ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

山海関

索引 山海関

山海関(さんかいかん、満州語:、転写:šanaha furdan)は、万里の長城の一部を構成する要塞。河北省秦皇島市山海関区に所在。華北と東北の境界である、河北・遼寧省境が渤海に会する位置にある。2009年に中国政府が遼寧省虎山の虎山長城が長城の東端と訂正するまで、山海関から延びた城壁が海岸から突き出た「老龍頭」が長城の東端とされていた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す。 明代は山海関より西側を「関内」と称し、東側の満洲を「関東」もしくは「関外」といった。かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する。.

115 関係: 劉坤一反日感情塘沽協定天命 (後金)太子河区外来語表記法 (大韓民国)奉直戦争孤竹国孫承宗山口県立下関西高等学校山海関区崇禎帝中原の虹中国鉄路瀋陽局集団公司中華人民共和国の世界遺産万里の長城于学忠京哈線京哈高速道路京瀋高速道路康熙帝張作霖張錫元張懐芝後金北京議定書ナヴァリン (戦艦)ヌルハチトゥメトヘトゥアラドルゴンホルチン嘉峪関呉三桂呉佩孚呉応熊オボイジルガランサルフの戦い傅作義儀我誠也兵庫県立洲本高等学校勘合王士珍福陵秦皇島市義和団の乱田中玉甕城燕山山脈...牛島満牛金星盧溝橋事件瀋陽故宮遷民県遼瀋戦役遼陽市華北平原順 (王朝)順治帝袁崇煥西塔 (瀋陽市)馮治安高砂 (防護巡洋艦)護国法輪寺鮑貴卿趙テキ趙烈文軍事指揮官の一覧鼓楼胡イツフン郭松齢興城市赤塚不二夫関内関西関東 (中国)関東州関東州の競馬関東軍闖関東葫芦島市葉群蒋桂戦争臨楡県 (秦皇島市)虎山長城陳ショク陳円円陳昭常林立果李鼎新李自成東経120度線楊嗣昌歩兵第25連隊永陵 (清)汲金純満州満州事変満州国の郵便史満州国国有鉄道満州国軍漢軍八旗朝鮮族昭陵 (清)日清戦争拝月亭曹エイ曹コン14世紀17世紀1902年の政治1932年の政治1933年 インデックスを展開 (65 もっと) »

劉坤一

劉 坤一(りゅう こんいつ、Liu Kunyi、道光10年(1830年) - 光緒28年9月26日(1902年10月27日)は清末の軍人・官僚。字は硯荘。曽国藩・左宗棠の死後、張之洞と共に後期の洋務運動を指導した。.

新しい!!: 山海関と劉坤一 · 続きを見る »

反日感情

反日感情(はんにちかんじょう、英語:Anti-Japanese sentiment)は、日本や日本人、日系人に対して抱いている反感を指す言葉である。.

新しい!!: 山海関と反日感情 · 続きを見る »

塘沽協定

塘沽協定(とうこきょうてい)は、1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。.

新しい!!: 山海関と塘沽協定 · 続きを見る »

天命 (後金)

天命(てんめい、満州語:、転写:abkai fulingga)は、後金の太祖の治世で使用された元号。1616年 - 1626年。実際に使用された元号でなく、後に制定されたという学説もある。.

新しい!!: 山海関と天命 (後金) · 続きを見る »

太子河区

太子河区(たいしが-く)は中華人民共和国遼寧省遼陽市に位置する市轄区。.

新しい!!: 山海関と太子河区 · 続きを見る »

外来語表記法 (大韓民国)

外来語表記法(외래어 표기법)とは、大韓民国の国立国語院が1986年に定めた、韓国語で使用される外来語のハングル表記に関する規定である。 この規定では、他言語の音韻等を、韓国の標準語に近い音韻と対応させてハングルで表記する方法を示している。.

新しい!!: 山海関と外来語表記法 (大韓民国) · 続きを見る »

奉直戦争

奉直戦争(ほうちょくせんそう、直奉战争、)は、護法運動後の軍閥支配時代における中華民国での戦争。直隷派の呉佩孚と奉天派の張作霖の間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、戦争が行われた。1922年は直隷派が勝利したが、1924年は奉天派が勝利し、張作霖が政権を掌握した。.

新しい!!: 山海関と奉直戦争 · 続きを見る »

孤竹国

孤竹国(こちくこく、紀元前1100年頃 - 紀元前378年)は、殷周代から春秋後期に現在の中華人民共和国河北省唐山市に存在した国家である。国姓は子。伯夷、叔斉の故事で知られ、前664年に斉により滅ぼされた。.

新しい!!: 山海関と孤竹国 · 続きを見る »

孫承宗

孫 承宗(そん しょうそう、1563年2月27日(嘉靖42年1月25日) - 1638年)は、明末の官員、将軍。字は稚縄。天啓帝の師。.

新しい!!: 山海関と孫承宗 · 続きを見る »

山口県立下関西高等学校

山口県立下関西高等学校(やまぐちけんりつ しものせきにしこうとうがっこう Shimonoseki-Nishi High School)は、山口県下関市に所在する公立の高等学校。略称は、下関市内では「西高」(にしこう)、市外では「下西」(しもにし)。.

新しい!!: 山海関と山口県立下関西高等学校 · 続きを見る »

山海関区

山海関区(さんかいかん-く)は中華人民共和国河北省秦皇島市に位置する市轄区。国家歴史文化名城の一つに指定されている。 万里の長城の東端に当る山海関が位置する。.

新しい!!: 山海関と山海関区 · 続きを見る »

崇禎帝

崇禎帝(すうていてい)は、明朝第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪儉揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が荘烈愍皇帝と改めた。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした。.

新しい!!: 山海関と崇禎帝 · 続きを見る »

中原の虹

『中原の虹』(ちゅうげんのにじ)は、浅田次郎の長編小説。『小説現代』にて約3年半にわたる連載を経て、2006年から2007年に全4巻が講談社で刊行された。講談社文庫では2010年9-10月に刊行。  『蒼穹の昴』の続編。義和団の乱(1900年)を描いた『珍妃の井戸』を間に挟んで、義和団の乱から7年後、日露戦争後の光緒新政の時代から物語は始まる。 本作の続編は『マンチュリアン・リポート』である。 第42回吉川英治文学賞(吉川英治国民文化振興会主催)を受賞(2008年)。.

新しい!!: 山海関と中原の虹 · 続きを見る »

中国鉄路瀋陽局集団公司

瀋陽鉄路局(しんようてつろきょく)は中国鉄路総公司の管轄下の18ある鉄路局のうちの1つである。略称は瀋局。 瀋陽鉄路局の管理する線路の総括的な延長の長さは約17173km、営業キロは、8809.2km。 瀋陽鉄路局には長白山号が配備されている。 戦前、南満州鉄道の路線であった路線を多く抱え、鉄道設備も多くを引き継いで使用している。.

新しい!!: 山海関と中国鉄路瀋陽局集団公司 · 続きを見る »

中華人民共和国の世界遺産

中華人民共和国の世界遺産(ちゅうかじんみんきょうわこくのせかいいさん)はユネスコの世界遺産に登録されている中華人民共和国国内の文化・自然遺産の一覧。:Category:中華人民共和国の世界遺産に索引がある。なお現在(2017年7月)、52件の世界遺産が登録されている(イタリアの53件に次ぐ)。世界遺産登録の前段階となる暫定リストは、60件ある。注:一部に中国語の遺産登録名称を採用しています。.

新しい!!: 山海関と中華人民共和国の世界遺産 · 続きを見る »

万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.

新しい!!: 山海関と万里の長城 · 続きを見る »

于学忠

于 学忠(う がくちゅう)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。北京政府では直隷派の呉佩孚の腹心であった。後に奉天派の軍人となるが、張学良の易幟後は国民政府(国民革命軍)に転じた。河北省政府主席として、満州事変(九・一八事変)後の関東軍と折衝を繰り広げたことでも知られる。字は孝侯。祖籍は山東省登州府蓬莱県。.

新しい!!: 山海関と于学忠 · 続きを見る »

京哈線

京哈線(けいはせん)は中華人民共和国北京市東城区の北京駅と黒竜江省哈爾浜市南崗区のハルビン駅を結ぶ、中国鉄路総公司(CR)の鉄道路線である。.

新しい!!: 山海関と京哈線 · 続きを見る »

京哈高速道路

京哈高速道路 (けいごう-こうそくどうろ、、、ピン音: Jīnghā Gāosù Gōnglù)は北京市からハルビン市(哈爾浜市)に至る中華人民共和国の高速道路。現在、北京区間の長さはおよそ10kmである。 路面は凹凸が多く、夜間の運転には危険が伴う。また、インターチェンジは少ない。 京哈高速道路は、北京市とハルビン市(哈爾浜市)双方の一文字を組み合わせて(北京 - 京、ハルビン - 哈)、命名された。.

新しい!!: 山海関と京哈高速道路 · 続きを見る »

京瀋高速道路

京瀋高速道路(きょうしんこうそくどうろ、)は、北京より瀋陽を結ぶ高速道路で全長658km、中国の国家高速道路網の首都放射線の7本(M7)の1つ北京~ハルビンの重要な部分を占める。 京瀋高速道路は、北京五環路の東より有料道路となる。最高限速度110km/h、但し天津においては部分的に120km/h。 北京より、香河、天津宝坻、北戴河、秦皇島、山海関、葫蘆島、錦州、盤錦、瀋陽を結ぶ。.

新しい!!: 山海関と京瀋高速道路 · 続きを見る »

康熙帝

康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。 西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝'''聖'''宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。.

新しい!!: 山海関と康熙帝 · 続きを見る »

張作霖

張 作霖(ちょう さくりん、Zhang Zuolin、1875年3月19日 - 1928年6月4日)は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。字は雨亭。.

新しい!!: 山海関と張作霖 · 続きを見る »

張錫元

張 錫元(ちょう しゃくげん)は、中華民国の軍人。北京政府、直隷派に属した。字は嘏民。.

新しい!!: 山海関と張錫元 · 続きを見る »

張懐芝

張 懐芝(ちょう かいし)は清末民初の軍人。北洋系で、北京政府の中でも主に安徽派に属した。字は子志。.

新しい!!: 山海関と張懐芝 · 続きを見る »

後金

後金(こうきん、1616年 - 1636年(1912年)(z、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(z, 滿洲國)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(z、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(z)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(z, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(z、興京)に置かれた。.

新しい!!: 山海関と後金 · 続きを見る »

北京議定書

北京議定書(ペキンぎていしょ)は、1901年9月7日に北京で調印された、義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約(しんちゅうじょうやく)、辛丑和約(しんちゅうわやく)ともいう。欧米では Boxer Protocol の呼び名が一般的である。 なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列強国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。.

新しい!!: 山海関と北京議定書 · 続きを見る »

ナヴァリン (戦艦)

ナヴァリン(ロシア語:Наваринナヴァリーン)は、ロシア帝国がバルト艦隊向けに建造した前弩級戦艦である。艦名はロシア帝国艦隊がオスマン帝国艦隊に対して勝利を収めたナヴァリンの海戦を記念したもの。ロシア帝国海軍では当初は装甲艦(броненосный корабль)に分類され、1892年2月1日付けで艦隊装甲艦(эскадренный броненосец)に類別を変更された。.

新しい!!: 山海関とナヴァリン (戦艦) · 続きを見る »

ヌルハチ

ヌルハチ(努爾哈赤、z)は、後金の創始者。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン(genggiyen han)、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝(dergi hūwangdi)である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。.

新しい!!: 山海関とヌルハチ · 続きを見る »

トゥメト

トゥメト(Түмэд,Түмд、 中国語:土默特 Tǔmòtè、英語:Tümed,Tumad)は、モンゴルの一部族。トメト,トゥマト,トゥメド,トマトとも表記される。 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。.

新しい!!: 山海関とトゥメト · 続きを見る »

ヘトゥアラ

ヘトゥアラ(赫図阿拉、黒禿阿喇、黒図阿拉、、転写:hetu ala)は、女真族の実力者で後金の創始者ヌルハチが出生し、本拠とした町。満州語で「横の岡」を意味する。現在の中華人民共和国遼寧省撫順市新賓満族自治県の西、永陵鎮老城村にあたる。 この地で生まれ建州女直を支配するに至ったヌルハチは、1616年(天命元年、明の万暦四十四年)、ヘトゥアラ(hetu alai hecen、ヘトゥアラ城)で明からの独立と「アイシン国」(aisin gurun、金国、一般には後金と呼ばれる)の建国、ハンへの即位を宣言し、その都を長年自分の居城であったヘトゥアラに定めた。ヌルハチは1622年に都を遼陽に移し、さらに1625年には瀋陽へ遷都し盛京(満州語:abkai gosiha mukden、天の愛するムクデン)と改名した。 1636年(崇徳元年、明の崇禎九年)、ホンタイジは国号を清に改め、旧都ヘトゥアラも興京(満洲語:abkai gosiha yenden、天の愛するイェンデン)と改名した。.

新しい!!: 山海関とヘトゥアラ · 続きを見る »

ドルゴン

ドルゴン(満洲語:, ラテン文字転写: dorgon、多爾袞、万暦40年10月25日(1612年11月17日) - 順治7年12月9日(1650年12月31日))は、後金から清初の皇族。。甥にあたる順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。養子にがいる。.

新しい!!: 山海関とドルゴン · 続きを見る »

ホルチン

ホルチン(Хорчин、 中国語:科爾沁、ラテン文字表記:Khorchin)は、15世紀前期に形成されたモンゴルの一部族。その遠祖はチンギス・カンの弟のジョチ・カサル。.

新しい!!: 山海関とホルチン · 続きを見る »

嘉峪関

嘉峪関(かよくかん、満州語: 転写:sain holo furdan)は中華人民共和国甘粛省嘉峪関市に位置する万里の長城最西部に位置する関。山海関と共に万里の長城で要衝であった。.

新しい!!: 山海関と嘉峪関 · 続きを見る »

呉三桂

呉三桂が佩用したと伝わる大刀 呉 三桂(ご さんけい、)は、明末清初の軍人、周の初代皇帝。遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。子に呉応熊ら、孫に呉世璠。.

新しい!!: 山海関と呉三桂 · 続きを見る »

呉佩孚

呉 佩孚(ご はいふ)は清末民初の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の有力指導者の1人である。字は子玉。.

新しい!!: 山海関と呉佩孚 · 続きを見る »

呉応熊

呉 応熊(ご おうゆう、 生年不詳 - 康熙14年4月13日(1675年5月7日))は、清初の武将。.

新しい!!: 山海関と呉応熊 · 続きを見る »

オボイ

ボイ(満州語、転写:oboi、鰲拝、1610年頃 - 1669年)は、清朝前期の重臣、武人である。オーバイとも。姓はグワルギャ(gūwalgiya、瓜爾佳)。満洲鑲黄旗出身。太祖ヌルハチの腹心として活躍したフュンドン(fiongdon、費英東)の甥、納穆福の父である。.

新しい!!: 山海関とオボイ · 続きを見る »

ジルガラン

ルガラン(済爾哈朗、v、1599年 - 1655年6月11日)は、清朝初期の愛新覚羅氏の満州貴族、太祖ヌルハチの弟シュルハチ(舒爾哈斉)の6番目の息子である。摂政や政治・軍事における指導者を務めた人物であり、1638年から1643年までは明朝打倒のための数多くの軍事作戦を担い、1643年のホンタイジ(太宗)の死後には、ジルガランは幼い順治帝の2人の摂政のうちの一人となった。しかし、その後間もない1644年10月にほとんどの権力をもう一人の摂政ドルゴンに明け渡すことになり、最終的にジルガランは1647年に摂政の地位から追い落とされた。1650年のドルゴンの死後、ジルガランはドルゴンの旧支持者の一掃に努めた。ジルガランは10人の和碩親王の一人であり、その子孫は代々、鉄帽子王としての爵位を認められた。.

新しい!!: 山海関とジルガラン · 続きを見る »

サルフの戦い

ルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、)は、1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにも関わらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。 建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。.

新しい!!: 山海関とサルフの戦い · 続きを見る »

傅作義

傅 作義(ふ さくぎ)は中華民国、中華人民共和国の軍人・政治家。民国時代は北京政府、国民政府(国民革命軍)、山西派に属した。中華人民共和国では、長年にわたり水利部長をつとめている。字は宜生。.

新しい!!: 山海関と傅作義 · 続きを見る »

儀我誠也

儀我 誠也(ぎが せいや、1888年11月11日 - 1938年1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。.

新しい!!: 山海関と儀我誠也 · 続きを見る »

兵庫県立洲本高等学校

兵庫県立洲本高等学校(ひょうごけんりつ すもとこうとうがっこう)は、兵庫県洲本市上物部二丁目に位置する県立高等学校。淡路島で最も歴史のある高校であり、また、兵庫県下でも5番目に古い伝統校である。 愛称・略称は「洲高」(すこう)『名門高校の校風と人脈260 洲本高校(兵庫県立・洲本市)』週刊エコノミスト(2017年10月17日)pp.42-43。定時制課程を併設しているほか、かつては島内に3つの分校があった。.

新しい!!: 山海関と兵庫県立洲本高等学校 · 続きを見る »

勘合

勘合(かんごう)は日明貿易等に用いられた、明と朝貢国間の正式の来貢、通交船であることを証明する明が発行した割符。勘合符(かんごうふ)とも称され、勘合を「勘合符」の略と解説する辞書・事典類も多いが、中国側において公式に用いられた用語は勘合であり、日本においても江戸時代以後に用いられた「勘合の符」という呼称の略として用いられた俗称が勘合符であったと考えられている。.

新しい!!: 山海関と勘合 · 続きを見る »

王士珍

王 士珍(おう しちん)は、清末民初の軍人・政治家。段祺瑞・馮国璋とともに「北洋新軍三傑」と称された人物である。北京政府では国務総理も務めた。字は聘卿。号は冠喬、冠儒。.

新しい!!: 山海関と王士珍 · 続きを見る »

福陵

福陵(ふくりょう、満州語:、転写:hūturingga munggan)は、中国遼寧省の瀋陽市渾南区天柱山にある、清の前身・後金の初代皇帝であるヌルハチ、及びホンタイジの生母であるイェヘナラ氏(孝慈高皇后)の陵墓。 1629年に建てられた。瀋陽市の東部に位置するので通称東陵とも。保存状態が悪かったが、修復され現在は「東陵公園」として一般公開されている。昭陵、永陵とともに清の関外三陵のひとつ。山に囲まれていて、参道には108段の石段がある。1988年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定され、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。.

新しい!!: 山海関と福陵 · 続きを見る »

秦皇島市

皇島市(しんこうとう/しんのうとう-し)は中華人民共和国河北省に位置する地級市。著名な高級避暑地北戴河や観光地山海関が位置する。.

新しい!!: 山海関と秦皇島市 · 続きを見る »

義和団の乱

義和団のメンバー 1900-1904年の東アジア時局図 義和団の乱(ぎわだんのらん、)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。 義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。 当初は義和団を称する秘密結社による中国での排外運動であったが、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。禁圧の過程でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に電信ケーブルを敷設した。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。.

新しい!!: 山海関と義和団の乱 · 続きを見る »

田中玉

中玉(でん ちゅうぎょく)は清末民初の軍人。北京政府、安徽派に属した有力者。字は薀山。.

新しい!!: 山海関と田中玉 · 続きを見る »

甕城

甕城の模式図 西安城の甕城 水原城甕城 カルカソンヌ城) 甕城(おうじょう)は、中国の城郭や関所で、正規の城門外(まれに城門内側)に防御用の城門を二重(もしくは三重以上)にかけた半円形あるいは方形の小堡をいう。蘇州、北京、西安などの都市城壁に付属して見られる。.

新しい!!: 山海関と甕城 · 続きを見る »

燕山山脈

燕山山脈(えんざんさんみゃく、燕山、)は中華人民共和国北部にある山地。河北省の河北平原の北を囲むようにそびえる。名は、南に燕国があったことにちなむ。 北京市の北部の軍都山から潮白河の峡谷を超えて山海関までを東西に走る。特に北京市西部の潮白河峡谷から山海関までの間(小燕山)が狭義の燕山であり、大房山、鳳凰山、霧霊山などの名山が点在する。北京北部の軍都山から潮白河峡谷までは大燕山とも呼ばれ、軍都山西端の拒馬河峡谷と居庸関の向こうは、河北平原の西を南北に走る太行山脈である。 主に石灰岩、花崗岩、玄武岩などから構成される。海抜は400mから1,000mで、最高峰の霧霊山(承徳市興隆県)は海抜2,116mに達する。 南の華北と北の内モンゴルおよび遼西を隔てる燕山には多数の渓谷があり、これらは南北を結ぶ隘路として戦略上重要な役割を持っていた。主な道には古北口(潮河峡谷、北京市密雲県)、喜峰口(灤河峡谷、唐山市と承徳市の間)、冷口などがある。また万里の長城の東端は燕山の上を走る。 石炭などの鉱物資源が豊富なほか自然も豊かで、山脈内には霧霊山自然保護区がある。承徳には清朝皇帝の離宮である避暑山荘がありその周囲の山々は立ち入り禁止の土地として自然が保たれていたが、清の崩壊以後は相次ぐ戦争や開墾により多くの森が切り倒された。.

新しい!!: 山海関と燕山山脈 · 続きを見る »

牛島満

牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。鹿児島県鹿児島市出身。 沖縄戦において、第32軍を指揮し自決した。温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市、南京市攻略戦に参加し、武功を挙げた。.

新しい!!: 山海関と牛島満 · 続きを見る »

牛金星

牛 金星(ぎゅう きんせい、? - 1652年)は、明朝末期、順の李自成の軍師・政治家。字は聚明。河南宝豊県陂北里大牛庄の出身。.

新しい!!: 山海関と牛金星 · 続きを見る »

盧溝橋事件

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である7月7日に日中両軍が衝突した事実は全くない。衝突は7月8日午前5時30分からのことである(坂本夏男「盧溝橋事件勃発についての一検証」『芸林』40(1), p2-26, 1991-02)。。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。英語ではMarco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる。.

新しい!!: 山海関と盧溝橋事件 · 続きを見る »

瀋陽故宮

瀋陽故宮(しんようこきゅう 中国語:沈阳故宫(簡体字),瀋陽故宮(繁体字) )は、中国の遼寧省瀋陽市瀋河区内に残る清朝の離宮である。盛京皇宮と呼ばれていた。.

新しい!!: 山海関と瀋陽故宮 · 続きを見る »

遷民県

遷民県(せんみん-けん)は中華人民共和国河北省にかつて存在した県。現在の秦皇島市北東部山海関一帯に相当する。 遼朝により設置され、金朝により廃止された。 せんみん 廃せんみんけん Category:秦皇島の歴史.

新しい!!: 山海関と遷民県 · 続きを見る »

遼瀋戦役

遼瀋戦役(りょうしんせんえき、遼瀋戰役)、または略せずに遼寧瀋陽戦役(りょうねいしんようせんえき)は国共内戦の後期、中国人民解放軍が仕掛けた3つの戦役のうち、最初の戦役である(残りの2つは淮海戦役と)。中華民国側の呼称は遼西会戦(遼西會戰)。1948年9月から11月まで52日間続いたこの戦役では人民解放軍が瀋陽、長春、錦州で中華民国陸軍を撃破、満州全域を占領した。.

新しい!!: 山海関と遼瀋戦役 · 続きを見る »

遼陽市

遼陽市(りょうようし)は中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。古代より遼東における中華帝国の中心であった軍事上の重要都市であり、また新興の工業都市である。.

新しい!!: 山海関と遼陽市 · 続きを見る »

華北平原

中原地帯 華北平原(かほくへいげん)は、中国にある平野。現在の華北と呼ばれるエリアとは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。伝統的に中原と呼ばれるエリアを中心とする平原だが、文脈によって中原と同義であることもある。地理的に内蒙古と満州と隣接する。.

新しい!!: 山海関と華北平原 · 続きを見る »

順 (王朝)

順(じゅん、1644年 - 1645年)は、大順(だいじゅん)ともいい、1644年に明朝を倒した李自成が建国を宣言した王朝。一時は現在の内地18省を実効支配し、満洲や新疆東部に羈縻機構を設置した。建国宣言当初は西安を首都と定めていたが、李自成が北京を攻略後、皇帝を称するにあたり北京を改めて首都と定めた。.

新しい!!: 山海関と順 (王朝) · 続きを見る »

順治帝

順治帝(じゅんちてい)は、清の第3代皇帝。姓名はアイシンギョロ・フリン(ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣᡶᡠᠯᡳᠨ、愛新覚羅 福臨)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。 入関後(中国支配の開始後)の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。.

新しい!!: 山海関と順治帝 · 続きを見る »

袁崇煥

袁 崇煥(えん すうかん、万暦12年4月28日(1584年6月6日) - 崇禎3年8月16日(1630年9月22日))は、明末の武将。字は元素。広州府東莞県石碣鎮水南郷(現・広東省東莞市)の人。 その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代の名軍師諸葛孔明になぞらえてたたえられた。兵に対しても思いやり深い人物だったという。しかし、身内の明王朝内部に疑われて処刑された。.

新しい!!: 山海関と袁崇煥 · 続きを見る »

西塔 (瀋陽市)

西塔(せいとう、またはシーター=)は中華人民共和国遼寧省の省都・瀋陽市の和平区にあるラマ教の寺院で、別名は延寿寺。付近は伝統的に朝鮮族が多く住んでいる地域で、ここのコリア・タウンも「西塔」と呼んでいる。.

新しい!!: 山海関と西塔 (瀋陽市) · 続きを見る »

馮治安

馮 治安(ふう ちあん、)は、中華民国の軍人。国民軍出身の国民革命軍軍人で、日中戦争などで日本軍と何度も激戦を繰り広げた。字は仰之。旧名は治台。.

新しい!!: 山海関と馮治安 · 続きを見る »

高砂 (防護巡洋艦)

(たかさご)は、日本海軍の二等巡洋艦(防護巡洋艦)#達明治30年3月(4)p.3「達第三十三號 英國ニ於テ製造ノ第一號甲鐡戰艦及第三號二等巡洋艦米國ニ於テ製造ノ第一號及第二號ニ等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル|明治三十年三月二十六日 海軍大臣侯爵 西郷從道|第一甲鐡戰艦 敷シキ島シマ|第一號二等巡洋艦 笠カサ置キ|第二號二等巡洋艦 千チ歳トセ|第三號二等巡洋艦 高タカ砂サゴ」。 艦名は加古郡加古川河口の高砂浦に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実第55コマ(原本76頁)「高砂(たかさご)艦種二等巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)艦名考名所の名にして播磨國加古郡加古川口の高砂浦に採る、此地古來船の場にして景勝を以て奢はる。又本邦人往時より臺灣を呼んで高砂と稱せしことあるも、此の艦名は前記播磨の高砂に因めるものなり。艦歴明治31年5月17日英國にて竣工、同月25日英國出發、8月14日横須賀到着、同33年北清事變に從軍、同35年6月、淺間と共に英國皇帝陛下の戴冠式に参列(司令官伊集院五郎)、同37・8年戰役に從軍(第三戰隊):同37年12月、黄海々戰に参加(艦長大佐石橋甫)、同37年12月、旅順口外哨區行動中、同月13日機械水雷に觸れ沈没、副長中佐中山鋋次郎外准士官以上22名、下士官卒傭人251名殉難。―要目― 長360呎/幅47呎/喫水17呎/排水量4,160噸/機關 直立三段膨張式 2臺 圓罐雙螺/馬力15,900/速力22.5/乗組人員400/船材 鋼/兵装 8吋砲2/12拇砲10/12听砲12/47mm砲6/發射管5/起工 明治29-5-29/進水 同30-5-17/竣工 同31-5-17/建造所 英國エルスウィック安社」。 日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)、ロシア海軍の機雷により沈没した。.

新しい!!: 山海関と高砂 (防護巡洋艦) · 続きを見る »

護国法輪寺

護国法輪寺塔(北塔) 護国法輪寺()は、中国の遼寧省瀋陽市皇姑区崇山東路北塔街27号(瀋陽市街の東北部)にあるチベット仏教寺院。俗称は北塔。遼寧省の省級文物保護単位に指定されている。 清の崇徳年間、ホンタイジは盛京(現在の瀋陽)の周辺東に永光寺、西に延寿寺、南に広慈寺、北に法輪寺の4つのラマ教寺院を建立した(四塔寺)。そして、各々に白い塔(仏舎利塔)を建てた為、それぞれ、東塔、西塔、南塔、北塔と呼ばれ「奉天四塔」と称された。本尊はそれぞれ異なるが伽藍の配置などはほぼ一緒である。そして、現在開放されているのは北塔と西塔だけで、最も完全な形で残っているのが法輪寺である。 2002年7月、遼寧省宗教局に批准し、正式に宗教活動の場となり、四川省カンゼ・チベット族自治州理塘県夏壩郷出身の長青春科爾寺の第93代主持夏壩仁波切が主持として就任した。彼は住持になったのち、定期的に法会の開催や多種の経典が出版されるなど精力的な活動をみせている。 見所は、北塔以外にチベット密教芸術の展示のほか、瀋陽地区の清代末期や中華民国時代の碑を集めた瀋陽碑林がある。.

新しい!!: 山海関と護国法輪寺 · 続きを見る »

鮑貴卿

鮑 貴卿(ほう きけい)は清末・中華民国の軍人、政治家。北洋系、北京政府、奉天派の軍人である。字は霆九。祖籍は山東省。.

新しい!!: 山海関と鮑貴卿 · 続きを見る »

趙テキ

趙 倜(ちょう てき)は清末民初の軍人。北京政府に属した。原名は金生。字は周人。.

新しい!!: 山海関と趙テキ · 続きを見る »

趙烈文

趙 烈文(ちょう れつぶん、Zhao Liewen、1832年 - 1894年)、字は恵甫または偉甫。曽国藩の幕僚。 江蘇省常熟出身。名家の出で先祖の趙申僑は康煕帝の時代に戸部尚書を務めた。若くして文名を知られたが、省試を三度受けて三度とも落第した。 1855年12月、曽国藩が南昌で太平天国軍に苦戦していたときに、同郷の周騰虎の推薦で趙烈文は曽国藩の幕府に入った。その日に樟樹鎮に駐屯する湘軍を見たが、「陸軍の士気が弛緩しており、頼りになるか心もとない」と指摘した。果たしてしばらく後に樟樹鎮の部隊は大敗を喫した。 1864年に曽国荃が太平天国の都の南京を陥落させた際、趙烈文も居合わせており、『能静居士日記』に当時の様子を以下のように記して、湘軍の屠城を告発している。「・・・沿道に転がる死者は10人のうち9人が老人である。また幼児も戯れに刀でたたき殺され路上に放置されている。40歳以下の女性は1人も見かけない。傷のない老人はなく、十余刀、数十刀の刀傷があった・・・」 また趙烈文は独特の見解を持っていた。1867年6月20日(グレゴリウス暦では7月21日)、曽国藩との対話で「清朝を揺るがす禍がおき、地方は分裂してしまうことになる。そのような事態は50年以内に起きるだろう」と述べた。曽国藩は「皇帝陛下に徳があれば、そのようなことにはならないのではないか」と反論したが、烈文は「清朝は(李自成が明を滅ぼした後に、呉三桂の手引きで山海関に入り)やすやすと天下を奪い、(揚州や嘉定など)各地で虐殺をおこなった。善悪は互いに補うものではないので、後世の君主の徳は頼りになるものではない」と述べた。つまり清朝の正統性に疑義をはさんだのであった。 著書には『能静居士日記』のほか、『趙偉甫先生庚申避乱日記』『落花春雨巣日記』がある。 Category:清代の人物 Category:常熟出身の人物 Category:1832年生 Category:1894年没.

新しい!!: 山海関と趙烈文 · 続きを見る »

軍事指揮官の一覧

軍事指揮官の一覧(ぐんじしきかんのいちらん)は、歴史上の軍事指揮官の一覧。軍事指揮官とは、単なる軍人ではなく、一定数以上の兵員によって構成される部隊を率いた軍人をさす。また、部隊を直接指揮しなくとも参謀や軍師のように間接的に指揮した人物も含む。軍事指揮官のうち、多大な功績を立てたものは名将と呼ばれ、致命的な損失を招いたものは愚将と呼ばれる。将才に準じて、猛将、智将、勇将、謀将、良将等の呼称をされる場合もある。 特定の時代に関する人物については関連項目を参照。.

新しい!!: 山海関と軍事指揮官の一覧 · 続きを見る »

鼓楼

京都市西本願寺 鼓楼(ころう)は、中国、日本など東アジア文化圏において、城郭、都市、宗教施設敷地内などに建てられる、太鼓を設置するための建物。太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。太鼓楼(たいころう)などと称する場合もある。類似した機能をもつ建物に鐘楼やミナレット(イスラームのモスクに付属する塔。肉声またはスピーカーで礼拝の時刻を知らせる)がある。.

新しい!!: 山海関と鼓楼 · 続きを見る »

胡イツフン

胡 燏棻(こ いつふん、Hu Yufen、1840年 - 1906年)は、清末の官僚。字は芸楣または雲眉。安徽省泗州出身(原籍は浙江省蕭山)。.

新しい!!: 山海関と胡イツフン · 続きを見る »

郭松齢

郭 松齢(かく しょうれい)は、清末民初の軍人。北京政府、奉天派の有力軍人である。初期は中国同盟会、護法軍政府でも活動したことがあり、北方各軍の中では異色の経歴の持ち主である。字は茂宸。祖籍は山西省汾陽県。.

新しい!!: 山海関と郭松齢 · 続きを見る »

興城市

興城市(こうじょう-し)は中華人民共和国遼寧省葫芦島市に位置する県級市。.

新しい!!: 山海関と興城市 · 続きを見る »

赤塚不二夫

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年(昭和10年)9月14日 - 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。 小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。1956年に貸本漫画『嵐をこえて』(曙出版)でデビュー。 その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。血液型はA型。.

新しい!!: 山海関と赤塚不二夫 · 続きを見る »

関内

関内(かんない、用法によっては かんだい).

新しい!!: 山海関と関内 · 続きを見る »

関西

関西(かんさい)は、日本の地方を指す言葉である。一般に近畿地方に含まれる府県を意味しており、大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、三重県、奈良県、和歌山県の2府5県とされる。 関西広域連合では福井県、鳥取県、徳島県を加えた2府8県を関西と定義し、情報発信を行っている。また、福井県は行政管轄区分において近畿地方(関西)とされる場合もある。.

新しい!!: 山海関と関西 · 続きを見る »

関東 (中国)

関東(かんとう、)は、中国における地域である。.

新しい!!: 山海関と関東 (中国) · 続きを見る »

関東州

満州国成立後の満州の鉄道。赤の部分が関東州時代からの南満州鉄道 関東州(かんとうしゅう)は、日露戦争の終結後、その講和条約であるポーツマス条約に基づき、中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借権がロシアから日本に移行した地域。1905年12月の大日本帝国と清朝の間で締結された満州善後条約から1945年8月に日本が敗戦するまでの期間、日本はこの租借地で植民地経営をおこなっていた。現在の中華人民共和国 遼寧省 大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。.

新しい!!: 山海関と関東州 · 続きを見る »

関東州の競馬

満州国成立後の満州の鉄道。赤の部分が関東州時代からの満鉄 この項では関東州(遼東半島先端部と南満州鉄道付属地)における日本人の植民地競馬について述べる。関東州は遼東半島先端部と南満州鉄道付属地(満鉄付属地)からなるが、満鉄付属地の行政権は1937年(昭和12年)満州国に委譲され満鉄付属地の競馬場も1937年(昭和12年)以降は満州国に組み込まれるので、それ以降の満鉄付属地競馬は別項満州国の競馬で述べる。 日露戦争の結果、日本は関東州の租借権を得た。日本人は、最初に大連、続いて奉天に競馬場を作り、さらに安東、旅順、金州、鞍山、撫順、開原、遼陽にも競馬場を設けた。1935年(昭和10年)には関東州の競馬場は7か所になる。7か所のうち満州鉄道付属地内の4つの競馬場(奉天、安東、鞍山、撫順)は1937年(昭和12年)に満州国の行政下に移り(満州国では競馬場はさらに新設・拡大される)、1937年(昭和12年)以降の関東州は遼東半島先端部のみになり関東州の競馬は大連、旅順、金州の3か所になる。 関東州の競馬は最初こそ内地の法律を伺い見ていたものの、関東軍の馬政戦略に組み込まれて独特の競馬を行い、関東庁と関東軍が独自支配するようになった以降は内地の規制から離れていった。競馬の管轄官庁が農林省ではなく関東庁と陸軍(関東軍)であること。馬は満州産馬およびそれとアラブの雑種で競馬を行い、サラブレッドを徹底的に排除したこと。牝馬のみで競馬を行い、牡馬と騸馬を競走から排除したこと。1940年(昭和15年)、関東州に残る3つの競馬場も日本の租借地でありながら日本の法体系から脱却し他国である満州国の競馬法を取り入れ甚だしく賭博性の高い競馬を行ったこと。などの特徴がある。 1924年(大正13年)に奉天競馬場が引き起こした日中間の国際問題は日本陸軍・日本外務省間の対立を招き、関東軍の独走を招く一因にもなっている。.

新しい!!: 山海関と関東州の競馬 · 続きを見る »

関東軍

関東軍(かんとうぐん、)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。.

新しい!!: 山海関と関東軍 · 続きを見る »

闖関東

闖関東(ちんかんとう、、チュァングヮンドン) は、中国語で「関東(山海関の東)へ進出する」と言う意味で、19世紀後半から、20世紀前半にかけて行われた山東半島に棲む中国人(特に漢民族)の遼東以北への民族移動を指すことが多い。.

新しい!!: 山海関と闖関東 · 続きを見る »

葫芦島市

葫芦島市(ころとう-し、葫蘆島・コロ島とも)は中華人民共和国遼寧省南西部にある地級市である。 港湾都市として発達し、北京と瀋陽の中間にある交通の要衝で、とりわけ遼西回廊と呼ばれる中国東北部と華北とを結ぶ戦略的に重要な地域の拠点都市でもある。また満州から日本への引揚船の出発地としても有名である。1994年以前は錦西市と称した。.

新しい!!: 山海関と葫芦島市 · 続きを見る »

葉群

葉 群(よう ぐん、イェ・チュン、1917年 - 1971年9月13日)は中華人民共和国の政治家である。林彪の妻、林立果、林立衡の母。文化大革命を主導した。林彪事件で、夫、息子等とともにモンゴル人民共和国で墜落死した。原名は葉 静宜。.

新しい!!: 山海関と葉群 · 続きを見る »

蒋桂戦争

蒋桂戦争は1929年3月から6月までの間に、中華民国国民政府内部での新広西派(新桂系)軍閥と蒋介石の勢力との間で行われた内戦である。.

新しい!!: 山海関と蒋桂戦争 · 続きを見る »

臨楡県 (秦皇島市)

臨楡県(りんゆ-けん)は中華人民共和国河北省にかつて存在した県。現在の秦皇島市海港区海陽鎮一帯に相当する。 1737年(乾隆2年)、清朝により設置され、県治が山海関に設置された。1949年に県治は現在の海陽鎮に移転している。1954年に廃止となり、撫寧県に編入された。 りんゆ 廃りんゆけん りんゆけん.

新しい!!: 山海関と臨楡県 (秦皇島市) · 続きを見る »

虎山長城

虎山長城(こざんちょうじょう)は、中華人民共和国遼寧省丹東市寛甸満族自治県虎山鎮虎山村に位置する明代の長城東端の遺構である。.

新しい!!: 山海関と虎山長城 · 続きを見る »

陳ショク

陳 湜(ちん しょく、Chen Shi、1831年 - 1896年)は、清末の軍人。字は舫仙。 湖南省湘郷出身。1856年、湘軍に参加し、曽国荃に従って江西省で太平天国軍と戦った。1858年、蒋益澧に従って広西省で大成国と戦った。1859年、石達開軍が宝慶を包囲した時には、数千人を率いて救援に赴き、李続宜とともにこれを破った。1860年より安慶を包囲している曽国荃軍に加わり、翌年に安慶が陥落すると道員に抜擢され一軍を率いることを許された。1862年から南京の包囲に参加し、バトゥルの称号を得た。1864年、南京の陥落時には、脱出した李秀成を捕らえる功をあげた。 1865年、陝西按察使となったが山西按察使に移された。張宗禹率いる捻軍と戦ったが、1868年に防衛体制の不備を咎められ解任された。1870年に復職し、左宗棠の回民蜂起鎮圧に従い功績をあげた。 1882年、両江総督になった曽国荃の要請で呉淞に駐屯して、水陸両軍を統率して海防にあたったが、不行跡を理由に免職となった。1886年、再び召し出されて南洋水軍・湘軍・淮軍を統括し、江蘇按察使を兼ねた。 1894年、日清戦争が発生すると山海関の防衛にあたり、翌年には鞍山に駐屯した。終戦後、江西布政使に抜擢された。その後、再び山海関の防衛にあたった。 曽国荃に最も長く従い、しばしば失敗はしたものの、宿将と称された。.

新しい!!: 山海関と陳ショク · 続きを見る »

陳円円

陳 円円(陳 圓圓、ちん えんえん、拼音:Chén Yuányuán、1623年 - 1695年)は、中国明代末期の美妓。秦淮八艶の一人。明末清初に活躍した軍閥武将呉三桂の妾(側室)。本姓は邢、諱は沅。字は畹芬。叛将呉三桂の心を奪った傾国の美女といわれ、その生涯は多くの伝説で包まれている。.

新しい!!: 山海関と陳円円 · 続きを見る »

陳昭常

陳 昭常(ちん しょうじょう)は清末中華民国の政治家。中華民国の初代吉林都督である。字は簡穉。.

新しい!!: 山海関と陳昭常 · 続きを見る »

林立果

林立果(りん りつか、、1945年-1971年9月13日)は中華人民共和国の軍人。父は林彪、母は葉群、姉は林豆豆。幼少の頃は、虎と呼ばれた。毛沢東暗殺計画(五七一工程紀要)を立案、事が露見すると、父母らと共にトライデント機で逃亡、モンゴル人民共和国ヘンテイ県ベルフ村南方付近で墜落死した(林彪事件)。.

新しい!!: 山海関と林立果 · 続きを見る »

李鼎新

李 鼎新(り ていしん)は清末民初の海軍軍人。(現在の福州市)の人。北京政府では直隷派に属した。字は承梅。.

新しい!!: 山海関と李鼎新 · 続きを見る »

李自成

李 自成(り じせい)は、中国明末の農民反乱指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。.

新しい!!: 山海関と李自成 · 続きを見る »

東経120度線

東経120度線(とうけい120どせん)は、本初子午線面から東へ120度の角度を成す経線である。北極点から北極海、アジア、インド洋、オーストラリア、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結ぶ。東経120度線は西経60度線と共に大円を形成する。.

新しい!!: 山海関と東経120度線 · 続きを見る »

楊嗣昌

楊 嗣昌(よう ししょう、1588年 - 1641年)は、明末の官員。字は文弱。.

新しい!!: 山海関と楊嗣昌 · 続きを見る »

歩兵第25連隊

歩兵第25連隊(ほへいだい25れんたい、歩兵第二十五聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。.

新しい!!: 山海関と歩兵第25連隊 · 続きを見る »

永陵 (清)

永陵(えいりょう、満州語:、転写:enteheme munggan)は、中国遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮にある、清の前身・後金の初代皇帝であるヌルハチの祖先の陵墓。 1598年に建造開始。当初は興京陵と呼ばれていたが、1659年(順治16年)に永陵に改称。福陵、昭陵とともに清の関外三陵のひとつ。1988年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定され、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。.

新しい!!: 山海関と永陵 (清) · 続きを見る »

汲金純

汲 金純(きゅう きんじゅん)は、中華民国の軍人。北京政府、奉天派に属した。字は海峰、殿一。通称に大英もある。.

新しい!!: 山海関と汲金純 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 山海関と清 · 続きを見る »

満州

満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。なお、漢字表記は法令や一部の文献では「満洲」が用いられるものの、一般には「満州」が用いられることが多い。 「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。.

新しい!!: 山海関と満州 · 続きを見る »

満州事変

満州事変(まんしゅうじへん、)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍満洲駐留の大日本帝国陸軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件石原莞爾と板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判の田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満州鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政・北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』))に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。 関東軍はわずか5か月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。.

新しい!!: 山海関と満州事変 · 続きを見る »

満州国の郵便史

満洲国郵政旗 満州国の郵便史(まんしゅうこくのゆうびんし)では、1932年から1945年まで存在した、事実上日本の傀儡政権とされている満州国(満州帝国と呼称する場合もある)の郵便に関して記述する。.

新しい!!: 山海関と満州国の郵便史 · 続きを見る »

満州国国有鉄道

'''緑'''が社線(満鉄) 満州国国有鉄道(満洲国有鉄道、まんしゅうこくゆうてつどう)は、満州国交通部が主に満州中部・北部に所有していた国有鉄道。通称「国線」。現地新聞などでは単に「国鉄」とも呼ばれた。 「国有鉄道」と銘打っていたものの、成立と同時に運営や建設をすべて南満州鉄道に委託したほか、関東軍の介入をたびたび受けていた。このため交通部は設備の保有と路線に関する監督・布告を名目上行うだけにとどまり、傀儡政権ならぬ「傀儡国鉄」の状態であった。.

新しい!!: 山海関と満州国国有鉄道 · 続きを見る »

満州国軍

満洲国の徽章 満州国軍(満洲国軍、まんしゅうこくぐん)は、満洲国の国軍。1932年(大同元年)創設。1945年(康徳12年)解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務としており、軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満洲国軍も解体された。.

新しい!!: 山海関と満州国軍 · 続きを見る »

漢軍八旗

漢軍八旗(かんぐんはっき、ᡠᠵᡝᠨᠴᠣᠣᡥᠠᡞᠵᠠᡣᡡᠨᡤᡡᠰᠠ、転写:ujen coohai jakūn gūsa)は清朝の社会・軍事組織である八旗の一部である。 漢軍八旗の成員の大部分は、清朝が山海関以北の満州(中国東北部)に拠点を置いていた時期に政権に参加した非満州民族・非モンゴル人である。すなわち遼東半島一帯に居住していた漢民族・朝鮮人などである。漢軍八旗は満洲八旗・蒙古八旗とともに清朝初期の軍隊の主力をなした。八旗以外の漢民族はニカンと呼ばれ区別された。 1644年、李自成によって明朝の中央政府が崩壊すると、山海関の守将呉三桂は清に投降し、清は中原に入った。その後の20年間で清軍は李自成・張献忠・南明政権を次々と破り、中国全土を支配した。漢軍八旗は他の八旗兵と同様に清軍の主力部隊となり、大部分の戦闘に参加した。 漢軍八旗の成員は代々満州民族・モンゴル人と通婚し、まとめて「旗人」「旗兵」と呼ばれ、満洲民族やモンゴル人と同等の待遇と特権を得ていた。これにより漢軍八旗の伝統・習俗は、例えば纏足をしないなど、満洲民族に近いものとなった。しかし満漢偶数官制では漢民族として扱われた。このことは漢人任用枠に忠誠度の高い漢軍旗人をあてることが出来るため当初は有効であったが、民籍漢民族の科挙官僚の総督、巡撫といった役職への任用の増加や満洲人の漢語習得・漢文化吸収が進み漢軍旗人の重要度が低下し、乾隆帝時代には旗人の人口増加に伴う八旗の生活困窮が大きな問題となり、漢軍旗人を民間籍に移す「漢軍出旗」が行われた。 辛亥革命以降も漢軍八旗の子孫は旗人を自称し、中華人民共和国成立後の民族区分では大部分が満族に編入された。.

新しい!!: 山海関と漢軍八旗 · 続きを見る »

朝鮮族

朝鮮族(ちょうせんぞく、조선족)は、中華人民共和国(以下、中国)の民族識別工作にて定義される中国の少数民族の一つ。 中国の国籍を所有し、かつ中国戸籍法に基づく戸籍上の民族欄に“朝鮮”と記載(登記)されていることが朝鮮族と見なす条件である。したがって、中国に居住する朝鮮民族で、永住権を所有していても中国の国籍を持っていない者、あるいは戸籍上の民族欄に“朝鮮”と記載されていない者は朝鮮族とは定義されない。 中国以外の国や地域では、朝鮮民族でありながら中国国籍所有者であることを明確にするために、朝鮮族を中国朝鮮族又は韓国系中国人()とも呼ばれる。 中国では、地方政府の戸籍資料、公式メディア、学術論文等に使用される民族の称呼に関して、非正規表現の一文字略称を用いることが実務的に許可される。その場合、「維」でウイグル(維吾爾)族、「蒙」でモンゴル(蒙古)族を表すように、「朝」で朝鮮族を表現する。.

新しい!!: 山海関と朝鮮族 · 続きを見る »

昭陵 (清)

北陵の方城の門 昭陵(しょうりょう、満州語:、転写:eldengge munggan)は、中国遼寧省瀋陽市皇姑区隆業山(市街地北部)にある後金の2代目、清の初代皇帝である太宗ホンタイジとその妻・孝文端皇后の陵墓である。瀋陽市の北部にあることから北陵とも。陵墓、建築物などは現在でも良好な状態を残し、清朝初期の技術・建築文化の一端を知ることができる。2004年にユネスコの世界遺産の明・清王朝の皇帝墓群の一部として追加登録された。規模は清の関外三陵(他の二陵は福陵と永陵。)のうち最大。また現在、周囲は瀋陽で1番大きな公園・「北陵公園」となっており、自由な散策が可能である。.

新しい!!: 山海関と昭陵 (清) · 続きを見る »

日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

新しい!!: 山海関と日清戦争 · 続きを見る »

拝月亭

拝月亭(はいげつてい)は関漢卿による元曲。.

新しい!!: 山海関と拝月亭 · 続きを見る »

曹エイ

曹 鍈(そう えい)は清末民初の軍人。北京政府、直隷派の軍人。字は子振。兄は曹錕、曹鋭。.

新しい!!: 山海関と曹エイ · 続きを見る »

曹コン

曹 錕(そう こん)は清末民初の軍人、政治家。北洋軍閥直隷派の指導者の1人。中華民国大総統。陸軍上将。字は仲珊。.

新しい!!: 山海関と曹コン · 続きを見る »

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 山海関と14世紀 · 続きを見る »

17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 山海関と17世紀 · 続きを見る »

1902年の政治

1902年の政治(1902ねんのせいじ)では、1902年(明治35年)の政治分野に関する出来事について記述する。.

新しい!!: 山海関と1902年の政治 · 続きを見る »

1932年の政治

1932年の政治では、1932年(昭和7年)の政治分野に関する出来事について記述する。.

新しい!!: 山海関と1932年の政治 · 続きを見る »

1933年

記載なし。

新しい!!: 山海関と1933年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »