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北宋と政和五礼新儀

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北宋と政和五礼新儀の違い

北宋 vs. 政和五礼新儀

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。. 『政和五礼新儀』(せいわごれいしんぎ)は、北宋末期に編纂された儀礼書。徽宗の政和3年(1113年)に完成した。 徽宗は即位直後には儒教に基づく礼制の復古に関心を抱き、崇寧2年(1103年)以降積極的に取り組みを見せていた。大観元年(1107年)、徽宗は議礼局を設置して鄭居中を総領官とし、その下に詳議官2名と検討官5名などを任じた。徽宗は唐初期よりこれまで使われてきた『大唐開元礼』などに代わって、上古三代の礼制を復活させるための儀礼書編纂を目指す方針を御筆手詔(皇帝直筆で作成した詔)にて示すとともに、また唐王朝は正しい礼制を知らなかったとして『大唐開元礼』などの唐制を批判して、基本的には『周礼』に基づきながら当世の事情を勘案して礼制を立てるべきとの考え方を示した。また、徽宗自ら「冠礼沿革」(現在の「御制冠礼」)を著し、更に他編に編集にも参加するなど積極的であった。その結果、政和3年(1113年)4月に完成し、最後に徽宗による御製御書の「政和新修五序」が授けられた。 なお、当時徽宗の下で権力を振るっていた宰相の蔡京は偶々『政和五礼新儀』の編纂期に一時失脚していたこともあり、編纂事業の中核から外されていた。しかも、蔡京は皇帝、ひいてはそれを支える自身の権威づけの為に封禅の実施を行おうとしたが、皮肉にもそれが『周礼』に基づいた上古の礼制復活を意図する徽宗の意思と真っ向から対立する動きであることには気づかなかった(封禅は秦漢に起こった儀礼とされ、それ以前の周代の作とされている『周礼』を基本に置いた『政和五礼新儀』からは省かれていた)。やがて、政和6年(1116年)、徽宗は封禅計画を中止した上で、高齢の蔡京の筆頭宰相(太師)の立場はそのままに実質的な職務からは外し、その下の宰相(大宰)に議礼局の責任者であった鄭居中が任ぜられている。後に蔡京は復帰するものの、その力は抑え込まれる事になった。 時令思想を重視する徽宗の考えに基づき、九鼎を復活させ、漢や唐が建設を試みながら失敗した明堂(時令に適った政務・儀式を行うために作られたと伝えられてきた立春・秋分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至・土用の政堂)を建設した。また、宋を「火徳」の王朝と位置づけて殷・(春秋時代の)宋の祖とされる契(堯の火正)を祀った。契が堯によって封じられた商丘が宋の南京応天府になっていることや太祖(趙匡胤)が後周によって宋に封じられたのは偶然ではなく、宋が火徳の王朝であったからと考えられ、宮廷では特に火星を火徳の星と考えて祭祀を行った。徽宗はこれを制度として整えたのであった。更に当時の庶民社会の発達を受け入れる形で従来の「礼は庶人に下らず」の原則を否定して、庶民の祭祀・儀礼に関する規定を整備したのも特徴的であった張文昌(日本語訳:金子由紀)「唐宋における礼典の庶民儀礼」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2 P196-220。 だが、当時の政争に巻き込まれる形で、士人から「当代に用をなさぬ」と批判され、10年と経たぬうちに批判にさらされて用いられなくなったと言われている。加えて、靖康の変前後の混乱によって地方に下された『政和五礼新儀』の多くが失われ、紹興25年(1155年)に朱熹が赴任先の泉州同安県で『政和五礼新儀』が失われていることが判明し、以後も再交付を働きかけている。更に宋の次の漢民族王朝であった明では南宋後期に台頭した朱子学の影響を受けて時令思想や五徳終始説、更に道教や緯書の影響を受けた部分など宋以前の儀礼が持っていた多くの要素を排除して朱子学に基づいた『大明集令』を編纂した。.

北宋と政和五礼新儀間の類似点

北宋と政和五礼新儀は(ユニオンペディアに)共通で9ものを持っています: 南宋封禅崇寧徽宗後周儒教趙匡胤蔡京政和

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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封禅

封禅(ほうぜん)とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式である。 始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。.

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崇寧

崇寧(すうねい)は、中国・北宋の徽宗の治世で用いられた元号。1102年 - 1106年。.

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徽宗

徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。 書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、水滸伝のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。.

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後周

後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単に周であるが、古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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趙匡胤

趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。.

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蔡京

蔡 京(さい けい、1047年 - 1126年)は、北宋末の政治家、宰相、書家。字は元長。興化郡仙游県(現在の福建省莆田市仙游県)の人。 行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。英宗期の蔡襄の従孫で、父は蔡準。弟は蔡卞。また、息子は蔡攸、蔡鯈(さいちょう)、蔡翛(さいゆう)、(さいとう)、(さいかく)、蔡鋆(さいきん)、蔡脩らがいた。.

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政和

政和(せいわ)は、中国・北宋代徽宗の治世で用いられた元号。1111年 - 1118年。.

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北宋と政和五礼新儀の間の比較

政和五礼新儀が37を有している北宋は、424の関係を有しています。 彼らは一般的な9で持っているように、ジャカード指数は1.95%です = 9 / (424 + 37)。

参考文献

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