の内郷御台境町・好間町下好間・平にかけて存在した戦国時代の城。当時は平城(たいらじょう)や平大館のように呼ばれたと想定される。 1980年代末ごろから、江戸時代の磐城平城(いわきたいらじょう)と区別・対比するため、飯野平城(いいのたいらじょう)の名称が大館のほかに使われるようになる。.

新しい!!: 文明 (日本)と大館城 (陸奥国) · 続きを見る »

大胡城

大胡城(おおごじょう)は、群馬県前橋市河原浜町にあった中世の日本の城(平山城跡)で、大胡氏・上泉氏の居城であった。後に近世初頭に徳川氏の臣・牧野氏が入り城主になった。 天文年間(1532年 - 1555年)に築城されたとされ、元和2年(1616年)廃城となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と大胡城 · 続きを見る »

大胡氏

大胡氏(おおごし)は、鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。上州八家の一つ。藤原秀郷の子孫で、藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別系統)の庶流にあたる。足利成行の庶子重俊が大胡太郎を称したのに始まる。.

新しい!!: 文明 (日本)と大胡氏 · 続きを見る »

大舘尚氏

大舘 尚氏(おおだち ひさうじ)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。大舘教氏(のりうじ、「教」字は足利義教の偏諱)の子。叔母に大舘佐子。初名は重信(しげのぶ)、のち尚氏に改名。また、法名の常興(じょうこう)でも知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と大舘尚氏 · 続きを見る »

大舘持房

大舘 持房(おおだち もちふさ)は、室町時代中期の武将。室町幕府の幕臣。大舘満信(みつのぶ、義冬の子)の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と大舘持房 · 続きを見る »

大通寺 (南九州市)

大通寺(だいつうじ)は、鹿児島県南九州市にかつて存在していた臨済宗の寺。.

新しい!!: 文明 (日本)と大通寺 (南九州市) · 続きを見る »

大虫神社 (与謝野町)

大虫神社(おおむしじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町温江(あつえ)に鎮座する神社。式内社(名神大社)で、社格は旧府社。鎮座地は野田川の中流域で加悦谷(かやだに)と称される地の東方台地上、大江山連峰の西山裾に位置する。加悦谷には国の史跡に指定されている蛭子山古墳や作山古墳などの古墳や遺跡が密集し、古代丹後地方における最先進地帯であったと見られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と大虫神社 (与謝野町) · 続きを見る »

大林宗套

大林 宗套(だいりん そうとう、文明12年(1480年)- 永禄11年1月27日(1568年2月24日))は、日本の臨済宗の僧、茶人。大徳寺90世。京都出身。 後奈良天皇から仏印円証禅師、正親町天皇から正覚普通国師を授かる。 三好長慶の依頼により、堺に三好氏の菩提寺として南宗寺を開山。武野紹鴎が嗣法したほか、三好一門をはじめ、北向道陳、阿佐井野宗瑞、千利休、津田宗及など、堺衆を多数教化。 Category:茶人 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:1480年生 Category:1568年没.

新しい!!: 文明 (日本)と大林宗套 · 続きを見る »

大恩寺 (豊川市)

大恩寺(だいおんじ)は、愛知県豊川市御津町御津山山麓にある浄土宗の寺院。山号は御津山。院号は浄土真院。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と大恩寺 (豊川市) · 続きを見る »

大村純前

大村 純前(おおむら すみさき、生年不詳 - 天文20年6月15日(1551年7月18日))は、戦国時代の武将。肥前の大名大村氏の当主。大村純伊の子。妻は有馬尚鑑娘。後藤貴明の父。大村純忠の養父。丹後守。今富城城主。 兄に大村良純がいたが、病弱であったため、純前が当主となった。純前以前の大村氏の事跡は不確定な部分が多く、父の純伊にまつわる伝承は豊富であるが、その真偽ははっきりしない。その伝承によると、父の純伊は有馬貴純のために一時領国を追われたが、まもなく奪回し大村氏を中興したという。 純前の時代の肥前は、有馬氏の有馬晴純の勢力がさかんであった。大村氏と有馬氏とは縁戚関係にあり、純前は男子がなかったために有馬氏より純忠を養子に迎えたが、その後側室との間に実子の又八郎が誕生した。純前は有馬氏をはばかりこれを後藤氏へ養子に出すことになる。天文19年(1550年)、家督を純忠へ譲った。翌1551年死去。 すみさき category:戦国武将 category:戦国大名 Category:肥前国の人物 Category:1551年没.

新しい!!: 文明 (日本)と大村純前 · 続きを見る »

大村氏

大村氏(おおむらし)は、日本の氏族のひとつ。戦国時代の戦国大名。江戸時代の肥前大村藩主。.

新しい!!: 文明 (日本)と大村氏 · 続きを見る »

大條氏

大條氏(おおえだ)氏は、陸奥国の大名・伊達氏の庶流。もとは大枝と表記した。.

新しい!!: 文明 (日本)と大條氏 · 続きを見る »

大森実頼

大森 実頼(おおもりさねより、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。大森氏当主。相模小田原城城主。 堀越公方足利政知と渋川義鏡の讒言によって室町幕府8代将軍足利義政から父・氏頼や三浦時高・千葉実胤と共に謀叛の疑いを受ける。これに憤って寛正5年(1464年)5月に隠退してしまうが、太田道灌の奔走と義政の慰留で復帰した。以後、道灌に従って長尾景春・豊島泰経・千葉孝胤らと戦うが、若くして没した。 没日については、文明15年(1483年)7月16日説と文明18年(1486年)10月19日説とがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と大森実頼 · 続きを見る »

大森氏

大森氏(おおもりし)は、日本の氏族の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と大森氏 · 続きを見る »

大森氏頼

大森 氏頼(おおもり うじより、生年不詳 - 明応3年8月26日(1494年9月25日))は、室町時代から戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。大森氏当主。相模国小田原城城主、後に岩原城城主。 生年は不明であるが、父頼春が応永29年(1422年)に出家したとされているため、それ以前の誕生であると考えられる。初め兄の憲頼らと同じく鎌倉公方・足利持氏に仕え、永享の乱では持氏方として活躍した。 持氏敗死後も、大森氏は没落することなく勢力を維持した。しかし、享徳の乱以降は子の実頼と共に上杉方に属して活躍しており、足利義政に年来の忠節を称賛されている。一方で上洛を再三促されるなど、鎌倉公方との関係が深い大森氏と幕府との関係は不安定で、また兄憲頼とその子成頼は古河公方足利成氏方として活躍していたとされ、大森氏は兄弟で分裂していたと思われる。 太田道灌の助力により、寛正5年(1464年)に道灌に従って上洛して義政の赦免を受け、文明10年(1478年)5月には相模国平塚城に籠った大森伊豆守(成頼とされる)を攻略。伊豆守が箱根山中に逃亡したことにより大森氏の再統一と大森氏当主の地位を手に入れた。小田原城入城もこの頃と考えられ、以後、上杉定正に仕え、太田道灌と共に定正を支える扇ヶ谷上杉家の重臣として活躍した。 小田原入城後は、その拠点化に努め、嘉吉元年(1441年)に早川に海蔵寺、文安2年(1445年)に久野に総世寺を建立し、大窪に津田織部忠正を招聘するなど、城下に町場や職能集団を形成するように努め、相模国西部の支配を確立させた。鎌倉の名僧玉隠とも交流があり、延徳元年(1489年)に箱根湯本に湯治に来た際には親しく交友し、玉隠は漢詩を詠んでいる。 太田道灌が暗殺された後に氏頼は第一の重臣として家中において重きをなし、長享の乱における実蒔原の戦い、菅谷原の戦い、高見原の戦いではいずれも「大森寄栖庵入道」として長尾景春らと並ぶ活躍が伝えられている。一方で古河公方・足利成氏と和議を結びながらすぐにこれを破棄するなど定正の政治手法は家臣の離反を招くようになる。氏頼は扇谷上杉家の今後に不安を抱き、「大森教訓状」と呼ばれる諫言状を定正に送ったとされている。 法華経に通じ、法名に「日昇」と入るなど日蓮宗との接点があるが、曹洞宗寺院を建立して手厚く保護し、箱根神社を中心とした古義真言宗、浄居寺を中心とした臨済宗とも関係を深めるなど宗教面において高い識見を有し、また領地経営に生かした。後に嫡男の実頼に小田原城を譲って自身は『寄栖庵』を名乗って岩原城を守った。 明応3年(1494年)死去。実頼には先立たれていたので家督は次男の藤頼が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と大森氏頼 · 続きを見る »

大樹寺

大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)は、愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。 徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。.

新しい!!: 文明 (日本)と大樹寺 · 続きを見る »

大水神社

大水神社(おおみずじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社。本項目では、大水神社と同座する、内宮末社の川相神社(かわあいじんじゃ)および熊淵神社(くまぶちじんじゃ)についても記述する。 3社とも倭姫命が定めた神社であるといい、大水神社は山の神を、川相神社・熊淵神社は水の神を祀る。.

新しい!!: 文明 (日本)と大水神社 · 続きを見る »

大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

新しい!!: 文明 (日本)と大永 · 続きを見る »

大永の内訌 (下野宇都宮氏)

大永の内訌(だいえいのないこう)は、戦国時代初期の大永年間に起こった下野宇都宮氏18代当主の宇都宮忠綱と芳賀高経ら芳賀氏を中心とした家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌である。.

新しい!!: 文明 (日本)と大永の内訌 (下野宇都宮氏) · 続きを見る »

大津城 (三河国)

大津城(おおつじょう)とは、戦国時代、愛知県豊橋市老津町にあった日本の城である。高縄城(たかなわじょう)とも言う。現在の地名に合わせて「老津城」という表記もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と大津城 (三河国) · 続きを見る »

大浦盛信

大浦 盛信(おおうら もりのぶ、文明15年(1483年) - 天文7年9月26日(1538年10月18日))は、戦国時代の武将。光信の子とされている。 1502年に父の光信の命で、新しく築城された大浦城に入る。1526年に父が死去すると、1528年には菩提を弔うために、西津軽郡に長勝寺を建立している。 子がいなかったため(森岡為治の父?)、甥(光信の実子とも)の政信を養子とし跡継ぎに定めた。.

新しい!!: 文明 (日本)と大浦盛信 · 続きを見る »

大日房能忍

大日房 能忍(だいにちぼう のうにん、生没年不詳)は、筑前博多(現在の福岡県福岡市)出身の日本の平安時代末から鎌倉時代初期の禅宗僧侶。日本達磨宗の開祖。 能忍に関する明確な記録はとぼしく、その行跡には謎や異説が多い。出自も未詳であるが、一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。没後、深法禅師と諡号されたともいう。.

新しい!!: 文明 (日本)と大日房能忍 · 続きを見る »

天孫神社

天孫神社(てんそんじんじゃ)は、滋賀県大津市にある神社。社格は旧県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と天孫神社 · 続きを見る »

天室光育

天室光育(てんしつこういく、文明2年(1470年) - 永禄6年6月23日(1563年7月13日))は、戦国時代の越後の曹洞宗の僧侶。林泉寺六代住職。 上杉謙信の師。天文13年(1534年)、柿崎景家に乞われ柿崎浜(現在の新潟県上越市柿崎区)に楞厳寺を開く。 永禄6年(1563年)に病没(享年93)。.

新しい!!: 文明 (日本)と天室光育 · 続きを見る »

天寧寺 (彦根市)

天寧寺(てんねいじ)は、滋賀県彦根市にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。 井伊家ゆかりの寺院の一つで、19世紀前半(文政・天保年間)に作られた五百羅漢像や井伊直弼供養塔などで知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と天寧寺 (彦根市) · 続きを見る »

天嶽院

天嶽院(てんがくいん)は神奈川県藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は功徳山。.

新しい!!: 文明 (日本)と天嶽院 · 続きを見る »

天与清啓

天与 清啓(てんよ せいけい、生没年不詳)は、室町時代の禅僧。建仁寺191世。遣明使として二度渡明。とくに二度目は遣明正史として画僧雪舟らを引き連れ明に渡った。法諱は清啓、道号は天与。別号に海樵老人、万里叟など。著作に『万里集』がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と天与清啓 · 続きを見る »

天翁院

天翁院(てんのういん)は、栃木県小山市にある曹洞宗の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と天翁院 · 続きを見る »

天野興定

天野 興定(あまの おきさだ)は、戦国時代の武将。大内氏、尼子氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と天野興定 · 続きを見る »

天沢寺

天沢寺(てんたくじ)は、山梨県甲斐市亀沢に所在する寺院。曹洞宗寺院で山号は巨鼇山(きょこうさん)、本尊は釈迦如来。天澤寺とも表記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と天沢寺 · 続きを見る »

天文本源氏物語系図

天文本源氏物語系図(てんぶんぼんげんじものがたりけいず)とは、源氏物語系図の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と天文本源氏物語系図 · 続きを見る »

太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と太宰府天満宮 · 続きを見る »

太田城 (紀伊国)

太田城(おおたじょう)は、戦国時代に和歌山県和歌山市太田に存在した日本の城。来迎寺は太田城の本丸跡と伝えられる場所である。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田城 (紀伊国) · 続きを見る »

太田道灌

太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。 以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田道灌 · 続きを見る »

太田道灌状

太田道灌状(おおたどうかん じょう)とは、戦国時代の日本の書状の一つ。文明12年?10月27日?/11月28日?(ユリウス暦1480年?11月28日?/?12月29日?)に扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が山内上杉氏の家臣・高瀬民部少輔に提出した。國學院大學図書館所蔵。 内容は長尾景春の乱(享徳の乱の後半)における道灌自身の活躍ぶりについて39か条にわたって記されたものである。そこにはまた道灌の功績を正当に評価しない主家に対する道灌の不満やいら立ちがこめられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田道灌状 · 続きを見る »

太田資康

太田 資康(おおた すけやす)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。武蔵国江戸城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田資康 · 続きを見る »

太田資忠

太田 資忠(おおた すけただ、生年未詳 - 文明11年(1479年))は室町時代後期の武将。太田資清の子で太田道灌の弟、または道灌の甥とも。図書助。子に資雄。資家も資忠の子とする説もある。 文明3年(1471年)に古河公方方にあった唐沢山城・館林城を攻略して、将軍足利義政から褒賞される。文明9年(1477年)に長尾景春の乱の時に武蔵川越城にで景春軍と一戦交える。 文明11年(1479年)に道灌に仕え、千葉自胤とともに臼井城の千葉孝胤を攻める際に国府台城を築城する。同年7月15日に臼井城攻めから一旦兵を退こうとした虚を衝かれ、激しい戦闘となり討ち死にしたが、結果的に臼井城は陥落した(1月18日に没したとする説もある)。臼井城跡に墓所がある。 なお、黒田基樹は道灌の弟である図書助資忠とその息子(道灌の甥)である資雄の事績の混同を指摘して、道灌の養子になったのは太田資武の家伝に記された図書助(資忠)ではなく、図書助の子である資雄であるとしている。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田資忠 · 続きを見る »

太田資頼

太田 資頼(おおた すけより、文明16年(1484年) - 天文5年4月20日(1536年5月10日))は、戦国時代の武将。彦六。美濃守。知楽斎道可と号する。太田資家の子。子に太田資顕、太田資正、娘(三戸景道正室)、娘(太田源六室)らがいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田資頼 · 続きを見る »

太田資雄

太田 資雄(おおた すけかつ、生年未詳 - 文明11年(1479年))は、室町時代後期の武将。太田資忠の子。太田道灌の甥でその養子となる。源五郎。永正・大永年間に江戸・岩付両太田家と別に一家を形成して太田氏の嫡流を継いだ太田永厳は、資雄の子もしくは養子と推定される。 文明6年(1477年)に道灌が江戸城で開いた歌合において、父・資忠とともにその名前が見られる。 太田資武が記した家伝(「太田資武状」)によれば、道灌は初め甥の図書助を養子に迎えたが、臼井城の千葉孝胤を攻めた際に討死したために別の養子(義芳永賢)を迎えたとされている。しかし、図書助が道灌の実弟である資忠を指すこと、道灌と資正(源五郎・資家の孫で資武の父)との間に「源五郎」を称する人物が2代続いたことを示唆する系図(「源姓太田氏系図」)があることから、図書助本人ではなく道灌から見れば甥にあたる(図書助の家の)資雄が道灌の養子となり、臼井城で実父とともに討ち死にしたために事績が混同されたと考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田資雄 · 続きを見る »

太田資清

太田 資清(おおた すけきよ)は、室町時代中期から戦国時代前期の武将。相模守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の一門太田氏出身。長尾景仲とともに「関東不双の案者(知恵者)」と称された。父は太田資房。正室は長尾景仲の娘。子に資長(道灌)、資忠など。法号は道真(どうしん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と太田資清 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 文明 (日本)と太政大臣 · 続きを見る »

夷千島王遐叉

夷千島王 遐叉(えぞちしまおう かしゃ 又は えぞがちしまおう かひ、えぞがちしまおう カユーとも)とは、1482年に朝鮮に対して大蔵経を求める使者を送った名義人である。 『成宗実録』によると、1482年(文明14年、成宗13年)4月、朝鮮国王成宗に対し送られた日本国王(足利義政)使に同行して夷千島王使宮内卿が訪朝した。 「南閻浮州東海路夷千島王遐叉呈上朝鮮殿下」で始まる奉書を持参し、夷千島国が従来仏教を知らなかったのが日本と通交するようになって以降仏教が伝来し三百年余りとなったこと、大蔵経が日本にもないので欲しいこと、夷千島国は西辺で朝鮮辺境の野老浦と接しているので野老浦が朝鮮王に反逆した際は征伐できること等を伝えた。進物は「馬角一丁、錦一匹、練貫一匹、紅桃色綾一匹、紺布一匹、海草昆布二百斤」となっている。 夷千島王遐叉の正体を巡っては、高橋公明が1981年、アイヌの部族長説を唱えたことを契機に活発に新説が発表され、現在は海保嶺夫、遠藤巌の安東氏説、村井章介、高橋公明らによる安東氏の存在を前提とした偽使説、長節子による対馬島人による偽使説が並立している。 当時、国王を名乗らないと大蔵経をもらえなかったため、国王号を自称する者とその使者が横行した経緯があるとされる。また、『李朝実録』に記される進物の一つの「馬角」とは、トナカイの角とも考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と夷千島王遐叉 · 続きを見る »

奥尻郡

*.

新しい!!: 文明 (日本)と奥尻郡 · 続きを見る »

女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

新しい!!: 文明 (日本)と女院 · 続きを見る »

奉行衆

奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。.

新しい!!: 文明 (日本)と奉行衆 · 続きを見る »

如意輪寺 (茂原市)

如意輪寺(にょいりんじ)は、千葉県茂原市にある日蓮宗の寺院。境内には樹齢数百年と言われるイチョウの御神木があり、以前落雷により上部が割れ、数年後その割れ目から新たな種類の樹木が生え、現在は共存しているめずらしい樹木である。.

新しい!!: 文明 (日本)と如意輪寺 (茂原市) · 続きを見る »

妙喜庵

妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。 室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。連歌師の山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑退去(大永3年(1524年)ごろ)後寺庵に改めたとの伝えもあるが、春嶽は永正6年(1510年)にすでに没している。また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもある。これらのことから「妙喜庵.

新しい!!: 文明 (日本)と妙喜庵 · 続きを見る »

妙香院

妙香院(みょうこういん)は、かつて滋賀県大津市の比叡山にある横川飯室谷に存在した延暦寺の院家。 藤原師輔の子で天台座主を務めた尋禅の私房として創建され、永祚2年(990年)に尋禅が父から継承した荘園を施入して一条天皇の御願寺とした。12世紀に師輔の子孫である藤原忠通の子・尊忠が門主になった後は摂関家の子弟が入る門跡寺院としての扱いを受けた。五摂家分立後は一条家の庇護を受けた寺院となるが、途中青蓮院の門主が妙香院の門主を兼ねていた時期がある。このため、鎌倉時代には青蓮院の横川別院になったという説もあるが、実際にはその後も独立した寺院として存続していたことが、歴代の門跡が青蓮院と一致しないことや所領文書から判明する。だが、天台座主にもなった慈済を最後に一条家出身の門跡が絶え、15世紀に入ると妙香院領の寺院が青蓮院に入り、文明12年(1480年)に一条兼良が著した『桃華蘂葉』の中でも妙香院は一条家の門跡寺院であると主張しながらも現在は青蓮院の管領(支配下)にあることを記している。このため、室町時代中期(15世紀中期か)に、妙香院門跡が断絶して青蓮院の傘下に入ったと考えられている。 なお、大田壮一郎は戦国時代以前の本願寺が青蓮院門跡の支配下にあったという通説を批判して、九条兼実と弟慈円(青蓮院門跡)および息子の良快(妙香院門跡)が浄土真宗の祖である親鸞を含む法然門流と密接にあったこと(一条家は九条家から分かれた)、大谷廟堂は元々妙香院傘下の法楽寺の敷地であったこと(『存覚一期記』延慶2年条)ことから、本願寺の元々の本所は妙香院で同院が青蓮院の管理下に置かれたことで、青蓮院と本願寺の関係が成立したとする説を唱えている。従って、唯善事件などの初期本願寺における内紛の際に出されたとされる「青蓮院の裁許」とされる文書も、「妙香院の裁許」とするのが事実関係としては正しいとしている(この時期には青蓮院門跡が妙香院門跡を一時的に兼帯していたり、両者が別々に存在した時期があったりしたが、前者の時期でも裁許はあくまでも妙香院門跡としての立場によるものである)。.

新しい!!: 文明 (日本)と妙香院 · 続きを見る »

妙法寺 (鎌倉市大町)

妙法寺(みょうほうじ)は神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院。山号は楞厳山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。通師・堀ノ内法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と妙法寺 (鎌倉市大町) · 続きを見る »

姫路城

代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。坂東三津五郎 (10代目)『三津五郎城めぐり』(三月書房2010年11月)では数多くの城の最初に紹介している。。.

新しい!!: 文明 (日本)と姫路城 · 続きを見る »

姉小路基綱

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と姉小路基綱 · 続きを見る »

姉小路済継

姉小路 済継(あねがこうじ なりつぐ/さだつぐ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と姉小路済継 · 続きを見る »

嫁威谷

嫁威谷(よめおどしだに)は、越前国吉崎御坊(現在の福井県あわら市吉崎)近くの嫁威谷(同あわら市嫁威)に伝わる伝説である。「肉付きの面」としても知られている。 文明3年(1471年)、蓮如が北国筋の勧化のために、越前国吉崎道場において、朝夕に化導したとき、加賀国、能登国、越中国、越後国、信濃国、出羽国、奥羽の信者が説教を聴聞するために群衆した。その中で、越前国二袴の百姓である与惣治夫婦は、ひとえに蓮如上人の高徳を慕い、教化によって即得往生の果を得ようと、暇を見ては吉崎に通った。これを見て、与惣治の母は、無信心や邪見の心から、明け暮れの後世願いに通い詰めることは家業の妨げであるとして、吉崎通いを止めさせようと考えた。 文明4年(1472年)2月20日の夜、与惣治は外出し、嫁ひとりが参聴した帰途、今日こそ時節到来と、母は、ひそかに氏神奉納の面を盗みだし、白いかたびらをまとい、鬼神をまねて脅そうと、竹薮に身を潜ませて待った。そんなことはつゆ知らず、嫁が称名しながら来かかったところに、鬼形の母は現れて呼び止め、「お前は母の意に逆らい、吉崎参りしたが、その不孝の罪からは逃れられない。自分は白山権現の使いだが、今日より母の言葉に従い、改心しなければ許さないぞ」と脅した。しかし、母が薮の中から出ようとした時、服がいばらに引っかかり離れず、嫁は怯えて顧みもせずに逃げ帰った。 事の不首尾に怒った母は、日頃企んだことの失敗を残念がりつつ、被った面を取ろうとしたが、顔に張り付きどうやっても取れない。嫁は我が家に逃げ帰り、帰宅した夫に事の次第を語り、また母の不在を心配して訪ねに出て鬼形の母に会った。 母は我が子に呼びかけ、企んだ恥を泣き叫んだ。与惣治は「懺悔はその罪を滅すと聞いている。この上は吉崎御坊に上人をたずね、御化導にあいなされ」と勧めた。母は御坊を訪ね、上人の前にひざまづいて教化を受け、また先非を悔いて懺悔した。すると肉まで付着したと思われた鬼女の面は、たちまち落ち離れたという。 その時の面と言い伝えられているものが、西念寺に伝わっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と嫁威谷 · 続きを見る »

季瓊真蘂

季瓊 真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401年) - 文明元年8月11日(1469年9月16日))は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。 雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435年)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。 同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、文正元年(1466年)に対立する細川勝元・山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、応仁2年(1468年)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。 『応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗や宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。また、公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。.

新しい!!: 文明 (日本)と季瓊真蘂 · 続きを見る »

存牛

存牛(ぞんぎゅう、文明元年6月5日(1469年7月13日) - 天文18年12月20日(1550年1月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土宗の僧。浄土宗総本山知恩院25世。父は三河国の松平氏宗家第四代松平親忠。号は尊蓮社超誉。諡号は高顕真宗国師。 1481年(文明13年)祖父松平信光が建立した三河国信光明寺の開山で、増上寺開山聖聡の弟子だった存冏に師事して出家。その後父親忠が開基となり中興した大恩寺の開山で、同じく聖聡の弟子だった了暁に教学を学び、1511年(永正8年)信光明寺3世となる。また松平郷高月院第七代住持も務めた。 1520年(永正17年)、同じく了暁門弟だった知恩院24世訓公の遺言で後継者に推されるもののこれを固辞。しかし後柏原天皇の綸旨と知恩院門末の懇請により、翌年京都知恩院25世を継いだ。応仁の乱(1467年-1477年)で荒廃した知恩院を再興するとともに皇室との関係を深め、後柏原天皇から浄土門総本寺と公称することを勅許され、さらに後奈良天皇より知恩教院、大谷寺の勅願を賜った。 Category:浄土宗の僧 Category:安祥松平氏 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:三河国の人物 Category:1469年生 Category:1550年没.

新しい!!: 文明 (日本)と存牛 · 続きを見る »

定専坊 (大阪市東淀川区)

定専坊(じょうせんぼう)は大阪府大阪市東淀川区豊里にある浄土真宗西本願寺派の仏教寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と定専坊 (大阪市東淀川区) · 続きを見る »

定善寺

定善寺(じょうぜんじ)は、宮崎県日向市大字財光寺にある日蓮正宗の寺院。山号は日知屋山(ひちやざん)。日蓮正宗三本山のひとつで日向本山。元は郷門寺院。 日蓮正宗改宗に抵抗した檀家が離脱し近隣に日蓮宗本光寺を建立し本東寺より住職を迎えた。.

新しい!!: 文明 (日本)と定善寺 · 続きを見る »

実如

実如(じつにょ、實如)は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第9世宗主・真宗大谷派第9代門首。山科本願寺住職。諱は光兼。院号は教恩院。法印権大僧都。父は第8世蓮如。日野勝光の猶子。母は蓮祐尼。子は円如。第10世証如は孫。.

新しい!!: 文明 (日本)と実如 · 続きを見る »

実玄

実玄(じつげん、文明14年(1486年)- 天文14年3月15日(1545年5月5日))は、戦国時代の浄土真宗の僧である。勝興寺住持。光教寺住持蓮誓の次男で、蓮能の弟、顕誓の兄。幼名は光菊、諱は兼芸。妻は願証寺、顕証寺住持蓮淳の娘。子に実照室、証玄、玄宗、顕栄。 父から土山御坊を譲り受けたが、永正16年(1519年)に焼き討ちされたため、安養寺御坊(勝興寺)を建てて移転した。同年、舅の蓮淳と円如による本願寺の一門制が敷かれ、例外的に一門衆に加えられた。享禄4年(1531年)の大小一揆では弟の顕誓と実顕が加賀の支配権を巡って争ったが、実玄は大一揆に与して瑞泉寺と共に越中一向一揆の指導者層に立った。天文14年(1545年)に死去、次男の玄宗が後を継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と実玄 · 続きを見る »

実隆公記

『実隆公記』(さねたかこうき)は、室町時代後期の公家、三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。記述は京都の朝廷、公家や戦国大名の動向、和歌、古典の書写など多岐に及ぶ。自筆本が現存し、1995年(平成7年)に重要文化財に指定された。.

新しい!!: 文明 (日本)と実隆公記 · 続きを見る »

実隆本源氏物語系図

実隆本源氏物語系図(さねたかほんげんじものがたりけいず、略して実隆本)とは、三条西実隆が整えた源氏物語系図をいう。内容の異なる幾つかの系図が現存するが、最初の完成は1488年(長享2年)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と実隆本源氏物語系図 · 続きを見る »

宍戸元家

宍戸 元家(ししど もといえ)は、戦国時代の武将。安芸国国人宍戸氏の当主。父は常陸国宍戸氏の宍戸時宗か。五龍城主。 永享6年(1434年)、常陸宍戸氏の宍戸時宗(岩間時宗)の子として生まれたとされる。常陸宍戸氏出身とされる元家が安芸宍戸氏の当主に就任したいきさつについては以下のような伝承がある。 しかし、この伝承を裏付ける史料は存在せず、また、元家以降の安芸宍戸氏の墓は現存するものの、元家以前の安芸宍戸氏の墓は現存していないことから、元家が宍戸氏の家督を簒奪したことを隠蔽するために、元家の治世以降に証拠となる歴代宍戸氏の墓地を破壊した可能性すら指摘されている。このことから、宍戸元家は常陸宍戸氏の系譜に連なる人物ではなく、安芸宍戸氏の庶流で家督を簒奪したが、自己の正当性を示すために自身を常陸宍戸氏の流れだと称した可能性も考えられている。 事実、末子の司箭院興仙(宍戸家俊)が明応3年(1494年)に細川政元に仕えており、次男の深瀬隆兼は末弟の興仙を養子とするほど年齢が離れている。興仙が仮に15歳で仕えたとしても、この頃に隆兼は30歳に近い年齢で生年は最低でも1465年頃となる。当然長男の元源はさらに年上であったはずである。しかし、元家が家督を継承したのは1478年で、しかも武者修行の旅の途中で安芸五龍城に寄ったことが継承のきっかけであったとされることに矛盾が生じてくるのである。この矛盾を解決するには、元家が武者修行に出る前に子を生す必要が生じる。 元家は近隣の諸豪族を切り従える一方、隣国備後国の国人三吉氏とも抗争し、勢力を広げた。文亀4年/永正元年(1504年)に家督を子の元源に譲り、自身は子の隆兼を連れて祝屋城に入り隠居した。永正6年(1509年)に死去、享年76歳。.

新しい!!: 文明 (日本)と宍戸元家 · 続きを見る »

宝鏡寺理久

宝鏡寺理久(ほうきょうじりきゅう、? - 享徳3年6月24日(1454年7月19日))は、室町時代前期の女性で尼僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の娘。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの妹。法名は桂芳久公。法諱は恵久とも 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.255-256。.

新しい!!: 文明 (日本)と宝鏡寺理久 · 続きを見る »

宝蔵寺 (古河市)

宝蔵寺(ほうぞうじ)は、茨城県古河市諸川にある真言宗豊山派の寺院。 山号を慈光山、院号を大善院という。創建は室町時代以前。日光東街道・諸川宿のほぼ中心に位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と宝蔵寺 (古河市) · 続きを見る »

宣胤卿記

『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記。.

新しい!!: 文明 (日本)と宣胤卿記 · 続きを見る »

室住虎光

室住 虎光(もろずみ とらみつ)は、戦国時代の武将。甲斐の戦国大名武田氏の譜代家臣。豊後守。姓は諸角(両角)とする記録も多いが、近年では自筆史料に見られる「室住」が採用されている。諱に関しても「虎定」あるいは「昌清」とする説もあるが、確実な同時代文書の『安道寺文書』によれば「虎光」とされる。子に室住昌守がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と室住虎光 · 続きを見る »

室住虎登

室住 虎登(もろずみ とらとお、1495年(明応4年) - 1564年(永禄7年))は、戦国時代の武将。甲斐の戦国大名武田氏の譜代家臣。字は玄蕃允。.

新しい!!: 文明 (日本)と室住虎登 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と室町幕府 · 続きを見る »

宮城政業

宮城 政業(みやぎ まさなり、明応4年(1495年)-天正17年6月23日(1589年8月4日)は、戦国時代の武蔵国足立郡宮城(現在の東京都足立区宮城)の国人領主。豊島氏の同族。妻は宇多重広の娘。子に宮城為業。 文明年間に豊島氏が太田道灌に滅ぼされると、宮城氏も太田氏に仕える。政業は太田資頼以来6代の主君に仕えたとされている。太田資正が第2次国府台合戦に敗れて岩付城を追われた後も太田氏資に仕えて、そのまま後北条氏の指揮下に入った。 長命で子の為業・孫の泰業・曾孫の正重と4代揃って太田氏に仕え、95歳で没した。 Category:戦国武将 Category:1495年生 Category:1589年没.

新しい!!: 文明 (日本)と宮城政業 · 続きを見る »

宮崎神宮

宮崎神宮(みやざきじんぐう)は、宮崎県宮崎市神宮にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と宮崎神宮 · 続きを見る »

宮崎港

宮崎港(みやざきこう)は、宮崎県中央部、宮崎市高洲町・吉村町一帯にある港湾。県庁所在地の宮崎市の東岸にあり日向灘に流れる大淀川河口の左岸(北側)、一ツ葉入江に位置する河口港。1969年(昭和44年)に開港。港湾管理者は宮崎県。1973年(昭和48年)4月16日、県内では細島港・油津港についで3番目に重要港湾の指定をうける。.

新しい!!: 文明 (日本)と宮崎港 · 続きを見る »

宮中・京中の式内社一覧

宮中・京中の式内社一覧(きゅうちゅう・きょうちゅうのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、宮中および京中に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と宮中・京中の式内社一覧 · 続きを見る »

宮腰

宮腰(みやのこし)は、現在の石川県金沢市金石の旧地名である。現在は宮腰緑地という小さな公園が整備されており、名残をとどめている。中村歌右衛門 (初代)(1714年 - 1791年)や銭屋五兵衛(1774年 - 1852年)などを輩出した。 2011年には金沢市立玉川図書館近世資料館が「宮腰から金石へ」と題した新春展を行った。また、日本の苗字のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と宮腰 · 続きを見る »

宮森城

宮森城(みやもりじょう)は現在の福島県二本松市小浜にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と宮森城 · 続きを見る »

守悦

守悦(しゅえつ、生没年不詳)は室町時代の臨済宗尼僧。慶光院初世住持。.

新しい!!: 文明 (日本)と守悦 · 続きを見る »

宗守館

宗守館(むねもりやかた)は、富山県南砺市宗守(旧・福光町)に在った城館(日本の城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗守館 · 続きを見る »

宗五大草紙

宗五大草紙(そうごおおぞうし)は、戦国時代の享禄元年(1528年)に伊勢貞頼(貞仍)によって記された武家故実の書。全1巻1冊。条々聞書(じょうじょうききがき)とも。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗五大草紙 · 続きを見る »

宗像大宮司の一覧

宗像大宮司(むなかただいぐうじ)とは今の福岡県宗像市にある宗像大社の宮司のことである。大宮司職は宗像大宮司家の嫡流断絶まで宗像氏が独占していた。現在では宮ごとに3つに分かれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗像大宮司の一覧 · 続きを見る »

宗光寺

宗光寺(しゅうこうじ).

新しい!!: 文明 (日本)と宗光寺 · 続きを見る »

宗碩

宗碩(そうせき、文明6年(1474年) - 天文2年4月24日(1533年5月18日))は、戦国時代の連歌師。別号は月村斎。尾張国の生れ。 19歳より前に京都種玉庵にいた連歌師の宗祇に師事。宗祇が亡くなってからは、京都に拠点を置きながら連歌師として活躍し、公家や大名の使者として北陸・東国・九州などを旅した。公家の近衛尚通・三条西実隆や周防国山口の大内政弘などとの交流が知られる。「十花千句」「伊勢千句」などに句が入集されているほか、いくつかの「宗碩集」、伊勢への紀行文である「佐野のわたり」がある。また、古典学では宗祇の「古今和歌集」を講釈したこと書き記した「十口抄」や「勅撰名所和歌抄出」「源氏男女装束抄」がある。 Category:戦国時代の人物 (日本) Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:尾張国の人物 Category:1474年生 Category:1533年没.

新しい!!: 文明 (日本)と宗碩 · 続きを見る »

宗祇

宗祇(そうぎ、応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗祇 · 続きを見る »

宗湛

宗湛(そうたん、応永20年(1413年) - 文明13年3月9日(1481年4月16日))は、室町時代中期の画僧。宗丹とも書く。字は小二郎(または小三郎)。自牧と号した。小栗満重の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗湛 · 続きを見る »

宗晴康

宗 晴康(そう はるやす、1475年(文明7年) - 1563年3月22日(永禄6年2月18日))は、対馬国の守護大名・戦国大名。宗氏の第16代当主。宗盛俊(もりとし)の子『系図纂要』および『寛政重修諸家譜』の宗氏系図より。。子に宗義調。号は西殿。官名は讃岐守。.

新しい!!: 文明 (日本)と宗晴康 · 続きを見る »

宇受賀命神社

宇受賀命神社(うずかみことじんじゃ)は島根県隠岐郡海士町に鎮座する神社である。式内社(名神大社)で旧社格は郷社。島前の中ノ島の北端にあたる宇受賀部落の外れ、丘上に鎮座する。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇受賀命神社 · 続きを見る »

宇土城

宇土城(うとじょう)は、熊本県宇土市に存在した城郭である。別名、城山ともいう。同市神馬町にあった中世期の宇土城である、宇土古城についても併記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇土城 · 続きを見る »

宇土為光

宇土 為光(うと ためみつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。菊池氏の家臣。肥後国宇土城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇土為光 · 続きを見る »

宇土氏

宇土氏(うとし/うとうじ)は、日本の氏族。肥後国宇土郡を本貫として勢力を張った。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇土氏 · 続きを見る »

宇喜多宗家

宇喜多 宗家(うきた むねいえ、生没年不詳)は、室町時代後期の人物。修理進。代々「家」の字を通字とする宇喜多氏の始祖ではないかと思われる人物。 三条信宗(傍流であるので「三条」の姓では無かった可能性も)の子。妻は児島高家の娘。 宇喜多久家は実子、或いは児島信徳(実在したか怪しい人物であるが実在したならば妻の兄か弟にあたる人物であると思われる)の息子を養子縁組したのではないかと言われている。 文明2年(1470年)に、赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、赤松氏の被官であったと思われる。 かなり不明な点が多いが、系図などによると元々は藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる公家の名門、三条家の人間とするものが多い。 室町時代後期に起きた応仁の乱の戦火から逃れるために、この頃は地方へと下向する公家も多かったが、宗家もその中の一人ではないかと考えられている。 赤松氏を頼り備前へと下向した宗家は、そこで児島高徳の孫にあたる児島高家の娘と入婿という形で婚姻関係を結び、宇喜多を称したという。 これらの流れからも分かるように、宗家は藤原氏の三条家を出自とする公家であり、児島との血縁関係は皆無である。 この為、児島との縁を強調したい宇喜多氏は、久家を児島信徳の子とする系図では宗家の存在自体を無視するという扱いをしているが、 西大寺文書や大永6年(1526年)邑久郡弘法寺 (瀬戸内市)への寄進状に名が残る以上、「宇喜多宗家」という人物が存在した事は確実であり、久家を児島信徳の子とする説を信用するならば宗家が久家を養子にとったのではないかと考えられる。 ただ、その場合は「信徳という男子が存在しているのに何故、養子をとる必要があるのか?」「何故、児島の嫡流として生まれたはずの久家をわざわざ余所者である宗家へ養子に出す必要があるのか?」等の矛盾が数多く生まれる。 さらに、この系図自体が「これは久家は宗家の実子であって、一応は母親が児島の人間であるので児島の後裔を称する事に問題は無いのだが、やはり女系の系図を強調する事に不自然さを感じた人間が後付けで作り出した系図では無いか?」との意見もある。だが、久家が宗家の実子であった事の裏付けとなる史料も存在せず、やはり不詳とせざるを得ない。 また、宗家が西大寺に土地の寄進を行う一年前の文明元年(1469年)に宇喜多五郎右衛門入道寳昌(現存する古文書で確認できる最古の宇喜多氏)なる人物が 成光寺に寄進をしたとの文書が残っている。 これは宗家と同時期に下向をした父の信宗ではないか等、諸説あるがこれもまた詳細は一切不明である。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇喜多宗家 · 続きを見る »

宇喜多久家

宇喜多 久家(うきた ひさいえ、生没年不詳)は、室町時代後期の人物。備前国の出身。赤松氏の被官、もしくは浦上氏の被官であると考えられている。宇喜多宗家の子とも児島信徳の子とも言われるが定かではない。宇喜多能家、宗因、浮田国定の父。宇喜多興家、宇喜多四郎の祖父。宇喜多直家の曽祖父。蔵人佐、三河守。 家督相続の時期などについては不明瞭だが、文明2年(1470年)に赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、少なくとも家督相続はこれ以後であると思われる。 宇喜多氏の出自の多くは不明であるが、この久家の頃から動向が比較的明らかになってくる。延徳4年(1492年)に西大寺へ寄進をしている。年不詳ながら難波豊前に討たれた父の遺領の相続を認める旨を伝える文書が残っている(この文書の文中、赤松政則の諡号「松泉院」が使われているため、この文書は政則死後、明応5年(1496年)以後のものと思われる)。 また、明応8年(1499年)には子の能家が浦上則宗に仕えて活躍しており、久家の名前もこれ以後に全く見当たらないため、この頃にはすでに家督を能家に譲って隠居、もしくは既に没していたのではないかと推察される。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇喜多久家 · 続きを見る »

宇喜多能家

宇喜多 能家(うきた よしいえ)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。宇喜多久家の子。備前国豊原荘砥石城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇喜多能家 · 続きを見る »

宇喜多氏

宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇喜多氏 · 続きを見る »

宇高有光

宇高 有光(うだか ありみつ、?-宝徳2年9月27日(1450年11月1日))は、室町時代中期の武士。宇高光勝の子、宇高光成の父。和泉国上守護代。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇高有光 · 続きを見る »

宇都宮城

宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇都宮城 · 続きを見る »

宇都宮錯乱

宇都宮錯乱(うつのみやさくらん)とは、永正9年(1512年)から同11年(1514年)に下野宇都宮氏で発生した内紛。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇都宮錯乱 · 続きを見る »

宇都宮興綱

宇都宮 興綱(うつのみや おきつな)は日本の戦国時代の武将で、下野の宇都宮氏第19代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇都宮興綱 · 続きを見る »

宇都宮正綱

宇都宮 正綱(うつのみや まさつな)は室町時代後期から戦国時代初期の武将・守護大名で、下野の宇都宮氏16代当主、宇都宮氏庶流の武茂氏の当主も兼ねていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇都宮正綱 · 続きを見る »

宇都宮成綱

宇都宮 成綱(うつのみや しげつな)は戦国時代の武将・戦国大名で、下野の宇都宮氏17代当主。 戦国時代初期に、室町時代から続く度重なる内乱、戦乱で没落した下野宇都宮氏を立て直し、支配体制、家臣団を再編する。佐竹氏の中興の祖と呼ばれている佐竹義舜や蘆名氏の中興の祖蘆名盛高、那須氏や長沼氏、岩城氏など近隣の大名と争い大きく勢力を伸ばし、北関東最大の勢力にまで成長させ、下野宇都宮氏の最盛期を築き上げた。 また、下野宇都宮氏の戦国大名化に努めたため、宇都宮氏の中興の祖と呼ばれる。成綱は実質的に北関東の覇権を制した。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇都宮成綱 · 続きを見る »

宇野久重

宇野 久重(うの ひさしげ)は、室町時代後期の武将。朝倉氏の家臣。 丹後国ないし丹波国の出身で、源氏の血を引くとされている。 越前国の朝倉孝景に仕えており、家中随一の勇将であった。幻雲文集(「続群書類従」所収)によれば、常に孝景の傍にあって、「膂力絶人」「勇気蓋世」「百戦百勝無出其右者」と言われるほどの武将であり、応仁の乱に際して、孝景が東軍に寝返った後、文明3年(1471年)6月10日の河俣での合戦、同年8月24日の新庄・鯖江での合戦及び文明11年(1479年)11月21日の金津夜討で手柄を立てている。 印牧広次の次男・景久を養子としている。 Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文明 (日本)と宇野久重 · 続きを見る »

宇野政秀

宇野 政秀(うの まさひで)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の一族で赤松則祐の6世の孫。高枕軒性喜(こうちんけんしょうき)と号する。塩屋城主。 赤松政秀ともいい、玄孫が同名・同官途である。政秀は赤松姓を名乗るもその出自には不明な点が多く、宇野と書かれることもあり、本姓はこちらの可能性もあるという。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇野政秀 · 続きを見る »

宇治市

朝日山から宇治市市街地 宇治市(うじし)は、日本の近畿地方中部、京都府の南端近くに所在する市。京都盆地の東南部に位置し、京都市や大津市と隣接する。京都市に次いで京都府内第2位の人口を擁する都市である。 ユネスコ世界遺産ともなっている平等院、宇治上神社等の文化財や宇治茶等の特産品で知られる。西側に非常に大きな巨椋池があったが、豊臣秀吉により干拓地となり、現在は農地と住宅街になっている。京都市への通勤率は29.1%(平成22年国勢調査)。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇治市 · 続きを見る »

宇治橋 (伊勢市)

宇治橋(うじばし)は、三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)の参道口にある橋。別名御裳濯橋(みもすそばし)。日本百名橋の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と宇治橋 (伊勢市) · 続きを見る »

安(やす、生没年不詳)は、戦国時代の武将・山本貞幸の後妻。父は大橋入道。 文明5年(1473年)大林貞次の仲介で、前妻の光禅尼を亡くして三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)に浪人していた山本貞幸に嫁いだという。三男二女を儲けたという。またその末子が武田信玄の軍師として著名な山本勘助である。 なお、山本光幸を山本勘助の父とする説もある。その場合、安の没年は天正3年(1575年)で、法名は貴功殊胤大姉という。.

新しい!!: 文明 (日本)と安 · 続きを見る »

安富元家

安富 元家(やすとみ もといえ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川京兆家の家宰。.

新しい!!: 文明 (日本)と安富元家 · 続きを見る »

安住院

安住院(あんじゅういん)は岡山県岡山市中区国富に所在する寺院である。山号は瓶井山(みかいさん)。詳しくは、瓶井山禅光寺安住院と号する。宗派は真言宗善通寺派。本尊は千手千眼観世音菩薩(秘仏)。瀬戸内三十三観音霊場第十二番札所、岡山八十八箇所霊場第五番札所(大師堂)。 御詠歌:ひるはなほ よるをもてらす ぜんこうじ いくよもきえぬ のりのともしび.

新しい!!: 文明 (日本)と安住院 · 続きを見る »

安国寺 (壱岐市)

安国寺(あんこくじ)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触にある臨済宗大徳寺派の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と安国寺 (壱岐市) · 続きを見る »

安国寺 (茅野市)

安国寺(あんこくじ)は、長野県茅野市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は泰平山。本尊は釈迦如来像。開山は夢窓疎石。.

新しい!!: 文明 (日本)と安国寺 (茅野市) · 続きを見る »

安祥城

二の丸跡に建てられた東尾八幡社 安祥城(あんじょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。 舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれていて、その内側に土塁や堀があり、天守を持たない平山城だった。室町時代中期に築城され、織田氏、今川氏、松平氏との間で激しい戦闘が繰り広げられた。 『岡崎領主古記』に、安祥森城。三河国二葉松に、安條古城、云城森。という記載があるが、徳川の同時代史料(家忠日記や大久保の三河物語)には、別名の森城なる記載はない。 現在では、碑・塚・切岸・堀・一部曲輪などが残るだけとなっている。本丸は大乗寺、二の丸は八幡社、三の丸は大乗寺の裏手あたりになる。 また、徳川最古参の三河安祥之七御普代の発祥の地でもある。三河安祥之七御普代とは、酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す(『柳営秘鑑』)。 『信長公記』に「三川の内あん城と云ふ城」と記載される。織田氏が保有していた時代には三河進出の牙城となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と安祥城 · 続きを見る »

安禅寺 (古河市)

安禅寺(あんぜんじ)は、茨城県古河市磯部にある曹洞宗の寺院。古河公方重臣・簗田氏ゆかりの寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と安禅寺 (古河市) · 続きを見る »

安養寺城

安養寺城(あんようじじょう)は、富山県小矢部市末友に在った城郭伽藍(日本の城)。安養寺御坊ともいう。市史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と安養寺城 · 続きを見る »

安養院 (本庄市)

安養院(あんよういん)は、埼玉県本庄市にある曹洞宗の寺院。山号は若泉山。寺号は無量寺。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と安養院 (本庄市) · 続きを見る »

安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

新しい!!: 文明 (日本)と安東氏 · 続きを見る »

安東政季

安東 政季(あんどう まさすえ、生年不詳 - 1488年9月15日(長享2年8月10日))は、日本の戦国時代の武将で陸奥、蝦夷地、出羽の豪族。檜山系安東氏の第4代当主。初名を師季(もろすえ)といった。安藤重季(しげすえ)の子で安東忠季の父と伝えられるが異伝も多い。.

新しい!!: 文明 (日本)と安東政季 · 続きを見る »

安楽寺 (南丹市)

安楽寺は京都府南丹市八木町北屋賀国府にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と安楽寺 (南丹市) · 続きを見る »

宋銭

北宋銭 北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他) 宋銭(そうせん)は、中国・宋代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造されたが、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と宋銭 · 続きを見る »

寺部城

寺部城(てらべじょう)は、現在の愛知県豊田市寺部町にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と寺部城 · 続きを見る »

対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と対馬国 · 続きを見る »

対馬国分寺

対馬国分寺(つしまこくぶんじ)は、長崎県対馬市厳原町(いずはらちょう)天道茂(てんどうしげ)にある曹洞宗の寺院。山号は天徳山。本尊は釈迦如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、対馬島島分僧寺(国分僧寺)の後継寺院にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と対馬国分寺 · 続きを見る »

富士宮市

富士宮市(ふじのみやし)は、静岡県東部の市。富士氏の発祥・根拠地としても知られる。北方に世界文化遺産である富士山を有し、またその構成資産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)である富士山本宮浅間大社・山宮浅間神社・村山浅間神社・人穴富士講遺跡・白糸ノ滝といった文化的資産を擁す。.

新しい!!: 文明 (日本)と富士宮市 · 続きを見る »

富士忠時

富士 忠時(ふじ ただとき 生没年不詳)は室町時代の富士山本宮浅間大社大宮司で、富士氏当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と富士忠時 · 続きを見る »

富山城 (備前国)

富山城(とみやまじょう)は、岡山県岡山市北区にある戦国時代、安土桃山時代の日本の城跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と富山城 (備前国) · 続きを見る »

富田 (高槻市)

富田(とんだ)は、現在の大阪府高槻市富田町付近の地域。本項ではかつて概ね同区域に所在した島上郡・三島郡富田村(とんだむら)、三島郡富田町(とんだちょう)についても述べる。 かつては摂津島上郡に属した、教行寺を中心とした寺内町であった。現在の町域は高槻市富田町1-6丁目、富田丘町などとなっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と富田 (高槻市) · 続きを見る »

富樫幸千代

富樫 幸千代(とがし こうちよ)は、室町時代後期の武将。富樫氏22代当主。 富樫成春の次男として誕生。文明5年(1473年)、応仁の乱の影響で兄・政親と争い真宗高田派や甲斐敏光と結んで勝利した。しかし翌6年(1474年)、本願寺と結んだ政親に加賀国から追放された。これ以降、一向一揆と結び再三加賀に侵入しては戦った。 元服したかも定かでなく、その後の詳細は不明である。文明8年(1476年)9月には加賀半国を与えられたというが、文明6年に一向一揆勢に攻められ敗死したとの説もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と富樫幸千代 · 続きを見る »

富樫稙泰

富樫 稙泰(とがし たねやす)は、戦国時代の武将・守護大名。富樫氏25代当主。加賀国守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と富樫稙泰 · 続きを見る »

富樫泰成

富樫 泰成(とがし やすなり)は、室町時代の武士。 富樫泰高または富樫満春の子として誕生。後に剃髪して慈顕を名乗った。生来病弱であり、家督も父の意向により一族の富樫政親に譲られた。また、幕府と交渉する立場を取り京に住み続けたという。 文明年間(1469年-1486年)に高尾城の戦いを見ずに京で死去したという。『永享以来御番帳』や『親元日記』では文明13年(1481年)に存命とされているので没年はそれ以降とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と富樫泰成 · 続きを見る »

富樫政親

富樫 政親(とがし まさちか)は、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と富樫政親 · 続きを見る »

寒川元家

寒川 元家(さんがわ もといえ、生没年不詳)は、室町時代の武将。讃岐国昼寝城主。官位は左馬允。.

新しい!!: 文明 (日本)と寒川元家 · 続きを見る »

寒河江城

寒河江城(さがえじょう)は、出羽国村山郡寒河江荘(山形県寒河江市)にあった日本の城である。.

新しい!!: 文明 (日本)と寒河江城 · 続きを見る »

寒河江知広

寒河江 知広(さがえ ともひろ、旧字体:知廣)は戦国時代の武将。寒河江氏13代。寒河江城主6代。.

新しい!!: 文明 (日本)と寒河江知広 · 続きを見る »

寒河江為広

寒河江 為広(さがえ ためひろ、旧字体:為廣)は室町時代から戦国時代の武将。寒河江氏12代。寒河江城主5代。.

新しい!!: 文明 (日本)と寒河江為広 · 続きを見る »

寒河江氏

寒河江氏(さがえうじ、さがえし)は、大江氏の支流である日本の氏族の一つ。寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家の請所(地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。寒河江大江氏ともいう。南北朝時代末までは大江氏を称したが、以降は寒河江氏を称したとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と寒河江氏 · 続きを見る »

密懐法

密懐法(びっかいほう)とは、密通に関する処理を定めた法令。元は武家法に由来している。明治以後の姦通罪に相当する。 中世においては成文法と慣習法の不一致が見られた。前者においては御成敗式目の34条において、「姦夫は強姦・和姦を問わずに所領の半分を没収し、出仕を止め。所領を持っていない場合には遠流とする。姦婦も同罪」と記されていた。しかし、後者においては本夫が姦夫を「宿世の敵」として討ち取る婦敵討(めがたきうち)が行われていた。だが、婦敵討が行われた場合、本夫が姦夫の不正の証拠を出そうにも、肝心の相手を討ち取ってしまったために自白させることが不可能となり、殺人罪として処罰されることがあった。 ところが、文明11年(1479年)に室町幕府によって、ある意味で画期的な判決が打ち出された。姦夫を妻敵討として殺害した本夫が姦夫の親族から殺人罪で告発された裁判では、本夫が姦通を理由に先に妻を殺害してしまえばその原因を作った姦夫は妻敵になるのであるから、本夫が妻敵討を行っても殺人罪とはならず無罪となるという判決である。この判例における、慣習法に則した「姦夫姦婦殺害」の容認という発想は、家庭内にまで領主権力を及ぼしたい戦国大名に歓迎され、分国法に次々と導入された。塵芥集や六角氏式目では姦婦の殺害を定め(ただし、寝所で姦夫を討ち取った場合には姦婦の殺害は必要としない)、長宗我部元親百箇条に至っては本夫が姦婦を殺害しない場合には、姦夫・姦妻・本夫全て死刑と定めている。 江戸幕府でも公事方御定書においては、自力救済を否定しつつ、武士の家の倫理を強制する立場から敵討と妻敵討は例外とした。また、娘が姦通した場合には親権の侵害として父親が娘を殺害することも許された(なお、同法令では従来黙認されていた武士以外の庶民の妻敵討は分を弁えないものとして厳罰に処せられた)。もっとも、妻敵討が行われると、本夫が寝取られたという事実を外部に明らかにする事となり、却って武士の面目が失われるという考え方もあった。このため、「間男7両2分」の賠償金を姦夫から取り立てたり、姦婦を離縁することで内々に事態の収拾を図るという例が多かったのである。.

新しい!!: 文明 (日本)と密懐法 · 続きを見る »

小口城

小口城(おぐちじょう)は尾張国丹羽郡小口(現・愛知県丹羽郡大口町小口)に存在した日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と小口城 · 続きを見る »

小寺則職

小寺 則職(こでら のりもと).

新しい!!: 文明 (日本)と小寺則職 · 続きを見る »

小寺則職 (戦国時代)

小寺 則職(こでら のりもと)は、戦国時代の武将。小寺氏の当主。播磨姫路城主、御着城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小寺則職 (戦国時代) · 続きを見る »

小山宿

小山宿(おやましゅく、おやまじゅく)は、江戸時代に日光街道(日光道中)に設けられた下野国の宿場。現在は栃木県小山市の中心部に相当する。 日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場である。.

新しい!!: 文明 (日本)と小山宿 · 続きを見る »

小山氏

小山氏(おやまし)は、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と小山氏 · 続きを見る »

小山持政

小山 持政(おやま もちまさ、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将、守護大名。下野の豪族小山氏当主で、下野守護。小山泰朝の長男・小山満泰(みつやす、「満」は足利氏満の偏諱を賜ったものとされる)の子。元服時に鎌倉公方・足利持氏より偏諱を受けて持政と名乗る。.

新しい!!: 文明 (日本)と小山持政 · 続きを見る »

小峰朝脩

小峰 朝脩(こみね とものぶ)は、戦国時代の武将。小峰氏8代当主。近年では、白河結城氏9代当主・結城義綱の実父とする説がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と小峰朝脩 · 続きを見る »

小島勝言

小島 勝言(こじま かつとき)は、室町時代後期の武将。飛騨国司・姉小路家宗家小島家当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小島勝言 · 続きを見る »

小川城 (駿河国)

小川城(こがわじょう)は、現在の静岡県焼津市小川5丁目付近にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と小川城 (駿河国) · 続きを見る »

小川殿

小川殿(おがわどの)は、足利将軍家の邸宅の1つ。京都市上京区の宝鏡寺の隣地にあったと推定され、現在は同寺の敷地の一部になっている。小川御所(おがわのごしょ)とも呼ばれる。 なお、足利義満の実弟満詮は兄弟の生母である紀良子とともに、武者小路小川の邸宅に住んで、それぞれ「小川殿」「小川殿大御所」と呼ばれているが、本項邸宅とは別の建物である。 元は細川勝元が所有していた邸宅の1つで、応仁の乱(1467年-1477年)最中の文明3年(1471年)頃より足利義政が利用していたが、将軍職を息子の義尚に譲った後の文明6年(1474年)に居宅とした。2年後の文明8年(1476年)、室町御所の焼失とともに義政正室の日野富子、義尚、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった後土御門天皇が退避した。その後、富子の為の居室が増築されたが、義政・義尚ともに富子との不仲から最終的にはこの御所から離れ、文明15年(1483年)以降は富子のみの居宅となった。 延徳元年(1489年)に義尚の急逝によって、富子は対立していた足利義視(義政の弟)と和解してその息子足利義材(義政・富子の甥にあたる)を迎え入れて後継者とし、翌年に義政も没すると富子はそのまま小川殿で夫の菩提を弔っていたが、義材ではなく別の甥で僧侶になっていた清晃に小川殿を譲ろうとする。これを知った義視は激怒して富子の居室を除いて全てを破却してしまったのである。富子はその後もここで居住し、後に義材に代わって清晃を将軍に擁立しようとする明応の政変に関わることになる。 小川殿の敷地後を占める宝鏡寺には現在も日野富子の木像が安置されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と小川殿 · 続きを見る »

小張

小張(おばり)は、茨城県つくばみらい市の地名。郵便番号は300-2353。.

新しい!!: 文明 (日本)と小張 · 続きを見る »

小判

小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。.

新しい!!: 文明 (日本)と小判 · 続きを見る »

小倉城

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた鎌倉時代または戦国時代から江戸時代の日本の城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と小倉城 · 続きを見る »

小笠原家長

小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基(さだもと)。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原家長 · 続きを見る »

小笠原光康

小笠原 光康(おがさわら みつやす)は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の3男。松尾城主。松尾小笠原家の祖。 父の死後、小笠原氏惣領職を巡って光康の兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。 文安3年(1446年)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。宗康は漆田原(長野市中御所)で持長と戦ったが敗れ討ち死にしていたため(漆田原の戦い)、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。 しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中小笠原家)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡小笠原家)、政秀と光康の子家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。 関東で享徳3年(1455年)にはじまる享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定と共に、堀越公方足利政知を支持して関東へ出陣することを度々命じられたが、古河公方足利成氏に通じる府中の小笠原清宗が国人衆と結託して光康の出陣に反対し、なかなか発向できない有様であったとされる。 将軍足利義政は康正2年(1456年)、光康に対し清宗討伐を、また寛正6年(1465年)、光康と上杉房定に対し、成氏に通じる村上政清と高梨政高の討伐を命ずる御教書を発した。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原光康 · 続きを見る »

小笠原貞朝

小笠原 貞朝(おがさわら さだとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原長朝の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原貞朝 · 続きを見る »

小笠原長定

小笠原 長定(おがさわら ながさだ)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の温湯城を本拠とする国人・石見小笠原氏の第11代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原長定 · 続きを見る »

小笠原長弘

小笠原 長弘(おがさわら ながひろ)は、室町時代後期(戦国時代)の武士。石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の温湯城を本拠とする国人・石見小笠原氏の第9代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原長弘 · 続きを見る »

小笠原長朝

小笠原 長朝(おがさわら ながとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原清宗の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原長朝 · 続きを見る »

小笠原清宗

小笠原 清宗(おがさわら きよむね)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原持長の子。 父の代から続く宗家の家督巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。 清宗は信濃井川館に生まれた。永享元年(1429年)11月に元服、右馬助、大膳大夫、信濃守に任じられる。鈴岡小笠原家の政秀や諏訪氏と度々争い、府中に攻め込まれたため、長禄3年(1459年)頃に新たに林城を築き、居館を移す。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍を支持する。文明6年(1474年)7月、上洛して9代将軍足利義尚に拝謁する。文明10年(1478年)没、享年62。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原清宗 · 続きを見る »

小笠原政秀

小笠原 政秀(おがさわら まさひで)は、戦国時代の大名。信濃守護。小笠原氏の一族で、鈴岡小笠原氏当主。小笠原宗康の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と小笠原政秀 · 続きを見る »

小田野氏

小田野氏(おだのし)は日本の氏族。.

新しい!!: 文明 (日本)と小田野氏 · 続きを見る »

小田治孝

小田 治孝(おだ はるたか、文明4年(1472年) - 明応5年(1496年))は、常陸の戦国大名。小田氏の第13代当主。 兄弟に小田顕家、岡見義治、宇都宮興綱室、佐竹義篤室。義弟に小田政治がいる。子に岡見治資。 小田成治の長子。弟の小田顕家が家督相続に不満を持ち、1496年、内紛を起こし、治孝は顕家に殺された。成治は養子小田政治を当主とし、顕家は追討され首を取られた。 Category:戦国武将 はるたか Category:1472年生 Category:1496年没.

新しい!!: 文明 (日本)と小田治孝 · 続きを見る »

小田持家

小田 持家(おだ もちいえ、応永9年(1402年) - 文明13年(1481年))は、室町時代の人物。常陸小田氏当主。小田治朝の子。小田朝久、倉持治光(くらもち はるみつ)、女子(結城氏広妻)の父。幼名は金寿丸。通称は太郎。讃岐守。治部少輔。 父は早くに亡くなり、祖父の小田孝朝に養育された。のち元服時に鎌倉公方足利持氏より偏諱を受けて持家と名乗る。室町時代の小田氏は関東の政治においては非主流派であり、それに不満な持家は上杉禅秀の乱の際には上杉氏憲(禅秀)に味方し、禅秀らの敗北の後は降参したものの足利持氏により所領の一部を没収され、小田氏をさらに衰退させることになる。永享の乱と結城合戦の際は関東管領上杉氏(上杉憲実)に味方し持氏とその与党を滅ぼす。その後は旧領回復をめざして信太荘へ勢力を侵食させ、江戸崎土岐氏と戦うことになる。 享徳の乱の際には古河公方足利成氏(持氏の子)に味方し、関東管領上杉氏と戦ったが、1455年、子の朝久に先立たれることになる。その後は孫の小田成治を養育・後見した。1459年11月には常陸で佐竹実定(佐竹義人の子で上杉憲実の猶子)・江戸通房(実定の補佐役)を破っている。 もちいえ Category:室町時代の人物 Category:1402年生 Category:1481年没.

新しい!!: 文明 (日本)と小田持家 · 続きを見る »

小畠虎盛

小畠 虎盛(おばた とらもり)は、戦国時代の武将。武田信虎、武田信玄の2代に仕える。父は小畠日浄(盛次)。 武田の五名臣、武田二十四将の一人としてそれぞれ数えられる。なお小幡姓とするのは誤り(小幡氏は上野国の武家の名で、子の昌盛が信玄に許されて名乗ったもの。なお、虎盛は上野小幡氏の遠縁とする系図もある)。 娘婿に市川等長(梅隠斎)の子・平右衛門、原与左衛門尉(『甲陽軍鑑』)。.

新しい!!: 文明 (日本)と小畠虎盛 · 続きを見る »

小鹿範満

小鹿 範満(おしか のりみつ)は、室町時代後期の武将。小鹿範頼(のりより)の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と小鹿範満 · 続きを見る »

小野神社 (町田市)

小野神社(おのじんじゃ)は、東京都町田市小野路町にある神社である。 現在、小野篁を祭神とするが、1888年(明治21年)の小野路村誌では、天下春命あるいは小野篁、としている。.

新しい!!: 文明 (日本)と小野神社 (町田市) · 続きを見る »

小金ヶ嶽

小金ヶ嶽(こがねがたけ)は兵庫県篠山市にある標高725 mの山。主峰御嶽、西ヶ嶽の三山とともに多紀連山をなす。.

新しい!!: 文明 (日本)と小金ヶ嶽 · 続きを見る »

小折城

小折城(こおりじょう)は、現在の愛知県江南市に存在した日本の城(平城)。        .

新しい!!: 文明 (日本)と小折城 · 続きを見る »

小松寺 (小牧市)

*愛知県小牧市にある真言宗の寺院。本項で詳述。.

新しい!!: 文明 (日本)と小松寺 (小牧市) · 続きを見る »

小梁川宗朝

小梁川 宗朝(こやながわ むねとも、文明元年(1469年) - 永禄8年(1565年))は、戦国時代の武将。陸奥国伊達氏家臣。小梁川盛宗(中務少輔)の二男。小梁川親朝の弟。小梁川宗秀の父。信濃守。.

新しい!!: 文明 (日本)と小梁川宗朝 · 続きを見る »

小泉久遠寺

小泉久遠寺(こいずみくおんじ)は、静岡県富士宮市小泉1649にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。.

新しい!!: 文明 (日本)と小泉久遠寺 · 続きを見る »

小泉長利

小泉 長利(こいずみ ながとし)は、戦国時代の武士。朝倉氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と小泉長利 · 続きを見る »

小机城

小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と小机城 · 続きを見る »

小早川弘平

小早川 弘平(こばやかわ ひろひら、生没年不詳)は、戦国時代の安芸国の国人領主。竹原小早川氏の第12代当主。室町幕府奉公衆。父は小早川弘景。元服時には、家の慣例に倣って大内政弘より偏諱を受け弘平と名乗る。.

新しい!!: 文明 (日本)と小早川弘平 · 続きを見る »

小早川弘景 (二代)

小早川 弘景(こばやかわ ひろかげ)は、室町時代から戦国時代の武将。安芸の国人領主で、竹原小早川氏11代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小早川弘景 (二代) · 続きを見る »

小早川煕平

小早川 煕平(こばやかわ ひろひら)は、室町時代中期から後期の武将。安芸国を拠点に置く沼田小早川氏の当主。諱の「煕」の字は、同国守護・山名時熙の偏諱を受けたものと考えられる。.

新しい!!: 文明 (日本)と小早川煕平 · 続きを見る »

小早川敬平

小早川 敬平(こばやかわ たかひら)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。沼田小早川氏の当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と小早川敬平 · 続きを見る »

小早川扶平

小早川 扶平(こばやかわ すけひら)は、戦国時代の武将。安芸・備後の国人領主。沼田小早川氏の当主。 文明17年(1485年)、小早川敬平の長男として生まれる。明応8年(1499年)、父の死去により家督を継いで当主となる。父の時代に小早川氏は勢力を拡大したが、扶平は室町幕府の管領・細川政元の勢力を後ろ盾にして文亀元年(1501年)に杉原氏の領地であった備後三原を自らの領土とした。永正元年(1504年)には備後三原の代官職を与えられた。これらは全て政元の計らいによるものである。 しかし永正4年(1507年)、細川政元が家臣によって暗殺され(永正の錯乱)、さらに政元によって追放されていた第10代将軍足利義稙が大内義興によって奉じられて上洛を開始すると、扶平は義興から上洛に参加するように圧力を受けるようになる。また、分家の竹原小早川氏の当主・小早川弘平も本家の扶平に反抗して大内義興に恭順するなど、事態が切迫していく中で扶平は心労により病に倒れ、去就を定めないまま永正5年(1508年)1月14日に死去した。跡を長男の興平が継いだ。24歳で夭逝したが、子は3人いたとされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と小早川扶平 · 続きを見る »

尭胤法親王

堯胤法親王(ぎょういんほっしんのう、長禄2年(1458年) - 永正17年8月26日(1520年10月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての法親王。父は伏見宮貞成親王の子貞常親王。 応仁2年(1468年)京都三千院で出家した。後花園天皇の猶子となって文明3年(1471年)親王宣下を受ける。明応2年(1493年)天台座主に就任し、焼失した比叡山根本中堂の再建に尽力した。 Category:日本の親王 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:天台座主 Category:1458年生 Category:1520年没 Category:伏見宮.

新しい!!: 文明 (日本)と尭胤法親王 · 続きを見る »

尼子久幸

尼子 久幸(あまご ひさゆき)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と尼子久幸 · 続きを見る »

尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と尼子経久 · 続きを見る »

尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

新しい!!: 文明 (日本)と尼子氏 · 続きを見る »

尼子清定

尼子 清定(あまご きよさだ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。出雲国守護代、月山富田城主。尼子氏3代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と尼子清定 · 続きを見る »

専修寺

専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗10派のうちのひとつの真宗高田派の寺院。山号は「高田山」。本山は三重県津市一身田町に、本寺は栃木県真岡市高田にあり、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づく。応長2年(1312年)に同じ浄土真宗の寺院である大谷廟堂(後の本願寺)が「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去している。また、三門徒派専照寺も建立当初は「専修寺」と号していた。.

新しい!!: 文明 (日本)と専修寺 · 続きを見る »

専称寺 (山形市)

専称寺(せんしょうじ)は、山形市緑町(旧寺町)にある真宗大谷派の寺院。山号は最上山。 本尊は阿弥陀如来伝春日作。.

新しい!!: 文明 (日本)と専称寺 (山形市) · 続きを見る »

専順

専順(せんじゅん、1411年(応永18年) - 1476年4月14日(文明8年3月20日))は、室町時代中期の連歌師。京都六角堂(頂法寺)の僧。柳本坊・春陽坊などとも号する。華道で有名な池坊の26世といわれている。 30歳代半ばから「文安月千句」、「文安雪千句」に名をあらわし、「初瀬千句」、「小鴨千句」などがある。応仁の乱で美濃守護代斎藤妙椿を頼り、美濃の地に春楊坊を結庵、その地で没した。 晩年には、宗祇が専順に師事し、「美濃千句」、「表佐千句」がある。「新撰莬玖波集」の中で、心敬、宗砌についで連歌師では第3位の入宗句数である。連歌論書に「片端(かたはし)」等がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と専順 · 続きを見る »

射水神社

射水神社 鳥居 高岡古城公園にある前田利長像前から見た射水神社の境内。 射水神社(いみずじんじゃ)は、富山県高岡市の高岡古城公園内にある神社。登記上の宗教法人名称は越中総鎮守射水神社(えっちゅうそうちんじゅいみずじんじゃ)。式内社(名神大社または小社)、越中国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は祭神の瓊瓊杵尊にちなみ「稲穂」。.

新しい!!: 文明 (日本)と射水神社 · 続きを見る »

山城国一揆

山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。 一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができる。 ○国人・・・室町時代の「在地領主」で多くの場合、守護の家臣になっていない、その国「はえぬきの武士」(地侍など).

新しい!!: 文明 (日本)と山城国一揆 · 続きを見る »

山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名宗全 · 続きを見る »

山名小太郎

山名 小太郎(やまな こたろう、生没年不詳)は、室町時代の武将。実名は不詳。山名教之の5男で豊之、豊氏、之弘、元之の弟。 文明11年(1479年)、兄の元之と甥の政之が伯耆守護職を巡って対立し、内紛が生じると元之党に属して守護側と戦った。しかし文明13年(1481年)8月に敗れて美作に逃亡、赤松氏の保護を受けた。延徳元年(1489年)、赤松氏の支援を受けた小太郎は甥で元之の子新九郎を擁立し、再度伯耆へ侵入したが、政之の弟の尚之と戦って敗れ、同国由良庄より逃亡した。その後の消息は不明(異説あり、後述)。 一説によれば小太郎は延徳元年正月、由良庄からの逃亡途中に現在の関金町付近で討死したといわれる(参考・『塩冶高貞と南條氏追録』)。赤松氏の支援を受けた小太郎が逃亡先に美作を選び、逃亡路として関金の奥にある犬挟峠を通ろうとしたことは想像に難くなく、十分に有り得る説であるが、根拠となる参考文献が示されていない。そのため、本項では参考までに留めることにする。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名小太郎 · 続きを見る »

山名之弘

山名 之弘(やまな ゆきひろ、生没年不詳)は、室町時代の武将、守護大名。伯耆守護。山名教之の3男で豊之、豊氏の弟、元之、小太郎の兄。子に澄之。官位は右馬頭。 文明3年(1471年)9月に伯耆守護だった長兄の豊之が殺害され、文明5年(1473年)に父と本家当主の山名宗全が相次いで病没、一気に山名氏が混乱していく中、伯耆守護職を継承した。同5年9月19日には伯耆下向に先立って近江坂本に滞在、11月21日には伯耆・円福寺等の諸役を免除、禁制を掲げた。 之弘は伯耆守護として美作における赤松政則の旧領回復を防ぐ立場にいたが、之弘自身は赤松氏ら東軍の影響を強く受けており、山名家中からは正統な家督とは認められなかった。そのため、之弘の在職はわずか3年程で終わり、弟の元之に守護職を譲った。以後の消息は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名之弘 · 続きを見る »

山名元之

山名 元之(やまな もとゆき、生没年不詳)は、室町時代の守護大名。伯耆守護。山名教之の4男、豊之、豊氏、之弘の弟、小太郎の兄。子に新九郎。通称は九郎(五郎とも)、官位は兵部少輔。子に新九郎。 寛正8年(1465年)9月には「山名九郎」として見え、文明8年(1476年)頃からは伯耆守護だった兄之弘に代わって家督を継承、赤松政則の支援を受けて伯耆守護職に就任した。しかし、元之は山名氏と対立する赤松氏の影響を強く受けていたため、家督相続と守護就任には山名家中から強い反発が起こり、文明11年(1479年)には守護職を巡って甥の政之と対立し、内乱となった。 本家の当主山名政豊の支援を受けた政之に対して、元之は弟の小太郎や南条氏ら国人勢力と結び対抗したが、文明13年(1481年)8月には耐え切れず円山城より河村郡竹田谷に退き、赤松氏の領国美作へ逃れた。この戦いで南条下総入道、赤松氏家臣の中村五郎左衛門らが討死し、同年9月には西伯耆の法勝寺城などで抵抗していた元之党の残党も一掃され、一連の反乱は元之の敗北に終わった。美作逃亡後の消息は不明だが、息子の新九郎が登場する延徳元年(1489年)正月までの間に没したものと推察される。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名元之 · 続きを見る »

山名豊之

山名 豊之(やまな とよゆき)は、室町時代の守護大名。伯耆守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名豊之 · 続きを見る »

山名豊之の殺害事件

山名豊之の殺害事件(やまなとよゆきのさつがいじけん)は文明3年(1471年)9月に起こった伯耆国の守護職の山名豊之が同国由良郷の嶋の地で殺害された事件のこと。文献によれば山名家家中の賊臣による謀反とされている。なお、この事件は一般的な名称が無いので本項では便宜上、上記の名称で表記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名豊之の殺害事件 · 続きを見る »

山名豊重

山名 豊重(やまな とよしげ)は室町時代の因幡守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名豊重 · 続きを見る »

山名豊氏

山名 豊氏(やまな とようじ)は室町時代の因幡守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名豊氏 · 続きを見る »

山名豊時

山名 豊時(やまな とよとき)は室町時代の因幡守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名豊時 · 続きを見る »

山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名氏 · 続きを見る »

山名是豊

山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名是豊 · 続きを見る »

山名新九郎・小太郎の乱

山名新九郎・小太郎の乱(やまなしんくろう・こたろうのらん)は、延徳元年(1489年)頃に山名新九郎、小太郎が伯耆守護山名尚之に対して起こした反乱である。 長享元年(1487年)頃より伯耆の周辺地域は赤松氏による工作で再び不穏な状況下へと置かれていた。因幡では赤松政則の重臣浦上則宗により新守護山名政実が擁立され、再び国人の毛利次郎らが反乱を起こしていた。当時の伯耆守護は山名尚之が継承していたが、赤松氏は尚之の従弟でかつて支援していた山名元之の息子新九郎らを支援、伯耆へと進出させた。 文明11年(1479年)、秋の争いと同様に新九郎らは守護と対立する南条氏の協力を得て尚之率いる軍勢と戦った。『蔭涼軒日録』によれば延徳元年(1489年)正月、新九郎は伯耆にて自刃、南条氏ら多数が討死する事態におちいった。この一報を聞いた新九郎の叔父小太郎は同国由良庄より没落、新九郎らは元之の系統への守護職回復という目的を果せないまま、この戦いは守護側の勝利で終わった。 守護職を巡る文明年間からの争いは一応豊之系の勝利で終わったが、尚之の後の守護職は尼子氏の支援を受けた従弟の澄之(叔父の山名之弘の子)の系統へと移った。加えて、一連の争乱は山名氏の勢力を確実に衰退させることにつながり、以後の伯耆は他国からの侵攻を招くようになった。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名新九郎・小太郎の乱 · 続きを見る »

山名政之

山名 政之(やまな まさゆき、生没年不詳)は、室町時代の伯耆守護。父は山名豊之、弟に山名尚之、官職は刑部少輔。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名政之 · 続きを見る »

山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名政豊 · 続きを見る »

山名政清

山名 政清(やまな まさきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名教清の子。官位は兵部少輔。 長禄年間から石見・美作の守護を受け継ぎ、応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると宗家の当主山名宗全に従って西軍に所属して戦った。この際、美作を山名忠政に任せていたが後に忠政軍も京に上ったため、この隙に美作を赤松政則に奪われ、守護職も交代させられた。文明9年(1477年)の大乱終結時には石見も大内政弘に替えられたが、その後の消息は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名政清 · 続きを見る »

山名教之

山名 教之(やまな のりゆき)は室町時代の守護大名。伯耆・備前守護。 山名熙之の子として生まれる。幼名は鶴房、のち室町幕府第6代将軍足利義教より偏諱を受けて教之と名乗る。 父・熙之が家督を継承しなかった(継ぐことなく早世したか)ため、祖父の山名氏之から直接家督を譲られ、幼くして伯耆守護の座に就く。家督の譲渡時期は不明だが、応永34年(1426年)5月には「山名鶴房」として文献に現れ、永享10年(1438年)8月には兵部少輔として見える。それ以降、40年余りに渡って伯耆国に君臨、国人衆を支配体制に組み込み、強固な地盤を築いた。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱において同族の山名持豊(宗全)・山名教清と共に赤松満祐の領国に攻め入り、満祐の首を挙げた功績で教之は恩賞として備前が与えられ、伯耆・備前2か国の守護となった。享徳2年(1453年)頃に長男の豊之に家督を譲り、応仁の乱で宗全に従い西軍の部将として戦ったが、赤松政則に備前を奪われた。また、文明3年(1471年)に豊之が伯耆で殺害されている。 文明5年(1473年)死去。次男の豊氏は同族の因幡守護山名熈幸の養子になっていたため、3男の之弘が伯耆守護職を継いだが、文明8年(1476年)に赤松政則の支持を得た4男の元之が伯耆守護となり、山名政豊の支援を受けた孫の政之と争った。.

新しい!!: 文明 (日本)と山名教之 · 続きを見る »

山吉久盛

山吉 久盛(やまよし ひさもり)は、室町時代中期の武士。越後国三条城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と山吉久盛 · 続きを見る »

山吉正盛

山吉 正盛(やまよし まさもり、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武士。.

新しい!!: 文明 (日本)と山吉正盛 · 続きを見る »

山家城 (信濃国)

山家城(やまべじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。別名、中入城。.

新しい!!: 文明 (日本)と山家城 (信濃国) · 続きを見る »

山家昌治

山家 昌治(やまべ まさはる)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏、甲斐武田氏の家臣。信濃国山家城主。当初は折野氏で、後に山家氏に改めた。 折野氏は信濃守護職小笠原氏の支流。山家氏は元々は諏訪氏の流れを汲む一族であったが、文明12年(1481年)に小笠原長朝に攻められ没落した。 山家城跡にある案内板によると、昌治は永正2年(1505年)頃に播磨国から来訪し入城したとされる。その後、山家氏に改姓した昌治は当初は小笠原長時に従っていたが、天文19年(1550年)、武田信玄の信濃府中(現 長野県松本市)侵攻の際、寝返り武田氏に従属した。 以降は信玄・勝頼の2代に仕えた。.

新しい!!: 文明 (日本)と山家昌治 · 続きを見る »

山崎城 (山城国)

山崎城(やまざきじょう)は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎にあった日本の城(山城)。山崎の戦い後、大坂城が築城するまで豊臣秀吉が本拠地としていた。別名「天王山宝寺城」や「天王山城」とも呼ばれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と山崎城 (山城国) · 続きを見る »

山中勝重

山中 勝重(やまなか かつしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尼子氏の家臣。尼子十勇士の筆頭・山中幸盛の祖父。.

新しい!!: 文明 (日本)と山中勝重 · 続きを見る »

山中貞幸

山中 貞幸(やまなか さだゆき)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。最初に山中氏を名乗った人物である。.

新しい!!: 文明 (日本)と山中貞幸 · 続きを見る »

山内直通

山内 直通(やまのうち なおみち)は、戦国時代の武将。備後国甲山城主。 直通は出雲国の尼子氏、周防国の大内氏、安芸国の毛利氏との間で独立を保った。直通の妹婿である塩冶興久や渡辺通など、近隣諸国からの亡命者の多くが直通の下で保護されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と山内直通 · 続きを見る »

山王信仰

山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰である。.

新しい!!: 文明 (日本)と山王信仰 · 続きを見る »

山科言綱

山科 言綱(やましな ときつな、文明18年4月1日(1486年5月4日) - 享禄3年9月12日(1530年10月3日))は、室町時代後期の公家。従二位、権大納言。父は山科言国、子に山科言継。正室は今川氏親の正室である寿桂尼の姉。.

新しい!!: 文明 (日本)と山科言綱 · 続きを見る »

山科本願寺

山科本願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。 周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。 現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と山科本願寺 · 続きを見る »

山田城

山田城(やまだじょう)は、栃木県矢板市大字山田小字城山にある日本の城(山城)。根小屋(根古屋)城とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と山田城 · 続きを見る »

山田奉行

山田奉行(やまだぶぎょう、江戸期の読みは「ようだぶぎょう」)は、江戸幕府の役職の一つ。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当した。伊勢奉行・伊勢町奉行・伊勢郡代・伊勢山田奉行・伊勢山田町奉行とも称された。遠国奉行の1つで老中支配。定員は1~2名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となる。役高は1000石で、役料1500俵を支給された。配下は与力6騎・同心70人・水主40人。 昭和46年に市の史跡に指定。.

新しい!!: 文明 (日本)と山田奉行 · 続きを見る »

山田三方

山田三方(やまださんぽう)は室町時代に自治都市として発展した伊勢の山田の自治機関である。三方寄合(さんぽうよりあい)、三方老若(さんぽうろうにゃく)とも呼ばれた。 永享年間(15世紀前葉)、神役人達は伊勢大神宮の刀禰の勢力を駆逐して山田に自治組織を樹立して山田三方会合所(やまださんぽうえごうしょ)という役所を設け、伊勢神宮に対しては賦課を勤仕し、爾来幕末に至るまで、山田の町政を荷負ってきた。.

新しい!!: 文明 (日本)と山田三方 · 続きを見る »

山本光幸

山本 光幸(やまもと みつゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。甲斐武田氏の足軽大将である山本勘助の近親とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と山本光幸 · 続きを見る »

居多神社

居多神社(こたじんじゃ)は、新潟県上越市五智にある神社。式内社、越後国一宮で、旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と居多神社 · 続きを見る »

岡城 (筑前国)

岡城(おかじょう)は福岡県遠賀郡岡垣町にあった山城である。他の岡城と区別するために、筑前岡城、宗像岡城とも呼ばれる。標高約40メートルの丘陵上に位置する。岡垣町指定史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と岡城 (筑前国) · 続きを見る »

岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。岡崎公園の中にある。 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。 岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と岡崎城 · 続きを見る »

岡本重親

岡本 重親(おかもと しげちか、生没年不詳)は下野国の戦国時代の武将。宮内少輔を名乗る。妻は、玉生勝定の次女。子に正重がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と岡本重親 · 続きを見る »

岩城常隆 (下総守)

岩城 常隆(いわき つねたか)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。岩城氏11代当主。陸奥国大館城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩城常隆 (下総守) · 続きを見る »

岩城親隆 (下総守)

岩城 親隆(いわき ちかたか)は、室町時代後期の武将。岩城氏10代当主。陸奥国大館城主。 岩城氏庶流・白土氏の出身であった岩城隆忠の次男として誕生。父・隆忠の代には嘉吉2年(1442年)からの嘉吉の内紛による一族の内訌を克服し、白土系岩城氏の優勢を確保していた。親隆も永享12年(1440年)、結城合戦での軍忠を賞され、室町幕府6代将軍・足利義教から御感書を下賜されている。寛正3年(1462年)、父・隆忠の死去を受け家督を継ぐ。 家督を継いだ親隆は、対立する岩城氏一門の岩崎氏や楢葉氏を滅ぼし勢力を広げた。また、文明6年(1474年)1月20日、結城政朝と同盟を結び、台頭しつつあった相馬高胤に対抗した。高胤はこの親隆の動きに対し、白河結城氏との友好関係の維持に努める一方で、岩城氏の同族で家中が乱れていた標葉氏への攻勢を強めることになる。 隠居し家督を子・常隆に家督を譲った後も共同統治し、常陸国の佐竹氏の内紛に介入するなどし勢力を広げた。 岩城氏の本城は父の代に従来の長友館から白土城に移転していたが、親隆は岩崎氏旧領の大館城に本城を移した。隠居後は白土城に留まっている。子・隆景は車城に進出し岩城氏系車氏の祖となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩城親隆 (下総守) · 続きを見る »

岩尾城 (信濃国)

岩尾城(いわおじょう)は、長野県佐久市鳴瀬岩尾にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩尾城 (信濃国) · 続きを見る »

岩切氏

岩切氏(いわきりし)は、日本の氏族の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩切氏 · 続きを見る »

岩出祭主館跡

岩出祭主館跡(いわでさいしゅかんせき/-あと)は、平安時代後期から南北朝時代初めまで、三重県度会郡玉城町岩出に構えられた伊勢神宮の祭主(神宮祭主ともいう)の住宅の遺跡である。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩出祭主館跡 · 続きを見る »

岩倉 (京都市)

岩倉(いわくら)は、京都市左京区南部に位置する地域。ここでは「岩倉」を町名に冠する京都市左京区の各町を包括する広域地名として用いる。 国立京都国際会館(岩倉南大鷺町) 岩倉具視幽棲旧居(岩倉上蔵町).

新しい!!: 文明 (日本)と岩倉 (京都市) · 続きを見る »

岩倉城 (尾張国)

岩倉城(いわくらじょう)は、尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった日本の城。市指定史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩倉城 (尾張国) · 続きを見る »

岩松家純

岩松 家純(いわまつ いえずみ)は、室町時代中期から後期の武将。岩松氏礼部家の家祖。 関東争乱で1度は没落するが、幕府の援助で復活、分裂した岩松氏を統一した。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松家純 · 続きを見る »

岩松院

岩松院(がんしょういん)は、長野県上高井郡小布施町雁田にある曹洞宗の寺院。山号は梅洞山。本尊は釈迦如来。葛飾北斎の八方睨み鳳凰図があり、小林一茶ゆかりの寺でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松院 · 続きを見る »

岩松氏

岩松氏(いわまつし)は、日本の武家。本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする足利氏の支流である。ただし、家祖である岩松時兼が弟の田中時朝と共に実父の足利義純から義絶されたため、時兼及び時朝は実母の実家である新田氏の一族と称し、新田惣領家の滅亡後は、室町幕府の足利将軍家から新田氏の後継として認められ、新田岩松氏または新田岩松家と通称されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松氏 · 続きを見る »

岩松成兼

岩松 成兼(いわまつ しげかね、生没年不詳)は室町時代中期の武将。父は岩松持国で、岩松次郎は兄にあたる。官位は左京亮。 幼名は三郎。のち古河公方足利成氏より偏諱を賜い成兼と名乗る。 長禄2年(1458年)、父が同族の岩松家純の誘いで足利成氏から堀越公方足利政知へと寝返ったので次郎・成兼兄弟も共に帰順した。 ところが、寛正2年(1461年)に父と兄が家純に暗殺された為、成兼は再度成氏に寝返った。成兼が無事だったのは長禄3年(1459年)に既に成氏側についていたからだと言われている。しかし、領地を巡って一族の鳥山家や重臣と対立し、成氏の仲介まで出されている。上野で新田荘を拠点に家純や上杉氏と戦うが、応仁2年(1468年)に綱取原合戦で上杉側が勝利する等、段々追い詰められていく。 この合戦の前後に成兼の消息は途絶える。文明元年(1469年)に家純によって新田荘から追放されたと言われている。また、後閑氏の祖になったとも言われているが定かではない。 しけかね Category:室町時代の人物.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松成兼 · 続きを見る »

岩松明純

岩松 明純(いわまつ あきずみ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松明純 · 続きを見る »

岩松昌純

岩松 昌純(いわまつ まさずみ、文明17年(1485年) - 享禄2年(1529年))は、戦国時代の武将。上野国金山城主。岩松氏。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩松昌純 · 続きを見る »

岩津松平家

岩津松平家 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩津松平家 · 続きを見る »

岩戸寺 (国東市)

岩戸寺(いわとうじ、いわとじ)は、大分県国東市国東町岩戸寺の国東半島の北東部にある天台宗の寺院。山号は石立山(いしだてさん)。1979年(昭和54年)5月15日に大分県の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と岩戸寺 (国東市) · 続きを見る »

岸地通

岸地通(きしちどおり)は兵庫県神戸市灘区の町名の一つで、昭和8年(1933年)5月、河原字岸地・上辻ノ木と鍛冶屋字西羅・大田川、稗田字桃ノ木・雨気・日照塚・泉内などから成立した。 東は都賀川を挟み神ノ木通、南は大内通、西は西郷川を挟み城内通、北は水道筋。 平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数636、人口1,244、うち男性608人、女性636人。郵便番号:657-0832。.

新しい!!: 文明 (日本)と岸地通 · 続きを見る »

島津季久

島津季久(しまづ すえひさ、応永22年(1413年) - 文明9年6月27日(1477年8月6日))は、室町時代中期の薩摩の人。薩摩島津氏の分家、豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊。 豊州家初代当主。島津宗家8代久豊の三子。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452 - 1455)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。 応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が起きると、九州でも東西両軍に別れ争いが繰り広げられた。島津宗家第10代当主の島津立久は東軍についたが、季久は西軍に属していた。他家同様どちらが勝利してもよい様にという考えからであった。 忠国・立久親子にはよく仕えたが、第11代当主である島津忠昌の時に肥後方面の戦略について忠昌と対立。帖佐で挙兵すると、本家の居城清水城に迫った。忠昌はこれにより伊集院一宇治城に避難している。しかし同じくして乱を起こした相州家の島津友久が忠昌に敗れると恭順。文明9年(1477年)死去。享年65。 法号 柱道題橋 晩年、季久は豊州家の菩提寺として総禅寺(現姶良市)を建立したが、完成を待たずして病死する。遺骸は一時近くの雲門寺に埋葬され、完成後に総禅寺に改装されたと伝えられている。 Category:室町時代の人物 すえひさ Category:1413年生 Category:1477年没.

新しい!!: 文明 (日本)と島津季久 · 続きを見る »

島津常盤

島津 常盤(しまづ ときわ、文明4年(1472年) - 大永5年10月10日(1525年10月26日))は、戦国時代の女性。新納是久の娘、島津善久の妻。日向国志布志の生まれ。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津常盤 · 続きを見る »

島津久逸

島津 久逸(しまづ ひさやす)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・伊作家8代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津久逸 · 続きを見る »

島津忠広 (豊州家)

島津 忠広(しまづ ただひろ)は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩島津氏の分家、豊州家4代当主。父は3代当主の島津忠朝。子に島津賀久(養子)、島津忠親(養子、5代)。 薩摩島津氏の分家である豊州家4代当主。3代当主、忠朝の子。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏に反乱した勢力から援軍を要請されると、美作守の独断で出兵し、敗北している。その後も度々伊東氏の侵攻を受けるが、飫肥の本城を守り抜いた。 島津宗家で15代当主島津貴久と前当主島津勝久の争いが起きると勝久の重臣であった肝付兼演・本田薫親などと共謀し、天文10年(1541年)、貴久の父・島津忠良の娘婿である樺山善久を攻撃するが、忠良の家臣である伊集院忠朗により撃退されている。同12年(1543年)には伊東義祐が攻勢を強め、日向にある島津家の砦が次々と陥落。同14年(1545年)、貴久が宗家をまとめ伊集院一宇治城を居城とすると、北郷忠相とともに伊集院へ向かい貴久を薩摩守護としその指示に従うことを申し出た。 天文15年(1546年)、養子の二郎三郎賀久(島津忠隅の子)が夭逝したために北郷氏より忠親を養子に迎える。同18年(1549年)に家督を忠親に譲り隠居。同20年(1551年)死去。享年69。 category:戦国武将 たたひろ Category:1482年生 Category:1551年没.

新しい!!: 文明 (日本)と島津忠広 (豊州家) · 続きを見る »

島津忠廉

島津 忠廉(しまづ ただかど)は、室町時代中期の薩摩国の武将。島津豊州家第2代当主。島津季久の長男。 長禄3年(1453年)、父季久とともに蒲生氏の居城・蒲生城を攻撃し、蒲生の地を支配下に置く。文明5年(1473年)、伊作家の島津久逸が反乱を起こすと、当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の島津忠昌に叛旗を翻す。しかし薩州家の島津国久や肥後国の相良為続の説得により兵を収め、久逸が鹿児島へ攻め寄せると忠昌に従い、久逸の軍勢を撃退した。 文明18年(1486年)、忠昌の命で新納氏・伊作家に替わってそれぞれの本拠であった飫肥城・櫛間城を与えられる。飫肥城に入ると、伊東氏の侵攻をたびたび阻止している。延徳3年(1491年)、摂津天王寺にて死去した。享年52。宗祇から『古今和歌集』や『伊勢物語』の奥義を伝授されたほか、桂庵玄樹に朱子学を学んだと言われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津忠廉 · 続きを見る »

島津忠国

島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫、陸奥守。法名は大岳玄誉。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津忠国 · 続きを見る »

島津忠興 (薩州家)

島津 忠興(しまづ ただおき)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家4代当主。 文明18年(1486年)、薩州家3代当主・島津成久(重久とも)の子として誕生。 明応9年(1500年)、薩州島津家に内乱が起き、敵対する島津忠福(太田氏祖・島津延久の次男または羽州家・島津有久の子か)の拠る加世田城を攻め、忠福に加勢した島津久逸(島津忠良の祖父)を討ち取った。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津忠興 (薩州家) · 続きを見る »

島津忠昌

島津 忠昌(しまづ ただまさ)は、室町時代後期の大名。島津氏の第11代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津忠昌 · 続きを見る »

島津国久

島津 国久(しまづ くにひさ)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家2代当主。 嘉吉2年(1442年)、薩州家初代当主・島津用久の長子として誕生。 島津宗家11代当主・島津忠昌と対立し、所領の出水で叛旗を翻す。国久は大隅国の国分方面に侵攻したが、忠昌が救援に出向いたため撤退。手薄になった加世田を占領する。同時期に国久に応じるように豊州家の島津季久・相州家の島津友久が反乱を起こす。友久は鎮圧され季久も降伏するが、国久は出水で勢力を保っていた。 文明16年(1484年)、伊作家の島津久逸が忠昌に背き鹿児島に侵攻すると、忠昌に従い鹿児島の守備についている。また季久の子で豊州家2代当主・忠廉が久逸と時を同じくして反乱を起こすとこれを説得。味方につけて共に久逸を攻撃、久逸の反乱を治めている。こうして一種の半独立状態にあった薩州家だったが、明応7年(1498年)、国久が没すると跡目を巡り御家騒動が勃発。各分家を巻き込む騒乱となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津国久 · 続きを見る »

島津立久

島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。 父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治・樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。 日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作家を伊作城から櫛間城へ、新納家を志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。 文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。 文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を市来雲竜寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と島津立久 · 続きを見る »

崇福寺 (岐阜市)

崇福寺(そうふくじ)は、岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は神護山。織田信長、有栖川宮家ゆかりの寺院である。 本尊は延命地蔵菩薩、聖観音。 美濃三十三観音霊場第十五札所。.

新しい!!: 文明 (日本)と崇福寺 (岐阜市) · 続きを見る »

崇禅寺 (大阪市)

崇禅寺(そうぜんじ)は大阪市東淀川区にある曹洞宗の仏教寺院。山号は「凌雲山」。.

新しい!!: 文明 (日本)と崇禅寺 (大阪市) · 続きを見る »

川口分店

合名会社川口分店(かわぐちぶんてん)は、長崎県五島市にあった企業。1470年(文明2年)に創業したとされる九州で最古の企業であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と川口分店 · 続きを見る »

川崎城 (下野国)

川崎城(かわさきじょう)は、栃木県矢板市大字川崎反町小字中島(かつての下野国塩谷郡)にあった日本の城(山城)。塩谷氏の居城。正治建仁年間(1199年~1203年)の頃築城。文禄4年(1595年)2月8日廃城。塩谷城、塩谷故城、蝸牛城などとも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と川崎城 (下野国) · 続きを見る »

川内村

川内村(かわうちむら)は、福島県双葉郡にある村である。 東京電力福島第一原子力発電所事故の影響により、全村が放射能汚染地域となったため2011年(平成23年)3月17日以降、仮役場を郡山市にあるビッグパレットふくしま内に設置していたが、2012年(平成24年)4月に役場機能を村に戻した。2016年(平成28年)6月14日に全域の避難指示を解除した。.

新しい!!: 文明 (日本)と川内村 · 続きを見る »

川田景村

川田 景村(かわだ かげむら、生没年未詳?)は、室町時代の讃岐国の武将。通称七兵衛。紋は左三つ巴。桓武平氏良茂流・讃岐香川氏支族、香川景宗の七男。兄に香川景兼、景連、景秀、景冬、吉景、弟に景夏。 香川郡安原庄鳥屋城主川田景兼、内場城主川田景秀の弟にあたる。嘉吉年間、景兼らに従い川田姓へ改姓した。文明年間に土佐国へ赴いた際、阿波国麻植郡川田八幡の分霊を土佐郡森郷相川に勧請し、一族の守護を仰いだ。現在も同地には分霊の際に植えられたと伝えられる「川田八幡の杉」が残る。景村来住後、天正年間には森郷一帯に川田一族が多く根付いていたことが『長宗我部地検帳』に見える。.

新しい!!: 文明 (日本)と川田景村 · 続きを見る »

川越市の歴史

川越市の歴史(かわごえしのれきし)は、埼玉県川越市の市域における歴史、自治体史である。.

新しい!!: 文明 (日本)と川越市の歴史 · 続きを見る »

巣守

巣守(すもり)とは、.

新しい!!: 文明 (日本)と巣守 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 文明 (日本)と左大臣 · 続きを見る »

左沢氏

左沢氏(あてらざわし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は左沢楯山城(現在の山形県西村山郡大江町)。.

新しい!!: 文明 (日本)と左沢氏 · 続きを見る »

巫女舞

巫女舞(みこまい・神子舞)とは、巫女によって舞われる神楽の舞の一つ。巫女神楽(みこかぐら)・八乙女舞(やおとめまい)とも。.

新しい!!: 文明 (日本)と巫女舞 · 続きを見る »

上原元秀

上原 元秀(うえはら もとひで)は、室町時代中期から後期にかけての武将。細川京兆家の家宰。.

新しい!!: 文明 (日本)と上原元秀 · 続きを見る »

上原高家

上原 高家(うえはら たかいえ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。丹波国守護代上原賢家の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と上原高家 · 続きを見る »

上原賢家

上原 賢家(うえはら かたいえ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。細川京兆家の家宰。細川家の合議機関である「内衆」の一人。.

新しい!!: 文明 (日本)と上原賢家 · 続きを見る »

上丸子 (川崎市)

上丸子(かみまるこ)は、神奈川県川崎市中原区の大字『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』、p.291。。2012年(平成24年)4月9日現在、住居表示は施行されていない。郵便番号は211-0003。2010年の国勢調査時点での面積は4.81 ha、2017年(平成29年)12月31日現在の人口は0人(0世帯)である。 なお、「丸子」を冠した上丸子山王町・上丸子天神町・上丸子八幡町・新丸子町・新丸子東・丸子通が近隣に存在するが、これらは上丸子から分立したものである(後述)。.

新しい!!: 文明 (日本)と上丸子 (川崎市) · 続きを見る »

上善寺

上善寺(じょうぜんじ)は、京都市北区にある千松山(せんしょうざん)遍照院と号する浄土宗の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と上善寺 · 続きを見る »

上領頼兼

上領 頼兼(かみりょう よりかね)は、戦国時代の武将。吉見氏家臣で、吉見氏庶流の上領氏第6代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と上領頼兼 · 続きを見る »

上野原町

上野原町(うえのはらまち)は、山梨県の北都留郡にあった町。 2005年(平成17年)2月13日に隣接する南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅した。平成の大合併以前の山梨県における町の中で白根町、櫛形町、甲西町、敷島町、中道町、白州町、河口湖町とともに数少なく「まち」と読む自治体であった(この7町も合併で消滅したが、河口湖町だけは富士河口湖町となり現在も県内で唯一「まち」を名乗っている)。.

新しい!!: 文明 (日本)と上野原町 · 続きを見る »

上野赤井氏

赤井氏(あかいし)は、日本の氏族。中世の上野国邑楽郡佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)に拠った武士。居城は館林城。.

新しい!!: 文明 (日本)と上野赤井氏 · 続きを見る »

上野長野氏

上野長野氏(こうづけながのし)は、戦国時代まで上野国西部を支配していた大身の武士である。上州長野氏とも。家紋は檜扇(ひおうぎ)。.

新しい!!: 文明 (日本)と上野長野氏 · 続きを見る »

上条城 (尾張国)

上条城(じょうじょうじょう)は、尾張国春日井郡上条(現在の愛知県春日井市上条町)に存在した日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と上条城 (尾張国) · 続きを見る »

上杉定正

上杉 定正(うえすぎ さだまさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。相模国守護。扇谷上杉家当主。一般には『南総里見八犬伝』の影響で扇谷定正の名前で知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉定正 · 続きを見る »

上杉定昌

上杉 定昌(うえすぎ さだまさ)は、室町時代後期の武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉定昌 · 続きを見る »

上杉顕定

上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉顕定 · 続きを見る »

上杉持朝

上杉 持朝(うえすぎ もちとも)は、室町時代中期の武将・守護大名。扇谷上杉家当主。相模国守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉持朝 · 続きを見る »

上杉朝良

上杉 朝良(うえすぎ ともよし)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。扇谷上杉家当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉朝良 · 続きを見る »

上杉朝昌

上杉 朝昌(うえすぎ ともまさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武士。相模国七沢城に拠ったことから七沢朝昌とも呼ばれる。 本項では朝昌の他に、その子のうち建長寺の僧・東永、朝寧、上杉憲房後室についても記述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉朝昌 · 続きを見る »

上杉房定

上杉 房定(うえすぎ ふささだ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉房定 · 続きを見る »

上杉房能

上杉 房能(うえすぎ ふさよし)は、戦国時代の守護大名。越後国守護。越後上杉家7代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉房能 · 続きを見る »

上杉政真

上杉 政真(うえすぎ まさざね)は、室町時代後期の武将・守護大名。扇谷上杉家当主。相模国守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉政真 · 続きを見る »

上杉政憲

上杉 政憲(うえすぎ まさのり)は、室町時代後期の武将。堀越公方・足利政知の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と上杉政憲 · 続きを見る »

上末城

上末城(かみずえじょう)は、愛知県小牧市の上末(かみすえ)地区にかつて存在した日本の城である。16世紀末頃に廃城となった。現在は、竹藪の中に土塁と空堀跡などが残るのみである。隣接する国道155号沿いには城跡碑や、城の歴史などが記された説明板がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と上末城 · 続きを見る »

不知行地還付政策

不知行地還付政策(ふちぎょうちかんぷせいさく)とは、室町幕府8代将軍足利義政が行った政策で、寺社本所領と荘園の回復を図った政策である。.

新しい!!: 文明 (日本)と不知行地還付政策 · 続きを見る »

不破八幡宮

不破八幡宮(ふばはちまんぐう)は、高知県四万十市不破にある神社。旧社格は県社。別称を「正八幡」・「広幡八幡宮」。 旧中村市街地の南部、四万十川を望む小丘陵上に鎮座する。.

新しい!!: 文明 (日本)と不破八幡宮 · 続きを見る »

両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。.

新しい!!: 文明 (日本)と両 · 続きを見る »

中御門宣胤

中御門 宣胤(なかみかど のぶたね、嘉吉2年(1442年) - 大永5年11月17日(1525年12月1日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。.

新しい!!: 文明 (日本)と中御門宣胤 · 続きを見る »

中野区

中野区(なかのく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。 郵便番号(上3桁)は、164・165。.

新しい!!: 文明 (日本)と中野区 · 続きを見る »

中院通秀

中院 通秀(なかのいん みちひで)は室町時代中期の公卿。従一位内大臣。十輪院内府と号す。初名は通時。歌人として知られる。准大臣中院通淳の長男。母は中院通敏の女。弟に歌人として高名な肖柏がいる。実子は女子しかなかったため、久我通博の末子通世を養嗣子として迎えた。日記『十輪院内府記』の記者として知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と中院通秀 · 続きを見る »

中津町 (岐阜県)

中津町(なかつちょう)は、かつて岐阜県恵那郡にあった町である。 中山道中津川宿を中心とした町であり、現在の中津川市の中心地である。 木曽川の支流中津川沿い地域である。現在の地名は中津川、手賀野、駒場(こまんば)などであり、そのうち、淀川町、新町、本町は中津川宿の地名である。.

新しい!!: 文明 (日本)と中津町 (岐阜県) · 続きを見る »

常山城

常山城(つねやまじょう)は日本の城。岡山県岡山市南区と玉野市にまたがる常山にあった日本の城(山城)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と常山城 · 続きを見る »

常徳院 (世田谷区)

常徳院(じょうとくいん)は、東京都世田谷区宮坂にある寺院。曹洞宗に属し、山号を「観谷山」という。寺伝などによれば、開基は足利義尚といわれる。本尊の十一面観音像は慈覚大師円仁作と伝えられ、毎年8月20日の開帳には多くの人々が訪れている『改訂・せたがやの散歩道』96頁。。.

新しい!!: 文明 (日本)と常徳院 (世田谷区) · 続きを見る »

常国寺

常国寺(じょうこくじ)は、広島県福山市熊野町にある日蓮宗の寺。山号は広昌山。 建立は1486年(文明18年)、当時沼隈半島一帯を領有していた渡辺兼(山田渡辺氏)による。旧本山は京都本法寺。親師法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と常国寺 · 続きを見る »

常楽寺 (半田市)

常楽寺(じょうらくじ)は、愛知県半田市にある西山浄土宗の寺院。山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と常楽寺 (半田市) · 続きを見る »

丹羽氏清

丹羽 氏清(にわ うじきよ)は、戦国時代の武将。尾張国本郷城3代城主にして、同国岩崎城初代城主。 初めは尾張本郷城に住んでいたが、天文年間に尾張・三河国双方の要害の地である岩崎の地に城を築き、移り住んだとされる。しかし、それより前の享禄2年(1529年)、三河岡崎城主・松平清康と、織田信秀の属将・荒川頼宗との間で享禄(岩崎)の戦いが岩崎城にて起こっていることが判明している。 永禄2年(1559年)、死去。享年75。.

新しい!!: 文明 (日本)と丹羽氏清 · 続きを見る »

丹生官省符神社

拝殿 本殿 丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。 本殿は国の重要文化財(建造物)重要文化財としての名称は「丹生官省符神社本殿」、境内は国の史跡「高野山町石」の一部。本殿はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部、pp.39,75。.

新しい!!: 文明 (日本)と丹生官省符神社 · 続きを見る »

丹生川上神社下社

丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 社名は川上村の丹生川上神社上社に対するものである。.

新しい!!: 文明 (日本)と丹生川上神社下社 · 続きを見る »

丹生都比売神社

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である神社由緒書によれば、全国に社名を「丹生神社」とする神社は88社、丹生都比売神を祀る神社は108社(摂末社を入れると180社あまり)あり、丹生都比売神社はそれらの総本社という。。。:特筆性なし--> 「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と丹生都比売神社 · 続きを見る »

七口の関

七口の関(ななくちのせき)とは、中世に地方より京都に入る7つの街道(京都七口〈きょうとななくち)に設置された関所のこと。京都七口関(きょうとななくちのせき)という呼称も存在する。.

新しい!!: 文明 (日本)と七口の関 · 続きを見る »

布多天神社

布多天神社(ふだてんじんじゃ)は東京都調布市調布ヶ丘1丁目に鎮座する神社である。式内社。旧社格は郷社。 この神社は布田5宿の総鎮守であり、当時この神社の市場は賑わったとされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と布多天神社 · 続きを見る »

世尊寺行季

世尊寺 行季(せそんじ ゆきすえ、文明8年(1476年) - 享禄5年2月11日(1532年3月17日))は、戦国時代の公卿・書家。世尊寺家の最後の当主。参議・世尊寺行康の養子。実は権大納言・清水谷実久の子。官位は正二位・参議。.

新しい!!: 文明 (日本)と世尊寺行季 · 続きを見る »

市谷亀岡八幡宮

市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と市谷亀岡八幡宮 · 続きを見る »

万寿寺 (大分市)

万寿寺山門 万寿寺仏殿 万寿寺(まんじゅじ)は、大分県大分市金池町にある臨済宗妙心寺派の寺院である 一般社団法人 大分市観光協会。山号は蔣山(まこもさん 大分歴史事典(大分放送)、しょうざん 大分合同新聞社、2009年9月25日)。本尊は釈迦三尊像。萬壽興聖禅寺とも言う。.

新しい!!: 文明 (日本)と万寿寺 (大分市) · 続きを見る »

万里小路冬房

万里小路 冬房(までのこうじ ふゆふさ)は、室町時代中期の公卿。内大臣万里小路時房の子。公家の身でありながら、幼年より仏教への帰依が深く『応仁略記』下「公家仁所々に暫住之事」、応仁の乱を機に出家して、最期は補陀落渡海を遂げた。初名は成房。.

新しい!!: 文明 (日本)と万里小路冬房 · 続きを見る »

万里小路春房

万里小路 春房(までのこうじ はるふさ、宝徳元年(1449年)- 永正6年9月11日(1509年10月24日))は室町時代後期の公家。甘露寺親長の長男で当初は甘露寺 氏長(かんろじ うじなが)と称していたが、後に万里小路家を継いで改名した。室は二楽院宋世(飛鳥井雅康)の娘。 寛正2年4月13日(1461年5月22日)に13歳の若さで右少弁に任ぜられ、同4年4月13日(1463年5月1日)に蔵人就任の拝賀を行っており、この時までに後花園天皇の蔵人に補任され、次の後土御門天皇の践祚後も蔵人を務めた。 文正2年1月5日(1467年2月9日:3月に「応仁」と改元)、万里小路家に養子入りして「万里小路春房」と改名する。万里小路家の当主であった万里小路冬房(正二位前権大納言)は隠退の意思が強く、後継者もいないことから同じ勧修寺流でこれまでも同家に養子を入れた事があった甘露寺家から後継者が選ばれたのである。応仁元年9月20日(1467年10月18日:後花園院出家の日)に冬房は従一位に叙されて准大臣宣下が下されると、10月5日(同年11月1日)には院の後を追って出家している。 ところが、文明3年4月29日(1471年5月19日)になって右大弁宰相であった春房は突如、室町幕府の重臣であった伊勢貞親とともに自分の妹婿である近江国の朽木貞綱の所に出奔してそのまま出家するという事件を起こしてしまう。応仁の乱の最中の幕府要人の出奔に加え、甘露寺家の関係者が2人も関わっているこの騒動の原因など詳細は不明である。今泉淑夫は応仁の乱前後の公家社会の閉塞感や春房が万里小路家の保守的な家風に馴染めなかった事に原因を求め、井原今朝男は乱の真っただ中にある室町幕府内部で公家社会を巻き込む政治的内紛があり、春房もそれに巻き込まれたとする。 出家した春房は楽邦院寂誉(らくほういんじゃくよ)、江南院龍霄(こうなんいんりゅうしょう)と称したが、京都や美濃などを拠点として、和歌や実父譲りの蹴鞠などを通じて皇室や摂家・同族の勧修寺流をはじめとする京都の公家社会や文化人と関係を持った他、日明貿易にも関わり、自身も遣明船にて明に渡航している。また、朝廷や実家の甘露寺家及びその親族(従兄弟で親友でもあった三条西実隆など)などの経済活動の支援も行っている。文亀2年(1502年)に行われた春日社法楽歌会でも義父の二楽院宋世とともに中心的な役割を果たした。.

新しい!!: 文明 (日本)と万里小路春房 · 続きを見る »

三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.

新しい!!: 文明 (日本)と三好之長 · 続きを見る »

三好長秀

三好 長秀(みよし ながひで)は、戦国時代(室町時代後期)の武将。細川氏の重臣。三好之長の嫡男。子に元長、康長など(但し、元長は之長の子といわれる説もあり、長秀の弟であるとする説もある)。三好長慶の祖父に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と三好長秀 · 続きを見る »

三宿神社

三宿神社(みしゅくじんじゃ)は東京都世田谷区三宿にある神社。境内は多聞寺(廃寺)の跡地の一部を利用しており、1885年(明治18年)に多聞寺の伽藍であった毘沙門堂の前に拝殿を増築して三宿神社と名付けた。.

新しい!!: 文明 (日本)と三宿神社 · 続きを見る »

三宅城

三宅城(みやけじょう または みあけじょう)は大阪府茨木市にあった日本の城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である。.

新しい!!: 文明 (日本)と三宅城 · 続きを見る »

三宅記

三宅記(みやけき)は、伊豆地方の神々の縁起。.

新しい!!: 文明 (日本)と三宅記 · 続きを見る »

三島暦

三島暦(みしまごよみ)とは、応仁・文明(室町時代)頃から1872年(明治5年)まで伊豆の有力者である河合家が作成して、三嶋大社より一般に頒布された暦である。.

新しい!!: 文明 (日本)と三島暦 · 続きを見る »

三上氏

三上氏(みかみし)は日本の氏族のひとつで近江国野洲郡三上郷を本拠地とする一族とされる。 その他、出自の異なる三上氏では、因幡国の奉公衆系国人領主、沙沙貴神社社家などにもいた。公家や庄屋にも三上家がいるが、内容が希薄なため、このページに記載する。.

新しい!!: 文明 (日本)と三上氏 · 続きを見る »

三上政実

三上 政実(みかみ まさざね)は、室町時代中期から戦国時代の人物で、因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持っていた三上氏の一族。 政実は文明12年(1480年)7月27日付の「政所賦銘引付」に見える。それによれば政実の曽祖父は近江入道周通であるといい、後の兵庫頭経実はその名乗り、官職を踏まえて政実の子供あるいは孫である可能性が高い。少なくとも政実は経実と非常に近い血縁関係を有していたと考えられる。当時は建仁寺と「三条坊領東洞院屋地」を巡って相論しており、同年11月には土地に関して「曽祖父の近江入道以来代々知行していたが、自身が幼少時に伯母に当たる人物が文書を盗み出し、建仁寺に売却してしまった」と反論している。 このほか、政実は文明14年(1485年)9月16日の足利義尚の伊勢神宮参拝に供奉し、長享元年(1487年)9月12日の義尚の六角氏攻撃による近江国出陣の際にも従軍していることが確認されている。 文献上では政実以降、三上氏は「兵庫頭」の官職を名乗っている。 まささね Category:室町幕府奉公衆 Category:15世紀生.

新しい!!: 文明 (日本)と三上政実 · 続きを見る »

三帖和讃

親鸞筆「三帖和讃」(専修寺蔵)「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。 三帖和讃(さんじょうわさん)は、親鸞の著作である『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の総称である。南北朝時代には、この総称が用いられるようになる。高田派では、『皇太子聖徳奉讃』75首を加えて「四帖和讃」と総称することも。三帖和讃は1953年(昭和28年)11月14日、国宝に指定された。 親鸞は、晩年まで加筆、再訂する。真跡本は、完全なものは発見されていない。専修寺蔵の「国宝本」に一部が真跡と認められる限りである。「文明本」など書写本が数多く残る。書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なる。後に本願寺第八世 蓮如によって「正信念仏偈」とともに「三帖和讃」(文明本)が開版され、門徒の朝夕の勤行に用いられるようになる。.

新しい!!: 文明 (日本)と三帖和讃 · 続きを見る »

三井城

三井山城(みいやまじょう)は、現在の岐阜県各務原市三井山町にある、室町・戦国時代の日本の城である。別名三井城。標高108.8mの三井山の山頂にある。.

新しい!!: 文明 (日本)と三井城 · 続きを見る »

三念寺

三念寺(さんねんじ)は、東京都文京区にある真言宗豊山派の寺院。山号は薬王山。.

新しい!!: 文明 (日本)と三念寺 · 続きを見る »

三刀屋氏

三刀屋氏が根拠地とした三刀屋城遠景 三刀屋氏(みとやし、みとやうじ)は、日本の氏族の一。清和源氏満快流信濃源氏一族を称した三刀屋氏が有名で、この一族は出雲国に住した後に三刀屋を名字とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と三刀屋氏 · 続きを見る »

三郷村 (岐阜県恵那郡)

三郷村(みさとむら)は、かつて岐阜県恵那郡にあった村である。 現在の恵那市三郷町にあたり、平成の大合併以前の恵那市南西部に該当する。なだらかな丘陵地域の山村であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と三郷村 (岐阜県恵那郡) · 続きを見る »

三重塔

三重塔(さんじゅうのとう)は、仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)をおさめる仏塔の形式の一種。同種のものに五重塔などがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と三重塔 · 続きを見る »

三条実香

三条 実香(さんじょう さねか、文明元年(1469年) - 永禄2年2月25日(1559年4月2日))は室町時代の公卿。三条公敦の子。子には三条公頼、三条香子(伏見宮貞敦親王室、伏見宮邦輔親王母)がいる。号は後浄土寺。法名は諦空。.

新しい!!: 文明 (日本)と三条実香 · 続きを見る »

三条実量

三條 實量(さんじょう さねかず)は、日本の室町時代の公卿。.

新しい!!: 文明 (日本)と三条実量 · 続きを見る »

三条公頼

三条 公頼(さんじょう きんより、1495年(明応4年) - 1551年9月30日(天文20年9月1日))は、戦国時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主。太政大臣三条実香の子。官位は従一位左大臣。後龍翔院左大臣を号す。.

新しい!!: 文明 (日本)と三条公頼 · 続きを見る »

三条公敦

三条 公敦(さんじょう きんあつ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 左近衛中将・尾張権守・権中納言・権大納言などを経て、文正元年(1466年)に右近衛大将、文明7年(1475年)には左近衛大将、内大臣となった。さらに文明8年(1476年)には従一位、文明11年(1479年)に右大臣に任じられるも翌年には辞職。文明13年(1481年)、43歳で出家した。 きんあつ Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1439年生 Category:1507年没.

新しい!!: 文明 (日本)と三条公敦 · 続きを見る »

三条西実隆

三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。内大臣・三条西公保の次男。.

新しい!!: 文明 (日本)と三条西実隆 · 続きを見る »

三条西公条

三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)は、戦国時代の公卿・歌人・和学者。孫に三条西公国、外孫に中院通勝、玄孫に春日局が、甥に九条稙通がいる。称名院と号する。.

新しい!!: 文明 (日本)と三条西公条 · 続きを見る »

三河稲垣氏

垣氏(いながきし)は、日本の武家氏族の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と三河稲垣氏 · 続きを見る »

三河真木氏

三河真木氏(みかわまきし)は、三河国に分布・居住する氏族真木氏のことである。真木氏は史料により、牧氏・槙(槇)氏とも表記される場合がある。この三者は異なる出自を持つ可能性もあるが、関係史料では混用も見られるため、出自については複雑であり、同一視されて説明されることもある。 三河真木氏は14世紀半ばに、三河国外より移住したという伝承もあり、室町時代初期には三河国宝飯郡中條郷鍛冶村(現在の愛知県豊川市中条町付近)を中心として土豪化していたと考えられ、また氏神の加知天神社(上記中条町 宮坪 鎮座の中條神社)の伝承から、一族は製鉄や鍛冶などに関わりが深かったともみられている。 しかし室町時代に、この三河国に勢力を伸ばしてきた戦国大名今川氏の影響の下、東三河の国人領主牧野氏を盟主とする牛久保六騎・牛久保衆(牧野組)を構成し、しばしば今川方として参陣したが戦国時代末期には、牧野氏の寄騎のまま徳川氏に転属し、後には徳川譜代大名となった牧野氏の家臣団に組み入れられた。真木氏は他の牛久保寄騎と異なり、徳川氏の大名・旗本にはならず、牧野氏家中の重臣となった。特に越後長岡藩では先法三家の一つに数えられ、家中で別格の扱いを受けた。ほかに越後長岡藩牧野家の分家支藩である信濃小諸藩や越後三根山藩にも真木(槇)氏が家老・上級家臣として存在する。.

新しい!!: 文明 (日本)と三河真木氏 · 続きを見る »

三河牧野氏

讃岐屋敷の門(牧野村牧野氏屋敷跡) 三柏紋(牧野柏)、讃岐屋敷門の瓦の拡大 三河牧野氏(みかわまきのし)は、三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族のことである。この族の中から越後長岡藩主をはじめとする5つの近世大名・牧野氏の流れが輩出した。.

新しい!!: 文明 (日本)と三河牧野氏 · 続きを見る »

三木城

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。.

新しい!!: 文明 (日本)と三木城 · 続きを見る »

三木久頼

三木 久頼(みつき ひさより)は室町時代の武将。飛騨三木氏の当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と三木久頼 · 続きを見る »

三本松城の戦い

三本松城の戦い(さんぼんまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に行われた合戦のうちのひとつ。天文23年(1554年)3月から8月にかけて、大内義長と陶晴賢が、石見国三本松城(現在の津和野城)城主である吉見正頼(吉見氏第10代当主)を攻めた戦いである。城址の説明板などでは「三本松城の役」とも表記されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と三本松城の戦い · 続きを見る »

三浦高救

三浦 高救(みうら たかひら)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武士。.

新しい!!: 文明 (日本)と三浦高救 · 続きを見る »

三浦時高

三浦 時高(みうら ときたか、応永23年(1416年) - 明応3年9月23日(1494年10月22日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。別名は義高。相模三浦氏当主で扇谷上杉家の下で相模守護(守護代とも)を務める。三浦高明の子。姉妹に大森氏頼室。子に高教、養子に高救(上杉持朝の次男)・義同(高救の嫡男)。相模三浦郡三崎城(新井城)主。法号は聖庵。.

新しい!!: 文明 (日本)と三浦時高 · 続きを見る »

下妻城

下妻城(しもつまじょう)は、常陸国関郡下妻荘(現在の茨城県下妻市)にあった日本の城。多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城(たがやじょう)とも称し、地元では一般にこの名称を用いている茨城城郭研究会 編(2006):174ページ。 城郭は広大で旧真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであった下妻市史編さん委員会 編(1993):389ページ。1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたとされるが、1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、現在では多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と下妻城 · 続きを見る »

下田城 (土佐国)

下田城(しもだじょう)は高知県に存在した中世の日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と下田城 (土佐国) · 続きを見る »

下館城

下館城(しもだてじょう)は、現在の茨城県筑西市甲(本城町)にあった日本の城。筑西市指定文化財(史跡)。.

新しい!!: 文明 (日本)と下館城 · 続きを見る »

下館市

下館市(しもだてし)は、かつて茨城県北西部にあった市。下館都市圏の中核をなしていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と下館市 · 続きを見る »

下館羽黒神社

下館羽黒神社(しもだてはぐろじんじゃ)は、茨城県筑西市甲(大町)にある神社である。下館(筑西市下館地区・旧下館市中心部)の氏神であり、正式には羽黒神社だが、各地に存在する羽黒神社と区別するために下館羽黒神社と呼ばれることが多い。.

新しい!!: 文明 (日本)と下館羽黒神社 · 続きを見る »

下間蓮崇

下間 蓮崇(しもつま れんそう、生年不詳 - 明応8年3月28日(1499年5月8日))は室町時代後期の浄土真宗本願寺派の僧。安芸法眼。 下間の姓は後に名乗ったものであり下間一門との血縁関係はない。.

新しい!!: 文明 (日本)と下間蓮崇 · 続きを見る »

下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と下野国 · 続きを見る »

下津城

下津城(おりづじょう)は尾張国中島郡下津(現在の愛知県稲沢市下津高戸町)にあった日本の城。種類は平城。「下津城址」の碑がある。一部土塁も残る。.

新しい!!: 文明 (日本)と下津城 · 続きを見る »

一向宗

一向宗(いっこうしゅう)とは、.

新しい!!: 文明 (日本)と一向宗 · 続きを見る »

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。 遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。.

新しい!!: 文明 (日本)と一乗谷朝倉氏遺跡 · 続きを見る »

一休宗純

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と一休宗純 · 続きを見る »

一色義秀

一色 義秀(いっしき よしひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての守護大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色義秀 · 続きを見る »

一色義直

一色 義直(いっしき よしなお)は、室町時代から戦国時代にかけての守護大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色義直 · 続きを見る »

一色義有

一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色義有 · 続きを見る »

一色義春

一色 義春(いっしき よしはる)は、室町時代の守護大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色義春 · 続きを見る »

一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

新しい!!: 文明 (日本)と一色氏 · 続きを見る »

一色政照

一色 政照(いっしき まさてる)は、室町時代の武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色政照 · 続きを見る »

一色時家

一色 時家(いっしき ときいえ)は、室町時代の武将。鎌倉公方足利持氏の家臣。 喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。前者の「一色刑部小輔」の名は、牛窪記・三河国二葉松にも記載がみられ、時家と同一人物とされる。一方、後者の持家は、時家が足利持氏に仕えてその偏諱を賜って名乗ったもので同一人物とみられる。更に一色持家が持氏によって相模国の守護に任じられていたことも判明している佐藤博信「室町時代の相模守護」『中世東国の支配構造』(思文閣出版、1989年)。.

新しい!!: 文明 (日本)と一色時家 · 続きを見る »

一条冬良

一条 冬良(いちじょう ふゆよし、寛正5年6月25日(1464年7月29日) - 永正11年3月27日(1514年4月21日))は戦国時代の公卿、関白。名はふゆらとも呼ぶ。号は後妙華寺。一条兼良の第二十三子。母は町顕郷女南御方。室は二条政嗣の娘。子に女子(一条房通室)、慈尊(大乗院門跡)がある。 文明4年(1472年)応仁の乱のため、避難していた奈良で元服。正五位下に叙される。兄教房が土佐国にあり、また、教房の嫡男政房が摂津国福原で横死したため、教房の養嗣子となり家督を継ぐ。文明9年(1477年)兼良とともに帰京する。長享2年(1488年)関白内大臣となる。明応2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。京都東山の東福寺に墓がある。父兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。 跡継ぎが居なかったため、兄教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 ふゆよし ふゆよし Category:1464年生 Category:1514年没.

新しい!!: 文明 (日本)と一条冬良 · 続きを見る »

一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

新しい!!: 文明 (日本)と一条兼良 · 続きを見る »

一条房家

一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代の公卿(土佐国の国司)、大名。土佐一条氏の第2代当主。関白・一条教房の次男。.

新しい!!: 文明 (日本)と一条房家 · 続きを見る »

一条政房

一条 政房(いちじょう まさふさ、嘉吉3年(1443年)? - 文明元年10月17日(1469年11月20日)は、室町時代の公卿。関白左大臣・一条教房の長男。官位は従二位・権大納言。.

新しい!!: 文明 (日本)と一条政房 · 続きを見る »

一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

新しい!!: 文明 (日本)と一条教房 · 続きを見る »

九十九王子 (御坊市)

本項目では、和歌山県御坊市に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (御坊市) · 続きを見る »

九十九王子 (田辺市中辺路町)

本項目では、和歌山県田辺市市内・旧中辺路町域内に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (田辺市中辺路町) · 続きを見る »

九十九王子 (田辺市・上富田町)

本項目では、和歌山県田辺市・上富田町内に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (田辺市・上富田町) · 続きを見る »

九十九王子 (田辺市本宮町)

本項目では、和歌山県田辺市市内・旧本宮町域内に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (田辺市本宮町) · 続きを見る »

九十九王子 (泉南市)

本項目では、大阪府泉南市内に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (泉南市) · 続きを見る »

九十九王子 (海南市)

本項目では、和歌山県海南市内に所在する九十九王子(くじゅうくおうじ)について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と九十九王子 (海南市) · 続きを見る »

九品寺 (京都市)

九品寺(くほんじ)は、京都市南区東九条にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と九品寺 (京都市) · 続きを見る »

九条政基

九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。「政」の字は足利義政から偏諱を受けたものである。慈眼院と号す。.

新しい!!: 文明 (日本)と九条政基 · 続きを見る »

平塚城

平塚城址とされる平塚神社(東京都北区) 平塚城(ひらつかじょう)は、武蔵国豊嶋郡(東京都北区)にあった日本の城。別名は豊島城。.

新しい!!: 文明 (日本)と平塚城 · 続きを見る »

平河天満宮

平河天満宮(ひらかわてんまんぐう)は、東京都千代田区平河町にある神社(天満宮)。.

新しい!!: 文明 (日本)と平河天満宮 · 続きを見る »

幸徳井家

幸徳井家(こうとくいけ/かでいけ)は、南都奈良を根拠地とした陰陽道を家業とする地下家の官人。安倍氏の末裔であるが、初代幸徳井友幸が賀茂氏の養子であったために、賀茂氏系とされるのが一般的である。.

新しい!!: 文明 (日本)と幸徳井家 · 続きを見る »

幸若舞

幸若舞(こうわかまい)は、室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。、七百年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。.

新しい!!: 文明 (日本)と幸若舞 · 続きを見る »

乾坤院

乾坤院(けんこんいん)は、愛知県知多郡東浦町にある曹洞宗の寺院で寺格は中本山別格地。山号は、宇宙山(うちゅうざん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と乾坤院 · 続きを見る »

久遠寺

師堂の御影 本堂内陣 祖師堂(撮影:2006年2月) 三門(撮影:2006年2月) 五重塔外観 五重塔内部 久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。.

新しい!!: 文明 (日本)と久遠寺 · 続きを見る »

久我通博

久我 通博(こが みちひろ)は、日本の室町時代の公卿。文明5年(1473年)までの名は、通尚(みちなお)。.

新しい!!: 文明 (日本)と久我通博 · 続きを見る »

久慈城

久慈城(くじじょう)は、岩手県久慈市に所在した日本の城。別称 新町館、八日.

新しい!!: 文明 (日本)と久慈城 · 続きを見る »

久慈氏

久慈氏(くじし)は、日本の氏族。摂待氏などがこの一族という。.

新しい!!: 文明 (日本)と久慈氏 · 続きを見る »

度津神社

度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。式内社、佐渡国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と度津神社 · 続きを見る »

享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 文明 (日本)と享徳 · 続きを見る »

享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と享徳の乱 · 続きを見る »

享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

新しい!!: 文明 (日本)と享禄 · 続きを見る »

享禄・天文の乱

享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争の総称。.

新しい!!: 文明 (日本)と享禄・天文の乱 · 続きを見る »

京目

京目(きょうめ)とは、中世から江戸時代初期にかけて京都を中心として用いられた金の秤量単位。.

新しい!!: 文明 (日本)と京目 · 続きを見る »

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

新しい!!: 文明 (日本)と京都府 · 続きを見る »

京極孫童子丸

京極 孫童子丸(きょうごく まごどうじまる、文正元年(1466年) - 文明3年(1471年))は、室町時代後期の守護大名。出雲・隠岐・飛騨・近江守護、京極氏当主。京極勝秀の子、京極持清の孫。高清の弟。 応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)に父が亡くなり、祖父も2年後の文明2年(1470年)に死去したため家督と守護職を継承した。補佐役は叔父政経と守護代多賀高忠が受け持った。しかし、もう1人の叔父政光と多賀清直がこれに反発、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まったが、文明3年(1471年)に孫童子丸は夭折した。 家督は政経が継ぐが、乙童子丸派との抗争は応仁の乱終結後も継続し、京極氏の弱体化を招いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極孫童子丸 · 続きを見る »

京極騒乱

京極騒乱(きょうごくそうらん)は、室町時代から戦国時代にかけて近江国において起こった京極氏の家督相続を巡る御家騒動の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極騒乱 · 続きを見る »

京極高清

京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。飛騨・出雲・隠岐・近江守護、後に近江半国守護で北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名・乙童子丸。 家中を2分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極高清 · 続きを見る »

京極材宗

京極 材宗(きょうごく きむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。京極政経の子。吉童子丸の父。初めは父より一字を与えられて経秀(つねひで)と名乗っていたが、後に室町幕府第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を賜り改名した。 文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命、多賀高忠を所司代に任命された。この処置は父政経を京極氏当主に復帰させ、従兄の京極高清を追放する目論見があった。しかし、父が配下の所領横領を阻止出来なかったことが将軍足利義材の怒りを買い、家督を高清に代えられると材宗も失脚、明応の政変で義材が廃位されると京極氏復帰を狙った。 父が高清に敗れて出雲へ下向した後も高清と戦い、文亀元年(1501年)に浅井直種を従えて今浜を攻めたが、上坂家信の防戦で失敗。文亀2年(1502年)、永正2年(1505年)にも高清を攻撃したが失敗、同年に高清と和睦したが、永正4年に高清に自殺させられた。 翌永正5年(1508年)に父も亡くなり、子の吉童子丸は父から家督を譲られたとされるがその後行方不明、出雲は守護代尼子経久の領国となった。また、京極高吉の父ともされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極材宗 · 続きを見る »

京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極氏 · 続きを見る »

京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極持清 · 続きを見る »

京極政光

京極 政光(きょうごく まさみつ)は、室町時代の武将。京極持清の次男。 初めは佐々木氏庶流の黒田氏の養子に入ったが、応仁の乱の只中に父と兄がそれぞれ応仁2年(1468年)、文明2年(1470年)に死去した。そのため家督と守護職は甥の孫童子丸が継承、政経と守護代多賀高忠が補佐した。しかし、政光はこれに不満を覚え多賀清直と共に孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まった。文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折したが、政経が次の当主になったため京極氏の抗争は継続した。 文明4年(1472年)に政経派を撃破、政経らを追放して乙童子丸を当主に据えて多賀清直と共に後見人となったが、翌年に死去。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極政光 · 続きを見る »

京極政経

京極 政経(きょうごく まさつね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護。京極持清の3男。勝秀、政光は兄、高清は甥(弟とも)。姉妹に畠山政長室。子に経秀(材宗)。官位は従五位下大膳大夫。 次兄・政光と同様、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受け、政経と名乗る。また、別名に政高(まさたか)。.

新しい!!: 文明 (日本)と京極政経 · 続きを見る »

庭田朝子

庭田 朝子(にわた あさこ、永享9年(1437年) - 延徳4年7月20日(1492年8月13日))は後土御門天皇の典侍、贈皇太后。父は権大納言庭田長賢(政賢・重賢)。後柏原天皇・尊伝入道親王の生母。後花園天皇の生母敷政門院(庭田幸子)は大叔母にあたる。 元は「近衛局」と称して足利将軍家に仕えていたが、当時親王であった後土御門天皇に召されて寵愛を受け、後に後柏原天皇を儲けた。『親長卿記』文明5年(1473年)8月5日条によれば、この日甘露寺親長が参内した際に広橋綱光から庭田長賢の娘が典侍の宣下を受けたことを知らされたと記述されている。 延徳4年(1492年)7月20日に急逝、死因は中風によるものとされる(『親長卿記』延徳4年7月19日条)。後柏原天皇即位後の永正元年(1504年)7月17日に皇太后宮の称号が贈られた。.

新しい!!: 文明 (日本)と庭田朝子 · 続きを見る »

康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 文明 (日本)と康正 · 続きを見る »

二十二社

二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社の社格の一つ。国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。平安時代後期、後朱雀天皇治世の長暦3年(1039年)に22社目の日吉社が加わり、白河天皇治世の永保元年(1081年)に制度としての二十二社が確立したとされる。京から見て遠方の神社ではなく、主に畿内の神社から選ばれた。 『二十二社註式』 写本.

新しい!!: 文明 (日本)と二十二社 · 続きを見る »

二箇相承

二箇相承(にかそうじょう)とは、1282年(弘安5年)、日蓮が、弟子の日興に宛てたとされる二通の書。二通をまとめて二箇相承といい、もともとは重須本門寺(北山本門寺)に伝えられたものであるが現在は日蓮の真筆は共に無く、写本のみが京要法寺、富士大石寺、西山本門寺等に伝えられている。またさまざまな異本が存在する。.

新しい!!: 文明 (日本)と二箇相承 · 続きを見る »

二階堂行詮

二階堂 行詮(にかいどう ゆきあきら)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。須賀川二階堂氏3代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と二階堂行詮 · 続きを見る »

二連木城

二連木城(にれんぎじょう)は、朝倉川南岸の三河国渥美郡の北の端に有った戦国時代の日本の城(現、愛知県豊橋市仁連木町)である。「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。.

新しい!!: 文明 (日本)と二連木城 · 続きを見る »

二条尚基

二条 尚基(にじょう ひさもと)は室町時代の公卿。二条政嗣の子。母は広橋兼郷の猶子、兼子。子は二条尹房。号は後如法寿院。正二位。.

新しい!!: 文明 (日本)と二条尚基 · 続きを見る »

二条政嗣

二条 政嗣(にじょう まさつぐ)は、室町時代の公卿。関白・二条持通の長男。正室は従三位兼子(権中納言広橋兼郷の猶子)。従一位。如法寿院関白と号する。.

新しい!!: 文明 (日本)と二条政嗣 · 続きを見る »

二本松持重

二本松 持重(にほんまつ もちしげ)/畠山 持重(はたけやま もちしげ)は、室町時代の武将。二本松氏第3代当主。陸奥国安達郡二本松城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と二本松持重 · 続きを見る »

二本松政国

二本松 政国(にほんまつ まさくに)/畠山 政国(はたけやま まさくに)は、室町時代から戦国時代の武将、二本松氏第4代当主。陸奥国安達郡二本松城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と二本松政国 · 続きを見る »

二日市駅

二日市駅(ふつかいちえき)は、福岡県筑紫野市二日市中央一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。九州鉄道(初代)開業時より現存する九州最古の駅の一つでもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と二日市駅 · 続きを見る »

広徳寺 (尼崎市)

広徳寺(こうとくじ)は、兵庫県尼崎市寺町にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は瑞雲山。正式には旧字体を用い「廣徳寺」と記す。 1390年に京都から尼崎の大物に移された。.

新しい!!: 文明 (日本)と広徳寺 (尼崎市) · 続きを見る »

広祥院

広祥院(こうしょういん)は、愛知県岡崎市桜形町にある曹洞宗の寺院。山号は深恩山。.

新しい!!: 文明 (日本)と広祥院 · 続きを見る »

広橋綱光

広橋 綱光(ひろはし つなみつ、永享3年6月13日(1431年7月22日) - 文明9年2月14日(1477年3月28日))は、日本の公卿。広橋宣光の子。母は神祇伯資忠王の娘・豊子女王。子に広橋兼顕。法名は秀寂、法号は引接院。贈内大臣。 文安2年(1445年)に元服して従五位下治部少輔となる。文安5年(1448年)に蔵人となり、宝徳2年(1450年)には右少弁・左少弁・権右中弁と転じ、享徳元年(1452年)に右中弁、翌年には左中弁・蔵人頭・右大弁と転じて享徳3年(1454年)に参議。康正元年(1455年)に左大弁に転じ、翌年には権中納言・右兵衛督・検非違使別当、長禄3年(1459年)以後、家職であった武家伝奏を務める。寛正6年(1465年)に従二位、文明2年(1470年)に権大納言、文明5年(1473年)に正二位。文明8年(1476年)には南都伝奏を兼務。 武家伝奏のみならず、後土御門・後柏原両天皇の乳母(守子、大典侍)や二条政嗣室を娘に持つなど、宮廷にも強い人脈を有し、死の間際には摂関家の左右両大臣が有していなかった従一位に叙されて准大臣宣下を受けている。 つなみつ Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1431年生 Category:1477年没.

新しい!!: 文明 (日本)と広橋綱光 · 続きを見る »

五十子の戦い

五十子の戦い(いらこのたたかい・いかごのたたかい)は、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏一族の間で行われた戦いである。享徳の乱における激戦の一つで、武蔵国五十子(現在の埼玉県本庄市五十子)周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦を指す。ただし、文明9年(1477年)の合戦が大規模であったため、この戦いのみを指す場合もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と五十子の戦い · 続きを見る »

五条為学

五条 為学(ごじょう ためざね、文明4年(1472年) - 天文12年6月30日(1543年7月31日)は、室町・戦国時代の公卿。五条為親の子。幼名は文地丸。日記『拾芥記』で知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と五条為学 · 続きを見る »

五條天神社 (台東区)

五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)は、東京都台東区の上野公園にある神社である。医薬祖神を主神とするが、天満宮でもある。また、稲荷神社である花園稲荷神社(はなぞのいなりじんじゃ)が併設されているが、兼務社であって境内社ではない。.

新しい!!: 文明 (日本)と五條天神社 (台東区) · 続きを見る »

五所川原市

五所川原市中心市街地周辺の空中写真/1975年撮影の6枚を合成作成。国土航空写真。 五所川原市(ごしょがわらし)は、日本の東北地方最北部、津軽半島中南部に位置し、青森県西部に所在する市である。旧市浦村域は飛地となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と五所川原市 · 続きを見る »

庄氏

庄氏(しょうし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国に割拠していた武士団のひとつで、武蔵七党の一角を占める児玉党を構成した氏族である。鎌倉時代初期に惣領家は西遷し、備中国の有力な国人となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と庄氏 · 続きを見る »

了庵桂悟

了庵桂悟(りょうあんけいご、応永32年(1425年) - 永正11年9月15日(1514年10月3日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての臨済宗の僧。諱は仏日禅師。 山城国真如寺の大疑宝信の法を継ぎ、伊勢国安養寺を経て、1478年(文明10年)東福寺の住持となった。三条西実隆の推挙によりその名を高め、朝廷でしばしば禅を説いた。1506年(永正3年)、後土御門天皇より遣明使の正使に任じられて1511年(永正8年)明に渡り、貿易品の価格交渉や文人との交流を行った。1513年(永正10年)に帰国するが、その際の寧波滞在時に、王陽明から帰国を送る文を贈られている。その後は南禅寺や東福寺大慈院に住した。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:1425年生 Category:1514年没.

新しい!!: 文明 (日本)と了庵桂悟 · 続きを見る »

井原市

井原市(いばらし)は、岡山県南西部、広島県との県境に位置する市である。.

新しい!!: 文明 (日本)と井原市 · 続きを見る »

井上元兼

井上 元兼(いのうえ もとかね)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸国天神山城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と井上元兼 · 続きを見る »

井伊直平

井伊 直平(いい なおひら)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎・井伊直政の曾祖父。一説には、徳川家康の正室・築山殿の外祖父に当たると言われる。その場合、直平は松平信康の曾祖父になる。.

新しい!!: 文明 (日本)と井伊直平 · 続きを見る »

井草川

井草川(いぐさがわ)とは、東京都を流れる普通河川であり、荒川水系妙正寺川の支流である。全区間が東京都杉並区内であり、暗渠化されている。一部の河道上が遊歩道として整備されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と井草川 · 続きを見る »

井波城

井波城(いなみじょう)は、富山県南砺市井波に在った日本の城。「礪波城」「瑞泉寺城」ともいう。市史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と井波城 · 続きを見る »

事代主神社 (新上五島町)

事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は、長崎県新上五島町似首(にたくび)郷に鎮座する神社である。.

新しい!!: 文明 (日本)と事代主神社 (新上五島町) · 続きを見る »

亀崎潮干祭

亀崎潮干祭(かめざきしおひまつり)は、愛知県半田市亀崎町で毎年5月3日・4日に行われる神前神社(地元では、旧社格より「県社」と呼ばれている)の祭礼である。.

新しい!!: 文明 (日本)と亀崎潮干祭 · 続きを見る »

今尾城

今尾城(いまおじょう)は岐阜県海津市の中世の日本の城(平城)。揖斐川左岸に位置する。遺構はほとんど残っておらず、敷地の一部は海津市立今尾小学校になっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と今尾城 · 続きを見る »

今尾陣屋

今尾陣屋(いまおじんや)は岐阜県海津市平田町今尾(美濃国安八郡)にあった尾張藩附家老を務めた竹腰(たけのこし)氏の陣屋である。.

新しい!!: 文明 (日本)と今尾陣屋 · 続きを見る »

今川基氏

今川 基氏(いまがわ もとうじ、正嘉3年(1259年) - 元亨3年4月8日(1323年5月13日))は鎌倉時代の武将。三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町付近)に興った今川氏の第2代当主。今川国氏の嫡子。幼名は龍王丸「龍王丸」の訓みは文明期の史料『大館記』に「今河辰王」と表記され、「タツオウマル」ではないかとする説がある。名付けの由来は父・国氏が基氏の誕生に際して産屋に祈りを込めて源氏の宝剣「龍丸」を飾ったことに因むと云う。以後、「龍王丸」は今川宗家嫡子の幼名として相伝された。、元服後の通称は太郎。父より今川荘を継いだ。基氏までは今川荘に居住したが、やがて遠江国引間荘に移住したという。後に駿河国・遠江国で守護大名・戦国大名となる今川氏の発展の端緒を開いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と今川基氏 · 続きを見る »

今川義忠

今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と今川義忠 · 続きを見る »

今川貞延

今川 貞延(いまがわ さだのぶ)は、室町時代中期の武将。遠江今川氏6代目当主。陸奥守、遠江守護。堀越貞延(ほりこし さだのぶ)とも。.

新しい!!: 文明 (日本)と今川貞延 · 続きを見る »

今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と今川氏親 · 続きを見る »

今井城 (武蔵国)

今井城(いまいじょう)とは、かつて東京都青梅市に存在した城である。.

新しい!!: 文明 (日本)と今井城 (武蔵国) · 続きを見る »

今井信元

今井 信元(いまい のぶもと)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。甲斐国逸見の領主。.

新しい!!: 文明 (日本)と今井信元 · 続きを見る »

今出川季孝

今出川 季孝(いまでがわ すえたか、文明11年(1479年)‐永正16年10月5日(1519年10月28日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたって仕え、官位は正二位権大納言まで昇る。父は右大臣今出川公興。母は権中納言高倉永豊の娘。 延徳元年(1489年)叙爵して以降累進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、文亀2年(1502年)従三位となり、公卿に列する。その後権中納言を経て、永正11年(1514年)権大納言就任。永正16年(1519年)に死去。享年41。.

新しい!!: 文明 (日本)と今出川季孝 · 続きを見る »

今出川公興

今出川 公興(いまでがわ きんおき、文安2年(1445年)野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年、p.80/文安3年(1446年) - 永正11年2月4日(1514年2月28日))は、室町時代の公卿。父は左大臣今出川教季。主に後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたり仕え、官位は従一位左大臣まで進む。母は権中納言高倉永豊の娘。初名は公尚(きんなお)。子に今出川季孝。 文明5年(1473年)に従三位・左近衛中将となり、公卿に列する。文明6年(1474年)に公興と改名する。文明7年(1475年)に権中納言に任ぜられ、文明8年(1476年)には正三位に進む。文明12年(1480年)に権大納言となる。延徳元年(1489年)には従二位に進み、右近衛大将・内大臣に任ぜられる。延徳2年(1490年)には正二位に進む。延徳3年(1491年)に辞したが、明応4年(1495年)には従一位に進む。明応5年(1496年)に右大臣となる。明応6年(1497年)には左大臣へ昇格し、永正2年(1505年)まで同職にあった。.

新しい!!: 文明 (日本)と今出川公興 · 続きを見る »

今出川教季

今出川 教季(いまでがわ のりすえ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 今出川実富の次男として生まれるが、初めは慈雲院(妙心寺内)に入れられていたようである松薗斉「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010年、p.3、参考史料は『看聞日記』)。。史料によれば、教季が生まれる前の応永28年(1421年)には当時流行りの疫病によって祖父・公行や兄・公富が既に亡くなっており、そして正長元年(1428年)には父・実富までもが相次いで死去したため、家の中核である左馬寮領が他家に分け与えられたり、家芸である琵琶の楽器や楽譜が本家筋の西園寺家に接収されかけたりと、今出川家は断絶の危機を迎えていたが、同じく1428年に将軍が足利義持から足利義教に代替わりし、今出川家と関係の深い伏見宮貞成親王の子・彦仁王が後花園天皇として即位したことが影響して、永享5年(1433年)頃には、当時9歳の教季に家督の相続が許された。 やがて永享7年(1435年)、将軍・義教の後見の下で元服し、教季と名乗る。「教」の字は義教から偏諱を受けたものと考えられ、これが今出川家歴代当主の中で初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けた事例である。 その翌年の永享8年(1436年)に叙爵。以降累進して左近衛少将・左近衛中将・美濃権守を経て文安3年(1446年)に従三位となり、公卿に列する。参議・権中納言を経て、宝徳2年(1450年)に権大納言に任じられる。寛正元年(1460年)までの10年間にわたり権大納言に在職した。その間の長禄2年(1458年)には内教坊別当と親王家勅別当を兼務している。さらに寛正4年(1463年)には権大納言に再任している。同年右近衛大将に任官。寛正6年(1465年)内大臣に任じられるも、文正元年(1466年)に辞す。応仁元年(1467年)従一位を授与される。文明12年(1480年)に右大臣。さらに文明13年(1481年)には左大臣に任じられるもその翌年に官職を辞す。.

新しい!!: 文明 (日本)と今出川教季 · 続きを見る »

今村城 (尾張国)

今村城(いまむらじょう)は尾張国春日井郡(現在の愛知県瀬戸市)に存在した日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と今村城 (尾張国) · 続きを見る »

今泉盛高

今泉 盛高(いまいずみ もりたか)は室町時代後期から戦国時代初期の武将。今泉氏4代目当主。上三川城城主。宇都宮一門であり重臣の一人。.

新しい!!: 文明 (日本)と今泉盛高 · 続きを見る »

今泉盛泰

今泉 盛泰(いまいずみ もりやす)は室町時代から戦国時代初期の武将。今泉氏3代目当主。上三川城城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と今泉盛泰 · 続きを見る »

仁科神明宮

仁科神明宮(にしなしんめいぐう)は、長野県大町市にある神社。1872年(明治5年)より郷社、1876年(明治9年)より府県社、1893年(明治26年)より県社となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁科神明宮 · 続きを見る »

仁科盛能

仁科 盛能(にしな もりよし)は、戦国時代の武将。信濃国安曇郡森城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁科盛能 · 続きを見る »

仁科氏

仁科氏(にしなうじ)は、日本の氏族。系統は仁品王系・皇極太子系・桓武平氏繁盛流(信濃平氏)・清和源氏・義光流・武田支流。また、清和源氏頼季流乙葉氏族の仁科氏もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁科氏 · 続きを見る »

仁連宿

仁連宿(にれいしゅく、にれいじゅく)は、江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市仁連に相当する。 日光東街道の起点となる水戸街道小金宿・我孫子宿間の追分から数えて6番目の宿場である。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁連宿 · 続きを見る »

仁済宗恕

仁済宗恕(にんさいそうじょ、永享6年(1434年) - 永正16年(1519年))は、室町時代の臨済宗妙心寺派の僧。臨済宗大徳寺派大徳寺第62代住職。別名、本覚霊照禅師。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁済宗恕 · 続きを見る »

仁木貞長

仁木 貞長(にき さだなが、生年不明 - 長享元年(1487年))は、室町時代後期(戦国時代初期)の武将。父は成将。弟に教次。子に高長、利長、高将(義広?)。伊勢仁木氏。外様衆、右馬助、伊勢守護。通称は次郎四郎。幼名は千代菊。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁木貞長 · 続きを見る »

仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と仁木氏 · 続きを見る »

延寿寺 (彦根市)

延寿寺(えんじゅじ)は、滋賀県彦根市にある臨済宗永源寺派の寺院である。山号は永明山。本尊は観世音菩薩。.

新しい!!: 文明 (日本)と延寿寺 (彦根市) · 続きを見る »

建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

新しい!!: 文明 (日本)と建仁寺 · 続きを見る »

建武以来追加

建武以来追加(けんむいらいついか)とは、室町幕府が制定した追加法の法令集。 その名称から室町幕府の基本法とされる建武式目(建武3年(1336年)制定)の追加と考えられがちであるが、室町幕府は建武式目も鎌倉幕府の基本法であった御成敗式目の追加法であるという立場を取っており、建武以来追加も建武式目以後に追加された御成敗式目の追加法という立場に立ったものである。 数回にわたって編纂され、諸本が多く存在するが、現存する諸本より、文明・永正・大永期に増補編纂が行われたことが確認できる。また、応永・文安・長禄年間にも編纂が行われたと推定されている。最終版とされる大永版には建武5年(1338年)より永正17年(1520年)までの法令が年代順に採録されている。初期のものには寺社・本所関係、守護・地頭関係など全国的な広がりを持つ法令が多いが、守護領国制の展開と政治・財政基盤の京都及びその周辺への依存が高まるにつれて徳政令などの経済法が増加し、仮名交じり文の法令が増加するようになる。.

新しい!!: 文明 (日本)と建武以来追加 · 続きを見る »

建昌城

建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)は、鹿児島県姶良市に存在していた日本の城である。瓜生野城(うりうのじょう)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と建昌城 · 続きを見る »

付喪神絵巻

付喪神絵巻(つくもがみえまき)は、日本に伝わる絵巻物。付喪神記、付喪神、付喪神絵、付喪神絵詞(つくもがみえことば)、付喪神縁起絵巻、非情成仏絵巻(ひじょうじょうぶつ えまき)などの題でも呼ばれている。崇福寺(岐阜県岐阜市)などに所蔵されており、いくつかの伝本が確認されている。多くは上下2巻の構成となっている。 内容は、康保のころ(964年-968年)年末の煤払(すすはらい)の日に捨てられた古い道具たちがつくもがみ(付喪神)となって人間を襲い享楽を尽くすが、護法童子や尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)、如法尊勝大法といった密教の法力によって調伏されてしまい、悪行への反省から出家して真言宗をまなび、深山で修行したのちに成仏するという物語作品である。.

新しい!!: 文明 (日本)と付喪神絵巻 · 続きを見る »

会合衆

会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)とは、室町時代から安土桃山時代の都市で自治の指導的役割を果たした評定組織またはその組織の構成員。とくに堺におけるものが有名。 同じ時期に山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。.

新しい!!: 文明 (日本)と会合衆 · 続きを見る »

伊射奈岐神社 (天理市)

伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)は奈良県天理市にある神社。崇神天皇陵近くの大和天神山古墳に鎮座する。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊射奈岐神社 (天理市) · 続きを見る »

伊丹城

伊丹城(いたみじょう)は、兵庫県伊丹市にある日本の城跡。有岡城(在岡城)(ありおかじょう)とも言う。国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊丹城 · 続きを見る »

伊弉諾神社 (生駒市)

伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)は奈良県生駒市にある神社。長弓寺の鎮守で、その境内に鎮座する。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊弉諾神社 (生駒市) · 続きを見る »

伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢国 · 続きを見る »

伊勢物語肖聞抄

『伊勢物語肖聞抄』(いせものがたりしょうもんしょう)は、牡丹花肖柏による『伊勢物語』の注釈書。初稿本は文明9年(1477年)に成立。宗祇の講義のノート(聞書)をもとにしたもので、牡丹花肖柏自身の説はさほど付加されてはいない。宗祇の講義の聞書は、『伊勢物語宗長聞書』もあるが、本書とは同一ではなく、二書の関連が注目されている。本書は初稿本からも増補をされ続け、三訂本には三条西実隆の説も増補されている。延徳3年(1491年)本をもって一応の完成と考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢物語肖聞抄 · 続きを見る »

伊勢盛定

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。 長年、北条早雲の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究で北条早雲の前身が幕臣伊勢盛時であることが定説化している。伊勢盛時の研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢盛定 · 続きを見る »

伊勢貞宗

伊勢 貞宗(いせ さだむね)は、室町時代中期から戦国時代の幕臣。政所執事を務めた。伊勢貞親の子。北条早雲とは従兄弟同士とされている(諸説あり)。伊勢流故実の大成者でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢貞宗 · 続きを見る »

伊勢貞忠

伊勢 貞忠(いせ さだただ)は、戦国時代の武将。室町幕府政所執事。伊勢貞陸の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢貞忠 · 続きを見る »

伊勢貞親

伊勢 貞親(いせ さだちか)は、室町時代中期の武士で室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。弟に貞藤。子に貞宗・貞祐。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢貞親 · 続きを見る »

伊勢貞陸

伊勢 貞陸(いせ さだみち)は、室町時代中期から戦国時代の幕臣。伊勢貞宗の子。山城守護、政所執事を務めた。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊勢貞陸 · 続きを見る »

伊達氏

伊達氏(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、桓武平氏繁盛流常陸大掾と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊達氏 · 続きを見る »

伊達成宗

伊達 成宗(だて しげむね/なりむね、1435年(永享7年) - 1487年10月11日(長享元年9月25日)?)は伊達氏の第12代当主。第11代当主・伊達持宗の次男。母は憲徳院。正室は大崎教兼の女。官位は従四位上兵部少輔。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊達成宗 · 続きを見る »

伊賀八幡宮

伊賀八幡宮(いがはちまんぐう)は、愛知県岡崎市伊賀町にある神社である。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊賀八幡宮 · 続きを見る »

伊賀町 (岡崎市)

伊賀町(いがちょう)は、愛知県岡崎市の町名である。郵便番号は444-0075.

新しい!!: 文明 (日本)と伊賀町 (岡崎市) · 続きを見る »

伊東尹祐

伊東 尹祐(いとう ただすけ)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏8代(伊東氏13代)当主。室町幕府将軍足利義尹(義稙)から偏諱を受け尹祐を称す。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊東尹祐 · 続きを見る »

伊東祐堯

伊東 祐堯(いとう すけたか)は、室町時代の武将。日向伊東氏6代(伊東氏11代)当主。 伊東祐立の子とされるが、一説には祐立には祐武という子が別におり、祐武の子が祐堯とも言われる。 文安元年(1444年)、伊東祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず宮崎城の曽井氏を攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。 日向国内に武威を示すと次に守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そのため康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。 寛正2年(1461年)には再び京に使者を送り、室町幕府8代将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。 島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明2年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。 文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城の新納忠続を攻撃するため子の祐国と共に出陣中に清武城で死去。享年77。 祐国、祐邑など男女合わせて25人の子に恵まれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と伊東祐堯 · 続きを見る »

伊東祐国

伊東 祐国(いとう すけくに)は、室町時代の武将。日向伊東氏7代(伊東氏12代)当主。 父・伊東祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫で島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。 文明16年(1484年)、父・祐堯が島津氏の内紛に介入。島津当主島津忠昌の方針に反発し、豊後国の大友氏や父に助力を請い新納忠続の守る飫肥城を攻撃し忠昌に叛旗を翻した島津久逸を援助するべく父と共に飫肥城を攻撃したが、翌文明17年(1485年)に祐堯が出陣中に清武城で急死、祐国が家督を継承する。 同年、弟・祐邑と共に新納忠続の守る飫肥城に再び侵攻した。その時に率いた軍勢は、「都於郡、佐土原、宮崎、木脇、八代、三納、穂北、富田、財部、高城、塩見、日知屋、門川、山陰、田代、神門、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田」の兵だったとされる(これは現在の宮崎市・西都市・国富町・高鍋町・日向市・美郷町・西米良村などに相当する地域である。)。 祐国・祐邑は国見峠を越えてたちまち飫肥城を包囲し島津方の援軍・島津伯耆守を討ち取ったが、飫肥城の守りは堅く、自ら軍勢を率いて出陣して来た島津忠昌と楠原で交戦するも、祐国は乱戦の最中に討ち死にを遂げた。享年35。 すけくに Category:室町時代の人物 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1450年生 Category:1485年没.

新しい!!: 文明 (日本)と伊東祐国 · 続きを見る »

伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家、伏見宮第4代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と伏見宮貞常親王 · 続きを見る »

伏見宮邦高親王

伏見宮邦高親王(ふしみのみや くにたかしんのう)は、室町時代後期の皇族。式部卿。伏見宮第5代当主。貞常親王第一王子。母は庭田重有の娘・源盈子。 文明6年(1474年)に元服、親王宣下。永正13年(1516年)に出家。.

新しい!!: 文明 (日本)と伏見宮邦高親王 · 続きを見る »

伯耆一条氏

伯耆一条氏(ほうきいちじょうし)は伯耆国の国人領主。.

新しい!!: 文明 (日本)と伯耆一条氏 · 続きを見る »

伴野貞祥

伴野 貞祥(ともの さだよし)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。信濃村上氏、甲斐武田氏の家臣。信濃国前山城主。伴野貞慶は兄弟ともされるが同人の可能性がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と伴野貞祥 · 続きを見る »

強訴

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と強訴 · 続きを見る »

弓ヶ浜半島

弓ヶ浜海岸(鳥取県米子市) 弓ヶ浜半島(ゆみがはまはんとう)は、鳥取県西端部にある半島である。弓浜(きゅうひん)半島、夜見ヶ浜半島、五里ヶ浜ともいわれる。日本の白砂青松100選に選定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と弓ヶ浜半島 · 続きを見る »

住吉神社 (福岡市)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福岡県福岡市博多区住吉にある神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 大阪の住吉大社・下関の住吉神社とともに「三大住吉」の1つに数えられるほか、全ての住吉神社の始源とする説がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と住吉神社 (福岡市) · 続きを見る »

佐保殿

佐保殿(さほどの)とは、奈良時代以来奈良郊外にあったとされる藤原北家当主の邸宅。平安時代に入ると、北家当主が藤氏長者・摂関家当主を兼ねるようになったため、その邸宅としての意味も有するようになった。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐保殿 · 続きを見る »

佐志能神社 (笠間市)

佐志能神社(さしのうじんじゃ)は茨城県笠間市笠間にある、佐白山の「笠間城跡」に鎮座する神社。延喜式神名帳の佐志能神社(常陸国新治郡。小社)の論社である。旧社格は村社。 東日本大震災による被害のため、佐志能神社を含む笠間城天守曲輪跡は立入禁止区域になっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐志能神社 (笠間市) · 続きを見る »

佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島にある城。江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。 佐土原城跡の名称で2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐土原城 · 続きを見る »

佐竹義俊

佐竹 義俊(さたけ よしとし)は、室町時代の武将。佐竹氏第13代当主。伊予守。初名は義從(よしより、新字体:義従)。 佐竹義人の嫡男。生母は源姫(佐竹義盛の娘)。弟に上杉実定(上杉憲実猶子)、戸村義倭(戸村氏祖)、小野義盛。子に義治、天神林義茂、宇留野存虎、戸村義易がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹義俊 · 続きを見る »

佐竹義信

佐竹 義信(さたけ よしのぶ)は、戦国時代の武将。佐竹氏第14代当主・佐竹義治の四男。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹義信 · 続きを見る »

佐竹義知 (山入佐竹氏)

佐竹 義知(さたけ よしとも、生年不詳 - 文明10年(1478年))は、室町時代の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門、山入氏。佐竹祐義の長男。弟に義真。甥に義藤がいる。 山入氏は常陸守護佐竹氏の一族であるが、応永年間に祖父の与義が宗家佐竹義人と対立し、以来50年近く抗争を続けていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹義知 (山入佐竹氏) · 続きを見る »

佐竹義舜

佐竹 義舜(さたけ よしきよ)は、室町時代後期から戦国時代にかけて武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏の第15代当主。常陸太田城主。父は第14代当主義治。 100年近く続いた佐竹の乱に終止符をうち、古河公方家の内紛である永正の乱や、白河結城氏の内紛(永正の変)などに介入した。また、失地の一部の回復にも成功している。また、江戸氏や小野崎氏の内紛に介入するなど領内の支配体制をまとめ直し、佐竹氏の戦国大名化に努めたために佐竹氏の中興の祖と呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹義舜 · 続きを見る »

佐竹義治

佐竹 義治(さたけ よしはる)は、室町時代の武将、大名。常陸守護。佐竹氏第14代当主。常陸太田城の城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹義治 · 続きを見る »

佐竹政義

佐竹 政義(さたけ まさよし、文明16年(1484年) - 天文3年(1534年))は、戦国時代の武将。 文明16年(1484年)、佐竹氏の第14代当主・佐竹義治の5男として生まれる。母は大山常金の娘。幼名は九郎。はじめ田口氏の養子となるが、やがて出家して僧侶となり、周悦と号した。しかし、兄の命令で還俗し、政義と名乗る。佐竹氏の居城である太田城の東に居城を構えたことから、「東殿」といわれた。そして同じく北に居城を構えた実兄の佐竹義信(北殿)と共に兄の佐竹義舜、甥の佐竹義篤を補佐した。 実兄の義信の後を追うように天文3年(1534年)に死去。享年51。法号は周悦・常清。後を嫡男の義堅が継ぎ、東殿家の子孫は佐竹本家の補佐役を代々務めることになった。 なお、政義の死で佐竹家中には政務を統御できる人物が一時的に不在となり、佐竹義篤とその実弟・佐竹義元の家督争いが起こることになった。.

新しい!!: 文明 (日本)と佐竹政義 · 続きを見る »

佐野秀綱

佐野 秀綱(さの ひでつな、文明4年(1472年)- 天文17年(1548年)8月))は、戦国時代の武将。父は佐野盛綱。子に泰綱。 下野国の有力な国人である佐野氏の第12代当主。古河公方に仕えた。唐沢山城の改築、拡張工事を行ない、城を下野でも有数の堅城に成長させた秀綱は佐野氏の戦国時代における基礎を築き上げた。後にこの城は上杉謙信の10度にわたる攻撃を全て撃退している。 ひてつな category:戦国武将 category:下野国の人物 Category:1472年生 Category:1548年没.

新しい!!: 文明 (日本)と佐野秀綱 · 続きを見る »

彦根市

彦根市(ひこねし)は、滋賀県の北東部に所在する市である。滋賀県北部、東部の中心となる都市である。 旧坂田郡鳥居本村と旧愛知郡稲枝町を除き、かつては犬上郡に属していた。.

新しい!!: 文明 (日本)と彦根市 · 続きを見る »

佛光寺

佛光寺(ぶっこうじ)は、京都府京都市下京区にある真宗佛光寺派の本山。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。「仏光寺」と新字体で表記されることもあるが、正式表記は「佛光寺」である。.

新しい!!: 文明 (日本)と佛光寺 · 続きを見る »

佛照寺 (茨木市)

佛照寺(ぶっしょうじ)は、大阪府茨木市目垣にある浄土真宗の寺院。茨木市内最古となる浄土真宗の寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と佛照寺 (茨木市) · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 文明 (日本)と征夷大将軍 · 続きを見る »

御塩殿神社

御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)は三重県伊勢市二見町荘にある内宮(皇大神宮)所管社で、神事に欠かせない堅塩を作る施設を備えている。御塩殿の読みは神宮では「みしおどの」であるが、二見町では「みしおでん」と呼ぶ。.

新しい!!: 文明 (日本)と御塩殿神社 · 続きを見る »

御峰城

御峰城(おみねじょう)は、富山県南砺市土山(旧・福光町)に在った日本の城。土山城とも言う。市史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と御峰城 · 続きを見る »

御嶽山

御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である日本山名辞典 (1992)、116頁新日本山岳誌 (2005)、972-973頁。大きな裾野を広げる独立峰である深田久弥 (1982)、227-230頁。 2014年9月27日に7年ぶりに噴火。山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と御嶽山 · 続きを見る »

御供衆

御供衆(おともしゅう)は、室町幕府将軍の出行に供奉した人物である。また、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号でもあった。その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と御供衆 · 続きを見る »

御霊神社 (奈良市)

御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、奈良県奈良市薬師堂町にある神社。旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。南都御霊神社・木比御霊『奈良坊目拙解』よりとも呼ばれる。 元興寺五重塔跡の南西に鎮座し、井上皇后・他戸親王等八所大神を祀っている。西紀寺町の崇道天皇社とともに南都二大御霊社とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と御霊神社 (奈良市) · 続きを見る »

御霊神社 (三田市)

夜泣き石(茶臼石) 御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、兵庫県三田市にある神社。本殿の建造物は文明2年に村人たちによって再建され当時の神仏習合を表現したものが見られる、本殿は国の重要文化財に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と御霊神社 (三田市) · 続きを見る »

御湯殿上日記

御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき・お湯殿の上の日記)とは、御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。禁裏(宮中)にある御湯殿の側に女官達の控えの間があり、そこに備え付けられていたといわれている。当番の女官によって交替で書かれたもので字体は女房文字(仮名文)。稀に当代の天皇自身が代わりに書いたと思われる部分もあるとされている。 本来はいわば宮中の機密日誌(秘記)であり非公開のものであったが、後日の参考のために写本が作られる場合もあり、そのため正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。特に戦乱の激しかった戦国時代の記録が残されているという点で貴重な史料である。また宮廷の女性達が用いていた文字や言語(女房言葉)の研究の分野においても貴重な資料となっている。 主に天皇の日常の動向が記述の中心であるが、宮廷行事や任官叙位、下賜進献などの宮中での出来事、皇族や女官の動向等、有職故実面や政治の表舞台には現れない記事も見られる。『群書類従』に慶長3年(1598年)分が収録されて以来、宮廷史・政治史の根本史料として注目されるようになった。.

新しい!!: 文明 (日本)と御湯殿上日記 · 続きを見る »

徳大寺実淳

徳大寺 実淳(とくだいじ さねあつ、文安2年5月17日(1445年6月22日) - 天文2年8月24日(1533年9月12日))は室町時代の公卿。 父は徳大寺公有。子に徳大寺維子(近衛尚通正室、近衛稙家・久我晴通の生母)、徳大寺公胤、日野内光、女子(久我通言室)などがいる。号は禅光院。法名は忍継。.

新しい!!: 文明 (日本)と徳大寺実淳 · 続きを見る »

徳大寺公胤

徳大寺 公胤(とくだいじ きんたね、文明19年1月27日(1487年2月20日) - 大永6年10月12日(1526年11月16日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたり仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。号は後野宮。父は太政大臣徳大寺実淳。徳大寺維子は姉、日野内光は実弟にあたる。また、子に権大納言徳大寺実通がいる。 長享2年(1488年)従五位上に叙される。以降累進して、侍従・左近衛少将・讃岐権介・左近衛中将を経て、文亀元年(1501年)に従三位となり、公卿に列する。その後、参議と権中納言を経て、永正11年(1514年)に従二位権大納言となる。翌年に辞す。永正14年(1517年)再度権大納言となり、右近衛大将・右馬寮御監を兼務。永正16年(1519年)に左近衛大将となる。大永元年(1521年)には左近衛大将を辞し、内大臣に転じる。大永3年(1523年)には右大臣を経ずして異例の左大臣任命を受けた。大永6年(1526年)に従一位となるが、この年に病となり、左大臣を辞職した。 同年に死去し、子の実通が跡を継いだ。尚、在世当時の権力者であった細川高国は公胤兄弟の従甥(叔母の孫)にあたり、翌大永7年(1527年)には桂川原の戦いで高国側についた実弟の日野内光も戦死している。.

新しい!!: 文明 (日本)と徳大寺公胤 · 続きを見る »

徳大寺公有

徳大寺 公有(とくだいじ きんあり、応永29年2月5日(1422年2月26日) - 文明18年1月26日(1486年3月2日))は、室町時代の公卿。称光天皇(101代)・後花園天皇(102代)・後土御門天皇(103代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。号は後野宮。父は権大納言徳大寺実盛。母は右兵衛督持明院基親の娘。子に太政大臣徳大寺実淳、空覚(興福寺別当)。娘に右大臣三条公敦室、足利義尚室、細川教春室、権中納言烏丸益光室などがいる。 応永31年(1424年)に叙爵。左近衛少将・讃岐権介・左近衛中将・相模権介を経て、永享9年(1437年)に参議となり、公卿に列する。その後、近江権介・権中納言を経て、文安3年(1446年)には権大納言に就任した。文安5年(1448年)に造営上卿となり、享徳3年(1454年)には左近衛大将・左馬寮御監に任じられる。寛正元年(1460年)内大臣拝命、同年左近衛大将を辞し、寛正2年(1461年)には右大臣に任じられた。寛正5年(1464年)に右大臣を辞す。文正元年(1466年)従一位に進み、文明4年(1472年)51歳で出家して引退した。.

新しい!!: 文明 (日本)と徳大寺公有 · 続きを見る »

徳大寺維子

徳大寺 維子(とくだいじ ふさこ、文明13年(1481年) - 永禄9年3月8日(1566年3月29日))は、戦国時代の関白・近衛尚通の北政所(正室)。太政大臣徳大寺実淳の娘。近衛稙家らの生母。 明応6年7月26日(1497年)に婚儀が行われ、正室として扱われた(当時の公家社会では正式な婚儀を行わなければ正室として認められなかった)。翌年6月7日には最初の女子を出産し、以後2男5女を儲けた。ただし、婚儀の前月に既に尚通は最初の関白の任を終えていたため、彼女が北政所とされることはなく、「北政所」として彼女が登場するのは永正10年(1513年)に尚通が関白に還補された直後(『後法成寺日記』永正10年10月27日条)である。なお、同年の11月20日に従三位に叙せられている。 夫や息子の代わりに公的な場に出る場合があったことが知られ、稙家が関白・藤氏長者に任ぜられた天文5年(1536年)の興福寺維摩会には、会翌日に関白就任の奏慶を控えた稙家の代理として興福寺を訪れている。また、彼女の所生ではないものの、将軍足利義晴正室となった慶寿院の後見的立場にあり、天文5年に慶寿院が義晴の嫡男(後の足利義輝)を生んだ際に立ち会っている。また、伊予国の河野通直から「近衛家大政所」を通して御相伴衆推挙の依頼が六角定頼及び内談衆大舘常興・晴光父子に対してなされた事が知られている(『大舘常興日記』天文8年12月4・5日条)。「近衛家大政所」とは維子のことであり、将軍後継者である義輝の実質上の外祖母として幕政にも影響を与えたと考えられている(結果的に天文9年4月12日に河野通直は御相伴衆に加えられた(『大舘常興日記』))。 永正14年(1517年)頃より更年期障害と想定される健康の悪化が見られるものの、鞍馬寺や清水寺などの寺社参詣や親族、細川高国など有力者との交流ぶりが『後法成寺日記』などに記されている。 永禄9年3月8日に86歳の高齢で没した(『言継卿記』)。.

新しい!!: 文明 (日本)と徳大寺維子 · 続きを見る »

徳山村 (岐阜県)

徳山村(とくやまむら)は、岐阜県揖斐郡の揖斐川上流にあった村である。徳山ダム建設のため、村民は1984年(昭和59年)に離村を開始。1987年(昭和62年)に藤橋村(現・揖斐川町)に編入合併して廃止された。編入後も残っていた村民も2001年(平成13年)までに離村した。 徳山ダムは2008年(平成20年)5月に完成し、門入集落を除く徳山村の可住区域はダム湖(徳山湖)に水没した(詳細は徳山ダム#消えた徳山村を参照)。NHK総合『発見ふるさとの宝』、NHK総合・BS2『ゆるナビ』で紹介された。ダム建設中の徳山村を舞台に映画『ふるさと』も制作された。.

新しい!!: 文明 (日本)と徳山村 (岐阜県) · 続きを見る »

後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

新しい!!: 文明 (日本)と後南朝 · 続きを見る »

後志国

後志国(しりべしのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。国名の由来は、阿倍比羅夫が郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)の語音にちなみ、後志国を流れる尻別川のアイヌ語「シリ・ペッ」(山の・川)を採り、音訳して後志としたもの。命名者は松浦武四郎。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の後志総合振興局管内のうち虻田郡と小樽市銭函4~5丁目相当区域を除いた大部分と、檜山振興局管内のせたな町以北および奥尻島にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と後志国 · 続きを見る »

後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

新しい!!: 文明 (日本)と後土御門天皇 · 続きを見る »

後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と後北条氏 · 続きを見る »

後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と後花園天皇 · 続きを見る »

後藤職明

後藤 職明(ごとう しきあきら/しきあき 生没年不詳)は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第17代当主(武雄領主)。第16代当主後藤正明の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と後藤職明 · 続きを見る »

後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.

新しい!!: 文明 (日本)と後柏原天皇 · 続きを見る »

後法興院記

後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。.

新しい!!: 文明 (日本)と後法興院記 · 続きを見る »

忍城

忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市に存在した日本の城である。室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と忍城 · 続きを見る »

忍城の戦い

忍城の戦い(おしじょうのたたかい)は、成田氏の本拠である武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いである。 この城を巡っては、忍氏との文明年間(1469年から1487年。または延徳元年(1489年))の戦い、古河公方・足利政氏との享禄年間頃(1531年以前)の戦い、関東地方において勢力を拡大しつつあった後北条氏と関東管領・上杉氏との対立抗争に伴い発生した天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の戦い、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いなど、数度にわたって攻城戦が繰り広げられたが、本項目では、天正18年(1590年)6月16日から7月16日にかけて行われた戦いについて詳述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と忍城の戦い · 続きを見る »

保田妙本寺

保田妙本寺(ほたみょうほんじ)は千葉県安房郡鋸南町吉浜にある寺院。正式呼称は中谷山妙本寺。日興の法脈を継承する富士門流に属し、天台教学を踏まえて台家当家の違目を明らめるというそれまでの方向性から、日蓮遺文を中心に据えるという転換を通じて11世日要により体系化され14世日我により大成をみた「日蓮本仏論」(妙本寺においては、日要以前からの伝統として日蓮を信仰の上で仏と拝していたが、教義として確立して体系化したのは日要による)を信奉する。静岡県駿東地方に分布する富士五山や、京都要法寺、伊豆実成寺とともに、同門流の興門八本山を構成している。 その他の通称としては、千葉妙本寺、安房妙本寺、吉浜妙本寺なども用いられる。 戦国時代には里見氏の保護を受け、また寺側も同氏に城砦として寺を提供して対後北条氏との戦いにおいて最前線基地となっていた事が里見氏の古文書などから明らかにされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と保田妙本寺 · 続きを見る »

信州遠山氏

信州遠山氏(しんしゅう とおやまし)は、中世から近世にかけて信濃国伊那郡(現:長野県飯田市上伊那郡南信濃村)の江儀遠山荘に勢力を持った氏族。江儀遠山氏(えぎ とおやまし)とも言われている。遠山景広に始まるとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と信州遠山氏 · 続きを見る »

信光明寺

信光明寺(しんこうみょうじ)は、愛知県岡崎市岩津町東山にある浄土宗の寺院。山号は弥勒山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と信光明寺 · 続きを見る »

信国 (初代)

初代 信国(しょだい のぶくに、生没年不詳(応安2年(1369年)没か)、命日5月14日追号實山一峯「信国系図」(個人蔵))は、南北朝時代の山城国(京都)の刀工で了戒(正応3年(1290年) - 正和3年(1314年)の在銘刀)の弟子「信國初ノ系圖代々祖子付之事」慶長6年(1601年)3月28日信国吉貞筆、寛政3年(1791年)写本(福岡藩旧蔵『福岡藩仰古秘笈』巻25(信国吉貞家伝)所収、福岡県立図書館蔵)。来-了戒様式に加え、長谷部国重とともに山城国に相州伝を残す。大進房様式の梵字・刀身彫は行光-正宗-貞宗から信国にも継承される。 信国派の祖。新藤氏水原庄太郎著『岩手郷土刀匠考』p.10か。.

新しい!!: 文明 (日本)と信国 (初代) · 続きを見る »

信濃国分寺

信濃国分寺(しなのこくぶんじ)は、長野県上田市国分(こくぶ)にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来。現在山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号した。また「八日堂(ようかどう)」の別称がある。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡(合わせて「信濃国分寺跡」として国の史跡)についても解説する。.

新しい!!: 文明 (日本)と信濃国分寺 · 続きを見る »

信濃村上氏

信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と信濃村上氏 · 続きを見る »

快翁龍喜

快翁龍喜(かいおうりゅうき、文明13年(1481年) - 永禄12年(1569年))は戦国時代の僧侶。 のちに尾張国知多郡岩滑(現在の愛知県半田市岩滑)の城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。.

新しい!!: 文明 (日本)と快翁龍喜 · 続きを見る »

応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 文明 (日本)と応仁 · 続きを見る »

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と応仁の乱 · 続きを見る »

応仁記

応仁記(おうにんき)は、室町時代の軍記である。足利将軍家や畠山氏、斯波氏の家督争いなどから発展した「応仁の乱」を描いた軍記物語。全3巻で、各種の諸系統本がある。「太平記」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は15世紀末から16世紀中ごろと諸説ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と応仁記 · 続きを見る »

応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と応永 · 続きを見る »

心岩寺

心岩寺(しんがんじ)は、神奈川県座間市にある臨済宗建長寺派の寺院で、建長寺第75世悦岩興惟(えつがんこうい)禅師の法弟成英玉(せいえいぎょく)が開山し、この地の郷士白井織部是房(おりべこれふさ)が開基となり、白井氏の持仏堂を寺としたものである。 山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、江戸時代に座間山心岩寺と改められた。.

新しい!!: 文明 (日本)と心岩寺 · 続きを見る »

心敬

心敬(しんけい、1406年(応永3年) - 1475年5月20日(文明7年4月16日))は、室町時代中期の天台宗の僧、連歌師である。連海、心恵、心教ともいう。 紀伊国に生まれる。幼いときに出家し、比叡山で修行。44あるいは45歳のころ園城寺仏地院に住し、のち京都清水寺付近の十住心院の住持となり、権大僧都、法印に叙せられる。僧正徹に師事して冷泉派の歌人として知られる一方、1433年(永享5年)、「北野社万句」の座に列するなど、連歌作者として次第に時代を代表する存在となる。 作風は、正徹から受け継いだ新古今風を基礎に、表現対象の凝視と表現主体の沈潜とを重視する独特のもので、「ひえやせたる」風趣のうちに得意な感覚の冴え方を示している。和歌及び連歌の修行を仏道の修行と究極的に同一視する連歌論は、主著である『ささめごと』のほか『老のくり言』『ひとり言』(1468年)などに強調され、次代の宗祇、猪苗代兼載、侘び茶の村田珠光ら茶人にも影響を与える。戦乱を避けて晩年を関東で過ごし、70歳で死去。 連歌集・歌集として『心玉集』、『心敬僧都十体和歌』などがあるほか、宗祇編『竹林抄』に入集する連歌七賢の一人である。『新撰菟玖波集』に最多数の入集を見る。 Category:天台宗の僧 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:紀伊国の人物 Category:1406年生 Category:1475年没.

新しい!!: 文明 (日本)と心敬 · 続きを見る »

志佐純元

志佐 純元(しさ すみもと)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と志佐純元 · 続きを見る »

志摩荘

志摩荘(しまのしょう)は、甲斐国の荘園。山梨県甲府市西部・甲斐市島上条一帯の荒川沿いに位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と志摩荘 · 続きを見る »

土居清宗

土居 清宗(どい きよむね、文明15年(1483年) - 永禄3年(1560年))は、戦国時代の武将。伊予西園寺氏の家臣。西園寺十五将のひとり。(西園寺十五将というのは、江戸時代に領主となった伊達家が旧領主を調査した際、報告された領主が十五人いた事に由来するもので、更に後世の研究者による造語である。) 伊予国の土居氏には、越智姓・河野氏の流れを汲む一族と穂積姓・藤白鈴木氏の流れを汲む一族とがあるが、清宗の一族は後者に属する。その先祖は、源義経に仕えた鈴木重家であり、伊予守であった源義経に代わり伊予国に派遣されていたが、源義経の奥州落ちに随行する際、その子清行を伊予国主河野通信に預けており、元服する際に一族が住む紀伊国牟婁郡土居に由来して土居氏を名乗らせたと伝わっている。また、河野通信は娘を土居清行に娶せて宇和郡三間郷に領地を与え、土居氏は宇和荘の領主である伊予西園寺氏に仕える事となる。その伊予国宇和郡三間郷にある土居中という地名は、土居氏が領地した事に由来する地名である。 清宗は伊予国大森城主で、西園寺実充に仕えた。天文15年(1546年)、実充の命令で大森城から伊予石城に移り、九州豊後の大友氏との戦いを担当した。清宗は大友氏や土佐の国司である土佐一条氏との戦いで功績を挙げたため、実充から厚い信任を受け、清宗の子・土居清晴に実充の娘を与えられている。 永禄3年(1560年)、大友氏の攻撃を受けて伊予石城は落城し、清宗は子の清晴と共に戦死した。享年78。このため土居家は一度没落し、孫の土居清良は一時土佐一条氏の庇護を受ける事になる。.

新しい!!: 文明 (日本)と土居清宗 · 続きを見る »

土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

新しい!!: 文明 (日本)と土岐氏 · 続きを見る »

土岐持益 (守護)

土岐 持益(とき もちます)は、室町時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃守護。土岐頼益の子。子に持兼。「持」の字は将軍・足利義持からの偏諱。養子に成頼。通称は池田二郎。官職は美濃守、左京大夫。.

新しい!!: 文明 (日本)と土岐持益 (守護) · 続きを見る »

土岐成頼

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠で一色義直は伯父とされているが、土岐氏の支族饗庭氏の饗庭元明(備中守)の子とする説、佐良木光俊(持益の従弟)の子とする説などに分かれている。 養子となる際に第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」の1字)を与えられて成頼と名乗る。法名は宗安(そうあん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と土岐成頼 · 続きを見る »

土岐政康

土岐 政康(とき まさやす、生没年不詳)は、室町時代後期の武将、守護大名。伊勢守護。土岐持頼の子。通称、官位は不明。土岐氏の一族である土岐世保家の第4代当主。 元服時に将軍・足利義政より偏諱(「政」の字)を賜い、政康と名乗る(「康」の字は曽祖父・康行(初代当主)や祖父・康政(2代当主)の1字に由来する)。 父の死後世保家を継承、応仁の乱では東軍に所属、応仁元年(1467年)3月に伊勢に乱入、西軍に参加した伊勢守護一色義直に代わって東軍から伊勢守護に補任された。しかし、伊勢国司北畠教具と対立、文明3年(1471年)に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、教具の息子政郷に交替させられた。文明5年(1473年)に室町幕府に出仕、美濃で西軍の土岐成頼・斎藤妙椿と戦ったが、以後の消息は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と土岐政康 · 続きを見る »

土佐光信

重文。本作はかつて光信筆とされていたが、近年は作画の粗さや、『実隆公記』では実隆自筆と記載されている詞書の書風が本絵巻では実隆のものと全く異なる点が指摘され、光信の原本制作直後の忠実な模本とされる榊原悟 「「星光寺縁起絵」私見」、「MUSEUM(東京国立博物館研究誌)423」所収、1986年。 土佐 光信(とさ みつのぶ、永享6年(1434年)? - 大永5年5月20日(1525年6月10日)?)は、室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵の絵師。土佐広周の嗣子で、実際は土佐光弘の子。子に土佐光茂がいる。土佐(常盤)光長、土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位は従四位下・刑部大輔。.

新しい!!: 文明 (日本)と土佐光信 · 続きを見る »

土倉役

土倉役(どそうやく)とは、倉役(くらやく)とも呼ばれ、中世において京都の土倉に対して行われた課税。特に室町幕府財政において主要な財源の1つであった。.

新しい!!: 文明 (日本)と土倉役 · 続きを見る »

土田秀久

土田 秀久(どた ひでひさ、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武士。土田秀定の子。妹にいぬゐ(織田信定室)がいる。子に長男・土田泰久、次男・土田政久(生駒親重)、三男・土田久通、長女・土田御前(織田信秀・室)がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と土田秀久 · 続きを見る »

江戸時代に両替商で用いられた後藤分銅貳拾両(200匁:749.07g), 拾両(100匁:374.62g) 匁(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法があった『廣漢和辞典 上巻』「勹部-匁(1410)」,p416.。.

新しい!!: 文明 (日本)と匁 · 続きを見る »

地震の年表 (日本)

accessdate.

新しい!!: 文明 (日本)と地震の年表 (日本) · 続きを見る »

医光寺

医光寺総門(益田城大手門) 医光寺(いこうじ)は、島根県益田市染羽町にある臨済宗東福寺派の寺院。山号は滝蔵山。本尊は薬師如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と医光寺 · 続きを見る »

医王権現

医王権現(いおうごんげん)は医王山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、薬師如来を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、医王山から勧請されて全国の医王権現社で祀られた。.

新しい!!: 文明 (日本)と医王権現 · 続きを見る »

北原氏

北原氏(きたはらし)は、大隅国肝付氏の庶流で、日向国の戦国大名。.

新しい!!: 文明 (日本)と北原氏 · 続きを見る »

北小路俊子

北小路 俊子(きたこうじ としこ、?-文明14年7月6日(1482年7月21日))は、室町時代の関白近衛政家の家女房。越前国の武士加治能登入道の娘。近衛家諸大夫北小路俊宣の養女となる。関白近衛尚通の生母。法号は等心院。.

新しい!!: 文明 (日本)と北小路俊子 · 続きを見る »

北山本門寺

生御影(祖師堂安置) 北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つ。日興の法脈を継承した富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する 西山本門寺、 大石寺、 下条妙蓮寺、 小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成する。また、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。他の通称に重須本門寺がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と北山本門寺 · 続きを見る »

北川殿

北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日(1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河の守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親、栄保(正親町三条実望室、北向殿)。.

新しい!!: 文明 (日本)と北川殿 · 続きを見る »

北勢四十八家

北勢四十八家(ほくせいしじゅうはちけ)は、伊勢国北部の北伊勢地域(特に三重県四日市市の周辺の北勢地域)に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体の呼称である。全部で53の家系があり、48家より5家多い。途中で戦国時代の乱世による城主の興亡での城主の入替や、同名の家柄の別家系があり、正確な北勢四十八家は不明である。北伊勢の室町時代から戦国時代の歴史研究で必ず語られるのが「北勢四十八家」の伝承である。「四十八家」の表現は「勢州軍記」で記述されて、以後の軍記物・地誌・市町村史に引き継がれた。四十八家は実数でなくて、相撲の技を指す「四十八手」と同様の用法で、北伊勢の国人・地侍を意味するものだった。 中世、戦国時代、安土桃山時代における伊勢国では北畠氏(中勢地方を支配)・神戸氏(鈴鹿郡が勢力圏)が戦国大名であった。北勢地域(伊勢国北部)では以下の北勢四十八家と呼ばれた豪族が統治していた。.

新しい!!: 文明 (日本)と北勢四十八家 · 続きを見る »

北畠政郷

北畠 政郷(きたばたけ まささと)は、室町時代中期の武将・公家。伊勢国司北畠家第5代当主。居所は多気御所。.

新しい!!: 文明 (日本)と北畠政郷 · 続きを見る »

北畠教具

北畠 教具(きたばたけ のりとも)は、室町時代中期の公卿。権大納言、正二位。伊勢国司北畠家の第4代当主で、伊勢国の守護大名でもある。北畠満雅の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と北畠教具 · 続きを見る »

北見国

北見国(きたみのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。「北見」の名は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつをとって松浦武四郎が命名したもの。道北から道東にかけて位置し、領域は現在の北海道オホーツク総合振興局管内及び宗谷総合振興局管内のうち幌延町と豊富町をのぞいた部分にあたる。設置当初は釧路国の網尻郡(現在のオホーツク総合振興局管内のうち美幌町と津別町にあたる部分と大空町の一部)は含まれなかった。.

新しい!!: 文明 (日本)と北見国 · 続きを見る »

北谷稲荷神社

北谷稲荷神社(きたやいなりじんじゃ)は、東京都渋谷区神南一丁目に鎮座する神社である。.

新しい!!: 文明 (日本)と北谷稲荷神社 · 続きを見る »

北郷忠相

北郷 忠相(ほんごう ただすけ)は戦国時代の武将。北郷氏8代当主。 大永3年(1523年)までは、伊東氏、北原氏、更には新納氏、本田氏らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城の兵800名で領地を維持している状態だったが、尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。 天文元年(1532年)、島津忠朝・北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃。伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。 伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、軍勢を引き上げた。 こうして伊東尹祐に奪われた領域の回復を果たし、勢いに乗じて新納氏の梅北、松山、末吉などの諸城を攻略すると、都城から三俣院高城に本拠を移した。 天文11年(1542年)には伊東・北原連合軍が再び侵攻してきたが、大楽で撃退した(大楽合戦)。この合戦以降、伊東氏は三俣方面から完全に撤退し、北原氏も野々美谷城を失って引き上げた。 この後さらに北原氏から山田城・志和池城を奪取した北郷氏は庄内(現在の都城市)一円を知行する最盛期を迎えることになる。 永禄2年(1559年)、73歳で没。.

新しい!!: 文明 (日本)と北郷忠相 · 続きを見る »

北郷持久

北郷 持久(ほんごう もちひさ)は、室町時代中期の日向の武将。北郷氏5代当主。4代当主北郷知久の嫡男。都城領主であったが大覚寺義昭事件に連座し都城を追われた。.

新しい!!: 文明 (日本)と北郷持久 · 続きを見る »

北郷敏久

北郷 敏久(ほんごう としひさ)は、室町時代の日向の武将。北郷氏6代当主。5代当主北郷持久の嫡男。持久が大覚寺義昭事件に連座して都城を追われて以来、24年振りに北郷氏の本拠地である都城へ復帰した。.

新しい!!: 文明 (日本)と北郷敏久 · 続きを見る »

北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と北条早雲 · 続きを見る »

園太暦

『園太暦』(えんたいりゃく)は、“中園太政大臣”と称された南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記。『中園相国記』とも。南北朝時代における基本史料。 著者の洞院公賢は、太政大臣という高官に就き、また有職故実に通じていたために、天皇や公卿からの相談も多く、この時期における朝廷の動きについて詳細に記している。記載時期は、延慶4年(1311年)2月から延文5年(1360年)3月にわたり、123巻から成る。大半は散逸したものの、自筆原本も一部現存している(重要文化財)。また、甘露寺親長や三条西実隆(親長の甥)による抄本も残されている。 公賢没後、子実夏より三代を経て公数に至り家門断絶となったが、公数在世中に家の記録を順次売却して家計を維持していた。『園太暦』も文明14年(1482年)元月に中院通秀へ1000余疋をもって譲渡された。その通秀の日記『十輪院入道内府記』によると、当時の現存状況は次の通りであった。.

新しい!!: 文明 (日本)と園太暦 · 続きを見る »

圓教寺

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である古寺を巡る24 (2007)、2頁。山号は書寫山(書写山)書写山 (1991)、1頁。西国三十三所第27番古寺を巡る24 (2007)、2・7頁書写山 (1991)、9頁。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。.

新しい!!: 文明 (日本)と圓教寺 · 続きを見る »

トイレ遺構

トイレ遺構(トイレいこう)もしくは便所遺構(べんじょいこう)とは、発掘調査や考古学研究の結果、過去にトイレ(便所)として利用されたことが明らかとなった遺構。今日確認されている世界最古のトイレは、イラクに所在する古代メソポタミア文明のアッカド王朝時代のテル・アスマルの遺跡から発見された紀元前2200年頃の水洗式トイレである。日本のトイレ遺構の確認は1980年に一乗谷朝倉氏遺跡で金隠しが発見されたことが始まりである。.

新しい!!: 文明 (日本)とトイレ遺構 · 続きを見る »

別所則治

別所 則治(べっしょ のりはる)は、室町時代 から 戦国時代初期にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と別所則治 · 続きを見る »

刈谷城

本丸跡。建物は十朋亭(再建) 刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから、「刈谷」という表記がされるようになった。.

新しい!!: 文明 (日本)と刈谷城 · 続きを見る »

分国法

分国法(ぶんこくほう)は、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。 単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。 分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。 また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。.

新しい!!: 文明 (日本)と分国法 · 続きを見る »

善光寺

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。.

新しい!!: 文明 (日本)と善光寺 · 続きを見る »

善隣国宝記

善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)は京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によって著された漢文による外交資料集。日本最初の外交史の書として知られている。序文に文正元年(1466年)、後書に文明2年(1470年)の年号が記載されている。ただし、一部の文書の下限は文明18年(1486年)であり、文明5年(1473年)の瑞渓周鳳の没後に加筆が行われたと考えられている。全3巻。.

新しい!!: 文明 (日本)と善隣国宝記 · 続きを見る »

善阿弥

善阿弥(ぜんあみ、元中3年/至徳3年(1386年)? - 文明14年(1482年)?)は室町時代の庭師。河原者という被差別身分の出身ながら、室町幕府の八代将軍足利義政に重用された。 善阿弥作と伝えられるものに、長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒がある。応仁の乱の最中は奈良に移り、興福寺大乗院なども手掛けた。生年は、没時に97歳とあることからの推測で、明徳4年(1393年)とも。 興福寺中院の作庭においての待遇は「毎日三十疋、引物二千疋、手の物十一人、毎日人別二十疋宛、引物惣中五百疋」というものだった(『経覚私要鈔』)。睡隠軒の作庭を見た季瓊真蘂は「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯礀、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」と賞賛した。晩年の善阿弥が病床に伏した際には、義政は使者を遣わして見舞い、高貴な薬を届けたという。 子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。善阿弥などの作庭に携わった者や、作業を行った熟練した技術を持つ河原者たちを、特に山水河原者とも称する。.

新しい!!: 文明 (日本)と善阿弥 · 続きを見る »

周桂本源氏物語

周桂本源氏物語(しゅうけいほんげんじものがたり)とは、源氏物語の写本の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と周桂本源氏物語 · 続きを見る »

和布刈神社

和布刈神社(めかりじんじゃ)は、福岡県北九州市門司区門司3492(和布刈地区)に所在する神社。別名「速門社」(はやとのみや)、「早鞆明神」。旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と和布刈神社 · 続きを見る »

アンコウ

生きた「キアンコウ」はアクアワールド・茨城県大洗水族館「深海の海ゾーン」などで見る事が出来る。 アンコウ(鮟鱇講談社編『魚の目利き食通事典』講談社プラスアルファ文庫 p.34 2002年)とは、第1義には、アンコウ目中の、アンコウ科に分類される魚の日本語における総称である。しかし、アンコウ目全体をも指す。また、アンコウ科の中でも特に食用とするものだけを指す場合もある。誤解の生じない正確な解説を試みるならば、日本人が古来「あんこう」と呼んできた「口が極めて大きく、大体にして平べったい、海の底や深い所にいる魚」の一群は、分類学が科学的に分類する「アンコウ科」という一群と結果的同義であったので、近現代の日本人はそれを日本語の第1義としている、ということ。加えて、日本語「あんこう」は、より大きな分類群である「アンコウ目」とも結果的同義であったので、近現代の日本人はそれを日本語の第2義としている。その一方で、“食用”という完全な人為分類による括りである日本語第3義は、分類学による科学的分類と一致する道理が無い(一致するなら、それは単なる偶然でしかない)。。※本項は、古来の日本語でいう「あんこう」と、分類上の「アンコウ科」について解説する。 「アンコウ科」と結果的同義と言える英語としては Goosefish と Monkfish があり、日本語「アンコウ」の第1義とも同義と言える。英語には Anglerfish という語もあるが、こちらはより広く「アンコウ目」および日本語最広義の「アンコウ」と同義と言える。.

新しい!!: 文明 (日本)とアンコウ · 続きを見る »

キンリョウヘン

ンリョウヘン(金稜辺、学名:)は、ラン科シュンラン属の1種である。中国原産で、日本には文明年間(1469〜1486年)には渡来していたとされる。明治時代にブームが起こり個体選別が行なわれ、様々な品種が選別増殖され現在に至っている。.

新しい!!: 文明 (日本)とキンリョウヘン · 続きを見る »

コウ之慧鳳

翺之慧鳳(こうしえほう、応永21年(1414年) - 文明元年(1469年)?)は室町時代の臨済宗聖一派の僧侶。竹居(ちつきょ)・幻庵(げんあん)・木裰道人(ぼくたつどうじん)・借庵(せきあん)・紅蕉(こうしょう)・古筠(こいん)などの別号を持つ。.

新しい!!: 文明 (日本)とコウ之慧鳳 · 続きを見る »

シイラ

イラ(鱪、鱰〈魚偏に暑または署〉)、学名 は、スズキ目・シイラ科に分類される魚の一種。全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚で、食用に漁獲される。ルアー釣りで人気の魚であり、釣りの対象としても人気が高い。 分類上は同属のエビスシイラ と共に、1属2種のみでシイラ科 に分類されている。.

新しい!!: 文明 (日本)とシイラ · 続きを見る »

品川神社

品川神社(しながわじんじゃ)は、東京都品川区北品川三丁目にある神社。元准勅祭社として東京十社のひとつでもある。 また東海七福神の一社として、大黒天を祀る。.

新しい!!: 文明 (日本)と品川神社 · 続きを見る »

品川湊

品川湊(しながわみなと、品河湊とも)は、武蔵国荏原郡品川(現在の東京都品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と品川湊 · 続きを見る »

冨春院

冨春院(ふしゅんいん)は、山梨県甲府市上今井町にある曹洞宗の寺院。山号は大龍山(だいりゅうざん)、開山は幸澗院(こうかんいん)三世、明宝伝警大禅師(めいほうでんけいだいぜんじ)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と冨春院 · 続きを見る »

冷泉為広

冷泉 為広(れいぜい ためひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・歌人。権大納言・冷泉為富の子。官位は正二位・権大納言。上冷泉家6代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と冷泉為広 · 続きを見る »

冷泉為和

冷泉 為和(れいぜい ためかず)は、戦国時代の公卿・歌人。正二位権大納言・冷泉為広の子。上冷泉家7代当主。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 文明 (日本)と冷泉為和 · 続きを見る »

円久寺 (鎌倉市)

円久寺(えんきゅうじ)は、神奈川県鎌倉市常盤に所在する日蓮宗の寺院。山号は常葉山。通称、コスモス寺。圓久寺とも表記される。旧本山は比企谷妙本寺、池上法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と円久寺 (鎌倉市) · 続きを見る »

円光寺 (姫路市)

円光寺(えんこうじ)は、兵庫県姫路市五軒邸二丁目にある日蓮宗の寺院。山号は長明山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)、親師法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と円光寺 (姫路市) · 続きを見る »

円楽寺

円楽寺(えんらくじ)は、山梨県甲府市右左口町にある寺院。真言宗智山派の寺院で、山号は七覚山。 本尊は薬師如来。明治に神仏分離が行われるまで、五社権現の別当寺であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と円楽寺 · 続きを見る »

円成寺

円成寺(えんじょうじ)は、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の仏教寺院。山号は忍辱山(にんにくせん)、本尊は阿弥陀如来。 奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。.

新しい!!: 文明 (日本)と円成寺 · 続きを見る »

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

新しい!!: 文明 (日本)と内大臣 · 続きを見る »

内ヶ島為氏

内ヶ島 為氏(うちがしま ためうじ)は、室町時代の武将。内ヶ島季氏の子。子に雅氏。.

新しい!!: 文明 (日本)と内ヶ島為氏 · 続きを見る »

内ヶ島氏

内ヶ島氏(内ヶ嶋氏、うちがしまし)または白川氏(しらかわし)は、室町時代から戦国時代にかけての日本の氏族である。帰雲城を本拠とした。.

新しい!!: 文明 (日本)と内ヶ島氏 · 続きを見る »

内藤弘矩

内藤 弘矩(ないとう ひろのり)は、日本の室町時代後期の武将で、周防長門の守護大名大内氏の家老として、代々長門守護代を務める内藤氏の当主。大内政弘、義興の2代に仕え重きをなす。娘(東向殿)はのちに義興の正室となり大内氏嫡子義隆を生む。.

新しい!!: 文明 (日本)と内藤弘矩 · 続きを見る »

内藤元貞

内藤 元貞(ないとう もとさだ)は、室町時代の武将。細川氏の家臣。丹波国守護代。丹波八木城主。 丹波内藤氏は代々丹波守護・細川氏に仕え、守護代を務めた。 応仁元年(1467年)6月8日、応仁の乱の西軍山名氏の領国の但馬、因幡、伯耆、備後の軍勢が丹波に攻め入ると、東軍であった内藤備前守(元貞)は国境の天田郡夜久郷でこれを迎え撃ったが敗北し、叔父の内藤貞徳らが討ち取られ、上洛を許した(井鳥野合戦之事)『応仁記』。応仁2年(1468年)3月20日には、内藤(元貞)が但馬国朝来郡に攻め込み、太田垣氏と戦っている(但州合戦之事)。 同年9月3日、内藤備前守(元貞)は、久下、永澤、荻野、本庄、足立、蘆田を率い、大江山(大枝山)を越えて谷ノ堂、峯ノ堂、梅津、桂に兵を進め、嵯峨の天龍寺に火を放った。挟撃される形となった西軍の山名宗全は宮田教言を派遣し、斯波義廉、畠山義就、大内政弘の兵も嵯峨に向かった(醍醐山科合戦之事)。細川勝元は西軍本陣を超えて援軍を送れず代わりに船岡山を攻め落としたが、元貞は宮田教言らの兵に押され、大江山に退却し守りを固めた(舟岡山合戦之事)。 応仁の乱の終結後の文明11年(1479年)、一宮氏の年貢免除を守護代内藤(元貞)が認めず、一宮方三十人程が討たれたため、一宮宮内大輔が細川政元を拉致して、一揆を起こした。内藤元貞は政元の代わりに細川勝之を擁立し庄氏や安富氏と共に一宮氏討伐を行ったが、一宮賢長が一宮宮内大輔を討ち細川政元を解放したため、事無きを得た。 文明14年(1482年)、内藤元貞は罷免され、次の丹波守護代には上原賢家が就任した。しかし、上原賢家、元秀親子は度々、丹波国人と諍いを起こしたため、明応4年(1495年)、内藤氏は丹波守護代に復任した。.

新しい!!: 文明 (日本)と内藤元貞 · 続きを見る »

出羽祐盛

出羽 祐盛(いずは すけもり)は、戦国時代の武将。石見国邑智郡出羽郷(現在の島根県邑智郡邑南町出羽)の二ツ山城を本拠とした国人・出羽氏の当主で、大内氏と毛利氏に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と出羽祐盛 · 続きを見る »

准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

新しい!!: 文明 (日本)と准后 · 続きを見る »

准大臣

准大臣(じゅんだいじん)とは、日本の朝廷において、大臣に准ずる待遇のこと。またその称号、およびその称号を与えられた者。唐名は儀同三司(ぎどうさんし)。 准大臣という官職は存在しない。三位以上の公卿に大臣の下・大納言の上の席次を与えて朝議に参加させる待遇を意味し、本来は「大臣に准ず」と文として読むのが正しかった。これが後代になると准大臣宣下が昇進過程に加えられ、更に時代が下ると実質上の極官として扱われるようになることから、制度上は待遇に過ぎない准大臣が実際には官職と同様に扱われるようになっていった。.

新しい!!: 文明 (日本)と准大臣 · 続きを見る »

入来院重豊 (10代当主)

入来院 重豊(いりきいん しげとよ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。入来院氏10代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と入来院重豊 (10代当主) · 続きを見る »

入来院氏

入来院氏(いりきいんし、いりきいんうじ)は、桓武平氏、秩父氏の流れを汲む日本の氏族。渋谷氏の支流。.

新しい!!: 文明 (日本)と入来院氏 · 続きを見る »

全岩東純

全岩 東純(ぜんがん とうじゅん)は、戦国時代の僧。大寧寺七世住職、瑠璃光寺二世住職。.

新しい!!: 文明 (日本)と全岩東純 · 続きを見る »

全久院 (豊橋市)

全久院(ぜんきゅういん)は、愛知県豊橋市にある曹洞宗の寺院である。山号は仙壽山(仙寿山)。戸田全久入道(宗光)や戸田(松平)康長の正室松姫(徳川家康の異父妹)(共に信州松本神社の祭神)の菩提寺でもある。本尊は釈迦如来坐像。.

新しい!!: 文明 (日本)と全久院 (豊橋市) · 続きを見る »

八幡神社 (奈良市東九条町)

八幡神社(はちまんじんじゃ)は奈良県奈良市東九条(とうくじょう)町に鎮座する神社(八幡宮)。大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称された。また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から元石清水八幡宮と称し、或いは辰市(たつのいち)4箇郷の氏神とされたことから、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された。 なお、町内に当神社から勧請した同名神社が存在するので、併せて記載する。.

新しい!!: 文明 (日本)と八幡神社 (奈良市東九条町) · 続きを見る »

八代道慶

八代 道慶(やしろ どうけい / みちよし)は、戦国時代の武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と八代道慶 · 続きを見る »

八代日記

八代日記(やつしろにっき)は、文明16年(1484年)から永禄9年(1566年)5月までの球磨相良氏の歴史を、日記風に記録したものである。 成立年代は不明、著者も不明であるが、史学者の勝俣鎮夫は、家臣としての個人的記事が多く、的場内蔵助宛ての書状が記されている事から、的場内蔵助による作ではないかとしている。 史料編纂所が底本にした本は写しで、『八代日記 乾』と『八代日記 坤』の二冊に分けられており、元号及び干支の間違いや、永禄2年(1559年)に起こった「獺野原の戦い」の記事があるべきところが空欄になっているなどしている。またこれの異本も存在する。 原本は長らく所在不明となっていたが、2005年に慶応義塾大学にて発見された(原本の原題は『当家日記』)。.

新しい!!: 文明 (日本)と八代日記 · 続きを見る »

八省卿の一覧

八省卿の一覧 日本の律令官制における八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)の長官(卿)を務めた人物の一覧。.

新しい!!: 文明 (日本)と八省卿の一覧 · 続きを見る »

八木城 (丹波国)

八木城(やぎじょう)は京都府南丹市八木町八木および亀岡市宮前町神前周辺にあった日本の城。内藤ジョアンゆかりの城としても有名である。丹波国三大城郭のひとつで、黒井城、八上城そして八木城が数えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と八木城 (丹波国) · 続きを見る »

八木氏

八木氏(やぎし / やぎ の うじ)は、古代日本の神別氏族。姓(かばね)は八木造(やぎのみやつこ)で造(みやつこ)姓。「やぎ」は陽疑、陽枳、矢木にも作る。.

新しい!!: 文明 (日本)と八木氏 · 続きを見る »

公条本源氏物語

公条本源氏物語(きんえだほんげんじものがたり)は、源氏物語の写本の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と公条本源氏物語 · 続きを見る »

六甲山

六甲山(ろっこうさん)は、兵庫県南東部、神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山塊。瀬戸内海国立公園の区域に指定されており、また日本三百名山、ふるさと兵庫50山の一つでもある。 一般に「六甲山」は大小の山を含む六甲山系全域(狭義には中央部から東部)を指し、最高峰は特に六甲(山)最高峰と称される。山域は神戸市のほか、芦屋市、西宮市、宝塚市に属す。 山系は南北に狭く、東西方向に長さ数十kmにわたって市街地の北側直近に迫っており、その山並みは神戸や阪神間また大阪市内を含む大阪府内からも天然のランドマークとして機能している。また裏六甲側からの山系も高い山地に遮られないこともあり、三田市や三木市、天気が良ければ小野市・加東市・加西市・加古川市などの兵庫県中部、姫路市などの兵庫県南西部などからも望むことができる。古くから交通路や観光施設の開発が進められ、多くの観光客や登山客を集める。 以下、本項では六甲山系およびその最高峰について述べる。北西に位置する丹生山系を含む六甲山地全体は六甲山地を、山系に属する個々の山、施設は:Category:六甲山地を参照。.

新しい!!: 文明 (日本)と六甲山 · 続きを見る »

六角高頼

六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と六角高頼 · 続きを見る »

六角政堯

六角 政堯(ろっかく まさたか)は、室町時代後期の武将・守護大名。近江国守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と六角政堯 · 続きを見る »

六角政頼

六角 政頼(ろっかくまさより)は、室町時代後期の人物。系譜の諸説のなかで、六角久頼と六角高頼の間にいたと推測される人物。ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝、高貞ともされ、はっきりしない。近江国守護。事蹟は六角高頼の前半生が想定されている。 室町時代後期から戦国時代初期の六角氏の系図は、六角氏が内紛を起こしていたため、はっきりしない部分が多い。このうち、応仁の乱の際に活動した「六角亀寿」(六角亀寿丸)と記録のある人物がどのような人物か推測した見解の一つが、六角政頼である。 六角久頼の没後、久頼の次兄・時綱の子である六角政堯と、久頼の子とみられる「六角亀寿」の間で守護職を巡り対立があった。政堯の後見で亀寿が守護となるが、政堯が亀寿を追い守護職を得る。のち幕府によって六角政堯が失脚させられ、亀寿が守護に返り咲くが、まもなく応仁の乱が勃発し、亀寿は西軍に所属した。戦乱により領内も混乱し、六角氏も、北近江の京極氏の力を背景に政堯、政信(久頼の長兄持綱の子)が東軍につくなど分裂状態となった。亀寿は文明3年(1471年)に政堯を自刃させ六角家家督を確保している。『応仁記』においては「六角四郎高頼」という名前がみえ、『滋賀県史』などは亀寿が元服して行高と名乗り、のち高頼と改めたとする。 しかし高頼の生年には諸説あり、このうちで久頼の没後の生まれとなるものがあった。この久頼没後の生年説を採ったときの矛盾を解決するため、久頼の子で高頼の父に当たる人物が想定された。これが「六角政頼」である。「政頼」は「甲賀二十一家之由来」にみえる。佐々木哲によれば、古文書に出る「政勝」が政頼だという。 また、義尚に討伐を受けた際(長享・延徳の乱)に伊賀に逃れたのは高頼とその嫡男の六角氏綱とされる。一方、佐々木哲は、氏綱は当時まだ出生していないとし、高頼と共に伊賀に逃れたのは高頼の父の政頼(政勝)とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と六角政頼 · 続きを見る »

六条有房

六条 有房 (ろくじょう ありふさ)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。太政大臣・久我通光の孫にして、左中将・六条通有の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、後宇多上皇の厚遇を得て内大臣に昇った。六条家2代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と六条有房 · 続きを見る »

兼重元鎮

兼重 元鎮(かねしげ もとしげ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は毛利豊元で、毛利元就の叔父にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と兼重元鎮 · 続きを見る »

元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

新しい!!: 文明 (日本)と元号一覧 (日本) · 続きを見る »

元興寺

日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂) 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。.

新しい!!: 文明 (日本)と元興寺 · 続きを見る »

光徳寺 (長野県立科町)

光徳寺(こうとくじ)は、長野県北佐久郡立科町にある曹洞宗の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と光徳寺 (長野県立科町) · 続きを見る »

光泉寺

光泉寺(こうせんじ)は、群馬県吾妻郡草津町にある真言宗豊山派の寺院である。山号は草津山。関東薬師霊場第四十四番札所。.

新しい!!: 文明 (日本)と光泉寺 · 続きを見る »

光教

光教(こうきょう、永享2年(1430年) - 文亀3年5月6日(1503年6月10日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第13世。号は敬興院、諡号は無量寿院。佛光寺11世性曇の4男で性善の弟、二条持基の猶子。 長禄元年(1457年)に天台座主教覚の手で得度し法眼となり、兄から佛光寺法主の座を譲られ法印大僧都となった。寛正6年(1465年)に後土御門天皇より門跡の称号を許され、最初の真宗門跡となった。 しかしこの頃の佛光寺は災難続きで、応仁の乱の只中の応仁2年(1468年)8月26日に坊舎が焼失したため京都から摂津平野へ移った。しかも文明元年(1469年)に法主を譲った甥の経豪が本願寺法主蓮如に近付き、文明14年(1482年)頃に蓮如に帰依して佛光寺を出奔、末寺も48坊のうち42坊が経豪についていったため、本願寺隆盛と逆に佛光寺が衰退する結果となってしまった。 非常事態に際し光教は経豪の弟経誉を法主に擁立、経誉の補佐と信者の引き留めに尽くし、文亀3年(1503年)に『正信偈聞書』を購讃し学僧の教化を図る。同年に死去、享年74。 学問好きで「学を好み、よく宗の奥義をきわめ、正信念仏偈註一巻を作す」と『佛光寺法脈相承略系譜』に称賛される一方、経誉が法主になるまで浄土宗の寺で修行していたため、法主になり浄土真宗に宗旨を替え、勝手が分からない経誉に代わり隠居ながら法主同然の活動をしていたともいわれ、文明15年(1483年)に坊舎復興のため書いた『佛光寺造立奉加帳』の作者は経誉ではなく光教ともいわれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と光教 · 続きを見る »

勝山館

勝山館(かつやまだて)は、北海道檜山郡上ノ国町にあった中世の日本の城(山城)。昭和52年(1977年)4月12日、「上之国館跡」のうちの一つ「勝山館跡」として国の史跡に指定された。.

新しい!!: 文明 (日本)と勝山館 · 続きを見る »

勝興寺

勝興寺(しょうこうじ)は富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は雲龍山。本尊は阿弥陀如来。文化財を多く有することで知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と勝興寺 · 続きを見る »

勝間田城

勝間田城(かつまたじょう)は、静岡県牧之原市勝田にある日本の城跡。静岡県指定史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と勝間田城 · 続きを見る »

勝間田氏

勝間田氏(かつまたし、かつまたうじ)は日本の氏族の一である平凡社,『世界大百科事典 第2版』, 2018年5月13日閲覧。。本貫を遠江国蓁原郡勝田(静岡県牧之原市榛原)の勝間田川流域一帯とする。勝田、勝間、勝俣などの異表記もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と勝間田氏 · 続きを見る »

勝恵

勝恵(しょうえ、文明7年(1475年)- 弘治3年11月22日(1557年12月12日)は、戦国時代の浄土真宗の僧侶。号を勝林坊。諱を兼為。幼名を光慶。願行寺1世となる。なお、没年については永禄元年(1558年)説もある。 近江国錦織寺7世慈賢の子・叡尚の長男として生まれる。内紛によって寺を去り、明応2年(1493年)19歳の時に自分を支持する伊勢・伊賀・大和の40ヶ所の門徒とともに本願寺の蓮如に合流する。蓮如は勝恵に娘の妙勝を嫁がせて、山城国三栖、ついで和泉国堺へと移り、後に蓮如の創建した大和国下市(現在の奈良県下市町)の願行寺の初代住持を任された。 歴代本願寺法主の信任が厚く、妙勝の没後にはその妹の妙祐を娶り、9世実如からは、永正10年(1513年)に聖徳太子と法然の影像を与えられた。また、実如の実弟・蓮淳に請われて、娘を蓮淳の子願証寺実恵に嫁がせている。.

新しい!!: 文明 (日本)と勝恵 · 続きを見る »

勢州七福神

勢州七福神(せいしゅうしちふくじん)は、三重県の中勢・伊勢・志摩にある7か所の寺院を七福神の札所として定めた霊場会。いずれも曹洞宗寺院で、霊場の開創は2013年(平成25年)4月と非常に新しい。.

新しい!!: 文明 (日本)と勢州七福神 · 続きを見る »

勧修寺

本堂 観音堂 勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。 1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として使用されていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺 · 続きを見る »

勧修寺尚顕

勧修寺 尚顕(かじゅうじ ひさあき、文明10年(1478年) - 永禄2年8月28日(1559年9月29日))は、安土桃山時代の公家(公卿)。 本姓は藤原氏。家系は藤原北家高藤流甘露寺支流である勧修寺家の11代当主。堂上家のひとつで家格は名家。官位は、正二位権大納言。.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺尚顕 · 続きを見る »

勧修寺経熈

勧修寺 経熈(かじゅうじ つねひろ、別名:経郷、永享4年(1432年)- 文亀4年2月17日(1504年3月3日))は、室町時代の公家(公卿)。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の10代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺経熈 · 続きを見る »

勧修寺藤子

勧修寺 藤子(かじゅうじ ふじこ、寛正5年8月26日(1464年9月27日) - 天文4年1月11日(1535年2月13日))は、後柏原天皇の典侍で、後奈良天皇の国母。女院。院号は豊楽門院(ぶらくもんいん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺藤子 · 続きを見る »

勧修寺政顕

勧修寺 政顕(かじゅうじ まさあき、享徳元年(1452年) - 大永2年7月28日(1522年8月19日))は、安土桃山時代の公家(公卿)。極位極官は、従二位・権中納言。堂上家の勧修寺家(藤原北家高藤流甘露寺支流、名家)の9代当主。「政」の字は室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものである。 子女に権大納言・勧修寺尚顕、右兵衛督・町顕量(町顕基養子)、大隅守・畠山家俊室、白山本宮惣長吏・澄祝室、内大臣・広橋兼秀室、修理大夫・畠山義総室、典侍・広橋国子(広橋兼秀養女、後奈良天皇後宮)などがいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺政顕 · 続きを見る »

勧修寺教秀

勧修寺 教秀(かじゅうじ のりひで)は、室町時代中期から戦国時代の公卿。勧修寺家第7代当主。武家伝奏を務めた.

新しい!!: 文明 (日本)と勧修寺教秀 · 続きを見る »

因幡国

因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と因幡国 · 続きを見る »

国崎町

国崎町(くざきちょう)は、三重県鳥羽市の町名。国崎は文字通り「くにざき」と読むこともある「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):423ページ。紀伊半島および志摩半島の最東端に位置し、それが町名の由来となった。郵便番号は517-0031。住民基本台帳に基づく2015年7月31日現在の人口は344人、2010年10月1日現在の面積は3.572644km2。 伊勢神宮の神饌として代表的なアワビはこの国崎町で調製されている。「石鏡女に国崎男」と言われ、国崎町には美男が多いとされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と国崎町 · 続きを見る »

国府台城

国府台城(こうのだいじょう)は現在の千葉県市川市国府台付近にあった日本の城である。城名は「市河城」「鴻之台城」とも。ただし市河城(市川城)に関しては、国府台城東側の真間山(現在の市川市真間)上の弘法寺付近にあったともされ、別の城、あるいは存在時期に鑑みて、元となった城とみる説もある。 太日川(現在の江戸川)と坂川の合流地点に隣接する標高20m~30mほどの河岸段丘上端にあり、南北650mほど東西150mほどの細長い城域で、連郭式の平山城を構えるには適した場所であるといえる。.

新しい!!: 文明 (日本)と国府台城 · 続きを見る »

国分盛綱

国分 盛綱(こくぶん もりつな、永享10年(1438年)? - 永正9年11月29日(1513年1月6日)?)は、室町時代に日本の陸奥国宮城郡にいた国分氏の第12世の当主とされる武士である。国分宗綱と同一人物とする説があり、また、実在しない可能性もある。 国分氏は室町時代から戦国時代末まで宮城郡南部にいた一族だが、盛綱の名は江戸時代に佐久間義和が編纂した「平姓国分氏系図」にのみ現れる。それによれば、盛綱の父は国分盛行、母は黒川氏基の女、弟に盛隆、竹之助、盛詮がおり、伊達盛宗(小梁川盛宗)の女を妻として胤実、盛政、盛長、盛久と三人の女を儲けた。永享10年(1438年)生、永正9年(1512年)11月29日に75歳で没。「弓馬に達し雄略に通」じ、文明年間(1469年 - 1487年)に「百戦百勝の功を樹て威勢」を振るったという。 しかしながら古内氏蔵の系図に盛綱の名はなく、この前後に重なる名がない。これはどちらが正しいというのではなく、どの系図もあまり信じることができないとされる。この時代の宮城郡南部に国分氏が勢力を持っていたことまで疑う歴史学者はいないが、盛綱という名の人がいたか、別の名でも盛綱に相当する人物がいたかということになると、不明である。.

新しい!!: 文明 (日本)と国分盛綱 · 続きを見る »

四畳半

四畳半(よじょうはん)は、日本における畳を単位とする広さのひとつで、畳4枚半分の広さを指す。また、特に畳4枚半分の広さを持つ部屋の間取りを指す。本項では後者について説明する。.

新しい!!: 文明 (日本)と四畳半 · 続きを見る »

四方拝

四方拝(しほうはい)とは、毎年1月1日(元日)の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式。.

新しい!!: 文明 (日本)と四方拝 · 続きを見る »

四日市港

四日市港(よっかいちこう)は、三重県四日市市と三重郡川越町にまたがる港湾である。港湾管理者は三重県、四日市市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の四日市港管理組合。貨物取扱量は日本国内15位(2013年)。 港湾法上の国際拠点港湾(旧・特定重要港湾)、港則法上の特定港、関税法上の開港、出入国管理及び難民認定法上の出入国港に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と四日市港 · 続きを見る »

犬山城

山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にあった日本の城である。現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と犬山城 · 続きを見る »

犬島

島(いぬじま)は瀬戸内海に位置する島のひとつである。犬島諸島最大の島であり、行政上は岡山県岡山市東区犬島に属する。犬島本島とも呼ばれる。岡山市内唯一の有人離島でもある。郵便番号は704-8153。2016年9月30日現在で人口49人9月末のデータを使用。。2010年10月1日時点で35世帯。 古くから銅の製錬業と採石業などで隆盛をきわめてきた歴史があり、現在も残る当時の遺構が独特の雰囲気と景観を醸し出している。また、2008年(平成20年)の犬島精錬所美術館開館、2010年(平成22年)の瀬戸内国際芸術祭以降は、現代アートの島としても知られるようになっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と犬島 · 続きを見る »

犬田城の戦い

城の戦い(いぬたじょうのたたかい)は、文明15年(1483年)9月中に河内北部の犬田城(現在の大阪府枚方市中宮)で発生した戦いである。畠山義就と畠山政長が河内の領有権を巡り争い、この戦いで勝利した義就が河内領有を確定させた。.

新しい!!: 文明 (日本)と犬田城の戦い · 続きを見る »

皇代暦

皇代暦(こうだいれき)は、南北朝時代から室町時代にかけてに書かれた年代記。著者は洞院公賢。後に甘露寺親長の増補によって今日の姿になったとされる。江戸時代に徳川光圀によって、歴代皇紀(れきだいこうき)という表題が与えられている。 神代から後土御門天皇の文明9年(1477年)までを記述している。同年に甘露寺親長から後土御門天皇に献上された原本は全5巻で現存はしていないが、江戸時代に柳原紀光が当時まだ現存していた原本から写本したもの(「柳原本」)が宮内庁書陵部に蔵書されている。これとは別に尊経閣文庫には、加賀藩主前田綱利所蔵本が残されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と皇代暦 · 続きを見る »

矢部定利

部 定利(やべ さだとし、生年不詳-延徳元年(1489年)11月)は因幡国の国人で同国若桜鬼ヶ城主。通称・八郎、官職は左衛門尉、山城守。子は宗春。.

新しい!!: 文明 (日本)と矢部定利 · 続きを見る »

矢部宗春

部 宗春(やべ むねはる、文明元年(1469年) - 延徳元年(1489年)?)は室町時代末期の因幡国の武士。父は矢部定利、通称は八郎。.

新しい!!: 文明 (日本)と矢部宗春 · 続きを見る »

矢部町 (町田市)

部町(やべまち)は、東京都町田市の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は194-0214。.

新しい!!: 文明 (日本)と矢部町 (町田市) · 続きを見る »

矢部氏

部氏(やべし)は、日本の氏族のひとつで因幡国八東郡若桜鬼ヶ城を拠点とする国人領主の一族。.

新しい!!: 文明 (日本)と矢部氏 · 続きを見る »

知立神社

知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)は、愛知県知立市西町にある神社。式内社、三河国二宮で、旧社格は県社。 旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた。.

新しい!!: 文明 (日本)と知立神社 · 続きを見る »

知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

新しい!!: 文明 (日本)と知恩院 · 続きを見る »

石城神社

石城神社(いわきじんじゃ)は、山口県光市大字塩田にある神社。式内社で、旧社格は県社。 古代山城の石城山神籠石(国の史跡)で知られる石城山(標高362メートル)の山頂部に鎮座する。.

新しい!!: 文明 (日本)と石城神社 · 続きを見る »

石川親康

石川 親康(いしかわ ちかやす)は、戦国時代の武将。三河国碧海郡小川(愛知県安城市)に拠った石川氏の一族。石川政康の三男。松平親忠・長親に仕えた。.

新しい!!: 文明 (日本)と石川親康 · 続きを見る »

石川政康

石川 政康(いしかわ まさやす)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と石川政康 · 続きを見る »

石丸利光

石丸 利光(いしまる としみつ、生年不明 ‐ 明応5年5月30日(1496年7月10日))は、戦国時代の武将。官位は丹波守。父は石丸実光とされている。子に利元、利高、織田寛定室がいる。美濃国の実権を握っていた持是院家の斎藤妙椿に仕え、船田城を本拠として、小守護代と呼ばれた。また、後に斎藤氏の名乗りを許されて斎藤 利光(さいとう としみつ)と名乗った。.

新しい!!: 文明 (日本)と石丸利光 · 続きを見る »

石井忠國

石井 忠國(いしい ただくに)は、室町時代中期の武将。肥前国小城郡主・千葉氏の重臣。千葉介の玄孫と伝わる。肥前石井氏の元祖。.

新しい!!: 文明 (日本)と石井忠國 · 続きを見る »

石井忠義

石井 忠義(いしい ただよし)は、戦国時代の武将。九州千葉氏および龍造寺氏の重臣。石井式部大輔忠保の嫡男。肥前国佐嘉郡飯盛城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と石井忠義 · 続きを見る »

石神井城

石神井城(しゃくじいじょう)は日本の城。所在地は東京都練馬区石神井台。.

新しい!!: 文明 (日本)と石神井城 · 続きを見る »

石脇城

石脇城(いしわきじょう)は、現在の静岡県焼津市石脇下字山崎にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と石脇城 · 続きを見る »

玉置神社

玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社。大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。 社務所および台所、梵鐘は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部、pp.39,75。.

新しい!!: 文明 (日本)と玉置神社 · 続きを見る »

玉隠英與

玉隠英璵(ぎょくいんえいよ、永享4年(1432年)-大永4年8月1日(1524年8月29日))は、室町時代後期から戦国時代初期にかけての臨済宗大覚派の僧侶。道号は玉隠、法諱は英璵(永璵)、号は懶庵・玉澗・聴松軒。鎌倉五山の最後を飾る禅僧、知識人である。.

新しい!!: 文明 (日本)と玉隠英與 · 続きを見る »

玉葉和歌集

『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と玉葉和歌集 · 続きを見る »

玉津島神社

鳥居 玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。国史見在社。.

新しい!!: 文明 (日本)と玉津島神社 · 続きを見る »

王滝御嶽神社

王滝御嶽神社(おうたきおんたけじんじゃ)は、長野県木曽郡王滝村にある神社。王滝口御嶽神社(おうたきぐちおんたけじんじゃ)、御嶽神社王滝口(おんたけじんじゃおうたきぐち)ともいう。木曽御嶽山への山岳信仰に基づく神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と王滝御嶽神社 · 続きを見る »

火山噴火の歴史

火山噴火の歴史(かざんふんかのれきし)は、火山の噴火の記録を列挙している。なお、あらかじめ直接的な噴火によらない火山性ガスや土石流などによる被災事例および、特筆すべき点のない噴気活動などは省いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と火山噴火の歴史 · 続きを見る »

現存天守

存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。これ以外に存在する天守には、復元天守、復興天守、模擬天守がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と現存天守 · 続きを見る »

琳聖太子

琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。名は義照。.

新しい!!: 文明 (日本)と琳聖太子 · 続きを見る »

砥石城

砥石城(といしじょう)は、現在の岡山県瀬戸内市邑久町豊原の千町平野に突き出た標高100mほどの砥石山山頂にあった日本の城。五連郭の本城と堀切を構えた四郭の出城で構成される中世の山城。「砥石山城」「砥石ケ城」等とも呼称された。.

新しい!!: 文明 (日本)と砥石城 · 続きを見る »

砂子 (川崎市)

子(いさご)は、神奈川県川崎市川崎区の町名。2012年(平成24年)4月6日現在、住居表示は未実施。郵便番号は210-0006。2010年の国勢調査時点での面積は11.07 ha。.

新しい!!: 文明 (日本)と砂子 (川崎市) · 続きを見る »

砂越氏

越氏(さごしし)は、日本の氏族のひとつ。出羽国飽海郡砂越邑発祥の出羽国の豪族。本姓は不明。確認されているだけで2度再興されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と砂越氏 · 続きを見る »

砂越氏雄

越 氏雄(さごし うじたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。出羽国飽海郡砂越城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と砂越氏雄 · 続きを見る »

神奈川区

奈川区(かながわく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつ。横浜市で初めにできた区の一つで、9番目に大きい区である。 東海道の宿場町、「神奈川宿」から区名が取られた。県名も同源である。.

新しい!!: 文明 (日本)と神奈川区 · 続きを見る »

神山 (松阪市)

山(こうやま)は、三重県松阪市にある山である。標高は131m。 櫛田川と祓川の分岐点北西に位置している。山の北東部には紀勢本線が走っている。かつては「度瀬山」とも呼ばれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と神山 (松阪市) · 続きを見る »

神山一乗寺

山一乗寺(こうやまいちじょうじ)は三重県松阪市中万町にある天台宗延暦寺派の仏教寺院である。櫛田川と祓川の分岐点北西に位置する神山(こうやま)山頂への道筋にある。.

新しい!!: 文明 (日本)と神山一乗寺 · 続きを見る »

神祇伯

祇伯(じんぎはく)は、日本の律令官制における神祇官の長官。唐名は「大常伯」「大常卿」「大卜令」「祠部尚書」など。和訓は「かみ(かん)づかさのかみ」。定員は1名。官位相当は従四位下・勲四等。令制四等官の内、長官を伯と称するのは神祇官だけであるので、単に伯(はく)と見える場合はこの神祇伯を指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と神祇伯 · 続きを見る »

神祇管領長上

吉田神社斎場所大元宮(京都市左京区) 神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)とは、吉田神道を継承する吉田家当主が代々名乗った称号。元来は「神祇管領長上并南座勾当」であったが、やがて「神祇管領勾当長上」と略されるようになり、「神祇管領長上」が一般的となった。また「神祇管領」や「神祇長上」「神道長上」とさらに略されることもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と神祇管領長上 · 続きを見る »

神道大意

神道大意(しんとうたいい)は、中世・近世において様々な神道家によって書かれた神道書の書名である。 その中で最な著名ものは、文明18年(1486年)に吉田兼倶が足利義政のために著した、吉田神道(唯一神道)の要旨を略述したものである。また、兼倶の曾孫に当たる吉田兼見によるものや、兼倶の先祖の吉田兼直のものも著名である。ただし、兼直撰とされているものは、実際には兼倶による偽作とみられている。 しんとうたいい.

新しい!!: 文明 (日本)と神道大意 · 続きを見る »

神領奉行

奉行(じんりょうぶぎょう)とは、室町幕府の役職。江戸幕府における山田奉行の前身とされる。 室町幕府は文明10年頃愛洲忠行を「神領奉行職」に執奏し、朝廷の裁可となった。 それ以前、宝徳2年(1450年)『氏経卿記』に「盗人六郎は山田で召し捕らえられ、宇治岡の辺りで斬首に処せられた。これは神宮に於いて新議の事である。従来は道後政所から守護に犯人を引渡し、守護が犯人を処罰するのが先例である」と記されている。 宝徳年間、既に検断権は「祭主家」から離れて「山田三方」が有していた事が判る。 文明年間に入るや「山田三方」の内部抗争が頻発するに及び、苦慮した室町幕府は「国司北畠氏」と「山田三方」に中立な愛洲忠行を神領奉行職に任命し、伊勢大神宮の御遷宮奉行と神領地の治安に当らしめた。後世、江戸幕府の遠国奉行や山田奉行は、これを倣っている。 愛洲忠行以降、朝廷の裁可は行われず、国司北畠氏の代官である坂内氏等が「北畠氏の奉行」として替わっている。伊勢国一之瀬城を拠城としていた愛洲忠行は「神領奉行職」を拝命するや、祭主家が神領支配していた岩出祭主館跡に遷る。『言継卿記』に後世、北畠氏の神領支配で「岩出城」を拠点としていた事が記されている。現・三重県度会郡玉城町岩出大森岩出城址がそれである。 江戸幕府の伊勢山田奉行の設置について、「山田三方会合衆の要請に依った」とか昭和4年刊行の宇治山田市史の「豊臣秀吉の上部越中守への御朱印状を以て江戸幕府・山田奉行の前例とする」説は、現在に於いても大岡忠相の山田奉行手柄話と共にまことしやかに語られている。 明和5年、山田一志久保町・講古堂主人、加藤長平秦忠告著の「宮川夜話草」に、「神領奉行」に就いての論考がある。「天正以前までは本州国司北畠具教公の御支配なりき。文禄年中の豊臣秀吉公御代は、岡本下野殿亀山城より神領を御支配せられ、その後、牧村兵庫殿・町野左近殿・古田兵部殿・稲葉蔵人殿、当国、田丸・岩出両城より御支配せらる」とあり上部越中守の亀山城神領奉行岡本下野への取次を以て、江戸幕府の「山田奉行の前例」とするは、「こじつけ」と指摘されていることが解る(参考文献:御巫清直著 田丸城沿革考)。.

新しい!!: 文明 (日本)と神領奉行 · 続きを見る »

神谷神社

正面鳥居 神谷神社(かんだにじんじゃ)は、香川県坂出市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。.

新しい!!: 文明 (日本)と神谷神社 · 続きを見る »

祁答院氏

祁答院氏(けどういんし)は、日本の氏族のひとつ。相模国渋谷氏の庶流で、薩摩国発祥の一族。薩摩国伊佐郡祁答院(現・鹿児島県薩摩郡さつま町及び薩摩川内市祁答院町)を本貫地とした。.

新しい!!: 文明 (日本)と祁答院氏 · 続きを見る »

祐泉寺

泉寺(ゆうせんじ)は岐阜県美濃加茂市太田本町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は龍興寺。中山道の木曽川河畔にある旧宿場、太田宿の中にある寺として知られる。美濃三十三観音27番札所。.

新しい!!: 文明 (日本)と祐泉寺 · 続きを見る »

祥啓

祥啓(しょうけい、生没年不詳)は、室町時代中期から後期にかけて活躍した画僧・禅僧。賢江祥啓(けんこうしょうけい)とも。賢江は号で、僧名は元英祥啓。雪村と並び、室町後期の関東を代表する画人である。.

新しい!!: 文明 (日本)と祥啓 · 続きを見る »

祖父君神社

殿 萬福籠瀬 境内社 祖父君神社(おじぎみじんじゃ)は、長崎県南松浦郡新上五島町浦桑郷に鎮座する神社である。有川郷の祖母君(うばぎみ)神社(現有川神社)と由緒を同じくし、祖母君神社を「下の宮」と呼ぶのに対し、当社は「浦の宮」と呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と祖父君神社 · 続きを見る »

福岡氏

福岡氏(ふくおかし、ふくおかうじ)は、日本の氏族。 清和源氏流、村上源氏流、桓武平氏流、日下部氏流が存在する。 清和源氏の流れを汲み、大和国添上郡を本拠として活動した一族が著名。居城は上狭川城。後に土佐藩士として大政奉還から明治維新に活躍した福岡孝弟も一族である。.

新しい!!: 文明 (日本)と福岡氏 · 続きを見る »

福住中定城

福住中定城(ふくすみなかさだじょう)は、奈良県天理市福住町にあった日本の城(平山城、丘城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と福住中定城 · 続きを見る »

福田方

福田方(ふくでんほう)とは、南北朝時代に禅僧有隣(有林)によって書かれた医学書。全12巻。 正平18年/貞治2年(1363年)頃に執筆されたとされているが、最終的な完成は有隣が没したとされる応永17年(1410年)以前とする見方もある。文明2年(1470年)に書写された鈔本が宮内庁書陵部に、明暦3年(1657年)に刊行された刊本が内閣文庫にある。 漢から元にかけての中国の医学書約160種を渉猟して、著者の私見を含めて平易な仮名交じり文で書かれている。各科ごとに病症と適応薬方が分類され、更に本草・製薬・鍼灸・養生の分野にわたっても触れられている。また、出典となった医学書に関しても明記されており、当時の日本の医学においては高い水準と実用性を兼ね備えていた書物であるとされている。同時に当時の中国医学文献の日本への伝来状況を知る上でも貴重な資料となっていると考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と福田方 · 続きを見る »

禅徳寺

禅徳寺は、愛知県犬山市にある、臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は、釈迦牟尼仏。開山は、景川宗隆(本如実性禅師)。.

新しい!!: 文明 (日本)と禅徳寺 · 続きを見る »

私年号

私年号(しねんごう)は、紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す。異年号(いねんごう)・偽年号(ぎねんごう)・僭年号(せんねんごう)とも呼ぶ。 主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。日本では、正史には記載されていないものの、天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号(いつねんごう)と呼び、これに含める場合がある。なお、「私年号」を当時の王朝に対する対抗的性格の薄いものと定義し、明確な覇者的意志をもって建てられる「偽年号」「僭(窃)年号」などとは区別する場合もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と私年号 · 続きを見る »

秋月城 (紀伊国)

秋月城(あきづきじょう)は、紀伊国名草郡秋月村(現・和歌山県和歌山市秋月)にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と秋月城 (紀伊国) · 続きを見る »

秀麓斎

麓斎(しゅうろくさい)は、宮城県名取市にある曹洞宗の寺院。山号は天苗山。本尊は聖観音。奥州三十三観音霊場第2番札所である。.

新しい!!: 文明 (日本)と秀麓斎 · 続きを見る »

稲垣重綱

稲垣 重綱(いながき しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。上野国伊勢崎藩第2代藩主、越後国藤井藩主、同三条藩主、三河国刈谷藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家2代。 稲垣氏は文明年間に、伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系。 天正11年(1583年)、三河牛窪城主・牧野康成の家臣(のち徳川氏の直参家臣→伊勢崎藩初代藩主)・稲垣長茂の長男として生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)の居城・信州上田城攻めに参加した。 慶長17年(1612年)、父・長茂の死により家督と上野伊勢崎藩1万石の所領を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては酒井家次隊に属して参戦し、戦功を挙げたことから元和2年(1616年)、越後藤井藩2万石に加増移封された。元和6年(1620年)、さらに3000石加増のうえ、越後三条城に居城を移した。慶安元年(1648年)から慶安2年(1649年)の間には、大坂城代も務めている。 慶安4年(1651年)、三河刈谷に移封され、承応3年(1654年)1月8日、72歳で死去した。嫡男・重昌は既に死去していたため、重昌の長男・重昭が後を継いだ。 しけつな Category:戦国武将 稲02 Category:三条藩主 category:刈谷藩主 Category:大坂城代 Category:1583年生 Category:1654年没.

新しい!!: 文明 (日本)と稲垣重綱 · 続きを見る »

稲垣長茂

稲垣 長茂(いながき ながしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国伊勢崎藩初代藩主。鳥羽藩稲垣氏初代。 三河稲垣氏は文明年間に、伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系。 天文8年(1539年)、稲垣重宗の長男として生まれる。 永禄元年(1558年)、牧野康成の与力となり、後に家臣となる。永禄年間の初期には、戦国大名今川氏に属して、松平氏(徳川氏)を圧迫し、桶狭間の戦い後も今川氏のため徳川家康軍と交戦した。やがて家康に恭順した康成に従って各地を転戦して武功を挙げ、駿河国興国寺、長久保、上野大胡城の守備などを任された。 天正18年(1590年)、家康が関東に移ると、牧野氏を離れて、徳川直参組となった。このとき上野山田郡、勢多郡など3郡において3000石を与えられた。 慶長5年(1600年)の会津征伐時には、牧野康成の大胡城を守備した。慶長6年(1601年)には上野佐位郡で加増されて1万石の大名として諸侯に列し、伊勢崎藩主となった。 慶長17年(1612年)10月22日、74歳で死去した。家督は、長男・重綱が継いだ。 なかしけ Category:戦国武将 稲01 Category:1539年生 Category:1612年没.

新しい!!: 文明 (日本)と稲垣長茂 · 続きを見る »

稲垣氏俊

稲垣 氏俊(いながき うじとし)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 三河稲垣氏は文明年間に、伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると、今川氏の領国は支配力が低下し中でも三河における離反者が続出した。翌永禄4年(1561年)、吉田城代・小原鎮実などが徳川氏に味方した三河野田城主・菅沼定盈を開城降伏させると、今川氏真によって氏俊は野田城代に抜擢された。 しかし、永禄5年(1562年)6月、定盈が持ち城を奪回すべく夜襲を仕掛け、氏俊は防戦の中で討ち死にした。 うしとし Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1562年没.

新しい!!: 文明 (日本)と稲垣氏俊 · 続きを見る »

稲村城

村城(いなむらじょう)は、安房国安房郡(現在の千葉県館山市稲付近)にあった日本の城である。2012年1月24日に岡本城(南房総市)とともに「里見氏城跡」として国の史跡に指定された。 館山平野・鏡ヶ浦を見下ろせる標高64mの丘陵上に築かれ、東西・南北ともに500m規模を持つと推定される。また、主郭部分の東側を削り、西側の尾根を盛土した痕跡がうかがえる。 伝承では文明18年(1486年)に里見義実が築城し、延徳3年(1491年)に完成したとされるが、確証はない。ただ、築城が15世紀後半と推定されること、里見氏最初の本拠地とされる白浜城との間で道が整備されていたことが知られていることから、里見義通・義豊が当主の時代には里見氏の本拠地となっていたとみられている。 天文2年(1533年)から翌年にかけて発生した天文の内訌が「稲村の変」と呼ばれているように、同城が舞台となっていた(ただし、伝承として伝えられている内訌の経緯と現存の文献などから推定される内訌の経緯は大きく異なっている。詳細は稲村の変を参照のこと)。この内訌で稲村城主であった4代当主里見義豊は、従兄弟である義堯に滅ぼされて家督を奪われて稲村城もそのまま廃城となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と稲村城 · 続きを見る »

穴山信懸

山 信懸(あなやま のぶとお)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と穴山信懸 · 続きを見る »

穴蔵

蔵(あなぐら)は、地面や山盛り土の斜面に横穴・竪穴を造成または、既存のものを利用して、物を収納できるようにした倉庫。地下倉庫。穴倉・窖とも書く。.

新しい!!: 文明 (日本)と穴蔵 · 続きを見る »

竹売

竹売(たけうり)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の行商人である''竹売''、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月29日閲覧。。なかでも、山科家を本所とし竹を貢納および販売する者、およびその身分を竹供御人(たけくごにん)といい、同家に属した散所にあって竹を販売する者を竹売散所者・竹うり散所者(たけうりさんじょもの)という。江戸時代(17世紀 - 19世紀)に、切った篠竹(メダケ)を行商した者も「竹売」と呼んだ、江戸年中行事&風俗、2012年8月29日閲覧。。.

新しい!!: 文明 (日本)と竹売 · 続きを見る »

竹林の戦い

竹林の戦い(たけばやしのたたかい)は、永正11年8月(1514年8月)に下野国宇都宮竹林で行われた合戦。別名・高林の戦い、高林合戦など。 また、同年に竹林の戦いの前哨戦として発生した那須口の戦い(なすぐちのたたかい)についても本項で説明する。.

新しい!!: 文明 (日本)と竹林の戦い · 続きを見る »

竺雲等連

竺雲等連(じくうんとうれん、永徳3年/弘和3年(1383年) - 文明3年1月7日(1471年1月27日))は、室町時代中期の臨済宗の僧。俗姓は井伊氏。諱は等連。字は竺雲。号は自彊・小朶子・重艮叟。遠江国の出身。 京都天龍寺の大岳周崇に師事して修学しその法を継いだ。応永年間(1394年 - 1427年)に中国の明に渡った。帰国した後、京都相国寺を経て、1444年(文安元年)南禅寺の住持となり、1455年(康正元年)には相国寺の鹿苑院に住して僧録司に任じられた。その後は嵯峨の天龍寺性智院に隠退している。漢書の訓点に秀で、特に易学の研究に優れ、その後の五山における史書研究の基礎を築いた。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:井伊氏 Category:遠江国の人物 Category:1383年生 Category:1471年没.

新しい!!: 文明 (日本)と竺雲等連 · 続きを見る »

立原氏

立原氏(たちはらし)は、日本の武家の氏族。.

新しい!!: 文明 (日本)と立原氏 · 続きを見る »

笠置寺

置寺(かさぎでら)は、京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は鹿鷺山(しかさぎさん)。本尊は弥勒仏。開基は大友皇子または天武天皇と伝える。歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と笠置寺 · 続きを見る »

第九飫肥役

九飫肥役(だいきゅうおびえき)とは、永禄11年(1568年)に日向国南部飫肥城を巡って伊東義祐と島津忠親、及び北郷時久との間で行われた合戦である。80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる一連の攻防戦における事実上最後の戦い。.

新しい!!: 文明 (日本)と第九飫肥役 · 続きを見る »

筑後川

筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ有明海に注ぐ川である。河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川である。利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもある。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。.

新しい!!: 文明 (日本)と筑後川 · 続きを見る »

筑土八幡神社

筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、東京都新宿区筑土八幡町にある神社。江戸時代までは筑土八幡宮と呼ばれていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と筑土八幡神社 · 続きを見る »

筑紫氏

筑紫氏(つくしし)は、日本の氏族。筑前国や筑後国、肥前国に勢力を張った。系図には諸説あり足利直冬の後裔を称する系図も残されているが、少弐氏の庶流が有力視されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と筑紫氏 · 続きを見る »

筑紫満門

筑紫満門(つくし みつかど)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。少弐氏、大内氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と筑紫満門 · 続きを見る »

筒井城

井城(つついじょう)は奈良県大和郡山市筒井町にあった日本の城で、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と筒井城 · 続きを見る »

筒井順尊

筒井 順尊(つついじゅんそん、宝徳3年(1451年) - 長享3年7月22日(1489年8月27日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人筒井氏当主。筒井順永の子。成身院順盛、安楽坊順憲、遊佐長直の妻の兄。順賢、順興の父。栄藤。舜覚坊。 当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父順永と共に義就派の越智家栄、古市澄胤と大和で戦った。 しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内に下向して政長派を撃滅・制圧すると越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となってしまった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。 その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。 しゆんそん Category:戦国武将 Category:大和国の人物 Category:1451年生 Category:1489年没.

新しい!!: 文明 (日本)と筒井順尊 · 続きを見る »

筒井順興

井 順興(つつい じゅんこう、 文明16年(1484年) - 天文4年7月5日(1535年8月3日))は、大和の戦国大名。筒井順尊の次男。順賢の弟。妻は越智家令の娘。順昭、順政、順国、福住順弘、女子(十市遠忠妻)らの父。松倉政秀の父とも言われる。順慶の祖父。生年月日は明応2年7月7日(1493年8月18日)とも言われる。号は良舜坊。 大永元年(1521年)、兄の順賢の跡を継いで当主となり、越智氏と和睦してその娘を娶った。同年3月、将軍足利義稙が管領細川高国と仲違いして和泉を経て淡路島に出奔した後10月に堺に上陸、畠山尚順・畠山義英が呼応して畠山稙長(尚順の子)と戦った時、順興は越智家栄と共に稙長側に参陣、義英軍を打ち破った。その後も稙長軍に属して義英と戦った。 享禄元年(1528年)、柳本賢治が大和に侵攻して苦戦を強いられるが、享禄3年(1530年)に賢治が暗殺されたのも束の間、天文元年(1532年)に大和で一向一揆が発生、十市遠治や越智氏と協力して鎮圧に努めた(天文の錯乱)。 衰退した筒井氏を再興して大和に勢力を築き、十市氏など周辺の国人領主と縁戚関係を結ぶなどして勢力を拡大していった。.

新しい!!: 文明 (日本)と筒井順興 · 続きを見る »

筒井順永

筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.

新しい!!: 文明 (日本)と筒井順永 · 続きを見る »

箸尾為国

箸尾 為国(はしお ためくに、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての武将。大和の国人。箸尾宗信の子。妻は筒井順永の娘。箸尾為時の父。幼名は藤徳丸。官位は上野介。 応仁の乱の直後に父が急死した為、後を継いで筒井氏と協力して越智家栄と戦った。 しかし文明7年(1475年)、筒井氏と共に万歳氏を攻撃したが、逆に大敗北となり、箸尾氏は深刻な被害を受けた。しかも文明9年(1477年)、畠山義就が畠山政長勢を破ると、大和でも義就方が攻勢に出て、為国・筒井順尊・十市遠清ら筒井党は総崩れとなった。以後、箸尾氏らは復帰の為の戦いを繰り広げたが、筒井方は劣勢であり、文明19年(1487年)、為国は越智氏方に降参した。以後、大和では越智党の優勢が続いた。 畠山義就が延徳2年(1490年)に死去すると、後を継いだ基家は明応2年(1493年)に将軍足利義稙を奉じた政長に攻め込まれるが、留守を突いた細川政元のクーデターによって敗れた政長は自害した(明応の政変)。同年、越智家栄は大和国衆を率いて上洛したが、為国はその中に入っていた。永正3年(1506年)の安位寺再建の奉加帳に名前が載っているが、以降の消息は不明。同族に筒井順慶に仕えた箸尾高春がいる。 Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:大和国の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文明 (日本)と箸尾為国 · 続きを見る »

篠脇城

脇城(しのわきじょう)は、岐阜県郡上市大和町にかつて存在した日本の城(山城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と篠脇城 · 続きを見る »

節用集

集(せつようしゅう)は、室町時代から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも。漢字熟語を多数収録して読み仮名をつける形式をとっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と節用集 · 続きを見る »

簗田氏

簗田氏(やなだし)は、日本の武家。室町時代・戦国時代に下総国・関宿城(千葉県野田市)及び水海城(茨城県古河市)を根拠として活動した。鎌倉公方・古河公方の家臣であり、特に古河公方の時代には筆頭重臣になった。嫡流の関宿簗田家、傍流の水海簗田家に分かれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と簗田氏 · 続きを見る »

簗田持助 (室町時代)

簗田 持助(やなだ もちすけ)は、室町時代後期の武将。足利氏(古河公方)の家臣。下総国水海城(現在の茨城県古河市)主。.

新しい!!: 文明 (日本)と簗田持助 (室町時代) · 続きを見る »

米子城

米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城。久米城、湊山城ともいう。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁であった。城跡は国の史跡に指定されている。 戦国時代の飯山にあった米子城(飯山城)についても併記する。.

新しい!!: 文明 (日本)と米子城 · 続きを見る »

米山神社 (姶良市)

米山神社(よねやまじんじゃ)は鹿児島県姶良市鍋倉の神社。平山城から南へ延びる丘陵の先端部に位置する岩山の頂に鎮座する。明治以前は米山薬師と称された仏堂であった為、「米山薬師」と称される場合もある。旧社格は無格社。.

新しい!!: 文明 (日本)と米山神社 (姶良市) · 続きを見る »

米本城

米本城(よなもとじょう)は千葉県八千代市にあった日本の城である。米本城跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と米本城 · 続きを見る »

粒坐天照神社

境内 粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)は兵庫県たつの市の日山(白鷺山)に鎮座する神社。伊和神社、海神社とともに播磨三大社とされる。旧県社。現在、鎮座する天神山が「龍が坐った形に似ている」ことからついた旧称の龍座神社として地域で広く親しまれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と粒坐天照神社 · 続きを見る »

糟屋宿

大山道糟屋宿 上宿から下宿方面を望む(2017年2月撮影) 糟屋宿(かすやしゅく)は、かつて相模国大住郡下糟屋村(現・神奈川県伊勢原市下糟屋)にあった、大山道(矢倉沢往還)の宿場(継立場)。上宿と下宿で構成されている。下糟屋村はかつて上糟屋村とともにひとつの村を築いていたことから、上糟屋村にあった宿も含めて糟屋宿と称することもある。 下糟屋村内の小名で弥杉(いやすぎ)と呼ばれる辺りで複数の古道が交わっており、弥杉から南方に向かうと伊勢原市田中方面に抜け、弥杉から西方に向かうと大山へと通じていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と糟屋宿 · 続きを見る »

糺の森

糺の森 糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。 賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡「賀茂御祖神社境内」としての史跡指定であり、森林自体ではない。なお、指定基準「森」として史跡の指定を受けているものは滋賀県の老蘇森のみである。として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と糺の森 · 続きを見る »

細川尚春

細川 尚春(ほそかわ ひさはる)は、戦国時代の武将。細川氏一門・淡路守護家の事実上、最後の当主となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川尚春 · 続きを見る »

細川之持

細川 之持(ほそかわ ゆきもち)は、室町時代後期の武将。阿波細川家の当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川之持 · 続きを見る »

細川元常

細川 元常(ほそかわ もとつね)は、戦国時代の和泉上半国守護・山城国勝龍寺城城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川元常 · 続きを見る »

細川元有

細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。和泉半国の守護。細川藤孝(幽斎)の祖父にあたる。 長禄3年(1459年)、細川常有(つねあり、細川教春の弟)の四男として生まれる。兄に細川頼常(よりつね)、細川政有(まさあり、将軍・足利義政より「政」の字を賜う)がいる。初めは兄の政有が家督を継承していたため、し禅僧として建仁寺に入って雪渓源猷と号した。文明12年(1480年)に還俗し、その翌年に政有が死去したため、父の命令で家督を継ぐことになった。 明応4年(1495年)、同じ和泉半国守護(下守護)であった細川政久(まさひさ)と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。しかしこのため、明応9年(1500年)9月2日に畠山尚順によって居城の和泉岸和田城を攻められることとなり、城は落城して戦死した。享年42。 死後は嫡男の元常が跡を継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川元有 · 続きを見る »

細川勝久

細川 勝久(ほそかわ かつひさ)、は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。備中守護。細川氏一門である備中守護家出身で細川氏久(うじひさ)の子。養子に義春(之勝)。官位は兵部少輔、後に兵部大輔。また上総介を称した。 応仁の乱では細川氏一門として本家の京兆家当主で管領・細川勝元の下で東軍として戦う。しかし後に勝元の子細川政元と対立するようになり、備中に在国し領国統制に苦闘することになる。 「勝」の字は勝元と同様、将軍・足利義勝から偏諱を賜ったものと思われ、この頃に元服を済ませたと考えられる(「久」は父・氏久から1字を取ったもの)。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川勝久 · 続きを見る »

細川勝之

細川 勝之(ほそかわ かつゆき、生没年不詳)は、室町時代の武士。細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元の猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正。諱(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川勝之 · 続きを見る »

細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川勝元 · 続きを見る »

細川勝益

細川 勝益(ほそかわ かつます、生年未詳 - 文亀2年6月4日(1502年7月8日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将。細川遠州家当主および土佐守護代。細川頼種の子孫にあたる。通称は三郎。官位は治部少輔・遠江守。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川勝益 · 続きを見る »

細川勝氏

細川 勝氏(ほそかわ かつうじ)は、『海東諸国紀』にのみ記載される室町幕府の人物。細川氏の一族であり、細川勝元の従兄弟とある(この場合、勝元の叔父・細川持賢が父ということになるだろうが、今のところ確認されていない)。諱の「勝」の字は、勝元と同じく室町幕府第7代将軍・足利義勝より偏諱を受けたものであろう。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川勝氏 · 続きを見る »

細川義春

細川 義春(ほそかわ よしはる)は、室町時代中期の武将。阿波細川家の当主。細川成之の次男。 初め備中守護・細川勝久の養子となった際に1字(「勝」の字)を受けて之勝(ゆきかつ)と名乗っていたが、実家に戻ってからは10代将軍・足利義材(のちの義稙)より偏諱(「義」の字)を賜って義春(「春」は初代当主・詮春の1字に由来)に改名している。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川義春 · 続きを見る »

細川頼久

細川 頼久(ほそかわ よりひさ、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は細川基之(もとゆき、満之の子)。細川和泉下守護家当主。阿波守、兵部大輔。子に4代将軍足利義持の一字を受けた持久(もちひさ)、弟に6代将軍足利義教(義持の弟)の一字を受けた教久(のりひさ)がいる。 基久没後の文安5年(1448年)10月から応仁3年(1469年)頃まで和泉半国守護を務めた。 頼久は応仁3年には在国しており、子の持久が在京したという。文明年間初頭に没したと推測されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川頼久 · 続きを見る »

細川高国

細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川高国 · 続きを見る »

細川通薫

細川 通薫(ほそかわ みちただ)は、戦国時代の武将。諱は通重(みちしげ)、通頼(みちより)とも。細川氏野州家の細川晴国が実父である。晴国は一時期管領細川高国および稙国の後継者と目されていたが、通薫は叔父である輝政(通政)の猶子となり、戦国時代に在地領主としての自立を目指した。通薫も下野守を称した。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川通薫 · 続きを見る »

細川持常

細川 持常(ほそかわ もちつね)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護。細川氏の分家・阿波細川家の当主。父は、細川満之の子・細川満久(みつひさ)。弟に教祐(のりすけ)、その子の成之は持常の養子となる。官位は従五位下、兵部少輔、讃岐守。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川持常 · 続きを見る »

細川成之

細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川成之 · 続きを見る »

細川成春

細川 成春(ほそかわ しげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。淡路守護細川家の一族である。淡路守護の細川家は細川師氏を祖とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川成春 · 続きを見る »

細川政之

細川 政之(ほそかわ まさゆき)は、戦国時代の武将。細川氏の一門。阿波・守護だった細川成之の長男。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川政之 · 続きを見る »

細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川政元 · 続きを見る »

細川政国

細川 政国(ほそかわ まさくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川典厩家当主。細川持春の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川政国 · 続きを見る »

細川教春 (野州家)

細川 教春(ほそかわ のりはる、生没年不詳)は、室町時代の武将、守護大名。細川野州家当主。下野守。丹波国を領していたとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と細川教春 (野州家) · 続きを見る »

紅葉八幡宮

紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)は、福岡県福岡市早良区にある神社である。旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と紅葉八幡宮 · 続きを見る »

紀清両党

紀清両党(きせいりょうとう)とは下野国宇都宮大明神の座主である宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団。東国武士の武勇を代表する武士団として有名である。.

新しい!!: 文明 (日本)と紀清両党 · 続きを見る »

続善隣国宝記

続善隣国宝記(ぞくぜんりんこくほうき)は、江戸時代に編纂された外交文書集。室町時代に編纂された『善隣国宝記』の継承する意味を有した書名と考えられている。ただし、内容の異なる3系統の同名書が存在する上、その派生とも言われている続善隣国宝外記・善隣国宝別記の2種類の外交文書集も存在している。.

新しい!!: 文明 (日本)と続善隣国宝記 · 続きを見る »

続神皇正統記

続神皇正統記(ぞくしんのうしょうとうき)は、室町時代後期に小槻晴富(壬生晴富)によって書かれた史論書。北畠親房の『神皇正統記』の続編の体裁を採りながら、同書は批判する目的で書かれた。全1巻。.

新しい!!: 文明 (日本)と続神皇正統記 · 続きを見る »

継桜王子

継桜王子の鳥居と一方杉 継桜王子(つぎざくらおうじ、次桜王子・続桜王子とも)は和歌山県田辺市中辺路町にある神社。熊野九十九王子社のひとつ。国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)および名勝「南方曼荼羅の風景地(2015年〈平成27年10月7日指定)の一部。.

新しい!!: 文明 (日本)と継桜王子 · 続きを見る »

練馬城

練馬城(ねりまじょう)とは、現在の東京都練馬区向山にある遊園地「としまえん」の園内にかつてあった室町時代の日本の城である。.

新しい!!: 文明 (日本)と練馬城 · 続きを見る »

緒川城

緒川城(おがわじょう)は、尾張国知多郡小河(愛知県知多郡東浦町緒川)にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と緒川城 · 続きを見る »

織田寛広

織田 寛広(おだ とおひろ/ひろひろ、織田寛廣、生没年不詳)は、戦国時代の武将。父は織田広近。弟に津田武永、織田広忠。織田敏広の養子。官位は兵庫助、伊勢守。幼名は千代夜叉丸。尾張上四郡守護代、岩倉城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田寛広 · 続きを見る »

織田広近

織田 広近(おだ ひろちか、織田廣近、生年不詳 - 延徳3年9月24日(1491年10月27日))は、戦国時代の武将。父は織田郷広。岩倉城主で尾張上四郡守護代でもある「織田伊勢守家」当主の織田敏広の弟。子に寛広、津田武永(織田寛近)、広忠(与三郎)。通称は遠江守。幼名は千代夜叉丸。通称は与十郎。法名は「珍岳常宝庵主」、「本住院殿珍嶽常宝大禅定門」。諱は郷近とも。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田広近 · 続きを見る »

織田信定

織田 信定(おだ のぶさだ)は、戦国時代初期の武将。尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主。勝幡城城主。信定は信貞とも書く。織田信秀の父であり、織田信長の祖父。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田信定 · 続きを見る »

織田達定

織田 達定(おだ たつさだ/みちさだ、生年不詳 ‐ 永正10年(1513年)は戦国時代の武将。通称は五郎。官位は大和守。尾張下四郡守護代、清洲城主。父は織田寛定。養子に織田達勝。 継承時期については不明であるが、先代(叔父とされる)織田寛村の名が文献から途絶え、文亀3年(1503年)、清洲に勢力を持つ守護代として妙興寺に政札を出していることから、この頃に「大和守家」(清洲織田氏)を継いだと思われる。 また一説に嫡流「伊勢守家」(岩倉織田氏)の当主にもなった説もある。 初名については不明だが、後に尾張守護斯波義寛の跡を継いだその子斯波義達の一字「達」の偏諱を受け、達定と名乗った推定される。文明14年(1482年)、斯波義寛に従軍し、近江へ出陣したという。 永正10年(1513年)、義寛の跡を継いだ守護斯波義達に対して反乱を起こすが敗れて自害する(遠江遠征を巡って対立があったといわれている)。達定に代わり、一説に弟でその養子とされる達勝が新たな守護代となる。没年月日について『定光寺年代記』では4月14日、『東寺過去帳』には5月5日とあり、諸説ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田達定 · 続きを見る »

織田良信

織田 良信(おだ すけのぶ/よしのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。官途は弾正左衛門、弾正忠。備後守。尾張の守護代である織田氏の一族で清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」(勝幡織田氏)の祖とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田良信 · 続きを見る »

織田敏定

織田 敏定(おだ としさだ)は、戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されており、真偽は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田敏定 · 続きを見る »

織田敏広

織田 敏広(おだ としひろ、織田敏廣)は、戦国時代の武将。室町幕府の管領斯波氏の家臣で尾張上四郡の守護代。織田伊勢守家(岩倉織田氏)の祖とされる。また、従兄弟の織田久広と同一人物という説がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田敏広 · 続きを見る »

織田敏信

織田 敏信(おだ としのぶ、文正元年(1466年) - 永正14年1月26日(1517年2月16日?))は、戦国時代の武将。管領・斯波氏の家臣。法名は清巌、常清、常也、常巴。通称は左馬助『寛政重修諸家譜』、『公卿補任』、伊勢守、大和守。備後守 尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず、定かではない。 文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城に太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の織田敏信邸に立寄り、織田敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったといわれる。 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父とされる織田敏定とともに尾張守護斯波義寛に従軍したという(延徳の乱)。 また明応2年(1493年)、再び守護・斯波義寛に従い、織田敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという(『蔭涼軒日録』)。 没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日没。戒名「龍潭寺殿清巌常世大居士」。『前野家文書』「武功夜話」では明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも。後に娘は織田信長の父織田信秀の側室となったといわれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と織田敏信 · 続きを見る »

置塩城

置塩城(おきしおじょう、おじおじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城(山城)。国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と置塩城 · 続きを見る »

美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 文明 (日本)と美作国 · 続きを見る »

美和神社 (笛吹市)

美和神社 鳥居 (2010年4月撮影) 美和神社(みわじんじゃ)は、山梨県笛吹市にある神社。旧県社。 祭神は大物主命(オオモノヌシノカミ)。.

新しい!!: 文明 (日本)と美和神社 (笛吹市) · 続きを見る »

義忠

義忠(ぎちゅう、文明10年(1479年) - 文亀2年8月5日(1502年9月6日))は、戦国時代初期の天台宗の僧侶。足利義視の子で室町幕府将軍足利義材の異母弟。なお、『系図纂要』では「義仲」と記載されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と義忠 · 続きを見る »

羽咋神社

羽咋神社(はくいじんじゃ)は、石川県羽咋市川原町にある神社。式内社で、旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と羽咋神社 · 続きを見る »

羽生市

羽生市(はにゅうし)は、埼玉県の北東に位置する人口約5万5千人の市である。江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の街でもある。旧武蔵国埼玉郡。.

新しい!!: 文明 (日本)と羽生市 · 続きを見る »

真如三昧耶堂

真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)は、真言宗系の在家仏教教団真如苑の開祖・伊藤真乗が興した「真如三昧耶流」を顕揚するために、真言宗醍醐派総本山醍醐寺により平成5年(1997年)9月11日に建立された堂真乗刊行会『真乗 心に仏を刻む』 (2007)中央公論新社 P299~302。 真如三昧耶堂のある場所は、醍醐寺開創間もない頃に建立された法華三昧堂(文明2年(1470年)8月20日戦火により炎上)の跡地で、醍醐天皇の誓願を実現した醍醐寺の下伽藍に位置する。 伊藤真乗は、真言宗醍醐派醍醐寺で出家得度し、金胎両部伝法灌頂と最勝恵印三昧耶法(恵印灌頂)の両方を畢(お)えて、大阿闍梨となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と真如三昧耶堂 · 続きを見る »

真宗大谷派竹鼻別院

真宗大谷派竹鼻別院(しんしゅうおおたにはたけはなべついん)は、岐阜県羽島市にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。.

新しい!!: 文明 (日本)と真宗大谷派竹鼻別院 · 続きを見る »

真宗出雲路派

真宗出雲路派(しんしゅういずもじは)は、福井県越前市の毫摂寺を本山とする、浄土真宗の一派である。末寺数67。.

新しい!!: 文明 (日本)と真宗出雲路派 · 続きを見る »

真宗高田派

真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。.

新しい!!: 文明 (日本)と真宗高田派 · 続きを見る »

真宗興正派

真宗興正派(しんしゅうこうしょうは)とは、浄土真宗の一派。本山は京都府京都市下京区の興正寺。親鸞の門弟真仏が率いる高田門徒の分流である武蔵国荒木(現在の埼玉県行田市荒木)の源海が率いる満福寺を中心とする荒木門徒の流れを汲む。末寺数、486寺。真仏を祖とし、了源を中興の祖とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と真宗興正派 · 続きを見る »

真光寺 (加須市)

真光寺(しんこうじ)は、埼玉県加須市向古河にあった新義真言宗の寺院である。正観山薬法院慈眼坊と号する。隣接する茨城県古河市徳星寺の末寺(『新編武蔵風土記稿』)『ふるさとの文化財』 123-124頁(真光寺跡)。 「真光院」とも呼ばれた『古河市史 資料 別巻』 340-342頁(古河志・真光寺)。 現在は廃寺で、寺跡は加須市の指定文化財(史跡)になっている。古河公方ゆかりの寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と真光寺 (加須市) · 続きを見る »

真珠庵

真珠庵(しんじゅあん)は京都府京都市北区紫野にある、臨済宗大本山大徳寺の塔頭である。型破りの禅僧として著名な一休宗純ゆかりの寺院である。特別公開時を除き、通常は非公開である。.

新しい!!: 文明 (日本)と真珠庵 · 続きを見る »

真言宗山階派

真言宗山階派(しんごんしゅうやましなは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。大本山は勧修寺(かしゅうじ)。.

新しい!!: 文明 (日本)と真言宗山階派 · 続きを見る »

真淳

真淳(しんじゅん、文明元年(1736年) - 文化4年(1807年))は、江戸時代・中期から後期にかけての真宗高田派の僧である。 江戸期の円遵を中心とした真宗高田派の復古運動の中、末法無戒を主張する浄土真宗の教えにおいて、自ら円頓戒を実践し、また戒律を顕彰する著述活動を行った。代表的な著作として、真慧の『顕正流義鈔』に対する注釈書が4冊、戒律についての主著として『下野伝戒記』、『下野大戒秘要』などがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と真淳 · 続きを見る »

真清田神社

真清田神社(ますみだじんじゃ、眞清田神社)は、愛知県一宮市真清田にある神社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と真清田神社 · 続きを見る »

真木朝親

真木 朝親(まき ともちか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尼子氏の家臣。石見国真木城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と真木朝親 · 続きを見る »

猿橋

猿橋(さるはし、えんきょう)は、山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋。国の名勝に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と猿橋 · 続きを見る »

烏丸資任

烏丸 資任(からすまる すけとう、応永24年(1417年) - 文明14年12月15日(1483年1月23日))は室町時代の公家。室町幕府8代将軍足利義政の寵臣。烏丸豊光の子。号は蓮光院。子に烏丸益光、養子に烏丸冬光がいる。従姉は日野重子。 足利義教の三男で次期将軍を継承する可能性が低かった義政は、幼少時には母方の一族である資任の屋敷(烏丸殿)にて育てられた石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6。ところが、嘉吉3年(1443年)、義政が兄の急死で急遽将軍を継ぐことになったために資任の烏丸殿がそのまま将軍の御所として用いられる事になり、長禄3年(1459年)に義政が室町殿に移るまでこの状態が続いた。このため、将軍の育ての親的存在になった資任の発言力が高まることになった。 文安元年(1444年)に参議、長禄2年(1458年)には従一位・准大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に出家し、西誉と号する。応仁の乱を避けて三河国伊良湖御厨(愛知県田原市)に下向し、文明14年(1482年)に同地にて66歳で薨去。 今参局(御今)や有馬持家とともに一時幕政に深く関与したが、3人とも「おいま」「ありま」「からすま(る)」と「ま」がつくことから「三魔」と呼ばれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と烏丸資任 · 続きを見る »

烏帽子形八幡神社

烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)は、大阪府河内長野市喜多町305に所在する神社。旧社格は村社。.

新しい!!: 文明 (日本)と烏帽子形八幡神社 · 続きを見る »

結城直朝 (白河氏)

結城 直朝(ゆうき なおとも)は、室町時代後期の武将。白河結城氏6代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と結城直朝 (白河氏) · 続きを見る »

結城顕頼

結城 顕頼(ゆうき あきより)は、戦国時代の武将。白河結城氏8代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と結城顕頼 · 続きを見る »

結城氏広

結城 氏広(ゆうき うじひろ)は、室町時代後期の武将。下総結城氏14代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と結城氏広 · 続きを見る »

結城政朝

結城 政朝(ゆうき まさとも)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。下総結城氏15代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と結城政朝 · 続きを見る »

結城政朝 (白河氏)

結城 政朝(ゆうき まさとも)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。白河結城氏7代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と結城政朝 (白河氏) · 続きを見る »

経覚

経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)- 文明5年8月27日(1473年9月19日))は、室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。.

新しい!!: 文明 (日本)と経覚 · 続きを見る »

経誉

経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世性善の次男で母は西園寺実種の娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に経光。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。 法主として経豪出奔後の佛光寺立て直しに尽力、6坊を重用し、摂津国平野の檀家奥野清順に末寺転派阻止に功があったとし、親鸞ゆかりの宝器や漢方薬を授けたといわれる。文明15年(1483年)7月に応仁の乱で焼失した佛光寺の再建を募り『佛光寺造立奉加帳』を記し(光教が作成したとも)、12月に法眼に叙任。長享元年(1487年)4月に大僧都に任じられ、同年に室町幕府9代将軍足利義尚祈願の公書を納めた。永正9年(1512年)に死去、享年58。子の経光が後を継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と経誉 · 続きを見る »

疋壇城

疋壇城(ひきだじょう)は、福井県敦賀市疋田にあった山城である。越前の戦国大名であった朝倉氏の近江・越前国境守備の役割を担っていた。疋田城と表記されることもある。福井県の史跡に指定されている 。.

新しい!!: 文明 (日本)と疋壇城 · 続きを見る »

瑞龍寺 (岐阜市)

龍寺(ずいりょうじ)は、岐阜県岐阜市寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は金寶山。 臨済宗妙心寺派の坐禅修行の出来る専門道場であり、雲水(禅の修行僧)の修業の場である。 総門を入ると参道の右に瑞雲院、鶴棲院、臥雲院。左に、天澤院、開善院、雲龍院の6つの寺(塔頭)がある。一番奥には雲水の修行道場である僧堂がある。 境内には、斎藤妙椿(斎藤利藤とは別人が有力)、土岐成頼、悟渓国師の墓がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と瑞龍寺 (岐阜市) · 続きを見る »

瑞渓周鳳

渓周鳳(ずいけいしゅうほう、明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)- 文明5年5月8日(1473年6月3日))は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の僧。和泉国堺の出身で、俗姓は大伴氏。諱は周鳳。字は瑞渓。臥雲山人とも称される。諡号は興宗明教禅師(文明14年(1482年)勅諡)。.

新しい!!: 文明 (日本)と瑞渓周鳳 · 続きを見る »

瑠璃光寺

璃光寺(るりこうじ)は、山口県山口市香山町にある曹洞宗の寺院。山号は保寧山、本尊は薬師如来。国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と瑠璃光寺 · 続きを見る »

生瀬皇太神社

生瀬皇太神社(なまぜこうたいじんじゃ)は兵庫県西宮市塩瀬町生瀬にある神社である。例祭にはだんじり祭が行われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と生瀬皇太神社 · 続きを見る »

生根神社 (大阪市住吉区)

生根神社(いくねじんじゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(大社)で、旧社格は郷社。 住吉大社元摂社である。通称は「奥の天神」・「奥天神」。.

新しい!!: 文明 (日本)と生根神社 (大阪市住吉区) · 続きを見る »

用津院

津院(ゆうしんいん)は、山梨県都留市金井に所在する寺院。曹洞宗寺院で山号は向富山、本尊は虚空蔵菩薩。.

新しい!!: 文明 (日本)と用津院 · 続きを見る »

田原城 (三河国)

原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の日本の城。江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と田原城 (三河国) · 続きを見る »

田峰城

峯城(だみねじょう)とは、かつて愛知県北設楽郡設楽町田峯にあった日本の城(山城)である。菅沼家の本城であった。別名「蛇頭城」。笹頭山の中腹に位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と田峰城 · 続きを見る »

田中千阿弥

中 千阿弥(たなか せんなみ、生没年不詳)は、千利休の祖父で子に堺の有力町衆である田中与兵衛がいる。『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、千阿弥の遠祖は里見義俊の子の田中義清であり、その子孫と自称したが、明確な確証はない。.

新しい!!: 文明 (日本)と田中千阿弥 · 続きを見る »

田代三喜

代 三喜(たしろ さんき、寛正6年4月8日(1465年5月3日) - 天文13年4月15日(1544年5月6日))は、室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。 曲直瀬道三・永田徳本などと並んで日本における中医学の中興の祖である。三喜は通称で、名は導道、字(あざな)を祖範といった。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道の多くの号がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と田代三喜 · 続きを見る »

田代町 (鹿児島県)

代町(たしろちょう)は、鹿児島県(離島を除く地域)の南東部、大隅半島南部の内陸部にあった町。肝属郡に属し、景勝地「花瀬」を有することで著名であった。 いわゆる平成の大合併により2005年3月22日に大根占町と合併し、錦江町の一部となった。当項目では必要に応じて、錦江町の田代地域の現況についても触れる。.

新しい!!: 文明 (日本)と田代町 (鹿児島県) · 続きを見る »

甲斐敏光

斐 敏光(かい としみつ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将である。越前・遠江守護代。甲斐将久(常治)の子、信久(のぶひさ)の父。通称は八郎。.

新しい!!: 文明 (日本)と甲斐敏光 · 続きを見る »

町広光

広光(まち ひろみつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。町家3代当主。官位は正二位、権大納言。室町大納言と呼ばれる興福寺別当次第による。。.

新しい!!: 文明 (日本)と町広光 · 続きを見る »

町藤光

藤光(まち ふじみつ/ひさみつ)は、室町時代中期の公卿。町家2代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と町藤光 · 続きを見る »

甘露寺元長

露寺 元長(かんろじ もとなが)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけての公卿。甘露寺親長の次男。妻は高倉永継の娘。法名は清空、道号は古月。子に甘露寺伊長。.

新しい!!: 文明 (日本)と甘露寺元長 · 続きを見る »

甘露寺親長

露寺 親長(かんろじ ちかなが)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公家である。実務家公卿を輩出した藤原北家勧修寺流甘露寺家の当主。出家後は蓮空。一字名は鬼。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 文明 (日本)と甘露寺親長 · 続きを見る »

熊倉城

倉城(くまくらじょう)は、武蔵国秩父郡日野村(埼玉県秩父市荒川日野)の城山にあった日本の城。別名・日野城(ひのじょう)。 城名は城山が熊倉山に連なる峰であったからとみられているが、中世期の文献には「熊倉城」の名前がなく、江戸時代以降の命名である可能性がある(「熊倉城」の名前は『新編武蔵風土記稿』に登場する)。そのため、中世期には村名より「日野城」と呼ばれていたと考えられている。 主君・上杉顕定に反抗した長尾景春は、拠点である鉢形城・長井城を失い、秩父郡へと逃亡、再起を期して築城した城の1つと考えられている。だが、文明12年(1480年)に景春は上杉方の太田道灌に攻められて日野城(熊倉城:「太田道灌状」には“日野要害”と記載)に追い込まれ、同年6月24日に同城は落城、拠点を失った景春は逃亡し、長尾景春の乱は終結した(後に景春は下総国の古河公方の下に亡命する)。その後、鉢形城の支城として上杉氏・北条氏・武田氏などの支配下に置かれ、遅くても小田原の役によって廃城になったと考えられている。 城は熊倉山から北へ伸びる城山の尾根に沿って大手門があったとみられる南東から北西に向かって築かれ、尾根と荒川およびその支流が形成した崖と渓谷に阻まれた天然の要害であった。城跡の外周は急斜面となっており、中央部の本丸を囲むように空堀が巡らされていたことが知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊倉城 · 続きを見る »

熊谷堅直

谷 堅直(くまがい かたなお、永享2年(1430年) - 文明10年(1478年))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。父は熊谷信直。子に熊谷宗直、直次、助三郎、直綱。通称は二郎三郎、二郎左衛門、法名電景。官途は美濃守。 1438年に9歳で家督を継いだ。しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。 安芸武田氏に従い、大内氏との戦いに明け暮れた。1461年の9月には武田信賢より、河内国への出陣を要請されている。1465年8月の安芸国国府の戦いでは、息子の宗直を引き連れて参戦している。この戦いで大内方は陶弘正が討死している。 1478年に伊勢ヶ坪城で死去。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊谷堅直 · 続きを見る »

熊野三山本願所

野那智大社拝殿。寺社の壮麗な社頭の維持には多額の費用を要する。 熊野三山本願所(くまのさんざんほんがんじょ)は、15世紀末以降における熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)の造営・修造のための勧進を担った組織の総称である。 熊野三山を含めて、日本に於ける古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われていた。しかしながら、熊野三山では、これらの財源はすべて15世紀半ばまでに実効性を失った(→#前史)。 それらに替わる財源を確保し、熊野三山の造営・修造に寄与したのが、15世紀後半以降に成立した熊野三山本願所で、類似する他の寺社の本願所と比べて際立って規模が大きく、一山ごとに独自の性格を持っていた(→#熊野三山本願所の成立)。熊野三山本願所は、各地に送り出した一部の熊野山伏・熊野比丘尼が募った勧進奉加を熊野へ送り届けさせること、また、熊野への巡礼者からの散銭を得ることを通じて財源を調達し、堂舎の建立・再興・修復を行う造営役としての役目を果たした。近世初期には新宮を首座として熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して職務の遂行にあたった(→#活動と組織)。 15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与する様になり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。しかしながら、他の寺社と同じく本願と社家の間には緊張関係があった。17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山に於ける地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された。18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定付けられるに至った。しかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することは出来ず、明治の神仏分離まで存続した(→#衰退と終焉)。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊野三山本願所 · 続きを見る »

熊野年代記

野年代記(くまのねんだいき)は、熊野新宮の本願所であった新宮庵主霊光庵により編纂された編年体の歴史書。古代から明治時代前半までの熊野三山の歴史を伝え、熊野の歴史研究において重要な史料と評価されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊野年代記 · 続きを見る »

熊野神社 (国分寺市)

野神社(くまのじんじゃ)は、東京都国分寺市西恋ヶ窪にある神社である。旧社格は村社。9月9日の例大祭には神輿の火渡りが執り行われる。 創建年代は明らかではなく、最も古い年代の社伝は元弘・建武年間の頃(14世紀前半)、新田義貞と鎌倉幕府との兵火によって社殿を焼失したというものである。文明18年(1486年)5月、道興准后が奉納したと伝わる歌額を奉納したと伝えられており、伝えられる歌を刻銘した歌碑が、明治7年(1874年)境内に建立された。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊野神社 (国分寺市) · 続きを見る »

熊野那智大社

二の鳥居 境内風景 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部、pp.39,75。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊野那智大社 · 続きを見る »

熊本県の歴史

本県 本項では、熊本県の歴史(くまもとけんのれきし)を概説する。 九州の中央部に位置する熊本県は、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」が前後二分された際の東側、旧国名のいわゆる肥後国が占めた領域とほぼ一致する。これは、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部などが別藩の領土とされるなど、また逆に肥後国天草郡に属していた長島が現在では鹿児島県に編入されているなどの一部例外はあるが、府県制施行によって置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制をほぼ維持した例にあたる。 熊本県の風土的特色は、菊池川・白川流域を中心とし阿蘇山を含む県北部域、人吉盆地を主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別することができる。この区分はそれぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草という幕藩体制下の三つの区域と対応しており、それぞれ個別の特色を持つ。 熊本県の歴史をかいつまむと、多くの遺跡や古墳に見られる豊かな自然環境とそれを一変させる火山活動、律令制下から武士の勃興。南北朝を経て国衆割拠そして加藤清正の入部、細川忠利の入部を経て幕末の動乱から西南戦争、戦後の公害問題までが大まかな流れとなる。そして全体を通して、大和朝廷の成立後、周辺の位置にあった肥後国そして熊本県の歴史は、常に中央政権からの影響を受けつつ綴られた。.

新しい!!: 文明 (日本)と熊本県の歴史 · 続きを見る »

畠山尚順

山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより「尚順」の読みについては、「順」の字を受けた遊佐順盛の読みから、前者が有力である。遊佐順盛についてはを参照。)は、戦国時代の武将、守護大名。室町幕府紀伊・河内・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。 畠山政長の子。稙長、長経、政国、晴熙(はるひろ)の父。初名は尚慶(ひさよし/ひさのり)、後に尚順と名乗るが、更に父・政長の1字を取って尚長(ひさなが)と改名した。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍・足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。号は卜山。法号は勝仙院竜源徳陽。 生涯を通して足利義稙の有力な与党として活動した。明応の政変で父政長を殺され、紀伊での逼塞を余儀無くされたが、流浪の義稙を支持して宿敵の畠山義豊を討ち、細川政元に抵抗し続けた。義稙の将軍復帰後は領国へ下向し、実効支配を確立しようとしたが、紀伊で謀反を起こされ没落。その後出奔した義稙に呼応するも、復帰を果たせぬまま死去した。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山尚順 · 続きを見る »

畠山修羅

山 修羅(はたけやま しゅら、応仁2年〈1468年〉 - 文明15年11月14日〈1483年12月22日〉)は、室町時代の人物。畠山義就の長男で義豊(基家)の兄。通称は修羅法師、諱は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山修羅 · 続きを見る »

畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山義就 · 続きを見る »

畠山義統

山 義統(はたけやま よしむね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、能登守護。能登畠山氏の第3代当主。2代当主畠山義忠の嫡男畠山義有の嫡男。弟に政国。子に義元、慶致、義智。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山義統 · 続きを見る »

畠山義豊

山 義豊(はたけやま よしとよ)は、戦国時代初期の武将、守護大名。河内守護。畠山氏の一派である総州家当主で、畠山義就の次男で修羅の弟、義英の父。 初名は基家(もといえ)、のち父の「義」の字を取って義豊に改名(時期は不明)。通称は次郎、官位は弾正少弼。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山義豊 · 続きを見る »

畠山政国 (総州家)

山 政国(はたけやま まさくに、生年不詳 - 文明2年10月5日(1470年11月6日))は、室町時代の武将。能登畠山氏の出身で能登守護畠山義有の子(畠山義忠の孫で畠山義統の弟にあたる)。畠山総州家・畠山義就の猶子。通称は次郎。室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を受けて政国(旧字体:政國)と名乗る。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山政国 (総州家) · 続きを見る »

畠山政長

山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.

新しい!!: 文明 (日本)と畠山政長 · 続きを見る »

照姫 (豊島氏)

照姫の墓所と伝わる姫塚 練馬区石神井公園 照姫(てるひめ)は室町時代の伝説上の女性。石神井城(東京都練馬区)城主豊島泰経の二女(長女または豊島泰明の妻という説もある)。名は照日姫とも。練馬区では照姫をしのんで毎年、時代まつり「照姫まつり」を開催している。.

新しい!!: 文明 (日本)と照姫 (豊島氏) · 続きを見る »

牧野古白

牧野 古白(まきの こはく)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。俗名は成時(しげとき)。法名の古白は古伯とも書く。利成とする文書もあるが一般的ではない。三河国今橋城(吉田城)主。.

新しい!!: 文明 (日本)と牧野古白 · 続きを見る »

牧野保成

牧野 保成(まきの やすしげ、? - 永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主。また、牛窪城主。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。天文期に戦国大名今川氏に属して戸田氏に奪われていた所領を回復したが、永禄期半ばには徳川家康の東三河進出に抵抗して敗死。.

新しい!!: 文明 (日本)と牧野保成 · 続きを見る »

特芳禅傑

特芳禅傑(とくほうぜんけつ、1419年(応永26年) - 1506年10月5日(永正3年9月10日))は、室町時代の臨済宗の僧。大徳寺46世住持、妙心寺10世住持を務め、妙心寺四派の一つである霊雲派の開祖となった。 尾張国熱田(現・愛知県)に生まれる。幼くして出家し、京の東福寺で瑞岩について修業していたが30歳を過ぎて龍安寺の義天玄詔の下に参禅するようになった。その後行脚して汾陽寺の雲谷玄祥や大樹寺の桃隠玄朔の薫陶を受けた後、龍安寺に戻り雪江宗深により1473年(文明5年)に印可を得た。 その後、丹後国船井郡龍興寺、摂津国西宮海清寺の住持を務めた。1478年(文明10年)大徳寺51世住持となってから、1480年(文明12年)に犬山瑞泉寺住持を務めた後妙心寺12世住持となる。その後細川政元の庇護のもと龍安寺の再建に取り組み、1488年(長享2年)に中興開山となった。龍安寺の石庭はこの時に作庭されたとされる。翌年には塔頭の西源院の開山となる。また、1492年(明応元年)には亀岡龍潭寺の開山になった。その後は1504年(永正元年)に西源院に居を移し、1506年(永正3年)に示寂した。後に大寂常照禅師と諡された。 法嗣に大休宗休、九庵宗鑑、天釈禅弥(大徳寺57世)、稜叔智慶、鄧林宗棟らがいる。大休宗休の開いた妙心寺霊雲院は特芳禅傑を勧請開山としており、霊雲院を本庵とする霊雲派の開祖とされている。示寂後にまとめられた語録に『西源特芳和尚語録』がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と特芳禅傑 · 続きを見る »

牛の峠

牛の峠(うしのとうげ)は、宮崎県日南市酒谷甲と三股町樺山の境界にある峠、および峠の南西に隣接する山である。鰐塚山地の南西部にあり、山頂は日南市域より200-300m離れた都城市と三股町の境界に聳える。峠の境界には塚石と呼ばれる標柱が置かれている。山頂の北東部(旧道の峠)には、かつて境界論争の舞台となった「牛之峠論所」がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と牛の峠 · 続きを見る »

牛久保六騎

牛久保六騎(うしくぼろっき)は、戦国時代の東三河地方の牛久保城主牧野氏に参集していた寄騎衆の6氏をあらわす用語。「牛窪記」(江戸時代中期成立の軍記物)の記述中に現れる 「牛窪記」は、その構成メンバー6氏の姓氏を具体的には明示していないが、同文献中に登場する東三河の司頭とされる牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧 の各氏が該当すると推測されている。彼らは天文年間には東三河に進出してきた戦国大名の今川氏(駿河方)に属していたが、今川義元の死後は寄親の牧野氏に先んじて徳川氏と和睦、牛久保牧野氏の徳川方帰属の仲立ちをしたとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と牛久保六騎 · 続きを見る »

狩野元信

白衣観音図(狩野元信・画、ボストン美術館所蔵) 狩野 元信(かのう もとのぶ、 文明8年8月9日(1476年8月28日)? - 永禄2年10月6日(1559年11月5日))は、室町時代の絵師。狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。弟は雅楽助。 父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と狩野元信 · 続きを見る »

狩野正信

狩野 正信(かのう まさのぶ、祐清すけきよとも、 永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?)は、室町時代の絵師で、狩野派の祖である。 狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派であった。この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。長男は元信、次男は雅楽助。.

新しい!!: 文明 (日本)と狩野正信 · 続きを見る »

狩野派

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。.

新しい!!: 文明 (日本)と狩野派 · 続きを見る »

益子勝宗

子 勝宗(ましこ かつむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。下野宇都宮氏の家臣。下野国芳賀郡益子城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と益子勝宗 · 続きを見る »

益田宗兼

宗兼(ますだ むねかね)は石見国人益田氏第17代当主。 文明15年(1483年)に家督を譲られ、父と祖父から知行を譲り受けた。石見西部の領土を巡って吉見氏や三隅興兼と争う一方、大内義興に従って明応6年(1497年)の少弐政資討伐に従軍、永正5年(1508年)、義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男の尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。船岡山合戦にも参加、戦功を挙げた。永正15年(1518年)の義興の帰国に伴い石見へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。 天文13年(1544年)に死去。孫の藤兼が家督を継いだ。尹兼は家督を継がなかったとされている。 雪舟と交流があり、文明15年の家督相続で雪舟から『花鳥図屏風』を寄贈された。.

新しい!!: 文明 (日本)と益田宗兼 · 続きを見る »

益田市立雪舟の郷記念館

市立雪舟の郷記念館(ますだしりつせっしゅうのさときねんかん)は、島根県益田市にある美術館。雪舟の墓とされる大喜庵に隣接して平成2年(1990年)10月開館、雪舟と益田の歴史を展示、紹介している。.

新しい!!: 文明 (日本)と益田市立雪舟の郷記念館 · 続きを見る »

益田兼堯

兼堯(ますだ かねたか)は石見の国人領主。益田氏当主で第15代七尾城(益田城)城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と益田兼堯 · 続きを見る »

益田貞兼

貞兼(ますた さだかね)は戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。益田氏第16代。.

新しい!!: 文明 (日本)と益田貞兼 · 続きを見る »

益救神社

鳥居 拝殿と本殿 益救神社(やくじんじゃ)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町(屋久島)にある神社。式内社で、旧社格は県社。 『延喜式』神名帳に記載された神社のうち最も南に位置する。現在は「やく」と読むが、かつては「ますくひ」「すくひ」と読んだ。旧称は「須久比ノ宮」「一品宝珠大権現」。.

新しい!!: 文明 (日本)と益救神社 · 続きを見る »

相馬盛胤 (十三代当主)

盛胤(そうま もりたね)は、戦国時代の武将・大名。相馬氏13代当主。陸奥国行方郡小高城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と相馬盛胤 (十三代当主) · 続きを見る »

相良為続

良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年)- 明応9年6月4日(1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男。母は犬童兼長の娘。官位は従五位下・左衛門尉。通称は次郎三郎。初名は頼元、後に肥後守護菊池為邦と長続からそれぞれ偏諱を受け、為続と改名した。.

新しい!!: 文明 (日本)と相良為続 · 続きを見る »

相良頼泰 (権五郎)

良 頼泰(さがら よりやす)は、相良氏の第11代当主相良長続の四男。第12代当主相良為続の弟。多良木の地頭。官途は左近将監。子は長泰、長弘、娘(北原茂兼室)。北原兼親は外孫。.

新しい!!: 文明 (日本)と相良頼泰 (権五郎) · 続きを見る »

相良長毎

良 長毎(さがら ながつね)は、相良氏の第13代当主。第12代当主・相良為続の第一子。初名を長輔(ながすけ)とし、通称は太郎。.

新しい!!: 文明 (日本)と相良長毎 · 続きを見る »

相良長泰 (肥後相良氏)

良 長泰(さがら ながやす、文明5年(1473年) - 長享元年(1487年))は、戦国時代の武将。父は相良頼泰で、その嫡男。祖父は肥後国相良氏11代当主・相良長続。幼名は松尉丸。通称は権五郎。 第12代当主・相良為続の近習として仕えていたが、長享元年に父の頼泰が、長泰の器量が優れている事から相良氏を相続させようと謀り、奉行の佐牟田上野、吉牟田孫左衛門らと密約を交わした。それが為続の子・相良長毎の知るところとなり、すぐさま成敗の命が下された。 頼泰は原城下原(人吉城内)の館で殺害され、長泰も在所であった八代にて殺害された。なお弟・松千代丸(後の長弘)も兄と共にいたが、幼いということで助命された。 享年15。法名は「賀呈道慶」。.

新しい!!: 文明 (日本)と相良長泰 (肥後相良氏) · 続きを見る »

相模トラフ巨大地震

模トラフ巨大地震(さがみトラフきょだいじしん)は、相模トラフのプレート境界(メガスラスト)で発生したと考えられている巨大地震石橋克彦(1991):, 地震学会秋季大会講演予稿集, No.2, p.251.

新しい!!: 文明 (日本)と相模トラフ巨大地震 · 続きを見る »

盛安寺

盛安寺(せいあんじ)は、滋賀県大津市坂本にある天台真盛宗の寺院。重要文化財の十一面観音菩薩立像を所蔵しており、同像は井上靖の小説『星と祭り』で知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と盛安寺 · 続きを見る »

瀬谷区

谷区(せやく)は、横浜市を構成する18行政区のうちの一つであり、横浜市18行政区の最西端に位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と瀬谷区 · 続きを見る »

白塚町

白塚町(しらつかちょう)は、三重県津市の町名。住民基本台帳に基づく2016年12月31日現在の人口は8,274人、2010年10月1日現在の面積は2.7188534km2。郵便番号は514-0101。町名は白い砂浜を意味する「白州」(しらす)が「白須賀」(しらすか)になり、更に転訛したものとされる。 元は純粋な農漁業地域であったが、住宅地化が進行した結果、サラリーマン世帯が多くなった。本項ではかつて同区域に存在した河芸郡白塚村(しらつかむら)、白塚町(しらつかちょう)についても記す。.

新しい!!: 文明 (日本)と白塚町 · 続きを見る »

白子 (鈴鹿市)

白子一丁目にある白子港 (2009年3月撮影) 白子(しろこ)は、三重県鈴鹿市にある地名。白子一丁目から白子四丁目まである。郵便番号は510-0243。住民基本台帳に基づく2013年(平成25年)6月30日現在の人口は4,025人鈴鹿市役所企画課""「」(2013年7月21日閲覧。))。「しらこ」と誤読されることがある『新編 中学校社会科地図 ―最新版―』(帝国書院編集部編、帝国書院、平成13年3月30日検定済、142pp.)の83ページに「白子」のルビが「しらこ」と誤って記載されている。同書は中学校社会科の文部科学省検定済教科書(46帝国 地図-702)である。が、「しろこ」と読むのが正しい。 白子港を持つ水産業の町であるとともに、近鉄特急の停車する白子駅を擁する厳密な住所表記では白子駅の現在の所在地は「白子駅前」である。鈴鹿市の玄関口である。.

新しい!!: 文明 (日本)と白子 (鈴鹿市) · 続きを見る »

白子港

白子港 (2009年3月撮影) 白子港(しろここう)は三重県鈴鹿市にある、三重県が管理する地方港湾。金沢川(かなさいがわ)のもたらす土砂や伊勢湾の沿岸流によって形成された砂嘴(さし)が堤防のはたらきをなす天然の良港として古くより利用されてきた稲本ほか(2000)、194ページ。現在の港は太平洋戦争中に進出した大日本帝国海軍の整備した軍港が基盤となっている三重県農水商工部水産基盤室。 ここでは北側に隣接する、鈴鹿市の管理する第2種漁港である白子漁港(しろこぎょこう)についても記述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と白子港 · 続きを見る »

白山権現

白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。.

新しい!!: 文明 (日本)と白山権現 · 続きを見る »

白山比め神社

体とする白山 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社。式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。.

新しい!!: 文明 (日本)と白山比め神社 · 続きを見る »

白岩氏

白岩氏(しらいわし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は白岩城(現在の山形県寒河江市白岩)。.

新しい!!: 文明 (日本)と白岩氏 · 続きを見る »

白岩満教

白岩 満教(しらいわ みつよし「天文本大江系図」)は、室町時代後期の武将。白岩氏4代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と白岩満教 · 続きを見る »

隠津島神社 (二本松市)

津島神社(おきつしまじんじゃ)は福島県二本松市木幡に鎮座する神社。かつては弁才(財)天宮と称しており、現も「木幡の弁天様」と呼ばれて親しまれる。12月に行われる木幡の幡祭りが国(日本)の重要無形民俗文化財に指定されている。旧社格は県社。 県の中部一帯(中通り)の北部、阿武隈山脈の西斜面における丘陵地帯の東端に円錐形の姿で聳える木幡山の8合目に巨岩を背に鎮座する。木幡山全域を境内地とし、山麓には遙拝殿もある。木幡山は古くから神霊の籠る山として「御山(おやま)」とも称され信仰の対象とされた為に、山中に鎮座する当神社を指して「御山」と呼ぶ場合もある佐藤洋一「隱津嶋神社」(『式内社調査報告』)。。.

新しい!!: 文明 (日本)と隠津島神社 (二本松市) · 続きを見る »

花尾城

花尾城(はなおじょう)は、福岡県北九州市八幡西区にあった日本の城である。本丸は標高351メートルの花尾山 (福岡県)山頂に位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と花尾城 · 続きを見る »

花山院忠輔

花山院 忠輔(かざんいん ただすけ、文明15年2月10日(1483年3月18日) - 天文11年1月20日(1542年2月4日))は、室町時代後期の公卿。一字名は忠。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたって仕え、官位は正二位権大納言まで昇進。父は花山院政長。子に花山院兼雄と花山院家輔がいる。 延徳4年(1492年)に叙爵。以降累進して左近衛中将を経て、文亀2年(1502年)に従三位となり公卿に列する。永正3年(1506年)に権中納言、永正15年(1518年)に正二位権大納言となる。しかし経済的に困窮し、永正17年(1520年)には若狭国へ下向している。一度帰京して参内し、大永4年(1524年)に右近衛大将の任命を受けたが、翌大永5年(1525年)には再び北国へ下向していった。後に再度帰京したが、享禄元年(1528年)には官職を辞して、以降朝廷に出仕することはなかった。.

新しい!!: 文明 (日本)と花山院忠輔 · 続きを見る »

花倉の乱

花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳(後の今川義元)らが勝利し終結。.

新しい!!: 文明 (日本)と花倉の乱 · 続きを見る »

花輪ばやし

花輪ばやし(はなわばやし)は、秋田県鹿角市花輪の祭り。毎年8月19日・20日に行われ、鹿角市の夏の終わりを告げる行事となっている。また、日本三大ばやしの一つに数えられている。 鹿角市の代表的な民俗芸能であり、1978年(昭和53年)2月14日、秋田県無形民俗文化財に指定された。さらに、2014年(平成26年)3月10日には「花輪祭の屋台行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されており、2016年(平成28年)11月30日には「山・鉾・屋台行事」(33件)のうちの1件としてユネスコ無形文化遺産に登録されている。 2010年(平成22年)の入れ込み客数は19万人(秋田県観光統計)。.

新しい!!: 文明 (日本)と花輪ばやし · 続きを見る »

芳賀高益

芳賀 高益(はが たかます)は、室町時代後期の武将。下野宇都宮氏家老で紀清両党の芳賀氏出身。 宇都宮明綱が寛正4年(1463年)に早逝したため、宇都宮氏の外孫である兄・太郎丸が宇都宮氏本家の当主となる。そのため、兄に替わって芳賀氏の家督を継いだ。 宇都宮氏は享徳3年(1455年)からの享徳の乱以降、古河公方・足利成氏寄りだったが、文明2年(1470年)頃には、関東管領・上杉氏寄りに寝返った。これらの動きは、高益の献策であるといわれている。兄・正綱が文明9年(1477年)に上野国で陣没した後は、その嫡男・成綱の叔父として後見人となり、支えていくことになる。成綱が宇都宮氏の家督を継いで間もない頃に、武茂氏の重臣らが不満を抱き、武茂六郎を中心として叛乱を起こすが、高益が成綱と共に鎮圧している。その後も筆頭家老として、成綱を補佐するが、長享2年(1488年)に没する。 子・景高の頃になると、家中における権力が一層増大し、武茂氏に代わる勢力として台頭する。その後、主君である成綱と芳賀氏の関係は悪化し、永正9年(1512年)には、宇都宮錯乱という内紛が起きることとなる。.

新しい!!: 文明 (日本)と芳賀高益 · 続きを見る »

芸阿弥

芸阿弥(げいあみ、永享3年(1431年) - 文明17年11月2日(1485年12月8日))は室町時代の絵師、連歌師、表具師、鑑定家。姓は中尾、名は真芸(しんげい)、号は学叟(がくそう)。父は能阿弥、子は相阿弥。 父・能阿弥の跡を継いで足利義政に同朋衆として仕え、絵画制作、書画など唐物の管理・鑑定、表具・座敷飾りの指導、連歌など足利将軍家・室町幕府内の多様な芸能全般を取り仕切った。応仁の乱による混乱のためか史料・画跡などはあまり残っていないが、唯一確証のある作品として月翁周鏡・蘭坡景茝・横川景三が賛を寄せた「観瀑図」(根津美術館所蔵、重要文化財)がある。これは、建長寺の画僧祥啓が芸阿弥に3年間師事し、文明12年(1480年)に帰郷する際に餞別として与えたものであり、「学叟真芸五十歳」との款記がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と芸阿弥 · 続きを見る »

韮山城

韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての日本の城。平山城。15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と韮山城 · 続きを見る »

鞍谷氏

鞍谷氏(くらたにし)は、室町時代の越前国にあった足利氏の一門。3代将軍足利義満の次男義嗣の子嗣俊に始まるといい、あるいは奥州斯波氏の出身ともいう。いずれにしても足利一門の中でも家格は高く、鞍谷御所と称された。戦国期には越前国主朝倉氏の客将として遇され、姻戚関係を重ねた。.

新しい!!: 文明 (日本)と鞍谷氏 · 続きを見る »

鎌倉大草紙

鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)とは、室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。康暦2年(天授6年/1380年)より文明11年(1479年)の100年間の歴史を記している。『太平記』を継承するという意味から太平後記の別称がある。全3巻。 戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の1までには全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の2にはみられないことから、上巻から下巻の1までと下巻の2では作者が異なる可能性も指摘されている。 上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と鎌倉大草紙 · 続きを見る »

鎌倉市内の寺院一覧

鎌倉市内の寺院一覧は神奈川県鎌倉市域内に建つ仏教寺院の一覧である。.

新しい!!: 文明 (日本)と鎌倉市内の寺院一覧 · 続きを見る »

遊佐長直

遊佐 長直(ゆさ ながなお)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。.

新しい!!: 文明 (日本)と遊佐長直 · 続きを見る »

道興

道興(どうこう、永享2年(1430年) - 大永7年7月7日(1527年8月3日))は、室町時代の僧侶で聖護院門跡。 関白近衛房嗣の子。兄弟に近衛教基、近衛政家。寛正6年(1465年)に准三宮宣下を受ける。 幼少の頃から出家し、聖護院満意の弟子となりその後継者と位置づけられるが、室町幕府から将軍足利義教の子である義観を後継とするように申し入れがあり、これを受けて道興は廃されて如意寺に送られた(『建内記』嘉吉3年2月19日条)。文安4年(1447年)、如意寺継承を前提として満意から伝法灌頂を受けている。ところが、寛正3年(1462年)になって義観が突如隠居してしまう。将軍・足利義政は二条持通の子である政瑜を後継に推す(『大乗院寺社雑事記』寛正3年12月26日条)が、政瑜は当時13歳であったことから、道興を中継ぎとして聖護院を継がせることになった近藤祐介「聖護院門跡の成立と展開」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3。 寛正6年(1465年)12月7日に准后宣下を受け、道興准后(どうこうじゅごう)と呼ばれるようになりその後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。当初は中継ぎの門跡であったが、実弟の近衛政家の支援に加え、足利義政もその能力を評価したため、その地位は安定したかに見えた。 ところが、応仁の乱において足利義政と弟の足利義視の間の仲介に奔走したところ、西軍への内通を疑われるようになり、文明8年(1476年)に聖護院門跡を政瑜に交替させることになり、翌文明9年(1477年)11月道興は義視を追って美濃国に亡命した。ところが、翌文明10年(1478年)に政瑜が急逝してしまうと、道興の復帰を求める声が強まり、文明11年(1479年)閏9月に義政は道興の赦免と門跡復帰を命じた。 文明18年から19年(1486–87年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国した。文明18年6月に京都を発つと、若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国の関東を廻り、翌年5月には武蔵国から甲斐国を廻り、奥州まで至っている。道興は後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。.

新しい!!: 文明 (日本)と道興 · 続きを見る »

荻窪八幡神社

荻窪八幡神社(おぎくぼはちまんじんじゃ)は、東京都杉並区上荻にある神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と荻窪八幡神社 · 続きを見る »

荻窪白山神社

荻窪白山神社(おぎくぼはくさんじんじゃ)は、東京都杉並区上荻にある神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と荻窪白山神社 · 続きを見る »

荘厳寺 (京都市)

荘厳寺(しょうごんじ)は京都府京都市下京区にある時宗の寺院。山号は佛光山。.

新しい!!: 文明 (日本)と荘厳寺 (京都市) · 続きを見る »

荒木田守武

荒木田 守武(あらきだ もりたけ、文明5年(1473年) - 天文18年8月8日(1549年8月30日))は、戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。荒木田一門薗田氏の出身で、父は荒木田守秀、母は荒木田(藤波)氏経の娘。荒木田守晨の弟。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われている。通称は中川平太夫と言った。77歳で病没。 1541年(天文10年)一禰宜となると当時流行していた連歌を三条實隆、山﨑宗鑑から学ぶ。「新撰莬玖波集」に入集1句をはじめ、「法楽発句集」(1508年/永正5年)などの連歌集、「独吟百韻」(1530年/享禄3年)、「守武千句」(1540年/天文9年)などの俳諧集、教訓歌集「世中百首」(1525年/大永5年)などを残した。.

新しい!!: 文明 (日本)と荒木田守武 · 続きを見る »

荒木田守晨

荒木田 守晨(あらきだ(の)もりあさ)は室町時代の伊勢神宮内宮祢宜。俳諧の祖荒木田守武の兄。応仁の乱以降の戦乱の中で仮遷宮の斎行等に尽力し、一祢宜にまで昇り詰めたが、直後に人事関係の不祥事で切腹した。.

新しい!!: 文明 (日本)と荒木田守晨 · 続きを見る »

草津温泉

草津温泉(くさつおんせん)は、日本の群馬県吾妻郡草津町草津界隈(江戸時代における上野国吾妻郡草津村界隈、幕藩体制下の上州御料草津村界隈〈初期は沼田藩知行〉)に所在する温泉である。草津白根山東麓に位置する。 日本を代表する名泉(名湯)の一つであり、万里集九と林羅山は日本三名泉の一つに数えた (cf. 1502,1662)。江戸時代後期以降何度も作られた温泉番付の格付では、当時の最高位である大関(草津温泉は東大関)が定位置であった (cf. 1817)。.

新しい!!: 文明 (日本)と草津温泉 · 続きを見る »

菊理媛神

菊理媛神、又は菊理媛命(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)は、日本の神神道大辞典一巻コマ264(原本455頁)〔ククリヒメノミコト 菊理媛命〕。 加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と菊理媛神 · 続きを見る »

菊池能運

菊池 能運(きくち よしゆき)は、菊池氏の第22代当主。第21代当主・菊池重朝の子。官位は従五位下・肥後守。肥後守護。.

新しい!!: 文明 (日本)と菊池能運 · 続きを見る »

菊池武経

菊池 武経/阿蘇 惟長(きくち たけつね/あそ これなが)は、戦国時代の武将。肥後国守護。菊池氏24代当主。元は阿蘇氏17代当主(阿蘇神社大宮司)。.

新しい!!: 文明 (日本)と菊池武経 · 続きを見る »

華厳寺

参道 笈摺堂 仁王門の巨大な草鞋 満願堂 「精進落としの鯉」 華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。 本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。 西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院で桜、紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。.

新しい!!: 文明 (日本)と華厳寺 · 続きを見る »

菖蒲沼の戦い

菖蒲沼の戦い(しょうぶぬまのたたかい)は文明12年(1480年)出羽国で行われた伊達氏と寒河江氏の戦いである。.

新しい!!: 文明 (日本)と菖蒲沼の戦い · 続きを見る »

鏑木繁常

鏑木 繁常(かぶらぎ しげつね、応永31年(1424年)? - 永正元年3月25日(1504年4月10日)?)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将、僧侶。加賀国松任城主。父は鏑木繁治。妻は富樫成春の娘、妙善尼。子に繁時、繁行(徳圓)、田屋某室。通称兵衛尉。法名は徳善。.

新しい!!: 文明 (日本)と鏑木繁常 · 続きを見る »

青鳥城

青鳥城(おおどりじょう)とは、武蔵国比企郡石橋村(現在の埼玉県東松山市大字石橋)にあった日本の城。県指定史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と青鳥城 · 続きを見る »

青松寺

青松寺(せいしょうじ)は、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(ばんねんざん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と青松寺 · 続きを見る »

青木町 (高浜市)

青木町(あおきちょう)は、愛知県高浜市の地名。1丁目から9丁目まで存在する。郵便番号は444-1325。当地域の人口は1072世帯・3138人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

新しい!!: 文明 (日本)と青木町 (高浜市) · 続きを見る »

蠣崎義広

蠣崎 義広(かきざき よしひろ)は、戦国時代の武将、大名。徳山館主。.

新しい!!: 文明 (日本)と蠣崎義広 · 続きを見る »

蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と蠣崎氏 · 続きを見る »

須山浅間神社

山浅間神社(すやませんげんじんじゃ)は、静岡県裾野市にある神社。旧社格は郷社。全国にある浅間神社の一社。 「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と須山浅間神社 · 続きを見る »

須田永秀

永秀(すだ ながひで)は、戦国時代の武将。二階堂氏の家臣。岩瀬郡和田城主。須田盛秀の祖父。.

新しい!!: 文明 (日本)と須田永秀 · 続きを見る »

頂法寺

頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。西国三十三所第十八番札所。正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と頂法寺 · 続きを見る »

順如

順如(じゅんにょ、嘉吉2年(1442年)- 文明15年5月29日(1483年7月4日))は、室町時代中期から後期にかけての浄土真宗の僧。光善寺住持。本願寺8世法主蓮如の長子。母は伊勢氏庶流とされる伊勢貞房の娘如了。子に光淳室。諱は光助。幼名は光高。本願寺の法嗣とされていたが、父に先立って病死し、第9世法主は異母弟の実如が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と順如 · 続きを見る »

願得寺

得寺(がんとくじ)は、大阪府門真市御堂町にある真宗大谷派の仏教寺院。山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と願得寺 · 続きを見る »

願阿弥

願阿弥(がんあみ、生年不詳 - 文明18年5月13日(1486年6月14日))は室町時代の時宗の僧。 越中国の漁師の家に生まれたが、殺生の報いを悟って時宗の教団に入り、勧進聖として当時の社会事業に尽くした。 願阿弥は流失していた五条大橋を富裕の人々から寄付を募り架けかえ、また南禅寺仏殿の再興も行っている。京では著名な勧進聖となっていた。1459年、長谷寺の本尊開帳に際して、勅許の綸旨を興福寺へ持参している。 1460年から1461年にかけて、異常気象による凶作と疫病の上に畠山氏の内紛による兵乱により、寛正の大飢饉が起こる。京だけで8万2000人もの餓死者が出て、賀茂川が死骸で埋まる惨状となった。1461年1月22日、将軍足利義政は100貫文を与えて願阿弥に飢民への施食を命じた。願阿弥は京の人々から寄付を募り、2月から六角堂の南に小屋を建て飢民に粟粥を施す活動を始めた。だが、飢民の数があまりに多く、資金が尽きて1ヶ月程で施食を止めざるを得なかった。 応仁の乱後、願阿弥は焼失した清水寺の再建に奔走して諸国を回り、1484年、清水寺本堂が再建された。寺再建の功労者として「成就院願阿」と呼ばれた。その2年後の1486年5月13日、願阿弥は病没した。 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:時宗 Category:1486年没.

新しい!!: 文明 (日本)と願阿弥 · 続きを見る »

衆徒

衆徒(しゅと)は、堂衆(どうしゅ/どうしゅう)とも呼ばれ、本来は平安時代以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと。大衆の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある。特に興福寺が守護職を務めた大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と衆徒 · 続きを見る »

顕証寺 (八尾市)

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。.

新しい!!: 文明 (日本)と顕証寺 (八尾市) · 続きを見る »

顕本寺 (桑名市)

顕本寺(けんぽんじ)は、三重県桑名市にある日蓮宗の寺院である。山号は自栄山桑名市 指定文化財所在地(顕本寺), 桑名市教育委員会。旧本山は身延山久遠寺、莚師法縁(隆源会)。檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数現存する。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と顕本寺 (桑名市) · 続きを見る »

風流踊

狩野長信『花下遊楽図屏風』左隻 ---- 安土桃山時代の風流踊のようすが描かれている。 風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである西角井(2004)。室町時代に流行した。.

新しい!!: 文明 (日本)と風流踊 · 続きを見る »

飯名神社

飯名神社(いいなじんじゃ)は、茨城県つくば市臼井にある神社。常陸国風土記に「飯名神」として記載のある古社(式外社)である。中世は「飯奈野神社」や「稲野宮」と呼ばれていた。現在は「稲野(飯名、臼井)の弁天様」と親しまれている。旧社格は無格社。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯名神社 · 続きを見る »

飯尾常房

飯尾 常房(いいのお つねふさ、応永29年3月19日(1422年4月10日)-文明17年閏3月23日(1485年5月7日))は、室町時代の武士・書家。彦六左衛門(ひころくさえもん)の通称で知られる。 室町幕府幕臣の飯尾氏の流れを汲む阿波守護細川氏の家臣の家に生まれる。細川成之に仕えながら堯孝に和歌を学び、青蓮院流の書道を修めて、後に「飯尾流」と呼ばれる独自の流派を形成した。一時期、足利義政に招かれて右筆を務めている『日本人名大辞典』。 応仁の乱後の京都の荒廃を嘆いて「汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」と詠んだ和歌は『応仁記』に採録されて後世に知られることになった。 墓所は徳島県吉野川市飯尾(明治以前の飯尾村)の法恩寺にあるとされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯尾常房 · 続きを見る »

飯尾之種

飯尾 之種(いいのお ゆきたね、応永30年(1423年)-文明5年5月20日(1473年6月15日))は、室町時代後期の室町幕府幕臣。飯尾為種の次男。左衛門大夫後に肥前守と称する。 長禄3年(1459年)に兄・為数が失脚したために家督を継承する。政所執事代や侍所開闔などを歴任し、20以上の寺社の担当奉行を兼ねた。寛正6年12月30日(1466年1月16日)に肥前守に任ぜられて内談衆に加えられ、寛正7年2月25日(1466年3月11日)には将軍足利義政が先祖の例であるとして飯尾邸を御成している。だが、文正元年(1466年)11月に伊勢貞親が文正の政変にて失脚したのに連座する形で失脚するが、翌応仁元年(1467年)2月には赦免される。ところが、6月に兄・為種が西軍内通の疑いで殺害された。応仁の乱の最中も幕府奉行人の中核として活躍した。文明5年5月20日に死去、甘露寺親長は死去の報を聞いて「奉行中穏便之者」と評価している。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯尾之種 · 続きを見る »

飯尾為数

飯尾 為数(いいのお ためかず、?-応仁元年6月11日(1467年7月12日))は、室町時代後期の室町幕府幕臣。飯尾為種の長男。之種の兄。子に為脩(新左衛門尉)・為修(三郎左衛門尉)。下総守と称する。 弟の之種(文明5年(1473年)に51歳で没)の生年より、応永30年(1423年)以前生まれと推定される。嘉吉3年(1443年)12月、父・為種が公人奉行に任じられているにも関わらず、彼も御前奉行に任ぜられ、「父子相並奉行之条、依器量被仰出歟、眉目之至」と評された。宝徳2年(1450年)12月に政所執事代に任ぜられ、康正元年(1455年)頃に家督を継承、父が没した翌年にあたる長禄2年(1458年)7月には「諸奉行頭」の異名を持つ公人奉行に任じられるが、翌長禄3年(1459年)には「山名相州(教之)之訴訟」により出仕を止められて、家督を弟の之種に譲らされた。その後、寛正4年(1463年)に赦免されて公務に復帰するが、応仁の乱開始直後に東軍側の足利義視・細川勝元らに西軍への内通を疑われて殺害された。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯尾為数 · 続きを見る »

飯倉 (東京都港区)

飯倉(いいぐら、いいくら)は東京都港区麻布地域東部の歴史的地名。その指し示す範囲は時代によって異なるが、現在では主に旧飯倉町、飯倉片町を指す。凡そ飯倉町は東麻布一~三丁目、麻布台一・二丁目、飯倉片町は麻布台三丁目、六本木五丁目東北角に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯倉 (東京都港区) · 続きを見る »

飯盛山 (福井県)

飯盛山(いいもりやま)は、福井県小浜市西部にある山。標高は584.5mである。.

新しい!!: 文明 (日本)と飯盛山 (福井県) · 続きを見る »

養寿寺

養寿寺(ようじゅじ)は、愛知県西尾市下矢田町郷にある浄土宗西山深草派の寺院。山号は亀休山。本尊は阿弥陀如来。「矢田のおかげん(御管弦)」としてつとに知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と養寿寺 · 続きを見る »

西が丘

西が丘(にしがおか)は、東京都北区の町名『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1978年。。現行行政地名は西が丘一丁目から西が丘三丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は115-0056。.

新しい!!: 文明 (日本)と西が丘 · 続きを見る »

西尾直教

西尾 直教(にしお なおのり、生年不詳 - 明応5年12月7日(1497年1月10日))は、戦国時代の武将。西尾広教の子とされる。秀教の父。官位は兵庫助。 文明18年(1486年)に東大寺の荘園に年貢に関する手紙を宛てていることから活動時期はこの頃とされている。明応4年(1495年)、斎藤妙純に石丸利光の反逆を伝えたが、守護土岐成頼の仲介で両者は和睦、直教は讒言の罪で尾張へ追放されたとされている。船田合戦終結後の妙純の近江遠征に加わったが、土一揆に襲われ妙純・利親父子と共に戦死した。 子の秀教は引き続き斎藤氏に仕えたが、西尾光教との関係は不明。.

新しい!!: 文明 (日本)と西尾直教 · 続きを見る »

西岡の戦い

西岡の戦い(にしおかのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明元年(1469年)4月22日に現在の京都府乙訓郡西岡で東軍と西軍が衝突した。 山城西部の乙訓郡は丹波・摂津に近い地域であり、国人は2ヶ国守護の細川氏と深い繋がりを持っていた。この縁で応仁の乱では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていた。しかし、戦闘が京都から周辺地域に移ると西岡が狙われる状況になり、応仁2年から東西両軍が入り乱れて合戦を繰り返すようになった。 文明元年4月19日、谷の堂(京都市)を根拠とする西岡国人衆は鶏冠井城(向日市)に籠城する西軍を襲撃したが、僅か3日後の22日に畠山義就が出撃、谷の堂は落とされ西岡国人衆は丹波へ逃亡した。西岡を含む乙訓郡は西軍が制圧、義就は勝竜寺城で乙訓郡及び山城の支配に取り掛かった。6月16日に大内政弘も摂津へ向かい東軍の拠点を殆ど奪い取り、山城周辺は西軍に押さえられた。 西岡を失った野田泰忠らは奪還のため山名是豊を山崎に迎え入れ、勝竜寺城の義就と交戦を続けたが、文明2年(1470年)12月に是豊が領国備後へ下向してからは大きな合戦がないまま小競り合いとなり、終戦まで乙訓郡は義就の占領下にあった。また、大内軍も文明2年7月に南山城へ遠征、山城と大和の境界付近にある木津を巡り両軍が攻防戦を繰り広げていった。.

新しい!!: 文明 (日本)と西岡の戦い · 続きを見る »

西園寺実遠

西園寺 実遠(さいおんじ さねとお、永享6年(1434年)‐明応4年11月25日(1495年12月11日))は、室町時代の公卿、歌人。後花園天皇(102代)と後土御門天皇(103代)の二帝に仕え、従一位左大臣まで昇った。父は太政大臣西園寺公名。子に右大臣西園寺公藤がいる。 嘉吉2年(1442年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、左近衛中将・讃岐介をへて文安5年(1448年)には従三位となり公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・右近衛大将などを経て、文正元年(1466年)に内大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に従一位となり、内大臣を辞職。文明13年(1481年)に右大臣に任じられ、さらに文明15年(1483年)には左大臣に昇り、長享元年(1487年)まで務めた。 和歌や書をよくし、和歌集「新莵玖波知集」を著した。.

新しい!!: 文明 (日本)と西園寺実遠 · 続きを見る »

西園寺公藤

西園寺 公藤(さいおんじ きんふじ、康正元年(1455年)‐永正9年6月19日(1512年7月31日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)後柏原天皇(104代)の二帝に仕え、官位は正二位右大臣まで昇った。父は左大臣西園寺実遠。子に左大臣西園寺実宣がいる。 文明14年(1482年)に従三位となり、公卿に列する。文明17年(1485年)に権中納言。延徳元年(1489年)に権大納言となる。明応6年(1497年)右近衛大将。文亀元年(1501年)内大臣、左近衛大将となる。文亀4年に左近衛大将を辞職。永正3年(1506年)には右大臣となるも翌年辞職。永正9年(1512年)に中風で薨去。享年58。.

新しい!!: 文明 (日本)と西園寺公藤 · 続きを見る »

西圓寺 (大垣市)

西圓寺(さいえんじ)は岐阜県大垣市にある浄土真宗の寺院で、山号は得生山。教如ゆかりの寺で、戦国時代から江戸時代初期にかけて西濃地域における浄土真宗の触頭として重きをなした。 伝教大師最澄により弘仁2年(811年)に天台宗の寺院として開かれたと伝わるが、永仁3年(1295年)に住職の如信が覚如に帰依し、嘉暦2年(1327年)に住職の真海が浄土真宗寺院に改めた。 文明2年(1470年)に蓮如が逗留し、教化を行ったとされる。その際の遺跡として上人お手植えの菩提樹と腰かけ石が伝わっている。 戦国時代には美濃国の浄土真宗を統括し、大きな勢力を誇っていた。現在寺の周りを取り巻いている堀はその折に斎藤道三により築かれたもので道三掘と呼ばれている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には帰洛を目指す教如を助け、住職であった賢秀が身代わりとなり落命している。 浄土真宗の東西分裂に際しては東本願寺について、その触頭として島御坊と呼ばれていたが、その任を平尾御坊願證寺に譲った。 寛政12年(1800年)に火災に遭い伽藍を焼失。現在の堂宇はその後再建されたものである。.

新しい!!: 文明 (日本)と西圓寺 (大垣市) · 続きを見る »

西光寺 (福岡市)

西光寺(さいこうじ)は、福岡県福岡市早良区にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は狐峯山。梵鐘は国宝に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と西光寺 (福岡市) · 続きを見る »

西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:)、URLもその綴りを採用している。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と西本願寺 · 続きを見る »

西教寺

西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山である。山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えた。寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)という。 比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。付近には比叡山の鎮守である日吉大社などがある。西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。.

新しい!!: 文明 (日本)と西教寺 · 続きを見る »

饗土橋姫神社

饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社。宇治橋の守護神であり、宇治橋と対面する位置に鎮座する伊勢文化舎 編(2008):116ページ学研パブリッシング(2013):54ページ。 宇治橋の架け替えに先立って社殿が建て替えられる伊勢文化舎 編(2009):58ページため、神宮式年遷宮において、伊勢神宮の所管する125社の中では最も早く建て替えられる神社である。.

新しい!!: 文明 (日本)と饗土橋姫神社 · 続きを見る »

要行寺 (富士宮市)

要行寺(ようぎょうじ)は、静岡県富士宮市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は興栄山(こうえいさん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と要行寺 (富士宮市) · 続きを見る »

親長卿記

親長卿記(ちかながきょうき)は、室町時代後期の公家・甘露寺親長の日記。当時の政治状況や社会・経済の動向を知る上での貴重な史料となっている。 記載時期は文明2年9月2日(1470年9月26日)から始まり、明応7年(1499年)8月までの部分が現存する。それ以前の応仁元年(1467年)以降の部分は応仁の乱によって焼失したことが現存部分の冒頭に記されている。終盤は明応6年9月16日(1497年10月11日)条に「これ以後は書き記さず、たびたび勅問の事などこれあらば、少々注す」と書かれており、同年および翌年の記事は簡潔に散発的に書かれているのみである。数種の別記も現存する。 筆者である甘露寺親長は嘉吉3年(1443年)南朝遺臣が宮中に乱入して三種の神器を奪おうとした禁闕の変で自ら太刀を抜いて応戦した人物。学識豊富で有職に通じており、後花園天皇・後土御門天皇2代に渡って深い信頼を受け、長く賀茂伝奏も務めた。このような経歴から、上下賀茂神社間の争いに関わる話や、事実上中世最後となった文正元年(1466年)の大嘗会に関する記事、公家と武家(室町幕府)の関係、応仁の乱の経緯、頻発した土一揆の様子、さらに普段の公家の生活などが詳細に記されており、同時代を知る上での一級史料といえる。 『増補史料大成』所収。.

新しい!!: 文明 (日本)と親長卿記 · 続きを見る »

馬ヶ岳城

ヶ岳城(うまがだけじょう)は、豊前国京都(みやこ)郡(現・福岡県行橋市津積馬ヶ岳)にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と馬ヶ岳城 · 続きを見る »

馬門原の戦い

原の戦い(まかどはらのたたかい)は、現在の国道445号の近く、上益城郡山都町杉木(すぎ)、山田あたりでおこった戦いで、別名、「幕の平の戦い」「幕の平合戦」とも呼ばれることがある。 当地は地形は台地上になった場所である。 この地が選ばれたのは、古より肥後と日向の国の重要な交易路であった「日向往還」沿いであったからと推察される。現在、現地には畑が広がっている。その中にぽつんと御影石でできた小振りの「日向往還」の石柱が建っており、その脇に「幕の平古戦場跡」と書いてあるだけである。.

新しい!!: 文明 (日本)と馬門原の戦い · 続きを見る »

観世元雅

観世 元雅(かんぜ もとまさ、 応永元年(1394年)、あるいは応永8年(1401年)頃 - 永享4年8月1日(1432年8月26日))は室町時代の能作者、猿楽師。通称は十郎。初名は元次とも。法諱は善春。世阿弥の長男とされ、弟に『申楽談儀』を著した元能がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と観世元雅 · 続きを見る »

観音寺城

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)である。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。城跡は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と観音寺城 · 続きを見る »

見聞諸家紋

『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)は、日本の武家の家紋を集録した家紋集で、家紋を集録した書物としては日本最古のものである秋田四郎 「「見聞緒家紋」群の系譜」、弘前大学國史研究会編『弘前大学國史研究(99号)』、弘前大学國史研究会、1995年。『見聞諸家文』(「聞」は異体字。米部に耳)とも書く。別名『東山殿御紋帳』ともいう。.

新しい!!: 文明 (日本)と見聞諸家紋 · 続きを見る »

香取神宮

香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。.

新しい!!: 文明 (日本)と香取神宮 · 続きを見る »

香坂氏

香坂氏(こうさかし)は、信濃国の武家の氏族。高坂とも書く。東信濃の名族滋野氏で、滋野三家の一つ禰津氏の禰津宗直の五男貞行を祖とする。香坂は佐久郡香坂(現佐久市香坂)に由来する。.

新しい!!: 文明 (日本)と香坂氏 · 続きを見る »

角宮神社

角宮神社(すみのみやじんじゃ)は、京都府長岡京市にある神社である。旧社格は村社。式内名神大社「山城国乙訓郡 乙訓坐大雷神社」の論社である(他の論社は向日神社(向日市)に合祀された「火雷神社」)。.

新しい!!: 文明 (日本)と角宮神社 · 続きを見る »

駒形神社 (佐久市)

駒形神社(こまがたじんじゃ)は、長野県佐久市塚原字新城にある神社。下塚原地区から塩名田への崖に面して存在し、社殿は重要文化財に指定されている。宇気母智命(うけもちのみこと)を祀り、文明十八年(1486年)佐久郡の耳取城城主・大井政継が再興したと伝わる。 付近は道本城に拠った根井氏の領するところで、中世には広大な台地を利用して牧場が営まれた。古く馬の産地であり、「駒形神人」との関係が示唆されている。 一説に、ここには中世の城郭があり、現在「駒形城」と呼ばれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と駒形神社 (佐久市) · 続きを見る »

角牟礼城

角牟礼城(つのむれじょう)は、大分県玖珠郡玖珠町の角埋山(つのむれやま)にあった山城。弘安年間(1278年 - 1288年)に森朝通により築かれたとされる。国の史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と角牟礼城 · 続きを見る »

駒野城

駒野城(こまのじょう)は岐阜県海津市にかつて存在した中世の日本の城(山城)。駒野集落の北西にある。標高30mほどの丘に本丸とみられる郭があり、東・西・南を土塁が囲んでいた。跡地は海津市立城山小学校となっている。 正暦年間に瀬戸道明寺が築城し、鎌倉時代に土岐氏が改築したとの伝承がある。一般には文明年間に高木貞政が築城したとされるが、その伯父・高木貞成が築いたとの記録もある。貞久は織田信長に仕え、今尾城主となった。織田信孝が亡くなった後は駒野城に戻っている。息子の高木貞友は徳川家康の家臣となり、1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉が駒野城を大軍で攻めた際には、よく耐えて守り抜いたという。関ヶ原の戦いの後、西軍の池田秀氏らが一旦籠城したのち、開城。その後、廃城となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と駒野城 · 続きを見る »

設楽町

設楽町(したらちょう)は、愛知県北設楽郡にある町。.

新しい!!: 文明 (日本)と設楽町 · 続きを見る »

言国卿記

『言国卿記』(ときくにきょうき)は、室町時代の公家、山科言国の記した日記。『史料纂集』所収。 記述は、文明6年(1474年)から文亀2年(1502年)までの30年近くに及ぶ。途中に一部欠落があるが、応仁の乱期の京都や朝廷、幕府などの動向などを知ることができる貴重な史料。音楽関係の記事や、一揆についての記載もあるという。また、絵双六の最古の記載があるという。文明9年(1477年)には自らが領主となっている荘園が有名無実化している実情を将軍足利義政に訴えたが戦乱の影響により為す術がなかった実情を記している。 Category:室町時代の日記 書ときくにきようき Category:15世紀の書籍 Category:16世紀の書籍.

新しい!!: 文明 (日本)と言国卿記 · 続きを見る »

諏訪円忠

諏訪 円忠(すわ えんちゅう、永仁3年(1295年) - 貞治3年(1364年))は鎌倉幕府と室町幕府の奉行人。京都諏訪氏の祖。.

新しい!!: 文明 (日本)と諏訪円忠 · 続きを見る »

諏訪頼満 (安芸守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。.

新しい!!: 文明 (日本)と諏訪頼満 (安芸守) · 続きを見る »

諏訪頼満 (伊予守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ、生年未詳 - 文明15年(1483年))は、室町時代の人物。信濃国諏訪郡の諏訪氏の一族。諏訪有継の子。諏訪信満の弟。子に諏訪頼長・諏訪継満がいる。諏訪大社上社の神職の最高位である「大祝(おおほうり)」を務める。伊予守。 室町時代に諏訪氏は惣領職と大祝職が分離し、大祝を務めた後に惣領職を継承する慣行が確立していた。ところが、頼満の父・有継は応永4年(1397年)10月に大祝職になった4年後に下位すると、惣領職と大祝職は完全に分離した。文安6年(1449年)に諏訪大社下社の大祝職を務める金刺氏が諏訪氏と敵対し、金刺氏は信濃守護・府中小笠原氏の小笠原政康を味方につけた。これに対して諏訪氏は府中小笠原氏と敵対する松尾小笠原氏と結び、金刺氏と抗争を繰り広げた。 諏訪氏は金刺氏を圧倒するが、諏訪氏内部で惣領家と大祝家の対立が激化し、大祝家の頼満は惣領家の諏訪信満(安芸守)と対立し、「芸州・予州大乱」と呼ばれる抗争が発生する。この抗争は一時的に終息するが、諏訪信満は上原に居館を移転する事態に発展した。 両者の対立は頼満の子・継満が大祝職を継承すると再び勃発し、継満は松尾小笠原氏や高遠継宗と結び、惣領家に対抗した。『守矢満実書留』によれば、文明15年(1483年)正月8日、継満は一族の高遠継宗や金刺興春と組んで、政満とその子息の若宮丸、政満の弟である埴原田小太郎らを饗宴の場において謀殺した。これに対して諏訪一族や社家衆は反発して惣領家に帰属し、継満を干沢城へ追い込むと諏訪郡高遠へ追放する。この時に、頼満は討ち取られている。 その後、文明16年(1484年)には諏訪政満の次男・宮法師丸(伊予守頼満とは別人の諏訪頼満。出家号は「碧雲斎」)が惣領家を継承し、さらに宮法師丸は大祝職に就任することで、惣領家と大祝家の分離も解消された。.

新しい!!: 文明 (日本)と諏訪頼満 (伊予守) · 続きを見る »

諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

新しい!!: 文明 (日本)と諏訪氏 · 続きを見る »

諸川宿

諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)は、江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。 日光東街道の起点となる水戸街道小金宿・我孫子宿間の追分から数えて7番目の宿場である。.

新しい!!: 文明 (日本)と諸川宿 · 続きを見る »

高城胤吉

城 胤吉(たかぎ たねよし、文明16年(1484年)または文亀元年(1501年)? - 永禄8年3月12日(1565年4月22日))は、戦国時代の武将。千葉氏の家臣。下総国小金城(現在の千葉県松戸市)主。父は高城胤忠とされる。妻は千葉勝胤の娘(月菴桂林尼)。子は高城胤辰。.

新しい!!: 文明 (日本)と高城胤吉 · 続きを見る »

高城氏 (薩摩国)

城(たき / たかじょう)氏は日本の氏族。桓武平氏、鎌倉幕府御家人渋谷氏を祖とし、鎌倉時代中期以降に薩摩国に移住した渋谷一族で、高城郡を本貫地とした。以下の2系統が存在する。.

新しい!!: 文明 (日本)と高城氏 (薩摩国) · 続きを見る »

高原熊野神社

原熊野神社(たかはらくまのじんじゃ)は和歌山県田辺市中辺路町高原にある神社である。正式名称は「熊野神社」。高原王子とも呼ばれ、社格は旧村社。高原集落の熊野古道中辺路に面した場所に鎮座し、本殿は和歌山県指定有形文化財(建造物、昭和36年〈1961年〉4月18日指定)である。境内地の景観は名勝「南方曼荼羅の風景地(2015年〈平成27年10月7日指定)の一部。.

新しい!!: 文明 (日本)と高原熊野神社 · 続きを見る »

高屋城

屋城(たかやじょう)は、大阪府羽曳野市古市にかつてあった日本の城。三管領の畠山氏の本拠地である。本丸は天皇陵に治定されている古墳(高屋築山古墳)があり、立ち入りが禁止されている。二の丸、三の丸は住宅地となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と高屋城 · 続きを見る »

高徳院

大仏の後部。左下の穴から内部に入れる。 大仏の内部に入り上方を仰ぐ。くぼんだ部分が大仏の頭部。金属製の階段は関係者以外は利用できない。 高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。 2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。 現在の住職は慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄が務めている。.

新しい!!: 文明 (日本)と高徳院 · 続きを見る »

高田 (柏市)

(たかた、たかだ)は、千葉県柏市の町名。丁番を持たない単独町名である。郵便番号277-0861。.

新しい!!: 文明 (日本)と高田 (柏市) · 続きを見る »

高辻章長

辻 章長(たかつじ あきなが、文明元年(1469年)-大永5年1月4日(1525年1月27日)は、室町時代後期・戦国時代の公卿。高辻長直の嫡男。母は藤波秀忠の娘。子に高辻長雅・町資将。.

新しい!!: 文明 (日本)と高辻章長 · 続きを見る »

高辻継長

辻 継長(たかつじ つぎなが、応永21年(1414年)-文明7年7月3日(1475年8月4日))は、室町時代中期の公卿。高辻長郷の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と高辻継長 · 続きを見る »

高辻長直

辻 長直(たかしな ながなお、嘉吉元年(1441年)-大永2年9月6日(1522年9月25日))は、室町時代後期・戦国時代初期の公卿。高辻継長の子。.

新しい!!: 文明 (日本)と高辻長直 · 続きを見る »

高辻長雅

辻 長雅(たかつじ ながまさ、永正12年8月25日(1515年10月2日)-天正8年9月10日(1580年10月18日))は、戦国・安土桃山時代の公卿。高辻章長の長男。母は町広光の娘。同母弟に町資将。法名・文盛。.

新しい!!: 文明 (日本)と高辻長雅 · 続きを見る »

高梨政盛

梨 政盛(たかなし まさもり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。高梨氏の全盛期を築いた。上杉謙信の曽祖父(大叔父?)にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と高梨政盛 · 続きを見る »

高橋弘厚

橋 弘厚(たかはし ひろあつ、文明13年(1481年) - 享禄2年(1529年))は、戦国時代の武将。 文明13年(1481年)、高橋久光の次男として生まれる。明応3年(1494年)ごろまでには元服し、大内政弘より偏諱を受けて弘厚と名乗ったものと思われる。 永正12年(1515年)に長兄の高橋元光(もとみつ)が戦死すると、父・久光の命令で弘厚の子である興光が高橋家の後継者となった。大永元年(1521年)に久光も戦死すると、興光の後見人として高橋氏の存続に尽力した。 しかし享禄2年(1529年)、高橋氏の征服を謀る毛利元就によって、子の興光と共に殺害された。これにより、石見高橋氏の嫡流は断絶した。 なお、石見高橋氏の系図には疑問点が多く、一説では弘厚とその弟とされている高橋重光(しげみつ)は同一人物という説があり、定かではない。ちなみに重光も元就によって殺されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と高橋弘厚 · 続きを見る »

高橋高種

橋 高種(たかはし たかたね)は、戦国時代の武将。筑後国出身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢宗瑞(北条早雲)に従った。.

新しい!!: 文明 (日本)と高橋高種 · 続きを見る »

證誠寺 (鯖江市)

證誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある寺院で真宗山元派本山。山号は山元山。護念院とも称する。.

新しい!!: 文明 (日本)と證誠寺 (鯖江市) · 続きを見る »

鯨塚

西予市の鯨塚。手前の柱の跡は明浜町教育委員会による説明板の跡 鯨塚(くじらづか)とは、海浜において岸に打ち上げられた鯨を祀った塚のことで、日本独特の慣わしである。.

新しい!!: 文明 (日本)と鯨塚 · 続きを見る »

豊宮崎文庫

豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)は江戸時代初期に伊勢国度会郡継橋郷の豊受太神宮(豊受宮、伊勢神宮外宮)に隣接する豊宮崎の地(現三重県伊勢市岡本3丁目)に開設された文庫。単に宮崎文庫(みやざきぶんこ)とも称した。 古典籍を収蔵する文庫(書庫)の外に講堂も併置されて主に外宮祠官(多く度会氏)の子弟教育機関として神都(伊勢地域、現伊勢市一帯)の文教の中心となり、金沢文庫(武蔵国)、足利文庫(足利学校、下野国)と並び称されることも行われた下述する文庫落成を寿いだ永田善斎「宮崎文庫記」や林道春「宮崎文庫之記」序、林靖「勢州度会宮崎文庫記」(いずれも弘正前掲書所引)でも文庫創設の意義を金沢や足利のそれに比している。。明治維新に際して廃庫とされたが、日本図書館史上の貴重な存在であり、跡地は「旧豊宮崎文庫」として国の史跡に指定されている(以下、便宜上書庫としての本来の文庫は「書庫」と記し、「文庫」は教育機関を指すものとする)。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊宮崎文庫 · 続きを見る »

豊島氏

豊島氏(としまし)は、日本の氏族のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊島氏 · 続きを見る »

豊島泰経

豊島泰経の墓所と伝わる殿塚 練馬区石神井公園 豊島 泰経(としま やすつね、生没年不詳)は室町時代の武将。豊島氏当主で石神井城主。父は豊島経祐。妻は長尾景春の妹とされることもあるが不明。弟に豊島泰明。官途名は勘解由左衛門尉。 諱の「泰経」は江戸時代に書かれた系図類に出ているもので、『鎌倉大草紙』や『太田道灌状』といった根本史料には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名のみとなっており、江戸時代の系図類の信頼性の低さから、近年の研究者は諱の「泰経」は用いないようになっているが、本項では便宜上、広く知られた「泰経」を用いる。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊島泰経 · 続きを見る »

豊島泰盈

豊島 泰盈(としま やすみつ、寛永17年(1641年) - 享保12年5月24日(1727年7月12日))は江戸時代の旗本。父は豊島泰利。母は岩瀬正行の娘。幼名は平二郎。通称は左平七兵衛。御留守居番与力219石余。 旗本豊島家は坂東八平氏の流れをくむ豊島氏の子孫と伝えられ、嫡流を任じていた。 寛文元年(1661年)に家督を継ぐ。殿中躑躅之間に召され老中松平信綱へ先祖の旧功を説いて数年にわたり分知を願ったところ、元禄11年に(1698年)父泰利の所領上総国・下総国の内210石に替えて上総国望陀郡他に219石余を賜った。 正徳2年(1712年)、嫡男泰音(やすたか)が死去したため、堀内六郎兵衛の三男に娘を娶せ養子に迎える。 正徳3年(1713年)に72歳になった泰盈は老中久世大和守重之に隠居を願い許されて家督を養子の泰朝に譲り、52年の殿中勤仕を終えた。 隠居した泰盈は平安時代以来の武門の名家である先祖への顕彰の志篤く豊島氏の家譜の作成に取りかかった。国人領主としての豊島氏本宗家は200年以上前の文明10年(1478年)に滅びており、豊島氏伝来の系図類や記録は失われるか散逸していたものと思われる。泰盈は古文書を集め、「吾妻鏡」や「鎌倉大草紙」などの史料を読みとき、豊島氏ゆかりの寺社を訪ねて、桓武天皇から続く平姓秩父氏一族の豊島氏系図を作成して後世に伝えた。「泰盈本豊島家系図」と呼ばれている。また、金輪寺(東京都北区)にも豊島氏の系図を奉納して「金輪寺本豊島家系図」と呼ばれる。 泰盈には編纂の才能があったらしく、その他に豊島氏ゆかりの石神井愛宕神社(東京都練馬区)縁起や石神井三宝寺(東京都練馬区)縁起を奉納。王子権現社(東京都北区)の別当の望みによって家系略をつくっている。 江古田・沼袋原の戦いで太田道灌に敗れて滅びた豊島泰経(石神井城主)とその弟の豊島泰明(平塚城主)のため、泰盈はその晩年の享保12年(1727年)に石神井三宝寺で泰経の250回忌を、平塚城官寺で泰明の250回忌を執り行っている。 泰盈と泰音が奉納した石灯籠が石神井氷川神社に残っている。 史料批判の概念すらない江戸時代のことなので、泰盈の作成した系図には事実関係や年代的に無理な点が多く、現代ではそのまま史実とは考えられないが(江戸時代作成の系図類では共通の問題)、泰盈の編纂した系図は豊島氏研究の基礎となるものである。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊島泰盈 · 続きを見る »

豊島泰明

豊島 泰明(としま やすあき、生年不詳 - 文明9年4月13日(1477年5月25日))は室町時代の武将。父は豊島経祐。兄に豊島泰経。通称は平右衛門尉。太田道灌との江古田原・沼袋の戦いで討ち死にした。 諱の「泰明」は江戸時代に書かれた系図類に出ているもので、『鎌倉大草紙』や『太田道灌状』といった根本史料には「豊島平右衛門尉」と通称のみとなっており、江戸時代の系図類の信頼性の低さから、近年の研究者は諱の「泰明」は用いないようになっているが、本項では便宜上、広く知られた「泰明」を用いる。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊島泰明 · 続きを見る »

豊川市

豊川市(とよかわし)は、愛知県の東三河に位置する市である。計量特定市。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊川市 · 続きを見る »

豊地城

豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊地城 · 続きを見る »

豊橋市立西郷小学校

豊橋市立西郷小学校(とよはししりつ さいごう しょうがっこう)は、愛知県豊橋市北東部の石巻萩平(いしまきはぎひら)町にある小学校。 この小学校の卒業生は豊橋市立石巻中学校へ通う。.

新しい!!: 文明 (日本)と豊橋市立西郷小学校 · 続きを見る »

豪徳寺

豪徳寺(ごうとくじ)は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と豪徳寺 · 続きを見る »

貞宗

貞宗(さだむね(生没年不詳:元応元年(1319年(3月11日)本覚寺過去帳から、 正宗二十二世孫の山村綱広が記した「刀匠の秘密厳守」(日本刀講座 ; 9)p.28 、一説に貞和5年(1349年) 没か))は、鎌倉時代末期の相模国(神奈川県)の刀工で、正宗の子、または養子と伝えられ、現存在銘刀はないが相州伝の代表的刀匠とされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と貞宗 · 続きを見る »

財賀寺

財賀寺(ざいかじ)は、愛知県豊川市にある、高野山真言宗の寺院。本尊は千手観音。.

新しい!!: 文明 (日本)と財賀寺 · 続きを見る »

鳥の子紙

鳥の子紙(とりのこがみ)とは、和紙の一種。主に画材や書道の用紙、また襖の上貼りなどに使用するもの。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳥の子紙 · 続きを見る »

鳥取市

鳥取市(とっとりし)は、日本海に面した鳥取県東部(因幡地方)に位置する中核市。鳥取県の県庁所在地でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳥取市 · 続きを見る »

鳥居忠吉

鳥居 忠吉(とりい ただよし)は、戦国時代の武将。三河松平氏(徳川氏)の家臣。三河碧海郡渡城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳥居忠吉 · 続きを見る »

鳥羽 (洛外)

鳥羽(とば)とは、かつて京都洛外、山城国紀伊郡に属していた鳥羽郷(とばごう)・鳥羽荘(とばのしょう)などと呼ばれた地域を指す名称。現在では京都市でも南区に属する上鳥羽・伏見区に属する下鳥羽に分割されている。 鴨川と桂川の合流地点の低湿地にあり、当時は鴨川が鳥羽の東側を流れ、また南は巨椋池に接したとされる。『和名類聚抄』では、「止波/度波」という訓を入れている。平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長した鳥羽作道が作られ、その道は鳥羽で淀川水系と接した。このため、鳥羽の河岸には鳥羽津が築かれた。貞観14年(872年)に作成された「貞観寺田地目録帳(『貞観寺根本目録』の一部)」(仁和寺所蔵重要文化財)に「鳥羽」の地名が登場する。また、平安京内の神泉苑の水は鳥羽からひかれたものであったとされている。平安時代前期には賀陽親王や藤原時平が鳥羽に別業(別荘)を造営した。 応徳3年(1086年)、白河上皇は藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業に拡張・改造を加えて離宮・鳥羽殿(城南宮)を造営した。3棟からなる御所と巨椋池を望む庭園、御堂を取り合わせた大規模なものであったが、白河上皇の生存中には完成出来ず、ここを継承した孫の鳥羽上皇の時代に完成した。鳥羽殿は南北朝の内乱で荒廃するまで歴代の治天の君の拠点として政治的な意味も持った。安楽寿院はその名残である。また、鳥羽に建立された御願寺はいずれも治天の君であった白河・鳥羽の両上皇(後に法皇)のものしか存在しない治天の君のための空間であり、両天皇在位中も含めて在位の天皇や女院の御願寺が建立された皇室の政治・宗教空間であった白河との違う特徴を有していた。 鎌倉時代に入ると、鳥羽院は代々院御厨別当・関東申次を務めた西園寺家が周辺の土地とともに知行して治天の君の院政に対して経済的な貢献を行うとともに、その政治力を支える基盤となった。西園寺家の鳥羽の荘園は鳥羽荘と称されて、『管見記』によれば応仁の乱最中の文明年間にも西園寺家の支配が確認でき、室町幕府官僚の大舘尚氏による『大舘常興日記』には大永5年(1527年)に行われていた西園寺家の鳥羽荘と久我家の久我荘の境相論についての覚書が残されているなど、戦国時代まで同家の所領であった。また、鳥羽は地方から淀川を経由して京都に物資を運ぶ拠点であり、室町時代には問丸や車借の活躍が見られ(『庭訓往来』など)、江戸幕府の京都代官の史料にも活動の様子が見られる。 室町時代後期の文明年間に入ると、鳥羽の北側を「上鳥羽」(『東寺百合文書』所収「右馬寮田地売券」)、南側を「下鳥羽」(『実遠公記』)と呼ぶ例が現れる。江戸時代には完全に別個の村である「上鳥羽村」「下鳥羽村」として文書に登場する。戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いの舞台にもなった。明治22年(1889年)の町村制導入以後は、それぞれ京都府の上鳥羽村・下鳥羽村として別個の歩みを遂げ、大正7年(1918年)には上鳥羽村の一部が京都市下京区(当時)に編入され、昭和6年(1931年)に上鳥羽村の残部は下京区に、下鳥羽村は伏見市などとともに新設の伏見区に編入される事になる。なお、昭和30年(1955年)には旧上鳥羽村を含む下京区南部が分離して南区が成立している。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳥羽 (洛外) · 続きを見る »

賦引付

賦引付(くばりひきつけ)とは、鎌倉幕府・室町幕府で行われた訴訟手続きである賦の内容を記した引付(記録)。 賦を担当した賦奉行が書き残した訴状や具書の控である。正式な賦奉行ではなかったものの、室町幕府政所代として政所沙汰の賦の業務を担当していた蜷川家の賦引付が現存唯一のものである(他にも賦引付の可能性のある文書は残されている)。文明5年(1473年)から天文19年(1550年)までのものが断続的に残されているだけであるが、特に当該期には徳政令や分一銭に関する訴訟が頻発しており、同家の賦引付はその状況を反映している。 類似のものとして、実際の判決文が書かれた裁許状の控である加判引付(御判引付)と呼ばれる奉行人の連署・花押のある引付がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と賦引付 · 続きを見る »

鳳台院 (笠間市)

鳳台院(ほうだいいん)は、茨城県笠間市箱田にある、曹洞宗の寺院。山号・国見山(くにみざん)、寺号・慈眼寺、開山は竺翁円符(ちくおう えんぶ)和尚である。この寺は後々まで名僧がつづき、曹洞宗禅の道場となって多くの禅僧を育てた村松圭三著『大森山 長源院誌』「長源院本寺 鳳台院」大森山長源院、北堀昌雄、1993年8月、国立国会図書館蔵書、2016年8月20日閲覧。。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳳台院 (笠間市) · 続きを見る »

鳴尾八幡神社

尾八幡神社(なるおはちまんじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社。市内鳴尾地区における鎮守神として地域住民に信仰されている。社号については、単に八幡神社と称される鳴尾村誌 1889-1951 P.103-104場合もあり、入口の社号標には「八幡神社」と刻名されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と鳴尾八幡神社 · 続きを見る »

賀年城

賀年城(かねじょう)は、長門国阿武郡嘉年(現・山口県山口市阿東)にある勝山にあった日本の城(山城)。通称は勝山城城跡付近にある説明板「勝山城址と毛利元就」。.

新しい!!: 文明 (日本)と賀年城 · 続きを見る »

越中一向一揆

越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。.

新しい!!: 文明 (日本)と越中一向一揆 · 続きを見る »

越智家栄

越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。.

新しい!!: 文明 (日本)と越智家栄 · 続きを見る »

足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利尊氏 · 続きを見る »

足利将軍一覧

足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん)では、室町幕府(足利幕府)征夷大将軍の15人を一覧にして概説する。 3代将軍の足利義満が大臣となって以降、歴代の将軍は大臣を兼ねる(または没後に贈官される)場合が多くなり、この慣例は後の徳川将軍家にも受け継がれている。 一方で南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。 代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利将軍一覧 · 続きを見る »

足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利義尚 · 続きを見る »

足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利義稙 · 続きを見る »

足利義視

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利義視 · 続きを見る »

足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利義澄 · 続きを見る »

足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利義政 · 続きを見る »

足利高基

足利 高基(あしかが たかもと)は、戦国時代の武将。3代目古河公方(在職:永正9年(1512年) - 天文4年(1535年))。足利政氏の長男。母は不詳。妻は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利高基 · 続きを見る »

足利茶々丸

足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)は、室町時代後期の武将。初代堀越公方の足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利茶々丸 · 続きを見る »

足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利成氏 · 続きを見る »

足利政知

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.

新しい!!: 文明 (日本)と足利政知 · 続きを見る »

鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と鶴岡八幡宮 · 続きを見る »

超勝寺

超勝寺(ちょうしょうじ)は、福井県福井市藤島町にある浄土真宗の仏教寺院。浄土真宗本願寺派の西超勝寺と真宗大谷派の東超勝寺がある。西超勝寺・東超勝寺ともに本尊は阿弥陀如来。越前国の藤島の地に創建されたことから藤島超勝寺と呼ばれていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と超勝寺 · 続きを見る »

鷲見氏

鷲見氏(すみし)は、日本の氏族の一つ。美濃国郡上郡鷲見郷の国人領主。通字は「保」。.

新しい!!: 文明 (日本)と鷲見氏 · 続きを見る »

鷹司兼輔

鷹司 兼輔(たかつかさ かねすけ)は、日本の室町時代から戦国時代にかけての公卿。.

新しい!!: 文明 (日本)と鷹司兼輔 · 続きを見る »

鷹司房平

鷹司 房平(たかつかさ ふさひら)は、日本の室町時代の公卿。.

新しい!!: 文明 (日本)と鷹司房平 · 続きを見る »

鹿野氏

鹿野氏(しかのし)は、日本の氏族のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と鹿野氏 · 続きを見る »

鹿苑寺

足利義満 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と鹿苑寺 · 続きを見る »

車斯忠

車 斯忠(くるま つなただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐竹氏の家臣。常陸国車城主。車丹波の名で知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と車斯忠 · 続きを見る »

黒印状

黒印状(こくいんじょう)とは、戦国時代から江戸時代にかけて将軍・大名・旗本などが墨を用いて押印した上で発給した文書のこと。.

新しい!!: 文明 (日本)と黒印状 · 続きを見る »

黒川氏

黒川氏(くろかわし)は、日本の氏族。起源が異なるいくつかの系統がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と黒川氏 · 続きを見る »

黒川景氏

黒川 景氏(くろかわ かげうじ)は、陸奥黒川氏第6代当主。陸奥国黒川郡鶴楯城主。孫に黒川晴氏。.

新しい!!: 文明 (日本)と黒川景氏 · 続きを見る »

龍宮寺

龍宮寺(りゅうぐうじ)は、福岡県福岡市博多区にある浄土宗鎮西派の寺院。山号は冷泉山(れいせんざん)。本尊は聖観音。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍宮寺 · 続きを見る »

龍福寺 (山口市)

龍福寺(りゅうふくじ)は、山口県山口市にある曹洞宗の寺院。山号は瑞雲山。本尊は釈迦如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍福寺 (山口市) · 続きを見る »

龍穏寺

龍穏寺(りゅうおんじ)は、埼玉県入間郡越生町にある曹洞宗の寺院。山号は長昌山(ちょうしょうさん)。室町時代より曹洞宗の僧録司として知られる。 江戸時代初頭には徳川家康より関三刹に任命。3,947寺(1635年時点)の寺院を統治し、曹洞宗の宗政を司った。境内には太田道真(父)・太田道灌(子)の墓所がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍穏寺 · 続きを見る »

龍角寺

龍角寺(りゅうかくじ)は、千葉県印旛郡栄町龍角寺にある天台宗の寺院。天竺山寂光院と号し、本尊は薬師如来。 発掘調査の結果、7世紀にさかのぼる伽藍跡が検出されており、創建年代の古さという点では、関東地方でも屈指の古寺である。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍角寺 · 続きを見る »

龍雲寺 (佐久市)

龍雲寺(りゅううんじ)は、長野県佐久市岩村田にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は十一面観音。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍雲寺 (佐久市) · 続きを見る »

龍造寺家純

龍造寺 家純(りゅうぞうじ いえすみ)は、戦国時代の武将。龍造寺隆信・鍋島直茂の祖父にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍造寺家純 · 続きを見る »

龍造寺康家

龍造寺 康家(りゅうぞうじ やすいえ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。龍造寺氏14代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍造寺康家 · 続きを見る »

龍泰寺 (関市)

詳雲山龍泰寺は岐阜県関市下有知にある曹洞宗の寺院で、山号は詳雲山。 応永14年(1407年)に最乗寺開山、了庵慧明の法嗣である無極慧徹により開かれる。その後、法嗣である月江正文が法灯を継いだ。 寛正3年(1462年)月江正文が示寂した後、住持となった華叟正萼は寛正5年(1464年)に伽藍を整備し広く法を説いて寺勢は隆盛した。 文明6年(1474年)には足利義尚が荘園を寄進して寺号を現在のものに改め、華叟正萼を開山第一世とした。 天文4年(1535年)5世住持の蘭如正賀の代に兵火に焼かれて伽藍が失われ戦国時代には寺勢は衰えた。 慶安元年(1648年)18世住持長霊正鎮の代に徳川家光より朱印地を賜り、更に僧録司の地位を得た。 華叟正萼の法嗣、絶芳祖奝、快庵妙慶、大林正通の三師はそれぞれ長野県大町市の大澤寺、栃木県の大平山大中寺及び群馬県の靑龍山茂林寺の開山となり、これらの寺は龍泰寺の末寺であった。 この他著名な末寺に東京都の萬松山泉嶽寺があり、五百を超える末寺を持つ大禅刹であった。 境内には本堂や庫裏の他、赤く塗られた総門や経堂がある。また境内地には竜ヶ池という池がある。かつては現在より広く龍が住んでいたが、死に臨んで住持より引導を受け寺の守護となったと伝えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と龍泰寺 (関市) · 続きを見る »

近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

新しい!!: 文明 (日本)と近衛大将 · 続きを見る »

近衛尚通

近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿、関白。父は近衛政家。母は家女房であった越前国の加治能登入道の娘・俊子(北小路俊宣養女)。妻は徳大寺実淳の娘・維子。子に近衛稙家、久我晴通、大覚寺義俊、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室)ら。猶子に足利義輝、足利義昭(共に慶寿院の子)。 文明14年(1482年)に元服、当時の室町幕府の将軍であった足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。その後永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。天文2年(1533年)に出家し、大証と号した。天文13年(1544年)、薨去。日記『後法成寺関白記』を残した。.

新しい!!: 文明 (日本)と近衛尚通 · 続きを見る »

近衛政家

近衛 政家(このえ まさいえ、文安元年(1444年) - 永正2年6月19日(1505年7月20日))は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家13代当主。一字名は霞。号は後法興院。.

新しい!!: 文明 (日本)と近衛政家 · 続きを見る »

霧山城

霧山城(きりやまじょう)または多気城(たげじょう)は、伊勢国一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気および美杉町下多気「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):418ページ)にかつて存在した日本の城。城跡は国の史跡に指定されている(史跡「多気北畠氏城館跡」のうち)文化庁""(2012年9月6日閲覧。)。 伊勢国司から戦国大名となった北畠氏の本拠地であり、16,000騎を有する大将にふさわしい城郭であった美杉村史編集委員会(1981):213ページ。.

新しい!!: 文明 (日本)と霧山城 · 続きを見る »

霧島神宮

霧島神宮(きりしまじんぐう)は鹿児島県霧島市霧島田口にある神社。旧社格は官幣大社 - 鹿児島県神社庁 2012年2月27日。.

新しい!!: 文明 (日本)と霧島神宮 · 続きを見る »

霧島神社

霧島神社(きりしまじんじゃ)は、かつて日向国にあった神社(式内社)である。また、霧島神宮の旧社名でもある。 国史の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)8月1日条で、「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社を官社に預かる)」とし従五位上を授けられたと記載されている。その後、『日本三代実録』天安2年(858年)10月22日条に従四位下の神階を授けるという記述がある。延喜式神名帳では「日向国諸県郡 霧嶋神社」と記載され、小社に列している。 霧島神社は霧島山の神を祀ったものであり、元々は霧島山の山頂附近にあったが、霧島山の噴火によって社殿を焼失したため各地に遷座され、また、分社も行われた。そのため、現在、式内社・霧島神社の論社には以下の4社がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と霧島神社 · 続きを見る »

茨木城

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった日本の城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。.

新しい!!: 文明 (日本)と茨木城 · 続きを見る »

蜷川親元

蜷川 親元(にながわ ちかもと、永享5年(1433年) - 長享2年5月25日(1488年7月4日))は、室町時代の幕府官僚・歌人。足利義政・足利義尚将軍期の政所代。蜷川新右衛門親当(智蘊)の子で、法名は道寿、号は不白。また、蜷川氏当主は代々「新右衛門尉(しんえもんのじょう)」を名乗っている。子に親孝。 政所執事伊勢貞親・貞宗に仕える。文明5年(1473年)8月に政所執事代に就任し、将軍家の家産を司った。能書家として知られ、武家故実にも通じていた。日記に『親元日記』がある。 ちかもと Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:日本の能書家 Category:1433年生 Category:1488年没.

新しい!!: 文明 (日本)と蜷川親元 · 続きを見る »

蜂塚氏

蜂塚氏(はちつかし)は伯耆国日野郡の国人一族で江尾城を拠点としていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と蜂塚氏 · 続きを見る »

震動の滝

震動の滝(しんどうのたき)は、大分県玖珠郡九重町にある滝。日本の滝百選に選ばれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と震動の滝 · 続きを見る »

能阿弥

能阿弥(のうあみ、応永4年(1397年) - 文明3年(1471年))は、室町時代の水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師。姓は中尾、名は真能(さねよし)。法号は真能。号は鴎斎、春鴎斎子。子に芸阿弥、孫に相阿弥がいる。 元は越前朝倉氏の家臣だったが、足利義教、義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号し、幕府における書画等(唐物)の鑑定や管理を行い、また東山御物の制定を行った。特に水墨画に優れ阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれる。自由に御物の名品を見ることの出来る立場を生かし、「花鳥図屏風」や「白衣観音図」のような、牧谿の図様をそのまま取り込んだ作品を残している。茶道においては、書院飾りの完成、台子飾りの方式の制定などを行い、小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案した。『山上宗二記』では「同朋中の名人」と記されている。そのほか連歌、立花、香道にも優れ、連歌では七賢の一人に挙げられ、北野天満宮の連歌奉行も務めた。 著書に『君台観左右帳記』、東山御物の目録である『御物御絵目録』(相阿弥の時に完成)、自筆巻子として「集百句之連歌巻」(天理大学附属天理図書館蔵)がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と能阿弥 · 続きを見る »

鈴木道胤

鈴木 道胤(すずき どういん、生没年不詳)は、室町時代の国人領主・商人。諱は長敏といわれる。武蔵品川馬場地(現南馬場町周辺)に拠点を構えて品川湊を支配し、自身も廻船業や土倉などの貸金業を営む商人として活動した。太田道灌とも交流があり、連歌の名手としても知られていた。 出自は紀伊熊野の鈴木氏といわれる。妙国寺(現天妙国寺)に梵鐘を寄進したほか、伽藍の再建に尽くすなど大旦那として名を残している。文明2年(1470年)太田道真が河越城で、「河越千句」と呼ばれた連歌の会を主催したが、連歌師心敬、宗祇を招き、会を実質運営したのは道胤であった。 Category:室町時代の人物 Category:武蔵国の人物 Category:日本の商人 Category:品川区の歴史 Category:室町時代の東京.

新しい!!: 文明 (日本)と鈴木道胤 · 続きを見る »

船寺通

船寺通(ふなでらどおり)は兵庫県神戸市灘区の町名の一つで、同区南西部、河原字船寺後・船寺谷、森字池ノ下・道ノ下・寺ノ脇と味泥字道端・飯ウルシ・端道・源之前・下飯田・中アセコ・下アセコ・岩屋字水戸などから成立した。.

新しい!!: 文明 (日本)と船寺通 · 続きを見る »

船田合戦

船田合戦(ふなだがっせん)は、戦国時代前期に発生した、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と船田合戦 · 続きを見る »

興宗寺 (福井市)

興宗寺(こうしゅうじ)は福井県福井市松本にある浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は「牛鼻山」(ぎゅうびざん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と興宗寺 (福井市) · 続きを見る »

興正寺

興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院。山号は円頓山(えんとんざん)。西本願寺の南隣に位置する。 かつて西本願寺の脇門跡であったが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるが、実際には堂々とした規模である。.

新しい!!: 文明 (日本)と興正寺 · 続きを見る »

興正寺別院

興正寺別院(こうしょうじべついん)は、富田林市富田林町にある真宗興正派の寺院。永禄初年(1558年)頃建立。宗教法人としての名称は「富田林興正寺別院」。富田林寺内町の中核寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と興正寺別院 · 続きを見る »

蘭坡景し

蘭坡景茝(らんぱけいし、応永26年(1417年)- 明応10年2月28日(1501年3月17日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての臨済宗の僧。別号は雪樵。近江国の出身。 南禅寺に入り大模梵軌(だいもぼんき)に師事してその法を継ぎ、希世霊彦(きせいれいげん)や瑞巌龍惺(ずいがんりゅうせい)らに漢詩文を学んだ。1475年(文明7年)臨川寺の住持となり、その後は相国寺・等持院・常在光寺などの住持を歴任し、南禅寺内に仙館軒(のちに仙館院)を創建している。後土御門天皇に重用され、漢詩などを進講している。.

新しい!!: 文明 (日本)と蘭坡景し · 続きを見る »

阿坂城

阿坂城(あざかじょう)は、伊勢国一志郡阿坂(現在の三重県松阪市大阿坂町)にかつて存在した日本の城。白米城(はくまいじょう)・椎之木城(しいのきじょう)とも称する。1982年(昭和57年)に阿坂城跡 附 高城跡 枳城跡(あざかじょうあと つけたり たかんじょうあと からたちじょうあと)の名称で国の史跡に指定されている文化庁""(2012年9月3日閲覧。)。 伊勢国司から戦国大名となった北畠氏にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点であった三重県観光連盟 監修(1989):181ページ「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):78ページ。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿坂城 · 続きを見る »

阿弥陀寺 (防府市)

阿弥陀寺(あみだじ)は、山口県防府市牟礼にある華厳宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿弥陀寺 (防府市) · 続きを見る »

阿蘇惟忠

阿蘇 惟忠(あそ これただ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。阿蘇氏13代当主(阿蘇神社大宮司)。北朝方の武将・阿蘇惟村の孫。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿蘇惟忠 · 続きを見る »

阿蘇惟郷

阿蘇 惟郷(あそ これさと)は、室町時代前期から後期にかけての武将。阿蘇氏12代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿蘇惟郷 · 続きを見る »

阿蘇惟歳

阿蘇 惟歳(あそ これとし)は、室町時代の武将。阿蘇氏14代当主。南朝系阿蘇大宮司3代目。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿蘇惟歳 · 続きを見る »

阿蘇惟憲

阿蘇 惟憲(あそ これのり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。阿蘇氏16代当主(阿蘇神社大宮司)。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿蘇惟憲 · 続きを見る »

阿野季綱

阿野 季綱(あの すえつな、文明3年(1471年)-永正8年9月16日(1511年10月7日))は、戦国時代の公卿。阿野公熈の子。母は勧修寺経成の娘。養子に阿野季時。 父・公熈は応仁の乱の際に葉室光忠(室は公熈の従兄弟)とともに足利義視を支持し、母もかつて義視の寵愛を受けていたとされる事から、義視の子である足利義材が将軍になるとその信任を受けた。明応の政変の際にも義材に近侍していたが、京都に脱出(脱出に失敗した葉室光忠は処刑されている)している。 その後、明応7年(1498年)になって突然京都を脱出して越中国に亡命中の足利義材に合流し、東坊城和長に義材の改名の相談を持ち掛けるなど、京都の朝廷や公家との連絡係を務めている。永正5年(1508年)に足利義稙(義材を改名)が京都に戻って将軍に復帰すると、その推挙によって同年7月16日に参議兼左近衛中将に任ぜられ、位階も従四位上に進められた。復帰後の季綱は義稙の為に朝廷や公家達との交渉を行ったほか、細川高国や大内義興に義稙の意向を伝えるなど、将軍側近の地位を得るに至った。一方、永正6年(1509年)に正四位下、永正8年(1511年)に従三位に叙せられるが、同年に41歳で急死した。.

新しい!!: 文明 (日本)と阿野季綱 · 続きを見る »

蘆名盛高

蘆名 盛高(あしな もりたか)は、室町時代から戦国時代の武将。蘆名氏第13代当主。父は12代当主・蘆名盛詮。.

新しい!!: 文明 (日本)と蘆名盛高 · 続きを見る »

蘆名盛滋

蘆名 盛滋(あしな もりしげ)は、戦国時代の武将。蘆名氏第14代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と蘆名盛滋 · 続きを見る »

赤堀氏

赤堀氏(あかほりし)とは、北勢四十八家の1つで戦国時代の四日市赤堀地域の城主。浜田氏・羽津氏・赤堀家の赤堀三家で赤堀一族を形成していた。この項目では阿倉川合戦と塩浜合戦と赤堀村地域についても記述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と赤堀氏 · 続きを見る »

赤穴久清

赤穴 久清(あかな ひさきよ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尼子氏の家臣。出雲国赤穴城(瀬戸山城)主。.

新しい!!: 文明 (日本)と赤穴久清 · 続きを見る »

赤松則貞

赤松 則貞(あかまつ のりさだ)は、戦国時代の武将。孫に赤松村秀。那波城主。 文明16年(1484年)、父・宇野政秀が剃髪し、以降の郡代職務を担うようになる。延徳4年(1492年)には在京していたことが確認できる。明応5年(1496年)、宗家当主赤松政則死去に際して、浦上則宗・別所則治・小寺則職・薬師寺貴能と共に、赤松七条家からの養子である道祖松丸(後の赤松義村)を家督に据えることの承認を幕府に求めている。その後、東西取合合戦と呼ばれる赤松家を三分する混乱状態となり、則宗の求心力が低下すると則貞の赤松下野守家の影響力が拡大した。明応8年(1499年)3月、道祖松丸を連れて則宗が塩屋城の下野守家の庇護下に入ると、則貞の父政秀が上洛し、室町幕府の調停を取り付け、東西取合合戦は終結に向かう。 『鵤荘引付』には大永5年(1525年)に則貞が孫の村秀(下野守)によって龍野城で殺害されたと記されている。廉直な人柄の人物である村秀が則貞殺害に至った理由は判然としないが、則貞と村秀は永正16年(1519年)に不心得者の中間の処置から合戦寸前までいくなど、赤松家内部は長らく混乱を抱えており、その対策から対立した可能性もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と赤松則貞 · 続きを見る »

赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

新しい!!: 文明 (日本)と赤松政則 · 続きを見る »

赤沢政経

赤沢 政経(あかざわ まさつね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と赤沢政経 · 続きを見る »

鵜飼い

岐阜県岐阜市の長良川鵜飼。鵜匠が船に乗り、数羽から十数羽の鵜を操っている。 山梨県笛吹市で行われている石和鵜飼。「徒歩鵜」と呼ばれる漁法で鵜匠が直接川に入って鵜を操っている。 鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、日本などで行われていた。現在では漁業というより、観光業(ショー)として行われている場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、スポーツとして行われた。.

新しい!!: 文明 (日本)と鵜飼い · 続きを見る »

関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と関東地方 · 続きを見る »

薩南学派

薩南学派(さつなんがくは)とは、桂庵玄樹を始祖として室町時代後期から江戸時代前期にかけて薩摩国を中心に栄えた儒学の一派。.

新しい!!: 文明 (日本)と薩南学派 · 続きを見る »

薬師寺元一

薬師寺 元一(やくしじ もとかず)は、戦国時代の武将。細川氏の重臣。摂津国守護代。.

新しい!!: 文明 (日本)と薬師寺元一 · 続きを見る »

門司区

司港地区 門司区(もじく)は、北九州市を構成する7区の行政区の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と門司区 · 続きを見る »

藤森神社

西門 拝殿 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区深草に鎮座する神社である。旧社格は府社。 5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い。6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、3,500株にもおよぶ紫陽花が見もの。.

新しい!!: 文明 (日本)と藤森神社 · 続きを見る »

葉室光忠

葉室 光忠(はむろ みつただ)は、室町時代後期の公卿。権大納言葉室教忠の子にして、母は葉室頼時の女。室町将軍足利義材の側近公家衆として権勢を振るったが、明応の政変に敗れて細川政元の命により殺害された。.

新しい!!: 文明 (日本)と葉室光忠 · 続きを見る »

葛西政信

葛西 政信(かさい まさのぶ)は、室町時代後期の大名。奥州葛西氏の第13代当主。名は信勝(のぶかつ)とも。従五位下、壱岐守、左京大夫。正室は千葉師胤の娘。子に晴重、女子(大崎持高後室)。.

新しい!!: 文明 (日本)と葛西政信 · 続きを見る »

葛西晴重

葛西 晴重(かさい はるしげ)は、戦国時代の大名。陸奥葛西氏第14代当主。子に守信(もりのぶ)、晴胤。養子に晴清(伊達稙宗の七男)。.

新しい!!: 文明 (日本)と葛西晴重 · 続きを見る »

蒲生貞秀

蒲生 貞秀(がもう さだひで)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・歌人。.

新しい!!: 文明 (日本)と蒲生貞秀 · 続きを見る »

肝付兼久

肝付 兼久(きもつき かねひさ)は、戦国時代の武将。肝付氏14代当主。 文明14年(1482年)、父・肝付兼連の死去を受け、僅か10歳の兼久が家督を継ぐと、大叔父・肝付兼広らが島津氏と通じて反乱を起こしたため、兼久は志布志の新納忠続を頼り日向国に落ち延びる。その後、忠続の援助を得て兼広らを倒し、当主に復帰した。 兼久は島津氏との関係を修復するため、時の当主・島津忠昌を加冠役として元服した。しかし忠昌との争いはその後も続き、兼久は新納忠続や伊東氏らと協力して忠昌と戦った。このため、逆に忠昌は劣勢になり、永正5年(1508年)には遂にその圧力に耐えかねて自殺している。 その後も島津氏と戦い続けたが、島津氏では忠昌没後に内紛が相次いだために兼久のほうが優勢だったといわれる。 大永3年(1523年)、死去。享年51。跡を子・兼興が継いだ。 かねひさ Category:戦国武将 Category:大隅国の人物 Category:1473年生 Category:1523年没.

新しい!!: 文明 (日本)と肝付兼久 · 続きを見る »

肝付兼忠

肝付 兼忠(きもつき かねただ)は、室町時代の武将。肝付氏12代当主。 島津忠国と島津好久の内紛の際には好久派であったが、忠国の舅でもあった祖父・新納忠臣の説得によって忠国に従った。 兼忠とその長男・国兼が不仲であった機に乗じて、次男・兼連が国兼を領外に追放すると、三男・兼光は国兼の復帰を願い出たが、聞き入れられず出奔、島津氏の配下となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と肝付兼忠 · 続きを見る »

肝付兼光

肝付 兼光(きもつき かねみつ)は、室町時代の武将。島津氏の家臣。 父・肝付兼忠と長兄・国兼の関係は不仲で、次兄・兼連はそれに乗じて国兼を領外に追放した。兼光は兼連と国兼との和睦を提案したが取り入れられず、結果、兼光は出奔し、島津氏の配下となる。大崎町の天子ヶ丘集落辺りを中心として大崎城を築城する。 文明15年(1483年)、死去。家督は嫡男・兼固が継いだ。 なお、天正5年(1577年)に馬場・丸尾・城内集落一帯に新しい大崎城が建築されるが、兼光が建築した大崎城は、現在『旧大崎城』となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と肝付兼光 · 続きを見る »

肝付兼固

肝付 兼固(きもつき かねかた、生没年不詳)は、戦国時代の武将。大隅国肝付氏の庶流。受領名は越前守。父は肝付兼光。弟に兼恒。子に兼演、兼利、上井薫兼室(上井覚兼母)。 文明15年(1483年)、父・兼光が没すると家督を継いだ。兼固は島津忠昌から姶良郡溝辺三十町を与えられ、文明16年(1486年)、兼固ら一族はそれまでの所領・大崎から溝辺に移住した際に、瑞泉山心慶寺跡(ずいせんざんしんけいじあと)を建立した。 その後、兼固の子・兼演は島津氏の家老となり、加治木に移る。 かねかた Category:戦国武将 Category:大隅国の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文明 (日本)と肝付兼固 · 続きを見る »

那須資実

那須 資実(なす すけざね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏(下那須家)当主。下野国烏山城主。 下那須家当主・那須資持の子として誕生。上那須家との対立は続いていたが、文明4年(1472年)に白河結城氏の結城直朝の仲介により上那須家当主・那須明資の娘を室に迎えるなど関係の修復に努めた。同年、古河城を追われた古河公方・足利成氏の古河復帰に結城氏広や千葉孝胤と共に協力し成し遂げた。 明応元年(1492年)から死去までの間に烏山城の増築を行った。 明応3年(1494年)、死去。家督は子・資房が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と那須資実 · 続きを見る »

那須明資

那須 明資(なす あきすけ)は、室町時代の武将。那須氏(上那須家)14代当主。 那須氏13代当主・那須氏資の嫡男として誕生。 明資は下那須家の那須資実とは長く抗争を続け、享徳3年(1455年)からの享徳の乱でも上杉氏と結んで堀越公方・足利政知方として、古河公方・足利成氏方の資実を攻めていたが、文明4年(1472年)に結城直朝の仲介で和解、資実に娘を嫁がせてこれを機に成氏方に寝返った。 文明8年(1476年)からの長尾景春の乱では長尾景春や千葉孝胤と結びこれを支援したが若くして没する。 家督は弟・資親が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と那須明資 · 続きを見る »

蓬田城

蓬田城(よもぎだじょう)は青森県東津軽郡蓬田村大字蓬田字汐越にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓬田城 · 続きを見る »

蓮如

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮如 · 続きを見る »

蓮専寺 (和歌山県由良町)

蓮専寺(れんせんじ)は、和歌山県日高郡由良町にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は端政山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮専寺 (和歌山県由良町) · 続きを見る »

蓮乗

蓮乗(れんじょう、文安3年(1446年)- 永正元年2月21日(1504年3月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。瑞泉寺・本泉寺兼住。本願寺第8世法主蓮如の次男で、母は伊勢貞房の娘如了。幼名は光養、諱は兼鎮。妻は大叔父に当たる如乗の娘。子に蓮悟室。 幼い頃、本願寺は衰退期であったために京都南禅寺に喝食として出された。15歳となった寛正元年1月26日(1460年2月18日)、加賀二俣房(後の本泉寺)の住持であった蓮如の叔父・如乗(実名宣祐)が死亡したため、その娘を娶って後継者になる。如乗はかつては本願寺の本寺である青蓮院の僧であったが、門主の義円と張り合っていたため、義円が還俗して室町幕府第6代将軍足利義教となると、追われる身となって各地を流浪した末に越中瑞泉寺を経て加賀に落ち着いたのであった。後に如乗は兄・存如死後の家督争いで庶長子の蓮如の才能を見込んで反対派を押さえ込んで後継者に擁立した事があり、如乗の死後にその未亡人勝如尼の要請で本泉寺の寺号を与えると共に蓮乗を派遣したのである。 文明3年(1471年)、延暦寺の圧力を逃れて北陸に布教の旅に出た父・蓮如は越前吉崎御坊と本泉寺を足がかりに布教に努めた。ところが、文明6年(1474年)、後の加賀一向一揆のきっかけとなる富樫氏の内紛に巻き込まれ、翌年蓮如は吉崎を退去、蓮乗も本泉寺を追われて本願寺の末寺となっていた瑞泉寺に退いた。更に文明13年(1481年)には今度は越中で門徒の弾圧が行われた事を機に越中一向一揆が発生して砺波郡が門徒の支配下に入った。 だが、蓮乗は越中退去の頃にあった落馬からの回復が思わしくなく、異母弟の蓮悟に娘を娶わせて後継者にする。長享元年(1487年)には再興した本泉寺に復帰するが、病状は悪化して明応8年(1499年)の蓮如危篤の際にも駆けつける事が出来なかったという。その5年後に59歳で病死した。本泉寺は蓮悟が、瑞泉寺は義弟の蓮欽(勝如尼の甥、妹了如の夫)がそれぞれ継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮乗 · 続きを見る »

蓮秀

蓮秀(れんしゅう、文明13年3月10日(1481年4月17日) - 天文21年5月10日(1552年6月12日)は、戦国時代の浄土真宗の僧である。興正寺第15世住持。父は興正寺第14世住持蓮教、母は常楽寺住持蓮覚の娘で蓮如の孫娘に当たる慧光尼。子に証秀。幼名は芳丸、号は花恩院。生年は文明14年(1482年)とも。 明応元年(1492年)に父が没した後、翌明応2年(1493年)に曾祖父蓮如の手で得度、興正寺を継いだ。翌年に法眼・律師に任ぜられた。天文元年(1532年)、本願寺10世法主証如と交戦した細川晴元と法華一揆らに山科の興正寺を焼き討ちされ、寺基を摂津大坂に移した。翌天文2年(1533年)、晴元との和平を唱えたため証如と対立し、本願寺を退去したが翌年に復帰、天文4年(1535年)に和睦を取りまとめた功績で本願寺一家衆に任ぜられた。また、西国の布教に尽力したと言われている。 天文21年(1552年)、72歳で死去。後を子の証秀が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮秀 · 続きを見る »

蓮綱

蓮綱(れんこう、宝徳2年(1450年)- 享禄4年10月18日(1531年11月26日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。松岡寺住持。幼名は光養、諱は兼祐。初名は玄寿、後に蓮康と改める。本願寺第8世法主蓮如の3男で、母は伊勢貞房の娘如了。妻は勧修寺教秀の娘。子に蓮慶。 幼い頃、浄土宗の寺院に預けられていたが、文明年間初め頃に加賀に下る。後に同国波佐谷(現在の石川県小松市)に松岡寺を建立する。しかし、蓮如と加賀守護富樫政親が対立した文明7年(1476年)に越前吉崎御坊にいた父と合流して一旦加賀を離れた。だが、5年後に再び松岡寺に復帰すると隣国の越中一向一揆を指導していた弟蓮悟や吉崎に残っていた同じく弟の蓮誓と連携して富樫氏と対抗した。長享2年(1488年)に政親が一揆討伐軍を上げると逆にこれを攻め滅ぼした(長享の一揆)。 後継の守護に富樫泰高(政親の大叔父)を擁立しながらも実質的には蓮綱と蓮悟が事実上の国主となる「両御山」体制を敷いた。これに対して蓮如は激しく非難しているが、実際には管領細川政元の暗黙の了解を得て室町幕府による討伐令を中止させている。その後、蓮如と後を継いだ異母弟実如は蓮綱・蓮誓・蓮悟ら蓮如の子供達を加賀における真宗の代表として民衆を統率させて本願寺を擁護する体制を作る事に尽力するようになる。 永正3年(1506年)、細川政元の依頼を受けて越前の朝倉貞景討伐の一揆を起こすが、朝倉教景(宗滴)・朝倉景職・堀江景実が率いる朝倉軍に九頭竜川の戦いで敗れ、逆に吉崎御坊は破壊されて越前の真宗信者は国外に追放されてしまう。その後、松岡寺の運営を息子蓮慶に、加賀門徒の指導を弟の蓮悟に任せて引退生活に入る。 ところが、本願寺の法主が証如の代に入ると証如とその後見である蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父)は法主による一門統制を強める政策を採り、その遂行のために蓮淳の婿で朝倉氏によって越前から追放されていた末寺の1つ・超勝寺の住持であった実顕が代官に任じられて「両御山」体制を否認する命令を加賀各地に出す。これに対して蓮悟や蓮慶と顕誓(蓮誓の子)は蓮如・実如が定めた一門衆の指導への服従を定めた規則に反するとして超勝寺の討伐のための一揆を起こした。 だが、この報を受けた蓮淳は逆に法主の代理である実顕を討つ事は本願寺法主に対する反逆であるとして畿内・東海の門徒に超勝寺救援の命令を発したのである。本覚寺住持蓮恵も超勝寺に加勢、これを知った加賀門徒は動揺して分裂、享禄4年7月松岡寺は超勝寺側に占領されて蓮綱・蓮慶父子は幽閉されてしまった(大小一揆)。3ヵ月後蓮綱は幽閉先にて82歳で没し、更に11月18日には蓮慶(49歳)と孫の実慶(29歳)ら家族も逃亡を図ろうとした廉で捕らえられ自害したとも処刑されたともいう。以後、松岡寺は江戸時代初期に能登国内にて再興を許されるまで廃絶状態となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮綱 · 続きを見る »

蓮芸

蓮芸(れんげい、文明16年(1484年)- 大永3年閏3月28日(1523年5月13日)は、室町時代後期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。富田教行寺及び名塩教行寺住持。本願寺第8世法主蓮如の8男。母は姉小路昌家の娘宗如。妻は中山宣親の娘如宗。子に実誓、賢勝、実孝室。幼名は光寿丸。諱は兼琇(兼秀)。二位権律師。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮芸 · 続きを見る »

蓮誓

蓮誓(れんせい、康正元年(1455年)- 大永元年8月7日(1521年9月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。光教寺住持。本願寺第8世法主・蓮如の4男。幼名は光玉、諱は康兼。妻は正親町持季の娘・如専。子に蓮能、実玄、顕誓など4男6女。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮誓 · 続きを見る »

蓮沼城

蓮沼城(はすぬまじょう)は、富山県小矢部市蓮沼に在った日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮沼城 · 続きを見る »

蓮悟

蓮悟(れんご、応仁2年(1468年)- 天文12年7月16日(1543年8月16日)は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。本泉寺住持。本願寺第8世法主蓮如の7男。母は伊勢貞房の娘蓮祐。妻は次兄蓮乗の娘。子に実教。養子に実悟。幼名は光寿丸、諱は兼縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮悟 · 続きを見る »

蓮教

蓮教(れんきょう、宝徳3年(1451年) - 明応元年5月2日(1492年5月27日)は、戦国時代の浄土真宗の僧。真宗興正派興正寺第14世(『真宗法脈史』)。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は真宗佛光寺派佛光寺12世性善で、甘露寺親長の猶子。経誉の兄で、蓮秀の父。 妙法院の教覚に師事して文明元年(1469年)に叔父の光教から佛光寺を継いで第14世となるものの、文明14年(1482年)頃に佛光寺に属する48坊のうち42坊を引き連れて本願寺第8世法主蓮如の長男順如の仲介で本願寺に合流した。その際に「経豪」から「蓮敎」と名を与えられ改名する。 これによって佛光寺派は大混乱をきたし、光教が経豪の弟である経誉を急遽法主に押し立てた。その際、経豪はそもそも第14世法主など継いでいなかったことにされ、経誉が新たに第14世として就任した。 蓮如の孫にあたる恵光尼(順如の妹如慶と常楽寺住持蓮覚の子)を妻とし、山科興正寺を興隆してその基礎を築いた。.

新しい!!: 文明 (日本)と蓮教 · 続きを見る »

醤油

醤油(しょうゆ、醬油)は、主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料であり、日本料理における基本的な調味料の一つとなっている。現代日本における呼び名であるが、同様の調味料は別の呼び名で東アジアの民族料理にも広く使用されている。例えば現代の中国では酱油と書く。 以下、特記なき記述は日本について記したものとする。.

新しい!!: 文明 (日本)と醤油 · 続きを見る »

野尻城 (越中国)

野尻城(のじりじょう)は、富山県南砺市野尻(旧・福野町)に在った日本の城(平城)。市史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と野尻城 (越中国) · 続きを見る »

野尻城 (日向国)

野尻城(のじりじょう)は現在の宮崎県小林市(旧野尻町)にあった山城。.

新しい!!: 文明 (日本)と野尻城 (日向国) · 続きを見る »

野方村

野方村(のがたむら)は、鹿児島県囎唹郡にあった村。旧南諸県郡(1883年以前は諸県郡)。昭和大合併期に分割され、現在は大崎町野方・志布志市有明町山重・曽於市大隅町荒谷の各一部。 当項目で「1880年ごろ」と記載されている事項については、注釈がない限り『日向地誌』(平部嶠南、1884年)によるものである。.

新しい!!: 文明 (日本)と野方村 · 続きを見る »

針綱神社

拝殿 そり橋 天神社 針綱神社(はりつなじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社である。 東海鎮護、水産拓殖、五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として、濃尾の総鎮守とされている。 安産、子授けにご利益があるという。これは、1537年(天文6年)、織田信康が自ら手彫りの狛犬一対を奉納して安産祈願したことからである。以来、戌の日に安産祈願すると良いとされている。 犬山城の守護神でもあり、三光稲荷神社と同じく犬山城の南の登城入り口近くにある。また犬山祭は、針綱神社の祭礼である。.

新しい!!: 文明 (日本)と針綱神社 · 続きを見る »

自性院 (新宿区)

自性院(じしょういん)は、東京都新宿区西落合一丁目にある真言宗豊山派の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と自性院 (新宿区) · 続きを見る »

臼井城

本丸空堀 臼井城(うすいじょう)は、現在の千葉県佐倉市臼井田付近にあった日本の城。 永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と臼井城 · 続きを見る »

里見実堯

里見 実堯(さとみ さねたか、文明16年(1484年)?-天文2年7月27日(1533年8月17日)は、戦国時代の武将。安房里見氏の一族。左衛門佐と称する。延命寺殿一翁正源居士。 系譜上は、第2代里見成義の次男で兄である義通の死後に家督を継いだとも甥・義豊の陣代(後見人)であったともされたが、近年では実堯の嫡男・義堯の家督相続を正当化するための作為による虚構と考えられている。また、兄・義通とともに安房里見氏初代・義実の子であったと推定される。 義通の命を受けて上総国へ進出して金谷城を拠点として正木氏をはじめとする房総半島の水軍を手中に収めた。また、次の義豊の代にはその命を受けて鎌倉や武蔵品川を攻撃して後北条氏と戦っている。だが、次第に家中における発言力を増して義豊の地位を脅かす存在となり、また後北条氏と通じているとの風評が流れるに至った。このため天文2年、義豊は機先を制する形で実堯とその腹心の正木通綱を稲村城に呼んでこれを殺害した。これを稲村の変(天文の内訌)という。これをきっかけに実堯の嫡男・義堯を押し立てた上総の里見氏勢力が叛旗を翻し、翌年には義堯が義豊を殺害して家督を奪った。 古くは義通が若くして死亡して義豊が幼かったために義豊成人までの間だけ実堯が家督を預かっていたのを成長した義豊が無分別にもこれを逆恨みして叔父を殺害したとされていた。しかし、近年では義通は長命を保って成人した義豊に家督を譲って隠居したと考えられており、義豊も稲村の変当時には既に壮年であったと考えられている。このため、こうした旧説は義堯の家督継承後に実堯系の家督継承の正当性を強調するために創作された話であると考えられており、今日では里見氏当主としては勿論、義豊の陣代であったとする見方も否定されている。 category:戦国武将 さねたか Category:1484年生 Category:1533年没 Category:安房国の人物.

新しい!!: 文明 (日本)と里見実堯 · 続きを見る »

里見義通

里見 義通(さとみ よしみち、文明13年(1481年)? - ?)は、戦国時代の大名。安房里見氏の第3代当主。弟に実堯、子には義豊がいる。民部大輔。天昭院商山正皓居士。 従来の説では、第2代当主であった成義の嫡男で里見氏第3代当主になったものの、病弱のために永正15年2月1日(1518年3月12日)に38歳で病死したと言われていたが、実際には初代義実(系譜上は祖父)の嫡男であり、その没年は大幅に繰り下げられて、安房一国の戦国大名としての基礎を築いた人物とするのが今日の有力説である。 史料上の初見は永正5年(1508年)であるが、この時には既に安房の大半を掌握しており(『北条五代記』には安西氏に対して下克上を起こして安房を平定したのは義通であるという)、安房国稲村城を本拠とし、弟の実堯に命じて安房北部から上総国南部を攻略させ、正木通綱ら安房・上総の三浦氏一族を服属させた。当初は古河公方足利政氏に仕え、自らを副師と称したが、のちに小弓公方足利義明に従った。永正17年(1520年)には小弓公方足利義明から千葉一族の臼井氏とともに、古河公方派の下総国本佐倉城および下総国関宿城攻略への助力の依頼を受けている。古文書などで確認できる里見氏出身の初代「安房国主」である。 旧来はその没年を永正15年あるいは大永元年(1521年)とされてきたが、大永5年(1525年)ごろまで義通に関する古文書が存在するために実際の死没はそれ以後であり、50歳近くまで健在していた可能性が高い。また、系譜上では父とされている里見成義を架空の人物として、初代・義実の子とする説を採るならば、義通の生年も現存の系譜より以前に遡る可能性が強く、それ以上の高齢であったとも考えられる。更に息子・義豊の里見家当主としての活動が永正年間後半には既に見られるため、それ以前の段階で安房国白浜城に隠居していたとも考えられている。 よしみち Category:戦国大名 Category:安房国の人物 Category:1481年生 Category:16世紀没.

新しい!!: 文明 (日本)と里見義通 · 続きを見る »

金岡用兼

金岡 用兼(きんこう ようけん、永享10年1月(1438年) - 没年不詳)は、戦国時代の曹洞宗の僧。讃岐国出身。俗姓は戸田。.

新しい!!: 文明 (日本)と金岡用兼 · 続きを見る »

金川城

金川城(かながわじょう)は、備前国御野郡金川(岡山県岡山市北区御津金川)にあった日本の城。別名、玉松城。.

新しい!!: 文明 (日本)と金川城 · 続きを見る »

金光寺 (京都市下京区)

金光寺(こんこうじ)は、京都府京都市下京区にあった時宗遊行派の寺院。七条道場と呼ばれていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と金光寺 (京都市下京区) · 続きを見る »

金鑚神社

金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国五宮(一説に二宮)。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と金鑚神社 · 続きを見る »

金森 (守山市)

金森(かねがもり、金ヶ森とも)は、滋賀県守山市の集落地名。寺内町の初期形態として著名。.

新しい!!: 文明 (日本)と金森 (守山市) · 続きを見る »

金沢城

金沢城(かなざわじょう)は、石川県金沢市丸の内にあった日本の城である。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と金沢城 · 続きを見る »

金沢市

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地。旧石川郡および河北郡。1996年4月1日、中核市に指定された。.

新しい!!: 文明 (日本)と金沢市 · 続きを見る »

金沢町 (秋田県)

金沢町(かねざわまち)は秋田県の東南部に位置した町。後三年の役の古戦場として知られ、金沢柵などの史跡がある『角川日本地名大辞典』(1980)。昭和の大合併で横手市に編入され消滅。その後、北部が仙北郡仙南村に分市した。.

新しい!!: 文明 (日本)と金沢町 (秋田県) · 続きを見る »

金沢柵

金沢柵(かねざわさく、かねざわのき)は、出羽国に置かれた古代日本の城柵の1つ。後三年の役の舞台となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と金沢柵 · 続きを見る »

金春禅竹

金春 禅竹(こんぱる ぜんちく、応永12年(1405年) - 文明3年(1471年)以前)は室町時代の猿楽師、能作者である。童名は金春七郎、俗名は竹田氏信あるいは貫氏、法名は賢翁禅竹。金春大夫として活躍し、現在の金春流の中興の祖である。孫に金春禅鳳。.

新しい!!: 文明 (日本)と金春禅竹 · 続きを見る »

金春禅鳳

金春 禅鳳(こんぱる ぜんぽう、享徳3年(1454年) - 天文元年(1532年)?)は、室町時代後期の猿楽師。童名は金春八郎、俗名は竹田元安で法名は桐林禅鳳。当時を代表する猿楽師であったとともに、能作者、能楽論の著者としても知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と金春禅鳳 · 続きを見る »

長宗我部雄親

長宗我部 雄親(ちょうそかべ かつちか)は室町時代の武将。長宗我部文兼の子。 長宗我部氏の家督は父・文兼の隠居を受けて兄の元門が継いでいたが、文兼と元門は次第に対立して不仲となり、文兼は元門を追放して家督に復帰、雄親はその後に家督を継いだ。雄親は家督争いで混乱した長宗我部氏の内部をまとめるため、寺社勢力との関係強化や弟を他家に養子として出すことでの家臣団強化を図った。 文明10年(1478年)に雄親は死去し、跡を子の兼序が継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と長宗我部雄親 · 続きを見る »

長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.

新しい!!: 文明 (日本)と長宗我部氏 · 続きを見る »

長尾定景 (足利長尾氏)

長尾 定景(ながお さだかげ)は、室町時代後期の武士。山内上杉家の家臣である足利長尾氏2代当主。 長尾景人の嫡男として誕生。文明4年(1472年)に父の死により家督を継ぎ、主君である関東管領・上杉顕定の偏諱を受け「定景」と名乗るが、病弱であったらしく僅か3年で急死した。 このため、叔父・長尾房清の後見を受けた弟・景長が後を継いだ。 さたかけ Category:室町時代の人物 Category:15世紀生 Category:1475年没.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾定景 (足利長尾氏) · 続きを見る »

長尾忠景

長尾 忠景(ながお ただかげ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。総社長尾氏5代当主。山内上杉家の家宰。上野国・武蔵国守護代。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾忠景 · 続きを見る »

長尾為景

長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後国の戦国大名。越後守護代・越中国新河郡分郡守護代。上杉謙信の実父。米沢藩初代藩主・上杉景勝は外孫に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾為景 · 続きを見る »

長尾頼景

長尾 頼景(ながお よりかげ)は、室町時代前期から中期にかけての武士。越後国守護代。越後長尾氏4代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾頼景 · 続きを見る »

長尾顕忠

長尾 顕忠(ながお あきただ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。山内上杉家の家宰。総社長尾氏6代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾顕忠 · 続きを見る »

長尾顕景

長尾 顕景(ながお あきかげ)は、戦国時代の武将。高津長尾氏5代・総社長尾氏8代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾顕景 · 続きを見る »

長尾重景

長尾 重景(ながお しげかげ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。越後国守護代。越後長尾氏5代当主。上杉憲将の外玄孫で、長尾為景の祖父、上杉謙信の曽祖父に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾重景 · 続きを見る »

長尾房清

長尾 房清(ながお ふさきよ)は、戦国時代の武将。山内上杉家の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾房清 · 続きを見る »

長尾景人

長尾 景人(ながお かげひと)は、室町時代後期の武将。山内上杉家の家臣である足利長尾氏の祖。下野国勧農城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景人 · 続きを見る »

長尾景信

長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。山内上杉家の家宰。白井長尾氏4代当主。上野国・武蔵国守護代。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景信 · 続きを見る »

長尾景長

長尾 景長(ながお かげなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。山内上杉家の家宰。下野国足利庄勧農城主。画家としても知られている。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景長 · 続きを見る »

長尾景英

長尾 景英(ながお かげひで)は、戦国時代の武将。山内上杉家の家臣。白井長尾氏6代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景英 · 続きを見る »

長尾景棟

長尾 景棟(ながお かげむね)は、室町時代の武将。山内上杉家の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景棟 · 続きを見る »

長尾景春

長尾 景春(ながお かげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。白井長尾氏5代当主。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景春 · 続きを見る »

長尾景春の乱

長尾景春の乱(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。.

新しい!!: 文明 (日本)と長尾景春の乱 · 続きを見る »

長屋吉忠

長屋 吉忠(ながや よしただ)は、戦国時代の武将。毛利氏家臣。兄は同じく毛利氏家臣の長屋吉親。.

新しい!!: 文明 (日本)と長屋吉忠 · 続きを見る »

長岡氏

長岡氏(ながおかし)は、武家のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と長岡氏 · 続きを見る »

長島城

長島城(ながしまじょう)は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市長島町)にあった日本の城。長島藩の藩庁が置かれた。.

新しい!!: 文明 (日本)と長島城 · 続きを見る »

長島町 (岐阜県)

長島町(おさしまちょう)は、かつて岐阜県恵那郡にあった町である。 大井町とともに、現在の恵那市の中心地を構成する町の一つである。現在の地名は、長島町久須見、長島町正家、長島町永田、長島町中野、長島町鍋山である。.

新しい!!: 文明 (日本)と長島町 (岐阜県) · 続きを見る »

長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

新しい!!: 文明 (日本)と長享 · 続きを見る »

長享の乱

長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と長享の乱 · 続きを見る »

長井利隆

長井 利隆(ながいとしたか) / 斎藤 利隆(さいとう としたか、生没年不明)は、戦国時代の武将。父は斎藤利安『美濃国諸旧記』、または斎藤妙純『古代氏族系譜集成』の斎藤氏系図。法名は清康宗所『美濃明細記』。娘に氏家直元の母(氏家行隆室)。子は長井長弘。.

新しい!!: 文明 (日本)と長井利隆 · 続きを見る »

長井秀弘

長井 秀弘(ながい ひでひろ)は、戦国時代の武将。通称は七郎右衛門尉。越中守。子に長井長弘横山p.263。.

新しい!!: 文明 (日本)と長井秀弘 · 続きを見る »

長井館

長井館(ながいやかた)は、栃木県矢板市大字長井小字堀之内にあった日本の城(館城(平城))。.

新しい!!: 文明 (日本)と長井館 · 続きを見る »

長生寺

長生寺(ちょうしょうじ)は、山梨県都留市下谷に所在する寺院。曹洞宗の寺院で山号は大儀山。戦国期の郡内領主小山田氏、近世期の領主鳥居氏、谷村藩主秋元氏の菩提寺。 所在する都留市下谷は山梨県東部の郡内地方に位置する。近辺には郡内領主小山田氏の居館である中津森館跡や小山田氏の菩提寺である桂林寺、用津院などが分布している。.

新しい!!: 文明 (日本)と長生寺 · 続きを見る »

長瀬八幡宮

長瀬八幡宮(ながせはちまんぐう)は、愛知県岡崎市森越町にある神社。文化4年(1807年)建立の木造大鳥居で知られる神社であったが、大鳥居は1990年(平成2年)9月19日の台風19号により倒壊した。.

新しい!!: 文明 (日本)と長瀬八幡宮 · 続きを見る »

長谷寺 (鳴門市)

長谷寺(ちょうこくじ)は、徳島県鳴門市撫養町木津に位置する寺院である。山号は豊山。宗派は高野山真言宗。本尊は十一面観世音菩薩。新四国曼荼羅霊場第二番札所、阿波北嶺薬師霊場第十九番札所。 ご詠歌:いくちよも めぐみかわらぬ とよやまに ひかりかがやく のりのあさひは.

新しい!!: 文明 (日本)と長谷寺 (鳴門市) · 続きを見る »

長船町福岡

長船町福岡(おさふねちょう ふくおか)は、岡山県瀬戸内市の旧長船町域にある大字。 郵便番号は、701-4265である。.

新しい!!: 文明 (日本)と長船町福岡 · 続きを見る »

長興寺

長興寺(ちょうこうじ).

新しい!!: 文明 (日本)と長興寺 · 続きを見る »

長興寺 (田原市)

長興寺(ちょうこうじ)は、愛知県田原市大久保町にある曹洞宗の寺院である。戦国時代の国人領主・戸田氏の菩提寺として知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と長興寺 (田原市) · 続きを見る »

長野藤継

長野 藤継(ながの ふじつぐ)は、室町時代後期の武将。長野工藤氏11代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長野藤継 · 続きを見る »

長野藤直

長野 藤直(ながの ふじなお)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。長野工藤氏12代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長野藤直 · 続きを見る »

長野通藤

長野 通藤(ながの みちふじ)は、戦国時代の武士。長野工藤氏13代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と長野通藤 · 続きを見る »

長良川鵜飼

長良川鵜飼 長良川鵜飼(ながらがわうかい)とは、岐阜県岐阜市の長良川で毎年5月11日から10月15日まで行われる鵜飼である。中秋の名月と増水時を除く毎夜行われる。中秋の名月に行われないのは、篝火で驚かせた鮎を捕らえる鵜飼では、「月が明る過ぎると篝火の効果が薄れるため」といわれることもあるが、他の満月の際には催されるので、これは伝統的な公休と言える。 正倉院所蔵の大宝年間の戸籍から、1300年以上前、既に鵜飼いを生業とする集団が美濃国に居たと推測されている。起源は漁としての鵜飼だが、現在は古典漁法を今に伝える観光及び文化・宗教的行事としての鵜飼である。そのうち宮内庁の御料場で行われる8回の鵜飼は「御料鵜飼」と呼ばれ、獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮や伊勢神宮へも奉納される。 長良川における鵜飼は日本で唯一皇室御用の鵜飼であり、長良川の鵜匠は職名を宮内庁式部職鵜匠といい、長良川の鵜飼用具一式122点は国の重要有形民俗文化財、長良川鵜飼漁法は岐阜県指定重要無形民俗文化財である。また、鵜匠家に伝承する鮎鮓製造技術、長良川鵜飼観覧船造船技術、長良川鵜飼観覧船操船技術は岐阜市指定無形民俗文化財となっている。 なお、この鵜飼が行われる長良川中流域は1985年「名水百選」に、また岐阜市の長良橋から上流約1kmまでの水浴場が1998年環境省認定「日本の水浴場55選」に、2001年「日本の水浴場88選」に全国で唯一河川の水浴場で選定されるなどする清流である。.

新しい!!: 文明 (日本)と長良川鵜飼 · 続きを見る »

長楽寺 (名古屋市)

長楽寺(ちょうらくじ)は、愛知県名古屋市南区にある曹洞宗の寺。山号は稲荷山。.

新しい!!: 文明 (日本)と長楽寺 (名古屋市) · 続きを見る »

長楽寺 (白井市)

長楽寺(ちょうらくじ)とは千葉県白井市根にある天台宗の寺院。山号は六所山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と長楽寺 (白井市) · 続きを見る »

長浜 (横浜市)

長浜(ながはま)は、神奈川県横浜市金沢区の町名。長浜一・二丁目は住居表示実施済みで、丁目を設けていない部分は住居表示未実施である。郵便番号は236-0011。.

新しい!!: 文明 (日本)と長浜 (横浜市) · 続きを見る »

長教寺 (魚津市)

長教寺(ちょうきょうじ)は、富山県魚津市にある日蓮宗の寺院である。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。奠師法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と長教寺 (魚津市) · 続きを見る »

酬恩庵

酬恩庵(しゅうおんあん)は、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。枯山水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。.

新しい!!: 文明 (日本)と酬恩庵 · 続きを見る »

酒井氏

酒井氏(さかいし)は、日本の氏族のひとつ。三河国の在地領主から、徳川政権下で譜代大名となった氏族である。.

新しい!!: 文明 (日本)と酒井氏 · 続きを見る »

酒井氏忠

酒井 氏忠(さかい うじただ、生年不明 - 文明2年10月11日(新暦1470年11月3日))は室町時代の西三河地方の豪族で松平氏の武将。左衛門尉系酒井氏の初祖。松平親氏(太郎左衛門尉)の庶子といわれる酒井広親の子。系譜によれば嫡子として忠勝、兄弟に家忠がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と酒井氏忠 · 続きを見る »

酒々井町

酒々井町(しすいまち)は、千葉県の北部中央に位置し、印旛郡にある町。通勤率は、成田市へ21.0%、佐倉市へ11.3%、東京都特別区部へ11.2%(いずれも平成22年国勢調査)。 2010年、印旛村・本埜村の印西市編入により、印旛郡は栄町と酒々井町のみとなる。.

新しい!!: 文明 (日本)と酒々井町 · 続きを見る »

鉢屋衆

鉢屋衆(はちやしゅう)は祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団であり、兵役も務めた。鉢屋党とも。元は平将門の乱で反乱軍に加勢した飯母呂一族で、平将門の死後、全国に散った。この時飯母呂一族の多くは山陰へ逃れ鉢屋衆となった。筑波山へ逃れた一部の飯母呂一族は風魔衆になったと言われている。 文明18年(1486年)には、京極氏に月山富田城を追放された尼子経久の富田城奪還に従事した。月山山麓に住む鉢屋賀麻党は毎年元日に富田城で祝いの舞を演じることになっていた。経久はこれに目をつけ賀麻党の党首・鉢屋弥之三郎を味方につけた。 文明18年元日、午前3時ごろ、賀麻党七十余人は笛、太鼓でにぎやかに城の大手門をくぐった。みな烏帽子の中に兜をかむり、素襖の下に具足をつけ武器を隠し持っていた。城の中では武士も子供も舞の見物に集まった。その時にかねてより忍び込んでいた経久の一党は太鼓の合図に経ち城内各所で火を放ち乱入した。それにあわせ賀麻党も烏帽子を捨て見物に集まった人々に襲い掛かった。城主・塩冶掃部介は自刃して果て、こうして経久は富田城主に返り咲いた。 この功で弥之三郎は本丸の北にある鉢屋平に長屋を与えられて住み「やぐら下組」と呼ばれるようになった。以降、鉢屋衆は奇襲やだまし討ちで功を立てる。.

新しい!!: 文明 (日本)と鉢屋衆 · 続きを見る »

鉢形城

荒川と寄居町 本丸跡にある田山花袋漢詩碑 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。構造は連郭式平山城。.

新しい!!: 文明 (日本)と鉢形城 · 続きを見る »

若菜通

若菜通(わかなどおり)は兵庫県神戸市中央区の町名の一つで、区の中央部から東部にかけて、生田川左岸に位置する住宅・商業地域である。一~六丁目がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と若菜通 · 続きを見る »

若江城の戦い (室町時代)

若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明9年(1477年)10月9日に河内若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)にあった若江城で東軍と西軍が衝突した。.

新しい!!: 文明 (日本)と若江城の戦い (室町時代) · 続きを見る »

苗木遠山氏

苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。 鎌倉幕府の有力御家人であった加藤景廉の子孫の遠山昌利が、広恵寺城(現在の岐阜県中津川市福岡町の植苗木)から(1532年)に美濃国恵那郡高森(現在の岐阜県中津川市苗木町)に館を移し、恵那郡の木曽川以北と加茂郡の東部を支配したのが始まりであるが、昌利の子である遠山景徳に世継ぎが居なかったため、遠山氏の本家岩村遠山氏から、遠山直廉を養子として迎えた。遠山直廉は苗木城を築き活躍するが、死後は飯羽間遠山氏から遠山友勝を養子に迎え、その孫の遠山友政が初代苗木藩主となり、子孫は大名として存続し、明治になって子爵となる。.

新しい!!: 文明 (日本)と苗木遠山氏 · 続きを見る »

雨夜談抄

『雨夜談抄』(あまよだんしょう)とは、『源氏物語』の注釈書。.

新しい!!: 文明 (日本)と雨夜談抄 · 続きを見る »

雪舟

雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。 現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と雪舟 · 続きを見る »

雪江宗深

雪江宗深(せっこうそうしん、応永15年(1408年)- 文明18年6月2日(1486年7月3日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての臨済宗の僧。俗姓は野間氏。諱は宗深。道号は雪江。諡号は仏日真照禅師。摂津国の出身。妙心寺の六祖と仰がれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と雪江宗深 · 続きを見る »

雲際寺

雲際寺(うんさいじ)は、岩手県奥州市衣川区張山にある曹洞宗の寺院。山号は妙好山。源義経とその北ノ方(正妻)の位牌が安置されていた寺として知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と雲際寺 · 続きを見る »

雲龍院

雲龍院(うんりゅういん)は京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺別院。山号は瑠璃山で、本尊は薬師如来。西国薬師四十九霊場40番札所。泉山七福神巡り5番(大黒天)札所。.

新しい!!: 文明 (日本)と雲龍院 · 続きを見る »

雉子神社

雉子神社(きじじんじゃ)は、東京都品川区東五反田にある神社。.

新しい!!: 文明 (日本)と雉子神社 · 続きを見る »

逸見繁経

逸見 繁経(へんみ しげつね、生年不詳 - 文明2年7月19日(1470年8月15日))は、室町時代の武将。若狭の守護若狭武田氏被官逸見氏の一族。逸見真正の子とも弟ともいわれる。弾正忠と称す。.

新しい!!: 文明 (日本)と逸見繁経 · 続きを見る »

陰流

流(かげりゅう)は、室町時代、文明15年(1438年)頃、伊勢愛洲氏の一族の愛洲久忠(愛洲移香斎)が編み出した武術の流派で兵法三大源流の一つ。「陰之流」「愛洲陰之流」「猿飛陰流」「影流」とも。 なお流派名について「陰」ではなく「影」ともされる。また猿飛陰流は久忠の子と言われる愛洲元香斎小七郎が陰流に工夫を加えて名乗った流派とされている。新陰流系の流派に愛洲陰流を名乗る流派が複数系等存在する。.

新しい!!: 文明 (日本)と陰流 · 続きを見る »

陶弘護

陶 弘護(すえ ひろもり)は、室町時代の武将で大内氏重臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と陶弘護 · 続きを見る »

陶興房

陶 興房(すえ おきふさ)は、戦国時代の武将。周防国の戦国大名大内氏の重臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と陶興房 · 続きを見る »

陶氏

陶氏(すえし、すえうじ)は、日本の氏族の一つである。本姓は多々良氏。 主な系統としては周防国・長門国を中心に活動した守護大名大内氏傍流右田氏の一族が挙げられ、同時に譜代重臣でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と陶氏 · 続きを見る »

陽夫多神社

陽夫多神社(やぶたじんじゃ)は、三重県伊賀市馬場にある延喜式内社(小社)。.

新しい!!: 文明 (日本)と陽夫多神社 · 続きを見る »

陽願寺 (越前市)

陽願寺(ようがんじ)は、福井県越前市にある浄土真宗本願寺派の寺院である。 通称「御堂陽願寺みどう ようがんじ」。.

新しい!!: 文明 (日本)と陽願寺 (越前市) · 続きを見る »

陀々堂の鬼はしり

母鬼 子鬼 陀々堂の鬼はしり(だだどうのおにはしり)とは奈良県五條市大津町の念仏寺(ねんぶつじ)において室町時代から毎年1月14日(1957年〈昭和32年〉までは旧暦1月14日)に行われている修正会結願の行事である。1995年(平成7年)に国の重要無形民俗文化財に指定された。 鬼走りというのは、中国から伝わり宮中の年中行事となった追儺の行事を模倣した悪鬼と疫病を払う儀式で、追儺、鬼追いともいい各地に多く残されているが、陀々堂の鬼はしり行事の鬼は、追い払われる対象となる悪い鬼ではなく、阿弥陀如来に仕え災厄を除き福をもたらす善い鬼とされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と陀々堂の鬼はしり · 続きを見る »

押小路烏丸殿

押小路烏丸殿(おしこうじからすまどの)は、中世京都にあった邸宅の1つ。後に二条摂関家の邸宅を経て、本能寺の変の際に織田信忠が戦死した二条御所となる。現在の京都市中京区二条殿町及び御池之町、龍池町付近と考えられている。通称:二条殿。.

新しい!!: 文明 (日本)と押小路烏丸殿 · 続きを見る »

柏市

柏市(かしわし)は千葉県北西部の東葛地域に位置する市。中核市、業務核都市に指定されている。人口約42万人(2017年4月時点)で、千葉県内では松戸市に次いで第5位である。東京都特別区部への通勤率は42.3%(平成28年国勢調査)。.

新しい!!: 文明 (日本)と柏市 · 続きを見る »

柳原資綱

柳原 資綱(やなぎわら すけつな)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。柳原行光の子。官位は従一位・権大納言。柳原家5代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と柳原資綱 · 続きを見る »

柳営秘鑑

『柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)は、江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した書物。幕臣の菊池弥門著。寛保3年(1743年)に成立した。10巻。.

新しい!!: 文明 (日本)と柳営秘鑑 · 続きを見る »

柿並弘慶

柿並 弘慶(かきなみ ひろよし)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。父は大内教幸。兄弟に牛久山口氏の祖となった山口任世がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と柿並弘慶 · 続きを見る »

柿本神社 (明石市)

柿本神社(かきのもとじんじゃ)は兵庫県明石市人丸町にある神社。人丸山の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むものである。旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と柿本神社 (明石市) · 続きを見る »

枚方市

枚方市(ひらかたし)は、大阪府の北河内地域に位置する中核市である。人口は約40万人であり、大阪市、堺市、東大阪市に次いで府内第4位の人口を擁する京阪間の中心衛星都市でもある。 京都府・奈良県との府県境に位置し、2014年4月1日に中核市に移行した。京街道の宿場町であり、かつて北河内郡役所も置かれた北河内地域の中核的な都市として発展した。七夕伝説やひらかたパーク、また6つの大学、全国高校ラグビー大会の優勝校、バレーボールVリーグパナソニックパンサーズの本拠地がある。 市西部は京阪電気鉄道京阪本線、市東部はJR東西線で京橋・北新地・尼崎と結び、市中心部は国道1号、市東部には第二京阪道路が走っている。 平成の大合併で寝屋川市、交野市との合併が協議され、人口約70万人規模の京阪間の政令指定都市を模索した時期があった(「北河内市構想」)。京阪間のベッドタウンとして発展したが昼間の賑わいには乏しい3市が、一つになって、文化や産業の集まる核ができれば、住民の居住地への愛着が高まると期待されたが、住民側の要望が無く、北河内全体の協力関係の強化(例えば救急体制)を充実させ住民生活の向上を図っている。.

新しい!!: 文明 (日本)と枚方市 · 続きを見る »

林重緒

林 重緒(はやし しげお 生没年不詳)は室町時代の豪族。通称、林彦右衛門重緒。林家11代目(今井兼平からかぞえて)。尾張国春日井郡上条城主。孫に林盛重、祖父に林重之がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と林重緒 · 続きを見る »

枕草子絵詞

貴子、右の女性(後姿)は中宮定子画面説明は参考文献の『葉月物語絵巻・枕草子絵詞・隆房卿艶詞絵巻』による。以下も同じ。。 枕草子絵詞(まくらのそうしえことば)とは、『枕草子』を絵画化した絵巻物。個人蔵、重要文化財。枕草子絵巻(まくらのそうしえまき)ともいう。.

新しい!!: 文明 (日本)と枕草子絵詞 · 続きを見る »

枕投げ

枕投げ(まくらなげ)は、複数人で枕を投げ合う遊戯である。複数の参加者と、適当な広さの場所、十分な数の枕があれば実行できる。また、チームを組んで行うこともある。移動教室や修学旅行などの学校の宿泊行事で、しばしば教師の目を盗んで行われる。枕合戦とも呼ぶが、これはピローファイト(枕叩き)を意味する場合もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と枕投げ · 続きを見る »

掛川城

天守及び太鼓櫓 掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。.

新しい!!: 文明 (日本)と掛川城 · 続きを見る »

恵光寺 (八尾市)

恵光寺(えこうじ)は、大阪府八尾市にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。通称「萱振御坊」。.

新しい!!: 文明 (日本)と恵光寺 (八尾市) · 続きを見る »

捕鯨文化

捕鯨文化(ほげいぶんか)とは日本において捕鯨{鯨漁、古くは勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)という}を産業だけの枠に捉われず、捕鯨が盛んになるにつれ、日本人特有の畏怖や感謝の心根などから発生したとも言われ、偶然の捕鯨により鯨の利用がされた地域や捕鯨を生業にした地域において捕鯨や鯨に纏わる様々な信仰、伝統芸能、祭礼、絵画、書籍などが、各地域で発生し伝承され、現在においても育まれ地域振興として催されていることを指す。 日本で鯨は文化史や産業において「魚」であるため、以下の事項においては、魚として記載されている。日本以外でも捕鯨や鯨にまつわる文化や信仰と呼べるようなものが散見されるが、その文化において魚とするか、動物とするかは、その国の歴史による。 産業(資源利用)としての捕鯨については捕鯨、鯨骨、鯨油を参照。また捕鯨文化のうち、鯨料理に関する食文化や書籍については鯨骨、鯨肉を参照。 「巨鯨の背中に乗る宮本武蔵」:歌川国芳.

新しい!!: 文明 (日本)と捕鯨文化 · 続きを見る »

来迎寺 (守口市)

来迎寺(らいこうじ)は、大阪府守口市佐太中町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。.

新しい!!: 文明 (日本)と来迎寺 (守口市) · 続きを見る »

東向殿

東向殿(ひがしむきどの、文明3年(1471年)? - 永禄2年6月11日(1559年7月15日))は、戦国時代の女性。周防の戦国大名・大内義興の正室。.

新しい!!: 文明 (日本)と東向殿 · 続きを見る »

東坊城和長

東坊城 和長(ひがしぼうじょう かずなが、寛正元年(1460年)-享禄2年12月20日(1530年1月19日)は、室町時代・戦国時代の公卿。東坊城家。東坊城長清の長子。子に東坊城長淳など。日記に『和長卿記』、著書に『内局柱礎鈔』・『桂林遺芳抄』・『元号字抄』・『明応凶事記』・『永正九年若宮御元服記』など。.

新しい!!: 文明 (日本)と東坊城和長 · 続きを見る »

東坊城益長

東坊城 益長(ひがしぼうじょう ますなが、応永14年(1407年)-文明6年12月18日(1475年1月25日)は、室町時代の公卿。東坊城長遠の長子。子に東坊城長清(従三位参議)など。.

新しい!!: 文明 (日本)と東坊城益長 · 続きを見る »

東大寺続要録

東大寺続要録(とうだいじぞくようろく)は、鎌倉時代中期に編纂された東大寺の寺誌である。.

新しい!!: 文明 (日本)と東大寺続要録 · 続きを見る »

東大寺要録

東大寺要録(とうだいじようろく)は、平安時代後期に作成された東大寺の寺誌。10巻10章。.

新しい!!: 文明 (日本)と東大寺要録 · 続きを見る »

東大寺法華堂要録

東大寺法華堂要録(とうだいじほっけどうようろく)は、室町時代後期に東大寺法華堂の堂衆であった氏名不詳の僧侶による日記。原本は東大寺図書館所蔵。.

新しい!!: 文明 (日本)と東大寺法華堂要録 · 続きを見る »

東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.

新しい!!: 文明 (日本)と東寺 · 続きを見る »

東山殿御庭

『東山殿御庭』(ひがしやまどのおにわ)は、朝松健による短編小説。光文社文庫より発刊された、井上雅彦が監修する書き下ろしアンソロジー「異形コレクション」シリーズの中の一冊「黒い遊園地」(2004年4月20日刊行)に収録された。 その後、2006年には同作を表題作として、朝松が「異形コレクション」シリーズのために書き下ろした作品を集めた短編小説集が刊行された。同書は第58回日本推理作家協会賞短篇部門の候補に選ばれた。 「黒い遊園地」という名の示すとおり、遊園地ホラーの一作として書かれた作品。ただ、室町時代を舞台としているうえ、歴史ものと遊園地という西洋的なテーマをうまく融合させた物語であり、「黒い遊園地」の中では異彩を放っている。なお、ここでいう「東山殿御庭」とは京都の慈照寺(銀閣)のことである。.

新しい!!: 文明 (日本)と東山殿御庭 · 続きを見る »

東常縁

東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。生年については、応永12年(1405年)説、同14年(1407年)説もある。 東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と東常縁 · 続きを見る »

東郷氏 (薩摩国)

東郷氏(とうごうし)は、日本の氏族。相模国渋谷氏の庶流で、薩摩国発祥の一族。東郷別府(のちの薩摩郡東郷、現・鹿児島県薩摩川内市のうち旧東郷町及び旧下東郷村の区域)を本貫地とした。.

新しい!!: 文明 (日本)と東郷氏 (薩摩国) · 続きを見る »

東野村 (岐阜県)

東野村(ひがしのむら)は、かつて岐阜県恵那郡にあった村である。 平成の大合併以前の恵那市南東部に該当し、現在の恵那市東野である。 阿木川およびその支流(飯沼川、小野川)沿いの村であった。 中心地は村の北西部であるが、それ以外は標高400から800mの山に挟まれた谷あいの地域である。北東部には高原(根の上高原)がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と東野村 (岐阜県) · 続きを見る »

東陽英朝

東陽英朝(とうようえいちょう、1428年(正長元年) - 1504年10月2日(永正元年8月24日))は、室町時代の臨済宗の僧。大徳寺53世住持、妙心寺13世住持を務め、妙心寺四派の一つである聖沢派の開祖となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と東陽英朝 · 続きを見る »

東条国氏

東条 国氏(とうじょう くにうじ、生年不詳 - 文明8年(1476年)9月)は室町時代の武将。三河守護細川成之の守護代を務めた。近江守。.

新しい!!: 文明 (日本)と東条国氏 · 続きを見る »

東氏

東氏.

新しい!!: 文明 (日本)と東氏 · 続きを見る »

東漸寺 (古河市)

東漸寺(とうぜんじ)は、茨城県古河市仁連にある真言宗豊山派の寺院。猿島坂東三十三観音霊場の第8番である。.

新しい!!: 文明 (日本)と東漸寺 (古河市) · 続きを見る »

東漸寺 (松戸市)

東漸寺(とうぜんじ)は、千葉県松戸市小金にある枝垂桜で有名な浄土宗の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と東漸寺 (松戸市) · 続きを見る »

東本願寺

東本願寺(ひがしほんがんじ、Higashi Hongan-ji)は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称である。正式名称は、「真宗本廟正式名称…昭和62年(1987年)までは、「本願寺」が正式名称である。」である。 堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また、真宗大谷派(以降、大谷派)としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。 2016年現在の門首は、平成8年(1996年)に継承した大谷暢顯(淨如)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と東本願寺 · 続きを見る »

東昌寺 (茨城県五霞町)

東昌寺(とうしょうじ)は、茨城県猿島郡五霞町にある曹洞宗の寺院。山号は六国山。本尊は釈迦如来。 15世紀中頃に関宿城を築いたという簗田氏の菩提寺であり、楼門形式の大きな山門がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と東昌寺 (茨城県五霞町) · 続きを見る »

松原広長

松原 広長(まつばら ひろなが)は室町時代の武将。尾張国春日井郡今村城主(第2代目)。通称、松原下総守広長。父に松原一学、弟に松原元次がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と松原広長 · 続きを見る »

松平家広 (形原松平家)

松平 家広(まつだいら いえひろ、? - 元亀2年2月29日(1571年4月3日))は、戦国時代の武将。三河国の形原城(蒲郡市形原町東古城)主。幼名は佐太郎、又七郎。 15世紀末より(文明12年とされる)現在の蒲郡市形原に移った形原松平家第4代当主である。父は第3代松平親忠。正室・於丈の方(水野忠政の娘、於大の方の姉)との間に松平家忠をもうける。 父親忠は松平清康に従っていたが、清康の殺害(1535年の森山崩れ)後の織田信秀の安祥城(安城市安城町赤塚)攻め(1540年)や小豆坂の戦い(1542年)の際の動向は明らかでない。 通説では、妻の実家である水野氏が、今川氏から離反し織田氏に接近すると、主君の広忠と同様に妻を離縁したとされてきた。だが、於丈の方との子である家忠の誕生が、広忠の離縁よりも後であることから、水野氏との関係を維持して同氏や松平信孝(甥の広忠と対立していた)と結んで広忠に叛旗を翻していた可能性がある。また、天文16年(1547年)には今川義元が形原を奥平貞友に与えており、織田方に属していた家広が今川氏に形原を追われた可能性を示唆している。もっとも、弘治年間には家広は形原に復帰して今川氏に従っている。 桶狭間の戦い後、松平氏の当主である松平元康(後の徳川家康)が今川氏真から離反するとこれに従うが、深溝松平家の松平伊忠・康定との所領争いで不利な裁定が下されたことに不満を持った家広は永禄4年(1561年)に今川氏に降伏して離反してしまう。もっとも、同じ今川陣営に属した幡豆小笠原氏の小笠原広重らとの所領争いから同年のうちに再び元康に帰参している。 娘は鳥居元忠の妻。子は同家5代当主の松平家忠。孫の松平家信(紀伊守)は摂津国高槻藩を経て下総国佐倉藩主となる。 墓所は愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺。法名は元忠院殿仁誉孝呈道伯。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平家広 (形原松平家) · 続きを見る »

松平守家

松平 守家(まつだいら もりいえ、生没年不明)は、戦国時代の武将、竹谷松平家の初代。岩津の宗家松平信光の長男。通称は左京亮。法名は全長、あるいは全祐。三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)に分出し竹谷松平の祖となった。子に松平守親。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平守家 · 続きを見る »

松平忠景

松平 忠景(まつだいら ただかげ)は、室町時代中期から戦国時代の武士。松平信光の七男で、五井松平家の祖。 三河国宝飯郡五井(現在の愛知県蒲郡市五井町)に移り住み、五井松平家を称した。文明17年(1485年)死去。 たたかけ Category:戦国武将 Category:15世紀生 Category:1485年没.

新しい!!: 文明 (日本)と松平忠景 · 続きを見る »

松平元心

松平 元心(まつだいら もとむね、文明13年(1481年) - 永禄5年7月26日(1562年8月25日))は、戦国時代の武将。長勝。松平忠景の子で、五井松平家2代目である。松平信長は長男。 松平長親の命により額田郡深溝城主大場次郎左衛門を討取り、その戦功を弟の松平忠定に譲り、忠定は深溝松平家を発祥させる。永禄5年(1562年)、82歳で死去。葬地は愛知県蒲郡市五井の長泉寺。 もとむね Category:戦国武将 Category:1481年生 Category:1562年没.

新しい!!: 文明 (日本)と松平元心 · 続きを見る »

松平義春

松平 義春(まつだいら よしはる、生没年不詳)は戦国時代前期(15世紀末-16世紀前半)の武将。三河松平氏宗家5代松平長親(長忠・出雲守・道閲)の子で東条松平家の祖。右京亮、甚太郎(甚九郎とも)。 初め通称を甚太郎と称したとされるが同時代文書では未確認。江戸時代の大久保忠教著『三河物語』では甚太郎と表記されている。また、「松平右京亮義春」名では後世に記されたいくつかの史書・記録に見られるが、判物等の同時代文書では殆ど例を見ない。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平義春 · 続きを見る »

松平親忠

松平 親忠(まつだいら ちかただ)は、松平氏の第4代当主。第3代当主・松平信光の三男。母は一説によると一色氏。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平親忠 · 続きを見る »

松平親善

松平 親善(まつだいら ちかよし、文明17年(1485年) - 享禄4年3月13日(1531年3月31日))は、戦国時代の武将。竹谷松平家当主。通称、与二郎、玄蕃允。松平守親の長男。室は今川氏親の娘(のちに離縁、その後鵜殿長持室)。子に松平清善。法名は全長。 ちかよし Category:戦国武将 Category:1485年生 Category:1531年没.

新しい!!: 文明 (日本)と松平親善 · 続きを見る »

松平長親

松平 長親(まつだいら ながちか)は、戦国時代の武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平長親 · 続きを見る »

松平泰親

松平 泰親(まつだいら やすちか)は、室町時代初期(14世紀後半から15世紀初め頃)の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。.

新しい!!: 文明 (日本)と松平泰親 · 続きを見る »

松ヶ嶺城

松ヶ嶺城(まつがねじょう、まつがみねじょう)は、栃木県矢板市大字上太田小字古城にあった戦国時代の日本の城(山城)。岡本氏の居城。15世紀末期の築城、慶長2年(1597年)廃城。城下町の名をとり松小屋城、あるいは上太田城などとも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と松ヶ嶺城 · 続きを見る »

松田元藤

松田 元藤 (まつだ もとふじ) は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。備前国金川城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と松田元藤 · 続きを見る »

松田元成

松田 元成(まつだ もとなり)は、室町時代後期の武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と松田元成 · 続きを見る »

松田氏

松田氏(まつだし)は、相模国足柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族と、丹後を拠点とする桓武平氏流の奉行衆一族が知られている。室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、室町時代に幕臣として京都に存在した家系(近年、丹後守・若狭守・豊前守・対馬守流の奉行衆松田氏一族は平姓であり奉公衆の波多野氏一族とは全く別の家系であることが判明している)、小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系がある。 鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領にはJRの松田駅がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と松田氏 · 続きを見る »

松波城

松波城(まつなみじょう)は、石川県鳳珠郡能登町に存在した日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と松波城 · 続きを見る »

松浦弘定

松浦 弘定(まつら ひろさだ)は、戦国時代の武将。肥前国平戸松浦氏23代目当主。初名を「正」。.

新しい!!: 文明 (日本)と松浦弘定 · 続きを見る »

松浦党

松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。.

新しい!!: 文明 (日本)と松浦党 · 続きを見る »

松浦政 (相神浦松浦家)

松浦 政(まつら まさし)は、戦国時代の武将。肥前国大智庵城主。 父・松浦定が延徳4年/明応元年(1492年)に没すると、15歳で松浦氏嫡流である相神浦松浦氏の家督を継ぎ、相神浦、有田、今福、黒島、鷹島、佐世保を領有した。明応3年(1494年)に嫡男・親が誕生した。 明応7年(1498年)、政は狩猟の際の諍いから、家臣の山田四郎右衛門から怨まれることとなり、出奔した四郎右衛門・文左衛門兄弟は、平戸の松浦弘定の元へ行き、自分達が案内者となる代わりに政の討伐を依頼した。一度、定によって自領を追われた弘定にとっても、恨みを晴らす好機であり、この申し出を了承し大智庵城攻めを決定した。 同年11月2日、弘定と松浦興信父子は弘定の弟・大野定久に軍を率いらせ、四郎左衛門の案内で間道から大智庵城を急襲。城は一夜で落城し、政は脱出を図るも叶わず自刃。妻と子の幸松丸(後の親)も平戸へ人質として連行され幽閉された。.

新しい!!: 文明 (日本)と松浦政 (相神浦松浦家) · 続きを見る »

村山浅間神社

村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)は、静岡県富士宮市村山にある、神社。旧社格は県社。富士根本宮と号する。全国にある浅間神社の一社。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と村山浅間神社 · 続きを見る »

村上吉充 (3代)

村上吉充(むらかみよしみつ)は、15世紀後半の備後の武将。因島村上氏の3代当主。新蔵人。吉光。義光。2代当主村上吉資の子で4代当主村上吉直、村上吉房の父。曽孫にあたる6代当主村上又三郎吉充と同名のため3代をつける。.

新しい!!: 文明 (日本)と村上吉充 (3代) · 続きを見る »

村雨 (架空の刀)

村雨(むらさめ)は、江戸時代後期の読本『南総里見八犬伝』に登場する架空の刀。村雨丸(むらさめまる)とも呼ばれる。 『南総里見八犬伝』の登場人物である犬塚信乃(八犬士の一人)が用いる宝刀で、抜けば刀のつけ根(なかご)から露を発生させ、寒気を呼び起こす奇瑞がある。使い手の殺気が高ぶれば水気を増し、人を斬るときに勢いよく流れ刃の鮮血を洗いおとすありさまが、あるいは、振りかぶれば切っ先からほとばしる水のありようが、あたかも葉先(か梢)を洗う村雨(叢雨、驟雨のこと)のごとくなので、この名がある。 馬琴の作中では、「抜けば玉散る」第24回。、「三尺の氷」(現代の映像作品では「抜けば玉散る氷の刃」)などの形容がみられ、あるいは「邪を退け、妖を治め」る刀とも称されている第19回。。.

新しい!!: 文明 (日本)と村雨 (架空の刀) · 続きを見る »

村松山虚空蔵堂

村松山虚空蔵堂(むらまつさんこくうぞうどう)は茨城県那珂郡東海村にある真言宗豊山派の寺院。寺号は日高寺。本尊は空海(弘法大師)作の伝承をもつ虚空蔵菩薩である。三重県伊勢市の伊勢朝熊山金剛證寺及び福島県河沼郡柳津町の圓蔵寺とともに日本三大虚空蔵堂の一つとされる。地元では村松山の虚空蔵さんと呼ばれ親しまれているほか、茨城県北部や栃木県下では虚空蔵さんと言えば概して当寺を指す。.

新しい!!: 文明 (日本)と村松山虚空蔵堂 · 続きを見る »

杉弘相

杉 弘相(すぎ ひろすけ)は、日本の室町時代から戦国時代にかけての武将。通称は次郎左衛門尉。大内氏家臣で、安芸国東西条の代官を務める。子に杉興相。周防国の名族杉氏の一門(次郎左衛門家)であるが、その正確な系譜は不明。文献上「杉次郎左衛門」を名乗ったことが確認される最初の人物である。.

新しい!!: 文明 (日本)と杉弘相 · 続きを見る »

根来寺

根来寺(根來寺)(ねごろじ)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(興教大師)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と根来寺 · 続きを見る »

根津神社

表参道鳥居 根津神社(ねづじんじゃ)は、東京都文京区根津にある神社。旧社格は府社で、元准勅祭社(東京十社)。 古くは「根津権現」とも称された。.

新しい!!: 文明 (日本)と根津神社 · 続きを見る »

栗田城

栗田城(くりたじょう)は長野県長野市栗田にあった日本の城。堀之内城とも言われた。.

新しい!!: 文明 (日本)と栗田城 · 続きを見る »

栗田氏

栗田氏(くりたし、くりたうじ)は、日本の氏族の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と栗田氏 · 続きを見る »

栂野和泉守

栂野 和泉守(とがの いずみのかみ)は、室町時代後期の武将。実名は不明。朝倉氏の家臣。 栂野氏は越前国一乗谷の北西に位置する足羽川右岸の和田庄内・栂野村を出自とする地侍で、朝倉氏譜代の家臣。 和泉守は朝倉氏7代当主・朝倉孝景に仕え、越前平定に貢献した。文明3年(1471年)9月11日に、孝景が池田荘の池田勘解由左右衛門尉を攻めた際に討ち死にした。 なお和泉守の子孫であると思われる栂野吉仍(よしのり)は、朝倉義景の側近奏者、奉行衆として重用され、永禄5年(1562年)に行われた曲水の宴では詩歌を披露している。元亀元年(1570年)4月の出陣では、1000余騎を率いて出陣しているが、以後資料に名は見えず、朝倉氏滅亡後の動向は不明である。 Category:室町時代の人物 Category:越前国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1471年没.

新しい!!: 文明 (日本)と栂野和泉守 · 続きを見る »

桐生氏

桐生氏(きりゅうし)は、南北朝時代から戦国時代末期にかけて上野国東部山田郡桐生地方を本貫とした武家の一族。 平安時代末期にみえる桐生六郎を「前桐生氏」とし、これに対して本項目の桐生氏を「後桐生氏」と定義する見解が一般には流布する。一方で地方史研究の分野では、佐野氏との関連に着目して桐生佐野氏と定義する説が有力となっている。 なお近世成立の伝承・物語と、同時代史料に基づく研究結果でその動向が全く異なっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と桐生氏 · 続きを見る »

桶狭間

桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。 本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:320-321ページ、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。 他方、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように『桶狭間古戦場調査報告』:12ページ、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。.

新しい!!: 文明 (日本)と桶狭間 · 続きを見る »

桜島

桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12キロメートル (km)、南北約10 km、周囲約55 km、面積約77平方キロメートル (km2)の火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。.

新しい!!: 文明 (日本)と桜島 · 続きを見る »

桜井町 (富田林市)

桜井町(さくらいちょう)は、大阪府富田林市の町名である。一丁目・二丁目がある。郵便番号 584-0013。。 近世以降に喜志村を構成する一邑であった櫻井の区域を元とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と桜井町 (富田林市) · 続きを見る »

桜木神社 (文京区)

桜木神社(櫻木神社、さくらぎじんじゃ)は、東京都文京区本郷にある神社である。桜木(櫻木)天神とも称される。.

新しい!!: 文明 (日本)と桜木神社 (文京区) · 続きを見る »

桂林遺芳抄

桂林遺芳抄(けいりんいほうしょう)とは、室町時代後期・戦国時代前期の公卿・東坊城和長によって著された紀伝道に関する故実書。『群書類従』雑部所収。 和長は文明14年(1482年:23歳)に対策及第までの自身の経験と東坊城家に伝わる先例・記録を元にして、『桂蘂記(けいずいき)』と呼ばれる著作を著していたが、永正12年(1515年:56歳)になって子孫への教育のために改訂増補を行い、紀伝道一般に関する内容を記した書に改めたとされている。 古代から伝えられている紀伝道の先例・故実やその変遷、形骸化したとはいえ当時なお守られ続けてきた紀伝道の作法・手続などについて具体的に記載されている。古代・中世における紀伝道の歴史および室町・戦国期における家学・家業としての紀伝道を知る上で貴重な史料となっている。.

新しい!!: 文明 (日本)と桂林遺芳抄 · 続きを見る »

梅宮大社

梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社で、旧社格は官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「梅宮神社」。神紋は「橘」。.

新しい!!: 文明 (日本)と梅宮大社 · 続きを見る »

梅谷寺

梅谷寺(ばいこくじ)は、徳島県阿南市桑野町にある真言宗大覚寺派の寺院。 本尊は十一面観音菩薩。元は隣接する天神社の別当寺。.

新しい!!: 文明 (日本)と梅谷寺 · 続きを見る »

楠葉西忍

楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明18年2月13日(1486年3月18日))は、室町時代の商人。父は天竺人の「ヒジリ」。幼名はムスル。俗名(通称)は天次で、西忍は出家した後の号。もとは「天竺」を姓とした。 父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。ヒジリははじめ京都の三条坊門烏丸に居住し「有徳の者」と称されたが、将軍足利義持の勘気を受けて(詳細は不明)処罰される。西忍はのちに大和立野に移り住み、興福寺大乗院に奉仕する。 父の死後、大和の武将立野戌亥の娘(大乗院の坊主・実弾房宗信の妹)を娶る。永享元年(1429年)に長男の元次が誕生した。その他にも二男二女を得る。永享4年(1432年)はじめて遣明船にて明国へ渡航。享徳2年(1453年)二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の船の外官となり、息子元次を同行させた。南京を経て、首都北平(北京)まで赴き、直接貿易に関わり、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。 これらの西忍の交易活動は、帰国後興福寺に報告され、大乗院主尋尊によって『大乗院寺社雑事記』『唐船日記』などに詳細に記されており、当時の日明勘合貿易の実際を知る上での貴重な史料となっている。 晩年は大和古市に寓居し、文明18年に死去。享年92。.

新しい!!: 文明 (日本)と楠葉西忍 · 続きを見る »

楠葉関

楠葉関(くすはのせき/くずはのせき)は、中世に河内国交野郡楠葉(現在の大阪府枚方市楠葉)の淀川沿岸に設置された関所。.

新しい!!: 文明 (日本)と楠葉関 · 続きを見る »

楠木正虎

楠木 正虎(くすのき まさとら 永正17年(1520年) - 文禄5年1月11日(1596年2月9日))は、戦国時代から安土桃山時代の人物。足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。.

新しい!!: 文明 (日本)と楠木正虎 · 続きを見る »

楯縫神社 (美浦村郷中)

楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は、茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地(旧信太郡木原村)にある神社。古名は信太郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。美浦村信太にも同名の楯縫神社がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と楯縫神社 (美浦村郷中) · 続きを見る »

横川景三

横川景三(おうせんけいさん、永享元年(1429年) - 明応2年11月17日(1493年12月25日))は、室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)。後期五山文学の代表的人物。室町幕府8代将軍足利義政の側近、外交・文芸顧問。横川は道号で、法諱が景三。他に金華、小補、補庵、万年村僧などとも号する。.

新しい!!: 文明 (日本)と横川景三 · 続きを見る »

横地城

横地城(よこじじょう、またはよこちじょう)は、静岡県菊川市東横地にある日本の城跡。別名金寿城。城跡は2004年(平成16年)9月30日に「菊川城館遺跡群」の一部として国の史跡に指定されている(菊川城館遺跡群は高田大屋敷遺跡と横地氏城館群で構成されており、横地城跡は後者に属する)。.

新しい!!: 文明 (日本)と横地城 · 続きを見る »

横瀬国繁

横瀬 国繁(よこせ くにしげ)は、室町時代後期の武将。横瀬氏4代当主。岩松氏の重臣で筆頭家老。.

新しい!!: 文明 (日本)と横瀬国繁 · 続きを見る »

横瀬泰繁

横瀬 泰繁(よこせ やすしげ)は、戦国時代の武将。横瀬氏7代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と横瀬泰繁 · 続きを見る »

横瀬成繁 (室町時代)

横瀬 成繁(よこせ なりしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。横瀬氏5代当主。岩松氏の重臣で筆頭家老。.

新しい!!: 文明 (日本)と横瀬成繁 (室町時代) · 続きを見る »

横浜市の歴史

横浜市の歴史(よこはましのれきし)は、神奈川県横浜市の市域における歴史;自治体史。.

新しい!!: 文明 (日本)と横浜市の歴史 · 続きを見る »

橋本市

橋本市(はしもとし)は、和歌山県の北東端に位置する市である。.

新しい!!: 文明 (日本)と橋本市 · 続きを見る »

櫛橋伊家

櫛橋 伊家(くしはし これいえ)は、戦国時代の播磨国の武将。播磨志方城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と櫛橋伊家 · 続きを見る »

櫛橋則伊

櫛橋 則伊(くしはし のりこれ)は、室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と櫛橋則伊 · 続きを見る »

正宗 (曖昧さ回避)

正宗.

新しい!!: 文明 (日本)と正宗 (曖昧さ回避) · 続きを見る »

正宗龍統

正宗龍統(しょうじゅうりゅうとう、正長元年〈1428年〉 - 明応7年1月23日〈1498年2月14日〉)は、室町時代後期の臨済宗黄龍派の禅僧。山城国出身。父は東益之。兄に東氏数、東常縁がいる。別号に蕭庵。 建仁寺霊源院の瑞岩龍惺に預けられ、龍惺や伯父の江西龍派、叔父の慕哲龍攀などに師事する。他、希世霊彦から蒲室琉の講義を受け、四六文の修学に励んだ他、瑞渓周鳳から外学を教わった。文明9年(1477年)から翌年にかけて宗祇の種玉庵で三体詩の講釈を行い、三条西実隆も同席している。文明12年(1480年)、建仁寺の住職に就任。輪番制に基づき、1498年まで七往。1488年、南禅寺寺坐公文を受け、足利義政預修三十三回忌陞座仏事を担当。明応7年(1498年)、71歳で没。著書に『禿尾長柄帚』、『禿尾鉄苕帚』などがある。これらの蔵書は、「秘蔵蔵」と呼ばれる書庫に保管されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と正宗龍統 · 続きを見る »

正平地震

康暦碑。康暦2年(1380年)建立。正平地震による津浪犠牲者の供養碑とされる。徳島県美波町東由岐。 正平地震(しょうへいじしん)は室町時代前期(南北朝時代)に発生した南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)と呼称されることもある 石橋克彦(1999): 文献史料からみた東海・南海巨大地震, 地學雜誌, Vol.108, No.4石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会』岩波出版、2014年。 記録は南海道沖の地震と思われるものであるが、発掘調査や史料の解釈などにより東海道沖の地震も連動した可能性が提唱されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と正平地震 · 続きを見る »

正広

正広(しょうこう、1412年 - 1493年?)は、室町時代中期の僧・歌人。号は招月庵。法号ははじめ正晄・正晃と称した。日比(ひごろ)の正広とも称された。没年については1494年ともされる。 初め飛鳥井家のもとで歌道を学んだが、その後東福寺の清巌正徹の有心歌風に傾倒してその門弟になり、1459年(長禄3年)正徹がなくなると、招月庵を継いだ。応仁の乱(1466年-1476年)では難を避けるため京都を離れたが、師正徹の歌集である「草根集」の編纂や歌会の指導を行ったりしている。家集『松下集』があり、他に『正広詠歌』や文明5年(1473年)に駿河国に下った際の紀行文である『正広日記』等もある。 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:1412年生 Category:1493年没.

新しい!!: 文明 (日本)と正広 · 続きを見る »

正親町三条実興

正親町三条 実興(おおぎまちさんじょう さねおき、長禄元年(1457年)‐文明13年1月3日(1481年2月1日))は、室町時代の公卿。後花園天皇(102代)・後土御門天皇(103代)の二帝にわたり仕えた廷臣で官位は正四位上参議まで昇った。父は権大納言正親町三条公治。弟に内大臣正親町三条実望がいる。子に戸田実光がいる。 長禄2年(1458年)叙爵し、以降累進して侍従・右近衛権少将・下野権介・右近衛中将・蔵人頭をへて、文明12年(1480年)に参議となり、公卿に列したが、その翌年に薨去。享年25。.

新しい!!: 文明 (日本)と正親町三条実興 · 続きを見る »

正親町三条実望

正親町三条実望(おおぎまちさんじょう さねもち、寛正4年(1463年)‐享禄3年3月5日(1530年4月2日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたり仕えた廷臣で官位は正二位内大臣まで昇った。父は内大臣正親町三条公治。兄に参議正親町三条実興がいる。正室は今川義忠の娘。子息に内大臣正親町三条公兄。娘に西園寺実宣室がいる。初名は実統(さねすべ)。号は後慈光院(ごじこういん)。 文明11年(1479年)に叙爵。以降累進して、右近衛少将・右近衛権中将、蔵人頭を経て、延徳3年(1491年)には参議となり、公卿に列する。権中納言を経て、永正4年(1507年)に権大納言となる。将軍足利義澄の側近的な存在で相伴衆に任じられただけでなく、義澄と朝廷や管領細川政元との調停を行ったり、義澄のために奉書を作成したり、更に子の足利義晴を託される程であった。だが、永正の錯乱で義澄が将軍の地位を追われると、実望も身の危険を感じて一時妻の実家である駿河国今川氏を頼っている。今川家では駿河山西の稲葉荘を賄領として与えられており、実望の死後は領主不在となり、今川氏が甲斐武田氏と和睦・婚姻同盟を結んだ際に仲介した甲斐河内領の国衆である穴山信友に与えられている。 その後、永正12年(1515年)内大臣に任じられるもすぐに辞した。大永3年(1523年)に61歳で出家。芳名は盛空(じょうくう)。.

新しい!!: 文明 (日本)と正親町三条実望 · 続きを見る »

正親町三条家

正親町三条家(おおぎまちさんじょう け、旧字体:–三條–)、現在の嵯峨家は、大臣家の家格をもつ公家。藤原北家閑院流 三条家庶流。左大臣三条実房の三男公氏を家祖とする。 実房の長男公房が継承した嫡流三条家(転法輪三条家)と区別するために公氏流を正親町三条と呼ぶようになったものだが、この家名が定着するのは7代公豊の頃だと考えられている。「正親町」は邸宅が正親町東洞院に面していたことに由来する。なお家祖の公氏はこの正親町三条のほかにも、嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることもあった。このことを先例として、明治時代になると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛は、以後その家名を嵯峨家(さが け)と改めている。墓所は二尊院(京都市右京区)。 5代公秀の孫に崇光天皇と後光厳天皇、25代実同・26代公則の子孫に大正天皇がおり、現皇室に繋がる系譜である。.

新しい!!: 文明 (日本)と正親町三条家 · 続きを見る »

正親町三条公治

正親町三条 公治(おおぎまちさんじょう きんはる)は、室町時代から戦国時代の公卿。正親町三条家当主。 正親町三条実雅の子。叔母(実雅の妹)の尹子(ただこ)は室町幕府第6代将軍足利義教の正室となるなど、足利将軍家とのつながりが深く、義教が暗殺された嘉吉の乱(1441年)では、同席していた実雅も太刀を抜いて応戦したが負傷している(幸い一命は取り留めた)。子である公治が生まれたのはちょうどこの年である。 文安3年(1446年)、幼年にして叙爵。侍従・甲斐権介・右近衛少将・右近衛中将・下野権介・蔵人頭を経て、長禄2年(1458年)には参議となり、公卿に列する。その後、越前権守・讃岐権守・権中納言を経て、文明13年(1481年)に権大納言となり、延徳元年(1489年)まで務めた。 きんはる Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1441年生 Category:1495年没.

新しい!!: 文明 (日本)と正親町三条公治 · 続きを見る »

正長

正長(しょうちょう)は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年の期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

新しい!!: 文明 (日本)と正長 · 続きを見る »

武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。.

新しい!!: 文明 (日本)と武家伝奏 · 続きを見る »

武並村

武並村(たけなみむら)は、かつて岐阜県恵那郡にあった村である。 村名は武並神社に由来する。 中山道沿いの村であり、北端は木曽川に接する。.

新しい!!: 文明 (日本)と武並村 · 続きを見る »

武田信広

武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされることもあるが、実際には詐称とする説もある。また、陸奥国の南部氏の一族ともいわれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信広 · 続きを見る »

武田信縄

武田 信縄(たけだ のぶつな)は、戦国時代の甲斐国の守護大名・戦国大名。甲斐守護職・武田氏の第17代当主。武田信玄の祖父、武田勝頼の曾祖父。 室は実名不詳の崇昌院殿(広厳院殿)。父は不詳であるが、山梨郡の国人・栗原氏の娘とする説がある。天文14年(1545年)6月19日に死去しており、信縄の孫にあたる武田晴信(信玄)は弘治2年(1556年)11月に崇昌院殿の菩提を弔うために一宮郷(笛吹市一宮町)の地を同地の広厳院に寄進し、「崇昌院殿」の法名を「広厳院殿」と改めている。 側室に山梨郡岩下村(山梨市岩下)の地侍・岩下越前守の娘がいる。実名・生没年は不詳で、『菊隠録』によれば法名は「桂岩妙英大姉」。岩下氏は武田信虎の生母とする説がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信縄 · 続きを見る »

武田信親

武田 信親(たけだ のぶちか、長禄2年(1458年) - 文明17年(1485年)8月22日/永正11年(1514年)8月22日?)は、戦国時代の大名。若狭武田氏の第4代当主。官位は治部少輔。室町幕府若狭守護・御相伴衆。大膳大夫と称した。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信親 · 続きを見る »

武田信高

武田 信高(たけだ のぶたか、応永23年(1416年)- 文明12年(1480年))は、室町時代の武将で上総武田氏第2代当主。。武田信興(真里谷家)、武田道信(庁南家)らの父。上総介。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信高 · 続きを見る »

武田信賢

武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代の武将、守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。若狭武田氏第2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信賢 · 続きを見る »

武田信長

武田 信長(たけだ のぶなが、生年不詳 - 文明9年(1477年)?)は、室町時代中期の武将。甲斐における国人領主。甲斐守護武田信満の次男で武田信重の弟、武田信元の甥に当たる。母は小山田氏の娘か。官位は右馬助。悪八郎、豊三と称したという。子に伊豆千代丸(信高?)、上総介(道信?、道卜?)、清嗣、某、宮内少輔、里見義実室、築田持助室がいる。上総武田氏の祖にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信長 · 続きを見る »

武田信昌

武田 信昌(たけだ のぶまさ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名(戦国大名)。甲斐守護。本姓は源氏。家系は甲斐源氏の嫡流武田氏で武田宗家である甲斐武田氏第16代当主。武田信玄の曾祖父。 第15代当主武田信守(弥三郎)の子。正室は河内領主穴山信介の娘(兄弟に穴山信懸)。子に信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、娘(小笠原清宗妻)など。『寺記』によれば諸角昌清(虎定)と山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子であるとされるが、真翁宗見に関しては武蔵国の岡部氏の出自であるため、誤伝であることが指摘される。通称は五郎、落合殿。官位は刑部大輔、従五位下。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田信昌 · 続きを見る »

武田信景

武田 信景(たけだ のぶかげ).

新しい!!: 文明 (日本)と武田信景 · 続きを見る »

武田元信

武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。若狭武田氏の第5代当主。武田国信の次男。妻は伊勢貞祐(政所執事伊勢貞宗の弟)の娘。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田元信 · 続きを見る »

武田元綱

武田 元綱(たけだ もとつな)は、室町時代から戦国時代の武将。安芸武田氏当主武田信繁の四男で、信栄、信賢、国信の弟。元繁の父。安芸佐東銀山城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と武田元綱 · 続きを見る »

武田国信

武田国信(たけだ くにのぶ).

新しい!!: 文明 (日本)と武田国信 · 続きを見る »

武衛騒動

武衛騒動(ぶえいそうどう)とは、寛正6年(1465年)に発生した室町幕府の内紛のことである。 将軍家家宰の伊勢貞親は8代将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して文正元年(1466年)に貞親を幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。 また、当時関東で反抗していた古河公方足利成氏征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の堀越公方足利政知は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の甲斐常治と合戦に及んで廃嫡されると(長禄合戦)、義敏の子松王丸を家督とした。しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。 ところが、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と季瓊真蘂、義敏や赤松政則を追放、計画は失敗した。 後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は文明元年(1469年)に、貞親は文明5年(1473年)に世を去る。 category:室町時代の事件 category:斯波氏 Category:1465年の日本.

新しい!!: 文明 (日本)と武衛騒動 · 続きを見る »

比都佐神社

比都佐神社(ひつさじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町十禅師にある神社である。旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と比都佐神社 · 続きを見る »

毛利弘元

毛利 弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての、安芸国国人領主、毛利氏当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と毛利弘元 · 続きを見る »

毛利豊元

毛利 豊元(もうり とよもと)は、室町時代の安芸国の国人。毛利氏当主。備後守護山名是豊の麾下として、河内・紀伊を転戦した。「豊元」の名も山名是豊から偏諱を受けて名乗ったもの。.

新しい!!: 文明 (日本)と毛利豊元 · 続きを見る »

毛利貞元

毛利 貞元(もうり さだもと、生年不詳 - 延徳元年(1489年)11月)は因幡国の国人で同国私部城城主、官職は民部大輔、通称は次郎。.

新しい!!: 文明 (日本)と毛利貞元 · 続きを見る »

毛利次郎の乱

毛利次郎の乱(もうりじろうのらん)は、文明11年(1479年)と長享元年(1487年)7月の二度にわたって因幡の国人毛利貞元(次郎)が守護山名氏に対して起こした反乱。.

新しい!!: 文明 (日本)と毛利次郎の乱 · 続きを見る »

水口神社 (甲賀市)

水口神社(みなくちじんじゃ)は、滋賀県甲賀市水口町宮の前にある神社である。式内社で、旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と水口神社 (甲賀市) · 続きを見る »

水島諸島

水島諸島(みずしましょとう)は、岡山県倉敷市沖の瀬戸内海・水島灘にある島嶼群である。備讃諸島(びさんしょとう)の一部にあたる。南に塩飽諸島、西に笠岡諸島がある。 児島(下津井)沖にあるものは児島諸島(こじましょとう)又は下津井諸島(しもついしょとう)と呼ばれることもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と水島諸島 · 続きを見る »

水ヶ江城

水ヶ江城(みずがえじょう)とは、肥前国に存在した城郭。.

新しい!!: 文明 (日本)と水ヶ江城 · 続きを見る »

水谷氏

水谷氏(みずのやし)は、藤原北家秀郷流近藤氏の氏族。日本の戦国時代から江戸時代初期の結城氏の重臣、特に結城四天王として数えられる水谷勝俊の一族がある。江戸時代には結城氏から独立して大名となるが、嗣子がなく廃絶。庶子が旗本として家名を残した。.

新しい!!: 文明 (日本)と水谷氏 · 続きを見る »

水野義純

水野 義純(みずの よしずみ、文明6年(1474年)?) - 天文18年8月3日(1549年8月25日))は室町時代の武将。通称は左兵衛尉。子に水野義利.

新しい!!: 文明 (日本)と水野義純 · 続きを見る »

水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と水野氏 · 続きを見る »

水海城

水海城(みずうみじょう、みずみじょう)は、下総国葛飾郡水海(現在の茨城県古河市)にあった中世日本の城。古河公方重臣・簗田氏の居城のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と水海城 · 続きを見る »

氷川神社 (中野区東中野)

氷川神社 (ひかわじんじゃ)は東京都中野区東中野一丁目にある神社。旧中野村の総鎮守社。.

新しい!!: 文明 (日本)と氷川神社 (中野区東中野) · 続きを見る »

氷川神社 (中野区沼袋)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、東京都中野区沼袋にある神社。沼袋氷川神社とも言われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と氷川神社 (中野区沼袋) · 続きを見る »

氷川神社 (練馬区氷川台)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、東京都練馬区氷川台にある神社。通称「大氷川」。祭神は須佐之男命。毎年、4月と9月に祭事が行われる。氷川台の町名はこの神社に由来する。.

新しい!!: 文明 (日本)と氷川神社 (練馬区氷川台) · 続きを見る »

氷川神社 (東京都港区元麻布)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は東京都港区元麻布にある神社である。同区内赤坂にある赤坂氷川神社・白金にある白金氷川神社と区別するため麻布氷川神社とも称される。麻布地区の鎮守。.

新しい!!: 文明 (日本)と氷川神社 (東京都港区元麻布) · 続きを見る »

氷上姉子神社

氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)は、愛知県名古屋市緑区大高町火上山にある神社。式内社で、旧社格は郷社。現在は熱田神宮の境外摂社。 「氷上山(火上山)」と称される丘陵上に鎮座し、熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎された地といわれる。地元では「お氷上さん」と呼ばれ信仰されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と氷上姉子神社 · 続きを見る »

永平寺

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。.

新しい!!: 文明 (日本)と永平寺 · 続きを見る »

永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

新しい!!: 文明 (日本)と永享 · 続きを見る »

永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

新しい!!: 文明 (日本)と永正 · 続きを見る »

永正の内訌 (下野宇都宮氏)

永正の内訌(えいしょうのないこう)は、戦国時代初期の永正3年(1506年)、下野宇都宮氏17代当主の宇都宮成綱と筆頭重臣芳賀高勝両名が政治方針を巡っての対立が原因で起こった宇都宮錯乱の発端となる下野宇都宮氏の内訌である。.

新しい!!: 文明 (日本)と永正の内訌 (下野宇都宮氏) · 続きを見る »

江古田・沼袋原の戦い

江古田・沼袋原の戦い(えごた・ぬまぶくろはらのたたかい)は室町時代後期の文明9年4月13日に武蔵国江古田原・沼袋(現在の東京都中野区江古田・沼袋付近)で太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦。長尾景春の乱での戦いのひとつ。なお、当時唯一の記録である『太田道灌状』には戦場となった場所が「江古田原」と記されており、のちにこれを下敷きに書かれた『鎌倉大草紙』で「江古田原沼袋」となっていることから、研究者の間では一般に「江古田原合戦」と呼ばれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と江古田・沼袋原の戦い · 続きを見る »

江川崎

四万十川 江川崎の広見川 江川崎のメインストリート 江川崎中心部 江川崎(えかわさき)は高知県四万十市北部にある地域。旧幡多郡西土佐村に所在する。本項では、同地域に存在した江川崎村(えかわさきむら)についても記述する。「人口統計月報」による2013年7月1日現在の江川崎地区の世帯数は672世帯、人口は1,590人である。 2013年(平成25年)8月12日に、江川崎のアメダスで最高気温41.0℃を観測、日本の最高記録を更新した。.

新しい!!: 文明 (日本)と江川崎 · 続きを見る »

江美城

江美城(えびじょう)は鳥取県日野郡江府町にあった戦国時代の日本の城。江尾城、江尾要害とも記される。.

新しい!!: 文明 (日本)と江美城 · 続きを見る »

江田神社 (宮崎市)

江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社。式内社で、旧社格は県社。.

新しい!!: 文明 (日本)と江田神社 (宮崎市) · 続きを見る »

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸 · 続きを見る »

江戸城の乱

江戸城の乱(えどじょうのらん)とは、室町時代後期の文明18年(1486年)の冬に起きたと推定される事件。太田道灌を謀殺した上杉定正が、道灌の居城である江戸城に拠る嫡男太田資康を追放した事件。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸城の乱 · 続きを見る »

江戸崎不動院

江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、茨城県稲敷市江戸崎にある、天台宗の寺院。山号は医王山。寺号は東光寺。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸崎不動院 · 続きを見る »

江戸通長

江戸 通長(えど みちなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。常陸江戸氏4代当主。常陸国水戸城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸通長 · 続きを見る »

江戸通雅

江戸 通雅(えど みちまさ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。常陸江戸氏5代当主。常陸国水戸城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸通雅 · 続きを見る »

江戸通泰

江戸 通泰(えど みちやす)は、戦国時代の武将。常陸江戸氏6代当主。常陸国水戸城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と江戸通泰 · 続きを見る »

池坊専応

いけ花発祥の地モニュメント、背景の文書は池防専応口伝の冒頭、六角堂、京都市中京区 池坊専応(いけのぼう せんおう、文明14年(1482年) - 天文12年(1543年))は、戦国時代の京都頂法寺(六角堂)の僧・立花師。 天文年間(1532年 - 1555年)頃、立花の流派池坊を造形芸術にまで高めて、立花の体系化をはかり、池坊が立花界の主流となるきっかけを作った。晩年の口伝書「池坊専応口伝」は代々継承され、池坊華道の基本となるものとして「大巻」の名で呼ばれ、現在でも門弟に授けられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と池坊専応 · 続きを見る »

池坊専慶

池坊 専慶(いけのぼう せんけい、生没年不詳)は、室町時代中期の京都頂法寺(六角堂)池坊の僧侶。小野妹子の末裔とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と池坊専慶 · 続きを見る »

池田城 (摂津国)

池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市にあった日本の城。建武元年(1334年)前後に現在の池田市にある五月山南麓の丘陵地に、豊島の土着豪族池田教依が築き、代々池田氏が城主を務めた。現在は「城跡の歴史を感じられる憩いの場」として池田城跡公園が整備されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と池田城 (摂津国) · 続きを見る »

池氏

池(いけ)氏は、日本の姓氏のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と池氏 · 続きを見る »

沢村城

沢村城(さわむらじょう)は、栃木県矢板市大字沢村にあった日本の城(山城)。文治3年(1187年)築城、天正18年(1590年)廃城。.

新しい!!: 文明 (日本)と沢村城 · 続きを見る »

河原山城の戦い

河原山城の戦い(かわらやまじょうのたたかい)は天正13年(1585年)7月に伯耆国汗入郡の河原山城で起きた戦い。伯耆国における中世最後の戦いといわれる。一部の書籍では香原山城の戦いともいわれる。『陰徳太平記』では南条元続が河原山城を直接攻撃したと書かれているが元続は実際に出兵を行ってはいない。.

新しい!!: 文明 (日本)と河原山城の戦い · 続きを見る »

河内十七箇所

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。.

新しい!!: 文明 (日本)と河内十七箇所 · 続きを見る »

河内長野市

河内長野市(かわちながのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。 この市は、1954年(昭和29年)に長野町をはじめとする6町村が合併しており、市の中心部に対しては旧町名を用いて長野と呼称される。南部の山麓地域では奥河内という観光名称が使われ、滝畑四十八滝や岩湧山などの大自然、観心寺や金剛寺、高野街道などの歴史的価値のある史跡や建造物が残る。楠木氏ゆかりの地としても知られており国宝・重要文化財数に関しては全国の市町村のうち日光市に次いで12番目に多い自治体であることから「文化財のまち 河内長野」と称される。 大阪都心まで約30分、関西国際空港へは約1時間という交通至便の地にありながら、市を囲む山並みは壮観で、市内に居ながらにして大自然を満喫できることなどから、市制施行以降、市内各地にニュータウン(新興住宅地)が造成され、衛星都市として発展してきた。 週刊東洋経済の「日本のいい街ランキング」によると2012年発表の総合ランキングで全国788市中149位(大阪府内33市中8位)と2010年の288位より大きく順位を上げた。同誌の「安全・安心な街ランキング」においては、大阪府内で第1位を記録している。 市内全域において10月2週目にはだんじり祭が盛んに行われており、ぶんまわし(全地区)や、曳き歌(市町東、向野町、三日市地区)、やりまわし(三日市地区)などの泉州や南河内など様々な形態の祭りが盛んに行われている。 また、河内長野市は、爪楊枝(つまようじ)の産地としても知られており、全国の爪楊枝の生産の大半がここ河内長野で行われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と河内長野市 · 続きを見る »

河野円城寺

河野円城寺(かわのえんじょうじ)は、岐阜県羽島郡笠松町にある真宗大谷派の寺院である。同派岐阜教区第三組に所属する。山号は葉栗山。円城寺、圓城寺、河野圓城寺ともいう。 河野九門徒の寺院の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と河野円城寺 · 続きを見る »

河野西入坊

河野西入坊(かわのさいにゅうぼう)は、岐阜県各務原市にある真宗大谷派の寺院である。同派岐阜教区第三組に所属する。 地元の人々には「蓮如さま」(れんにょさま)の愛称で親しまれている。河野西入坊に伝わる「蓮如上人寿像」は各務原市の有形文化財に指定されている。また上人の杖にしていた銀杏の木が根付いたといわれる樹高30m以上、幹周り4m以上、樹齢500年を越すといわれる「西入坊境内大銀杏」は各務原市の天然記念物に指定されている。 河野九門徒の寺院の一つである。.

新しい!!: 文明 (日本)と河野西入坊 · 続きを見る »

河野通春

河野 通春(こうの みちはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。伊予守護。居城は港山城。河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。 当初は細川氏の支持を受け、嘉吉の乱後、幕府からの命令を引き出して又従兄弟で本家の河野教通を討とうとするが、教通には吉川経信や小早川盛景の援軍があったため、うまく進まなかった。文安6年(1449年)に伊予守護に就任したが、翌年に教通に交替、享徳2年(1453年)に守護職に再任されたが、享徳4年(1455年)に細川勝元に交替させられた。 長禄3年(1459年)に3度目の伊予守護職に補任されたが、寛正3年(1462年)に勝元の同族の阿波守護細川成之と戦い勝元と対立、寛正5年(1464年)には伊予の混乱を見た勝元の軍勢が攻め込んで来たため危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも子の大内政弘の援助を受けた。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた教通が勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)にも教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。その後も教通と抗争を繰り返しながら、文明14年(1482年)閏7月14日に港山城で病没した。子の通篤が後を継いだが、本家に対抗出来ず没落していった。 通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因を成した。.

新しい!!: 文明 (日本)と河野通春 · 続きを見る »

河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と河野教通 · 続きを見る »

油倉

油倉(あぶらくら)とは、寺院で用いられる燈油を保管貯蔵するための倉庫。燈油の調達のための経済活動を行うこともあった。 東大寺の油倉は多くの関連史料が残されていることから今日でも研究対象とされることが多い。東大寺の場合には、封戸から上納される燈油を保管するための倉庫として古くから存在したと考えられ、『平家物語』には重源が平宗実を匿った場所とされている(ただし、史実かどうかは不詳)。南都焼討後の東大寺再建事業の過程で、勧進職が油倉の運営に関わるようになり、勧進に関わっていた蓮実(西迎房)による整備によって嘉禎年間には独自の機関としての油倉が成立した。また、その少し前の天福元年(1233年)以降、米や材木など東大寺の勧進・運営に関わりのあるその他の物資の調達・管理についても関わるようになる。油倉は東大寺領の荘園から納められた油、備前国池田荘に代表される油倉直轄の荘園から「油料」の名目で納められた年貢、こうした油料を元にして奈良符坂にあった符坂油座(興福寺大乗院傘下)から調達した油が主な収入であり、更には余剰の年貢である米銭を田畑の買得や貸付などの形で投資をしたり、他の東大寺領や兵庫関などの関所の運営を請負ったりすることで更なる経済的利益を追及している。もっとも、こうした活動も室町時代後期の社会的混乱の中で衰頽し、応仁の乱後の文明年間には活動を停止している。油倉の施設は江戸時代までは油倉を監督する上司倉とともに大仏殿の東北側にあったが、今日では移築されて、油倉は東大寺の本坊経庫(国宝)、上司倉は手向山八幡宮の宝庫(重要文化財)に転用されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と油倉 · 続きを見る »

沼田氏

沼田氏(ぬまたし)は、日本の氏族。主な流れとして次の一族がある.

新しい!!: 文明 (日本)と沼田氏 · 続きを見る »

沼袋

沼袋(ぬまぶくろ)は、東京都中野区の地名。現行行政地名は沼袋一丁目から沼袋四丁目。郵便番号は165-0025。.

新しい!!: 文明 (日本)と沼袋 · 続きを見る »

波多野全慶

波多野 全慶(はたの ぜんけい)は、室町時代の武将。全慶は法名。実名は時政。三河国国人。宝飯郡大沢城(愛知県豊川市御津町)城主。 時政(全慶)は、三河の有力氏族一色氏の一族である宝飯郡一色城主・一色時家の被官であったが、文明9年(1477年)に謀反を起こし、時家を滅ぼした。 明応2年(1493年)、時政は同じく時家の被官であった牧野成時と灰塚野(灰野原)で戦うも、敗死する。 せんけい Category:室町時代の人物 Category:三河国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1493年没.

新しい!!: 文明 (日本)と波多野全慶 · 続きを見る »

泰岳寺

泰岳寺(たいがくじ)は愛知県春日井市上条町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は寶雲山。.

新しい!!: 文明 (日本)と泰岳寺 · 続きを見る »

法勝寺城

法勝寺城(ほっしょうじじょう)は鳥取県西伯郡南部町法勝寺に存在した日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と法勝寺城 · 続きを見る »

法華寺 (姫路市)

法華寺(ほっけじ)は、兵庫県姫路市五軒邸にある日蓮宗の寺院で山号は大乗山。通称六条門流播磨本山。旧本山は京都市の大本山本圀寺(六条門流)、親師法縁・筵師法縁。境内には寛延年間(1748年-1751年)の市川大洪水による溺死者供養塔(姫路市指定史跡)がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と法華寺 (姫路市) · 続きを見る »

法華寺 (姫路市御国野町御着)

法華寺(ほっけじ)は、兵庫県姫路市御国野町御着にある日蓮宗の寺院で山号は大乗山である。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)、達師法縁(繁珠会)。市内には同名寺院がある。付近には黒田官兵衛ゆかりの御着城跡、播磨国分寺、播磨国分尼寺の徳証寺などがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と法華寺 (姫路市御国野町御着) · 続きを見る »

法華寺尊順

法華寺 尊順(ほっけじ そんじゅん、応永6年(1399年) - 文明11年9月4日(1479年9月19日))は、室町時代前期の女性で尼僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の娘。同第4代将軍・足利義持や同第6代将軍・足利義教らの妹。.

新しい!!: 文明 (日本)と法華寺尊順 · 続きを見る »

法華院温泉

法華院温泉の湯船 法華院温泉(ほっけいんおんせん)は、大分県竹田市久住町(旧国豊後国)にある温泉である。.

新しい!!: 文明 (日本)と法華院温泉 · 続きを見る »

法蔵寺 (彦根市)

法蔵寺 獅子吼山法蔵寺(ししくざん ほうぞうじ)は、滋賀県彦根市にある浄土真宗本願寺派寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と法蔵寺 (彦根市) · 続きを見る »

法持寺

法持寺(ほうじじ)は、愛知県名古屋市熱田区にある曹洞宗の寺院。 山号は白鳥山(はくちょうざん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と法持寺 · 続きを見る »

泉龍院 (新城市)

泉龍院(せんりゅういん)は、愛知県新城市にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。三河白寿観音第12番札所。徳川家康逝去後に建立された東照軒にて東照大権現を奉祀。徳川将軍家代々の位牌を開山堂内に安置し奉祀。野田城主菅沼氏代々の墓碑を祀る。.

新しい!!: 文明 (日本)と泉龍院 (新城市) · 続きを見る »

洞院家

洞院家(とういんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・西園寺家庶流。西園寺公経の男実雄を家祖とし、鎌倉時代から室町時代にかけて存続した。 分家に羽林家の家格を有し、明治時代に華族に列した小倉家・正親町家がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と洞院家 · 続きを見る »

洞昌院 (伊勢原市)

洞昌院(とうしょういん)は神奈川県伊勢原市上粕屋にある曹洞宗の寺院。 境内には、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌の胴塚とされる宝篋印塔がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と洞昌院 (伊勢原市) · 続きを見る »

津田武永

津田 武永(つだ たけなが)/織田 寛近(おだ とおちか/ひろちか、生没年不詳)は、戦国時代の武将である。諱は武衛(ぶえい)とも。通称は与十郎。法名は宗伝。官位は遠江守。尾張岩倉城の守護代「織田伊勢守家」の一族。父は木ノ下城主織田広近。兄に尾張上四郡守護代の織田寛広。弟に織田広忠。子に岡田時常室。織田信康は養子とも。尾張川村北城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と津田武永 · 続きを見る »

津高地域

津高(つだか)は、岡山県岡山市北区にある広域地域である。かつての御津郡津高町(つだかちょう)にあたる。本項では同町についても記す。.

新しい!!: 文明 (日本)と津高地域 · 続きを見る »

深江本町

深江本町(ふかえほんまち)は、神戸市東灘区の町名。旧・本庄村域(本庄地区)のうち旧・深江村域の阪神本線以南・国道43号以北に相当する範囲。平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数は2,206、人口4,608で内男性2,293人・女性2,315人。.

新しい!!: 文明 (日本)と深江本町 · 続きを見る »

淀古城

淀古城(よど こじょう)は、京都府京都市伏見区納所(のうそ)北城堀にあった日本の城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、3面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。.

新しい!!: 文明 (日本)と淀古城 · 続きを見る »

渡田

渡田(わたりだ)は、神奈川県川崎市川崎区の町名『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』、p.941。。渡田一丁目から渡田四丁目があり、1970年(昭和45年)7月1日に住居表示が施行されている。郵便番号は210-0837。2010年の国勢調査時点での面積は31.00 ha。 なお、渡田の周囲に「渡田」を冠した町名(渡田山王町・渡田新町・渡田東町・渡田向町・南渡田町)が存在するが、これらは渡田から分立したものである(後述)。.

新しい!!: 文明 (日本)と渡田 · 続きを見る »

温故知新書

温故知新書(おんこちしんしょ)は、室町時代後期の文明16年(1484年)に成立した国語辞典。著者は新羅社宮司大伴泰広(大伴広公)。序文は園城寺学侶尊通による。全2巻(3冊)。 所収語数は約13,000。いろは順が一般的であったこの時代に五十音順を採用した最古のものといわれている。 まず語頭の音で五十音順の50の「部」に分け、更に分野・部門別に12の「門」に分けられている。 現在は、尊経閣文庫に写本が伝わるのみである。影印本が2000年に刊行された。.

新しい!!: 文明 (日本)と温故知新書 · 続きを見る »

清原宣賢

清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。.

新しい!!: 文明 (日本)と清原宣賢 · 続きを見る »

清凉寺

清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。.

新しい!!: 文明 (日本)と清凉寺 · 続きを見る »

清武城

清武城(きよたけじょう)は宮崎県宮崎市清武町加納甲776・777に所在する日本の城(山城)。宮崎市指定文化財(史跡)。南北朝時代に「清瀧城」と呼ばれていた城を、1379年(天授5年)に伊東(清武)祐行が増改築して「清武城」となった。.

新しい!!: 文明 (日本)と清武城 · 続きを見る »

清水城 (出羽国)

清水城(しみずじょう)は、山形県最上郡大蔵村清水、比良にあった日本の城。形式は平山城である。.

新しい!!: 文明 (日本)と清水城 (出羽国) · 続きを見る »

清水寺

清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。.

新しい!!: 文明 (日本)と清水寺 · 続きを見る »

清水寺参詣曼荼羅

清水寺参詣曼荼羅(部分) 清水寺参詣曼荼羅(きよみずでらさんけいまんだら)とは音羽山清水寺を描いた社寺参詣曼荼羅。.

新しい!!: 文明 (日本)と清水寺参詣曼荼羅 · 続きを見る »

清水磨崖仏

清水磨崖仏(きよみずまがいぶつ)は鹿児島県南九州市にある仏教遺跡。「磨崖仏」と言う名前ではあるが仏像はほとんど掘られておらず、五輪塔、梵字、お経の板碑が多いのが特徴である。 最も古いものは平安時代末期頃製作と考えられており、最も新しいのは明治28年(1895年)、吉田順道が地元の石工・木原三之助に注文して掘らせた宝筺印塔、十一面観音像、阿弥陀如来像である。 最大の物は平安時代末期頃に掘られた「大五輪塔」で、高さ11mであり日本最大である。現在肉眼では確認できないが、赤外線調査によりこの五輪塔の周囲に5000字以上の梵字が更に線刻されていたことが明らかになった。他に弘長4年(1264年)銘「月輪大梵字」、永仁4年(1296年)銘「宝筺印塔」3基、文明5年(1473年)銘の板碑などがある。 現在、磨崖仏のある辺りは岩屋公園として整備されている。 Category:日本の磨崖仏 Category:南九州市の建築物 Category:鹿児島県の観光地 Category:南九州市の歴史.

新しい!!: 文明 (日本)と清水磨崖仏 · 続きを見る »

清洲城

五条川の桜 清洲城と桜 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。.

新しい!!: 文明 (日本)と清洲城 · 続きを見る »

清浄寺 (牧之原市)

雲海山 清浄寺(しょうじょうじ)は、静岡県牧之原市道場(どうじょう)にある時宗の寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と清浄寺 (牧之原市) · 続きを見る »

渋川万寿丸

渋川 万寿丸(しぶかわ まんじゅまる)は、室町時代後期の武士。実名は不明。 室町幕府の九州探題・渋川教直の子として誕生。文明11年(1479年)、父・教直が死去し、既に兄・政実も没していたため、家督を継ぐ。 長享元年(1487年)、少弐政資によって居城の肥前国綾部館を攻められて、筑前国亀尾城へ逃亡するが、そこで家臣に裏切られて殺害された。享年20。.

新しい!!: 文明 (日本)と渋川万寿丸 · 続きを見る »

渋川政実

渋川 政実(しぶかわ まさざね)は、室町時代中期から後期にかけての武士。.

新しい!!: 文明 (日本)と渋川政実 · 続きを見る »

渋川教直

渋川 教直(しぶかわ のりなお)は、室町時代中期から後期にかけての武将・九州探題。.

新しい!!: 文明 (日本)と渋川教直 · 続きを見る »

湯の峰王子

湯の峰王子(ゆのみねおうじ)は和歌山県田辺市本宮町湯峰にある神社。九十九王子のひとつで、湯の峰温泉の温泉街にほど近い、東光寺の裏手の丘の上にある。国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部。.

新しい!!: 文明 (日本)と湯の峰王子 · 続きを見る »

湯川町

湯川町(ゆのかわちょう)は、かつて北海道亀田郡にあった町。1939年(昭和14年)、函館市に編入された。現在の函館市役所湯川支所管内にあたる。.

新しい!!: 文明 (日本)と湯川町 · 続きを見る »

湯田神社

湯田神社(ゆたじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社。内宮の摂社27社のうち第9位である。農耕の守護神を祀る神社である伊勢文化舎 編(2008):65ページ。.

新しい!!: 文明 (日本)と湯田神社 · 続きを見る »

源康政

源 康政(みなもと の やすまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。土佐一条氏の家臣。伝承では一条房基の弟の一条 康政(いちじょう やすまさ)とされてきたが、近年の研究では藤原氏(一条家)出身ではなく、醍醐源氏出身の一条家諸大夫であったと考えられている。.

新しい!!: 文明 (日本)と源康政 · 続きを見る »

源語秘訣

『源語秘訣』(げんごひけつ)は、一条兼良が『源氏物語』の秘事を記し、子息・一条冬良に伝えた秘伝書である。以下の名称でも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と源語秘訣 · 続きを見る »

源麗子

源 麗子(みなもと の れいし、長久元年(1040年) - 永久2年4月3日(1114年5月9日))は、平安時代の貴族女性。関白藤原師実の北政所。師実が京極関白と呼ばれたのに対し、その正妻として「京極北政所」と称された。.

新しい!!: 文明 (日本)と源麗子 · 続きを見る »

源氏物語巨細

源氏物語巨細(げんじものがたりこさい)とは、古系図に分類される源氏物語系図の一つ。.

新しい!!: 文明 (日本)と源氏物語巨細 · 続きを見る »

源氏物語年立 (一条兼良)

『源氏物語年立』(げんじものがたりとしだて、げんじものがたりとしだち)とは、一条兼良の著作であり、『源氏物語』の体系的な年立としては最初のものである。伝本によっては『源氏物語諸巻年立』(げんじものがたりしょかんとしだて、げんじものがたりしょかんとしだち)と題されていることもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と源氏物語年立 (一条兼良) · 続きを見る »

源氏物語聞書 (牡丹花肖柏)

源氏物語聞書(げんじものがたりききがき)とは、牡丹花肖柏による一条兼良や宗祇の講釈を記録した「聞書」と呼ばれる形態の源氏物語の注釈書である。「源氏物語聞書」と呼ばれる注釈書は本書を含め数多く存在するが、本書は最も代表的な「源氏物語聞書」であり、単に「源氏物語聞書」とだけ言うときには本書のことを指すことも多い。肖柏による源氏物語聞書であることから「肖柏聞書」と呼ばれることもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と源氏物語聞書 (牡丹花肖柏) · 続きを見る »

源氏物語提要

『源氏物語提要』(げんじものがたりていよう)は、今川範政による『源氏物語』の梗概書である。.

新しい!!: 文明 (日本)と源氏物語提要 · 続きを見る »

源氏雑乱抄

『源氏雑乱抄』(げんじざつらんしょう)は、宗祇による『源氏物語』の年立についての注釈書。.

新しい!!: 文明 (日本)と源氏雑乱抄 · 続きを見る »

溝咋神社

溝咋神社(みぞくいじんじゃ)は、大阪府茨木市にある神社。式内社で、旧社格は府社。.

新しい!!: 文明 (日本)と溝咋神社 · 続きを見る »

満願寺 (世田谷区)

満願寺(まんがんじ)は、東京都世田谷区等々力にある真言宗智山派の仏教寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と満願寺 (世田谷区) · 続きを見る »

滝山城 (摂津国)

滝山城(たきやまじょう)は、兵庫県神戸市中央区の城山にあった日本の城。山陽新幹線の新神戸駅の裏山、「布引の滝」の西に位置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と滝山城 (摂津国) · 続きを見る »

持永氏

持永氏(もちながし)は、肥前国に栄えた武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の1つ河内源氏の足利氏の流れをくむ吉良氏の庶流今川氏の一門。肥前今川氏とも。.

新しい!!: 文明 (日本)と持永氏 · 続きを見る »

朝倉孝景 (7代当主)

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、室町時代中期の武将。朝倉氏の7代目当主。当初は祖父や父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」(あさくら としかげ)と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。以下、本項においては原則「孝景」で統一する。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉孝景 (7代当主) · 続きを見る »

朝倉宗滴

朝倉 宗滴(あさくら そうてき) / 朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。諱は教景(朝倉教景 (曖昧さ回避) を参照)で、宗滴は法名。茶器・九十九髪茄子を所有していたことでも知られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉宗滴 · 続きを見る »

朝倉光玖

朝倉 光玖(あさくら こうきゅう)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将・僧。朝倉氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉光玖 · 続きを見る »

朝倉経景

朝倉 経景(あさくら つねかげ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。朝倉氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉経景 · 続きを見る »

朝倉貞景 (9代当主)

朝倉 貞景(あさくら さだかげ)は、室町時代から戦国時代にかけての越前国の戦国大名。朝倉氏第9代当主。朝倉氏景の嫡男。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉貞景 (9代当主) · 続きを見る »

朝倉氏

朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉氏 · 続きを見る »

朝倉氏景 (8代当主)

朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、室町時代から戦国時代にかけての越前の戦国大名。朝倉氏の第8代当主。朝倉孝景(英林孝景)の嫡男で、母は朝倉将景の娘。子に貞景。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉氏景 (8代当主) · 続きを見る »

朝倉教景 (宗滴の兄)

朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、室町時代中期から後期にかけての武士。朝倉氏の一族。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉教景 (宗滴の兄) · 続きを見る »

朝倉景綱

朝倉 景綱(あさくら かげつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏の家臣、のち織田氏の家臣。織田城主として織田庄を領していることから苗字を織田とする。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉景綱 · 続きを見る »

朝倉景総

朝倉 景総(あさくら かげふさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。朝倉氏の一門。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉景総 · 続きを見る »

朝倉景隆

朝倉 景隆(あさくら かげたか)は、戦国時代の武将。朝倉氏の家臣。越前国安居城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉景隆 · 続きを見る »

朝倉景職

朝倉 景職(あさくら かげもと)は、戦国時代の武将。朝倉氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝倉景職 · 続きを見る »

朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝鮮通信使 · 続きを見る »

朝霞市

朝霞市(あさかし)は、埼玉県南部、武蔵野台地の中北端にある人口約13万9千人の市。人口は三郷市に次ぐ県内17位。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝霞市 · 続きを見る »

朝比奈泰煕

朝比奈 泰煕(あさひな やすひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武士。今川家の家臣。遠江国掛川城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と朝比奈泰煕 · 続きを見る »

木原氏

木原氏(きのはらし)は因幡国智頭郡の国人領主。現在の鳥取県智頭町木原村が本貫地で唐櫃城に拠った。.

新しい!!: 文明 (日本)と木原氏 · 続きを見る »

木寺宮邦康親王

木寺宮邦康親王(きでらのみや くにやすしんのう)は、室町時代の皇族。後二条天皇皇子邦良親王の玄孫で、木寺宮世平王の末子。木寺宮家5代当主。兄に承道法親王・明仁法親王、子に静覚法親王(師熙親王)らがいる。 祖父邦恒王、父世平王がともに親王宣下を受けずに失脚・早世し、大覚寺統の嫡流を汲む木寺宮家は断絶に瀕していた。しかし、永享年間に後光厳院流の皇胤が払底したため、兄の承道・明仁が後小松上皇の猶子となり相次いで門跡を継承。享徳2年(1453年)12月子の師熙も後花園天皇の猶子として仁和寺に入室した。康正元年(1455年)2月、既に40歳に達していた邦康はようやく後崇光院の猶子として親王宣下を蒙った。ただ、立親王には特別な事情があったらしく、邦康は宣旨を「密儀内々に伝え進らすべし」と要請している。同年10月には元服、同時に三品・中務卿に叙任された。 同じ大覚寺統の常盤井宮家と比較しても、当主が40歳まで出家や元服をせずに冷遇されていたのは異例で、当時の公家社会では無名の存在であったことが窺える。親王宣下で日の目を見たのも一時に終わり、その後の事績は判然としない。文明4年(1472年)8月、三品中務卿として源満仲に従二位を追贈する旨の位記を伝宣しているのが恐らく終見であろう『多田院文書』文明4年8月17日付故源満仲追贈位記。従って、栗原信充の『木寺宮系抜書』に文明3年6月12日(1471年6月30日)薨去とあるのは誤りである。。程なく木寺宮家は京都での消息が途絶え、宮家としては廃絶した。子孫は遠江に下向したとの説もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と木寺宮邦康親王 · 続きを見る »

木ノ下城

木ノ下城(きのしたじょう)は、尾張国丹羽郡(現愛知県犬山市)にあった日本の城である。 城の規模は、南北200m、東西200mほどの正方形であり、南方に二曲輪、三曲輪が構えられ、東側と北側に堀があったという。.

新しい!!: 文明 (日本)と木ノ下城 · 続きを見る »

木舟城

木舟城(きふねじょう)は、富山県高岡市福岡町木舟にあった日本の城(平城)。木船城、貴船城とも書く。県史跡。.

新しい!!: 文明 (日本)と木舟城 · 続きを見る »

木造政宗

木造 政宗(こづくり まさむね)は、室町時代の武将・公家。木造家6代当主。権中納言・木造教親の子。「政」の字は室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものである。.

新しい!!: 文明 (日本)と木造政宗 · 続きを見る »

木津城 (山城国)

木津城(きづじょう)は京都府に存在した中世の日本の城(山城)。木津川市の木津川左岸の城山に位置する。 築城年は不明だが、康正3年(1457年)に畠山義就の攻撃を受けた木津氏が木津城を自焼させたという記事がある。応仁の乱の際には大内政弘が文明2年(1470年)に山城南部に侵攻したため、大和国人筒井順永らが大和と山城を繋ぐこの城を拠点としていた。 文明9年(1477年)に再度木津氏らが自焼、戦国時代末期には三好三人衆の1人三好政康の勢力下にあったが、永禄10年(1568年)の織田信長の入京後は使われなくなった。.

新しい!!: 文明 (日本)と木津城 (山城国) · 続きを見る »

木曾家豊

木曾 家豊(きそ いえとよ、生没年不詳)は、室町時代の武将。木曾氏の当主。家賢の子。子に義元がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と木曾家豊 · 続きを見る »

木曾義元

木曾 義元(きそ よしもと、文明7年(1475年) - 永正元年(1504年))は、戦国時代の武将、戦国大名。信濃国木曽谷を支配した木曾氏の当主。父は木曾家豊。弟に義勝。子に義在。従五位下、伊予守。.

新しい!!: 文明 (日本)と木曾義元 · 続きを見る »

末次氏 (出雲源氏)

末次氏(すえつぐし) は、日本の氏族のひとつ。宇多源氏内の佐々木氏流(近江源氏)の分流出雲源氏の一派である。.

新しい!!: 文明 (日本)と末次氏 (出雲源氏) · 続きを見る »

本太城

本太城(もとぶとじょう)は、現在の日本岡山県倉敷市児島本荘にある、戦国時代の日本の城跡である。.

新しい!!: 文明 (日本)と本太城 · 続きを見る »

本庄信明

本庄 信明(ほんじょう のぶあき、生年不詳 - 延徳2年(1490年))は、武蔵国児玉郡北堀の東本庄(現在の埼玉県本庄市北堀)の地に東本庄館を築いた室町時代中期の武将。東本庄館初代館主。官途名は宮内少輔(くないしょうゆ)。戒名は開基本庄宮内少輔安養院殿瑞室和光大居士。 児玉党本宗家5代目である庄太郎家長の四男、本庄四郎左衛門尉時家の末裔と考えられるが、詳しい系譜はまだ分かっていない為、断定はできない(庄氏本宗家の領地である栗崎の地と本庄氏の領地である北堀の地を継いでいる事から時家の子孫と考えられる)。子息(次代)は本庄為明。.

新しい!!: 文明 (日本)と本庄信明 · 続きを見る »

本佐倉城

本佐倉城(もとさくらじょう)は、千葉県印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった日本の城。文明年間(1469年-1486年)の築城で、国の史跡に指定されている。 2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(121番)に選定された。.

新しい!!: 文明 (日本)と本佐倉城 · 続きを見る »

本土寺

本土寺(ほんどじ)は、千葉県松戸市平賀にある、日蓮宗の本山。山号は長谷山。塔頭が一院ある(仏持院)。.

新しい!!: 文明 (日本)と本土寺 · 続きを見る »

本地城

本地城(ほんじじょう)は、尾張国春日井郡(現在の愛知県瀬戸市)に存在した日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と本地城 · 続きを見る »

本善寺 (奈良県吉野町)

本善寺(ほんぜんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土真宗本願寺派の寺院。別称飯貝御坊、山号は六雄山(むつおざん)。.

新しい!!: 文明 (日本)と本善寺 (奈良県吉野町) · 続きを見る »

本善寺 (日向市)

本善寺(ほんぜんじ)は、宮崎県日向市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は日知屋山(ひちやさん)。。元は郷門寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と本善寺 (日向市) · 続きを見る »

本国寺 (大網白里市)

本国寺(ほんこくじ)は、千葉県大網白里市にある日蓮宗の寺院。山号は法流山。日什門流妙満寺輪番上総十ヶ寺の一つ。寺名は「本國寺」とも表記する(宗教法人としての名称は「本国寺」)。.

新しい!!: 文明 (日本)と本国寺 (大網白里市) · 続きを見る »

本照寺 (厚木市)

本照寺(ほんしょうじ)は、神奈川県厚木市にある日蓮宗の寺院。山号は常栄山。旧本山は身延山久遠寺。脱師法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と本照寺 (厚木市) · 続きを見る »

本照寺 (高槻市)

本堂 本照寺(ほんしょうじ)は、大阪府高槻市富田町にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。富寿栄山(ふすえざん)あるいは富山と号し、富田御坊(とんだごぼう)ともいう。 寺の東側に山門がある。また、かつて周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。.

新しい!!: 文明 (日本)と本照寺 (高槻市) · 続きを見る »

本荘八幡宮

本荘八幡宮(ほんじょうはちまんぐう)は、岡山県倉敷市児島通生(こじまかよう)にある神社。祭神は品陀別命、足仲彦命、息長帯比売命。社格は郷社。.

新しい!!: 文明 (日本)と本荘八幡宮 · 続きを見る »

本行寺 (千葉市)

本行寺(ほんぎょうじ)は、千葉市中央区浜野町にある顕本法華宗の寺院。山号は如意山。本尊は大曼荼羅。清師寮法縁。現住職は第42世朝倉俊泰。.

新しい!!: 文明 (日本)と本行寺 (千葉市) · 続きを見る »

本願寺

本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。 各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。16世紀末期に東西に分裂、東側は20世紀後期に発生したお東騒動の影響で更に分裂した。東西分裂前の本願寺については本願寺の歴史を参照のこと。.

新しい!!: 文明 (日本)と本願寺 · 続きを見る »

本願寺の歴史

本願寺の歴史では、親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院である「本願寺」の歴史を、本願寺が東西に分立するまでの時期について述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と本願寺の歴史 · 続きを見る »

本願寺鷺森別院

本願寺鷺森別院(ほんがんじさぎのもりべついん)は、和歌山県和歌山市鷺ノ森にある浄土真宗本願寺派の寺院。雜賀御坊(さいかごぼう)、鷺森本願寺とも。京都市にある西本願寺の別院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と本願寺鷺森別院 · 続きを見る »

本興寺 (金沢市)

本興寺(ほんこうじ)は、石川県金沢市薬師町ロにある日蓮宗の寺院。山号は一乗山。旧本山は京都立本寺、潮師法縁。北陸における日蓮宗の古刹の一つ。金沢市指定文化財の木造日蓮聖人坐像附胎内舎利塔を安置する。.

新しい!!: 文明 (日本)と本興寺 (金沢市) · 続きを見る »

本蓮寺 (金沢市)

本蓮寺(ほんれんじ)は、石川県金沢市深谷町にある日蓮宗の寺院。山号は金沢山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)、潮師法縁。.

新しい!!: 文明 (日本)と本蓮寺 (金沢市) · 続きを見る »

本澄寺 (高槻市)

本澄寺(ほんちょうじ)は大阪府高槻市上牧にある日蓮宗の仏教寺院。山号は法華山。旧本山は京都本満寺。莚師法縁。塔頭として真如院、本立院がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と本澄寺 (高槻市) · 続きを見る »

月行事

月行事(がちぎょうじ)とは、中世・近世の都市・座・仲間などの共同体に設けられた幹事役の一種で月単位の持ち回りであったことに由来する。これに対して年単位の場合は年行事(ねんぎょうじ)と呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と月行事 · 続きを見る »

月舟寿桂

月舟寿桂(げっしゅうじゅけい、文明2年(1470年)-天文2年12月8日(1533年12月23日))は、室町時代後期・戦国時代前期の臨済宗の僧侶。諱は寿桂、字は月舟、号は幻雲・中孚道人。近江国出身。.

新しい!!: 文明 (日本)と月舟寿桂 · 続きを見る »

有川神社

有川神社(ありかわじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷に鎮座する神社である。有川郷の祖母君(うばぎみ)神社、天満神社、八幡神社の3神社が合併されて創祀された。.

新しい!!: 文明 (日本)と有川神社 · 続きを見る »

有徳銭

有徳銭(うとくせん・有得銭)とは、中世において有徳人と呼ばれた富裕層を中心に賦課された臨時の課税のこと。徳役(とくやく)などとも称した。 有徳銭は貨幣経済が発達して有徳人が形成されるようになった鎌倉時代後期から見られるようになる。1304年(嘉元2年)に東大寺領である伊賀国黒田荘で行われた「有徳借米」、その10年後に同地で行われた「有得御幸銭」の賦課に見られるように、当初は臨時の借米であったものが次第に租税化し、納付も銭で行われるようになったと考えられている。また、『太平記』では鎌倉幕府による上野国新田荘への有徳銭の賦課を新田義貞挙兵のきっかけとしている。 有徳銭は室町時代に入ると、室町幕府や守護大名、寺社勢力などが臨時の経費(寺社造営・儀式執行・戦費調達など)を賄うためにしばしば徴収され、長禄から文明年間にピークを迎え、文明以後は一部においては個人から郷単位での賦課に切り替わりながら戦国時代まで続いた。段銭・棟別銭とは違い、特定の富裕な人々もしくは地域に限定されて賦課が行われたのが特徴であり、賦課額も対象の富裕の度合いによって異なって、上中下の三段階に区別されている例もあった。また、有徳銭などの名称は使われていないものの、江戸幕府や諸藩・旗本が行った御用金も有徳銭の系統を引く賦課であるとする考えもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と有徳銭 · 続きを見る »

有馬純房

有馬 純房(ありま すみふさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と有馬純房 · 続きを見る »

有馬晴純

有馬 晴純(ありま はるずみ)は、戦国時代の肥前国の大名。肥前有馬氏の当主。肥前日之江城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と有馬晴純 · 続きを見る »

有間町

有間町(あんまちょう)は、愛知県豊田市の地名。.

新しい!!: 文明 (日本)と有間町 · 続きを見る »

望月城

望月城(もちづきじょう)は、長野県佐久市にあった日本の城。.

新しい!!: 文明 (日本)と望月城 · 続きを見る »

最上義秋

最上 義秋(もがみ よしあき)は室町時代中期から戦国時代の出羽国の武将・大名で山形城主。最上氏第6代当主で守護大名に準ずる立場であり、羽州探題と思われる。.

新しい!!: 文明 (日本)と最上義秋 · 続きを見る »

最上義春

最上 義春(もがみ よしはる)は室町時代中期から戦国時代の出羽国の武将・大名で山形城主。最上氏第5代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と最上義春 · 続きを見る »

最上満氏

最上 満氏(もがみ みつうじ)は、出羽国の戦国大名、羽州探題最上氏の第7代当主。 出羽中野氏の初代当主で中野城主、中野満基の子(最上義秋の子ともされる)に生まれたが、宗家の従兄・義秋に子がなかったため、文明11年(1479年)に最上氏を継いだ。 文明11年(1479年)及び翌文明12年(1480年)に、伊達成宗配下の桑折播磨守が寒河江氏を攻めるが、敗北し討ち死にする(菖蒲沼の戦い)。播磨守の子息は満氏を介して戦場の見える慈恩寺山中に松蔵寺を建立して供養したという。 明応3年(1494年)に死去。なお生年には諸説ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と最上満氏 · 続きを見る »

最勝寺 (高島市)

最勝寺(さいしょうじ)は、滋賀県高島市勝野にある真宗大谷派に属する寺院。山号は、琶湖山(はこざん)。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と最勝寺 (高島市) · 続きを見る »

最福寺 (東金市)

本堂 最福寺(さいふくじ)は、千葉県東金市にある単立寺院で、古くは顕本法華宗に属していた。山号は安国山。本尊は大曼荼羅。.

新しい!!: 文明 (日本)と最福寺 (東金市) · 続きを見る »

成田顕泰

成田 顕泰(なりた あきやす)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。山内上杉家の家臣。武蔵国岩付城・忍城主。.

新しい!!: 文明 (日本)と成田顕泰 · 続きを見る »

成田正等

成田 正等(なりた しょうとう、応永30年(1423年)?-文明14年4月17日(1482年5月4日))は、室町時代後期の武蔵国の国人領主。成田顕泰の養父で出家後に法号「正等」と名乗り、号を自耕斎(じこうさい)とする。受領名は左衛門尉後に下総守。「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」掲載の「自耕斎詩軸并序」にのみ見える人物。「成田系図」にみえる顕泰の父・資員とみなす見解もある。 成田氏は関東管領上杉氏の支配下にあったが、享徳の乱において正等は途中から古河公方足利成氏に寝返って、上杉氏と戦った。その際に拠点として築かれたのが忍城とされている。この忍城の築城年代と築城者には諸説あるが、文明11年(1479年)時点での城主が正等か養子・顕泰であるとされ、また正等が忍城を築城したとする説も示されている。行田市郷土博物館 編 『忍城主成田氏-開館20周年記念』行田市郷土博物館、2007年。 また、近年では、従来の説では太田道灌によって築かれたとされていた岩付城も実は正等が築いたもので後に敵方である道灌が支配下に置いたと考える説が有力になっている。 後に長尾景春の乱に加担するが敗北、忍城を上杉軍に攻められるが、文明11年(1479年)太田道灌の仲裁により降伏が許されて景春と対立関係にあった長尾忠景の子・顕泰を養子に迎えた。.

新しい!!: 文明 (日本)と成田正等 · 続きを見る »

成田氏

成田氏(なりたし)は、日本の氏族の一つ。 鎌倉時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族が著名である。.

新しい!!: 文明 (日本)と成田氏 · 続きを見る »

成高寺

成高寺(じょうこうじ)は、栃木県宇都宮市にある曹洞宗の寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と成高寺 · 続きを見る »

成身院光宣

成身院光宣(じょうしんいん こうせん、明徳元年(1390年) - 文明元年11月20日(1470年1月1日))は、室町時代中期から後期の僧・武将である。大和国人・興福寺衆徒筒井順覚の次男。兄に順弘、弟に尊覚、実憲、順永。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。.

新しい!!: 文明 (日本)と成身院光宣 · 続きを見る »

戸田宗光

戸田 宗光(とだ むねみつ)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将。入道名は全久(ぜんきゅう)。応仁の乱では西軍として活動する一方で三河・尾張に勢力を拡大、戸田氏中興の祖とされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と戸田宗光 · 続きを見る »

戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

新しい!!: 文明 (日本)と戸田氏 · 続きを見る »

戸次親家

戸次 親家(べっき ちかいえ、文明10年(1478年) - 大永6年(1526年))は、豊後国の戦国大名大友氏の家臣。大友氏の支流・戸次氏の当主。官位は常陸介。豊後国鎧ケ岳城主。 父は戸次親宣、妻は由布惟常の女・正光院、継室は臼杵長景の女・養孝院。 子に清田鑑綱室、安東家忠室、戸次鑑連(立花道雪)、一万田鑑相室、立花鑑高室、戸次親方正室、利光鑑教正室、戸次親繁室。 ほか戸次鑑方、戸次親行や娘がいたが、。 伯父に戸次親続、叔父に戸次親延、戸次親就。.

新しい!!: 文明 (日本)と戸次親家 · 続きを見る »

戸沢氏

戸沢氏(とざわし)は、陸奥国、後に出羽国を支配した氏族。国人、のち戦国大名、江戸時代には新庄藩主となり明治維新に至る。.

新しい!!: 文明 (日本)と戸沢氏 · 続きを見る »

明宗 (僧)

明宗(みょうそう、文明元年(1469年) - 天文9年6月6日(1540年7月19日))は、戦国時代の浄土真宗の僧である。近江堅田本福寺第5世住持。本福寺第4世住持明顕の養子で、実父は伊予守護大名家河野氏出身の河野宣高。子に明誓。.

新しい!!: 文明 (日本)と明宗 (僧) · 続きを見る »

明建神社

明建神社(みょうけんじんじゃ)は、岐阜県郡上市(旧郡上郡大和町)にある神社である。 古今伝授の里フィールドミュージアムに隣接する。 約250mの参道には、樹齢300年以上の杉(神迎え杉、神帰り杉など)と、約120本の山桜の桜並木がある。社叢は県天然記念物に指定されている。桜並木は「ぎふ・水と緑環境百選」「飛騨・美濃さくら三十三選」に選定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と明建神社 · 続きを見る »

明円寺 (福山市)

明円寺(みょうえんじ)は、広島県福山市にある真宗大谷派の寺院。山号は松江山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と明円寺 (福山市) · 続きを見る »

明珍信家

明珍 信家(みょうちん のぶいえ、文明18年(1486年)? - 永禄7年(1564年)?)は、室町時代末期(戦国時代)の甲冑師。初め安家と名乗り、号は覚意、本姓は藤原氏。通称(官位)は左近将監。甲冑師の一族である明珍家17代に当たる。伝えでは、武田晴信の一字を賜り、信家と改名したとされる。前代(16代目)は明珍義保。18代目として明珍貞家。.

新しい!!: 文明 (日本)と明珍信家 · 続きを見る »

春日山城

本丸跡 毘沙門堂(復元) 山腹より望む直江津 春日山城(かすがやまじょう)は、新潟県上越市にあった中世の山城(日本の城)。主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。春日山城跡は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文明 (日本)と春日山城 · 続きを見る »

春日神社 (練馬区)

春日神社(かすがじんじゃ)は、東京都練馬区春日町にある神社。所在地の町名「春日町」は、当社に由来する。.

新しい!!: 文明 (日本)と春日神社 (練馬区) · 続きを見る »

春日神社 (豊中市宮山町)

春日神社(かすがじんじゃ)は、大阪府豊中市宮山町にある神社である。社殿北側のつつじの園は満開時、大勢の見物客で賑う。.

新しい!!: 文明 (日本)と春日神社 (豊中市宮山町) · 続きを見る »

昌雲寺 (掛川市)

昌雲寺(しょううんじ)は静岡県掛川市にある仏教寺院。.

新しい!!: 文明 (日本)と昌雲寺 (掛川市) · 続きを見る »

浦上宗助

浦上 宗助(うらがみ むねすけ) は、室町時代から戦国時代にかけての武将。.

新しい!!: 文明 (日本)と浦上宗助 · 続きを見る »

浦上則宗

浦上 則宗(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と浦上則宗 · 続きを見る »

浦上則景

浦上 則景(うらがみ のりかげ)は、室町時代後期の武将。赤松氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と浦上則景 · 続きを見る »

浦上村宗

浦上 村宗(うらがみ むらむね)は、戦国時代の武将。備前国・美作国・播磨国の戦国大名。浦上宗助の子(一部、宗助の叔父・浦上則宗の実子とする家系図もある)。 赤松氏に臣従し、主君・赤松義村から偏諱(「村」の字)を受けて村宗と名乗るも、のちに義村から独立する姿勢を見せてこれを殺害した。その後も義村の子・政村(政祐)と抗争し一旦は和睦するが、大物崩れの際に政祐の攻撃に遭い討ち死にした。.

新しい!!: 文明 (日本)と浦上村宗 · 続きを見る »

浪岡城

浪岡城(なみおかじょう)は青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町)にかつて存在した日本の城(平城)である。 1940年(昭和15年)2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定された。 現在は跡地の北側を青森県道27号青森浪岡線が通る。北東へと続く丘陵の南端に位置し、城の南側の急峻な崖下には浪岡川と正平津川が流れていて天然の堀と水源を兼ねていた。.

新しい!!: 文明 (日本)と浪岡城 · 続きを見る »

浜王子

浜王子(はまおうじ)は和歌山県新宮市にある神社。熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年〈昭和34年〉1月8日指定)。.

新しい!!: 文明 (日本)と浜王子 · 続きを見る »

浜田城 (伊勢国)

浜田城(はまだじょう)は、伊勢国三重郡(現三重県四日市市鵜の森一丁目)にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と浜田城 (伊勢国) · 続きを見る »

浄住寺

浄住寺(じょうじゅうじ)は、京都市西京区にある黄檗宗の寺院。山号は葉室山。本尊は如意輪観音。京都洛西観音霊場第三十番札所。 鉄牛禅師によって再興されて以来、黄檗宗では本山に次ぐ寺格を有していた。左右対称で回廊を擁する伽藍や、方丈庭園等、本山である萬福寺を意識した設計がなされた。よって、鉄牛禅師を祖とする長松派(萬福寺塔頭長松院)の筆頭寺院にあたる。 近年まで完全非公開だったが、2015年4月25日、精浄文化研究部主催の企画以来、公開される機会が増加した。.

新しい!!: 文明 (日本)と浄住寺 · 続きを見る »

浄土寺 (松山市)

浄土寺(じょうどじ)は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。山号は西林山(さいりんざん)。院号は三蔵院(さんぞういん)。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所霊場の第四十九番札所であり、伊予十三仏霊場の第二番札所である。 本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく ご詠歌:十悪の 我身を棄てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ.

新しい!!: 文明 (日本)と浄土寺 (松山市) · 続きを見る »

浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

新しい!!: 文明 (日本)と浄土教 · 続きを見る »

浄願寺 (高松市)

浄願寺(じょうがんじ)は、香川県高松市番町二丁目にある浄土宗の寺院である。山号は超世山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と浄願寺 (高松市) · 続きを見る »

浄興寺

浄興寺(じょうこうじ)は、新潟県上越市にある真宗浄興寺派本山の寺院。山号は歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん)。正式な寺号を浄土真宗興行寺(じょうどしんしゅうこうぎょうじ)という。開山は浄土真宗の開祖親鸞。 最盛期には越後・信濃・出羽の三国に約90か寺の末寺を従えた。真宗大谷派の別格寺院であったが昭和27年(1952年)に真宗浄興寺派として独立した。.

新しい!!: 文明 (日本)と浄興寺 · 続きを見る »

浄橋寺

浄橋寺(じょうきょうじ)は兵庫県西宮市にある浄土宗西山派の寺院である。山号は十方山。本尊の阿弥陀三尊像は国の重要文化財である。.

新しい!!: 文明 (日本)と浄橋寺 · 続きを見る »

浅谷町

浅谷町(あざかいちょう)は、愛知県豊田市の町名。 元は、美濃国岐阜県恵那郡の一部であったが、1955年(昭和30年)4月1日越県合併により愛知県に移った。.

新しい!!: 文明 (日本)と浅谷町 · 続きを見る »

斎藤又四郎

斎藤 又四郎(さいとう またしろう、文明14年(1482年)- 明応8年11月13日(1499年12月15日))は、戦国時代の武将である。斎藤氏持是院家2代目の斎藤妙純の次男。幼名は大黒丸。斎藤利茂と同一人物とも。兄に利親、弟に彦四郎、姉妹に朝倉貞景室、京極高清室らがいる。 明応5年(1496年)12月7日、父の妙純と兄の利親が戦死すると、甥の勝千代(後の斎藤利良)が幼少であったため、持是院家の4代目当主となる。明応6年(1497年)6月3日元服し、又四郎と名乗る。同盟関係にあった伊勢長野氏の息女と結婚し、男子(大黒丸、後の斎藤又四郎)をもうけるが明応8年(1499年)に急死した。享年18。法名悦厳僖公居士。家督は弟の彦四郎が継承した。.

新しい!!: 文明 (日本)と斎藤又四郎 · 続きを見る »

斎藤妙純

斎藤 妙純(さいとう みょうじゅん) / 斎藤 利国(さいとう としくに)は、室町時代から戦国時代の武将。美濃守護代斎藤利永の子。叔父にあたる斎藤妙椿の養子となる。通称は新四郎。諱は利国で、妙純は入道名である。右馬丞と称す。妻は野間入道の娘(甘露寺親長の養女)で、後に剃髪して利貞尼と名乗った。子に利親、又四郎、彦四郎、斎藤利茂?・長井利隆?、朝倉貞景室、京極高清室。.

新しい!!: 文明 (日本)と斎藤妙純 · 続きを見る »

斎藤妙椿

斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・僧。斎藤宗円の子。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。養女に甘露寺元長の娘(織田敏広室)。妙椿は法名(実名は不明)で、善恵寺に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家という。 従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない(後述)。.

新しい!!: 文明 (日本)と斎藤妙椿 · 続きを見る »

斎藤利親

斎藤 利親(さいとう としちか、文明5年(1473年)? - 明応5年12月7日(1497年1月10日))は、戦国時代の武将。斎藤氏持是院家3代目当主。持是院家2代目当主斎藤妙純の嫡男。左衛門、大納言、権律師、新四郎と称す。兄弟に又四郎、彦四郎、長井利隆? 姉妹に朝倉貞景室、京極高清室らがいる。子は利良の他、女児が1人いる。 明応5年(1496年)9月、父と共に近江の六角高頼討伐に参加、同年12月7日、郷民の蜂起に遭い、父と共に戦死した。法名は紹興妙親で、享年24とも。子の利良は幼いため、弟の又四郎が後を継いだ。.

新しい!!: 文明 (日本)と斎藤利親 · 続きを見る »

斎藤利藤

斎藤 利藤(さいとう としふじ、生年不詳 - 明応7年1月12日(1498年2月3日))は、室町時代の武将。美濃守護代。斎藤利永の嫡男。典明、利国(妙純)、利安、利綱の兄。通称は帯刀左衛門尉、官位は越前守と称す。子に源四郎、日運。以前は叔父斎藤妙椿と同一人物と考えられてきたが、別人とされる。 父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮う事は出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂に合戦を始める(美濃文明の乱)。利藤は墨俣城を拠点にして戦うが、同年11月には敗れて近江の六角氏の元に亡命、更に京都へ赴き幕府の庇護を受けた。長享元年(1487年)5月、守護土岐成頼と妙純との和議が成立し、美濃守護代職に返り咲く。 しかし、成頼の後継を巡る争い(船田合戦)で土岐元頼、石丸利光に与したため、2人が戦死すると明応5年(1496年)6月に隠居させられ、失意の内に世を去った。法名玉堂宗珊居士。 利藤の嫡男源四郎(帯刀左衛門尉)は船田合戦以前に早世し、嫡孫の斎藤利春(帯刀左衛門尉)は船田合戦で石丸利光に迎えられたものの、風邪のため明応4年(1495年)6月6日に没している。また、末子の毘沙童も利春没後に石丸方に迎えられたが、敗戦時年少(13歳)のため助命され、仏門に入り日運と名乗った。永正13年(1516年)に常在寺の住職となっている。 実子の外に養子と思われる斎藤利為がいるが、船田合戦では勝者となった妙純に味方しているので、利藤没後にその名跡を継ぐよう命ぜられたものだろう。.

新しい!!: 文明 (日本)と斎藤利藤 · 続きを見る »

斯波義孝

斯波 義孝(しば よしたか、享徳3年(1454年)- 没年不詳)は室町時代後期から戦国時代初期の武将。通称は孫三郎。官職は従五位下民部少輔。斯波氏分家の大野斯波氏の第3代当主・斯波持種の子で、兄に武衛家(斯波本家)を継承した斯波義敏がいる。幼名は竹王丸。妻は兄・義敏の娘(義孝の姪にあたる)。子は義縁(よしより)、義信(よしのぶ)。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波義孝 · 続きを見る »

斯波義寛

斯波 義寛(しば よしひろ / - よしとお)は室町時代後期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主。幼名は松王丸、初名は義良(よしすけ/よしなが)。父は斯波義敏、母は家女房といわれる。子に義達、足利義澄室、村上顕国室。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波義寛 · 続きを見る »

斯波義廉

斯波 義廉(しば よしかど)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波義廉 · 続きを見る »

斯波義達

斯波 義達(しば よしたつ)は戦国時代の守護大名・戦国大名。尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)13代当主。父は斯波義寛、母は一色義直の娘。祖父は応仁の乱の中心人物の1人である斯波義敏。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波義達 · 続きを見る »

斯波義敏

斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波(大野)持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波義敏 · 続きを見る »

斯波詮高

斯波 詮高(しば あきたか)は、戦国時代の陸奥の戦国大名。高水寺斯波氏の当主(奥南落穂集)。 高水寺斯波氏は室町幕府管領家斯波氏の一族で、「斯波御所」、「奥の斯波殿」と呼ばれ、高い家格を誇る名族であった。 明応元年(1492年)に父教兼が志和郡の地頭職を得た後、詮高が明応4年(1495年)に下向して高水寺城を領したとされる(奥南落穂集)。 謀略に優れていたといわれ、雫石に勢力を誇っていた戸沢氏を攻略・放逐し、雫石城攻略後に次男・詮貞を雫石城に入れ、さらに雫石領内の猪去館に三男の詮義を配するなどして家中の結束を固め、高水寺斯波家の全盛期を築き上げた。 天文18年(1549年)に死去。享年74。跡を嫡男の経詮が継いだ。 なお、異説として越前斯波氏である鞍谷氏の出身とする説もある。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波詮高 · 続きを見る »

斯波郷長

斯波 郷長(しば さとなが、生没年不詳)は、室町時代の武将。足利氏分流である奥州斯波氏一族。足利義持から足利義教の時代の人物といわれる陸奥国高水寺城城主斯波詮教の三男。官位は民部少輔。子は斯波義久(よしひさ)、斯波義次(よしつぐ)の二人。名前の「郷」の字は斯波氏宗家(武衛家)当主の斯波義郷から偏諱を与えられたものであろう。 「続群書類従」の『奥州斯波系図』では越前国鞍谷家を相続したとあるが、真偽不明。また一説には斯波義廉の養子となり、越前国へ行き、鞍谷家に仕えたという。 また、これとは別に武衛家の斯波義敏が文明13年(1481年)に作成した『斯波家譜』には近年関東(=奥州)の斯波氏の一流が越前に移り住んで「斯波」を称していると記載しており、この時期に奥州斯波氏の中でも家格が高い一族が越前に移り住んでいた可能性が高いとする指摘がある。佐藤圭は、斯波郷長もしくはそれに近い奥州斯波氏の人物が鞍谷家の祖にあたる人物であり、同家は越前斯波氏と位置づけるのが正しく足利義嗣の子孫とするのは後世の創作とする。 郷長の跡は長男義久(左京大夫)が相続し、義久の跡は郷長次男の義次(左京太夫)が相続し、それ以降は不詳。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波郷長 · 続きを見る »

斯波持種

斯波 持種(しば もちたね)は室町時代中期の武将。斯波氏の有力一族・斯波満種の嫡男で、母は京極氏の娘。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波持種 · 続きを見る »

斯波政綿

斯波 政綿(しば まさつら、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武将。通称は四郎三郎、新三郎。 越前守護である斯波氏の一門で、代々越前今立郡鞍谷を領していた今立斯波家(鞍谷斯波家)に生まれる。同じく斯波一門で大野郡を領した大野斯波家と同じく、今立斯波家も実質的な分郡守護的立場にあったと考えられる。 政綿の活動としては、文明6年(1474年)5月に大滝寺(大滝神社)へ神領を寄進したということが『大滝神社文書』から確認できる他、大永4年(1524年)10月に越後の長尾為景に対して鷹や馬を求めるなどの活動が『上杉家文書』などから見られる。.

新しい!!: 文明 (日本)と斯波政綿 · 続きを見る »

新座市

新座市(にいざし)は、埼玉県南部に位置する人口約16万2千人の市。人口は熊谷市に次ぎ県内10位。東京都に隣接する。.

新しい!!: 文明 (日本)と新座市 · 続きを見る »

新善光寺 (京都市東山区)

新善光寺(しんぜんこうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は阿弥陀如来。泉山七福神巡り番外(愛染明王)札所。.

新しい!!: 文明 (日本)と新善光寺 (京都市東山区) · 続きを見る »

新納忠続

新納 忠続(にいろ ただつぐ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。島津氏の家臣。新納氏5代当主。.

新しい!!: 文明 (日本)と新納忠続 · 続きを見る »

新納是久

新納 是久(にいろ これひさ)は、室町時代後期の武将。島津氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と新納是久 · 続きを見る »

新百人一首

新百人一首(しんひゃくにんいっしゅ)は、室町幕府第9代将軍足利義尚撰による私撰和歌集。文明15年(1483年)10月に成立。 この新百人一首は、藤原定家撰の小倉百人一首に漏れた著名な歌人の歌を、勅撰和歌集から百首選定したものである。 ただし、91首目の「従二位成忠女」は、小倉百人一首の「儀同三司母」と同一人物(高階貴子)であるというミスが起こっている。また、79首目の歌は恵子内親王の歌となっているが、実際には徽子女王の歌である。.

新しい!!: 文明 (日本)と新百人一首 · 続きを見る »

文明 (曖昧さ回避)

文明(ぶんめい).

新しい!!: 文明 (日本)と文明 (曖昧さ回避) · 続きを見る »

日尾町

日尾町(ひおちょう)は兵庫県神戸市灘区の町名の一つで、同区東部、旧・八幡字日尾から昭和7年(1932年)9月に命名された。郵便番号:657-0029。.

新しい!!: 文明 (日本)と日尾町 · 続きを見る »

日乗

日乗(にちじょう、生年不詳 - 文明4年11月20日(1472年12月20日))は、日蓮正宗総本山大石寺第10世法主。.

新しい!!: 文明 (日本)と日乗 · 続きを見る »

日底

日底(にってい、生年不詳 - 文明4年4月7日(1472年5月14日))は、日蓮正宗総本山大石寺第11世法主。.

新しい!!: 文明 (日本)と日底 · 続きを見る »

日光山縁起

『日光山縁起』(にっこうざんえんぎ)とは、栃木県の日光山にまつわる神々についての縁起を記したもの。上下二巻、本地物のひとつ。.

新しい!!: 文明 (日本)と日光山縁起 · 続きを見る »

日光院

日光院(にっこういん)は、兵庫県養父市八鹿町にある高野山真言宗の寺院である。山号は妙見山。本尊は妙見大菩薩。日本三妙見の一つとして有名。.

新しい!!: 文明 (日本)と日光院 · 続きを見る »

日立鉱山の大煙突

日立鉱山の大煙突(ひたちこうざんのだいえんとつ)は、茨城県日立市の日立鉱山で1915年(大正4年)3月1日に使用が開始された高さ511フィート(約155.75メートル)の煙突である。日立鉱山の大煙突は完成当時世界で最も高い煙突であり、日立鉱山の経営の重荷となっていた煙害問題の軽減に役立った。 その後は鉱工業都市日立の象徴的な存在となり、また大煙突の建設は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』の中心テーマとして取り上げられ、その存在が広く知られるようになった。しかし1993年(平成5年)2月19日、約3分の1を残して倒壊してしまう。倒壊後に改修が行われ、高さは54メートルとなってしまったが煙突としての利用が続けられている。 なお、当記事では大煙突の他に明治末期から大正初期にかけて日立鉱山によって建設された、八角煙突、神峰煙道、第3煙突についても触れていく。.

新しい!!: 文明 (日本)と日立鉱山の大煙突 · 続きを見る »

日置流

日置流(へきりゅう)とは、古流の逸見流を学んだ日置弾正政次(正次とも)が確立した、和弓の流派の一つである。日置弾正正次は室町時代(15世紀後半)の人といわれているが諸説あり、神仏の化身と称されたり、日置吉田流初代・吉田上野介重賢と同一人物であるとされたりするが、架空の人物との説が有力である。.

新しい!!: 文明 (日本)と日置流 · 続きを見る »

日鎮

日鎮(にっちん、文明元年(1469年) - 大永7年6月24日(1527年7月22日))は、日蓮正宗総本山大石寺第12世法主。 俗に稚児貫首と称される。出生は皇室の出身とされ、大石寺の総門である黒門(黒木の門)は、この法主の時代に完成。.

新しい!!: 文明 (日本)と日鎮 · 続きを見る »

日運

日運(にちうん、文明16年(1484年) - 没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日蓮宗の僧。美濃国守護代、斎藤利藤の末子『美濃明細記』、兄に長井利隆、幼名、毘沙童。別名、南陽坊、日護坊『美濃国諸旧記』。.

新しい!!: 文明 (日本)と日運 · 続きを見る »

日親

日親像(本法寺蔵 伝狩野正信筆) 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。.

新しい!!: 文明 (日本)と日親 · 続きを見る »

日近城

日近城(ひぢかじょう)『新編岡崎市史額田資料編Ⅰ』P300『額田町史』P146は、愛知県岡崎市桜形町にあった日本の城(山城)。.

新しい!!: 文明 (日本)と日近城 · 続きを見る »

日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

新しい!!: 文明 (日本)と日野富子 · 続きを見る »

日野勝光

日野 勝光(ひの かつみつ、永享元年(1429年) - 文明8年6月15日(1476年7月6日))は室町時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の出で名家の家柄、日野家の当主。日野重政の子で、母は北小路苗子。室。兄弟に永俊(第11代将軍足利義澄の義父)・資治(日野兼興の養子)。妹の日野富子は第8代将軍・足利義政の正室となって足利義尚を生む。もう一人の妹・良子は義政の弟・足利義視に嫁いでいる。子に政資(まさすけ)、娘(足利義尚室)がいる。.

新しい!!: 文明 (日本)と日野勝光 · 続きを見る »

日野衆

日野衆(ひのしゅう)とは室町時代から戦国時代にかけて伯耆国の日野郡一帯を支配していた国人衆のことをいう。主に日野山名氏、日野氏、進氏、原氏、蜂塚氏などの名が文献に見える。.

新しい!!: 文明 (日本)と日野衆 · 続きを見る »

日枝神社 (千代田区)

日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。 大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。.

新しい!!: 文明 (日本)と日枝神社 (千代田区) · 続きを見る »

日枝神社 (川越市)

日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。.

新しい!!: 文明 (日本)と日枝神社 (川越市) · 続きを見る »

日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。.

新しい!!: 文明 (日本)と日朝関係史 · 続きを見る »

日本の城

日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 姫路城(世界遺産・現存天守) 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。.

新しい!!: 文明 (日本)と日本の城 · 続きを見る »

日本史の出来事一覧

日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。.

新しい!!: 文明 (日本)と日本史の出来事一覧 · 続きを見る »

日有 (大石寺)

日有(にちう、応永9年4月16日(1402年5月18日) - 文明14年9月29日(1482年11月10日)、在位1419年 - 1467年、1472年 - 1482年)は室町時代中期の僧侶。日蓮正宗総本山大石寺第9世法主。26世日寛とともに中興の祖と仰がれている。.

新しい!!: 文明 (日本)と日有 (大石寺) · 続きを見る »

日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文明 (日本)と日明貿易 · 続きを見る »

日慶

日慶(にちけい、応永4年(1397年) - 文明10年3月19日(1478年4月21日))は室町時代の僧侶(現在の本門法華宗)。.

新しい!!: 文明 (日本)と日慶 · 続きを見る »

旧鼠

竹原春泉画『絵本百物語』より「旧鼠」 旧鼠(きゅうそ)は、日本の妖怪の一つで、ネズミが歳月を経て妖怪となったもの。『絵本百物語』『翁草(おきなぐさ)』などの江戸時代の古書や民間伝承にあるもので、ネコすらも食べるもの、子猫を育てるもの、人間に害をなすものなどがいたとされる。.

新しい!!: 文明 (日本)と旧鼠 · 続きを見る »

早稲田大学高等学院・中学部

早稲田大学高等学院・中学部(わせだだいがくこうとうがくいん・ちゅうがくぶ、英名: Waseda University Senior and Junior High School)は、東京都練馬区上石神井三丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子高等学校・中学校(併設混合型中高一貫校)。前身は、1899年開設の東京専門学校予科である。設置者は学校法人早稲田大学。略称は「早大学院」「学院」「早高院」など。生徒の中には「練馬監獄」「練馬動物園」「早稲田大学一般教養学部」などと呼称するものもいる。高等学院では、生徒達は「学院生」と呼ばれ、正式な書類や掲示など様々な場面でもこの通称が使われている。 本項では1920年から1949年まで存在していた旧制早稲田大学早稲田高等学院(きゅうせいわせだだいがくわせだこうとうがくいん)についても述べる。.

新しい!!: 文明 (日本)と早稲田大学高等学院・中学部 · 続きを見る »

摂津国人一揆

摂津国人一揆(せっつこくじんいっき)は、文明11年(1479年)から同14年(1482年)にかけて摂津国北東部(上郡)の国人が起こした国人一揆である。 摂津国は室町幕府の管領を務める細川氏京兆家(宗家)が守護を務めていたが、京都と西国及び大陸を結ぶ海陸の交通上の要所であるというその重要性から各地に分郡守護が配置されており、実際に細川氏京兆家による支配が可能であったのは上郡(かみのこおり)と称された島上郡・島下郡のほぼ全域および、下郡(しものこおり)と称された豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡の各郡に限定されていた。 応仁の乱最中の文明5年(1473年)に細川勝元が死去して7歳の政元が後を継ぐと、幼い当主を巡って内衆(京兆家家臣団)の間で主導権争いが生じたが、次第に四国出身の内衆が政元を補佐する体制が固まっていき、摂津守護代は四国系の薬師寺氏が占めて摂津国人系の内衆は細川氏京兆家の中枢から排除されるようになった。やがて、摂津の国人は四国系内衆との対抗上、勢力拡大のために荘園の押領に乗り出していった。やがて彼らは一揆を結び「摂州ハ平均ニ寺社本所不可沙汰之由、国人等一決了」を宣言し、寺社本所領における荘園領主の権限を否定するようになった。ただし、細川氏傘下の摂津の国人でもこの一揆に参加したのが記録上直接確認できるのは茨木氏と吹田氏のみ、この一揆を機に記録への登場が減少する三宅氏や芥川氏の参加が推定できるのみで、その地域は上郡に限定される。これに対して池田氏などの下郡を拠点とした国人の参加は確認できないことに注意が必要とする。 寺社本所領の維持を方針としてきた細川政元は守護代の薬師寺元長に一揆の鎮圧を指示し、元長はこれを摂津国人を潰す好機として徹底的に弾圧した。政元も鎮圧後に京都での室町幕府管領の職務を行いながら度々上郡に下向し、延徳2年(1490年)には芥川氏の本拠地であった芥川城に新たな城を構築して能勢氏を守将とし、自らの摂津における拠点としている。.

新しい!!: 文明 (日本)と摂津国人一揆 · 続きを見る »

悟渓宗頓

悟渓宗頓(ごけいそうとん、1416年(正長元年) - 1500年10月9日(明応9年9月6日))は、室町時代の臨済宗の僧。大徳寺52世住持、妙心寺11世住持を務め、妙心寺四派の一つである東海派の開祖となった。 尾張国丹羽郡(現・愛知県丹羽郡扶桑町)に生まれる。出家後、瑞泉寺(愛知県犬山市)で妙心寺四祖の日峰宗舜に師事し、その後愚渓寺(岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄承、汾陽寺(岐阜県関市武芸谷)住持の雲谷玄祥、や大樹寺(三重県四日市市市場町)住持の桃隠玄朔の下に参禅した。京都に移ってからは龍安寺の住持で、妙心寺六祖の雪江宗深に就いて印可を得た。 1467年(応仁元年)、戦火を避けて瑞泉寺に戻り臥龍庵に住するようになるが、1468年(応仁2年)斎藤妙椿の招きにより、土岐成頼の菩提寺である瑞龍寺(岐阜県岐阜市)を師の雪江宗深を勧請開山として、その開山となった。1471年(文明3年)に大徳寺52世住持となり、1480年(文明12年)に再度大徳寺に住した。1484年(文明16年)には景川宗隆の後任で妙心寺11世住持となり、東海庵の開祖となる。晩年は瑞龍寺に戻り法嗣を育成し、また瑞泉寺に住まい、徳林寺(愛知県丹羽郡大口町)の開祖となった。1497年(明応6年)勅して大興心宗禅師の号を賜い、1500年(明応9年)瑞龍寺済北院で没した。後に仏徳広通国師と諡された。 天従宗受・西川宗洵・仁済宗恕・玉浦宗珉・寿岳宗膨・瑞翁宗縉・独秀乾才・興宗宗松の8人の法嗣を「悟渓下八哲」と呼び、濃尾地方に広くその法を遺した。また、残されたその法語は後に『虎穴録』としてまとめられた。.

新しい!!: 文明 (日本)と悟渓宗頓 · 続きを見る »

放光寺 (甲州市)

放光寺(ほうこうじ)は、山梨県甲州市塩山藤木にある寺院。山号は高橋山。真言宗智山派に属する。本尊は金剛界大日如来。 周防正行監督、本木雅弘主演の映画「ファンシイダンス」のロケ地でもある。.

新しい!!: 文明 (日本)と放光寺 (甲州市) · 続きを見る »

放生院 (宇治市)

放生院(ほうじょういん)は、日本の近畿地方、京都府宇治市宇治(近世においては山城国宇治郡宇治郷内)にある真言律宗の仏教寺院。寺号は常光寺(じょうこうじ)、山号は雨宝山(うほうざん)。通称の橋寺(はしでら)の由来は、近くの宇治川に架かる宇治橋をかつて当寺が管理していたことによる。本尊は地蔵菩薩立像。.

新しい!!: 文明 (日本)と放生院 (宇治市) · 続きを見る »

放生津八幡宮

放生津八幡宮(ほうしょうづはちまんぐう)は、富山県射水市八幡町に所在する神社。旧社格は県社。 祭神は応神天皇。相殿に仁徳天皇を祭る。.

新しい!!: 文明 (日本)と放生津八幡宮 · 続きを見る »

放氏

放氏(ほうし)とは、氏の構成員をその氏から追放すること。放氏処分を受けると氏族の一員としての特権を剥奪され、官人となる資格も失うということで官位も剥奪された。.

新しい!!: 文明 (日本)と放氏 · 続きを見る »

愛洲忠行

愛洲 忠行(あいす ただゆき)は、室町時代後期の人物。伊勢神宮の神領奉行。.

新しい!!: 文明 (日本)と愛洲忠行 · 続きを見る »

愛洲氏

愛洲氏(あいすし)は、主に中世に活躍した日本の豪族である。陰流の創始者として知られる剣豪・愛洲久忠(移香斎)が出たことで知られる。古記録では愛曽との表記もみられる。.

新しい!!: 文明 (日本)と愛洲氏 · 続きを見る »

敷地藤安

敷地 藤安(しきち ふじやす)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。土佐一条氏の家臣。.

新しい!!: 文明 (日本)と敷地藤安 · 続きを見る »

敵討

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。.

新しい!!: 文明 (日本)と敵討 · 続きを見る »

教行寺 (高槻市)

教行寺(きょうぎょうじ)は、大阪府高槻市にある真宗大谷派の寺院である。山号は安静山。本尊は阿弥陀如来。.

新しい!!: 文明 (日本)と教行寺 (高槻市) · 続きを見る »

慶光院

慶光院(けいこういん)は伊勢国(現在の三重県伊勢市)にあった臨済宗の寺院。山号は神護山『伊勢市史 第二巻 中世編』、pp.553。廃寺ののち、神宮祭主職舎として使われている。.

新しい!!: 文明 (日本)と慶光院 · 続きを見る »

慶覚寺 (金沢市)

慶覚寺(きょうかくじ)は、石川県金沢市にある真宗大谷派の寺院。山号を洲崎山と称する。本尊は蓮如から直に下賜された高さ4寸8分の阿弥陀如来像。開山開基は洲崎兵庫次男の洲崎慶覚為信。.

新しい!!: 文明 (日本)と慶覚寺 (金沢市) · 続きを見る »

慈照寺

東山慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。.

新しい!!: 文明 (日本)と慈照寺 · 続きを見る »

慈願寺 (八尾市)

慈願寺(じがんじ)は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。.

新しい!!: 文明 (日本)と慈願寺 (八尾市) · 続きを見る »

慈恩寺 (寒河江市)

慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院で現在は慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。.

新しい!!: 文明 (日本)と慈恩寺 (寒河江市) · 続きを見る »

扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

新しい!!: 文明 (日本)と扇谷上杉家 · 続きを見る »

払川館

払川館(はらいかわだて)は、岩手県宮古市に所在した日本の城。別称、津軽石館。 城跡を津軽石川が巡り、丘陵上の頂上平坦部は東西190m南北195mで主郭、二郭、三郭、大手門の跡、空濠、城下町も従えていたが、いまは川原になって跡形も残っていない。.

新しい!!: 文明 (日本)と払川館 · 続きを見る »

拾芥記

拾芥記(しゅうがいき)とは、戦国時代初期の公家五条為学の日記。別名・為記(いき)、為学卿記。.

新しい!!: 文明 (日本)と拾芥記 · 続きを見る »

智恩寺 (宮津市)

智恩寺(ちおんじ)は、京都府宮津市文珠切戸(きれと)にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天橋山(てんきょうざん)または五台山。「切戸の文殊」、「九世戸(くせど)の文殊」、「知恵の文殊」とも呼ばれる。 奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)などとともに日本三文殊としては、亀岡文殊の大聖寺の代わりに京都府京都市左京区の金戒光明寺が挙げられるほか、三文殊と称される寺院はいくつかある。日本三文殊のひとつとされる。本尊の文殊菩薩は秘仏とされ、正月三が日、1月10日、7月24日の年5日の開帳がある。.

新しい!!: 文明 (日本)と智恩寺 (宮津市) · 続きを見る »

10月31日

10月31日(じゅうがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から304日目(閏年では305日目)にあたり、年末まであと61日ある。10月の最終日である。.

新しい!!: 文明 (日本)と10月31日 · 続きを見る »

11月11日

11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と11月11日 · 続きを見る »

11月11日 (旧暦)

旧暦11月11日は旧暦11月の11日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 文明 (日本)と11月11日 (旧暦) · 続きを見る »

11月20日

11月20日(じゅういちがつはつか、じゅういちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から324日目(閏年では325日目)にあたり、年末まであと41日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と11月20日 · 続きを見る »

11月21日 (旧暦)

旧暦11月21日は旧暦11月の21日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 文明 (日本)と11月21日 (旧暦) · 続きを見る »

11月27日 (旧暦)

旧暦11月27日は旧暦11月の27日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 文明 (日本)と11月27日 (旧暦) · 続きを見る »

12月12日

12月12日(じゅうにがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から346日目(閏年では347日目)にあたり、年末まであと19日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と12月12日 · 続きを見る »

12月15日 (旧暦)

旧暦12月15日は旧暦12月の15日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 文明 (日本)と12月15日 (旧暦) · 続きを見る »

12月16日

12月16日(じゅうにがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と12月16日 · 続きを見る »

12月22日

12月22日(じゅうにがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から356日目(閏年では357日目)にあたり、年末まであと9日ある.

新しい!!: 文明 (日本)と12月22日 · 続きを見る »

12月27日 (旧暦)

旧暦12月27日は旧暦12月の27日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 文明 (日本)と12月27日 (旧暦) · 続きを見る »

1469年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1469年 · 続きを見る »

1470年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1470年 · 続きを見る »

1470年代

1470年代(せんよんひゃくななじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1470年から1479年までの10年間を指す十年紀。.

新しい!!: 文明 (日本)と1470年代 · 続きを見る »

1471年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1471年 · 続きを見る »

1472年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1472年 · 続きを見る »

1473年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1473年 · 続きを見る »

1474年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1474年 · 続きを見る »

1475年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1475年 · 続きを見る »

1476年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1476年 · 続きを見る »

1477年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1477年 · 続きを見る »

1478年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1478年 · 続きを見る »

1479年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1479年 · 続きを見る »

1480年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1480年 · 続きを見る »

1481年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1481年 · 続きを見る »

1482年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1482年 · 続きを見る »

1483年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1483年 · 続きを見る »

1484年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1484年 · 続きを見る »

1485年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1485年 · 続きを見る »

1486年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1486年 · 続きを見る »

1487年

記載なし。

新しい!!: 文明 (日本)と1487年 · 続きを見る »

1月15日

1月15日(いちがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から15日目に当たり、年末まであと350日(閏年では351日)ある。誕生花はオンシジューム、白いスミレ、黄色のチューリップ、サンザシ、トゲ。.

新しい!!: 文明 (日本)と1月15日 · 続きを見る »

1月16日

1月16日(いちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から16日目に当たり、年末まであと349日(閏年では350日)ある。誕生花はデンドロビューム、ラッパズイセン、ジンチョウゲ、黄色のヒヤシンス。.

新しい!!: 文明 (日本)と1月16日 · 続きを見る »

1月18日

1月18日(いちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から18日目に当たり、年末まであと347日(閏年では348日)ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と1月18日 · 続きを見る »

2月16日 (旧暦)

旧暦2月16日は旧暦2月の16日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 文明 (日本)と2月16日 (旧暦) · 続きを見る »

2月21日

2月21日(にがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から52日目にあたり、年末まであと313日(閏年では314日)ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と2月21日 · 続きを見る »

2月4日 (旧暦)

旧暦2月4日(きゅうれきにがつよっか)は旧暦2月の4日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 文明 (日本)と2月4日 (旧暦) · 続きを見る »

3月18日 (旧暦)

旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 文明 (日本)と3月18日 (旧暦) · 続きを見る »

3月4日

3月4日(さんがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から63日目(閏年では64日目)にあたり、年末まであと302日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と3月4日 · 続きを見る »

4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

新しい!!: 文明 (日本)と4月15日 · 続きを見る »

4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 文明 (日本)と4月28日 (旧暦) · 続きを見る »

4月2日 (旧暦)

旧暦4月2日(きゅうれきしがつふつか)は旧暦4月の2日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 文明 (日本)と4月2日 (旧暦) · 続きを見る »

4月30日

4月30日(しがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から120日目(閏年では121日目)にあたり、年末まではあと245日ある。4月の最終日である。誕生花はナシ、ムラサキハナナ。.

新しい!!: 文明 (日本)と4月30日 · 続きを見る »

4月7日

4月7日(しがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から97日目(閏年では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。誕生花はディモルフォセカ、サクラ。.

新しい!!: 文明 (日本)と4月7日 · 続きを見る »

5月11日 (旧暦)

旧暦5月11日は旧暦5月の11日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 文明 (日本)と5月11日 (旧暦) · 続きを見る »

6月14日

6月14日(ろくがつじゅうよっか、ろくがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から165日目(閏年では166日目)にあたり、年末まであと200日ある。誕生花はハルシャギク、ブーゲンビリア。.

新しい!!: 文明 (日本)と6月14日 · 続きを見る »

6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

新しい!!: 文明 (日本)と6月6日 · 続きを見る »

7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 文明 (日本)と7月20日 (旧暦) · 続きを見る »

7月26日 (旧暦)

旧暦7月26日は旧暦7月の26日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 文明 (日本)と7月26日 (旧暦) · 続きを見る »

7月27日 (旧暦)

旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 文明 (日本)と7月27日 (旧暦) · 続きを見る »

7月3日

7月3日(しちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から184日目(閏年では185日目)にあたり、年末まではあと181日ある。誕生花はハス、バラ。.

新しい!!: 文明 (日本)と7月3日 · 続きを見る »

7月6日

7月6日(しちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から187日目(閏年では188日目)にあたり、年末まであと178日ある。誕生花はツユクサ、トキソウ。.

新しい!!: 文明 (日本)と7月6日 · 続きを見る »

8月13日

8月13日(はちがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と8月13日 · 続きを見る »

8月25日

8月25日(はちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から237日目(閏年では238日目)にあたり、年末まであと128日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と8月25日 · 続きを見る »

8月30日

8月30日(はちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から242日目(閏年では243日目)にあたり、年末まであと123日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と8月30日 · 続きを見る »

8月3日

8月3日(はちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から215日目(閏年では216日目)にあたり、年末まであと150日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と8月3日 · 続きを見る »

9月16日

9月16日(くがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から259日目(閏年では260日目)にあたり、年末まであと106日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と9月16日 · 続きを見る »

9月23日

9月23日(くがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。.

新しい!!: 文明 (日本)と9月23日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »