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太上天皇

索引 太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

301 関係: 南北朝正閏論南北朝時代 (日本)南部重清口宣取次 (歴史学)受領功過定吹田市吉良義信堀井氏壺切御剣大宰府大宰権帥大喪儀大炊寮大草流庖丁道大輪田泊大極殿天子摂関御影天上の虹天皇天皇の一覧天皇制天領天暦太上皇太上王太上法皇外祖父女院女性天皇奉公奉書妙法院季御読経定数歌実仁親王 (平安時代)宣下室町時代宮家家司守貞親王寺社伝奏寺社本所領事尊号尊号一件封戸小栗判官少年受領山口神社 (和歌山市)...山名満幸上皇上皇后上表帝室制度史両統迭立中宮中山愛親中御門経任中御門為方中院 (曖昧さ回避)常御所世襲親王家三卿三関三条家三浦芳聖一代要記九州王朝説九条道家平城天皇平安時代平出年官庁分人名二頭政治二条城仁明天皇廃太子仙覚仙洞御所会所 (中世)伏見宮伏見宮貞成親王伝奏御堂関白記御差御師 (音楽)御幸御津町 (愛知県)御所徳川治済徳政令後堀河天皇後宮後一条天皇後二条天皇後亀山天皇後白河天皇後花園天皇後鳥羽天皇後村上天皇後桜町天皇後水尾天皇律令制保元の乱保元新制土御門天皇北面武士北条義時別当別納所分国嵯峨天皇善通寺善淵永貞もののまぎれ唐名内大臣内廷費准太上天皇准母八幡神八瀬童子公家町公家領公家様文書六条天皇六波羅探題元明天皇先例光格天皇勘事勅使勅願寺勅願所勅旨省勅撰和歌集勅撰集固関国母四方拝皇后皇室典範第2章皇室財産皇代暦知行国社寺参詣曼荼羅神領興行禁色私寺称号紫微中台紀伊路織田信長義演給人申詞申次申次衆熊野三山熊野三山検校熊野年代記熊野別当熊野神社番役牛車直仁親王直衣随身隠居遷都遺詔聖武天皇荘園 (日本)行幸飛天のごとく西園寺きつ子西面武士饗応役親王親衛隊親鸞聖人正明伝親政観察使香道駒牽誠仁親王諸山高師直譲位鳥羽離宮賑給賀名生行宮足利義嗣足利義詮足利義満足利義持践祚麹塵袍輿輔仁親王船副使麻呂薬子の変閑院宮閑院宮典仁親王藤原定季藤原秀康藤原真夏藤原隆佐藤原氏藤壺葉室光親那智参詣曼荼羅那智山 (山)還御蔵人重祚臨時給里内裏金槐和歌集長寛勘文長屋王長慶天皇離宮造国退位院号院司院宣院宮分国制院宮王臣家院宮給院庁院庁下文院庁牒院伝奏院評定院政院拝礼柳原資明柿本神社 (明石市)東大阪市東三条殿東洞院通東方年表松平定信栄誉称号椿葉記正親町公明武家の棟梁武家官位武家政権武田祐吉武者所殿水干氷上川継の乱治天の君法皇 (曖昧さ回避)法王消息宣下淳仁天皇清閑寺源光信源氏物語の写本源氏物語各帖のあらすじ持統天皇持明院持明院統朝廷朝覲最高敬語明正天皇昇殿流罪浄土教斯波義将斯波氏新制新院文保の和談文武天皇文殿日本日本のキリスト教史日本の冠日本の荘園の一覧日本の歴史日本史の出来事一覧日本最後の一覧旧皇族摂家慶雲の改革11世紀11月26日 (旧暦)12世紀13世紀2月22日 (旧暦) インデックスを展開 (251 もっと) »

南北朝正閏論

南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南朝と北朝のどちらを正統とするかの論争。閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南部重清

南部 重清(なんぶ しげきよ)は、室町時代後期の甲斐南部氏の武将で北面武士。甲斐の高下村で隠居後、仙洞田氏を興す。.

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口宣

口宣(くぜん)とは、平安時代中期から用いられるようになった非公式な公文書書式で、天皇の勅旨を口頭で受けた蔵人所職事(職事蔵人・蔵人頭もしくは五位蔵人)がその内容を文書化して太政官上卿に伝える目的のために使われた。宣旨と共通する部分が多く、宣旨の一種・派生と捉えることもできるが、その書式に異なる部分がある。.

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取次 (歴史学)

取次(とりつぎ)は、両者のあいだを仲介してものごとを伝えること、あるいはその仲介者をいう。 本項では歴史上あらわれた取次について説明する。.

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受領功過定

受領功過定(ずりょうこうかさだめ)とは、平安時代中期に太政官において行われた任期を終えた受領に対する成績審査。除目や叙位の際に参考資料とされた。.

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吹田市

吹田市(すいたし)は、日本の近畿地方中央部、大阪府北部の北摂三島地域に位置する市である。施行時特例市。 1960年代、千里丘陵に千里ニュータウンが建設されてベッドタウンになった。2016年3月31日時点の世帯数は16万6,830世帯。 1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)開催地であり、会場跡地の万博記念公園にはモニュメントの太陽の塔が現存する。また、アサヒビール創業の地で工場がある。.

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吉良義信

吉良 義信(きら よしのぶ、生没年不詳)は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)5代目当主。幼名は三郎。官位は従四位下、左兵衛佐、治部大輔。子は義元。なお嫡男早世のため家督は嫡孫の義堯に譲った。.

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堀井氏

堀井氏(ほりいし)は、日本の家系の一つ。.

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壺切御剣

壺切御剣(つぼきりのみつるぎ/つぼきりのぎょけん)は、日本の皇太子(東宮)に相伝される太刀。皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)であり、三種の神器や宮中三殿とともにいわゆる御由緒物の中でも別格の扱いを受けている宮内庁『御物調書』1989年、p.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大宰権帥

大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。.

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大喪儀

大喪儀(たいそうぎ)は、天皇・皇后・太皇太后・皇太后の葬儀のこと。1926年皇室喪儀令で詳細が記されており、現在も慣例として行われている。 現在の日本国憲法下では、現皇室典範の規定により天皇の時は、国の儀式として「大喪の礼」が行われる。.

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大炊寮

大炊寮(おおいりょう/おおいのつかさ/おほい-)は、日本の律令制において宮内省に属する機関の一つである。大炊とは大飯炊(おおいかしぐ)の略称といわれる。.

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大草流庖丁道

大草流庖丁道(おおくさりゅうほうちょうどう)は、食儀礼(日本料理)及び礼式の流派の一つ。室町時代に、室町幕府奉公衆の大草三郎左衛門公次(きんつぐ)により創始された。 古代以来権力者の暗殺には毒が使われることが多かったため、足利将軍家における調理は特に信用できる譜代の家臣に任されていた。大草流を確立した大草氏は将軍の元服など儀式での料理を担当し、これとは別に進士(しんじ)流は仁木、細川、畠山各氏に仕えて饗応料理の吟味役を務めた。 庖丁道とは料理に関する作法・故実や調理法などを最も頻用する調理器具の包丁で象徴した呼び名である。 湊町神社にて十三夜の月待ち.

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大輪田泊

大輪田泊の石椋 大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。.

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大極殿

大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。.

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天子摂関御影

天子摂関御影(てんしせっかんみえい)は、平安時代後期から鎌倉時代に及ぶ天皇・摂関・大臣の肖像を描き連ねた画巻(絵巻)。似絵の主要作品の1つ。曼殊院門跡に伝来したが、明治11年(1878年)皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。全4巻。各巻ともに紙本着色で、縦幅は約29cm。天皇摂関大臣影(てんのうせっかんだいじんえい)とも。.

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天上の虹

『天上の虹』(てんじょうのにじ)は、里中満智子による日本の漫画。副題に「持統天皇物語」とあるように、日本の第41代天皇で、女帝である持統天皇を主人公とした作品。1983年(昭和58年)に連載を開始し、その後書き下ろしを経て2015年(平成27年)に完結した。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇の一覧

天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.

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天皇制

天皇制(てんのうせい)とは、日本の君主制。『岩波 日本史辞典』によると「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から敗戦までの近代天皇制を指す」とされている。『日本史広辞典』によれば天皇制は、「天皇を中心とする日本の国家体制」である。 『岩波 日本史辞典』によれば、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」という。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天暦

天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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太上皇

太上皇(たいじょうこう)は、退位した存命の皇帝に送られる尊号のことである。上皇または太上皇帝とも呼ばれる。「太上」は「最高の」という意味。中国では、同時期に存在する太上皇は一人のみであり、太上皇存命時に皇帝が譲位し新たな太上皇となった場合、もとの太上皇には無上皇の尊号が奉られたことがあった。なお、位を退いた日本の天皇には太上天皇の尊号が奉られる。 欧米語では「引退した皇帝」(など)と訳されるが、退位によって自動的に太上皇となるわけではない。廃位されて王に降格させられるなどの例もある。.

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太上王

太上王(韓国語:テサンワン・태상왕)は、李氏朝鮮で譲位後の国王に対して使われた尊号。上王または太上国王とも呼ばれる。中国では譲位後の皇帝を太上皇、日本では譲位後の天皇を太上天皇と呼んだことに由来する。 上王が存命中に次の国王がまた譲位すると、譲位後のその国王が新しく上王と呼ばれるようになり、それまでの上王だった前国王は太上王と呼ばれる。 李氏朝鮮第26代国王の高宗は、大韓帝国の成立とともに皇帝となったため、その譲位後は太上皇とよばれた。.

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太上法皇

太上法皇(だじょうほうおう、だいじょうほうおう)とは、出家した太上天皇(上皇)、またはその称号。法皇と略す事も多い。 制度上、世俗に在る上皇と、仏門に在る法皇の間に、身位の違いはなく、法皇の称号は平安時代の宇多天皇が初めて使った。平安時代には白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが法皇として院政を行った。花山法皇などが著名である。江戸時代の霊元法皇がこの称号を使った最後の上皇である。.

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外祖父

外祖父(がいそふ)は、ある人からみた母親の父親、母方の祖父。 日本の歴史においては、有力な貴族などが娘を天皇に嫁がせ、その子が幼くして天皇として即位すると外祖父となり、外戚の中でも特に大きな権力を握ることがしばしばあった。.

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奏(かなで).

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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女性天皇

女性天皇(じょせいてんのう)は、女性の天皇のこと。古くから女帝(漢音じょてい、呉音にょたい)と呼ばれていたが、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年以降、日本の公文書や報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。「女系天皇」との混同があるが、別のものである。.

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奉公

奉公(ほうこう)とは、国家や朝廷のために一身をささげて尽くすこと。転じて、特定の主君・主人のために尽くすことも指す。.

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奉書

奉書(ほうしょ)とは、古文書の一種。高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に1度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの。文書内容が差出者の意思と一致する直状と対になる概念である。 平安時代中期以後こうした文書が見られるようになり、その高位者の身分によって区別が存在する。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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季御読経

季御読経(きのみどきょう)は、平安時代に行われた宮中行事のひとつ。奈良時代の和銅年間に始まったとする説もあるが、天平元年(729年)が有力である。.

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定数歌

定数歌(ていすうか)は、一定の数を定めて和歌を詠む創作手法、及びその催し、作品。.

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実仁親王 (平安時代)

実仁親王(さねひとしんのう、延久3年2月10日(1071年3月14日) - 応徳2年11月8日(1085年11月27日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第二皇子。母は源基平の娘である女御・源基子。異母兄・白河天皇の皇太弟となる。同母弟に輔仁親王がいる。 父・後三条天皇は、傍流とはいえ藤原北家の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、同家と外戚関係を有しない源基子との子供に皇位継承候補者として期待をかけた。そこで延久4年(1072年)の白河天皇即位の際、実仁親王はわずか2歳で皇太弟として立てられ、更に翌年の輔仁親王誕生直後に上皇となっていた後三条が重態に陥ると、実仁親王が即位した後には輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。承保2年(1075年)に着袴、承暦2年(1078年)に読書始の儀式、永保2年(1081年)に元服の儀式が行われている。誕生前に外祖父・源基平は既に死去しており、後見がいなかったものの、祖母である陽明門院の寵愛を得ていたことから、世間からも「いと清らかなる男」称されて、将来を期待されていた。 しかし応徳2年、実仁親王は疱瘡により倒れ、15歳の若さで急死してしまう。白河天皇は翌年には父の遺言を無視して実子・善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、その日のうちに譲位を宣言して院政を開始する事になった。.

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宣下

宣下(せんげ)とは、天皇の命令を伝える公文書を公布することである。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

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家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

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守貞親王

守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。.

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寺社伝奏

寺社伝奏(じしゃでんそう)は、中世・近世の公家政権に設置された役職。社寺伝奏(しゃじでんそう)とも。特定寺社からの奏請を院・天皇へ取り次ぐ伝奏。.

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寺社本所領事

寺社本所領事(じしゃほんじょりょうのこと)は、応安元年6月17日(正平23年/1368年7月2日)に室町幕府によって出された法令。応安大法(おうあんのたいほう)・応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)とも。 室町幕府第3代将軍足利義満が就任して最初の評定始の際に定められた法令である。また、後述のように室町幕府の所領訴訟に対する基本方針を定めた法令とされ、従来の半済令とは一線を画した法令でもある。.

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尊号

尊号(そんごう)とは、君主およびその祖先とその一族、貴族や高僧など、その国家や社会においてその遺徳の顕彰や哀悼の祈念を込めて贈られる尊称のこと。.

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尊号一件

尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。.

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封戸

封戸(ふこ)とは、古代の貴族に対する封禄制度の1つ。特定数の公民の戸を支給するもので、「封戸を食む」という意味から、実際に行われた支給制度を「食封」とも呼び、封戸は食封にあてられた戸そのものを指す場合もあった。 中国では南北朝時代以後に制度が整備され、日本でも大化2年(646年)の「改新の詔」で初めて登場する。その後、白鳳5年(676年)以後の改変を経て、大宝・養老両令で整備された。令制では封戸のある令制国の国司が封物の徴収にあたり、租の半分と庸調の全部が封主のもとに納入されることになっていた。 封戸には位階に応じて(五位以上、慶雲の改革以後は三位以上)給せられる位封、大納言以上(後に参議以上)の官職に応じて与えられる職封のほか、五位以上の者で功績のあったものに給せられる功封、天皇より特に授けられる本封以外の別勅封、中宮・上皇・東宮などの院宮封などがある。寺院は封戸支給の対象外であったが、場合によっては支給期間5年に限定して寺封が与えられることがあった。更に令外の封戸として神封が存在した。 封戸は律令制度における公民制の存在を前提にしていたため、律令制度が動揺するとともに公民制の解体とともに封戸も衰退していく。更に地方制度も弛緩して封主による直接徴収が認められるようになると、封戸の田地が封主の私領と化して荘園に発展していくものもあった。(→封戸田を参照) 備後の国内には大安寺の封戸50戸、東大寺の封戸150戸があった。 長屋王邸跡から出土した木簡から、葦田郡葦田郷が氷高内親王(のちの元正天皇)の封戸であったことが分かる。安芸国では興福寺の封戸100戸、東大寺の封戸50戸、備後国の東大寺の封戸から年間100斛以上の米が運ばれていた。 Category:日本の律令制.

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小栗判官

小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。.

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少年受領

少年受領(しょうねんじゅりょう)とは、平安時代後期にみられた年少にして受領に任ぜられた者。文献上は「少年之受領」「幼少之人」「年少人」などと呼称された。.

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山口神社 (和歌山市)

山口神社(やまぐちじんじゃ)は、和歌山県和歌山市谷に鎮座する神社。鎮座地は和泉山脈の南麓、和泉国から紀伊国へと抜ける雄ノ山峠近くに位置する。社域の中心には向かって左(西側)の日吉神社と右の春日神社が並立するが、日吉神社を本社とする。旧村社。.

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山名満幸

山名 満幸(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。.

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上皇

上皇(じょうこう)とは、東アジアにおいて、退位した皇帝または天皇を指す語。.

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上皇后

上皇后(じょうこうごう)とは、.

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上表

上表(じょうひょう)とは、東宮以下の皇親・百官より庶民に至るまでが天皇に対して文書(表)を奉ること、またその文書(表)自体を指す。.

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帝室制度史

『帝室制度史』(ていしつせいどし)は、帝国学士院によって編纂された日本帝室制度の基本的な研究書。第二次世界大戦後に続編が宮内庁書陵部編纂の『皇室制度史料』(こうしつせいどしりょう)に体裁を改めて吉川弘文館から現在も刊行中である。.

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両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中山愛親

中山 愛親(なかやま なるちか)は、江戸時代後期の公家。 宝暦11年(1761年)参議に任命され、安永3年(1774年)権大納言に至る。天明2年(1782年)議奏となり、光格天皇に近侍した。天皇の父閑院宮典仁親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。寛政5年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明とともに江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。 明治時代に入り、明治17年(1884年)従一位が贈られている。なお明治天皇は愛親の来孫に当たる。 尊号一件で愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の将軍徳川家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、これを元に『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の『風雲児たち』がある。.

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中御門経任

中御門 経任(なかみかど つねただ、天福元年(1233年) - 永仁5年1月19日(1297年2月12日))は、鎌倉時代中期の公卿。初名は経嗣。中納言・吉田為経の次男。官位は正二位・権大納言。中御門大納言と号す。中御門家の祖。.

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中御門為方

中御門 為方(なかみかど ためまさ、建長7年(1255年) - 嘉元4年12月11日(1307年1月15日))は鎌倉時代の公家。父は中御門経任。母は権大納言藤原公雅女。号は中御門。正二位権中納言。子に中御門為行がいる。.

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中院 (曖昧さ回避)

中院.

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常御所

常御所(つねのごしょ)とは、平安貴族の居宅において主人のために設定された居住空間を指す。元は里内裏・後院における天皇・院の居所を指したためにその名がある。常居所・褻御所とも称する。 多くは寝殿の北面や寝殿の北方の渡殿に設定され、後に御帳間・御座間・女房座の3室構成が行われた。 天皇の内裏においては、当初は仁寿殿、後に清涼殿に天皇の居所として規定されていたが、後に里内裏が多用されるとともにこうした設定が導入されたものである。室町時代以後には内裏にも常御所が定められ、清涼殿の3間のうち2間を充てるようになり、南隣に剣璽の間が置かれた。天正以後は清涼殿とは別個に常御所が造営されるようになったが、建物内を仕切って常御所を内部に造営する形式は後世まで続けられた。 また、平安時代後期から鎌倉時代にかけては貴族や将軍の邸宅にも常御所が置かれるようになり、室町幕府では花の御所などに独立した常御所(主殿)を設置している。 Category:平安時代の建築.

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世襲親王家

世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、江戸時代において、当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。定親王家ともいう。.

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三卿

三卿(さんぎょう)は、江戸時代に次期皇位継承者(儲君・東宮)の近くに仕え、その教育にあたった公卿のことである。 天和2年(1682年)、霊元天皇は小倉事件という騒動を起こした末に、五宮(後の東山天皇)を儲君に擁立し、翌年中世以来途絶えていた立太子の儀式を復活させて東宮とした。 霊元天皇は五宮を儲君に定めると、儲君の御所に交替で日参してこれを補佐する公家を任命した。このうち、外戚の松木家関係者を除いた公卿3名(正親町公通・梅園季保・河鰭実陳)は特に天皇や外戚の指示の下に儲君のために奉公してその行跡を諌止するとともに御所内の人事を監督し、また天皇および外戚と儲君の間の伝奏役を受けた。後述のように儲君の御所から外戚の存在が消滅すると、代わりに儲君決定の際に武家伝奏・議奏の中から選ばれた「肝煎」と呼ばれた担当者がこれに代わって指示を行った。これ以降、儲君の決定と同時に同様に3名の公卿が任ぜられるようになる。 その後、中御門天皇の若宮(後の桜町天皇)の外戚は禁裏への勤番義務を免ぜられていた摂家(近衛家)であるために儲君の御所への出仕の義務がなかったこと、以後の儲君は全て公式には皇女または摂家出身の后妃の実子として扱われ、実際に儲君を生んだ女性の実家は外戚としての地位を認められなくなったことから、儲君の御所から外戚の存在が消滅することになり、3名の公卿が外戚に代わって儲君の御所における責任者として位置づけられるようになった。この3名の公卿については、当初は定まった呼称は存在せずに「三卿」「三人輩」「三人衆」などと呼ばれていたが、宝暦年間の頃には「三卿」という呼称に統一されて公式の場でも用いられるようになった。 三卿に任ぜられるのは天皇側近の羽林家・名家級公卿であったが、同時に将来儲君が次代の天皇として即位をした暁には上皇(三卿に任じた前天皇)もしくは新天皇の側近として要職に任じられる可能性が高かった。実際、三卿の多くは在任中もしくは新天皇即位とともに議奏・院伝奏・院評定に任じられ、後に武家伝奏にまで昇進する者もいた。一方、仁孝天皇の儲君であった熙宮が孝明天皇として即位した際に三卿であった野宮定祥は、即位後に任じられた地位が議奏加勢(議奏を補佐するために臨時に置かれた役職)であったことから、正当な昇進がなされなかったとして憤激しているが、当時の中級公家にとって三卿を務めることが後の昇進への登竜門であると強く認識されていたことの反映であったと考えられている。.

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三関

三関(さんげん、さんかん)とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれた。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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三浦芳聖

三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年(明治37年)9月17日 - 1971年(昭和46年)3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人。三浦天皇、または芳聖天皇。.

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一代要記

一代要記(いちだいようき)は、年代記の一つ。著者不詳。後宇多天皇の時に成立し、鎌倉時代末から南北朝時代初期まで書き継がれた。水戸徳川家による『大日本史』の史料探索中、延宝年間に金沢文庫本を発見し、10冊に書写して世間に流布した。 春夏秋冬の全4冊から成り(流布本は10巻)、その内訳は春冊が神代~醍醐天皇、夏冊が朱雀天皇~高倉天皇、秋冊が安徳天皇~後嵯峨天皇、冬冊が後深草天皇~花園天皇となっているが、中間及び尾部を欠くため最後は明らかではない。内容は書名のとおり、各天皇ごとに諡号あるいは追号を掲げて、略歴や在位中の出来事の摘要を編年体で記し、さらに上皇・皇太子・後宮・斎宮・摂関・大臣・大納言・参議・蔵人頭・皇子女などの各項を設けて、該当者の人名を記している。各天皇と皇子女が系線で結ばれ、一大皇室系図になっている特徴があるが、流布本の中には系線が略されているものもある。流布本の祖本である金沢文庫本は東山文庫に現存し、その断簡は高松宮が所蔵する。なお、高松藩主松平頼恕は国学者の友安三冬らに命じて、本書の後を継ぐ『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献上した。.

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九州王朝説

九州周辺の地形図 九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。 邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。 本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。 現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年)にも片言も掲載されていない。においては記載されていない古田武彦は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。。 歌手の武田鉄矢は、古田武彦著の『「邪馬台国」はなかった』に触発されて『倭人傳』を作曲している。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平出

平出(へいしゅつ)とは、文書の文中に敬意を表すべき文字が出てきたときにこれに敬意を表すために行われる書式の1つ。「平頭抄出」の略(『令義解』)であり、該当する用語を用いる際に改行を行って当該用語を行頭に置いて書き出すこと。.

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年官

年官(ねんかん)とは、日本の古代・中世前期において、皇族及び貴族が保有していた官職推薦権を指す用語。太上天皇をはじめ皇族、公卿に対して毎年、一定の官職を給与し、給与を受けた者が任官希望者を募り、任料を納めさせる代わりに希望者を申任させる制度である。また、任料を目的とせず、自己の親族や家司を申任させて経済的な恩恵を給付する方法としても用いられた。 一種の封禄としての意味を持ち、平安時代初期に三宮に給与したのにはじまり、寺社や宮司などに官職を給与した成功(じょうごう)と同じく、売官によるものであった。しかし、次第に同制度は衰退した。.

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庁分

庁分(ちょうぶん)とは、中世日本において「庁」の直轄領や得分(収益)を意味する語。 この場合の「庁」とは、院庁(女院庁を含む)を意味する場合と、国庁(国衙)を意味する場合がある。.

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人名

人名(じんめい)は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。 山田太郎。典型的な形式の日本人の名前として、書類の記入例などに良く用いられる。なお「太郎」とは江戸期以前の、仮名(けみょう)の内の輩行名(はいこうめい)に由来する。 その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。.

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二頭政治

二頭政治(にとうせいじ、diarchy)は、寡頭制の一種で、最高権力者が2人いる政治形態を指す。憲法など制度上では最高権力者が1人と規定されても、実質的に2人になっている場合も二頭政治と呼ばれる場合がある。双頭政治(そうとうせいじ)とも言われる。.

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二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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廃太子

廃太子(はいたいし)は、皇室、王室における廃嫡のことをいう。皇太子、王太子など皇位、王位継承者がその位を廃されることであり、廃された本人をもそう呼ぶ。なお、立太子されていない儲君が廃された場合や、即位前に死去した場合などは廃太子とは言わない。.

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仙覚

仙覚(せんがく)は鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。建仁3年(1203年)生れとする説が有力。没年不詳。文永9年(1272年)、70歳の年まで存命したことは確実であるが、その生涯の伝記的事項には不明な部分が多い。.

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仙洞御所

仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。.

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会所 (中世)

会所(かいしょ)とは、文字通り解釈すれば、なんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであるが、日本の中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられることもあった。特に、会所が最も発達した室町時代については、節を設けて詳しく解説する。また、江戸時代における会所については会所 (近世)を参照のこと。.

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伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。 第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。 昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、第26代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家(旧皇族)はいずれもこの伏見宮の系統である。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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伝奏

伝奏(てんそう)とは、院政期から幕末にかけて公家政権(朝廷)内に置かれた役職。元来は治天の君(上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当したが、後に天皇親政時にも設置されるようになった。.

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御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。 平成23年(2011年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、平成25年(2013年)6月18日に登録された。.

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御差

御差(おさし)とは、天皇に近侍する女官の1つ。命婦・女蔵人とともに御下と呼ばれる女官の最下層に属し、その中でも最も下位にあった。 天皇が便所に入る際に随行し、また侍医による拝診を受ける際には導引を掌った。御下は天皇と直接口を訊くことは出来なかったが、御差の職掌は天皇の健康管理とも関わるために例外的に天皇の言葉に直接答える事が許されていた。また、皇子女の行啓や天皇との対面の際には皇子女の介添役を務めた。 定員は1名で必要に応じて別途に御差代が設置される場合もあった。諸大夫・坊官・四位の娘が任じられることとされているが、実際の補任例ではその中でも三位に昇り得る家から出されていた。また、女蔵人はより上位の命婦に昇進する例があったが、御差はそれ以上の官に昇ることはなく、仕えている天皇が崩御すると剃髪するか御所を退いた(譲位の場合には、上皇となった前天皇に仕えるために仙洞御所に移る)。.

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御師 (音楽)

御師(おんし)とは、天皇や皇太子・太上天皇他諸皇族に楽器演奏など音楽を教えた者のこと。 史料によっては「御師」の他に「御〇〇師」(〇〇は楽器名)、「御師匠」「御師範」「侍読」などが別称として、用いられた。なお、「侍読」の語は音楽が儒学などの学問と同一に扱われていたことによると思われる。 日本の天皇は代々楽器の演奏を好まれたが、その背景には中国の礼楽思想の影響があったこととに加え、儀式や宴会の場で楽人だけでなく貴族の中にも楽器を嗜む者が多く、彼らとの交流の必要性から天皇自らが楽器の習得に励んだとみられている。ただし、奈良時代の天皇は楽人らの曲を「見る」側にいることが多く、天皇の演奏に関して具体的に知られるようになるのは桓武天皇以降のことになる。嵯峨天皇は琴・笛・琵琶のいずれも通じたとされ、以降の天皇は主に琴を重んじたが、円融・一条天皇が笛の達人として知られて以降は笛が重んじられた。後鳥羽天皇以降は琵琶が、両統迭立期には持明院統では琵琶が大覚寺統では笛が重んじられ、後光厳天皇以降は笙が重んじられた豊永聡美「後光厳天皇と音楽」(初出:『日本歴史』567号(1998年)/所収:豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P130-151)。なお、後醍醐天皇は音楽面でも皇統の統一を意図して笛だけでなく琵琶の習得を励んだとされ、後光厳天皇は持明院統の嫡流である兄・崇光天皇流(伏見宮家)に対抗するために琵琶ではなく笙を習うという政治的意図があったことも指摘されている。 平安時代前期より天皇が演奏に優れた貴族から琴や笛を学ぶことはあったが、楽器演奏の習得が帝王学の一部として組み込まれると、平安時代後期の堀河天皇以降幼帝もしくは皇子の教育の一環として「御楽始」の儀式が行われ、その際に楽器演奏を教える御師の任命が行われるようになった。 御師には大きく2種類あった。1つは正式な御師として、御楽始の儀の際に宣旨や院宣によって任命され、病気や死去などで務められなくなるまで長期にわたって楽器演奏を教授した(御師が空席になった場合には後任が任じられる形となる)。天皇に教授する立場上、(できるだけ高貴な)昇殿が可能な殿上人であることが望まれ、堀河天皇の笛の御師として最初に任じられた源政長は当時の摂政藤原師実の側近であった。鎌倉時代には西園寺実宗が守貞親王(皇位には就かなかったが、後に後堀河天皇の実父として太上天皇となる)の琵琶の御師になり、曾孫の西園寺公相は後深草天皇の琵琶の御師に任じられ、以後の西園寺家は関東申次と琵琶の御師を兼ねて政治面のみならず文化面でも大きな影響力を行使した。もう1つは天皇や太上天皇が特定の人物のみが知る秘伝の曲の伝授を希望した場合や自身の御師が属する流派以外の曲の伝授を希望した場合に宣旨や院宣によって一時的に御師の待遇を受ける者、言うなれば「正式な御師」に対する「特別な御師」と称すべき人である。こちらは殿上人ではなく地下人の楽人であっても任じられる可能性があった(その際に昇殿も合わせて許されることになる)。鎌倉時代後期の後嵯峨天皇の頃からこうした特別な御師が増加することになる。 この他に本来であれば天皇に近づけない地下人の楽人が北面武士などの天皇に近侍する資格を持って非公式に天皇に対して教授した者がいた。こうした者は本来御師には数えられないが、説話物や後世の編纂物によって御師の扱いをされ、また現実においても前述のように鎌倉時代後期には地下人の楽人であっても特別な御師に選ばれるようになり、後光厳天皇の時代には本来琵琶の御師を務めるべき西園寺実俊の代わりに彼の推挙する縁戚の地下官人(琵琶西流師範家)藤原孝経が正式な御師を務めることになり、同じく新たに導入された笙の御師には同じく地下出身の豊原龍秋が任じられた。 古くはなるべく貴顕であることが望まれた御師に地下人が選ばれる背景としては、天皇自らが主体的に音楽を習得する風潮が強まるにつれて、音楽の演奏・教授を家業とする重代の楽家が重んじられ、その対象となる楽家が堂上家のみならず、地下家にまで広がっていったことによって可能になったとみられている。また、堂上家の中でも代々琵琶の御師を務めた西園寺家の楽統が同家と分家の今出川家に分裂して家業が停滞したのに対し、むしろ秘説の伝授を受けた天皇や太上天皇の方が次の天皇や殿上家の当主に伝授する現象が起き始めていたことも、殿上家が御師の立場を維持できなくなった一因と考えられる(光厳天皇は父の後伏見上皇から直接琵琶の秘曲の伝授を受けて、それを崇光天皇や側近の正親町忠季に伝授している。また、崇光天皇も忠季や今出川公直に秘曲を伝授している)。.

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御幸

御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき).

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御津町 (愛知県)

御津町(みとちょう)は愛知県南東部、宝飯郡にあった町である。豊川市に、音羽町も含めて編入合併を申し入れ、2008年1月15日、同町と共に編入された。 現在は、旧御津町域の住所表示を「豊川市御津町」とすることにより、旧町名を残している。.

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御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

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徳川治済

徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。.

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徳政令

徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。.

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後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

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後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後亀山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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後桜町天皇

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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保元新制

保元新制(ほうげんのしんせい)とは、保元元年閏9月18日(1156年11月2日)に出された宣旨7ヶ条のこと。保元元年令とも。また、翌保元2年3月17日(1157年4月27日)に出された太政官符5ヶ条及び同年10月8日(1157年11月11日)宣旨35ヶ条との総称として用いられる場合もある。荘園整理令として重視する観点からは保元の荘園整理令と呼ばれる場合もある。.

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土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

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北面武士

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

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別納所

別納所(べちのうしょ)は、院司や公卿の家に置かれた家政機関。 封戸などから納められた別納分の納物を管理していた場所とみられている。院司の場合には院庁の下に置かれて上皇に御飯・御菜を供した(『西宮記』八「院宮事」)、日常生活に必要な道具を提供する役割も果たしており、責任者である別当には四位の貴族が、実務を担当する年預には主典代が任じられていた。後嵯峨天皇の院執権であった葉室定嗣の日記には死去した別納所年預の選考にあたり「器量の者」を選んだ事が記されている(『葉黄記』寛元4年閏4月27日条)。 また、公卿の家において同様の役割を果たす機関も「別納所」と称していた。.

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分国

分国(ぶんこく)とは、日本の中世における1国の単位。平安時代の知行国にあたる。 平安時代中期以降の上皇や法皇、皇族の所領となった院宮御分国、源頼朝の知行国である関東御分国、南北朝時代以降の守護大名の知行した領国などが当たる。 戦国時代には、戦国大名は領内を対象とした分国法を制定して統治。 Category:行政区画の単位 ふんこく.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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善通寺

全景 (香色山の中腹より) 善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院。真言宗善通寺派総本山。屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。 平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯善通を開基として創建された。伽藍は創建地である東院と、空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれている。 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:我住まば よも消えはてじ 善通寺 深き誓ひの 法のともしび.

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善淵永貞

善淵 永貞(よしぶち の ながさだ、弘仁4年(813年) - 仁和元年12月11日(886年1月19日))は、平安時代初期の貴族・儒学者。初名は福貞あるいは福真。氏姓は六人部(無姓)のち善淵朝臣。官位は正五位下・大学博士。.

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もののまぎれ

もののまぎれは、源氏物語に記された3つの事件で起こった事象を言い、中でも藤壺事件に伴う事象を言う。源氏物語において重要な概念とされ、時に「主題である」とされることもある語である。; 藤壺事件; 女三宮事件; 浮舟事件.

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唐名

唐名(とうめい、とうみょう、からな)は、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内廷費

内廷費(ないていひ)とは、皇室経済法に基づき天皇及び内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充当されるため支出される費用。より具体的には、第4条第1項の条文を根拠とする。.

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准太上天皇

准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)とは、太上天皇に准じた待遇のこと。 『源氏物語』に、主人公光源氏が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい。 歴史上、准太上天皇の実例は、寛仁元年(1017年)に敦明親王が皇太子の地位を辞退する見返りとして、小一条院の院号と年官年爵を与えられ、上皇同様に院庁を設置されたのが唯一である。これも「准太上天皇」という具体的な称号が与えられたわけではない。院号の授与や院庁の設置、年爵の賦与により上皇に准じた待遇を与えられたにとどまる。 なお、女院も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。正暦2年(991年)に最初の女院となった東三条院藤原詮子の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、一条天皇の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて三宮よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。.

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准母

准母(じゅんぼ)とは、天皇の生母ではない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性の称号。.

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八幡神

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.

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八瀬童子

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。 昭和3年(1928年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって社団法人八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。平成22年(2010年)には同会所有の資料741点(文書・記録類 650点、装束類 91点)が重要文化財に指定された。 また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。.

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公家町

公家町(くげまち)とは、近世の京都にあった内裏(土御門東洞院殿・京都御所)周辺に設けられた公家の居住空間。現在の京都御苑およびその周辺部にあたる。.

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公家領

公家領(くげりょう)とは、公家(公卿・官人)の所領の総称。広義においては皇室領を含む場合もある。.

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公家様文書

公家様文書(くげようもんじょ)は、日本の古文書研究における区分の1つで公家において用いられた文書様式を指す。.

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六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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先例

先例(せんれい)とは過去に存在した同様の事例。また、その中で特に規範としての重みを持ち、諸々の判断基準として位置づけられるもの。前例。また、特に繰り返し行われてきたものについては「慣例」「通例」などともいわれる。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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勘事

勘事(かんじ/こうじ)とは、上官の譴責を受けて出仕の差し止めなどの処分を受けること。勘当とも称した。天皇からの勘事の場合は、特に勅勘(ちょっかん)と称した。.

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勅使

勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.

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勅願寺

勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。寺格の一つ。 実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。 明治時代初期まで勅願寺の指定が行われていたが、神仏分離令によって指定が廃止された。.

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勅願所

勅願所(ちょくがんしょ)とは、時の天皇・上皇の勅願により、鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社。勅願宮、勅願社とも称する場合もある。.

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勅旨省

勅旨省(ちょくししょう)は日本律令制で奈良時代後期に設置された令外官。天皇・上皇に近侍してその勅旨を奉じて円滑な実施を図るとともに、その家産経営を掌った。.

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勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).

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勅撰集

勅撰集(ちょくせんしゅう)は、帝王(日本においては天皇や上皇)の命によって編纂された書物、もしくは帝王が記した書物のうち特に公式のものとして認められているものを指す。 勅撰集に対して帝王の命によらずに編纂されたものを私撰集(しせんしゅう)と呼ぶ。.

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固関

固関(こげん)とは、律令制において天皇・上皇・皇后の崩御、天皇の譲位、摂関の薨去、謀反などの政変などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関(後に近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じること。これに対して封鎖を解除することを開関(かいげん)という。.

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国母

国母(こくも/こくぼ)は、東アジアにおいて天皇や皇帝、国王の生母を指して用いられた呼称。また、「国の母」、「国民の母」の意で、皇后・王妃や国家指導者(国民の父)の配偶者等を指して使われることもある。.

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四方拝

四方拝(しほうはい)とは、毎年1月1日(元日)の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇室典範第2章

皇室典範 第二章(こうしつてんぱん だいにしょう)は、皇室典範において皇族について規定する。.

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皇室財産

皇室財産(こうしつざいさん)は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。.

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皇代暦

皇代暦(こうだいれき)は、南北朝時代から室町時代にかけてに書かれた年代記。著者は洞院公賢。後に甘露寺親長の増補によって今日の姿になったとされる。江戸時代に徳川光圀によって、歴代皇紀(れきだいこうき)という表題が与えられている。 神代から後土御門天皇の文明9年(1477年)までを記述している。同年に甘露寺親長から後土御門天皇に献上された原本は全5巻で現存はしていないが、江戸時代に柳原紀光が当時まだ現存していた原本から写本したもの(「柳原本」)が宮内庁書陵部に蔵書されている。これとは別に尊経閣文庫には、加賀藩主前田綱利所蔵本が残されている。.

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知行国

知行国(ちぎょうこく)とは、古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権・吏務ともいう)を獲得し収益を得た制度、およびその国。知行権を獲得した有力貴族・有力寺社らを知行国主といい、知行国主は、知行国の国司推薦権や官物収得権を保有した。知行国は「沙汰国」、「給国」ともいった。.

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社寺参詣曼荼羅

寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら、または寺社参詣曼荼羅〈じしゃさんけいまんだら〉、参詣曼荼羅〈さんけいまんだら〉とも)とは、参詣者の勧誘と霊場案内を目的として霊場(神社・寺院)を描いた宗教的絵画を指す学術用語。 作例の多くは紙本著色の形式による素朴かつ安価な絵画で、勧進活動のために持ち運ばれた形跡を残している(→#形態)。歴史的な起源としていくつかのカテゴリーの絵画を指摘することができる(→#起源)。その成立には、戦国時代以後、権力の保護に依存しえなくなった寺社が、本来は寺社外部の存在である本願による勧進活動に依拠するようになったという背景があり、参詣曼荼羅は勧進活動の手段の一つとして使用された(→#成立)。 参詣曼荼羅には、先行する絵画のいずれにも還元しえない、独自の空間構成が備わっている(→#社寺参詣曼荼羅の空間構成)。その作成を企図した作成主体は、西国三十三所を中心とする寺社の本願である。三十三所寺院を描いた作例には様式や人物図像において、それ以外の作例とは区別される共通性が見られる。そうした共通性は、これらの参詣曼荼羅がいくつかの工房によって作成され、また、それらの工房が定型の確立を主導したためであった(→#系統分類と工房)。しかし、それぞれの寺社や霊山の事情に即して、絵図がどのように作成され、使用されたかは一様ではなく、そうした相違は時には構図にも反映された(→#那智山と西国三十三所寺院、#霊山の参詣曼荼羅)。参詣曼荼羅は遅くは19世紀まで作成されたが、成立の背景にあった寺社経済が近世において回復を示したことにより、本願とともに参詣曼荼羅もそのあり方を変容させた(→#社寺参詣曼荼羅の近世)。.

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神領興行

興行(しんりょうこうぎょう)とは、主に鎌倉時代中期以降に、天人相関思想に基づき、天皇、幕府が行った神事の興行を図る政策のことである。諸神社の儀式遂行とその財源たる所領等の保障を目的に、既売却地・質流れ地等の無償返付を内容とした法令を発布した。一円神領興行法ともいい、徳政の一類型として理解されている。.

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禁色

禁色(きんじき)とは、日本の朝廷において、官人の官位等に応じて禁じられた服装である。特定の色のほか、地質等にも及んだ。平安時代の9世紀半ば以降、特定の官人に上位の衣服を許す「禁色勅許」が出されるようになり、特権として重視された。逆に誰でも使用できる色のことを「ゆるし色」と言った。.

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私寺

私寺(しじ)とは、律令政府(朝廷・国府)の主導によって建てられた官寺に対して、民間(貴族・豪族・一般民衆)によって建てられた仏教寺院を指す。ただし、もっと狭く捉えて貴族が建立した寺院のみを指す場合もある。.

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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紫微中台

紫微中台(しびちゅうだい)は、749年に設置された令外官。皇太后の家政機関の体裁だが、実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。後に坤宮官に改称。長官は紫微令、後に紫微内相。.

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紀伊路

紀伊路(きいじ、古くは紀路〈きじ〉とも)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。 淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。 近世までに紀伊田辺以東の部分が中辺路(なかへち)の名で区分されるようになったが(後述)、本項目にて扱う。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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義演

義演(ぎえん、永禄元年8月20日(1558年10月1日)- 寛永3年閏4月21日(1626年6月15日))は、戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王王女の位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子となる。.

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給人

給人(きゅうにん).

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申詞

申詞(もうしことば)とは、平安時代から室町時代にかけて上申の際の発言及びその作成された上申者の発言記録のこと。 元は訴訟機関が訴訟の原告・被告双方の証言を聴取することを問注と呼び、その際に取った記録を問注録(もんちゅうろく)・申詞記(もうしことばき)・問注記(もんじゅうき)と称したが、そこの記された証言のことを指した。 問注録は問注担当者の「問○○云、~~依実弁申如何」という問いかけに対して、「××申云……と申」という当事者の発言を記した文章が続き「……」の部分に当事者の陳弁がそのまま記載された。当時の人々の生の発言がそのまま記載されるため、当時の口語における言葉遣いなどを知る上で貴重な資料となる。問注記は担当者の質問と訴人の解答、同様の質問と論人の解答といった順番で交互に記す形を取っている。担当者は判決に先だって問注記を勘文形式とした問注勘文(もんじゅうかんもん)/とした問注勘状(もんじゅうかんじょう)/として訴訟機関に提出し、それを引用する形で判決文である裁許状が作成された。 室町時代になると、室町幕府将軍から天皇及び院に政務に関する執奏を行う際にその執奏の発言をそのまま折紙に書き留めて文書として残したものを指す様になる。「……矣」で結んで署判は行わない。これに対して天皇・院の返答が出され、同様に記録されることもあるが、これは仰詞(おおせことば)と呼称して区別された。.

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申次

申次(もうしつぎ)とは、奏者(そうじゃ/そうしゃ)とも呼ばれ、主君に奏事伝達を行う役目を担った役職、あるいは奏事伝達行為そのものを「申次」と呼ぶ。.

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申次衆

申次衆(もうしつぎしゅう)とは、室町幕府の職名の1つ。.

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熊野三山

野三山 熊野那智大社 熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野権現も参照のこと。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。.

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熊野三山検校

野三山検校(くまのさんざんけんぎょう)は、京都において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄に当った役職で、11世紀末に現地を統括していた熊野別当の上に設置された。.

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熊野年代記

野年代記(くまのねんだいき)は、熊野新宮の本願所であった新宮庵主霊光庵により編纂された編年体の歴史書。古代から明治時代前半までの熊野三山の歴史を伝え、熊野の歴史研究において重要な史料と評価されている。.

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熊野別当

野別当(くまのべっとう)は、9世紀から14世紀前半にかけて、現地において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。.

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熊野神社

野神社(くまのじんじゃ)は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または熊野社(くまのしゃ・ゆやしゃ・いやしゃ)・十二所神社(じゅうにそじんじゃ、じゅうにしょじんじゃ)など類似の社名の神社が全国各地にある。.

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番役

役(ばんやく)とは、日本史上において順番に交替勤務にあたること。 律令制における衛士上番や平安時代中期以後における大番(天皇・上皇の御所や摂関家の邸宅警備)などの朝廷関係機関を警備する番役が古くから存在していた。鎌倉幕府は全国の御家人に御家人役と呼ばれる軍役の一環として各種の番役をかけるとともに、朝廷に対する番役負担の一部を継承した。最大のものは大番役と呼ばれるもので、京都の大番を継承した「京都大番役」と同様に鎌倉にあった将軍御所や幕府機関を警備する「鎌倉大番役」が存在した。諸国の守護は国内の御家人を大番役に従事させるために必要な権限が与えられており(「大番催促」)、大犯三箇条のうちの1つに数えられている。元寇を機に異国警固番役が追加された。.

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牛車

牛車(ぎっしゃ、ぎゅうしゃ)は、ウシや水牛に牽引させる車のことで交通手段のひとつ。主に荷物を運搬する荷車タイプのものと、人を運搬する乗り物タイプのものがある。 現代の日本では軽車両扱いではあるが、観光用や祭礼用などを除いてあまり見かけられなくなっている。かつては世界各地で用いられており、発展途上国では今でもごく普通に見ることが出来る。2005年にはコスタリカの牛飼いと牛車の伝統がユネスコの無形文化遺産に登録されている。.

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直仁親王

仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年) - 応永5年5月14日(1398年6月2日))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子とされているが、実際には光厳天皇(花園天皇の甥)が正親町実子と通じて産ませた皇子であった。 北朝崇光天皇の皇太弟に立てられたが、正平一統の際に南朝方によって廃位され吉野へ連れ去られた。花園上皇の御所だった「萩原殿」を相続したことから萩原宮(はぎわらみや)とも通称された。.

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直衣

衣(和漢三才図会) 直衣(のうし、なおし)は、平安時代以降の天皇、皇太子、親王、および公家の平常服。 外見上は衣冠とほとんど同じであるが、「直(ただ)の衣」の意味より平常服とされ、色目・紋様も自由であった。成人前の若年者は「童直衣(わらわのうし)」を着用した。.

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随身

随身(ずいじん、ずいしん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人。令外官。.

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隠居

居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.

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遷都

遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.

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遺詔

遺詔(ゆいしょう/いしょう/ゆいじょう/いじょう)は、天皇または上皇が、生前に死後のことについて指示した詔。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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荘園 (日本)

ここでは日本の荘園(にほんのしょうえん)について扱う。.

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行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

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飛天のごとく

『飛天のごとく』(ひてんのごとく)は、宮乃崎桜子による日本の小説。イラストは浅見侑。 平安時代の貴族・藤原頼長が実は女で、西行と恋仲であったという設定のもと、白河上皇の死後から保元の乱までを描く。.

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西園寺きつ子

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。.

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西面武士

西面武士(さいめんのぶし、西面の武士とも)は、鎌倉時代、上皇に仕え、身辺の警衛、奉仕などにあたった武家集団のこと。 1200年ごろ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされる。倒幕準備のために創設したとする説の他、武芸を好んだ上皇が幕府とは関係なく創設したとする説もある。院御所の西面に詰め所などがあったので、この名がついている。 関東や在京の御家人を中心に構成されており、西日本の有力御家人、武勇に優れた武家(武士)が多く所属していた。すでに上皇警護には白河上皇によって創設された北面武士があり、ともに院の軍事の中枢を担った。 1221年の承久の乱においては上皇軍として参戦したが、1ヶ月あまりで鎮圧された。乱後、上皇の配流に伴い廃止された。.

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饗応役

饗応役(きょうおうやく)とは、江戸時代に天皇・上皇・女院より派遣されて江戸に下向してきた使者(それぞれ勅使・院使・女院使)を接待するために江戸幕府が設けた役職である。主に外様大名が任命された。御馳走役・接待役・館伴役ともいう。『忠臣蔵』で有名な浅野長矩は吉良義央への刃傷の際に勅使饗応役を務めたことで知られる。 毎年正月には幕府将軍は、高家という旗本たちを派遣して京都の天皇と上皇に対して年賀を奏上する。これに対して天皇と上皇は、答礼として2月下旬から3月半ばにかけて勅使と院使を江戸へ派遣する。これが江戸時代の毎年の恒例行事であった。江戸へ下向した勅使と院使は江戸にいる間は幕府の伝奏屋敷に滞在するのだが、ここで御馳走をふるまったり、高価な進物を献上したり、勅使院使の行く先のインテリアを良くしたり、お話し相手になったりなどの諸々の応待をするのが饗応役である。 勅使饗応役に就任するのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。勅使と院使の饗応には莫大な予算がかかることから、幕府は余計な蓄財をさせない意味で外様大名ばかりを任命したのだが、武骨な大名が一人でつとめて天皇や上皇の使者に対して無礼があったりしてもいけないので、饗応役の大名には朝廷への礼儀作法に通じた高家肝煎が指南役(口添え役とも)につくのが決まりであった。饗応役の大名はこの高家に対しても指南料として高価な進物を贈らねばならなかった。こうした勅使が下向・大名が饗応という一連の慣例が確立したのは『徳川実紀』で見たところ寛永9年(1632年)の時のようである。 またこの行事以外にも必要に応じて勅使や院使が江戸や日光へ送られることがあるので、そのたび饗応役は選任された。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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親衛隊

親衛隊(しんえいたい)とは、主に君主や元首、それに類する重要人物の身辺警護をする武装組織。.

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親鸞聖人正明伝

『親鸞聖人正明伝』(しんらんしょうにんしょうみょうでん)は、浄土真宗の宗祖とされる親鸞の伝記の一つ。全4巻。著者、成立時期については諸説ある。略称は『正明伝』。.

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親政

親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。.

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観察使

観察使(かんさつし)は、唐代の中国、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。.

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香道

香道(こうどう)とは、沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道である。近年、文化の復興目覚ましい中国や台湾、韓国などで「中国香道」「台湾香道」「韓国香道」などと「香道」という文言を使用しているが、「香道」自体は日本独自の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。 香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。大自然の恵み、地球に感謝し、そして彼らが語りかけてくる事を聞き取らなければならないと考えるのである。.

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駒牽

駒牽(こまひき)とは、宮中行事の1つで毎年8月に東国に置かれた勅旨牧から貢進された馬を内裏南殿において天皇の御前にて披露した後に出席した公卿らに一部を下賜し、残りを馬寮・近衛府に分配する行事。 勅旨牧は信濃・甲斐・武蔵・上野の4国に及んだため、牧単位で分散して行われ、『延喜式』・『政事要略』によれば、8月のうちから8日間に分けて儀式が開かれた。また、『江家次第』によれば、東宮や上皇、それに摂関は不参であっても馬の下賜を受ける事が許された。ただし、摂関への下賜は天禄3年(972年)に恒例化されたものと考えられている。 また、儀式に先立って当日の朝に近衛府の将兵が貢進された馬を逢坂関で出迎える駒迎(こまむかえ)の儀式もあわせて行われていた。 後に信濃国の一部の勅旨牧以外からの貢進は途絶えたが、奥州から予め購入あるいは現地の有力者から貢進された馬で不足分を補いながら、応仁の乱の頃まで断続的に続けられた。 なお、これとは別に毎年5月5日の節会に先立って、騎射・競馬の儀式の際に用いられる馬を親王・公卿ら及び畿内周辺諸国から献上された馬を天皇の御前に披露する駒牽の儀式もあった。.

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誠仁親王

誠仁親王(さねひとしんのう、天文21年4月23日(1552年5月16日) - 天正14年7月24日(1586年9月7日))は、安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく早世したが、遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院である。.

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諸山

諸山(しょざん)とは、五山制度に基づく寺格の一つである。五山・十刹の下。中国では甲刹(かつさつ)と呼称した。 元亨元年(1321年)に鎌倉幕府の元執権で北条得宗家当主であった北条高時が自らが鎌倉弁谷に建立した崇寿寺(現在は廃寺)を五山に次ぐ寺として「諸山」の称号を与えたのが最古と言われている。以後、五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられた。原則的には五山と同様に室町幕府の将軍御教書によって指定されることになっていたが、特に上限を設けなかったために多くの禅林に諸山の称号が与えられ、北朝上皇の院宣や果ては敵である南朝による諸山称号が追認されたものまであったと言われている。後に大和・和泉・志摩・飛騨・佐渡・隠岐・豊前の7ヶ国を除いた全ての令制国に設置され、その数は230に上ったという。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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鳥羽離宮

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。 場所は、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近で、朱雀大路の延長線上にあった。敷地面積は180万平方メートル。平安京の羅城門から南に約3kmのあたりにある。.

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賑給

賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。.

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賀名生行宮

堀家住宅(賀名生行宮跡) 賀名生行宮(あのうのあんぐう/あのうあんぐう)とは、大和国吉野郡(現在の奈良県五條市西吉野村賀名生)にあった南朝の行宮。.

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足利義嗣

足利 義嗣(あしかが よしつぐ)は、室町時代の足利将軍家の人物。室町幕府3代将軍足利義満の四男で、4代将軍足利義持の弟にあたる。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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麹塵袍

塵袍(きくじんのほう)は、天皇が臨時祭の庭座、賭弓、弓場始など小儀の際に着用する束帯装束の、麹塵色の袍のことである。青色袍(あおいろのほう)、青白橡袍(あおしらつるばみのほう)等とも言う。 「麹塵」はコウジカビの菌糸の色と言われ、古くは『周礼』の王后の六服の一つ「鞠衣」の古注に、これは「黄桑服で、色は鞠塵(麹塵)のようであり、桑の葉の生えはじめを象っている」とあり、中国においては黄色系の色であったと言われる。日本では平安時代の9世紀末から用例が見られるが、遅くとも10世紀半ばの『西宮記』の頃には、「青白橡」(あおしろつるばみ)と同色とみなされ、青(緑)系の色であった。麹塵の色を単に「青色」とも言い、後にはヤマバトの色と近いことから、「山鳩色」とも呼ばれた。.

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輿

輿(こし、litter)とは、人を乗せ人力で持ち上げて運ぶ乗り物のこと。.

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輔仁親王

輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日(1073年2月28日) - 元永2年11月28日(1119年12月31日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。.

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船副使麻呂

船 副使麻呂(ふね の ふくしまろ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・儒学者。氏姓は船連、のち菅野朝臣。官位は従五位下・山城権守。.

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薬子の変

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.

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閑院宮

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。 閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が皇統として続いている。.

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閑院宮典仁親王

閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう、享保18年2月17日(1733年4月1日) - 寛政6年7月6日(1794年8月1日))は、江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」(きょうこうてんのう)または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)。 古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。.

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藤原定季

藤原 定季(ふじわら の さだすえ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、権大納言・藤原定能の次男。官位は正三位・非参議。.

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藤原秀康

藤原 秀康(ふじわら の ひでやす)は、鎌倉時代前期の武将。承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。.

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藤原真夏

藤原 真夏(ふじわら の まなつ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。右大臣・藤原内麻呂の長男。官位は従三位・参議。.

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藤原隆佐

藤原 隆佐(ふじわら の たかすけ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。右衛門権佐・藤原宣孝の五男。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤壺

藤壺(ふじつぼ)は、物語に登場する、本名のわからない架空の皇妃の便宜上の名称。 そもそも藤壺とは平安御所後宮の七殿五舎のうちの一つ飛香舎の別名であり、転じて飛香舎を賜った皇妃の呼称ともなる。代表的な例として、光源氏を主人公とする『源氏物語』に以下の3人が登場する他、『うつほ物語』のあて宮などが知られる。.

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葉室光親

葉室 光親(はむろ みつちか、安元2年(1176年) - 承久3年7月23日(1221年8月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原 光親とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位.

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那智参詣曼荼羅

那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら、熊野那智参詣曼荼羅〈くまのなちさんけいまんだら〉とも)は、熊野信仰の聖地である熊野那智山を描いた社寺参詣曼荼羅。.

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那智山 (山)

那智山(なちさん)は和歌山県那智勝浦町北東部の内陸一帯にそびえる山々の総称。 名称の由来は、難地の義とも、熊野本宮大社や熊野速玉大社よりもノチ(後)に山が開かれたからともいわれるが定かではない。世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道の登録物件が所在する。.

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還御

還御(かんぎょ)とは、天皇・上皇などの貴人が外出先から居所に帰還することを言う。 本来は天皇・上皇に限定された意味で用いられていたが、後には三后・摂関・将軍などの貴人にも拡大されて広く用いられるようになった。これに対して天皇の還御は特に還幸(かんこう)と呼ばれるようになった。.

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蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

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重祚

重祚(ちょうそ)は、一度退位した君主が再び即位することである。一般に中華文明圏の君主について用いられる。.

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臨時給

臨時給(りんじきゅう)とは、規定外の年官を臨時に給与すること。.

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里内裏

里内裏(さとだいり)は、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す。「里」とは平安京の里坊(「里」「坊」はいずれも方形に区切られた街区)のことであり、すなわち里内裏とは「京内に置かれた内裏」という意味である。.

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金槐和歌集

『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)は、鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で『金槐集』とも呼ばれる。 成立は藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃とする説が有力。全一巻、663首(貞亨本では719首)掲載されている。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名鎌倉右大臣家集といわれている。但し、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年1218年である。 昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は自撰・他撰(定家による撰)両説あるが未詳。後者も、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかは諸説ある。江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来『万葉調』の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際は万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。.

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長寛勘文

長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。.

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長屋王

長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。.

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長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。.

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離宮

離宮(りきゅう)とは、皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のことである。 一般的には王族・皇族等が居住するために建設された宮殿とは別の敷地に建設される。例えば皇太子などが成人・結婚し、天皇・皇帝と別に住居を構える場合などが当たる。また、避暑・避寒、静養のために建てられるものもある。.

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造国

造国(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。.

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退位

退位(たいい、)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。.

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院(いん)は、元の意味は高い垣に囲まれた大きな建築物のことで、そこから以下のような意味を表す。.

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院号

院号(いんごう)は、下に「院」の字が付く称号である。院(邸宅・寺院)に関係する、もしくは、歴史的には院に関係した。.

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院司

院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.

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院宣

院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.

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院宮分国制

院宮分国制(いんぐうぶんこくせい)とは、院や女院、中宮、斎宮などに除目の際に特定の令制国の受領を推挙する権利を与え、そこから経済的利益の配分を受けることで俸禄の代わりとする制度。主に院司が受領に任じられて任国に下って知行国を支配した。平安時代から南北朝時代にかけて置かれていた。 その由来については淡路国に流された淡路廃帝大炊親王(淳仁天皇)のために同国の官物・庸調が廃帝の生活に充てられ、平城京に籠った平城上皇のために大和国の田租・地子稲が生活に充てられたもの、更にその後導入された親王任国を制度の嚆矢とする説もあるが、延喜8年(908年)に宇多上皇のために信濃国が与えられ、10年後に更に武蔵国が与えられたのが最古の例と考えるのが妥当とされている。その後、初めて女院となった東三条院藤原詮子に対しても上皇と同じような待遇が許され、更に久安2年鳥羽上皇皇后藤原得子(近衛天皇生母・後の美福門院)に越前国が与えられたのを機に后妃や斎宮にも同様に認められるようになった。 ただし、令制国から何を得たのかについては2つに分かれており、任命された受領の俸禄の一部とする説と受領が徴収した租税などの収入の一部とする説が存在する。前者とすると院らの収入が少なすぎる上に任命された受領にとってのメリットも無くなるために後者であろうと考える説が有力であるが、詳細は不明である。 いずれにしても平安時代後期には令制国における収入が滞り、複数国の知行を受ける例が増加する。受領の任期は通常4年であったが、院らは持ち回りによって毎年のように別個の令制国の受領を任じた(4ヶ国の知行国があれば、毎年別の国の受領を推挙・任命することになる)ために「年分受領」とも呼ばれるようになった。.

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院宮王臣家

院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)とは、平安時代初期(8世紀末~9世紀ごろ)、天皇権力と結びついて勢力を強めた少数の皇族・貴族の総称。 「院宮王臣家」の「院」とは太上天皇、「宮」とは三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・東宮(皇太子)、「王臣家」とは親王・内親王などの皇親や、おおむね五位以上の公家をそれぞれ指している。 平安時代になると公地公民制は事実上崩壊しており、公営田や官田などの直営田や、諸司田・勅旨田・賜田などの私有地が増大していた。院宮王臣家は下級官人を家人化し、有力農民を保護することで、これらの私有地の集積を進めていった。この動きは、荘園における初期荘園から寄進地系荘園への移行を如実に表すものである。 なお、類した表現として「権門勢家」があるが、これは院宮王臣家だけでなく、宗教勢力や武家勢力をも含む上位概念である。.

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院宮給

院宮給(いんぐうきゅう)とは、院と三宮に給する年官と年爵のこと。特に御給(おんきゅう)とも呼び、親王以下の人給と区別した。また、准后に叙せられた人臣に対してもこれに準じた待遇が与えられた。 院宮給の成立については諸説あるが、三宮への年官は淳和天皇の頃に成立し、残りの三宮の年爵・院の年官・年爵も宇多上皇が院宮給のありかたについて触れた『寛平御遺誡』が成立した寛平年間には既に存在していた。 院宮給は年爵(従五位下)1名・内官1名・国司の掾1名・同じく目1名・史生3名、後に女爵1名が追加された。年爵や内官(京官)は収入が多く、推挙の見返りとして被任命者から送られる収入も多かった。これは人給には見られないものである。 だが、国家財政の逼迫と地方政治の衰微によって収入が減少すると、臨時給や合爵(官職への推挙権を返上する代わりに、より実入りのある年爵を1名分増加させる)などの措置も取られたが、それでも不足したために院宮分国制の導入や年爵で推挙できる位階の引き上げ(院政期には公卿である従三位まで推挙可能となる)なども行われるようになった。.

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院庁

院庁(いんのちょう)は、日本の古代・中世において、院政を布いた上皇直属の政務機関、または女院の所務・雑務を処理した機関。院庁の実務は院司が担当した。.

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院庁下文

院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)は、平安時代院政期に、院庁が発給した文書。院司が連署する下文の形式である。院宣よりも公的性が高いとされる。 律令によれば、政府の最終決定意思は、天皇が裁可した上で、詔勅または太政官符により表示することと規定されていた。しかし、平安後期に上皇が治天の君(事実上の統治者)として君臨し、政務を取り仕切る院政が開始すると、詔勅や太政官符に代わる、政治意思の表示方式を確立する必要が生じた。そこで、治天の政務機関として設置された院庁の発給する文書、すなわち院庁下文が、詔勅や太政官符と同等の効力を持つものとして取り扱われるようになった。 院宣は私的な文書としての性格が強く、即応性・柔軟性の高い文書だったのに対して、院庁下文は、詔勅・太政官符のように、重要事項について対応するための文書だった。 Category:院政 Category:平安時代 Category:鎌倉時代 Category:室町時代 Category:古文書 Category:命令文書.

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院庁牒

院庁牒(いんのちょうちょう)は、上皇の院庁より、被管関係にない官司や僧綱などに対して出した牒形式の命令文書。 主に院領関連などで公的機関に対して指示を下す際、用いられた。別当以下院司が署名を行われ、公式令に則った牒の書式を取っていることを除けば、院庁より特定の個人に向けて出された院庁下文との大きな違いは無い。その後は院庁下文にとって代わられ、鎌倉時代以後にはほとんど見られなくなった。 Category:日本の律令制 Category:院政 Category:古文書 Category:命令文書.

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院伝奏

院伝奏(いんのでんそう)は、院(上皇・法皇)への奏請を取り次ぐ院司の役職。 後白河法皇の時代に、高階泰経と吉田経房がこの地位にあったとされているが、常設されるのは、宝治元年(1247年)に後嵯峨上皇が吉田為経・葉室定嗣を伝奏に補任してからである。2名は隔日で上皇の下に出仕して関東申次が扱う職掌以外の全ての奏事を伝奏するものとされた。中納言・参議・大弁級の実務に通じた中堅公卿が任じられていたが、任務の増大とともに定員が増加し、弘安2年(1279年)に亀山上皇は定員を6人として2名ずつ結番させることとした。後に伝奏は公家政治の一翼を担う制度として神宮伝奏や武家伝奏などに分化していくことになる。 江戸時代に明正天皇の譲位に伴って復活され、貞享3年(1686年)の霊元天皇の譲位後に整備された。定員2名で家格とは関係なく院評定や議奏などの実務を経験した正三位以上の公卿から選ばれた(ただし、機構改革を試みられた桜町上皇期には八条隆英1名)。院評定とともに「院両役」と称され、江戸幕府の同意をもって任命されることとされていたが、禁裏の役職である武家伝奏や議奏とは異なり、京都所司代をはじめとする幕府側は上皇・法皇の人事案を追認するだけの形式上の手続であった。役料は30石で、院伝奏と同様に仙洞御所の内分(蔵米)から支給された。仙洞御所の実務の最高責任者であり、上皇・法皇の補佐を行ってその言葉を第三者に伝達したり、第三者からの申入れを上皇・法皇に言伝したりした。また、摂政・関白・武家伝奏などの禁裏御所側や、京都所司代などの幕府側との交渉にあたった。仙洞御所内における院伝奏の立場は重く、上皇・法皇との面会や賜物の下賜においては院伝奏が優先され、摂家や大臣であってもその後塵を拝することとなっていた。.

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院評定

院評定(いんのひょうじょう)とは、院政において上皇あるいは法皇が主宰した議定およびその構成員のこと。評定に参加する資格のある公家を院評定衆という。 平安時代末期、院政の進展に伴って内裏における陣定に代わって、上皇や法皇が自分の御所内において議定を行って重要な決定を行うようになった。この際に参加出来たのは公卿全般ではなく、上皇・法皇が認めた特定の公卿並びに院近臣達であった。 後嵯峨院による院政下の寛元4年(1246年)に院政の改革が行われ、鎌倉幕府の評定衆に倣って西園寺実氏(前太政大臣・関東申次)・土御門定通(前内大臣・後嵯峨院の外戚)・徳大寺実基(大納言兼右近衛大将)・吉田為経(中納言)・葉室定嗣(参議)の5名の評定衆が任命されるとともに開催場所も院庁の文殿である「院文殿(いんのふどの)」と定められた。これはこの年に鎌倉幕府から公平な人事と諸人の訴訟を積極的に取り上げることで徳のある政治――「徳政」の興行を提議され、後嵯峨院もその期待に応えたものであり、同年11月3日に新体制による初評定が行われた近藤成一 「鎌倉幕府と公家政権」(初出:宮地正人 他編『新体系日本史1 国家史』(山川出版社、2006年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)。ここで訴訟や政治問題などの処理が行われるとともに、院文殿に記録所の機能が兼ね揃えられて、律令法や儒教に詳しい中下級公家が職員として置かれて、院評定を円滑に行うための補助的業務を行うようになった。その後、亀山院による院政下の弘安9年(1286年)に院評定は政務を担当する「徳政沙汰」と訴訟を担当する「雑訴沙汰」に分割され、前者は大臣・大納言級によって月3回、後者は中納言・参議級によって月6回行われた。更に伏見天皇の親政によって一時的に朝廷に移された正応6年(1293年)には雑訴沙汰の改革が行われ、院評定を補完する記録所庭中が設けられた。以後、院文殿における院評定が院政の中枢機関として活動するようになり、南北朝末期に室町幕府によってその政治的権限を奪われるまで続いた。 江戸時代に霊元天皇の譲位に伴って復活され、定員3名で家格とは関係なく正三位以上の公卿から選ばれた(ただし、機構改革が試みられた桜町上皇期には停止されている)。院伝奏とともに「院両役」と称され、江戸幕府の同意をもって任命されることとされていたが、禁裏の役職である武家伝奏や議奏とは異なり、京都所司代をはじめとする幕府側は上皇・法皇の人事案を追認するだけの形式上の手続であった。役料は20石で、院伝奏と同様に仙洞御所の内分(蔵米)から支給された。上皇・法皇および院伝奏の補佐を行い、仙洞御所内での事務・雑用を行った。院評定不在の時は臨時に評定加勢が設置される場合もあった。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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院拝礼

院拝礼(いんのはいれい)は、正月の初めに摂関以下が院の下に参入して拝礼する儀式。 院御所の庭上に摂関以下の公卿が1列、殿上人が1列、六位官人が1列の形で列立し、院の前で拝舞の礼を行う。元日(1月1日)に行われる天皇に対する小朝拝に相当する儀式で、通常は小朝拝の直前もしくは直後に行われるが、稀に2日・3日にずらして実施されることもあった。 院政期に入ると、治天の君である院への院拝礼が、天皇への小朝拝よりも重要視されるようになった。.

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柳原資明

柳原 資明(やなぎわら すけあきら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。後伏見上皇の院近臣であった正二位権大納言・日野俊光の四男。官位は正二位・権大納言。「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、柳原を家名とした。柳原家の祖。.

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柿本神社 (明石市)

柿本神社(かきのもとじんじゃ)は兵庫県明石市人丸町にある神社。人丸山の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むものである。旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。.

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東大阪市

東大阪市(ひがしおおさかし)は、大阪府中河内地域に位置する市である。人口は約50万人であり、大阪市および堺市の両政令指定都市に次ぐ府内第3位の人口を擁する中核市である。大阪都市圏の中心都市に属する。.

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東三条殿

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。.

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東洞院通

東洞院通(蛸薬師通付近から北方向を望む) 東洞院通(ひがしのとういんどおり)は京都市の南北の通りの一つ。 北は丸太町通から南は京都駅まで。京都駅を挟んで南側の延長線上に竹田街道がある。.

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東方年表

『東方年表』(とうほうねんぴょう)とは、1955年(昭和30年)以降出版されている年表等を掲載した平楽寺書店から出版されている出版物である。.

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.

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栄誉称号

栄誉称号(えいよしょうごう)とは、栄誉ある称号のこと。あるいはそれらの総称。.

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椿葉記

椿葉記(ちんようき)とは、室町時代に伏見宮貞成親王(後崇光院)が著した伏見宮家の家譜。全1巻。南北朝時代後半の北朝及び室町時代の皇室史に関する歴史書として価値を有している。.

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正親町公明

正親町 公明(おおぎまち きんあき、延享元年3月25日(1744年5月7日) - 文化10年10月13日(1813年11月5日))は、江戸時代後期の公家。父は正親町実連。母は内大臣広幡豊忠の娘。初名は公功。孝明天皇の曽祖父。 1765年(明和2年)蔵人頭、1768年(明和5年)参議、1779年(安永8年)権大納言に至る。翌1780年(安永9年)から院評定衆・院伝奏を歴任。1791年(寛政3年)から武家伝奏となるが、翌1792年(寛政4年)尊号一件(光格天皇が実父典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたが幕府に拒否された事件)の責任をとらされて職を免じられた。1803年(享和3年)後桜町上皇の院別当を辞して、出家し竟空と号した。.

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武家の棟梁

武家の棟梁(ぶけのとうりょう)とは、武家(武士)の統率者である軍事貴族のこと。.

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武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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武田祐吉

武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者。.

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武者所

武者所(むしゃどころ)とは、内裏や院御所の警備を担当する機関。 寛和元年(985年)に円融上皇の御所に院武者所を設けて10名を配備したのが最古の記録である。後には上皇の院庁始の際に院蔵人所、院御随身所とともに置かれる慣例が成立した。定員は10-30名と不定であるが、天皇在位時の滝口の武士が充てられることが多く、上皇の警備にあたる他、治安維持のために派遣される事もあった。本官を持たない散位の者も多く、労効によって右馬允などの武官に任じられる者もいた。白河上皇が北面武士を設置すると次第に取って代わられるようになり、院政の衰退とともに廃絶する。 後醍醐天皇の建武政権の成立後に復活し、窪所とともに内裏の警備や京都の治安維持にあたった。新田義貞が頭人を務めて後醍醐天皇の親衛隊的な役割を果たしたが、義貞を頭人に送り込んだのは足利尊氏だとする説もある。だが、中先代の乱以降に足利尊氏が建武政権に叛旗を翻し、新田氏は足利氏と決別してその対抗勢力に転化すると、新田氏が拠る所となり、延元元年(建武4年/1336年)4月に作成された結番交名には、全65名のうち新田氏一族の占める割合が高く、全6番制であったことが知られる。建武政権崩壊後も、南朝・北朝のそれぞれに武者所が設けられていた。.

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殿

殿(との)は貴人を敬って言う代名詞であり、これが転じて人名や職名などに付けてその人に対する敬意を表す接尾語でもある。.

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水干

水干(時代祭) 水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。 狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した。 平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。 着装は通常袴に籠めて着装するが、寺院の稚児などには掛水干といって狩衣のように袴の上に着て帯を締める着装も行われた。襟の紐は普通に結ぶほか、襟を折って胸前で結ぶなどさまざまな着方が行われ、近世武家故実においては諸説がおこなわれた。 貴族の着装の機会は、院政期から鎌倉時代に、上皇が宇治などの遠所に御幸するときに供奉の貴族が用いた例などを挙げることができ、鎌倉時代後期の「春日権現験記絵」や「なよ竹物語絵巻」では貴族が家庭内での略装として黄色い無文水干を用いている図が見られる。しかし、室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。公家社会では、白生平絹や白精好地に白い紐、黒い袖括りと菊綴をつけ、同じ生地で黒い菊綴を着けた「長絹」という水干が童形の礼装として多用された。またしばしば公家の従者の装束としても使用されている。 女子用としては白拍子が用いたことが良く知られている。第二次世界大戦後は女子神職の略装として掛水干が用いられたが、平成に入って女子神職の装束が新たに制定されて、神社本庁の服制からも脱落することとなった。なお、出雲大社では平成28年の規則改訂後も女性の水干使用が認められている。.

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氷上川継の乱

氷上川継の乱(ひがみのかわつぐのらん)は、奈良時代の反乱未遂事件。天応2年(782年)に天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を計画し、事前に発覚して失敗したというものである。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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法皇 (曖昧さ回避)

法皇(ほうおう)は.

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法王

法王(ほうおう)は宗教上の最高指導者などに用いられる呼称。以下に示すように、様々な用法がある。.

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消息宣下

消息宣下(しょうそくせんげ)とは、太政官や院庁が発する公式な命令を消息(手紙)形式の文書で行う略式の手続きのこと。 天皇や上皇・法皇(いわゆる治天の君)の意思あるいは公卿の会議(陣儀)の結果を統裁・決定した事項は、蔵人から支持の伝達を受けた上卿(陣儀の首席大臣)が陣座において発する口頭形式による命令(宣)を通じて、弁官・外記の手によって文書化されて相手に通達される。この文章を宣旨、ここまでの一連の手続きを宣下と呼ぶ。 平安時代後期に入ると、臨時の決定や軽易と思われる事項に関しては陣儀を招集せずに上卿以下が在宅のまま手紙の遣り取りによって持ち回り形式で宣下する方法が用いられるようになった。これが消息宣下である。 まず、天皇や治天の君の勅旨を受けた蔵人頭(あるいは蔵人)が、口頭命令の代わりとなる口宣と呼ばれる勅旨の内容を記した文書と口宣の真正を証明する添え状を作成してこの2通を上卿の資格がある公卿の許に提出する。これを受けた公卿は担当の弁官・外記に文章作成を指示する添え状を付けて送付した。なお、弁官・外記が更に下位の史に実際の文書作成を任せる際には口宣等は弁官・外記に留められて、その内容だけを記した書下をもって作成の指示を出した。 なお、この形式での宣下は略式であるため、宣下を受けた者が改めて詔書以下の公式な文書としての発給を求める事が出来た。 鎌倉時代以後、朝廷の衰微に伴って陣儀での宣下は親王宣下や摂関等の高官任命などに限られるようになり、手間のかかる陣儀を経ずに速やかな宣下手続が可能な消息宣下による命令交付が主流となる。 Category:日本の律令制 Category:書簡.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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清閑寺

清閑寺(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。山号は歌中山(うたのなかやま)。本尊は十一面千手観音、開基(創立者)は紹継。『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺院である。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源氏物語の写本

本記事では、源氏物語の写本について説明する。.

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源氏物語各帖のあらすじ

この項目では『源氏物語』の各帖のあらすじを簡潔に記載する。詳細なものは各帖の項目を参照。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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持明院

持明院(じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。現在の京都市上京区安楽小路町の光照院の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、持明院統の由来となる。邸宅を持明院殿、また寺院を安楽光院(あんらくこういん)・安楽行院(あんらくぎょういん)とも称す。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朝覲

朝覲(ちょうきん)とは、天皇が父母もしくはそれに準じる太上天皇・女院に拝礼すること。対象者が天皇の御所の外に別個に御所を設けて居住している場合には、天皇の行幸を伴うことになり、こうした朝覲を目的とした行幸を特に朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)と称する。 朝覲行幸には正月の2日から4日の間の吉日(適切な日がなければそれに近い吉日)に行われる歳首の礼、践祚・即位・元服の直後に行われるもの、対象者の病気見舞などを目的とした臨時のものなどがある。朝覲は本来において公的な存在である太上天皇と天皇との間に父子関係という私的要素を儒教の孝観念と絡めて導入したという点で注目されている。 中国においては、諸侯が天子に謁見する行事(『周礼』春官太宗伯)を指したが、日本では大同4年8月30日(809年10月12日)に嵯峨天皇が兄である平城上皇に拝覲したのが最初とされる(『類聚国史』巻28)。朝覲行幸の形態が整うのは仁明天皇の時代で、天皇が即位した天長10年(833年)に父母(嵯峨上皇・橘嘉智子)への朝覲行幸を行い、翌年の正月2日に初めて歳首の朝覲行幸が行われている。その後は天皇の父母もしくは祖父の在世中に限定され、必ずしも毎年行われるものでもなかったが、院政期には治天の君に対する孝行の意思表明と敬意を払うための行事としてしばしば行われ、歳首の朝覲行幸は年始の主要行事の1つとなった。朝覲行幸においては対象者の御所に近づくと、警蹕を停止させ、天皇は御所の中門の外側で乗輿から降りて徒歩で御所に入るなど、天皇は一貫して下位の立場を通した。.

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最高敬語

最高敬語(さいこうけいご)とは、日本語において、最上級の尊敬表現である。かつては、天皇(上皇・法皇を含む)、皇族の他、摂政・関白、征夷大将軍等高位の貴人にも用いられたが、明治時代以降は、主に、天皇・皇族に対してのみ用いられるようになり、大東亜戦争(太平洋戦争)終戦後は、一部の表現を除き多くは廃れた。一方で、現在も残る最高敬語表現は、外国の国王・王族についても、天皇・皇族に準じ用いることがある。.

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明正天皇

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.

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昇殿

昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。 公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失なった。四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けたため、位階・官職を補う身分制度として、重要な意味を有した。中世以降には家格によって昇殿の対象者が決まるようになり、殿上人となり得る家を堂上家と呼んだ。 院や女院、皇后や東宮も、それぞれの御所において昇殿の制度があった。これらを内裏の昇殿と区別するには、内裏のものを「内の昇殿」(うちのしょうでん)、院のものを「院の昇殿」等と言う。 また、有力家の子弟が、元服前に小舎人として昇殿を許されて宮中に参仕する制度があり、童殿上(わらわてんじょう)と言った。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新制

新制(しんせい)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて天皇・上皇の勅旨に基づいて制定された成文法典(「公家新制」)。「新制の官符」という意味で制符(せいふ)とも呼ばれる。なお、鎌倉幕府や寺院でもこれを模範として似たような法典が整備され、前者を「武家新制/関東新制」、後者を「寺社新制/寺辺新制」と称して、広義の新制に含める場合がある。.

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新院

新院(しんいん、シヌォン).

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文保の和談

文保の和談(ぶんぽうのわだん)とは、鎌倉時代後期の文保元年(1317年)に後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する(両統迭立)ことを定めたとされる合意。しかし、近年の学界では合意はなされていないとする見解が主流である(後述)。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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文殿

文殿(ふどの/ふみどの)とは、太政官並びに院庁において、公文書(公文)や典籍の管理が行われていた場所。他の公的機関の公文所に相当する。 太政官においては少納言局の管理下に置かれて外記及びその史生がその管理実務を行うとともに公文の作成や先例の勘申などを行うようになり、主として内裏内(清涼殿の南側・安福殿の北側)の校書殿(きょうしょでん)が管理場所に充てられていたために同所の別名としても用いられた。少納言の地位が低下すると大夫史(官務)が責任者となり、代わって弁官や官務に属する文殿が設置されるようになった。後に左大弁(官務)小槻氏が太政官文殿を、大外記(局務)中原氏が院文殿を監督するようになり世襲化していった。特に嘉禄2年(1226年)に太政官の文殿が焼失すると、官務文庫にその役目が移された。 院政においては、院庁の文殿に訴訟などの書類が集められると同時に律令法や儒教に通じた中下級公家が寄人(職員)に任じられて、記録所と同様の役割を果たしていたことから、院政の合議・訴訟機関である院評定が行われたのは主として文殿であった。そのため、上皇や法皇が新たに院政を始めること(評定始)を文殿始(ふどのはじめ)とも称した。 Category:日本の律令制.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本のキリスト教史

日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については日本の宗教を、世界のキリスト教の歴史については、キリスト教の歴史を参照のこと。.

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日本の冠

日本の冠(にほんのかんむり)は、公家や武家の成人が宮中へ参内などの際に頭に着用する被り物。黒い羅を漆で固めて作ったものが一般的だが、即位の礼や朝賀の儀の際に着用した礼冠と呼ばれる金属製の冠もあった。 近世まで日本では髻を結って冠を被る冠着(かむりぎ)の儀礼を以って、成人式とした。「冠婚葬祭」の「冠」はこのことである。 この時、若者に冠をかぶせるのが「冠親」と呼ばれる後見人であり、近世において天皇の冠親は五摂家のうちどこかの当主が担当していた。.

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日本の荘園の一覧

日本の荘園の一覧(にほんのしょうえんのいちらん)は、古代から中世にかけて日本全国(沖縄県・北海道は除く)に点在した荘園の一覧である。.

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日本の歴史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。 各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。.

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日本史の出来事一覧

日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。.

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日本最後の一覧

日本最後の一覧(にほんさいごのいちらん)は、日本で最後となった物事、もしくは日本人として最後となった物事の一覧。 なお、現在も可能であるが数十年あるいはそれ以上の長期間にわたって実例がなく、今後も実際に発生する可能性が著しく低いような物事も含めるが、単に「日本最後」と呼ばれるだけのものは除外している。.

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旧皇族

旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族の総称。旧宮家ともいう。またこの皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることも増えている。天皇の男系子孫であるため、近年の後継者不足による皇位継承問題で話題となることが多い。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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慶雲の改革

慶雲の改革(けいうんのかいかく)は、飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)以降、文武天皇統治下の朝廷において行われた律令体制改革をいう。.

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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11月26日 (旧暦)

旧暦11月26日は旧暦11月の26日目である。六曜は赤口である。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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2月22日 (旧暦)

旧暦2月22日は旧暦2月の22日目である。六曜は大安である。.

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