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ナムカム

索引 ナムカム

ナムカム或いはナンカン(Namhkam、中国語:南坎)は、ミャンマーの北東部、シャン州にある町。中華人民共和国と国境を接し、瑞麗江を挟んで雲南省徳宏タイ族チンポー族自治州の弄島(ノンタオ)という町に面している。元来は清朝が統治していたが、1897年に締結された中英続議ビルマ条約でイギリスの永久租借地とされ、1960年の中緬辺界条約で中華人民共和国からビルマ(現ミャンマー)へと割譲された。ただし、中華民国は自国の主権が及ぶ「中国領土の一部分」であるとし、中華人民共和国とその周辺諸国が締結した条約による国境線の変更を公式に認めていない。 現在はミャンマー連邦北シャン州Muse(ムセ)District、Nampkham Townshipとなっている。 住民の多くはシャン族。山間地にはパラウン族、コロンリショー族の村が多い。 現在は中国側からの日帰り観光客も多く訪問し、ミャンマーの異国情緒を楽しんでいる。 主要な観光ポイントは、ナムカン大仏、民族村、シュエリー川下り、街中の市場など。.

9 関係: 中華民国ナンカンミャンマー関係記事の一覧レド公路ビルマの戦い高橋外喜雄江心坡断作戦拉孟・騰越の戦い

中華民国

中華民国(ちゅうかみんこく)は、東アジアに位置する民主共和制国家。 アジアで2番目の共和国として1912年に中国大陸で成立し、国共内戦により中国大陸で中華人民共和国が建国された1949年以降は台湾島と周辺の島嶼群など(自由地区)のみを実効支配する海洋国家となった。自由地区は、日本やフィリピン、中華人民共和国などと領海を接する。 議会制民主主義・資本主義体制国であり、1971年までは国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし国連の代表権問題や一つの中国政策により、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求しているため、2018年5月24日現在では中華民国を正式に国家として承認している国は18か国に留まる。上記の経緯があるため以前の国交を結んでいた国々を中心に、日本を含めて多くの国々と活発な経済的文化的な交流が行われている。台湾島及びその周辺島嶼群を含む地域名である台湾(たいわん)と表記されるのが一般的である。.

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ナンカン

*南康市(ナンカン市) - 江西省南部にある市の名前。.

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ミャンマー関係記事の一覧

ミャンマー関係記事の一覧(ミャンマーかんれんきじのいちらん)は、ミャンマーに関係する記事の一覧を50音順にまとめたものである。.

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レド公路

中国の生命線の再開通。 1944年のビルマ公路とレド公路。 1942年から1943年時点での連合軍の東南アジア戦域での連絡線。レド公路は右端。 レド公路とビルマ公路。 それぞれ同盟相手の国旗をジープに立てるアメリカ軍と中国軍の兵士。再開後最初の輸送車列が、ほぼ3年ぶりにレド公路を通過して中国国境を超える直前の光景。 レド公路(レドこうろ、लेडो रोड、 လီဒိုလမ်းမကြီး、中印公路)とは、インドのアッサム州レドから中国の雲南省昆明までを結ぶ道路である。第二次世界大戦中にアメリカやイギリスが中国に軍需物資を送る援蒋ルートのひとつとして、1942年に日本軍に遮断されたビルマ公路と代えるため建設した。ビルマ(現在のミャンマー)のカチン州シンブイヤン(zh)とミッチーナー、バーモ(en)を通過する。1945年初頭に蒋介石の提案で、ジョセフ・スティルウェルにちなみスティルウェル公路(史迪威公路)と改名された。.

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ビルマの戦い

ビルマの戦い(ビルマのたたかい、Burma Campaign)は、太平洋戦争(大東亜戦争)の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。 地名の表記については「地名の表記について」を参照。.

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高橋外喜雄

橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年11月18日 ※高橋外喜雄の項がある。)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。.

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江心坡

台湾で発行されている中華民国地図。地図の下方(南方)にある雲南省内の緑色部分が、中華民国における江心坡である。 江心坡(こうしんは)は、1960年の中緬辺界条約において、中華人民共和国がビルマ(現ミャンマー)の領土として承認し、領有権を放棄した雲南省の一地域。中華民国は自国の主権が及ぶ「中国領土の一部分」であるとし、中華人民共和国とその周辺諸国が締結した条約による国境線の変更を公式に認めていない。 中国側の歴史的に確定している説によると、江心坡は雲南省の高黎貢山以西で、エーヤワディー川上流にあるメーカ川(中国名:恩梅開江)及びマリカ川(邁立開江)の間に位置する、狭く長い地域である。その北端はチベット自治区ニンティ市巴宜区と接し、南端はミャンマーの尖高山(せんこうざん)にまで到る。ミャンマーの行政区分では、カチン州(Kachin State)の一部となっている。 ただし江心坡を中国領土の一部分と考えている人々にとって、江心坡は通常、ミャンマー北部のミッチーナー以北のカチン州の大部分及びザガイン管区(Sagaing Division)の一部を占める地域であり、面積は約7万平方キロメートルである。その存在は、中華民国政府が発行する官製の中国地図「中華民國全圖」と、中華人民共和国の中国地図を比較した際に、雲南省の北西部で西方へと突出している地域として見出すことが出来る(ただし、2004年1月に中華民国行政院内政部は、中国大陸も領土範囲に含めた「中華民國全圖」を今後発行しない方針を決定している)。.

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断作戦

太平洋戦争当時のビルマ(現在のミャンマー)の地理 断作戦とは、太平洋戦争中、日本軍がイギリス軍と中国軍の攻勢によってビルマ北部を失った後も、中国国民党への物資援助ルート(ビルマ・ルート)を遮断し続けることを目的とした日本陸軍の作戦。.

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拉孟・騰越の戦い

太平洋戦争当時のビルマ(現在のミャンマー)の地理 拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。すでに南部を占領していた日本の部隊は援蒋ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。.

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