393 関係: 力士、基隆市、厚岸町、千島列島、南京条約、南北戦争、南西諸島、史学雑誌、堺、大尉、大島幹雄、大島明秀、大黒屋光太夫、天保、天皇、天領、天明、太平洋戦争、奉書船、孤立主義、定高貿易法、宣教、宣教師、宮本義己、宗谷海峡、宗氏、宗教的迫害、宗教改革、安永 (元号)、安政、寧波市、対馬府中藩、寛永、寛政、小笠原諸島、岡本大八事件、岩波文庫、島原の乱、川勝平太、丁髷、不平等条約、帝国主義、中川五郎治、中世、中公新書、中国、中国人、中国語、中華思想、帰化、...、串本町、主権、万治、三十年戦争、下田、丙子の乱、九州、平山常陳事件、平田篤胤、平戸市、久蔵、久春古丹、康熙帝、広東システム、井上清 (歴史家)、井上満、井伊直弼、代将 (アメリカ海軍)、代物替、廣済堂あかつき、延宝、廻国奇観、弘化、征韓論、侍政、徳川吉宗、徳川家康、徳川家光、徳川将軍家、徳川秀忠、徳川綱吉、信牌、俳句、志筑忠雄、北東アジア、園芸、ナポレオン・ボナパルト、ナサニエル・セイヴァリー、マーケイター・クーパー、マニラ、マカオ、マシュー・ペリー、チャールズ2世 (イングランド王)、ネーデルラント連邦共和国、バテレン追放令、バタヴィア、バタヴィア共和国、ポルトガル、ムラカ、モリソン号事件、モーリス・パンゲ、ヤクーツク、ヨーロッパ、ラナルド・マクドナルド、ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー、リターン号、ルイ・ボナパルト、ロナルド・トビ、ロシア帝国、ヴァシーリー・ゴロヴニーン、ヴィンセンス (戦闘スループ)、ヴェストファーレン条約、トルデシリャス条約、ヘンドリック・ドゥーフ、ブレスケンス号事件、プロテスタント、パラダイス鎖国、パベル・レベデフ=ラストチキン、ビル・トッテン、ディアナ号、ディスクール、フランシスコ・ザビエル、フランス、フランス革命戦争、フランス東インド会社、フランソワ・カロン、フリゲート、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、フェートン (帆走フリゲート)、フェートン号事件、ニコライ・レザノフ、ニコラス・クーケバッケル、ホラント王国、利尻島、列強、刀水書房、嘉靖、嘉永、善六、和菓子、和辻哲郎、和歌山県、アメリカ合衆国、アレクサンドル・コジェーヴ、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン、アダム・ラクスマン、アイヌ、イベリア半島、イギリス、ウィレム2世 (オランダ王)、エンゲルベルト・ケンペル、オランダ、オランダ商館、オランダ風説書、オランダ語、オランダ東インド会社、カトリック教会、カピタン、ガラパゴス化、キャサリン・オブ・ブラガンザ、キリシタン、キリスト教、キリスト教徒、コロンバス (戦列艦)、ゴローニン事件、シベリア、ジョン・ケンドリック、ジェームス・グリン、ジェームズ・ビドル、スペイン、セバスティアン・ビスカイノ、タイオワン事件、タウンゼント・ハリス、サン=フェリペ号事件、内地雑居、出島、函館、函館市、八十年戦争、元和 (日本)、元和の大殉教、国後島、倭館、石見国、現代 (時代区分)、琉球侵攻、琉球王国、福建省、竹島事件、糸割符、紀伊大島、織田信長、父島、絶対君主制、絹、産業革命、田沼意次、番屋、異国船打払令、白人コンプレックス、銀、音吉、遠国奉行、荒野泰典、非武装中立、蝦夷、蝦夷地、蠣崎氏、順 (王朝)、西暦、親藩、駿府、言語、高宗 (朝鮮王)、高田屋嘉兵衛、譜代大名、魔女狩り、豊臣秀吉、貨物市法、貿易、鳩野宗巴、黒船、黒船来航、近世邦楽、近代化、茶道、興宣大院君、蘭学、阿片戦争、薩摩藩、薪水給与令、間宮海峡、開国、藤田覚、藩、蒸気船、脱亜入欧、自給自足、釜山広域市、金、金融、長崎奉行、長崎市、長崎代官、長崎会所、長崎貿易、蕃書調所、通信国、老中、老中奉書、陶磁器、択捉島、抜け荷、排外主義、李自成、李氏朝鮮、東南アジア、東インド艦隊 (アメリカ海軍)、松平定信、松前藩、松方冬子、村上直次郎、村井淳志、根室、根付、植民地、横井小楠、樺太、欧化主義、正保、歴史の終わり、歴史学、歌舞伎、毎日新聞、江華島事件、江戸の火事、江戸上り、江戸幕府、江戸時代、津太夫、清、漆器、服飾、朝鮮半島、朝鮮通信使、末次茂貞、朱印船、戦列艦、戦国大名、明、明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧、浦賀、浮世絵、海底ケーブル、海禁、海舶互市新例、浜田藩、新井白石、文化 (元号)、文楽、文政、日米修好通商条約、日米修交記念館、日米和親条約、日本、日本の文化、日本乞師、日本二十六聖人、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、日本誌、日本料理、日明貿易、政策、1549年、1557年、1587年、1604年、1612年、1613年、1616年、1620年、1623年、1624年、1628年、1631年、1633年、1634年、1635年、1636年、1637年、1638年、1639年、1640年、1641年、1643年、1644年、1647年、1648年、1655年、1667年、1672年、1673年、1684年、1685年、1690年、1692年、1715年、1727年、1742年、1778年、1787年、1790年、1791年、1792年、1795年、1797年、1799年、1800年、1801年、1804年、1806年、1807年、1808年、1809年、1810年、1811年、1812年、1813年、1815年、1825年、1830年、1837年、1840年、1842年、1844年、1845年、1846年、1848年、1849年、1853年、1854年、1858年、1866年、1868年、1875年、18世紀、1945年、3月31日、4月17日、7月20日、7月24日、7月8日、8月14日。 インデックスを展開 (343 もっと) »
力士
力士(りきし、ちからひと)とは、相撲をする人間のこと。厳密には、相撲部屋に所属して四股名を持ち、番付に関わらず大相撲に参加する選手の総称。相撲取り(すもうとり)とも呼ばれる。しばしば関取(せきとり)と呼ばれることもあるが、元来は大関のことを指す異称であり、現代では十両以上の力士のことを指す。幕下以下の力士は力士養成員(りきしようせいいん)と呼ばれる。また、本来は神事に関わる者であるため、日常会話では親愛と尊敬をこめてお相撲さんとも呼ばれる。 わんぱく相撲や大学の相撲部などのアマチュア相撲で相撲を取る者は四股名を持たないため厳密には力士ではない。.
基隆市
基隆市(きりゅうし/キールンし、基隆市、Keelung)は台湾北部にある省轄市である。高雄港に次ぐ台湾で2番目の貨物取扱量を誇る基隆港を抱え、台湾の貿易・物流の重要拠点である。観光では奠済宮を中心に栄えた夜市(廟口小吃)が特に有名。.
厚岸町
厚岸町(あっけしちょう)は、北海道釧路総合振興局にある町。.
千島列島
千島列島(ちしまれっとう)は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。クリル列島( Kuril Islands)ともいう。国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々からなる。総面積10355.61km2。 主に得撫島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。日本政府は択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている。 なお、得撫島から磨勘留島までを中部千島と呼ぶことがあり、本項でも便宜上.
南京条約
南京条約(なんきんじょうやく)は、1842年にアヘン戦争を終結させるため清とイギリスの間で結ばれた講和条約。江寧条約ともいう。南京条約を記した原本は、のちに中華民国が受け継ぎ、香港返還直前は台北で一時期展示されていた。.
南北戦争
青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。 南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War)は、1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。 英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争など、内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、アメリカ国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する(南北戦争のネーミングを参照)。.
南西諸島
南西諸島(赤枠内)と当諸島を構成する島嶼群。 南西諸島(なんせいしょとう)は、九州南端から台湾北東にかけて位置する島嶼群である仲田(2009年)p.10『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』「南西諸島」(1991年)p.550中村(1996年)p.2河名(1988年)p.11。 北から南へ、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島と連なり、沖縄諸島の東に離れて大東諸島、八重山列島の北に離れて尖閣諸島がある。.
史学雑誌
『史学雑誌』(しがくざっし)は、史学会が発行する歴史学の月刊学術雑誌。創刊は1889年(明治22年)。日本の歴史学研究において最も権威ある雑誌の1つ。.
堺
堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.
大尉
大尉(たいじょう)は、古代日本の律令制の職名の一。左右衛門府および左右兵衛府に置かれた。長官・次官・判官・主典の四等官中の判官に相当する。 ---- 大尉(たいい、だいい)は軍隊の階級の一。 尉官の最上級であり、中尉の上、少佐の下に位置する。.
大島幹雄
大島幹雄(おおしま みきお、1953年 - )は、日本のノンフィクション作家、サーカス・プロモーター。.
大島明秀
大島 明秀(おおしま あきひで、Akihide OSHIMA、1975年8月29日 - )は、日本の歴史学者。 主な研究分野は、蘭学・洋学史、日欧交流史、日本近世史。博士(比較社会文化)。 九州大学大学院比較社会文化学府国際文化専攻博士後期課程修了。 熊本県立大学文学部講師を経て、現在同准教授(歴史学)。.
大黒屋光太夫
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。 幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。.
天保
天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
太平洋戦争
太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館リンク切れ --> - 国立国会図書館リサーチ・ナビ(2012年12月20日版/2016年9月16日閲覧)。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。.
奉書船
奉書船(ほうしょせん)とは、将軍が発給した朱印状に加えて、老中の書いた奉書という許可証をもった船のこと。.
孤立主義
孤立主義(こりつしゅぎ、)とは、第二次世界大戦前までアメリカ合衆国が原則とした外交政策で、モンロー主義に代表される。その元々の源泉は、初代大統領ジョージ・ワシントンが離任に際しての告別演説の中で、「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、我々の真の国策である」と述べたことである(もちろん、厳密に言えばこれは「非同盟主義」の萌芽である。).
定高貿易法
定高貿易法(さだめだかぼうえきほう)とは、江戸時代の長崎貿易の統制のために定められた貿易規定。御定高制度・定高貿易仕法とも。 前年までの貨物市法に代わり、貞享2年(1685年)、金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限(「定高」)を設定し、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目(金換算で50000両)に限定して貿易を認めた。また、生糸取引は糸割符、その他の商品に関しては相対取引を原則とした。特に遷界令の解除後に出入りが急増した清国船については、船の積荷高・来航季節・出帆地・乗員数などを勘案して、1艘ごとの定高を定め、それ以上の積荷は本国に持ち帰らせた。また、元禄元年(1688年)には年間貿易許可船数を70隻に制限している。 のちに定高を超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許し、続く海舶互市新例において代物替が原則とされた。 しかし、銅の減産に伴って、定高そのものの制限が行われるようになり、寛保2年(1742年)と寛政2年(1790年)に2度にわたって定高の半減令が出された。ただし、宝暦13年(1763年)以後、外国船が金銀をもって銅以外の俵物・諸色を交易する場合には外売(ほかうり)・別段売の名目で定高の枠外とされるなど、金銀銅の流出を伴わない貿易については許容されたため、長崎貿易全体の交易額は大きな減少を見せなかった。2度にわたる定高半減後の天保10年(1839年)当時の取引総額は、清国船は8艘6900貫目、オランダ船は1艘970貫目であり、外売・別段売が長崎貿易の大きな部分を占めていたことが分かる。 安政5年(1858年)の安政条約の締結によって、廃止された。.
宣教
宣教(せんきょう)とは.
宣教師
宣教師(せんきょうし)は、ある特定の思想や宗教を伝えるために、自分の属する共同体を離れて活動する者のこと。もともとはキリスト教用語で、イエス・キリストの高弟たちのことを使徒と呼ぶが、そのギリシア語表現であるアポストロス(απόστολος)本来の意味は「遣わされた者」であり、これがラテン語に訳された際に、同じ意味を持つ"missio"の語が充てられた。宣教師を意味するヨーロッパの各言語における表記は、このラテン語表記に由来する。(missionary、Missionarなど。)現代では本来のキリスト教用語として意味だけでなく、広義で新思想の普及者を指してそう呼ぶことがある。.
宮本義己
宮本 義己(みやもと よしみ、1947年 - )は、日本の日本史学者。 茨城県生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程満期退学。帝京大学講師、鳩山町史編集委員会専門調査員を経て、國學院大學文学部・芝浦工業大学システム工学部講師。日本中世・近世史を専攻するかたわら、独自の日本医道史の研究を進め、学会誌に多くの論文を発表している。.
宗谷海峡
宗谷岬から宗谷海峡をはさんで樺太を望む 宗谷海峡(そうやかいきょう)は、北海道の宗谷岬と、ロシア連邦が実効支配中である樺太の西能登呂岬(ロシア名:サハリン島・クリリオン岬)との間にある海峡。東西方向の海峡であり、日本海とオホーツク海を結んでいる。海峡幅は最狭部で約42km。.
宗氏
宗氏(そうし、むねし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。.
宗教的迫害
宗教的迫害(しゅうきょうてきはくがい)とはある個人もしくは集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別することに始まり、社会権の制限などの軽微なものから、強制改宗・虐殺などを加えることである。迫害の対象となる信仰の内容は、諸宗教、無神論、その他の無宗教的有神論など多様で、多岐にわたっている。 近代に至って世界の各国で信教の自由が保障されるに至り、宗教的迫害は許されないものであるという合意が出来上がっているが、現在でも発展途上国、社会主義国家、イスラーム国家などでの宗教的迫害が問題になっている。近代と比較して穏健化したキリスト教諸国においても散発的に迫害が起きており、宗教的迫害の解決策は見えていない。.
宗教改革
フスの殉教 宗教改革(しゅうきょうかいかく、Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。 ルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。.
安永 (元号)
安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.
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安政
安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.
寧波市
寧波市(ねいはし、ニンポーし、、、、呉語寧波弁:Ning Pou)は、中華人民共和国浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。長江デルタ南翼経済中心、浙江省経済中心。 沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。年間貨物取扱量が世界一の港ー寧波港の所在地。.
対馬府中藩
対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.
寛永
寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
寛政
寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.
小笠原諸島
小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々である。日本の国土で、東京都小笠原村の区域と完全に一致する。総面積は104km2。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。.
岡本大八事件
岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した江戸時代初期の疑獄事件。.
岩波文庫
岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.
島原の乱
島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。.
川勝平太
川勝 平太(かわかつ へいた、1948年(昭和23年)8月16日 - )は、日本の経済学者(比較経済史)、政治家。学位はD.Phil.(オックスフォード大学・1985年)。静岡県知事(第53-55代)、公益財団法人世界緑茶協会理事長(第3代)、国際日本文化研究センター客員教授、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授、静岡文化芸術大学名誉教授。 早稲田大学政治経済学部教授、国際日本文化研究センター副所長、財団法人総合研究開発機構理事、静岡文化芸術大学学長(第2代)、学校法人静岡文化芸術大学理事長(第2代)などを歴任した。.
丁髷
職人のちょんまげ。1890年。ロバート・フレデリック・ブルム画 丁髷(ちょんまげ)とは江戸時代の老人が結う男髷。.
不平等条約
不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。.
帝国主義
1898年当時の帝国主義列強勢力図 帝国主義(ていこくしゅぎ、imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。.
中川五郎治
中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日(1848年10月23日)は、日本における種痘法の祖。本名・小針屋佐七、別名・中川良左衛門。陸奥国生まれで蝦夷地に渡り、択捉島の漁場の番人を務めていたが、文化露寇の際にロシア側の捕虜となりシベリアに送られ、そこで種痘法を身に付ける。ゴローニン事件の際に日本に送還され、後に松前奉行・松前藩に仕え、箱館・松前を中心に種痘法を広めた。.
中世
中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.
中公新書
中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国人
中国人(ちゅうごくじん)とは、ユーラシア大陸東部に存在する地域としての中華圏、またはそれに根ざした国家、民族などにまつわる多数の意味を持つ広範な概念上の呼称であり、さまざまな場所、あるいは立場上により全て異なる概念になることがある。.
中国語
記載なし。
中華思想
中華思想の概念図 中華思想(ちゅうかしそう)は、中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称世界大百科事典,コトバンクし、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す百科事典マイペディア。実際には、「中華思想」とは、華夷思想という誤った印象で、日本人の造語である。 周辺民族を文化程度の別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、宋代になると北方民族の侵入、宋代の朱子学では中国支配の正当性を強調するため、華夷思想で華夷の別を強調するようになった。 ただし「漢民族」の意味が古代と現代では異なる点には留意である。古代のオリジナルの漢民族は黄河文明に住む極めて限られた。 中国語では「華夷秩序」(簡体字:、英語:)、また中国中心主義(簡体字:、英語:) とも呼ばれる。.
帰化
帰化(きか)は、ある国家の国籍を有しない外国人が、国籍の取得を申請して、ある国家がその外国人に対して新たに国籍を認めること。.
串本町
串本町(くしもとちょう)は、和歌山県東牟婁郡の町。本州最南端の地である。.
主権
主権(しゅけん)とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力中沢 和男「国際政治における主権の機能とその将来」東海大学紀要.
万治
万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
三十年戦争
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる中村賢二郎「三十年戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)。中村賢二郎「三十年戦争」世界大百科事典 第2版Sigfrid 1973。当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。統一的な様相としては、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。.
下田
下田(しもだ、しもた、しただ); 自治体.
丙子の乱
丙子の乱(へいしのらん)は、1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵入し、制圧した戦い。韓国では『朝鮮王朝実録』以来、敵対感が込められた呼称である丙子胡乱 (ピョンジャホラン、へいしこらん)が用いられたが、自国中心主義であるとして丙子戦争の呼称も使用されている。胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。中国では丙子之役と呼ばれている。.
九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.
平山常陳事件
平山常陳事件(ひらやまじょうちんじけん)は、1620年(元和6年)に平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。.
平田篤胤
平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。.
平戸市
北松浦半島側から見た平戸市中心部 平戸城から見た平戸瀬戸(対岸が北松浦半島) 平戸市(ひらどし)は、長崎県北西部の平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。 旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併(新設合併)して新たに平戸市となった。これにより本土にも市域が拡大した。市役所は旧平戸市役所の建物が引き続き使用されている。.
久蔵
久蔵(きゅうぞう、天明7年(1787年) - 嘉永6年6月28日(1853年8月2日))は江戸時代の水主。種痘苗を広島県にもたらした。.
久春古丹
久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名。アイヌ語のkus-un-kotan(対岸・にある・村)に由来する。 九春古丹とも。後の大泊町楠渓町。市街地中央にある台地・神楽岡の北に位置する。 江戸時代、松前藩の穴陣屋があった。また、交易の拠点で北前船も寄港し、松前藩の出先機関として運上屋も置かれていた。 江戸時代末、度々ロシア人の襲撃に遭ったが、明治時代に入って一時期樺太開拓使が置かれた。日露戦争後は樺太民政署を経て樺太庁が置かれたが、樺太庁は後に豊原に移転した。.
康熙帝
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。 西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝'''聖'''宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。.
広東システム
広東システム(カントンシステム、英:Canton System)は、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。「カントン体制」「広東貿易体制」などとも。ヨーロッパ商人との交易を広東(広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である(後述)。.
井上清 (歴史家)
井上 清 (いのうえ きよし、1913年12月19日 - 2001年11月23日)は日本の歴史学者。京都大学名誉教授。日本史専攻。明治維新や軍国主義、尖閣諸島、元号、部落問題に関する著作がある。.
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井上満
井上 満(いのうえ みつる、1900年12月16日 - 1959年5月14日)は、ロシア文学者、翻訳家。 福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学明善校(現福岡県立明善高等学校)卒、1924年ハルピンの日露協会学校卒、翌年上京し文筆活動に入り、社会科学文献を翻訳。1930年ソ連大使館に勤務、ロシア事情の紹介などを行うが、1936年軍機保護法違反で逮捕され三年間下獄。出獄後はロシア文学の翻訳に従事。1941年ゴンチャロフの『フレガート艦パルラダ』を『日本渡航記』として翻訳、1943年ゴロヴニン『日本幽囚記』を翻訳する。戦後はゴンチャロフの『断崖』『オブローモフ』などのほか、ロシア文学を多数翻訳、また日ソ親善協会を創立、日ソ学院を創立し副学院長を勤めた。.
井伊直弼
井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.
代将 (アメリカ海軍)
アメリカ海軍の代将(だいしょう、英:Commodore)は、かつて海軍大佐の上に存在した階級。その地位はアメリカ海軍の創設以来複雑な経緯をたどり、現在では階級でなく単なる称号の扱いとなっている。 アメリカ議会は1862年まで、海軍にいかなる提督も置く意思がなかったので、代将の地位は実質的に海軍軍人の最高位であった。しかしアメリカの代将はイギリスの当時のそれと同じように、高位の階級ではなく、艦長が就く一時的な職位にすぎなかった。当時、アメリカの代将はイギリスの代将(Commodore)やフランスの「シェフ・デスカードル」(Chef d'escadre)のように、先任の艦長にすぎず、少数の戦隊を指揮するか、何か特別な任務を与えられるときに一時的に任命されるものであった。階級はあくまで大佐だったので、その使用と儀礼も、その任命期間に限られていた。 その後、代将(コモドー)はその時の政治情勢等によって正規の階級になったり、また一時的な称号に戻ったりなどを繰り返しつつ、現在に至っている。.
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代物替
代物替(しろものがえ)は、江戸時代の長崎で、海外貿易の際に行なわれた取り引き方法。双方が用意した商品の、金額が一致する数量を交換する、物々交換である。.
廣済堂あかつき
廣済堂あかつき株式会社(広済堂あかつき、こうさいどうあかつき、KOSAIDO AKATSUKI Co.,Ltd.)は、日本の出版社。廣済堂の完全子会社。 暁教育図書株式会社(あかつききょういくとしょ、Akatsuki Kyoiku Tosho.
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延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
廻国奇観
『廻国奇観』 (かいこくきかん、原題:Amoenitates Exoticae)とは、1712年に出版された、当時のペルシャを中心とするアジア諸国の現状について報告したエンゲルベルト・ケンペルによる著作物である。 日本に関する状況も一部に書き記されており、この中でケンペルは、当時の日本の鎖国政策を賞賛している。 植物学研究のリンネは、このケンペルの廻国奇観を参考に日本の植物の命名を行なっている。 のちにケンペルは『日本誌』を著した。.
弘化
弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.
征韓論
征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)。 西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。.
侍政
侍政(侍制、さむらいせい、Samuraicracy)は、幕藩体制を幕府と藩の関係においてではなく、「貴族政(Aristocracy)」や「民主政(Democracy)」といった統治形態(政体)との用語上の一律な比較を可能にしつつ「侍(samurais)」の支配体制ということに重心を置いた言葉であり、併せてパックス・トクガワーナ(すなわち天下泰平)を統治主体たる武士との関係において強調するものである。.
徳川吉宗
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川家光
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.
徳川将軍家
徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.
徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.
徳川綱吉
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.
信牌
信牌(しんぱい)とは海舶互市新例によって、中国(清)船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証である。.
俳句
俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。.
志筑忠雄
志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日(1806年8月16日))は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。.
北東アジア
北東アジア(ほくとうアジア)または東北アジア(とうほくアジア)は、アジアのうち北東部。 国際連合の分類には、北東アジアという地域は存在しない。 さまざまな定義があるが、ここでは、広義に捉えた東アジアと北アジアを合せた地域とする定義で論じる。具体的には、日本、中国、東トルキスタン、朝鮮半島、モンゴル、シベリア、極東ロシアである。 東北アジアと北東アジアは、ともに英文表記では「Northeast Asia」であるが、漢字文化圏やモンゴル等では、「東北亜」などのように伝統的表記によって「東北」としている。これらの地域の方位表記にあっては、このように「東北」が一般的である。.
園芸
一般的に園芸(えんげい)は、以下のように解釈されている。.
ナポレオン・ボナパルト
ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(グランダルメ)と名付けた巨大な軍隊を築き上げてナポレオン戦争を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。.
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ナサニエル・セイヴァリー
thumb ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory、1794年 - 1874年)は、初めて小笠原諸島に移民したとされるアメリカ人で、日本領有時に父島に居住していた欧米系島民の一人。小笠原諸島出身ではないが、「日本の先住民の一人」と表現することも可能である。ナザニール・セボリーまたはナサニエル・セーボレーとも。.
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マーケイター・クーパー
マーケイター・クーパー(英語:Mercator Cooper、1803年9月29日 - 1872年3月または4月)は公式に日本を訪れた最初のアメリカ人であり、東南極に公式に上陸した最初の人物でもある。.
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マニラ
マニラ市(Maynilà 、Manila )は、フィリピン共和国の首都。メトロ・マニラとも呼ばれるマニラ首都圏に所属する都市。フィリピンのルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。 『東洋の真珠』などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は166万人(2007年)であり、人口1,155万人を抱えるメトロ・マニラの中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2016年時点で2,293万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界66位の都市と評価された。東南アジアでは、シンガポール、バンコク、クアラルンプール、ジャカルタに次ぐ5位である。.
マカオ
中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(Macau、澳.
マシュー・ペリー
1855-56年頃のダゲレオタイプの写真 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)は、アメリカ海軍の軍人。 エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。.
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チャールズ2世 (イングランド王)
チャールズ2世(Charles II, 1630年5月29日 - 1685年2月6日)は、王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年5月29日 - 1685年2月6日)。.
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ネーデルラント連邦共和国
ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。 連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。.
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バテレン追放令
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のに由来する。 原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。.
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バタヴィア
バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。.
バタヴィア共和国
バタヴィア共和国、バターフ共和国(バタヴィアきょうわこく、Bataafse Republiek、République batave)は、1795年から1806年まで現在のオランダに存在したフランスの衛星国。ネーデルラント連邦共和国の崩壊後に成立した。1806年にルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国へと移行した。 国名は、古代ローマ時代にネーデルラント北部、現在の南ホラント州一帯に定住していたゲルマン系のバターウィー族に由来する。オランダ人の民主派勢力である愛国者(パトリオッテン)派は、1787年に一時フランスなどに亡命していたが、彼らはオランダ(ネーデルラント)人ではなくバターフェン(バターフ人、バタヴィア人)と名乗っており、帰国して実権を握った際にこれを国名とした。 1798年3月に憲法が採択され、5月に発効した。それまでのネーデルラント7州における自治は大きく制限され、8県に再編された。.
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ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.
ムラカ
展望台から見たマラッカ海峡側の風景 ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。.
モリソン号事件
モリソン号事件(モリソンごうじけん、Morrison Incident)とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。.
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モーリス・パンゲ
モーリス・パンゲ(Maurice Pinguet、1929年5月5日 - 1991年4月16日)はフランスの哲学者(道徳、政治)で日本学者。フランスの高等師範学校出身。パリ大学教授、東京大学教授。また東京日仏学院院長(三代目)を務めた。.
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ヤクーツク
ヤクーツク(Якутск, Yakutsk, Дьокуускай (ジョクースカイ))はロシア連邦に属するサハ共和国の首都。レナ川に面する河港を持つ。人口は217,800人(2006年)。 1632年に建設された要塞を起源とする。北東連邦大学(1956年に開設 旧:ヤクーツク国立大学)などの高等教育機関や、ロシア科学アカデミーの支部がある。.
ヨーロッパ
ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...
ラナルド・マクドナルド
ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、英領時代のカナダで生まれたメティ(西洋人と原住民の混血)の船員、冒険家Dictionary of Canadian Biography, University of Toronto/Université Laval, 2003。鎖国時代の1848年に、アメリカの捕鯨船から小船で日本に密入国し、約10か月間滞在した。長崎では日本人通詞たちの英語学習を助け、日本初の母語話者による公式の英語教師になった。.
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ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー
フランソワ・ルードによるラ・ペルーズの像、1828年 ラ・ペルーズ ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー (Jean François de Galaup, comte de La Pérouse, 1741年8月23日 - 1788年?)は、フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。.
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リターン号
リターン号 (Return) は、延宝元年(1673年)に長崎に来航したイングランド(現在のイギリス)船。日本で売るための羊毛を積み、日本の江戸幕府に貿易再開を求めたが、幕府は上陸を拒絶した。.
ルイ・ボナパルト
ルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte, 1778年9月2日 - 1846年7月25日)は、シャルル・マリ・ボナパルトの五男でナポレオン・ボナパルトの弟。兄によって、帝国顕官国民軍総司令官の職、ホラント王国の王位、サン=ルー伯爵の称号を与えられた。ホラント国王としての名はローデウェイク1世(フランス語の Louis はオランダ語では Lodewijk となる)。 兄のイタリア遠征やエジプト遠征に参加した。のちにリウマチにかかる。 兄の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの連れ子であるオルタンス・ド・ボアルネと結婚した。オルタンスとの間には男子3人が生まれた。.
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ロナルド・トビ
ナルド・トビ(Ronald Toby、1942年 —)は、アメリカ人の歴史学者。近世・近代東アジア史を専門としている。イリノイ大学歴史学部教授。.
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ロシア帝国
ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.
ヴァシーリー・ゴロヴニーン
ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin、1776年4月19日(ユリウス暦4月8日) - 1831年7月11日(ユリウス暦6月29日))はロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、探検家、学者。ゴロヴニン、ゴローヴニン、ゴロブニン、ゴローブニン、あるいはワシーリー・ゴローニンとも。日本語ではゴロウニン、ゴローウニンとも。.
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ヴィンセンス (戦闘スループ)
ヴィンセンス (USS Vincennes)は1826年就役、1865年退役のアメリカ海軍の700トンのボストン級戦闘スループ。現役中は太平洋の警備、南極調査、南北戦争中のメキシコ湾封鎖、等に従事した。ヴィンセンスの名前は、独立戦争中のヴィンセンスの戦いに由来する。ヴィンセンスは地球を一周した最初の米国軍艦であった。.
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ヴェストファーレン条約
ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、Pax Westphalica、Westfälischer Friede、Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である木谷(1975)pp.21-24。ラテン語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である菊池(2003)pp.214-219。 この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。.
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トルデシリャス条約
トルデシリャス条約(トルデシリャスじょうやく、Tratado de Tordesilhas, Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。 本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録された。 サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。.
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ヘンドリック・ドゥーフ
ヘンドリック・ドゥーフ 日本で描かれたドゥーフ(司馬江漢作) ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff、1777年12月2日 - 1835年10月19日)は、オランダがフランス革命軍に占領され、オランダ東インド会社が解散した後の1803年-1817年に、出島のオランダ商館長(カピタン)に就き、米国船と貿易を行ったオランダ人。ドゥーフが商館長在任時にフェートン号事件が起きた。.
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ブレスケンス号事件
ブレスケンス号事件とは、1643年(寛永20年)にオランダ船ブレスケンス号(Breskens、全長33m、幅7mの武装ヤハト船)の乗組員が盛岡藩領に上陸し、捕縛された事件。乗組員らはしばらく後に釈放されたが、その後のオランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは1650年(慶安3年)になってからであった。.
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プロテスタント
プロテスタント(Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。.
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パラダイス鎖国
パラダイス鎖国(パラダイスさこく、Paradaisu Sakoku)は、新語・流行語・ビジネス用語のひとつであり、「独立性の高いエリアで「快適化」が著しく進行すると、エリア外への関心を失い『鎖国』状態となって取り残される」、という警句である。 アメリカ・シリコンバレー在住のIT企業コンサルタント・海部美知が2005年に発信したインターネット上の意見ではじめて使われ、2008年には海部による著書『パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本』(アスキー出版)が出版されて広く知られるようになった。 もとは携帯電話の開発競争を評してうまれた言葉であり、鎖国状態に陥るエリアとして国や地域を想定したが、組織 (社会科学)や部署にも適用されている。.
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パベル・レベデフ=ラストチキン
パベル・セルゲイビッチ・レベデフ=ラストチキン(ロシア語:Павел Сергеевич Лебедев-Ласточкин、ラテン文字表記:Pavel Sergeyevich Lebedev-Lastochkin)は、18世紀後半のロシア帝国ヤクーツクの商人で、鎖国中の日本と接触した最初のロシア人の一人である。ロシア政府は、日本を開国させるにあたり、正式な使節や軍隊を送るより安くつくという点で、個人的な商人の活動に期待していた。 ラストチキンは日本の商品または蝦夷地の毛皮の交易により利益を出そうとした。最初の遠征は、オホーツク海で船が転覆し、完全な失敗に終わった。しかしながら、彼はグリゴリー・シェリホフと共に、千島列島における独占交易権を得た。計画は探検隊およびおよそ40人の入植者と共にウルップ島に向かうというものであった。彼らはウルップ近くに小さな入植地を作り、アイヌ人を説得して日本に案内してもらうことにした。1775年の夏にウルップに到着したものの、嵐で船が沈んでしまい、2回目の遠征も失敗した。 ラストチキンはそれでも諦めず、3回目の遠征では数隻の予備の船を用意した。1778年、国後島のアイヌの長ツキノエの案内で、ラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンとシベリア貴族のイワン・アンチーピンが厚岸に上陸し、遠征隊は松前藩士に会うことに成功した。彼らは松前藩主に贈り物をして交易を求めたが、松前藩ではそのような判断はできず、幕府に相談の必要があるため、来年もう一度来るようにと言い渡された。翌年再度訪問したが、藩主の松前道広は幕府にロシア人来航を告げず、独断で蝦夷地での交易を拒否した。ラストチキンの贈り物は返却され、貿易を求めるなら長崎に行くようにと言われたが、長崎はロシアからは遠くて不便なことは明らかであった。ラストチキンはウルップに戻り、次の手を考えることにした。 2年後、大きな地震による津波が起こり、ウルップのロシア船は内陸に打ち上げられてしまった。この出来事のため、ラストチキンは日本との交易を諦めた。しかし失敗にもかかわらず、日本を開国させるという試みにおいて、ラストチキンは接触した最初のヨーロッパ人(オランダ人以外)の一人である.
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ビル・トッテン
ビル・トッテン(Bill Totten, 1941年 -)はアメリカ合衆国出身の実業家、評論家。現在、株式会社アシスト代表取締役会長。2006年9月に日本国籍を取得している。ペンネームは、賀茂川耕助。.
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ディアナ号
沈没するフリゲート「ディアナ号」 ディアナ号(ディアナごう)は、船の名前。日本では、19世紀のロシア海軍の軍艦として2隻の船が比較的に知られている。ほかにも、19世紀のロシアの軍艦として「ディアナ (ロシアの防護巡洋艦)」(en, パルラーダと同型)が存在する。音写表記としてはジアーナとも。.
ディスクール
ディスクール()は、言語・文化・社会を論じる際の専門用語としては『知恵蔵』 2007年版、「書かれたこと」や「言われたこと」といった、言語で表現された内容の総体を意味する概念である。英語ではが相当し、日本語では意訳して言説(げんせつ)の語を当てることが多い。.
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・デ・ザビエル( または, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。.
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フランス
フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.
フランス革命戦争
アルコレの戦い ナイルの海戦 フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、Guerres de la Révolution française, French Revolutionary Wars)は、1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争である。当初はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認する意味をもっていた。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。.
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フランス東インド会社
フランス東インド会社(フランスひがしインドがいしゃ、Compagnie française des Indes Orientales)は、フランスで1604年にアンリ4世が対インド貿易でのオランダとイギリスの独占に対抗して組織した特権会社である。.
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フランソワ・カロン
平戸のオランダ商館(17世紀の版画) 『日本大王国志』に掲載された、カロンの発言に基づいた日本地図。カロンは『日本大王国志』の中で、「蝦夷地は探検が十分でなく、島か半島か不明であり、津軽海峡は大きな入り江である」と書いている。地図は1661年に作製されたものだが、その根拠は1636年のカロンの知識である フランソワ・カロン(François Caron、1600年 - 1673年4月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した 。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めたFrazer, Robert Watson.
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フリゲート
帆走するフリゲート フリゲート(Frigate)は、軍艦の艦種の一つ。時代により様々な任務や大きさの軍艦に対して使用された名称である。フリゲイトとも表記される。 日本では、"Destroyer"は「駆逐艦」、"Cruiser"は「巡洋艦」、"Battleship"は「戦艦」などと日本語訳されたが、フリゲートに関してはそのままカタカナ語として用いられている。語尾に「艦」を付加して「フリゲート艦」と呼ばれることもあるが、「フリゲート」のみで一つの艦種を表すので、特に「艦」は付けなくてもよい。なお漢字文化圏では、「駆逐艦」「巡洋艦」については日本での訳語がおおむね踏襲されているが、「フリゲート」については「護衛艦」(, )あるいは「巡防艦」と訳されることが多い。.
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。.
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フェートン (帆走フリゲート)
フェートン(HMS Phaeton)はイギリス海軍のミネルヴァ級38門5等フリゲート。1808年に出島への侵入事件を起こしたことでよく知られている。フェートンは1780年から1782年にかけてリヴァプールで建造され、フランス革命戦争やナポレオン戦争において多くの海戦に参加した。また、1805年から1812年の間は太平洋に派遣されていた。イギリス海軍は1827年7月にフェートンを売却しようとしたが契約が成立せず、結局翌年3月27日に売却された。.
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フェートン号事件
フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。.
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ニコライ・レザノフ
ニコライ・レザノフ ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。.
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ニコラス・クーケバッケル
ニコラス・クーケバッケル(Nicolaes CoeckebackerまたはCouckebacker)は、オランダ東インド会社平戸商館の第7代商館長。1633年から1638年までその職にあった。 クーケバッケルが来日する前、前商館長のコルネリス・ファン・ナイエンローデとバタヴィアの使節ウィレム・ヤンセンにより、タイオワン事件の余波による日蘭の貿易中止は4年ぶりに解決されていた。しかしながら、事件のオランダ側当事者であるピーテル・ノイツは人質として日本に抑留されており、この解放はクーケバッケルに課された課題であった。結局ノイツは、1636年にクーケバッケルの代わりにフランソワ・カロンが参府し、将軍徳川家光に拝礼した際に解放されている。これは、平戸藩藩主にノイツの解放を頼まれていた老中の酒井忠勝の口添えによるものであった。 1637年(寛永14年)に天草四郎に率いられたキリシタン一揆である島原の乱が発生した時、クーケバッケルはまず長崎代官の末次茂貞(タイオワン事件の末次平蔵政直の息子)に手紙を送り、彼を通して長崎奉行に乱の鎮圧の協力を申し出た。しかし、茂貞はその申し出が遅かったとして、使者として訪れた当時の商館次席フランソワ・カロンを非難した。しかしながら、松平信綱はクーケバッケルに海上からの砲撃を依頼する。クーケバッケルは、砲5門を船から陸揚げして幕府に提供した。さらに、1638年2月24日から2週間にわたり、原城に立てこもった一揆軍を、デ・ライプ号とベッテン号から砲撃した。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が高まったため、3月12日信綱は砲撃を中止させた。この島原の乱への参加は、クーケバッケルの日記によると、気が進まずまた効果も少なかった 。実際、幕府はカノン砲による直射の効果に満足せず、後にカロンに対し、曲射が可能な臼砲の作成を依頼している。ただ、クーケバッケルが幕府側へ戦力を提供したことは、反乱軍へ与したと見られて追放されたポルトガル商館に対し、少なくともオランダは幕府に逆らう意思はないものとみなされ、オランダ商館は幕府の海外事情の情報源としての価値から安政5年7月10日(1858年8月18日)の日蘭修好通商条約締結まで存在することとなった。 1640年、クーケバッケルはベトナムの鄭氏政権との交渉を試みたが失敗に終わっている。 クーケバッケルは「トンキン旅行と台湾のタイオワンの会社組織の査察に関する報告書」を書いている。オランダ帰国後、故郷のデルフトで市の評議員を勤めた。 クーケバッケルは部下で次席商館員であり、滞在年数が長く日本の事情に通じたカロンと良好な関係にあり、カロンに次の商館長を委ねている。.
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ホラント王国
ホラント王国(ホラントおうこく、Koninkrijk Holland、Royaume de Hollande)は、1806年から1810年まで現在のオランダに存在した、フランス帝国の衛星国。この王国を指してオランダ王国と呼ぶこともある。 フランス皇帝ナポレオン1世によって送り込まれた弟ルイ・ボナパルトを国王(ローデウェイク1世)とし、バタヴィア共和国に代わって成立した。国名は、かつてネーデルラント連邦共和国において中心的な存在であったホラント州に由来する。 大陸封鎖令(1806年)をルイが拒否したことや、密貿易の横行、さらにイギリス軍が1809年にゼーラントへ上陸したことなどから、1810年にフランスの侵攻を受けて完全に併合された。侵攻前に退位したルイに代わり、息子のナポレオン・ルイ(ローデウェイク2世、後のナポレオン3世の兄)が、併合される前の10日間だけ王位に就いた。.
利尻島
遠別町から見た利尻島 利尻島 利尻島(りしりとう)は、北海道の北部、日本海上に浮かぶほぼ円形の島である。面積182.11km2。日本の島嶼部で18番目に広い面積を有している。島内には利尻富士町と利尻町の自治体があり、『平成22年住民台帳人口・世帯数』における島の総人口は約5,400人である。北には礼文水道を挟み礼文島が浮かぶ。.
列強
国連安保理で拒否権を持たない列強:日本, ドイツ 列強(れっきょう、great powers, major powers)とは、世界規模の影響力を持つ複数の国家を指す用語である。 列強は経済的、軍事的、外交的、文化的、政治的などの力を持ち、しばしば他の小国の行動に影響を与える。国際関係の理論では列強の位置づけは、その力を発揮できる能力や、領土などの空間や、国際的な地位などの面から特徴づけられる。 いくつかの諸国が広く列強と呼ばれているが、その明確な定義は存在せず、ウィーン会議などの国際会議や国際連合安全保障理事会などの国際組織によって公式に認識されるDanilovic, Vesna.
刀水書房
刀水書房(とうすいしょぼう)は歴史書を専門とする日本の出版社である。.
嘉靖
嘉靖(かせい)は中国、明代の元号(1522年 - 1566年)。第12代皇帝世宗の在位中に使われた。このため世宗は嘉靖帝と呼ばれる。.
嘉永
嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.
善六
善六(ぜんろく、明和6年(1769年) - 文化13年(1816年)頃)とは江戸時代後期の船乗り(水主)である。ロシア帝国に漂着してロシアに帰化し、日本語の通訳となった。 また、確実な記録に残っている中ではデンマーク、グレートブリテン島、カナリア諸島、ブラジル、ポリネシア(マルキーズ諸島、ハワイ諸島)を訪れた最初の日本人の1人であるただしグレートブリテン島やハワイについては上陸していないため、最初にグレートブリテン島に上陸した日本人は天保3年(1835年)の音吉ら宝順丸漂流民3名、ハワイに上陸した日本人は文化3年(1806年)の平原善松ら稲若丸漂流民8名である。しかし両地域ともそれ以前に訪れた日本人がいるという異説もある。。.
和菓子
見た目の美しさも追求される和菓子(上生菓子) 和菓子(わがし)は、日本の伝統的な菓子のこと。.
和辻哲郎
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。.
和歌山県
和歌山県(わかやまけん)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。県庁所在地は和歌山市。日本最大の半島である紀伊半島の西側に位置し、県南部には大規模な山地を有する。.
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).
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アレクサンドル・コジェーヴ
アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojève、1902年4月28日 - 1968年6月4日)は、ロシア出身のフランスの哲学者である。フランス現代思想におけるヘーゲル研究に強い影響を与えた。.
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アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン
アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン、イヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールン(Adam Johann von Krusenstern;:en:Adam Johann von Krusenstern; Иван Фёдорович Крузенштерн 、1770年11月19日 - 1846年8月24日)は、エストニア出身のロシア海軍提督であり探検家。ロシアで最初に世界周航(1803年 - 1806年)を行った。彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を "MER DU JAPON" と記したとされ、「日本海」を最初に命名した人物として日本の百科事典類には記されている。.
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アダム・ラクスマン
アダム・ラクスマン アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露:Адам Кириллович Лаксман、瑞:Adam Laxman、1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。.
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アイヌ
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.
イベリア半島
イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.
イギリス
レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.
ウィレム2世 (オランダ王)
ウィレム2世(、ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク・ファン・オラニエ=ナッサウ、、1792年12月6日 - 1849年3月17日)は、第2代オランダ国王(在位:1840年10月7日 - 1849年3月17日)、ルクセンブルク大公(フランス語名ギヨーム2世、)。初代オランダ国王ウィレム1世の息子。妃はロシア皇帝パーヴェル1世の娘アンナ・パヴロヴナ。.
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エンゲルベルト・ケンペル
ンペルの想像図 エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。.
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オランダ
ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.
オランダ商館
ランダ商館(オランダしょうかん)は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。.
オランダ風説書
ランダ風説書(オランダふうせつがき、阿蘭陀風説書)は、日本が鎖国政策をとっていた時期に江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類である。.
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オランダ語
ヨーロッパにおける低地フランク語の分布 オランダ語(オランダご、Nederlands )は、インド・ヨーロッパ語族の西ゲルマン語群に属し、オランダおよびベルギー北部を中心に2300万人以上が使っている言語。ベルギー方言はフラマン語と言うことがある。 日本語では現在は主にオランダ語と言うが、江戸時代には蘭語(らんご)とも呼ばれ、今でも蘭(らん)という略称が広く使われている。.
オランダ東インド会社
historicalオランダ東インド会社の旗 オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社、オランダ語: Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。 資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。 江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた。.
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カトリック教会
トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.
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カピタン
復元された出島商館内部 カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことを Opperhoofd(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。.
ガラパゴス化
ラパゴス化(ガラパゴスか、Galapagosization)とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い種(製品・技術)が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である。ガラパゴス現象(Galápagos Syndrome)とも言う。.
キャサリン・オブ・ブラガンザ
ャサリン・オブ・ブラガンザ(ヤコブ・ユイスマンス画) キャサリン・オブ・ブラガンザ(ベネデット・ジェンナーリ(孫) 画) キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza、1638年11月25日 - 1705年11月30日)は、イングランド王チャールズ2世の王妃。ポルトガル語名はカタリナ・デ・ブラガンサ(Catarina de Bragança)。.
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キリシタン
リシタン(吉利支丹、Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。.
キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
キリスト教徒
リスト教徒(キリストきょうと、Christianus; クリスティアーヌス)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。.
コロンバス (戦列艦)
浦賀におけるコロンバスとヴィンセンス 日本人が描いたコロンバス号と米国水兵 コロンバス (USS Columbus) は、砲74門搭載のアメリカ海軍の戦列艦。その名を持つ艦としては2隻目。1846年にはジェームズ・ビドル代将の旗艦としてペリーに先行して浦賀に来航し日本に通商の要求をしたが成功しなかった。.
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ゴローニン事件
ーニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)らが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のと、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記(原題:Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах)』により広く知られる。 ※日付は和暦。.
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シベリア
       シベリア連邦管区        シベリア        広義の(歴史的)シベリア シベリア(Siberia 、Сибирь )は、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域である。漢字表記で西比利亜又は西伯利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 一般的には極東分水嶺(サハ共和国東縁)より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域(極東ロシア)は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の共和国・自治管区は存在するが、独立国家は存在しない。主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ヤクーツクがある。広義のシベリアはさらに、エカテリンブルク、ハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。現在ではロシア語話者が人口の大半を占めるが、サハ語などのテュルク諸語や、ウラル語族に属する言語が多く分布している。.
ジョン・ケンドリック
ョン・ケンドリック(英語:John Kendrick、1740年頃 – 1794年12月12日)は、アメリカの軍人、船長、冒険商人。ロバート・グレイ(Robert Gray)らと共に、 アメリカ太平洋岸北西部探検を行った。また、日本に来航した最初のアメリカ人と推定される。.
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ジェームス・グリン
ェームス・グリン(英語:James Glynn、1800年 – 1871年)はアメリカ海軍の士官で、1848年に鎖国中の日本との交渉に初めて成功した人物とされている。.
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ジェームズ・ビドル
ェイムズ・ビドル(James Biddle, 1783年2月18日 - 1848年10月1日)はフィラデルフィア名門出身のアメリカ海軍の士官。ジェイムズ・ビッドルと呼ぶ場合もある。東インド艦隊の司令官として1846年に日本を開国させようとするが失敗。.
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スペイン
ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.
セバスティアン・ビスカイノ
バスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno, 1548年 - 1624年)は、スペインの探検家。.
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タイオワン事件
タイオワン事件(タイオワンじけん)、別名ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ()との間で起きた紛争。 「タイオワン」とは台南安平の当時のオランダ名。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。.
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タウンゼント・ハリス
タウンゼント・ハリス(, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。 日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。.
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サン=フェリペ号事件
ン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件日本大百科全書『サン・フェリペ号事件』文責松田毅一。。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされる。.
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内地雑居
内地雑居(ないちざっきょ)とは、内地開放(ないちかいほう)とも呼ばれ、外国人居留地などの外国人に対する居住・旅行・外出の制限を撤廃して国内における自由な居住・旅行・営業を許可すること。明治時代の日本では条約改正と絡んで激しい論争となった。.
出島
出島(でじま)は、1634年江戸幕府の政策の一環として長崎に築造された人工島である。扇型になっており面積は3969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド株式会社(AVOCアムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して対オランダ貿易が行われた。出島全体は大正11年(1922年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。 現在は、高度経済成長期以降の埋め立て工事とビル建設により、出島の周囲は全て陸地になっている。.
函館
函館(はこだて);地名・行政区分.
函館市
函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.
八十年戦争
八十年戦争(はちじゅうねんせんそう、Tachtigjarige Oorlog)は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある『スペイン・ポルトガルを知る事典』(平凡社)や『世界史B用語集』(山川出版社)等で、オランダ独立戦争の名称も並称されている。。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。.
元和 (日本)
元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.
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元和の大殉教
元和大殉教図 元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。この事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていく。また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている。.
国後島
国後島(くなしりとう)は、北海道知床半島の東にあり、千島列島(ロシア語地名:クリル諸島 Курильские острова)の最南に位置する島。ロシア名はクナシル島(Остров Кунашир)、英語表記はKunashirである。 島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」または「キナ・シリ/キナ・シル(草の・島→草の島)」からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼んでおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。.
倭館
倭館(わかん、)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。.
石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
現代 (時代区分)
時代区分の現代(げんだい)とは、世界の歴史における時代区分で、現在進行している時代のことである。平たく言えば「現在の時代」である。 通例では、対象とする分野における体制や状態が、現在と同じ形に変化した時点以後の時代を指す。“古代→中世→近世→近代→現代”という時代区分の最後に来る。.
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琉球侵攻
琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった『琉球国由来記』「西来禅院記」「」。.
琉球王国
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.
福建省
福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.
竹島事件
竹島事件(たけしまじけん)は、天保元年(1830年)頃から天保7年(1836年)までに起きた、石見浜田藩松井松平家を舞台とした密貿易事件である。.
糸割符
糸割符(いとわっぷ)とは、江戸時代の日本における生糸輸入の方式である。江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えていた。白糸割符ともいう。.
紀伊大島
紀伊大島(きいおおしま)は和歌山県東牟婁郡串本町の沖合い約1.8kmの海上に浮かぶ面積およそ9.68km2、周囲28kmを誇る和歌山県下最大の島である。元来より大島と呼ばれてきたが、全国的に大島の名を持つ土地は数多く、それらとの区別のため「紀伊」を冠し「紀伊大島」と呼ばれる。また、串本大島とも呼ばれる。人口はおよそ2,000人で、和歌山県で唯一の離島振興対策実施地域ともなっていた。1890年には、日本とトルコの友好関係のきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件が当島の沖で発生した。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
父島
島(ちちじま)は、東京都・小笠原諸島の父島列島の島。.
絶対君主制
絶対君主制(ぜったいくんしゅせい、)とは、君主制の一形態で、君主が統治の全権能を所有し、自由に権力を行使する政体である。対比語は、君主の権力が憲法などで制限されている政体である制限君主制または立憲君主制。.
絹
絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.
産業革命
ワットの改良蒸気機関。ワット式蒸気機関の開発は動力源の開発における大きな画期であり、産業革命を象徴するものである 産業革命(さんぎょうかくめい、Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。 経済史において、それまで安定していた一人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。.
田沼意次
沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.
番屋
屋(ばんや).
異国船打払令
国船打払令(いこくせんうちはらいれい)とは、江戸幕府が1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。 しかし、外国についての情報を考えると何が起こるか分からないので「薪水給与令」として異国船打払令は数年で廃止された。.
白人コンプレックス
1970年代の日本の少女漫画おいては、設定が日本人であるにもかかわらず金髪碧眼の白人的容姿のキャラクターが好まれ、2010年代でもモデルなどは白人や白人系ハーフの起用が多い 白人コンプレックス(はくじんコンプレックス)とは、日本や韓国、台湾や中国などの非白人国の国民が抱く欧米白人(コーカソイド)の容姿やライフスタイル等に対する憧れと、自人種(黄色人種の場合ではモンゴロイドなど)や自身の容姿に対する劣等感(コンプレックス)を指して呼ぶ言葉である(Gye comms、2016年7月16日)(livedoor news、2017年8月25日)。なお、欧米白人社会に根付く差別的思想である白人至上主義とは異なる。.
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銀
銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.
音吉
音吉(おときち、文政2年(1819年) - 慶応3年(1867年)1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民。後にはジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) と名乗った。名は乙吉とも記される。.
遠国奉行
遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。.
荒野泰典
荒野 泰典(あらの やすのり、1946年 - )は、日本の歴史学者、立教大学名誉教授。専門は日本近世史。広島県呉市出身。.
非武装中立
非武装中立(ひぶそうちゅうりつ)とは、国家や集団などの安全保障の考え方の1つであり、自衛を含めた軍備を放棄して、中立主義を行うものである。.
蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.
蝦夷地
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.
蠣崎氏
蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.
順 (王朝)
順(じゅん、1644年 - 1645年)は、大順(だいじゅん)ともいい、1644年に明朝を倒した李自成が建国を宣言した王朝。一時は現在の内地18省を実効支配し、満洲や新疆東部に羈縻機構を設置した。建国宣言当初は西安を首都と定めていたが、李自成が北京を攻略後、皇帝を称するにあたり北京を改めて首都と定めた。.
西暦
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.
親藩
親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.
駿府
駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.
言語
この記事では言語(げんご)、特に自然言語について述べる。.
高宗 (朝鮮王)
宗(ゴジョン、こうそう、、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)。韓国併合後は大日本帝国の王族として徳寿宮李太王と称された。 姓は李(イ、)、諱は㷩(熙の異体字(れっかではなく火)、ヒ、)、初諱は載晃(ジェファン、)、幼名は命福(ミョンボク、)、小字は明夫(ミョンプ、)、字は聖臨(ソンニム、)、号は珠淵(チュヨン、)。諡は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳尭峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝。即位時の年号をとって光武皇帝(クァンムファンジェ、こうぶこうてい、광무황제)と呼ぶこともある。即位前は翼成君(イクソングン、よくせいくん、익성군)に封じられていた。.
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高田屋嘉兵衛
屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。.
譜代大名
譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.
魔女狩り
女狩り(まじょがり、chasse aux sorcières、Hexenverfolgung、witch-hunt)は、魔女または妖術の被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と結託してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。 かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。 妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会にみられる人類学的事象であり、20世紀以降もアフリカ、パプアニューギニア、インドなどで妖術の容疑者に対する迫害が行われたことが報告されている。それら非ヨーロッパ諸国の現代の魔女狩りとヨーロッパの歴史的魔女狩りとの類似点に鑑み、魔女狩りの定義を拡大適用して時代や地域の限定から解き放つ必要が生じている。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
貨物市法
貨物市法(かもつしほう)とは、江戸時代の長崎における輸入に関する法律である。市法貨物仕法とも呼ぶ。 江戸時代初期、日本において最も重要な輸入品は、中国産の生糸(白糸)であった。幕府は慶長9年(1604年)から糸割符制度による絹の価格抑制を行っていた。この制度は春先にその年の絹の価格を決定して、その後1年間はその価格を適用するものであったが、中国商人は春先に少量の絹のみを持ち込み価格を吊り上げ、後にその価格で大量に輸出するという対抗手段に出た。このため糸割符制度は明暦元年(1655年)に廃止された。 その後、長崎貿易は相対売買仕方による自由貿易となる。これにより貿易量は増大したが、その支払いのための金銀の流出も増大した。これを抑制するために寛文12年(1672年)に長崎奉行牛込重忝によって制定されたのが貨物市法である。この法は7か条からなっていた。.
貿易
貿易(ぼうえき、international trade、trade)とは、ある国(またはそれに準ずる地域)と別の国(同)との間で行なわれる商品の売買のことをいう。商品を外国に対して送り出す取引を輸出、外国から導入する取引を輸入という。通常は、形のある商品(財貨)の取引を指すが、サービス貿易や技術貿易のように無形物の取引を含める場合もある。 多くの国で貿易額は国内総生産のかなりの比率を占める。貿易は有史以来長い間存在するものの(シルクロードやアンバーロードを参照)、経済・社会・政治の各局面で貿易の重要性が高まったのはここ数世紀のことである。工業化、交通機関の発達、グローバル化、多国籍企業、アウトソーシングはみな貿易に大きな衝撃を与える。貿易の拡大はグローバル化の基礎である。貿易は経済学の一分野として扱われ、国際金融とともに国際経済の一部門を形成する。.
鳩野宗巴
鳩野 宗巴(はとの そうは)は、日本の医師。1世から10世までが同じ名を受け継いで活動していたが、1世と8世が特に有名である。 1世は禁を犯してオランダに渡航し、医学を学んだという。 8世は熊本城下で医術を業としていたが、西南戦争時、1877年2月23日薩軍の治療強要に対し官軍、薩軍一般庶民と別なく治療を引き受け実施した。戦後罪に問われたが、最終的に九州臨時裁判所から無罪判決を受けた。 各人物の詳細は以下に述べる。.
黒船
ナオ。黒色で塗られているため黒船と呼ばれた 黒船(くろふね)は、大型の西洋式航洋船のことで、語としては江戸時代の前から近世の日本で用いられた。しかし、今日ではより狭く幕末に来航した船、特に1853年7月8日に浦賀沖に来航したアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の事を指すことが多い。現在では、外国の日本に対する圧力や外資進出などこれまでの常識を覆す存在を「黒船」に重ね合わせ、比喩的表現で使用される。.
黒船来航
嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。.
近世邦楽
近世邦楽(きんせいほうがく)は日本の近世期(織豊期~江戸期)にかけて発生、もしくは飛躍的に発達した音楽の総称。 以下に掲げるのは、現存、廃絶の別を問わず近世期に生れた邦楽分野、およびこの期間に世人にひろく流行した邦楽分野である。(一部重複).
近代化
近代化(きんだいか)とは、社会を近代的な状態に変えること。即ち、政治・経済が、国民国家と産業化を特徴とする形態に変えることである。.
茶道
茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).
興宣大院君
興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。.
蘭学
蘭学(らんがく)は、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった。初期は蛮学(「南蛮学」の意)、中期を「蘭学」、後期を「洋学」と名称が変わっていった経緯がある。.
阿片戦争
阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.
薩摩藩
薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.
薪水給与令
薪水給与令(しんすいきゅうよれい)とは、江戸時代後期に江戸幕府が打ち出した外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令である。.
間宮海峡
間宮海峡(まみやかいきょう)は、樺太(サハリン島) とユーラシア大陸(北満州・沿海地方、ハバロフスク地方)との間にある海峡。北はオホーツク海、南は日本海に通じ、長さはおおよそ660km。最狭部の幅は約7.3km、深さは最浅部で約8m。冬の間は凍結し、徒歩で横断することも可能である。.
開国
開国(かいこく)とは、「鎖国」という言葉の対義語として、すなわち外国との交流を行うことを表す意味でよく用いられる。大日本帝国では、開国進取が国是とされていた。 この言葉には歴史的な用例として同時に〈建国〉、〈開拓〉などの意味もあった。また、この言葉には「鎖国」と同様に文明的に〈進んでいる/遅れている〉ことに対する眼差しも内包されており、日本が歴史書の中で、中国や朝鮮の歴史を「鎖国」/「開国」と刻印していった営為の背景には、そのような眼差しが潜んでいるという説がある。(大島明秀『「鎖国」という言説―ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史―』ミネルヴァ書房、2009年。大島明秀「「開国」概念の検討―言説論の視座から―」(『國文研究』第55号、2010年).
藤田覚
藤田 覚(ふじた さとる、1946年6月5日 - )は、日本近世史学者、東京大学名誉教授。長野県生まれ。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
蒸気船
蒸気船(じょうきせん)とは、蒸気機関を用いスクリュー・プロペラや外輪を廻すことより推進する船のことである。蒸汽船や汽船ともいう。 ミシシッピー川の河船をモデルにした蒸気外車船フロンティア号 一般に蒸気船といえば石炭を燃料とする古典的な船のことを指し、蒸気タービンや原子力による蒸気機関を持つ船は蒸気船と呼ばれない。.
脱亜入欧
脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、明治時代の日本において、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的としたスローガンや思想である。.
自給自足
自給自足(じきゅうじそく)とは、生活に必要な物資を手に入れる生活のあり方のことである。 自給自足では、食料や衣料、住居などを自分自身で生産または製作して生活する。食糧生産を試みる人々が増えている。.
釜山広域市
釜山の山城(金井山) 水営区の広安里ビーチ 釜山広域市(プサンこういきし、韓国語表記:、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから朝鮮半島と日本とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。.
金
自然金 金(きん、gold, aurum)は原子番号79の元素。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。 元素記号Auは、ラテン語で金を意味する aurum に由来する。大和言葉で「こがね/くがね(黄金: 黄色い金属)」とも呼ばれる。。 見かけは光沢のある黄色すなわち金色に輝く。日本語では、金を「かね」と読めば通貨・貨幣・金銭と同義(お金)である。金属としての金は「黄金」(おうごん)とも呼ばれ、「黄金時代」は物事の全盛期の比喩表現として使われる。金の字を含む「金属」や「金物」(かなもの)は金属全体やそれを使った道具の総称でもある。 金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。熱水鉱床として生成され、そのまま採掘されるか、風化の結果生まれた金塊や沖積鉱床(砂金)として採集される。 これらの性質から、金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられた。銀や銅と共に交換・貨幣用金属の一つであり、現代に至るまで蓄財や投資の手段となったり、金貨として加工・使用されたりしている。ISO通貨コードでは XAU と表す。また、医療やエレクトロニクスなどの分野で利用されている。.
金融
金融(きんゆう、finance)とは、一般に、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通することをいう。しかし、歴史に残る金融は合理化の手段である。したがって合理的に解釈すれば、ここにいう「不足」とは絶対量のそれではなく、単純に資金需要を指すことになる。.
長崎奉行
長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。.
長崎市
佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.
長崎代官
長崎代官(ながさきだいかん)は、長崎を治めた代官。長崎代官と称される役職には、.
長崎会所
長崎会所(ながさきかいしょ)は、江戸時代に天領であった長崎に設けられた貿易機関。現在の長崎税関の前身にあたる。.
長崎貿易
江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。.
蕃書調所
九段南の「蕃書調所跡」の碑 / 1856年(安政3年)開設時の所在地に建立 蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。.
通信国
通信国(つうしんこく)とは、江戸時代の鎖国下に日本と交渉を持った国のうち、江戸幕府と正式な国交があった朝鮮国(朝鮮王朝)と琉球王国の2か国をさす。.
老中
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.
老中奉書
老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。但し、大老および大政参与は加判を免除されている。また、老中格では署名を行わない。 老中が連名で発給する連署奉書と、単独で発給する奉書がある。前者の例としては大名や遠国奉行への命令伝達、後者の例としては将軍家への進物の受け取り確認等があげられる。寛文4年(1664年)4月1日に制度が改定され、小事については老中一判の奉書となった。 宛名には「殿」を用い、発給日は年を記さず月日のみである。例外として、城の修築許可証には年月日が記される。差出人となる老中の名は、序列の低い者から順に署名する。 老中が大名や旗本に宛てて私信を発することもあるが、この場合は宛名の敬称が「様」となるので区別される。 内容は将軍家への機嫌伺や病気見舞い、拝領御礼や慶賀祝賀、八朔祝儀、社参供奉から参勤帰国や養子縁組などの許可など多岐にわたり、江戸初期には異国船やキリシタンなど時代的特有の文書が見られ、対馬宗家文書では朝鮮通信使関係の文書が多いなどの特徴をもつ。 老中奉書が多く残される文書群として対馬宗家文書(九州国立博物館所蔵)や土佐国山内家文書がある。.
陶磁器
野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.
択捉島
択捉島(えとろふとう、)は、千島列島南部に位置する島。日本では固有の領土であるとしているが、現在はロシア連邦が実効支配している。 地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・ヲロ・プ(岬の・ある・所)」から。ロシア名はイトゥルップ島(ロシア語: Итуруп)。.
抜け荷
抜け荷(ぬけに)は江戸時代に幕府の禁令を破って行われた密貿易である。主として日本に来航したオランダ人や中国人を相手に行われた。 寛永年間以後、日本の貿易は長崎に限られ、その後相手国は中国、オランダのみとされ、渡来船の数、貿易額などは制限された。また、貿易は特許商人によって行われ、元禄以後は、長崎会所に限られた。以上の諸制限の外で貿易を行おうとするために抜け荷が発生した。 江戸幕府はその防止に努め、正徳4年以来しばしば禁令を発して、禁を犯すものは死刑に処したが、後を絶たず、幕末に至るまで根絶しなかった。享保年間は捕えた密商を釈放して、逆にこれを抜け荷の監察に用いて効果を上げたこともあった。 有名なものには、延宝4年に捕えられ隠岐に流された長崎代官末次平蔵茂朝、嘉永6年、捕えられ死刑に処せられた加賀の銭屋五兵衛などがある。 多くは唐船との間で行われ、あらかじめ期を約して所定の航路外の海上で、夜間、取引を行うのが常とされ、中には唐人と通じて唐人館内で行う者もあり、また外船に漂流を装わせて、九州あたりの交通の少ない海岸で行う者もあった。後には唐、オランダ以外の国とも密貿易を行う者も生じた。以上は、外国船との密貿易である。 藩において、藩営専売仕法もしくはこれに類似した仕法を行って、特定商品を密かに藩外と売買することが禁じられた場合、これを犯すことをも、抜け荷と言った。一例が会津藩の抜け蝋であり、また阿波藩では藍の抜け荷を取り締まるために抜荷制道役を設けた。 なお、「ぬきに」(抜き荷、抜荷)という言葉もあるが、これは、船頭が、回送を委託された荷主の商品を抜き取って私販することをいう。.
排外主義
排外主義(はいがいしゅぎ)とは、外国人や外国製の商品、思想を排斥すべきだとする思想傾向。外国嫌い(がいこくぎらい)やゼノフォビア(英: xenophobia)ともいう。.
李自成
李 自成(り じせい)は、中国明末の農民反乱指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
東南アジア
東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 '''東南アジア''' 東南アジアの地図 東南アジアの範域.
東インド艦隊 (アメリカ海軍)
東インド艦隊(ひがしインドかんたい、East India Squadron)は、19世紀に存在したアメリカ海軍の艦隊。1835年に設立され、1866年にアジア艦隊(Asiatic Squadron)と名称変更される。なお、原語はフリート(fleet)ではなくスコードロン(Squadron)であり、東インド戦隊と訳される場合もあるが、1902年まで米国にフリートは存在せず、それまではスコードロンが最大の戦闘艦グループであった。一般的に戦隊は艦隊の下部組織として編成されるため、訳語として艦隊が使われた。.
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松平定信
松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.
松前藩
松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.
松方冬子
松方 冬子(まつかた ふゆこ、1967年 - )は、日本史学者(専門は日本近世史)。東京大学史料編纂所准教授。東京大学大学院人文科学研究科博士後期研究科中退。学位は文学博士(東京大学)。旧姓名は徳川冬子。.
村上直次郎
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。.
村井淳志
村井 淳志(むらい あつし、1958年3月 - )は、日本の教育学者、金沢大学教授。専門は歴史教育・社会科教育論。 名古屋市出身。1980年東京都立大学人文学部教育学科卒業、89年同大学院博士課程教育学単位取得退学。東京都立大学助手、金沢大学教育学部講師、助教授、教授。2008年、教育学部を「学校教育学類」に改組以後は、学校教育学類教授。.
根室
根室(ねむろ);地名・行政区分.
根付
の根付(虎渓作) 根付(ねつけ、ねづけ)とは、江戸時代に煙草入れ、矢立て、印籠、小型の革製鞄(お金、食べ物、筆記用具、薬、煙草など小間物を入れた)などを紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具。江戸時代から近代にかけての古根付と、昭和、平成の現代根付に大別される。 製作国の日本以上に、日本国外では骨董的蒐集品として高く評価されている。日本では郷誠之助と高円宮憲仁親王とが蒐集家として著名である。2人が遺した膨大な蒐集品は、いずれも東京国立博物館に寄贈され、その名を冠したコレクションとして所蔵されている。.
植民地
植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。 古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。 以下では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。 また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。.
横井小楠
横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。 本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。 「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。.
樺太
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.
欧化主義
欧化主義(おうかしゅぎ)とは、近代化を進めるためにヨーロッパの様々な制度や文化を取り入れようとした思潮をいう。.
正保
正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
歴史の終わり
『歴史の終わり』(れきしのおわり、原題:The End of History and the Last Man)は、アメリカ合衆国の政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。1989年にナショナル・インタレストに発表した論文「歴史の終わり?」からさらに具体的に考察したものであり、1992年にFree Press社から出版された。原題は『歴史の終わりと最後の人間』であり、三笠書房の翻訳版のタイトルは『歴史の終わり』だが、『歴史の終焉』として言及されることも多い。翻訳は渡部昇一が行った。.
歴史学
歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
毎日新聞
毎日新聞大阪本社(大阪市北区) 毎日新聞北海道支社(札幌市中央区) 毎日新聞(まいにちしんぶん、)は、日本の新聞のひとつ。2017年9月期の販売部数(日本ABC協会調べ)は朝刊が約294万部、夕刊が73万部である 。毎日新聞社(毎日新聞グループホールディングス傘下)が発行している。 戦前から朝日新聞と共に2強に数えられていたが、拡販競争と西山事件による経営危機で後れを取り、1960年代後半から1970年代前半に掛けての読売新聞の発行部数増加などで販売不振が続いた。2008年には毎日デイリーニューズWaiWai問題が発覚し、再度経営問題が発生した。 現在のスローガンは、「報道に近道はない」。新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は呼称される機会が少ない。.
江華島事件
海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。.
江戸の火事
『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄からの罪人解き放ちを「集団脱走」と誤解した役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。 日本の江戸時代における江戸の火事は、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残り、現代では江戸が「火災都市」と呼称されるほど、頻繁に発生した。大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった。.
江戸上り
江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
津太夫
津太夫一行の航海図(国立公文書館) 津太夫(つだゆう、延享元年(1744年) - 文化11年7月29日(1814年9月12日))は江戸時代後期の水主(かこ)。 49歳の時に嵐にあって漂流し、儀兵衛、左平、太十郎ら3名と共に、図らずも日本人初の世界一周を果たした。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
漆器
中山胡民作、虫籠蒔絵菓子器 江戸時代 19世紀 東京国立博物館蔵 漆器の文箱に、沈金の技法で描かれた松葉。 乾燥作業中の様子 漆器(しっき)は、木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。日常品から高級品、食器、根付、または車体までと様々な用途がある。狭義には「漆を塗った食器」の意味であるが、それに捉われない。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。 ウルシから採れる加工した樹液を漆と言い、これを加工された素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)に下地工程、塗り工程と、細かく挙げると30から40になる手順を経て漆器に仕上げていく。この工程は漆工と言われそれぞれに名前があり、生産地別で考え出された漆工も合わせると多岐にわたる。 利用される素地には、よく乾燥された木材、竹、紙、金属などがあり、現代では合成樹脂も使われている。更に、漆にセルロースナノファイバー(CNF)を混ぜて光沢や強度を高める技術が開発されるなど、時代とともに変化している。.
服飾
服飾(ふくしょく)とは、人がその身体の上にまとう衣服や装身具(装飾品)類、またそれらの組み合わせの様式である。衣装(衣裳)(いしょう)ともいい、また特に装いに注目して服装(ふくそう)とも言う。服飾や服装という用語には主に2つの用いられ方があり、ひとつは衣服・被服などとほぼ同義で用いられ、もうひとつは身体と衣服が一体化した姿(着装姿)、またそれらの一定の組み合わせの様式を指すブリタニカ百科事典「服装」。本項では主に後者について論じる。 服飾は時代、民族、地域、性別、年齢、階級、職業等によって異なり、また着用機会によっても異なる様式が用いられる。それらの様式は禁令や服装規定( ドレスコード)やファッション(流行)、あるいは民族主義、ナショナリズム等によって強化され、人間社会において、多くの服飾の様式は特定の属性や思想等を表現するものとなっている。特に民族服(民族衣装)は、地域の(または亡命者の)自己同一性を表し、文化の独自性を強調し、国家の尊厳の源となる。また、通過儀礼や祝祭、祝日には特別な衣装が着用される場合も多い。例えば成人式の特別な衣装、新年やクリスマス等の特別の晴れ着等である。 服飾は基本は自らの立場・状況、また嗜好に応じた様式が選択されるが、意図的にそれとは違う服飾が着用される場合もある。例えば、自らの立場を隠して活動するための変装、一時的に異なる立場の装いを楽しむ仮装、演劇や舞台芸術における扮装等である。仮面舞踏会やキリスト教文化圏における謝肉祭、アメリカ合衆国におけるハロウィン等、特別な衣装として仮装が求められる場合もある。.
朝鮮半島
朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.
朝鮮通信使
孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.
末次茂貞
末次 茂貞(すえつぐ しげさだ、生年不詳 - 1651年(慶安4年))は、江戸時代の長崎代官。父は末次政直。通称は平左衛門、平蔵。.
朱印船
朱印船(しゅいんせん)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。 朱印船(荒木船).
戦列艦
戦列艦(せんれつかん、ship of the line)は17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ諸国で使用された軍艦の一種。単縦陣の戦列 (line of battle)を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたのでこの名がある。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧
明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧(めいじいしんいぜんににほんににゅうこくしたおうべいじんのいちらん)は、明治維新以前に、日本の領土に上陸、滞在した、ウィキペディア内に既に記事が執筆されている(または近日中に執筆される予定の)欧州人および米国人の一覧である。自分の意思に反しての漂流もしくは拿捕による上陸を含む。外交、政治、文化、科学、宗教などの分野においてある程度著名な者に限定する。例えば出島に滞在した一般のオランダ商館員などは除外する。日本の周辺の海域を通過しただけの者は含まない。来日年と国籍、簡潔な紹介も記載する。.
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浦賀
浦賀(うらが)は、神奈川県横須賀市東部にある地域。狭義には横須賀市浦賀またはそこに西浦賀町・東浦賀町を加えた区域、広義には浦賀行政センターの管轄(町村制による明治の大合併で誕生したかつての三浦郡浦賀町付近)を指す。マシュー・ペリーが黒船で来航した歴史をもつが、それ以前にも通商や補給を求めて外国船がしばしば来航していた。.
浮世絵
浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した絵画のジャンルである。本来、「浮世」という言葉には「現代風」「当世」「好色」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを多く描いている。演劇、古典文学、和歌、風俗、地域の伝説と奇談、肖像、静物、風景、文明開化、皇室、宗教など多彩な題材がある。大別すると、版本の挿絵、一枚摺の木版画、肉筆浮世絵の3種類に分けられる。当然、木版画が量産されるようになる以前には肉筆画のみしか存在しなかったわけで、巻物などの肉筆浮世絵が含まれる。肉筆浮世絵は、形式上、屏風絵、絵巻、画帖、掛け物、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に大別される。また、浮世絵師は和装本の挿絵、表紙の仕事も並行して行った。広義には引き札、鏝絵、泥絵、ガラス絵、凧絵 ねぶた絵なども浮世絵の一種といえる。ただし、現代においては一般的には多色摺りの木版画錦絵のことを指すことが多い。.
海底ケーブル
海底ケーブル(かいていケーブル、submarine cable)とは、海底に敷設または埋設された電力用または通信用の伝送路一般を指す。ここでは主に通信用ケーブルについて述べる。電力用は概要のみとなっている。.
海禁
海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。.
海舶互市新例
海舶互市新例(かいはくごししんれい)は、新井白石が1715年2月14日(正徳5年1月11日)、国際貿易額を制限するために制定した法令。長崎新令・正徳新令とも呼ばれる。.
浜田藩
浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.
新井白石
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.
文化 (元号)
文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.
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文楽
文楽以外の人形浄瑠璃である。 『静御前』 JR新大阪駅 文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。 1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。 1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業(後述)での人形浄瑠璃の興行を始めた。その後、竹本義太夫の弟子が独立し豊竹若太夫を名のって興した「豊竹座」と競うなど、隆盛の時代には複数の興行元を数えたが、明治初期には興行元が「彦六座」と「文楽座」の2座のみとなった。その後に彦六座が解散、興行が文楽座のみとなったため、「文楽」という2字の名称が、すべての人形浄瑠璃の代表的存在、ならびにその代名詞と化したものである。 なお、文楽および文楽座という名称の直接的由来は、兵庫県淡路出身の植村文楽軒という人物が興行元であった上述の文楽座ではあるが、前述どおり、義太夫節の始祖が大坂で直接成立させた人形浄瑠璃の一形態の系譜であるため、人形浄瑠璃文楽を成立させた源流=淡路ということではない(淡路には淡路人形浄瑠璃が存在する)。 しかしながら、大坂で成立したその「義太夫節+人形」という人形浄瑠璃の系譜をしめす呼称がない(あるいは消失してしまっている)ため、その系譜を示す語の実例として、たとえば現在の人形浄瑠璃文楽の技芸員における演奏的特徴を示す語として「文楽系」と呼ぶことがある(それに呼応する語には「彦六系」などがある)。 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。明治以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある。 この記事では文楽を中心に、文楽系統の成立以前の人形浄瑠璃、および文楽以外の人形浄瑠璃についても説明する。「人形浄瑠璃」については浄瑠璃も参照のこと。.
文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
日米修好通商条約
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。 江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。欧語ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。.
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日米修交記念館
日米修交記念館(にちべいしゅうこうきねんかん)は、日本初のアメリカ船来航地である和歌山県東牟婁郡串本町の紀伊大島樫野埼に建つ町立の博物館である。 アメリカ商船レディ・ワシントン号とグレイス号が寄港した雷公の浜の北側に1975年に建てられた。館内には寄港当時の光景がジオラマで再現され、レディ・ワシントン号の模型や資料・写真とともに展示されている。.
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日米和親条約
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本の文化
本項では日本の文化全般について、幅広く過去から現在への事象を取り上げ、概要の説明やリンクを示す。 分類については、まだ発展・整理の途上であり、正式なものではない。日本発祥のもの以外でも、日本に深く根付いているものはこの記事に含まれる。.
日本乞師
日本乞師(にほんきっし)は、明の滅亡後南下してきた清に対抗する南明及びその支持勢力(鄭氏政権など)が日本(江戸幕府)に対して軍事支援を求めた行動。.
日本二十六聖人
日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。.
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのそうごきょうりょくおよびあんぜんほしょうじょうやく、英:Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan、昭和35年条約第6号)は、日本国とアメリカ合衆国の安全保障のため、日本本土にアメリカ軍(在日米軍)が駐留することなどを定めた二国間条約のことである。1960年(昭和35年)1月19日に、ワシントンD.C.で締結された。いわゆる日米同盟(にちべいどうめい)の根幹を成す条約であり、条約には「日米地位協定」が付属している。 形式的には1951年(昭和26年)に署名され翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約を失効させ、新たな条約として締約批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、在日米軍としてアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めた。60年安保条約、新安保条約(しんあんぽじょうやく)などともいわれる。新・旧条約を特段区別しない場合の通称は日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)、日米安保条約(にちべいあんぽじょうやく)。.
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日本誌
『日本誌』(にほんし)とは、エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)が執筆した書物。17世紀末に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。.
日本料理
日本料理(にほんりょうり、にっぽんりょうり)は、日本の風土と社会で発達した料理をいう広辞苑第5版日本大百科全書世界大百科事典。洋食に対して和食とも呼ぶ。食品本来の味を利用し、旬などの季節感を大切にする特徴がある。和食は2013年に無形文化遺産に登録された。 広義には日本に由来して日常作り食べている食事を含むが、狭義には精進料理や懐石料理などの形式を踏まえたものや、御節料理や彼岸のぼたもち、花見や月見における団子、冬至のカボチャなど伝統的な行事によるものである。日本産の農林水産物・食品の輸出も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7502億円と2012年の4497億円から1.7倍に増え、2017年は8000億円台に乗せた。日本政府(農林水産省)は1兆円を目標としており、日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している。.
日明貿易
日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.
政策
政策(せいさく)とは現代社会においては、政府や政党などが施政上の方針や方策を指すこと。なお、その策を実施することを施策(しさく)という。 公共政策は、公共体が主体となって行う体系的な諸策のこと。.
1549年
記載なし。
1557年
記載なし。
1587年
記載なし。
1604年
記載なし。
1612年
記載なし。
1613年
記載なし。
1616年
記載なし。
1620年
記載なし。
1623年
記載なし。
1624年
記載なし。
1628年
記載なし。
1631年
記載なし。
1633年
記載なし。
1634年
記載なし。
1635年
記載なし。
1636年
記載なし。
1637年
記載なし。
1638年
記載なし。
1639年
記載なし。
1640年
記載なし。
1641年
記載なし。
1643年
記載なし。
1644年
記載なし。
1647年
記載なし。
1648年
記載なし。
1655年
記載なし。
1667年
記載なし。
1672年
記載なし。
1673年
記載なし。
1684年
記載なし。
1685年
記載なし。
1690年
記載なし。
1692年
記載なし。
1715年
記載なし。
1727年
記載なし。
1742年
記載なし。
1778年
記載なし。
1787年
記載なし。
1790年
記載なし。
1791年
記載なし。
1792年
記載なし。
1795年
記載なし。
1797年
記載なし。
1799年
記載なし。
1800年
18世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1801年
19世紀最初の年である。.
1804年
記載なし。
1806年
記載なし。
1807年
記載なし。
1808年
記載なし。
1809年
記載なし。
1810年
記載なし。
1811年
記載なし。
1812年
記載なし。
1813年
記載なし。
1815年
記載なし。
1825年
記載なし。
1830年
記載なし。
1837年
記載なし。
1840年
記載なし。
1842年
記載なし。
1844年
記載なし。
1845年
記載なし。
1846年
記載なし。
1848年
記載なし。
1849年
記載なし。
1853年
記載なし。
1854年
記載なし。
1858年
記載なし。
1866年
記載なし。
1868年
記載なし。
1875年
記載なし。
18世紀
Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.
1945年
この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.
3月31日
3月31日(さんがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日。 日本では前年4月始まりの年度最終日とされている。.
4月17日
4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.
7月20日
7月20日(しちがつはつか、しちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。誕生花はナス、ルコウソウ。.
7月24日
7月24日(しちがつにじゅうよっか、しちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から205日目(閏年では206日目)にあたり、年末まであと160日ある。誕生花はエンレイソウ、オシロイバナ。.
7月8日
7月8日(しちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。誕生花はホオズキ、クロユリ。.
8月14日
8月14日(はちがつじゅうよっか、はちがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から226日目(閏年では227日目)にあたり、年末まであと139日ある。.