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吉野

索引 吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

370 関係: 城長茂なんて素敵にジャパネスクみよしの十市遠勝十津川十津川大水害十津川村千野境子南山 (曖昧さ回避)南山巡狩録南北朝正閏論南北朝時代 (日本)南和南部為重南部氏南部時長南法華寺南朝 (日本)古人大兄皇子吉宜吉田定房吉野 (防護巡洋艦)吉野 (曖昧さ回避)吉野城吉野の盟約吉野宮吉野屋吉野熊野国立公園吉野物語吉野行宮吉野郡吉野葛吉野鉄道坊門親忠坊門清忠坂上是則堀江 (大阪市)壬申の乱壬申の乱を題材とした作品多気山不動尊大峯奥駈道大峰山大峰山脈大伴馬来田大伴榎本大国大化の改新大分恵尺大和の古道大和野菜大神信房...大覚寺統天上の虹天皇陵天武天皇天河伝説殺人事件変身忍者 嵐奈良大学奈良県奈良県出身の人物一覧奈良県警察奈良県民の歌如意輪寺実孝宝永地震室町幕府室町時代宮崎安貞宮滝遺跡宗良親王宗教都市宇井可道宇都宮貞泰宇陀宇津峰宮安部氏安政東海地震寿司屋小倉宮小倉宮恒敦小笠原氏小菅神社 (飯山市)小辺路尹良親王山童岡本梅林公園岩切城岩橋山嶽山城嶽山城の戦い川島皇子川端玉章川路高子中京五流舞踊公演中西進の万葉こゝろ旅中臣金中村貞夫丸山顕徳常盤井宮恒明親王常陸合戦 (南北朝時代)丹生川上神社七支刀世尊寺 (奈良県大淀町)世泰親王万里小路宣房三浦芳聖下市町平田進也久米寺度会家行京極氏二条師基五節舞五条頼元五條市五條順教井上士朗井氷鹿延元延元の乱建仁の乱建武の新政建武年中行事廃太子伊勢参宮街道伊勢大神楽伊勢貞行伊能忠敬佐伯大目佐伯子麻呂佐藤和歌子佐斯国役小角御霊合戦徳川光圀後南朝後亀山天皇後醍醐天皇忍ぶ橋忍坂大摩侶忍壁皇子保呂羽山波宇志別神社忠義王信長の野望Online信濃村上氏応仁の乱志貴皇子北岡伸一北畠家北畠顕信北畠晴具北陸朝廷北条時輔北朝 (日本)ミョウガマジョリカ (おジャ魔女どれみ)トロと旅する刈谷市嵐山 (能)咲-Saki-の登場人物和州吉野郡群山記和珥部君手和紙和歌山線めはりずしアアルエアポートシャトルカンナ 吉野の暗闘カッパの飼い方ショウ王備崎経塚児島高徳元禄文化光厳天皇光明天皇前登志夫国軸の会国栖奏四条隆資石山寺石川理紀之助石井露月石押分之子石津の戦い神社神霊矢口渡神武東征祥子内親王稚桜部五百瀬空海竜田山竜門岳立川流 (密教)笹部新太郎笑福亭松右衛門篠原踊篠塚重広篠島細川勝元紀の川紀伊半島紀伊山地紀北群書類従義経=ジンギスカン説義経千本桜義昭真興 (僧)県犬養大伴結城宗広病院坂の首縊りの家為替男はつらいよ男はつらいよ 寅次郎物語熊野熊野三山熊本県の歴史畠山基国畠山国清畠山義就番茶畿内七道地震益田古峯直仁親王白山信仰白狐魔記百万 (能)花山院花川町花筐公園花町宮邦省親王花札芳野芳野三絶芳野監鎌倉将軍府聖宝道セン鍵善良房菊池芳文菊池武朝青野原の戦い静御前願行寺血脈ザクラ風伝峠西吉野温泉西山温泉 (山梨県)西園寺公宗西和観世元雅語呂合わせ説成親王高取町高師泰護良親王豊臣秀保賀名生賀名生行宮越部駅足利尊氏足利義持足利義政身毛広黒脛巾組黄書大伴近衛基嗣近衛経忠近鉄12400系電車近鉄16000系電車近鉄26000系電車近鉄吉野線近鉄大阪線近鉄特急近江大津宮霧山城胡麻豆腐般若寺鈴鹿蘇我安麻呂蘇我果安関城・大宝城の戦い関西自然に親しむ風景100選関戸峠藤原麻呂葛城みち葛飾北斎葛餅蔵王山神社蔵王権現脇屋義治醍醐地蔵院日記野槌重要無形民俗文化財重源里見脩二金峯山寺金峯神社 (鶴岡市)金峰山 (熊本県)金生山神社金輪王寺長寶寺長島昭久良泰親王雲取越え雲龍 (笛奏者)通話表逢志摩陸上交通事業調整法果無山脈恒良親王束稲山松尾芭蕉松花堂昭乗村上正邦村国男依桜山 (逗子市)桜川 (茨城県南部)桜川のサクラ桜雲記桂文屋梶原景時の変椿葉記楠木正勝楠木正成極める武家政権歩兵の本領歌枕の一覧水島敏水越峠水野良春氷室長翁江島神社洞院実夏洞院公定深澤多市清内雄行湊川神社源義経持統天皇木の子 (妖怪)本居宣長本満寺朴井雄君星合具泰明徳の和約春日顕国浜寺町新宮山彦ぐるーぷ新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜文禄文正の政変斉明天皇日中関係史日光神社日野邦光日本の世界遺産日本の郷土料理一覧日本の歴史日本史の出来事一覧日本遺産日本書紀慶安の変書智徳曾良旅日記14世紀1987年までの近畿日本鉄道ダイヤ変更36004月17日671年 インデックスを展開 (320 もっと) »

城長茂

城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。初諱は助茂で後に長茂に改称した。越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟。.

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なんて素敵にジャパネスク

『なんて素敵にジャパネスク』は、氷室冴子の平安時代の宮廷貴族社会を舞台にした少女小説シリーズ。また、これを原作にした漫画、テレビドラマや、NHK-FMでラジオドラマも製作されている。.

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みよしの

みよしの.

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十市遠勝

十市 遠勝(とおち・とおいち とおかつ、生年不詳 - 永禄12年10月24日(1569年12月2日))は、戦国時代末期の武将。十市遠忠の子。大和国龍王山城主。初名は新二郎。後に十市遠成と改める。.

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十津川

十津川(とつかわ)は奈良県の地域及び河川の名称。地域名としては現在の吉野郡十津川村一帯をさし、河川名としては熊野川本流の十津川村内での呼称として使われる。.

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十津川大水害

十津川大水害(とつかわだいすいがい)は、1889年(明治22年)8月、熊野川(十津川)流域で起きた大規模水害である。奈良県吉野郡十津川郷(現十津川村)に壊滅的な被害をもたらした。十津川の大水災、熊野川大水害、熊野川大洪水、紀和水害もしくは紀和大水害(紀は紀州《紀伊の国・和歌山県》、和は和州《大和の国・奈良県》、なお実際の死者数は和歌山県の方が奈良県より5倍多い)などとも呼ばれる。.

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十津川村

十津川村(とつかわむら)は、奈良県の最南端に位置する村。紀伊半島の内陸にある山村で、三重県や和歌山県と県境を接する。.

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千野境子

千野 境子(ちの けいこ、1944年 - )は、日本のジャーナリスト、元産経新聞記者。日本の新聞で、女性として初めて外信部長、論説委員長を務めた。2009年、女性初の人事官に任命の予定だった。.

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南山 (曖昧さ回避)

南山(なんざん) 中国:.

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南山巡狩録

南山巡狩録(なんざんじゅんしゅろく)は、南朝の事績を中心とした編年体の史書。編者は大草公弼で、文化6年(1809年)8月の成立。書名の「巡狩」は天子が地方を巡視する意味だが、自序に「車駕南二狩于吉野一、造二行宮一置二百官一、是為二南朝一」とあり、直接的にはここから導かれた語であると推察される。.

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南北朝正閏論

南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南朝と北朝のどちらを正統とするかの論争。閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南和

南和(なんわ)は、令制国の大和国(和州)南部を指す地域名称である。現在では奈良県南部の五條市及び吉野郡全域を指す。また橿原市の南部及び御所市、高市郡を含む場合もある。.

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南部為重

南部 為重(なんぶ ためしげ)は南北朝時代の武将。南部氏初期の系譜は異同が激しいため、系譜位置については一定しない。.

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南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

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南部時長

南部 時長(なんぶ ときなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武士。南部政行の嫡男。.

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南法華寺

南法華寺(みなみほっけじ)は、奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。703年(大宝3年)創建と伝え、西国三十三所第六番札所。 本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名。園内には養護盲老人ホーム慈母園があり、他にも国の内外で福祉事業を展開している。 インドでの救ライ事業への尽力に対する返礼として1983年3月に贈られた「天竺渡来大観音像」は、大理石造り、高さ約20m、総重量1200トンの壮大なもの。その他、インド渡来のものとしては、石像大仏伝図、天竺渡来大石堂がある。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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古人大兄皇子

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、生年不詳 - 大化元年9月12日(645年10月7日)ここでは、吉備笠垂の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。日本書紀には、密告記述に引き続く一文で、「中大兄、即(すなは)ち…古人大市皇子等を討たしむ。」(訓読文)と在る。(校注本には「即ち」の意味については注釈されていない。) - 「巻第二十五 孝徳天皇 大化元年八月-九月」 『日本書紀(四)[全5冊]』 坂本太郎 他校注(岩波文庫)1995年、252頁)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称される。 大臣・蘇我入鹿は、古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのため、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。厩戸皇子自身が蘇我氏の一族であり、山背大兄王の母は入鹿の叔母(刀自古郎女)であり入鹿とは従兄弟に当たる)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。 645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。 事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた古人大兄を「討たせた」結果の「死」について、日本書紀の編者は「ある本」二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である日本書紀の該当部分文章構成は以下の通り。複数の共謀者の具体的名前を挙げ古人大兄が謀反を企てた(9月3日)むね断定的に記述された後、共謀者の吉備笠垂の密告(9月12日)の記述がなされるが、その検証の記述が一切無いまま、中大兄による討伐命令に至っている。ここで「検証の記述云々」とは、例えば、蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向に皇太子中大兄への謀反を讒言されたとき、孝徳天皇側から謀反の企てについて石川麻呂本人に問い合わせが何度もなされた記述が在るが、古人大兄の場合には謀反の企ての有無について問い合わせ等検証の記述が無いことを言う。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死 および 蘇我倉山田麻呂冤罪」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164、184頁。.

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吉宜

吉 宜(きち の よろし、生没年不詳)は、奈良時代の貴族・医師。氏姓は吉(無姓)のち吉田連。子に古麻呂がいる。官位は正五位下・典薬頭。.

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吉田定房

吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。.

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吉野 (防護巡洋艦)

吉野(よしの)、は、日本海軍の巡洋艦(二等巡洋艦)#達明治25年8月p.8『達第六十四號 英國ニ於テ製造ノ巡洋艦ヲ吉ヨシ野ノト命名セラル 明治二十五年八月三十日 海軍大臣 子爵仁禮景範』。 吉野型防護巡洋艦の1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けた。 艦名は奈良県の吉野山に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実第40コマ(原本53頁)『吉野(よしの) 艦種巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)艦名考山名に採る、吉野山は大和國吉野郡吉野村に在り、吉野川の南、金峰山の下、川名に採る、夾地に據り一郷邑を爲す、吉野山とは此山地の總稱なり。艦歴明治26年9月30日英國に於て竣工、同年10月英國出發、同27年3月呉到着。同27・8年戰役從軍:同27年7月25日豊島海戰に参加(艦長大佐河原要一、第一遊撃隊旗艦司官少将坪井航三)、同8月威海衛砲撃に参加、同9月17日黄海々戰に参加、同11月大連及び旅順港占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及び同地占領に從事、同31年3月二等巡洋艦に列す。同33年北清國事變從軍:同37・8年戰役に從軍(第三戰隊):同年5月15日旗艦千歳(出羽第三戰隊司令官座乗)吉野・春日・八雲・富士と編隊航行中、深夜遽然濃霧に遭遇し、變針の際、後續艦春日に衝かれ沈没、艦長大佐佐伯誾、副長少佐廣渡目頁一其の他准士官以上30名、下士卒284名、傭人3名殉難。―要目― 長350呎/幅46.5呎/吃水20呎/排水量4,160噸/機關 縦置汽關隻螺旋高圓罐12/馬力15,000/速力23/乗組人員385/船材 鋼/兵装 15拇安砲4/12拇安砲8/47粍砲22/發射管5/起工 明治25-3-1/進水 同25-12-20/竣工 同26-9-30/建造所 英國エルスウィック安社』。 日清戦争で活躍#日露戦争史(1906)コマ124-125(原本223-225頁)『吉野も初瀬も、其の沈没は同じく五月十五日の事なりき、吉野は第三戰隊と共に、深夜旅順口封鎖の任務より歸航の途に就き、艦上少数の哨兵を殘して、艦員皆眠につきぬ。此の日午前一時四十分頃、恰も山東角の北方海面に來りし時、濃霧の爲めに咫尺を辧せず。将に針路を轉ぜむとする時、忽ち一大響音を聞く、是れ春日が其の左舷艦尾に衝突したるなり。前艦橋に在りし佐伯艦長は、依りて直に衝突防水を命じ、全力を擧げて、之が防水に努めしも其の効なく、浸水益々甚しくして「總員上へ」の命下りし時は、潮水既に甲板に及び、艦長が「總端艇卸し方」を命じ次いで「總員乗艇退去」を命じたる時は、後部○に浸入を見ざるのみなりき。斯くて佐伯艦長は、御眞影を奉じて、廣渡副長と共に、天皇陛下萬歳を發聲するや。總員は之に和して、萬歳の聲は波間に響きぬ。第二唱未だ唱へ終らざるに、吉野は早や右舷に傾斜して、佐伯艦長、廣渡副長以下、三百の将校下士卒は、既に其の艦に殉じて、皆水底に沈みぬ。殊に佐伯艦長が、廣渡副長、竹内航海長と共に最後に至るまで、吃然として司令塔に卓立し、從容迫らず、音吐朗々、號令整然たりし最後の威厳は、以て帝國海軍の模範となすに足る。救助されし者は将校六名、准士官一名、下士以下九十七名にて、戰死せしは、佐伯艦長以下将校三十一名、下士以下二百八十六名なりき。顧れば去る二十七年、花の吉野と歌はれて、英國より回航せし當時、我が、國民が、花の姿に比べしも、短かヽりき十年の夢となりぬ。殊に日清戰争の際、最も快速なる堅艦として、第一遊撃隊の旗艦となり、坪井少将を頂きて、勇壮活溌なる行動をなし、吉野櫻に武士の姿など謡はしめたるは、今猶吾人の記憶を新たならしむ。爾來十年を經て、日露戰開戰以來、敵地に出入せし事前後十六回、あはれ暗夜濃霧の裡、舷燈を許さぬ戰場に於いて、空しく悲惨の最後を遂げたるは、惜しむべく、悼むべきにこそ。』。 日露戦争に従事中の1904年(明治37年)5月15日、味方艦「春日」と衝突して沈没#旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』。.

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吉野 (曖昧さ回避)

吉野・𠮷野(よしの).

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吉野城

吉野山を北側から望む。金峯山寺蔵王堂を中心とした山々が吉野城の範囲にあたる。中央の谷に広がるのは丹治の町で、左手の山に丹治城が築かれた 吉野城(よしのじょう)は、吉野山一帯をさしていう中世山城(日本の城)のこと。鎌倉時代末期に大塔宮護良親王が、吉野山で挙兵し拠点とした。太平記では金峯山城とも。所在地は奈良県吉野郡吉野町吉野山。本項では太平記に登場する吉野城攻防戦および正平3年(1348年)の高師直による吉野行宮への襲撃も述べる。.

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吉野の盟約

吉野の盟約(よしののめいやく)は、第40代天武天皇と皇后の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)が、その間にもうけた草壁皇子を次期天皇であると事実上宣言した盟約。吉野の誓いとも。.

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吉野宮

吉野宮(よしののみや)は、大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮。.

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吉野屋

吉野屋(よしのや).

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吉野熊野国立公園

吉野熊野国立公園(よしのくまのこくりつこうえん)は、奈良県・三重県・和歌山県の紀伊半島3県に跨がる国立公園である。総面積61,406haで、その過半は奈良県に属する。1936年2月1日に指定された。.

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吉野物語

『吉野物語』(よしのものがたり)は、1988年10月3日から1989年3月31日の月曜日 - 金曜日、8時30分 - 8時55分の間に放送された、よみうりテレビ制作の朝の連続ドラマである。NTV系では、10時00分 - 10時25分の間に放送された。.

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吉野行宮

吉野朝宮跡(妙法殿) 吉野行宮(よしののあんぐう/よしのあんぐう)とは、大和国吉野山山中(現在の奈良県吉野町大字吉野山)にあった南朝の行宮。.

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吉野郡

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吉野葛

『吉野葛』(よしのくず)は、谷崎潤一郎の中編小説。「その一 自天王」「その二 妹背山」「その三 初音の鼓」「その四 狐噲」「その五 国栖」「その六 入の波」の全6章から成る。後南朝を題材とする歴史小説をかねて構想していた「私」が、秋の吉野で案内役の友人から打ち明けられた母恋の身の上話に惹かれていく物語。 1931年(昭和6年)、雑誌『中央公論』1月号と2月号に連載された「谷崎潤一郎作品案内」()。初収録は、1932年(昭和7年)2月に中央公論社より刊行の『盲目物語』。その後、1937年(昭和12年)12月に「潤一郎六部集」の一冊として創元社より単行本化された「谷崎潤一郎年譜」()。.

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吉野鉄道

吉野鉄道(よしのてつどう)は、近鉄吉野線の前身となった鉄道である。軽便鉄道法制定に伴い軽便鉄道の鉄道事業者として吉野軽便鉄道株式会社(よしのけいべんてつどう-)が設立され、1912年(大正元年)に国鉄吉野口駅から吉野駅(後の近鉄六田駅)間で開業、1913年(大正2年)に社名変更し吉野鉄道株式会社となった。それ以前にも1897年(明治30年)に設立の認可を受け同地に鉄道施設計画を進めたが止むなく解散に至った同名の「吉野鉄道株式会社」があった。.

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坊門親忠

坊門 親忠(ぼうもん ちかただ)は、南北朝時代の公卿。参議坊門清忠の子。父と同じく、南朝に仕えた。.

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坊門清忠

坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿。従三位坊門基輔の孫、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。.

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坂上是則

坂上 是則(さかのうえ の これのり、生年不詳 - 延長8年(930年))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。右馬頭・坂上好蔭の子。子に望城がいる。官位は従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人。.

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堀江 (大阪市)

堀江(ほりえ)は、大阪府大阪市西区南東部の地域名称。一般的に北堀江1~4丁目と南堀江1~4丁目を指す。郵便番号は北堀江が550-0014、南堀江が550-0015。.

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壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.

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壬申の乱を題材とした作品

ここでは壬申の乱を題材とした文芸作品、漫画、映像作品その他について説明する。.

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多気山不動尊

多気山不動尊(たげさんふどうそん)は、栃木県宇都宮市の多気山麓(田下町563番地)にある真言宗智山派の寺院。.

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大峯奥駈道

吉野山奥千本にある道標(大峯奥駈道は手前から左へ続く、右は百貝岳方面への分岐) 奥駈道を行く修行者 大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。1000-1900m級の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道を指す。 2002年(平成14年)12月19日、国の史跡「大峯奥駈道」として指定された。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部。.

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大峰山

大峰山(おおみねさん)は、奈良県の南部にある山。現在では広義には大峰山脈を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を指す。歴史的には「大峰山」は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。対して小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という。 歴史的に使われてきた呼称及び修験道の信仰では、青根ヶ峰より南を「大峯」、以北を吉野としてきた。 この一帯は1936年(昭和11年)に吉野熊野国立公園に指定され、1980年(昭和55年)にはユネスコの生物圏保護区(ユネスコエコパーク)に登録(登録名:大台ケ原・大峯山・大杉谷)、さらに2004年(平成16年)7月、ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の文化的景観を示す主要な構成要素として史跡「大峯山寺」「大峯奥駈道」ほかが登録された。 また、現在でも女人禁制である。.

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大峰山脈

大峰山脈(おおみねさんみゃく)は八経ヶ岳を最高峰とする紀伊山地の脊梁をなす山脈である。広義の大峰山は大峰山脈を指す場合もあり、深田久弥の『日本百名山』の「大峰山」は大峰山脈全般に亘って記述されている。東西は熊野川上流の十津川と支流の北山川に挟まれ、北は中央構造線に沿う紀ノ川上流の吉野川に接する。大峰山脈の北端は吉野山となる『日本歴史地名大系30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。.

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大伴馬来田

大伴 馬来田(おおとも の まくた、生年不詳 - 天武天皇12年6月3日(683年7月2日))は、日本の飛鳥時代の人物である。名は望多、望陀とも書く。姓は連。大徳冠・大伴咋の子。冠位は贈大紫。.

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大伴榎本大国

大伴榎本 大国(おおとものえのもと の おおくに、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物。姓は連。壬申の乱の功臣。.

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大化の改新

大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。 この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まった。当初、飛鳥から難波への形式上の遷都が行われたが、改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。 この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。また「大化」は日本最初の元号である。この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。.

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大分恵尺

大分 恵尺(おおきだ の えさか、生年不詳 - 天武天皇4年(675年)6月)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は君。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)のために働いた。.

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大和の古道

大和の古道(やまとのこどう)とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいい、.

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大和野菜

大和野菜(やまとやさい)とは、現在の奈良県(旧大和国)で生産されている野菜のうち、奈良県農林部が「大和野菜」と認定したものである。.

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大神信房

大神 信房(おおみわ のぶふさ、生年不詳 - 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の神官・武将。大神神社の神主の大神勝房(三輪西阿)の次男。通称は神二郎(しんじろう)。 大神神社(奈良県桜井市三輪)の神官。三輪高市麻呂を祖とする代々、大神神社の神主を世襲した社家の人物でありながら、南北朝の内乱の際には一族ともに南朝に属して武将として活躍した。延元3年(1338年)に北朝側(高師直・細川顕氏ら)と戦い、阿倍野(大阪市阿倍野区)で戦死。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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天上の虹

『天上の虹』(てんじょうのにじ)は、里中満智子による日本の漫画。副題に「持統天皇物語」とあるように、日本の第41代天皇で、女帝である持統天皇を主人公とした作品。1983年(昭和58年)に連載を開始し、その後書き下ろしを経て2015年(平成27年)に完結した。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天河伝説殺人事件

『天河伝説殺人事件』(てんかわでんせつさつじんじけん)は内田康夫の長編推理小説。浅見光彦シリーズ第23弾となる作品。.

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変身忍者 嵐

『変身忍者 嵐』(へんしんにんじゃ あらし)は、1972年(昭和47年)4月7日から1973年(昭和48年)2月23日まで毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系列で毎週金曜日19時00分 - 19時30分に全47話が放送された、東映と毎日放送製作の特撮テレビ番組。 第15話より新聞のラテ欄表記が『へんしん忍者あらし』に変更された。.

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奈良大学

記載なし。

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奈良県

奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.

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奈良県出身の人物一覧

奈良県出身の人物一覧(ならけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する奈良県出身の人物の一覧である。.

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奈良県警察

奈良県警察(ならけんけいさつ)は、奈良県が設置した警察組織である。奈良県内を管轄区域とし、奈良県警と略称する。警察法上、奈良県公安委員会の管理を受けるが、給与支払者は奈良県知事である。近畿管区警察局管内。本部所在地は奈良市登大路町80番地。.

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奈良県民の歌

奈良県民の歌」(ならけんみんのうた)は日本の都道府県の一つ、奈良県が1968年(昭和43年)に制定した県民歌である。作詞・萩原四朗、作曲・福島正二。 本項では、テイチクより発売されたレコードのB面に収録されている「奈良県民音頭」(ならけんみんおんど)についても解説する。.

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如意輪寺

如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。.

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実孝

実孝(じっこう、明応4年(1495年)- 天文22年1月26日(1553年2月8日)は戦国時代の浄土真宗の僧。本善寺住持。本願寺第8世法主蓮如の12男。母は畠山政栄の娘蓮能。妻は蓮芸の娘妙宗(南向)。子に証祐、証珍室。諱は兼成、のち兼継。侍従。.

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宝永地震

井(1982), p42-43.。 宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 - 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。)を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている宇佐美(2003), p75-90.『理科年表』, p737, 767.。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮崎安貞

宮崎安貞の書斎 (http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl.

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宮滝遺跡

宮滝遺跡(みやたきいせき)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝にある複合遺跡。 いくつかの異なった年代の遺構が存在し、吉野宮・吉野離宮の存在も推定される。.

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宗良親王

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311年)/正和元年(1312年) - 元中2年/至徳2年8月10日( 1385年9月14日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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宗教都市

宗教都市(しゅうきょうとし)とは特定の宗教の聖地に形成された集落や寺院・教会の寺内町・門前町である。.

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宇井可道

宇井 可道(うい よしみち、天保8年8月26日(1837年9月25日) - 1922年(大正11年)12月10日)は日本の国学者、歌人、民俗学者。紀伊国牟婁郡上三栖村庄屋・村長、紀伊田辺藩貧院頭取、和歌山県西牟婁郡職員、田辺銀行支配人。熊代繁里に国学を学び、晩桜社を主催し、郷土の民話を採取した。.

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宇都宮貞泰

宇都宮 貞泰(うつのみや さだやす)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.

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宇陀

宇陀(うだ)は、奈良県東部、宇陀市および宇陀郡周辺を指す地域名称である。稀ではあるが、県内の他地域に倣って東和と称することもある。.

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宇津峰宮

宇津峰宮(うづみねのみや、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。諱・系譜ともに不詳であるものの、近世の俗書においては、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王(もりながしんのう)に比定されることが多い。宮号は、北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来する。.

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安部氏

安部氏(あんべし)は、信濃国の名族滋野氏系の武家の氏族。南北朝期には諏訪神党に属し、後に駿河に移住して江戸期は武蔵岡部藩として存続した。.

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安政東海地震

安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ沿い東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、いわゆる東南海地震「東南海地震」とは、本来1944年東南海地震を指していたが、2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、熊野灘から遠州灘を震源域として発生するとされる固有地震の名称として使われ始め、「東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法」(平成14年法律第92号)に明記された。-石橋(2014), p137-138.の領域も本地震の震源域に含まれていたと考えられている。 また、南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間後に発生した安政南海地震とともに安政地震沢村(1959), p59-60.、あるいは安政大地震とも総称される門村(1983).。この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。.

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寿司屋

寿司屋(すしや、すし屋・鮨屋)は、寿司商(すししょう)、寿司店(すしてん)とも言い、寿司職人が寿司を供する飲食店である。.

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小倉宮

小倉宮(おぐらのみや)は室町時代に存在した宮家の一つ。南朝の系統に属する宮家で、始祖は後亀山天皇の子、実名は同時代史料によると恒敦とされる(親王宣下があったかどうか不明)。 室町時代の皇位継承や室町幕府の政権闘争に翻弄され、また自らも政権奪取を試み翻弄されたすえに断絶した。.

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小倉宮恒敦

小倉宮恒敦(おぐらのみや つねあつ、生年不詳 - 応永29年7月15日(1422年8月2日))は、南朝最後の天皇である後亀山天皇の皇子。小倉宮家初代。親王宣下があったかどうか不明。また、諱については、『南朝皇胤紹運録』では良泰、『南帝自天親王川上郷御宝物由来』には実仁とあるが、確証はない。 南北朝合一の際、北朝側は恒敦を後小松天皇の皇太子とする約束をした。しかし応永17年(1410年)、後亀山上皇と恒敦は吉野に逃亡する。その理由としては経済的理由を自ら挙げているが、実際には南朝側に皇位を継がせることを快く思っていなかった後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかという説がある。事実、応永19年(1412年)8月に北朝側の称光天皇が践祚している。 その後、応永23年(1416年)に後亀山上皇は室町幕府の要請で京に帰ったが、恒敦は父には従わずにこの後も吉野で抵抗を続け、応永29年(1422年)に死去した。恒敦らの抵抗はその後の自天王(尊秀王)まで続く後南朝の抵抗のさきがけとなった。 子に小倉宮聖承がいる。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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小菅神社 (飯山市)

小菅神社(こすげじんじゃ)は長野県飯山市にある神社。戸隠・飯綱と共に信州三大修験霊場の一つ。 諸伝承によれば、役小角が開山した修験寺院・小菅山元隆寺(こすげざん がんりゅうじ)が小菅神社の起源である。その後、幾度かの退転と再建を繰り返した後、明治時代の神仏分離により、神社とされ、今日に至っている。なお、本項目では、前近代における寺院(小菅山元隆寺)と近代以降の神社(小菅神社)とを歴史的に一体のものとして扱い、両者を総称して指す呼称として、霊場としての名でもある小菅山を用いる。.

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小辺路

野古道小辺路・薄峠付近の尾根道(高野町) 小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。.

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尹良親王

尹良親王(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、正平19年/貞治3年(1364年)? - 応永31年8月15日(1424年9月7日)?)は、『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女異説には、知久敦貞の女(『南山巡狩録』)や香坂高宗の妹・紀伊后(大鹿村の伝承)とする。また、この知久氏の女を親王の乳母とする系図もある。とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多い。源尹良とも。.

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山童

佐脇嵩之『百怪図巻』より「山わらう」(山童) 鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「山童」 水木しげるロードに設置されている「山童」のブロンズ像 山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州をはじめとする西日本に伝わる山に出る妖怪。河童(かっぱ)が山の中に入った存在であるとも言い伝えられている。熊本県芦北郡では、やまわろのほかにやまんもん、やまんと、やまんわっかし(山の若い衆)、やまんおじやん(山の伯父やん)など、また同県球磨郡では山ん太郎、やまんぼ(山ん坊)とも呼ばれる。 山𤢖(やまわろ)とも記される。「山𤢖」(さんそう)とは本来、中国に伝わる妖怪の名である。.

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岡本梅林公園

岡本梅林公園の梅 岡本梅林公園(おかもとばいりんこうえん)は、神戸市東灘区にある公園である。また、同地域に別途「保久良梅林」と呼ばれる梅林鑑賞エリアもある。.

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岩切城

岩切城(いわきりじょう)は、宮城県仙台市宮城野区岩切にあった峻険な日本の城(山城)である。高森山にあることから、別名を高森城(たかもりじょう)という。.

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岩橋山

岩橋山(いわはしやま)は、大阪府と奈良県の府県境上に峰を連ね大阪平野と奈良盆地を隔てる、金剛山地の一角を構成する、標高658.8mの山であり、大阪府山岳連盟からは大阪50山、奈良県からは奈良百遊山として、ノミネートされている。山頂には三等三角点「葛城山1」が設置されている。山域は、近接する二上山や大和葛城山などの山々とともに金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。あまり有名ではない山であるが、大阪の中心部から近くハイキング感覚で来られることや、古代のロマンを感じさせる巨岩群を巡れる事などもあって、金剛山地を歩くハイカーには人気がある。.

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嶽山城

嶽山城(だけやまじょう)は、元弘2年(1332年)に楠木正成が築城した南河内の日本の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれる。楠木七城の一つ。 上赤坂城・下赤坂城や千早城の正面入口にあたり、峰続きの南西には金胎寺城が、更に南西には烏帽子形城があった。現在は城のあった辺りにかんぽの宿富田林がある。 城跡の比定地ではかんぽの宿の建設に伴い1983年度に発掘調査が実施されたが、城の遺構と同時期の遺物は見つかっていない。かんぽの宿の西側にも城域が広がっていた可能性があるが、調査がおこなわれておらず詳細は不明である。北側には千畳敷という小字名の緩やかな傾斜地があり、畠山が練兵場としていたという伝承が残る。戦国時代前期は山岳寺院を城郭として利用していた事例が多くあり、嶽山城においても龍泉寺を城郭の中心としていたと想定されている。文献での記載は『多聞院日記』にある永正4年(1507年)に畠山義英が嶽山城に拠ったとする記述が最後であり、戦国時代末期まで城が機能していたと判断する材料は乏しいとする。.

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嶽山城の戦い

嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)は、寛正元年(1460年)12月19日から寛正4年(1463年)4月15日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。.

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川島皇子

川島皇子(かわしまのみこ、斉明天皇3年(657年) - 持統天皇5年9月9日(691年10月6日))は、飛鳥時代の皇族。河島皇子とも記される。天智天皇の第二皇子『懐風藻』。冠位は浄大参。淡海朝臣・春原朝臣などの祖。.

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川端玉章

川端 玉章(かわばた ぎょくしょう、天保13年3月8日(1842年4月18日) - 大正2年(1913年)2月14日)は、明治時代に活躍した日本画家。本名は滝之助。東京美術学校の教授を務め、川端画学校を開設するなど後進の育成に努め、美術学校の同僚だった橋本雅邦と並び評された。.

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川路高子

川路高子(かわじ たかこ、文化元年(1804年) - 明治17年(1884年)10月12日)は江戸幕府外国奉行川路聖謨の継室。諸大名屋敷に宮仕した後、天保9年(1838年)勘定吟味役川路聖謨に嫁ぎ、奈良、大坂へ赴任、戊辰戦争中聖謨に自決されつつ下総国平沢村へ疎開し、江戸へ帰り没した。.

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中京五流舞踊公演

中京五流舞踊公演(ちゅうきょうごりゅうぶようこうえん)は、東海地方を中心に舞踊活動し「在名五流派」と呼ばれる赤堀流、工藤流、西川流、花柳流、藤間流の家元や主力舞踊家が参加して、毎年12月の第1週目の日曜日に中日劇場で開催される舞踊公演。各流派のお家芸から古典舞踊、素踊り、創作舞踊と多岐に渡って発表されており、2010年で57回目を数える。「五流大会」や「五流会」とも言われている。 戦後すぐ、現在の名古屋市中区伏見にある御園座で開かれ、1966年に中日劇場が開場して以来は中日劇場で開催されている。1998年までは天皇誕生日(現在の昭和の日)が開催日であったが、1999年から12月の第1週目の日曜日になっている。 演目は、各流派が昼夜1番ずつ、長唄1番、清元もしくは常磐津1番を踊る。清元と常磐津は隔年になっている。昼5番、夜5番の合計10番になるが、近年は特別記念番組などの企画があり必ずそうではない。 中日新聞夕刊の芸能面でも各流派の稽古風景や出演者や演目の解説が載っている記事が見られる。 2010年は2009年の内田流の初参加に続き,「特別企画番組」ということで、名古屋市を中心に舞踊活動している、立花流と五條流が初参加した。.

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中西進の万葉こゝろ旅

『中西進の万葉こゝろ旅』(なかにしすすむのまんようこころたび)は、奈良テレビ放送(TVN)制作の紀行番組であり、万葉学者・中西進の冠番組である。.

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中臣金

中臣 金(なかとみ の かね、生年不詳 - 天武天皇元年8月25日(672年9月24日))は、飛鳥時代の官人。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は連。父は中臣糠手子(なかとみのぬかてこ)。鎌足の従兄弟にあたる。天智天皇、大友皇子(弘文天皇)に重臣としてつかえ、壬申の乱で敗れて処刑された。右大臣。.

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中村貞夫

中村 貞夫(なかむら さだお、1934年 - )は風景画の大作を描き続ける画家である。富士の四季シリーズ、四大文明シリーズに取り組む。.

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丸山顕徳

丸山 顕徳(まるやま あきのり、1946年9月21日 - )は、日本の国文学者、民俗学者。文学博士。専門は古代文学。花園大学特任教授。臨済宗東福寺派(蔵主)。日本国語国学研究所代表。和歌山県出身。奈良県橿原市在住。 主な研究テーマは日本の古代文学(記紀、万葉集、日本霊異記)と、沖縄や奈良の伝承文学を中心に神話・伝説、昔話、仏教説話。.

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常盤井宮恒明親王

常盤井宮 恒明親王(ときわいのみや つねあきしんのう/-つねあきらしんのう、嘉元元年旧5月9日(1303年6月24日) - 正平6年旧9月6日(1351年9月26日))は、南北朝時代の皇族。亀山法皇の末子(七男)。官位は一品・式部卿。常磐井宮/常盤井宮初代。宮号は亀山法皇から譲られた邸宅の常磐井殿の名称に由来する。.

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常陸合戦 (南北朝時代)

常陸合戦(ひたちかっせん)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)から1343年(興国4年/康永2年)にかけ、常陸国(現茨城県)の各地において北畠親房ら南朝方の軍勢と高師冬ら北朝方の軍勢の間で行われた、一連の合戦である。.

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丹生川上神社

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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七支刀

七支刀のレプリカ 七支刀(しちしとう)は、奈良県天理市の石上神宮に伝来した鉄剣。全長74.8cm。.

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世尊寺 (奈良県大淀町)

世尊寺(せそんじ)は、奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院である。 古くは比蘇寺(ひそでら)と呼ばれ大規模な伽藍を構えていたが、現在の世尊寺は江戸時代に整備縮小して再興されたもの。かつての寺域は、1927年(昭和2年)4月8日に「比曽寺跡」として、国の史跡に指定されている。聖徳太子霊跡第7番。.

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世泰親王

世泰親王(よやすしんのう/ときやす―、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。長慶天皇の皇子(第一皇子か)で、母は従二位教子と推定される。 生前の事績については一切不明であり、わずかに『新葉和歌集』哀傷・1389-1390の贈答歌と詞書によって、親王の名が知られているに過ぎない。 すなわち、親王が薨去して如意輪寺に葬られた翌年、教子が寺に籠って冥福を修していたところ、長慶天皇が御製を賜ってこれを慰め、教子も和歌を奉答したという。二首が親王の冥福時の贈答であることに加え、子に先立たれた人々の歌群に属することから考えても、作者の天皇と教子を親王の父母と解釈するのが最も自然である。また、如意輪寺に葬られているので、薨去の時期は吉野に行宮が置かれた文中2年/応安6年(1373年)秋から天授4年/永和4年(1378年)の間となろう。 なお、近世には、『新葉集』中の「御製」を全て後亀山天皇の作と取り違えていたため、親王も同天皇の皇子と誤られていた。中には、一品大宰帥(南朝系図・『系図纂要』)あるいは東宮(『南朝公卿補任』)として、天授3年7月10日(1377年8月14日)に18歳で薨去したと記すものもあるが、何れも根拠のない俗説である。 如意輪寺(奈良県吉野町)裏手の親王墓は1879年(明治12年)10月に治定され、隣接する後醍醐天皇塔尾陵とともに現在宮内庁の管理下にある。ただし、『吉野名勝誌』(1911年)は、この治定墓が楠木正行の髻塚であると指摘し、実際の墓は如意輪寺付近の「児童松」という地に葬ったとの古老の伝を紹介している。.

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万里小路宣房

万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代の公卿。従三位・万里小路資通の子。.

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三浦芳聖

三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年(明治37年)9月17日 - 1971年(昭和46年)3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人。三浦天皇、または芳聖天皇。.

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下市町

下市町(しもいちちょう)は、奈良県南部の町。.

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平田進也

平田 進也(ひらた しんや 1957年5月31日- )は、株式会社日本旅行西日本営業本部担当部長兼添乗員、同社『おもしろ旅企画 ヒラタ屋』代表。既婚。.

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久米寺

久米寺(くめでら)は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊は薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。 仏塔古寺十八尊第9番。.

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度会家行

度会 家行(わたらい いえゆき、康元元年(1256年) - 正平6年/観応2年(1351年)?)は、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。没年は正平17年/貞治元年(1362年)という説もある。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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二条師基

二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平20年/貞治4年1月26日(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。.

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五節舞

五節舞、五節の舞(ごせちのまい)とは、大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5人の舞姫によって舞われる舞。大嘗祭では5人。.

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五条頼元

五条 頼元(ごじょう よりもと、正応3年(1290年) - 貞治6年/正平22年5月20日「清原系図」『続群書類従』巻第173所収(1367年6月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の廷臣。大外記・清原良枝の次男。官職は勘解由次官。 南朝の征西将軍懐良親王に付き従い、九州における一時の南朝勢力隆盛を助けた。清原氏支流五条氏の祖であり、子孫はそのまま九州に土着して大友氏(義鑑・義鎮(宗麟)・義統)や加藤清正、立花宗茂に仕えるなどしている(五条鎮定もその一人である)。.

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五條市

京奈和自動車道(五條道路)から市街を望む 五條市(ごじょうし)は、奈良県南西部の市。南和地域の中心都市。.

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五條順教

五條 順教(ごじょう じゅんきょう、大正15年(1926年) - 平成21年(2009年)5月16日)は、日本の金峯山修験本宗の僧侶、2代管長、金峯山寺28代管領。.

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井上士朗

井上 士朗(いのうえ しろう)は江戸時代後期の俳人、医師。医師として活動する傍ら、加藤暁台門下で俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導した。.

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井氷鹿

井氷鹿(いひか)は、『古事記』『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では井光と表記される。吉野首等の祖。 『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、贄持之子の次に出会った神とされ、光る井から出て来た上に、尾のある人(有尾人)であったとしている(『紀』では、「光りて尾あり」と記述されるのみ)。天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を井氷鹿」と答え、吉野首等(よしののおびとら)の祖なりと記される。 ここでいう井とは後世でいうような地中を掘った井戸ではなく、川岸に桁(木を井の字形に組んだもの)を出したものとみられ、「井氷鹿が井から出て来た」とは、「川から上がって来た」といった意味と考えられる(『記』の場合、「光る川」という意味になる)。 尾については臀部に何かをぶら下げていたとも解釈されている。また神武天皇が吉野に入って3番目に出会う国津神である石押分之子(国巣の祖、『紀』では「磐排別が子」と表記)についても「尾のある人」と記述されている(つまり大和の国津神は有尾人として表現されている)。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延元の乱

延元の乱(えんげんのらん)は、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した挙兵のこと。 「延元」はこの挙兵の最中の建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に建武政権によって行われた改元によるもので、当時既に持明院統(後の北朝)の光厳上皇を擁していた尊氏はこれを認めず、建武政権崩壊後も引き続き「建武」の元号を用いた。また、「乱」という呼称も尊氏を逆賊(反逆者)とみなした建武政権→南朝の見解に基づくものである。従って、「南朝正統論」が強かった時期に用いられた用語であるとされ、今日ではほとんど用いられない呼称である。また、建武の乱(けんむのらん)を採用する論者(森茂暁・楠木武)もいる。.

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建仁の乱

建仁の乱(けんにんのらん)は、鎌倉時代前期、建仁元年(1201年)正月23日から5月にかけて、城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。城長茂の乱とも。 正治2年(1200年)正月、梶原景時の変によって源頼朝の寵臣であった梶原景時が滅ぼされると、景時の庇護を受けていた城長茂は変の1年後に上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げ、同時期に本領である越後国で甥の城資盛・姉妹の坂額御前ら城一族が反乱を起こすが、いずれも幕府軍によって鎮圧された。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建武年中行事

建武年中行事(けんむねんちゅうぎょうじ)は、後醍醐天皇によって書かれた有職故実書、全3巻。建武元年(1334年)成立とされるが、天皇が吉野へ逃れた延元2年(1337年)成立説(木藤才蔵説)もある。仮名年中行事・和字年中行事など多くの異名がある。 天皇が立太子以来20年余りの宮中生活の中で経験した多くの宮中における朝儀・公事の内容・作法について記したもの。正月の四方拝から年末の追儺・節折までの宮中行事を月ごとに和文で記述している。建武の新政の開始に伴い、朝儀の再興を意図して書かれたと考えられている。天皇独自の行事などに関する記述もあり、北朝においても尊重される(『園太暦』観応2年12月条)など、後世に大きな影響を与えた。 和田英松の注解で『建武年中行事』(校訂解説所功、講談社学術文庫、1989年、再版1991年)がある。 Category:日本の制度史 Category:南北朝時代 (日本) Category:室町時代の文化 Category:有職故実書.

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廃太子

廃太子(はいたいし)は、皇室、王室における廃嫡のことをいう。皇太子、王太子など皇位、王位継承者がその位を廃されることであり、廃された本人をもそう呼ぶ。なお、立太子されていない儲君が廃された場合や、即位前に死去した場合などは廃太子とは言わない。.

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伊勢参宮街道

伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道のことである。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれる。.

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伊勢大神楽

伊勢大神楽(いせだいかぐら)は、獅子舞を舞いながら諸国を巡り、かつては伊勢神宮、現在では伊勢大神楽の神札を配布してまわる神楽師のことを指し、広義には彼らのおこなう芸能の総称を含む。大神楽師達は各戸で竈祓(祈祷)を行う際に獅子舞を舞うが、それ以外にも特定村落の鎮守社境内などで総舞と呼ばれる娯楽要素の強い芸能を披露する。1954年(昭和29年)には三重県の指定文化財となり、1981年(昭和56年)には「とくに放下の芸系を遺す演目は芸能史的に貴重であり、獅子による曲芸という芸態にも特色があると認められている」との理由で、国の重要無形民俗文化財に指定されている(伊勢大神楽講社所属の5社中が当該文化財の保護団体になっている)。伊勢大神楽には古来より“同種類ノ業”と呼ばれる同名の別なる伊勢大神楽が存在しており、この項で述べる伊勢大神楽講社(増田神社)とは全く異なる文化として認識する必要がある。また「伊勢太神楽」のような「太」表記が用いられることが多いが正式には「伊勢大神楽」である。.

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伊勢貞行

伊勢 貞行(いせ さだゆき)は、室町時代前期の武将。室町幕府政所執事。第3代将軍・足利義満の側近。.

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伊能忠敬

伊能 忠敬(いのう ただたか地元などでは親しみと尊敬の念をこめて、有職読みで「いのうちゅうけい」とも呼ばれている。、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。 1883年(明治16年)、贈正四位。.

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佐伯大目

佐伯 大目(さえき の おおめ、生年不詳 - 持統天皇5年(691年)9月)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は連のち宿禰。贈大錦上・佐伯子麻呂の子とする系図がある。冠位は贈直大弐。.

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佐伯子麻呂

佐伯 子麻呂(さえき の こまろ、生年不詳 - 天智天皇5年(666年)3月)は、飛鳥時代の貴族。氏は佐伯部とも、名は古麻呂とも記される。姓は連。佐伯丹経手の子とする系図がある。冠位は贈大錦上。.

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佐藤和歌子

佐藤 和歌子(さとう わかこ、1980年 -)はライター、編集者。 神奈川県川崎市出身。神奈川県立横浜翠嵐高等学校、慶應義塾大学環境情報学部卒業。 学生時代から「間取り通信」を発行。大学では福田和也ゼミに所属。2003年3月に刊行された『間取りの手帖』が話題となり、2003年7月12日放送の『タモリ倶楽部』(「オシャレな間取りを紹介します!ITAO不動産」)に出演。『en-taxi』ではNo.02以外の全ての号で文や構成、記録として拘っており、角川春樹が主宰する句会のレポートである「角川句会手帖」(No.06では「角川句会一部始終の事」)を主に執筆している。他に『読んだ、飲んだ、論じた』(鹿島茂・松原隆一郎・福田和也著)の構成、『悪女の美食術』(福田和也著)の本文注釈を担当した。『モーニング』で「悶々ホルモン」を、『週刊現代』で2007年12月08日号から「いつのまに月曜日」を連載していた。.

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佐斯国

佐斯国(さしのくに)は、本居宣長が唱えた律令制以前における東海道の地域名。後の令制国では相模国・武蔵国を合わせた範囲に当たる。.

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役小角

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 – 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。.

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御霊合戦

御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文正2年(1467年、後に応仁に改元)1月18日から19日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した。この合戦が応仁の乱開始の契機となり、本格的な戦乱の幕開けとなった。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

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後亀山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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忍ぶ橋

忍ぶ橋(しのぶはし)は、北泉優子が1974年にゆまにて出版から発表した小説、またそれを原作として1975年にNET(現在のテレビ朝日)、1979年に毎日放送制作TBS系列で放送されたテレビドラマ。.

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忍坂大摩侶

忍坂 大摩侶(おしさか の おおまろ、生没年不詳)は日本の飛鳥時代の人物である。名は大麻呂とも書く。カバネは直。 672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため兵を興す使者に立ち、敵に捕らえられた。.

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忍壁皇子

忍壁 皇子(おさかべ の みこ、? - 慶雲2年5月7日(705年6月2日))は、飛鳥時代の皇族。忍坂部皇子、刑部親王とも記される。天武天皇の皇子。官位は三品・知太政官事。.

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保呂羽山波宇志別神社

保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)は、秋田県横手市大森町八沢木の保呂羽山山腹にある神社。式内小社「出羽国平鹿郡 波宇志別神社」、旧社格は県社。.

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忠義王

忠義王(ただよしおう / ちゅうぎおう、永享12年(1440年)以降 - 長禄元年12月2日(1457年12月18日))は、南朝の再建を図った後南朝の指導者・尊秀王(自天王、北山宮)の弟。後南朝の征夷大将軍ともいわれるが定かではない。河野郷によったので便宜上、河野宮とも称する。地元に伝えられる位牌には河野宮を忠義禅定、兄の北山宮を自天勝公と称している。.

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信長の野望Online

信長の野望Online(のぶながのやぼう・オンライン)は、コーエーテクモゲームス(旧・コーエー)が同社のシミュレーションゲーム『信長の野望シリーズ』の世界観をベースに開発したMMORPGである。通称「信on(のぶおん)」。本作はPlayStation 2 (PS2) 用としては『ファイナルファンタジーXI』に次いで2番目に開始されたMMORPGであるが、プレイヤーキャラ同士の対戦や勢力同士の合戦が可能であることが『ファイナルファンタジーXI』との違いである。 MMORPGとしては珍しく戦国時代の日本が舞台であり、侍や忍者などの職業やパーティを「徒党」、ギルドを「一門」と呼ぶ事など、和風の世界観を全面に押し出した作り。ただし「史実にこだわりすぎると自由度が失われてしまう」という設計思想に基づき、神話やオカルトなどファンタジーの要素も加わっている。 PlayStation BB Unitが必須であるため、SCPH-70000以降の薄型PS2ではプレイ不可能である。 2010年12月22日、他機種と比べて主にグラフィック面が強化されたPlayStation 3 (PS3) 版が発売された。 2014年3月19日にはPlayStation 4 (PS4) 版が発売された。.

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信濃村上氏

信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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志貴皇子

志貴皇子(しきのみこ、? - 霊亀2年8月11日(716年9月1日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子。位階は二品。 皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。現在の皇室は志貴皇子の子孫となる。.

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北岡伸一

北岡 伸一(きたおか しんいち、1948年(昭和23年)4月20日 - )は、日本の政治学者・歴史学者。国際協力機構(JICA)理事長。政策研究大学院大学客員教授、東京大学名誉教授、法学博士(東京大学、1976年)。元国連次席大使(2004年4月から2006年8月まで)。前国際大学学長。専門は日本政治外交史。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北畠顕信

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。.

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北畠晴具

北畠 晴具(きたばたけ はるとも)は、戦国時代の大名・公家。伊勢国国司北畠家の第7代当主。子に具教、木造具政、具親ら。.

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北陸朝廷

北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代に南朝方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。.

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北条時輔

北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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ミョウガ

ミョウガ(茗荷、蘘荷、学名:Zingiber mioga)はショウガ科ショウガ属の多年草。食用として利用される。.

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マジョリカ (おジャ魔女どれみ)

マジョリカは、アニメ『おジャ魔女どれみ』シリーズの登場人物の一人である魔女。担当声優は永澤菜教(放送開始当初は長沢直美)。.

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トロと旅する

『トロと旅する』(トロとたびする)は、フジテレビ系列「めざましテレビ」の番組内で、2001年10月2日から2007年9月28日まで放送されていた約1分間程のコーナーである。.

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刈谷市

刈谷市(かりやし)は、愛知県西三河地方にある市。西三河地方の西端にあり、境川を挟んで尾張地方と接している。.

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嵐山 (能)

『嵐山』(あらしやま)は、能楽作品のひとつ。歴史的には金春系の能で、観世流や宝生流が上演するのは江戸時代後期のことである。.

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咲-Saki-の登場人物

咲-Saki-の登場人物(さきのとうじょうじんぶつ)では、小林立の漫画作品『咲-Saki-』及びそれを原作としたドラマCD・テレビアニメ・ゲームの登場人物について解説する。 担当声優は、注記のない限り、テレビアニメ版・ゲーム『咲-Saki- Portable』に、俳優は実写テレビドラマ・映画版に準ずるものとする。また、誕生日については原作公式ガイドブック『咲-Saki- ラブじゃん♥ マホちゃんの必殺技完成!』、『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』アニメBD封入特典「プロ麻雀煎餅カード」及び作者のホームページ内のキャラクター誕生日・身長一覧での記載内容を元にした。 なお、作中で登場する架空の高校名は、清澄高校を除いて、その都道府県に実在する自治体内の地名、施設、名所などから名付けられている。.

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和州吉野郡群山記

和州吉野郡群山記(わしゅうよしのぐんぐんざんき、以下、群山記と略記する)は、江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者、源伴存が著した地誌・博物誌。全8巻構成で、最後の2巻は特に和州吉野郡物産志と題されている。ここで言う物産とは人工の産物のことではなく、動植物や鉱物など吉野山中の自然に産するものを指し、したがって吉野の自然の博物誌となっている。 写本の吉野郡名山図志、和州吉野郡名山図志、吉野群山記といった題によっても知られるが、伴存自身が書名として採ったのは和州吉野郡群山記である。また、それら写本は内容の異同や書誌学的な誤りを含んでいるため、注意を要する(後述)。.

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和珥部君手

和珥部 君手(わにべ の きみて、生年不明 - 文武天皇元年(697年)9月)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は和邇部、和爾部、和尓部、丸部とも書く。姓は臣。丸邇部弓束の子とする系図がある。冠位は勤大壱、贈直広壱。.

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和紙

和紙(わし/わがみ)は、日本古来の紙。欧米から伝わった洋紙(西洋紙)に対して日本製の紙のことをさす。日本紙と同義。.

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和歌山線

和歌山線(わかやません)は、奈良県北葛城郡王寺町の王寺駅と和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。.

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めはりずし

典型的なめはりずし めはりずし(めはり寿司)は和歌山県と三重県にまたがる熊野地方、および奈良県吉野郡を中心とした吉野地方の郷土料理、高菜の浅漬けの葉でくるんだ弁当用のおにぎり。千貼り(せんばり)寿司、大葉寿司、高菜寿司、芭蕉葉(ばしょば)寿司と呼ぶ地域もある。弁当は熊野名産とされ、新宮市のものは特に有名であり、和歌山県の特産品として和歌山県推薦優良土産品に指定されている。元来、麦飯の握り飯を高菜で巻き込んで作っていたが、現在はもっぱら白米を用い、酢飯を使うこともある。 また、奈良県の南東部に位置する下北山村では特産品の下北春まなの葉の漬物に白飯をくるんで食べる。高菜のような辛みが無いので、一味違った味である。一般的には酢醤油で食べられるが、マヨネーズと醤油で食べる事もある。.

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アアル

死者の書の一部。 アアル(Aaru、Yaaru、 IaruまたはAalu)とは、古代エジプト神話における楽園のこと。.

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エアポートシャトル

南国交通便 いわさきバスネットワーク便 三州自動車便 エアポートシャトル(Airport Shuttle)は、南国交通が鹿児島空港と県内の主要都市を結んで運行するバス路線である。 当項目ではいわさきコーポレーション(鹿児島交通・三州自動車)が運行する各系統についても記す。.

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カンナ 吉野の暗闘

『カンナ 吉野の暗闘』(カンナ よしののあんとう)は、高田崇史による日本の推理小説。カンナシリーズの第3作である。.

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カッパの飼い方

『カッパの飼い方』(カッパのかいかた)は、石川優吾による日本の漫画。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)において2003年から2010年まで連載された。.

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ショウ王

⺣王(しょうおう/じょうおう、生年不詳 - 延元3年/暦応元年(1338年)6月)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての皇族・公卿。出自に関しては確証を得ないが、高倉天皇の玄孫、惟明親王の曾孫とする通説に従えば、父は醍醐宮大豊王か。南朝に仕え、官位は正三位・非参議。尾崎宮(おざきのみや)・弾正尹宮とも号した(後述)。.

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備崎経塚

備崎経塚(そなえざききょうづか)は、和歌山県田辺市本宮町内にある経塚遺跡。遺跡のある備崎は大峯奥駈道上の霊地である七越峰から派生した熊野川左岸の丘陵で、熊野川にUの字状に囲まれるようにして大きく張り出しており、大斎原(おおゆのはら、熊野本宮大社旧社地)と川筋を挟んで向かい合う位置にある。 国の史跡「大峯奥駈道」(2002年〈平成14年〉12月19日指定)の一部 である。また、大峯奥駈道は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年登録)の一部である、pp.39,75。.

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児島高徳

児島 高徳(兒嶋 髙德、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師(1374年没)と同一人物とする説や、地元の勢力がある山伏出身、あるいは悪党出身と見る説もある。.

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元禄文化

尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした深谷(2000)pp.80-89。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。 元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51小澤(1993)pp.60-69。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。 なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている1964年に政治家福田赳夫が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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前登志夫

前 登志夫(まえ としお、1926年(大正15年)1月1日 - 2008年(平成20年)4月5日)は、日本の歌人。本名、前 登志晃(まえ としあき)。日本芸術院会員。短歌結社「山繭の会」主宰。.

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国軸の会

国軸の会(こくじくのかい)は、旧民進党のグループ。通称、旧長島グループ。.

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国栖奏

国栖奏(くずそう)とは奈良県吉野郡吉野町南国栖の浄見原神社(きよみはらじんじゃ)で、毎年旧暦1月14日に奉納される歌舞である。今日では国栖奏という呼称が定着しているが、従来は「国栖舞」または単に「翁の舞」と呼ばれ伝えられてきたもので、「国栖奏」とは大嘗祭や諸節会などでの、宮廷儀礼として奏上の折の称である。奈良県指定無形民俗文化財。.

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四条隆資

四条 隆資(しじょう たかすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。南朝の実務における中心人物であり、最後は後村上天皇を守るために自ら足利軍と戦って戦死した。.

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石山寺

本堂 (国宝) 珪灰石 (国の天然記念物) 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都府の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。 紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年に日本夜景遺産に認定された。 洋画家の三谷祐幸から寄付される形で関西美術院の所有者となっている。.

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石川理紀之助

石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年4月1日(弘化2年2月25日) - 1915年(大正4年)9月8日)は、秋田県潟上市生まれの篤農家、明治から大正期の農業指導者。秋田県種苗交換会の先覚者。生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げ、秋田の二宮尊徳と呼ばれた。.

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石井露月

石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。.

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石押分之子

石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、磐排別が子と表記される。吉野の国巣の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。 『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所で岩を押し分けて出て来た上、2番目に出会った井氷鹿と同様に尾が生えていた(有尾人だった)ので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した(『紀』に、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれ、巡幸した際の事と記す)。 名称にある「子」とは、誰々の子という意味ではなく、愛称である。また国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」を指す。.

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石津の戦い

石津の戦い(いしづのたたかい)とは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。.

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神社

出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.

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神霊矢口渡

『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。明和7年(1770年)1月、江戸外記座にて初演。福内鬼外(平賀源内)・吉田冠子・玉泉堂・吉田二一の合作。.

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神武東征

月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。 神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。日向の都を大和に移す意味での「東遷」と呼ばれることも多く、宮崎県の印刷物は「神武東遷」と記述している。.

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祥子内親王

祥子内親王(しょうし(さちこ)ないしんのう、生没年不詳)は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇第2皇女、母は阿野廉子(新待賢門院)。後村上天皇の同母姉妹。伊勢斎宮(最後の斎宮として知られる)。.

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稚桜部五百瀬

桜部 五百瀬(わかさくらべ の いおせ、生年不詳 - 持統天皇10年9月15日(696年10月16日))は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は若桜部とも書く。姓は臣、後に朝臣。冠位は贈直大壱。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に従い、信濃国など東山道の兵力動員を命じる使者になった。.

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空海

海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.

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竜田山

山(たつたやま)は、生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々の総称。竜田川流域にあって紅葉が美しく、万葉集に読まれた事で有名。大阪府南部(河内国)と奈良県(大和国)の境に近い、奈良県生駒郡の西方に比定されて紹介されていることが多い。 現代には竜田山という地名は存在しないが、竜田神社、竜田川、竜田道という名は現存している。.

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竜門岳

岳(りゅうもんがだけ)は、奈良県の宇陀市と吉野郡吉野町の市町境にある山で、竜門山地に属している。龍門岳あるいは龍門ガ岳(龍門ヶ岳)と表記されることもある。日本三百名山の一つに数えられる。.

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立川流 (密教)

立川流(たちかわりゅう)は日本密教の真言宗の一法流である。真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とも。 通説では平安末期の仁寛(生年不詳-1114)が流祖とされ、南北朝期に文観(1278-1357)によって大成されたと伝えられる。宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は焼き捨てられた。そのため伝存する資料が少なく、実態は不明である。 宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し、男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている。ただし櫛田良洪は、遺された立川流の印信を調べてもそのような教義を窺知させるところは見出せないと指摘しており、ステフェン・ケック の研究では、通説に反して立川流の実態は真言宗の他の流派と大きく異なるものではなかったとの見解が提出されている。 鎌倉時代の心定は著書『受法用心集』(13世紀)において、髑髏を本尊とする特異な法について解説しており、同書は立川流を批判した書とされている。.

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笹部新太郎

笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。.

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笑福亭松右衛門

笑福亭 松右衛門(しょうふくてい まつえもん、1839年 - 1896年7月)は、軽口の芸人、落語家(上方噺家)。本名: 井筒家清太郎。 最初は初代桂文枝の門下で桂文太郎、1874年ころに2代目笑福亭松鶴の門下で笑福亭松右衛門となった。 落語、軽口等をやっていたようだがまったく売れなかった、この人物は実の子3兄弟にいかにも人を食った命名した奇人で有名。 長男は勘三(甘草)、次男は陀羅助(だらすけ)は、吉野大峰山名産の苦い胃腸薬「陀羅尼助丸」、妹はお里(お砂糖)と名付けたため、役所や警察に戸口調査の際、叱られたと言う。陀羅助は後に噺家になり2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の門下で桂文屋を名乗った。 松右衛門は風采がまったく上がらない人で「カンチョウライ」という意味のない口癖があった、その後同業者の間では楽屋などでしょぼくれた男のことを「カンチョウライ」と呼ぶようになったと言う。 親孝行な息子文屋は父・松右衛門が死去した時に当時としては珍しく新聞に広告を載せたという。 しようふくてい まつえもん しようふくてい まつえもん しようふくてい まつえもん.

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篠原踊

原踊(しのはらおどり)とは奈良県五條市の大塔町最東端、十津川支流の舟ノ川流域に点在する集落の中でも最奥に位置する篠原地区に伝わる踊りである田中2009年 pp.26-27奈良新聞社1996年 pp.24-25。記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)、奈良県指定無形民俗文化財。「篠原踊」は古い時代には「川瀬踊り」ともいった。江戸時代末期の医家で博物学者の畔田伴存(翠山)は「躍有り。川瀬躍と云ふ」と記録しており、篠原を川瀬と呼び特有の踊りがあることを伝えている篠原踊調査報告書作成委員会 2015年。.

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篠塚重広

塚 重広(しのづか しげひろ)は、南北朝時代の南朝方の武将。重廣とも。篠塚伊賀守としても名を知られている。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。 篠塚氏の出自は畠山氏とされる。.

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篠島

島(しのじま)は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれるゼンリン (1997)、132頁。2015年(平成27年)の国勢調査における人口は1,653人、世帯数は622世帯である(2013年6月26日時点のアーカイブ)南知多町、2012年。日間賀島・佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。古くから伊勢神宮との関係が深く、三節祭には干鯛(おんべ鯛)の神饌が行なわれる。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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紀の川

紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流。 奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれるが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川(きのかわ)」が併記される(例:「よしのがわ(きのかわ)」)。地図や橋の銘板には吉野川と記される。なお、四国を流れる一級河川「吉野川」ほか、日本各地にある同名の川は『吉野川 (曖昧さ回避)』を参照。.

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紀伊半島

紀伊半島(きいはんとう)は、本州中央部から南側の太平洋に突き出る、日本最大の半島である。名称は令制国の紀伊国に由来する。.

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紀伊山地

紀伊山地(きいさんち)は、紀伊半島のうち中央構造線以南の大半を占める山地。侵食が著しいため、険しい地形がよく発達している。三重県、奈良県、和歌山県にまたがっている。脊梁の方向はおおむね北東-南西に走り、1500m前後の尾根が連なる。最高峰は八経ヶ岳(八剣山)で1915m。 古くは8世紀頃から、聖なる地として中央の人々の関心を集め、古事記や日本書紀に言及が見られる。仏教伝来以後、山岳仏教や、仏教と日本の土着信仰とが癒合して成立した修験道の修行の地として高野山や吉野が成立し、のちに紀伊半島を浄土とみなす信仰として熊野三山を中心とする熊野信仰の霊場ともなり、霊場に至る参詣道が発達した。こうした歴史を背景として、紀伊山地の3つの霊場とそれらに関連する参詣道が、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録された。.

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紀北

紀北(きほく)は、紀伊国(現 和歌山県全域と三重県南部の東紀州)の北部である。紀北地方・紀北地域・紀北エリアなどとも呼ぶ。 紀中と紀南に、あるいは紀南に対する。古い地名ではなく、紀北・紀南の初出は1916年である。 ただし基本的に、和歌山県と三重県のそれぞれで県土の紀伊国部分の北部を紀北と呼び、県外は考慮しない。紀伊国はU字型をしているため、その北部であっても両県の紀北は接しておらず(間に奈良県吉野がある)、全体を合わせて紀北と呼ぶことはまずない。.

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群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

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義経=ジンギスカン説

義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日)と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。.

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義経千本桜

『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。通称『千本桜』。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。.

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義昭

義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) - 嘉吉元年旧3月13日(1441年4月4日))は、室町時代の僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の子息。大覚寺門跡となり、官職は大僧正に昇り、たびたび東寺長者を務めた。.

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真興 (僧)

真興(しんぎょう、承平5年(935年)- 寛弘元年10月23日(1004年12月7日))は、平安時代中期の法相・真言宗の僧。子島僧都・子島先徳とも称される。.

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県犬養大伴

養 大伴(あがた(の)いぬかい の おおとも、生年不詳 - 大宝元年1月29日(701年3月13日))は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は犬養(いぬかい)とも、名は大侶とも書く。姓は連、後に宿禰。県犬養多比の子とし、子に祢麻呂がいたとする系図がある。冠位は直広壱、贈正広参。.

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結城宗広

結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。.

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病院坂の首縊りの家

『病院坂の首縊りの家』(びょういんざかのくびくくりのいえ)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。『野性時代』に1975年から1977年まで連載された。 本作を原作にした映像作品に、2014年現在で映画とテレビドラマが1作品ずつある。 「金田一耕助最後の事件」として知られる。.

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為替

替(かわせ)は、為替手形や小切手、郵便為替、銀行振込など、現金以外の方法によって、金銭を決済する方法の総称である。遠隔地への送金手段として、現金を直接送付する場合のリスクを避けるために用いられる。特に輸出入をする際に用いられている。.

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男はつらいよ

『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画シリーズである。主人公の愛称から「寅さん」(とらさん)シリーズとも称される。 テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇で、毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。.

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男はつらいよ 寅次郎物語

『男はつらいよ 寅次郎物語』(おとこはつらいよ とらじろうものがたり)は、1987年12月26日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの39作目。タイトルは同年の森川時久監督映画『次郎物語』のパロディである。.

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熊野

野(旧牟婁郡)の範囲 青岸渡寺と那智滝(那智勝浦町) 熊野本宮大社(田辺市) 熊野灘(紀北町) 熊野川(紀宝町⇔新宮市) 三段壁(白浜町) 熊野(くまの)は、和歌山県南部と三重県南部からなる地域である。紀伊半島南端部を占める。 旧国では紀伊国南部にあたり、上古の熊野国と大概一致する。熊野三山(田辺市の熊野本宮大社・新宮市の熊野速玉大社・那智勝浦町の熊野那智大社)を中心とする熊野信仰の中心地として知られる。.

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熊野三山

野三山 熊野那智大社 熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野権現も参照のこと。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。.

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熊本県の歴史

本県 本項では、熊本県の歴史(くまもとけんのれきし)を概説する。 九州の中央部に位置する熊本県は、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」が前後二分された際の東側、旧国名のいわゆる肥後国が占めた領域とほぼ一致する。これは、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部などが別藩の領土とされるなど、また逆に肥後国天草郡に属していた長島が現在では鹿児島県に編入されているなどの一部例外はあるが、府県制施行によって置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制をほぼ維持した例にあたる。 熊本県の風土的特色は、菊池川・白川流域を中心とし阿蘇山を含む県北部域、人吉盆地を主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別することができる。この区分はそれぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草という幕藩体制下の三つの区域と対応しており、それぞれ個別の特色を持つ。 熊本県の歴史をかいつまむと、多くの遺跡や古墳に見られる豊かな自然環境とそれを一変させる火山活動、律令制下から武士の勃興。南北朝を経て国衆割拠そして加藤清正の入部、細川忠利の入部を経て幕末の動乱から西南戦争、戦後の公害問題までが大まかな流れとなる。そして全体を通して、大和朝廷の成立後、周辺の位置にあった肥後国そして熊本県の歴史は、常に中央政権からの影響を受けつつ綴られた。.

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畠山基国

山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。畠山義深の嫡男。子に満家、満慶がいる。「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人、第6代管領、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した。.

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畠山国清

山 国清(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。.

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畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

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番茶

茶の茶葉(その一例) 番茶(ばんちゃ)とは日本で飲まれる緑茶の一種である。市場流通品では規格外、低級品のお茶を指す。普段使いのお茶、地場産、自家製のお茶の総称を番茶と呼ぶ場合もある。 その製法は煎茶とほぼ同一であるが、原料として夏以降に収穫した茶葉(三番茶・四番茶)・次期の栽培に向けて枝を整形したときの茶葉(秋冬番茶)・煎茶の製造工程ではじかれた大きな葉(川柳)などを用いている。 煎茶のように若葉ではなく成長した葉を原料とするため、タンニンが多めで逆にカフェインは少なめになっている。味は淡泊でさっぱりとした飲み口だが渋みを含む。地方によっては原料の収穫時期や製法を変えている所もある。香ばしい風味を出すために茶葉を乾煎りし、ほうじ茶として飲まれることも多い。 なお、北海道、東北地方において「番茶」とは「ほうじ茶」全般を指すことが多い。 石川県においての番茶は茶の茎をほうじた棒茶を指す。 「京番茶」も独特の製法によるほうじ茶を指し、使用される茶葉は「番茶」とは限らない。.

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畿内七道地震

畿内七道地震(きないしちどうじしん)は、奈良時代に畿内を中心として発生したと推定される地震。.

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益田古峯

古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。.

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直仁親王

仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年) - 応永5年5月14日(1398年6月2日))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子とされているが、実際には光厳天皇(花園天皇の甥)が正親町実子と通じて産ませた皇子であった。 北朝崇光天皇の皇太弟に立てられたが、正平一統の際に南朝方によって廃位され吉野へ連れ去られた。花園上皇の御所だった「萩原殿」を相続したことから萩原宮(はぎわらみや)とも通称された。.

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白山信仰

白山奥宮と御前峰 白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国、越前国、美濃国(現石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰。.

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白狐魔記

『白狐魔記』(しらこまき)は、斉藤洋による日本の児童文学作品。挿絵は高畠純が担当。偕成社より刊行されている。.

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百万 (能)

万」(ひゃくまん)は観阿弥原作・世阿弥改作の能の演目。作中では、実在の舞い手ともされる主人公「百万」の芸が披露されるとともに、失った子を探す母の母性が描かれている。狂女物の代表的な作品とされ、演能記録が多く人気が高い。知られている最古の演能記録は寛正6年(1465年)3月9日。 四番目物、狂女物、太鼓物に分類される。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の五流派の現行演目。一場物。 「百万」の大部分を引用して草子化した『百万物語』が万治3年(1660年)に作られた。ほかに絵入り謡本(京都国立博物館に寄託)、絵入り本とほぼ同じ内容で16世紀に製作された絵巻(国立能楽堂に所蔵)が現存している。.

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花山院

花山院(かざんいん)は、平安京左京一条四坊三町(現在の京都御苑敷地内)にあった邸宅。花山法皇の後院となった後に、花山院家の所有となり、明治維新による東京奠都まで存続した。 当初は清和天皇皇子貞保親王の邸宅であったとされている。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とした。1008年(寛弘5年)、ここで崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。 その後、三条天皇皇后の藤原娍子とその子敦儀親王らが入ったが、1014年(長和3年)に火災で焼失した。その後、再建されて藤原頼通から師実に継承されて後冷泉天皇皇后の藤原寛子が居住したが、後に師実が改築して同母兄の藤原定綱に譲り、定綱はこれを師実の子で自分の娘婿でもあった藤原家忠に譲った。家忠は「花山院」と号し、その子孫は花山院流と呼ばれて、その宗家である花山院家が代々花山院を領した。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇が足利尊氏によって花山院に幽閉された後、壊れた築地から秘かに脱出して吉野に向かったことが、『太平記』などに書かれている。 何度も火災に遭いながらも、そのたびに再建されて明治に至ったが、東京奠都によってその歴史的役目を終えて取り壊された。ちなみに、京都御苑内にある宗像神社は、かつての花山院の邸内社であった。.

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花川町

花川町(はなかわちょう)は、静岡県浜松市中区花川地区にある町である。.

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花筐公園

花筐公園(かきょうこうえん)は、福井県越前市粟田部町(旧・今立町)にある都市公園(風致公園)である。 名称は当地を舞台とする世阿弥の能『花筐』(はながたみ)に由来する - 越前市ウェブサイト。.

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花町宮邦省親王

花町宮邦省親王(はなまちのみやくにみしんのう、正安4年(1302年)-天授元年9月17日(1375年10月12日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族。式部卿。後二条天皇の第二皇子で、同母兄に邦良親王(後醍醐天皇皇太子)。号は花町宮(はなまちのみや)。子に花町宮廉仁王及び禅守(大僧正東寺長者)。.

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花札

こいこいの遊び方で並べられた花札 花札(はなふだ)は、日本のかるたの一種であり「花かるた」とも呼ばれた。今では一般に花札といえば八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48という枚数は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。同じ遊び方でも地域によってルールが異なったり、地域独特の遊び方もあるほか、海外にも伝播している。.

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芳野

芳野(よしの).

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芳野三絶

芳野三絶(よしのさんぜつ)は、吉野山の桜と南朝への感傷を詠った漢詩のうち、代表的な3首の七言絶句をいう総称。芳野は吉野の雅称。.

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芳野監

芳野監(よしののげん)は、8世紀の日本で吉野地方に設けられた特別な地方行政区分、機関である。畿内に含まれる。領域は現在の奈良県南部にあたる。.

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鎌倉将軍府

鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)は、1333年に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、関東統治機関である。建武政権からは距離を置いていた足利氏が取り仕切っていた。室町幕府の関東統治機関である鎌倉府の前身である。.

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聖宝

源大師 (江戸後期) 聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。諡号は理源大師。『古今和歌集』に歌1首あり。.

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道セン

道璿(どうせん、702年(長安2年) - 760年5月7日(天平宝字4年4月18日))は、中国唐代の僧。.

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鍵善良房

鍵善良房(かぎぜんよしふさ)は、京都市東山区祇園商店街にある企業。.

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菊池芳文

菊池 芳文(きくち ほうぶん、1862年11月8日(文久2年9月17日) - 1918年(大正7年)1月18日)は明治・大正期の日本画家。大阪生まれ。同じく日本画家である菊池契月は彼の女婿。.

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菊池武朝

菊池 武朝(きくち たけとも、正平18年/貞治2年(1363年) - 応永14年3月18日(1407年4月25日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。肥後守護代。菊池氏の第17代当主。16代当主菊池武政の子。兼朝の父。幼名は加賀丸。別名に武興。官位は右京大夫、肥後守。.

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青野原の戦い

青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市、不破郡垂井町)において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。.

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静御前

肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃) 時代祭での扮装 静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。.

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願行寺

行寺(がんぎょうじ)は、奈良県吉野郡下市町、秋野川左岸の御坊山麓にある寺。浄土真宗本願寺派、山号は至心山。下市御坊という。.

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血脈ザクラ

thumb血脈桜  (2015年5月) 血脈ザクラ (2008年9月) 血脈ザクラ(けちみゃくザクラ)は、北海道渡島総合振興局管内松前郡松前町松城の光善寺境内に生育しているサクラの古木である。品種はサトザクラの1種である「マツマエハヤザキ(松前早咲)」特に現地では別名として「南殿」(なでん)という品種名でも呼ばれるが、これとは別に「南殿」という品種があるため、混同しないようマツマエハヤザキとするのが一般的である。という早咲きの八重桜で、例年4月下旬から5月上旬が見ごろとなる 北海道人・2006年4月特集、2012年4月21日閲覧。宗方、103頁。渡辺、17頁。。樹齢は200年以上または280年以上といわれ、北海道有数のサクラの名木として評価され、1973年(昭和48年)に北海道指定記念樹木に選定されている 北海道庁ウェブサイト、2012年4月21日閲覧。大貫、10-11頁。。このサクラには桜の精と「血脈」証文にまつわる伝説があり、「血脈ザクラ」という名称はその伝説にちなんだものである。.

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風伝峠

伝峠(ふうでんとうげ)は三重県南部の南牟婁郡御浜町と熊野市紀和町の境にある峠。熊野古道伊勢路本宮道の一部をなし、峠道のうち約1.8 kmが世界遺産(文化遺産)に指定されている。また、峠は国道311号の旧道で三重県道62号御浜紀和線が通る、北の鵯山(ひよどりやま、ヒヨ山とも。標高813 m)と南の大瀬山(標高627 m)に挟まれた狭い鞍部にあり、標高は257 mである三重県地域振興課、1999小倉、2000。.

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西吉野温泉

西吉野温泉(にしよしのおんせん)は、奈良県五條市西吉野町城戸(旧西吉野村)(旧国大和国)にある温泉。.

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西山温泉 (山梨県)

西山温泉(にしやまおんせん)は、山梨県南巨摩郡早川町(旧国甲斐国)にある温泉である。.

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西園寺公宗

西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭(建武の新政期)にかけての公家。.

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西和

西和(せいわ)は、令制国の大和国(和州)西部を指す地域名称である。現在では奈良県北西部のうち生駒郡、広陵町を除く北葛城郡を指す名称として用いられる。.

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観世元雅

観世 元雅(かんぜ もとまさ、 応永元年(1394年)、あるいは応永8年(1401年)頃 - 永享4年8月1日(1432年8月26日))は室町時代の能作者、猿楽師。通称は十郎。初名は元次とも。法諱は善春。世阿弥の長男とされ、弟に『申楽談儀』を著した元能がいる。.

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語呂合わせ

語呂(ごろ)」とは、言葉や文章の続き具合、調子 のことで、もともとは雅楽における旋法に由来する。曲の調子を「律呂(りつりょ)」または「呂律」(りょりつ、ろれつ)といい、うまく演奏を合わせられないことを「呂律が回らない」と言った。これを言葉の調子にもなぞって「語呂」といった。「語呂がよい」とは、語調の感じが良いことをいう。 語呂合わせは、言葉にリズムや音感を持たせて馴染み深くしたものである。文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を暗記する場合に使われる。.

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説成親王

説成親王「説成」「懐成」「懐邦」と3種の諱が伝わることについて、小木喬によれば、初め「懐成」と名付けられたが、仲恭天皇の諱と被ることに気付いて「懐邦」に、さらに音の通ずる「説成」に改めたためという。ただし、田代圭一の指摘によると、「説成」の文献上の初出は江戸初期写の吹上本『帝王系図』付紙とのことだから、本来の諱は『新葉集』に見える「懐成」「懐邦」であったと考えられる。したがって、根本史料に即した場合、そのまま懐成親王あるいは懐邦親王を用いるべきであるが、一般に流布している人名辞典・系譜類においてはなお説成親王の見出しで掲載されていることが多い。そのため、本項記事名の採用に当たっても後者の方が相応しいと判断した。(かねなりしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝の皇族。後村上天皇の第六皇子で、長慶天皇・後亀山天皇の弟と推定される。母は不詳。子に聖淳がいる。官職は上野太守で、上野宮(こうずけのみや)・福御所と号した。本来の諱は懐成(かねなり)・懐邦(かねくに)。 近世の南朝系図以来、護聖院宮家の初代親王に比定する説が通説であったが、近年の研究では史料的な裏付けを欠くとして否定されつつある。.

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高取町

取町(たかとりちょう)は、奈良県の中部に位置する町。.

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高師泰

師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代の武将。高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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豊臣秀保

豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよとみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はしば ひでやす)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。.

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賀名生

堀家住宅(賀名生行宮跡) 賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ。 もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。 後村上天皇の遷幸より前の1336年(延元元年、北朝の建武3年)12月21日、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月23日穴生に至ったが、行宮とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至った。.

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賀名生行宮

堀家住宅(賀名生行宮跡) 賀名生行宮(あのうのあんぐう/あのうあんぐう)とは、大和国吉野郡(現在の奈良県五條市西吉野村賀名生)にあった南朝の行宮。.

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越部駅

越部駅(こしべえき)は、奈良県吉野郡大淀町越部にある、近畿日本鉄道(近鉄)吉野線の駅。駅番号はF53。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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身毛広

身毛 広(むげつ の ひろ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。牟宜都比呂とも書く。姓は君。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)方の功臣。.

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黒脛巾組

黒脛巾組(くろはばきぐみ)は、陸奥の戦国大名である伊達政宗が創設したと言われる忍者集団である。戦国時代や江戸初期の同時代史料では確認できない呼称であり、江戸中期以降の伊達家関係資料に突如登場することから、架空の可能性がある。 その一方で山岡荘八著『伊達政宗』にも触れられているが、伊達家の本拠地が長く現在の山形県の置賜地方であったことから、目と鼻の先の出羽三山系の修験者と伊達家に密接な関係があったことは知られており、また蔵王権現で有名な蔵王連峰も近辺である。これらの修験者が行う全国行脚などを通じて、隣国への外交工作や諜報を行っていた可能性は十分考察すべきである。 元々忍者自体が、伊賀、甲賀、名張、風魔、甲斐、越後の忍者にしても山岳地帯の傭兵集団の色合いが濃く、同じく山岳地帯に住み、山岳を信仰や修行の対象とした神道、密教、そして特に修験道などの山岳信仰の人間たちとの関連性は非常に高い。 よって、出羽三山などの修験道と黒脛巾組、もしくは伊達家の諜報関連との関連性については、今後の研究が待たれるところである。.

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黄書大伴

書 大伴(きふみ の おおとも、生年不詳 - 和銅3年10月14日(710年11月9日))は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は黄文とも書く。姓は造、後に連。子に粳麻呂がいる。贈正四位下。壬申の乱の功臣で、天武天皇・持統天皇・文武天皇の3代の天皇に仕えた。.

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近衛基嗣

近衛基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての日本の公卿。.

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近衛経忠

近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。関白近衛家基の孫にして、関白近衛家平の子であり、弟に覚実がいる。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。号に後猪熊関白、堀河関白など。.

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近鉄12400系電車

近鉄12400系電車(きんてつ12400けいでんしゃ)は、近畿日本鉄道(近鉄)の特急形車両。 本項では、12410系電車(12410けいでんしゃ)および12600系電車(12600けいでんしゃ)についても記す。 3系列とも電算記号はNNである。12400系はNN01 - NN03、12410系はNN11 - NN15、12600系はNN51 - NN52となる。 解説の便宜上、本項では大阪上本町駅・大阪難波駅側の先頭車の車両番号+F(Formation.

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近鉄16000系電車

近鉄16000系電車(きんてつ16000けいでんしゃ)は、近畿日本鉄道の特急形車両。 本項では増備車の16010系電車および大井川鐵道16000系電車についても述べる。 解説の便宜上、本項では大阪阿部野橋方の先頭車の車両番号+F(Formation.

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近鉄26000系電車

近鉄26000系電車(きんてつ26000けいでんしゃ)は、近畿日本鉄道の特急形車両である。さくらライナーの愛称をもつ。 解説の便宜上、本項では吉野向きの先頭車の車両番号+F(Formation.

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近鉄吉野線

吉野線(よしのせん)は、奈良県橿原市の橿原神宮前駅から奈良県吉野郡吉野町の吉野駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。.

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近鉄大阪線

大阪線(おおさかせん)は、大阪府大阪市天王寺区の大阪上本町駅から三重県松阪市の伊勢中川駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はD。.

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近鉄特急

近鉄特急(きんてつとっきゅう)とは、近畿日本鉄道(近鉄)が運行している有料特急列車の総称である。 主に、しまかぜ、青の交響曲、アーバンライナー、伊勢志摩ライナー、さくらライナー、ビスタカーなどがある。 近鉄特急の歴史については「近鉄特急史」を、近鉄特急のダイヤ変更の詳細については「1987年までの近畿日本鉄道ダイヤ変更」および「1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更」をそれぞれ参照されたい。.

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近江大津宮

近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。.

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霧山城

霧山城(きりやまじょう)または多気城(たげじょう)は、伊勢国一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気および美杉町下多気「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):418ページ)にかつて存在した日本の城。城跡は国の史跡に指定されている(史跡「多気北畠氏城館跡」のうち)文化庁""(2012年9月6日閲覧。)。 伊勢国司から戦国大名となった北畠氏の本拠地であり、16,000騎を有する大将にふさわしい城郭であった美杉村史編集委員会(1981):213ページ。.

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胡麻豆腐

胡麻豆腐(ごまどうふ)は精進料理のひとつで、奈良県および和歌山県の郷土料理。 豆腐の名を持つが、大豆を原料とする豆腐とは異なる。.

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般若寺

般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。.

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鈴鹿

鈴鹿(すずか)は、三重県(旧伊勢国)北部の地名。.

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蘇我安麻呂

蘇我 安麻呂(そが の やすまろ、生没年不詳)は、飛鳥時代後期の貴族。名前は安麻侶、安摩侶とも書かれる。大紫・蘇我連子の子。子に石川石足がいる。官位は小花下・少納言。.

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蘇我果安

蘇我 果安(そが の はたやす、生年不明 - 天武天皇元年7月2日?(672年7月31日))は、日本の飛鳥時代の豪族。姓は臣。.

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関城・大宝城の戦い

関城・大宝城の戦い(せきじょう・だいほうじょうのたたかい)は、南北朝時代に常陸国筑波山西麓にあった関城・大宝城(現在の茨城県筑西市・下妻市)を巡って争われた攻防戦のこと。 常陸国・下総国の諸将は建武政権に従いながらも所領を巡って対立を続け、延元の乱をきっかけに北朝側と南朝側に分かれて争うことになる。結城氏・小山氏・佐竹氏・大掾氏などは北朝側、小田氏や結城氏の庶流である白河結城氏・関氏・下妻氏などは南朝側についた。 延元2年/建武4年(1337年)頃より北朝方の攻勢によって関氏と下妻氏はそれぞれの居城である関城と大宝城での籠城を余儀なくされていたが、翌年9月に東国及び多賀城の掌握を目指した北畠親房の船が常陸国に漂着、11月に北朝側の襲撃を避けるために小田氏の本拠である小田城に入ると、翌年には南朝方として小山氏などと戦っていた春日顕国も合流、南朝側はこうした集結の動きによって勢いづいた。 ところが、興国2年/暦応4年(1341年)に入ると、吉野から浄光が後村上天皇の綸旨を奉じて東国に下って独自の命令を発し、関白近衛経忠が自らを盟主として東国の南朝方勢力を結集する「藤氏一揆」の構想が明らかになると、東国における北畠親房の政治的立場は動揺し、これに乗じた北朝方高師冬の工作も活発化した。同年11月には小田治久が北朝方に離反、これを知った親房は関城へ、春日顕国は大宝城に逃れた。 高師冬はこれを知って関城・大宝城を攻めるが、当時の両城は大宝沼と呼ばれ沼(現存しない)の北畔と南畔の高台に築かれ、三方を水に囲まれた堅城であった。高師冬は周囲の南朝方を攻略を続けながら両城の包囲を続け、北畠親房は白河結城氏の結城親朝に救援を求めた。この時、北畠親房が結城親朝に書いたとされるのが、『関城書』である。だが、関城・大宝城の水路での連絡を絶つことに成功した北朝方に対し、南朝方が来援を期待していた結城親朝は本領である白河荘が北朝側の攻撃にさらされて孤立し、興国4年/康永2年(1343年)8月に北朝方に離反した。そして、同年11月11日に北朝方による総攻撃が行われて、翌日に関城・大宝城が相次いで陥落、北畠親房・春日顕国は辛うじて脱出したものの、関宗祐・宗政親子及び下妻政泰は討死した。.

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関西自然に親しむ風景100選

関西自然に親しむ風景100選(かんさいしぜんにしたしむふうけい100せん)は、地球環境関西フォーラムが100ヶ所選んだ、自然・歴史・文化・暮らしなどと共生した特に感動を与えるであろう風景である。.

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関戸峠

宇陀市大宇陀関戸(北方)より見る 関戸峠(せきどとうげ)は、奈良県宇陀市にある峠。標高は約400m。 宇陀市大宇陀栗野(南方)と大宇陀関戸(北方)との間にある高低差は100m程度の緩やかな峠道で、現在は国道370号が通る。全区間2車線道路。峠は北へ流れる宇陀川と南へ流れる津風呂川の分水嶺に位置する。口宇陀盆地と吉野とを結ぶ南北道となっている。 位置 -.

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藤原麻呂

藤原 麻呂(ふじわら の まろ)は、奈良時代の公卿。名は万里とも記される。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。.

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葛城みち

* 『葛城みち』(かつらぎ-)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第1巻第4章。「週刊朝日」の1971年4月16日号から5月7日号に連載された。旅の時期は1970年/1971年。奈良盆地の東の山裾を『竹内街道』で、そして今回、その西の山裾を歩く。.

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葛飾北斎

天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部) 飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。.

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葛餅

葛餅 葛餅(くずもち、くず餅)は、葛粉から作られる和菓子。吉野葛(奈良県)の産地に近い関西で多く食される。 関東には同じ「くずもち」の音で、葛粉を使わない久寿餅(くず餅)がある。小麦粉からグルテンを分離させた後の浮き粉を発酵させた菓子である。どちらも黒蜜、きな粉をかけることが多い。 また沖縄でのくず餅は葛粉の代わりに芋くずと呼ばれるサツマイモデンプンからつくられる。.

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蔵王山神社

蔵王山神社(ざおうさんじんじゃ)は、山形県山形市上宝沢の蔵王連峰主峰である熊野岳山頂(標高1,841m)にある神社である。祭神は須佐之男命。 山形市蔵王温泉を見下ろす「瀧山」、蔵王温泉内にある「酢川神社」(酢川温泉神社)とともに三社一宮をなしている。.

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蔵王権現

蔵王権現(ギメ東洋美術館) 蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。.

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脇屋義治

脇屋 義治(わきや よしはる)は、南北朝時代の武将。脇屋義助の子。新田義貞の甥。.

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醍醐地蔵院日記

醍醐地蔵院日記(だいごじぞういんにっき)は、南北朝時代の醍醐寺清浄光院住持であった房玄の日記。房玄法印記(ぼうげんほういんき)とも。 伝存する記録期間は、正平3年/貞和4年(1348年)1月~10月、正平6年/観応2年(1351年)1月~9月のわずか2年分に過ぎない。記述は概して簡略で欠日もあるが、複雑な情勢下における幕府方と宮方の動向や合戦の様子、それにまつわる修法などを伝えており、他の記録類が少ない中にあって貴重な史料と言えよう。殊に、貞和4年には高師直による吉野金峰山攻略の経緯、観応2年には観応の擾乱から師直・師泰が討たれ、南朝による正平一統へ至った経緯を窺うことが出来る。 自筆本は全て醍醐寺三宝院が所蔵。文化14年(1817年)に中津広昵が自筆本を写した宮内庁書陵部所蔵本には、貞和四年記・観応二年日次記の内題がある。ただし、書陵部本は略影写のため難読の箇所が生じており、これを底本とした続群書類従完成会本の翻刻(『続群書類従29輯下』所収)も当然ながら誤字や脱漏が多く、利用に際しては注意を要しよう。他の写本としては、貞和4年分が水戸彰考館に、観応2年分が(観応二年日次記として)東京大学史料編纂所に所蔵される。.

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野槌

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「野槌」 野槌(のづち)は、日本に伝わる妖怪あるいは野の精霊(「野つ霊」の意)。.

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重要無形民俗文化財

重要無形民俗文化財(じゅうようむけいみんぞくぶんかざい)は、衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術など、人々が日常生活の中で生み出し継承してきた無形の民俗文化財のうち、特に重要なものとして国が指定したものである。この指定制度は、1975年(昭和50年)に日本の文化財保護法の改正によって実現し、1976年(昭和51年)5月4日に第1回として30件が指定されて以来、2018年3月8日現在で、合計309件が指定されている。.

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重源

俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。.

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里見脩二

里見 脩二(さとみ しゅうじ)は、小説・ドラマ『白い巨塔』に登場する架空の人物。国立浪速大学病院第一内科助教授。財前五郎とは同期生で終生のライバル。もう一人の主人公と呼べる存在である。.

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金峯山寺

金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。 金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称であった。 吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。.

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金峯神社 (鶴岡市)

金峯神社(きんぼうじんじゃ、きんぶじんじゃ)は、山形県鶴岡市にある神社である。旧社格は県社。明治の神仏分離までは金峯山蔵王権現と称し、修験道場となっていた。 金峯山山頂に本殿があり、金峯山全域に社殿が点在する。.

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金峰山 (熊本県)

金峰山(きんぼうざん、きんぽうざん)は、熊本県熊本市西区の旧飽託郡河内町の地域に位置する、標高665mの一ノ岳を中心とするカルデラ式火山である。.

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金生山神社

金生山神社(かなぶじんじゃ)は、岐阜県大垣市赤坂町にある神社。 金生山の中腹にある。元々は明星輪寺にあった蔵王権現宮である。 例年4月第2日曜日、赤坂宿で行われる「赤坂まつり」は、金生山神社の例祭である。.

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金輪王寺

金輪王寺(きんりんのうじ)は、北海道亀田郡七飯町字大川392にある寺院.

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長寶寺

長寳寺(ちょうほうじ)は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗の寺院。山号は王舎山。院号は長生院。本尊は十一面観音である。「長宝寺」とも表記。.

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長島昭久

長島 昭久(ながしま あきひさ、1962年〈昭和37年〉2月17日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、子どもの貧困対策推進議員連盟(呼びかけ人・幹事長)、日本スケート連盟副会長。朝鮮通信使交流議員の会(幹事)。 防衛大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅内閣)、内閣総理大臣補佐官(野田内閣・野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)、防衛副大臣(野田第3次改造内閣)、民進党「次の内閣」ネクスト外務大臣、民進党東京都連幹事長、希望の党政策調査会長(第2代)などを歴任した。.

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良泰親王

良泰親王(よしやすしんのう、建徳元年(1370年) - 嘉吉3年5月7日(1443年6月4日))は、南朝最後の天皇である後亀山天皇の第三皇子。小倉宮とよばれた。後亀山天皇の皇太子であったとも伝わる。 後亀山天皇の皇子には小倉宮恒敦がおり、その諱を『南朝皇胤紹運録』では「良泰」としているが、同一人物かは不明。その息子小倉宮聖承の諱も「良泰」とされるが、彼との関係も不明である。いずれにせよ、良泰親王に関しては小倉宮恒敦や小倉宮聖承を習合している部分が否めないと考えられている。 息子に泰仁王がいたとされ、南天皇で知られる尊雅王は四男とされる。また、嘉吉3年(1443)9月に起きた禁闕の変の首謀者である通蔵主 ・金蔵主の兄弟は良泰親王の息子とされるが、資料不足で詳細は不明。.

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雲取越え

雲取越え(くもとりごえ、大雲取小雲取越え〈おおぐもとりこぐもとりごえ〉)は熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)とを結ぶ参詣道。熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣道、熊野古道中辺路の派生ルートのひとつ。熊野那智大社から、その後背にそびえる那智山を越えて赤木川の河谷に至るまでを大雲取越え(おおぐもとりごえ)、赤木川から熊野本宮大社に至るまでを小雲取越え(こぐもとりごえ)と呼ぶ。 熊野古道中辺路は熊野本宮大社に達した後、熊野三山を巡拝する道となる。平安時代後期から鎌倉時代初めにかけて確立した中世熊野詣における通常の巡拝ルートは、熊野本宮大社から熊野川を下って熊野速玉大社に、ついで陸路で熊野那智大社に詣でてから、同じ道をたどって熊野本宮大社に帰参するもので小山、中世の参詣記における三山巡拝は以上のルートをとっている。しかし、那智山から本宮までの経路としての熊野川は舟賃を要するうえ、大雨の後などは航行困難ないし不能となる。そのため、修行者や庶民が通行する道として山間部をぬって本宮と那智を結ぶ道が早くから存在したと考えられている。それが雲取越えの道である。このように、中世における雲取越えは派生ルートとして位置づけられるが、西国三十三所が定着する室町時代以降には、西国三十三所をめぐる巡礼者や旅人が盛んに往来する主要ルートとなった小山。 一部は国の史跡「熊野参詣道」として指定されている。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の構成資産の一部である世界遺産登録推進三県協議会。.

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雲龍 (笛奏者)

雲龍(英:UNRYU、うんりゅう)は1962年大阪生まれ笛奏者、音楽家。細野晴臣 with 環太平洋モンゴロイドユニットのメンバー。長野県飯田市在住。 幼い頃より笛に親しみ、横笛をはじめ土笛、木の実の笛、コアガラスの笛、ネイティブアメリカンフルートなど数多くの笛を演奏する。 信州高遠美術館「平山郁夫」展、ワタリウム美術館(東京都)における岡本太郎出展「大地の精神」展、横尾忠則 & 細野晴臣「アートパワー」展などで演奏。 神社仏閣での演奏も多く出雲大社、鹿島神宮、熱田神宮、松平東照宮、京都・清水寺(成就院)、東福寺(塔頭・願成寺)、鎌倉・浄妙寺。尾道・浄土寺ほかで奉納演奏。伊勢・猿田彦神社本殿遷座巡行祭に参加。京都国際会議場にて第三回世界水フォーラム 国連開発計画(UNDP) 及びユネスコ共催「水と教育」記念式典にて開会式、閉会式共に演奏。 1997年から細野晴臣 with 環太平洋モンゴロイドユニットのメンバーとしての活動。 2004年立川志の輔 落語と狂言が出逢う能舞台「満月の會」に一年間出演。世界遺産登録記念「森羅万唱」〜紀伊山地からの祈り〜 紀伊山地の霊場と参詣道 記念式典にて細野晴臣 with 環太平洋モンゴロイドユニットとして出演。熊野本宮大社旧社地(大斎原)石祠の前にて献笛した。 鞍馬、出雲、吉野、富士山、高千穂など様々な場所で笛を演奏している。.

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通話表

通話表(つうわひょう)、又はフォネティックコードとは、無線電話で通信文の聞き間違いを防ぐために制定された規則である。.

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逢志摩

逢 志摩(あう の しま、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の使者になった。.

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陸上交通事業調整法

上交通事業調整法(りくじょうこうつうじぎょうちょうせいほう、昭和13年法律第71号)は、日中戦争が拡大し戦時体制が色濃くなった1938年(昭和13年)8月に施行された、鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るための法律である。最終改正は、平成18年6月7日法律第53号。.

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果無山脈

果無山脈(はてなしさんみゃく)は、和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する山脈。最高地点は冷水山(1262メートル)。.

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恒良親王

恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、正中元年(1324年) - 延元3年/建武5年4月13日(1338年5月3日))は、後醍醐天皇の皇子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。成良親王、義良親王の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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束稲山

束稲山(たばしねやま)は、岩手県平泉町、奥州市、一関市の境界に位置する山。標高594.9m。.

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松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 俳諧(連句)の芸術的完成者であり東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書)蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖佐藤編(2011)、p.247、あとがきとして世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。.

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松花堂昭乗

松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。 書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。なお松花堂弁当については、その名が昭乗に間接的に由来するとする説がある。.

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村上正邦

村上 正邦(むらかみ まさくに、1932年8月21日 - )は、日本の政治家である。元参議院議員(4期)、労働大臣を歴任。福岡県嘉穂郡出身。在職中は参議院自民党において多大な影響力を持ち、「タカ派」「参院のドン」と呼ばれていた。.

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村国男依

村国 男依(むらくに の おより、? - 天武天皇5年(676年)7月)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は雄依、小依とも書く。姓は連。子に村国志我麻呂がいる。冠位は贈外小紫。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に属して戦い、近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。.

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桜山 (逗子市)

桜山(さくらやま)は、神奈川県逗子市の町名。逗子中心市街地の南側、ほぼ田越川南岸に沿い、町名は桜山1丁目から9丁目まである。このほかに、逗子市沼間・葉山町長柄を隔て、飛地として丁目が振られていない「桜山大山」がある。両区域の合計面積は4.01平方キロメートルで、逗子市全域17.28平方キロメートルの約23%にあたり、逗子市を構成する8地区中最も広い。郵便番号は249-0005。.

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桜川 (茨城県南部)

桜川(さくらがわ)は、茨城県の南西部を流れ霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川である。.

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桜川のサクラ

桜川のサクラ(さくらがわのサクラ)は、茨城県桜川市磯部にあるサクラである。磯部稲村神社の参道沿いと隣接する磯部桜川公園の丘陵地一帯約5,000m2にヤマザクラやソメイヨシノなど約800本のサクラが植栽されている。日本国の天然記念物であるとともに「桜川(サクラ)」の名で日本国の名勝に重複指定されている。 「西の吉野、東の桜川」と並び称されたサクラの名所であり、世阿弥の謡曲「桜川」の舞台となった場所である。.

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桜雲記

桜雲記(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。.

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桂文屋

桂文屋(かつら ぶんや、1867年12月 - 1909年3月16日)は、落語家(上方噺家)。本名: 桂陀羅助。享年43。俳名は「文哉」。 軽口の笑福亭松右衛門の実子。本名の陀羅助(だらすけ)は、吉野大峰山名産の苦い胃腸薬「陀羅尼助丸」に由来している。ちなみに、妹はお里(お砂糖)、兄は勘三(甘草)と言い、いかにも人を食った命名で、戸口調査の際、父親が叱られたという。 幼少時から本名(一時笑福亭だら助)のままで寄席に出ており、父と同じく2代目笑福亭圓笑(2代目笑福亭松鶴)の門下だったという。次に3代目桂文吾の門下で金吾となり、最後に2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の門下で文屋となった。 変わり者で芸人としての欲がなく、本職の高座は、聴衆よりも同業者に良く受けるような体のものだった。しかし、その人物には魅力があり、文人の食満南北や渡辺霞亭によく愛された。一中節をうなり、胡弓を擦り、絵を嗜み、琴を弾じ、自身の名前の楽焼「陀羅助焼」を捻り、「文哉」の名で句を詠むなど、多芸多趣味の人であった。 約1尺4、5寸の腰に銀の煙管をぶら下げて楽屋入りするなど数々の奇行でも知られた。家には仏壇以外の家具が無く、襖には破産した銀行の株券を張り詰めていた。また、夜は灯をともさず、天上には水を入れた徳利をぶら下げ、もし泥棒が侵入してこの徳利に頭をぶつけると、水がこぼれて自分にかかり眼が覚める、という仕掛けであった。また両方に口の着いた土瓶を作り、販売していたがまったく売れなかった。その両口土瓶の碑が1909年6月に大阪市天王寺区の壽法寺の文屋を偲ぶ人たちによって建てられた。また生涯独身であった。 新作も多く物にしており、今も良く高座に掛けられる『いらち俥』(東京では『反対俥』)『阿弥陀池』(発表当時は『新作和光寺』)『染色』『宇治の柴舟』は、この文屋の作と言われる。ほかにも曾我廼家五郎、曾我廼家十郎の喜劇の台本の執筆に協力などもしている。 辞世の句は「夢さめて酒まださめず春の月」。.

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梶原景時の変

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。.

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椿葉記

椿葉記(ちんようき)とは、室町時代に伏見宮貞成親王(後崇光院)が著した伏見宮家の家譜。全1巻。南北朝時代後半の北朝及び室町時代の皇室史に関する歴史書として価値を有している。.

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楠木正勝

楠木 正勝(くすのき まさかつ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。正能とも。官名は右馬頭か。楠木正儀の子で、楠木正成の孫にあたる。正秀、正元、正則、津田正信らの兄。子に伊勢楠木氏の祖となる正顯(正盛)、また盛信などの名が伝わっている。正秀を弟ではなく子とする説もある。北朝、室町幕府に徹底抗戦した。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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極める

『極める』(きわめる)は、テレビ東京系列局ほかで放送されていたグレートデン製作の教養番組である。テレビ東京とテレビ愛知では1986年(昭和61年)から1995年(平成7年)まで、毎週金曜 22:00 - 22:30 (日本標準時)に放送。現在は、ヒストリーチャンネル(CS 342ch)で『極める 日本の美と心』が放送されている。 日本の文化財を紹介する番組で、奈良岡朋子と安田正利がナレーターを務めていた。放送当時は数少なかった文字多重放送による字幕放送を実施していた。 本項では、DVD版の新作である『新極める 日本の仏像百選』(しんきわめる にほんのぶつぞうひゃくせん)についても取り扱うこととする。.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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歩兵の本領

歩兵の本領(ほへいのほんりょう)は、1911年(明治44年)に発表された日本の軍歌。歩兵を謳った歌であるため歩兵の歌とも呼称される。.

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歌枕の一覧

この歌枕の一覧は地名の歌枕のうち、著名なものを旧国名に従い列挙したものである。全国にある玉川(六玉川)は下部にまとめてある。 書式: 目次.

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水島敏

水島 敏(みずしま びん、旧芸名:水島 敏照、本名:水島 敏雄(みずしま としお)、1951年4月30日 - )は愛媛県出身の日本の漫談家、コメディアン、俳優。ボーイズバラエティ協会所属。.

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水越峠

水越峠(みずこしとうげ・みずごえとうげ・みなこしとうげ).

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水野良春

水野 良春(みずの よしはる、生年不詳 - 応安7年6月16日(1374年))は南北朝時代の武将。通称は又太郎。号は無二。志段味城主、また尾張国山田郡新居(愛知県尾張旭市新居町)に進出して、新居城主となった。.

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氷室長翁

氷室 長翁(ひむろ ながとし、天明4年閏1月23日(1784年3月14日) - 文久3年10月1日(1863年11月11日))は江戸時代後期の尾張国津島牛頭天王社(津島神社)神主、桂園派歌人。名は豊長(とよなが / とよおさ)、通称は兵治、兵庫、伊織、将監。.

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江島神社

江島神社(えのしまじんじゃ)は、神奈川県藤沢市江の島にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。日本三大弁天の一つに数えられる。.

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洞院実夏

洞院 実夏(とういん さねなつ、正和4年(1315年) - 貞治6年/正平22年6月1日(1367年6月28日))は、南北朝時代の公卿(内大臣(北朝))。父は太政大臣洞院公賢、子は洞院公定・公頼。.

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洞院公定

洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代の公家。従一位左大臣。後中園左大臣と号す。父は内大臣洞院実夏。祖父は洞院公賢。養子に洞院実信(正親町忠季の子)、洞院満季(洞院実信の子)がいる。.

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深澤多市

深澤 多市(ふかさわ たいち、1874年(明治7年)4月18日 - 1934年(昭和9年)12月20日)は、郷土史家で民俗学研究家、秋田県内の郷土資料を集成した『秋田叢書』および『秋田叢書 別集 菅原真澄集』の編者。号は紫水(しすい)。.

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清内雄行

清内 雄行(きようち の おゆき、大同3年(808年) - 元慶6年6月10日(882年6月29日))は、平安時代前期の貴族。氏姓は凡河内忌寸のち清内宿禰。官位は従五位下・丹波介。.

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湊川神社

1961年(昭和36年)当時の湊川神社。市電の架線が見える。 湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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木の子 (妖怪)

木の子(きのこ)は、近畿地方に伝わる妖怪。.

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本居宣長

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅のにて門人を集め講義をしたことからと呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、一族には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。.

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本満寺

本満寺(ほんまんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広布山(広宣流布山)。塔頭が四院ある(一乗院、守玄院、実泉院、法泉院)。.

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朴井雄君

朴井 雄君(えのい の おきみ、生年不詳 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は榎井とも、朴井氏は物部氏の同族であり物部とも記される。姓は連。物部尾輿の孫にあたる朴井真古または物部守屋の子で、那加世の兄弟とする系図がある。冠位は贈大紫。 美濃に住まう物部氏の一族といわれる。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に従って活躍した。.

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星合具泰

星合 具泰(ほしあい ともひら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。星合親泰から数えて4代目の星合氏当主。.

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明徳の和約

明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。 この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。.

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春日顕国

春日 顕国(かすが あきくに、生年不詳 - 興国5年/康永3年3月8日(1344年4月21日))は、南北朝時代の貴族。家系は村上源氏庶流の春日家。正三位・源顕行の子か。官位は左近衛中将、侍従。春日中将、春日侍従と称された。諱は顕時とも。南朝方の武将として北畠親房・顕家の下で転戦した。.

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浜寺町

浜寺町(はまでらちょう)は、かつて大阪府にあった町である。現在の大阪府堺市西区の一部に相当する。堺市編入後も名称を廃止せず、「浜寺○○町」といった地名になっている。.

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新宮山彦ぐるーぷ

新宮山彦ぐるーぷ(しんぐうやまびこぐるーぷ)は和歌山県新宮市を拠点とする山岳団体。吉野・熊野を結ぶ修験の修行の道、大峯奥駈道南部(南奥駈道)の再興と整備・保全の活動で知られる。.

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新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜

『新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜』(しんせつ にほんミステリー うしなわれたしんじつにせまる)は、2006年(平成18年)12月6日から2008年(平成20年)3月21日までテレビ東京系で計4回放送された2時間スペシャル番組である。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文正の政変

文正の政変(ぶんしょうのせいへん)とは、文正元年(1466年)9月6日に室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こしていく。.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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日中関係史

日中関係史(にっちゅうかんけいし)においては、日本と中国大陸にあった歴代の王朝と現在、中国大陸に存在する「中華人民共和国」との関係の歴史を解説する。なお、本項では、台湾にある現在の中華民国との関係についても言及するものとする。.

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日光神社

日光神社(にっこうじんじゃ)は和歌山県有田郡有田川町にある神社。同町内の日光山山頂近くの高地に鎮座する。.

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日野邦光

日野 邦光(ひの くにみつ)は、南北朝時代の公卿。権中納言日野資朝の子だが、母は不詳である。南朝に仕えた。幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討の逸話によって古来著名である。.

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日本の世界遺産

日本の世界遺産位置図 日本の世界遺産(にっぽんのせかいいさん、にほんのせかいいさん)は、ユネスコの世界遺産に登録されている日本国内の文化・自然遺産の一覧。:Category:日本の世界遺産に索引がある。.

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日本の郷土料理一覧

日本の郷土料理一覧(にほんのきょうどりょうりいちらん)は、日本国内の日本料理である郷土料理(町おこしを目的としたり、特定の事業者が近年考案したご当地グルメや土産菓子ではなく、地域、家庭で受け継がれている料理)の代表的なものを都道府県別に一覧にしたものである。「農山漁村の郷土料理百選」では、国民に広く支持される99品の「郷土料理」が選ばれている。 __notoc__.

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日本の歴史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。 各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。.

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日本史の出来事一覧

日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。.

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日本遺産

日本遺産(にほんいさん、Japan Heritage)は、文化庁が認定した、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーである。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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慶安の変

慶安の変(けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。.

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書智徳

書 智徳(ふみ の ちとこ、生年不詳 - 持統天皇6年5月20日(692年6月9日)?)は、日本の飛鳥時代の人物。氏は文、名は知徳とも書く。姓は直のち連、忌寸。倭漢書県の子とする系図がある。子に塩麻呂がいた。冠位は贈直大壱。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇) 方功臣。.

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曾良旅日記

『曾良旅日記』(そらたびにっき)は、河合曾良による1689年(元禄2年)及び1691年(元禄4年)の日記を中心とする自筆の覚書。 その存在は古くから一部には知られていたが、芭蕉研究においては、山本安三郎山本安三郎(-1947):俳号は六丁子、俳句団体「笹鳴会」を主宰する俳人であり、在野の芭蕉研究家・蒐集家として知られた医師。能村登四郎の伯父が再発見して1943年(昭和18年)に出版し全貌が明らかになるまで、疑いの目で見られていた。 出版以来『おくのほそ道』研究に一時期を画し、『おくのほそ道』本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識を考察する上で不可欠な資料となった。奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された。.

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1987年までの近畿日本鉄道ダイヤ変更

本項では第二次世界大戦の終了以降、1987年までに実施された近畿日本鉄道ダイヤ変更(きんきにっぽんてつどうダイヤへんこう)について記述する。 実施されたダイヤ変更に関しては、資料や出典などで判明可能なものに限って記述し、判明不可能なダイヤ変更やごく軽微なダイヤ修正および臨時ダイヤは一部を除き記述を割愛している。また、路線名・駅名・車両形式名は時系列で掲載している。なお、1947年6月1日に南海電気鉄道に分離された各路線のダイヤ変更については省略している。 1988年以降に実施されたものは1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更を参照。.

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3600

3600 (三千六百、さんぜんろっぴゃく)は自然数、また整数において、3599の次で3601の前の数である。.

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4月17日

4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.

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671年

記載なし。

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