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将棋所

索引 将棋所

将棋所(しょうぎどころ)は、江戸時代の将棋の家元(名人を世襲し、大橋家・大橋分家・伊藤家が襲位していた)が名乗っていた称号。名人家は寺社奉行の管轄下にあった。かつては将棋所という公式な役職が存在したと考えられていたが、近年の研究では公職ではなく家元の自称にすぎなかったとされている。.

35 関係: えどたん名人 (将棋)増川宏一大橋家大橋宗与 (3代)大橋宗英 (6代)大橋宗桂 (8代)大橋宗桂 (9代)大橋宗桂 (初代)大橋柳雪天野宗歩富沢幹雄小林東伯斎将棋将棋の段級将棋ウォーズ将棋類の一覧将棋指し伊藤印達伊藤宗印 (2代)伊藤宗看 (3代)伊藤宗看 (6代)伊藤看寿伊藤氏御城碁コンピュータ将棋囲碁の歴史碁所竜王戦林因長門入桃山文化棋士 (将棋)湯川博士本因坊算砂日本将棋連盟

えどたん

『えどたん』は、2009年にカプコンより配信開始された携帯電話向けの推理アドベンチャーゲーム。2011年4月28日から続編の携帯アプリ『続えどたん』が配信されたが、iOS版『続えどたん』は配信されていない。キャラクターデザインは水谷伸也。音楽は尾野寺真未、加藤天宇。.

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名人 (将棋)

将棋における名人(めいじん)は、棋士の称号の一つである。江戸時代(1612年)から昭和初期(1937年)までは将棋界の最高権威者に与えられた終身位であり、棋界の近代化にあたって短期実力制へ移行した1937年(昭和12年)以降は名人戦におけるタイトル称号となっている。女流名人、アマチュア棋戦の「名人」はそれぞれを参照。.

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増川宏一

増川 宏一(ますかわ こういち、1930年(昭和5年) - )は、日本の遊戯研究家。遊戯史学会会長、大英博物館リーディングルーム登録者、国際チェス史研究グループ会員、チェス史研究支援財団名誉会員、元将棋博物館顧問(現在は閉館)。『賭博』『さいころ』『遊戯』などの著者がある。.

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大橋家

大橋家(おおはしけ)は江戸時代の将棋家元(将棋三家)の一家。初代大橋宗桂が祖。将棋三家には分家である大橋分家があり、それとの区別で特に大橋本家とも呼ばれる。身分は御用達町人。.

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大橋宗与 (3代)

三代大橋宗与(さんだいおおはしそうよ、1648年(慶安元年)-1728年5月13日(享保13年4月5日))は江戸時代の将棋指し。六世名人。将棋家元三家の一つ大橋分家三代当主。初代大橋宗桂の曾孫。初代大橋宗与の孫。二代大橋道仙の子。四代大橋宗与(大橋宗民)の父。本来の表記は大橋宗與。.

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大橋宗英 (6代)

六代大橋宗英(ろくだい おおはし そうえい、宝暦6年(1756年) - 文化6年11月17日(1809年12月23日))は江戸時代の将棋指し。九世名人。将棋三家の一つ大橋分家当主。大橋分家出身者としては2人目の名人。五代大橋宗順の子。七代大橋宗与の父。.

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大橋宗桂 (8代)

八代 大橋 宗桂(はちだい おおはし そうけい、1714年(正徳4年) - 1774年6月28日(安永3年5月20日))は江戸時代の将棋指し。八段。将棋家元三家の1つである大橋家の当主。元々は伊藤家出身で幼名は宗寿。五世名人二代伊藤宗印の子(三男)。伊藤印達(五段)、三代伊藤宗看(七世名人)は兄。伊藤看恕(七段) 初代伊藤看寿(贈名人)は弟。九代大橋宗桂(八世名人)の父。.

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大橋宗桂 (9代)

九代大橋宗桂(くだい おおはし そうけい、1744年(寛保4年) - 1799年9月13日(寛政11年8月14日))は、江戸時代の人物。日本の将棋指し。八世名人。将棋家元三家の一つである大橋本家当主。五世名人二代伊藤宗印の孫。七世名人三代伊藤宗看、贈名人初代伊藤看寿の甥。父は八代大橋宗桂。養子に十代大橋宗桂。初名は印寿。.

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大橋宗桂 (初代)

初代 大橋 宗桂(しょだい おおはし そうけい、弘治元年(1555年) - 寛永11年3月9日(1634年4月6日))は、将棋指し、一世名人。子に、二世名人・大橋宗古、初代大橋宗与がいる。近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。.

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大橋柳雪

大橋柳雪(おおはし りゅうせつ、寛政7年(1795年) - 天保10年(1839年))は江戸時代の将棋指し(七段)。将棋家元の大橋分家・七代大橋宗与の養子となり、八代目当主が予定されていたが、後に廃嫡。天野宗歩らに影響を与えた存在として知られる。初名は中村喜多次郎。後に中村英節、大橋分家の養子となってからは、大橋英俊、大橋宗英とも名乗る。.

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天野宗歩

天野 宗歩(あまの そうほ(「そうふ」とも)、文化13年(1816年) - 安政6年5月13日(1859年6月13日))は、江戸時代末期の将棋指し。正字表記では天野宗步。七段。十一代大橋宗桂門下。 大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる。十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。.

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富沢幹雄

富沢 幹雄(とみざわ みきお、改名前は富沢伝助、1920年4月20日 - 1998年1月10日)は、将棋棋士。山本樟郎八段門下。棋士番号は34。福島県生まれ。.

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小林東伯斎

小林 東伯斎(こばやし とうはくさい、生年不詳 - 明治31年(1898年))は、江戸時代末期から明治時代にかけての将棋指し。天野宗歩門下。八段。紀伊国(和歌山県)出身。小林定楠(諱)、小林東四郎(字)とも名乗る。養子に小林岩次郎。.

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将棋

将棋(しょうぎ)は、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種で、一般に「将棋」というときは特に本項で述べる本将棋(ほんしょうぎ、古将棋や現代の変形将棋類、変則将棋などと区別するための名称)を指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源と考えられている。 以下、本項では主に本将棋について解説する(本将棋以外の将棋及び将棋に関連する遊戯については将棋類の一覧を参照)。.

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将棋の段級

将棋の段級(しょうぎのだんきゅう)では、将棋における段級位制の概要について述べる。 将棋の段級には3つの体系があり、それは、棋士の段位(新進棋士奨励会の段級も含む)の体系、女流棋士の段級の体系、および、アマチュアの段級の体系である。.

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将棋ウォーズ

将棋ウォーズ(しょうぎウォーズ)は、課金等でソフトによる代打ちができる将棋アプリケーションソフト。運営はHEROZ。2012年にサービス開始。.

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将棋類の一覧

将棋類の一覧(しょうぎるいのいちらん)は、将棋に類する盤上遊戯の一覧である。.

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将棋指し

将棋指し(しょうぎさし)とは、将棋を指す芸人のこと。日本の前近代的な職業を示す言葉ではあるが、現代のプロ棋士・女流棋士・アマチュア選手なども俗に「将棋指し」と呼ばれることが少なくない。しかし現代とはちがって、前近代の将棋指しは、プロとアマチュアがおおむね未分化な状態であったと思われる。棋客・将棋師などと呼ばれた時代もあった。.

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伊藤印達

伊藤 印達(いとう いんたつ、1698年(元禄11年) - 1712年(正徳2年)9月)は江戸時代の将棋指し。五段。五世名人二代伊藤宗印の子(長男)。七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)は弟。法名は不明。 大橋本家と伊藤家の次期将棋所争いに翻弄された、悲劇の棋士として知られる。.

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伊藤宗印 (2代)

二代伊藤宗印(にだい いとう そういん、1655年(承応4年) - 1723年12月28日(享保8年12月2日))は江戸時代の将棋指し。将棋家元三家の一家である伊藤家二代当主、五世名人。前名は鶴田幻庵(文献によっては玄蔵)。 伊藤家初代当主初代伊藤宗看の養子。伊藤印達(五段)、七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(伊藤宗寿)(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)の父。伊藤得寿(三代宗看の子、早世)、九代大橋宗桂、伊藤寿三(二代伊藤看寿)の祖父。七代伊藤宗寿の曽祖父。.

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伊藤宗看 (3代)

三代伊藤宗看(さんだいいとうそうかん、1706年(宝永3年)-1761年6月2日(宝暦11年4月29日))は江戸時代の将棋指し。七世名人。将棋三家の一つである伊藤家当主。別名に政長、印寿。 父は五世名人二代伊藤宗印(次男)。兄に伊藤印達(五段)。弟に八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(八段、贈名人)。子に四代伊藤得寿(五段)。養子に弟の初代看寿。 指し将棋、詰将棋ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。御城将棋では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った(名人就位前の戦績は10勝1敗)。.

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伊藤宗看 (6代)

六代伊藤宗看(ろくだいいとうそうかん、1768年(明和5年) - 1843年10月9日(天保14年9月16日))は、日本の江戸時代の将棋指し。十世名人。将棋家元三家の一伊藤家当主。前名は松田印嘉。子に伊藤看理(六段)、伊藤看佐(七段)、伊藤金五郎(六段)。養子に七代伊藤宗寿。.

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伊藤看寿

伊藤看寿(いとうかんじゅ、初代;享保4年(1719年) - 宝暦10年8月23日(1760年10月1日))は、江戸時代の将棋指し。将棋家元三家の一家である伊藤家出身。八段。死後に名人位を追贈。別名は政富。 二代伊藤宗印(五世名人)の五男。兄に伊藤印達(五段)、三代伊藤宗看(七世名人、養親でもある)、八代大橋宗桂(八段・八世名人九代大橋宗桂の父)、伊藤看恕(七段)。子に二代伊藤看寿(後に伊藤寿三と改名)(五段)。孫に七代伊藤宗寿。.

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伊藤氏

伊藤氏(いとうし)は、日本人の姓の一つ。氏族、苗字。伊藤家とする場合もある。 藤原南家の流れであり、仁寿8年(852年)に藤原為憲の官職が「木工助(もくのすけ)」であったため「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。その後、工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」が後に「伊藤」となった。また同じく工藤氏からは、工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称した。よって二階堂氏も源流を同じくする。尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。 またこれとは別に、藤原秀郷流の武士で伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤を名乗った伊藤基景の名字に由来する伊藤氏も存在する。 この記述について、工藤氏を源流とするのは伊東氏であり、代表家紋が「庵に木瓜」であることがそれを裏付けている。後に伊東から伊藤へと変えた者が多かったため混同が生じたとみられる。よって、伊藤氏は秀郷流藤原氏を源流として考える方がより自然である。伊藤氏の代表家紋は「藤(上り、下り)」。.

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御城碁

御城碁(おしろご)は、江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3年(1626年)頃に始まり、毎年1回、御城将棋とともに2、3局が行われ、幕末の元治元年(1864年)に中止となるまでの230年余りに渡って続いた。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとってもっとも真剣な勝負であった。また碁によって禄を受けている家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露する義務としての意味もあり、寺社奉行の呼び出しによるという形式で行われた。実際に将軍が観戦することは多くなかったが、代行として老中などが列席した。 全部で536局の対局が行われ、出仕した棋士は67名。代表的な成績としては、本因坊秀策の、嘉永2年(1849年)から文久元年(1861年)にかけての19連勝が有名。.

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コンピュータ将棋

ンピュータ将棋(コンピュータしょうぎ)は、コンピュータによる将棋の対戦、また将棋を指すコンピュータおよびそのプログラムそのものである。.

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囲碁の歴史

狩野永徳による囲碁の絵 この項目では、囲碁の歴史(いごのれきし)について解説する。.

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碁所

碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。 各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。 また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。.

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竜王戦

王戦(りゅうおうせん)は、読売新聞社主催の将棋の棋戦で、タイトル戦(竜王戦・名人戦・叡王戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦)のひとつ。第1期は1987年であるが、前身の十段戦、さらにその前身の九段戦(第1期は1950年)から数えると、タイトル戦の中で名人戦(第1期は1935 - 1937年)に次いで2番目に長い歴史を有している。七番勝負の勝者は竜王のタイトル称号を得る。 竜王位は名人位とともに、プロ将棋界の頂点とされている。.

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林因長門入

林因長門入(はやし いんちょうもんにゅう、元禄3年(1690年) - 延享2年11月2日(1745年11月24日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家の五世林門入。土佐国生れ、本因坊道知門下、八段準名人。元の名は井家道蔵で、元土佐藩家臣。歴代の林家の中で、唯一碁所を望んだ。家督相続前の名である因長を付けて代々の門入と区別する。また上手門入とも称される。.

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桃山文化

武田(1969)p.135。昭和天皇崩御後は御物(皇室所有品)ではなく国有(三の丸尚蔵館保管)となっている。) 桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である尾藤(2000)pp.150-151。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。 なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は徳川家康による江戸幕府開幕後の17世紀初頭も含めることが多い家永三郎は、文化史のうえでは、寛永年間(1624年-1644年)ころまでを桃山時代として扱うのが適切であるとしている。家永(1982)pp.163-164。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。.

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棋士 (将棋)

棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」・「プロ棋士」ともいい、本将棋を職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。 また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。.

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湯川博士

湯川 博士(ゆかわ ひろし、1945年2月25日 - )は、将棋を中心としたフリーライター、観戦記者。本名は湯川博美(ゆかわ・ひろみ)。妻は、将棋・囲碁の観戦記者で、元女流アマ名人の湯川恵子。 「将棋ペンクラブ」代表幹事。NPO「将棋を世界に広める会(ISPS)」理事。NPO「チェス将棋交流協会」理事。.

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本因坊算砂

本因坊 算砂 本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。.

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日本将棋連盟

公益社団法人日本将棋連盟(にほんしょうぎれんめい)は、将棋の棋士活動を運営する公益社団法人である。 四段以上の棋士、女流棋士および指導棋士によって組織される。ただし、全国各地に存在する日本将棋連盟支部は、連盟に認められた一般の将棋愛好家によって組織される。 通常、棋士総会で2年ごとに選出された役員、及び職員によって運営される。 目的として「将棋の普及発展と技術向上を図り、我が国の文化の向上、伝承に資するとともに、将棋を通じて諸外国との交流親善を図り、もって伝統文化の向上発展に寄与すること」を謳っている。.

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