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上杉景信

索引 上杉景信

上杉 景信(うえすぎ かげのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。古志長尾家7代当主。越後国栖吉城主。.

16 関係: 古志長尾家上杉三郎景虎上杉謙信上杉景虎御館の乱蔵王堂藩長尾氏長尾房景長岡城村上藩栖吉城河田長親本庄秀綱本庄繁長本庄顕長戦国大戦

古志長尾家

古志長尾家(こし ながお‐)は、室町時代に越後国に割拠した豪族で、守護代長尾氏の分家。.

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上杉三郎景虎

『上杉三郎景虎』(うえすぎさぶろうかげとら)は、近衛龍春による長編歴史小説。2001年(平成13年)4月に角川春樹事務所から「角川時代小説倶楽部」の一冊として単行本が発刊された。2005年(平成17年)3月に光文社から文庫版が刊行されている。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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上杉景虎

上杉 景虎(うえすぎ かげとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条 三郎(ほうじょう さぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になる。.

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御館の乱

御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となった。敗北した景虎、景虎に加担した山内上杉家元当主・上杉憲政らは戦死。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。.

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蔵王堂藩

蔵王堂藩(ざおうどうはん)は、越後国古志郡(現在の新潟県長岡市)に江戸時代前期に存在した外様大名の藩。藩庁は蔵王堂城(長岡市西蔵王)。.

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長尾氏

長尾氏(ながおし)は、日本の氏族のひとつ。東漢氏の後裔。また関東地方に興った武家長尾氏は本姓を平氏(坂東八平氏)とし、鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけ、関東へ入部した上杉氏に仕えた。.

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長尾房景

長尾 房景.

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長岡城

長岡城(ながおかじょう)は日本に複数ある城郭名。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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栖吉城

栖吉城(すよしじょう)は、新潟県長岡市栖吉町にあった日本の城。 築城年ははっきりしないが、永正年間(1504年 - 1521年)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から古志長尾家の本拠を移したとされる。 御館の乱では景勝の中心的な上田長尾家(通称、上田衆)との対抗上上杉景虎に与したが、居多浜の合戦に於いて城主上杉景信(通称、古志十郎)が討死。城も落城して古志長尾家の本流は滅亡した。 乱後は上杉謙信在命中に古志長尾家を継承(長尾姓の名乗りは辞退)していた河田長親が古志長尾家の遺臣たちを栖吉衆として再編。その長親が越中松倉城で急死すると最前線は無理との判断で嫡男の岩鶴丸が栖吉城に戻される形で城主となるが早世。親戚筋の河田親詮が河田家を継ぐも軍役を縮小されて栖吉衆の一武将に格下げとなった為に名実共に古志長尾家は滅亡となった。 上杉家の会津転封により廃城となったが、河田家の没落以後は景勝直参となった栖吉衆が番将として治めた。 また、上杉謙信の母である虎御前(青岩院)はこの城の城主であった長尾房景(長尾顕吉との説も有り)の娘である。このため謙信はこの城で誕生したと伝説されている。.

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河田長親

河田 長親(かわだ ながちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後国の戦国大名・長尾氏(上杉氏)の家臣。古志郡栖吉城城主。近江国出身で、上杉謙信上洛の際に召し抱えられ、奉行職や越中戦線の指揮などで活躍した。.

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本庄秀綱

本庄 秀綱(ほんじょう ひでつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。栃尾城主。.

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本庄繁長

本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。.

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本庄顕長

本庄 顕長(ほんじょう あきなが、永禄7年(1564年) - 没年未詳)は、戦国時代から安土桃山時代の越後国の武将。豊後守。千代丸。子に祐長。.

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戦国大戦

『戦国大戦』(せんごくたいせん)は、2010年11月10日に稼働を開始したセガ・インタラクティブ(2015年3月まではセガ)のトレーディングカードアーケードゲームである。日本の戦国時代を舞台としており、織田信長をはじめ戦国時代の武将がカードとして多数登場する。.

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