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応保

索引 応保

応保(おうほう)は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1162年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

160 関係: しゅ子内親王右大臣坂上兼成境川 (東京都・神奈川県)大宰権帥大輪田泊大戸荘女院妍子内親王孝徳寺宮原三神宮宗像大宮司の一覧安倍広賢富家語寛遍小笠原長清小笠原流礼法尾張国中宮中山忠親七宮神社 (神戸市)三善康信三鈷寺三条実行三条実長三星城九条兼実平基盛平宗盛平保盛平信基平信季平信範平知盛平範家平経盛平頼盛平資盛平重盛平重衡平氏政権平清盛平滋子平教盛平時忠平時信二条天皇廊御方 (平家)以仁王任覚...伊予国弁長強訴佐藤忠信御嶽山徳大寺公保徳大寺公能後白河天皇忠快信円和漢朗詠集私注内大臣八田宗綱元号一覧 (日本)玉置神社王滝御嶽神社福岡県甲斐源氏荘園整理令覚恵 (真言宗)高倉天皇高階仲行高階泰経鴨長明薗部保藤原季行藤原定家藤原定隆藤原実宗藤原実明藤原家通 (権中納言)藤原家明藤原宗家藤原宗輔藤原宗能藤原俊成藤原忠実藤原忠雅藤原忠通藤原信隆藤原公通藤原兼光藤原兼雅藤原兼房 (太政大臣)藤原光忠藤原範忠藤原経家 (非参議)藤原経宗藤原隆季藤原顕時藤原親信藤原親隆藤原育子藤原重家 (刑部卿)藤原長方藤原雅隆藤原雅長藤原泰通藤原清隆藤原成親藤原成通藤原教長葛西清重重仁親王長寛長寛勘文長沼宗政難波頼輔陸奥按察使暲子内親王松殿基房梶原景季武田信光永暦渋谷重国源平盛衰記源信時源兼定源範頼源義経源顕信源資賢源雅定源雅頼源雅通源通親源成雅滋野井実国最雲法親王成賢新田義房日野資実日本の皇后一覧日本の貿易史摂津国播磨国1161年1162年1163年2月13日2月15日3月17日 (旧暦)3月29日 (旧暦)5月2日5月6日 (旧暦)6月18日 (旧暦)9月23日9月3日 (旧暦)9月4日 (旧暦) インデックスを展開 (110 もっと) »

しゅ子内親王

姝子内親王(しゅし(よしこ)ないしんのう、永治元年11月8日(1141年12月7日) - 安元2年6月13日(1176年7月20日))は、二条天皇の中宮、女院。女院号は高松院(たかまついん)。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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坂上兼成

坂上 兼成(さかのうえ の かねしげ、永久2年(1114年)? - 応保2年5月9日(1162年6月23日))は、平安時代末期の官人・明法家。大判事・坂上明兼の子。官位は正六位上・大判事。.

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境川 (東京都・神奈川県)

江の島展望灯台から、2009年5月2日撮影) 境川(さかいがわ)は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされた境川上流部より先では稜線、現在の町田市より下流部では境川ではなく東京湾と相模湾の分水嶺が国境であった。ことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。なお、かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。.

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大宰権帥

大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。.

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大輪田泊

大輪田泊の石椋 大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。.

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大戸荘

大戸荘(おおどのしょう)は下総国香取郡、現在の千葉県香取市佐原大戸地区にあった中世の荘園。大戸庄などとも書く。 荘域は現在の香取市大戸・牧野・岩ヶ崎台・森戸・山之辺・大崎・与倉・観音などの地域にわたった。荘内には香取神宮第1の摂社といわれた大戸神社が鎮座する(現在は独立)。大戸は「大津」の転呼であり、古くは舟船の湊の地ともいわれる。史料上の初見は応保2年(1162年)の関白家政所下文の「大祢宜真房知行下総国大戸荘」という記載で、摂関家領であったことがわかり、『吾妻鏡』文治2年(1186年)3月12日条にも「殿下御領」(殿下とは摂政、関白のこと)と記載されている。また、寛元元年(1243年)11月11日の「香取社造宮所役注文」(『香取神宮古文書』)に「あさめ殿社一宇「あさめ」字は女偏に盛。香取神宮にかつて存在した社殿。 大戸庄国分小次郎跡 神崎庄千葉七郎跡」とあり、神崎庄(荘)と共に香取社境内にあったあさめ殿造営役が課せられており、大戸庄分を国分氏が請負っていたことが知られる。国分氏は千葉常胤の第5子胤通が葛飾郡国分郷を名字の地として称したことに始まるが、後に香取郡の大戸・矢作をも領して、胤通の子国分常義が「大戸矢作惣領」を称している。以後国分氏は大戸荘を拠点にその勢力を拡張し、戦国時代の天文2年(1533年)にも、国分邦胤による大戸神社に対する騎馬料・甲冑修繕についての文書がみられる。国分氏は天正14年(1586年)に里見氏の攻撃の前に敗れ、大戸荘には同18年(1590年)に小田原征伐に赴いた豊臣秀吉配下の浅野弾正らによる大戸荘六ヶ村禁制が下されて新領主の徳川家康に引き渡され、江戸時代を迎えることになった。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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妍子内親王

妍子内親王(けんし(きよこ/よしこ)ないしんのう、生年不詳 - 応保元年10月3日(1161年10月23日))は、平安時代後期の皇族。鳥羽天皇皇女。母は三条局(藤原家政の女)。近衛天皇朝の伊勢斎宮。吉田斎宮と号した。 永治2年(1142年)2月26日、近衛天皇即位に伴い斎宮に卜定、同日内親王宣下。康治2年(1143年)2月22日、大膳職へ初斎院入り、同年9月27日野宮へ遷る。天養元年(1144年)9月8日、伊勢へ群行(長奉送使は権中納言藤原公能)。久安6年(1150年)4月9日、病により退下、同年7月26日帰京。その後出家、応保元年(1161年)10月3日薨去。 『発心集』に、臨終の際一度蘇生してその後息を引き取ったという話がある。.

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孝徳寺

孝徳寺(こうとくじ)は、岡山県岡山市北区建部町品田にある日蓮宗の寺院である。山号を池本山という。旧本山は建部成就寺。 旧建部町には龍渕寺、眞淨寺、妙福寺、妙泉寺、定林寺、蓮光寺、妙円寺、妙浄寺、成就寺等がある。.

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宮原三神宮

宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)は、熊本県八代郡氷川町にある神社である。旧社格は郷社。八代北部全域の守護神として尊崇されている。.

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宗像大宮司の一覧

宗像大宮司(むなかただいぐうじ)とは今の福岡県宗像市にある宗像大社の宮司のことである。大宮司職は宗像大宮司家の嫡流断絶まで宗像氏が独占していた。現在では宮ごとに3つに分かれている。.

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安倍広賢

安倍 広賢(あべ の ひろかた)は、平安時代後期の貴族・陰陽師。権天文博士・安倍宗明の子。官位は従四位上・図書頭。.

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富家語

富家語(ふけご)は富家語談ともいい、富家殿と号した関白藤原忠実(1078―1162)の語録。高階仲行筆記。院政期という比較的早い時期において成立し、有職故実・公事を中心とする題材を後世の説話集に提供したため、説話に分類されることもある。 同一談話者の『中外抄』にも載せる久安7年(1151年)から、保元・平治の乱後の応保元年(1161年)まで、全て258段の短い記事がある。『中外抄』と異なり、談話の時期は明記されていないが、概して保元の乱に連座して船岡山山麓の知足院に幽閉されていた忠実晩年の言談である。 「新日本古典文学大系」(岩波書店)に『江談抄 中外抄 富家語』の合冊で収録。 Category:平安時代の歴史書 category:平安時代の文化 Category:説話 Category:有職故実書 Category:12世紀の書籍.

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寛遍

寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。 山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。 Category:平安時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:村上源氏 Category:1100年生 Category:1166年没.

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小笠原長清

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.

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小笠原流礼法

小笠原流礼法(おがさわらりゅうれいほう)とは、小笠原家に伝わった礼法。 『小笠原流礼法』の語は、1992年(平成4年)にNPO法人小笠原流・小笠原教場によって商標登録が行われている。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中山忠親

中山 忠親(なかやま ただちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位・内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号した。中山家の始祖。.

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七宮神社 (神戸市)

七宮神社(しちのみやじんじゃ)は神戸市兵庫区七宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。 「白藤家記録」に七宮神社は「延喜式」の八部郡汶売神社とある。主祭神である大己貴命は、大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神の七つの御名を称えて七宮神社という。.

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三善康信

三善 康信(みよし の やすのぶ、保延6年(1140年)- 承久3年8月9日(1221年8月27日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家。鎌倉幕府の初代問注所執事。入道の後は善信(ぜんしん)という法名を名乗る。 子に三善康俊(町野氏、問註所氏祖)、三善行倫、三善康連(三善流太田氏、椙杜氏祖)。.

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三鈷寺

三鈷寺(さんこじ)は、京都市西京区大原野石作町の、鴨瀬山(かもせやま)中腹にある西山宗の寺院。本尊は如法仏眼曼荼羅。往生院本山とも称される。京都洛西観音霊場第5番札所。西山国師遺跡霊場第12番。寺名は背後の山が仏器の三鈷に似ているからとされる。.

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三条実行

三条 実行(さんじょう さねゆき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の次男。三条家の始祖。.

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三条実長

三条 実長(さんじょう さねなが)は平安時代末期の公卿。権大納言、正二位、皇后宮大夫。参議右兵衛督三条公行の長男。母は播磨権守源顕親の娘。.

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三星城

三星城(みつぼしじょう)は、岡山県美作市(旧美作町)にある日本の城(山城)跡地。市指定史跡。.

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.

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平基盛

平 基盛(たいら の もともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。.

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平宗盛

平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。.

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平保盛

平 保盛(たいら の やすもり)は、平安時代末期の武将。平頼盛の庶長子。.

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平信基

平 信基(たいら の のぶもと)は、平安時代末期の廷臣。桓武平氏高棟王流、平信範の長男。母は藤原能忠の娘。正四位下、内蔵頭。.

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平信季

平 信季(たいらののぶすえ、天養元年(1144年)?-治承3年7月1日(1179年8月5日))は、平安時代末期の官人。平信範の5男。母は藤原能忠の娘。子に平親輔(平信基養子)・信宗がいる。 保元2年(1157年)、近衛基実政所勾当に任ぜられ、永暦元年(1160年)に六位蔵人となり、翌年左兵衛少尉を兼ねる。応保3年(1163年)、従五位下に叙される。永万2年(1166年)、父・信範が左京権大夫を辞任する代わりに刑部権大輔に任ぜられる。仁安4年(1169年)に従五位上に叙される。承安2年6月12日(1172年)に少納言として初出(『玉葉』、任命年月日不詳)。承安4年(1174年)に九条兼実の家司に任ぜられ、同年長門権守を兼ねる。安元3年(1177年)、正五位下に叙される。『玉葉』のこの年の1月13日条には九条兼実の政所年預であったことが記されている。だが、治承年間に入ると病気がちとなり、同2年の九条良通(兼実次男)の春日祭使や翌年の九条良経(兼実三男)の元服について兼実から奉行を任されながら病気のためにやむなく他者が代わりを務めている。『玉葉』治承3年6月25日条には兼実が信季に見舞いの使者を派遣したところ、(余命短いとして)嫡男信宗に家伝の文書を全て譲ったという報告がされたことが記されている。その直後に危篤に陥り、7月1日に没した。 九条兼実の信頼が厚く、兼実所蔵の平行親の日記を貸し与えられる(『玉葉』安元2年11月22日条)など、兼実の側近としての役割を担ったが、兼実が摂関に就任する以前に没したために、正五位下に留まらざるを得なかった。.

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平信範

平 信範(たいら の のぶのり、天永3年(1112年) - 文治3年2月12日(1187年3月23日))は、平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、兵部大輔・平知信の三男。母は主殿頭・藤原惟信の娘。兄弟に時信・知範。正室は少納言藤原能忠の娘。子に信基・信国・信季らがある。正三位、兵部卿。字は平能。日記『兵範記』の作者として著名である。また、国宝平家納経の筆者のうちの一人と目される。.

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平知盛

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。.

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平範家

平 範家(たいら の のりいえ)は平安時代後期の公卿。従三位・平実親の嫡男。.

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平経盛

平 経盛(たいら の つねもり)は、平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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平資盛

赤間神宮の七盛塚。前列右から三番目が資盛の墓石 平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。 和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。.

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平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.

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平重衡

東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.

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平氏政権

平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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平教盛

平 教盛(たいら の のりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。 保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。.

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平時忠

平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。また、平家の滅亡後も生き延びている。なお、いわゆる「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である(詳細は後述)。.

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平時信

平 時信(たいら の ときのぶ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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廊御方 (平家)

廊御方像 赤間神宮所蔵 廊御方 (廊の御方、ろうのおんかた 応保元年(1161年)? - 没年不詳)は平安時代末期の女性。平清盛の八女。母は常盤御前。源義経の異父妹とされる。別名は三条殿。.

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以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

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任覚

任覚(にんがく、天永元年(1110年) - 治承5年2月12日(1181年2月27日))は平安時代後期の真言宗の僧。出自は三条源氏で、大蔵卿・源行宗の子。本名を覚賢という。大夫法印を号した。 保延3年(1137年)に仁和寺の僧正・信証に灌頂を受け、密教を修める『本朝高僧伝』。。保元元年(1156年)に権律師になり、平治元年(1159年)には東寺長者となった。 応保2年(1162年)権大僧都に転じ、長寛元年(1163年)に国家鎮護のために孔雀経法を修して法印に叙せられた。雨乞いの修法に優れていることで知られ、承安4年(1174年)6月の旱魃の際には祈雨を行っており、霊験があったという。治承5年(1181年)72歳(73歳、74歳とも)で入寂。著書に『印義訣』がある。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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弁長

鎮西聖光上人遺蹤、この地に聖光寺を建立した、京都市下京区寺町通仏光寺上る東側 弁長(べんちょう、応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日))は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房。.

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強訴

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。.

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佐藤忠信

佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。.

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御嶽山

御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である日本山名辞典 (1992)、116頁新日本山岳誌 (2005)、972-973頁。大きな裾野を広げる独立峰である深田久弥 (1982)、227-230頁。 2014年9月27日に7年ぶりに噴火。山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。.

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徳大寺公保

徳大寺 公保(とくだいじ きんやす)は、平安時代後期の公卿。正二位権大納言。従一位左大臣徳大寺実能の三男、母は権中納言藤原通季の娘。子は実保、隆保、実基、実進、女子。.

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徳大寺公能

徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は平安時代後期の公卿。右大臣正二位右大将。大炊御門右大臣と号す。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の女。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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忠快

忠快(ちゅうかい、応保2年(1162年) - 嘉禄3年3月16日(1227年4月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。法印、権大僧都。中納言法印と号した。「仲快」とも書かれる。.

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信円

信円(しんえん、仁平3年(1153年)- 元仁元年11月19日(1224年12月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての興福寺の僧。別当として南都焼討からの復興に尽力し、現在の興福寺の基礎を築き上げた中興の祖。摂政関白太政大臣藤原忠通の九男。.

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和漢朗詠集私注

『和漢朗詠集私注』(わかんろうえいしゅうしちゅう)は、信阿(別名・信救、覚明)によって著された『和漢朗詠集』の注釈書である。漢文体で注を施している。全六巻。 いくつかの写本の奥書に、応保元年(1161年)とあることから、この頃の成立と考えられる。先行する『和漢朗詠集』の注釈書である『朗詠江注』をわかりやすい形でとりこみ、『和漢朗詠集』全体にわたって句意や語句に注を施しているところに特徴がある。これは『和漢朗詠集私注』が、漢学の初心者向けの注釈書であったことを示している。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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八田宗綱

八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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玉置神社

玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社。大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。 社務所および台所、梵鐘は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部、pp.39,75。.

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王滝御嶽神社

王滝御嶽神社(おうたきおんたけじんじゃ)は、長野県木曽郡王滝村にある神社。王滝口御嶽神社(おうたきぐちおんたけじんじゃ)、御嶽神社王滝口(おんたけじんじゃおうたきぐち)ともいう。木曽御嶽山への山岳信仰に基づく神社。.

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福岡県

福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方北部にある県。県庁所在地は福岡市。2017年現在の人口は約511万人で、全国の都道府県中9位である。.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

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荘園整理令

荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.

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覚恵 (真言宗)

覚恵(かくえ、仁平元年〈1151年〉 - 元暦元年10月17日〈1184年11月21日〉)は、平安時代末期の皇族・真言僧。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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高階仲行

高階仲行(たかしな の なかゆき、保安2年(1121年) - 治承3年(1179年))は平安時代末期の廷臣。大膳大夫高階仲範の子。子息に仲基、仲国らがある。従五位上、蔵人。 早くより藤原忠実、頼長父子に近侍し、保延元年(1135年)に頼長の前駆を、永治元年(1141年)には高陽院藤原泰子(忠実の娘)の蔵人を勤める。久安4年(1148年)には頼長の家司、同5年(1149年)にはその子師長の家司となる。 保元元年(1156年)の保元の乱によって頼長が敗死し、忠実が奈良の知足院に逼塞して後も、引き続き忠実の傍近くに仕えた。主にこの時期の忠実の談話を仲行が筆録した『富家語』は、有職故実などを現代に伝える史料の一つとして貴重である。 応保2年(1162年)に忠実が没した後は出家し、四天王寺の周辺に居住したと言われる。治承3年(1179年)に59歳で死去。 なかゆき Category:平安時代後期の貴族 Category:1121年生 Category:1179年没.

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高階泰経

階 泰経(たかしな の やすつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。後白河法皇の側近(院近臣)。.

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鴨長明

長明 (菊池容斎画、明治時代) 下鴨神社境内にある摂社。河合神社は鴨長明ゆかりの社 河合神社内にある長明の方丈 鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。俗名はかものながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。.

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薗部保

薗部保(そのべのほう)は、下野国都賀郡(栃木県栃木市)にあった便補保。保域は現在の栃木市薗部に比定される。.

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藤原季行

藤原 季行(ふじわら の すえゆき)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家道綱流、刑部卿・藤原敦兼の三男。官位は従三位・大宰大弐。.

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

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藤原定隆

藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は平安時代後期の公卿。権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫。.

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藤原実宗

藤原 実宗(ふじわら の さねむね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。西園寺家の第三代目とされる人物。按察使藤原公通の長男。正二位内大臣。坊城内大臣、大宮、五条と号す。.

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藤原実明

藤原 実明(ふじわら の さねあきら)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権大納言・藤原公通の次男。.

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藤原家通 (権中納言)

藤原 家通(ふじわら の いえみち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家、中納言・藤原忠基の子。官位は正二位・権中納言・左衛門督。六角小路に邸宅があったことから「六角」と号する。.

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藤原家明

藤原 家明(ふじわら の いえあきら/いえあき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家末茂流、中納言・藤原家成の次男。官位は従三位・非参議。西四条と号す。.

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藤原宗家

藤原 宗家(ふじわら の むねいえ)は、平安時代後期の公卿。初名は信能(長寛2年(1164年)まで)。藤原北家中御門流の藤原宗能の長男。.

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藤原宗輔

藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安時代後期の公卿。右大臣藤原俊家の嫡男で後年中御門家の祖とされた権大納言藤原宗俊の子。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で『今鏡』『十訓抄』にも登場する。.

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藤原宗能

藤原 宗能(ふじわら の むねよし、応徳2年(1085年) - 嘉応2年2月11日(1170年2月28日))は、平安時代後期の公卿。本名は宗隆。藤原北家中御門流、右大臣・藤原宗忠の長男。官位は正二位・内大臣。中御門内大臣と号した。.

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藤原俊成

藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原忠雅

藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。花山院家3代。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

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藤原公通

藤原公通(ふじわら の きんみち)は平安時代後期の公卿。正二位権大納言按察使。西園寺家の第二代とされる。権中納言藤原通季の子。閑院按察使と号す。藤大納言とも呼ばれた。.

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藤原兼光

藤原 兼光(ふじわら の かねみつ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家真夏流日野家、権中納言・藤原資長の子。官位は従二位・権中納言。姉小路と号す。日野家13代。.

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藤原兼雅

藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣・藤原忠雅の長男。官位は従一位・左大臣。後花山院左大臣と号す。花山院家4代。.

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藤原兼房 (太政大臣)

藤原 兼房(ふじわら の かねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の十男。官位は従一位・太政大臣。.

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藤原光忠

藤原 光忠(ふじわら の みつただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家大炊御門家、大納言・藤原経実の三男。官位は従二位・中納言。二条天皇の外伯父。.

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藤原範忠

藤原 範忠(ふじわら の のりただ、生没年未詳)は、平安時代末期の公家、神官。藤原南家、熱田大宮司・藤原季範の長男。官位は従五位上・内匠頭。.

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藤原経家 (非参議)

藤原 経家(ふじわら の つねいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。六条を号し、六条三位とも称された。.

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藤原経宗

藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男(あるいは五男)。官位は従一位・左大臣・左大将。.

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藤原隆季

藤原 隆季(ふじわら の たかすえ)は、平安時代後期の公卿。中納言・藤原家成の長男。官位は正二位・権大納言。四条または大宮を号す。四条家の祖。.

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藤原顕時

藤原 顕時(ふじわらのあきとき、天永元年(1110年)- 仁安2年3月14日(1167年4月5日))は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、藤原長隆の子。母は高階重仲の娘。初名は顕遠。通称は中山中納言。妻は藤原有業の娘、平忠盛の娘、藤原信輔の娘。 天承元年(1131年)に蔵人となり、保延2年(1136年)頃から鳥羽院の院司・受領としての活動が見られる。久安6年(1150年)に五位蔵人、仁平2年(1152年)に右衛門権佐、久寿元年(1154年)に左少弁に任ぜられて三事兼帯となった。保元元年(1156年)に顕時と改名し、後白河天皇の下で正四位下右大弁に昇進、保元3年8月10日(1158年9月4日)に二条天皇の践祚に先だって左大弁蔵人頭に任ぜられ、翌平治元年(1159年)に参議に任じられ、同年に従三位に叙せられた。翌永暦元年(1160年)に権中納言、応保2年(1162年)には正三位に叙されて大宰権帥を兼ねた。長寛元年(1163年)に大宰権帥を、仁安元年(1166年)に権中納言を辞するが、仁安2年(1167年)1月に従二位民部卿に任ぜられ、間もなく没した。 平家物語においては平清盛に「大小事申し合はせし人」、即ち大きな事から小さな事まで相談に乗ってくれた恩人として回想されており、彼の息子の藤原行隆に報恩として左大弁への推薦状、領地の権利書や出仕の為の費用等を用立てている。.

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藤原親信

藤原 親信(ふじわら の ちかのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。右京大夫・藤原信輔の四男。水無瀬家の祖。.

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藤原親隆

藤原 親隆(ふじわら の ちかたか)は、平安時代後期の公卿。藤原為房の七男。正三位・参議。四条宰相、四条三位と号す。.

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藤原育子

藤原 育子(ふじわら の むねこ(いくし)、久安2年(1146年) - 承安3年8月15日(1173年9月23日))は、平安時代末期の后妃。二条天皇の中宮、六条天皇の養母。 姓は藤原、初名は香子。実父については、閑院流の徳大寺左大臣実能と、摂関流の法性寺関白忠通の二説がある。前者は育子を実能の実娘、忠通の養女、義兄基実の猶子とし、後者は忠通の乙姫君(皇嘉門院につぐ忠通の次女)として異母兄基実の猶子になったとする。史料性としては、前者が室町期の作成であることに対し、後者の方はほぼ同時代人による記録で、ことに愚管抄の作者である慈円(忠通息)は育子の身内であった。以下、育子は忠通の実子、という推定のもとで記述する。 生母は忠通家女房、督殿源俊子(村上源氏、地方の受領源顕俊の娘)。.

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藤原重家 (刑部卿)

藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の子。官位は従三位・大宰大弐。初名は光輔。六条を号す。六条藤家4代。.

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藤原長方

藤原 長方(ふじわら の ながかた)は、平安時代末期の公卿・歌人。父は権中納言・藤原顕長(「夜の関白」藤原顕隆の子)。また母は藤原俊忠女であるため、藤原俊成の甥、藤原定家の従兄に当たる。.

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藤原雅隆

藤原 雅隆(ふじわら の まさたか)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・藤原光隆の長男。.

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藤原雅長

藤原 雅長(ふじわら の まさなが)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、中納言・藤原雅教の長男。官位は従二位・参議。.

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藤原泰通

藤原 泰通(ふじわら の やすみち)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。正二位権大納言、按察使。参議藤原為通の息男。大納言藤原成通の猶子となる。母は大納言源師頼の娘。妻は四条隆季の娘、藤原教良の娘など。子には大納言に至った経通、権中納言に至った国通、朝通、広通、覚愉、寛俊、道寛、信宗、女子(藤原兼良の室)、女子(三条公氏の室)がいる。.

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藤原清隆

藤原 清隆(ふじわら の きよたか)は、平安時代後期の公卿。因幡守・藤原隆時の子。官位は正二位・権中納言。猫間中納言と号す。.

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藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.

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藤原成通

藤原 成通(ふじわら の なりみち、承徳元年(1097年) - 応保2年(1162年))は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原宗通の四男。初名・宗房。法名・栖蓮。正二位・大納言。蹴鞠・今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。.

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藤原教長

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。.

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葛西清重

葛西 清重(かさい きよしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏の庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し、鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。.

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重仁親王

重仁親王(しげひとしんのう、保延6年9月2日(1140年10月14日) - 応保2年1月28日(1162年2月13日))は、平安時代後期の皇族。崇徳天皇の第一皇子。母は源行宗養女(法印信縁(藤原北家小野宮流季実の子)の娘)兵衛佐局。乳母は池禅尼。法名は空性。 親王の誕生前年、院政を行う鳥羽上皇の強い意向によって、父である崇徳天皇は自身の異母弟・体仁親王(後の近衛天皇)を皇太弟に立てた。親王は生まれてすぐに体仁親王の生母である藤原得子(美福門院)の養子に迎えられた。近衛天皇が即位した永治元年12月(1142年)、親王宣下を受ける。天養元年(1144年)、着袴。久安6年12月(1150年)、元服して三品に叙される。美福門院は重仁親王を我が子の様にかわいがっており、次の皇太子に最も近い地位にいたともいわれている。 ところが、久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、宮廷では上皇が藤原頼長と結んで天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに怒った鳥羽法皇は重仁親王ではなく上皇の弟の雅仁親王(後白河天皇)を即位させ、崇徳上皇がこれに強い恨みを抱いたことが保元の乱の原因となる。 乱後、崇徳上皇は讃岐国に流罪となり、重仁親王は仁和寺に入り出家した。寛暁大僧正のもとで仏道に励んだが、応保2年(1162年)に足の病により薨去した。享年23。 なお、重仁親王は出家後、父母の居る讃岐に行き21歳で亡くなるまで父崇徳上皇や母兵衛佐局の近くで暮らしたとの伝説があり、高松市檀紙町には重仁親王廟まである。.

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長寛

長寛(ちょうかん)は、日本の元号の一つ。応保の後、永万の前。1163年から1164年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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長寛勘文

長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。.

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長沼宗政

長沼 宗政(ながぬま むねまさ)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。長沼氏・皆川氏の祖。.

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難波頼輔

難波 頼輔(なんば よりすけ)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家花山院流、大納言・藤原忠教の四男。蹴鞠の二大流派、難波・飛鳥井両家の祖。.

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陸奥按察使

奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職である。しばしば陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち、みちのくいではのあぜち)とも言われた。720年頃に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した。他の地方の按察使が任命されなくなってからも継続したが、817年以降は中央の顕官の兼職となり、形骸化した。令外官で、属官に記事があった。官位相当は721年に正五位上、812年から従四位下と定められたが、実際の位階は従五位上から正二位までの幅があった。.

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暲子内親王

暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。.

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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.

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梶原景季

梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。 源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。.

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武田信光

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.

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永暦

永暦(えいりゃく)は、日本の元号の一つ。平治の後、応保の前。1160年から1161年の期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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渋谷重国

渋谷 重国(しぶや しげくに、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。河崎重家の子。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族。子に光重、高重、時国、重助、家義、重近、佐々木秀義室。 『畠山系図』によると、父・重家や祖父・基家は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住して河崎(を称した。重国の代の応保年間、武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)から相模国高座郡渋谷荘(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司と称した。.

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源平盛衰記

『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).

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源信時

源 信時(みなもと の のぶとき/さねとき、生年不詳 - 応保3年(1163年)6月)は平安時代後期の貴族。村上源氏、権中納言・源国信の子。官位は正四位下・越後守。 備前守を経て、仁平2年(1152年)正月28日に伊賀守に任ぜられる。その後さらに越後守に転じるなど主に各国の受領を歴任した。位階は正四位下。.

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源兼定

源 兼定(みなもと の かねさだ)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従三位、治部卿。猪熊中納言源雅頼の長男。母は太皇太后宮少進源盛定の娘。初名は雅能、兼房と改名し、さらに兼定と改めた。弟兼忠に比べると極めて遅い昇進であるため、雅頼の事実上の嫡子は兼忠であったと考えられる。生母の出自も兼忠の母の方が格上である。.

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源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源顕信

源 顕信(みなもと の あきのぶ)は平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。越後守・源信時の子。本名は国時。坊城を号す。.

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源資賢

源 資賢(みなもと の すけかた)は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏、宮内卿・源有賢の長男。官位は正二位・権大納言。.

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源雅定

源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.

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源雅頼

源 雅頼(みなもと の まさより)は平安時代後期の公卿、歌人。権中納言・源雅兼の三男。または四男。壬生、猪熊源中納言、綾小路と号す。.

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源雅通

源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代後期の公卿。権大納言源顕通(1081-1122)の次男。 幼少時に父を失い、叔父の右大臣源雅定の養嗣子となる。兵部権大輔・近江権介・皇后宮権亮・備後権守などを歴任し、久寿2年(1155年)大嘗会国司賞として従三位となる。また、奨学院別当・検非違使別当なども務めた。正二位内大臣まで昇進したが、嘉応元年(1169年)以降は病気になり、承安5年(1175年)に久我別荘にて薨去した。享年58。 歌人としては、『千載和歌集』以下の勅撰集に10首入集する他、『続詞花集』などの私撰集にも入集がある。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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源成雅

源 成雅(みなもと の なりまさ、生没年未詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、陸奥守・源信雅の四男。官位は正四位下・左近衛中将。近江中将と号す。.

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滋野井実国

滋野井 実国(しげのい さねくに、實國)は平安時代末期の公卿、歌人。滋野井家の祖。三条大納言と号す。藤原実国とも。.

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最雲法親王

最雲法親王(さいうんほっしんのう、長治元年(1104年) - 応保2年2月16日(1162年3月3日)は、平安時代中期の天台宗の僧。父は堀河天皇。 比叡山に上り、天台座主仁豪に師事して出家・受戒し、仁実僧正から顕教・密教を学んだ。1156年(保元元年)延暦寺座主に就任し、1158年(保元3年)には僧正に任じられ、親王宣下を受けて法親王となった。同じ年座主の職を辞して山房に閑居、座禅看経の生活を送った。.

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成賢

成賢(じょうけん/せいけん、応保2年(1162年) - 寛喜3年9月19日(1231年10月16日))は鎌倉時代前期の真言宗の僧。藤原南家の出身で、中納言・藤原成範の子。遍智院僧正、宰相僧正と称された。 若くして醍醐寺の叔父勝賢に師事して諸経論を学び、文治元年(1185年)三宝院に入り、11月勝賢より灌頂を受ける。建久4年(1193年)勝賢の権僧正辞退にかわり権律師に任ぜられ、正治2年(1200年)には権少僧都に進む。建仁3年(1203年)に醍醐寺座主に補任された。元久2年(1205年)に座主を持して良海に譲るが、翌年再び座主に復任して、建永2年(1207年)祈雨の功で法印に叙せられた。承元2年(1208年)に大僧都、承元4年(1210年)3月に東寺三長者に任ぜられる。建暦元年(1211年)再び祈雨の功で権僧正となるなど、祈雨に長じたようである。建保6年(1218年)座主を弟子の光宝に譲りまた諸職を辞任した。 成賢は生涯に御修法を39度にわたって行い、秘法を修すれば常に法験を示したという。門弟らもその褒賞により僧官を与えられた。寛喜3年(1231年)9月19日、遍智院で入寂。享年70。藤原定家は成賢を「天下の富人」と評している。著作に、『薄双紙』や『遍口鈔』、『結縁灌頂私記』などがある。 四十人あまりの弟子があったが、特に道教、深賢、憲深、慈教は四傑と呼ばれてそれぞれ家風を起こし、これらは総じて成賢流と称された。.

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新田義房

新田 義房(にった よしふさ)は鎌倉時代の武将で、新田氏本宗家の3代総領。新田蔵人。新田義兼の長男で一人息子。若いころは上西門院に仕えた。 .

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日野資実

日野 資実(ひの すけざね)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿、歌人。日野家の第14代当主。.

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日本の皇后一覧

日本の皇后一覧(にっぽんのこうごういちらん)は、日本の皇后の一覧。.

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日本の貿易史

日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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1161年

記載なし。

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1162年

記載なし。

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1163年

記載なし。

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2月13日

2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。.

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2月15日

2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。.

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3月17日 (旧暦)

旧暦3月17日は旧暦3月の17日目である。六曜は先勝である。.

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3月29日 (旧暦)

旧暦3月29日は旧暦3月の29日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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5月2日

5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.

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5月6日 (旧暦)

旧暦5月6日(きゅうれきごがつむいか)は旧暦5月の6日目である。六曜は仏滅である。.

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6月18日 (旧暦)

旧暦6月18日は旧暦6月の18日目である。六曜は大安である。.

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9月23日

9月23日(くがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。.

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9月3日 (旧暦)

旧暦9月3日(きゅうれきくがつみっか)は旧暦9月の3日目である。六曜は大安である。.

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9月4日 (旧暦)

旧暦9月4日(きゅうれきくがつよっか)は旧暦9月の4日目である。六曜は赤口である。.

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