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今鏡

索引 今鏡

『今鏡』(いまかがみ)は、歴史物語。10巻。成立は平安時代末期であり、『今鏡』序文によれば、高倉天皇の嘉応2年(1170年)とされるが、それ以降とする説もある。作者は藤原為経(寂超)とするのがほぼ定説になっている。ほかに、中山忠親、源通親説もある。『今鏡』は『続世継』(しょくよつぎ)とも『小鏡』(こかがみ)とも呼ばれる。『続世継』は、『大鏡』の続きであるという意味で、『小鏡』とは、現在の歴史という意味である。『つくも髪の物語』ともいう。 いわゆる「四鏡」の成立順では2番目に位置する作品である。内容的には『大鏡』の延長線上に位置し、3番目に古い時代を扱う。なお、描く年代が4番目の『増鏡』との間には13年間の空白があり、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語『弥世継』(いやよつぎ、現存しない)がその時代を扱っていたためとされる。.

121 関係: てい子内親王史籍集覧堀河天皇増淵恒吉大鏡大江以言天文学史天文道官子内親王寂照寂超尚歯会崇徳天皇世継物語平安時代の人物一覧平松家平棟基平氏二条天皇弥世継徳大寺公能後三条天皇後一条天皇後白河天皇信西六代勝事記兵衛佐局国史大系四納言四鏡皇太子禎子内親王篤子内親王納殿紫式部紀家子統子内親王鎌倉文化鎌倉時代鏡 (曖昧さ回避)落胤行尊行慶覚行法親王覚法法親王語呂合わせ講談社学術文庫輔仁親王近衛大将関根正直...藤原定信藤原実家藤原実方藤原実政藤原家忠藤原宗輔藤原宗能藤原師家藤原師通藤原伊通藤原得子藤原俊忠藤原忠実藤原忠通藤原忻子藤原呈子藤原兼長藤原聖子藤原頼通藤原行成藤原顕季藤原顕綱藤原顕隆藤原親子藤原高光藤原能信藤原育子藤原重家 (左近衛少将)藤原正家藤原歓子藤原有国藤原成通藤原教長金子武雄 (1905年生)金葉和歌集院政期文化暲子内親王束帯松殿基房板橋倫行栄花物語橘俊綱歴史物語歴史書一覧水鏡池辺義象源師俊源師忠源師光源師時源俊房源信雅源光保源盛長源頼実源顕仲源顕国源雅定源雅実源氏物語源氏物語60巻説源成信源成雅月のゆくへ明雲日記日記の家日本の中古文学史慶滋保胤才葉抄怡子女王 インデックスを展開 (71 もっと) »

てい子内親王

媞子内親王(ていし(やすこ)ないしんのう、承保3年4月5日(1076年5月10日) - 嘉保3年8月7日(1096年8月27日))は、第72代白河天皇の第1皇女。母は中宮藤原賢子。伊勢斎宮、のち同母弟堀河天皇の准母・中宮。女院号は郁芳門院(いくほうもんいん)。.

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史籍集覧

『史籍集覧』(しせきしゅうらん)とは、岡崎藩の儒者近藤瓶城が編纂した江戸時代までの日本の国史の叢書。1881-1885年刊。1900-1903年の改定版では全465種1135巻。群書類従に漏れた諸書を通記、纂録、別記、雑類に分けて収録している。 戦国時代前後の合戦記が多く集められている点は特筆される。 臨川書店から復刻版が全33冊、1984年に刊行されている。近代デジタルライブラリーで閲覧可能な冊もある。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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増淵恒吉

増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月 - 1986年2月12日)は、日本の国語教育者、国文学者。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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大江以言

大江 以言(おおえ の もちとき、天暦9年(955年) - 寛弘7年7月24日(1010年9月5日))は、平安時代中期、一条朝の貴族・文人。大隅守・大江仲宣の子。子に成賢・公賢がいる。官位は従四位下・式部権大輔。.

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天文学史

天文学史(てんもんがくし、英語:history of astronomy)は、天文学の歴史についての事である。その歩みは人類の歴史とともにあったと言っても過言ではない。.

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天文道

天文道(てんもんどう)とは、天文現象の異常(天文異変/天変現象)を観測・記録し、その地上への影響について研究する古代の学問。陰陽寮で教えられていたものの一つ。今日で言う天文学に相当するが、内容的には占星術の色合いが強く、科学とは程遠いものであった。.

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官子内親王

官子内親王(かんし(きみこ/たかこ)ないしんのう、生没年不詳)は、平安時代後期の皇族。白河天皇第5皇女、母は源頼子(三河守・源頼綱の娘)。鳥羽天皇朝賀茂斎院。宮子とも表記する。 天仁元年(1108年)11月8日、内親王宣下を受け斎院に卜定。天仁2年(1109年)4月20日、御禊。保安4年(1123年)、鳥羽天皇の譲位に伴い退下。清和院斎院(または勢賀院斎院)と号した。 斎院退下後の消息は殆ど不明だが、『台記』によると久安2年(1146年)3月8日、前斎院官子内親王の東洞院第が落雷のため火事に見舞われたという記事がある(『本朝世紀』はこの時、内親王の従兄弟にあたる源経光が雷に打たれ死亡したと記す)。さらに『今鏡』第8巻では70歳を過ぎても健在であると述べられており、嘉応2年(1170年)頃には存命であったと見られる。.

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寂照

寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 長元7年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)。寂昭・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。.

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寂超

寂超(じゃくちょう)は、平安時代後期の僧侶・貴族・歌人。俗名は藤原 為経(ふじわら の ためつね)。藤原北家長良流、丹後守・藤原為忠の三男。.

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尚歯会

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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世継物語

世継物語(よつぎものがたり).

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平安時代の人物一覧

平安時代の人物一覧(へいあんじだいのじんぶついちらん) ここでは、平安時代の人物を集めた。.

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平松家

平松家(ひらまつけ)は、「日記之家」として知られる桓武平氏高棟王流の公家で、西洞院時慶の次男時庸を祖とする堂上家(名家・内々・新家)。江戸時代の家禄は200石。明治時代以降は子爵。.

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平棟基

平 棟基(たいら の むねもと、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の廷臣。桓武平氏高棟王流、右大弁・平棟範の子。官位は正五位下・木工頭。鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の外祖父。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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弥世継

『弥世継』(いやよつぎ)は、日本の高倉天皇・安徳天皇の2代の天皇の治世を扱った歴史物語(歴史書)であり、鎌倉時代初期に藤原隆信が書いたとされる。現存していない。 現在、「四鏡」と呼ばれている『水鏡』・『大鏡』・『今鏡』・『増鏡』(扱った時代順に配列)の中で、『今鏡』と『増鏡』の間に空白の年代があり、それが高倉・安徳両天皇の時代に合致する。この両天皇の時代を扱った「鏡物」と言われる歴史物語に該当したのが『弥世継』である(世継とは『大鏡』の異名であり、また『今鏡』も『続世継』という異名を持っている)。また、『今鏡』の著者と考えられている寂超は隆信の実父にあたる。 南北朝時代前期(14世紀中頃)に書かれたことがほぼ確実とされている『増鏡』の冒頭にも『増鏡』が『弥世継』の続きであることが明言されており、この時代には『弥世継』が存在していたことになる。また、江戸時代前期の国学者多田義俊が「十語五草」と呼んだ婦人の教養書一覧の中に「四鏡」や『枕草子』・『徒然草』とともに『弥世継』も挙げられていたことから、多田義俊が弥世継を読んでいた可能性もある。 だが、扱っていた時代が短く、かつ『平家物語』などの同時期を扱った物語などが多く存在したことやその後の戦乱の影響もあったためか、今日では現存しておらず「幻の歴史物語」となってしまった。.

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徳大寺公能

徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は平安時代後期の公卿。右大臣正二位右大将。大炊御門右大臣と号す。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の女。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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六代勝事記

『六代勝事記』(ろくだいしょうじき、ろくだいしょうしき とも)は、日本の鎌倉時代前期に書かれた編年体の歴史物語である。.

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兵衛佐局

兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。法印・信縁の女。源行宗(源基平の子、大僧正・行尊の兄)の養女。曽祖父は藤原経季。崇徳天皇の寵妃となり、重仁親王を産んだ。.

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国史大系

国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.

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四納言

四納言(しなごん)とは、平安時代中期一条天皇の時代に活躍した4人の公卿(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)の称。藤原斉信が大納言、他の3名が権大納言まで昇ったことからこの称がある。.

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四鏡

四鏡(しきょう)は平安時代後期から室町時代前期までに成立した「鏡物(かがみもの)」と呼ばれる『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』の4つの歴史物語(歴史書)。成立時期より前の時代の内容を扱っている。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

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篤子内親王

子内親王(とくしないしんのう、康平3年(1060年) - 永久2年10月1日(1114年10月30日))は、第71代後三条天皇の第4皇女。母は滋野井御息所藤原茂子(藤原能信養女)。同母兄に白河天皇。賀茂斎院、のち堀河天皇の皇后(中宮)。.

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納殿

納殿(おさめどの)とは、金銀・衣装・調度品など各種の品物を納めて置く場所。後世における納戸の元となった。 宮中においては、累代の御物は宜陽殿、恒例の御物は蔵人所・綾綺殿、紙と屏風は仁寿殿を納殿としていたことが『西宮記』(巻8・所々事)に記されている他、春興殿も納殿として用いられていたことが『日本後紀』(承和4年12月辛卯(2日)条)及び『三代実録』(元慶8年2月21日条)によって知られる。これらは天皇の家政機関であった蔵人所の管理下にあり、同所の蔵人・雑色らが管理にあたった。また、後涼殿にも納殿があったとされている。 また、公卿などの貴人の邸宅や寺院にも同様の施設があり、『今鏡』には藤原師実や源雅実の邸宅の納殿が登場し、『吾妻鏡』(安貞元年6月17日条)にも将軍の御所に納殿が造営された記事が存在している。更に『源氏物語』「須磨」にも光源氏の邸宅の納殿が登場している。 室町時代頃より「納戸」という呼び名が代わりに用いられるようになった。.

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紫式部

紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵) 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれ、1019年(寛仁3年)までは存命したことがわかっている上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK出版「100分de名著」ブックス 紫式部『源氏物語』P26(2015/12/25発行)。。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族ながら上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。1001年(長保3年)に結婚後3年程で夫が死去する。その後「源氏物語」を書き始め紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。 なお、「紫式部集」には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)。.

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紀家子

紀 家子(き の けし、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。鳥羽天皇の宮人。紀氏の出身で、父は石清水八幡宮別当光清。母は覚心(法眼)の女。歌人の小侍従は異母妹。 初め待賢門院藤原璋子(鳥羽天皇中宮)の女房で、美濃局と称した。やがて鳥羽天皇に寵愛されて道恵法親王・覚快法親王・阿夜御前の2皇子1皇女の母となった。その後、後宮を退いて中納言源師長の妻になったらしい。.

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統子内親王

統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の皇族。初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳朝賀茂斎院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院(じょうさいもんいん)。法名は金剛親・真如理。 大治元年(1126年)8月17日に内親王宣下があり、同年12月27日に着袴。間もなく斎院に卜定され、翌大治2年4月6日准三后に叙される。大治4年(1129年)4月19日、紫野院に入るが、長承元年(1132年)6月29日病をえたことにより退下した。 長承3年(1134年)6月16日、名を統子に改める。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇の准母として立后。翌保元4年2月13日に院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、母の待賢門院から相続していた仁和寺法金剛院で出家。寿永元年(1182年)7月8日には、没落した前摂政関白松殿基房の次男・藤原家房を猶子としている。 文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。.

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鎌倉文化

運慶作「世親像」 「六道絵」(聖衆来迎寺蔵) 鎌倉文化(かまくらぶんか)は、鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権が東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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鏡 (曖昧さ回避)

鏡(かがみ)は、.

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落胤

落胤(らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。 このような子は一般民衆に混じって生活している。当時の実力者によって、正当な血統を継承する者とされて権力に利用されることがあるが、歴史の表舞台に出てくる人物の多くがそのような確証に乏しく(さらには天一坊改行のように落胤を自称した例もある)、研究上疑問視されている例が多数みられる。.

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行尊

行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。.

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行慶

行慶(ぎょうけい、康和3年(1101年) - 永万元年7月16日(1165年8月24日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は白河天皇。母は備中守源政長の娘。狛僧正・桜井僧正とも称される。 出家して園城寺に住し、1128年(大治3年)には大僧正に任じられた。その後、1135年(保延元年)に四天王寺別当、1152年(仁平2年)には園城寺長吏に任じられている。近衛・後白河・二条の三代に亘って天皇の護持僧となるが、特に後白河院の信任が厚かったとされる。また、藤原忠通が出家する際、御戒師を務めた。.

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覚行法親王

覚行法親王(かくぎょうほっしんのう、承保2年(1075年)4月 - 長治2年11月18日(1105年12月26日))は、平安時代中期から後期にかけての皇族・僧。白河天皇の第二皇子。母は藤原経平の娘経子。覚念・中御室とも称される。真言宗仁和寺の第3世門跡。.

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覚法法親王

覚法法親王(かくほうほっしんのう、寛治5年12月29日(1092年2月9日) - 仁平3年12月6日(1153年12月22日))は、平安時代後期の皇族・僧。白河天皇の第四皇子。母は源顕房の娘師子。真言宗仁和寺第四世門跡。高野御室・勝蓮華寺獅子王宮とも称される。 異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真と改め、さらに覚法と改めた。長治2年(1105年)覚行の没後に仁和寺寺務に就任。寛助・範俊から灌頂を受け、天永3年(1112年)親王宣下を受けている。保延5年(1139年)には自らの観音院を御願寺として東寺に準じる灌頂会を開催することを勅許された。保延7年(1141年)には鳥羽上皇受戒の際には受戒の師をつとめた。皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀経法を修している。真言密教の事相に詳しく仁和寺御流を創唱している。 背が高く声が美しかったとされ、能筆でもあったという。.

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語呂合わせ

語呂(ごろ)」とは、言葉や文章の続き具合、調子 のことで、もともとは雅楽における旋法に由来する。曲の調子を「律呂(りつりょ)」または「呂律」(りょりつ、ろれつ)といい、うまく演奏を合わせられないことを「呂律が回らない」と言った。これを言葉の調子にもなぞって「語呂」といった。「語呂がよい」とは、語調の感じが良いことをいう。 語呂合わせは、言葉にリズムや音感を持たせて馴染み深くしたものである。文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を暗記する場合に使われる。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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輔仁親王

輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日(1073年2月28日) - 元永2年11月28日(1119年12月31日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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関根正直

関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の国文学者。.

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藤原定信

藤原 定信(ふじわら の さだのぶ)は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。.

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藤原実家

藤原 実家(ふじわら の さねいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿・歌人。徳大寺公能の次男。藤原俊成は母方の伯父にあたる。.

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藤原実方

藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。.

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藤原実政

藤原 実政(ふじわら の さねまさ、寛仁3年(1019年) - 寛治7年2月18日 (1093年3月17日))は、平安時代中期の貴族。藤原北家日野流(真夏流)、従三位・藤原資業の三男。官位は従二位・参議。.

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藤原家忠

藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。.

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藤原宗輔

藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安時代後期の公卿。右大臣藤原俊家の嫡男で後年中御門家の祖とされた権大納言藤原宗俊の子。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で『今鏡』『十訓抄』にも登場する。.

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藤原宗能

藤原 宗能(ふじわら の むねよし、応徳2年(1085年) - 嘉応2年2月11日(1170年2月28日))は、平安時代後期の公卿。本名は宗隆。藤原北家中御門流、右大臣・藤原宗忠の長男。官位は正二位・内大臣。中御門内大臣と号した。.

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藤原師家

藤原 師家(ふじわら の もろいえ)は平安時代後期の廷臣。権大納言藤原経輔の子。.

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藤原師通

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.

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藤原伊通

藤原 伊通(ふじわら の これみち、寛治7年(1093年) - 長寛3年2月15日(1165年3月28日))は平安時代末期の公卿。中御門流権大納言藤原宗通の次男で、藤原道長は高祖父にあたる。正二位・太政大臣。九条に邸宅を構えていたことから九条大相国(くじょう だいしょうごく)あるいは大宮大相国と号した。.

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藤原得子

藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。.

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藤原俊忠

藤原 俊忠(ふじわら の としただ)は平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。従三位・権中納言。二条を号す。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原忻子

藤原 忻子(ふじわら の きんし(よしこ)、長承3年(1134年) - 承元3年8月12日(1209年9月12日))は平安時代末期の后妃。第77代後白河天皇中宮。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。妹に近衛天皇皇后(のち二条天皇后)多子がいる。 久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 きんし1 category:平安時代の后妃後宮 Category:1134年生 Category:1209年没.

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藤原呈子

藤原 呈子(ふじわら の しめこ/ていし)、天承元年(1131年) - 安元2年9月19日(1176年10月23日))は平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘・立子。藤原得子(美福門院)と藤原忠通の養女。院号は九条院(くじょういん)。法名は静浄観。.

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藤原兼長

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。官位は正二位・権中納言、右近衛大将。.

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藤原聖子

藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安3年(1122年) - 養和元年12月4日(1182年1月10日))は平安末期の后妃。崇徳天皇の中宮、近衛天皇の養母、女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。 摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.

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藤原顕季

藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家魚名流、正四位下美濃守・藤原隆経の次男。官位は正三位・修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。.

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藤原顕綱

藤原 顕綱(ふじわら の あきつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の三男。官位は正四位下・丹波守、讃岐守、但馬守。.

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藤原顕隆

藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。.

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藤原親子

藤原 親子(ふじわら の しんし、または、ふじわら の ちかこ、1021年(治安元年) - 1093年11月12日(寛治7年10月21日))は、平安時代の女官である。魚名流藤原氏大和守・藤原親国の娘。東宮大進・藤原隆経の妻。六条修理大夫藤原顕季の母。.

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藤原高光

藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。官位は従五位上・右近衛少将。三十六歌仙の一人。.

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藤原能信

藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.

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藤原育子

藤原 育子(ふじわら の むねこ(いくし)、久安2年(1146年) - 承安3年8月15日(1173年9月23日))は、平安時代末期の后妃。二条天皇の中宮、六条天皇の養母。 姓は藤原、初名は香子。実父については、閑院流の徳大寺左大臣実能と、摂関流の法性寺関白忠通の二説がある。前者は育子を実能の実娘、忠通の養女、義兄基実の猶子とし、後者は忠通の乙姫君(皇嘉門院につぐ忠通の次女)として異母兄基実の猶子になったとする。史料性としては、前者が室町期の作成であることに対し、後者の方はほぼ同時代人による記録で、ことに愚管抄の作者である慈円(忠通息)は育子の身内であった。以下、育子は忠通の実子、という推定のもとで記述する。 生母は忠通家女房、督殿源俊子(村上源氏、地方の受領源顕俊の娘)。.

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藤原重家 (左近衛少将)

藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家兼通流、左大臣・藤原顕光の長男。官位は従四位下・左近衛少将。容姿に優れ光少将と謳われた。.

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藤原正家

藤原 正家(ふじわら の まさいえ、万寿3年(1026年) - 天永2年10月12日(1111年11月14日))は、平安時代後期の貴族・学者。藤原北家真夏流、式部権大輔・藤原家経の子。官位は正四位下・右大弁。.

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藤原歓子

藤原 歓子(ふじわら の かんし、治安元年(1021年) - 康和4年8月17日(1102年9月30日))は平安時代後期の后妃。名は「よしこ」とも読む。第70代後冷泉天皇の皇后。通称、小野皇太后。 関白藤原教通の三女。母は大納言藤原公任の長女(1000年 - 1024年)。同母の兄弟に権大納言信家、侍従通基、太政大臣信長、権大僧都静覚(1024年 - 1083年)、同母姉に後朱雀天皇女御生子(1014年 - 1068年)、尚侍真子(1016年 - 1087年)、異母兄に権僧正静円(母は小式部内侍、1016年 - 1074年)がいる。.

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藤原有国

藤原 有国(ふじわら の ありくに)は、平安時代中期の公卿。初名は在国。字は藤賢。藤原北家真夏流、大宰大弐・藤原輔道の四男。官位は従二位・参議。弼宰相と号す。.

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藤原成通

藤原 成通(ふじわら の なりみち、承徳元年(1097年) - 応保2年(1162年))は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原宗通の四男。初名・宗房。法名・栖蓮。正二位・大納言。蹴鞠・今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。.

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藤原教長

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。.

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金子武雄 (1905年生)

金子 武雄(かねこ たけお、1905年(明治38年)12月 - 1984年(昭和59年)11月22日)は日本の国文学者。.

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金葉和歌集

『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)とは、平安時代後期に編纂された勅撰和歌集。全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集に当たる。略称『金葉集』(きんようしゅう)。撰者は源俊頼。.

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院政期文化

『'''普賢菩薩像'''』(東京国立博物館蔵)普賢菩薩は法華経信者を守護するため白い象に乗って東方より現れると説かれていた。彩色や截金の美麗さに加え余白の情感が幻想的で優美だとされる。銀泥も素材の仲間入りをするが、酸化して黒ずんで見える。国宝。12世紀制作。 院政期文化(いんせいきぶんか)または平安末期文化(へいあんまっきぶんか)とは、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。.

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暲子内親王

暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。.

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束帯

束帯a:冠 b:袍 c:飾太刀 d:笏 e:平緒 f:下襲の裾 g:表袴 h:大口袴 江戸期の縫腋の袍(阿部正弘) 束帯(そくたい)は、平安時代以降の、天皇以下公家の正装(平安装束)。衣冠を「宿直(とのい)装束」と呼ぶのに対し、束帯は「昼(ひの)装束」と呼ばれる。.

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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.

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板橋倫行

板橋 倫行(いたばし ともゆき、1902年 - 1961年)は、国文学者、評論家。 東京銀座生まれ。新潟高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学文学部東洋史学科卒。早稲田大学講師を務めた。芸文同人誌『双魚』主宰。小川晴暘、會津八一、安藤更生と交遊があった。多くの論文を発表するが不遇のうちに1957年から病臥、58歳で死去した。1978年評論集の刊行が始まったが第一巻でとだえた。.

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栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

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橘俊綱

橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の次男。官位は正四位上・修理大夫。讃岐守・橘俊遠の養子。.

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歴史物語

歴史物語(れきしのもがたり)とは、日本文学において、実際の歴史に基づいて物語風に書かれた作品のこと。 仮名文で書かれている事が原則であり、漢文によって書かれた史論書とは区別されている。 歴史の流れに従っているため、物語を全て史実のように錯覚してしまうケースもあるが、作者による演出の挿入や作者が当時知っている範囲で書かれていることも多いために、作中のエピソードと史実が合致しない事例も有り得る(軍記物語にも同様のことが言える)。.

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歴史書一覧

歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。.

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水鏡

『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。.

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池辺義象

池辺 義象(いけべ よしかた、文久元年10月3日(1861年11月5日) - 大正12年(1923年)3月6日)は、国文学者、歌人。 肥後国(現熊本県)生まれ。号は藤園、知旦。東京大学古典講習科卒。小中村清矩の養子として小中村義象を名乗るがのち復姓。1898年から1901年までパリに留学。帰国後、東京帝国大学講師、御歌所寄人などを務める。主著に『日本法制史書目解題』、『日本文学史』、萩野由之と共編とした『日本文学全書』がある。.

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源師俊

源 師俊(みなもと の もろとし、承暦4年(1080年) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の子。大納言・源師忠の養子。官位は従三位・権中納言。.

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源師忠

源 師忠(みなもと の もろただ)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源師房の四男。官位は正二位・大納言。壬生大納言または沢大納言と号した。 歌人であり、『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に3首が入首。また和琴にも秀でていた。.

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源師光

源師光(みなもと の もろみつ).

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源師時

源 師時(みなもと の もろとき、承暦元年(1077年) - 保延2年4月6日(1136年5月8日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の次男。白河上皇・鳥羽上皇に信任され、正三位・権中納言に至るが、父祖の官位に達することはなかった。日記『長秋記』は院政期初期の重要史料の一つとして重んじられている。 詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が入集、また兄の源師頼とともに『堀河百首』の詠み手の一人である。漢詩においても師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」と賞賛されている。父俊房を継いで有職故実に通じ、源有仁等にも教導した。また、作庭をよくし、鳥羽殿の庭園の造営を手がけたという。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源信雅

源 信雅(みなもと の のぶまさ、承暦3年(1079年) - 保延元年5月15日(1135年6月27日))は、平安時代末期の貴族。初名は家定。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源盛長

源 盛長(みなもと の もりなが、生没年不詳)は平安時代後期の貴族。醍醐源氏、備前守・源長季の子。官位は従四位下・淡路守。蹴鞠の名手として知られた。.

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源頼実

源 頼実(みなもと の よりざね)は、平安時代中期の官人・歌人。源頼国の三男。和歌六人党の一人。.

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源顕仲

源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿、歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の子。.

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源顕国

源 顕国(みなもと の あきくに)は平安時代後期の貴族、歌人。村上源氏、権中納言・源国信の長男。.

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源雅定

源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.

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源雅実

源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。.

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源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

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源氏物語60巻説

源氏物語60巻説(げんじものがたりろくじっかんせつ)または源氏物語60帖説(げんじものがたりろくじゅうじょうせつ)とは、「源氏物語が全部で60巻から構成される。」とする説である。.

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源成信

源 成信(みなもと の なりのぶ、天元2年(979年) - 没年不詳)は、平安時代中期の貴族。村上天皇の皇子である兵部卿・致平親王の子。官位は従四位上・右近衛権中将。.

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源成雅

源 成雅(みなもと の なりまさ、生没年未詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、陸奥守・源信雅の四男。官位は正四位下・左近衛中将。近江中将と号す。.

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月のゆくへ

『月のゆくへ』(つきのゆくえ)は荒木田麗女が明和8年(1771年)に成した、二巻三冊の歴史物語。「月のゆくえ」「月の行方」「月の行衛」とも。荒木田の代表作の一つである。 内容は、虚実を織り交ぜながら平家一門の興亡を鏡物に倣った雅文体で綴ったもので、巻一(二冊)で高倉天皇、巻二で安徳天皇の事績を述べ、『今鏡』と『増鏡』の間にあたる『弥世継』の代わりになるものとしている。荒木田は『平家物語』と『源平盛衰記』を主な資料としつつ、その博識を生かして和漢の故事・詩歌などを引いて物語に趣を添えている。 伊勢神宮の神宮文庫に、荒木田興正妻直女の写本が残る。.

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明雲

明雲(みょううん)は、平安時代末期の天台宗の僧。久我顕通の長男。弟に久我雅通。.

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日記

日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.

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日記の家

日記の家(にっきのいえ/にきのいえ・日記之家)とは、先祖代々の手による家の日記(家記)を伝蔵した公家の呼称。 「日記の家」の代表格は小野宮流藤原氏及び高棟王流桓武平氏である。他にも勧修寺流藤原氏が同様の家柄であったとされ、皇室や摂関家などにも同様の機能が存在していた。.

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日本の中古文学史

日本の中古文学史(にほんのちゅうこぶんがくし)は、中古(およそ平安時代)の日本文学の歴史である。.

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慶滋保胤

慶滋 保胤(よししげ の やすたね、承平3年(933年)以後長保4年10月21日(1002年11月27日)は、平安時代中期の文人・儒学者。字は茂能。唐名は定潭。法名は寂心。父は陰陽家の丹波権介・賀茂忠行であるが、家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。子に忠順がいる。官位は従五位下・大内記。.

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才葉抄

才葉抄(さいようしょう)とは、平安時代末期に著された書論書。.

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怡子女王

怡子女王(いし(よしこ)じょおう、生薨年未詳)は、平安時代後期の皇族。輔仁親王の王女(後三条天皇の皇孫)で母は大蔵卿・源行宗の娘。白河天皇の猶子となり、内親王宣下を受けたらしく、怡子内親王とも表記する。崇徳・近衛・後白河・二条天皇の4代にわたって賀茂斎院として奉仕、北小路斎院と号した。 長承2年12月21日(1134年1月24日)、斎院に卜定。保延元年(1135年)4月15日、初斎院より紫野斎院に入る。平治元年(1159年)閏5月19日、病により退下。その後の消息は不明だが、『今鏡』第8巻で60歳を越えたようだとあり、嘉応2年(1170年)頃には存命であったと見られる。.

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