ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ヴェネツィア共和国

索引 ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

797 関係: Approval votingARIA The STATION Tricolore執政官とある魔術の禁書目録の用語十字軍十字軍国家十人委員会 (ヴェネツィア共和国)南スラヴ人反ユダヤ主義合理化塩野七生塙嘉彦墺土戦争 (1716年-1718年)夢の雫、黄金の鳥籠大使館大トルコ戦争大航海時代Online外交官奴隷市場 (ゲーム)宮廷ユダヤ人帝国郵便中世前期中世盛期丸ぼうろ三十年戦争五大国地中海北イタリアナバス・デ・トロサの戦いペーターヴァルダインの戦いナフプリオペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公)ナクソス島ナクソス公国ペグー王朝ミハイル3世シシュマンミラノ公国ミラビリス・リベルミンガンミカエル7世ドゥーカスミカエル8世パレオロゴスマリーノ・ファリエロマリエット・ド・パトラノルマン・東ローマ戦争ノルウェー十字軍マルカントニオ・トレヴィザンマルコ (福音記者)マルコ・ポーロマルコ・ポーロ 大冒険マロースティカ...マントヴァマントヴァ公国ノヴィグラード (イストラ郡)ノヴェー・ザームキマーカントニオ・コロンナマヌエル1世 (ポルトガル王)マヌエル1世コムネノスマカルスカマクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)マグナート陰謀チャールズ・モンタギュー (初代マンチェスター公爵)チヴィダーレ・デル・フリウーリチッタデッラチプロフツィチェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリアチェーザレ・ボルジアチジック・ハウスハルキスハンガリー・アンジュー朝ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)ハニアバチカンのスイス衛兵バヤズィト2世バルトロメオ・デ・セルマバルトロメオ・クリストフォリバルダッサーレ・ロンゲーナバルカンの歴史バール (モンテネグロ)バッサーノ・デル・グラッパバニョーリ・ディ・ソプラポルトガルの歴史ポルトガル海上帝国ポルデノーネポレッチポンテポヴェーリアポーランド・リトアニア共和国ムハンマド・アリームラト・レイースムッジャムスタファ2世メルキオーレ・チェザロッティメッシニア県メディーバル2:トータルウォーメフメト1世メフメト2世メソロンギモネンバシアモラーロモレアス専制公領モンテネグロのイスラム教モンテネグロの国旗モンテネグロの歴史モンファルコーネモデナ=レッジョ公国ヤン3世 (ポーランド王)ヤコポ・ティエポロユリウス2世 (ローマ教皇)ユリウス暦ヨハネス2世コムネノスヨハネス6世カンタクゼノスヨハネス8世パレオロゴスヨハンネス・チコーニアヨーロッパにおける政教分離の歴史ヨーロッパ史ラヨシュ1世ラヨシュ1世のナポリ遠征ランペルールラヴェンナラヴェンナの戦いラヴェンナ総督府ラースロー1世ラースロー2世ラッザーロ・モチェニーゴ (エンリコ・トーチ級潜水艦)ラブ島ラテン帝国ラコニア県リミニリチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)リムノス島リュジニャン家リアルト橋リエカルネサンスルーム・セルジューク朝ルドヴィーコ3世・ゴンザーガルカ・パチョーリルクレツィア・ボルジア (オペラ)ルクセンブルクの歴史レパントの海戦レティムノレデントーレ教会レフカダ島レオナルド・ロレダンレオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)レオポルド・デ・グレゴリオレオーベン条約ロマンス・ディゾンツォロレンツィーノ・デ・メディチロレンツォ・ティエポロロレーヌ公国ロンバルディア同盟ロンバルディア州ロンガローネロンキ・デイ・レジョナーリロヴィニローディの和ロッカ (ベルガモ)ロドス島ロベルト・ベラルミーノロクセラーナロココロシニ島ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)ヴロラヴァリャーグからギリシャへの道ヴァルナ (ブルガリア)ヴァルナの戦いヴァルナ十字軍ヴィチェンツァヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラヴィンチェンツォ・スカモッツィヴィヴァルディヴィス島ヴェネト州ヴェネト語ヴェネツィアヴェネツィアのドージェ一覧ヴェネツィアのゼッカヴェネツィアの獅子ヴェネツィア宮殿ヴェネツィアン・グラスヴェネツィア・ビエンナーレヴェネツィア・ゲットーヴェネツィア・ジュリアヴェネツィア・ジェノヴァ戦争ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1118年)ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1172年)ヴェネツィア共和国の歴史ヴェネツィア派ヴェローナ市街ヴェニスの商人ヴェストファーレン条約ヴォディツェ (クロアチア)ボルコ2世マウィヌール・バヌボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)ボスニア・ヘルツェゴビナボスニア王国トマス・ハワード (第21代アランデル伯爵)トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)トマゾ・アルビノーニトラカイトリノ条約トリノ条約 (1381年)トリポリ伯国トリエステトルコクラティアトレヴィーゾトレディチ・コムーニトロギルトンマーゾ・モチェニーゴトーマス・クック・グループヘルツェグ・ノヴィヘンリー7世 (イングランド王)ヘンリー8世 (イングランド王)ヘンリー・ハワード (第22代アランデル伯爵)ヘンリー・ベネディクト・ステュアートヘンリク4世ブチェンタウロブラチ島ブルガリア帝国ブロワ条約 (1499年)ブトリントブゼトプラノ・カルピニプレヴェザの海戦プレスブルクの和約プロスペロ・アルピーニプーラ (クロアチア)プーラ城塞パラ・ドーロパラッツォ・コルネールパラグルジャパリ条約パリ条約 (1623年)パルマノーヴァパルテノン神殿パルガル・イブラヒム・パシャパレオロゴス王朝パロス島パッラーディオ建築パッサロヴィッツ条約パトラパフォス城パドヴァパドヴァの植物園パウルス2世 (ローマ教皇)パウルス5世 (ローマ教皇)パオロ・ヴェロネーゼビュユック・ハンビアンカ・マリーア・ヴィスコンティビアンカ・カッペッロビオグラード・ナ・モルビゼルトピランピレウスピーリー・レイースピエロ・ソデリーニピエトロ・ロレダンピエトロ・ベンボピエトロ・オルセオロピエトロ・グラデニーゴピエタ (曖昧さ回避)ピサピサネロツレス島テッテ橋テッサロニキテッサロニキ王国ティノス島ティヴァトティール包囲戦ティツィアーノ・ヴェチェッリオティエポロティエーネテオドラ・ドゥーカイナ・コムネナテオドロス1世パレオロゴステキルダーディーウ沖の海戦デズデモーナフランチェスコ1世ダ・カッラーラフランチェスコ2世・ゴンザーガフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレフランチェスコ・フォスカリフランチェスコ・スフォルツァフランク・ローマ皇帝フランシスコ (ベージャ公)フランシスコ・デ・ケベードフランスの歴史年表フランス革命の年表フランス革命戦争フランソワ (ボーフォール公)フリードリヒ4世 (オーストリア公)フリードリヒ・フォン・シュペルケンフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州フヴァル城塞フヴァル島フッガー家フニャディ・ヤーノシュファマグスタファエンツァフィリップ・ヴェルドロフィリップ・フォン・デア・プファルツ (1627-1650)フィリップ・ダルトワ (1358-1397)フィリップスブルク包囲戦 (1734年)フィレンツェフィレンツェ派フェラーラフェルディナンド2世 (ナポリ王)フェルディナンド・マゼランフェデリーコ1世・ゴンザーガフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロフォーチュン座フォーク (食器)ドメニコ・ドラゴネッティドメニコ・アルベルティドージャ・ジェルジドージェドイツドイツ騎士団ドゥラスドゥーカス王朝ドゥブロヴニクドゥカーレ宮殿ドゥカートニン (クロアチア)ニッコロ・マキャヴェッリニケフォロス1世ニケタス・コニアテスニコポリスの戦いニコロ・フォンタナ・タルタリアニコーラ・オルシーニホルモズガーン州ホワイトタワー (テッサロニキ)ダルマチアダルマチア・イタリア人ダニエーレ・マニンベルナルド・モランドベルナルド・ベッロットベルナボ・ヴィスコンティベルガモベーラ2世ベーラ3世ベーラ4世ベザントアマルフィアマルフィ公国アハイア県アヤソフィアアルペン猟兵アルバニア・ヴェネタアルバニア関係記事の一覧アルメニアの歴史アルモリカアルトゥク朝アルティーヴォレアルフォンソ1世・デステアルフォンソ5世 (アラゴン王)アルベルティーナアルカセル・キビールの戦いアルゴス (ギリシャ)アルゴストリアルセナーレ・ディ・ヴェネツィアアルタ (ギリシャ)アル=アーディルアレッポアレッサンドロ・ファルネーゼ (1635-1689)アレッサンドロ・ストラデッラアレクシオス1世コムネノスアレクシオス3世アンゲロスアレクサンデル5世 (対立教皇)アレクサンデル6世 (ローマ教皇)アレクサンデル8世 (ローマ教皇)アレクサンドリアアンナ・シフィドニツカアンチャーテッド 黄金刀と消えた船団アンリ2世 (ギーズ公)アンリ・ド・マルルアントワーヌ・ド・グランヴェルアントウェルペンアンフィサアンドラーシュ1世アンドラーシュ2世アンドレーア・ガブリエーリアンドレアアンドレア・ルケージアンドレア・ビアンコアンドレア・デル・ヴェロッキオアンドレア・ダンドロアンドレア・グリッティアンドレア・コンタリーニアンドレアス・ヴェサリウスアンドレアス・パレオロゴスアンドロニコス2世パレオロゴスアンドロニコス・パレオロゴス (テッサロニキ専制公)アンドロス島 (ギリシャ)アンゲロス王朝アンコーナアヴァ王朝アヴィアーノアヴィス王朝アールパード朝アーゾロアッティラアッティカアッダ川アテネ公国アデオダトゥス2世 (ローマ教皇)アフメト3世アドリア海アニャデッロアクイレイアアクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカアゴスティーノ・バルバリーゴアゾフアサシン クリード IIイムレ1世イラクリオンイリア県インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテインノケンティウス9世 (ローマ教皇)イヴァン・アレクサンダルイヴァン・アセン2世イブラン家イエラペトライオニア七島連邦国イオニア諸島イオニア諸島合衆国イオアニス・カポディストリアスイザベラ・デステイストリア半島イゾラ (スロベニア)イタリック体イタリアイタリアの世界遺産イタリアのイスラム教イタリアの国旗イタリアの歴史イタリア・ルネサンス年表イタリア・トゥッリタイタリア王イタリア王国 (中世)イタリア科学アカデミーイタリア統一運動イタリア語イタリア陸軍イタリア戦争イタリア戦線 (第一次世界大戦)イタリア海軍イタキ島ウマグウルバヌス8世 (ローマ教皇)ウルビーノ戦争ウルツィニウーディネウーゴ・フォスコロウィリアム・キャヴェンディッシュ (第2代デヴォンシャー伯爵)ウィーン会議ウズン・ハサンウズベク・ハンエミリア=ロマーニャ州エルンスト・フォン・マンスフェルトエル・グレコエルベ広場エルコレ1世・デステエルコレ3世・デステエルサレム国王一覧エルサレム王国エンリコエンリコ・ダンドロエンリコ・ダンドロ (エンリコ・トーチ級潜水艦)エヴィア島エピロス専制侯国エティエンヌ・ドレエイレーネー (東ローマ女帝)エウフラシウス聖堂エウドキア・マクレンボリティサエウゲニウス4世 (ローマ教皇)オペラ・セリアオモデオ・タッソオリオ・マストロピエノオルセオロ・ペーテルオージモ条約オットーネ (曖昧さ回避)オトラントの戦いオトラント海峡オプゼンオドリコオドアルド1世・ファルネーゼオスマン帝国オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜オスマン帝国海軍オスマン・東ローマ戦争オセロ (シェイクスピア)カナレットカミロ・デ・レリスカラマタカラ・ムスタファ・パシャカラーウーンカリムノス島カルロヴィッツ条約カルロ・ルッツィーニカルロ・ゴルドーニカルピの戦いカンポ・フォルミオ条約カンポフォルミドカンブレー同盟戦争カンパーニャ・ルーピアカンタレラカ・レッツォーニコカ・ダ・モストカ・ダーリオカール5世 (神聖ローマ皇帝)カールマーン1世カール・フォン・ハラハカーボベルデの歴史カプリーヴァ・デル・フリウーリカテリーニカザマンスカスト (イタリア)カステルフランコ・ヴェーネトカタリーナ・コルナーロガラタガリレオ式望遠鏡ガリレオ・ガリレイガルニャーノガレー船ガレアス船ガールズ&パンツァーガッタメラータガゼット (新聞)キョプリュリュ・アフメト・パシャキラツァ・マリアキリロス・ルカリスキリキア・アルメニア王国キレニアキレニア城キプロスキプロス島キプロス王国キプロス関係記事の一覧キティラ島キアーリの戦いキオッジャキオッジャの戦いキオッジャ戦争ギリシャギリシャ人ギルフォード・ダドリークラウディオ・メールロクリミアの歴史クリミア半島クルヤクルツォラの海戦クルツォラ戦争クルク島クルゾーネクレメンス13世 (ローマ教皇)クレメンス9世 (ローマ教皇)クレモナクレーマクレーマ共和国クレタ島クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァルクロアチアクロアチアの地理クロアチアの歴史クロアチア人クロアチア王国 (925年 - 1102年)クニングラディスカ・ディゾンツォグルジア王国グレゴリウス12世 (ローマ教皇)グレゴリウス13世 (ローマ教皇)グレゴリウス16世 (ローマ教皇)グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレグイドバルド・ダ・モンテフェルトロケルキラケルキラ島ケール包囲戦 (1733年)ゲットーコペルコムネノス王朝コリントスコルチュラ島コルティーナ・ダンペッツォコンドッティエーレコンスタンティノープルコンスタンティノープルの陥落コンスタンティノープル条約 (1479年)コンスタンティノープル条約 (1700年)コンスタンティノス10世ドゥーカスコンスタンティン・フォールコンコンスタンティーヌコーヒーの歴史コトルコトル湾コドローイポコニャック同盟戦争コジモ・デ・メディチゴリツィアゴンドラ (船)ゴシック建築ザダルザイヤーン朝ザキントス島シモン・ボッカネグラシャラモン (ハンガリー王)シャルル8世 (フランス王)シャンルウルファシャンパーニュの大市シルバニヤス島シルクロードシニシニョーリ広場 (ヴィチェンツァ)シニョーリ広場 (ヴェローナ)シベニクシクストゥス4世 (ローマ教皇)ジャンバティスタ・バジーレジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエジャック2世 (キプロス王)ジャック3世 (キプロス王)ジャコポ・デ・ドンディジャコモ・カサノヴァジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)ジョバンニ・デ・ドンディジョン・アダムズジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロジョヴァンニ・モチェニーゴジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンジローラモ・プリウリジェノヴァ共和国ジェム・スルタンジェルバ島の戦いジギスムント・フォン・ルクセンブルクのハンガリー統治スペイン継承戦争スペイン黄金時代美術スレムスキ・カルロヴツィスロベニアの歴史スースストライクウィッチーズスプリトスピナロンガステファン・ネマニッチステファン・ウロシュ1世スカンデルベグセネガルセバスティアーノ・ヴェニエルセリム2世セリフォス島セッテ・コムーニセニゼッキーノソマリアの海事史ソマス・パレオロゴスソルドソウルキャリバーの登場人物サチーレサモトラキ島サルチェード (Sarcedo)サン・マルコ寺院サン・マルコ共和国サン・ピエール・ディゾンツォサン・ザッカリーア教会サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア)サン・ジョルジョ銀行サン・セルヴォーロ島サントリーニ島サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂サヴォイア十字軍サフィエ・スルタン共和主義共和制元老院国民国家知的財産権王者栄耀砂糖社会契約論神聖同盟 (1511年)神聖同盟 (1684年)神聖ローマ帝国移乗攻撃立憲主義第1回十字軍第31回世界遺産委員会第41回世界遺産委員会第4回十字軍第三次イタリア戦争第一次イタリア戦争第二次ブルガリア帝国第二次イタリア戦争第二次ウィーン包囲第六次イタリア戦争笑い死に紅ルーシ産業化以前の装甲艦特許独立主張のある地域一覧白ワイン百年戦争銀行Europa Universalis音楽学校過去に独立していた国の旗一覧聖十字架聖マルコと聖テオドーロの円柱聖パンテレイモン修道院 (オフリド)聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂菓子鐘楼 (サンマルコ広場)香辛料香辛料貿易貨幣史貿易史軍艦旗黒軍 (ハンガリー)黒海黄金のバラ黄金の自由近世における世界の一体化近世から近代にかけての世界の一体化露土戦争 (1686年-1700年)都市国家郵便著作権の歴史金印勅書金貨通信販売通商破壊造船所陰謀論の一覧LEGAの13東ローマ帝国東ローマ帝国の皇帝一覧森林破壊検疫正月歴史のカテゴリ一覧永遠平和条約民主主義消滅した政権一覧渡辺真弓 (建築史学者)未回収のイタリア戦争文学戦国魔神ゴーショーグン我が生涯の物語海賊海軍海洋国家旅芸人の記録教皇選挙賭博1 E10 s1058年1083年1107年1182年1192年11世紀11月1日1205年1252年1275年1285年1307年1354年1355年1373年1382年13世紀1409年1420年1436年1455年1475年1482年1485年1496年14世紀1501年1521年1538年15世紀1640年代1645年1656年1686年17世紀18世紀4月17日6月21日812年9月26日9月7日 インデックスを展開 (747 もっと) »

Approval voting

Approval votingでは、有権者はすべての候補に対して票を投じることができる。 approval voting は、選挙方法の一種である。投票者は1票を投ずるか否かを各々の候補者について別々に行うことができる。被選挙権の乱用から悪影響を受けない。戦略投票が横行しやすいと同時に、その方が望ましい。 一般的に、小選挙区制選挙で用いられる。大選挙区制に拡大させることもできるが、数理的性質は非常に異なる。approval votingは、range voting の単純型であり、有権者の意思を示すことができる範囲がきわめて拘束される。つまりその候補を受け入れるかどうかである。 主に多数代表の性質を持ち、超過投票で票を捨てるルールがない相対多数投票と比較される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とApproval voting · 続きを見る »

ARIA The STATION Tricolore

『ARIA The STATION Tricolore』(アリア ザ ステーション トリコローレ)は、音泉・BEWEとアニメイトTVにて2007年4月5日から2008年3月27日まで毎週木曜日に配信されていたインターネットラジオ番組である。パーソナリティは葉月絵理乃と西村ちなみ。 『ARIA The STATION Neo VENEZIA INFORMALE』( - ネオ・ヴェネツィア・インフォルマーレ)、『ARIA The STATION Due』( - デュエ)に続く「ARIAラジオ」シリーズ3番組目。灯里とアリア社長のラジオ(ARIA The STATION Neo VENEZIA INFORMALE prossimo)も番組名を変えて引き継がれている。 その他、スペシャルで配信された『ARIA The STATION SPECIAL』( - スペチャーレ)についてもここで触れる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とARIA The STATION Tricolore · 続きを見る »

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と執政官 · 続きを見る »

とある魔術の禁書目録の用語

とある魔術の禁書目録の用語(とあるまじゅつのインデックスのようご)では、鎌池和馬のライトノベル作品『とある魔術の禁書目録』の用語について解説する。 本作の全体的な世界観の概要についてはとある魔術の禁書目録#用語・世界観を参照。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国ととある魔術の禁書目録の用語 · 続きを見る »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と十字軍 · 続きを見る »

十字軍国家

1100年ごろの十字軍国家群 十字軍国家(じゅうじぐんこっか)は、正教会とイスラム教が大勢を占めていた11世紀末の東部地中海のシリア・パレスチナ沿岸に、西欧のカトリック国家の騎士や庶民たちが十字軍を編成して攻め込んだ結果、12世紀から13世紀の間成立していた封建制国家群である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と十字軍国家 · 続きを見る »

十人委員会 (ヴェネツィア共和国)

十人委員会(じゅうにんいいんかい、ヴェネツィア語: 、 コンシリオ・ディ・ディエーチ)とは、1310年から1797年に存在したヴェネツィア共和国の統治機構。 Consiglio dei X、CDX、i Dieciなどとも呼ばれ、十人評議会や十人会などとも訳される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と十人委員会 (ヴェネツィア共和国) · 続きを見る »

南スラヴ人

南スラヴ人が多数を占める国 南スラヴ人(みなみスラヴじん)は、スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。 これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と南スラヴ人 · 続きを見る »

反ユダヤ主義

上山安敏2005,p.265.。絵画『エルサレムの包囲と破壊』,David Roberts,1850年 異端判決宣告式。 反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する「反ユダヤ主義」世界大百科事典 第2版。 旧約聖書のエステル記に離散したユダヤ人(ディアスポラ)に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されており、19世紀以降に人種説に基づく立場は反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(antisemitism)とも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と反ユダヤ主義 · 続きを見る »

合理化

合理化(ごうりか、rationalization).

新しい!!: ヴェネツィア共和国と合理化 · 続きを見る »

塩野七生

塩野 七生(しおの ななみ、女性、1937年7月7日 - )は、日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、7月7日生まれであることに由来。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と塩野七生 · 続きを見る »

塙嘉彦

塙 嘉彦(はなわ よしひこ、1935年1月10日 - 1980年1月25日)は、日本の編集者。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と塙嘉彦 · 続きを見る »

墺土戦争 (1716年-1718年)

墺土戦争(おうとせんそう、, 1716年 - 1718年)は、18世紀にオーストリア(ハプスブルク君主国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した戦争である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と墺土戦争 (1716年-1718年) · 続きを見る »

夢の雫、黄金の鳥籠

『夢の雫、黄金の鳥籠』(ゆめのしずく、きんのとりかご)は、篠原千絵による日本の漫画作品。 『姉系プチコミック』(小学館)にて創刊号(『プチコミック』2010年7月号増刊)より連載されている。単行本はフラワーコミックスαより刊行され、2018年4月の時点で既刊11巻。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と夢の雫、黄金の鳥籠 · 続きを見る »

大使館

大使館(たいしかん、英語:Embassy)は、国交が成立している外国に、自国の特命全権大使を駐在させて公務を執行する役所。領事館と共に外交使節団の公館(日本の法令用語では在外公館)と呼ばれる。 なお、イギリス連邦加盟国間では、歴史的経緯から大使館ではなく「高等弁務団(こうとうべんむだん、High Comission)」と称される(当初は加盟国全てがイギリス国王を共通の君主としており、国家元首の代理である大使およびその駐在先としての大使館という名称が不適当だったため。加盟国の中でイギリス国王を君主とする制度を廃止し共和制に移行した国においても、伝統的にこの名称が使われている)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と大使館 · 続きを見る »

大トルコ戦争

大トルコ戦争(だいトルコせんそう、Great Turkish War, 1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリー、トランシルヴァニアを巡るオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の戦争である。1699年のカルロヴィッツ条約締結でオーストリアは再興のきっかけを作り、オスマン帝国は衰退の一途を辿っていった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と大トルコ戦争 · 続きを見る »

大航海時代Online

『大航海時代Online』(だいこうかいじだいおんらいん)は、コーエーテクモゲームスが同社のリコエイションゲーム『大航海時代シリーズ』の世界観をベースに開発したMMOである。 歴史上の大航海時代に基づいて作られた世界の中で、プレイヤーは冒険家・商人・軍人・海賊など様々な立場の登場人物になり切って、探険・交易・海戦などを楽しむことができる。歴史と地理を素材としていることや、世界各地の遺跡や様々な文化遺産、珍しい生物、地理上の発見などが多数登場することから、教養面で評価が高く、インターネットゲームの教育への応用の研究材料とされたり、学校教育への導入が検討されたりしたこともある。海外でもサービスが行われているが、特に断りがない限り、この記事は日本版について説明している。 2005年3月16日よりコーエーが月額課金制でサービスを開始した。Windows用としては『信長の野望Online』に次いで2番目に当たる。2009年4月28日からプレイステーション3、2015年9月15日からはプレイステーション4でのサービスも開始している。2006年8月30日から拡張パック第1弾『La Frontera』、2007年8月22日から拡張パック第2弾『Cruz del Sur』、2009年12月15日から拡張パック第3弾『El Oriente』が実装され、以降2011年2月22日からは拡張パック第4弾『Tierra Americana』、拡張パック第5弾『2nd Age』が2012年9月20日、拡張パック第6弾『Gran Atlas』が2013年12月3日に実装され、拡張パック第7弾『Age of Revolution』が2016年4月19日に実装。拡張パック第8弾『Order of the Prince』が2017年8月29日に実装された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と大航海時代Online · 続きを見る »

外交官

外交官(がいこうかん、)は、外交使節団の長および使節団の職員で外交官の身分を有する外交職員の総称。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と外交官 · 続きを見る »

奴隷市場 (ゲーム)

『奴隷市場』(どれいいちば)は、2000年12月22日にrúf(ルーフ)から発売されたMicrosoft Windows用アダルトゲーム作品。中世の地中海世界を舞台にしている。 2001年12月14日にはリニューアル版『奴隷市場 Renaissance』(どれいいちば ルネッサンス)が発売され、2006年3月10日にはその廉価版が発売されている。 2002年には『奴隷市場 Renaissance』のタイトルでアダルトアニメ化された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と奴隷市場 (ゲーム) · 続きを見る »

宮廷ユダヤ人

宮廷ユダヤ人(きゅうていユダヤじん、英語:Court Jew, ドイツ語:Hofjude(n), Hoffaktor)は、主として中世ヨーロッパにおいて、キリスト教徒の貴族を相手に資金運用や資金貸付を行ったユダヤ人銀行家、金融業者のことを指す言葉。 後に宮廷ユダヤ人と呼ばれる人たちの登場は、ルネッサンス時代に地方の支配者がユダヤ人銀行家に短期の借り入れをしたことに始まる。彼らは貴族に融資する過程で自然と社会的影響力を持った。 金融業のほか、宮廷ユダヤ人は自分たちの仕える貴族のために外交や貿易を行ったり、自分の仕える貴族たちに主として食料・武器・弾薬・貴金属などを、一族やユダヤ人同士の繋がりを利用したりして調達した。 宮廷ユダヤ人は次第に肩書きや、ゲットーの外で住む権利などの社会的特権を獲得するようになる。宮廷ユダヤ人のごく一部は巨大な財力を持ち、また社会的、政治的影響力を得ていった。 宮廷ユダヤ人はその地域のユダヤ人社会の中では突出した存在であり、ユダヤ人社会を保護する事ができた。彼らはユダヤ人たちの中にも影響を与えるようになる。上流階級との接点がある唯一のユダヤ人であるため、他のユダヤ人のために、その地域の支配者への陳情を行ったりもした。 しかし彼らの社会的立場は仕えていた貴族に依存しており、貴族が返済に応じない事もあった。また彼らの保証人であった貴族が死ぬと、国外追放や処刑の危機に直面した。ユダヤ人大量虐殺が起こると、ユダヤ人の金融業者と共に貸付金の多くが闇に消える、ということもあった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と宮廷ユダヤ人 · 続きを見る »

帝国郵便

帝国郵便(ていこくゆうびん、Reichspost)とは神聖ローマ帝国およびドイツ国(ドイツ帝国)における国営郵便事業の名称である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と帝国郵便 · 続きを見る »

中世前期

中世前期(ちゅうせいぜんき)Leonardo Bruni, James Hankins, History of the Florentine people, Volume 1, Books 1–4, (2001), p. xvii.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と中世前期 · 続きを見る »

中世盛期

中世において中世盛期(ちゅうせいせいき)とは、ヨーロッパ史において11, 12, 13世紀を中心とする時代で、歴史上の時代区分としては中世前期の後、中世後期の前とされる。中世後期は1500年までには終了したと考えるのが慣例である。 ヨーロッパ史における中世盛期に顕著な傾向として、大幅な人口増が挙げられる。これによって、前時代からは政治的・経済的に大きな変化が生じた。1250年の大幅な人口増によって引き起こされた経済成長は、地域によっては19世紀までは二度と実現されなかったほど大幅なものであった。しかし、こうした人口増加は、中世後期になるとしばしば発生した災難(ペストが有名だが、戦争や経済停滞も含まれる)によって抑制されることになった。 780年頃以降、西ヨーロッパでは民族移動時代が終わりをつげ、政治的・社会的な組織化が促進された。南欧で繁栄したイスラム系諸国は、ヨーロッパにおける科学と哲学の復興をもたらした。ボローニャ、サレルノ、パリ、モデーナには最初の大学が設立された。バイキング達はブリテン諸島やフランスをはじめ各地に定住したが、同時にキリスト教を国教としたノルド人達の諸王国は、故地であるスカンディナヴィアでも発展を続けた。マジャル人は10世紀頃に侵入を停止し、1000年頃までにはキリスト教国であるハンガリー王国として、地域の諸大国と同盟を結びつつ、中央ヨーロッパにおけるその地位を固めた。一過性に例外的事件としてモンゴルの征服はあったが、おおむね異民族の侵入はこの時代に終わったと言えよう。 11世紀になると、アルプス山脈の北方にいたゲルマン人達は新たな土地を求めて入植を始めたが、こうした植民地の中にはローマ帝国の滅亡後には荒れ地に戻っていた場所もある。ヨーロッパに残っていた広大な森林や湿地はこの時代に開墾され耕作地となったが、この変化はグレート・クリアランスと呼ばれる。また、入植活動はフランク王国の旧来の国教線を越えて東方の未開地に及び、エルベ川を超えて東に拡張する過程でドイツ人の居住地は3倍に拡大した。依然として強力な指導力を保っていたカトリック教会は、聖地を占領したセルジューク・トルコに対する一連の十字軍遠征を全ヨーロッパに呼びかけ、それによりレバントに十字軍国家を建国した。北方ではバルト海の植民地化が行われ、イベリア半島ではキリスト教諸国軍がムーア人をレコンキスタによって駆逐し、ノルマン人は南イタリアに植民したが、こうした活動は全て、この時代に起きた人口の大幅な増加とその結果としての移住のパターンとして読み解くことが出来る。 中世盛期には、知的で精神的な芸術作品の分野に多くの様式が生まれた。また、この時代にはエスノセントリズムの萌芽が見られるが、これは後に近代ヨーロッパ諸国に見られた国民国家の思想につながるものである。イタリアでは諸々の都市国家が興隆し、イベリア半島ではアンダルスの勃興と没落があった。アリストテレスの著作群が再発見されたことは、トマス・アクィナスをはじめとする思想家がスコラ学を発展させるきっかけとなった。建築では、有名なゴシック大聖堂の多くの建設が、この時代に着工され、あるいは完成されている。中世盛期という時代区分は、中世後期の危機と呼ばれる14世紀に始まった相次ぐペストの流行や飢饉の発生よって区切られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と中世盛期 · 続きを見る »

丸ぼうろ

佐賀県産の丸ぼうろ。写真は佐賀県産丸ぼうろ発祥とされる北島と鶴屋の丸ぼうろ。(左:北島の「丸芳露」)(右:鶴屋の「丸房露」) 丸ぼうろ(まるぼうろ)は、佐賀県佐賀市を代表する銘菓の一つ。「丸芳露」「丸房露」などと記載される場合もある。また、大分県中津市も丸ぼうろを名産品としている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と丸ぼうろ · 続きを見る »

三十年戦争

三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる中村賢二郎「三十年戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)。中村賢二郎「三十年戦争」世界大百科事典 第2版Sigfrid 1973。当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。統一的な様相としては、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と三十年戦争 · 続きを見る »

五大国

五大国(ごたいこく)は、ある範囲(通常は全世界だが例外もあり)を政治経済・軍事の両面でリードする5つの大国のことである。五大国の内訳は時代によって変化してきた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と五大国 · 続きを見る »

地中海

地中海(ちちゅうかい、Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。海洋学上の地中海の一つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と地中海 · 続きを見る »

北イタリア

北イタリア(きたイタリア)は、イタリアの北部地域の呼称。南北に二分する場合と、北部・中部・南部に三分する場合があるが、主に後者の場合が多い。後者の意味での北イタリアの異称として、元々ポー平原を意味するパダーニャ (Padania; パダーニア、パダニア)の呼称も用いられ、独立もしくは地域主権を志向する立場からの支持を受ける。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と北イタリア · 続きを見る »

ナバス・デ・トロサの戦い

ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語:Batalla de Las Navas de Tolosa.、アラビア語:معركة العقاب.)は、1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ラ・カロリナ内のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とナバス・デ・トロサの戦い · 続きを見る »

ペーターヴァルダインの戦い

ペーターヴァルダインの戦い(Schlacht von Peterwardein)は、墺土戦争における戦闘の一つで、1716年8月5日に現在のセルビア・ヴォイヴォディナ自治州南バチュカ郡の都市ペトロヴァラディン(ペーターヴァルダイン)でハプスブルク帝国(オーストリア)とオスマン帝国が衝突した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とペーターヴァルダインの戦い · 続きを見る »

ナフプリオ

ナフプリオ(Ναύπλιο / Nafplio) または ナフプリオン(カサレヴサ: Ναύπλιον / Nafplion)は、ギリシャ共和国ペロポネソス地方にある都市で、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。アルゴリダ県の県都である。 ペロポネソス半島北東部に位置し、古代以来の歴史を持つ港湾都市である。ギリシャ独立戦争中の1829年からギリシャ王国建国直後の1834年まではギリシャの首都が置かれた。しばしば、「近代ギリシャ最初の首都」として言及される「ナフプリオン」、三省堂編集所編『コンサイス外国地名辞典 改訂版』(三省堂、1985年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とナフプリオ · 続きを見る »

ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公)

ペドロ・デ・ポルトゥガル(Infante Pedro de Portugal, Duque de Coimbra, 1392年 - 1449年5月20日)は、ポルトガル・アヴィス家の王族。コインブラ公。ジョアン1世と王妃フィリパの三男として生まれた。ポルトガルでは、ペドロが外国旅行を長くしたことから、Infante D. Pedro das Sete Partidas(世界の七カ所の王子)の名前で有名である。当時珍しい外国旅行をした人物で、1439年から1448年まで摂政を務めた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公) · 続きを見る »

ナクソス島

ナクソス島 (Νάξος / Naxos、Nasso、Nakşa) は、エーゲ海中部・キクラデス諸島に属するギリシャ領の島。キクラデス諸島中最大の島(面積428km)で、島の総人口は1万8188人(2001年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とナクソス島 · 続きを見る »

ナクソス公国

ナクソス公国(Ducato di Nasso, Δουκάτον Νάξου, Duchy of Naxos)は第4回十字軍の後に、エーゲ海上にあるナクソス島やパロス島を中心として、ヴェネツィア人が建設した十字軍国家である。群島公国(Ducato dell'arcipelago, Δουκάτον Αρχιπελάγους, Duchy of the Archipelago)やエーゲ公国(Ducato dell' Egeopelagi, Δουκάτον Αιγαίου, Duchy of the Aegean)とも呼ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とナクソス公国 · 続きを見る »

ペグー王朝

ペグー王朝は、13世紀末よりビルマ(ミャンマー)のペグー(バゴー)を首都としてエーヤワディー川流域の南部(下ビルマ)を支配した王朝。 建国者のワーレルーはシャン族の人間であるが、事実上モン族の国家と見なされている大野『謎の仏教王国パガン』、232頁の王朝。港市国家に分類される奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、263頁。この王朝を指す際に、ペグーの旧称であるハンターワディー(ハムサワティ)にちなんだハンターワディー王朝(ဟံသာဝတီ ပဲခူး တိုင်းပြည်、モン語: )の名称が使用されることも多い。 下ビルマには11世紀初頭までモン族の国家であるが存在していたが、タトゥン王国がビルマ族の国家であるパガン王朝によって征服された後、13世紀末にモン族の王朝が再興された経緯については不明な点が多いケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、184頁。遅くとも15世紀の時点のペグー王朝は、過去に存在したモン族の国家とは全く異なる性質を有していた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とペグー王朝 · 続きを見る »

ミハイル3世シシュマン

ミハイル3世シシュマン(Михаил III Шишман、1280年以後 - 1330年7月31日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1323年 - 1330年)。正確な生年は不明であるが、1280年から1292年の間に生まれたと考えられている。 ミハイル3世は第二次ブルガリア帝国の最後の王朝であるシシュマン朝の建国者であるが、即位直後にはアセンの名前を名乗り、第二次ブルガリア帝国最初の王朝であるアセン朝との繋がりを強調した。 ミハイル3世は精力的かつ野心的な君主であり、敵対するビザンツ帝国(東ローマ帝国)とセルビア王国に硬軟織り交ぜた外交政策を展開したが、1330年7月28日のヴェルブジュドの戦いで敗れ、陣没した。バルカン半島におけるブルガリア帝国の政治的・軍事的覇権の回復を目指して活動し、またビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの占領を試みた最後の中世ブルガリア世界の君主だった。 彼の死後、子のイヴァン・ステファン、次いで甥のイヴァン・アレクサンダルが跡を継ぎ、イヴァン・アレクサンダルはミハイル3世の政策を翻してセルビアと同盟を結んだKazhdan, "Michael III Šišman", 1365頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミハイル3世シシュマン · 続きを見る »

ミラノ公国

人を飲み込む竜はミラノの昔話からきており、ヴィスコンティ家の紋章でもあった。現在はミラノのシンボルとして定着しており、アルファロメオのロゴの元にもなっている。 ミラノ公国(Ducato di Milano, Ducatus Mediolani)は、1395年から1535年(断続あり)までイタリア北部の都市ミラノを首都として存在した公国である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミラノ公国 · 続きを見る »

ミラビリス・リベル

『ミラビリス・リベル』(パリ、1520年代)。後述するC2版 『ミラビリス・リベル』 (Mirabilis Liber) は、1520年代にフランスで刊行された編者不明の予言集である。フランスで最初に出版された予言アンソロジーで、古今の著名な聖人たちの予言を集めたという体裁になっており、実質的に中世のキリスト教的終末論を独自の視点で総括したものになっている。何度も再版され、同時代の占星術師や神秘思想家たちに対し、直接・間接的に少なからぬ影響を及ぼした。 なお、「ミラビリス・リベル」とは「驚異の書」を意味するラテン語であるが、今日の英語圏、仏語圏の関連文献などでも訳出されることはほとんどなく、半ば固有名詞化しているため、ここでもそのように扱う。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミラビリス・リベル · 続きを見る »

ミンガン

ミンガン(、)とはモンゴル語で「千」を表す単語であり、転じてモンゴル帝国時代には千人の軍隊を供出する軍事・政治上の行政単位及びその長官をミンガン(千戸、千人隊/千戸長、千人隊長)と称した。 十進法区分に基づいた軍隊の編成自体は紀元前より遊牧国家で行われている伝統的な制度であるが、チンギス・カンの創設した「千人隊」は旧来の氏族的紐帯を解体し、自ら(カーン/大ハーン)に絶対的な忠誠心を有する親兵たちを千人隊長に任命して編制された点に特徴があった。このため、千人隊を基盤とするモンゴル軍は氏族間のしがらみに囚われずカーンの命令に絶対服従する軍団として機能し、モンゴル帝国による諸国征服の大きな原動力となった。 また、千人隊は軍制上の単位としてだけではなく、行政単位としての側面も持っていた。千人隊長は各自遊牧民と遊牧地(nutuq)を割り当てられ、これに征服戦争で得た捕虜を加えて新たな部落(アイマグ)を形成した。千人隊長は千人隊の軍事上の指揮官であると同時に部落の長・領主であり、千人隊長は自らの部落(アイマグ)を統治し常時千人隊を供出することができるよう維持することを義務づけられた。 千人隊長はモンゴル帝国の根幹を為す高官であり、モンゴル帝国を統治する貴族層(Noyanノヤン)と位置づけられていた。千人隊長たるノヤンと被征服民出身の官僚との間には厳然たる区別があり、ノヤンは帝国の重大事項(カーンの選出など)を決定するクリルタイへの出席を許されるなど種々の特権を有していた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミンガン · 続きを見る »

ミカエル7世ドゥーカス

ミカエル7世ドゥーカス“パラピナケス”(ギリシア語:Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης (Mikhaēl VII Dūkas o Parapinakēs)、1050年 - 1090年?)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の皇帝(在位:1071年 - 1078年)。コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子。“パラピナケス”は「4分の1を失った」という意味のあだ名。彼の治世中、それまで金貨1ノミスマで1メディムノス買えたのが、物価上昇で4分の3メディムノスしか買えなくなってしまったことに由来する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミカエル7世ドゥーカス · 続きを見る »

ミカエル8世パレオロゴス

ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 1225年 - 1282年12月11日)は、東ローマ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝の初代皇帝(在位:1261年 - 1282年)。後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世パライオロゴスと表記される場合もある。中世ギリシア語表記ではミハイル8世パレオロゴス。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とミカエル8世パレオロゴス · 続きを見る »

マリーノ・ファリエロ

ドゥカーレ宮殿の大評議会の間で肖像画の代わりに描かれた黒いバナー。ラテン語で「ここはマリーノ・ファリエロのスペースで、犯罪によって斬首された」と書かれている。 マリーノ・ファリエロ (Marino Faliero, 1285年 - 1355年4月17日)は、ヴェネツィアの第55代元首(ドージェ)。マリーン・ファリエル(Marin Falier)とも呼ばれる。1354年9月に元首となった。 マリーノは、1355年に自身が世襲君主となるべくクーデターを起こした。ヴェネツィア貴族への強い憎しみと、自身の年齢に由来する思考能力の低下(マリーノは当時70歳だった)により、失敗の見える行動を起こしたとみなされた。彼は自身の全ての罪を弁護し、処刑され、死後に四肢を切り刻まれた。他に10人の協力者が、処刑された後ドゥカーレ宮殿の外に吊された。 彼は記録抹殺刑に処せられ、初代元首から76代までの元首の肖像が飾られる宮殿内には彼のものはない。(元首の肖像が飾られているエリアの一角に、肖像画の代わりに黒いバナーが描かれている箇所があり、そこがマリーノ・ファリエロの場所である).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマリーノ・ファリエロ · 続きを見る »

マリエット・ド・パトラ

マリエット・ド・パトラ(Mariette de Patras, ? - 1503年4月12日)は、キプロス王国のジャン2世王のギリシャ人の愛妾。ジャック2世王の母。「ド・パトラ(de Patras)」は姓ではなく、モレアス専制公領内の都市パトラ出身であったことを指している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマリエット・ド・パトラ · 続きを見る »

ノルマン・東ローマ戦争

ノルマン・東ローマ戦争 は、ノルマン人傭兵と、ノルマン人が建国したシチリア王国、アンティオキア公国と東ローマ帝国との間で行われた戦争である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とノルマン・東ローマ戦争 · 続きを見る »

ノルウェー十字軍

ノルウェー十字軍はノルウェー王シグルズ1世直々に率いた第1回十字軍の後の1107年から1110年にかけての十字軍。シグルズは聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王であり、戦闘中に死去しなかった。ノルウェー十字軍は以前のヴァイキングの行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とノルウェー十字軍 · 続きを見る »

マルカントニオ・トレヴィザン

マルカントニオ・トレヴィザン (Marcantonio Trevisan,1475年 - 1554年5月31日)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。トレヴィザーノ(Trevisano)という表記もされる。(在任1553年 - 1554年) Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:1475年生 Category:1554年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマルカントニオ・トレヴィザン · 続きを見る »

マルコ (福音記者)

福音記者マルコ(San Marco Evangelista、Mark the Evangelist)は新約聖書の『マルコによる福音書』の著者とされる人物。ギリシア語ではマルコス。マルクとも表記する。マルコスというのはギリシャ名としては一般的なものであり、また同書の中には筆者の名は直接には記されていないが、伝承は『使徒行伝』からパウロの書簡にたびたびあらわれるマルコなる人物を同一人物と考え、福音記者とみなしてきた。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。カトリック教会・正教会での記念日(記憶日・聖名祝日)は4月25日(ユリウス暦を使用する正教会では5月8日に相当)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマルコ (福音記者) · 続きを見る »

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマルコ・ポーロ · 続きを見る »

マルコ・ポーロ 大冒険

『マルコ・ポーロ 大冒険』(マルコ・ポーロ だいぼうけん、La fabuleuse aventure de Marco Polo (L'echiquier de Dieu) 「マルコ・ポーロの素晴らしい冒険 (神のチェス盤)」の意)は、1962年製作開始、1965年公開、ドニス・ド・ラ・パテリエール、ラウール・レヴィ、ノエル・ハワード共同監督による、フランス・イタリア・ユーゴスラヴィア・アフガニスタン合作の長篇劇映画である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマルコ・ポーロ 大冒険 · 続きを見る »

マロースティカ

マロースティカ(Marostica)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約1万4000人の基礎自治体(コムーネ)。 2年に一度、人間チェスが行われることで知られており、「チェスの街」(la città degli scacchi)とも呼ばれる。サクランボの産地でもあり、「マロースティカのサクランボ」は原産地名称保護制度の一種である地理的表示(IGP)の指定を受けている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマロースティカ · 続きを見る »

マントヴァ

テ宮殿 パラッツォ・ドゥカーレ マントヴァ最古の教会、ロトンダ・ディ・サン・ロレンツォ マントヴァ(Mantova )は、イタリア共和国ロンバルディア州南東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約4万9000人の基礎自治体(コムーネ)。マントヴァ県の県都である。 マントヴァは三方を12世紀につくられた人工湖によって囲まれている。これらはガルダ湖から発したミンチョ川の水をせき止めたものである。3つの湖はそれぞれ大きな方から、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖と呼ばれている。4番目の湖パジョロ湖はかつて市を環状に巡った防御用のものであったが、18世紀末に干拓された。 マントヴァは、ウィリアム・シェイクスピア作の悲劇『ロミオとジュリエット』の中に登場する。劇中、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放される。彼はただちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いてヴェローナへ帰還する。 またヴェルディ作曲のオペラ「リゴレット」の舞台であり、市内にはオペラに縁のある建物や登場人物の像が現存するが、劇中の人物は全て架空の人物である。 マントヴァは、カトリック教会のマントヴァ司教座が置かれている。 マントヴァの中心市街などは、サッビオネータの中心部とともに「マントヴァとサッビオネータ」の名で世界遺産リストに登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマントヴァ · 続きを見る »

マントヴァ公国

マントヴァ公国(マントヴァこうこく、Ducato di Mantova)は、中世イタリアにおいて存在した君主国である。首都はマントヴァ。 1433年に、長年マントヴァの僭主(シニョーレ)であったゴンザーガ家が侯爵の地位を獲得して領主となり、フェデリーコ2世が1530年に公爵に昇格したことにより、マントヴァ侯国から公国となった。 1708年にフェルディナンド・カルロ(カルロ3世)が亡くなると、ミラノ公国に編入され、オーストリア・ハプスブルク家領となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマントヴァ公国 · 続きを見る »

ノヴィグラード (イストラ郡)

ノヴィグラード (Novigrad 、Cittanovaまたは Cittanova d'Istria ) はクロアチア西部イストラ郡の町、基礎自治体。クロアチアにはノヴィグラードと名づけられた同名の町が3つあるため、特に Novigrad Istarski とも呼ばれる(ノヴィ・グラードの曖昧さ回避ページ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とノヴィグラード (イストラ郡) · 続きを見る »

ノヴェー・ザームキ

ノヴェー・ザームキ (スロバキア語:Nové Zámky、マジャル語:Érsekújvárエールシェクーイヴァール、ドイツ語:Neuhäuslノイホイゼル、トルコ語:Uyvar、ラテン語:Novum Castrum)は、スロバキア、ニトラ県の都市。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とノヴェー・ザームキ · 続きを見る »

マーカントニオ・コロンナ

マーカントニオ・コロンナ(Marcantonio Colonna、1535年 - 1584年8月1日)は、ローマの名家コロンナ家出身の提督。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマーカントニオ・コロンナ · 続きを見る »

マヌエル1世 (ポルトガル王)

マヌエル1世(Manuel I, 1469年5月31日 - 1521年12月13日)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王 と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマヌエル1世 (ポルトガル王) · 続きを見る »

マヌエル1世コムネノス

マヌエル1世コムネノス“メガス”(ギリシア語:Μανουήλ Α' Κομνηνός o Μέγας (Manūēl I Komnēnos o Megas)、1118年11月28日 - 1180年9月24日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第3代皇帝(在位:1143年 - 1180年)。同王朝第2代皇帝ヨハネス2世コムネノスとハンガリー王女エイレーネー(イレーネー)の子。 “メガス”は「偉大なる」という意味のあだな。彼に仕えたものが非常な忠誠心を抱き、秘書や配下の将兵に賞賛されたことに由来する。中世ギリシア語では「マヌイル1世コムニノス」。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマヌエル1世コムネノス · 続きを見る »

マカルスカ

マカルスカ(クロアチア語:Makarska、イタリア語:Macarsca)は、クロアチア南部に位置するアドリア海に面した町(grad)、およびそれを中心とした自治体であり、スプリトから南に60キロメートル、ドゥブロヴニクから北西に140キロメートルにある。行政区分としてのマカルスカは町(grad)であり、スプリト=ダルマチア郡の一部である。 町はビオコヴォ山脈(Biokovo)とアドリア海に挟まれた、馬蹄型の入り江に広がっており、有力な観光地となっている。ヤシの木が並ぶ海辺の散歩道には、しゃれたカフェやバー、ブティックが立ち並び、数多くの観光用の船が係留されている。 マカルスカの中心を成す旧市街は石畳の細い路地が入り組んでおり、教会前の中心広場には花や果物の市場があり、フランシスコ会の修道院には巨大なハマグリの貝殻をはじめとする貝殻のコレクションがある。 町はマカルスカ海岸(Makarsko primorje)の中心を占めている。海岸はブレラ(Brela) からグラダツ(Gradac)にかけて60キロメートルにわたって広がっている。夏季になるとクロアチア国内のほか、ドイツ、オーストリア、チェコ、スロバキア、スウェーデン、スロベニア、ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめ、各国から観光客が集まってくる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマカルスカ · 続きを見る »

マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)

マクシミリアン1世(Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1508年 - 1519年)、ローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)、オーストリア大公。 自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝(Maximilian der Große)と称される。また武勇に秀でな体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

マグナート陰謀

トランシルヴァニアは紫色で示されている ヴェシェレーニ陰謀(ハンガリー語:Wesselényi-összeesküvés )、ズリンスキ=フランコパン陰謀(クロアチア語:Zrinsko-frankopanska urota)またはマグナート陰謀(ドイツ語:Magnatenverschwörung)は、17世紀のハンガリーで起きた陰謀事件。ハンガリーからハプスブルク帝国その他の諸外国の支配を排除しようとして計画されたMagyar Régészeti, Művészettörténeti és Éremtani Társulat.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とマグナート陰謀 · 続きを見る »

チャールズ・モンタギュー (初代マンチェスター公爵)

初代マンチェスター公爵・第4代マンチェスター伯爵チャールズ・エドワード・モンタギュー(Charles Edward Montagu, 1st Duke of Manchester, 4th Earl of Manchester, 、生年不詳 - 1722年1月20日)は、イギリスの政治家、外交官、貴族。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチャールズ・モンタギュー (初代マンチェスター公爵) · 続きを見る »

チヴィダーレ・デル・フリウーリ

チヴィダーレ・デル・フリウーリ(Cividale del Friuli)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。 この都市は、ユリウス・カエサルが築いた古代都市にさかのぼり、中世にはこの地方の政治的な中心都市のひとつであった。フリウーリという地方名はこの都市の古名が起源となっている。現在は静かな小都市であり、中世の面影を残した市街地は観光地となっている。ランゴバルド王国が遺した遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチヴィダーレ・デル・フリウーリ · 続きを見る »

チッタデッラ

チッタデッラ (Cittadella) は、人口19,835人のイタリア共和国ヴェネト州パドヴァ県のコムーネの一つである。 ヴェネト語では「Sitadeła」。 古代ローマ時代に遡る長い歴史を持つ町で、碁盤の目状の街路を持つ旧市街は中世に築かれた円形の城壁に囲まれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチッタデッラ · 続きを見る »

チプロフツィ

チプロフツィ(ブルガリア語:Чипровци / Chiprovtsi、IPA: )は、ブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。モンタナ州に属する。バルカン山脈の西部、オゴスタ川(Огоста / Ogosta)の岸にそって広がる。セルビアとブルガリアとの国境に近い。2008年の時点で、チプロフツィの町にはおよそ2000人の住民がある。また、自治体全域ではおよそ3900人の人口がある。チプロフツィ自治体には、チプロフツィの町のほかに9つの周辺の集落が含まれている。 チプロフツィは、中世後期に鉱業と鍛冶の拠点として築かれたものと考えられている。この地にやってきたドイツ人の鉱石採掘者たちによってカトリックの信仰が持ち込まれ、町は文化的・経済的な拠点となるとともにブルガリアにおけるカトリックの拠点となり、オスマン帝国統治時代の初期までブルガリア北西部でその地位を保った。しかし、その繁栄は1688年の反オスマン帝国のチプロフツィ蜂起によって終わりを迎えた。蜂起が鎮圧されてからは、町の住民の一部はハプスブルク家の支配する地域へと逃れた。町を脱出できなかった者たちはオスマン帝国によって殺害されるか奴隷化された。 30年間にわたって無人となった後、1720年代からは町には正教徒のブルガリア人が居住を始めた。これに続いて、チプロフツィの町はブルガリアの絨毯生産の拠点として発展することになった。このほかの伝統的な産業には、畜産、農業、皮革売買などがあった。こんにち、チプロフツィ自治体では人口減少に直面しており、失業率も高い。しかし、この地の蛍石の鉱脈の大規模な掘削に対して投資され、また観光産業によって、町の経済が維持されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチプロフツィ · 続きを見る »

チェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリア

チェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリア(Centurione II Asan Zaccaria, ギリシア語表記:Κεντυρίων Ασάνης Ζαχαρίας, ? 1432年)はイタリア・ジェノヴァ出身の最後のアカイア公(在位:1404年 - 1432年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリア · 続きを見る »

チェーザレ・ボルジア

ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia, duca di Valentino 、César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cèsar Borja、1475年9月13日(14日説有)(1476年生誕と英語版wikiにあるが文献から確認取れず、コメントアウト) - 1507年3月12日)は、イタリア・ルネサンス期の軍人・政治家。なお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般にガイウス・ユリウス・カエサル(ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)を指すため、現地でチェーザレ・ボルジアは「ヴァレンティーノ公」と呼ばれることが多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチェーザレ・ボルジア · 続きを見る »

チジック・ハウス

チジック・ハウス (Chiswick House) は、イギリス、西ロンドンのチジック、バーリントン通りに現存するパッラーディオ建築の建物 (ヴィラ) である。第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル (1694年 - 1753年) の設計で1729年に完成した。26.33ヘクタール (65.1エーカー)の敷地を持つ建物と庭園の大半は建築家で造園家のウィリアム・ケント (1685年 - 1748年) によって作られ、イギリス式庭園 (English landscape garden) の初期の代表作の一つである。 最初の所有者であるリチャード・ボイルが1753年に亡くなり、翌1754年には生き残っていた彼の最後の娘、シャーロット・キャヴェンディッシュ (1731年 - 1754年) が、そして1758年にリチャードの妻であったドロシー・サヴィル (1699年 - 1758年) が亡くなった。資産はシャーロットの夫であった第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ (1720年 - 1764年) に譲られた。さらに1764年にウィリアムが亡くなると邸宅は彼らの長男、第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム (1748年 - 1811年) (英語版) に譲られた。ウィリアムが1774年に結婚した妻、ジョージアナ・スペンサー (1757年 - 1806年) はファッションや政治の世界で非常に目立ち、物議を醸す存在であったが、彼女は長い間ここを別宅として、そしてまたホイッグ党の本拠地として使った。チャールズ・ジェームズ・フォックス (1749年 - 1806年) はここで亡くなり、トーリー党首相、ジョージ・カニング (1770年 - 1827年) もまたこの邸宅のジョン・ホワイトウィング にある寝室で亡くなった。 19世紀の間この邸宅は荒廃していき、1892年にはキャヴェンディッシュ家により貸し出されて、精神病院の収容棟、チジック・アサイラム (Chiswick Asylum) (英語版) として使われるようになった。1929年、第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャヴェンディッシュ (1868年 - 1938年) はミドルセックス州議会にチジック・ハウスを売却し、その後消防署として使われることとなった。建物は第二次世界大戦で損傷を受け、1944年にはドイツのV2ロケットで二つあるウィングの片方が破壊された。1956年には両ウィングとも取り壊された。 現在、この建物はイギリスの指定建造物 (Listed building) (英語版) のグレードIにリストアップされており、イングリッシュ・ヘリテッジ により維持されている。大きな庭園を有しているため、チジック・ハウス・アンド・ガーデンズという名称で呼ばれることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とチジック・ハウス · 続きを見る »

ハルキス

ハルキダ(現代ギリシャ語: Χαλκίδα / Chalkida)は、ギリシャ共和国中央ギリシャ地方のエヴィア島(古名: エウボイア島)にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。エヴィア県の県都であるとともに、中央ギリシャ地方で最大の人口を擁する都市でもある。に立地し、古代ギリシャ時代から都市として繁栄した。 古代ギリシア語およびカサレヴサでは Χαλκίς (古典音転記: Khalkís、現代音転記: Chalkis)であり、カルキスもしくはハルキスと表記される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とハルキス · 続きを見る »

ハンガリー・アンジュー朝

アンジュー朝時代のハンガリーの旗 ハンガリー・アンジュー朝(ハンガリー語:Anjou-kor)は、1308年から1395年までハンガリー王国を支配した王朝。フランス・カペー家の支族で、ナポリ王国を支配したアンジュー=シチリア家の支流による王朝である。この王朝下でハンガリーは黄金時代を迎えたが、王国衰退の遠因が発芽した時代でもあった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とハンガリー・アンジュー朝 · 続きを見る »

ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)

ハドリアヌス4世(Hadrianus IV, 1100年頃 - 1159年9月1日)は、第169代のローマ教皇(在位:1154年 - 1159年)。教皇となった唯一のイングランド出身者である。本名はニコラス・ブレイクスピア(Nicholas Breakspear または Breakspeare)。イングランド東部のアボッツ・ラングレー(現在のハートフォードシャー)教区内のブレイクスピア農場に生まれ ブレイクスピア農場は1960年代に住宅地開発のため取り壊された。場所は現在の一地域である。、セント・オールバンズの修道院学校(セント・オールバンズ校)で学んだ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とハドリアヌス4世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ハニア

ハニア(Chaniá、ギリシャ語: Χανιά, 、HaniaまたはKhania、ヴェネツィア方言:Canea、オスマン語: خانيه /Hanya)は、ギリシャの都市。クレタ島で2番目に大きく、ハニア県の県都。島北岸にあり、レシムノのおよそ西70km、ヘラクリオンの西約145kmにある。日本ではカニアとも表示される。 基礎自治体ハニアの公式な人口は55,838人だが、周辺の人口を含めた都市圏で70,000人の人口を抱える。人口密度は4,248.1/平方kmで、アテネ、テッサロニキの各都市圏外では最も人口密度が高い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とハニア · 続きを見る »

バチカンのスイス衛兵

ヨハネ・パウロ2世とヨハネ23世の列聖式での教皇フランシスコとスイス衛兵。 バチカンのスイス衛兵(バチカンのスイスえいへい、Pontificia Cohors Helvetica, Cohors Pedestris Helvetiorum a Sacra Custodia Pontificis; Guardia Svizzera Pontificia; Pontifical Swiss Guard, Papal Swiss Guard, Swiss Guard; Päpstliche Schweizergarde; Garde suisse pontificale)は、バチカン市国とローマ教皇を警護する衛兵のことである。スイス傭兵を使用したことから「スイス衛兵」「スイス傭兵」などと言われる。現在ではスイスは傭兵制度を廃止しているが、儀礼的要素が強いことなどから例外として維持されている。21世紀現在では数少ない傭兵隊であり、現存する国軍では創設時期が最古の軍である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバチカンのスイス衛兵 · 続きを見る »

バヤズィト2世

バヤズィト2世(トルコ語:II.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバヤズィト2世 · 続きを見る »

バルトロメオ・デ・セルマ

バルトロメオ・デ・セルマ・イ・サラベルデ(Bartolomeo de Selma y Salaverde, 1595年頃 - 1638年以後)は、スペインの作曲家、ファゴット奏者。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバルトロメオ・デ・セルマ · 続きを見る »

バルトロメオ・クリストフォリ

バルトロメオ・クリストフォリ バルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコ(Bartolomeo Cristofori di Francesco, 1655年5月4日パドヴァ - 1731年1月27日フィレンツェ)は、フィレンツェのメディチ家に仕えた楽器製作家。ピアノを発明した人物として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバルトロメオ・クリストフォリ · 続きを見る »

バルダッサーレ・ロンゲーナ

バルダッサーレ・ロンゲーナ(Baldassarre Longhena、1598年 - 1682年2月18日)は主にヴェネツィアで活動した17世紀の建築家で、当時のヴェネツィアでのバロック建築を代表する建築家である。 ロンゲーナの代表作とされているサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバルダッサーレ・ロンゲーナ · 続きを見る »

バルカンの歴史

バルカン バルカンの歴史では、南東ヨーロッパのバルカン地域の歴史の年表をしめす。 伝統的にバルカンとみなされる地域は、現在の国家で表せば以下のとおり。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバルカンの歴史 · 続きを見る »

バール (モンテネグロ)

バール(モンテネグロ語・Bar/Бар)はモンテネグロの町および基礎自治体で、アドリア海沿岸に位置する重要な港湾都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバール (モンテネグロ) · 続きを見る »

バッサーノ・デル・グラッパ

バッサーノ・デル・グラッパ(Bassano del Grappa)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約4万人の基礎自治体(コムーネ)。県内第二位の人口を有するコムーネである。 特産品は蒸留酒のグラッパ、ホワイトアスパラガス。北イタリアの有名な陶器生産地のうちの一つでもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバッサーノ・デル・グラッパ · 続きを見る »

バニョーリ・ディ・ソプラ

バニョーリ・ディ・ソプラ(Bagnoli di Sopra)は、イタリア共和国ヴェネト州パドヴァ県にある、人口約3600人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とバニョーリ・ディ・ソプラ · 続きを見る »

ポルトガルの歴史

ポルトガルの歴史は現在のポルトガル共和国の領域で展開した歴史である。古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けた。レコンキスタの進行した、12世紀にポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。その後、海外へと植民地を獲得して隆盛を極めたのち、ナポレオン戦争で王制は動揺した。近代には共和制に移った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポルトガルの歴史 · 続きを見る »

ポルトガル海上帝国

1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。 ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語:Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポルトガル海上帝国 · 続きを見る »

ポルデノーネ

ポルデノーネ(Pordenone )は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万2000人の基礎自治体(コムーネ)。ポルデノーネ県の県都で、フリウーリ地方西部の中心都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポルデノーネ · 続きを見る »

ポレッチ

ポレッチ (クロアチア語:Poreč、イタリア語:パレンツォ Parenzo、ラテン語:ParensまたはParentium、ドイツ語:パレンツ Parenz)は、クロアチア・イストラ郡の都市。イストリア半島西岸にある。 ポレッチはおよそ2,000年の歴史をもち、小さなスヴェチ・ニコラ島(聖ニコラオス島)によって海から港が守られている。市の人口およそ12,000人はほとんどが周辺に住み、ポレッチ地域全体の人口はおよそ17,000人になる。市の面積は139平方キロメートルで、ノヴィグラード(イタリア語名チッタノヴァ)近郊のミルナ川から南方のフンタナ(イタリア語名フォンターナ)とヴルサル(イタリア語名オルセーラ)まで伸びる37キロの長い海岸線を持つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポレッチ · 続きを見る »

ポンテ

ポンテ (Ponte) はイタリア語などに見られる姓または地名。イタリア語で橋の意味である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポンテ · 続きを見る »

ポヴェーリア

ポヴェーリア(Poveglia)は、イタリア・ヴェネツィアの潟にある島。ヴェネツィア本島の南、リード島の内側にある。面積は17エーカー(0.07平方キロメートル)。ポヴェーリアは、水路によって2つの部分に分けられる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポヴェーリア · 続きを見る »

ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国、国内ではジェチュポスポリタ(Rzeczpospolita、共和国)と呼ばれた。また、二民族の共和国という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である。歴史学では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。 16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった. Retrieved March 19, 2006: At its apogee, the Polish-Lithuanian Commonwealth comprised some and a multi-ethnic population of 11 million. For population comparisons, see also those maps:,. 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とポーランド・リトアニア共和国 · 続きを見る »

ムハンマド・アリー

ムハンマド・アリー・パシャ(, 1769年? - 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 - 1849年)。メフメト・アリー(Mehmet Ali)ともいう。 エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。 最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父山口2006、26頁。、エル・キビール(大王)山口2006、104頁。と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とムハンマド・アリー · 続きを見る »

ムラト・レイース

ャ・ムラト・レイース ( 1534年以前 - 1609年/1638年) は、オスマン帝国海軍の私掠船長で提督。同じく(小)ムラト・レイスと呼ばれたオランダ人海賊ヤン・ヤンスゾーンと区別するために大ムラト・レイース (英語: Murat Reis the elder)とも呼ばれる。最も重要なバルバリア海賊の一人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とムラト・レイース · 続きを見る »

ムッジャ

ムッジャ(Muggia; Milje)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州トリエステ県にある、人口約1万3000人の基礎自治体(コムーネ)。 トリエステ市からトリエステ湾を挟んで南へ約5kmに位置する海沿いの町で、県内ではトリエステに次ぐコムーネ人口を持つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とムッジャ · 続きを見る »

ムスタファ2世

ムスタファ2世(Mustafa II, 1664年2月6日 - 1703年12月28日)はオスマン帝国の第22代皇帝(在位:1695年 - 1703年)。メフメト4世の息子でアフメト3世の兄。マフムト1世、オスマン3世の父。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とムスタファ2世 · 続きを見る »

メルキオーレ・チェザロッティ

メルキオーレ・チェザロッティ メルキオーレ・チェザロッティ(英語:Melchiore Cesarotti、1730年5月15日 - 1808年11月4日)は、イタリア・ヴェネツィア共和国支配下のパドヴァ出身の文学者、詩人、翻訳家。 チェザロッティはフランス革命を支持した啓蒙主義者で1763年に『オシアン』をイタリア語に翻訳し、イタリア文学界にロマン主義の気運と旋風を巻き起こしたとして名高い。。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメルキオーレ・チェザロッティ · 続きを見る »

メッシニア県

メッシニア県(Μεσσηνία / Messinia、Messenia)は、ギリシャ共和国のペロポネソス地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。メシニアとも表記される。また、古代ギリシャ語音に従ってメッセニアとも呼ばれる。県都はカラマタ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメッシニア県 · 続きを見る »

メディーバル2:トータルウォー

メディーバル2:トータルウォーは、the Creative Assembly開発のリアルタイムストラテジー(公式では戦略・戦術シミュレーション)、トータルウォー シリーズの4作目。日本国内ではセガ(後のセガゲームス)より発売された。2007年11月22日には拡張パック「キングダム」が発売された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメディーバル2:トータルウォー · 続きを見る »

メフメト1世

メフメト1世(Mehmed I もしくは Mehmed Çelebi、? - 1421年5月26日)は、オスマン帝国の第5代皇帝(スルターン)(在位: 1413年-1421年)。第4代皇帝バヤズィト1世の子。「典雅王(チェレビー)」の別名で知られるアクシト『トルコ 2』、62頁。分裂した帝国を再統一し、短い治世の中で国家の再建に注力した皇帝として評価されている三橋『トルコの歴史』、135頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメフメト1世 · 続きを見る »

メフメト2世

メフメト2世(トルコ語: II.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメフメト2世 · 続きを見る »

メソロンギ

メソロンギ(Μεσολόγγι, Mesolongi)は、ギリシャ共和国西ギリシャ地方にある都市で、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。エトリア=アカルナニア県の県都で、県内で第2の人口を持つ都市である。 ギリシャ独立戦争時の故事からヒエラ・ポリス・メソロンギウ(聖なる町メソロンギ)と称される。また、ミソロンギ(Missolonghi)の名でも知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とメソロンギ · 続きを見る »

モネンバシア

モネンバシア (Μονεμβασία) はギリシャ共和国ラコニア県にある自治体、島、およびその島にある町の名前である。島はペロポネソス半島の東沖の小島であり、その島全体が町である。島 1km × 300m ほどの大きさで、大部分は海抜 100m ほどの高地である。中世には強固な要塞であった。島内には当時のビザンチン建築の教会が数多く残されている。本土と 200m ほどの短い土手道でつながっており、選挙区はである Greece Ministry of Interior 。 モネンバシアという名前はギリシャ語の mone (ひとつの) とemvasia (入口) から来ている。この町はイタリア語では Malvasia と呼ばれ、ワイン原料のブドウの一種である (Malmsey) の元となっている。町は「東のジブラルタル」「ザ・ロック」などとも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモネンバシア · 続きを見る »

モラーロ

モラーロ(Moraro) は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約800人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモラーロ · 続きを見る »

モレアス専制公領

モレアス専制公領 (Δεσποτάτο του Μορέως) は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝時代の地方行政単位で、ギリシア南部、ペロポニソス半島に設置された。行政府が置かれた都市名をとって、ミストラス専制公領 (Δεσποτάτο του Μυστρά) という呼称も用いられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモレアス専制公領 · 続きを見る »

モンテネグロのイスラム教

本項目では、モンテネグロのイスラム教について記述する。 モンテネグロのムスリム(イスラム教徒)は国内の少数派宗教の内最大の信者数を獲得している。2011年の国勢調査によると、モンテネグロには118,477人のムスリムがおり、これは全人口の約19.11%に相当する。モンテネグロのムスリムは大部分がスンナ派を信仰している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモンテネグロのイスラム教 · 続きを見る »

モンテネグロの国旗

縦に掲揚する場合の旗 軍艦旗 モンテネグロの国旗は、2004年7月12日に制定された。1993年に制定された国章を赤地の中央に配置している。 国章はニコラ1世のものからキリル文字の頭文字「НІ」を除いたもの。国章の中心にあるのはヴェネツィア共和国のシンボルである聖マルコのライオンである。現在のモンテネグロの都市は1797年までヴェネツィア共和国に属していた。 スポーツ競技の国際試合などで縦に掲出する場合は、国章を90度回転させたものを使用する。 2004年7月12日以前は、赤青白の横三色旗で縦横比1:3とかなり横に長いものを使用していた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモンテネグロの国旗 · 続きを見る »

モンテネグロの歴史

モンテネグロの歴史(モンテネグロのれきし)は中世初頭にはじまる。はじまりは、スラヴ人が現在モンテネグロと呼んでいるローマ帝国の属州ダルマチアの一部に到来してから後のことである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモンテネグロの歴史 · 続きを見る »

モンファルコーネ

モンファルコーネ(Monfalcone)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約2万7000人の基礎自治体(コムーネ)。 アドリア海に面した港湾・工業都市で、造船業の拠点である。周辺地域も含めたモンファルコーネ都市圏の人口は5万人に達し、県都ゴリツィアを上回る。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモンファルコーネ · 続きを見る »

モデナ=レッジョ公国

モデナ=レッジョ公国(伊: Ducato di Modena e Reggio, 羅: Ducatus Mutinae et Regii)は、イタリア北西部に1452年から1859年まで存在したイタリアの国家である。ただし、1796年から1814年まではナポレオンによるフランス帝国の支配下にあった。この国家は1796年まではエステ家に、1814年以降はオーストリア=エステ家によって支配されていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とモデナ=レッジョ公国 · 続きを見る »

ヤン3世 (ポーランド王)

ヤン3世ソビェスキ(ポーランド語:Jan III Sobieski, 1629年8月17日 - 1696年6月17日)は、ポーランド王(在位:1674年 - 1696年)。オスマン帝国との戦いで活躍し、1683年の第二次ウィーン包囲で勝利して英雄として名を馳せた。「ソビェスキ」は「ソビエスキ」とも表記する。女優のリーリー・ソビエスキーは彼の子孫に当たる。。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヤン3世 (ポーランド王) · 続きを見る »

ヤコポ・ティエポロ

ティエポロ家の紋章 彼の墓 ヤコポ・ティエポロ(Jacopo Tiepolo、1249年没)は、ヴェネツィア共和国の第43代元首。(在任:1229年 - 1249年) ヤコポの一族・ティエポロ家はダンドロ家と並ぶヴェネツィア共和国の名族であったため、元首として選出されたという。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヤコポ・ティエポロ · 続きを見る »

ユリウス2世 (ローマ教皇)

ユリウス2世(Julius II 1443年12月5日 - 1513年2月21日)は、16世紀初めのローマ教皇(在位:1503年 - 1513年)。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしたが、その治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とユリウス2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とユリウス暦 · 続きを見る »

ヨハネス2世コムネノス

ヨハネス2世コムネノス(ギリシア語:Ιωάννης Β' Κομνηνός (Iōannēs II Komnēnos)、1087年9月13日 - 1143年4月8日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝(在位:1118年 - 1143年)。同王朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノスの子。「カロヨハネス」と讃えられた。中世ギリシア語形では「ヨアニス2世コムニノス」。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨハネス2世コムネノス · 続きを見る »

ヨハネス6世カンタクゼノス

ヨハネス6世カンタクゼノス(Ιωάννης ΣΤ' Καντακουζηνός, ローマ字転写:JohannesⅥ Kantakouzenos, 1295年 - 1383年6月15日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1347年 - 1354年)、政治家、歴史家、修道士。中世ギリシャ語読みではヨアニス6世カンダクジノス(もしくはカンダクヅィノス)。慣例として使われる個人名のヨハネスはラテン語名で古典式表記はイオアンネス。ラテン語のフルネームはヨハネス・カンタクゼヌス(Johannes Cantacuzenus)。修道名はヨアサフ(Ιωάσαφ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨハネス6世カンタクゼノス · 続きを見る »

ヨハネス8世パレオロゴス

ヨハネス8世パレオロゴス(Ιωάννης Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写: Johannes VIII Palaiologos, 1392年12月18日 - 1448年10月31日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1425年 - 1448年)。マヌエル2世の長男。中世ギリシア語表記ではヨアニス8世パレオロゴス。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨハネス8世パレオロゴス · 続きを見る »

ヨハンネス・チコーニア

ヨハンネス・チコーニア (Johannes Ciconia, 1373年頃 - 1412年6月10日から7月12日の間) 西洋中世イタリアのトレチェント音楽末期の作曲家。同名の父親との混同から、長らく1330年代生誕説が採られてきたが、現在はそれより遅い年代設定が採られるようになりつつある。リエージュ生まれで、ルネサンス音楽の時代に先駆けて、フランスやイタリアで活躍した最初のフランドル人作曲家の一人とされている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨハンネス・チコーニア · 続きを見る »

ヨーロッパにおける政教分離の歴史

Pierre Joseph Célestin François画 ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政教分離原則の成立史、すなわちヨーロッパの諸国家・政治社会と宗教(キリスト教)との関係性の歴史について叙述する。ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果成し遂げられたものである日比野(1988)pp.270-271。したがってここでは、その成立史を、近代以前の政治社会にもさかのぼって、その国制や宗教政策を軸に、社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨーロッパにおける政教分離の歴史 · 続きを見る »

ヨーロッパ史

西暦814年頃のヨーロッパ ヨーロッパ史(ヨーロッパし)とは、ヨーロッパにおける歴史である。欧州史(おうしゅうし)とも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヨーロッパ史 · 続きを見る »

ラヨシュ1世

ラヨシュ1世(Anjou I Lajos, 1326年3月5日 - 1382年9月10日 トルナヴァ)は、アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 - 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世 Ludwik I Węgierski, 在位:1370年 - 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュ(Nagy Lajos király)とも呼ばれる。 大貴族の台頭によって弱体化していたハンガリー王国は、父カーロイ1世の治世の下で大貴族の抑制と王権の強化に成功し、大国へと成長していた。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。 ラヨシュ1世はさらにナポリ王国の王位も狙い、同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対した。弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後、1347年には軍勢を動かして王都ナポリを占領したが、王位を得ることはできずに終わった。しかし、晩年の1382年には同じく同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位につけた。 ポーランドの画家ヤン・マテイコによる「ポーランド王ルドヴィク1世」としての肖像画。王冠、法衣、王錫はポーランドのもの。 男児が無かったため、死後ハンガリー王位は年長の娘マーリア、ポーランド王位は末娘ヤドヴィガ、そして彼女らの夫たちが継承することとなった。ただし、ハンガリー王位は一時マーリアとカルロ3世(カーロイ2世)との間で争われている。 対外政策に成功を収めて勢力を拡大し、ポーランド王も兼ねたことから、ラヨシュ1世は「大王」と呼ばれている。しかしバルカン半島への勢力拡大には失敗した。ヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争を起こし、このためアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展し、ワラキア・トランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた。また大貴族層の反発にも遭って、晩年には大貴族層に対して特権を与えるなどの譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を現わすものでもあった。 ラヨシュの王国(赤線枠)と宗主下の国(青字).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラヨシュ1世 · 続きを見る »

ラヨシュ1世のナポリ遠征

ラヨシュ1世のナポリ遠征、あるいはナポリへの冒険(洪語:Nápolyi kaland)は、ハンガリー国王ラヨシュ1世率いる軍勢がナポリ王国との間で1347年から1352年にかけて行った戦争である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラヨシュ1世のナポリ遠征 · 続きを見る »

ランペルール

『ランペルール』(L'EMPEREUR)は、1990年10月27日に光栄(現・コーエーテクモゲームス)から発売された歴史シミュレーションゲーム。タイトルの「ランペルール」はフランス語で「皇帝」の意。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とランペルール · 続きを見る »

ラヴェンナ

ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。 古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラヴェンナ · 続きを見る »

ラヴェンナの戦い

ラヴェンナの戦い(ラヴェンナのたたかい、伊:Battaglia di Ravenna, 仏:Bataille de Ravenne)は、カンブレー同盟戦争の一環として1512年に発生したフランス軍と神聖同盟軍との戦い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラヴェンナの戦い · 続きを見る »

ラヴェンナ総督府

ラヴェンナ総督府(ラテン語: Exarchatus Ravennatis)もしくはイタリア総督府 () は、東ローマ帝国がイタリア半島統治のためにラヴェンナに設置した政府機関。584年に設立され、751年に最後の総督(エクザルフ)がランゴバルド人に倒されるまで存続した。ユスティニアヌス1世がより効率的な西方統治のために設置した、アフリカ総督府と対になる総督府である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラヴェンナ総督府 · 続きを見る »

ラースロー1世

ラースロー1世(I.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラースロー1世 · 続きを見る »

ラースロー2世

ラースロー2世(II.、Ladislav II、Ladislav II、1131年 - 1163年1月14日)は、ハンガリー王国アールパード朝、およびクロアチアの対立王(在位:1162年 - 1163年)。 6歳の時にラースローは父のベーラ2世からボスニア公の爵位を与えられたが、実際にラースローがボスニアを統治することはなかった。1160年頃にラースローは弟のイシュトヴァーンに続いてコンスタンティノープルに亡命するが、兄のゲーザ2世が没すると二人はハンガリーに帰国した。彼らの帰国にあたってはビザンツ(東ローマ)皇帝マヌエル1世コムネノスの援助があり、マヌエル1世はラースローたちをハンガリーへの支配力を拡大する手段として利用した。当初マヌエル1世はラースローの弟イシュトヴァーンの王位の簒奪の支援を計画していたが、ハンガリーの貴族はラースローの方を選び、ゲーザ2世の跡を継いでハンガリー王に即位したラースローの甥イシュトヴァーン3世の対立王として擁立した。 イシュトヴァーン3世の忠実な支持者であるエステルゴム大司教ルカーチはラースローへの戴冠を拒否し、彼を破門した。1162年7月にラースローはカロチャ大司教ミコーから戴冠されるが、戴冠式から6か月以内に没する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラースロー2世 · 続きを見る »

ラッザーロ・モチェニーゴ (エンリコ・トーチ級潜水艦)

ラッザーロ・モチェニーゴ(イタリア語:Lazzaro Mocenigo, S 514)は、イタリア海軍のエンリコ・トーチ級潜水艦4番艦。艦名はヴェネツィア共和国出身で17世紀に活躍した提督ラッザーロ・モチェニーゴに由来する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラッザーロ・モチェニーゴ (エンリコ・トーチ級潜水艦) · 続きを見る »

ラブ島

ラブ島(ラブとう、、、)は、クロアチアの島。アドリア海北部、プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。 島は南北に22キロと細長く、面積は93.6平方キロメートル、人口は9,480人(2001年)である。島の最高点はカメニャク(Kamenjak)の408メートル。島北東部はほとんどが不毛なカルストで、南東部はオークの森林で覆われている。 ラブ島と本土のヤブラナツ(Jablanac)、隣のクルク島とをフェリー便が往復する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラブ島 · 続きを見る »

ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラテン帝国 · 続きを見る »

ラコニア県

ラコニア県(Λακωνία / Lakonía; Laconia)は、ギリシャ共和国のペロポネソス地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。ペロポネソス半島南部に位置する。県都スパルティは、古代の有力都市国家スパルタの故地に建設された都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とラコニア県 · 続きを見る »

リミニ

リミニ(Rimini)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。リミニ県の県都である。リーミニとも表記される。 ローマ時代に起源を持つアドリア海沿岸の都市で、沿岸海運と漁業を伝統としている。近接するコムーネのカットーリカやリッチョーネとともに夏季は海水浴客で賑わう。サンマリノ共和国への観光客の主要な玄関口であり、リミニ駅前よりサンマリノ行きのバス路線が出ている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリミニ · 続きを見る »

リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)

3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル( Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington, KG, PC、1694年4月25日 - 1753年12月15日)は、イングランドの貴族、政治家、ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官、建築家である。第2代バーリントン伯爵チャールズ・ボイルとジュリアナ・ノエル(Juliana Noel、1672年 - 1750年)の子としてヨークシャーで生まれた。バーリントンは枢密顧問官 (Privy Counsellor)、イギリス貴族院及びアイルランド貴族院 (Irish House of Lords) (英語版) 議員としての地位があったにもかかわらず、政治に関してはあまり興味を示さず、「芸術のアポロン」 (Apollo of the Arts)、「建築家伯爵」 (architect Earl) と呼ばれた。 バーリントンはイギリスとアイルランドにパラディオ様式建築を持ち込んだことで有名であり、彼の主要な作品に、バーリントン・ハウス、ウェストミンスター・スクール、チジック・ハウス、ノースウィック・パーク (Northwick Park) (英語版) 等がある。 ボイルの法則で知られるロバート・ボイル (Robert Boyle、1627年-1691年) は曾祖父リチャード・ボイル (初代バーリントン伯爵) (Richard Boyle, 1st Earl of Burlington、1612年-1698年) (英語版) の弟である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) · 続きを見る »

リムノス島

リムノス島(リムノスとう、Λήμνος、Límnos、Lemnos)は、エーゲ海北部にある島。レムノス島などの表記も用いられる。面積は約477kmと広く、ギリシャでは8番目に大きな島である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリムノス島 · 続きを見る »

リュジニャン家

リュジニャン家(フランス語: Maison de Lusignan、英語: House of Lusignan)は、フランス発祥の一族で、エルサレム王国、キプロス王国およびキリキア・アルメニア王国の国王を輩出するとともに、イングランドおよびフランスにおいても大きな影響力を有した。 この一族はリュジニャン近くポワトゥーで10世紀初頭に興った。11世紀の終わりまでには、一族はリュジニャン城を拠点とする最も有名な下級領主となっていた。12世紀後半には、婚姻と相続を通して、分家がエルサレム王国およびキプロス王国を支配することとなり、一方、13世紀初めには本家はラ=マルシュ伯およびアングレーム伯を継承した。十字軍国家の王として、一族はキリキア・アルメニア王国のヘトゥム朝君主と姻戚関係を持つこととなり、14世紀半ばには婚姻を通してこの王国をも支配下におさめた。しかし、後にアルメニア王家はフランスに亡命、The Advocate: America's Jewish Journal, Volume 44.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリュジニャン家 · 続きを見る »

リアルト橋

リアルト橋(Ponte di Rialto)は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。 この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、パレードの見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネツィア共和国は橋の設計案を一般から募集した。一般公募にはミケランジェロも参加したが、結局、採用されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。 ポンテの案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、そりの大きい太鼓橋だった。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされたが、4年後には長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mのそりの大きい太鼓橋が完成した。 橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいる。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついている。 File:Canale Grande Venice 2.jpg|橋上からの臨むカナル・グランデ File:1 venice grand canal rialto bridge 2012.jpg|橋上からの臨む夜のカナル・グランデ File:Venice Scene 45.jpg|橋上の階段 File:Walking in venice.JPG|橋上の階段 File:Rialto Bridge Grand Canal.jpg|リアルト橋.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリアルト橋 · 続きを見る »

リエカ

|正式名.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とリエカ · 続きを見る »

ルネサンス

レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルネサンス · 続きを見る »

ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、Rûm sultanate, Saljūqiyān-i Rūm سلجوقیان روم, 1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルーム・セルジューク朝 · 続きを見る »

ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ

アンドレーア・マンテーニャ: ルドヴィーコ・ゴンザーガ像, 1474年 ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ (Ludovico III Gonzaga, 1412年6月5日 - 1478年6月12日)は、イタリア屈指の名門貴族ゴンザーガ家のマントヴァ侯であり、コンドッティエーレ。 とパオラ・マラテスタの子で、1444年に侯位を継いだ。 ルドヴィーコは、最初父と同じくヴィスコンティ家のため戦ったが、ミラノ公国に対抗しフィレンツェと同盟したヴェネツィア共和国と戦った。1450年、彼はロンバルディアにおいてナポリ王アルフォンソ1世の軍を率いることを許された。新しくミラノ公となったフランチェスコ・スフォルツァは、ヴェネツィアに奪われたかつてのマントヴァ領のロナート、ペスキエーラ、アーゾラを取り戻すことを餌に彼をそそのかした。彼はそれを、1452年にカスティリョーネ・デッレ・スティヴィエーレの略奪で応え、ルドヴィーコの弟カルロを雇い入れたのだった。 1453年6月、ルドヴィーコはゴーイトでカルロ軍を率いていたが、指揮下のヴェネツィア軍はアーゾラ回復の試みを遮断した。1454年のローディの和議により、ルドヴィーコは自身の征服地全て返還するよう強制され、3つの都市の奪回を放棄させられた。しかし、子供のないカルロが1478年に死ぬと弟の領土を相続するのは自分だと主張した。1459年から1460年まで、ローマ教皇ピウス2世の召還により、コンスタンティノープルを占領したオスマン帝国に対する十字軍遠征に加わった。 1466年から多かれ少なかれ、スフォルツァ家のため定期的に軍務についた。1478年、黒死病に罹患しゴイトで死去した。 1460年、ルドヴィーコはアンドレーア・マンテーニャをゴンザーガ家の宮廷画家として雇い入れた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルドヴィーコ3世・ゴンザーガ · 続きを見る »

ルカ・パチョーリ

ルカ・パチョーリ(Fra Luca Bartolomeo de Pacioli、1445年 - 1517年)は、イタリアの数学者。「近代会計学の父」と呼ばれる。修道僧でもあった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルカ・パチョーリ · 続きを見る »

ルクレツィア・ボルジア (オペラ)

『ルクレツィア・ボルジア』(Lucrezia Borgia)は、ガエターノ・ドニゼッティがヴィクトル・ユゴーの戯曲『リュクレース・ボルジア』(Lucrèce Borgia )を基に作曲した全2幕のオペラ。台本はフェリーチェ・ロマーニが手掛けた。初演は1833年12月26日にミラノ、スカラ座で行われた。内容はローマ教皇アレクサンデル6世の庶子ルクレツィア・ボルジアをめぐるメロドラマ風の作品に仕上がっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルクレツィア・ボルジア (オペラ) · 続きを見る »

ルクセンブルクの歴史

本項ではルクセンブルクの歴史について述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とルクセンブルクの歴史 · 続きを見る »

レパントの海戦

レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレパントの海戦 · 続きを見る »

レティムノ

レティムノまたは、レシムノン(ギリシャ語:Ρέθυμνο/Rethymno)は、ギリシャのクレタ地方のレティムノ県の県都であり、人口は40,000人である。レティムノは古代都市リティムナ(Rhithymna)とアルシネ(Arsinoe)にあたる。古代には独自の硬貨を鋳造していて、今日ではその硬貨の一つである、2頭のイルカが彫られた硬貨が、レティムノの市章に描かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレティムノ · 続きを見る »

レデントーレ教会

レデントーレ教会(Il Redentore)はイタリアのヴェネツィア内のジュデッカ島にあるカトリックの教会である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレデントーレ教会 · 続きを見る »

レフカダ島

レフカダ島 (Λευκάδα / Lefkada、)は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ。 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレフカダ島 · 続きを見る »

レオナルド・ロレダン

レオナルド・ロレダン、1501年頃。ジョヴァンニ・ベリーニ画 レオナルド・ロレダン (Leonardo Loredan,1436年11月16日 - 1521年6月21日)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。(在任1501年-1521年)。カンブレー同盟戦争を引き起こした。 1503年のローマ教皇アレクサンデル6世の死に乗じて、北部の教皇領を占領した。新しい教皇ユリウス2世は『イル・ヴェネツィアーノ』(Il Veneziano)と呼ばれるほどヴェネツィア寄りであったため、そのまま教皇領占領を受け入れると期待された。しかし、ユリウス2世はヴェネツィア共和国を破門し、フランス王国、神聖ローマ皇帝と同盟する他の教皇国・イタリア諸国と結んだ。 1509年にアニャデッロの戦いで敗退したのち、イタリア本土に領有した領土を著しく減らした。ただちに、戦略上重要な地であるパドヴァを攻略し、征服したため恐れられた。ロレダンは、自己犠牲と国民全員の動員を呼びかけて結束をはかった。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:イタリア戦争の人物 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1436年生 Category:1521年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレオナルド・ロレダン · 続きを見る »

レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)

レオポルト1世(Leopold I., 1640年6月9日 - 1705年5月5日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王(在位:1655年 - 1705年)。ハプスブルク家の皇帝で、フェルディナント3世と皇后でスペイン王フェリペ3世の娘マリア・アンナの成人した2番目の息子。優れた作曲家でもあり、バロック大帝とも呼ばれた。 治世中は三十年戦争で衰退した領土を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。また、ジギスムント・フランツ大公からチロルを相続した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレオポルト1世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

レオポルド・デ・グレゴリオ

ラーチェ侯爵レオポルド・デ・グレゴリオ(Leopoldo de Gregorio)は、シチリア島のメッシーナで1699年12月23日に生まれ、ヴェネツィアで1785年9月15日に歿したイタリア人政治家。スペインのカルロス3世の宰相。イタリア語ではMarchese di Squillace(スクイッラーチェ侯爵)、スペイン語ではMarqués de Esquilache(エスキラーチェ侯爵)として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレオポルド・デ・グレゴリオ · 続きを見る »

レオーベン条約

レオーベン条約またはレオーベン仮条約(Vorfrieden von LeobenまたはPräliminarfriede von Leoben, traité de Leobenまたはpaix de Leoben)は、1797年4月18日にナポレオン・ボナパルトとオーストリア(ハプスブルク帝国)との間でシュタイアーマルクのレオーベンにおいて調印された条約である。この条約は、多くの秘密条項を含んでいた。 これらの条約でオーストリアはイストリアとダルマチアのヴェネツィア共和国領と引き換えに、ネーデルラントとロンバルディアを失った。条約は、1797年10月17日に最終的な和平協定であるカンポ・フォルミオ条約によって承認された。 Category:フランスの条約 Category:イタリアの条約 Category:ハプスブルク帝国の条約 Category:オーストリアの講和条約 Category:講和条約 Category:秘密協定 Category:フランス革命戦争 Category:ナポレオン戦争 Category:18世紀のヨーロッパ Category:1797年の条約 Category:1797年のフランス Category:1797年のイタリア Category:1797年のオーストリア.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とレオーベン条約 · 続きを見る »

ロマンス・ディゾンツォ

マンス・ディゾンツォ(Romans d'Isonzo)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約3700人の基礎自治体(コムーネ)である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロマンス・ディゾンツォ · 続きを見る »

ロレンツィーノ・デ・メディチ

ロレンツィーノ・デ・メディチ (イタリア語:Lorenzino di Pierfrancesco de' Medici、1514年3月23日 - 1548年2月26日)は、中世イタリアの政治家、著述家。ロレンザッチョ(Lorenzaccio)とも呼ばれた。アレッサンドロ・デ・メディチの暗殺者として知られる。 メディチ家傍系のピエルフランチェスコ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・ポポラーノの子)とマリア・ソデリーニの子としてフィレンツェで生まれた。コジモ(黒隊長ジョヴァンニの子)とアレッサンドロとともに、カメリーノで教育を受けた。ロレンツィーノとアレッサンドロは、自らが起こした乱痴気騒ぎによる醜聞に幾度も巻き込まれた。1526年、ロレンツィーノはコジモとともに、フィレンツェに襲いかかろうとしていた傭兵軍を回避しようとヴェネツィアへ向かった。また彼は、一族で最も傑出した人物であるローマ教皇クレメンス7世の権威をも打ち砕いたローマ略奪に伴う、メディチ家のフィレンツェ追放から一族を救った。ヴェネト、ボローニャ、ローマでの生活後、1530年に彼はフィレンツェへ戻った。当時、神聖ローマ皇帝カール5世によるのフィレンツェ包囲が解かれ、アレッサンドロがフィレンツェ公に任命されていた。 おそらくフィリッポ・ストロッツィに促され、ロレンツィーノは1537年1月5日夜半にアレッサンドロを殺害した。ロレンツィーノは、若く美しい未亡人であった妹ラウドミアとの関係をお膳立てしてやると約束して、アレッサンドロを罠にはめたのだった。暗殺事件の後、報復を恐れたロレンツィーノは、教皇大使ジョヴァンニ・デッラ・カーサの庇護を受けボローニャ、次いでイスタンブール、フランス、ヴェネツィアと各都市を転々と逃亡した。彼は自分の行為を正当化する文書を公にした。人類の自由に対する献身を行ったマルクス・ユニウス・ブルートゥスの理想的な後継者として、アレッサンドロを殺さねばならなかったと。作家としてロレンツィーノは劇作Aridosioを書き、名だたる批評を得た。 専制君主アレッサンドロの死が1537年1月6日に報じられると、フィレンツェ市民は市の自由を喜び合った。アレッサンドロには正妻マルゲリータとの間に子はなかった。ジューリオとジューリアの2子があったが、氏名不詳の愛人との間にできた庶子であり、後継から除外された。マルゲリータの父カール5世とフィレンツェ市民の承認を得て、黒隊長の遺児で17歳のコジモがトスカーナ大公に選ばれた(父はメディチ家傍系、母マリアはメディチ家本流の血を引いていたため)。 コジモ1世は、暗殺の報復としてロレンツィーノに死を宣告した。1548年、コジモ1世はジョヴァンニ・ロッティーニをヴェネツィアへ送り、彼に殺害計画を練らせた。ロッティーニが雇った2人の暗殺者の手で、サン・ポロ広場に面した愛人エレナ・バロッツィ宅の前で、ロレンツィーノは暗殺された。 エレナとの間に庶子ロレンツィーナ(1547年 - 1590年頃)がおり、彼女は父親の死後、父方の親族の手で育てられ、成長してローマ貴族ジューリオ・コロンナと結婚した。 ろれんついの Category:暗殺者 Category:暗殺された政治家 Category:1514年生 Category:1548年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロレンツィーノ・デ・メディチ · 続きを見る »

ロレンツォ・ティエポロ

ティエポロ家の紋章 彼の墓。 ロレンツォ・ティエポロ(Lorenzo Tiepolo、? - 1275年8月15日)は、第46代ヴェネツィア共和国の元首。(在任:1268年 - 1275年) 第43代元首であったヤコポ・ティエポロの子。 1261年、ヴェネツィア共和国がジェノヴァ共和国と開戦するとヴェネツィア艦隊の総指揮官として活躍した。その戦功もあり、1268年に第46代元首に選出された。 元首としては対立関係にあったダンドロ家と和睦を結ぶなどの手腕を見せ、1275年に引退した。 だが、孫のバイアモンテが時の元首ピエトロ・グラデニーゴと対立、1310年にクーデター事件を起こして鎮圧されてしまい、ティエポロ家はヴェネツィアから追放される。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:1275年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロレンツォ・ティエポロ · 続きを見る »

ロレーヌ公国

レーヌ公国(Duché de Lorraine)またはロートリンゲン公国(Herzogtum Lothringen)は、現在のフランスのロレーヌ地方北東部、ルクセンブルクおよびドイツの一部からなる歴史的公国である。主要な都市はメス、ヴェルダンであり、歴史的な首都はナンシーであった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロレーヌ公国 · 続きを見る »

ロンバルディア同盟

ンバルディア同盟(Lega Lombarda)は、1167年に結成された北イタリア・ロンバルディア地方を中心とする都市同盟。北イタリアの支配を図った神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン朝)皇帝フリードリヒ1世に対抗し、ローマ教皇の支援を受けて結成され、教皇派と皇帝派の抗争における教皇派(ゲルフ)の中心となった。加盟都市はミラノ、クレモナ、ボローニャなどであるが、時期によって変動がある。軍事同盟として発足したが、のちには経済同盟の性格も持つようになった。 1226年、フリードリヒ1世の孫にあたるフリードリヒ2世が北イタリアに侵攻した際に再度結成される(第二次ロンバルディア同盟)。1250年にフリードリヒ2世が死去すると、同盟も消滅した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロンバルディア同盟 · 続きを見る »

ロンバルディア州

ンバルディア州(Lombardia )は、イタリア共和国北西部に位置する州。州都はイタリア第二の都市であるミラノ。 イタリア最大の人口(約1000万人)を擁する州であり、これはイタリアの人口の1/6にあたる。また、イタリアの国内総生産(GDP)の1/5を生産する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロンバルディア州 · 続きを見る »

ロンガローネ

ンガローネ(Longarone)は、イタリア共和国ヴェネト州ベッルーノ県にある、人口約4000人の基礎自治体(コムーネ)である。1963年10月9日、バイオントダム災害による大惨事を経験した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロンガローネ · 続きを見る »

ロンキ・デイ・レジョナーリ

ンキ・デイ・レジョナーリ(Ronchi dei Legionari)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約1万2000人の基礎自治体(コムーネ)。 港湾都市モンファルコーネの都市圏に含まれる都市で、トリエステ=ロンキ・デイ・レジョナーリ空港(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア空港)の所在地である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロンキ・デイ・レジョナーリ · 続きを見る »

ロヴィニ

ヴィニ (クロアチア語:Rovinj、イタリア語:Rovigno)は、クロアチアの都市。イストリア半島西岸に位置する観光地であり、漁港である。イタリア人共同体があり、市内ではイタリア語がクロアチア語とともに公用語となっている。さらに、かつて半島中で話されていたロマンス語系言語のイストリア語(イストリオット語)が住民の一部によっていまだ話されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロヴィニ · 続きを見る »

ローディの和

ーディの和(Pace di Lodi)は、15世紀イタリアの五大国が1454年にローディにおいて結んだ和平協定。イタリアの諸都市国家間の戦争に終止符を打った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とローディの和 · 続きを見る »

ロッカ (ベルガモ)

ッカ(Rocca, または Rocca di Bergamo)はイタリアのベルガモ旧市街の丘にある城塞の一つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロッカ (ベルガモ) · 続きを見る »

ロドス島

ドス島(Ρόδος / Ródos; Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。 島で最大の都市であるロドスの街は、古代以来港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロドス島 · 続きを見る »

ロベルト・ベラルミーノ

ベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino、1542年10月4日、モンテプルチャーノ - 1621年9月17日、ローマ)は、イタリア出身のイエズス会司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿。カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人。1930年、聖人および教会博士に列せられた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロベルト・ベラルミーノ · 続きを見る »

ロクセラーナ

ヒュッレム・ハセキ・スルタン(彼女は主にハセキ・ヒュッレム・スルタン(Haseki Hürrem Sultan)または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン(Hürrem "balsaq" Haseki Sultan)として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパではロクセラーナ(Roxelana/Roxolena)として知られ(ペンザー1992、262頁。)、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。トルコ語で Hürrem とは(陽気な人)と(高貴な人)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「ルーシ人の女」を意味する。, 1502年から1504年頃 - 1558年4月15日)は、オスマン帝国のスレイマン1世のである。 それまでのオスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロクセラーナ · 続きを見る »

ロココ

(Rococo)とは、美術史で使われた用語で、バロックに続く時代の美術様式を指す。18世紀、ルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパの他国にも伝えられ、流行した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロココ · 続きを見る »

ロシニ島

ニ島 (-ろしにとう、クロアチア語:Lošinj、イタリア語:Lussino、ドイツ語: Lötzing; ラテン語 Apsorrus, ギリシャ語: Apsorros, Αψωρος)は、クロアチアの島。アドリア海北部、クヴァルネル湾に位置する。本土の都市リエーカの南にあり、プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。面積は74.36平方km、人口は2001年時点で8,134人。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロシニ島 · 続きを見る »

ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)

タール3世(Lothar III., 1075年6月 - 1137年12月3日)はザクセン公(在位:1106年 - 1137年)、ローマ王(在位:1125年 - 1137年)及びイタリア王(在位:1125年 - 1137年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1133年 - 1137年)。国王選挙によって選ばれたズップリンブルク家のドイツ君主であるが、ズップリンブルク家の王位は1代限りであった。ローマ皇帝としてはロタール「2世」であるが、イタリア王ロターリオ2世及びロタリンギア王ロタール2世との区別のため「3世」とされることが多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とロタール3世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

ヴロラ

ヴロラ(Vlorë)はアルバニアの都市である。ドゥラスに次いで2番目に大きな港湾都市で、人口は79,948人である。ヴロラは1912年11月28日にアルバニアの独立宣言が行われた都市で、一時的にアルバニアの首都が置かれた。町自体は紀元前6世紀に古代ギリシャの植民都市が築かれ人が住むようになり、それ以来2,600年の歴史がある古い都市である。ヴロラにはヴロラ港がある他、ヴロラ大学が立地しアルバニア南西部の経済や文化の中心都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴロラ · 続きを見る »

ヴァリャーグからギリシャへの道

地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシャへの道」を示す ヴァリャーグからギリシャへの道(ヴァリャギからグレキへの道)(Путь из варяг в греки、Vägen från varjagerna till grekerna、Εμπορική Οδός Βαράγγων - Ελλήνων)は、河川にそってルーシを縦断し、またバルト海を越えてスカンディナヴィア、黒海を越えて東ローマ帝国へも至る水上交易路である。8世紀から13世紀にかけて存在したこの交易路を通して、バルト海沿岸に住むヴァリャーグは、行動範囲を東欧南部やアナトリア半島まで拡大させた。またルーシの商人は、この道をスカンディナヴィアやコンスタンティノープルとの交易のために利用した。ルーシの歴史を記した『原初年代記』では、この道は「из Варягъ въ Грѣкы」(ヴァリャギからグレキへ)と記されている。 (留意事項)以下の「主幹ルート」・「分岐ルート」の名称は、説明上便宜的に用いた用語である。また「ルーシ」はおおよそキエフ大公国の支配領域を指す。地名は現在の現地の言語の転写表記よりも、歴史学的文献等において一般的と思われる表記を優先している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴァリャーグからギリシャへの道 · 続きを見る »

ヴァルナ (ブルガリア)

生神女就寝大聖堂 聖ニコラウス船員教会 ヴァルナ(Варна、ラテン文字表記:Varna、発音)はブルガリア北東部ヴァルナ州に位置する都市で、ブルガリアの黒海沿岸では保養地であり最大の都市でブルガリア国内では首都ソフィアやプロヴディフに次いで3番目に大きな都市である。2011年2月現在の人口は市街で334,870人(2011年4月8日時点のアーカイブ)、基礎自治体全体では343,704人。ヴァルナはヴァルナ州やヴァルナ基礎自治体の行政的な中心地で、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラード、テッサロニキ、ザグレブ、スコピエ、ティラナ、プロブディフに次いで11番目に大きな都市である。ヴァルナはブルガリアの「海の首都」あるいは「夏の首都」とよく言われ、メジャーな観光地でありビジネスや大学、海港、ブルガリア海軍の司令部、商船などの各拠点が置かれている。1949年から1956年までは、ヨシフ・スターリンの名をとってスターリン (Сталин, Stalin) という都市名であった。ヴァルナ州や統計的な地域であるドブリチ州やシュメン州、トゥルゴヴィシテ州を含むブルガリア北東計画地域(NUTS II)の中心都市である。ヴァルナ空港は2011年に1,181,830人の旅客を扱っており、ブルガリアではブルガス空港やソフィア空港に次いで3番目に旅客数が多い空港である。 2008年4月にヴァルナは黒海欧州地域 Black Sea Euro-Region(Black Sea Euroregionと同一でない新たな組織)の中心として欧州評議会で指定された。 ヴァルナ・ネクロポリスでは世界最古の黄金の宝物が発見され、これらはコインと武器、宝石などで構成され紀元前4,600年頃に遡る。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴァルナ (ブルガリア) · 続きを見る »

ヴァルナの戦い

ヴァルナの戦い(ヴァルナのたたかい)は、1444年11月10日に、現在のブルガリア、ヴァルナ近郊で起きた戦闘。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた。ハンガリー王国が組織したヴァルナ十字軍最後の戦いであった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴァルナの戦い · 続きを見る »

ヴァルナ十字軍

ヴァルナ十字軍(ヴァルナじゅうじぐん)は、1443年から1444年にかけてハンガリー・ポーランドを中心としたヨーロッパ諸国が、バルカン半島から中央ヨーロッパにおけるオスマン帝国の拡大と脅威の排除を試みた一連の軍事行動。1443年1月1日に教皇エウゲニウス4世の呼び掛けに始まり、ハンガリー・ポーランド王ウラースロー1世、トランシルヴァニアのヴォイヴォダフニャディ・ヤーノシュ、ブルゴーニュ公フィリップ3世、枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニらが参加した。 1444年11月10日、ヴァルナの戦いで十字軍はムラト2世率いるオスマン帝国軍との決戦に挑んだが、ウラースロー1世やチェザリーニらが戦死する大敗北を喫し、ヴァルナ十字軍は失敗に終わった。ヴァルナ十字軍(英語: Crusade of Varna)の名は、この最後の決戦からとられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴァルナ十字軍 · 続きを見る »

ヴィチェンツァ

ヴィチェンツァ(Vicenza)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約11万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴィチェンツァ県の県都である。 ルネサンス期の優れた建築家アンドレーア・パッラーディオが手がけた美しい町並みで知られ、「パッラーディオの街」と称される。その市街は、ユネスコの世界遺産「ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ」の一部として登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴィチェンツァ · 続きを見る »

ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ

ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ(ヴィチェンツァしがいとヴェネトちほうのパッラーディオのヴィッラ)は、イタリアの都市ヴィチェンツァとヴェネト州一帯にあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は1994年。1996年には拡張され、建築物が追加された。16世紀に活躍した建築家アンドレーア・パッラーディオの設計したパラッツォおよびヴィッラを対象とする。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ · 続きを見る »

ヴィンチェンツォ・スカモッツィ

ヴィンチェンツォ・スカモッツィの肖像画(パオロ・ヴェロネーゼ作) サン・マルコ広場。左手の建物が新行政館 ヴィンチェンツォ・スカモッツィ(Vincenzo Scamozzi、1548年9月2日 - 1616年8月7日)はヴェネツィア共和国の建築家であり、建築に関する著作もある。16世紀後半、ヴィチェンツァを中心にヴェネツィア共和国で活動した。1580年に亡くなったアンドレーア・パッラーディオが手がけていたプロジェクトを引き継ぎ、唯一の弟子バルダッサーレ・ロンゲーナを育てた。 パッラーディオが手がけていた公共建築プロジェクトの中でも、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコは建設の初期段階からスカモッツィが引き継いで完成させた。その設計はパッラーディオが亡くなるまでの数カ月間に行ったものである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴィンチェンツォ・スカモッツィ · 続きを見る »

ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディまたはビバルディ(Vivaldi)は、イタリア人の姓。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴィヴァルディ · 続きを見る »

ヴィス島

ヴィス島 (-とう、クロアチア語:Vis, ギリシャ語:Issa、イタリア語及びドイツ語:Lissa)は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。スプリト=ダルマチア郡に属する。クロアチア本土から最も遠く離れた島である。面積は90.26平方キロメートル 、人口3,617人(2001年調査)。島内で最も標高が高いのはフム(Hum)で、587メートルである。 島には2つの町と、小さな自治体がある。中心の町ヴィス(Vis、人口1,960人 )、コミジャ(Komiža、1,677人 )は、どちらも海岸部にある。内部の小さな居住地はポドセリェ(Podselje)、マリニェ・ゼムリェ(Marinje zemlje)、ポドシピリェ(Podšpilje)、そしてポドストラジェ(Podstražje)である 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴィス島 · 続きを見る »

ヴェネト州

ヴェネト州(Veneto、ヴェネト語: Vèneto、Venezien)は、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はヴェネツィア。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネト州 · 続きを見る »

ヴェネト語

ヴェネト語()またはベネト語は、伊ヴェネツィアなどで話されている言語。代表都市名でもあり、この地を長く治めていたヴェネツィア共和国の名からヴェネツィア語、ベネチア語とも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネト語 · 続きを見る »

ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア · 続きを見る »

ヴェネツィアのドージェ一覧

ヴェネツィアのドージェ一覧(ヴェネツィアのドージェいちらん) 以下にヴェネツィア共和国のドージェ(元首)の一覧を記す。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィアのドージェ一覧 · 続きを見る »

ヴェネツィアのゼッカ

ヴェネツィアのゼッカ(イタリア語:Zecca di Venezia)は、16世紀のヴェネツィア共和国の公式政府が発行する硬貨の鋳造を目的に建てられた造幣局(イタリア語:Zecca)である。鋳造の際に火を使う事から木材を使っておらず、堅牢な外装を持ち、隣の同じ設計者ヤーコポ・サンソヴィーノ‎が建てた華麗な装飾が施された国立マルチャーナ図書館とは対照的である。また、現在の造幣局は同図書館の一部となっている。 以前のゼッカは1277年からリアルト地区にあったが、サンマルコ広場の共和国オフィス近くに移転した。 この建物は1536~1545年に建設され、イストリア半島の大理石から造られている。2体のテラモーン(男性像の柱)を持つアーチ状の入口は、サンソヴィーノの弟子ヴィンチェンツォ・スカモッツィによって設計された。中庭にはダネーゼ・カッターネオのアポロ像が設置されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィアのゼッカ · 続きを見る »

ヴェネツィアの獅子

ヴェネツィアの獅子(Leone di Venezia)は、イタリアの都市ヴェネツィアの象徴である「有翼の獅子(翼を持ったライオン)」のこと。9世紀、ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあった聖マルコの聖遺物をヴェネツィアに持ち帰った。それ以来、ヴェネツィアの守護聖人は聖マルコとされ、聖マルコを表す「有翼の獅子」もまたヴェネツィアを象徴するものとされるようになった。 12世紀頃に、ヴェネツィアのサン・マルコ広場にある円柱上に聖マルコを表す有翼の獅子像が設置された。以来、ヴェネツィアの獅子といえばこの像のことを指すことが一般的である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィアの獅子 · 続きを見る »

ヴェネツィア宮殿

ヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)は、イタリアの首都ローマ中心部にある宮殿(パラッツォ)。カンピドリオの北に位置し、ヴェネツィア広場に面している(広場の名はこの宮殿にちなむ)。 宮殿の敷地内にはサン・マルコ教会が建つ。もともとこの教会に任命された枢機卿(伝統的にヴェネツィア出身者が任命されてきた)の住居がこの館の起源である。15世紀に館の主となった枢機卿ピエトロ・バルボ(のちの教皇パウルス2世)らによって大規模な拡張・改築が行われ、ルネサンス建築初期の特徴を有する複合建築物に発展した。その後はヴェネツィア共和国、次いでオーストリアの大使館となった。ファシスト政権期にはベニート・ムッソリーニが官邸として用いたことで知られている。現在、この建物はパラッツォ・ヴェネツィア国立博物館として使われている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア宮殿 · 続きを見る »

ヴェネツィアン・グラス

ベネチアン・グラスまたはヴェネツィアン・グラス(Venetian glass; ヴィニーシャン・グラス、vetro di Murano; ヴェートロ・ディ・ムラーノ 「ムラーノ島のガラス」)は、イタリア北東部ヴェネト州の州都・ヴェネツィアで作られるガラス工芸品の地域ブランドである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィアン・グラス · 続きを見る »

ヴェネツィア・ビエンナーレ

ャルディーニ(ビエンナーレ公園)のビエンナーレ看板 海から見たジャルディーニ アルセナーレ(旧国立造船所) ヴェネツィア・ビエンナーレ(Biennale di Venezia, 英語: Venice Biennale / Venice Biennial)は、イタリアのヴェネツィアで1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会。イタリア政府が後援するNPOであるヴェネツィア・ビエンナーレ財団が主催し、二年に一度、奇数年に、6月頃から11月頃まで開催されている。ビエンナーレとはイタリア語で「二年に一度」を指す。 この展覧会は、万国博覧会や近代オリンピックのように国が出展単位となっており、参加各国はヴェネツィア市内のメイン会場となる公園やその周囲にパビリオンを構えて国家代表アーティストの展示を行う。国同士が威信をかけて展示を行い賞レースをすることから、「美術のオリンピック」とも称される。 ビエンナーレには美術部門(Esposizione_internazionale_d'arte_di_Venezia)だけでなく、映画部門・建築部門・音楽部門・演劇部門・舞踊部門がある。毎年ヴェネツィアで開催されているヴェネツィア国際映画祭と国際演劇祭、美術と同じ会場で偶数年に開催されている国際建築展覧会・ヴェネツィア建築ビエンナーレ、フェニーチェ劇場で行われる国際音楽祭(ヴェネツィア国際現代音楽祭)、国際舞踊祭(コンテンポラリー・ダンス国際フェスティヴァル)もヴェネツィア・ビエンナーレの一部である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・ビエンナーレ · 続きを見る »

ヴェネツィア・ゲットー

ヴェネツィア・ゲットー(伊:Ghetto di Venezia)は、ヴェネツィア共和国の首都ヴェネツィアに設置されていたゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。世界で最初に「ゲットー」と呼ばれるようになったユダヤ人居住区と言われる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・ゲットー · 続きを見る »

ヴェネツィア・ジュリア

ヴェネツィア・ジュリア付近の国境の変遷(1913年 - 1954年)。 ヴェネツィア・ジュリア(Venezia Giulia)は、 現在のイタリア・スロベニア・クロアチアにまたがる歴史的な地域を指す、イタリア側からの呼称。アドリア海に面し、イストリア半島、クラス地方(カルスト地方)、イゾンツォ川流域を含む地域で、主要都市としてトリエステがある。第一次世界大戦後から第二次世界大戦終結までの時期は全域がイタリア王国の領土であった。 もともとこの地域にはイタリア人・スロベニア人・クロアチア人などが暮らしており、第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の領土であった。第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビア(スロベニア・クロアチア)によって分割された。現在、イタリア領に残っている地域はフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の一部となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・ジュリア · 続きを見る »

ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争

ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争は、1256年から1381年までの125年間に、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国およびそれぞれの同盟国の間で、地中海での覇権をめぐり断続的に行われた一連の戦争。実際に戦火を交えた時期は4回に分けられ、その合計は28年に過ぎないが、これに含まれていない時期にも互いの私掠船が略奪しあったり、小規模な衝突が発生したりという事が地中海全域で発生し続けた。 第一次戦争(1256年 - 1270年)ではヴェネツィアが優位に立ったが、ジェノヴァがビザンツ帝国や黒海に進出するのを阻止できなかった。第二次戦争(1294年 - 1299年)ではジェノヴァが戦闘では圧倒的な勝利を収めたが、ジェノヴァ内での内紛もあって対立の決着には至らなかった。第三次戦争(1350年 - 1355年)ではヴェネツィアがアラゴン王国と同盟し、両陣営の戦力が拮抗したが、一回の大敗北と内紛によりヴェネツィアの勢力が後退した。 第四次戦争(1377年 - 1381年)では、ヴェネツィアは一時ジェノヴァ連合軍によって本国を占領されかける危機に陥った。最終的には盛り返したヴェネツィアが勝ったものの、双方が甚大な損害を出した戦争は痛み分けに終わった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・ジェノヴァ戦争 · 続きを見る »

ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1118年)

ヴェネツィア・東ローマ戦争は、1118年にヴェネツィア共和国と東ローマ帝国との間で行われた一連の戦いである。ヴェネツィア共和国が勝利をおさめた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・東ローマ戦争 (1118年) · 続きを見る »

ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1172年)

ヴェネツィア・東ローマ戦争は、1172年にヴェネツィア共和国と東ローマ帝国との間で行われた一連の戦いである。東ローマ帝国が勝利をおさめた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア・東ローマ戦争 (1172年) · 続きを見る »

ヴェネツィア共和国の歴史

ヴェネツィア共和国の歴史(ヴェネツィアきょうわこくのれきし)では、ヴェネツィア共和国の誕生から滅亡までを解説する。東ローマ帝国の自治領として誕生した同国は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。しかし、大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退していき、最終的にはナポレオン・ボナパルトに降伏して滅亡した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア共和国の歴史 · 続きを見る »

ヴェネツィア派

ヴェネツィア派はルネサンス時代、特に15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派。絵画、彫刻、建築など様々な分野でその特徴は見受けられるが、一般的には絵画の流派を指す。絵画においてはデッサンを重視したフィレンツェ派とは異なり、画面の色を使って構築し、流動的で詩的な雰囲気で人間の感覚に直接訴えかける効果を追求した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェネツィア派 · 続きを見る »

ヴェローナ市街

ヴェローナ市街(ヴェローナしがい)は、イタリアにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)のひとつ。イタリア北東部の都市ヴェローナはローマ時代の遺跡や中世の街並みがよく残されている。登録は2000年。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェローナ市街 · 続きを見る »

ヴェニスの商人

『ヴェニスの商人』(ヴェニスのしょうにん、)は、ウィリアム・シェイクスピアの喜劇、戯曲である。1594年から1597年の間に書かれたとされている。『ベニスの商人』と記される。「人肉抵當裁判」として紹介されたこともある。 タイトルの『ヴェニスの商人』とは有名なユダヤ人の金貸しシャイロックを指すのではなく、商人のことである。英語のmerchantというのは小売商のような「商人」ではなく、むしろ「貿易商」を意味する。貿易で栄えたヴェニス が舞台になっているのはそのためである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェニスの商人 · 続きを見る »

ヴェストファーレン条約

ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、Pax Westphalica、Westfälischer Friede、Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である木谷(1975)pp.21-24。ラテン語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である菊池(2003)pp.214-219。 この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴェストファーレン条約 · 続きを見る »

ヴォディツェ (クロアチア)

ヴォディツェ(Vodice,Vodizze)はクロアチア、中央ダルマチアのシベニク=クニン郡にある都市及び基礎自治体である。シベニクの北西10kmに位置するアドリア海沿岸の町で、2001年の国勢調査による人口は9,407人でそのうち94.79%をクロアチア人が占める。ヴォディツェはビーチもあり人気のある観光地の一つで、夏の観光業はヴォディツェの主要な産業となっており宿泊施設も充実している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヴォディツェ (クロアチア) · 続きを見る »

ボルコ2世マウィ

ボルコ2世の墓石の彫像、中世の彩色の復元を試みたもの ボルコ2世マウィ(Bolko II Mały、1312年頃 - 1368年7月28日)は、シロンスク・ピャスト家最後の独立諸公。シフィドニツァ公(在位:1326年 - 1368年)、ヤヴォル=ルヴヴェク公(在位:1346年 - 1368年)、ルサティア公(在位:1364年 - 1368年)、ブジェク半国及びオワヴァの公(在位:1358年 - 1368年)、シェヴィエシュ公(在位:1359年 - 1368年)、グウォグフ半国及びシチナヴァ半国の公(在位:1361年 - 1368年)。シフィドニツァ公ベルナルトの長男、母はポーランド王ヴワディスワフ1世の娘クネグンダ。マウィ(Mały)は「小さい」を意味する異称。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とボルコ2世マウィ · 続きを見る »

ヌール・バヌ

ヌール・バーヌーまたはヌールバーヌー (Nur-banu, Nurbanu, 1525年 - 1587年)は、オスマン帝国皇帝セリム2世のハセキ(妾)。ムラト3世の母。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヌール・バヌ · 続きを見る »

ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)

モンフェッラート侯ボニファーチョ1世(Bonifacio I del Monferrato、1150年頃 - 1207年)は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープル攻略後、テッサロニキ王国を創設した。 ボニファーチョは、モンフェッラート侯グリエルモ5世とジュディッタ・ダウストリア(オーストリア辺境伯レオポルト3世の娘)の3男として生まれ、兄にグリエルモ(ロングエペー)、モンフェッラート侯コッラード(コンラート1世)がいる。彼の父と兄2人は十字軍で活躍しており、兄グリエルモはエルサレム王女シビーユと結婚してボードゥアン5世の父となり、コンラートは第3回十字軍時にティルスの防衛に活躍し、シビーユの妹イザベルと結婚してエルサレム王になっている。 ボニファーチョも若いころから数々の冒険譚があり、彼のトゥルバドゥールによって戯曲化されている。フリードリヒ1世やハインリヒ6世に従い、ホーエンシュタウフェン朝のイタリア攻略に参加した。1193年に兄の跡を継いでモンフェッラート侯となり、1194年からシチリア遠征に参加する。 モンフェッラート家はヨーロッパ中の有力な家系と縁組をしており、フランス王フィリップ2世や神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世、フィリップ兄弟は従兄弟にあたる。当時、ピエモンテはオック語圏であり、その宮廷は宮廷詩人や騎士道物語等、文化の中心として栄えた。 1201年に第4回十字軍の指導者シャンパーニュ伯ティボー3世が亡くなった後、彼自身の軍歴とヨーロッパ王家との縁戚やエルサレム王国や東ローマ帝国等オリエントの事情に詳しいこと等から、新しい指導者に選ばれた。 同年のクリスマスに従兄弟のローマ王フィリップの元を訪れ、フィリップの義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスと会っており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。 第4回十字軍はヴェネツィア共和国の思惑もあり、ハンガリー王国ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は第4回十字軍参照。 1204年のコンスタンティノープル攻略後、イサキオス2世の未亡人となったハンガリー王ベーラ3世の娘マルギトと結婚し、ラテン帝国皇帝の最有力候補と見なされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向によりフランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同年ギリシアでテッサロニキ王国を建国した。しかし1207年9月にブルガリア帝国のカロヤンに急襲され、戦死。モンフェッラート侯国を先妻の子であり長男であるグリエルモが、テッサロニキ王国はマルギトの子であり次男であるデメトリオが継いだ。 Category:テッサロニキ国王 Category:モンフェッラート侯 Category:アレラーミチ家 Category:生年不明 Category:1207年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯) · 続きを見る »

ボスニア・ヘルツェゴビナ

1992年-1998年の国旗 1992年-1998年の国章 ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ · 続きを見る »

ボスニア王国

ボスニア王国(Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とボスニア王国 · 続きを見る »

トマス・ハワード (第21代アランデル伯爵)

21代アランデル伯爵トマス・ハワード(PC、1586年7月7日 - 1646年10月4日)は、イングランドの貴族。 第20代アランデル伯爵フィリップ・ハワードの子でステュアート朝前期に官職を歴任した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトマス・ハワード (第21代アランデル伯爵) · 続きを見る »

トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)

初代ノーフォーク公トマス・モウブレー(Thomas Mowbray, 1st Duke of Norfolk, KG, 1366年? - 1399年9月27日?)は、14世紀イングランドの貴族である。第4代モウブレー男爵ジョン・モウブレーとエリザベス・セグレイヴの次男。ノーフォーク公爵夫人マーガレット(ノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートンの娘)の外孫。初代ノッティンガム伯ジョン・モウブレーの弟。薔薇戦争末期にノーフォーク公を叙爵されたジョン・ハワードは外孫。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) · 続きを見る »

トマゾ・アルビノーニ

トマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ(Tomaso Albinoni, 1671年6月8日 ヴェネツィア - 1751年1月17日 ヴェネツィア)は、イタリア(当時はヴェネツィア共和国)のバロック音楽の作曲家。 生前はオペラ作曲家として著名であったが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶され、そのうちいくつかは頻繁に録音されている。なお、『アルビノーニのアダージョ』(1958年に出版)はレモ・ジャゾットによる偽作であって、アルビノーニとは直接関わりはない。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトマゾ・アルビノーニ · 続きを見る »

トラカイ

再建されたトラカイ島城 トラカイ (Trakai ( 「トラーカイ」)、 Troki、Traken、Трака́й)は、リトアニアの都市。湖畔のリゾート地でもある。首都ヴィリニュスの西方28 km に位置する。ヴィリニュスに近いため、トラカイは人気のある観光地である。町の面積は11.52平方キロメートルで、2009年の調査では人口は5,357人である。異なる民族によって街が作られ、保存されてきたことに特色がある。カライム人、タタール人、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人らがここで暮らしてきた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトラカイ · 続きを見る »

トリノ条約

トリノ条約(トリノじょうやく、Treaty of Turin)は、イタリア・ピエモンテ州のトリノで締結された条約。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトリノ条約 · 続きを見る »

トリノ条約 (1381年)

トリノの和約 (イタリア語:Pace di Torino)、もしくは1381年のトリノ条約は、キオッジャ戦争(第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争)の終戦条約としてヴェネツィア共和国とジェノヴァ連合軍(ジェノヴァ共和国、ハンガリー王国、オーストリア大公国、パドヴァ)の間にサヴォイア伯国の仲介の元で結ばれた条約。ヴェネツィアはミラノ・ヴィスコンティ家やキプロス王国と同盟して戦い、一時はヴェネツィア本国が占領の危機にさらされたものの盛り返した。しかしヴェネツィアの疲弊と費やした戦費は大きく、多くの点で譲歩した条約を結ばざるを得なくなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトリノ条約 (1381年) · 続きを見る »

トリポリ伯国

トリポリ伯国(英語:County of Tripoli)は、レヴァントに建設された4つの主要な十字軍国家のうち、最後に建国された国家。サフィータ、タルトゥース、トリポリといった重要な都市を押さえていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトリポリ伯国 · 続きを見る »

トリエステ

トリエステ(Trieste)は、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都であり、トリエステ自治県の県都でもある。アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している。 第一次世界大戦までは長らくオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあり、その重要都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア王国領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビアとの間で帰属をめぐる紛争が生じ、一時期は国際連合管理下の「トリエステ自由地域」が置かれていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトリエステ · 続きを見る »

トルコクラティア

この項目ではオスマン帝国による占領から独立するまでのギリシャについて述べる。この時代はギリシャ史において「トルコクラティア(Τουρκοκρατία『トルコの支配』の意味)」と呼ばれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトルコクラティア · 続きを見る »

トレヴィーゾ

トレヴィーゾ(Treviso)は、イタリア共和国ヴェネト州の都市で、その周辺地域を含む人口約8万3000人の基礎自治体(コムーネ)。トレヴィーゾ県の県都である。 トレヴィーゾには、アパレル会社のベネトンと、電機メーカーのデロンギの本社が置かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトレヴィーゾ · 続きを見る »

トレディチ・コムーニ

トレディチ・コムーニ(Tredici Comuni; チンブロ語: Dreizehn Komoin)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴェローナ県北部にある地域。レッシニア(Lessinia)とも呼ばれる。 中世には13の都市が同盟を結び、ミラノ公国やヴェネツィア共和国に従いつつ高度の自治を保っていた。ドイツ語系の少数言語チンブロ語が住民の母語として話されていた地域のひとつである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトレディチ・コムーニ · 続きを見る »

トロギル

トロギル (クロアチア語:Trogir、イタリア語及びダルマチア語:Traù、ラテン語: Tragurium、ギリシャ語:Tragurion、ハンガリー語:Trau)は、クロアチアのスプリト=ダルマチア郡の港町。アドリア海に面する。トロギルの町は、クロアチア本土とチオヴォ島の間の小さな島にある。スプリト市の27キロ西方にある。1997年、古都トロギルはUNESCO世界遺産に登録された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトロギル · 続きを見る »

トンマーゾ・モチェニーゴ

トンマーゾ・モチェニーゴの棺(サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂) トンマーゾ・モチェニーゴ (イタリア語:Tommaso Mocenigo 1343年 - 1423年)は、ヴェネツィア共和国の元首(ドージェ、1414年 - 1423年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトンマーゾ・モチェニーゴ · 続きを見る »

トーマス・クック・グループ

トーマス・クック・グループ は、イギリスの旅行代理店グループ。 近代的な意味での世界最初の旅行代理店とされる。その後、所有権は変遷しているが、現在、グループの実質的な本部は、ロンドンに置かれている。また、トーマス・クック単体()の登記上の本店所在地は、ピーターバラに置かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とトーマス・クック・グループ · 続きを見る »

ヘルツェグ・ノヴィ

ヘルツェグ・ノヴィ (Херцег Нови, Castelnuovo, Νεοκαστρον / Neòkastron)は、モンテネグロの都市。アドリア海沿岸の都市で、コトル湾の入り口、オリェン山の麓に位置している。およそ17万人の人口を持つヘルツェグ・ノヴィ基礎自治体の行政中心地であり、アドリア海沿岸都市で最大のセルビア人人口を抱えている。数世紀に渡りヴェネツィア共和国領アルバニア・ヴェネタに属したヘルツェグ・ノヴィは、イタリア語でカステルヌオーヴォ(新しい城という意味)と呼ばれていた。ヘルツェグ・ノヴィはアドリア海沿岸の定住地としては歴史が浅いにもかかわらず、波瀾万丈の過去を持つ。様々な占領の歴史が、都市の多様で絵のように美しい建築様式の混合を作り上げた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘルツェグ・ノヴィ · 続きを見る »

ヘンリー7世 (イングランド王)

ヘンリー7世(Henry VII, 1457年1月28日 - 1509年4月21日)は、テューダー朝初代のイングランド王(在位:1485年8月22日 - 1509年4月21日)およびアイルランド卿。ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を勝ち取り、戦いで王座を得た最後のイングランド王となった。 ランカスター朝の系統のヘンリー7世は、ヨーク朝のエドワード4世の娘にしてリチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争による混乱を解決した。テューダー朝を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子ヘンリー8世に王位を継承した。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行った。一方で、富裕層に対しては不当な手続きによって財産罰を濫発した。 テューダー朝断絶後にイングランド王位を継承したステュアート朝のジェームズ1世は、ヘンリー7世の長女マーガレットの孫であり、そのためヘンリー7世は現在のイギリス王家の祖先にもあたる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘンリー7世 (イングランド王) · 続きを見る »

ヘンリー8世 (イングランド王)

ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝第2代のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド卿、のちアイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。百年戦争以来の慣例に従い、フランス王位の要求も継続した。 6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会からのイングランド国教会の分離によって知られる。ローマと対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となった。だがローマによる破門のあとも、カトリックの教義への信仰は失わなかった。また、によって、イングランドおよびウェールズの統合を指導した。 1513年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と連合して、1544年には神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世と連合してフランスを攻めるが、どちらもハプスブルク家からの援助は最小限であり、膨大な戦費に堪えられず失敗に終わった。 絶頂期においては、魅力的で教養があり老練な王だと同時代人から見られ、ブリテンの王位についた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者であると描かれている。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動した。薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。そのため6度結婚し、イングランドにおける宗教改革を招いた。次第に肥満して健康を害し、1547年に薨去した。晩年には好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている。後継者は息子のエドワード6世であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘンリー8世 (イングランド王) · 続きを見る »

ヘンリー・ハワード (第22代アランデル伯爵)

22代アランデル伯爵ヘンリー・フレデリック・ハワード(PC(Ire)、1608年8月15日 - 1652年4月17日)は、イングランドの貴族。 第21代アランデル伯トマス・ハワードの次男で庶民院議員や貴族院議員を務め、清教徒革命期には王党派として行動した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘンリー・ハワード (第22代アランデル伯爵) · 続きを見る »

ヘンリー・ベネディクト・ステュアート

ヘンリー・ベネディクト・マリア・クレメント・トマス・フランシス・ザヴィア・ステュアート(Henry Benedict Maria Clement Thomas Francis Xavier Stuart, 1725年3月11日 - 1807年7月13日)は、ジャコバイトの主張したイングランドおよびスコットランドの王位継承者。ジャコバイトによって「イングランドとアイルランドの王ヘンリー9世およびスコットランド王ヘンリー」と呼ばれるが、自身ではヨーク枢機卿公(Cardinal-Duke of York)と称した。 父ジェームズ老僭王や兄チャールズ若僭王と異なり、王位奪還のための活動を行なわなかった。教皇領でカトリック教会の聖職者(枢機卿)として一生を終えた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘンリー・ベネディクト・ステュアート · 続きを見る »

ヘンリク4世

ヘンリク4世プロブス(ポーランド語:Henryk IV Probus/Prawy;ドイツ語:Heinrich IV der Gerechte、1258年頃 - 1290年6月23日)は、低地シロンスクのヴロツワフ公(在位:1266年 - 1290年)、及びクラクフ(長子領)を有するポーランド大公(在位:1288年 - 1290年)。ポーランド大公ヘンリク2世の次男ヘンリク3世の一人息子で、母はやはり大公を兼ねたマゾフシェ公コンラト1世の娘ユディタ。高潔公(Probus/Prawy、有徳公とも)の異称で呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とヘンリク4世 · 続きを見る »

ブチェンタウロ

ブチェンタウロ(ヴェネト語:bucintoro)とはヴェネツィア総督(ドージェ)が乗るガレー船。日本ではイタリア語語源のブチントーロとも言われる。ヴェネツィア共和国では1798年にナポレオン・ボナパルトに滅ぼされるまで、毎年復活祭に行われる海との結婚という行事で総督がアドリア海に出港するというパフォーマンスに使用された。これまでに主要なものでは4隻のブチェンタウロが建造されたとみられており、その中でもっとの華麗であったのが1729年に処女航海を行った4隻目のブチェンタウロである。その豪華さはまるで海に浮かぶ宮殿のようであり長さは35m、高さは8m以上の大きさ、この船を動かすのには168人の漕ぎ手のほか40人以上の乗組員が必要であったとされている。総督の椅子は船内後方に位置しており、船首には正義を表す剣と天秤が飾られていた。しかしこの船は1798年にナポレオンがヴェネツィアを征服した時に勝利の象徴として破壊された。 2008年2月ブチェンタウロ財団が2000万ユーロ(1ユー.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブチェンタウロ · 続きを見る »

ブラチ島

ブラチ島 (-ふらちとう、クロアチア語:Brač、発音: ˈbɾaːtʃ 、ラテン語:Bretia, Brattia; イタリア語: Brazza; ドイツ語: Bratz;)は、クロアチア、スプリト=ダルマチア郡の島。面積は、ダルマチア諸島中第3位となる396平方km。島最高地点は、ヴィドヴァ・ゴラか、スヴェティ・ヴィド山の778m。これはアドリア海の諸島中の最高地点でもある。島全体でおよそ13,000人の住民が、最大の町である人口3,500人のスペタルから、わずか12人しかいないノヴォ・セロ村まで、小規模な町で暮らしている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブラチ島 · 続きを見る »

ブルガリア帝国

ブルガリア帝国(ブルガリアていこく)は、現在のブルガリアを中心にバルカン半島の東部を支配したブルガリア人の帝国である。 原住地の中央アジア西部を経てアゾフ海沿岸付近の広大な草原地帯から移住してきたテュルク系遊牧民のブルガール人によって建設された第一次ブルガリア帝国(681年 - 1014年)のもとでキリスト教を受け入れ、支配者のブルガール人と現地の南スラヴ人とが一体化してブルガリア人を形成、第二次ブルガリア帝国(1187年 - 1396年)のもとではイヴァン・アセン2世の時代に最大版図を実現したが、14世紀にオスマン帝国の度重なる侵略を受け、同世紀の終わりまでに併合し尽くされて消滅した。 19世紀にオスマン帝国から独立して成立したブルガリア王国も1908年から1946年までの君主制時代にツァーリを君主の正式な称号とし、ブルガリア帝国と呼ばれることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブルガリア帝国 · 続きを見る »

ブロワ条約 (1499年)

条約が締結されたブロワ城。 ブロワ条約(ブロワじょうやく、Traité de Blois、)は、1499年4月15日に締結された、ドージェ・アゴスティーノ・バルバリーゴの治下にあるヴェネツィア共和国とルイ12世の治下にあるフランス王国の間の条約。両国は第二次イタリア戦争において共闘してミラノ公国に侵攻することに同意した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブロワ条約 (1499年) · 続きを見る »

ブトリント

ブトリント(アルバニア語:ButrintまたはButrinti)は、アルバニア南部のサランダ県にある都市遺跡。かつてはギリシャ語でブトロトン(Βουθρωτόν)、ラテン語でブトロトゥム(Buthrotum)と呼ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブトリント · 続きを見る »

ブゼト

ブゼト(Buzet、Pinguente、Piquentum)はクロアチアの小都市および基礎自治体でイストリア郡に位置する。ブゼトは丘の上にある町で2001年現在の人口は6,059人である。ヴェネツィア共和国支配時にはすでに駐屯地や飲料水に適していたことから居住者が居た。今日のブゼ=スティナ地域は将来的に自然公園の中心となる。美しい手付かずの自然や豊富な歴史的文化的な遺産がある他、健康に良い地元の自家製のトリフなどの料理、ワインなどが楽しめる。また、地元の民謡やダンス、自治体内の小さな町であるフムやロチュなどに毎年多くの旅行者をひき付けている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とブゼト · 続きを見る »

プラノ・カルピニ

プラノ・カルピニのモンゴル帝国領内の行路(北部の青い線) ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini、1182年 - 1252年8月1日)は、イタリア・ヴェネツィア共和国の修道士。本名はイタリア語でジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネ (Giovanni da Pian del Carpine) だが、ラテン語読みしたプラノ・カルピニが有名である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプラノ・カルピニ · 続きを見る »

プレヴェザの海戦

プレヴェザの海戦(プレヴェザのかいせん)は、1538年9月28日、バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となった。連合艦隊側は統制が取れずに敗走し、結果、オスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。この優位は1571年のレパントの海戦で揺らぐものの、以後もオスマン帝国は地中海での一大勢力であり続けることになった。しかしこの勝利には、オスマン帝国側に帰属したバルバリア海賊の影響力無しには為し得なかった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプレヴェザの海戦 · 続きを見る »

プレスブルクの和約

プレスブルクの和約(プレスブルクのわやく、、)は、ナポレオン戦争中の1805年12月26日に、オーストリア領内のプレスブルク(現・スロバキア共和国の首都ブラチスラヴァ)において、フランスとオーストリアとの間で結ばれた講和条約である。プレスブルク条約(プレスブルクじょうやく、、)とも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプレスブルクの和約 · 続きを見る »

プロスペロ・アルピーニ

プロスペロ・アルピーニ(Prospero Alpini、または Prosper Alpinus または Prosper Alpini/Alpino、1553年11月23日 - 1617年2月16日)は、イタリアの医師、植物学者である。エジプトの植物を研究し、パドヴァ大学の教授を務めた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプロスペロ・アルピーニ · 続きを見る »

プーラ (クロアチア)

プーラ(、、、、)はクロアチア・イストラ郡最大の都市。イストリア半島の他地域同様、穏やかな気候と海、手つかずの自然で知られている。古代ローマ時代からの行政中心地で、ワイン醸造、漁業、造船業、観光業の長い伝統を持つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプーラ (クロアチア) · 続きを見る »

プーラ城塞

プーラ城塞(Mletačka Utvrda u Puli,Venetian Citadel of Pula)は、クロアチア北西部のイストリア半島先端のプーラにある中世に造られた砦(要塞)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とプーラ城塞 · 続きを見る »

パラ・ドーロ

パラ・ドーロ(Pala d’Oro)はヴェネツィア、サン・マルコ寺院の祭壇の後ろに飾られた金色の背障のこと。ビザンティン美術の最も純化熟達した作品の一つとして世界的に認められている。 パラ・ドーロは2つの部分から構成されている。 下の部分は福音記者マルコの物語、ヴェネツィア共和国元首(ドージェ)の肖像、『全能者キリスト』を描いた琺瑯(ほうろう)。1102年、ヴェネツィア共和国総督オルデラッフォ・ファリエリの命令で、コンスタンティノポリスの名工たちがアンテペンディウム(祭壇の前飾り)として作ったものである。 他の部分、つまり大天使ミカエルの絵を含む1番上の絵全部は、1204年第四回十字軍の略奪品だと考えられている。 1343年、ヴェネツィア共和国元首アンドレア・ダンドロは2つの部分を結合して、およそ1927個の宝石を散りばめた1個のゴシック枠細工作品にするよう命令した。パラ(pala。ラテン語のpalla.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパラ・ドーロ · 続きを見る »

パラッツォ・コルネール

パラッツォ・コルネール(Palazzo Corner、正式名称Palazzo Corner della Ca' Granda)は、イタリアのヴェネツィア内のカナル・グランデ沿いにあるルネサンス建築様式の邸宅である。また現在はヴェネツィアの県庁舎として使用されている。サンマルコ広場から近い場所にある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパラッツォ・コルネール · 続きを見る »

パラグルジャ

パラグルジャ (クロアチア語:Palagruža、イタリア語:Pelagosa)は、クロアチア領の島。アドリア海中部にあり、他地域から隔絶した場所にある小さなドロマイトの列島である。最も大きな島は灯台のあるヴェラ・パラグルジャ島(Vela Palagruža)、小さな島はマラ・パラグルジャ島(Mala Palagruža)、そして周りを20もの岩や岩礁が取り巻いている。これらの島々はすべて切り立った崖からなる。クロアチア最南端地点である。 今や無人島であるが、かつては両シチリア王国の最も離れた前哨基地であり、1875年からオーストリア=ハンガリー帝国領であった。1920年にイタリア王国領となったが、1947年にユーゴスラビアに併合された。 現在は、コルチュラ島からチャーターした船で2、3時間かけ上陸するのが唯一の方法である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパラグルジャ · 続きを見る »

パリ条約

パリ条約(パリじょうやく)は、フランスの首都パリで締結された条約。以下が存在する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパリ条約 · 続きを見る »

パリ条約 (1623年)

パリ条約(パリじょうやく、Treaty of Paris)は1623年2月にフランス王国、サヴォイア公国、ヴェネツィア共和国の間で締結された条約。三国はグラウビュンデン州領ヴァルテッリーナに駐留するスペイン軍を追い出すことで合意した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパリ条約 (1623年) · 続きを見る »

パルマノーヴァ

パルマノーヴァ(Palmanova)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約5500人の基礎自治体(コムーネ)。オスマントルコに対して東方国境線を防備するため、16世紀末にヴェネツィア共和国によって計画的に築かれた星形要塞で知られる、城塞都市(シタデル)・計画都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパルマノーヴァ · 続きを見る »

パルテノン神殿

パルテノン神殿(パルテノンしんでん、Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。 神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯(en)は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。 パルテノン神殿のある丘の下の方は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパルテノン神殿 · 続きを見る »

パルガル・イブラヒム・パシャ

パルガル・イブラヒム・パシャ(Pargalı İbrahim Paşa、1493年 - 1536年3月15日)は、オスマン帝国スルタンのスレイマン1世により任命された大宰相(ヴェズィラザム)。1493年ヴェネツィア共和国パルガに生まれ、1536年3月15日オスマン帝国コンスタンティノープル)にて死去。別名フレンク・イブラヒム・パシャ (西洋人)、マクブル・イブラヒム・パシャ (寵臣)、のちにはトプカプ宮殿内での処刑をもじってマクトゥル・イブラヒム・パシャ (処刑された)とも呼ばれる。 イブラヒムはキリスト教徒として生まれ、幼いうちにオスマン帝国に奴隷として献上され、成人前のスレイマン1世の親しい友人となった。 1523年スレイマン1世は、の後任として、イブラヒムを大宰相に指名した。ピリ・メフメト・パシャは、スレイマン1世の父で前スルタンのセリム1世により1518年に大宰相に指名されていた。 イブラヒムはその後13年間に亘り大宰相の任にあり、他の大宰相に比してもまれにみる権限と影響力を誇ったが、1536年にスレイマン1世の命により処刑され、その財産も国家により没収された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパルガル・イブラヒム・パシャ · 続きを見る »

パレオロゴス王朝

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパレオロゴス王朝 · 続きを見る »

パロス島

パロス島(Πάρος / Paros; イタリア語:Paro)は、エーゲ海の中央に浮かぶギリシャの島。キクラデス諸島の1つで、ナクソス島の西、海峡を挟んで約8kmのところにある。本土のピレウス(アテネ)からは南東約100kmの位置にある。現在のパロス島はヨーロッパの旅行者にとって有名なホットスポットの1つである。パロスの自治体は沖合の多くの無人島を含み、その広さは196.308 km²にも及ぶ。最も近い自治体は南西にあるアンティパロス島である。パロス島は美しい白大理石のでも知られ、磁器やマーブルに世界中で使われるパリアン(Parian)という言葉を生んだ 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパロス島 · 続きを見る »

パッラーディオ建築

重ね合わされたポルティコのあるヴィラ、パッラーディオの『建築四書』第4巻より、英訳版は1736年にロンドンで出版された ヴィラ・ロトンダ設計図、この家の特徴はその後の時代にヨーロッパ中の多くのパッラーディオ建築家屋に取り入れられるようになった パッラーディオ建築(パッラーディオけんちく、表記はパラディオとも、Palladian architecture)は、ヴェネツィアの建築家アンドレーア・パッラーディオ(1508年-1580年)の設計から派生しヒントを得たヨーロッパの建築様式である。今日パッラーディオ建築と認識されるものは、パッラーディオの当初の概念を展開したものである。パッラーディオの作品は古代ギリシアとローマの公式で古典的神殿建築から、その対称性、奥行き、価値観に強く基づいたものである。17世紀から、パッラーディオによるこの古典的建築の解釈はパッラーディオ主義と呼ばれる建築様式として採用された。それは18世紀末まで発展を続けた。 パッラーディオ建築は17世紀の半ばの短期間イギリスで人気が出始めたが、その開花時期はイングランド内戦の勃発によって、またそれに続いた緊縮財政の押し付けによって短命に終わった。18世紀初期、その流行はイングランドだけでなく、その影響を直接受けたプロイセンでも復活した。ヴェネツィアのフランチェスコ・アルガロッティ伯爵(1712年-1764年)がベルリンからバーリントン伯爵(1694年-1753年)に宛てて手紙を書き、バーリントン伯爵がイングランドで採用した建築様式を、プロイセンのフリードリヒ大王(1712年-1786年)に採用を勧めていると記した可能性がある。しかし、ウンター・デン・リンデンにあるノーベルスドルフ設計のオペラハウスは、コーレン・キャンベル (1676年-1729年) のワンステッド・ハウスに基づき、1741年から建設されていた。18世紀の後半、この様式がヨーロッパでの人気を失くしたとき、北アメリカのイギリス植民地全体で人気が急上昇することとなり、サウスカロライナのドレイトン・ホール、ロードアイランドのニューポートのレッドウッド図書館、ニューヨーク市のモリス・ジュメル邸、メリーランドのアナポリスのハモンド・ハーウッド邸、およびバージニアでトマス・ジェファーソンのモンティチェロとポプラ・フォレストなど、建築例が脚光を浴びた。 この建築様式は19世紀から20世紀初めにかけてヨーロッパで人気を博し続け、公共や地方政府の建物デザインに採用されることが多かった。19世紀の後半からは、オーガスタス・ピュージン(1812年-1852年)に代表されるゴシック・リヴァイヴァル建築と競うようになっていた。ピュージンはパッラーディオ建築が古代の寺院に起源をもつことを思い出させ、それがプロテスタントやイギリス系カトリックの礼拝にはあまりに異端的であると考えた。しかし、建築様式としてパッラーディオ建築は人気を保ち変革を続けてきた。そのペディメント、対称性、調和比例は、今日の多くの建築物のデザインにも明らかに使われている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパッラーディオ建築 · 続きを見る »

パッサロヴィッツ条約

パッサロヴィッツ条約は、1718年7月21日にパッサロヴィッツ(現・セルビアのポジャレヴァツ)で、オスマン帝国とハプスブルク君主国(オーストリア大公国)・ヴェネツィア共和国の間に結ばれた条約。パッサロヴィツ条約などとも表記される。 1714年から1718年にかけて、オスマン帝国はヴェネツィアとギリシャやクレタ島でを有利に戦っていた一方で、墺土戦争ではペーターヴァルダインの戦いとベオグラード包囲戦でオイゲン公率いるオーストリア軍に敗れており、両戦争の講和条約として締結された。 本条約は軍事情勢を反映して、オスマン帝国は、ワラキア西部(バナト地方)・セルビア北部・ボスニア北部などをオーストリアに割譲した。ヴェネツィアはペロポネソス半島を放棄し、1699年のカルロヴィッツ条約で得た領土のうちで残っているのは、クレタ島の居留地やイオニア諸島などとなった。 Category:オスマン帝国の講和条約 Category:オーストリアの講和条約 Category:講和条約 Category:ハプスブルク帝国の条約 Category:ヴェネツィア共和国 Category:バルカンの歴史 Category:18世紀のヨーロッパ Category:1718年の条約.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパッサロヴィッツ条約 · 続きを見る »

パトラ

パトラ(Πάτρα / Pátra)は、ギリシャ共和国ペロポネソス半島北西部に位置する港湾都市。西ギリシャ地方の首府であり、アハイア県の県都でもある。古典ギリシャ語およびカサレヴサではパトライ(Πάτραι / Pátrai)と記され、パトラス(Patras)の名でも呼ばれる。周辺の市も含む都市圏人口は約26万人。アテネ・テッサロニキに次ぐ「ギリシャ第三の都市」と呼ばれるが、差は大きく開いている。また、市域のみの人口としてはアテネ大都市圏に含まれるピレウスの方が多く、4位である。 ローマ時代には東地中海世界の国際都市で、アンデレが殉教した土地でもある。ギリシャの「西の玄関」と呼ばれ、イタリアや西欧諸国との貿易が盛んである。国立大学2校と技術大学1校が有る、多くの学生が暮らす科学都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパトラ · 続きを見る »

パフォス城

パフォス城(Κάστρο της Πάφου, Paphos Castle)はキプロス(南キプロス・ギリシャ共和国)のパフォスにある城。 パフォス城は、港を守るためビザンティン時代に建てられたサランタ・コロネス砦が、1222年の地震で崩壊したため、その500m南に位置する港の突端に13世紀のフランス系キプロス王国時代に新たに造られたものであるRepublic of Cyprus Department of Antiquities: Pafos Castle http://www.mcw.gov.cy/mcw/DA/DA.nsf/All/D3F770E201E1C528C225719900330DD6PAFOS REGIONAL BOARD OF TOURISM: Medieval Castle of Paphos http://www.visitpafos.org.cy/Medieval_Castle_of_Paphos.aspx。建設当時は現在見られる城の他に、もう一つ円形の塔が建てられており、2つの建物は城壁で結ばれていた。これらの建物は15世紀まで使われていたが、一方は地震で倒壊し、もう一方は1570年のオスマン帝国襲撃直前の爆発事故によって崩壊した。現在見られる城塞の建物は、これらの破壊された建物うち西側の一方を、オスマン帝国時代の1780年に修復したものである。 時代の変遷と共に城塞の利用目的も変化し、防衛施設、牢獄、英国支配時には塩の倉庫として使われていた。現在は史跡として公開されると共に、9月に行われる芸術祭(Pafos Aphrodite Festival)での演劇会場としても使われる。 パフォスにある他の遺跡群と共に、1980年にUNESCO世界文化遺産に登録された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパフォス城 · 続きを見る »

パドヴァ

パドヴァ(Padova)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。パドヴァ県の県都。経済・通信のハブ地である。 パドヴァ市の人口はヴェネト州で第3位である。ヴェネツィアなどを含むパドヴァ=ヴェネツィア都市圏の人口はおよそ160万人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパドヴァ · 続きを見る »

パドヴァの植物園

パドヴァの植物園(パドヴァのしょくぶつえん)は、イタリアのパドヴァ大学付属の植物園。世界遺産へ登録されている物件でもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパドヴァの植物園 · 続きを見る »

パウルス2世 (ローマ教皇)

パウルス2世(Paulus II、1417年2月23日 - 1471年7月26日)はルネサンス期のローマ教皇(在位:1464年 - 1471年)。本名はピエトロ・バルボ(Pietro Barbo)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパウルス2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

パウルス5世 (ローマ教皇)

パウルス5世(Paulus V、1552年9月17日 - 1621年1月28日)はローマ教皇(在位:1605年 - 1621年)。シエナの名門ボルゲーゼ家の生まれ、本名はカミッロ・ボルゲーゼ(Camillo Borghese)。教会の権益を擁護すべくヴェネツィア共和国やイングランド王ジェームズ1世との交渉を繰り返した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパウルス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

パオロ・ヴェロネーゼ

パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese、1528年 - 1588年4月19日)は、ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家。『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』などの作品で知られる。パオロ・カリアーリ (Paolo Cagliari, Paolo Caliari) と呼ばれることもあるが、出身地のヴェローナから「ヴェロネーゼ」として知られるようになった。 ヴェロネーゼはティツィアーノとティントレットと並んで、ルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家であると評価されている。非常に優れた色彩感覚の持ち主で、フレスコ、油彩ともに幻想的な色使いの装飾的絵画作品で知られている。ヴェロネーゼのもっとも有名な作品は劇的で色彩に満ちたマニエリスム様式で描かれた精緻かつ物語性豊かな連作絵画群で、壮重な建築物と壮麗な画面構成が特徴である。ヴェネツィアとヴェローナの修道院の食堂をモデルとした、聖書に書かれた饗宴のエピソードを題材とした大規模な絵画群はとくに重要な作品となっている。異端審問におけるヴェロネーゼの言葉は、当時の芸術に対する識見として引用されることも多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とパオロ・ヴェロネーゼ · 続きを見る »

ビュユック・ハン

ビュユック・ハン()はキプロス島で最大のキャラバンサライで、同島で最も美しいといわれている建築物。北キプロス・トルコ共和国の首都レフコシャ(ニコシア)にあり、オスマン帝国がヴェネツィア共和国に代わりキプロス島支配するようになった翌年の1572年に建てられた。 建物の中庭にはモスクと、ウドゥ(清め)のための泉(ablution fountain)がある。大英帝国占領期には牢獄として使われ、その後1893年には貧しい人のための宿泊所に改装された。1990年代後半になりカフェや民芸品ギャラリーなどの観光施設に改装された。 Category:ニコシア Category:北キプロスの建築物 Category:16世紀の建築物 Category:オスマン建築.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とビュユック・ハン · 続きを見る »

ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、ボニファチオ・ベンボ画、ブレーラ絵画館蔵 ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ (Bianca Maria Visconti, 1425年3月31日 - 1468年10月28日)は、ミラノ女公。 ミラノ公の庶出の娘として、セッティモ・パヴェーゼ(現在のボルナスコ)近郊で生まれた。母アニェーゼ・デル・マイーノはフィリッポが愛した唯一の女性で、2人の間には1426年にもカテリーナ・マリーア(またはルチア・マリーア)という娘が生まれたが、生後まもなく死んだ。フィリッポはアニェーゼとビアンカをアッビアテグラッソの豪華な邸宅に住まわせ、娘に人文教育を受けさせた。彼は娘の利発さに感慨を受けたようであった。ビアンカは父同様乗馬を愛した。 1430年、6歳のビアンカは30歳のコンドッティエーレ、フランチェスコ・スフォルツァと婚約した。この頃スフォルツァ家なしにはミラノ公国の統治は難しくなっており、この婚約でフランチェスコをミラノに結びつける目的があった。ミラノ公国の正統な後継者となること、ビアンカがもたらす莫大な持参金(それらはクレモナ、カステラッツォ、ボスコ、フルガローロなどの領地であった)を考えればスフォルツァ家が受け入れたことは当然であった。フィリッポは野心的なスフォルツァ家を警戒し、フェッラーラ侯レオネッロ・デステとビアンカを婚約させることを考えた。ヴェネツィア共和国と同盟する彼がスフォルツァ家に圧力をかけられる唯一の存在だったからである。しかし、その試みは成立しなかった。 1441年10月、ビアンカとフランチェスコはクレモナで結婚した。2人の間には8人の子が生まれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ · 続きを見る »

ビアンカ・カッペッロ

ビアンカ・カペッロ ビアンカ・カペッロ(Bianca Cappello, 1548年 - 1587年10月17日)は、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの2度目の妃。ヴェネツィアの裕福な貴族である出身で、美女の誉れ高かった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とビアンカ・カッペッロ · 続きを見る »

ビオグラード・ナ・モル

ビオグラード・ナ・モル (クロアチア語:Biograd na Moru、イタリア語: Zaravecchia, ヴェネツィア方言: Xara Vècia)は、クロアチアの都市及び基礎自治体。ダルマチア地方にあり、ザダル郡に属する。2005年時点での人口は6,059人。アドリア海を挟んでパシュマン島をのぞみ、ザダルとスコシャンからヴォディツェとシベニクへ向かう途上にある。 ビオグラード・ナ・モルは、長い伝統を持つ観光地として知られている。1920年代にチェコ領から初めての観光客がやってきて、最古のホテルは1935年に建てられた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とビオグラード・ナ・モル · 続きを見る »

ビゼルト

ビゼルト (BizerteまたはBizerta、アラビア語: بنزرت; /Banzart、イタリア語:Biserta)は、チュニジアの都市。ビゼルト県の県都で、2004年調査では人口114,371人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とビゼルト · 続きを見る »

ピラン

ピラン(Piran)またはピラーノ(Pirano)は、スロベニア南西部のピラン湾やトリエステ湾に面した町で、スロベニア領のイストリア半島では3つの著名な町の中の一つである。町には中世の建築物や文化的な遺産が豊富に残っており大規模な野外博物館のようになっている。細い通りには小さな家々が建ち並び、その魅力から多くの人を惹き付けている。ピランはこの地域の行政的な中心で、スロベニアの一大観光地でもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピラン · 続きを見る »

ピレウス

ピレウス(Πειραιάς / Pireás)は、ギリシャのアッティカ地方にある港湾都市で、アテネの首都圏を構成する。古代にはペイライエウス (Πειραιεύς / Peiraieús)と呼ばれ、アテナイの外港都市として発展した。アテネ市中心部から南西12km、サロニコス湾の東に位置する。今日ではエーゲ海の島々への船が、ピレウス港から出ていて、エーゲ海クルーズの拠点である。ピレウスは2011年時点ではギリシャ第4の都市であり、アテネ首都圏ではアテネに次いで人口が多い。はギリシャ最大の港で、年間2000万人が利用するヨーロッパ最大且つ世界第2位の旅客港である。貨物でも年間140万TEUを誇り、ヨーロッパ上位10港且つ東地中海最大である。1896年と2004年のアテネオリンピックで会場となった。 現代ギリシャ語での発音は であり、ピレアスと転記される。このほか、ピレエウス、ピラエウス、ピレエフスなどとも表記される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピレウス · 続きを見る »

ピーリー・レイース

ピーリー・レイース(Pîrî Reîs, ピリー・レイース, ピリ・レイースとも表記される。「レイース」は「提督」の意。もしくはアフメット・ムヒッディン・ピリ Ahmet Muhiddin Piri, もしくはアフメット・イブニ・エル=ハジュ・メフメット・エル=カラマニ Ahmet ibn-i el-Haç Mehmet El Karamani 1465年? - 1554年)は、オスマン帝国海軍の軍人。世界地図、航海案内書の作者として知られ、16世紀のオスマン帝国(トルコ)が到達した海洋知識の到達点を示す。 ダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)の出身で、本名はアフメト・ムヒッディンという。父ハジ・メフメトの死後、叔父でオスマン帝国艦隊の提督だったケマル・レイースに引き取られ、オスマン帝国海軍の軍人となった。若い頃叔父に従ってスペインに併合されつつあったアンダルスのムスリムを救援するためイベリアに派遣された艦隊に参加したという。 1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海域での作戦に従事し、「船長」を意味するレイースの称号を与えられた。1516年から1517年にはシリア、エジプト海域に出動し、セリム1世のマムルーク朝征服を援護、1522年にはスレイマン1世のロドス島遠征に参加した。バルバロス・ハイレッディンが帝国海軍司令官となると、その麾下の提督として活躍する。 1547年、老練の提督となっていたピーリー・レイースはスレイマン1世によって紅海に駐留するインド洋方面艦隊の司令官に任命され、1551年にアデンを征服、アラビア海、ペルシア湾に出動してマスカット、ホルムズ海峡を攻撃し、ポルトガルの進出を牽制した。しかし、あるときペルシア湾のバスラ沖にポルトガル艦隊が現れたとの報を受け出撃したが、バーレーン近海でガレー船一隻を沈没させたため攻撃を中止しエジプトに帰投したことから戦線放棄の罪に問われ、1554年にスレイマン1世の命によりカイロで処刑された。 ピーリー・レイースは、海軍軍人としての職務のかたわらで詳細な世界地図と航海案内書を作成してオスマン皇帝に献呈したことで、艦隊司令官としてよりも、地図作成者として後世に名を残した。世界地図は、それぞれ1513年と1526年の記年をもつ2種類の断簡が現存し、いずれもアメリカ大陸を詳細に描いていることで高い評価を受けている。また、1521年と1526年の記年をもつ2写本が伝存する航海案内書『海洋の書(キターブ・バフリエ)』は、エーゲ海から地中海全域にわたる諸海域について、海域ごとに200図以上の詳細な航海地図と海域の航行法、地誌、歴史情報などを記しており、地理書、歴史書としても高く評価されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピーリー・レイース · 続きを見る »

ピエロ・ソデリーニ

ピエロ・ソデリーニ(Piero Soderini、1450年5月18日 - 1522年6月13日)は、イタリアのフィレンツェ共和国の政治家。 1450年、フィレンツェの名家に生まれた。ロレンツォ・イル・マニフィコを支持するメディチ派に属し、1493年にはフランス王国駐在大使に任命された。メディチ家追放に続くジロラモ・サヴォナローラの処刑のあと、1502年にフィレンツェ共和国の元首である正義の旗手に選ばれた。その任期は慣例を破って終身とされた。ソデリーニ政権で活躍したニッコロ・マキャヴェッリは、穏健路線をとるソデリーニの優柔不断さを歯がゆく眺めることもあった。 ソデリーニ政権は混乱するイタリアにあって、フィレンツェ共和国の独立維持とフィレンツェ共和国から独立したピサ再征服のために精力を傾け、フランス王国やスペイン王国、さらに教皇領、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ナポリ王国などとの合従連衡を繰り返した。1509年、念願のピサ占領を果たしたが、1512年にはスペイン軍の攻撃によりフィレンツェは陥落し、ソデリーニは亡命し、メディチ家が復帰することになった。 その後、メディチ家出身のレオ10世はクロアチアに亡命していたソデリーニをローマに招きそばに置いた。フェレンツェへの帰国は許されず、1522年、ローマで死去した。 Category:1450年生 Category:1522年没 Category:フィレンツェ出身の人物 Category:イタリアの政治家.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエロ・ソデリーニ · 続きを見る »

ピエトロ・ロレダン

ピエトロ・ロレダン (Pietro Loredan, 1482年 - 1570年)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。(在任:1567年 - 1570年)。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1482年生 Category:1570年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエトロ・ロレダン · 続きを見る »

ピエトロ・ベンボ

ピエトロ・ベンボ(Pietro Bembo、1470年3月20日 - 1547年1月12日あるいは1月18日)は、ルネサンス期イタリアの詩人、人文学者、文学理論家。聖ヨハネ騎士団の一員でローマ・カトリックの枢機卿でもあった。ベンボは近代イタリア語の革新に影響を与えた人物であり、フィレンツェを中心とするトスカーナ方言を近代イタリアの標準語として体系化することに大きく寄与した。ベンボの著作は、14世紀の詩人、人文学者で16世紀になって再評価されたペトラルカの業績に影響を受けている。またベンボの理論は、16世紀でもっとも重要な世俗歌劇であるマドリガーレにも多大な影響を与えている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエトロ・ベンボ · 続きを見る »

ピエトロ・オルセオロ

ピエトロ・オルセオロ(Pietro Orseolo).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエトロ・オルセオロ · 続きを見る »

ピエトロ・グラデニーゴ

ピエトロ・グラデニーゴ(Pietro Gradenigo、1252年 - 1311年)は、ヴェネツィア共和国の第49代ドージェ(元首)。(在任:1289年 - 1311年) 共和国に貴族制度を導入して、寡頭政の基礎を打ち立てた事で知られる。 13世紀のヴェネツィアでは、民主政が形骸化してダンドロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元首や議員が選ばれる事が多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政治的な動きによって政治が左右される事が多くなった。グラデニーゴは元首就任後、腐敗した制度の改革に当たる事になった。1297年、グラデニーゴは政治改革案を提案した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエトロ・グラデニーゴ · 続きを見る »

ピエタ (曖昧さ回避)

ピエタ(pietà)は、イタリア語で哀れみ・慈悲の意味。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピエタ (曖昧さ回避) · 続きを見る »

ピサ

ピサ (Pisa) は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約9万人の基礎自治体(コムーネ)。ピサ県の県都である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピサ · 続きを見る »

ピサネロ

ピサネロ(Pisanello, 1395年頃 - 1455年頃)は、15世紀に活動したイタリアの画家。国際ゴシック様式を代表する画家の一人であり、記念メダルの作家としても知られる。日本語では「ピサネッロ」とも表記する。本名をアントニオ・ディ・プッチョ・ピサーノ(Antonio di Puccio Pisano)、またはアントニオ・ディ・プッチョ・ダ・チェレート(Antonio di Puccio da Cereto)という。ヴィットーレ・ピサーノ(Vittore Pisano)とも言うが、これは『画家・彫刻家・建築家列伝』の著者であるジョルジョ・ヴァザーリによる誤伝である。 ピサネロは大規模なフレスコ(壁面の漆喰が生乾きのうちに仕上げる壁画の技法)、優雅な肖像画、小型の板絵などさまざまな作品を手掛け、多くの優れた素描も残している。彼はまた15世紀前半における肖像入り記念メダルの最も重要な作家である。彼はヴェネツィアの総督(ドージェ)、バチカンの教皇、ヴェローナ、フェラーラ、マントヴァ、ミラノ、リミニの各宮廷、ナポリ王などのために仕事をし、マントヴァのゴンザーガ家やフェラーラのエステ家で重用された。彼は生前から同時代の詩人や人文主義者たち(グアリーノ・ダ・ヴェローナなど)によって称賛されていた。彼らはピサネロをチマブーエ(ゴシック絵画の巨匠)や、フェイディアス、プラクシテレス(ともに古代ギリシャの彫刻家)になぞらえた。 彼の作品はかつてその多くが他の画家の作と考えられていた(ピエロ・デラ・フランチェスカ、アルブレヒト・デューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチなど)。今日、彼の真作の多くは失われているが、素描と記念メダルに関してはかなりの量が現存している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とピサネロ · 続きを見る »

ツレス島

ツレス島 (-とう、クロアチア語:Cres、発音:"Tsres"、 イタリア語 Cherso, ドイツ語: Kersch、 ラテン語:Crepsa, ギリシャ語:Chèrsos, Χερσος)は、クロアチアの島。ダルマチア北部クヴァルネル湾に浮かぶ島の一つ。プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。クルク島かイストリア半島からのフェリーで行くことができる。 島の面積は405.78平方キロメートルで、ダルマチア諸島最大の島クルク島とほぼ同じ大きさである。人口は3,184人(2001年)。 ツレス島と近くのロシニ島(Lošinj)はかつては一つの島だったが、海峡によって隔てられ、現在はツレスの町オソル(イタリア語名オッサーロ)との間に橋が架かっている。ツレス島には淡水湖ヴラナ湖がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とツレス島 · 続きを見る »

テッテ橋

thumb テッテ橋(Ponte delle Tette)は、イタリアのヴェネツィア内にある小さな橋である。「Tette」とはイタリア語で「おっぱい」の意味であり、その名の通り「おっぱいの橋」を意味する。これはかつてこの橋で同性愛の疑惑のある娼婦をトップレスの状態でこの橋に立たせた事に由来する。 15世紀頃にこの地域は娼館がひしめく歓楽街で、当時の娼婦はバルコニーから股を広げたり胸を見せる事で客の呼び込みをしていた。この頃ヴェネツィア共和国では同性愛の広がりが社会問題となっており、それを防ぐため共和国が法令などで歓楽街を奨励していた時期もあった。1509年までにヴェネツィアには約11,565人の高級娼婦がいたという記録があり、娼婦から得た税金がヴェネツィア共和国の財政に大きく寄与していた。特に1519年の娼婦たちからの税収はArsenale di Venezia(en:Venetian Arsenal)建造に充てられた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテッテ橋 · 続きを見る »

テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテッサロニキ · 続きを見る »

テッサロニキ王国

テッサロニキ王国(Βασίλειον Θεσσαλονίκης, 1204年 - 1224年)は、第4回十字軍の後に、モンフェッラート侯ボニファーチョ1世がギリシアのテッサロニキを中心に築いた短命の十字軍国家。テッサロニカ王国、サロニカ王国とも。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテッサロニキ王国 · 続きを見る »

ティノス島

ティノス島(Τήνος / Tinos)は、エーゲ海のキクラデス諸島北部に位置するギリシア領の島。 生神女マリヤ(聖母マリア)を記憶するギリシャ正教会のパナギア・エヴァンゲリストリア聖堂があり、8月15日の生神女就寝祭には多くの巡礼者が訪れる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティノス島 · 続きを見る »

ティヴァト

ティヴァト(セルビア語:Тиват)とは、モンテネグロのコトル湾沿岸に位置する都市。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティヴァト · 続きを見る »

ティール包囲戦

ティール包囲戦().

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティール包囲戦 · 続きを見る »

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃 - 1576年8月27日)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ、その生誕地から「ダ・カドーレ (da Cadore)」と呼ばれることもあった。 ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。 ティツィアーノは長命な画家で、その作風は年代とともに大きく変化しているが、その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった。円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが、初期の作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティツィアーノ・ヴェチェッリオ · 続きを見る »

ティエポロ

ティエポロ(Tiepolo)は、イタリア人の名字。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティエポロ · 続きを見る »

ティエーネ

ティエーネ(Thiene)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約2万3000人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とティエーネ · 続きを見る »

テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ

テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ (Theodora Dukaina Komnena, 1058年 -1083年)は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスと、2度目の皇后エウドキア・マクレンボリティサの娘。 1075年、兄ミカエル7世ドゥーカス帝の在位時に、ヴェネツィア共和国のドージェ・ドメニコ・セルヴォとコンスタンティノープルで結婚。結婚後は、テオドラ・アンナ・ドゥーカイナ・セルヴォ(Teodora Anna Dukaina Selvo)と名乗った。 彼女は大勢のギリシャ人従者たちを連れてヴェネツィアへ降嫁し、そこでは一般的でない、貴族らしい振る舞いと高慢にみえるマナーを、自ら持ち込んだ。東ローマ風の贅沢としてたとえば、突き出し燭台につけたロウソク・フォーク・フィンガーボウル・ナプキンの使用などである。彼女は退行性の病で死んだが、ヴェネツィア人たちは、彼女の際限のない贅沢なふるまいに対して神聖な審判が下ったとみた。 category:ヴェネツィア共和国の人物 ておとら Category:1058年生 Category:1083年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ · 続きを見る »

テオドロス1世パレオロゴス

テオドロス1世パレオロゴス(Theodoros I Palaiologos, Θεόδωρος Α Παλαιολόγος, 1355年頃 - 1407年6月24日)は東ローマ帝国地方統治者、モレアス専制公(在任1382年 - 1407年)。皇帝ヨハネス5世パレオロゴスと皇后ヘレネ・カンタクゼネ・パレオロギナの第四子(末子)、マヌエル2世パレオロゴスの弟。中世ギリシア語表記ではセオドロス1世パレオロゴス。 若年期をコンスタンティノポリスの父の許で過ごした後、一時期テッサロニキの統治に携わる。父及び兄マヌエル2世に常に忠実な立場を貫き、1376年の長兄アンドロニコス4世パレオロゴス帝の投獄に際しては父と共に投獄の憂き目にも遭っている。その後一族間の和平が成立すると、テオドロスは1380年に子なく死去したモレアス専制公マヌエル・カンタクゼノスの後継者として1382年にモレアス専制公領に派遣された。 しかし彼の着任は従兄弟(母ヘレネの長兄マタイオス・カンタクゼノスの次子)デメトリオス・カンタクゼノスの叛乱によって妨げられる事となった。ラテン人・トルコ人傭兵を擁するデメトリオスとの戦いは熾烈であったが、1384年に彼が急死し終結した。 事態を収拾して統治職に就く事に成功したテオドロスであったが、遠く首都から派遣されてきた彼に対する地元有力者の反発は根強く、特にモネンヴァシアに拠点を得ていたパウロス・マモナスはヴェネツィア共和国やオスマン帝国と独自に外交関係を結び、特に後者の軍事力を背景として帝国からの離反を計った。1394年、テオドロスが強硬手段によりマモナスをモネンヴァシアから追放すると、オスマン君主バヤズィト1世はエヴレノズ・ベイ、ヤクブ・パシャら将軍を派遣し、アカイア公ペドロ・ボルド・デ・サン・スペランとも同盟してテオドロスを挟撃した。配下の武将の活躍で辛うじてこの危機を乗り切ったテオドロスであるが、専制公領や首都コンスタンティノポリス(1397年以降、オスマン軍の継続的な封鎖下にあった)が置かれた状況に絶望し、聖ヨハネ騎士団に専制公領の売却を持ちかけるまでになった。しかしこれにはミストラス市民が反発、府主教を指導者に押し立てて騎士団の専制公領接収を拒絶してこれを断念させた為、テオドロスも翻意して統治職に復帰した。 テオドロスはフィレンツェ出身のアテネ公ネリオ1世アチャイウォリの娘バルトロメアと結婚し、その嫁資としてコリントス及び周辺地域を獲得した。両者の間には子供が生まれなかったので、兄マヌエル2世は自らの第二子テオドロス2世パレオロゴスをその後任とした。 テオドロスは1407年6月24日、修道士テオドレトスとしてミストラスにて死去した。兄マヌエル2世はその死をいたみ、『弟テオドロスへの追悼演説』を残した。 ておとろす1せいはれおろこす ておとろす1 ておとろす1せいはれおろこす ておとろす1せいはれおろこす.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテオドロス1世パレオロゴス · 続きを見る »

テキルダー

テキルダー(Tekirdağ)は、トルコのトラキア東部にある都市。テキルダー県の県都である。県の中心都市であるチョルルよりは閑静で、快適なまちであると地元住民は感じている。人口は14万535人(2009年)。ハンガリーとブルガリアの名誉領事館がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とテキルダー · 続きを見る »

ディーウ沖の海戦

ディーウ沖海戦(第2次チャウルの戦い)は、1509年2月3日にインドのディーウ港の近くのアラビア海で、ポルトガル海上帝国と、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国とラグサ共和国(ドゥブロヴニク)の支援を受けたグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝(ブルジー・マムルーク朝)、カリカットの領主ザモリンとの間で起こった海戦であるRogers, Clifford J. Readings on the Military Transformation of Early Modern Europe, San Francisco:Westview Press, 1995, pp. 299–333 at 。 この戦いにおけるポルトガルの勝利は大きな意味をもたらした。伝統的な紅海やペルシア湾を通る香辛料貿易路はアラブ人勢力とヴェネツィア共和国によって支配されていた。しかしマムルーク朝やアラブ勢力が後退することで、その伝統的な交易路を迂回してインド洋から喜望峰の航海路を支配しようとするポルトガルの戦略を容易にした。戦いの後、ポルトガルはゴア、スリランカ、マラッカ、ホルムズといったインド洋沿岸の重要な港を急速に占領していき、エジプトのマムルーク朝やグジャラート・スルターン朝を無力化して、ポルトガル海上帝国の発展をおおいに助けた。オランダ・ポルトガル戦争の間と1612年にスワリーの戦いでイギリス東インド会社がポルトガルに勝利するまで、ポルトガルの貿易における優勢はほぼ一世紀にわたって維持され続けた。これはアジアにおける植民地主義の始まりとなった。また、キリスト教徒とイスラム教徒の権力闘争が、当時最も国際交易で栄えた地域である地中海、中東及びその周辺、インド洋内に広がったことを示している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とディーウ沖の海戦 · 続きを見る »

デズデモーナ

デズデモーナ(Desdemona)は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』の登場人物。名前はギリシア語で「不運な」の意味。ヴェニスの元老院議員ブラバンショーの娘で、主人公オセロと結婚した。オセロの部下イアーゴーの姦計により、もう一人の部下キャシオーとの不貞をオセロに疑われ、夫の手にかかって死ぬ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とデズデモーナ · 続きを見る »

フランチェスコ1世ダ・カッラーラ

フランチェスコ1世ダ・カッラーラ (イタリア語:Francesco I da Carrara、1325年9月29日 - 1393年10月6日) は、パドヴァの領主(1350年 - 1388年)。通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio、老公)。 パドヴァ大聖堂の洗礼堂 ジュスト・デ・メナブオイ画 中段左端からフランチェスコ1世ダ・カッラーラ、フランチェスコ・ペトラルカ、フィーナ・ブッザッカリーニ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランチェスコ1世ダ・カッラーラ · 続きを見る »

フランチェスコ2世・ゴンザーガ

フランチェスコ2世の肖像、アンブラス城所蔵、インスブルック アンドレーア・マンテーニャ、ルーブル美術館(パリ)、元はフランチェスコ2世がフォルノーヴォの戦いを記念しマントヴァのサンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア礼拝堂に寄贈した物 フランチェスコ2世・ゴンザーガ(Francesco II Gonzaga, 1466年8月10日 - 1519年3月29日)は、マントヴァ侯フェデリーコ1世・ゴンザーガとバイエルン公アルブレヒト3世の娘マルゲリータ・ディ・バヴィエラとの息子である。ジャンフランチェスコ(Gianfrancesco)とも。 父の死によりマントヴァ侯に即位、1490年2月12日、フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘イザベラ・デステと結婚し、ゴンザーガ家とエステ家の伝統的な同盟関係を更新した。 1495年ので、フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるミラノ公国とヴェネツィア共和国の同盟軍は、ナポリ王となっていたフランス王シャルル8世に勝利し、 敗北したフランスが撤退したためナポリはアラゴンの手に戻った。 1519年に死去。一説では死因は梅毒といわれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランチェスコ2世・ゴンザーガ · 続きを見る »

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ (Francesco Maria I della Rovere,1490年3月22日 - 1538年10月20日)は、イタリアの軍人、コンドッティエーレ。ウルビーノ公。 教皇軍の傭兵だったジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレと、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナの子として、セニガッリアで生まれた。1503年に即位した教皇ユリウス2世(俗名ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)は父方の伯父にあたる。 母の弟グイドバルドに子供がないため、ユリウス2世の仲介により、次期ウルビーノ公に指名された。1502年、フランチェスコはマルケで最も強大な力を持っていたチェーザレ・ボルジアにセニガッリアのシニョーレ(僭主)の座を奪われた。フランチェスコと母ジョヴァンナは、アンドレア・ドーリア率いるボルジア軍の殺戮から逃れた。1508年、叔父グイドバルドが死に、フランチェスコがウルビーノ公位を継いだ。伯父ユリウス2世は、チェーザレの死後に甥にセニガッリアを返還した。 1509年、フランチェスコは教皇軍の司令官に任命され、ただちにイタリア戦争に参戦しフェラーラ公国ならびにヴェネツィア共和国と戦った。1511年、ボローニャ征服に失敗した後、部下に枢機卿を殺害させるという冷酷な行いで、彼自身がチェーザレと比較されるようになった。1513年、ペーザロ卿となった。 しかし、彼の政治的な庇護者であったユリウス2世が亡くなると事態は暗転した。新教皇はメディチ家出身のレオ10世で、ペーザロを身内のロレンツォに与えた。1516年、フランチェスコは破門された上ウルビーノを追われ、ウルビーノ戦争と呼ばれた争いを起こし失敗した。彼が公位に返り咲くのは、1521年にレオ10世が崩御した後であった。 イタリア戦争時、ロンバルディアにおけるヴェネツィア共和国配下の将軍であったフランチェスコだったが、新たな教皇クレメンス7世(メディチ家出身)はデッラ・ローヴェレ家を無視した。神聖同盟の最高司令官として、1527年の神聖ローマ帝国軍によるローマ略奪に対して彼は不介入を決め込んだ。 フランチェスコは1520年代後半に起きたパヴィア征服の主役で、ヴェネツィア共和国側について戦った。マルケにおける教皇庁の勢力に逆らい、彼は長男グイドバルド2世とジューリア・デ・ヴァラーノ(マルケの僭主の一族)の結婚を成立させた。 1538年、フランチェスコはペーザロで毒殺により急死した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ · 続きを見る »

フランチェスコ・フォスカリ

彼の墓。 フランチェスコ・フォスカリ (Francesco Foscari, 1373年 - 1457年11月1日)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。イタリア・ルネサンスの最盛期に元首をつとめた(在任:1423年-1457年)。 フォスカリが長くヴェネツィアを率いた当時、イタリア全土征服を狙うミラノ公国(ヴィスコンティ家)との戦いもまた長引いた。注目に値する戦勝を次々と挙げながらも、戦争でヴェネツィアは多くの犠牲を払った。フィレンツェとの同盟後、連合軍はフランチェスコ・スフォルツァ指揮のミラノ軍に打ち勝った。スフォルツァはただちにフィレンツェと停戦したが、ヴェネツィアは相手にされなかった。 1445年、フォスカリの息子ヤコポは、贈収賄と汚職のかどで十人委員会に告発され、ヴェネツィアを追われた。1450年と1456年に他の2つの審理が行われ、ヤコポはクレタ島に流刑にされ、そこで死を迎えた。 息子の死の知らせは、フォスカリを自身の務める政府の要職から身を引かせる事態を引き起こした。1457年10月、十人委員会により彼は辞職させられた。彼はこの措置に抵抗したものの、十人委員会に逆らうことはできなかった。10月31日、新たな元首パスクワル・マリピエロが選出された。その翌日、11月1日にフォスカリは死んだ。この出来事により、共和国市民の抗議が巻き起こったため、フォスカリは国葬の扱いをもって弔われた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランチェスコ・フォスカリ · 続きを見る »

フランチェスコ・スフォルツァ

フランチェスコ・スフォルツァ ボニファーチョ・ベンボ画 (ブレーラ絵画館, ミラノ) フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza、1401年7月23日 サン・ミニアート - 1466年3月8日 ミラノ)は、ルネサンス期イタリアの傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、スフォルツァ家最初のミラノ公である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランチェスコ・スフォルツァ · 続きを見る »

フランク・ローマ皇帝

フランク・ローマ皇帝ないし西方帝位 (Empereur d’Occident)は、フランク国王カール1世が800年12月25日にローマにてローマ教皇レオ3世によりローマ皇帝として戴冠されて以降のカロリング朝()における君主号の仮定上の表記である。最後のフランク・ローマ皇帝は924年に死去したベレンガーリオ1世である。 フランク・ローマ皇帝は大概は«ローマ人の皇帝» (imperator Romanorum) ないし«ローマ帝国の皇帝» (imperator Romanum gubernans imperium)の称号を帯びている。962年のオットー1世大帝の戴冠によって始まる神聖ローマ皇帝はフランク・ローマ皇帝の後継者であることを自認している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランク・ローマ皇帝 · 続きを見る »

フランシスコ (ベージャ公)

ベージャ公フランシスコ・デ・ブラガンサ(D.、1691年5月25日 - 1742年7月21日)はポルトガル王国のインファンテ。ポルトガル王ペドロ2世と2人目の王妃マリー・ゾフィー・フォン・デア・プファルツの息子。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランシスコ (ベージャ公) · 続きを見る »

フランシスコ・デ・ケベード

フランシスコ・ゴメス・デ・ケベード・イ・サンティバーニェス・ビジェーガス(Francisco Gómez de Quevedo y Santibáñez Villegas, 1580年9月14日 - 1645年9月8日)は、スペイン文化の黄金時代を代表する作家、詩人。スペイン文学史上最大の存在感を持つ人物の一人である。 '''Quevedo''' (''Retratos de Españoles Ilustres'', 1791).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランシスコ・デ・ケベード · 続きを見る »

フランスの歴史年表

フランスの歴史年表(フランスのれきしねんひょう)は、フランスおよびその前身で起きた重要な事件を記す。これらの事件の背景についてはフランスの歴史を参照。またフランス君主一覧、フランスの大統領も参照。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランスの歴史年表 · 続きを見る »

フランス革命の年表

フランス革命の年表(フランスかくめいのねんぴょう、Chronologie de la Révolution française)は、フランス革命(1789年〜1799年)とそれに関連する出来事、さらにその原因にまで遡って取りまとめた年表である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランス革命の年表 · 続きを見る »

フランス革命戦争

アルコレの戦い ナイルの海戦 フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、Guerres de la Révolution française, French Revolutionary Wars)は、1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争である。当初はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認する意味をもっていた。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランス革命戦争 · 続きを見る »

フランソワ (ボーフォール公)

thumb フランソワ・ド・ブルボン(François de Bourbon, Duc de Beaufort, 1616年1月16日 – 1669年6月25日)は、フランスの貴族、軍人。第2代ボーフォール公。アンリ4世の庶系の孫でヴァンドーム公セザールと妻フランソワーズ(メルクール公フィリップ=エマニュエルの娘)の次男として生まれた。ヴァンドーム公ルイ2世は兄、ルイ14世は従兄である。 幼少の頃から軍隊に身を投じ、1628年のサヴォイア遠征にはわずか12歳で参加した。父同様に反リシュリュー派に属し、イングランドへの亡命を余儀なくされた時期がある。フロンドの乱で活躍し、後には地中海での戦争でも活躍した。1665年3月にはチュニジア付近で小規模な艦隊を率い、アルジェリアの艦隊を打ち破っている。 1669年、当時ヴェネツィア共和国領であったクレタ島のカンディア(現在のイラクリオン)を防衛するため、フランス艦隊を率いてオスマン帝国と戦ったが、6月25日、夜の戦闘中に討死したと考えられている。フランソワの死体は取り返されることはなかった。死後、爵位は甥ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンが継承した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフランソワ (ボーフォール公) · 続きを見る »

フリードリヒ4世 (オーストリア公)

フリードリヒ4世またはフリードリヒ無一文公(, 1382年 - 1439年6月24日)は、ハプスブルク家のオーストリア公(1402年 - 1439年)。1406年からフォーダーエスターライヒとチロル伯領を領有した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフリードリヒ4世 (オーストリア公) · 続きを見る »

フリードリヒ・フォン・シュペルケン

アウグスト・フリードリヒ・フォン・シュペルケン(August Friedrich von Spörcken、1698年8月28日、 - 1776年6月13日、ハノーファーKlaus Mlynek: SPÖRCKEN... (参考文献を参照。) )はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領の元帥である。七年戦争において指揮官を務めた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフリードリヒ・フォン・シュペルケン · 続きを見る »

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州(Friuli-Venezia Giulia)は、イタリア共和国の北東部に位置する州。イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はトリエステ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 · 続きを見る »

フヴァル城塞

フヴァル城塞(フヴァルじょうさい、=町の砦)はスペイン砦()とも呼ばれていて、クロアチア・ダルマチア地方のアドリア海に浮かぶフヴァル島・フヴァルの町の背後の山にある城塞で、有名な観光地である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフヴァル城塞 · 続きを見る »

フヴァル島

フヴァル島 (-とう、クロアチア語:Hvar、フヴァルでの方言:HvorまたはFor、ギリシャ語: Pharos、ラテン語:Pharina、イタリア語:Lesina)は、クロアチアの島。ダルマチア沿岸のアドリア海に浮かぶ。島は東西の長さがおよそ80キロメートルあり、観光客で賑わう。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフヴァル島 · 続きを見る »

フッガー家

フッガー家の紋章 フッガー家(Fugger)は、バイエルン公国のアウクスブルクを中心に鉱山・金融を営んだ富豪。アシエントによりスペイン・ハプスブルク朝に対し巨額を貸し付けた諸田實 その二 神奈川大学商経論叢 29巻1号。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフッガー家 · 続きを見る »

フニャディ・ヤーノシュ

フニャディ・ヤーノシュ(Hunyadi János、イオアン・デ・フネドアラ(Iancu/Ioan de Hunedoara)、ヨハネス・コルヴィヌス(デ・フニャド)(Ioannes Corvinus/de Hunyad、1387年/1407年南塚『図説ハンガリーの歴史』、23-24頁/1409年 - 1456年8月11日)は、現在のルーマニア出身のハンガリーの貴族。 同時代の史料には、ルーマニア南部のワラキアの貴族の家系の出身と記される。オスマン帝国の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、戦闘を経て軍事技術を習得した。1441年にトランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。 フニャディは気分次第で従軍を決める貴族出身の騎士に頼らず、錬度が高い傭兵と士気の高い志願兵を戦力の中心に据えたパウル・レンドヴァイ『ハンガリー人 光と影の千年史』(稲川照芳訳, 信山社出版, 2008年12月)、77-79頁。ボヘミアのフス派の傭兵が戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入したエルヴィン『ハンガリー史』1 増補版、132頁。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法(英語版)を導入したオツェテァ『ルーマニア史』1巻、203-204頁。一連の軍事技術の革新によって、フニャディは1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦いでの敗北にもかかわらず、1443年から1444年にかけてのバルカン山脈を越えての「大遠征」と1456年のベオグラードでのにおけるオスマン帝国皇帝メフメト2世に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、ローマ教皇は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、カトリックの教会と一部のプロテスタントの教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。 フニャディは、政治家としても優れた素質を持っていたピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻、473-474頁。1440年代初頭にヴワディスワフ3世(後のウラースロー1世)とラディスラウス・ポストゥムス(後のラースロー5世)がハンガリー王位を巡って争った時、フニャディは前者を積極的に支持した。議会の中小貴族から支持を集めたフニャディは、1445年にウラースロー1世の死後にハンガリー王に選出されたラースロー5世が成年に達するまでの間、ハンガリーの国政を担当する7人の「レルムの指導者」のうちの1人に選出された。続く国会で、フニャディは唯一の摂政に選出された。1452年に摂政の地位を辞した後、ラースロー5世はフニャディを総司令官に命じ、多くの爵位を与えた。かくしてフニャディはハンガリーの有力な大貴族の1人になり、その死去まで議会における影響力を維持した。 教皇ピウス2世はフニャディを「」(キリスト教の守護者)と讃えたが、フニャディはベオグラードの勝利の3週間後に軍内で流行していた疫病に罹って没した。フニャディの勝利によって、ハンガリー王国は長らくオスマン帝国の侵入から守られた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフニャディ・ヤーノシュ · 続きを見る »

ファマグスタ

ラーラ・ムスタファ・パシャ・モスク(旧ニコラオス大聖堂) ファマグスタ (Famagusta)は、キプロス東部・ファマグスタ地方の主要都市である。ギリシア語ではアモホストス(Αμμόχωστος)、トルコ語ではガージマーウサ(Gazimağusa)と呼ばれる。湾の中央部にあり、キプロスで最も水深のある港がある。現在北キプロス・トルコ共和国支配下にある。古代にはエジプトのプトレマイオス朝の女王にちなみアルシノエと呼ばれていたが、「砂に隠された」という意味のアンモコストスと呼ばれるようになった。この名前が西ヨーロッパでは「ファマグスタ」に変化し、トルコ語で「マウサ」(Mağusa)に変化した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とファマグスタ · 続きを見る »

ファエンツァ

ファエンツァ(Faenza)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約5万8000人の基礎自治体(コムーネ)。県内ではラヴェンナに次ぐコムーネ人口を有する。 中世以来、陶器の生産地として知られる都市である。ルネサンス期にはマヨリカ焼きの技術を発展させるなど、ヨーロッパの陶芸において大きな役割を果たした。ファイアンス焼き(錫釉陶器、Faïence)はこの町の名に由来する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とファエンツァ · 続きを見る »

フィリップ・ヴェルドロ

フィリップ・ヴェルドロ(Philippe Verdelot)は、フランス出身の作曲家。生涯のほとんどをイタリアで暮らした。一般にイタリア・マドリガーレの創始者と見なされており、マドリガーレ草創期に最も数多くこのジャンルを手懸けた作曲家であった。サヴォナローラの信奉者からメディチ家がフィレンツェを奪還した後、同地の音楽界で重要な立場にあり、ジャック・アルカデルトらに影響を与えた。生没年は不詳で、1480年ごろ(±5年)に生まれ、1531年前後もしくは1552年に没したとされている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィリップ・ヴェルドロ · 続きを見る »

フィリップ・フォン・デア・プファルツ (1627-1650)

プファルツ公子フィリップ、ヘラルト・ファン・ホントホルスト画 フィリップ・フォン・デア・プファルツ(Philipp von der Pfalz, 1627年9月16日 デン・ハーグ - 1650年12月16日 ルテル)は、ドイツのプファルツ=ジンメルン家の公子。プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とその妻でイングランド王・スコットランド王ジェームズ1世の娘であるエリザベス・ステュアートの間の第10子、七男。 当時、プファルツ選帝侯家は父がボヘミアの対立王に選ばれたために三十年戦争に巻き込まれて流浪の身となっており、フィリップは両親の亡命先であるホラント州のデン・ハーグで生を享けた。フィリップは幼少期にフランスのパリ宮廷に引き取られて教育されたが、後に長兄カール・ルートヴィヒの意向によりデン・ハーグの母の元に連れ戻されている。カール・ルートヴィヒはイングランド内戦中、叔父のチャールズ1世麾下の王党派(騎士党)ではなく議会派(円頂党)を支持しており、議会に援軍としてヴェネツィア共和国の軍隊を招聘するよう勧告する際、末弟のフィリップを議会への密使として遣わしている。 1646年6月21日、フィリップはデン・ハーグの市街地で母の寵臣レピネー侯爵(Marquis de l'Epinay)を殺害し、オランダに居られなくなって国外に逃れた。母エリザベスはフィリップを決して許さず、一言も口を利かず、二度と彼を息子として認めようとしなかった。母に勘当されたフィリップはロレーヌ公国の軍隊に入り、騎兵連隊の連隊長となった。1650年の年末、フロンドの乱に従叔父のテュレンヌ元帥に従って参加していた時に、ルテルの戦い(Bataille de Rethel)で戦死した。遺骸はスダンまで運ばれ、サン=シャルル教区教会(プロテスタントの教会)内にある、テュレンヌの実家ブイヨン公爵家の墓所に葬られた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィリップ・フォン・デア・プファルツ (1627-1650) · 続きを見る »

フィリップ・ダルトワ (1358-1397)

フランス王国大元帥フィリップ・ダルトワ、ジャン=バティスト・モゼス(Jean-Baptiste Mauzaisse)画、1835年 フィリップ・ダルトワ(Philippe d'Artois, comte d’Eu, 1358年 - 1397年6月18日 )は、百年戦争期のフランス王国軍(1392年 - 1397年)。ウー伯(1387年 - 1397年)。ウー伯ジャン・ダルトワとその妻イザベル・ド・ムランの間の三男。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィリップ・ダルトワ (1358-1397) · 続きを見る »

フィリップスブルク包囲戦 (1734年)

フィリップスブルク包囲戦(フィリップスブルクほういせん、Belagerung von Philippsburg)は、ポーランド継承戦争中の1734年5月末から7月18日にかけて行われた、ライン川流域のの包囲。ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ率いるフランス軍10万はライン川流域で進軍、一方オーストリア軍は6万人が5月1日にフィリップスブルクの補強に派遣された。老将プリンツ・オイゲン率いる救援軍3万5千(プロイセン王太子フリードリヒも同伴していた)は包囲を解こうとしたが失敗した。6月12日、ベリック公は塹壕を視察している最中に砲弾に直撃され戦死、指揮はアスフェル侯爵とノアイユ公爵が引き継いだ。要塞は1か月後に降伏、駐留軍は武人の礼遇を受けてへ撤退した。 アスフェル侯爵は戦役での貢献によりフランス元帥に叙され、ヴットゲナウは中将に昇進した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィリップスブルク包囲戦 (1734年) · 続きを見る »

フィレンツェ

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィレンツェ · 続きを見る »

フィレンツェ派

フィレンツェ派とは、13~17世紀のイタリアで、フィレンツェを中心に活躍した画派。ルネサンス美術は彼らが主導したことで発展し、その影響もヨーロッパ各地に大きく及んだ。フィレンツェは、盛期ルネサンスの初期の中心地でもあった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフィレンツェ派 · 続きを見る »

フェラーラ

フェラーラ(フェッラーラ、Ferrara)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約13万人の基礎自治体(コムーネ)。フェラーラ県の県都である。 14世紀、この地を治めたエステ家によって整備され、ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えた。エステ家の居城エステ城が一般に公開されている。1995年にはフェラーラのルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフェラーラ · 続きを見る »

フェルディナンド2世 (ナポリ王)

フェルディナンド2世(Ferdinando II, 1469年8月26日 - 1496年9月7日)は、ナポリ王(在位:1495年 - 1496年)。フェランテ2世(Ferrante II)、フェランディーノ(Ferrandino)とも呼ばれる。ナポリ王アルフォンソ2世と王妃イッポーリタ・マリーア・スフォルツァの子。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフェルディナンド2世 (ナポリ王) · 続きを見る »

フェルディナンド・マゼラン

フェルディナンド・マゼラン(1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家である。1519年に始まる航海でスペイン船の艦船隊を率いた。マゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなったものの、彼が率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。 ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães )、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes, 名はエルナンドHernandoとも )。スペイン語圏・ポルトガル語圏以外の多くの国では Magellan と綴るのが一般的であるツヴァイク(1972)、p.12。 英名(Ferdinand Magellan )の発音は「マゲラン」「マジェラン」だが日本語では慣用的に「マゼラン」と呼びならわしている。これにならい、この項における呼称も「マゼラン」で統一する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフェルディナンド・マゼラン · 続きを見る »

フェデリーコ1世・ゴンザーガ

フェデリーコ1世像、ウフィツィ美術館蔵, フィレンツェ. フェデリーコ1世・ゴンザーガ(Federico I Gonzaga, 1444年6月25日 - 1484年7月14日)は、イタリアの名門ゴンザーガ家のマントヴァ侯。コンドッティエーレ。 マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガと妃バルバラ・フォン・ブランデンブルクの長男として生まれた。 良い教育を母とから授けられた。彼は宮廷画家アンドレーア・マンテーニャと良い友人であった。 1470年までミラノ公国のスフォルツァ家のために戦い、侯位を継承した後は兄弟達とマントヴァ侯領の所有に腐心した。フェデリーコ1世は傭兵としての任務も怠らず、エウゼビオ・マラテスタ(義理の兄弟フランチェスコ・セッコ・ダラゴーナ配下の民兵)にマントヴァ管理を任せてしばしば不在であった。フェデリーコ1世は、特に野心的なヴェネツィア共和国との戦いにおいて、ミラノ防御の多大な働きを示した。対ヴェネツィア戦で、フランチェスコ・セッコはアーゾラを含むヴェネツィア領を占領した。しかし戦後、ルドヴィーコ・スフォルツァはアーゾラをミラノへ帰すよう依頼し、フェデリーコ1世は苦々しさを感じつつも反対することができなかった。 1484年、マントヴァで亡くなり、サンタンドレア教会に埋葬された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフェデリーコ1世・ゴンザーガ · 続きを見る »

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

フェデリーコの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ作) 妻バッティスタ・スフォルツァの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ作) フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)はイタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する一方、周囲に多くの文化人を集め、ウルビーノ宮廷に優雅なルネサンス文化を栄えさせた。フェデリーコ3世とも。 フェデリーコは1444年にウルビーノ伯を継いだ(のち1474年にウルビーノ公に陞爵した)。ウルビーノ自体は小国であり、軍人として教皇領、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長として活躍し、一度も負けたことのない名将として名を馳せていた。領国支配でも寛容であり、貧窮の者を助け、住民の声をよく聴いたため、すべての住民に慕われたという。 槍試合で片目を失い、そのためピエロ・デッラ・フランチェスカによる有名な作品を初めとして、ほとんどの肖像画が横顔で描かれている。 今日に名を残すのは、フェデリーコ在位当時の文化遺産やウルビーノ宮廷に集まった多くの文化人のためである。フェデリーコはアリストテレスやリウィウス、プルタルコスなどの古典文芸を愛読し、各地から写本を系統的に収集した。その蔵書はバチカン図書館をしのぐともいわれた。ブルクハルトは、ウルビーノの宮廷が全ヨーロッパで最も洗練されていたと賞賛している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ · 続きを見る »

フォーチュン座

フォーチュン座 (フォーチュンざ、Fortune Playhouse) は、ロンドンにあったイギリス・ルネサンス演劇の劇場である。シティ・オブ・ロンドンのすぐ外側の、ホワイトクロス通り (英語版) と現代のゴールデン通り (英語版) の間に位置していた。1600年に創業し、1642年清教徒革命の影響により議会によって閉鎖された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフォーチュン座 · 続きを見る »

フォーク (食器)

フォーク フォーク(fork)は、先端部が分かれて櫛状になった飲食用・調理用の器具。たいてい3つ又か4つ又になっている。古くは飲食用でも2つ又で、今日でも果物やケーキなどを食べる際のデザート用や、ステーキを焼く際に使う大振りのものでは、2つ又のフォークが見受けられる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とフォーク (食器) · 続きを見る »

ドメニコ・ドラゴネッティ

愛器(ガスパロ・ダ・サロ作)を持つドメニコ・ドラゴネッティ ドメニコ・ドラゴネッティ(Domenico Carlo Maria Dragonetti, 1763年4月9日 - 1846年4月16日)は、イタリアのコントラバス奏者、作曲家である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドメニコ・ドラゴネッティ · 続きを見る »

ドメニコ・アルベルティ

ドメニコ・アルベルティ(Domenico Alberti, 1710年前後 - 1740年)は、18世紀イタリアの声楽家・チェンバロ奏者・作曲家。バロック音楽から古典派音楽への過渡期に活躍した。 ヴェネツィア出身でアントニオ・ロッティに師事。歌劇や歌曲、鍵盤楽器のためのソナタを作曲した。これらのソナタによって名を遺しているが、現在めったに演奏されることはない。36曲を作曲したと見なされているが、現存するのは14曲のみである。2楽章構成で、各楽章は2部形式をとっている。アルベルティはこれらの鍵盤楽曲において、「アルベルティ・バス」の名称の由来となった、分散和音を多用する左手の伴奏書法を頻繁に用いている。 こんにちアルベルティは作曲家として重視されておらず、定期的に演奏・録音される楽曲は一つもない。生前はアマチュアの歌手として有名であった。しばしば手ずからチェンバロを弾きつつ歌ったという。生涯についてはほとんど不明だが、1736年にはヴェネツィア共和国の大使としてスペインに赴任し、有名なカストラート歌手ファリネッリに自分の歌唱を聞いてもらったという。1740年にローマにて他界。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドメニコ・アルベルティ · 続きを見る »

ドージャ・ジェルジ

ドージャ・ジェルジ(Dózsa György、あるいはSzékely György"Georgius Zekel"に現れた表現、Gheorghe Doja、1470年 - 1514年7月20日)は、ハンガリー王国トランシルヴァニア地方出身で、王国に対し農民反乱を起こしたセーケイ人騎士である。結局、捕えられ、支持者と共に処刑されたものの、キリスト教の殉教者としても知られている。また、ウラースロー2世の時代には、かつて農民の自由を剥奪していた特権階級の力を強め、王権を弱くした一面もある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドージャ・ジェルジ · 続きを見る »

ドージェ

ドージェ()とは、イタリア語で国家元首を指す言葉のひとつで、ヴェネツィアの元首をはじめジェノヴァ、ピサなどの海洋共和国の元首の事。総督、統領と訳されることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドージェ · 続きを見る »

ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドイツ · 続きを見る »

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドイツ騎士団 · 続きを見る »

ドゥラス

港の風景 ローマの古代遺跡 ドゥラス(、ドゥルスィ、Durazzo、ドゥラッツォ)は、アルバニア第2の都市。ドゥラス州の州都、ドゥラス県の県都。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドゥラス · 続きを見る »

ドゥーカス王朝

ドゥーカス王朝(ドゥーカスおうちょう、Doukas, ギリシア語表記:Δούκας)は、ビザンツ帝国中期の王朝(1059年 - 1081年)である。女系の子孫コムネノス・ドゥーカス家はエピロス専制侯国を13世紀に建国し、その傍系はテッサリア尊厳公国の君主となった。12世紀以降、「ドゥーカス」の姓が、ドゥーカス家や後のエピロス専制侯家との血縁関係を示すためによく用いられるようになった。 それら分家と皇帝家の関係ははっきりしておらず、同時代の文献からは異なる「ドゥーカス家」がいくつか見られる。「ドゥーカス」のコグノーメンを持つ複数の家系を、一つの大きな家系とみなしているとする見方もある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドゥーカス王朝 · 続きを見る »

ドゥブロヴニク

ドゥブロヴニク(、、)は、クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。日本語でドブロブニク、ドブロヴニクとも表記される。ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない(→飛び地)。 1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は2011年に行われた国勢調査で42,641である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査ではクロアチア人は住民の88.39%を占めていた。 ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに発展している。1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドゥブロヴニク · 続きを見る »

ドゥカーレ宮殿

*ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale、Doge's Palace)。イタリア語で、総督や○○公の宮殿のこと。英語からの訳で「ドージェ宮」と呼ばれることもある。イタリア各地を中心に所在する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドゥカーレ宮殿 · 続きを見る »

ドゥカート

ーストリアのドゥカート金貨。 ドゥカート(ducato、dukát、dukaat、Dukat, Dukaten 、ducat )は、中世後期から20世紀の後半頃までヨーロッパで使用された硬貨。同時期を通じて、多様な金属で作られた様々なドゥカートが存在した。ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨は、中世のやフローリン、または現代の英ポンドや米ドルのように国際通貨として広く受け入れられていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とドゥカート · 続きを見る »

ニン (クロアチア)

ニン(Nin,Aenona,Nona)はクロアチアザダル郡の都市及び基礎自治体。2001年現在の人口は1,256人で基礎自治体全体では4,603人である。ニンは中世、キリスト教の教区の中心として歴史的に重要であり10世紀前半、トミスラヴ王によってラテン化が課せられるまで、ニンはクロアチア人による教会自治の中心でもあり、またダルマチア公の中心地でもあった。司教であるグルグール・ニンスキは10世紀、ダルマチアの教会政治に大きく関わっていった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニン (クロアチア) · 続きを見る »

ニッコロ・マキャヴェッリ

ニッコロ・マキャヴェッリ(, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。 著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニッコロ・マキャヴェッリ · 続きを見る »

ニケフォロス1世

ニケフォロス1世( (Nikephoros)、、760年? - 811年7月26日)は、東ローマ帝国の皇帝(在位:802年10月31日 - 811年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニケフォロス1世 · 続きを見る »

ニケタス・コニアテス

ニケタス・コニアテス ニケタス・コニアテス(Nikētas Choniátēs、Νικήτας Χωνιάτης, 1150年 - 1213年)は、東ローマ帝国・ニカイア帝国の政治家・歴史家。中世ギリシャ語読みではニキタス・ホニアテス。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニケタス・コニアテス · 続きを見る »

ニコポリスの戦い

ニコポリスの戦い(ニコポリスのたたかい、Битка при Никопол, Bitka pri Nikopol; Niğbolu Savaşı Nikápolyi Csata, Bătălia de la Nicopole)は、1396年9月25日に、ドナウ河畔のニコポリスでオスマン帝国のバヤズィト1世(在位:1389年 - 1402年)とハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国(参加勢力:ハンガリー、神聖ローマ帝国、フランス、ワラキア、ポーランド、イングランド王国、スコットランド王国、(Eidgenossenschaft)、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団)との間で起こった会戦。ニコポリス十字軍と呼称される場合もあり、中世最後の大規模な十字軍である。オスマン帝国側の圧勝で終わった。この戦いによってバヤズィト1世は、カイロのマムルーク朝保護下にあったアッバース朝の子孫であるカリフから「スルタン」の称号を授けられた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニコポリスの戦い · 続きを見る »

ニコロ・フォンタナ・タルタリア

ニコロ・フォンタナ・”タルタリア”(Niccolò Fontana "Tartaglia"、1499年または1500年-1557年12月13日)はイタリアの数学者、工学者、測量士。ヴェネツィア共和国の簿記係でもあった。アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し、数学関係の編集の分野で高く評価された。タルタリアは、史上初めて数学による大砲の弾道計算を行ったので弾道学の祖とされる。彼の研究は、後にガリレオ・ガリレイによる落体の実験により検証された。タルターリアとも。 なお後述するように「タルタリア」は生後につけられた渾名である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニコロ・フォンタナ・タルタリア · 続きを見る »

ニコーラ・オルシーニ

ニコーラ・オルシーニ(Nicola Orsini, ? - 1323年)は、イタリア人イピロス専制公国君主(在位1318年 - 1323年)・ケファロニア宮廷伯(在位1317年 -1323年)。ニコロ・オルシーニ (Nicolò Orsini) とも。ギリシア名はニコラオス(Νικόλαος)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とニコーラ・オルシーニ · 続きを見る »

ホルモズガーン州

ホルモズガーン州(ペルシア語: استان هرمزگان Ostān-e Hormozgān)はイランの州(オスターン)。イラン南部にあって、ペルシア湾をはさんでオマーンと相対する。州都はバンダレ・アッバース。面積は68,475km²。ペルシア湾上に14の島があり、海岸線は1000kmにおよぶ。 州内の主要な都市はバンダレ・アッバース、バンダレ・レンゲ、ミナーブ、バンダレ・チャーラク、ジャースク、バスタク、バンダレ・ハーミール、フィーンである。管下に21郡(シャフレスターン)、69地域行政区(バフシュ)、2046村(デフ)がある。1996年現在、人口は約110万。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とホルモズガーン州 · 続きを見る »

ホワイトタワー (テッサロニキ)

白い塔(Λευκός Πύργος)はギリシャ テッサロニキのテルマイコス湾沿いに建てられている塔で、同市のランドマークでもある。12世紀頃のビザンティン時代に建てられたと言われている古い塔を取り壊した後、オスマン帝国時代に港を囲む城壁を作るときに改築され、最初は砦として、後に牢獄として使われた。1912年にテッサロニキがギリシャ領になった時に塔は改修され、洗浄され白さを取り戻した姿から「白い塔」と呼ばれるようになった。 白い塔は直径は23m、高さ27mの円柱形の主塔の上に、直径12m、高さ6mの櫓が乗る形態である。内部は6階分の床があり、銃眼はそれぞれの階および内部の螺旋階段に沿って割り付けられている。絵画などによれば、かつては円錐型の屋根が付いていた。1917年ごろには円錐屋根が撤去され、同時期に主塔の3倍の直径があった8角形の周壁(塔を囲む城壁)も撤去されたと考えられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とホワイトタワー (テッサロニキ) · 続きを見る »

ダルマチア

濃紫の部分がダルマチア ダルマチア(ダルマツィア、クロアチア語: Dalmacija, イタリア語: Dalmazia, セルビア語: Далмација)は、クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと。中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方で、現在のクロアチア共和国の一部。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とダルマチア · 続きを見る »

ダルマチア・イタリア人

ダルマチア・イタリア人 (イタリア語:Dalmati italiani、クロアチア語:Dalmatinski Talijani)とは、現在のクロアチアやモンテネグロに含まれるダルマチア地方に数世代にわたって暮らしてきた、イタリア人の少数民族集団を指す。1840年代以降、この少数民族集団は定期的な人口減少の憂き目にあい、今やわずか1000人ほどとなっている。歴史を通じて、この集団は少数だがダルマチア地方に重要な影響を及ぼした。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とダルマチア・イタリア人 · 続きを見る »

ダニエーレ・マニン

ダニエーレ・マニン(Daniele Manin, 1804年5月13日 - 1857年9月22日)は、弁護士で、ヴェネツィアの政治家、イタリアの愛国者。1848年革命により独立を宣言したヴェネツィア臨時政府の大統領。 ヴェネツィア共和国最後のドージェであるルドヴィーコ・マニンと同じ姓だが、血の繋がりはない。父方はユダヤ系で、本来の苗字はフォンセカ(Fonseca)だったが、1759年にキリスト教に改宗した際の名づけ親(この人物はルドヴィーコ・マニンの親戚であった)の姓からマニン姓とした。 1848年革命の影響下、3月にロンバルド=ヴェネト王国(オーストリア帝国)に対する蜂起を行い、ヴェネツィア臨時政府(ヴェネト共和国、サン・マルコ共和国)の大統領に就任した。市を包囲されていた間彼は、その知性、勇気、力を見せた。翌1849年8月に降伏。 その後、パリに住みイタリア語を教えながら、愛国心を持ちつづけた。1857年8月1日、国民協会(Società nazionale)の設立を行ったが、イタリア統一を見ずに同年死去した。 彼の息子ジョルジョ(Giorgio, 1831年-1884年)も愛国者となり、ガリバルディの千人隊の一人となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とダニエーレ・マニン · 続きを見る »

ベルナルド・モランド

モシチ市庁舎 ベルナルド・モランド(Bernardo Morando、1540年ころ - 1600年)は、ヴェネツィア共和国出身のイタリア人建築家である。名はベルナルディーノ (Bernardino) 、姓はモランディ (Morandi) とも記される。モランドは、ルネサンスの「理想都市」の理論を模範としたザモシチの計画都市を設計した人物として知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベルナルド・モランド · 続きを見る »

ベルナルド・ベッロット

ベルナルド・ベッロット (Bernardo Bellotto, 1720年1月30日 - 1780年10月17日)は、イタリアの風景画家。エッチングの原版作者。ヴェネツィアの風景画家カナレットの甥にあたる。時には非公式にベルナルド・カナレットと呼ばれたため、特にポーランドでは、カナレットの絵画というと伯父よりも彼のことを指すことがある。 彼の画風は、光がどの場所でもはっきりしているのと同様に、精巧な建築物の描写や自然の眺望により特徴づけられる。伯父カナレットや他のヴェドゥテ(イタリア語で「眺め」の意味)の名人のように、彼も自身の都市眺望の秀でた精確さを達成するためカメラ・オブスキュラを使用していた。伯父はきっちりした理想的な光景を描こうとしたが、ベッロットはあるがままの日常生活の光景を描こうとしており、この点に特徴が認められる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベルナルド・ベッロット · 続きを見る »

ベルナボ・ヴィスコンティ

ベルナボ・ヴィスコンティ(Bernabò Visconti, 1323年 ミラノ - 1385年12月18日 トレッツォ・スッラッダ)は、イタリア・ミラノの僭主(在位1349年 - 1385年)。2人の兄マッテーオ2世およびガレアッツォ2世と共同統治を行った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベルナボ・ヴィスコンティ · 続きを見る »

ベルガモ

ベルガモ(Bergamo)は、イタリア共和国ロンバルディア州中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。ベルガモ県の県都。 ミラノの北東約40km、アルプスの麓に位置する。市街は、丘の上の旧市街チッタ・アルタ(上の町)と、丘の下の新市街チッタ・バッサ(下の町)からなる。城壁に囲まれたチッタ・アルタには、中世の面影を残す景観や多くの文化財がある。整然と作られたチッタ・バッサは、19世紀以降商工業の中心として発展した。ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」はここが舞台である。 ベルガモは、西欧内陸の歴史的な郵便の拠点であった。中世、ベルガモ飛脚と呼ばれる郵便業者を組織したトゥルン・ウント・タクシス家は、郵便網を発展させ、近代郵便の原点ともされるライヒスポスト(神聖ローマ帝国の郵便事業)を管掌した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベルガモ · 続きを見る »

ベーラ2世

ベーラ2世 (II.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベーラ2世 · 続きを見る »

ベーラ3世

ベーラ3世 (III.、Bela III、Belo III、1148年頃 - 1196年4月23日)は、 ハンガリー王国アールパード朝のハンガリー国王、およびクロアチア国王(在位:1172年 - 1196年)。ハンガリー王ゲーザ2世とエフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男にあたる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベーラ3世 · 続きを見る »

ベーラ4世

ベーラ4世(ハンガリー語:IV Béla、1206年11月29日 - 1270年5月3日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1235年 - 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベーラ4世 · 続きを見る »

ベザント

ルサレム王国十字軍のコイン:聖墳墓教会(1162年 - 1175年)柄の欧州タイプのドゥニエ、クーフィー体で書かれた金のベザント(1140年 - 1180年)、キリスト教のシンボル付の金のベザント(1250年代)。金貨は最初はディナールのコピーであり、クーフィー体が刻まれていた。しかし、1250年以降カトリック教会の不満に従い、キリスト教のシンボルが追加された。(大英博物館) グロ(1275年 - 1287年)。大英博物館 ベザントは 中世の金貨。この言葉はビザンティウムが語源で、もともとのギリシア語の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の旧名ビザンティオン(Βυζάντιον or "Byzántion" )がラテン語化した形をとったもの。コンスタンティヌス1世の時代以降、金貨はしばしコンスタンティノープルからもたらされ、コンスタンティノープルを連想するものだった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とベザント · 続きを見る »

アマルフィ

アマルフィ(Amalfi)は、イタリア共和国カンパニア州サレルノ県にある、人口約5200人の基礎自治体(コムーネ)。 急峻なアマルフィ海岸に面して築かれた都市である。中世にはアマルフィ公国(アマルフィ共和国)として自立し、強盛を誇った海洋国家であった。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているアマルフィ海岸の中心都市であり、観光の拠点である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアマルフィ · 続きを見る »

アマルフィ公国

アマルフィ公国 (Ducato di Amalfi) またはアマルフィ共和国 (Repubblica di Amalfi) は、南イタリアのアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアマルフィ公国 · 続きを見る »

アハイア県

アハイア県(Αχαΐα / Achaïa)は、ギリシャ共和国の西ギリシャ地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。ペロポネソス半島の北部に位置する。古代にはアカイアと呼ばれた地域であり、アカイア県とも表記される。県都はパトラ。人口は2001年に30万人を突破した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアハイア県 · 続きを見る »

アヤソフィア

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったMüller-Wiener (1977), p. 112.が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり"." ArchNet.、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(Ayasofya Müzesi)として使われている。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアヤソフィア · 続きを見る »

アルペン猟兵

13e Batallion - Chambéry27e Batallion - Cran-Gevrier |ceremonial_chief.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルペン猟兵 · 続きを見る »

アルバニア・ヴェネタ

アルバニア・ヴェネタ (Albania Veneta)は、1420年から1797年まで存在した南ダルマチアのヴェネツィア共和国領。最初は、現在の北アルバニアとモンテネグロのアドリア海沿岸のことを指した。しかしアルバニアと南モンテネグロは1571年にオスマン帝国に奪われた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルバニア・ヴェネタ · 続きを見る »

アルバニア関係記事の一覧

アルバニア関係記事の一覧(アルバニアかんけいきじのいちらん).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルバニア関係記事の一覧 · 続きを見る »

アルメニアの歴史

本項では、アルメニアの歴史について述べる。 メソポタミアの一部であるアルメニア高原は、世界最古の文明発祥地の一つとして知られ、そこからは前期旧石器時代の遺物も出土している。紀元前9世紀頃には、この地にウラルトゥが建設されていたが、この文明が外来の印欧語族の勢力と混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられている。 紀元前550年頃になると、アルメニア一帯はアケメネス朝の支配を受けるようになったが、その地方総督であったは次第に独立君主として振舞うようになっていった。やがてアケメネス朝は倒れ、続くセレウコス朝の支配も弱まると、地方豪族の反乱によって紀元前188年に、最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」が誕生した。ティグラネス2世の時代には黒海からカスピ海までを統べる大国となったアルメニアであったが、紀元前66年に共和政ローマに敗れ、衰退した。その後のアルメニアは主にペルシア系のによって統治されることとなったが、紀元後301年にはによって世界最初のキリスト教の国教化も成し遂げられている。 4世紀末になるとアルメニアはサーサーン朝の支配下に入ったが、アルメニア文字やアルメニア教会など、アルメニア人独自の文化が生み出されたのも、またこの時代であった。続く2世紀の間、アルメニアは東ローマ帝国とムスリムの双方から支配を受けた。東ローマの側ではマケドニア王朝の創始者となったバシレイオス1世のように、皇帝にまで登り詰める者も現われた。ムスリムのアッバース朝の側でも地方君主による反乱が発生し、885年にはバグラトゥニ朝アルメニアとして、アルメニア人たちは独立を取り戻した。だが、バグラトゥニ朝は東ローマからの激しい干渉を受け、1045年にはその属領へと転落した。この東ローマ支配もほどなくセルジューク朝による支配へ替わり、アルメニア人のなかにはこれを嫌ってキリキアへと移住する者もいた。やがてキリキアに定着して力をつけたアルメニア人は、1198年にキリキア・アルメニア王国を建設し、この王国は交易国家として広く発展した。 このキリキア王国も1375年には滅び、アルメニア高地側のアルメニア人も、セルジューク朝やイルハン朝など様々な統治者の手を、数世紀の間渡り歩いた。近世になると、広く散らばって住むアルメニア人のうち東側の者はサファーヴィー朝、次いでロシア帝国の版図に入り、西側の者はオスマン帝国の住人となった。どちらの地域に住むアルメニア人も、盛んな商活動や芸術への貢献などで、その社会的地位をある程度高めていった。19世紀末になると彼らにも民族意識が生まれ、ロシアとオスマンのアルメニア人を統合しようとする試みも現われ始めた。 しかし、この新たな民族意識は、バルカン戦争や第一次世界大戦最中のオスマンでは警戒を招くこととなり、1890年代と1915年のアルメニア人虐殺の原因にもなった。大戦中の1918年には旧ロシア領を中心としたアルメニア共和国が誕生したが、これはアルメニア人が自ら望んだものではなく、度重なる領土紛争や財政破綻など、その実情も貧弱なものであった。2年後にはアルメニアは、西からのトルコ軍と東からの赤軍に追い詰められ、苦渋の選択として共産化の道を選んだ。ソビエト連邦に加盟したアルメニア・ソビエト社会主義共和国は大きく工業化したが、同時に政治的な弾圧は絶えず、また祖国の共産化は在外アルメニア人の間にも軋轢を生んだ。 1991年には、ソ連崩壊によってアルメニアは独立したが、同時にアゼルバイジャンとの間にナゴルノ・カラバフ戦争が本格化した。停戦後もアゼルバイジャンとトルコからの経済制裁は続いており、ロシアやグルジアとの関係も安定しているとは言えない状況にある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルメニアの歴史 · 続きを見る »

アルモリカ

アルモリカ (ラテン語: ArmoricaまたはAremorica、ブルトン語: Arvorig)は、古代ガリアの一部の名称。セーヌ川とロワール川とに挟まれた地域で、内陸の不確定な地点まで伸び、大西洋へ下り、ブルターニュ半島も含んでいた。より具体的には、ロワール川河口南のポルニックからコー地方のディエップまでの間を指す。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルモリカ · 続きを見る »

アルトゥク朝

アルトゥク朝(英語 Artuqid Dynasty)はディヤール・バクルを11世紀から15世紀にかけて支配した王朝。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルトゥク朝 · 続きを見る »

アルティーヴォレ

アルティーヴォレ(Altivole)は、イタリア共和国ヴェネト州トレヴィーゾ県にある、人口約6800人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルティーヴォレ · 続きを見る »

アルフォンソ1世・デステ

ティツィアーノ画 アルフォンソ1世とルクレツィア・ボルジアの墓碑 アルフォンソ1世・デステ (Alfonso d'Este, 1476年7月21日 - 1534年10月31日)は、フェラーラ公。コンドッティエーレ。カンブレー同盟戦争で活躍した。エルコレ1世・デステと妃レオノーラ・ダラゴーナの長子。姉はルネサンスの華と謳われたイザベッラ、ベアトリーチェである。 1505年に公位を継承した直後、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソ1世ともう1人の弟イッポーリト枢機卿に対してたくらんだ陰謀に直面した。1506年9月、不敬罪の容疑で2人を捕らえて死刑を宣告したが、彼らを絞首刑にするところを変え、終身刑とした。2人はトッレ・ディ・レオニの2つの独房に分けて幽閉された。フェランテは34年後に独房で死に、ジューリオは53年もの幽閉ののち赦免され解放された。釈放後、ジューリオはフェッラーラの街頭で時代遅れの衣服を嘲笑されたという。 イタリア戦争において、アルフォンソ1世はカンブレー同盟側についた。ローマ教皇ユリウス2世によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いでボローニャを獲得。しかし1510年にユリウス2世に破門され、フェラーラを教皇領にされた。その後はヴェネツィア共和国や教皇庁の敵と戦い続け、1512年のラヴェンナの戦いでは、フランス軍に勝利をもたらす重要な役割を演じた。これらの快進撃は、ラ・ジューリアと名付けられた巨大な大砲を含むフェラーラの兵器がもたらしたとされている。 1526年、クレメンス7世から破門されローマに幽閉されるが、これがローマ略奪の切っ掛けとなる。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世と和解したクレメンス7世はアルフォンソ1世の破門を解き、モデナとレッジョを与えた。 父同様音楽のパトロンであり、アントワーヌ・ブリュメルやアドリアン・ヴィラールトを宮廷へ招いた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルフォンソ1世・デステ · 続きを見る »

アルフォンソ5世 (アラゴン王)

アルフォンソ5世(西:Alfonso V, 1396年 - 1458年6月27日)は、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯、シチリア王(在位:1416年 - 1458年)、およびナポリ王(アルフォンソ1世、在位:1442年 - 1458年)。カタルーニャ語名ではアルフォンス5世(Alfons IV, バルセロナ伯としては4世)。アラゴン王フェルナンド1世と王妃レオノール・デ・アルブルケルケの長男。アラゴン王兼ナバラ王フアン2世の兄。 様々な階層の対立が渦巻く国内政治に興味がなく、地中海方面に目を奪われナポリを征服、亡くなるまでそこに留まった。アルフォンソ5世のこうした姿勢は国内の不安定さに拍車をかけ、次の代に内乱を引き起こす元となる。一方、ナポリでは人文主義者を積極的に招き入れルネサンスを根付かせた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルフォンソ5世 (アラゴン王) · 続きを見る »

アルベルティーナ

アルベルティーナ(Albertina)は、オーストリアのウィーン第1行政地区のインネレシュタットにある美術館である。 アルベルティーナは、素描が約65,000点、版画が約100万点と世界有数のコレクションを誇るだけでなく、近代のグラフィック作品や写真、建築画なども所蔵している。 グラフィックコレクション以外にもアルベルティーナには近年、印象派と20世紀初頭の作品が永久貸与され、そのうちのいくつかが常設展示されている。 特別展が行われることもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルベルティーナ · 続きを見る »

アルカセル・キビールの戦い

アルカセル・キビールの戦い アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcácer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルカセル・キビールの戦い · 続きを見る »

アルゴス (ギリシャ)

アルゴス(Άργος / Árgos)は、ギリシャ共和国ペロポネソス地方東北部にある人口約2万5000人の都市。古代ギリシアの都市国家であり、古代アルゴリスの中心地であった。現在はアルゴリダ県市に属し、同市の中心地区である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルゴス (ギリシャ) · 続きを見る »

アルゴストリ

アルゴストリ(現代ギリシャ語: Αργοστόλι / Argostoli) あるいは アルゴストリオン(古代ギリシア語・カサレヴサ: Αργοστόλιον / Argostolion) は、ギリシャのイオニア諸島・ケファロニア島の主都。ケファロニア市に属する行政区(ディモティキ・エノティタ)であり、その中心地区である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルゴストリ · 続きを見る »

アルセナーレ・ディ・ヴェネツィア

アルセナーレ・ディ・ヴェネツィア(Arsenale di Venezia)は、イタリアのヴェネツィアにある中世の造船所跡。日本語でヴェネツィア国立造船所やヴェネツィア海軍工廠などと表記されることもある。ヴェネツィア共和国のヴェネツィアにある造船所を指すことが明らかな場合は、単にアルセナーレと表記されることが多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルセナーレ・ディ・ヴェネツィア · 続きを見る »

アルタ (ギリシャ)

アルタ(Άρτα)は、ギリシャ北西部のイピロス地方にあるアルタ県の県都であり、長い歴史を持った町である。この町は古代にはアンプラキア(ギリシャ語:Αμπρακία/Amprakia)と呼ばれた。アルタの町の西側にある、アラフソス川に架かる古い橋はよく知られている。また、アルタはエピロス専制侯国があった地域であり、ギリシャで現存する最古の城の一つである、13世紀に建設された城も有名である。アルタには東ローマ帝国の遺物が残されており、その一つに東ローマ時代の教会がある。その中でも有名なパナギア・パリゴリティッサ教会(「パナギア:生神女マリヤの速やかなる慈憐」という意味)は、1290年ごろに専制君主ニケフォロス1世によって建設されたものである。また、アルタにはイピロス技術教育大学の本部がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアルタ (ギリシャ) · 続きを見る »

アル=アーディル

アル=アーディル(アラビア語:الملك العادل سيف الدين أبو بكر بن أيوب al-Malik al-Ādil Saif al-Dīn Abū Bakr b. Ayyūb、生没年:1145年 - 1218年、在位:1200年 - 1218年)は、アイユーブ朝の第4代スルタン。サラーフッディーンの弟。 通常「スルターン・(アル=マリク・)アル=アーディル」などと称される。「アーディル(العادل Al-Ādil)」とはアラビア語の原義では「公正なる者」を意味する。イスラム社会の政治的理念によれば、君主やウンマを統括するような政治的指導者の必須の徳目としてアドル(عدل; adl)「公正(たること)」が第一に挙げられている。 彼の兄サラーフッディーン・ユースフがヨーロッパにおいて「サラディン」と呼ばれたのと同様、彼もラカブのサイフッディーンから「サファディン」と呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアル=アーディル · 続きを見る »

アレッポ

アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。 アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。 ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。 かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレッポ · 続きを見る »

アレッサンドロ・ファルネーゼ (1635-1689)

アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese, 1635年1月10日 パルマ - 1689年2月18日 マドリード)は、イタリア・パルマ公国の支配者ファルネーゼ家の公子、軍人。スペイン王家に仕え、ナバラ副王、カタルーニャ副王、ネーデルラント総督を歴任した。 パルマ公オドアルド1世とのその妻でトスカーナ大公コジモ2世の娘であるマルゲリータ・デ・メディチの間の第3子、次男として生まれた。1656年から1658年までヴェネツィア共和国騎兵軍の将軍として、オスマン帝国との戦争に従軍した。その後スペイン軍に移り、1664年11月17日にイタリア人騎兵部隊の将軍となった。1671年にナバラ副王となり、同時に金羊毛騎士団の騎士に叙任された。1676年にはカタルーニャ副王に、1678年にはネーデルラント総督に転じ、1682年4月まで総督職にあった。1682年12月から1687年までは、再びヴェネツィア軍の将軍を務めた。1687年にはスペイン大提督の地位を与えられて、スペイン国王の相談役となった。 生涯独身を通したが、愛妾マリア・デ・ラオ(Maria de Lao y Carillo)との間に2男2女の庶子があった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレッサンドロ・ファルネーゼ (1635-1689) · 続きを見る »

アレッサンドロ・ストラデッラ

thumb アレッサンドロ・ストラデッラ(ストラデルラ、Alessandro Stradella, 1644年10月1日ローマ - 1682年2月25日)は、イタリア盛期バロック音楽の作曲家。オラトリオ《洗礼者ヨハネ》の作曲者として、またコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)様式の創始者として音楽史上に名を残すが、一方プレイボーイとして浮名を流し、最後は貴人の愛人を誘惑した咎により、報復としてジェノヴァで暗殺された。このためストラデッラの一生は、ジェズアルドの生涯と並んで歴史的に注目されてきた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレッサンドロ・ストラデッラ · 続きを見る »

アレクシオス1世コムネノス

アレクシオス1世コムネノス(ギリシア語:Αλέξιος Α' Κομνηνός (Alexios I Komnēnos)、1048年/1056年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将軍となった。皇帝ミカエル7世の従弟アンドロニコス・ドゥーカスの娘エイレーネーと結婚した。 ドゥーカス王朝支配下の頃の東ローマ帝国は、内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。特に小アジアは大半が奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていた。 このような中で1081年、アレクシオスは反乱を起こして時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。彼の子孫である皇帝たちをコムネノス王朝と称する。 即位後、アレクシオスは対外政策に力を注いだ。当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドによって征服され、その勢力はバルカン半島にまで及んできていた。しかし、アレクシオスはヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで海の守りを固め、ロベルトの子のボエモンを屈服させ、ロベルトの熱病死によって撃退させることに成功した。しかし、このときの同盟の代償としてヴェネツィアに関税特権などの様々な特権を与えたことが、のちに帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなってしまった。 帝国の西方ではクマン族などの異民族による侵攻もあったが、アレクシオス1世はクマン族をはじめとする異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たしている。また、東方のルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請した。 ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしまった。1096年から開始されたこの十字軍遠征により、帝国は確かにイスラーム勢力の脅威から脱することはできたが、帝国領が十字軍遠征の通過地となった結果、十字軍の乱暴狼藉や略奪によって逆に苦しめられてしまった。 また内政面においては、通貨改革や爵位の再編を行ったほか、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化した。いわゆる「コムネノス一門」である。結果として1453年に帝国が滅亡するまで、すべての皇帝はコムネノス家・ドゥーカス家の血をひくこととなった。また大土地所有貴族たちに軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。 これらの政策は孫のマヌエル1世の代になると帝国を窮地に陥れることになるが、ひとまずアレクシオス1世の統治によって再び安定の時代を迎えた。バシレイオス2世の没後衰退する一方だった帝国は、約100年の間衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功したのである。 Category:東ローマ皇帝 Category:コムネノス家 Category:十字軍 Category:1048年生 Category:1118年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクシオス1世コムネノス · 続きを見る »

アレクシオス3世アンゲロス

アレクシオス3世アンゲロス(Αλέξιος Γ΄ Άγγελος, Alexios III Angelos、1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクシオス3世アンゲロス · 続きを見る »

アレクサンデル5世 (対立教皇)

アレクサンデル5世(Alexander V 1339年 - 1410年5月3日、在位:1409年 - 1410年)は教会大分裂の時期の教皇の1人。ピサ教会会議で教皇に選出されるが、正式な選出とはみなされず、カトリック教会では対立教皇とされている。但し、1492年に教皇に選出されたロドリゴ・ボルジアはアレクサンデルを名乗ったが、彼はアレクサンデル6世となっている。 クレタ島生まれのギリシャ人で本名はピーター・フィランジェ・デ=カンディア(Peter Philarges de Candia) 、イタリアではピエトロ・フィラルゴ(Pietro Filargo)と呼ばれていた。神学者であり、1402年にミラノ大司教になっている。当時の教会大分裂という事態収拾の為、1409年ピサ教会会議が開催されるが、2人の教皇(グレゴリウス12世・ベネディクトゥス13世)が廃位された後、全会一致で新たに教皇に選出される。しかし、2人の教皇は納得せず、3人の教皇が鼎立する事態になった。なお、アレクサンデル5世がピサ教会会議で選出された背景として、ギリシャ正教会と合一への期待があったという。 教皇選出の翌年、ボローニャで逝去。バルダッサレ・コッサ(後継者のヨハネス23世)に毒殺されたとも噂された。 あれくさんてる5 あれくさんてる5 あれくさんてる5.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクサンデル5世 (対立教皇) · 続きを見る »

アレクサンデル6世 (ローマ教皇)

アレクサンデル6世(Alexander VI, 1431年1月1日 - 1503年8月18日)は、15世紀のローマ教皇(在位:1492年 - 1503年)。 本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)イタリア語名は正しくはボルジャのようになる。の名前で知られることになる。 ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクサンデル6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アレクサンデル8世 (ローマ教皇)

アレクサンデル8世(Alexander VIII、1610年4月22日 - 1691年2月1日)はローマ教皇(在位:1689年 - 1691年)。本名はピエトロ・ヴィット・オットボーニ(Pietro Vitto Ottoboni)。 ヴェネツィアの名家の出身で、枢機卿を経て、ブレシアの司教となった。フランス王ルイ14世の大使がインノケンティウス11世の死去後の教皇選挙での彼の選出を後押ししたのである。そのようなフランスとの関係とは別にジャンセニスムに対しては厳しく、1682年にフランスの司教団によって出された「ガリカニスムの四か条」を断罪している。 彼の時代、教皇庁の財政は大規模な慈善活動と親族登用のゆきすぎによって破綻寸前であった。しかし学問への関心が高かった教皇は、当時イタリアで暮らしていたスウェーデンのクリスティーナ女王からバチカン図書館のための書籍コレクションを購入している。1691年2月1日に死去。 Category:教皇 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1610年生 Category:1691年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクサンデル8世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アレクサンドリア

アレクサンドリア (羅/Alexandria, الإسكندرية, Ἀλεξάνδρεια) は、カイロに次ぐエジプト第2の都市で、アレクサンドリア県の県庁所在地である。2010年の都市的地域の人口は429万人である。マケドニア国王アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)が、その遠征行の途上でオリエントの各地に自らの名を冠して建設したギリシア風の都市の第一号であった。 建設当時のギリシア語(古典ギリシア語再建音)ではアレクサンドレイア (Ἀλεξάνδρεια, Alexandreia)。現代の現地語であるアラビア語においても「アレクサンドロス(イスカンダル)の町」を意味する名で呼ばれており、文語のフスハーではアル=イスカンダリーヤ (الإسكندرية, al-Iskandariyya)、口語のエジプト方言ではエスケンデレイヤ (اسكندريه, Eskendereyya) という。 「地中海の真珠」とも呼ばれる港町アレクサンドリアでは、街中に英語の看板も多く、大きなサッカー場もある。歴史的経緯から多くの文化的要素を合わせ持ち、独特かつ開放的でコスモポリタン、そこはかとなく欧米的な雰囲気が漂う国際観光・商業都市である。国際機関も置かれ、世界保健機関の東地中海方面本部がある。 世界的な企業や組織の支部、支社が置かれ、現在は北アフリカ有数の世界都市にまで成長している。近現代の世界では「アレクサンドリア」と言えば当地を指す場合が多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアレクサンドリア · 続きを見る »

アンナ・シフィドニツカ

アンナ・シフィドニツカ(ポーランド語:Anna Świdnicka, チェコ語ではAnna Svídnická)またはアンナ・フォン・シュヴァイトニツ(ドイツ語:Anna von Schweidnitz, 1339年 - 1362年7月11日)は、神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の3番目の妃。神聖ローマ皇后、ローマ王妃、ボヘミア王妃の称号を有した。シフィドニツァ公ヘンリク2世の娘、母はハンガリー王カーロイ1世の長女カタジナ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンナ・シフィドニツカ · 続きを見る »

アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団

『アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団』(アンチャーテッド おうごんとうときえたせんだん、Uncharted 2: Among Thieves)は、ノーティ・ドッグ開発 ソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) 発売のアンチャーテッドシリーズ第2弾。PlayStation 3 および PlayStation 4専用アクションアドベンチャーゲーム。英語版のタイトルから「アンチャーテッド2」と呼ばれることが多い。略称は「アンチャ2」、「UC2」。キャッチコピーは「本能が冷や汗をかく」。Game of the Yearなど150以上の賞を獲得している。2015年には『アンチャーテッド コレクション』としてリマスター化もされた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンチャーテッド 黄金刀と消えた船団 · 続きを見る »

アンリ2世 (ギーズ公)

ーズ公アンリ2世像、アンソニー・ヴァン・ダイク画, 1634年 アンリ2世・ド・ギーズ(Henri II de Guise, 1614年4月4日 - 1664年6月2日)は、第5代ギーズ公。ギーズ公シャルル1世と妃でジョワイユーズ女公アンリエットの次男として、パリで生まれた。ギーズ女公マリー、ジョワイユーズ公ルイの兄。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンリ2世 (ギーズ公) · 続きを見る »

アンリ・ド・マルル

アンリ・ド・マルル(Henri de Marle, 1362年 - 1397年)は、フランスの貴族、および領主。フランス北東部の諸侯バル公爵家の嗣子であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンリ・ド・マルル · 続きを見る »

アントワーヌ・ド・グランヴェル

ランヴェル枢機卿の肖像、1649年、アントニス・モル画  アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル(Antoine Perrenot de Granvelle, 1517年8月20日 - 1586年9月21日)は、フランスの聖職者、枢機卿。スペイン・ハプスブルク家に仕え、当時のヨーロッパ諸国政治家の中でも有力者であった。プロテスタント弾圧をネーデルラントで行ったことが知られる。また、高名な美術収集家でもあり、ティツィアーノやアントニス・モルら数多くの芸術家たちの後援を行った。スペイン語名アントニオ・デ・グランベラ(Antonio Perrenot de Granvela)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアントワーヌ・ド・グランヴェル · 続きを見る »

アントウェルペン

アントウェルペン州内のアントウェルペン行政区の位置 Stadhuis van Antwerpen) ルーベンスの三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物 アントウェルペン(,, )は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市(首都圏地域の人口を合わせればブリュッセル市が最大)。英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルス(アンベルス)も日本語の表記においてよく用いられる。2012年1月1日の総人口は502,604人。面積は204.51 km2, 人口密度は2,457.56人/km2である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアントウェルペン · 続きを見る »

アンフィサ

アンフィサ(Άμφισσα / Amfissa)は、ギリシャ共和国中央ギリシャ地方にある都市で、フォキダ県の県都である。行政上はデルフィ市の一部であり、その中心地区である。 古代ギリシャ語の発音ではアムピッサ。中世においてはサロナ(Σάλωνα / Salona)の名で知られていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンフィサ · 続きを見る »

アンドラーシュ1世

アンドラーシュ1世 (I., 1015年頃 - 1060年12月6日以前)は、ハンガリー王(在位:1047年 - 1060年)。エンドレ1世(I.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドラーシュ1世 · 続きを見る »

アンドラーシュ2世

アンドラーシュ2世(Jeruzsálemi II András、1177年 - 1235年9月21日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位1205年 - 1235年)。ハンガリー王の他にクロアチア王位も兼ねていた(在位1205年 - 1235年)。 兄イムレ1世と甥ラースロー3世の死後にハンガリー王位を継承し、支持者を獲得するために王国の領土を所領として分け与えた。1222年に国内の貴族に特権を認める金印勅書を発布、1231年には聖職者にとって有利な条項を金印勅書に追加した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドラーシュ2世 · 続きを見る »

アンドレーア・ガブリエーリ

アンドレーア・ガブリエーリ(Andrea Gabrieli, 1510年ごろ - 1586年後半)はイタリア・ルネサンス音楽の作曲家・オルガニスト。より有名なジョヴァンニのおじである。チプリアーノ・デ・ローレとともに、国際的に有名なヴェネツィア楽派の第一世代に当たり、複合唱の作曲技法をイタリアやドイツに広める上で、多大な影響力をふるった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレーア・ガブリエーリ · 続きを見る »

アンドレア

アンドレア(Andrea)は、ヨーロッパの人名。男女双方に用いられる。使徒アンデレに由来し、アンドルー、アンドレ、アンドレス、アンドレアス、アンドレイ、アンドラーシュ、エンドレ、アンジェイなどに対応する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア · 続きを見る »

アンドレア・ルケージ

アンドレア・ルケージ(Andrea LuchesiLucchesiと綴られることもある。 1741年5月23日 - 1801年3月21日)は、古典派のイタリアの作曲家。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・ルケージ · 続きを見る »

アンドレア・ビアンコ

アンドレア・ビアンコ()は、15世紀のヴェネツィアの船乗り、地図製作者である。1436年に完成した地図書で知られる。のちに、地図製作者でもある修道士フラ・マウロに雇われて、共同でフラ・マウロの世界図の複製を作った。この複製は現在は失われている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・ビアンコ · 続きを見る »

アンドレア・デル・ヴェロッキオ

アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio, 本名 Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435年頃 - 1488年6月30日世界美術大全集 第11巻 イタリア・ルネサンス1 P.102)は、イタリアのルネサンス期の画家、彫刻家、建築家、鋳造家。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・デル・ヴェロッキオ · 続きを見る »

アンドレア・ダンドロ

アンドレア・ダンドロ (Andrea Dandolo、1307年 - 1354年)は、ヴェネツィア共和国の第54代元首。(在任:1343年 - 1354年) ヴェネツィア歴代の元首の中で初めての大学(パドヴァ大学)卒業者である。ペトラルカをはじめとする人文主義者と親しく、元首就任後は文芸の振興や行政の効率化に務めた。後世ではヴェネツィアにおけるルネサンスの幕を開いた指導者として知られており、彼自身も著作もいくつか残している。 だが、1350年のジェノヴァ共和国との第三次戦役では敗北、その後サルデーニャ島沖の海戦で雪辱を果たしたものの、直後には今度はヴェネツィアが黒死病の直撃を受けるなど、その治世は苦難の連続であった。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:イタリア・ルネサンスの著作家 Category:1307年生 Category:1354年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・ダンドロ · 続きを見る »

アンドレア・グリッティ

アンドレア・グリッティ (Andrea Gritti,1455年 - 1538年)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。(在任:1523年-1538年)。 ヴェローナ近郊のバルドリーノで生まれた。若い頃からコンスタンティノープルに住み、買い付けた品物をヴェネツィアへ輸出していた。1499年、スパイ容疑で逮捕されたが、オスマン帝国高官の介入のおかげで死刑を逃れ、数年して釈放された。 元首に選出された後、神聖ローマ帝国とフランスのどちらにも与せず、中立を保った。1537年、ヴェネツィアが領有しているケルキラ島(ギリシャ)を包囲しようとしていたスレイマン1世を止めることができず、共和国はオスマン帝国との全面戦争に突入した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:1455年生 Category:1538年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・グリッティ · 続きを見る »

アンドレア・コンタリーニ

アンドレア・コンタリーニ(Andrea Contarini、1300年/1302年? - 1382年)は、ヴェネツィア共和国の第60代元首。(在任:1368年 - 1382年) 1370年、息子のアンドロニコス4世と対立して東ローマ帝国の皇位を追われていたヨハネス5世パレオロゴスを拘束し、1371年冬、彼の次男であるマヌエル2世パレオロゴスから多額の身代金を受け取ることで、ヨハネス5世を釈放した。 第4次ジェノヴァ戦争が始まると、自らの財産を軍資金として供出している。そして、60歳を越える高齢であるにもかかわらず、ヴェネツィア海軍総司令官として陣頭指揮を執った。このため、ヴェネツィア軍は第4次ジェノヴァ戦争に大勝利した。 1382年、死去した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:1382年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレア・コンタリーニ · 続きを見る »

アンドレアス・ヴェサリウス

アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514年12月31日 ブリュッセル - 1564年10月15日 ザキントス)は、解剖学者、医師。人体解剖で最も影響力のある本、『』こと“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。ヴェサリウスは現代人体解剖の創始者といわれる。 「ヴェサリウス」は「ベサリウス」、「ウェサリウス」とも表記される。ヴェサリウスの名は、出典によってアンドレアス・ヴェサル (Andreas Vesal) やアンドレアス・ファン・ヴェセル (Andreas van Wesel) とも言われる。 かつてベルギーで発行されていた5000フラン紙幣に肖像が使用されていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレアス・ヴェサリウス · 続きを見る »

アンドレアス・パレオロゴス

アンドレアスの西欧風の印章。双頭の鷲とともに、ラテン語で「アンドレアス・パレオロゴス、神の恩寵を受けたローマ人の専制君主」と記されている。 アンドレアス・パレオロゴス (セルビア語キリル・アルファベット: Андреја Палеолог; 1453年 –1502年) は、東ローマ帝国の帝位請求者、モレアス専制公(1465年 - 1502年)。1453年の帝国滅亡後、その第一継承権を保有していた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドレアス・パレオロゴス · 続きを見る »

アンドロニコス2世パレオロゴス

アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1259年3月25日 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドロニコス2世パレオロゴス · 続きを見る »

アンドロニコス・パレオロゴス (テッサロニキ専制公)

アンドロニコス・パレオロゴス(Andronikos Palaiologos, Ανδρόνικος Παλαιολόγος, 1400年 - 1429年3月4日)は、東ローマ帝国皇帝マヌイル2世パレオロゴスと皇后エレニ・ドラガシュ・パレオロギナの第三子、テッサロニキ専制公(1408年9月22日 - 1423年9月13日)。 恐らく、父マヌイル2世の西欧訪問中にミストラスにて生まれ、アンカラの戦い(1402年)後、両親と共にコンスタンティノポリスに行きそこで幼年時代を過ごす。従兄弟に当たる皇帝ヨアニス7世パレオロゴスの死(1408年9月22日)後、父マヌイル2世によってテッサロニキ専制公に据えられたが、無論当時8歳のアンドロニコスに統治能力は無くその地位は名目的なもので、実質上の権限は別に任命された行政長官が掌握した。1417年頃からアンドロニコスも実務を遂行するようになったようであるが、特に目立った業績はない。 メフメト1世の死去(1421年)に伴うオスマン朝の内紛に介入した東ローマ帝国は新スルタン、ムラト2世の報復を被った。1422年8月にはコンスタンティノポリスが包囲に遭い、翌1423年にはギリシア南部の帝国領、モレアス専制公領が侵攻を受けるという苦境の中で、テッサロニキにもオスマン朝の軍事的圧力が及んできた。アンドロニコスは病弱で統治者としての意志に欠け、この苦境に為す術もなかった。彼は結局、市内有力者との協議の末に市民の信仰の自由、既得権の確認、糧食確保などの条件を付け、市を1423年9月13日にヴェネツィア共和国に売却した。ある記録に拠れば、売却額は50,000ノミスマ=ドゥカートであったという。 この売却譲渡にムラト2世は激怒し(東ローマ帝国はオスマンの臣下であったので、勝手な領土の割譲は許されないという考え方がオスマン側にはあった)、テッサロニキ市は7年間にわたる継続的な包囲下に置かれた。1430年、市は陥落しオスマン朝に併合される事となった。 市を去ったアンドロニコスは兄セオドロス2世パレオロゴスの統治するモレアス専制公領に身を寄せた。その後コンスタンティノポリスに戻り、修道士アカキオスを名乗って修道院にて余生を送った。彼は1429年3月4日に死去し、パントクラトル修道院に葬られた。 彼は少なくとも引退前に結婚し、子供がいた。妻の名前は知られていないが、ヨアニス(ヨハネス)という名の息子が知られている。 (本項目の中世=東ローマ関連の表記は中世ギリシア語のそれに依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照)) Category:パレオロゴス家 Category:1400年生 Category:1429年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドロニコス・パレオロゴス (テッサロニキ専制公) · 続きを見る »

アンドロス島 (ギリシャ)

アンドロス島(Άνδρος / Andros)は、エーゲ海のキクラデス諸島最北端に位置するギリシャ共和国の島。キクラデス諸島で2番目に大きな島で、人口は約1万人。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンドロス島 (ギリシャ) · 続きを見る »

アンゲロス王朝

アンゲロス王朝(アンゲロスおうちょう、ギリシャ語:Άγγελος、ラテン文字表記:Angelos)は、東ローマ帝国の王朝(1185年 - 1204年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンゲロス王朝 · 続きを見る »

アンコーナ

アンコーナ(Ancona)は、イタリア共和国中部のアドリア海沿岸にある港湾都市で、その周辺地域を含む人口約10万人の基礎自治体(コムーネ)。マルケ州の州都であり、アンコーナ県の県都である。 古代ギリシア人によって築かれた都市に起源を持ち、中世には海洋共和国として繁栄した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアンコーナ · 続きを見る »

アヴァ王朝

アヴァ王朝(အင်းဝခေတ်、Ava Kingdom)は、14世紀半ばから16世紀半ばにかけて現在のミャンマー北部(上ビルマ)に存在したシャン族の国家(1364年 - 1555年)。首都はアヴァ(現在のインワ)(en:Inwa)。雅称はパーリ語で「宝石の都」を意味するラタナープラである大野『謎の仏教王国パガン』、225頁。日本語ではインワ朝、アワ朝とも表記される。長い間、「アヴァ」という呼称はビルマ全土を指す言葉として使われた。 シャン族がビルマに建てた王朝の中では最大のものであるが太田「アヴァ」『アジア歴史事典』1巻、実質的に王朝を支えていたのはビルマ族であった大野『謎の仏教王国パガン』、229頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアヴァ王朝 · 続きを見る »

アヴィアーノ

アヴィアーノ(Aviano)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県にある、人口約9300人の基礎自治体(コムーネ)。アメリカ空軍のが所在する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアヴィアーノ · 続きを見る »

アヴィス王朝

アヴィス王朝(Dinastia de Avis、)は、ポルトガルの王朝。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガル王国を支配した。 創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する金七「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版、11頁。エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋とインド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアヴィス王朝 · 続きを見る »

アールパード朝

アールパード朝()は、ハンガリー王国の最初の王朝。9世紀末にマジャル人を率いてパンノニア平原に定住させた大首長(ジュラ)アールパードを祖とする。11世紀初めにハンガリー王国を成立させ、14世紀初頭に断絶するまで約300年続いた。12世紀末から13世紀初頭にかけては、ハールィチ・ヴォルィーニ王国の王(ガリツィアおよびロドメリアの王)やハールィチ公国の公も出している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアールパード朝 · 続きを見る »

アーゾロ

アーゾロ(Asolo)は、イタリア共和国ヴェネト州トレヴィーゾ県にある、人口約9100人の基礎自治体(コムーネ)。 15世紀末から16世紀初頭にかけては、ヴェネツィア共和国にキプロス王国の統治権を譲った女王カタリーナ・コルナーロが宮廷を置いた。19世紀英国の詩人ロバート・ブラウニングの代表作で「神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」の一節で知られる劇詩「ピッパが通る」は、この町の紡績工場で働く少女を主人公とした作品である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアーゾロ · 続きを見る »

アッティラ

アッティラ(、406年? - 453年)は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル()の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。 出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。 434年に伯父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと、単独の王となった。アッティラはブルグンド族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、ガリアへ侵入したが、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍とカタラウヌムで戦い、敗退した。翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退した。 アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。アッティラの死後、息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は瓦解した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアッティラ · 続きを見る »

アッティカ

アッティカ(Attica, Attika)は、ギリシャのアテネ周辺を指す地域名であり、現在のギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)の一つである。古典ギリシャ語でアッティケー(Ἀττική / Attikḗ)、現代ギリシャ語でアッティキ(Αττική / Attikí  発音:)とも表記される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアッティカ · 続きを見る »

アッダ川

アッダ川(Adda)は、イタリア北部のロンバルディア州を流れる、ポー川水系の川。アルプス山脈に源を発し、コモ湖を経て、クレモナの西でポー川に合流する。全長は313km。 河畔には(上流より)ボルミオ、ソンドリオ、レッコ、ローディなどの町がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアッダ川 · 続きを見る »

アテネ公国

アテネ公国の版図 アテネ公国(Δουκάτον Αθηνών)は、第4回十字軍による東ローマ帝国の占領後に建国された十字軍国家の1つであり、アッティカおよびボイオーティアを領土としていた。15世紀にオスマン帝国に併合されるまで存続していた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアテネ公国 · 続きを見る »

アデオダトゥス2世 (ローマ教皇)

アデオダトゥス2世(Adeodatus II, ? - 676年6月17日)は、第77代ローマ教皇(在位:672年4月11日 - 676年6月17日)。彼に関する記録はほとんど残されていないが、わずかな記録によると、特に貧しい人や巡礼者への寛容さで知られていたらしい。 アデオダトゥス2世はローマで生まれ、聖ベネディクトの系列の修道院に入り、後にチェリオにある聖エラスムス修道院の修道士となった。彼は修道士の規律の改善とキリスト単意論の排撃に積極的に取り組み、ヴェネツィアの市民自らがドージェを選べるようにした。 ローマ教皇に選出されたころには既にかなりの高齢で、4年間の在任期間中に成し遂げられたことはそれほど多くはない。 アデオダトゥス1世がデウスデディトと呼ばれることもあるため、アデオダトゥス2世はしばしば番号をつけずに、単にアデオダトゥスとも呼ばれる。 Category:教皇 Category:676年没 Category:ローマ出身の人物.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアデオダトゥス2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アフメト3世

アフメト3世(Ahmed III, 1673年12月30日 - 1736年7月1日)は、オスマン帝国の第23代皇帝(在位:1703年 - 1730年)。第19代皇帝メフメト4世の子で第22代皇帝ムスタファ2世の弟。子にムスタファ3世、アブデュルハミト1世。治世中は列強との戦争に対処する一方、積極的に西欧文化の受け入れを奨励、チューリップ時代と呼ばれる一時代を生んだ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアフメト3世 · 続きを見る »

アドリア海

アドリア海(Adriatic Sea; Mar Adriatico; Jadransko more)は、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアドリア海 · 続きを見る »

アニャデッロ

アニャデッロ(Agnadello)は、イタリア共和国ロンバルディア州クレモナ県にある、人口約3,900人の基礎自治体(コムーネ)。 カンブレー同盟戦争中の1509年、当地においてヴェネツィア共和国とフランス王国が戦闘を行った()。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアニャデッロ · 続きを見る »

アクイレイア

アクイレイア(Aquileia、Acuilee)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約3500人の基礎自治体(コムーネ)。 ローマ時代に建設された古代都市を起源とし、中世初期まではイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアクイレイア · 続きを見る »

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ(アクイレイアのいせきちいきとそうだいしきょうざせいどうのバシリカ)は、イタリア北東部のアクイレイアにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)。古代ローマ時代の遺跡と、中世にこの地方のキリスト教社会の中心であった大聖堂(バシリカ)からなる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ · 続きを見る »

アゴスティーノ・バルバリーゴ

アゴスティーノ・バルバリーゴと呼ばれる人物には下記がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアゴスティーノ・バルバリーゴ · 続きを見る »

アゾフ

アゾフ(ロシア語:Азовアゾーフ;Azov)はロシア連邦南部・ロストフ州の都市。ドン川沿いにあり、アゾフ海までは約6kmと近い。2002年における人口は81,700人。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアゾフ · 続きを見る »

アサシン クリード II

『アサシン クリード II』(ASSASSIN'S CREED II)はユービーアイソフトモントリオール・スタジオ製作の、潜入アクションゲーム。 今作ではルネサンス期イタリアへと舞台を移し、フィレンツェ、ヴェネツィア、サン・ジミニャーノ、フォルリなどの街を縦横無尽に走り回ることになる。前作同様、今回も歴史的な建築物や人物が数多く登場する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とアサシン クリード II · 続きを見る »

イムレ1世

イムレ1世(Imre, Emerik, Imrich、1174年 - 1204年11月30日)は、ハンガリー王国アールパード朝のハンガリー国王、およびクロアチア国王(在位1196年 - 1204年)。1184年にイムレの父ベーラ3世はイムレに戴冠し、1195年頃にイムレはクロアチア、ダルマチアの支配者に任命された。ベーラ3世の死後にイムレはハンガリー王位を継承し、治世の最初の4年間はクロアチアとダルマチアを要求して反乱を起こした弟のアンドラーシュと争った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイムレ1世 · 続きを見る »

イラクリオン

イラクリオ(現代ギリシャ語: Ηράκλειο / Iraklio) または イラクリオン(カサレヴサ: Ηράκλειου / Iraklion)は、ギリシャ・クレタ島北部にある都市で、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。エーゲ海(クレタ海)に面した港湾都市である。約14万の人口を擁するクレタ島最大の都市(ギリシャ全土では第4位)で、クレタ地方の首府、イラクリオ県の県都。 ミノア文明(クレタ文明)の代表的な遺跡であるクノッソス宮殿は、市街の約5キロ南東に位置する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイラクリオン · 続きを見る »

イリア県

イリア県(Ηλεία / Ileia、Elis, Ilia)は、ギリシャ共和国の西ギリシャ地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。ペロポネソス半島の西部に位置する。古代にはエーリスと呼ばれた土地である。県都は。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイリア県 · 続きを見る »

インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ

インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ(Innocenzo Ciocchi del Monte、1532年 - 1577年11月2日)は、イタリア出身のローマ・カトリック教会の枢機卿。卑しい生れながら教皇ユリウス3世の寵愛を受け、若くして枢機卿となり、悪評にさらされる生涯を送った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とインノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ · 続きを見る »

インノケンティウス9世 (ローマ教皇)

インノケンティウス9世(Innocentius IX, 1519年7月20日 - 1591年12月30日)は、ローマ教皇(在位:1591年)。本名はジャン・アントニオ・ファッキネティ(Gian Antonio Facchinetti)。教皇グレゴリウス14世の時代の外交の成果によって高い評価を得て、教皇に選出されたが、2ヶ月で病死した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とインノケンティウス9世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

イヴァン・アレクサンダル

イヴァン・アレクサンダル(Иван Александър/Ivan Aleksandǎr 、original spelling:ІѠАНЪ АЛЄѮАНдРЪ、John Alexander、? - 1371年2月17日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位:1331年 - 1371年Lalkov, Rulers of Bulgaria, pp.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイヴァン・アレクサンダル · 続きを見る »

イヴァン・アセン2世

イヴァン・アセン2世(Иван Асен II, Ivan Asen II, ? - 1241年6月24日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(在位:1218年 - 1241年)。初代皇帝の子。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイヴァン・アセン2世 · 続きを見る »

イブラン家

イブラン家の紋章 イブラン家(Ibelin)は、中世エルサレム王国領内のイブラン城から名前を取った貴族で、十字軍時代のエルサレム王国、キプロス王国において重臣として活躍した。 初代のバリサン(不明 - 1150年)の出自は明らかでは無いが、その名前からイタリア系の下級貴族で第1回十字軍か、その後に聖地に行ったと考えられ、1110年代にヤッファ伯の臣下としてヤッファの警備隊長になっている。1122年にラムラの女相続人と結婚し、同地の領主となった。ヤッファ伯ユーグの反乱の際にはこれに従わず、1141年にエルサレム王フールクから褒美としてイブラン城を与えられており、これが後に家名となった。 バリサンの息子がユーグ(1130年頃 -1169年)、ボードゥアン(1130年中頃 - 1187年頃)、バリアン(1140年頃 - 1193年)で、ユーグはエルサレム王ボードゥアン4世の母アニエス(アモーリー1世の最初の妻)と結婚し、バリアンはマリア・コムネナ(アモーリー1世の2番目の妻)と結婚するなど勢力を拡大している。また、ボードゥアンは王女シビーユ(アニエスの娘)との婚姻話があったが、宮廷の派閥争いの影響で取り消され、シビーユはギー・ド・リュジニャンと結婚することになる。 1187年のエルサレム落城の際には、バリアンが指導者として籠城、開城の指揮を取った。エルサレム王国がアッコンに移動後も、バリアンは継子のイザベル1世を女王に立てて、実力者として君臨し、その子孫はアッコン、キプロスで繁栄した。 キプロス王国においては、代々王族と婚姻を結ぶなど主要な貴族として支配層を形成したが、1464年にキプロス王国がヴェネツィア共和国に奪われると没落し、その後は歴史から姿を消した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイブラン家 · 続きを見る »

イエラペトラ

イエラペトラ(ギリシャ語:Ιεράπετρα)は、ギリシャのクレタ島東部、ラシティ県の町である。古代はヒエラプトナ(Hierapytna)と呼ばれた。デモスの面積は394.774km²、人口は23,707人。イエラペトラのデモスは、町と周辺の集落およびフリシ島から構成されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイエラペトラ · 続きを見る »

イオニア七島連邦国

イオニア七島連邦国()は、ギリシャ、イオニア諸島の島7つで構成された、前半はオスマン帝国が宗主権、ロシア帝国が保護権を持ち、後半はフランス帝国が支配権を持っていた、短期間存在した国家のことである。 連邦国はケルキラ島、パクシ島、レフカダ島、イタキ島、ケファロニア島、ザキントス島、ストロファデス島で構成されていた桜井(2005)、p.276.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイオニア七島連邦国 · 続きを見る »

イオニア諸島

イオニア諸島(ギリシャ語: Ιόνια Νησιά / Iónia Nisiá)は、ギリシャ西部のイオニア海に位置する諸島。中世後期から近代にかけてヴェネツィア共和国・イギリスなどの支配下に置かれていたヘプタネサ(あるいはヘプタネソス。「七つの島」の意)とも呼ばれる島々を指す歴史的な地域区分であるとともに、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)のひとつである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイオニア諸島 · 続きを見る »

イオニア諸島合衆国

イオニア諸島合衆国(Ἡνωμένον Κράτος τῶν Ἰονίων Νήσων (Inoménon-Krátos ton Ioníon Níson) 、United State of the Ionian Islands 、Stati Uniti delle Isole Ionie )は、 19世紀の南欧に存在していた、イギリスの保護国。現在のギリシャ共和国のイオニア諸島の領域で構成されていた。 ウィーン会議での合意によって成立した領域で、1864年にイギリスからギリシャ王国に譲渡された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイオニア諸島合衆国 · 続きを見る »

イオアニス・カポディストリアス

イオアニス・カポディストリアス (ギリシャ語: 1776年2月11日 - 1831年10月9日)は、ロシア帝国の外務大臣、後にオスマン帝国から独立したギリシャの初代大統領を務めた。なお、中世・現代ギリシャ語形では「ヨアニス」の方が正確な発音に近い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイオアニス・カポディストリアス · 続きを見る »

イザベラ・デステ

イザベラ・デステ(Isabella d'Este、1474年5月18日 - 1539年2月13日)は、エステ家出身のマントヴァ侯妃。ルネサンス期イタリアの文芸、政治を代表する女性の一人である。 イザベラは16歳でマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚し、フランチェスコ2世の死後は、若年でマントヴァ侯位を継いだ嫡男フェデリーコ2世・ゴンザーガの摂政としてマントヴァを統治した。1500年にフランス王ルイ12世とミラノ公国で会談しフランスとマントヴァとの間に不可侵条約を結ばせることに成功するなど、当時のイタリア情勢で大きな政治的、外交的手腕を発揮した。 イザベラは芸術を庇護し、その最先端のファッションはイタリアのみならずフランス王宮の女性たちにも大きな影響を与えた。詩人ルドヴィーコ・アリオストは「自由闊達で高潔なイザベラ」と賞賛し、マッテオ・バンデッロ (en:Matteo Bandello) は「最高の女性」と評しているMarek, p.ix。さらに外交官ニッコロ・ダ・コレッジョはイザベラを「世界一のファーストレディ」と高く評価した 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイザベラ・デステ · 続きを見る »

イストリア半島

イストリア半島(イタリア語:Istria)は、アドリア海の奥に位置する三角形の半島である。 イストリアとはイタリア語からの呼び名で、クロアチア語、スロベニア語ではイストラ(Istra)となる。イタリア、スロベニア、クロアチアに跨る。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイストリア半島 · 続きを見る »

イゾラ (スロベニア)

イゾラ(Izola, イタリア語:Isola d'Istria イーゾラ・ディストリア)は、スロベニア南西にある市。アドリア海沿い、イストリア半島にある。 イゾラの始まりはアドリア海北部の島の町で、その町はハリアエトゥム港を建設したローマ人によって、現在の市の南西に建設された。 中世のイゾラはヴェネツィア共和国に支配されていた。 16世紀に、ライバルのトリエステがこの地方の主要な港になり、追い討ちをかけるように疫病もはやり、イゾラの町は廃れていった。 19世紀前半のフランス統治下では城壁が取り壊され、城壁の廃材がイゾラと対岸の島とを隔てる海峡を埋めるために使われた。 プリモルスカ大学のキャンパスがある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイゾラ (スロベニア) · 続きを見る »

イタリック体

立体を用いている。 イタリック体(イタリックたい、英: italic type)とはアルファベットの書体の一つである。特に小文字において、筆記体 (cursive)に似た装飾が特徴である。ほとんどの場合上部が右に傾いているので、しばしば斜体と混同ないし同一視される。(実際は両者は異なる概念。#字形を参照。) 元々は15世紀のイタリア・ヴェネツィアで聖書の紙面スペースを節約するために考案されたのが「イタリック」の由来である。したがって、当初は手書き(筆記体)の本文用書体であった。16世紀に金属活字となって普及したが、17世紀以降は本文はもっぱら立体(正立した書体)を用いることが一般的になり、現在では立体などと共にフォントの属性を成し、文章の中で語を強調したり周囲と区別したりするなどの補助的な用途に用いられることが多い、及び外国単語(片仮名と同様)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリック体 · 続きを見る »

イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア · 続きを見る »

イタリアの世界遺産

マテーラの洞窟住居 イタリアの世界遺産 (イタリアのせかいいさん)は、ユネスコの世界遺産に登録されているイタリア国内の文化・自然遺産の一覧。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリアの世界遺産 · 続きを見る »

イタリアのイスラム教

本項目では、イタリアのイスラム教について記述する。 イタリアにおけるイスラム教の歴史は9世紀、シチリア島がイスラム教国家による支配を受けた時代にまで遡る。827年に初めてマツァーラの支配が始まってから1300年にルチェーラにあったイスラム教徒の最後の拠点が破壊されるまで、イタリア国内には一定数のムスリム(イスラム教徒)が存在していた。その後1970年代まで、イスラム教はイタリアではほぼ信仰の見られない宗教であった。 1970年代、初のソマリア系移民がイタリアへとやってきた。近年では、モロッコやエジプト、チュニジアと言った北アフリカからの移民が多く見られるようになっている。今日、イタリア国内には約150万人のムスリムがおり、国内には約500のモスクが存在するが、イスラム教は法による認可を受けていない。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリアのイスラム教 · 続きを見る »

イタリアの国旗

イタリアの国旗は、緑・白・赤の縦三色旗である。イタリア三色旗(Tricolore italiano)とも、単に三色旗(トリコローレ、Tricolore)とも呼ばれる。この旗の意匠はフランスの国旗(トリコロール)を起源とし、19世紀のイタリア統一運動のシンボルとなった。一般的な解釈では、緑は「国土」、白は「雪・正義・平和」、赤は「愛国者の血・熱血」を表す。またフランス国旗由来であるため、緑は「自由」(フランス国旗の青を置き換えたもの)、白は「平等」、赤は「友愛(博愛)」を表すともいう。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリアの国旗 · 続きを見る »

イタリアの歴史

イタリアの歴史(イタリアのれきし)では、地中海に面したイタリア半島およびその周辺地域における歴史について記載する。 イタリア上空からの衛星画像。「イタリアとは地理的名称に過ぎない」(クレメンス・メッテルニヒ)と言われるように、歴史上「統一国家としてのイタリア」の誕生は近代になってからである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリアの歴史 · 続きを見る »

イタリア・ルネサンス年表

イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリア・ルネサンスの文化」に関する年表を示す。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア・ルネサンス年表 · 続きを見る »

イタリア・トゥッリタ

イタリア・トゥッリタ (Italia Turrita) はイタリアを擬人化、もしくは寓意化した女性の姿である。トゥッリタ(Turrita)とは「塔の」を意味する。類似の概念としてゲルマニアやブリタニアがある。 イタリアを擬人化した女性として描く風習は古代からあり、特にイタリアを本土とするローマ帝国が成立してからは盛んに貨幣や立像などに女神として描かれた。イタリアを象徴する女神は石積みの城壁と塔が環状になった王冠である城壁冠を頭上に頂いており、これは共和制時代からの伝統である市民権制度を意味していた。城壁冠は古代ローマ文明が滅んだ後の中世時代においても、上記の市民権制度を象徴する意味合いから城郭都市や自由都市で盛んに描かれ、現在のイタリア共和国における地方自治体(コムーネ)の幾つかでも市や町の紋章として受け継がれている。 イタリア・トゥッリタ自体も中世・近世に受け継がれ、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァが自らの城にイタリア・トゥッリタを描かせている。この時代のイタリア・トゥッリタは地中海地方の人々の典型的な特徴を有する若い女性として描かれ、体格は豊満で顔色は赤く生き生きとし、髪の色は黒か茶色、優美で理想的な美しい顔だちをしている。近代に入ってイタリアで民族主義が高まると一層に描かれる機会が増え、イタリア統一が達成された後は帝国主義的なプロパガンダで使用される事も多かった。一方で共和主義の象徴としての立場もあり、第二次世界大戦後の王政廃止を巡る投票では共和派によって用いられ、現在のイタリア共和国でも肯定的に扱われている。 城壁冠以外に手には一房のトウモロコシの実(肥沃さの寓意であり、農業をもとにした経済を意味する)を持つこともあれば、正義を象徴する秤と剣を持つこともある。リソルジメント後のイタリア王国ではサヴォイア家の赤十字がドレスに描かれ、イタリア国旗を手に持っている画が多い。ファシスト党の独裁体制の時期は古代ローマのリクトルたちが捧げ持った権威の象徴であり、ファシズムのシンボルともされたファスケス(束桿)を持っていた。 またイタリア・トゥッリタの頭上に五芒星が光を放っていることがある。この五芒星はステッローネ・ディタリア (Stellone d'Italia) と呼ばれ、古代のイタリアの世俗の象徴物であり国家の守りの意味を持つ。イタリア王国成立以前のイタリア統一運動に使われた図像では、イタリア・トゥッリタの頭上には白い星が描かれ、1948年に制定されたイタリアの国章ではこの白い星が大きく描かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア・トゥッリタ · 続きを見る »

イタリア王

イタリア王(rex Italiae, re d'Italia)は、君主号の一つで、西方正帝の廃止後にローマ帝国の本土であったイタリア(半島部及び大陸部)を支配した人々が多くの場合に使用した歴史的背景を持つ王位。ただし実態を伴うかについては議論が残り、例えば1870年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるローマ占領が行われるまで、長らくイタリアの中心地であったローマ市は歴代国王の支配下になかった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア王 · 続きを見る »

イタリア王国 (中世)

イタリア王国(ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツ、ブルグントと共に中近世の西欧におけるローマ帝国、すなわち神聖ローマ帝国を構成した王国である。名目上はローマ帝国の中核となる国であるが、実際にはフランク王国や東フランク王国(ドイツ)の従属国だった。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つが、政治的に独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずだった。歴史的経緯から領域は北部および中部イタリアに留まり、ヴェネツィア共和国と南イタリア(シチリア王国)を含まない。11世紀まで首都はパヴィアとされた。13世紀には政体としての実態が失われ、16世紀後期にはイタリア王の称号もローマ皇帝位に統合されて消えた。一方でローマ皇帝を頂点とする封建的ネットワークは18世紀末まで維持され、「帝国イタリア」と呼ばれた中北部イタリアはヴェネツィア共和国、教皇領、シチリア王国とは明確に異なる領域であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア王国 (中世) · 続きを見る »

イタリア科学アカデミー

イタリア科学アカデミー (L’Accademia Nazionale delle Scienze detta dei XL) は1782年にヴェネツィア共和国(現イタリア)のヴェローナに設立された学会である。毎年マテウチ・メダルを授与している。名称のXLは創立時に40人の会員で発足していることに由来する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア科学アカデミー · 続きを見る »

イタリア統一運動

border.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア統一運動 · 続きを見る »

イタリア語

イタリア語(イタリアご)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。イタリアは漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し伊語と称される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア語 · 続きを見る »

イタリア陸軍

イタリア陸軍(Esercito Italiano)はイタリアの陸軍。総司令部は首都ローマの市街地中心部に設置されており、近くには大統領官邸がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア陸軍 · 続きを見る »

イタリア戦争

イタリア戦争におけるイタリアの領土変更 イタリア戦争(イタリアせんそう、Guerre d'Italia、Guerres d'Italie)、またはイタリア大戦争(イタリアだいせんそう、Grandi Guerre d'Italia)、ハプスブルク・ヴァロワ戦争(Habsburg–Valois Wars)、ルネサンス戦争(Renaissance Wars)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。教皇領、、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年から1559年としてはいるが、戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。 ミラノ公国とナポリ王国の継承争いから始めたこの戦争は、やがて諸国を巻き込み、権力と領土を争うための戦争となり、数々の同盟、対抗同盟、裏切りが行われた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア戦争 · 続きを見る »

イタリア戦線 (第一次世界大戦)

イタリア戦線(イタリアせんせん、Fronte italiano, Gebirgskrieg)は、第一次世界大戦中の1915年から1918年にかけて、イタリア北部においてオーストリア=ハンガリー帝国軍とイタリア王国軍がそれぞれの同盟国と共におこなった一連の戦闘のことである。イタリアは三国協商各国の援軍を得て、かねてから領有権を主張していた南チロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、ダルマチア地方(いわゆる「未回収のイタリア」)を獲得することを望んでいた。イタリアは迅速な奇襲攻撃でオーストリア領の都市を占領するつもりであったが、戦況はすぐに西部戦線と同じような塹壕戦の泥沼にはまり込んでいった。アルプス戦線とも呼ばれ、イタリアとオーストリア=ハンガリーの国境線に沿って掘られた塹壕をめぐる戦線で、中央同盟国南端と連合国北端をめぐる戦線ではあったが、1915年から1917年まで、基本的に停滞した戦線であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア戦線 (第一次世界大戦) · 続きを見る »

イタリア海軍

イタリア海軍(Marina Militare Italiana)は、イタリアが保有する海軍。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタリア海軍 · 続きを見る »

イタキ島

イタキ島(現代ギリシャ語: Ιθάκη / Ithaki)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的なイオニア諸島に属する。イタカ島(Ithaca or Ithaka)、イタケ島 もしくは イタケー島(Ἰθάκη / Ithákē)とも呼ばれる。 ホメロス『オデュッセイア』では英雄オデュッセウスの故郷として「イタケー島」が登場するが、現在のイタキ島と同一であるかどうかには諸説ある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とイタキ島 · 続きを見る »

ウマグ

ウマグ(Umag,Umago)はクロアチア、イストラ郡の都市及び基礎自治体である。男子プロテニス協会のトーナメントであるクロアチアオープン・ウマグが開催される都市として知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウマグ · 続きを見る »

ウルバヌス8世 (ローマ教皇)

ウルバヌス8世(ウルバヌス8せい、Urbanus VIII, Urban VIII, 1568年4月5日 - 1644年7月29日)はバロック時代のローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にあまるネポティズム(親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼は文化・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、教皇国家の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の負債はローマ教皇庁を弱体化させ、長期にわたってヨーロッパに対し政治的・軍事的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウルバヌス8世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ウルビーノ戦争

ウルビーノ戦争は、ウルビーノ公国の公位をめぐる1517年の戦争であり、イタリア戦争の一部である。 1508年から1516年までのカンブレー同盟戦争はフランスとヴェネツィアの勝利に終わった。前年に破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの機会に乗じて、敗北した教皇から公国を奪還する画策をはじめた。 1517年のはじめ、彼はヴェローナ城下で昔ヴェローナを包囲したヴェネツィア共和国の傭兵を雇った。5000人と1000の軍馬を得たフランチェスコ・マリーア1世はボッツォロ領主とともにウルビーノへ進軍、1月23日にたどり着いた。そこでコンドッティエーレのフランチェスコ・デル・モンテ率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。 教皇レオ10世はあわてて1万の軍勢を雇い、ロレンツォ2世・デ・メディチ、、、などのコンドッティエーレをウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日のモンドルフォ包囲戦で銃傷を負いトスカーナへ戻ってしまい、代役のは無能で統率がうまくいかずポッジボンシで大敗、ペーザロまで撤退した。 形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗してヴェローナで雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナやウンブリアでの戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。条約に基づき、フランチェスコ・マリーア1世の破門は解かれ、彼は傭兵とともにマントヴァへの撤退を許された。また、15世紀のウルビーノ公フェデリーコ3世・ダ・モンテフェルトロが収集した蔵書もフランチェスコ・マリーア1世に帰属するものとされた。しかし、ウルビーノ公位の奪還には失敗し、ロレンツォ2世・デ・メディチは1519年に亡くなるまで公位を保持した。フランチェスコ・マリーア1世が公位に返り咲くのは、レオ10世が亡くなった1521年のことである。 この戦争は後に「黒旗のジョヴァンニ」として知られるジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの初戦である。このとき、彼は教皇軍を率いた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウルビーノ戦争 · 続きを見る »

ウルツィニ

ウルツィニ(モンテネグロ語:Улцињ / Ulcinj、アルバニア語ではウルチニ:Ulqini / Ulqin)とは、モンテネグロの都市であり、同国最南端の都市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウルツィニ · 続きを見る »

ウーディネ

ウーディネ(Udine)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約9万8000人の基礎自治体(コムーネ)。ウーディネ県の県都である。 フリウーリ地方の中心都市で、トリエステに次ぐ州第二のコムーネ人口を有する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウーディネ · 続きを見る »

ウーゴ・フォスコロ

ウーゴ・フォスコロ(Ugo Foscolo、1778年2月6日 - 1827年9月10日)は、イタリアの詩人、小説家。イタリアロマン主義初期の人物であり、書簡体小説『ヤーコポ・オルティスの最後の手紙』や長編詩『墳墓』などで知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウーゴ・フォスコロ · 続きを見る »

ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第2代デヴォンシャー伯爵)

2代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish, 2nd Earl of Devonshire、1590年頃 - 1628年6月20日)は、イギリスの貴族。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウィリアム・キャヴェンディッシュ (第2代デヴォンシャー伯爵) · 続きを見る »

ウィーン会議

Jean-Baptiste Isabey画 ウィーン会議(ウィーンかいぎ、Wiener Kongress、Congrès de Vienne、Congress of Vienna.)は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。 オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウィーン会議 · 続きを見る »

ウズン・ハサン

ウズン・ハサン(Uzun Ḥasan, 1423年 - 1478年1月6日)は、白羊朝のスルタン。1453年から1478年までの間、現在のイラン西部、イラク、トルコ東部、アゼルバイジャン、アルメニアを統治した。白羊朝の英主として有名である。本名はアブー・ナスル・ハサン・ベグ(Abū Naṣr Ḥasan Beg)であり、トルコ語で「背の高い」を意味する「ウズン(Uzun)」の形容詞を付けた名前で呼ばれる井谷(2002)p.198羽田 (1990) p.18。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウズン・ハサン · 続きを見る »

ウズベク・ハン

ウズベク・ハン(Özbek Khan, غياث الدين محمد اوزبك Ghiyāth al-Dīn Muḥammad Ūzbak, ? - 1342年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)(在位:1313年-1342年)である。ウズ・ベクとも書かれる。バトゥの玄孫に当たり、『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男で末子であったと思われるトグリルチャが父である。ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知られている人物で、同時代のアラビア語資料などではスルターン・ムハンマド・ウーズベク・ハーンなどと称されている。漢語資料では月即別と表記される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とウズベク・ハン · 続きを見る »

エミリア=ロマーニャ州

ミリア=ロマーニャ州(Emilia-Romagna)は、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はボローニャ。 ヨーロッパの中で最も豊かな地域の一つであり、一人当たりGDPはイタリア共和国で3番目に高いhttp://epp.eurostat.ec.europa.eu/pls/portal/docs/PAGE/PGP_PRD_CAT_PREREL/PGE_CAT_PREREL_YEAR_2008/PGE_CAT_PREREL_YEAR_2008_MONTH_02/1-12022008-EN-AP.PDF。ボローニャをはじめ、モデナ、パルマ、フェラーラといったルネサンス都市が所在し、文化・観光の中心地である。食品産業が盛んで、パルミジャーノ・レッジャーノやバルサミコ酢、パルマハムやボローニャソーセージなどの産地である。また、フェラーリやランボルギーニなどが本社を置く自動車産業の中心地でもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエミリア=ロマーニャ州 · 続きを見る »

エルンスト・フォン・マンスフェルト

ルンスト・フォン・マンスフェルト(Ernst von Mansfeld, 1580年 - 1626年11月29日)は、ドイツの軍人、傭兵隊長。三十年戦争初期に傭兵を率いて転戦する一方で略奪を繰り返し、「甲冑をまとった乞食」の異名を取った。 ネーデルラントの貴族でスペイン領ネーデルラント総督も務めたペーター・エルンスト1世・フォン・マンスフェルトの息子としてルクセンブルクで生まれた。庶子であり領土相続が望めないため軍人としての道を歩み、ハプスブルク家に仕えハンガリーで戦った後はサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世に雇われ、1618年にボヘミアでプロテスタントの反乱が起こり三十年戦争が始まると、カルロ・エマヌエーレ1世によりプロテスタントの援軍としてボヘミアへ派遣された。 しかし、1619年にチェスケー・ブジェヨヴィツェへ進軍中にサブラートの戦いでカトリック軍に敗北してプラハへ撤退、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がボヘミア王位を受諾すると、ボヘミア王位の約束を破られ憤慨したカルロ・エマヌエーレ1世に傭兵契約を打ち切られ、代わりにフリードリヒ5世と契約したが、1620年に契約金が払えないフリードリヒ5世を見限り契約を解除、フリードリヒ5世が白山の戦いで敗れ神聖ローマ皇帝フェルディナント2世にボヘミア王位を追われ亡命した後もボヘミアに留まった。 同年にボヘミアから西へ転進してアルザスへ向かったが、行く先々で略奪を敢行して農村や教会を燃やしたり食料や金を奪ったりした。1622年、フリードリヒ5世と再契約してクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、バーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒとプロテスタント連合軍を結成したが、5月6日のヴィンプフェンの戦いでゲオルク・フリードリヒがティリー伯率いるカトリック連盟軍に破られ、6月22日のヘーヒストの戦いでマンスフェルトとブラウンシュヴァイクも撃破されアルザスへ撤退、プファルツはティリーに制圧された。この後オランダへ移りフリースラントに駐屯して略奪していたが、1624年にイングランドを訪問してロンドンで契約金を受け取り、再度カトリック軍と戦うことになった。 1626年、クリスティアン及びデンマーク王クリスチャン4世と合流した後、マクデブルクに駐屯しているヴァレンシュタインを拘束しつつトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルとの合流を目指したが、事前に察知していたヴァレンシュタインに迎撃され大敗(デッサウの戦い)、シレジアへ逃亡したが、ベトレンが皇帝側と和睦したためシレジアにもいられなくなり、ヴェネツィアの援助を得るべくダルマチアを目指して南下、途中のボスニアで死去した。病死とも暗殺とも言われている。 軍人として卓抜した能力は持っていなかったが、軍隊編成に才能を発揮して幾度も戦闘を繰り返し、ドイツで無差別に略奪を働きながら雇い主を探し、カトリック教徒でありながらプロテスタント陣営に属して戦った。マンスフェルトは略奪で軍隊を維持していたが、ヴァレンシュタインは軍隊維持の方法を略奪から徴税に切り替え、略奪を厳禁する一方で免除金を徴収、後の常備軍の先駆けとなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルンスト・フォン・マンスフェルト · 続きを見る »

エル・グレコ

ル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日)は、現在のギリシア領クレタ島、イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος、ラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、グレコの作品が多数展示されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエル・グレコ · 続きを見る »

エルベ広場

ルベ広場(Piazza delle Erbe)は、イタリアのヴェローナ旧市街中心にある広場で、シニョーリ広場と共に古代ローマ時代に造られた公共広場フォルムを起源としている。 かつて農産物を売る露天市場の中心であったため、代表的な商品であるハーブに因んでハーブ広場(=エルベ広場)と名付けられたというGuide Verona, Verona・エルベ広場 http://www.veronacityguide.altervista.org/guide-verona-jp/tour-verona-erbe.htmlVerona.com, Piazza delle Erbe http://www.verona.com/en/guide/verona/piazza-delle-erbe-verona/。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルベ広場 · 続きを見る »

エルコレ1世・デステ

ルコレ1世・デステ (Ercole I d'Este, 1431年10月26日 - 1505年6月15日)は、フェッラーラ公。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルコレ1世・デステ · 続きを見る »

エルコレ3世・デステ

マリーア・テレーザ・チボ・マラスピーナ エルコレ3世・デステ (Ercole III d'Este (Ercole Rinaldo d'Este),1727年11月22日 - 1803年10月14日)は、モデナ及びレッジョ公。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルコレ3世・デステ · 続きを見る »

エルサレム国王一覧

本項では1099年から 1291年までのエルサレム国王及び今日に至るまでの王位請求者の一覧を列挙する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルサレム国王一覧 · 続きを見る »

エルサレム王国

ルサレム王国(1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエルサレム王国 · 続きを見る »

エンリコ

ンリコまたはエンリーコ(Enrico)は、イタリア語圏の男性名。エンリケ(スペイン語・ポルトガル語)、アンリ(フランス語)、ヘンリー(英語)、ハインリヒ(ドイツ語)、ヘンリク(ポーランド語)、ヘンドリック(オランダ語)などに対応する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエンリコ · 続きを見る »

エンリコ・ダンドロ

ンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo, 1107年? - 1205年)は、ヴェネツィア共和国の第41代元首(ドージェ、在任1192年 - 1205年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエンリコ・ダンドロ · 続きを見る »

エンリコ・ダンドロ (エンリコ・トーチ級潜水艦)

ンリコ・ダンドロ(イタリア語:Enrico Dandolo, S 513)は、イタリア海軍のエンリコ・トーチ級潜水艦3番艦。艦名はヴェネツィア共和国の元首エンリコ・ダンドロに由来する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエンリコ・ダンドロ (エンリコ・トーチ級潜水艦) · 続きを見る »

エヴィア島

ヴィア島(Εύβοια / Évvoia, Évia)は、ギリシャの東方、エーゲ海西部に位置する島。ギリシャではクレタ島に次いで二番目に大きな島である。古代ギリシアではエウボイア島(Εὔβοια / Eúboia)と呼ばれた。 島の中心都市であるハルキダ(カルキス)付近において、2本の橋でギリシャ本土と結ばれている。エヴィア島は周辺の島や本土側の一部とともにエヴィア県を構成している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエヴィア島 · 続きを見る »

エピロス専制侯国

ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエピロス専制侯国 · 続きを見る »

エティエンヌ・ドレ

ティエンヌ・ドレ(Étienne Dolet, 1509年8月3日 - 1546年8月3日)は、フランス・ルネサンス期のラテン語学者、翻訳家、印刷・出版業者、人文主義者。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエティエンヌ・ドレ · 続きを見る »

エイレーネー (東ローマ女帝)

イレーネー“アテナイア”(ギリシア語:Ἐιρήνη ἡ Ἀθηναία, Eirēnē hē Athēnaiā、752年 - 803年8月9日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝(在位:797年 - 802年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の皇后で、第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母。ローマ帝国史上初の女帝である。中世ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」の意である。渾名の“アテナイア”は「アテナイ人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエイレーネー (東ローマ女帝) · 続きを見る »

エウフラシウス聖堂

ウフラシウス聖堂 (クロアチア語:Eufrazijeva bazilika、Basilica Eufrasiana)は、クロアチア、ポレッチにあるカトリック教会の聖堂(バシリカ)。聖堂から離れた祭器保管所、洗礼室、近接した大司教邸宅の鐘楼などを含む監督司教の複合施設で、この地域における初期ビザンティン美術の秀例の一つである。その希な価値から、1997年にUNESCO世界遺産に登録された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエウフラシウス聖堂 · 続きを見る »

エウドキア・マクレンボリティサ

ウドキア・マクレンボリティサ(ギリシア語:Ευδοκία Μακρεμβολίτισσα (Eudokia Makrembolitissa)、1021年 - 1096年)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の女帝(在位:1067年 - 1068年)。最初コンスタンティノス10世ドゥーカスと結婚し皇后となるが、1067年に夫コンスタンティノス10世が死去した後、女帝として即位した。しかし、民衆や貴族は強力な軍事政権の樹立を望んだため、エウドキアはカッパドキアの将軍ロマノス・ディオゲネスと結婚し、彼に皇位を譲って即位させた。これがロマノス4世ディオゲネスである。 1071年、夫ロマノスがセルジューク朝と戦って大敗したうえ捕虜となった後、先夫との間に生まれていた息子ミカエル7世を即位させた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエウドキア・マクレンボリティサ · 続きを見る »

エウゲニウス4世 (ローマ教皇)

ウゲニウス4世(Eugenius IV, 1383年 - 1447年2月23日)はバーゼル公会議の際のローマ教皇である(在位:1431年 - 1447年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とエウゲニウス4世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

オペラ・セリア

ペラ・セリア(正歌劇、イタリア語:Opera seria, or dramma per musica; ドランマ・ペル・ムジカ, melodramma serio; メロドランマ・セリオ)は、1710年代から1770年頃までヨーロッパで支配的だった、高貴かつ「シリアス」(イタリア語:seria)なのこと。もっとも当時は「オペラ・セリア」という言葉が使われることは滅多になく、流行が廃れてから使われるようになった。歴史的ジャンルと見られたのである。オペラ・セリアのライバルは、即興的なコメディア・デラルテを手本とした喜劇的なオペラ、オペラ・ブッファである。 イタリア語で歌われる「オペラ・セリア」(オペラ台本は例外なくイタリア語で書かれていた)はイタリアだけでなく、イングランドや、ハプスブルク・オーストリア、ザクセンなどのドイツ諸国、さらにスペインでも上演された。しかし、フランスでは人気がなかった。自国のが好まれていたからである。 人気のあったオペラ・セリア作曲家には、アレッサンドロ・スカルラッティ、ヨハン・アドルフ・ハッセ、レオナルド・ヴィンチ、ニコラ・ポルポラ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルなどがいる。18世紀後半の作曲家では、トンマーゾ・トラエッタ、クリストフ・ヴィリバルト・グルック、そしてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトなどがいる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオペラ・セリア · 続きを見る »

オモデオ・タッソ

モデオ・タッソ(Omodeo Tasso)は、13世紀後半のイタリアの人物で、タッソ家(のちの)の家長。ベルガモを中心とする郵便網(ベルガモ飛脚)を築き、近代的な郵便制度を開拓した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオモデオ・タッソ · 続きを見る »

オリオ・マストロピエノ

オリオ・マストロピエロ(Orio Mastropiero、? - 1192年)は、ヴェネツィア共和国の第四十代元首(ドージェ、在任1178年-1192年)。 在任前はヴェネツィアでも一、二を争う大富豪であり、神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世とロンバルディア同盟を結成して対立したこともある。 1178年、ヴェネツィア第四十代元首に選出された。その後は元首評議会の設立など積極的な政治改革を推し進めてヴェネツィア内部を固める一方、対外面においても1187年に東ローマ皇帝・イサキオス2世アンゲロスと同盟を結んで、ヴェネツィア共和国の国際的な立場を維持したのである。 しかしハンガリー王・ベーラ3世との対立に苦しみ、彼と二度にわたって交戦したが、いずれも失敗に終わってしまい、1192年死去した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:12世紀生 Category:1192年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオリオ・マストロピエノ · 続きを見る »

オルセオロ・ペーテル

ルセオロ・ペーテル(ハンガリー語:Orseolo Péter)またはペーテル1世(I.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオルセオロ・ペーテル · 続きを見る »

オージモ条約

トリエステ自由地域。オージモ条約により、A地区(緑斜線部)がイタリアに、B地区(青斜線・赤斜線部)がユーゴスラビアに編入された オージモ条約(オージモじょうやく、Trattato di Osimo)は、トリエステ自由地域をイタリアとユーゴスラビアに分割することを承認した条約。1975年11月10日に、イタリア・マルケ州のオージモで調印された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオージモ条約 · 続きを見る »

オットーネ (曖昧さ回避)

ットーネ (Ottone).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオットーネ (曖昧さ回避) · 続きを見る »

オトラントの戦い

トラントの戦いは、1480年から1481年にかけて南イタリア、アプリア地方の都市オトラントをめぐって戦われた、オスマン帝国とナポリ王国を始めとするヨーロッパ諸国との間の戦闘である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオトラントの戦い · 続きを見る »

オトラント海峡

トラント海峡(Canale d’Otranto, Strait of Otranto)は、イタリアのブリンディジとギリシャのコルフ島の間にある海峡。最狭地点の幅は約85キロメートル。地中海のイオニア海とアドリア海を隔てている。 その名は、イタリア東南のサレント半島内で、イタリア全体の東端に位置する港町オトラント(Otranto)にちなんでいる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオトラント海峡 · 続きを見る »

オプゼン

プゼン(Opuzen)はクロアチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の小都市で、2011年の国勢調査による人口は3,254人である。ダルマチア地方南部に位置し、ネレトヴァ川の河口から上流へ12km行った場所にある。ネレトヴァ川の渓谷は緑の渓谷(Zelenom dolinom)と呼ばれ、オプゼン周辺はクロアチアではミカンなど果物や野菜の産地として知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオプゼン · 続きを見る »

オドリコ

ポルデノーネのオドリコ(俗名 オドリコ マッティウシ 或いは マッティウジ; 1286年 – 1331年1月14日)は、後期中世イタリアの旅行家・修道士。彼の中国訪問に関する報告書簡はジョン・マンデヴィル の旅行記の重要資料となった。マンデヴィルの旅行記に掲載されている多くの驚異の事物はオドリコの目撃談を捻じ曲げて利用したものだと考えられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオドリコ · 続きを見る »

オドアルド1世・ファルネーゼ

ドアルド1世・ファルネーゼ(Odoardo I Farnese, 1612年4月28日 - 1646年9月11日)は、パルマおよびピアチェンツァ公。 ラヌッチョ1世と妃マルゲリータ・アルドブランディーニの一人息子として生まれた。ラヌッチョの庶子で潜在的な競争相手オッターヴィオが幽閉に追い込まれると、オドアルドは叔父オドアルド枢機卿と母マルゲリータ2人の摂政の元で治世を開始した。 1628年に成人を迎え、同年マルゲリータ・デ・メディチ(コジモ2世・デ・メディチの娘)と結婚した。オドアルドの公爵として最初の行動は、1633年にフランスと同盟したことだった。北イタリアにおけるスペインの優越を転覆させたいフランスと、領土拡大を企むオドアルド支援の思惑が合致してのものだった。オドアルドは借款としてパルマ軍を改善したが、最初の軍事作戦はまるで効果がなかった。ピアチェンツァはスペイン軍に占領され、パルマ軍はフランチェスコ1世・デステに打ち負かされた。オドアルドはローマ教皇ウルバヌス8世に説得されて、1637年にスペインと和平を結んだ(実際は、スペイン軍は公国を通り抜け田園地帯を荒廃させたが、彼らは都市を包囲しなかった。フランスの援助がない中、教皇に説得されてオドアルドは和平に調印したのである)。 オドアルドはカストロ(ボルセーナ湖の西にあった都市)獲得に野心的だった。教皇領の北部からローマにかけてファルネーゼ家の領土を、バルベリーニ家(ウルバヌス8世の一族)が獲得に動いていた。1641年、バルベリーニ家はオドアルドの破門を求めた。オドアルドは、ヴェネツィア、フィレンツェ、モデナとの同盟を検討すると返答した。彼は7000人の騎兵隊を投じてラツィオ北部を占領したが、カストロを包囲して陥落させることはできなかった。ファルネーゼ艦隊が破壊し、オドアルドがしばしば弱気をさらけ出したとはいえ、1644年に和平が結ばれ、オドアルドはカストロを手にし、破門を解かれた。 1646年、オドアルドは、好んで住んだピアチェンツァで急逝した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオドアルド1世・ファルネーゼ · 続きを見る »

オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオスマン帝国 · 続きを見る »

オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜

『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』(オスマンていこくがいでん あいとよくぼうのハレム)は、2011年から2014年までトルコで放映されたテレビドラマシリーズ。 原題は『壮麗なる世紀』(トルコ語 Muhteşem Yüzyıl ムフテシェム・ユズユル)、英題は The Magnificent Century 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜 · 続きを見る »

オスマン帝国海軍

マン帝国海軍(オスマンていこくかいぐん)は、オスマン帝国の保有していた海軍である。オスマン帝国の地中海などへの進出に活躍し、最盛期の16世紀頃にはヴェネツィア共和国などと並ぶ地中海の一大海上勢力だった。帝国の衰えとともに劣勢となり、ロシア帝国やギリシャの海軍に敗北を繰り返した。トルコ革命後はトルコ共和国の海軍として承継された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオスマン帝国海軍 · 続きを見る »

オスマン・東ローマ戦争

マン・東ローマ戦争(英:Byzantine–Ottoman Wars)は、オスマン帝国と東ローマ帝国との間で行われた戦争である。最終的にオスマン帝国が勝利し、古代から続いたローマ帝国は完全に滅亡した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオスマン・東ローマ戦争 · 続きを見る »

オセロ (シェイクスピア)

とデズデモーナ 『オセロ』(Othello)は、ウィリアム・シェイクスピア作(1602年)の悲劇で5幕の作品。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)。 ヴェニスの軍人であるオセロが、旗手イアーゴーの奸計にかかり、妻デズデモーナの貞操を疑い殺すが、のち真実を知ったオセロは自殺する、という話。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。最も古い上演の記録は1604年11月1日にロンドンのホワイトホール宮殿で行われたものである。登場人物の心理が非常に明快であり、シェイクスピアの四大悲劇中、最も平明な構造をもつ。ボードゲームのオセロの名前の由来である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とオセロ (シェイクスピア) · 続きを見る »

カナレット

ナレット(Canaletto)、本名はジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(, 1697年10月7日 - 1768年4月19日)はヴェネツィア共和国の景観画家、版画家である。ヴェドゥータ(都市景観画)を得意とした。 父親であるベルナルド・カナールも画家であったことから区別するために「小カナル」(カナレット)と呼ばれるようになった。 甥のベルナルド・ベッロットも風景画家。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカナレット · 続きを見る »

カミロ・デ・レリス

ミロ・デ・レリス(イタリア語:Camillo de Lellis、英語:Camillus de Lellis、1550年5月25日-1614年7月14日)はカトリック教会の司祭。看護修道会の祖として知られる。 日本語表記としてイタリア語から聖カミロ・レリス、聖カミロ、英語から聖カミルスとも呼ばれる。本項では以下、カミロと記述する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカミロ・デ・レリス · 続きを見る »

カラマタ

ラマタ(Καλαμάτα / Kalamáta)は、ギリシャ共和国ペロポネソス地方にある都市で、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。メッシニア県の県都である。メッシニアコス湾の湾奥に位置する重要な港湾都市で、ペロポネソス地方で2番目に大きい町である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカラマタ · 続きを見る »

カラ・ムスタファ・パシャ

ラ・ムスタファ・パシャ(Merzifonlu Kara Mustafa Paşa, 1634年/1635年 - 1683年12月25日)は、オスマン帝国の大宰相(首相)。メフメト4世に仕え、第二次ウィーン包囲を敢行した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカラ・ムスタファ・パシャ · 続きを見る »

カラーウーン

ラーウーン(アラビア語: قلاوون / Qalāwūn; الملك المنصور سيف الدين قلاوون الصالحي الألفي al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Qalāwūn al-Ṣālihī al-Alfī, 1220年頃長谷部「カラーウーン」『岩波イスラーム辞典』、285頁 - 1290年11月10日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、267頁大原『エジプト マムルーク王朝』、46頁)は、エジプトのマムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第8代スルターン(在位:1279年 - 1290年)。即位名により略してマンスール・カラーウーン(الملك المنصور قلاوونal-Malik al-Manṣār Qalāwūn)とも呼ばれる。 カラーウーンより前のマムルーク朝ではマムルーク(軍人奴隷)出身の有力者がスルターンに就くことが多かったが、カラーウーン以降は原則的に彼の子孫がマムルーク朝のスルターン位に就くことになる。マムルーク朝の歴代スルターンの中で4代後の子孫までスルターン位を世襲したのはカラーウーンのみであり、バフリー・マムルーク朝最後のスルターン・サーリフ・ハーッジーはカラーウーンの曾孫にあたる。 カラーウーンは美しい容姿の屈強な体格の持ち主で伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、200頁、アラビア語を話すことは少なかったと伝えられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカラーウーン · 続きを見る »

カリムノス島

リムノス島(Κάλυμνος / Kalymnos)は、エーゲ海東南部のドデカネス諸島に属するギリシャ領の島。 ドデカネス諸島中ではロドス島、コス島の次に人口が多い。近隣の小島を含む基礎自治体でもあり、基礎自治体合計の人口は16,441人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカリムノス島 · 続きを見る »

カルロヴィッツ条約

ルロヴィッツ条約(カルロヴィッツじょうやく、ロシア語 Карловицкий мир)は、1699年にオスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和条約。この条約で、オスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、オーストリアは三十年戦争以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得た。 なお、この時のオスマン帝国の交戦国のうちロシアはカルロヴィッツ条約には参加せず、翌1700年に個別にコンスタンティノープル条約(イスタンブール条約)を結んでいるが、本項で併せて取り扱う。コンスタンティノープル条約は、ロシアにとっては黒海・バルカン半島を目指す南下政策の第一歩となった条約である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカルロヴィッツ条約 · 続きを見る »

カルロ・ルッツィーニ

カルロ・ルッツィーニ (Carlo Ruzzini, 1653年11月11日 - 1735年1月5日)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)(在任:1732年 - 1735年) Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:イタリアの外交官 Category:1653年生 Category:1735年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカルロ・ルッツィーニ · 続きを見る »

カルロ・ゴルドーニ

right カルロ・ゴルドーニ(Carlo Osvaldo Goldoni, 1707年2月25日 - )はヴェネツィア共和国の劇作家でリブレット作家。 1707年、ヴェネツィアの医師の子として生まれ、パドバ大学で法律を修めたが、北イタリアの各地を遍歴し、傍ら劇作に手を染めた。1748年、弁護士を廃業し、メデバック劇団の座付き作者となり、矢継早に斬新な喜劇を世に送り、演劇の改革時代を招来した。1753年、サン・ルーカ劇場(現ゴルドーニ劇場)に移ったが、新しい時代の変革を反映した彼の作品を喜ばない観客に加えて、キアーリやゴッツィら、保守的な劇作家の誹謗、攻撃の的となり、失意のうちに渡仏した。パリのイタリア劇団の招きによるものであった。1764年、ルイ15世の招請を受け、ベルサイユ宮で王女たちのイタリア語教育に当たったが、フランス革命を迎えてパリに退き、1793年2月6日同地で他界した。 二百数十に及ぶ喜劇に彼はヴェネツィアの民衆を描き続け、そこによく広く普遍的な人間性情の真実を写しとろうとした。仮面を抜け出し、素顔の表情をもってとらえられた民衆群像は、その猥雑性よりも明るい活力において、凋落する貴族の無為と怠惰な姿に対比されるものであった。旧体制下におけるオプティミストと評されながら、彼の善意と良識に支えられた喜劇は、コメディア・デラルテのもつ卑俗性と、仮面による人物の類型性を脱却して画期的な生命を獲得し、イタリアにおける近代劇への母体となった。現代に至るまで、その傑作が世界の舞台で上演されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカルロ・ゴルドーニ · 続きを見る »

カルピの戦い

ルピの戦い(カルピのたたかい、Battaglia di Carpi)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つ。1701年7月9日に現在のイタリア・エミリア=ロマーニャ州モデナ県の都市カルピでオーストリア(ハプスブルク帝国)軍とフランス軍が衝突した。 オーストリアはイタリアのミラノ公領などのスペイン領を確保するため、プリンツ・オイゲンを司令官にしてイタリアに侵攻を開始、5月にチロルからイタリア北東のロヴェレートに3万の軍勢が集合した。しかし、中央のロンバルディアとアディジェ川流域はニコラ・カティナ将軍が守りを固めていて、イタリアへの進路は封鎖されていた。そこでオイゲンはヴェローナへ南下する途中で進路を東に変え、中立のヴェネツィア共和国を通ってヴェローナを右に迂回、イタリアの平原に出た。こうしてオーストリア軍はアディジェ川に沿って防衛線を張るフランス軍を大きく回り込む事に成功した。 7月9日、アディジェ川の南に出たオーストリア軍はカルピのフランス軍右翼に攻撃を加え勝利、防衛線をミンチョ川に後退させたフランス軍を追撃して左翼も打ち負かした。この戦いに勝利したオーストリア軍はイタリアに地歩を固め、チロルからの補給を可能にする事に成功した。戦後フランス軍の指揮権はカティナからヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルに移り、9月に西進して来たオーストリア軍と交戦した(キアーリの戦い)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカルピの戦い · 続きを見る »

カンポ・フォルミオ条約

バーゼル条約およびカンポ・フォルミオ条約後のヨーロッパ カンポ・フォルミオ条約(カンポ・フォルミオじょうやく、Traité de Campo-Formio, Treaty of Campo Formio, 1797年10月18日〈革命暦6年ヴァンデミエール27日〉)は、フランス革命戦争の講和条約の1つ。カンポ・フォルミオの和約(カンポ・フォルミオのわやく、Peace of Campo Formio)とも呼ばれる。この条約によって、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が消滅した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカンポ・フォルミオ条約 · 続きを見る »

カンポフォルミド

ンポフォルミド(Campoformido; Cjampfuarmit)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約7800人の基礎自治体(コムーネ)。 ウーディネの南西約8kmに所在するこの町は、古くはカンポ・フォルミオ(Campo Formio)の名で呼ばれ、1797年にフランス革命政府とオーストリアとの間で「カンポ・フォルミオ条約」が締結された場所として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカンポフォルミド · 続きを見る »

カンブレー同盟戦争

ンブレー同盟戦争は、イタリア半島における権益を巡ってフランス、教皇国、ヴェネツィア共和国が争った戦争である。1508年から1516年まで続いたこの戦争はスペイン、神聖ローマ帝国、イングランド、スコットランド、イタリア諸邦といった当時の西欧諸国のほぼ全てを巻き込み、イタリア戦争における最も大規模な戦争の一つとなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカンブレー同盟戦争 · 続きを見る »

カンパーニャ・ルーピア

ンパーニャ・ルーピア(Campagna Lupia)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県にある、人口約7000人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカンパーニャ・ルーピア · 続きを見る »

カンタレラ

アレクサンデル6世 カンタレラ は、近世イタリアの貴族ボルジア家が暗殺に用いたとされる毒薬である。スイスの歴史家、ヤーコプ・ブルクハルトは著書の中で「あの雪のように白く、快いほど甘美な粉薬」と形容している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカンタレラ · 続きを見る »

カ・レッツォーニコ

・レッツォーニコ(Ca' Rezzonico)はイタリアのヴェネツィアにあるカナル・グランデに面する宮殿であり、現在は18世紀頃の作品をメインとした18世紀ヴェネツィア美術館として公開されている。ヴェネツィアの文化や芸術遺産を管理している「Fondazione Musei Civici di Venezia」の1つでもある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカ・レッツォーニコ · 続きを見る »

カ・ダ・モスト

・ダ・モスト(Ca' da Mosto)は、イタリアのヴェネツィア内のカナル・グランデ沿いにある13世紀に建設された邸宅である。狭く高いアーチと特徴的な柱頭を持つビザンティン建築様式となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカ・ダ・モスト · 続きを見る »

カ・ダーリオ

・ダーリオ(Ca' Dario、正式名称はPalazzo Dario)はイタリアのヴェネツィア内のカナル・グランデ沿いにあるドルソドゥーロ地区に建つ邸宅。元々はヴェネツィアン・ゴシック様式で建設が始まったが、その後ルネッサンス様式へと改修された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカ・ダーリオ · 続きを見る »

カール5世 (神聖ローマ皇帝)

ール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカール5世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

カールマーン1世

ールマーン1世 (Kálmán, 1070年頃 - 1116年2月3日)は、ハンガリー王(在位:1095年 - 1116年)、及びクロアチア王(在位:1097/1102年 - 1116年)。文人王と呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカールマーン1世 · 続きを見る »

カール・フォン・ハラハ

ール・フォン・ハラハ(Karl Freiherr von Harrach, Reichsgraf zu Rohrau, 1570年 ローラウ - 1628年5月25日 プラハ)は、オーストリアの貴族、廷臣。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の宮廷顧問官。 レオンハルト(5世)・フォン・ハラハ男爵(Leonhard V von Harrach, 1542年 - 1597年)とその最初の妻でホーエンツォレルン伯の娘であるマリア・ヤコベア(1549年 - 1578年)の間の次男として生まれた。ヨーロッパ各地を転々としつつ学業を終えると、1594年よりニーダーエスターライヒ地方の政庁に勤め、主馬頭(Oberstallmeister)となった。ネーデルラントで1年をすごしたのちオーストリアに帰り、王領ハンガリーでのトルコ人との戦争に参加した。その後も、オーバーエスターライヒの塩鉱労働者の反乱、皇帝ルドルフ2世に対する弟マティアス大公(のちの皇帝)の反乱、ヴェネツィア共和国との戦争などの諸問題に対処した。 1618年のフェルディナント2世の皇帝選出を支援し、1620年の白山の戦いの後、皇帝が没収したボヘミア貴族の所領の分け前にあずかった。1627年にローラウおよびピュルヒェンシュタイン伯(Graf zu Rohrau und Pürchenstein)に陞爵し、ハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクとともに1620年代の皇帝の顧問団の中で最も影響力のある人物とされた。 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを皇帝に執り成して出世させ、1622年に四女エリーザベトをヴァレンシュタインに嫁がせた。三女カタリーナはヴァレンシュタインの又従弟マクシミリアン・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵に、五女マクシミリアーナはヴァレンシュタインの同盟者アダム・エルトマン・トルチカ・フォン・リーパ元帥にそれぞれ嫁ぎ、ヴァレンシュタインとの結びつきを強めている。ハラハ家はヴァレンシュタインが1634年に暗殺されると、相続協定に則ってヴァレンシュタインの資産を相続した。 三男のエルンスト・アーダルベルト・フォン・ハラハはプラハ大司教およびトリエント司教を務めた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカール・フォン・ハラハ · 続きを見る »

カーボベルデの歴史

ーボベルデの歴史(カーボベルデのれきし)では、カーボベルデ共和国の歴史について述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカーボベルデの歴史 · 続きを見る »

カプリーヴァ・デル・フリウーリ

プリーヴァ・デル・フリウーリ(Capriva del Friuli)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約1700人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカプリーヴァ・デル・フリウーリ · 続きを見る »

カテリーニ

テリーニ(Κατερίνη、Katerini)は、ギリシャの中央マケドニアにある都市。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカテリーニ · 続きを見る »

カザマンス

マンス地方 (Casamance) は、西アフリカのセネガル共和国南西部にあり、ガンビアとギニアビサウの間に位置する。セネガルの行政区分でジガンショール州(ジガンショール県、ウスイ県、ビニョナ県)、コルダ州(コルダ県、セディウ県、ヴェリンガラ県)の2州6県にまたがる地域。面積は約21,011Km2、中心都市はジガンショール。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカザマンス · 続きを見る »

カスト (イタリア)

ト(Casto)は、イタリア共和国ロンバルディア州ブレシア県にある、人口約1,700人の基礎自治体(コムーネ)。戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師・オルガンティノの故郷である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカスト (イタリア) · 続きを見る »

カステルフランコ・ヴェーネト

テルフランコ・ヴェーネト(Castelfranco Veneto)は、イタリア共和国ヴェネト州トレヴィーゾ県の都市であり、その周辺地域を含む人口約3万3000人の基礎自治体(コムーネ)。県都トレヴィーゾ、コネリアーノに次ぎ、県内第3位のコムーネ人口を有する。 中世にトレヴィーゾ市が築いた城砦を起源とし、旧市街は当時の重厚な城壁と塔に囲まれている。画家ジョルジョーネの出身地であり、また3本の鉄道幹線が集まる交通の要衝である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカステルフランコ・ヴェーネト · 続きを見る »

カタリーナ・コルナーロ

タリーナ・コルナーロ(Caterina Cornaro、1454年11月25日 - 1510年7月10日)またはカテリーナ・コルナーロは、15世紀のキプロス女王。ヴェネツィア共和国の名門貴族コルナーロ家の出身で、キプロス王ジャック2世と結婚してキプロス王妃となった。ジャック2世の死後に生まれた嫡子のジャック3世がキプロス王位を継いだが、ジャック3世も生後1年足らずで死去したためにカタリーナが1474年に王位を継ぎ、1489年まで女王としてキプロスを治めた。王位に就いたカタリーナは「聖マルコの娘」を名乗ったが、これはカタリーナの出身国であるヴェネツィアが、自らの守護聖人であるマルコとカタリーナを関連付けることによって、ジャック2世の死後もキプロスに対するヴェネツィアの影響力を保とうとしたためである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とカタリーナ・コルナーロ · 続きを見る »

ガラタ

海から眺めたガラタ ガラタまたはガラタ地区 (Galata)とは、トルコ共和国、イスタンブール、ベイオール(:en:Beyoğlu)にある一角の名。現在はカラキョイ地区(:en:Karaköy)の名で呼ばれている。かつてのコンスタンティノープルがあったヨーロッパ大陸側、金角湾の北岸に位置する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガラタ · 続きを見る »

ガリレオ式望遠鏡

光路図 ガリレオ式望遠鏡(ガリレオしきぼうえんきょう、Galilean telescope)は、屈折望遠鏡の一形式である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガリレオ式望遠鏡 · 続きを見る »

ガリレオ・ガリレイ

リレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。 パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガリレオ・ガリレイ · 続きを見る »

ガルニャーノ

ルニャーノ(Gargnano)は、イタリア共和国ロンバルディア州ブレシア県にある、人口約2,900人の基礎自治体(コムーネ)。ガルダ湖畔に位置する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガルニャーノ · 続きを見る »

ガレー船

レー船(ガレーせん、, )は、主として人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用された。正確にはガレーであり、この語だけで船であることも意味しているが、この語が一般的でない日本では「船」を付して呼ばれることが多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガレー船 · 続きを見る »

ガレアス船

レアス船(がれあすせん、galleass、galliass 、mahon)は、交易用の大型ガレーから発達し、軍用転換され、帆船とガレー船の中間的な性格を持つ近世に用いられた船。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガレアス船 · 続きを見る »

ガールズ&パンツァー

|- |colspan.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガールズ&パンツァー · 続きを見る »

ガッタメラータ

ラズモ・ダ・ナルニ(Erasmo da Narni, 1370年 - 1443年1月16日)、通称ガッタメラータ(Gattamelata、トラ猫の意)は、非常に有名な傭兵および傭兵隊長(コンドッティエーレ)。 1370年にナルニにパン屋の息子として生まれる。軍人学校を卒業した後、フィレンツェ、教皇庁に仕え、1434年にはヴェネツィア共和国に下級司令官として仕官した。仕官後はヴィスコンティ家との戦いなどで主に活躍。ヴィスコンティ家からヴェネツィアを防衛したりヴェローナの征服に成功するなどその有能振りを発揮し、最終的には総司令官にまで出世した。1443年パドヴァにて没。 ルネサンスに活躍した彫刻家ドナテッロが彼の軍功に対し作成したブロンズの騎馬像『ガッタメラータ将軍騎馬像(Equestrian Statue of Gattamelata)』で有名で、パドヴァのバジリカ・デル・サントの近くにある。 "Narnia me genuit / Gattamelata fui"と言う台詞でも有名(英語で"I was born in Narni, I was Gattamelata"の意味)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガッタメラータ · 続きを見る »

ガゼット (新聞)

ット (gazette) は、英語で官報(Government gazette)や、と称されるような有力紙、あるいは単に新聞を意味する表現。 英語圏やフランス語圏では、17世紀以来「ガゼット」を名称に含む新聞が発行されており、今日では多数の週刊ないし日刊の新聞が『ザ・ガゼット (The Gazette)』を名称に含んでいる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とガゼット (新聞) · 続きを見る »

キョプリュリュ・アフメト・パシャ

ョプリュリュ・アフメト・パシャ キョプリュリュ・ファズル・アフメト・パシャ(Köprülü Fazıl Ahmed Paşa, 1635年 - 1676年10月19日)は、オスマン帝国の大宰相(首相)。父であり先代の大宰相でもあると共に国力の回復に全力を注ぎ、キョプリュリュ時代と呼ばれる帝国の中興の時代を作った。キョプリュリュ・ムスタファ・パシャの兄。 1661年、父の死に伴い大宰相に就任。1668年にヴェネツィアからクレタ島を奪取。1672年にはウクライナのコサック達からの救援要請に応じてポーランド軍をポドリア(現在のウクライナ南西部)で破り、この地域の支配権を獲得した。これがオスマン帝国が最も膨張した時であり、キョプリュリュ時代の最盛期であった。 1676年、41歳で死去。後任には義弟のカラ・ムスタファ・パシャが就いたが、功を焦ったカラ・ムスタファは1683年の第二次ウィーン包囲で失敗して処刑、キョプリュリュ家の時代は終わりを告げた。但し、後にキョプリュリュ家から大宰相に任命された者が確認され、弟のムスタファも大宰相になっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキョプリュリュ・アフメト・パシャ · 続きを見る »

キラツァ・マリア

ラツァ・マリア(Keraca Marija, Keraca Mariya, 英語名:Keratsa of Bulgaria, 1348年 - 1390年)は、東ローマ帝国皇帝アンドロニコス4世パレオロゴスの皇后。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキラツァ・マリア · 続きを見る »

キリロス・ルカリス

リロス・ルカリス キリロス・ルカリス(Κύριλλος Λούκαρις、Kyrillos Loukaris、Cyril Lucaris、Cyril Lucar、1572年 - 1637年6月)は、当時のヴェネツィア共和国クレタ島に生まれた、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教であり神学者である。キリル・ルカリスとも転写される。 1602年にアレクサンドリア総主教(アレクサンドリア総主教としてはキリロス3世)に着座し、1621年にコンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンディヌーポリ総主教としてはキリロス1世)に着座した。 2009年10月6日、アレクサンドリア総主教庁の聖シノドは、キリロス・ルカリスの列聖を決定した。神品致命者として記憶されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキリロス・ルカリス · 続きを見る »

キリキア・アルメニア王国

リキア・アルメニア王国(キリキア・アルメニアおうこく、アルメニア語:Կիլիկիայի Հայկական Թագավորություն kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年あるいは1198年 - 1375年)は、現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニア人により建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。また、紀元前にカフカス地方に存在したアルメニア王国(大アルメニア王国)と区別して小アルメニア王国と呼ぶこともある。ただし、単に「小アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国がローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア属州のことを指すこともあるため、注意が必要である。 建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯 (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。 建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。 なお、以下の項目は全面的に英語版ウィキペディアの当該項目、キリキア・アルメニア王国君主一覧およびキプロス王国からの訳出によった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキリキア・アルメニア王国 · 続きを見る »

キレニア

レニアの港 キレニア(ギリシャ語:Κερύνεια、トルコ語:ギルネ Girne、英語:Kyrenia)はキプロス北部の地中海に面した町で、旧港と城塞で有名。北キプロス・トルコ共和国が支配しているキレニア地区(Kyrenia District)の首府である。フェニキア時代より商港があり、古代ローマ時代には海上交易の要衝である。東ローマ帝国(ビザンティン)時代に建設したキレニア城やベッラパイス修道院などがある。住民の人種構成はかつてはギリシャ系キプロス人が多かったが、現在ではトルコ系キプロス人が殆どでその他に少数の英国人とトルコ人となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキレニア · 続きを見る »

キレニア城

レニア城(Κάστρο της Κερύνειας)は北キプロス・トルコ共和国のギルネ(キレニア)にある城である。現地ではトルコ語でギルネ城(Girne Kalesi)と呼ばれている。 現在見られる城は、旧港の東端に十字軍が築城した城を、16世紀にヴェネツィア共和国が改築したものである。城内には古代ローマ後期の円柱を再利用して12世紀に建てられたゲオルギオス聖堂や、難破船博物館がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキレニア城 · 続きを見る »

キプロス

プロス共和国(キプロスきょうわこく、Κυπριακή Δημοκρατία、Kıbrıs Cumhuriyeti)、通称キプロスは、トルコの南の東地中海上に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はニコシア。ヨーロッパ連合加盟国。公用語はギリシア語。 キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断されており、島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしている。 キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、分断後は事実上、ギリシャ系によるほぼ単一民族国家となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキプロス · 続きを見る »

キプロス島

プロス島(キプロスとう)は、東地中海のシリア・アナトリア半島の沿岸にある島。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きな島である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキプロス島 · 続きを見る »

キプロス王国

プロス王国は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキプロス王国 · 続きを見る »

キプロス関係記事の一覧

プロス関係記事の一覧(キプロスかんけいきじのいちらん).

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキプロス関係記事の一覧 · 続きを見る »

キティラ島

ティラ島 (Κύθηρα / Kythira)は、ギリシャ・ペロポネソス半島の南に所在する地中海の島。歴史的な経緯からイオニア諸島のひとつに数えられるが、現在は行政上アッティカ地方に含まれる。 エーゲ海の出入口に位置するこの島は、古来より交通の要衝でもあった。ギリシア神話におけるアプロディーテーゆかりの地であり、今日では観光が主産業である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキティラ島 · 続きを見る »

キアーリの戦い

アーリの戦い(キアーリのたたかい、Battle of Chiari)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つ。1701年9月1日に現在のイタリア・ピエモンテ州ブレシア県の都市キアーリでオーストリア(ハプスブルク帝国)とフランス軍が衝突した。 プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍は、チロルから中立国であるヴェネツィア領内を横切り北イタリアに進撃した。それに対して、フランス軍を率いるニコラ・カティナはカルピで迎え撃ったが敗北を喫していたため(カルピの戦い)、ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルが代わりに指揮官となっていた。オイゲンはロンバルディアを北西に進軍し、1701年9月1日にキアーリで両軍は激突した。 File:Eugene de savoie.jpg|プリンツ・オイゲン File:Villeroy, François.jpg|ヴィルロワ公 File:Italy - War of the Spanish Succession 1701.png|オーストリア軍とフランス軍の進路 フランス軍38,000人ほどに対してオイゲン率いるオーストリア軍は22,000人ほどと数の上では劣勢であったが、オーストリア軍は戦いに有利な地点を占拠していた。フランス軍は陣地に突撃をかけたが、待ち構えていたオーストリア軍は周囲を川に囲まれた陣地で正面に大砲を設置していたため、2時間後にはフランス軍はおよそ3,000人の損害を出して敗れ去った。一方、オーストリア軍の損害はわずか200名ほどだった。戦後フランス軍とオーストリア軍は膠着状態となり戦闘は行われなくなったが、1702年に入りオーストリア軍はフランス軍に奇襲を仕掛けた(クレモナの戦い)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキアーリの戦い · 続きを見る »

キオッジャ

ッジャ(Chioggia)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万人の基礎自治体(コムーネ)。県内第2位の人口を有するコムーネである。旧市街はヴェネツィア潟南端の島の上に築かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキオッジャ · 続きを見る »

キオッジャの戦い

ッジャの海戦 (イタリア語:Battaglia di Chioggia)は、キオッジャ戦争終盤の1380年6月24日までにヴェネツィア・ラグーン南端のキオッジャで行われた、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国との間の戦い。"Carlo Zeno".

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキオッジャの戦い · 続きを見る »

キオッジャ戦争

ッジャ戦争 () は、1378年から1381年にかけてヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国の間で行われた戦争である。100年以上にわたるヴェネツィア・ジェノヴァ戦争における最後の戦闘期間であり、第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争とも呼ばれる。双方ともに大きな痛手を負って引き分けとなったが、この後ヴェネツィアは復興に成功して繁栄し、ジェノヴァは没落の一途をたどる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とキオッジャ戦争 · 続きを見る »

ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とギリシャ · 続きを見る »

ギリシャ人

リシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:Ἕλληνες 現代ギリシア語, Hellēnes古代ギリシア語)とはバルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とギリシャ人 · 続きを見る »

ギルフォード・ダドリー

ルフォード・ダドリー(Guildford (Guilford) Dudley, 1535年頃 - 1554年2月12日)は、1553年7月10日から同月19日までイングランド女王だったジェーン・グレイの夫である。 ギルフォードは人文主義教育を受け、エドワード6世の死のわずか6週間前にジェーンと盛大な結婚式を挙げた。エドワード6世が死去すると、ギルフォードの父ノーサンバランド公ジョン・ダドリーはジェーンの祖母がヘンリー8世の妹メアリー・テューダーだったことを根拠に彼女を女王に推戴した。ギルフォードは女王の王配として相応の「王」となることを望んだが、イングランドには女王の先例がなく王配を王として扱うことにはジェーン自身も慎重で、結局夫を共同統治者に据えることを見送った。ジェーンの在位は10日に満たない短さに終わり、エドワード6世の姉・メアリー1世があらたに女王として即位すると、夫妻は国家反逆罪でロンドン塔の牢獄に別々に入れられ、共に1553年11月に死刑を宣告された。当初メアリー1世はジェーンとギルフォードを助けるつもりだったが、メアリー女王とスペイン王フェリペ2世との結婚に反対して女王の廃位を主張するワイアットの乱が起きると、自身の王座を脅かす危険を排除するため夫妻を処刑した。幼い夫婦に対する死刑はあまりに無情だという声が広がった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とギルフォード・ダドリー · 続きを見る »

クラウディオ・メールロ

ラウディオ・メールロ(Claudio Merulo、メルロッティ(Merlotti)、メルルス(Merulus)、クラウディオ・ダ・コレッジオ(Claudio da Correggio)とも、1533年4月8日 – 1604年5月4日)はルネサンス時代に活躍したイタリアの作曲家、出版者、オルガン奏者。独創的な鍵盤曲やヴェネツィア式のコーリ・スペッツァーティ様式の合唱曲で知られる。コッレッジョに生まれ、パルマに没す。もとの姓はメルロッティ(小さなクロウタドリの意)であったが、ヴェネツィアの文化サロンで有名になった後、ラテン語風のメールロに改名した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクラウディオ・メールロ · 続きを見る »

クリミアの歴史

リミア半島は、紀元前5世紀頃のギリシア人の入植から有史時代に入り、古代には「タウリカ」または「ケルソネソス・タウリカ」(Χερσόνησος Ταυρική 「タウリカ半島」の意)と呼ばれていた。これ以来、スキタイ人(スキタイ=キンメリア人、タウロイ人)、ギリシア人、ローマ人、ゴート人、フン人、ブルガール人、ハザール人、キプチャク人などさまざまな民族によってクリミアは征服と支配を受けてきた。 中世には、一部がキエフ・ルーシに、別の一部が東ローマ帝国に支配されたこともあったが、モンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下に入った。また、この時代には沿岸の一部がヴェネツィアとジェノヴァの統治下におかれた。これらの諸勢力は15世紀にクリミア・ハン国とオスマン帝国の支配下となり、18世紀まで続いた。 クリミアの近代は、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが、1945年に廃止され、かわって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。1991年にウクライナが独立するとふたたび自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でロシア連邦がクリミア編入をウクライナ国内法を無視する形で一方的に宣言し、両国による領有権をめぐる対立が続いている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクリミアの歴史 · 続きを見る »

クリミア半島

リミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(Crimea, Крым, Крим, Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。 1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクリミア半島 · 続きを見る »

クルヤ

ルヤ(Krujë)はアルバニアの都市および基礎自治体でアルバニア北中部に位置し、クルヤ県と基礎自治体の行政的な中心である。人口は15,900人で、クルヤ山とイーシュム川の間に位置し、アルバニアの首都ティラナからは20km離れている。かつてイリュリア人の部族アルバニ族(Albani)が暮らしおり、1190年にクルヤはアルバニアでは中世で最初の自治を得た国であるの首都であった。後にの首都となり、15世紀初期にオスマン帝国に侵略されたが、1443年にのリーダーであるスカンデルベグにより1468年に亡くなるまで3度のオスマンの包囲を防ぐことに成功している。4度目のオスマンの包囲によって1478年に併合された。1906年にオスマンに対する地元の反乱があり、1912年にアルバニアの独立が宣言された。1910年代中頃クルヤは一度、短命のにより成立したとアルバニア公国との間の戦場となった。1914年トプタニは町を支配したが、同じ年ににより公国に再び併合された。第二次世界大戦中、抵抗勢力のリーダーが活躍している。クルヤにはに囲まれたや国立民族博物館がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクルヤ · 続きを見る »

クルツォラの海戦

ルツォラの海戦 (イタリア語:Battaglia di Curzola)は、第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(クルツォラ戦争)中の1298年9月8日、南ダルマティア(現クロアチア)のクルツォラ島(現 コルチュラ島) 付近でジェノヴァ共和国とヴェネツィア共和国の間で行われた海戦。13世紀から14世紀にかけて地中海やレバントの貿易をめぐってピサ共和国、ジェノヴァ、ヴェネツィアの間で長い戦いが続いたが、このクルツォラの海戦はヴェネツィアにとっては最大級の敗戦となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクルツォラの海戦 · 続きを見る »

クルツォラ戦争

ルツォラ戦争は、13世紀末にヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国・ビザンツ帝国の間に起った戦争。13世紀から14世紀にかけてのヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の中に位置づけて第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争とも呼ばれる。1291年にパレスチナにおける最後のキリスト教徒の拠点アッコンがマムルーク朝により陥落し、両国ともに地中海貿易の見直しを迫られ交易路の争奪が激化したことが大きな原因となった。両国はともに、東地中海と黒海の商業圏の独占を狙っていた。1270年に結ばれた15年の休戦期間が終わると、ジェノヴァはエーゲ海からヴェネツィア商人を追い出した。1296年、ジェノヴァ人によってコンスタンティノープルのヴェネツィア人居留地が焼き払われる事件が起きたため、ヴェネツィアは正式にジェノヴァへ宣戦布告した。ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係は第四次十字軍以降急激に悪化したため、ビザンツ帝国はジェノヴァの側についた。ヴェネツィアは黒海やエーゲ海のジェノヴァ植民地を破壊して回ったが、1298年のヴェネツィア・ジェノヴァ戦争最大級の海戦であるクルツォラの海戦でジェノヴァが完勝し、翌1299年に休戦が結ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクルツォラ戦争 · 続きを見る »

クルク島

ルク島(Krk、イタリア語:Veglia、ドイツ語:Vegl、ラテン語:Curicta)はクロアチアのアドリア海北に浮かぶ島。行政上はプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属している。人口16,402(2001年)。最大の町は、人口5,491人(2001年度)を抱えるクルク。その他にも町村がある。 クロアチア本土とは1980年に掛けられた長さ1,430mの橋を通じて結ばれており、南ドイツや東欧から観光客が訪れている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクルク島 · 続きを見る »

クルゾーネ

ルゾーネ()は、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県にある、人口約8600人の基礎自治体(コムーネ)。 セーリオ川上流地域に位置する都市で、地域の行政中心地である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクルゾーネ · 続きを見る »

クレメンス13世 (ローマ教皇)

レメンス13世(Papa Clemens XIII, 1693年3月7日 - 1769年2月2日)はローマ教皇(在位:1758年7月6日 - 1769年2月2日)、カトリック教会の司祭。本名は、カルロ・デラ・トーレ・レッツォニコ(Carlo della Torre Rezzonico)。ヨーロッパ列強とイエズス会の間で板ばさみになって苦悩した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレメンス13世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

クレメンス9世 (ローマ教皇)

レメンス9世(Clemens IX,1600年1月28日 - 1669年12月9日)はローマ教皇(在位:1667年 - 1669年)。本名はジュリオ・ロスピリオッシ(Giulio Rospigliosi)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレメンス9世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

クレモナ

レモナ(Cremona)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約7万2000人の基礎自治体(コムーネ)。クレモナ県の県都である。 ポー川中流の左岸にある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレモナ · 続きを見る »

クレーマ

レーマ(Crema)は、イタリア共和国ロンバルディア州クレモナ県にある、人口約34,000人の基礎自治体(コムーネ)。 セリオ川のほとりにあるカトリック司教の所在地。 クレーマ教区の資料によれば、セニガッリア在住のピウス9世が属する一族マスタイ・フェレッティ家の起源がクレーマである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレーマ · 続きを見る »

クレーマ共和国

レーマ共和国またはクレマスカ共和国(Repubblica Cremasca)は、かつてイタリアに存在した革命自治体。クレーマの街とそのクレマスカ(「クレーマの」意)県(クレモーナ県の北部)は1449年からヴェネツィア共和国の一部であった(クレモーナは飛び地)。 1797年3月28日、フランス軍の一部隊が抵抗に遭わずに入城し、自治を破壊した。ヴェネツィアからの代官ザン・バティスタ・コンタリーニ(Zan Battista Contarini)公は逮捕され、土地の所有者と貴族市民により構成された新たな地方自治政府がクレーマの街と県を含んだ「クレーマ共和国」を宣言した。新たな共和国は3か月後の1797年7月10日にチザルピーナ共和国に統合された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレーマ共和国 · 続きを見る »

クレタ島

レタ島(Κρήτη / Kriti; Crete)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。 クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオ(イラクリオン)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクレタ島 · 続きを見る »

クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル

ボンヌヴァル伯クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル(Claude Alexandre de Bonneval、Comte de Bonneval、1675年7月14日 - 1747年3月23日)は、オスマン帝国の軍人。フランス、オーストリアと歴任してオスマン帝国へ移った異色の経歴を持ち、軍事改革でオスマン帝国の挽回に貢献した。また、オスマン帝国では改名してアフメト・パシャ(Ahmet Paşa)と名乗った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル · 続きを見る »

クロアチア

アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロアチア · 続きを見る »

クロアチアの地理

アチアの地理(くろあちあのちり)では、クロアチアの地理について述べる。 クロアチアの位置は中央と南東ヨーロッパの一部、あるいはバルカン半島の一部、の一部と定義される。クロアチアの面積は56,594km2で、 世界で127番目の大きさである。東ではボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアに、西ではスロベニアに、北ではハンガリーに、そして南ではアドリア海にそれぞれ接していて、大部分は、緯度において42°Nから47°Nまで、経度において13°Eから20°Eまでに含まれる。クロアチアの12海里の領海は18,981km2を占め、基線の内側にある内水面積は12,498km2である。 アドリア盆地に沿ったカルパチア盆地とディナル・アルプス山脈がクロアチアの地形の大部分を成していて、クロアチアの53.42%は海抜200m以下の低地で覆われている。低地の大部分は北部地方にあって、特にスラヴォニアに多く、カルパチア盆地の一部をなしている。平地には地塁や地溝が点在していて、鮮新世にパンノニア海の水面に島々として現れていたと考えられる。比較的高い標高での土壌の集積はディナル・アルプス山脈でのリカやゴランスカでみられるが、 高地はクロアチアの全地域である程度みられる。 ディナル・アルプス山脈には、クロアチアの最高峰である1,831mのディナラ山があって、この山のようにクロアチアの全ての1,500mより高いほかの山も含まれている。クロアチアのアドリア海に面する海岸線は1777.3kmと長く、1,246の島々とその他の小島が4,058kmにも及ぶ海岸線を取り巻いていて、これは地中海で最も入り組んだ海岸線である。カルスト地形がクロアチアの半分以上を占めていて、特にディナルアルプス山脈で顕著で、沿岸部や島でも同様である。 クロアチアの領地の62%は黒海起源の河川の流域で占められている。国内を流れる最も大きな川は以下の通り:ドナウ川、サヴァ川、ドラーヴァ川、ムール川、クパ川。遺跡がアドリア海起源の河川の流域にはあるが、最も大きな川はネレトヴァ川である。クロアチアの大部分はちょうどいい暑さと湿度であり、大陸性気候としてケッペンの気候区分では分類される。月平均気温は-3°Cから18°Cである。クロアチアには、その気候と地形が織りなすヨーロッパ最大の生物多様性から、いくつかのエコリージョンがある。クロアチアには4つの生物地理学による地域の分類があって、海岸沿いの地中海とそれに接している後背地、リカや ゴランスカにあるアルプス山脈、ドラーヴァ川・ドナウ川にそったパンノニア海、そして、遺跡のある大陸性の地域である。クロアチアには444もの自然保護区があって、 総面積の8.5%を占めている。クロアチアでは37,000種もの生物が発見されているが、まだ見つかっていない種も含めれば、合計で50,000から100,000種に上ると推測されている。 2011年の国勢調査によれば、クロアチアの永住者人口は4.29百万人に達している。 人口密度は1平方キロメートルあたり75.8人で、国全体の平均寿命は75.7歳である。国内に住む人々の多くはクロアチア人(89.6%)で、他の少数派民族にはセルビア人(4.5%)とその他21の民族が(それぞれ1%未満)クロアチア国民として認められている。1992年に国が再建されてから、クロアチアは20もの県に分かれ、首都はザグレブである。県はさらに127もの都市と429の自治体に分かれている。クロアチアの平均都市圏人口率は56%で、今なお都市人口の増加と地方人口の減少は続いている。クロアチアの最大都市であり首都はザグレブであって、都市そのものの中の人口は686,568人で、都市圏人口は978,161人である。スプリトとリエカの人口は100,000人以上で、さらに5つの都市で人口が50,000人を超えている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロアチアの地理 · 続きを見る »

クロアチアの歴史

本項ではクロアチアの歴史(クロアチアのれきし)について述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロアチアの歴史 · 続きを見る »

クロアチア人

アチア人(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。 クロアチアのサヴァ川、ドラーヴァ川流域、それらの地域より南のダルマチア地方沿岸部に居住する柳田「クロアチア」『世界民族事典』、240-241頁。1991年当時のクロアチア共和国ではクロアチア人の人口はおよそ3,736,000人で総人口の78%を占めていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナには約760,000人のクロアチア人が住み、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチンなどの地域にクロアチア移民が生活している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロアチア人 · 続きを見る »

クロアチア王国 (925年 - 1102年)

アチア王国(Regnum Croatiae、Kraljevina Hrvatska, Hrvatsko Kraljevstvo)は、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀にわたって主権国家として存続していた。 クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニン、ビオグラード、クニン、シベニク、ソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている。 中世クロアチア王国が存在した時代はブルガリア人、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー人との間に起きた様々な衝突と和平、ヴェネツィア共和国とのアドリア海東海岸の支配権を巡る競争によって特徴付けられる。最初の国王であるトミスラヴはハンガリーとブルガリアの侵入を撃退するが、王権は不安定であり、彼の死後に内紛によってクロアチアは衰退する金原「中世のバルカン」『バルカン史』、92-93頁。11世紀後半にクロアチア王国はビザンツ帝国の支配の崩壊を利用して大部分のダルマチアの海岸部の都市を制圧した。この時代にクロアチア王国はペタル・クレシミル4世とドミタル・ズヴォニミルの統治下で最盛期を迎える。 ズヴォニミルの死後に起きた王位を巡る十数年の抗争とグヴォズドの戦いを経て、クロアチア王位はアールパード朝ハンガリー王国に渡る。ハンガリー王カールマーン1世は1102年にビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠され、2つの王国は1つの王冠の元に統合されるLarousse online encyclopedia, "Liée désormais à la Hongrie par une union personnelle, la Croatie, pendant huit siècles, formera sous la couronne de saint Étienne un royaume particulier ayant son ban et sa diète." (in Hungarian)。2つの王国の関係の実像は19世紀に論争の原因となる。現代のクロアチアとハンガリーの歴史学者の多くは、1102年以降のクロアチア王国とハンガリー王国の関係を共通の王を頂く同君連合として捉えているBarna Mezey: Magyar alkotmánytörténet, Budapest, 1995, p. 66。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクロアチア王国 (925年 - 1102年) · 続きを見る »

クニン

ニン(クロアチア語:Knin、ラテン語:Tinin、中世ハンガリー語:Tinin、イタリア語:、セルビア語:Книн / Knin)は、クロアチアのシベニク=クニン郡に位置する都市。クルカ川の源流近く、にあり、ダルマチア内陸部、ザグレブとスプリトを結ぶ鉄道路線の途中に位置している。クニンは歴史上、2度おおきく注目を集めており、1度目は中世クロアチア国(medieval Croatian state)の首都として、そして2度目は国際的に承認されることのなかった短命の国家・クライナ・セルビア人共和国の首都としてである。ザダル、スプリト、シベニクからの鉄道網はこのクニンを経て首都のザグレブへと結ばれており、交通のうえで大きな重要性を持っている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とクニン · 続きを見る »

グラディスカ・ディゾンツォ

ラディスカ・ディゾンツォ(Gradisca d'Isonzo)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約6500人の基礎自治体(コムーネ)。フリウーリ地方東部の文化的な中心である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグラディスカ・ディゾンツォ · 続きを見る »

グルジア王国

ルジア王国(საქართველოს სამეფო サカルトヴェロス・サメポ)は、1008年ごろに成立した中世の王国。グルジア連合王国、またはグルジア帝国とも呼ばれる。11世紀から13世紀にかけて、ダヴィド4世とタマル女王の治世の下、を現出した。その最盛期には今日のウクライナ南部とイラン北部までを版図に収め、アトス山とエルサレムに修道院を保持した。住民の多くはグルジア語を話す正教徒であり、現代のグルジアの前身となった。 13世紀、王国はモンゴルの侵攻に晒されたが、1340年代に再独立した。しかし、その後も遊牧民がもたらした黒死病とティムールの数回にわたる侵攻に悩まされ、王国の人口は減少、経済は大打撃を受けた。さらに1453年、コンスタンティノープルの陥落により王国の古くからの同盟国である東ローマ帝国が滅亡した。15世紀末までに王国はテュルク系民族とイラン系民族の国に囲まれ、キリスト教のグルジア王国は孤立した。1386年にティムールの侵攻がはじまり、最終的に1466年の王国崩壊をもたらした。無政府状態はその後、1490年に、、カルトリ王国が独立を相互承認するまで続いた。グルジアの再統一は1762年にカルトリ王国とカヘティ王国が統合され、が成立するまで待たなければならない。カルトリ・カヘティ王国はさらに18世紀、ロシア帝国に併合された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグルジア王国 · 続きを見る »

グレゴリウス12世 (ローマ教皇)

グレゴリウス12世(Gregorius XII, 1326年 - 1417年10月18日)は、教会大分裂の時期に選出されたローマ教皇(在位:1406年 - 1415年)である。 ヴェネツィア出身で、本名はアンジェロ・コレル(Angelo Coraria)。インノケンティウス7世の急死後、ローマ教皇に選出される。アヴィニョンに対立教皇ベネディクトゥス13世がいた。 1409年、ローマ・フランス双方の枢機卿が集まり、教会大分裂を収束すべくピサ教会会議を開催する。当時は公会議主義の主張が高まっていた時期である。グレゴリウス12世及びベネディクトゥス13世の両教皇は会議に出席しなかったが、公会議は2人を廃位とし、ミラノ大司教を新たに教皇に選出した(アレクサンデル5世)。しかし、グレゴリウス12世もベネディクトゥス13世も同意しなかった為、3人の教皇が鼎立する状態になった。アレクサンデル5世は急死し、ヨハネス23世がその後を継ぐ。 1414年から開催されたコンスタンツ公会議でグレゴリウス12世を含む3人の教皇が廃位を宣言される。グレゴリウス12世は退位に同意し、1417年にマルティヌス5世が選出されると、ようやく教会大分裂が解消された。 グレゴリウス12世は晩年をアンコーナで過ごし、レカナーティで死去。エウゲニウス4世は甥に当たる。 Category:教皇 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1326年生 Category:1417年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグレゴリウス12世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グレゴリウス13世 (ローマ教皇)

レゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)は、第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグレゴリウス13世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グレゴリウス16世 (ローマ教皇)

レゴリウス16世(Papa Gregorio XVI, 1765年9月18日 - 1846年6月1日)は、ローマ教皇(在位1831年2月2日-1846年6月1日)、カトリック教会の司祭。本名、バルトロメオ・アルベルト・カッペラーリ(Bartolomeo Alberto Cappellari)。彼は高まるイタリア独立運動とそれに期待する世論を読みきれず、教会と世俗国家との間の溝を広げることになった。選出時に司教でなかった教皇として、また現教皇フランシスコ(イエズス会出身)以前では修道会司祭出身として、最後の教皇である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグレゴリウス16世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ

ブロンツィーノ作) グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(Guidobaldo I della Rovere, 1514年4月2日 - 1574年9月28日)は、イタリアのコンドッティエーレ、ウルビーノ公(在位:1539年 - 1574年)。 ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと、エレオノーラ・ゴンザーガ(フランチェスコ2世・ゴンザーガとイザベラ・デステの長女)の間に生まれた。父が暗殺されると、1539年にウルビーノ公となった。 イタリア戦争の間に父がそうであったように、1546年にグイドバルドはヴェネツィア共和国の傭兵隊長となった。最初の妻ジューリア・ダ・ヴァラノと1547年に死別すると、1548年にヴィットーリア・ファルネーゼと再婚した。のち彼は教皇庁によりファノ知事に任命され、司令官の称号を授かった。1559年にスペイン王に雇われ、ベルナルド・サンセヴェリーノ(グイドバルドの娘婿)を補佐してオスマン帝国と戦った。 1573年1月、重税に堪えかねたウルビーノの住民たちが反乱を起こすと、彼は流血も辞さない弾圧で反乱を封じた。 フェラーラからペーザロへ向かう旅の途中に重病となり、急死した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ · 続きを見る »

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ

イドバルド・ダ・モンテフェルトロ(Guidobaldo da Montefeltro, 1472年1月17日 - 1508年4月10日)は、イタリアの傭兵。ウルビーノ公。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ · 続きを見る »

ケルキラ

ルキラ (Κέρκυρα / Kérkyra) は、ギリシャ北西部のイオニア諸島・ケルキラ島にある都市。イタリア語・英語名称での「コルフ」でも知られている。ケルキラ島(コルフ島)の主要都市であると同時にケルキラ県(コルフ県)の県庁所在地である。 ヴェネツィア共和国領だったときから重要な地位を占め、今では一大観光地となっている。複数の城を持つこの都市は、「カストロポリス」(Kastropolis, 城塞都市)としても知られている。 2007年には、旧市街が「ケルキラ旧市街」(コルフ旧市街)としてユネスコの世界遺産に登録された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とケルキラ · 続きを見る »

ケルキラ島

島の旗 ケルキラ島 ( / Kérkyra) あるいはコルフ島 (Corfù)・コルキラ島 (Corcyra) は、地中海東部のイオニア海北東部に位置するギリシャの島である。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属し、ギリシャ共和国の主要な島の中では最も西北に位置する。 ギリシャ本土とイタリア南部を結ぶ線上にあり、アドリア海湾口を押さえるこの島は、要衝として歴史上しばしば争奪の舞台となった。中心都市ケルキラ(コルフ)市はイオニア諸島地方の首府であり、その旧市街は世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とケルキラ島 · 続きを見る »

ケール包囲戦 (1733年)

ール包囲戦(ケールほういせん、Siege of Kehl)はポーランド継承戦争中の1733年10月14日から10月28日まで、フランスによるラインラント戦役の最初の戦闘。ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ率いるフランスの大軍はライン川上流のケールを包囲した。駐留軍が少なく、守備も弱かったは陥落した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とケール包囲戦 (1733年) · 続きを見る »

ゲットー

在も残るワルシャワ・ゲットー(実際のところは、第二次大戦でドイツに占領されるまでは強制居住区である「ゲットー」ではなく自由居住区である自治区「シュテットル」であった)の壁の一部 ポーランド、クラクフ・ゲットー(実際のところは、第二次大戦でドイツに占領されるまでは強制居住区である「ゲットー」ではなく自由居住区である自治区「シュテットル」であった)、カジミエジュ地区のスタラシナゴーグ、博物館として公開されているもの。この付近で映画「シンドラーのリスト」のロケも行われた。 ゲットー(ghetto)は、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区である。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。 アメリカ合衆国などの大都市におけるマイノリティの密集居住地をさすこともある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とゲットー · 続きを見る »

コペル

ペル(スロベニア語 Koper)は、スロベニアの市である。イタリア語名カポディストリア (Capodistria)。クロアチア語名コパル (Kopar)、ドイツ語名Gafers。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコペル · 続きを見る »

コムネノス王朝

ムネノス王朝(Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。ユスティニアヌス王朝、マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の繁栄の時代を担った王朝。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコムネノス王朝 · 続きを見る »

コリントス

リントス(Κόρινθος) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコリントス · 続きを見る »

コルチュラ島

ルチュラの町 コルチュラ島の位置 コルチュラ島 (-とう、クロアチア語:Korčula、ギリシャ語:Κορκυρα Μελαινα、ラテン語:Corcyra NigraまたはKorkyra Melaina、古スラヴ語:Krkar、イタリア語及びヴェネツィア方言:Curzola)は、クロアチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の島。アドリア海に浮かぶ。面積279平方キロメートル。島は東西に46.8キロメートルと長く、南北の長さ平均は7.8キロメートルと、細長い形をしている。本土のダルマチア地方と向かい合っている。島の総人口は16,182人(2001年)であり、ダルマチア諸島の中ではクルク島の次に人口が多い。そのうち96.77%はクロアチア人、残りは少数民族である 。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコルチュラ島 · 続きを見る »

コルティーナ・ダンペッツォ

ルティーナ・ダンペッツォ(Cortina d'Ampezzo)は、イタリア共和国ヴェネト州ベッルーノ県にある、人口約5900人の基礎自治体(コムーネ)。 ドロミーティ山脈の麓、アンペッツォ地方の中心地であり、登山やウィンタースポーツの拠点となるリゾート地である。1956年には、この町を中心に冬季オリンピック(1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック)が行われた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコルティーナ・ダンペッツォ · 続きを見る »

コンドッティエーレ

ンドッティエーレ(condottiere)は、中世末期から近世にかけて活躍したイタリア人の傭兵、傭兵隊長をいう。複数形のコンドッティエーリ(condottieri)の形でも使用する。ちなみに発音は古イタリア語で、現代イタリア語ではcondottiero(コンドッティエーロ)がより正しく、「契約する者」を意味する。転じて、イタリア以外の国々でもしばしば高名な傭兵をこの名で呼ぶ習慣が出来た(ヴァレンシュタインもこの名で呼ばれたという)。 中世から近世のイタリアは東方貿易によってヨーロッパの文化と経済の中心地として栄えており、特にヴェネツィア共和国やフィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国、シエナ共和国など規模の大きい地方国家は莫大な富を得ていた。しかし、同じく利潤を得ている存在でも既存の権力機構に組み込まれているミラノ公国やナポリ王国とは違って、これらの国々は周辺国から常に妬みと野心の対象とされていた。したがって彼らは、市民軍の他に大量の傭兵部隊を雇用するのが伝統となっていた。 最初のうち、これらの受け皿となったのはイタリアに野心を持つ神聖ローマ皇帝、アンジュー家、アラゴン家など外国人君主に伴われてイタリアへ来た外国兵、それに比較的少数ではあったが、貧困な地方の流民たちだった。この傭兵需要は、「冒険団」(Compagnie di Ventura)を生み出した。主として外国人からなるこの冒険団は程なくしてイタリア人自身が担うようになり、さらには地方の小領主(シニョリーア)が自国の徴用兵ごと「傭兵」として自身を売り込むようになっていった。彼らと雇い主の間では契約(コンドッタ)が結ばれ、そこからコンドッティエーレと呼ばれるようになった。 こうしたイタリア独自の傭兵制度の中で、傭兵隊長たちは栄達の機会をつかむことも少なくなかった。フランチェスコ・スフォルツァやフランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラのような大きな成功例を挙げるまでもなく、多くのコンドッティエーレは諸国や地方領主から重職を委ねられた。またイタリア人の傭兵隊長たちは、ルネサンスの万能人思想に影響されてか、粗野で野蛮であるよりも、洗練され教養のある人間であることを尊んだ。戦術にしてみても、騎士道精神に立脚する蛮勇よりも、自らの祖先であるラテン人が古代ローマで行った戦術を模倣することを好んだ。すなわち、勝てる状況を作り出した上で戦うのが戦の上策であり、負け戦は積極的にかかわるのを避けたし、また全滅するまで戦うのではなく、勝つ見込みがあるまで戦うのが基本だった。このことは、同時代人のマキャヴェッリによって辛辣に批判されたが、これは市民軍の組織に失敗したマキャヴェリの私怨も多分に含まれている。 また数は多くないが、アンドレア・ドーリアなどの「海のコンドッティエーレ」も存在した。主にジェノヴァ共和国や教会軍が活用したが、逆にヴェネツィア共和国は決して雇わなかった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンドッティエーレ · 続きを見る »

コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティノープル · 続きを見る »

コンスタンティノープルの陥落

ンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティノープルの陥落 · 続きを見る »

コンスタンティノープル条約 (1479年)

ンスタンティノープル条約(コンスタンティノープルじょうやく、Treaty of Constantinople)は1479年1月25日に締結された、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の講和条約。条約により、が正式に終結した。ヴェネツィアが講和したのは、オスマン軍がヴェネツィア近郊まで攻め寄せたことによる。条約により、ヴェネツィアはウルツィニ、ドゥラス、アンティヴァン(Antivan)を維持したが、すでにオスマン軍に1年近くシュコドラ、ダルマチア海岸線にある領地、ギリシャの(エヴィア島)とリムノス島を割譲した。ヴェネツィアはさらに賠償金10万ドゥカートの支払い、および黒海での貿易特権の代償として年貢1万ドゥカートの支払いに同意せざるを得なかった。条約の結果、レヴァントにおけるヴェネツィアの立場は弱くなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティノープル条約 (1479年) · 続きを見る »

コンスタンティノープル条約 (1700年)

ンスタンティノープル条約(Treaty of Constantinople)は、1700年7月3日(ユリウス暦)/7月14日(グレゴリオ暦)ロシア語版・トルコ語版の日付の記述に拠るにロシアとオスマン帝国との間で調印された条約。この条約によって、1686年に始まった露土戦争が終結した。イスタンブール条約とも呼ばれる。 ツァーリ・ピョートル1世は、戦争で占領したアゾフ地域の領有を確定化させて、ロシア軍を大北方戦争でのスウェーデンとの戦いに振り向けた。この条約は1711年にスウェーデン王カール12世がオスマン領内に逃げ込んだ結果、オスマン帝国が大北方戦争に参戦してプルート川の戦いでロシアに勝利したために締結されたプルト条約(内容はオスマン帝国へのアゾフの返還等)に取って代わられることになった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティノープル条約 (1700年) · 続きを見る »

コンスタンティノス10世ドゥーカス

ンスタンティノス10世ドゥーカス(ギリシア語:Κωνσταντίνος Ιʹ Δούκας, Kōnstantinos X Dūkas, 1006年 - 1067年5月)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の初代皇帝(在位:1059年 - 1067年)。アンドロニコス・ドゥーカスの子。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス10世ドゥカス」となる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティノス10世ドゥーカス · 続きを見る »

コンスタンティン・フォールコン

同時代に描かれたフォールコンの肖像 コンスタンティン・フォールコン (Constatine Phaulkon, 1650年 - 1688年6月5日)は、タイのアユタヤ王朝・ナーラーイ王時代の政府高官。タイでは、官職名であるチャオプラヤー・ウィッチャイェーン(เจ้าพระยาวิชเยนทร)として知られる。妻は日系人のマリー・ギマルド。 1650年、ギリシャのケファロニア島にて、当時この島を統治していたヴェネツィア共和国から派遣されてきた役人で、知事を務めていたイタリア人の父と、地元貴族出身のギリシャ人の母の間に誕生した。そのころの名前はコンスタンティノス・ゲラキス(Κωνσταντίνος Γεράκης, Konstantinos Gerakis)と言ったが13歳で島を出て、16歳の時にイギリスへ渡りイギリス東インド会社に就職し、フォールコンとイギリス風に姓の綴りを変えた。イギリスは当時重商主義政策を行っており、大型船を使った遠洋貿易が盛んであったが、フォールコンはこのときイギリス船の船員になり、アジア各国を旅し、インドネシアで倉庫係を務めていた頃にマレー語を習得した。 タイには1675年、25歳の時に渡来した。当時のタイの王朝の首都・アユタヤでイギリス系の貿易会社・ジョージ・ホワイト商会 (George White Company) の会計になり財産をためた後、自分自身で貿易を始めようと船を購入して遠洋に出た。しかし、あえなくもインドで難破した。そこでペルシアから帰国途中のアユタヤ王朝外交官と出会い、再びタイの地を踏むことになった。 アユタヤに再び帰ったフォールコンは、時のアユタヤ王であったナーラーイの歓迎を受けた。オランダ東インド会社によるバンコク湾封鎖で西洋人に対する不信感が募っていたナーラーイ王には、政府高官を快く助けたフォールコンが友好的に見えたのであろうか、フォールコンはクン・ウィッチャイェーン(ขุนวิชเยนทร์)の官位・欽錫名を授けられ、以降ナーラーイ王の寵愛を受けた。 その後は西洋の知識を持っている人物として、ピッサヌロークの砦や、ロッブリーの副首都建設の現場監督を請け負った。英語とタイ語を自由に操り外交面でも大きく活躍し、船員時代、商会勤めの時代に築き上げたイギリス東インド会社とのコネを利用し、タイ政府の通訳(彼は母国語のギリシャ語以外にも英語・フランス語・ポルトガル語・マレー語・タイ語に堪能だった)として活躍した。その外交の内容は、オランダ、ポルトガルを排除し、イギリス、フランスに便宜を図ったものであった。 ロッブリー副首都建設の後、フォールコンはプラ・リッティカムヘーンパックディーシースレーントーンセーナー(พระฤทธิกำแหงภักดีศรีสุเรนทรเสนา)の官位・欽錫名を授けられ、後の1683年には高官チャオプラヤー・コーサーティボーディー(通称コーサーレック)の死去に伴い、チャオプラヤー・ウィッチャイェーンの官位・欽錫名を授けられ、政府の最高顧問となった。 そのころ、フランス王・ルイ14世は外交官・シモン・ド・ラ・ルベールに宣教師を引き連れさせてタイに派遣し、フォールコンに賄賂を送って、ナーラーイ王と使節のやりとりをした。フォールコンはさらにナーラーイ王にキリスト教への改宗を持ちかけたが、ナーラーイ王はこれを拒否した。フォールコンはフランスの軍隊がタイに来たとき、軍を城内へ勝手に連れ込んだ。 この一連の行為により、フォールコンは王朝の高官達の怒りを買い、フォールコンの味方であったナーラーイ王がロッブリーで病に臥せると、1688年6月5日に次王・ペートラーチャー王やその息子チャオプラヤー・コーサーティボーディー(上記のコーサーティボーディーとは同姓同名である。通称コーサーパーン)をはじめとする高官達の者によって暗殺された()。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティン・フォールコン · 続きを見る »

コンスタンティーヌ

ンスタンティーヌ(قسنطينة/クサンティーナ、Constantine)はアルジェリア北東部に位置する同国3番目の規模の都市である。 内陸都市としてはアルジェリアで最大の規模を有する野沢「コンスタンチーヌ」『世界地名大事典』6巻、404-405頁 飯山「コンスタンティーヌ」『世界地名大事典』3、411頁。2008年当時の人口は448,374人。地中海の沿岸からおよそ80km南に位置する、コンスタンティーヌ県の県都である。都市の名前はローマ皇帝コンスタンティヌス1世に由来する。 コンスタンティーヌは東部アルジェリアの中心都市である。アルジェリアの商業の中心地で、アルジェリアの他都市やチュニジアなどがその主な市場である。また、コンスタンティーヌは伝統的なイスラームの学術都市、難攻不落の軍事都市の一面も持ち合わせている私市『アルジェリアを知るための62章』、315-317頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコンスタンティーヌ · 続きを見る »

コーヒーの歴史

ーヒーの歴史ではコーヒーノキの利用と栽培、およびコーヒー飲用の歴史について述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコーヒーの歴史 · 続きを見る »

コトル

トル(モンテネグロ語・Kotor/Котор,Kotor,Càttaro,Acruvium,Ἀσκρήβιον)は東ヨーロッパ・モンテネグロの都市および基礎自治体。コトル湾の静かな場所に位置している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコトル · 続きを見る »

コトル湾

トル湾 (セルビア語: Бока которска、Boka kotorska; クロアチア語: Boka Kotorska; Bocche di Cattaro)は、モンテネグロ南西部にある、アドリア海に面した曲がりくねった湾の総称である。湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっている。モンテネグロの重要な観光地である。 古代から湾内には人が定住し、中世からの町が良い状態で保存されている。コトル、リサン、ティヴァト、ペラスト、ヘルツェグ・ノヴィといった美しい町がその美しい自然環境とともにあり、主要観光地となっている。 湾周囲の陸には信仰の遺産がある。数多くの正教会とカトリック教会らキリスト教教会、そして修道院がある。観光地である一方、主要巡礼地の一つでもある。 モンテネグロ政府は、コトル湾にヴェリゲ橋という橋を架ける計画を持っている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコトル湾 · 続きを見る »

コドローイポ

ドローイポ(Codroipo; Codroip)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約1万6000人の基礎自治体(コムーネ)。県都ウーディネに次ぎ、県内第2位のコムーネ人口を有する。 当地に所在するリヴォルト空軍基地は、イタリア空軍の曲技飛行隊「フレッチェ・トリコローリ」の拠点として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコドローイポ · 続きを見る »

コニャック同盟戦争

ニャック同盟戦争(コニヤックどうめいせんそう、Guerra della Lega di Cognac、War of the League of Cognac)は、1526年から1530年まで起きた、神聖ローマ皇帝カール5世とコニャック同盟(フランス王国、教皇クレメンス7世、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、イングランド王国)の間の戦争である。イタリアをめぐる戦いの末、カール5世が勝利した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコニャック同盟戦争 · 続きを見る »

コジモ・デ・メディチ

モ・デ・メディチ 1518 - 1519年) コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici, 1389年9月27日 - 1464年8月1日)は、フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家である。メディチ家のフィレンツェ支配を確立した。コジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ローマ皇帝にならい、「祖国の父」「pater patriae」の称号を贈られた。通称コジモ・イル・ヴェッキオといわれる(イル・ヴェッキオ il Vecchio は老人の意)。 父ジョヴァンニの築いた銀行業を受け継ぎ、発展させた。1429年には父が亡くなり、メディチ家当主となる。1433年、政変が起こりフィレンツェを追放され、ヴェネツィアに逃れる。しかし翌年10月6日、反対派のアルビッツィ家が失脚・追放され、コジモはフィレンツェ共和国に帰還する。 対立の激しいフィレンツェ国内では、政治的に表面に出ることを避け、選挙制度を操作して政府をメディチ派で固めた。対外的には、イタリアの強国(ヴェネツィア、ミラノ、ナポリ)との勢力均衡を図り、ローマ教皇庁との結びつきを強めて、カトリック・東方教会合同のフィレンツェ公会議を開催した(1439年)。 ルネサンス期の重要なパトロンの一人としても知られ、美術ではフィリッポ・ブルネレスキ、ミケロッツォ、ドナテッロらを庇護した。また、古代ギリシャの哲学者プラトンの思想に心酔して、私的な学芸サークルプラトン・アカデミーの基礎を作り、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせたことで、ルネサンス期にネオプラトニズム(新プラトン主義)を刻印した。 1464年夏、郊外の別荘で逝去。メディチ家当主は子のピエロが継承する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とコジモ・デ・メディチ · 続きを見る »

ゴリツィア

リツィア(Gorizia)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万5000人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都である。 スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア側のノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とゴリツィア · 続きを見る »

ゴンドラ (船)

ンドラ (gondola)とは、ヴェネツィアの伝統的手漕ぎボートのことである。 ゴンドラは何世紀にも亘って、ヴェネツィアでの主な交通手段であり続けた。現在も、カナル・グランデ(大水路)の岸と岸をつなぐ渡し船(トラゲット)として公共交通機関の役割を果たしている。 現在のゴンドラの数は200~300、そのほとんどは観光タクシーとして使われており、数艘がトラゲットや個人所有の舟である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とゴンドラ (船) · 続きを見る »

ゴシック建築

ック建築(英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、フリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とゴシック建築 · 続きを見る »

ザダル

ーマ時代の広場から見た聖ドナット教会 海の門 ザダル (クロアチア語:Zadar、イタリア語:Zara、ギリシャ語:Idassa, Ίδασσα, Iàdeira, Ιαδειρα) はクロアチア西部、ダルマチア地方の都市。約115キロほど南東にスプリトが位置している。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とザダル · 続きを見る »

ザイヤーン朝

イヤーン朝(アラビア語: الزيانيون al-Zayyānīyūn; بنو زيان Banū Zayyān)は、アルジェリアのトレムセンを中心にマグリブ地方の中部を支配したベルベル人のイスラム王朝(1236年 - 1550年)。アブドゥルワード(アブド・アル・ワード)朝ともいう。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とザイヤーン朝 · 続きを見る »

ザキントス島

ントス島(Ζάκυνθος / Zakynthos)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的にイオニア諸島に属する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とザキントス島 · 続きを見る »

シモン・ボッカネグラ

『シモン・ボッカネグラ』(Simon Boccanegra)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲したオペラ。1857年に初演され、24年後の1881年に改訂された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシモン・ボッカネグラ · 続きを見る »

シャラモン (ハンガリー王)

ャラモン(Salamon, 1053年 - 1087年)は、ハンガリー王(在位:1063年 - 1074年)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシャラモン (ハンガリー王) · 続きを見る »

シャルル8世 (フランス王)

ャルル8世(Charles VIII, 1470年6月30日 - 1498年4月7日)は、ヴァロワ朝第7代のフランス王(在位:1483年 - 1498年)。温厚王(l'Affable)と呼ばれた。イタリア戦争を始めたフランス王として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシャルル8世 (フランス王) · 続きを見る »

シャンルウルファ

ャンルウルファ(トルコ語:Şanlıurfa)、通称ウルファ(Urfa)はトルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都。アルメニア語ではウルハイ(Urhai)またはルハ(Ruha)、クルド語ではリハ(Riha)と呼ばれ、古代から中世にかけての西洋ではエデッサ(Edessa、en)の名でも知られた。ウルファはメソポタミア北部の街でユーフラテス川の東80kmほどの場所にある大きな盆地に位置する。気候は、夏は極めて暑く乾燥し、冬は涼しく湿潤である。ウルファの住民の多くはトルコ人だが、市街地から離れるとクルド人も多く、アラブ人も若干居住する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシャンルウルファ · 続きを見る »

シャンパーニュの大市

ャンパーニュの大市(シャンパーニュのおおいち、Les grandes Foires de Champagne)は、12世紀頃から13世紀にかけて、フランス北東部、シャンパーニュ平原の諸都市で開かれた大規模な交易市である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシャンパーニュの大市 · 続きを見る »

シルバニヤス島

ルバニヤス島 (صير بني ياس、Sir Bani Yas Island) は、アラブ首長国連邦西部のペルシア湾内に位置する島である。首都のアブダビから南西の地にあり、の沖合に浮かんでいる。南北はで東西はであり、同国最大の自然島となっている。 アブダビの西側の海辺に位置しているため、この島はアラビアの最大の自然保護区となっている。に及ぶ保護区は1977年にザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンによって作られた。数十年に及ぶ保護活動と環境投資によって、今や数千の野生動物や数十万本の植物が生きる地となっている。サファリやカヤック、マウンテンバイク、アーチェリー、登山、シュノーケル等のアクティビティを通じてバードサンクチュアリもこの島の自然を展示している一つとなっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシルバニヤス島 · 続きを見る »

シルクロード

ルクロード(絹の道、Silk Road, Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。 シルクロードの主要なルート.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシルクロード · 続きを見る »

シニ

ニ(クロアチア語:Sinj)はクロアチア・スプリト=ダルマチア郡の都市。2001年現在の人口は25,373人である。シニはスプリトから内陸側に25km離れた場所に位置し、スヴィラヤ山(Svilaja)、ディナラ山(Dinara)、カメシュニカ山(Kamešnica)、ヴィソカ山(Visoka)に囲まれており近くにはペルチャ湖(Perućko jezero)がある。セティーナ川(Cetina)が近くを流れる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシニ · 続きを見る »

シニョーリ広場 (ヴィチェンツァ)

ニョーリ広場(Piazza dei Signori)は、イタリアのヴィチェンツァ旧市街中心部の広場。かつて古代ローマ時代にフォルムがあった場所であり、過去から現在に至るまでヴィチェンツァの街の中心広場として機能している。 広場は南西・北東を長軸とする長方形で、広場の南東側に面して、17世紀に完成した公会堂のバシリカ・パッラディアーナや12世紀から15世紀にかけて建てられた高さ82mの時計塔であるビサーラ塔が建っている。また、広場の北西側に面してヴェネツィア共和国の総督官邸として使われたやなどが建っている。広場の北東端には、ヴェネツィア共和国のシンボルである聖マルコと聖テオドーロの2本の円柱が立っている。 広場は、ここが市庁舎やヴェネツィア共和国総督官邸があったことから『シニョーリ(Signori)』広場と名付けられた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシニョーリ広場 (ヴィチェンツァ) · 続きを見る »

シニョーリ広場 (ヴェローナ)

ニョーリ広場(Piazza dei Signori)は、イタリアのヴェローナ旧市街中心にある広場で、その一部はエルベ広場共に古代ローマ時代に造られた公共広場フォルムを起源としている。 広場の中央には詩人で哲学家でもあったダンテ・アリギエーリの像が立っている。この像はダンテ生誕600年を記念して1865年5月14日に落成されたものであるVerona.com, Piazza dei Signori http://www.verona.com/en/guide/verona/piazza-dei-signori-verona/。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシニョーリ広場 (ヴェローナ) · 続きを見る »

シベニク

ベニク(クロアチア語:Šibenik, ドイツ語: Sibenning, イタリア語: Sebenico)はクロアチアの歴史的都市で、ダルマチアの中央、クルカ川がアドリア海に流れ込む場所に位置している。 シベニクは政治的、教育、交通、産業、そして旅行についてもシベニク=クニン郡の中心地である。市民のほとんど(94.02%、2001年の統計)がクロアチア人である。シベニクの聖ヤコブ大聖堂がユネスコの世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシベニク · 続きを見る »

シクストゥス4世 (ローマ教皇)

トゥス4世(Sixtus IV、1414年7月21日 - 1484年8月12日)はルネサンス期のローマ教皇(在位:1471年 - 1484年)。本名はフランチェスコ・デッラ・ローヴェレ(Francesco della Rovere)。 ルネサンス教皇の典型ともいえる存在で、自らの名前に因んだシスティーナ礼拝堂を建設し、そこへ幾多の芸術家を招聘して初期ルネサンス芸術の成果をローマに導入した(ミケランジェロの有名な天井画は後の時代に付け加えられたものである)。一方で、政治的には失政が多く、イタリアに無用の戦争と混乱をもたらした。後に甥のジュリアーノも教皇の座につき、ユリウス2世を名乗ることになる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とシクストゥス4世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ジャンバティスタ・バジーレ

ャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile, 1575年? - 1632年2月23日)は、イタリアの詩人・軍人である。説話集『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』の作者として知られている。 ナポリの貧しい家庭に生まれる。幼い頃から詩才を現していたが、生活のために傭兵としてイタリア各地を転々とし、クレタ島(ヴェネツィア共和国領)の警備隊や祖国であるナポリ王国(実質はスペインの一部)軍に加わっていた。 ところが、妹であるアドリアーナが「当代随一の歌姫」としてナポリの支配層の人気を集めるようになると、その縁でバジーレら家族も取り立てられるようになる。妹の後援によって1609年に処女詩集『マドリアーリとオーデ』(Madriali et ode)を刊行すると、次々に詩を発表していった。 だが、このころバジーレが憂慮していたのはイタリア語が全国的に統一傾向が進んで、ナポリが古くから使ってきたいわゆる「ナポリ語」が衰退の危機に晒されていることであった。そこでバジーレは、ナポリ地方に昔から伝わる説話を蒐集する事を思い立った。 『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』(Lo cunto de li cunti overo Lo trattenemiento de peccerille)と名付けられたこの説話集はバジーレの死後の1634年にボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行された。『ペンタメローネ』はヨーロッパにおける童話集のさきがけとなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャンバティスタ・バジーレ · 続きを見る »

ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ

ャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ (Jean-Mathieu-Philibert Sérurier,1742年12月8日 - 1819年12月21日)は、フランス革命戦争・ナポレオン戦争期の軍人。帝国元帥、帝国伯爵、王政復古時の貴族院議員。ナポレオン指揮下にあって、セリュリエは七年戦争でプロイセンと戦った経験を持つ数少ない将軍の一人である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ · 続きを見る »

ジャック2世 (キプロス王)

ャック2世(Jacques II de Chypre, 1438/39/40年 - 1473年10月3日)は、キプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位:1464年 - 1473年)。私生児ジャック(Jacques le bâtard)、大司教ジャック(Jacques l'archevêque)の異名で呼ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャック2世 (キプロス王) · 続きを見る »

ジャック3世 (キプロス王)

ャック3世(Jacques III de Chypre, 1473年8月28日 - 1474年8月26日)は、キプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位1473年 - 1474年)。「遺腹のジャック(Jacques le posthume)」と呼ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャック3世 (キプロス王) · 続きを見る »

ジャコポ・デ・ドンディ

ベニスの時計塔にある天文時計のレプリカ ジャコポ・デ・ドンディ(Jacopo Dondi dell'Orologio、1290年 - 1359年)は、イタリアのパドヴァで活躍した医師、天文学者、時計技師である。今日では、時計の設計と製造の技術のパイオニアとして知られている。同じく時計技師であったジョバンニ・デ・ドンディの父親である。ジャコポは、外科学、薬理学、天文学、自然科学等の分野で多くの著作を残した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャコポ・デ・ドンディ · 続きを見る »

ジャコモ・カサノヴァ

ャコモ・カサノヴァ(Giacomo Casanova、1725年4月2日 - 1798年6月4日)は、ヴェネツィア出身の術策家(aventurier)であり作家。その女性遍歴によって広く知られている。彼の自伝『我が生涯の物語』Histoire de Ma Vie(訳題『カザノヴァ回想録』)によれば、その生涯に1,000人の女性とベッドを共にしたという。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジャコモ・カサノヴァ · 続きを見る »

ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)

ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ、ラファエロ・サンティ画 ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479年3月12日 - 1516年3月17日)は、イタリアの貴族・政治家。フィレンツェの僭主。フランスの貴族としてヌムール公の爵位と所領を得た。フランス語名はジュリアン・ド・メディシス(Julien de Médicis)。イタリアのメディチ家の一員で、ロレンツォ・イル・マニフィコと妻クラリーチェ・オルシーニの三男としてフィレンツェで生まれた。長兄はピエロ、次兄はローマ教皇レオ10世となったジョヴァンニである。 父ロレンツォの死後、長兄ピエロがフィレンツェの支配者であったが、享楽に耽って父の側近たちの離反を招き、またおりからイタリアに侵攻してきたフランス王シャルル8世 (フランス王)に対する対応を誤って市民の信頼も失った。1494年にシャルル8世のフィレンツェに入城すると、メディチ家はついに亡命せざるを得なくなり、ジュリアーノはヴェネツィアへ逃れた。1503年にピエロは死亡したが、スペインが主導する神聖同盟以後、共和制を支持したフランス勢力は追われ、メディチ家は以前の権力を回復した。ジュリアーノは1513年から1516年までフィレンツェを治めた。また、次兄の教皇レオ10世により教皇軍総司令官に任じられている。 しかしジュリアーノは、政務に励むよりも文人や芸術家と交わったり、パトロン活動を行うなど華やかな文化人、宮廷人であった。友人にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ルドヴィーコ・アリオスト、フランチェスコ・デル・ジョコンドなどがいた。 1515年、サヴォイア公フィリッポ2世の娘でフランス王フランソワ1世の母方の叔母フィリベルタとフランス宮廷で結婚。次兄のとりなしにより、フランス王フランソワ1世はジュリアーノにヌムール公位を授けた。フランス側はジュリアーノをナポリ王位につけようと考えていた(ナポリは歴史的にフランス王が興味を示してきた王国だった)。ジュリアーノが急逝すると、フィレンツェの僭主の地位は甥のロレンツォに受け継がれた。 フィリベルタとの間に子供がなく、庶子イッポーリトが一人いたのみだった。イッポーリトは長じて枢機卿となった。 なお、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、ジュリアーノからの依頼とされている。しかし、モデルは彼の愛人ではなく、フィレンツェの商人の妻であるジョコンド夫人が有力視されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公) · 続きを見る »

ジョバンニ・デ・ドンディ

ョバンニ・デ・ドンディのアストラリウム。彼の1364年の論文''Il Tractatus Astarii''からのイラストhttp://books.google.com/books?id.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジョバンニ・デ・ドンディ · 続きを見る »

ジョン・アダムズ

ョン・アダムズ(John Adams、1735年10月19日(ユリウス暦)/10月30日(グレゴリオ暦) - 1826年7月4日)は、アメリカ合衆国の政治家。副大統領(初代、1789年から1797年の2期)、大統領(第2代、1797年-1801年)。アメリカ海軍創設者である。アメリカ合衆国建国の父の中でも最も影響力があった者の一人とされている。 アダムズはアメリカ革命の初期に著名になった。大陸会議にはマサチューセッツ湾植民地の代表として出席し、1776年に大陸会議がアメリカ独立宣言を採択するときに指導的な役割を果たした。大陸会議からヨーロッパに派遣され、イギリスとのパリ条約締結では交渉の主役となり、またアムステルダムから重要な借款を得る中心人物だった。 アダムズは独立に貢献したことで、ジョージ・ワシントンの下で2期副大統領を務め、また第2代大統領にも選出されることになった。この大統領としての任期の間、自身の連邦党(アレクサンダー・ハミルトンが率いる一派)内部での抗争と、新しく頭角を現したジェファーソン流共和主義者との党派抗争に悩まされることになった。また論争の多かった外国人・治安諸法に署名した。大統領任期中の最大の功績は1798年にフランスとの擬似戦争危機を平和的に解決したことである。 1800年大統領選挙で、トーマス・ジェファーソン(当時の副大統領)に再選を阻まれた後は、マサチューセッツ州に引退した。妻のアビゲイル・アダムズとともにアダムズ政治一家と呼ばれる政治家、外交官および歴史家の家系を作り育てた。彼の息子ジョン・クィンシー・アダムズは第6代アメリカ合衆国大統領になった。アダムズの功績は当時他の建国の父ほどは評価されなかったが、現代ではより大きな評価を受けるようになってきた。 2001年10月にロナルド・レーガンに抜かれるまでアメリカ歴代大統領の中で最長寿記録を誇っていた(90歳と247日、2015年10月現在はジェラルド・R・フォード、レーガン、存命のジョージ・H・W・ブッシュ、ジミー・カーターに次いで5位)。 妻のアビゲイル・アダムズは夫の大統領任期中にファーストレディの役目を果たした。女性の権利の向上を訴え、奴隷制度には反対するなど当時としては極めて進歩的な考えの持ち主であったことで知られている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジョン・アダムズ · 続きを見る »

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ

ョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(Giovanni Battista Tiepolo, 1696年3月5日 - 1770年3月27日)は、バロック最後期のイタリアの画家。本名はジャンバッティスタ・ティエポロ(Giambattista Tiepolo)。彼は18世紀のイタリアを代表する偉大な画家であり、ヴェネツィア共和国の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ · 続きを見る »

ジョヴァンニ・モチェニーゴ

ベリーニ画 ジョヴァンニ・モチェニーゴ (Giovanni Mocenigo, 1409年 - 1485年) は、ヴェネツィアの元首 (在任:1478年 - 1485年) 。 第70代の元首ピエトロ・モチェニーゴの弟。 彼はオスマン帝国皇帝メフメト2世と戦い、フェッラーラ公エルコレ1世・デステと戦った。後者との戦いに勝利し、ロヴィーゴとポレジーネ(現在のロヴィーゴ県の一部)を獲得した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1409年生 Category:1485年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジョヴァンニ・モチェニーゴ · 続きを見る »

ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン

ョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン(Geoffroi de Villehardouin, 1150年頃 - 1218年頃)は、中世フランスの政治家・歴史家。 フランス東部シャンパーニュ地方の中流貴族の家柄に生まれ、シャンパーニュ伯アンリ自由伯にマレシャル(家老職)として仕える。1190年にはアンリ自由伯の長男アンリ2世に従って、中東でアッコン攻囲戦の指揮を執っている。その忠節・政治感覚・武勇により、彼の個人的名声や権威は、家老職以上のものがあったといわれる。1201年、ヴェネツィアに使節として赴き第4回十字軍への援助を求め、自らも従軍し、コンスタンティノープル陥落に関わっている。彼の記録『コンスタンチノープル征服記』は、フランス語(古フランス語)の記録としては最古のものの一つで、13世紀の散文の大作『ランスロ』や『トリスタン』にその手法を伝え、年代記としての価値も高い。ただ、十字軍がイェルサレムに向かわずコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てたことを擁護し、ギリシア人を非難する立場から書かれたものであり、歴史書としては注意が必要である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン · 続きを見る »

ジローラモ・プリウリ

ーラモ・プリウリ (Girolamo Priuli, 1486年 - 1567年)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。(在任:1559年-1567年) Monumente ai dogi Lorenzo e Gerolamo Priuli (Venezia).jpg| Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:ヴェネツィア出身の人物 Category:1486年生 Category:1567年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジローラモ・プリウリ · 続きを見る »

ジェノヴァ共和国

ェノヴァ共和国(ジェノヴァきょうわこく、Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。 1148年以来公債を引き受けた国内のシ団は、塩税の管理を委任されてからジェノア銀行として組織化された。同行は国の収入を管理した。植民地、属領、軍隊、艦隊までも保有した。戦争を行い、条約を結んだ。1407年にフランスのジャン・ル・メングル元帥は社名変更の上、累積した国家債務の借り換え資金を提供させた。その軌跡はマキャベリをして「市民は国家の暴政と、会社のすぐれた管理とのために、国家の権威よりもむしろ会社のそれを欲した」と言わしめ、イギリス東インド会社の本国に占めた地位が遠く及ばなかったほどである。衰退期を経て1797年の恐慌で破産。同行の負債は、共和国を併合したサルデーニャ王国の国債に継承された。 ジェノヴァ出身のジョン・カボットは、共和国衰退期の直前に北米海岸を発見した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国 · 続きを見る »

ジェム・スルタン

ェム(、1459年12月 - 1495年2月25日)は、オスマン帝国の帝位請求者。カラマンとコンヤの総督であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジェム・スルタン · 続きを見る »

ジェルバ島の戦い

ェルバ島の戦いは、1560年5月、チュニジアのジェルバ島付近で行われた戦い。率いるオスマン帝国軍が、スペイン・教皇領・マルタ・ナポリの各軍を主体とする大規模なキリスト教連合艦隊を打ち破った。連合艦隊は防衛拠点であるジェルバ島と、27隻のガレー船とその他小型艇を失った。この勝利は、地中海においてオスマンの影響力を強く印象づけたと考えられる。 1573年頃まで、フェリペ2世支配下のスペインにおいて地中海方面戦略は最優先事項に位置づけられていた。 彼の指揮のもとにハプスブルク家のガレー艦隊は100隻規模にまで増強され、戦時下ではさらに補強が図られた。1560年、スペインはオスマン勢力に対抗するため、主要艦隊をトリポリ西岸付近のジェルバ島へ送り込んだ。オスマン軍はここで華々しい戦果を挙げ、10,000人を殺害し多数の船を撃沈した。しかしながら、この後に地中海で行われた主要な海戦において、彼らは勝ち続けることが出来なかった。スペインは戦後の2年間で艦隊を立て直し、1563年から1564年にかけて新たな防衛戦のために100隻の艦隊を用意した。オスマン帝国はこの戦で勝利しながら、ヴェネツィアに揺さぶりをかけることが出来なかったのである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジェルバ島の戦い · 続きを見る »

ジギスムント・フォン・ルクセンブルクのハンガリー統治

ハンガリー王ジギスムント(ジグモンド) ジギスムント・フォン・ルクセンブルクのハンガリー統治では、ルクセンブルク家出身のハンガリー王ジギスムント(ハンガリー名ジグモンド)によるハンガリー王国の統治について説明する。ジギスムントのハンガリー王としての在位期間は1387年から1437年まで半世紀にわたり、治世後半には神聖ローマ皇帝およびボヘミア王も兼ねたが、その死によってルクセンブルク家は断絶し、ハンガリー統治は1代限りに終わった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とジギスムント・フォン・ルクセンブルクのハンガリー統治 · 続きを見る »

スペイン継承戦争

ペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、Guerra de Sucesión Española)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスペイン継承戦争 · 続きを見る »

スペイン黄金時代美術

ペイン黄金時代美術(スペインおうごんじだいびじゅつ)ではレコンキスタ完了期から1700年ハプスブルク家支配の終了に至る時期の美術の流れを扱う。「スペイン黄金世紀絵画」とも。17世紀バロック絵画の中で「陽の沈まぬ帝国」を達成したスペインの美術はその独自性と豊かさから特筆される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスペイン黄金時代美術 · 続きを見る »

スレムスキ・カルロヴツィ

レムスキ・カルロヴツィ(セルビア語:Сремски Карловци / Sremski Karlovci)は、セルビアの町、およびそれを中心とした基礎自治体(オプシュティナ)であり、同国北部を占めるヴォイヴォディナ自治州の南部、ドナウ川沿いに位置しており、自治州の州都であるノヴィ・サドからは8キロメートル南にある。2002年の時点で、人口は8,839人であった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスレムスキ・カルロヴツィ · 続きを見る »

スロベニアの歴史

本項ではスロベニアの歴史について述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスロベニアの歴史 · 続きを見る »

スース

ース(Sousse、またはスーサ سوسة Sūsa)はチュニジアの都市。チュニスの南約140kmに位置するチュニジア第三の都市で、人口は約43万人。スース県の県都である。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街(アラビア語でメディナ)はユネスコ世界遺産に登録されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスース · 続きを見る »

ストライクウィッチーズ

|- | colspan.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とストライクウィッチーズ · 続きを見る »

スプリト

プリト(Split、Spalato、Ασπάλαθος, Aspálathos、Spalatum)は、クロアチア南部スプリト=ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスプリト · 続きを見る »

スピナロンガ

ピナロンガ、スピナロンガ島(スピナロンガとう)は、クレタ島の東部、エロウダ村の隣に位置する島。 1579年にヴェネツィア共和国のヴェネツィア人が古代アクロポリスの遺跡に強固な砦を造った。ヴェネツィア人は1669年にクレタの他の地域がオスマン帝国に陥落されてからも、1715年の降伏まで約半世紀にわたり支配していた。 1903年にクレタ総督のゲオルギオス王子の下で、この島はハンセン病患者のコロニーとするという決議がなされた。島に住むトルコ人はその決議により、自主的に島から離れていった。連れてこられた患者は洞窟や、壊れた砦に住み、食料などはクレタ本島の人々の好意に頼った。専門の医師や特効薬もなく、治らないとされた患者は再びアテネに送り返された。医師はいなかったが、大風子油が使用され、素人的な外科治療がなされていた。状況は悪化し、患者たちと守衛とのいさかいが絶えなかった。本国はまったく彼らに同情的でなかったが、新しく来た患者には、弁護士や教師、高校を出た人々がいた。その中からヨゼフ・パヴラキスという神学を学んだ若いリーダーが現われ、作業班を組織化し、建物を整備した。当局の考えはハンセン病患者の隔離であったが、患者たちはこの島で仕事をし、食料を作り、ミサをおこない、劇団を持つまでに至った。この島では当然のことながら差別がなく、患者たちは病変による変形を隠さなかったという。1954年に政府は隔離政策を止め、新しい患者はアテネで治療することとなった。政府との交渉の末、1957年にパヴウラキスらは本国に帰還した。英語版のWikipediaでは、1962年に牧師が帰還したとしている。2006年6月現在、この地域の主な観光スポットはヴェネツィア共和国時代の砦である。 参考文献:Spinalonga-Paradise or Purgatory ? by Beryl Darby.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスピナロンガ · 続きを見る »

ステファン・ネマニッチ

テファン・ネマニッチ(Стефан Немањић、1165年頃 - 1228年9月24日)は、セルビア王国の王(在位:1217年 - 1228年)。「ステファン初代戴冠王」(Стефан Првовенчани、ステファン・プルボヴェンチャーニ)の名で知られる。 公式にセルビア王として認められた最初の人物であり、セルビアの王国への昇格とセルビア正教会を設立した弟の聖サヴァの支援の功績により、長期にわたって存続したネマニッチ朝の歴代君主の中でも重要な君主の一人に数えられる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とステファン・ネマニッチ · 続きを見る »

ステファン・ウロシュ1世

テファン・ウロシュ1世(Стефан Урош I、1223年 - 1277年5月1日)は、中世セルビア王国の王(在位1243年 - 1276年)。在位中に「偉大なる王」と称されたS.クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版、108頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とステファン・ウロシュ1世 · 続きを見る »

スカンデルベグ

スカンデルベグ(Skanderbeg、1405年 - 1468年1月17日)あるいはスカンデルベクは、中世アルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄である。本名はジェルジ・カストリオティ(Gjergj Kastrioti)で、通称のスカンデルベク(アルバニア語ではスケンデルベウ )はトルコ名のイスケンデル・ベイ()に由来する。 スカンデルベグ アルバニア中部の領主ジョン・カストリオティ(Gjon Kastrioti)の子。1423年頃、父がバルカン半島で勢力を広げるオスマン帝国に臣従したため兄弟とともに人質となり、イスラム教に改宗。ムラト2世の宮廷に仕える騎士として東ローマ帝国やセルビア、ハンガリーとの戦いに従軍し、その勇敢さからアレクサンドロス大王にちなんだスカンデルベクの名を受けた。 1437年頃、父の領土を封土(ティマール)として与えられてアルバニアに帰国。オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官となったが、1443年にオスマン帝国に反旗を翻した。スカンデルベグはキリスト教に再改宗してヴェネツィア共和国、ナポリ王国やローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一。1450年と1466年にはムラト2世とメフメト2世の派遣したオスマン軍を撃退することに成功し、25年間にわたって独立を保った。 1468年にスカンデルベグが病死した後もアルバニアは12年間にわたって独立を維持したが、1480年、最終的にオスマン帝国によって併合された。 スカンデルベクは、同時代のハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ、ワラキアのヴラド・ツェペシュと並んで、オスマン帝国のヨーロッパへの拡大を遅らせた英雄と見なされる。19世紀にアルバニア人の民族意識が高まると、オスマン帝国からの独立を目指したスカンデルベクは民族的英雄として高く評価されるようになり、アルバニアの独立運動と国民統合に大きな役割を果たした。 現在アルバニアで発行されている5000レク紙幣に肖像が使用されている。 Category:アルバニアの君主 Category:カストリオティ家 Category:バルカンの歴史 Category:アルバニアの紙幣の人物 Category:1405年生 Category:1468年没.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とスカンデルベグ · 続きを見る »

セネガル

ネガル共和国(セネガルきょうわこく、République du Sénégal )、通称セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接している。セネガルはガンビア川の岸に沿った細長い国土を持つガンビアとも国境を接し、三方から囲んでいる。これによってセネガルの南部のカザマンス地方は残りの地域から隔てられている。西は大西洋に面し、カーボベルデと海上の国境を接している。セネガルの経済的・政治的首都はダカールである。セネガルは旧世界(アフロ・ユーラシア)の大陸部における最西の国である。国名の由来は東と北の国境となるセネガル川にある。「Senegal」という名前はウォロフ語で「我々の船」を意味する「Sunuu Gaal」に由来する。 フランスと関係が深く、フランコフォニー国際機関に加盟している。 首都のダカールはかつてのパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。また、領域にアフリカ大陸最西端のヴェルデ岬を抱えている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセネガル · 続きを見る »

セバスティアーノ・ヴェニエル

バスティアーノ・ヴェニエル (Sebastiano Venier, 1496年 - 1578年3月3日)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)。ヴェニエロ(Veniero)という表記もされる。81歳という高齢で元首に選出された(在任:1577年 - 1578年)。 若い頃は弁護士として働いていた。1565年のヴェネツィアとオーストリア・ハプスブルク家との国境紛争での会議では主席代表。1570年のトルコの攻勢が予想されるコルフ島に施政官(軍事面での最高責任者)として赴任中、現地のヴェネチツィアの船乗りから「メッセール・バスティアン(ミスター・砦)」の綽名でよばれる。 1571年レパントの海戦ではヴェネツィア軍海軍総司令官に任命される(当時75歳)。大変怒りっぽい人物であったとされる。 姪チェチーリア・ヴェニエル=バッフォをイスラム教に改宗させ、1536年にオスマン帝国のスルタンに売り渡した。彼女が寵愛を受ければ、スルタンをヴェネツィア寄りに操縦できるのが目的であったという。ヌール・バヌと改名した彼女はセリム2世の側室の1人となり、ムラト3世を生んだ。 1578年、ドゥカーレ宮殿が火災で著しい被害を受け、心痛から心臓発作で亡くなった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセバスティアーノ・ヴェニエル · 続きを見る »

セリム2世

リム2世(トルコ語:II.Selim、1524年5月28日 - 1574年12月12日)は、オスマン帝国の第11皇帝(スルタン)(在位1566年 - 1574年)。軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンであり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた“Selim”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)。そのため、「酒飲み」「酔っ払い」(Sarhoş Selim)の渾名で呼ばれる。 父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される林『オスマン帝国500年の平和』、172頁。また、詩人としての一面も持ち合わせていたクロー『スレイマン大帝とその時代』、367頁。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセリム2世 · 続きを見る »

セリフォス島

リフォス島(Σέριφος、Seriphus、Serifos)は、エーゲ海にあるギリシャの島。キクラデス諸島西部に位置し、キトノス島の南、シフノス島の北西にあたる。行政上はミロス県に所属する。面積75.207平方キロ、人口1420人(2011年国勢調査)。ピレウスから東南東へ約170キロ。 ギリシア神話では、「孫が汝を殺めるであろう」という神託を得た父アクリシオスが木箱に乗せて海に流した、ダナエーとペルセウスが漂着したのがセリフォス島である。ゴルゴーンのメドゥーサの首を取って島に戻ってきたペルセウスは、母ダナエーと力ずくで結婚しようとしていた、セリフォス王ポリュデクテースを罰として石に変えた。 古代には、鳴かないカエルの伝説で知られた。帝政ローマはこの島を流刑地とした。1204年に、群島のひとつとしてヴェネツィア共和国領となった。19世紀後半には、鉄鉱石の採掘でささやかな好景気を呈した。鉱山が1960年代に閉山してからは、観光業と小規模な農業が島の基幹産業となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセリフォス島 · 続きを見る »

セッテ・コムーニ

ッテ・コムーニ(Sette Comuni; チンブロ語: Siben Komoin)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県北東部にある地域。中心地はアジアーゴ。 地理的にはアジアーゴ高原と呼ばれる一帯である。周辺地域とは民族的にも文化的にも差異があり、かつてはドイツ語系の少数言語チンブロ語が住民の母語として話されていた。中世には都市同盟を結び、ミラノ公国やヴェネツィア共和国に従いつつ高度の自治を保っていた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセッテ・コムーニ · 続きを見る »

セニ

ニ(Senj,Segna,Zengg,Zeng,Senia)はクロアチア、リカ=セニ郡の都市及び基礎自治体で北アドリア海沿岸の都市では最も歴史が古い町である。カトリック教会のリエカ大司教管区下、ゴスピク・セニ(Gospic-Senj)教区に含まれる。セニでもっとも有名な記念物はセニ・ネハイ要塞(Senj Nehaj)である。現在ではアドリア沿岸の観光地となっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とセニ · 続きを見る »

ゼッキーノ

ッキーノ (Zecchino) は、ヴェネツィアの金貨でフィレンツェのフィオリーノと同じ重さである。1284年からヴェネツィア共和国で発行されていた。またドゥカートという名前でも知られていた。 フランチェスコ・ヴェニエル総督(1554年 – 1559年) により、当初一般的にゼッキーノと呼ばれた。この時期には7リラ12ソルドの価値があった。 分割された半ゼッキーノや4分の1ゼッキーノ、まとめられた2、3、10、12、100ゼッキーノなどが発行された 共和国の滅亡後は皇帝フランツ2世の名前でオーストリアから発行された。 表面にはドージェが聖マルコに跪いていて、裏面はキリストが描かれている。 ヴェネトのゼッキーノの金含有量は時代によってまちまちであったが、平均3.494から3.559グラムの重量で純金であった。(997‰) 17世紀の初めのヴェネツィアにおいて、10リラの価値の1ゼッキーノ銀貨(Zecchino d'argento)が鋳造された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とゼッキーノ · 続きを見る »

ソマリアの海事史

この記事では主にソマリア地域での、あるいはソマリ族による、海事の歴史を解説する。 昔から、アフリカの角に住むソマリ族は、交易で重要な役割を果たしていた。ソマリ族の船乗りと商人は、アフリカ各地で採れる乳香、没薬、香辛料などを、古代エジプト、フェニキア、ミケーネ、バビロンなどに輸出していた。古代ソマリアには、、などの都市国家があり、サバア、パルティア、アクスムなどと競っていた。中世にはスルターン国が誕生し、アラビア半島、 インド、ヴェネツィア、イラン、エジプト、ポルトガル、時には中国と交易した。この伝統は近世まで続いた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とソマリアの海事史 · 続きを見る »

ソマス・パレオロゴス

マス・パレオロゴス、1471年頃 ソマス・パレオロゴス (、ローマ字転写:Thomas Palaiologos、1409年-1465年5月12日)は東ローマ帝国地方統治官、モレアス専制公(在位:1428年 - 1460年)。マヌイル2世パレオロゴス帝と皇妃エレニ・パレオロギナ・ドラガシュの第6子(末子)。古典式慣例表記ではトーマース・パライオロゴス(トマス、トーマスとも)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とソマス・パレオロゴス · 続きを見る »

ソルド

ルド(イタリア語:Soldo)は、中世イタリアの硬貨である。12世紀後半にミラノで初めて神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によって発行された。 名前は、ローマ時代後期のソリドゥス金貨を由来とする。 発行後すぐにジェノバ、ボローニャ、および他の多くの都市で造られイタリアで広く普及した。 ヴェネツィアでは、フランチェスコ・ダンドロ統治時代に鋳造され、ヴェネツィア共和国が無くなった1797年からオーストリア占領下の1862年まで使用された。14世紀のフィレンツェでは、銀貨として発行され12ドゥニエ、1/20リラと等価であったが、急速に品位が低下し合金貨となり、17世紀には銅貨がほとんどとなった新・世界貨幣大事典 著者: 平木啓一 p628。 そして19世紀にオーストリアのクローネンターレル銀貨がヴェネツィアとミラノで発行され、6リラと等価となるとリラが主要な通貨基準となり、ソルドは名称だけの存在となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とソルド · 続きを見る »

ソウルキャリバーの登場人物

ウルキャリバーの登場人物(ソウルキャリバーのとうじょうじんぶつ)では、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)が開発・販売する対戦型格闘ゲーム『ソウルエッジ』および『ソウルキャリバー』とその続編からなるソウルシリーズに登場する架空の剣士について記述する。 各キャラクターのストーリーを理解する上での世界設定についてはソウルシリーズの世界設定を参照。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とソウルキャリバーの登場人物 · 続きを見る »

サチーレ

チーレ(Sacile)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県にある、人口約2万人の基礎自治体(コムーネ)。県内第二の人口を擁するコムーネである。 サチーレの街は、「セレニッシマ(ヴェネツィア共和国)の庭園(Giardino della Serenissima)」、「フリウーリの港(Porta del Friuli)」といった異称で知られる。リヴェンツァ川が流れる旧市街には、ヴェネツィア共和国時代からの多くの邸宅が立ち並ぶ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサチーレ · 続きを見る »

サモトラキ島

モトラキの紋章 サモトラキの港 サモトラキ島(Σαμοθράκη / Samothráki; Samothrace)は、エーゲ海北東部に位置するギリシャ領の島。行政上は東マケドニア=トラキア地方エヴロス県に含まれ、ギリシャ領トラキアの南端にあたる。サモトラケ島とも呼ばれ、「サモトラケのニケ」像の発掘地として知られる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサモトラキ島 · 続きを見る »

サルチェード (Sarcedo)

ルチェード(Sarcedo)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約5300人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサルチェード (Sarcedo) · 続きを見る »

サン・マルコ寺院

ン・マルコ寺院 サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) は、福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。 ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場 (Piazza San Marco) に面して建ち、ドージェ(総督)の館であるドゥカーレ宮殿 (Palazzo Ducale) に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。 1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来現在は「サン・マルコ大聖堂」と呼ばれるのが適切である。しかし長らく「司教座聖堂(大聖堂)ではなかった」点が特徴の一つでもあり、現在も歴史上の呼称に合わせた「寺院(ないしは聖堂)」の呼び名が一般的である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・マルコ寺院 · 続きを見る »

サン・マルコ共和国

サン・マルコ共和国(Repubblica di San Marco)は、1848年革命の際にイタリアのヴェネツィアを中心とするヴェネト地方に設立された共和国である。ヴェネツィア臨時政府とも。1797年まで存在したヴェネツィア共和国に対して第2共和国とも。 1848年当時、ヴェネト地方はオーストリア皇帝を王とするロンバルド=ヴェネト王国の一部であった。しかし、3月15日ウィーンで暴動が起き宰相メッテルニヒが失脚すると、オーストリアの圧力が弱まった。3月18日ミラノの暴動(ミラノの5日間)と時を同じくして3月17日に、ダニエーレ・マニンを主導者として蜂起。3月23日にはマニンを大統領とする共和国となった。 1848年革命で出来た共和国の中では長命を保ったが、1849年8月末にはマニンは降伏し、1866年のイタリア併合までこの地域はオーストリア領になった。 Category:イタリアに存在した国 Category:ヴェネツィアの歴史 Category:かつて存在した共和国 Category:1848年革命 Category:ロンバルド=ヴェネト王国 Category:1848年に成立した国家・領域 Category:1849年に廃止された国家・領域.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・マルコ共和国 · 続きを見る »

サン・ピエール・ディゾンツォ

ン・ピエール・ディゾンツォ(San Pier d'Isonzo)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約2000人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・ピエール・ディゾンツォ · 続きを見る »

サン・ザッカリーア教会

ン・ザッカリーア教会(Chiesa di San Zaccaria Venezia)はイタリアのヴェネツィア内のサン・ザッカリーア地区にあるベネディクト派の教会である。洗礼者ヨハネの父と言われるザカリアに捧げれ建設された。またザカリアと言い伝わる遺骸が教会内の右側の祭壇に下に収められている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・ザッカリーア教会 · 続きを見る »

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア)

ン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(Basilica di San Giorgio Maggiore)はイタリアのヴェネツィアにあるベネディクト会の教会である。現在の建物はアンドレーア・パッラーディオにより設計され1566年から1610年にかけ同名の島に建設された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア) · 続きを見る »

サン・ジョルジョ銀行

ン・ジョルジョ銀行(イタリア語:Banco di San Giorgio, 英語:Bank of Saint George)はヨーロッパ最古の認可された銀行である。1148年に創立され、ジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けた。教会大分裂時代の1407年にフランスの干渉を受けて社名を変更している。預金供託金庫のモデルとなった。 ジェノヴァに対する同行の支配権は「ヴェネツィア人よりも記憶に値する共和国」の創造を可能にするとニッコロ・マキャヴェッリが称えている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・ジョルジョ銀行 · 続きを見る »

サン・セルヴォーロ島

ン・セルヴォーロ島(San Servolo)は、イタリア・ヴェネツィア潟に位置する島。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサン・セルヴォーロ島 · 続きを見る »

サントリーニ島

ントリーニ島(Σαντορίνη / Santorini) もしくは ティーラ島(Θήρα / Thira)は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形(サントリーニ・カルデラ)の一部で、その外輪山にあたる。「サントリーニ島」の名はカルデラ全体、すなわち本島を含めた5つの島々(サントリーニ諸島)の総称としても用いられる。 カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られており、エーゲ海の著名な観光地の1つである。一方で、サントリーニ・カルデラ内では現在も活発な火山活動がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサントリーニ島 · 続きを見る »

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂

ンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂 サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂(Santi Giovanni e Paolo, Venice)は、イタリアのヴェネツィアにあるドミニコ会の聖堂である。ヴェネツィア共和国歴代元首(ドージェ)の葬式などを執り行うなど(25人の元首がこの聖堂内に埋葬されている)、ヴェネツィア内でも大きな聖堂の1つである.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂 · 続きを見る »

サヴォイア十字軍

ヴォイア十字軍は、に先立つ幾つかの計画を、1366年から1367年にかけて実現したものである。この十字軍は東欧のオスマン帝国に対するものであり、ローマ教皇ウルバヌス6世 が発案してサヴォイア伯が指揮を執った。本来はハンガリー王国と東ローマ帝国と共闘して行うはずであったが、十字軍は攻撃の対象を第二次ブルガリア帝国に変えた。東ローマ帝国に譲渡されるべき同地での戦果はわずかなものであった。また、ガリポリ付近のオスマン帝国に対する戦果もわずかであった。 オスマンに比べてブルガリアにはあまり多大な注意を払っていなかったことから、歴史家のは「この遠征は十字軍と同類のものではなくて突飛な行動に近い」と論じている。その一方でによれば、十字軍によるガリポリ占領は「キリスト教徒 によるヨーロッパを守るための闘争において最初に達成された成功であり、それと同時に14世紀全体を通してトルコに対する最後の偉大な勝利である」。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサヴォイア十字軍 · 続きを見る »

サフィエ・スルタン

ーフィエ・スルタン(Sâfiye Sultan, 1550年 - 1618年)は、ムラト3世の妃で、メフメト3世の母である。本名はソフィア・バッフォ(Sofia Baffo)。ムラト3世の生母であるヌール・バヌの親戚にあたる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とサフィエ・スルタン · 続きを見る »

公(こう)とは、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。 この項目では中国に限らず、「公」に相当する日本やヨーロッパにおける称号、爵位、尊称などについても述べる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と公 · 続きを見る »

共和主義

共和主義(きょうわしゅぎ、Republicanism)とは、政治思想の一つ。共和国・共和制といった政体の構成原理である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と共和主義 · 続きを見る »

共和制

共和政(きょうわせい、republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体で、政体のとる制度を共和制(きょうわせい、republic)という 。現代の一般的な定義では、「君主ではない元首を持っている政体」「君主制ではない政体」である。 共和制では政府の大半の意思決定が元首の裁量によらず制定法を参照して行われることから、現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多い。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と共和制 · 続きを見る »

元老院

フォロ・ロマーノに復元されたローマ時代の元老院議事堂「クリア・ユリア」 元老院(げんろういん、senatus)は、王政ローマにおける王の助言機関、また、後の共和政ローマにおける統治機関、更に、後のローマ帝国皇帝の諮問機関を指す語である。また現在では、多くの国が上院の呼称に用いる語でもある。senatusに由来する名称の機関は必ずしも「元老院」と訳されるわけではないが、本項では便宜上「元老院」と表記する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と元老院 · 続きを見る »

国民国家

『民衆を導く自由の女神』(ウジェーヌ・ドラクロワ画) 国民国家(こくみんこっか、Nation-state、État-nation、Nationalstaat)とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、単一の民族がそのまま主権国家として成立する国家概念やそれを成り立たせるイデオロギーをも指している。 近代国家の典型の1つとされることも多い。英語では、"Nation-state" は「一民族により構成される国家」の意で用いられることが多く、この意味からは「単一民族国家」が原意に近い。stateとnationについては、しばしば "The state is a political and geopolitical entity; the nation is a cultural and/or ethnic entity."(「stateは政治的あるいは地政学的なもの、nationは文化的あるいはまた民族的なものである。」)と説明される。 ヨーロッパは一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、その先進国とされるのがイギリス、フランスであった坂井(2003)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と国民国家 · 続きを見る »

知的財産権

知的財産権(ちてきざいさんけん、英語:intellectual property rights)とは、著作物(著作権)や工業所有権などといった無体物について、その著作者などが、それに対する複製など多くの行為に関して(無体物であるにもかかわらず、あたかも有体物として財産としている、あるいは所有しているが如く)専有することができるという権利である。。 その性質から、「知的創作物(産業上の創作・文化的な創作・生物資源における創作)」と「営業上の標識(商標・商号等の識別情報・イメージ等を含む商品形態)」および、「それ以外の営業上・技術上のノウハウなど、有用な情報」の3種類に大別される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と知的財産権 · 続きを見る »

王者栄耀

『王者栄耀』(おうしゃえいよう)は、2015年11月26日にリリースされた、騰訊・天美スタジオ開発のチームストラテジーゲーム。提供はテンセントゲームズ。マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)型の基本プレイ無料のスマホゲームである。ダウンロード数は2億突破と発表された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と王者栄耀 · 続きを見る »

砂糖

糖の結晶 砂糖(さとう、sugar)は、甘みを持つ調味料(甘味料)である。物質としては糖の結晶で、一般に多用されるいわゆる白砂糖の主な成分はスクロース(ショ糖)である。サトウキビやテンサイなどを原料としてつくられる。 砂糖の歴史は古く、その発明は2500年前と考えられている。インドからイスラム圏とヨーロッパへ順に伝播してゆき、植民地に開拓されたプランテーションでは奴隷を労働力として生産された。19世紀末にはそれまでの高級品ではなく一般に普及する食品となったが、20世紀を通じてグローバルな生産調整が行われた。欧州で1968年から行われてきた砂糖クオータ制度は2017年9月末をもって廃止された。 世界保健機関(WHO)は2003年の報告で、砂糖摂取量は総カロリー対して10%以下となるよう推奨したが、2014年には証拠の蓄積により新たに5%以下にすることの利点を追加した。2016年にWHOは清涼飲料水への課税を促し、肥満、2型糖尿病、虫歯を減らせた。各国は肥満税やガイドラインを作成し、砂糖消費の削減を狙ってきた。 搾りかすなどの副生成物の年間排出量は、世界中で約1億トン以上で、製糖工場自身の燃料として利用されるだけでなく、石灰分を多く含むため、製鉄、化学工業、大気汚染防止のための排煙脱硫材、上下水の浄化、河川海域の水質底質の改善、農業用の土壌改良材 など様々な利用がされている。また搾りかすの一部は、堆肥として農地に還元されるほか、キクラゲの菌床栽培の培地原料としても利用される。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と砂糖 · 続きを見る »

社会契約論

『社会契約論』(しゃかいけいやくろん、Du Contrat Social ou Principes du droit politique, 社会契約について、もしくは政治的権利の原理)は、思想家ジャン=ジャック・ルソーによって執筆され、1762年にフランスで公刊された政治哲学の著作である。古くは『民約論』とも訳した。「一般意志」というルソーの造語を世に送り出した書として有名である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と社会契約論 · 続きを見る »

神聖同盟 (1511年)

聖同盟(しんせいどうめい、Lega Santa、Die Heilige Liga)は、ローマ教皇ユリウス2世が主導し、1511年に教皇国家の強化と、特にフランス王ルイ12世の膨張策に対するイタリア諸国の防衛のためにヨーロッパ諸国が結成した同盟である。 教皇側には、イングランド、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国が同調した。 同盟は1512年にラヴェンナの戦いで壊滅的な敗北を喫し、ただちに仲間同士の不和を利用し、当初はイタリアでのフランス軍に優勢だった。 ヴェネツィアは1512年にルイ12世の側に寝返り、1515年のマリニャーノの戦いにおけるフランスの勝利で同盟はイタリア南部のフランスの主導権を認めつつ降伏を余儀なくされた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と神聖同盟 (1511年) · 続きを見る »

神聖同盟 (1684年)

聖同盟(しんせいどうめい、Sacra Ligua、Lega Santa、Die Heilige Liga、Holy League)は、大トルコ戦争中の1684年、オスマン帝国に対抗するためにローマ教皇インノケンティウス11世主導のもとに神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国が結成した同盟。1686年にはロシア・ツァーリ国も加わった。1699年のカルロヴィッツ条約で大トルコ戦争は終結し、それに伴って同盟は解消された。 同盟結成にあたって、インノケンティウス11世はカプチン・フランシスコ修道会出身のの助力を借り、ダヴィアーノはウィーンの守備で大きな役割を果たした。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と神聖同盟 (1684年) · 続きを見る »

神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と神聖ローマ帝国 · 続きを見る »

移乗攻撃

en)。 移乗攻撃(いじょうこうげき)とは、自軍の艦船から敵の艦船に対し、戦闘員を乗り移らせて攻撃する海戦術である。切り込み(きりこみ)やアボルダージュ()とも呼び、特に敵艦に接舷して直接に乗り移る方式を指して接舷攻撃(せつげんこうげき)とも呼ぶ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と移乗攻撃 · 続きを見る »

立憲主義

立憲主義(りっけんしゅぎ、Constitutionalism)とは、政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方。「憲法に立脚する」という意味合いである。なお、立憲主義を前提とした民主主義を立憲民主主義と呼ぶ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と立憲主義 · 続きを見る »

第1回十字軍

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 – 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第1回十字軍 · 続きを見る »

第31回世界遺産委員会

会場となったクライストチャーチ・コンベンション・センター 第31回世界遺産委員会(だい31かいせかいいさんいいんかい)は、2007年6月23日から7月2日の間、ニュージーランド、クライストチャーチのコンベンション・センターで開催された。オセアニアでの開催はシドニーで開催された第5回(1981年)、ケアンズで開催された第24回(2000年)に続き3度目であり、ニュージーランドでの開催は初である。開会式ではマオリの伝統儀式なども披露された。 文化遺産16件、自然遺産5件、複合遺産1件の計22件が新規に登録された一方、1件が削除された結果、世界遺産リスト登録物件の総数は851件となった。世界遺産リストから物件が削除されたのは、この第31回世界遺産委員会が最初である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第31回世界遺産委員会 · 続きを見る »

第41回世界遺産委員会

41回世界遺産委員会(だい41かいせかいいさんいいんかい)は、2017年7月2日から7月12日の間、ポーランドのクラクフで開催された。ヨーロッパでの世界遺産委員会開催は過去に何度もあるが、ポーランドでの開催は初である。クラクフはその歴史地区がいわゆる世界遺産第1号の一つとなった都市であり、この会議は2014年竣工ので開催される。文化遺産18件、自然遺産3件、複合遺産0件の計21件が登録された結果、世界遺産リスト登録物件の総数は1,073件となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第41回世界遺産委員会 · 続きを見る »

第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第4回十字軍 · 続きを見る »

第三次イタリア戦争

三次イタリア戦争、または四年戦争(Four Years' War)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とその同盟国ヴェネツィア共和国が神聖ローマ皇帝カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇国家と戦い、最終的には敗北した。この戦争は、カール5世が1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたことと、ローマ教皇レオ10世がマルティン・ルターに対抗するためにカール5世と同盟したことに起因する。 1521年、フランス軍がナバラ王国とネーデルラントに侵攻したことで戦争が勃発。ピレネー山脈を越えて進軍してきたフランス軍はスペイン軍に撃退され、神聖ローマ帝国軍はフランス北部に逆侵攻したがそこで足止めされた。 教皇、皇帝、そしてヘンリー8世はすぐさまに対フランス同盟を結成、イタリア半島での戦いを再開させたが、フランソワ1世とカール5世は主戦場をフランス北東部とみなしたため、イタリアでの戦いはほとんど重きをなさなかった。1522年4月27日ので皇帝軍と教皇軍がフランス軍に勝利したことで、フランスはロンバルディアから追い出された。戦場が再びフランス本土に移動した一方、ヴェネツィアはドージェが交代したため単独講和した。イングランドは1523年にフランスを攻撃、同年相続権争いでフランソワ1世を見限ったブルボン公シャルル3世がフランソワ1世を裏切り皇帝と同盟した。フランスは翌年ロンバルディアを再度侵攻したがまたもや失敗、ブルボン公にスペイン軍を率いてプロヴァンスに侵攻する機会を与えた。 ここにきてフランソワ1世は親征を決行、1525年にミラノを攻撃した。しかし、パヴィアの戦いで大敗して捕虜になったことで戦争は終結を迎えた。フランスは講和を模索しなければならなかったが、フランソワはスペインで囚われていたため、彼の母ルイーズ・ド・サヴォワが外交を主導した。彼女はオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節団を派遣、スレイマン1世に神聖ローマ帝国への最後通牒を出させた。これは後のの素地となった。スレイマン1世はこの機会に乗じて1526年の夏にハンガリー王国を侵攻、モハーチの戦いでカール5世の同盟者ラヨシュ2世を戦死させた。こうした外交努力と背後からの一撃にもかかわらず、フランソワ1世はマドリード条約への署名を余儀なくされ、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄した。しかし、フランソワ1世は解放されるや条約の履行を拒否して戦争を再開した。マドリード条約以降の戦いはコニャック同盟戦争と呼ばれる。 イタリア戦争はこの後30年間続くが、最終的にはフランスのイタリア占領の野望は潰えることになる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第三次イタリア戦争 · 続きを見る »

第一次イタリア戦争

一次イタリア戦争(だいいちじイタリアせんそう)は、ローディの和によって五大国時代を迎えていた近世イタリアにおいて、イタリア半島の掌握を目指して行われたフランス王シャルル8世による軍事侵攻を指す。 中央集権によって大国化に成功したフランスは2万名以上の大軍を動員して有利に戦ったが、イタリア諸侯の激しい抵抗が始まると次第に苦戦を強いられた。最終的に神聖ローマ帝国・スペイン王国の援助を受けたイタリア諸侯軍によってフランス軍は撃退され、シャルル8世は本国に逃げ帰った。シャルル8世の目論みは失敗したが、以降イタリア諸侯の支配権を巡る戦い(イタリア戦争)が継続する事になる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第一次イタリア戦争 · 続きを見る »

第二次ブルガリア帝国

二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第二次ブルガリア帝国 · 続きを見る »

第二次イタリア戦争

二次イタリア戦争(だいにじイタリアせんそう)は、1499年から1504年に起きた戦争で、第一次イタリア戦争に失敗したフランス王国による2度目の遠征を指す。歴史家はしばしばルイ12世のイタリア戦争、あるいはナポリ継承戦争と呼んでいる。 先の第一次イタリア戦争で敗北し、ナポリ王位簒奪に失敗したままにシャルル8世が死没すると、ルイ12世が新たな国王となった。彼は祖母ヴァランティーヌ・ヴィスコンティを通じてミラノ公国を支配するヴィスコンティ家の女系縁者であり、先王よりもイタリアに縁を持つ人物であった。先王の失敗を反省材料としてルイ12世は大国カスティーリャ・アラゴンやヴェネツィア共和国と同盟を結び、外交情勢を整えつつ王位請求を再開した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第二次イタリア戦争 · 続きを見る »

第二次ウィーン包囲

二次ウィーン包囲(だいにじウィーンほうい)は、1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第二次ウィーン包囲 · 続きを見る »

第六次イタリア戦争

六次イタリア戦争(ハプスブルク・ヴァロワ戦争、最後のイタリア戦争とも、1551年 - 1559年)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世の後を継いだアンリ2世が1551年に神聖ローマ皇帝カール5世に宣戦したことで始まった。アンリ2世はイタリアの再征服およびフランスのヨーロッパにおける権威の確立を目論んだが、最終的には失敗した。軍事的には火薬の重要性、砲撃によく防御できる築城法、兵士の専業化(傭兵の減退)などが明らかになった戦いである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と第六次イタリア戦争 · 続きを見る »

笑い死に

笑い死に(わらいじに)は、笑うことが原因となって死ぬこと。その事例は、古代ギリシア以来、記録に残されている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と笑い死に · 続きを見る »

紅ルーシ

紅ルーシ(ウクライナ語:Червона Русь;ポーランド語:Ruś Czerwona;ラテン語:Ruthenia Rubra)は、ウクライナ西部の歴史的地名である。西欧の文献におけるガリツィア地方の別称、あるいは旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域を指す概念である。主な市町はリヴィウ、ハールィチ、ベルズ、ホルム、ペレームィシュリ。赤ルーシとも。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と紅ルーシ · 続きを見る »

絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と絹 · 続きを見る »

産業化以前の装甲艦

装甲艦 とは厚い金属板により装甲がほどこされた木製の、または鉄骨に木板張りなど数種の材料で作られた軍艦である。1854年にフランスにおいて世界初の航洋装甲艦ラ・グロワールが建造される以前から、ヨーロッパにおいては船を建造する際衝角として利用するために金属製の船骨を用いており、また金属板張りの軍船についての記述も存在する。それらのなかには艦砲が装備されているものもあった。東アジア においては16世紀から艦砲を持ち金属の装甲が施された軍船についての記録がある。 しかしながら同時代の資料が不十分であることもあり、ヨーロッパと極東のどちらの例においても本当に鉄の装甲を持つ船が存在したかについては不明瞭で、異説が多いことには留意しなければならない。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と産業化以前の装甲艦 · 続きを見る »

特許

特許(とっきょ、Patent)とは、法令の定める手続により、国が発明者またはその承継人に対し、特許権を付与する行政行為である国家(または君主)が法人または個人に対して特権を付与する特許状(charter)とは意味が異なる。特許と特許状の意味の違いに注意。吉藤幸朔著、熊谷健一補訂『特許法概説第13版』。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と特許 · 続きを見る »

独立主張のある地域一覧

立主張のある地域一覧(どくりつしゅちょうのあるちいきいちらん)とは、ある地域において公に独立を主張する勢力がある地域の一覧である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と独立主張のある地域一覧 · 続きを見る »

白ワイン

白ワインもしくは白葡萄酒は、麦わら色、黄緑色、または黄金色を持つワインである。これは、任意の色の皮のブドウを用い、皮を取り除いた非着色の果肉パルプ成分のアルコール発酵によって製造される。白ワインは少なくとも2500年前から存在している。 白ワインのバラエティの広さは、多種多様な品種、ワイン醸造の方法、および糖の残量の割合などの多さに由来する。白ワインは、主にシャルドネ、ソーヴィニヨン、リースリングなど、緑色または黄色の白ブドウから作られる。一部の白ワインは、得られた果汁が染色されていなければ、有色の皮のブドウからも作られる。例えば、ピノ・ノワールはシャンパンの製造に一般的に使用されている。 多くの種類の白ワインの中で、ドライの白ワインが最も一般的である。多かれ少なかれ芳香と刺激臭を合わせ持っており、これは果汁の完全発酵に由来する。一方、スウィートワインは、全てのブドウ糖がアルコールに変換される前に発酵を中断することによって生産される。これはミュタージュ (Mutage)または酒精 (アルコール)強化と呼ばれている。糖類で果汁を豊かにする方法には、ブドウの熟成、パスリヤージュ (ろ過)、または貴腐の利用がある。ほとんどが白であるスパークリングワインは、発酵で生じた炭酸ガスがワインに溶けており、ボトルを開けると炭酸ガスが発泡するワインである。 白ワインは、食事の前のアペリティフやデザートと共にディジェスティフとして、あるいは食事の間の飲み物、食中酒 (テーブルワイン)として頻繁に使用されている。白ワインはしばしば対照となるほとんどの赤ワインよりもスタイル、味ともに、爽やかで軽いと見なされている。加えて、その酸度、アロマ、肉を柔らかくする能力に長け、 (肉類の出汁にワインを加えてソースを作る調理法)の目的で、調理の際によく使われる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と白ワイン · 続きを見る »

百年戦争

年戦争(ひゃくねんせんそう、Hundred Years' War、Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争である。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドはヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と百年戦争 · 続きを見る »

銀行

銀行(ぎんこう、bank)とは、概ね、預金の受入れと資金の貸出し(融資)を併せて行う業者として、各国において「銀行」として規制に服する金融機関を指すが、その範囲は国によって大きく異なる。為替取引を行うことができ、銀行券の発行を行うこともある。広義には、中央銀行、特殊銀行などの政策金融機関、預貯金取扱金融機関などの総称である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と銀行 · 続きを見る »

Europa Universalis

Europa Universalis(ヨーロッパ・ユニバーサリス、EU)は、スウェーデンのゲーム会社パラドックスインタラクティブが発売している歴史シミュレーションゲームシリーズ。15世紀から19世紀初頭を舞台とする。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とEuropa Universalis · 続きを見る »

音楽学校

音楽学校(おんがくがっこう、music school, conservatory、école de musique, conservatoire)は、演奏・音楽理論・作曲・音楽教育・音楽学など、音楽を教育・研究するための機関である。 古くは4世紀の聖歌学校スコラ・カントルム(:it:Schola cantorum)を源流とする。近代的な音楽学校の元祖は、1364年ヴェネツィア共和国に設立された孤児院ピエタ院での音楽教育とされる。1795年、パリに音楽院(Conservatoire de musique、現在のパリ国立高等音楽・舞踊学校)が設立され、出身階級などの条件によらず入学できる音楽学校が初めて現れることとなった。19世紀欧米各地で著名な音楽院・音楽学校が創設され、日本では1877年に東京音楽学校が発足した。第二次世界大戦後、音楽大学・音楽学科・大学院音楽研究科などの形態の音楽教育機関が増加した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と音楽学校 · 続きを見る »

過去に独立していた国の旗一覧

過去に独立していた国の旗一覧(かこにどくりつしていたくにのはたいちらん)では、過去に独立していた(事実上を含む)国の旗を掲載している。現在独立運動で、あるいはその地域の当局により使用されている旗もある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と過去に独立していた国の旗一覧 · 続きを見る »

聖十字架

聖十字架(せいじゅうじか)は、聖遺物のうち、イエス・キリストの磔刑に使われたとされる十字架。 その断片は各地の正教会をはじめとした東方教会とカトリック教会に祭られ、他の聖遺物とともに信仰の対象となっている。 中世の伝説には、エデンの園の命の木(『創世記』2:9, 4:22)で作られているというものもある。 エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。このため、30年ごろの出来事とされるイエス・キリストの磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。 伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナ(聖ヘレナ)が326年にエルサレムを訪れ、当時はウェヌス神殿となっていた地をゴルゴタと特定した。これを取り壊し、建てられたのが現在の聖墳墓教会である。 このとき十字架3つと聖釘などの聖遺物も発見されたという。 3つの十字架のうちのひとつに触れた女性の病が癒されたので、これがキリストが磔にされた聖十字架と分かった。 ヘレナは聖十字架の一部をエルサレムに残し、他の一部と聖釘をコンスタンティノポリスに持ち帰った。 エルサレムの聖十字架は聖墳墓教会に置かれていたが、ヘラクレイオス帝の時代の614年にサーサーン朝ペルシアに奪われた。 ヘラクレイオスの東ローマ帝国はニネヴェの戦い (627年)でサーサーン朝軍を破ると628年にこれを取り戻しコンスタンティノポリスに持ち帰ったが、後にエルサレムに戻された、1009年ごろからはエルサレムのキリスト教信者たちの手で隠されていた。 1099年に第1回十字軍が発見したとき、黄金の十字架にその木片が埋め込まれていた。 戦のたびにこの聖十字架は戦陣に持ち込まれたが、1187年のハッティンの戦いで奪われ、失われた。 早い時期から聖十字架は分割され、あちこちに置かれたらしい。 また1204年に、フランスの諸侯とヴェネツィア共和国が主体の第4回十字軍が東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリスを占領した。 このとき十字軍は、他の財宝とともに、金や宝石で飾られた聖十字架の断片を奪い、持ち帰っている。 その他聖十字架の破片であると主張される木片は多いが、総計すると十字架数十本分に当たり、ゆえにほとんどがまがい物であり、そもそも“キリストが磔にされた十字架”の存在・再発見の真実性まで辿り考えることとなる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と聖十字架 · 続きを見る »

聖マルコと聖テオドーロの円柱

聖マルコと聖テオドーロの円柱(Colonne di San Marco e San Todaro)は、イタリア ヴェネツィアのサン・マルコ広場の小広場に、カナル・グランデに面して立っている2本の円柱のことである。 または、かつてヴェネツィア共和国の影響下にあった都市に立てられた、同国の象徴としての円柱のことを指す場合もある。 それぞれ頂上には聖マルコを象徴する「有翼の獅子」像と、「」像がある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と聖マルコと聖テオドーロの円柱 · 続きを見る »

聖パンテレイモン修道院 (オフリド)

聖パンテレイモン修道院 (せいぱんてれいもんしゅうどういん、マケドニア語:Свети Пантелеjмон(スヴェーティ・パンテレイモン、発音: );ギリシャ語:Άγιος Παντελεήμων)はマケドニア共和国オフリド、に所在する修道院である。聖クリメントにより建造され、教育の中心として大きな役割を果たした。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と聖パンテレイモン修道院 (オフリド) · 続きを見る »

聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂

聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂(せい - だいせいどう、Chiesa di San Giorgio dei Greci, Άγιος Γεώργιος των Ελλήνων)は、ヴェネツィアのカステッロ地区にある正教会の大聖堂。コンスタンディヌーポリ総主教庁に所属している。 建設にはヴェネツィア軍に仕えていたギリシャ人兵士達と、ヴェネツィアに住んでいたギリシャ人知識人層が主な担い手となった。1539年に着工、1573年竣工。1797年にナポレオンによってヴェネツィア共和国が解体された際には、教会の所有物がナポレオン軍によって没収されるなどの被害を受けたが、正教徒のコミュニティが消滅するまでには至らなかった。 1991年、コンスタンディヌーポリ総主教庁はイタリア大主教区と南欧エクザルフ区を設置。聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂はこの新大主教区において府主教座聖堂に格上げされ、ヴェネツィアのみならず全イタリアの正教会にとって重要な教会として位置付けられている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂 · 続きを見る »

菓子

曖昧さ回避 おかしは、この項目に転送されています。平安時代の文学における美的理念の一つについては「をかし」をご覧下さい。 チョコレート菓子 抹茶羊羹 ショートケーキ 加工された菓子 菓子(かし)は、甘味や塩味などの味覚を強調し、あるいは食感などの触覚を工夫し、各種の匂いで嗅覚などの食味感覚の嗜好品として製造、調理された食品。一般に、穀類の粉を練り焼くあるいは蒸すなどしたビスケットや饅頭、糖質を主体としたキャンディやチョコレート類、アイスクリームなどの冷凍菓子などを総合し、菓子と分類されている。 近代になり、冷凍冷蔵技術の向上と大量生産を可能にする工業化が進んだことで、菓子の種類と生産量は飛躍的に増えた。これにより菓子製造販売は、旧来の職人が手作りして専門菓子店(和菓子店・洋菓子店・煎餅店等)で小売りするといった形態の他、工場生産された包装済みの菓子が小売店(スーパーマーケットやドラッグストア等)で販売されるという形態が定着した。主に品質が均一で安価な商品は工場で生産し、手間のかかる高品質な物や流通の困難な商品は専門菓子店が製造するといった棲み分けが定着されてきている。 なお、日本では食品衛生法および乳等省令により、アイスクリームなどは一般食品である菓子ではなく、乳製品として分類されている。また、果実を乾燥させたり砂糖漬けにしたものや、焼き芋や煎り豆などに代表される農産物を単純に加工したものは菓子製造と見なされない場合が多いが、一方でポテトチップやポップコーンに関してはスナック菓子として扱われている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と菓子 · 続きを見る »

鐘楼 (サンマルコ広場)

ン・マルコの鐘楼(伊: Campanile di San Marco)はヴェネツィアのサン・マルコ広場にある鐘楼。日本では単に「鐘楼」もしくは「ヴェネツィアの鐘楼」といわれることが多い。ヴェネツィアにある観光名所の中でも特に有名であり街のシンボルとされている。 高さは98.6mあり、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っている。下半分はシンプルなレンガ造りになっており、その上部にアーチ型の鐘架があり中に5つの鐘がある。鐘架の上にはヴェネツィアを象徴する歩行中のライオンと女性の形が象ってあるレンガ造りの壁があり、さらのその上にピラミッド型の尖塔が乗っている。この尖塔の頂上にある金色の像は大天使ガブリエルを模したものである。鐘楼は1514年に現在の形で完成しているが、1902年に崩壊したため現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建されたものである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と鐘楼 (サンマルコ広場) · 続きを見る »

香辛料

インド食材輸入会社の倉庫のスパイス類 香辛料(こうしんりょう、spices スパイス)とは調味料の一種で、植物から採取され、調理の際に香りや辛味、色をだしたり、臭みを消すものの総称である。食事をおいしくしたり、食欲を増進させたりする。香料として食品に添加されるものも多数ある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と香辛料 · 続きを見る »

香辛料貿易

香辛料貿易(こうしんりょうぼうえき)は、香辛料、香、ハーブ、薬物及びアヘンなどを対象とした、古くから行われていた貿易(交易)のことである。アジア圏は古代から香辛料貿易に関わり、古代ギリシャ・ローマとも、ローマ-インドルートと香の道(Incense Route)を通して取引を行ったFage 1975: 164。ローマ-インドルートはアクスム王国(BC5世紀-AD11世紀)が1世紀以前に開拓した紅海航路を用いるなど海洋国家に依存した。7世紀中頃、発達したイスラム圏がエジプトとスエズを結ぶ隊商路を遮断してしまうと、アクスム王国(及びインド)は、ヨーロッパ貿易圏から離れてしまった。 アラブの貿易商は、レバント地方とヴェネツィアの商人を通してヨーロッパと取引を続けた。当初は、陸上ルートが香辛料貿易の主要なルートであったが、これは海上ルートによる商業活動の急激な成長にも繋がった。中世中期から終わりにかけて、香辛料貿易においてイスラムの貿易商達がインド洋航路を支配し、極東の資源地開発を行った。彼らはインド洋航路を通して、インドの貿易市場から、ヨーロッパへの陸上ルートに繋がるペルシア湾や紅海に向かって香辛料を輸送した。このようにアラブの貿易商達が香辛料貿易を支配したが、1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼし、地中海の制海権を得ると、これらを通る交易路に高い関税をかけたため、アラブ商人主導の貿易は衰退していく。 大航海時代に入ると貿易は一変する。香辛料貿易(特にコショウ)は、大航海時代を通してヨーロッパの貿易商たちの主要な活動となったCorn & Glasserman 1999: Prologue。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由によるヨーロッパ-インド洋航路を発見し、新しい通商航路を開拓すると、ヨーロッパ人が直接インド洋始め東洋に乗り込んでいった。特にポルトガルはいわゆるポルトガル海上帝国を築き、当時の交易体制を主導した。 この大航海時代の貿易(中世の終わりから近世にかけての世界経済)は、東洋におけるヨーロッパ優位の時代を作った。国家は貿易の支配を目指して香辛料交易路を巡って戦ったが、それは例えばベンガル湾航路のように、様々な文化の交流、あるいは文化間の貿易取引を橋渡しする役割も持った。だが、ヨーロッパ支配地は発展するのが遅れた。ポルトガルは、自身の影響下にあった古代のルートや港湾、支配の難しい国を用いる交易路に制限や限定を行った。オランダは、(時間はかかるが)インドネシアのスンダ海峡と喜望峰を直接結ぶ遠洋航路を開拓してポルトガルの支配する海域を避け、これら多くの問題を回避した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と香辛料貿易 · 続きを見る »

貨幣史

貨幣史(かへいし)は貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の研究を指す。関連する学術分野としては、貨幣とその形態を研究する貨幣学の他に、経済史をはじめとする歴史学や考古学、文化と貨幣の関わりも研究する文化人類学などがある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と貨幣史 · 続きを見る »

貿易史

貿易史(ぼうえきし)は、歴史上に存在した貿易や貿易制度の歴史である。日本語の貿易は国家間の取引を指し、国際貿易という表現が用いられる場合もある。交易という語は、国内と国外の双方に用いられる。本記事では、これらの歴史について記述する。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と貿易史 · 続きを見る »

軍艦旗

1900年(明治33年)当時の列強の海軍旗。 軍艦旗(ぐんかんき、(Naval) Ensign)とは、軍隊(主に海軍)に所属する艦船であることを表章する為に掲揚する旗章である。軍艦旗を掲げる船舶は、戦時国際法や国際慣習法にある軍艦としての特権を受ける。陸軍や空軍などにおける軍旗(連隊旗)に相当するが、国際慣習法上の扱いや位置付けは異なる。軍艦旗は戦闘時には戦闘旗(War flag)として用いられる場合もある。 また、軍艦旗とは別に、船の国籍を示す際に艦首部分に掲げる国籍旗(艦首旗とも、(Naval) Jack)が個別に定められている国があれば、軍艦旗のみを定めている国や、国籍旗のみを定めている国もあり、各国で異なっている。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と軍艦旗 · 続きを見る »

黒軍 (ハンガリー)

黒軍の旗 黒軍(ハンガリー語:Fekete sereg、発音すると 「黒き軍団(ないしは連隊)」)は、ハンガリー国王マーチャーシュ・コルヴィヌスに仕えた軍隊に与えられた歴史上における共通の名称である。その祖先である初期傭兵軍の中核はマーチャーシュの父であるフニャディ・ヤーノシュの時代である1440年代初頭に出現している。 ハンガリーにおける黒軍の年代は伝統的に1458年から1490年までを含む。黒軍の人間は全期間にわたって金で雇われた傭兵と同じように戦い、純粋に戦場の芸術に身を捧げた。この時代のほとんどのヨーロッパの傭兵は危機の時期に一般の住民から徴兵され、兵士は一年のほとんどをパン屋、農民、煉瓦職人、その他として働いた。黒軍はこの時代に設置された傭兵の中では非常に巨大なものであり、彼等は オーストリア・ウィーン (1485年)、モルダヴィアの一部を占領した。 軍の中核は、元来は8千から1万人の傭兵であり、後には持続的に3万人の規模に膨れ上がれ、侵略期間はその2倍となった。兵士達は主にボヘミア人、ドイツ人、セルビア人、ドイツ人であり、1480年以降はハンガリー人であった。黒軍の各5番目の兵士は歩兵部隊の中で火縄銃を有していたが、この比率は当時では尋常ではなかった。中世の銃器は高価であったため銃兵をそれ以上増加させることは不可能であった。軍隊の主力は歩兵、砲兵、重騎兵であった。重騎兵の機能は輝く甲冑を身にまとった歩兵と砲兵を守備することであり、その一方で他の部隊は 適当に配置され、敵軍を強襲することで驚かせた。黒軍の重要な勝利の一つにハンガリーがオスマン帝国を撃破したブリードフィールドの戦いがある。マーチャーシュ・コルヴィヌスの死は黒軍の終焉を意味していた。次の国王ウラースロー2世は黒軍を維持する費用を許可しなかったからである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と黒軍 (ハンガリー) · 続きを見る »

黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と黒海 · 続きを見る »

黄金のバラ

金のバラとは金の装飾品であり、カトリック教会の教皇が伝統的に祝福するものである。黄金のバラは時折、敬意や愛情の証として贈られる。受領者には教会や聖地、王族や軍隊、政府も含まれてきた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と黄金のバラ · 続きを見る »

黄金の自由

金の自由(おうごんのじゆう、ラテン語:Aurea Libertas アウレア・リベルタス、ポーランド語:Złota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族共和国または貴族民主主義とは、ポーランド王国およびルブリン合同(1569年)後のポーランド・リトアニア共和国において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議会)を構成し、国王を選挙によって選出していた(選挙王政)。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と黄金の自由 · 続きを見る »

近世における世界の一体化

近世における世界の一体化では、16世紀から17世紀にかけての世界が一体化する過程について言及する。16世紀には、ユーラシア大陸では東から明、サファヴィー朝、オスマン帝国の3つの帝国が鼎立しており、インド亜大陸ではバーブルによるムガル帝国の建国(1526年)、さらに、ロシアではモスクワ大公国が、ドイツではハプスブルク家がそれぞれの地域で台頭し始めていた時代であった。 一方、早期にレコンキスタを終了させていたポルトガルを皮切りに、西ヨーロッパ諸国は、次々と大西洋へと乗り出していった。1492年のコロンブスのサン・サルバドル島到達、1498年のヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰到達は、これまでの貿易構造を大きく変化させる原因となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と近世における世界の一体化 · 続きを見る »

近世から近代にかけての世界の一体化

近世から近代にかけての世界の一体化では、18世紀前半の世界の一体化の動きについて詳述する。この時代は、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ大陸では三角貿易が完成し、ヨーロッパでは中世の生活習慣が大きく一変した時代でもあった。 一方、アフリカ大陸では奴隷貿易によって人口が激減し経済・社会が疲弊した。また、南北アメリカ大陸ではイギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルにおける植民地化が確立した。このことにより、各国間の対立が目立ち始めた時代でもあった。その中で、イギリスとフランスが覇権をめぐって争う時代へ突入していった。 一方、清は康熙帝、雍正帝の時代を迎え、全盛期を迎えつつあった。また、前世紀に君臨していたオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国のイスラーム3帝国は徐々に衰退していった。これらアジア諸国とヨーロッパ諸国は、衝突と交易を交互に繰り返しながらも、一体化が進み始めていった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と近世から近代にかけての世界の一体化 · 続きを見る »

露土戦争 (1686年-1700年)

露土戦争(ろとせんそう)とは、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアのヨーロッパキリスト教諸国から成る神聖同盟とオスマン帝国との大トルコ戦争(1683年 - 1699年)の一部を成し、1686年にロシアが神聖同盟に加わって参戦してから1700年にロシアとオスマン帝国間でコンスタンティノープル条約が締結されて終戦するまでの期間のロシアとオスマン帝国の両国の戦争のことを指す。ロシアは1696年にアゾフを占領()し、コンスタンティノープル条約でオスマン帝国に領有を認めさせたことは、その後の黒海・バルカン半島を目指す南下政策の嚆矢となった。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と露土戦争 (1686年-1700年) · 続きを見る »

都市国家

都市国家(としこっか、City-state)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体や文明としてひとつとなり、まとまった形態をなす小国家を表す。明確な要件・定義はないが、現代ではシンガポール・モナコを指す。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と都市国家 · 続きを見る »

郵便

郵便(ゆうびん)とは、郵便物を送達する(送り届ける)制度のことである。また、郵便物のこと。 250px日本の郵便配達の様子.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と郵便 · 続きを見る »

著作権の歴史

このページは著作権の歴史(ちょさくけんのれきし)について述べる。 著作権という概念は、印刷技術の出現とその後の一般大衆の識字率の上昇に伴い、考え出されたものである。著作権を表す英単語 copyright が示す様に、その起源は印刷業者による複製 (copy) の権利 (right) であり、18世紀初頭の英国において、印刷技術の独占権として発生した。英国において、国王は無秩序に本が複写されることを問題視しており、国王の大権 (royal prerogative) により1662年のライセンスに関する法律を成立させた。この法律では、ライセンスを受ける本の登録方法を確立した。そのためには、書籍出版業組合にその複写を預ける必要があった。本のライセンスは永久に永続し、長期にわたる利益を印刷業者に与えた。 最初の著作権法はヴェネツィアにおいて1545年に制定されている。しかし、現代の著作権法に一番影響を与えた最初の著作権法は、1710年、英国において制定されたアン法である。著者に新たな権利を一定期間与え、その期間が経過後、その権利がなくなるというものであった。各国において同様の法律が成立し、国際的には1887年のベルヌ条約が今日でも有効な著作権保護の範囲を定めた条約となっている。 現在の著作権は、作品を創作した作者の著作隣接権や、複製を作るために出資を行った後援者の経済的な権利や、複製を個々に所有する者の財産権や、印刷業者を管理し検閲する支配者の権利などを含む、古くから歴史を通して認められてきた多数の権利により影響されたものである。 技術の発達に伴い、著作権の概念は、初期に定義された、書籍や地図の印刷物を複写する権利から、録音、映画、写真、ソフトウェア、建築作品の様に近代産業に対し重大な影響を与えるものをカバーするようになった。近年では、デジタル化された作品のネットワークでの共有 (P2P) 等、当初の法律制定当時では予想の付かない概念が出てきている。 なお、copyright の語が最初に使用されたのは、オックスフォード英語辞典では1734年となっているが、それ以前に使用されていたかは不明である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と著作権の歴史 · 続きを見る »

金印勅書

1356年の金印勅書の金の印章 金印勅書(きんいんちょくしょ、ラテン語:bulla aurea)は、皇帝の命令が記され、黄金製の印章が付された公文書である。黄金文書(おうごんもんじょ)とも称する。中世からルネサンス期の中・西ヨーロッパや中世ビザンツ帝国において発布された。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と金印勅書 · 続きを見る »

金貨

金貨(きんか)とは、金を素材として作られた貨幣。銀貨・銅貨とともに、古くから世界各地で流通した。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と金貨 · 続きを見る »

通信販売

通信販売(つうしんはんばい)は、小売業態のうちの無店舗販売の一つで、店舗ではなく、メディアを利用して商品を展示し、メディアにアクセスした消費者から通信手段で注文を受け、商品を販売する方法。通販と略称される。 近年のインターネット端末の普及にともない、「通信販売」「通販」といえば、もっぱらウェブサイトによるものを指すことがある。これについては電子商取引の項目を参照。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と通信販売 · 続きを見る »

通商破壊

通商破壊(つうしょうはかい)とは戦時に、通商物資や人を乗せた商船を攻撃することによって、海運による物資の輸送を妨害すること。主に潜水艦により行なわれたものが有名であるが、航空機や戦艦、武装商船などでも行う。なお、通商破壊に対する護衛・防御のことを通商護衛(つうしょうごえい)と呼び、通商破壊に対抗するために生み出された戦法が護送船団である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と通商破壊 · 続きを見る »

造船所

造船所(ぞうせんじょ)は、船を建造し修理する場所である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と造船所 · 続きを見る »

陰謀論の一覧

謀論の一覧(いんぼうろんのいちらん)は、主な陰謀論の事例を一覧にしたものである。強い権力をもつ個人ないし団体が一定の意図を持って一般人の見えないところで事象を操作している、またはしていたとする主張が陰謀論であるが、その中でも著名な事例を取り上げている。 なお、各々の事例のなかには「柳条湖事件」や「北朝鮮による日本人拉致問題」のように、当初は当事者が陰謀論と主張していたが、後に真実であることが確認されたものもある。一方、プロパガンダとして悪用された虚偽や、事実誤認や自説に都合のいい証拠のみ(チェリー・ピッキング)で構成されたものも少なくない。そのため都市伝説に近い主張も含まれていることから、真贋については注意が必要である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と陰謀論の一覧 · 続きを見る »

LEGAの13

『LEGAの13』(レーガの13)は、やまざき貴子による日本の漫画作品。 『月刊フラワーズ』(小学館)にて、2006年7月号から2011年12月号まで不定期に連載された。単行本は全6巻。 1話は前後編構成となっており、サブタイトルはイタリア語表記も伴う。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国とLEGAの13 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と東ローマ帝国 · 続きを見る »

東ローマ帝国の皇帝一覧

東ローマ帝国皇帝の一覧.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と東ローマ帝国の皇帝一覧 · 続きを見る »

森林破壊

森林破壊(しんりんはかい)とは、自然の回復力を超える樹木の伐採により森林が減少もしくは存在しなくなる状況を指す。 国連食糧農業機関 (FAO) の統計によれば、全世界の森林面積は1990年には4,077,291千haであったが、2005年には3,952,025千haとなった。すなわち、この間に125,266千haの森林が消滅した(全世界の3.1%にあたる)。 森林面積の変化は地域の差がある。東アジアは増加、ヨーロッパは微増、しかし東南アジアやアフリカや南アメリカでは大きく減少している。すなわち、熱帯雨林の森林減少が地球規模で進行している。 日本は森林の割合(森林率)が国土の68.9%を占め、森林大国と言われる(森林大国として名高いカナダでも森林の比率は45.3%)。ただし、人口が多いため、一人当たりの森林蓄積量は世界平均の6分の1ほどである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と森林破壊 · 続きを見る »

検疫

検疫(けんえき)とは、港湾や空港にて、海外から持ち込まれた、もしくは海外へ持ち出す動物・植物・食品などが、病原体や有害物質に汚染されていないかどうかを確認すること。 またこれに例えて、コンピュータウイルス対策ソフトでシステムがウイルスに感染していないか、不正に侵入された形跡はないか確認することも「検疫」と呼ぶことがある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と検疫 · 続きを見る »

正月

正月(しょうがつ)は、各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり御節料理を食べて、盛大に祝う。 日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と正月 · 続きを見る »

歴史のカテゴリ一覧

歴史のカテゴリ一覧(れきしのカテゴリいちらん)は、歴史に関するカテゴリの目次。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と歴史のカテゴリ一覧 · 続きを見る »

永遠平和条約

ア側の永遠平和条約の表紙。 永遠平和条約(ロシア語:Ве́чный мир)もしくは、グジムフトフスキ条約(ポーランド語:Pokój Grzymułtowskiego)は、1686年5月6日にモスクワにおいて、ロシア・ツァーリ国とポーランド・リトアニア共和国との間に締結された、ウクライナのコサック国家を分割する国際条約であるЧухліб 2003:584-585.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と永遠平和条約 · 続きを見る »

民主主義

ノミスト・インテリジェンス・ユニットによる2016年の民主主義指数の世界地図。青色(9-10)が最も指数が高い。 アダム・プシェヴォルスキによる2008年の「民主主義-独裁制」の世界地図。緑色:議院内閣制民主主義、水色:混合民主主義(半大統領制)、青色:大統領制民主主義、黄色:君主独裁制、橙色:文民独裁制、赤色:軍事独裁制。 民主主義(みんしゅしゅぎ、democracy デモクラシー)とは、国家など集団の支配者が、その構成員(人民、民衆、国民など)である政体、制度、または思想や運動。日本語では、主に政体を指す場合は民主政(みんしゅせい)、制度を指す場合は民主制(みんしゅせい)とも訳される。対比語は貴族制、寡頭制、独裁制、専制、全体主義など。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と民主主義 · 続きを見る »

消滅した政権一覧

消滅した政権一覧では、人類の歴史上、かつて存在した国家もしくは政権を一覧する。現存する国家は、国の一覧を参照。 ----.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と消滅した政権一覧 · 続きを見る »

渡辺真弓 (建築史学者)

渡辺 真弓(わたなべ まゆみ、女性、1948年 - )は、日本の建築史学者、東京造形大学名誉教授。 東京都出身。東京大学工学部建築学科卒業、同大学院修士課程修了。1976-77年イタリア政府給費留学生としてパドヴァ大学に学ぶ。1979年東京造形大学専任講師、助教授、教授、2014年退任、名誉教授。2008年「16世紀ヴェネツィア共和国の都市と建築 アンドレア・パラーディオおよび同時代の建築家たちの都市ヴェネツィアとの関わりに関する研究」で東大工学博士。専門は西洋建築史・都市史。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と渡辺真弓 (建築史学者) · 続きを見る »

未回収のイタリア

一次大戦後のイタリア王国 未回収のイタリア(みかいしゅうのイタリア)またはイタリア・イレデンタ(イタリア語:Italia irredenta)は、19世紀において、イタリア王国が領土と主張した地域のうち、イタリア統一戦争後もオーストリア領内に残った地域である。南ティロルや、ヴェネツィア・ジュリア、フィウーメ、ダルマツィア地方などの旧ヴェネツィア共和国領がそれである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と未回収のイタリア · 続きを見る »

戦争文学

戦争文学(せんそうぶんがく)とは、戦争を扱った文学。特に近代以降の戦争を題材にするものについて呼ぶ。狭義に第二次世界大戦下の日本で戦争遂行の国策高揚の意図をもって書かれた文学を指すこともある。 戦争における戦闘などの記録としての文学は、戦記文学(せんきぶんがく)、戦史文学(せんしぶんがく)とも呼ばれる。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と戦争文学 · 続きを見る »

戦国魔神ゴーショーグン

『戦国魔神ゴーショーグン』(せんごくまじんゴーショーグン)は、1981年7月3日から同年12月28日まで東京12チャンネル → テレビ東京で放送されていたロボットアニメである。読売広告社と葦プロダクションの共同製作。全26話。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と戦国魔神ゴーショーグン · 続きを見る »

我が生涯の物語

『我が生涯の物語』(わがしょうがいのものがたり、Histoire de ma vie)は、18世紀イタリアの著名な冒険家・漁色家ジャコモ・カサノヴァの自伝。『カサノヴァ回想録』、『カザノヴァ情史』とも訳される。  カサノヴァはヴェネツィア人(1725年4月2日ヴェネツィア生まれ、1798年6月4日ボヘミアのドゥックス(現チェコ共和国ドゥフツォフ)にて死去)であったが、本書はフランス語で書かれた。当時の上流社会においてはフランス語が最も広く用いられていたためである。正式な題名は『1797年までの我が生涯の物語』(Histoire de ma vie jusqu'à l'an 1797)であるが、内容はカサノヴァの1774年までの生涯を扱ったものである。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と我が生涯の物語 · 続きを見る »

海賊

海賊旗(ジョリー・ロジャー) ジョン・ラカムの海賊旗 海賊(かいぞく、)とは、船舶や沿岸を襲撃することによって、金品を強奪する盗賊を指す。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と海賊 · 続きを見る »

海軍

ョージ・ワシントン アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 海軍(かいぐん、navy)は軍事作戦のために主に艦艇を使用する軍事組織を言う。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と海軍 · 続きを見る »

海洋国家

海洋国家(かいようこっか、Maritime nation)とは、大陸国家に対置される地政学的概念である。国土全体あるいは大部分が海に囲まれている国家、あるいは海との関わり合いの大きい国家のことをいう。海洋国と表記されることもある。なお、必ずしも島国や半島といった地理的な条件を要するわけではない。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と海洋国家 · 続きを見る »

旅芸人の記録

『旅芸人の記録』(希: O Θίασος、翻字: O Thiassos)は、テオ・アンゲロプロス監督のギリシャ映画。 旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の政治史を中心としたギリシャ史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と旅芸人の記録 · 続きを見る »

教皇選挙賭博

教皇選挙賭博 (Gambling on papal elections) は少なくとも500年の歴史を持ち、16世紀のコンクラーヴェ(教皇選挙)に際して行われた賭博が最も古い記録として残っているPaul W. Rhode and Koleman Strumpf.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と教皇選挙賭博 · 続きを見る »

1 E10 s

1010 - 1011 s(320 年 - 3 200 年)の時間のリスト.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1 E10 s · 続きを見る »

1058年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1058年 · 続きを見る »

1083年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1083年 · 続きを見る »

1107年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1107年 · 続きを見る »

1182年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1182年 · 続きを見る »

1192年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1192年 · 続きを見る »

11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と11世紀 · 続きを見る »

11月1日

11月1日(じゅういちがつついたち)はグレゴリオ暦で始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と11月1日 · 続きを見る »

1205年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1205年 · 続きを見る »

1252年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1252年 · 続きを見る »

1275年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1275年 · 続きを見る »

1285年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1285年 · 続きを見る »

1307年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1307年 · 続きを見る »

1354年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1354年 · 続きを見る »

1355年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1355年 · 続きを見る »

1373年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1373年 · 続きを見る »

1382年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1382年 · 続きを見る »

13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と13世紀 · 続きを見る »

1409年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1409年 · 続きを見る »

1420年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1420年 · 続きを見る »

1436年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1436年 · 続きを見る »

1455年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1455年 · 続きを見る »

1475年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1475年 · 続きを見る »

1482年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1482年 · 続きを見る »

1485年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1485年 · 続きを見る »

1496年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1496年 · 続きを見る »

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と14世紀 · 続きを見る »

1501年

金曜日から始まる。16世紀最初の年。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1501年 · 続きを見る »

1521年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1521年 · 続きを見る »

1538年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1538年 · 続きを見る »

15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と15世紀 · 続きを見る »

1640年代

1640年代(せんろっぴゃくよんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1640年から1649年までの10年間を指す十年紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1640年代 · 続きを見る »

1645年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1645年 · 続きを見る »

1656年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1656年 · 続きを見る »

1686年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と1686年 · 続きを見る »

17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と17世紀 · 続きを見る »

18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と18世紀 · 続きを見る »

4月17日

4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と4月17日 · 続きを見る »

6月21日

6月21日(ろくがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。誕生花はツキミソウ、マツヨイグサ、サツキ、ウマゴヤシなどがある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と6月21日 · 続きを見る »

812年

記載なし。

新しい!!: ヴェネツィア共和国と812年 · 続きを見る »

9月26日

9月26日(くがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から269日目(閏年では270日目)にあたり、年末まであと96日ある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と9月26日 · 続きを見る »

9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

新しい!!: ヴェネツィア共和国と9月7日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ヴェネチア共和国ヴェネツィアのドージェベネチア共和国アドリア海の女王

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »