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ワシリー・サペルニコフ

索引 ワシリー・サペルニコフ

ヴァシリー・リヴォヴィチ・サペルニコフ(Vassily L'vovich Sapelnikov (Василий Львович Сапельников), 1867年11月2日 - 1941年3月17日 サンレモ)はロシアのピアニスト・作曲家。英語圏では Wassily Sapellnikoff の表記で知られる。 ウクライナのオデッサに生まれる。ペテルブルク音楽院にてルイ・ブラッサンに師事するが、ブラッサンの没後はゾフィー・メンターとアナトーリ・リャードフに師事した。 1888年から1889年までピョートル・チャイコフスキーに同行して、ドイツやフランス、イギリスで演奏旅行を行う。1889年にハンブルクにデビューした際には、チャイコフスキー自身の指揮で《ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調》を演奏している。西欧で売出し中の演奏会ピアニストにとって幸先の良いことに、この演奏会は大成功に終わった。またサペルニコフは、ロンドンでこの協奏曲のイングランド初演も成功させた。引き続きヨーロッパ各地で旅するヴィルトゥオーゾとして演奏旅行を行なって一目置かれた引く手あまたのピアニストとなり、時おり指揮者としても活動した。1897年から1899年までモスクワ音楽院ピアノ科教授に就任。門人にニコライ・メトネルがいる。 1910年には、ウェルテ・ミニョン社の自動演奏ピアノに12曲を吹き込んだが、うち半数は自作であった。 1912年ごろから第一次世界大戦までライプツィヒに移住し、その後はミュンヘンやベルリンに過ごしてから、1916年から1922年までオデッサに戻る。1923年にソ連を去ってドイツに、その後はイタリアに亡命した。 サペルニコフは、チャイコフスキーの愛人の一人であった。.

8 関係: ルイ・ブラッサンヴァシーリーピアニストフランツ・リスト11月2日1867年1941年3月17日

ルイ・ブラッサン

ルイ・ブラッサン ルイ・ブラッサン(Louis Brassin, 1840年6月24日 - 1884年5月17日)は、ドイツ生まれのベルギー人ピアニスト・作曲家・音楽教師。ブラサンとも表記される。本名の姓はドゥ・ブラシン(De Brassine)。 アーヘンに生まれる。父親は舞台俳優であった。6歳のときハンブルクで最初の演奏会を開く。翌年、父親がライプツィヒで職を得たため、自身はライプツィヒ音楽院に入学してイグナーツ・モシェレスに師事する。1848年、8歳のときシュターデにおいて、5歳の弟とともに演奏会を開いた。1857年にベルギーにおいて、初めてブラッサンの名で演奏会を開く。1866年からベルリン・シュテルン音楽院に学ぶ。ブリュッセル王立音楽院のピアノ教授に任命されると、1869年より10年間ベルギーに定住して祖国の音楽界で重大な役割を果たした。1878年にテオドル・レシェティツキの後任としてサンクトペテルブルク音楽院ピアノ科教授に就任。サンクトペテルブルクにて没。 ブラッサンは、リヒャルト・ワーグナーの数多くの作品をピアノ用に編曲しており、またピアノのための小曲をふんだんに作曲した。主要な門人にエドガール・ティネルやワシリー・サペルニコフがいる。 弟に、レオポルト・ブラッサン(Leopold Brassin, 1843年 - 1890年)とヴァイオリニストになったゲルハルト・ブラッサン(Gerhard Brassin, 1844年 - 1885年)がいる。両者はいずれもシュテルン音楽院やベルンに学び、たびたび一緒に演奏旅行を行なった。それぞれ自分の楽器のために作品を遺している。.

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ヴァシーリー

ヴァシーリー(Василийヴァスィーリイ)は、ロシア語の男性名。ヴァシーリイ、ワシーリー、ワシリー、ワシリイ、まれにバシリーとも表記される。古典ギリシャ語のバシレイオス、現代ギリシャ語のヴァシリオスにあたる。キリスト教の聖人カイサリアのバシレイオスにちなんだ名前であることが多い。なお、しばしば使用されるヴァシーリあるいはワシーリといった表記はみだりに「й」を無視しており、誤りである(ウクライナ語名としては誤りではない)。.

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ピアニスト

youtube ピアニスト (pianist) またはピアノ奏者(ピアノそうしゃ)は、広義にはピアノの演奏を行う人のこと、狭義には、職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで伴奏を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト (accompanist) と呼ぶ場合がある。.

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フランツ・リスト

フランツ・リスト(、、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、王政ハンガリー出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活躍したピアニスト・作曲家。 自身の生地であるハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。しかしながら、その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。ただし、祖父母4人ともがドイツ圏に出自を持つその民族性を強調することは、その作品を好み『前奏曲』などをテーマ音楽的に用いたナチスの記憶につながることもあり、今日ではあまり奨励されない。 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。.

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11月2日

11月2日(じゅういちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から306日目(閏年では307日目)にあたり、年末まであと59日ある。.

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1867年

記載なし。

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1941年

記載なし。

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3月17日

3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。.

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