ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ヴェリカ・クラドゥシャ

索引 ヴェリカ・クラドゥシャ

ヴェリカ・クラドゥシャ(ボスニア語:Velika Kladuša、クロアチア語:Velika Kladuša、セルビア語:Велика Кладуша)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西端、クロアチアと国境近くの町。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ・サナ県に属している。近接する町はツァジン、ビハチなど。.

11 関係: ボスニア・ヘルツェゴビナボスニア・ヘルツェゴビナの都市の一覧ボサンスカ・クライナブジムツァジンツァジンスカ・クライナ嵐作戦アネル・ハジッチアリヤ・イゼトベゴヴィッチウナ=サナ県西ボスニア自治州

ボスニア・ヘルツェゴビナ

1992年-1998年の国旗 1992年-1998年の国章 ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとボスニア・ヘルツェゴビナ · 続きを見る »

ボスニア・ヘルツェゴビナの都市の一覧

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図 ボスニア・ヘルツェゴビナの都市の一覧。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとボスニア・ヘルツェゴビナの都市の一覧 · 続きを見る »

ボサンスカ・クライナ

ボサンスカ・クライナ(ボスニア語・クロアチア語・セルビア語:Bosanska Krajina / Босанска Крајина)は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの北西部を指し示す歴史的な地域呼称であり、サヴァ川、ウナ川、ヴルバス川に囲まれた一帯を表す。 ボサンスカ・クライナで最大の都市はバニャ・ルカであり、バニャ・ルカは歴史的にこの地域の中心的な都市として機能してきた。この他のボサンスカ・クライナの主要都市としてはプリイェドル、ビハチ、ボサンスカ・グラディシュカ(Bosanska Gradiška)、ボサンスカ・ドゥビツァ(Bosanska Dubica)、ヴェリカ・クラドゥシャ、サンスキ・モスト、ムルコニチ・グラード(Mrkonjić Grad)、ヤイツェなどがある。 ボサンスカ・クライナと呼ばれる行政的な地域区分は存在せず、この地域のアイデンティティは何世紀にも亘る歴史的な経緯により形作られたものである。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争以降、ボサンスカ・クライナは行政上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦に分断されている。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとボサンスカ・クライナ · 続きを見る »

ブジム

ブジム(ボスニア語:Bužim、クロアチア語:Bužim、セルビア語:Бужим)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ=サナ県に属する。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとブジム · 続きを見る »

ツァジン

ツァジン(ボスニア語:Cazin)はボスニア・ヘルツェゴビナ北西部・ウナ=サナ県にある都市及び基礎自治体で、クロアチア国境に近い。ツァジンはビハチ、ヴェリカ・クラドゥシャを結ぶ幹線道路が経由している。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとツァジン · 続きを見る »

ツァジンスカ・クライナ

ツァジンスカ・クライナ(ボスニア語・クロアチア語・セルビア語:Cazinska krajina / Цазинска крајина)、あるいはビハチカ・クライナ(ボスニア語・クロアチア語・セルビア語:Bihaćka krajina / Бихаћка крајина)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの北西端の一角を占める歴史的な地域呼称である。 ツァジンスカ・クライナは、ボスニア・ヘルツェゴビナの北部一帯を占めるボサンスカ・クライナ地方のうち西端の一角、三方をクロアチアに囲まれた地域であり、地域で最大の都市であるビハチが事実上その中心的な機能を果たしている。この他の主要都市としてはサンスキ・モスト、ボサンスカ・クルパ、ヴェリカ・クラドゥシャや、この地域呼称の由来となっているツァジンなどがある。地形的にはウナ川およびサナ川の流域となっている。 歴史的にイスラム教徒が多く居住し、オーストリア帝国と対峙するオスマン帝国の北端の国境地帯であった。現代においてもイスラム教徒を主体とするボシュニャク人が多く住んでおり、ボスニア・ヘルツェゴビナを形成する2つの構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属するウナ=サナ県とほぼ範囲を同じくする。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとツァジンスカ・クライナ · 続きを見る »

嵐作戦

嵐作戦(あらしさくせん、クロアチア語・ボスニア語・セルビア語:Operacija Oluja / Операција Олуја)は、クロアチア共和国軍を主体とし、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の協力の下、クロアチア領内で事実上独立状態にあったクライナ・セルビア人共和国を奪還するための全面的軍事作戦のコードネームである。クライナ・セルビア人共和国は1991年以降、セルビア人の分離主義者によって事実上の独立国として統治され、クロアチアの支配権が及んでいなかった 作戦は36時間続き、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最大の陸上進攻作戦と記された。作戦は、1995年8月4日の未明に始まり、4日後にはクロアチア軍による完全勝利に終わった。 クロアチア軍はアメリカ合衆国に拠点を置く民間軍事会社ミリタリー・プロフェッショナル・リソーシズ(Military Professional Resources Incorporated; MPRI)によって訓練を受けていた。この契約はアメリカ合衆国政府によって是認されていた。 当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは回想録のなかで、地上での大規模な損失を与えることのみによってセルビア人を交渉の席に着けることが出来ると確信していたと述べている。後に交渉はデイトン合意としてまとまり、クロアチア紛争およびボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させた。 当時のアメリカ合衆国の和平交渉者リチャード・ホルブルック(Richard Holbrooke)は、「クロアチアのクライナに対する攻勢によっていかに劇的にバルカンの戦況を変化させ、それによって外交攻勢も変化したかを思い知った」と話した。退役した将軍でアメリカ統合参謀本部戦略計画・政策部の長官、後のNATO欧州連合軍最高司令部のは、簡潔に「転換点」であったと述べている。 スレブレニツァの虐殺後、ボスニア・ヘルツェゴビナのビハチでも同様の大量虐殺の発生が懸念されていた。ビハチは、スレブレニツァの4倍の規模があり、、クロアチア領のクライナ・セルビア人共和国やボスニア・ヘルツェゴビナ領のスルプスカ共和国といったセルビア人勢力に包囲され、攻撃を受けていた。 およそ15万人から20万人のセルビア人が、迫り来るクロアチア軍から逃れ、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力支配地域や、さらに東にあるセルビアまで脱出した。欧州連合の旧ユーゴスラビア担当特使カール・ビルトは、1995年8月7日、「これまでバルカン見た中で最も効果を発揮した民族浄化」と呼んだ。これに対してクロアチア共和国の外相は、ビルトによる評価は「根拠がない」と答えた。ドイツの外相クラウス・キンケル(Klaus Kinkel)は、「遺憾」を表明する声明を発したが、同時に「セルビア人勢力による攻撃の年月を忘れてはならない。それはクロアチアの忍耐力に対する過酷な挑戦であった。」と付け加えた。アメリカ合衆国政府は自制を呼びかけたものの、軍事行動が「クライナ・セルビア人勢力によるムスリム人の飛び地ビハチへの攻撃によって引き起こされたもの」であったとした。軍事攻勢はボスニア・ヘルツェゴビナ領内に入ってからはミストラル作戦として続けられた。 クロアチア人の3人の将軍、アンテ・ゴトヴィナ、イヴァン・チェルマク(Ivan Čermak)、ムラデン・マルカチュ(Mladen Markač)は嵐作戦の計画と実施に関与したとして、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって訴追を受け、オランダのデン・ハーグにて裁判が進められている。3人に対する嫌疑は、実力をもってクライナ地域に住むセルビア人住民を不可逆的に排除することを目的とした共同犯罪活動、および人道に対する罪である。 クロアチア政府は、主権国家が自国の領土の支配権を守る権利に基づき、作戦を正当化している。クロアチア政府はまた、「戦争犯罪」に加担していないクロアチア領のセルビア人は、クロアチア領に帰還できると強調している。 クロアチアでは、8月5日は「勝利と祖国への感謝の日」として国民の祝日となっている。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャと嵐作戦 · 続きを見る »

アネル・ハジッチ

アネル・ハジッチ(Anel Hadžić 、1989年8月16日 - )は、ユーゴスラヴィア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)・ヴェリカ・クラドゥシャ出身のプロサッカー選手。サッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表。ヴィデオトンFC所属。ポジションはMF。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとアネル・ハジッチ · 続きを見る »

アリヤ・イゼトベゴヴィッチ

アリヤ・イゼトベゴヴィッチ(ボスニア語:Alija Izetbegović、1925年8月8日 – 2003年10月19日)は、ボシュニャク人活動家で、弁護士、作家、哲学者、政治家であり、1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった。イゼトベゴヴィッチは1996年まで大統領職を務め、その後ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員となり、2000年までその地位にあった。イゼトベゴヴィッチはまた、多くの著書を残しており、特に『イスラム宣言』(The Islamic Declaration)などが知られる。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとアリヤ・イゼトベゴヴィッチ · 続きを見る »

ウナ=サナ県

ウナ=サナ県(ボスニア語:Unsko-sanski kanton、クロアチア語:Unsko-sanska županija、セルビア語:Унско-сански кантон)、あるいはウナ=サナ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はビハチ。県名は県内を流れるウナ川とサナ川の名前にちなむ。 歴史的にツァジンスカ・クライナと呼ばれてきた地域とほぼ範囲を同じくする。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャとウナ=サナ県 · 続きを見る »

西ボスニア自治州

西ボスニア自治州の拡大図(水色の部分)。黄色はクライナ・セルビア人共和国、薄桃色はスルプスカ共和国、緑はボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍支配地域。 西ボスニア自治州(ボスニア語およびクロアチア語:Autonomna Pokrajina Zapadna Bosna、セルビア語:Аутономна Покрајина Западна Босна)はボスニア・ヘルツェゴビナにかつて短期間だけ存在した、承認されていない事実上の自治州。1993年に成立し、1995年に消滅した。後にボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ=サナ県の一部となったヴェリカ・クラドゥシャ(Velika Kladuša)を首都とし、その周辺地域を事実上支配していた。この自治州は、ボスニア・ヘルツェゴビナ北西部において、ボシュニャク人のフィクレト・アブディッチ(Fikret Abdić)のボスニア中央政府に対する反抗によって分離した。.

新しい!!: ヴェリカ・クラドゥシャと西ボスニア自治州 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »