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プロスクリプティオ

索引 プロスクリプティオ

プロスクリプティオ(proscriptio)とは、共和政ローマで実施された特定の人物を国家の敵として法の保護の対象外に置く措置。その名簿は公示され、その人物の財産を没収しても罪に問われないものとされた。 プロスクリプティオは2回行われた。1度目はルキウス・コルネリウス・スッラが終身独裁官に就任した時で、自身に反対する元老院議員やエクィテスなど300名以上の名前を公示、9000名近くが殺害されたとされる。2度目は第二回三頭政治の時期で、プロスクリプティオによってマルクス・トゥッリウス・キケロらが殺害された。 古代ローマの滅亡後も「プロスクリプティオ」という言葉はしばしば登場する(フランス革命の恐怖政治や、アルゼンチンのペロニスタに対する弾圧など)。 オックスフォード英語辞典では「追放若しくは死刑の宣告(decree of condemnation to death or banishment)」と解説されている。.

27 関係: 帝国アハト刑三頭政治マルクス・リキニウス・クラッススマルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年執政官)マルクス・トゥッリウス・キケロマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥスマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前39年の執政官)ルキウス・コルネリウス・スッラロストラプブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官)ピリッピカテロリズムフィリッピの戦いダムナティオ・メモリアエアウトローアウグストゥスガイウス・ノルバヌス・フラックスガイウス・ユリウス・カエサルガイウス・アシニウス・ポッリオ (紀元前40年の執政官)クィントゥス・ペディウスクィントゥス・トゥッリウス・キケログナエウス・ポンペイウスゲニウスセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムセルウィリア・カエピオニス

帝国アハト刑

帝国アハト刑(ていこくアハトけい、ドイツ語: Reichsacht、ライヒスアハト、ächten:無法者・無法者になる)とは、神聖ローマ帝国内で行われた法益剥奪刑。帝国平和喪失刑とも称され、神聖ローマ帝国皇帝や帝国議会などがこれを決定した。.

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三頭政治

『三頭政治下の虐殺』(Les Massacres du Triumvirat) フランス人画家アントワーヌ・カロンによる1566年の作 三頭政治(さんとうせいじ、Triumviratus)は、共和政ローマ末期に現れた政治体制で、共和政から帝政に移行する間に生じた3人の実力者による寡頭政治体制。非公式な政治同盟として成立した第一回三頭政治と、正式な役職として成立した第二回三頭政治がある。 当時、三頭政治(Triumviratus)と呼ばれたのは後者(第二回)のみで、後世になってから、さかのぼって前者(第一回)の方も三頭政治と呼ぶようになった。 また、3人で政権運営等を行う体制のことをソビエト連邦においてトロイカ体制と呼んだ。これはロシアの三頭立ての犬ぞりもしくは馬車をトロイカということが語源であるとされるが、実際はトロイカとは「ラテン語の3」が語源である。この呼び名は野球チームにおいても用いられたことがある(1981年 - 1983年の読売ジャイアンツ)。トロイカ体制の呼称もよく用いられる。 ローマ共和国でも採用された。.

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マルクス・リキニウス・クラッスス

マルクス・リキニウス・クラッスス(Marcus Licinius Crassus, 紀元前115年頃 - 紀元前53年)は、共和政ローマ時代の政治家、軍人である。第三次奴隷戦争でスパルタクスを討ち取り、グナエウス・ポンペイウス及びガイウス・ユリウス・カエサルと共に第一回三頭政治を行った。.

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マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年執政官)

マルクス・リキニウス・クラッスス(Marcus Licinius Crassus)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前30年に執政官(コンスル)を務めた。第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの孫である。.

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マルクス・トゥッリウス・キケロ

マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者である。ラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている。.

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マルクス・アントニウス

マルクス・アントニウス(Marcus Antonius、紀元前83年1月14日 - 紀元前30年8月1日)は、共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。.

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マルクス・アエミリウス・レピドゥス

マルクス・アエミリウス・レピドゥス(Marcus Aemilius Lepidus, 紀元前90年頃 - 紀元前13年)は古代ローマの政治家・軍人。共和政末期ローマで、第二回三頭政治の一頭として政治の実権を握った。父は同名の政治家マルクス・アエミリウス・レピドゥス、母はルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの娘。子にマルクス・アエミリウス・レピドゥス・ミノル(小レピドゥス)。.

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マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス

マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス(Marcus Valerius Messalla Corvinus、紀元前64年 - 8年)は、共和政ローマ末期の人物。紀元前31年にコンスルを務めた。 若い頃、ホラティウスと若い小キケロとともにアテネに遊学する。根っからの共和主義者であったが、自らの信条を語りすぎることはなかったので、オクタウィアヌスとの対立は避けることができた。 紀元前43年の大粛清で彼もまた処罰者の対象となったが、逃亡に成功、マルクス・ユニウス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスのもとに走った。しかしピリッピの戦いで両名とも戦死すると、今度はマルクス・アントニウスのもとへ行く。しかし途中でオクタウィアヌスを支持する事になる。紀元前31年に今やローマと敵対したアントニウスの代わりにコンスルに選ばれ、そしてアクティウムの海戦に従軍、この戦いでの功績により紀元前27年に凱旋式の敢行を許された。 彼はまたローマ皇帝となったオクタウィアヌスに「国家の父」の称号を授けられるべきだと身上した。しかしながら、それは本来彼の政治的信条とは相容れないものだったので、その後たった6日間の任期で市制長官の地位を辞した。 その後、公共建築物の建造、街道の修復などに率先して進める。そして文学でも彼の影響は大きく、ガイウス・マエケナスの影響で、自らの文学サロンを催した。その中にはティブッルス、オウィディウスなどの交流もあり、とくにオウィディウスからは自らの作品を後押ししてくれた賛辞を贈られている。また彼自身も自らで文学作品を記していたが、現存していない。しかしその多くは、スエトニウス、プルタルコスのようなのちの歴史家・詩人によって引用されている。 Category:紀元前1世紀の古代ローマ人 めつさつら こるういぬす まるくす category:紀元前64年生 category:8年没.

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ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前39年の執政官)

ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス(Lucius Marcius Censorinus、生没年不詳)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前39年に執政官(コンスル)を務めた。.

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ルキウス・コルネリウス・スッラ

ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、共和政ローマ期の軍人・政治家。スッラと呼ばれることが多いが、スラと表記されることもある。 貴族階層の出身者として閥族派(オプティマテス)の指導者となり、かつて自らも仕えた民衆派(ポプラレス)の指導者ガイウス・マリウスと激しい内戦を繰り広げた。マリウスの病死によって民衆派が動揺するとこれを突いてキンナ、小マリウスら主な政敵を葬って民衆派を粛清、更に独裁官としてスッラ体制とも言うべき強固な閥族派の政権を作り上げた。 スッラによって築き上げられた体制はローマの共和政に最後の安定をもたらしたが、マリウスの義理の甥であるガイウス・ユリウス・カエサルによって閥族派は倒され、更にその大甥で養子のアウグストゥスによって共和政ローマは終焉を迎えた。.

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ロストラ

ーマ硬貨に描かれた共和政ローマ初期のロストラ ロストラ(Rostra)は共和政ローマからローマ帝国の時代にローマ市内に建っていた大きな演壇である。ロストラに立った演説者はコミティウムの北側、元老院の議事堂に向かい、その間に集まった聴衆に向かってしゃべる。suggestus または tribunal とも呼ばれ、王政ローマ時代にまで遡る最初のロストラは Volcanal の異名を持つ。 ロストラとは戦艦の船首(船嘴)の意で、紀元前338年アンティウムでの戦いで勝利した際に6個のロストラを戦利品としてローマに持ち帰り、演壇の側面に設置したのが名前の由来である。もともとはフォルム・ロマヌムのコミティウムにある構造物を指す言葉で、通常は元老院の議事堂(クリア)と対応付けられている。ローマ帝国時代になると他にも「ロストラ」と呼ばれる演壇ができたため、それらと区別すべく「ロストラ・ウェテラ」(Rostra Vetera、古いロストラ)と呼ばれるようになった。他のロストラは建設者の名やそれを捧げられた人の名を冠して呼ばれる。 政務官、政治家、代弁者などの演説者がこの一段高い演壇に立ち、ローマ中から集まった人々の前で演説を行った。アウグルが templum として神聖化した最初のロストラは紀元前6世紀には建てられた。このロストラは何度か建て替えられて大型化していったが、数世紀の間同じ場所にずっと存在していた。 共和政末期、ユリウス・カエサルはフォルムとコミティウムの配置を変更し、元老院議事堂の場所も移した。彼はクリア・コルネリアを解体した際にロストラをコミティウムの外に移した。これによって議事堂がフォルム全体に占めていた統率的位置を剥奪し、その最後の修復中にロストラと極めて近い位置になるようにした。彼の甥で最初のローマ皇帝となったアウグストゥスはカエサルの始めたこのプロジェクトを完成させ、ロストラを拡張した。これをロストラ・アウグスティ (Rostra Augusti) と呼ぶ。今日フォルムの発掘で出土したものは、セプティミウス・セウェルスの凱旋門の近くにあり、長年の使用により何度も修復と拡張を加えた跡がある。修復の際に何度か新たな名誉の名称を付けられたが、学者や考古学者やイタリア政府はこの祭壇が「ロストラ・アウグスティ」であり、その中に「ロストラ・ウェテラ」があるとしている。 rostrum という言葉は演説用の演壇を意味するが、これはロストラが語源である。ただし演説者は rostrum の場合はその前に立ち、rostra の場合はその上に立つ。rostra はローマ市内にも国全体にも多数存在したが、Rostra はただ1つの特定の構造物を指す。.

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プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官)

プブリウス・リキニウス・クラッスス(Publius Licinius Crassus、- 紀元前87年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前97年に執政官(コンスル)、紀元前89年には監察官(ケンソル)を務めた。ポンペイウス及びカエサルと共に第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの父である。.

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ピリッピカ

ピリッピカまたはフィリッピカ(philippic)は、特定の政治家などを非難するための激しい攻撃演説を意味する。デモステネスが紀元前4世紀にピリッポス2世に対して行った数回の演説が由来である。.

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テロリズム

テロリズム(terrorism)とは、政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いることを言う。日本語ではテロリズムを「テロ」と略し、テロリズムによる事件を「テロ事件」と呼ぶ場合が多い。またテロリズムの実施者をテロリスト(terrorist)と呼ぶ。.

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フィリッピの戦い

フィリッピの戦い(Μάχη των Φιλίππων、Pugna apud Philippos)は、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスおよびマルクス・ユニウス・ブルトゥスらが率いるリベラトレス(Liberatores、自由主義者、共和主義者)の軍とマルクス・アントニウスとガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスが率いる第二回三頭政治の軍が紀元前42年10月に行った戦いである。 戦いはフィリッピ(ピリッポイ)西方の平原で10月3日と10月23日の2度行われた。名称はラテン語表記の「ピリッピの戦い」とも称される。.

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ダムナティオ・メモリアエ

タのレリーフがあった。カラカラがゲタにダムナティオ・メモリアエを課したため、左側のレリーフは削り取られている。 ダムナティオ・メモリアエ(Damnatio Memoriae)とは、古代ローマで元老院がその支配体制へ反逆した人物に対して行った措置を指す。その対象は古代ローマ人全般に及び、少なくとも2名の皇帝がダムナティオ・メモリアエを受けたことが判っている。なお、日本語の訳は「記憶の破壊」または「名声の破壊」など。.

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アウトロー

アウトロー(outlaw; útlagi) 、法喪失者は犯罪等により法の保護を受けられなくなる人物。すなわち「法喪失」、「法外放置」、「法外追放」、「法外追放」、「平和喪失」(outlawry)の宣告を受けた人物。.

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アウグストゥス

アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.

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ガイウス・ノルバヌス・フラックス

イウス・ノルバヌス・フラックス(Gaius Norbanus Flaccus)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前38年に執政官(コンスル)を務めた。.

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ガイウス・ユリウス・カエサル

イウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。.

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ガイウス・アシニウス・ポッリオ (紀元前40年の執政官)

イウス・アシニウス・ポッリオ(Gaius Asinius Pollio、紀元前75年 - 紀元4年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前40年に執政官(コンスル)を務めた。雄弁家、詩人、劇作家、文芸評論家、歴史家でもあり、歴史に関する著作は失われているものの、アッピアノスやプルタルコスに引用されている。ポッリオは詩人ウェルギリウスのパトロンで詩人ホラティウスの友人としても知られており、両者ともにポッリオを讃えた詩を作っている。.

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クィントゥス・ペディウス

ィントゥス・ペディウス(Quintus Pedius、- 紀元前43年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。ガイウス・ユリウス・カエサルの親戚で、紀元前43年に補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。.

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クィントゥス・トゥッリウス・キケロ

ィントゥス・トゥッリウス・キケロ(Quintus Tullius Cicero, 紀元前102年 - 紀元前43年)は、共和政ローマ期の軍人・政治家。マルクス・トゥッリウス・キケロの弟で、ガリア戦争ではガイウス・ユリウス・カエサルの属将の1人を務めた。.

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グナエウス・ポンペイウス

ナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)は、共和政ローマ期の軍人であり政治家。ルキウス・コルネリウス・スッラからマグヌス(「偉大な」の意)と称され、ガイウス・ユリウス・カエサル及びマルクス・リキニウス・クラッススと第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗北、最終的に暗殺された。.

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ゲニウス

太鼓と鏡を持った女性の前に立つ翼のあるゲニウス。南イタリア。紀元前320年ごろ ゲニウス(genius、複数形は genii)は擬人化された精霊を指すラテン語である。古代ローマ人の信仰においては、ゲニウスは概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた。一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり、換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したものである。.

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セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム

ナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム(Senatus consultum ultimum)またはセナトゥス・コンスルトゥム・デ・レ・プブリカ・デフェンデンダ(senatus consultum de re publica defendenda)は、共和政ローマの元老院が布告した緊急の法令である。.

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セルウィリア・カエピオニス

ルウィリア・カエピオニス(Servilia Caepionis, 紀元前107年 - 紀元前42年以降)は、共和政ローマ末期の人物。ガイウス・ユリウス・カエサルの愛人。小カエピオの娘で、祖父は大カエピオ。弟にクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ、異父弟にカエサルの政敵マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)、息子に後にカエサルの暗殺に関与するマルクス・ユニウス・ブルトゥスがいる。 彼女が生まれて早くに両親が離婚し、母方の叔父マルクス・リウィウス・ドルススの元で育てられたが、彼女が9歳の時に死別した。2度結婚しており、最初はマルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨル(大ブルトゥス)と結婚、同名の息子ブルトゥスを産んだ。大ブルトゥスの死別後はデキムス・ユニウス・シルアヌスと再婚、2人の娘ユニア・セクンダとユニア・テルティアを儲けた。ユニア・セクンダはマルクス・アエミリウス・レピドゥスに、ユニア・テルティアはガイウス・カッシウス・ロンギヌスに嫁いだ。 カエサルの愛人になったのは紀元前63年で、愛人関係は彼の暗殺(紀元前44年)まで続いた。息子ブルトゥスが暗殺の中心人物の1人だったことから陰謀はセルウィリアの邸宅で行われていたと考えられている。しかしながら第二回三頭政治では彼女はプロスクリプティオの対象とはならず、息子が紀元前42年のフィリッピの戦いで自死すると、遺灰は彼女の元に届けられたと言う。 没年は分かってはいないが、老衰で死んだと伝えられる。.

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