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侍所

索引 侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。

目次

  1. 205 関係: 執権十三人の合議制千葉兼胤南宗継多田行綱多賀高忠多賀氏大倉御所大番役大物崩れ大殿奉行衆季瓊真蘂室町幕府家司宗峰妙超安威資脩寄人寛正の土一揆小侍所尾張川の戦い山城国山名宗全山名義幸山名氏清山名満幸山名満時山名持熙山名時義山名時熙山名時氏屋島の戦い嶽山城の戦い上総広常中条藤資常高院七頭市河氏三好之長三浦義村三浦高継三浦高通三浦氏三方範忠三日平氏の乱 (鎌倉時代)一色範氏一色義貫一色詮範一色氏平宗綱... インデックスを展開 (155 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は政所の別当の中心となるものの呼称であった。

見る 侍所と執権

十三人の合議制

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後、建久10年(1199年)4月に発足した鎌倉幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語である。正治2年(1200年)には解体した。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。

見る 侍所と十三人の合議制

千葉兼胤

千葉 兼胤(ちば かねたね)は、室町時代前期の武将。千葉氏第15代当主。第14代当主千葉満胤の子。妻は上杉氏憲(禅秀)の娘。

見る 侍所と千葉兼胤

南宗継

南 宗継(みなみ むねつぐ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将、官僚、政治家。高階姓南氏の棟梁。惟宗の子で、子に宗久ら。北朝遠江守、室町幕府侍所頭人・三河守護・備中守護。室町幕府初代執事の高師直の又従兄弟。足利氏の内紛観応の擾乱では、師直・将軍尊氏派の有力武将として参戦。擾乱後は、高一族生き残りの最長老の一人となり、執事仁木頼章に次ぐ尊氏の片腕として活躍した。なお、本項では、源姓南部氏の人とする異説も合わせて記述する。

見る 侍所と南宗継

多田行綱

多田 行綱(ただ ゆきつな)は、平安時代末期の武将。源行綱とも。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆守。 摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏嫡流。

見る 侍所と多田行綱

多賀高忠

多賀 高忠(たが たかただ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。京極高数の子。多賀氏の一派・多賀豊後守家当主で近江京極氏の重臣。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。 通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本(むねもと)。号は大源(たいげん)。

見る 侍所と多賀高忠

多賀氏

多賀氏(たがし)は、日本の氏族のひとつ。現在の滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社の社家で、後に武家に転向した。

見る 侍所と多賀氏

大倉御所

大倉御所(おおくらごしょ)、または大蔵御所・大倉幕府(おおくらばくふ 鎌倉市公式HP)は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった源頼朝の邸宅。治承4年(1180年)から承久元年(1219年)までの39年間、あるいは嘉禄元年(1225年)までの45年間、鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所であった。

見る 侍所と大倉御所

大番役

大番役(おおばんやく)は、平安時代後期から室町時代初期にかけて、地方の武士に京を、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じたもの。 鎌倉時代の武家法である御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条において御家人の職務として明文化された。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった(大番催促)。その後南北朝時代に廃れた。

見る 侍所と大番役

大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を壊滅させた。合戦は天王寺辺りから展開されたが、最終的に高国が大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑されたために大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。

見る 侍所と大物崩れ

大殿

大殿(おおとの)とは、。

見る 侍所と大殿

奉行衆

奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。

見る 侍所と奉行衆

季瓊真蘂

季瓊真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401年 )- 文明元年8月11日(1469年9月16日))は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。 雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435年)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。 同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、文正元年(1466年)に対立する細川勝元・山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、応仁2年(1468年)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。 『応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗や宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。また、蔭涼職の公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。

見る 侍所と季瓊真蘂

室町幕府

は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。

見る 侍所と室町幕府

家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公家・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。

見る 侍所と家司

宗峰妙超

宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られている。 諱は妙超、道号は宗峰。播磨(兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都の大徳寺の開山。

見る 侍所と宗峰妙超

安威資脩

安威 資脩(あい すけなが、?-応安4年/建徳2年8月1日(1371年9月10日))は、南北朝時代の室町幕府の幕臣・歌人。安威有脩の子。子は安威親脩。法号を性遵、後に性威。 安威氏は摂津国島下郡安威荘の出身とみられる御家人の出で、本姓は安倍氏であったが、有脩の時代に妻の諏訪氏の姓である神氏に改めたとされる(『神氏系図』)。 父の有脩は鎌倉幕府で安堵奉行を務め、資脩も嘉暦3年(1328年)以降に鎌倉幕府の奉行人であった。鎌倉幕府の滅亡後は建武政権に仕えて雑訴決断所に加えられるが、間もなく北畠顕家が義良親王を奉じて奥州に下った際に陸奥将軍府の奉行の一人として随行し、陸奥国の国務に携わった。暦応元年(1338年)に顕家が戦死するまでその配下にあったとみられるが、翌2年(1339年)には出家して性遵の法号をもって室町幕府に出仕した。同年、足利尊氏は後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を建立した時に造営奉行の一人に任じられている。だが、足利直義が政務を行っている時期には重用されず、観応の擾乱以降は足利義詮の下で右筆や奉行の職を務め、延文元年(1356年)には政所の執事代に任ぜられ、続いて侍所の開闔に任じられた。義詮の時代には側近として重用され、孫の詮有は義詮の偏諱を受けている。義詮が没すると、将軍足利義満-管領細川頼之体制下で延暦寺を担当する山門奉行に任ぜられて評定衆に加えられた。応安元年(1368年)に延暦寺と南禅寺の対立が発生した際には、延暦寺に対して強硬な態度を示して、これに反発した僧兵たちが翌年には入京・強訴に及んでいる。その後も、応安4年(1371年)の「五山十刹以下住持事」制定時には担当奉行として五山十刹制度の確立に大きな役割を果たしたが、この年の8月1日に没した(『師守記』)。後を継いで奉行人として活躍していた孫の詮有は永徳元年(1381年)に突如出奔(『神氏系図』)し、安威氏は没落した。ただし、その後も室町幕府の奉公衆や細川氏傘下の摂津国の国衆に安威氏の名前があることから、奉行衆としての安威氏の没落後も、資脩の子孫が奉公衆に加えられて家名を維持したとみられる。

見る 侍所と安威資脩

寄人

寄人(よりうど/よりゅうど)とは、平安時代以後中世にかけて用いられた一定の人々に対する呼称であるが、複数の意味がある。

見る 侍所と寄人

寛正の土一揆

寛正の土一揆(かんしょうのつちいっき)とは、日本の室町時代中期、寛正年間に起きた土一揆のこと。特に寛正の飢饉のピークであった寛正3年(1462年)の一揆を指す。 寛正の大飢饉による混乱の最中の寛正3年9月に京都において徳政令を求める土一揆が発生、浪人や在京大名の内者(被官)までが加わって、土倉などから財物を奪ったり、下京にて火を放つなどの行為に及んだ。10月になると今度は木津の馬借らが奈良で一揆を起こし、一旦は沈静化していた京都でも一揆が再発して京都七口を封鎖したため、室町幕府は侍所所司代・多賀高忠、次いで赤松政則ら在京大名に鎮圧を命じた。最終的には京都では諸大名の軍が、奈良では大和国の守護でもある興福寺の六方衆が一揆を鎮圧、参加者に対しては首魁の蓮田兵衛をはじめ処刑も含めた過酷な報復が行われた。

見る 侍所と寛正の土一揆

小侍所

小侍所(こさむらいどころ)は、鎌倉幕府・室町幕府に設置された機関の1つで、将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理して将軍及びその御所の警備を統括した。鎌倉幕府においては別当を長としたが、室町幕府にはそうした役職は存在しなかったとみられており、便宜上において所司と呼ばれていたようである。

見る 侍所と小侍所

尾張川の戦い

尾張川の戦い(おわりがわのたたかい)は、承久3年(1221年)6月5日から6日にかけて、尾張・美濃国境付近の尾張川(現木曽川)において鎌倉幕府軍と朝廷軍との間で行われた戦闘である。承久の乱の一つに位置づけられる。

見る 侍所と尾張川の戦い

山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

見る 侍所と山城国

山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん / やまな もちとよ、応永11年5月29日〈1404年7月6日〉- 文明5年3月18日〈1473年4月15日〉)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。

見る 侍所と山名宗全

山名義幸

山名 義幸(やまな よしゆき)は、南北朝時代の守護大名。室町幕府侍所頭人、丹後・出雲・隠岐守護。山名師義の長男、氏之、義熙、満幸の兄。子に師幸。日野屋形家(日野山名氏)の始祖となった。

見る 侍所と山名義幸

山名氏清

山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。

見る 侍所と山名氏清

山名満幸

山名 満幸(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。

見る 侍所と山名満幸

山名満時

山名 満時(やまな みつとき)は室町時代の武将。山名時熙の嫡男。室町幕府侍所頭人。宮内少輔、伊予守、刑部少輔、修理大夫。弟に山名持熙、山名持豊(宗全)がいる。

見る 侍所と山名満時

山名持熙

山名 持熙(やまな もちひろ)は室町時代の武将。室町幕府侍所頭人を務めた山名時熙の次男。従五位下刑部少輔。兄に山名満時、弟に山名持豊(宗全)がいる。

見る 侍所と山名持熙

山名時義

山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。

見る 侍所と山名時義

山名時熙

山名 時熙(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。

見る 侍所と山名時熙

山名時氏

山名 時氏(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。

見る 侍所と山名時氏

屋島の戦い

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現・高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。

見る 侍所と屋島の戦い

嶽山城の戦い

嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)は、寛正元年(1460年)12月19日から寛正4年(1463年)4月15日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。

見る 侍所と嶽山城の戦い

上総広常

上総 広常(かずさ ひろつね、)は、平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総 介広常(かずさのすけひろつね、)の呼称が広く用いられるが、上総介は官位であり、本名は平 広常(たいら の ひろつね)である。 房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。

見る 侍所と上総広常

中条藤資

中条 藤資(なかじょう ふじすけ)は、戦国時代の武将。越後国の国人領主中条氏の第19代当主。沼垂郡(北蒲原郡)奥山庄の鳥坂城主。揚北衆三浦党で、七手組大将の一人。上杉謙信の家臣筆頭として晩年まで第一線で活動を続けた。諸説あり。

見る 侍所と中条藤資

常高院

常高院(じょうこういん、永禄13年(1570年)- 寛永10年8月27日(1633年9月30日))は、戦国時代から江戸時代前期の人物。若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。本名は浅井 初(あざい はつ)で、一般に「初」の呼び名で知られる。また、幼名は御鐺(おなべ)、於那。浅井三姉妹の一人。 父は近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・市(織田信長の末妹)。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)市の連れ子(異父姉)という説がある。、妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸、同母弟または異母弟に浅井井頼。 高次との間に子はなく、妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされる。後に養女の初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。

見る 侍所と常高院

七頭

七頭(しちとう)は、室町時代、管領家とともに幕政に参加できた七家の有力諸侯。

見る 侍所と七頭

市河氏

市河氏(いちかわし)とは、甲斐国市河荘が発祥とされ、主に信濃国と越後国の国境に近い奥信濃に勢力を張った武家の一族。代々伝えられた古文書や書簡が、『市河家文書』として残されている。

見る 侍所と市河氏

三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。

見る 侍所と三好之長

三浦義村

三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。

見る 侍所と三浦義村

三浦高継

三浦 高継(みうら たかつぐ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。相模三浦氏の当主。官位は相模介(三浦介)。室町幕府侍所頭人。

見る 侍所と三浦高継

三浦高通

三浦 高通(みうら たかみち)は、南北朝時代の武将。相模三浦氏の当主。室町幕府の相模守護。官位は相模介(三浦介)。

見る 侍所と三浦高通

三浦氏

三浦氏(みうらし)は、坂東八平氏の一つで、平安時代の相模国の「みうら」の地を本拠地とする武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。

見る 侍所と三浦氏

三方範忠

三方 範忠(みかた のりただ)は、室町時代中期の武士。一色氏の家臣。通称は弾正左衛門尉、後に山城守。若狭守護代や侍所所司代などを務めた。

見る 侍所と三方範忠

三日平氏の乱 (鎌倉時代)

三日平氏の乱(みっかへいしのらん)は、鎌倉時代初期、伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した事件。建仁3年(1203年)12月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が、元久元年(1204年)4月10日から12日の間に反乱軍を鎮圧した事から「三日平氏の乱」と称された。

見る 侍所と三日平氏の乱 (鎌倉時代)

一色範氏

一色 範氏(いっしき のりうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。足利氏の家臣。一色氏3代当主。

見る 侍所と一色範氏

一色義貫

一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。侍所頭人。丹後一色家の当主。はじめ義範、のち義貫と称した。五郎。若狭国・三河国・丹後国および尾張国知多郡・同国海東郡を有し、一色氏の最盛期を築いた。

見る 侍所と一色義貫

一色詮範

一色 詮範(いっしき あきのり)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏6代当主。

見る 侍所と一色詮範

一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に。

見る 侍所と一色氏

平宗綱

平 宗綱(たいら の むねつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府の侍所所司。第9代執権北条貞時の執事(内管領)として絶大な権勢を振るった平頼綱の嫡男。

見る 侍所と平宗綱

平安時代の人物一覧

平安時代の人物一覧(へいあんじだいのじんぶついちらん) ここでは、平安時代の人物を集めた。

見る 侍所と平安時代の人物一覧

平盛綱 (三郎兵衛尉)

平 盛綱(たいら の もりつな)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の侍所所司で執権北条氏の家令。御内人の有力氏族であった長崎氏の祖。

見る 侍所と平盛綱 (三郎兵衛尉)

平盛時 (御内人)

平 盛時(たいら の もりとき)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家の御内人。侍所所司。鎌倉幕府執権、北条泰時・経時・時頼に仕える。平盛綱の子で、平禅門の乱で知られる平頼綱の父と推定されている。

見る 侍所と平盛時 (御内人)

平頼綱

平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。元寇(蒙古襲来)時の鎌倉幕府8代執権北条時宗、9代執権北条貞時の寄合衆、執事(内管領)、侍所所司で、貞時の乳母父である。父は歴代執権の執事を務めた平盛時。御内人の筆頭格として北条得宗家の専制体制を補佐した。

見る 侍所と平頼綱

京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。 永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府の侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。

見る 侍所と京都所司代

京極高光

京極高光(きょうごく たかみつ)は、室町時代中期の守護大名。室町幕府侍所頭人、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。

見る 侍所と京極高光

京極高知

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。丹後国宮津藩(宮津城)初代藩主。高知流京極家の祖。

見る 侍所と京極高知

京極高詮

京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。 室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。官名は治部少輔。

見る 侍所と京極高詮

京極高清

京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。飛騨・出雲・隠岐・近江守護、後に近江半国守護で北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名は乙童子丸。 家中を二分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。

見る 侍所と京極高清

京極高数

京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。

見る 侍所と京極高数

京極材宗

京極 材宗(きょうごく きむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。京極政経の子。吉童子丸の父。初めは父より一字を与えられて経秀(つねひで)と名乗っていたが、後に室町幕府第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を賜り改名した。 文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命、多賀高忠を所司代に任命された。この処置は父政経を京極氏当主に復帰させ、従兄の京極高清を追放する目論見があった。しかし、父が配下の所領横領を阻止出来なかったことが将軍足利義材の怒りを買い、家督を高清に代えられると材宗も失脚、明応の政変で義材が廃位されると京極氏復帰を狙った。 父が高清に敗れて出雲へ下向した後も高清と戦い、文亀元年(1501年)に浅井直種を従えて今浜を攻めたが、上坂家信の防戦で失敗。文亀2年(1502年)、永正2年(1505年)にも高清を攻撃したが失敗、同年に高清と和睦したが、永正4年に高清に自殺させられた。

見る 侍所と京極材宗

京極氏

京極氏(きょうごくし)は、武家・華族だった日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の一流で高氏の代に室町幕府創立に功をあげて近江国など五カ国の守護となり、子孫は四職家の一つとして権勢をふるう。応仁の乱後衰退したが、高次が豊臣秀吉に仕えて再興。江戸時代にも複数の藩の外様大名家として残り、維新後大名だった4家の京極家が華族の子爵家に列する。

見る 侍所と京極氏

京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上・中務少輔、大膳大夫。

見る 侍所と京極持清

二階堂行村

二階堂 行村(にかいどう ゆきむら)は、平安時代後期から鎌倉時代中期にかけての武士。鎌倉幕府評定衆。

見る 侍所と二階堂行村

二月騒動

二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で名越流北条氏の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。 北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。

見る 侍所と二月騒動

広沢実高

広沢 実高(ひろさわ さねたか)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士。

見る 侍所と広沢実高

広沢義実

広沢 義実(ひろさわ よしざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称を広沢判官代といい、矢田義実、足利義実とも記される。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)、荒川氏の祖。

見る 侍所と広沢義実

今川仲秋

今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。

見る 侍所と今川仲秋

今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。

見る 侍所と今川貞世

今川氏

今川氏(いまがわうじ、いまがわし)は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏足利氏の支流。嫡流は、室町時代に駿河国・遠江国の守護大名となり、戦国時代に駿河・遠江国を支配する戦国大名に転化することに成功し、今川義元の代に三河国も支配して東海地方最大の戦国大名となったが、1560年の桶狭間の戦いで義元が敗死し、以降徳川氏・武田氏・後北条氏などの侵略を受けて衰退した。江戸時代には子孫が高家としてわずかに家名を残し、維新後士族となるも1887年に嫡流は絶家となった。

見る 侍所と今川氏

今川泰範

今川 泰範(いまがわ やすのり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。駿河今川氏の第3代当主。今川範氏の次男。

見る 侍所と今川泰範

仁田忠常

仁田 忠常(にった ただつね、仁安2年4月10日〈1167年5月7日〉- 建仁3年9月6日〈1203年10月12日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は四郎。苗字は新田あるいは日田とも言われ、『平家物語』では「にたんのただつね」と表記されている。

見る 侍所と仁田忠常

仁木義長

仁木 義長(にき よしなが、正安2年(1300年)? - 天授2年/永和2年9月10日(1376年10月23日))は、室町時代前期(南北朝時代)の武将。通称は仁木次郎四郎。越後守、右馬権頭、修理亮、右馬助、右京大夫。父は仁木義勝。子は仁木義員、仁木満長。兄に仁木頼章がいる。

見る 侍所と仁木義長

仁木頼章

仁木 頼章(にき よりあき)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将で、室町幕府初代将軍足利尊氏の執事。左京大夫。

見る 侍所と仁木頼章

仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。

見る 侍所と仁木氏

伊勢神宮禰宜職相論

伊勢神宮禰宜職相論(いせじんぐうねぎしきそうろん)は、元亀2年(1571年)に伊勢神宮の禰宜人事を巡って発生した訴訟。この訴訟に巻き込まれた室町幕府の政所執事である摂津晴門は、失脚することになった。

見る 侍所と伊勢神宮禰宜職相論

伊勢盛定

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、伊勢宗瑞(盛時)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。 長年、伊勢宗瑞の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究では盛定の子で室町幕府の幕臣であったことが定説化している。その研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。

見る 侍所と伊勢盛定

佐久間氏

佐久間氏(さくまし)は、桓武平氏、三浦氏の流れをくむ日本の氏族。家紋は丸の内に三引両。三浦義明の孫・佐久間家村を祖とする。

見る 侍所と佐久間氏

佐々木秀綱

佐々木 秀綱(ささき ひでつな)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、上総国守護。

見る 侍所と佐々木秀綱

佐々木高秀

佐々木 高秀(ささき たかひで)/京極 高秀(きょうごく たかひで)は、南北朝時代(室町時代初期)の守護大名。室町幕府評定衆、侍所所司、出雲国・飛騨国・隠岐国守護。

見る 侍所と佐々木高秀

御内人

御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。 御内人の多くは御家人を兼ねており、工藤氏・安東氏・諏訪氏・長崎氏・尾藤氏といった、幕政にも地位を得た著名な御内人は、みな御家人である。よって、辞書などではしばしば、「御内人は陪臣のため、身分が低かった」と記されているが、これは誤りである。

見る 侍所と御内人

御料所

御料所(ごりょうしょ)は、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。家臣に与えられた所領(知行地)に対する概念でもある。 なお、『日葡辞書』においては、「王位に付属する領地、すなわち、国王の私有の領地や土地」と定義している。

見る 侍所と御料所

得宗専制

得宗専制(とくしゅうせんせい/とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。

見る 侍所と得宗専制

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争い合う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。 明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 11年に渡る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。

見る 侍所と応仁の乱

土屋宗遠

土屋 宗遠(つちや むねとお)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の相模国土屋の武将。中村宗平の三男。土肥実平の弟。桓武平氏系土屋氏の創祖。

見る 侍所と土屋宗遠

土岐康行

土岐 康行(とき やすゆき)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・伊勢守護。土岐頼康の弟・頼雄の子。弟に満貞。子に康政、娘(土岐詮直室)。孫に康政の子の持頼と満康の子の持康がいる。

見る 侍所と土岐康行

土岐頼康

土岐 頼康(とき よりやす)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・尾張・伊勢守護。土岐氏の一族土岐頼清(頼宗)の長男で土岐頼貞の孫。明智頼兼、頼雄、康貞、直氏、頼忠の兄。子に娘(二条良基室)。養子に康行。

見る 侍所と土岐頼康

土岐頼益

土岐 頼益(とき よります)は、南北朝時代から室町時代の武将。室町幕府侍所頭人、美濃守護。土岐頼忠の次男。子に持益。通称は池田次郎。官位は美濃守、左京大夫。

見る 侍所と土岐頼益

土岐氏

土岐氏(ときし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏頼光流多田源氏の一流で平安時代末期に美濃国土岐郡に土着して土岐氏と称した。南北朝時代に足利氏に従って美濃国守護として繁栄したが、戦国時代の1552年(天文21年)に土岐頼芸が斎藤道三に追われて嫡流は衰退。土岐氏の支流のひとつ明智氏出身の土岐定政が徳川氏の下で大名に出世し、江戸時代には上野国沼田藩3万石の譜代大名として存続し、維新後には子爵家に列した。

見る 侍所と土岐氏

土岐満貞

土岐 満貞(とき みつさだ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、尾張守護。島田氏の祖。戦国時代に遠江などに所領を持ち、今川氏や徳川氏に仕えた菅沼氏一族は満貞の後裔とも伝えられる(藤原北家伊周流とする大森氏族などの異説あり)。

見る 侍所と土岐満貞

土岐持益 (守護)

土岐 持益(とき もちます)は、室町時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃守護。土岐頼益の子。子に持兼。「持」の字は将軍・足利義持からの偏諱。養子に成頼。通称は池田二郎。官職は美濃守、左京大夫。

見る 侍所と土岐持益 (守護)

地奉行

地奉行(じぶぎょう)とは、鎌倉幕府・室町幕府によって設置された奉行。それぞれの本拠地であった鎌倉・京都の屋地に関する行政・裁判を行う。江戸幕府によってその本拠地であった江戸の屋地に関する行政・裁判を行った町奉行と同様の役割を果たしていた。 鎌倉幕府の地奉行は、下部の役職である保奉行人とともに北条泰時によって整備されたと考えられている。侍所の管轄下に属し、侍所とともに鎌倉の行政と治安維持にあたっていたが、実際には奉行のうち最低1名は御内人から選ばれており、得宗及び執権による支配が鎌倉市中にまで浸透していたと考えられている。 室町幕府の地奉行は、地方頭人(じかたとうにん)と呼ばれて下に開闔・寄人などの地方役人が置かれていた。侍所とともに京都の行政と治安維持にあたっていたが、実際には朝廷の検非違使と権限が重複したため、度々衝突した。だが、足利義満の時代に室町幕府が京都市中の支配権を完全に掌握すると、検非違使は事実上廃止されて地奉行に権限が一本化された。

見る 侍所と地奉行

地方 (職制)

地方(じかた)とは、室町幕府に置かれていた機関の一つで、京都市中の屋敷地の安堵・訴訟・打渡などを土地に関する行政を扱った。 鎌倉幕府には地奉行(じぶぎょう)と呼ばれる役職があり、幕府の本拠地である鎌倉市中の土地に関する行政を取り扱った。当初は政所の職員2名が担当していたが、得宗専制期に入ると1名は得宗被官(御内人)に割り当てられ、得宗の幕府権力掌握の一翼を担った。室町幕府の地方はこの地奉行の系譜に属すると考えられている(地方頭人は「地奉行」とも呼ばれた)が、政所や侍所から自立した機関と位置づけられた。 室町幕府の地方は南北朝時代の文和年間には既に存在しており、1380年代に入って朝廷が平安時代以来置いていた検非違使庁の機能を吸収して京都市中の屋敷地に関する訴訟を全面的に扱うようになった。

見る 侍所と地方 (職制)

北条宗方

北条 宗方(ほうじょう むねかた)は鎌倉時代後期の北条氏の一門。長門探題・北条宗頼の次男。鎌倉幕府8代執権北条時宗の甥にあたり、その猶子となる。

見る 侍所と北条宗方

北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) - 元仁元年(1224年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。 建保7年(1219年)に鎌倉幕府の源氏将軍が断絶した後、幕府の実質的な指導者となる。幕府と朝廷の対立が激化し、後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布されると朝敵となるが、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇(太上天皇)を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)を廃した(承久の乱)。

見る 侍所と北条義時

北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男で、鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。御成敗式目を制定した人物である。

見る 侍所と北条泰時

北条政村

北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。 幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。

見る 侍所と北条政村

北条時茂 (宗政流)

北条 時茂(ほうじょう ときもち)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。

見る 侍所と北条時茂 (宗政流)

北条時村 (政村流)

北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門で、鎌倉幕府第9代連署(在職:正安3年(1301年)8月23日 - 嘉元3年(1305年)4月23日)。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。

見る 侍所と北条時村 (政村流)

北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政(たいらの ときまさ))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将。鎌倉幕府初代執権。北条氏の一門。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時兼の子。北条政子、北条義時の父。得宗家初代当主。 家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある。

見る 侍所と北条時政

別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。

見る 侍所と別当

刈田狼藉

刈田狼藉(かりたろうぜき、かったろうぜき)は、中世日本において土地の知行権などを主張するために田の稲を刈り取った実力行使をいう。苅田狼藉とも。

見る 侍所と刈田狼藉

嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。 軍記物語『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。

見る 侍所と嘉吉の乱

和田義盛

和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての有力御家人・武将。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。

見る 侍所と和田義盛

和田氏

和田氏(わだし)は、日本の氏族。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の庶流。

見る 侍所と和田氏

問注所

問注所(もんちゅうじょ、もんぢゅうしょ)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府に設置された訴訟事務を所管する機関である。 「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである。

見る 侍所と問注所

公人 (役職)

公人(くにん)は、中世日本において「公」の要素を有した組織の末端に属した下級職員。

見る 侍所と公人 (役職)

元湯・陣屋

元湯・陣屋(もとゆ・じんや)は、神奈川県秦野市の鶴巻温泉にある旅館。陣屋旅館(じんやりょかん)の通称で知られている。 以下、本記事では「陣屋」と表記する。

見る 侍所と元湯・陣屋

四職

四職(ししき/ししょく)は、室町時代の武家の家格。

見る 侍所と四職

管領

管領(かんれい)は、室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。また、幕臣の筆頭として、足利将軍家における重要な儀式(元服・就任・任官関係)に参列して行事を執り行った。足利氏家宰である執事の後継である。管領職に就任することができる家格である三管領家(さんかんれいけ)についても本項で解説を行う。

見る 侍所と管領

織田敏定

織田 敏定(おだ としさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾張国下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されており、真偽は不明。

見る 侍所と織田敏定

義経 (NHK大河ドラマ)

『義経』(よしつね)は、2005年1月9日から12月11日に放送された44作目のNHK大河ドラマ。原作は宮尾登美子で、脚本は金子成人が手掛けた。主演は滝沢秀明。

見る 侍所と義経 (NHK大河ドラマ)

畠山基国

畠山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府の6代管領。家系は足利氏一門の畠山氏。基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となったことから、畠山氏の中興の祖と言われている。 侍所頭人、引付頭人、越前国・越中国・河内国・能登国・紀伊国・山城国守護などを歴任した。通称は三郎。官途は右衛門佐(『続群書類従』では、左衛門佐)、右衛門督。法名は徳元。

見る 侍所と畠山基国

畠山重忠

畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。

見る 侍所と畠山重忠

目付

目付(めつけ)・目付役(めつけやく)とは、日本史において監察を務める役を指す。

見る 侍所と目付

相伴衆

相伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった(ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)。

見る 侍所と相伴衆

相模国

相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の神奈川県にあたる。

見る 侍所と相模国

鎮西奉行

鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府成立期において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。

見る 侍所と鎮西奉行

鎌倉

鶴岡八幡宮 鎌倉大仏(高徳院 阿弥陀如来像) 鎌倉(かまくら)は、三浦半島西岸の地名であり精選版 日本国語大辞典 「鎌倉」、同半島の基部にあたり、相模湾に面している旺文社日本史事典 三訂版 【鎌倉】。 平安時代に河内源氏のゆかりの地となり、源頼朝が1180年(治承4年)に当地に根拠地を置き、後年ここで鎌倉幕府を開いて1185年(文治元年)、1192年(建久3年)説など複数の見解がある。、政治の中心地となった。しかし、室町時代末期には衰退した。 現在も長谷の大仏、鶴岡八幡宮、鎌倉五山など史跡や寺社が多く残っている。また高級住宅地として有名。観光地・行楽地としても知られ、その海岸(由比ヶ浜および材木座海岸)は有名な海水浴場でもある。

見る 侍所と鎌倉

鎌倉将軍府

鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)は、1333年に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、関東統治機関である。建武政権からは距離を置いていた足利氏が取り仕切っていた。室町幕府の関東統治機関である鎌倉府の前身である。

見る 侍所と鎌倉将軍府

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

見る 侍所と鎌倉幕府

鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、南北朝時代、京都に成立した室町幕府が前代鎌倉幕府の本拠地の鎌倉及びその地盤であった関東10か国を掌握するために設置した機関である。貞和5年(1349年)から室町時代中期の享徳4年(1455年)まで、約100年間存続した。初代将軍足利尊氏の次子基氏とその子孫が長を世襲し、鎌倉公方と呼ばれる。これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。その他に評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を有していた。

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鎌倉殿の13人

『鎌倉殿の13人』(かまくらどのの13にん)は、2022年(令和4年)1月9日から12月18日まで放送されたNHK大河ドラマ第61作。鎌倉幕府の二代執権となった北条義時を主人公に、平安末期から鎌倉初期を描く。

見る 侍所と鎌倉殿の13人

鎌倉文化

運慶作「世親像」 「六道絵」(聖衆来迎寺蔵) 鎌倉文化(かまくらぶんか)は、鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権が東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。

見る 侍所と鎌倉文化

鎌倉時代

蒙古襲来絵詞 鎌倉時代(かまくらじだい、、12世紀末 - 正慶2年/元弘3年〈1333年〉)は、幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた約一世紀半の時代を指す日本の歴史の時代区分である。鎌倉時代は、京都の朝廷と並んで相模国鎌倉に置かれた鎌倉幕府が全国統治の中心となり、日本史上で本格的な武家政権による統治が初めて行われた時代である。鎌倉時代には、二度の元寇(蒙古襲来)という未曾有の国難のほか、地震、飢饉、疫病が多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われ、仏教(鎌倉仏教)が広く庶民と武家にまで広まった。 始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照。)。

見る 侍所と鎌倉時代

職事

職事(しきじ)とは、律令制における特定の官人集団を指して用いた呼称。本来は一定の執掌を指し、転じてその執掌を持つ官人のことをも指すようになって職事官(しきじかん)とも呼ばれるようになった。

見る 侍所と職事

草燃える

『草燃える』(くさもえる)は、1979年(昭和54年)1月7日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマの第17作。永井路子の『北条政子』『炎環』『つわものの賦』『相模のもののふたち』『絵巻』などの小説や随筆を原作に、源氏3代による鎌倉幕府樹立を中心とした東国武士団の興亡を描いた。

見る 侍所と草燃える

菊池武時

菊池 武時(きくち たけとき)は、鎌倉時代末期の武将。菊池氏の第12代当主。菊池隆盛の次男。第10代当主・菊池武房の孫で、第11代当主・菊池時隆の弟にあたる。

見る 侍所と菊池武時

頭人

頭人(とうにん)とは、鎌倉幕府・室町幕府における職名「頭人」『国史大辞典』「頭人」『日本史大事典』。 鎌倉時代中期に設置された引付方においては、3つもしくは5つの「方」と呼ばれる部局が設けられ、それぞれの「方」の長を頭人と呼んだ。頭人はそれぞれの方に属する引付衆や奉行人を指揮して訴訟を進行した。一方、既存の幕府の機関では別当ー執事ー所司といった指揮系統が存在していたが、北条氏の得宗が侍所を掌握するため、別当を執権が兼ね、側近や御内人を頭人としてその下に置くことで御家人の統制を行った。 室町幕府には別当職が置かれなかったため、侍所は頭人(所司)が長官となり、政所・問注所でも頭人(執事)が長官を務めた。また、室町幕府において新設された機関は「方」と称されて、頭人がその長官として設けられるようになっていく。例えば、僧侶を監督する禅律方、京都の土地を管轄する地方、伊勢神宮の修繕を管轄する神宮方、そして庭中方・越訴方・内奏方・仁政方などの各種訴訟機関がこれにあたり、いずれも頭人が長官となった。

見る 侍所と頭人

飯沼資宗

飯沼 資宗(いいぬま すけむね)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府第9代執権北条貞時の執事(内管領)として、絶大な権勢を振るった平頼綱の次男。諱は助宗とも。御内人で国司(安房守)に任命されるケースは稀である。

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骨皮道賢

骨皮 道賢(ほねかわ どうけん、生年不詳 - 応仁2年3月21日(1468年4月13日))は、室町時代の傭兵、足軽大将。

見る 侍所と骨皮道賢

諏訪直性

諏訪 直性(すわ じきしょう)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。同一人物とされる諏訪宗経(すわ むねつね)についても本項にて取り上げる。

見る 侍所と諏訪直性

高師直

高 師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に側近として仕えた武将、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階 師直(たかしな の もろなお)。 高師重の子、兄弟に師泰・重茂、子に師夏・師詮ら。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事(家宰)、建武政権雑訴決断所三番奉行人・武者所および窪所寄人、北朝武蔵守、室町幕府初代および第三代執事(室町幕府管領の前身)・上総国守護・武蔵国守護・引付頭人。通称の「高」は、本姓で氏(うじ)の「高階」ないし氏姓「高階朝臣」の略記であり、領地に基づく家名である名字を持たなかった珍しい武家である。文化人・風流人でもあり、ばさら大名のひとりとしても知られる。

見る 侍所と高師直

高師泰

高 師泰(こう の もろやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚。室町幕府執事高師直の兄弟(『高階系図』では師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。兄弟の師直同様に優れた武将であり、また幕閣としても侍所頭人・引付頭人などの要職を歴任。しかし、足利氏の内紛である観応の擾乱で将軍弟の足利直義に敗北し、師直と共に滅んだ。

見る 侍所と高師泰

賦 (訴訟)

賦(くばり)とは、中世日本(鎌倉・室町両幕府)において行われた訴訟手続の過程の1つ。この手続を扱う機関や担当者(賦奉行)などを指す場合もある。

見る 侍所と賦 (訴訟)

賦奉行

賦奉行(くばりぶぎょう)とは、鎌倉幕府・室町幕府において訴状の受付と担当する法廷を決定する賦を担当する奉行。賦方(くばりかた)とも。 鎌倉幕府では問注所、室町幕府では管領もしくは評定衆の下に置かれていた。また、鎌倉期の六波羅探題においても独立した職として評定衆級の御家人が任命されていた。『沙汰未練書』によれば、鎌倉幕府の賦奉行は訴状の受理、控への記入、訴状への加銘、引付への送付などを行った。引付の制度が形骸化した室町幕府では代わりに決定した個々の担当奉行人に送付した。具体的には賦奉行は訴状が形式・実質を伴っているかどうかを確認し、賦引付などの控を作成した後に訴状の裏に受理の年月日と訴訟の編目を記入して担当に送付したのである。

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越中公方

越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。

見る 侍所と越中公方

阿波局 (北条時政の娘)

阿波局(あわのつぼね、? - 嘉禄3年11月4日(1227年12月13日))は、鎌倉時代初期の北条氏の女性。初代執権北条時政の娘。本名は不明。 母は未詳。源頼朝室である北条政子・北条宗時・北条義時らの姉妹。義兄・頼朝の異母弟である阿野全成に嫁ぎ、時元と阿野公佐室をもうける。『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日条には全成の「妻室」とあるが、建仁3年(1203年)5月20日条には全成の「妾」と記されている。 なお、北条泰時の母で義時の妾とされる人物も同じく「阿波局」と呼ばれるが、別人である。

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赤松則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。

見る 侍所と赤松則村

赤松義則

赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名。赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。

見る 侍所と赤松義則

赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。

見る 侍所と赤松満祐

赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。

見る 侍所と赤松政則

開闔

開闔(かいこう)とは、平安時代以後に公武の機関に設置された役職の1つ。書類・文書の出納・勘査を行うことを職掌としていた。機関内部においてはおおよそ中級の地位にあったが、事務・実務部門における事実上の責任者の地位にあった。 平安時代の朝廷には和歌所や御書所、記録所などに設置され、院庁や摂関家の文殿にも設置されていた。鎌倉幕府の引付には奉行人の上首が開闔となり、議事進行の実務を行った。この制度は室町幕府の内談衆にも継承され、侍所などにも設置された。なお、政所においては特に「執事代」と称されていた。室町幕府の後期には侍所開闔は松田氏と飯尾氏が、政所執事代は蜷川氏(政所執事伊勢氏の被官)が占めるようになった。また、神宮方など室町幕府の他の機関にも設置が確認される。

見る 侍所と開闔

藤原実資

藤原 実資(ふじわら の さねすけ、天徳元年〈957年〉 - 永承元年〈1046年〉)は、平安時代の公卿。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の四男。 藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。

見る 侍所と藤原実資

藤原忠清

藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は、平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。

見る 侍所と藤原忠清

葦屋浦の戦い

葦屋浦の戦い(あしやうらのたたかい)は、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦2年/寿永4年(1185年)2月1日、源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。

見る 侍所と葦屋浦の戦い

蓮田兵衛

蓮田 兵衛(はすだ ひょうえ)は、室町時代中期の土豪。寛正の土一揆の首魁。室町期に発生した徳政一揆の指導者として、最も早くに名が知られる人物である。

見る 侍所と蓮田兵衛

蔵人

蔵人(くろうど、)は、日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。

見る 侍所と蔵人

野庭町

野庭町(のばちょう)は、神奈川県横浜市港南区の町名。丁番を持たない単独町名である。住居表示未実施。

見る 侍所と野庭町

野庭関城

野庭関城(のばのせきじょう/のばのせきしろ)は、神奈川県横浜市港南区野庭町にあったと伝わる日本の城。

見る 侍所と野庭関城

金窪行親

金窪 行親(かなくぼ ゆきちか)は、鎌倉時代前期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。北条義時・泰時の代に侍所所司を務めて幕政に携わった。

見る 侍所と金窪行親

長崎円喜

長崎 円喜(ながさき えんき)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。鎌倉幕府の侍所所司で北条氏得宗家被官である御内人・内管領。長崎氏の一族。父は長崎光綱。円喜(圓喜・円基)は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。 『太平記』や『保暦間記』において、嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている。

見る 侍所と長崎円喜

長崎光綱

長崎 光綱(ながさき みつつな)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士。北条氏得宗被官である御内人・内管領。『太平記』などで知られる長崎円喜の父。

見る 侍所と長崎光綱

長崎高貞

長崎 高貞(ながさき たかさだ)は、鎌倉時代後期の武将。執権北条氏の家臣。鎌倉時代後期から末期にかけて北条得宗家の内管領として権力を振るった長崎円喜の子で、長崎高資の弟。通称は四郎左衛門(尉)。諱の「高」の字は主君である北条高時の偏諱とみられる。

見る 侍所と長崎高貞

長崎氏

長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代の北条氏得宗家の御内人であり、鎌倉幕府の御家人。桓武平氏と称して、得宗被官である同族とされる平氏についてもこの項で扱う。

見る 侍所と長崎氏

若狭島津氏

若狭島津氏(わかさしまづし)は、若狭国に興った氏族で、薩摩の島津忠久の弟より始まる。堤氏・津々見氏または三方氏ともいう。

見る 侍所と若狭島津氏

逢坂関

逢坂関(おうさかのせき、歴史的仮名遣:あふさかのせき)は、山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。 東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、弘仁元年(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安時代前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。

見る 侍所と逢坂関

松田元陸

松田 元陸(まつだ もとみち)は、戦国時代の武将。元隆とも呼ばれる事が多いが復元された系図により元陸という名であった事が判明した。

見る 侍所と松田元陸

松田氏

松田氏(まつだし)は、相模国足柄に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族、並びにそれから派生したと見られる室町時代に備前国西部一帯に勢を張った家系、室町時代に奉行衆として仕えた丹後を拠点とする桓武平氏流の一族が知られている。 相模松田家本家は、小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられ、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった。 東叡大王(三山管領宮)に代々仕える。墓所は毘沙門堂門跡輪王寺宮墓所下。 鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。

見る 侍所と松田氏

杉本義宗

杉本 義宗(すぎもと よしむね)は、平安時代後期の武将。三浦義明の嫡男。杉本氏、和田氏の祖。子に鎌倉幕府の侍所別当となった和田義盛。

見る 侍所と杉本義宗

杉本氏

杉本氏(すぎもとし)は日本の氏族のひとつ。全国的に見られる姓であるが、山城、河内、加賀、越中、越後、信濃、相模、美作などに多い。

見る 侍所と杉本氏

梶原景季

梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。武勇と教養に優れており、父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。

見る 侍所と梶原景季

梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。

見る 侍所と梶原景時

梶原景時の変

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

見る 侍所と梶原景時の変

検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役人。「(不法・違法など)非違を検察する(天皇の)使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。平安時代初期に発足した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。

見る 侍所と検非違使

検断

検断(けんだん)とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕(逮捕)、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫したプロセスを指す。 元は、「検察」と「断獄」を合わせた語で、非違(不法行為)を検察してその不法を糾弾するなどして断獄(罪を裁くこと)を行うことを意味している。 検断を行う権限を検断権(けんだんけん)、検断権に基づく訴訟を検断沙汰(けんだんさた)、検断権を行使する職を検断職(けんだんしき)、検断権の公使の結果没収された財物を検断物(けんだんぶつ)と称する。更に中世後期に入ると検断権を持つ者あるいはその使節として検断の実務を行う者を指して、“検断”と称する事例(『日葡辞書』には“検断”を「統治をし、裁判をする職」と定義されている)も現れ、その名残として江戸時代には村役人を検断もしくは検断肝煎と称した地域もあった。

見る 侍所と検断

検断沙汰

検断沙汰(けんだんさた)とは、中世日本で使用された用語であり、刑事関係の訴訟・裁判のことである。

見る 侍所と検断沙汰

横山時兼

横山 時兼(よこやま ときかね、仁平3年(1153年) - 建暦3年5月4日(1213年5月25日))は、平安時代末期、鎌倉時代前期の横山氏の武将。横山氏は元は小野姓だったため、小野 時兼とも言う。

見る 侍所と横山時兼

正中の変

正中の変(しょうちゅうのへん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月19日(1324年10月7日)に、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。通説では「後醍醐天皇が首謀者であることは幕府側の誰にも明らかであったが、幕府は天皇との対立を避けてうやむやにしてしまった」とされるが、異説も存在する(後述)。4か月に及ぶ幕府の調査の結果、後醍醐と俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けた。しかし、資朝は有罪ともいえないが疑惑が完全には晴れないので無罪ともいえない、として曖昧な理由のまま佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となった。この事件の7年後に元弘の乱が勃発し、9年後に幕府が滅亡することになる。

見る 侍所と正中の変

正長の土一揆

正長の土一揆(しょうちょうのどいっき/つちいっき)は、室町時代中期の正長元年(1428年)8月から9月に起きた土一揆。正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)とも呼ばれる。初めての徳政一揆でもある。

見る 侍所と正長の土一揆

武士団

『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ」 武士団(ぶしだん)とは、武士の組織集団を指し、日本の中世における集団形態を指す。主君の宗家を頂点とした家族共同体(家産官僚制・官司請負制)である。武家の棟梁が最頂点に位置する。 日本中世史における学術用語として1930年代から使われ始めた。

見る 侍所と武士団

比企能員の変

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって粛清、族滅された。比企能員の乱、比企氏の乱、小御所合戦とも。

見る 侍所と比企能員の変

永正

は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。

見る 侍所と永正

河村秀高

河村 秀高(かわむら ひでたか)は、平安時代後期の武士。河村氏の祖。

見る 侍所と河村秀高

治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている。

見る 侍所と治承・寿永の乱

沙汰始

沙汰始(さたはじめ)とは、室町幕府において将軍や管領、各機関で行われた政務(沙汰)開始のための儀式。

見る 侍所と沙汰始

源季広

源 季広(みなもと の すえひろ)は、平安時代後期の貴族・歌人。醍醐源氏、源季兼の子。官位は正五位下・下野守。

見る 侍所と源季広

源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍(鎌倉殿) 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は初め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。 朝廷に重んじられ官位の昇進も早く、若くして公卿に補任され、武士として初めて右大臣(但し太政大臣には平清盛が任ぜられていた)に任ぜられた。しかし、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。

見る 侍所と源実朝

源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現・埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。

見る 侍所と源範頼

源義経

徳島県小松島市の旗山にある日本最大の騎馬像。 源 義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。

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源頼家

鶴岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で、母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。

見る 侍所と源頼家

源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ)。

見る 侍所と源頼清

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。

見る 侍所と源頼朝

源明国

源 明国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の武将。三河守・源頼綱の長男。初名は行光。官位は従四位下、下野守。「多田」を号したことから多田明国(ただ の あきくに)とも記される。

見る 侍所と源明国

滋賀県出身の人物一覧

滋賀県出身の人物一覧(しがけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する滋賀県出身の人物の一覧表である。旧近江国の出身者も合わせて記述する。1876年から1881年までの間、滋賀県であった旧若狭国および旧越前国敦賀郡(嶺南)の出身者に関しては、「:Category:福井県出身の人物」、「福井県出身の人物一覧」を参照。

見る 侍所と滋賀県出身の人物一覧

昇殿

昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。 昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。

見る 侍所と昇殿

浦上則宗

浦上 則宗(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。赤松政則の家臣。

見る 侍所と浦上則宗

浦上則景

浦上 則景(うらがみ のりかげ)は、室町時代後期の武将。赤松氏の家臣。

見る 侍所と浦上則景

浦上氏

紀姓浦上氏(うらがみし、うらかみし)は、武内宿禰系紀氏を本姓とする日本の氏族。

見る 侍所と浦上氏

浅井三姉妹

北ノ庄城址(柴田神社)に立つ「三姉妹像」。浅井三姉妹を象ったもの(向かって左より茶々、江、初)。 浅井三姉妹(あざいさんしまい)は、戦国時代の武将浅井長政と正室市との間に生まれた3人の娘、茶々、初、江を指す。それぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。天下統一を進めた織田信長の姪という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落や落城、両親の死を経験し、その後天下をめぐる豊臣家(羽柴家)と徳川家の天下の覇権争いに深く関わったことから、母・市と並んで戦国の女性の代名詞として語られることが多い。

見る 侍所と浅井三姉妹

斯波義種

斯波 義種(しば よしたね)は南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所頭人、侍所頭人、加賀・越前・若狭・信濃・山城守護。斯波高経の5男。家長、氏経、氏頼、義将の弟。子に満種、満理。 観応3年/正平7年(1352年)、足利一門の有力者である斯波高経の5男として生まれる。高経には多数の子息がいたが、とりわけ4男義将と同母の5男義種は父の偏愛を受け、康安2年/正平17年(1362年)に従五位下民部少輔となり、翌年には小侍所、さらに翌年には侍所頭人兼山城守護になるなど優遇された。 しかし貞治5年/正平21年(1366年)8月の貞治の変によって父が失脚すると父や兄に従って都を去る。やがて父が没すると、兄と共に赦免され幕府に帰参した。その後官位は伊予守、修理大夫と進み、信濃や加賀の守護職に任じられるなど有力な守護大名となった。

見る 侍所と斯波義種

斯波義高

斯波 義高(しば よしたか、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。官職は左近将監。越前守護や九州探題を歴任した斯波氏経の嫡男。祖父は足利氏一門の実力者である斯波高経で、管領として著名な斯波義将は叔父にあたる。後に諱を詮将に改名する(「詮」の字は将軍足利義詮、「将」の字は叔父・義将よりそれぞれ偏諱を賜ったものとみられる)。 正平17年/康安2年(1362年)に祖父高経が室町幕府の実権を掌握すると、叔父の義将・義種はそれぞれ幕府執事(管領)、侍所頭人となり、義高も引付衆頭人に据えられた。しかし父が九州攻略に失敗して九州探題職を退くと高経政権は動揺、やがて京極高氏らの讒言もあって、高経をはじめとする斯波一門は失脚して越前へと去った。この時に義高も越前落ちに同行したとされる。以降の義高の動向は定かではないが、後の名である『詮将』が伯父斯波家長の系統である高水寺斯波家(奥州斯波氏)の3代当主・斯波詮将と同じであるため、この両者を同一人物と見なす説もある。

見る 侍所と斯波義高

斯波高経

斯波 高経(しば たかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏(足利尾張守家)4代当主。なお、高経自身はその存命中に斯波姓を自称したことも他称されたことも無く、足利氏の別家(足利尾張守家)当主として終生足利の名字で呼称されたため、現在も足利 高経(あしかが たかつね)と呼ばれることも多い。また、藤島の戦いで新田義貞を討ち取る功を挙げた。

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斯波氏

斯波氏(しばうじ、しばし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、尾張の織田氏に擁されるも戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した。明治になると斯波氏の末裔と称する加賀藩士の津田氏が斯波に改姓して男爵に叙された。

見る 侍所と斯波氏

斯波満理

斯波 満理(しば みつさと)は室町時代前期の武将。大野満理とも称す。大野斯波氏の初代斯波義種の子で、母は土岐頼康の娘。異母兄に斯波満種。幕府管領の斯波義将は伯父。

見る 侍所と斯波満理

新田氏

新田氏(にったし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の一流河内源氏の源義家の孫新田義重を祖とする。上野国新田荘を本貫とした。鎌倉時代末の当主新田義貞は後醍醐天皇に従い鎌倉幕府倒幕に功績を上げ、南北朝時代にも南朝方武将として活躍したが、新田義興の死後には衰退。明治になると支流の岩松氏が新田の正統と認められて新田に改姓し、義貞の功により華族(男爵)に列せられた。

見る 侍所と新田氏

文和

文和 (ぶんな、ぶんわ、)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1356年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。

見る 侍所と文和

日野衆

日野衆(ひのしゅう)は、室町時代から戦国時代にかけて伯耆国の日野郡一帯を支配していた国人衆。主に日野山名氏、日野氏、進氏、原氏、蜂塚氏などの名が文献に見える。

見る 侍所と日野衆

日本の軍事史

日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、日本の軍事史について記述するものである。

見る 侍所と日本の軍事史

愛知県出身の人物一覧

愛知県出身の人物一覧(あいちけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する愛知県出身の人物の一覧表である。

見る 侍所と愛知県出身の人物一覧

所 (機関)

所(ところ)は、前近代の日本において、特定の機能を果たす場所・機関を指して称したもの。

見る 侍所と所 (機関)

所司代

所司代(しょしだい)とは、室町幕府の役職で、侍所を統率する所司(または頭人(とうにん))の代官で、後には転じて京都の治安を管轄する地位となった。 その最初は、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)に侍所頭人佐々木秀綱の家臣の若宮氏がその地位にあったことが知られている。開闔・寄人が幕府直臣の奉行衆から任じられて行政事務を担当したのに対して、所司代は頭人の重臣から任じられて将軍警固・京都市中での検断権行使・盗賊追捕などの武力行使の場面で活動した。 応仁の乱以後の混乱によって頭人が任じられなくなり侍所の機能が停止した後も、所司代は侍所とは無関係に京都市中の治安を担当する地位として存続し、三好政権の松永久秀、織田政権の村井貞勝、豊臣政権の浅野長政・前田玄以などがその任にあった。

見る 侍所と所司代

12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世音菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。

見る 侍所と12世紀

13世紀

チンギス・ハン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。

見る 侍所と13世紀

15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界に到達したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 太陽の石。1479年にアステカ帝国皇帝アシャヤカトルが現メキシコシティの中央広場の位置に奉献したもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。 後期ミシシッピ文化。北アメリカでは1450年代にはカホキア遺跡にみられる巨大建築物マウンドでの祭祀が停滞し、社会が大きく変容した。画像はこの時代に作られた中空土器の水差しで、神話上の水中豹を表している(アーカンソー州クロス郡出土)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子とされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 コンスタンティノポリスの陥落。オスマン帝国のメフメト2世の占領により、1000年以上続いてきた東ローマ帝国はここに滅亡した。画像はジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンの歴史画(トゥールーズのオーギュスタン美術館蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 Chronica Hungarorum』の挿絵に描かれた正義王。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。画像は15世紀に描かれたジャンヌの肖像のミニアチュール(フランス国立中央文書館蔵)。 Henry Payne (artist)の歴史画で、ヨーク公リチャードが白薔薇を、サマセット公エドムンドが赤薔薇を選んでいる(バーミンガム市美術館)。 Martin Le Francの長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 帝国都市ニュルンベルク。神聖ローマ皇帝の滞在地として、帝国議会の開催地として、宗教改革が起こるまで繁栄の時代が続いた。画像は1493年に出版されたハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』の挿絵に描かれた都市ニュルンベルクの眺望。 Nicolas Rolinはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 人文主義者たち。古典古代への憧れが人文主義を育み、数多くの学者や著作家を生み出した。画像はドメニコ・ギルランダイオの「神殿のザカリアス(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂壁画)」に描かれたマルシリオ・フィチーノら人文主義者たち。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 イサベルとアラゴン王フェルナンド)によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「グラナダ征服」(スペイン上院蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 Hang Tuahのブロンズ像。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 明の永楽帝。靖難の変により甥の建文帝から帝位を奪うと都を根拠地の北京に定めた。漠北への五度の親征や、宦官鄭和を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。 鄭和の南海大遠征。永楽帝は明の国威を示すため、大艦隊をインド洋沿岸に派遣した。画像はベンガルから朝貢されたキリンを描いた「瑞応麒麟図」。 故宮博物院蔵)。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北国立故宮博物院蔵)。 万国津梁の鐘。1458年に琉球王国の尚泰久王が鋳造させた釣鐘で、「舟楫を以て万国の津梁となす」と刻まれた銘文は海洋国家琉球の気概を示すものとして名高い。現在は沖縄県立博物館・美術館に展示されている。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 「万人恐怖」。籤引きにより六代将軍に選ばれた足利義教は強権的な政治を行い「万人恐怖」と恐懼された。しかしそれが仇となって赤松満祐による嘉吉の乱で非業の死を迎えることになる。画像は愛知県妙興寺にある将軍義教の肖像画。 文化を極めた。将軍義政が賞翫した蒐集品は「東山御物」として珍重されることになる。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 衣笠山山麓に創建したのが竜安寺である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。

見る 侍所と15世紀

侍所司、侍所別当 別名。

平安時代の人物一覧平盛綱 (三郎兵衛尉)平盛時 (御内人)平頼綱京都所司代京極高光京極高知京極高詮京極高清京極高数京極材宗京極氏京極持清二階堂行村二月騒動広沢実高広沢義実今川仲秋今川貞世今川氏今川泰範仁田忠常仁木義長仁木頼章仁木氏伊勢神宮禰宜職相論伊勢盛定佐久間氏佐々木秀綱佐々木高秀御内人御料所得宗専制応仁の乱土屋宗遠土岐康行土岐頼康土岐頼益土岐氏土岐満貞土岐持益 (守護)地奉行地方 (職制)北条宗方北条義時北条泰時北条政村北条時茂 (宗政流)北条時村 (政村流)北条時政別当刈田狼藉嘉吉の乱和田義盛和田氏問注所公人 (役職)元湯・陣屋四職管領織田敏定義経 (NHK大河ドラマ)畠山基国畠山重忠目付相伴衆相模国鎮西奉行鎌倉鎌倉将軍府鎌倉幕府鎌倉府鎌倉殿の13人鎌倉文化鎌倉時代職事草燃える菊池武時頭人飯沼資宗骨皮道賢諏訪直性高師直高師泰賦 (訴訟)賦奉行越中公方阿波局 (北条時政の娘)赤松則村赤松義則赤松満祐赤松政則開闔藤原実資藤原忠清葦屋浦の戦い蓮田兵衛蔵人野庭町野庭関城金窪行親長崎円喜長崎光綱長崎高貞長崎氏若狭島津氏逢坂関松田元陸松田氏杉本義宗杉本氏梶原景季梶原景時梶原景時の変検非違使検断検断沙汰横山時兼正中の変正長の土一揆武士団比企能員の変永正河村秀高治承・寿永の乱沙汰始源季広源実朝源範頼源義経源頼家源頼清源頼朝源明国滋賀県出身の人物一覧昇殿浦上則宗浦上則景浦上氏浅井三姉妹斯波義種斯波義高斯波高経斯波氏斯波満理新田氏文和日野衆日本の軍事史愛知県出身の人物一覧所 (機関)所司代12世紀13世紀15世紀