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赤穂事件の人物一覧

索引 赤穂事件の人物一覧

赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。.

256 関係: 原元辰お軽側用人千坂高房千馬光忠吉田兼亮吉田兼貞吉良義央吉良義周堀部ほり堀部金丸堀部武庸壬生浪士多川九左衛門多胡真蔭多門重共大垣藩大島義也大久保忠鎮大佛次郎大石くう大石吉之進大石大三郎大石主税良金ら十士切腹の地大石信清大石るり大石神社大石良金大石良雄大石良雄外十六人忠烈の跡大納言大目付大高忠雄大阪市大野知房大老天台座主天野屋利兵衛奥田行高奥田重盛奥野定良妙海尼婿養子定府宝井其角室鳩巣家臣団家老安井彦右衛門安芸国...安部信峯寺坂信行寺井玄渓富森正因小山田一閃小山田庄左衛門小山良師小野寺秀富小野寺秀和小林平八郎山吉盛侍山田宗偏山鹿流山本健一 (マツダ)岡島常樹岡田俊陳岡部藩岡野包秀岡林直之岡本重之左右田孫兵衛上杉綱憲上方不破正種中納言中村正辰常陸国三村包常一関藩京都広島市広島藩庄田安利亀井茲親代官仮名手本忠臣蔵仙石久尚伊予国伊達村豊征夷大将軍徳富蘇峰徳川綱吉後西天皇忠臣蔵信濃国俳諧心中土屋逵直土屋政直マツダロータリーエンジンテレビドラマ切腹喧嘩両成敗グレゴリオ暦備中国備後国内田元知出羽国公弁法親王六本木元禄前原宗房勝田武尭勅使国学倉橋武幸皇子矢田助武矢頭教兼石原正氏石見国礒貝正久神崎則休笠間藩米沢藩細川綱利細井広沢美濃国義士真壁郡真壁藩瑤泉院田中貞四郎田村建顕町野幸重熊本藩片岡高房目付瀬尾孫左衛門芝 (東京都港区)花岳寺遊女荷田春満荻生徂徠荒木政羽菅谷政利萱野重実萱野重利香林院諸大夫高家 (江戸時代)高田馬場の決闘高田郡兵衛高輪高齢者高野保春貝賀友信鳥居利右衛門越後国足守藩足軽龍野藩近衛家近藤正憲近松行重霊元天皇茨城郡茅野常成赤埴重賢赤穂城赤穂市赤穂市立歴史博物館赤穂事件赤穂義士祭赤穂郡赤穂藩間光延間光風間光興間瀬正辰間瀬正明閉門藤井宗茂肥後国脇坂安照長男色部安長連座進藤俊式進藤長之逃亡退位陸奥国柳原資廉柳沢吉保東山天皇東京都松平忠郷松平信望村松秀直村松高直杉野次房栗崎道有梶川頼照梅嶺院榊原政殊横川宗利橋本平左衛門正室正保武士武蔵国武林隆重毛利小平太毛利甲斐守邸跡水野監物邸跡江戸江戸城江戸幕府泉岳寺津和野藩港区 (東京都)清閑寺熈定清水一学潮田高教木下公定木村貞行本妙寺 (京都市)戸田氏定明治明星院 (広島市)流罪浪人浅野綱長浅野長広浅野長矩浅野長直浅野長恒浅野長武浅野長澄浅野氏斎藤宮内新発田藩旧家早水満尭旗本播磨国改易敵討12月14日12月14日 (旧暦)1701年1703年1月30日 インデックスを展開 (206 もっと) »

原元辰

原 元辰(はら もととき、慶安元年(1648年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は惣右衛門(そうえもん)。.

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お軽

お軽 (おかる、貞享2年(1684年) - 正徳3年10月6日(1713年11月23日))は、江戸時代前期の女性。赤穂藩家老大石良雄の妾。「於可留」「梶」と記す書もある。.

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側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

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千坂高房

千坂 高房(ちさか たかふさ、寛永15年(1638年) - 元禄13年5月9日(1700年6月25日))は、江戸時代前期の武士。米沢藩上杉家の江戸家老。千坂高治の子で、千坂景親の玄孫にあたる。通称の千坂 兵部(ちさか ひょうぶ)で知られる。太郎左衛門、釆女とも。子に尚親。.

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千馬光忠

『義士四十七図 千馬三郎兵衛光忠』(尾形月耕画) 千馬 光忠(せんば みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。.

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吉田兼亮

『義士四十七図 吉田忠左衛門兼亮』(尾形月耕画) 吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。.

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吉田兼貞

『義士四十七図 吉田沢右衛門兼貞』(尾形月耕画) 吉田 兼貞(よしだ かねさだ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。吉田兼亮の子。通称は沢右衛門(さわえもん)。.

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吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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吉良義周

吉良 義周(きら よしちか/よしまさ)は、江戸時代前期の高家旗本。吉良義央の孫にして養子。.

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堀部ほり

堀部 ほり(ほりべ ほり、延宝3年(1675年) ‐ 享保5年5月25日(1720年6月30日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の1人堀部武庸の妻。名を幸(こう)、順(じゅん)と記す書もあるが、これは誤りである。.

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堀部金丸

堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。.

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堀部武庸

堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作 堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。.

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壬生浪士

壬生浪士(みぶろうし)あるいは精忠浪士(せいちゅうろうし)は、新選組の前身集団。 文久3年(1863年)清河八郎が京へ率いた浪士組を壬生にある、新徳寺に代表を集め、尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を演説した。 これに同意した者は新徴組として江戸へ帰る事となる。これに同意しなかった近藤勇や芹沢鴨らはその場に残り、新選組を結成するに至る。構成内容は以下参照。新選組となる以前の壬生浪士たちは身なりの貧しさから、「みぼろ」(壬生浪=みぶろ・みぶろう)と一部の京の人たちに揶揄されていた。また、女性隊士がいたという説もある。.

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多川九左衛門

多川九左衛門(たがわ くざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。赤穂藩では持筒頭400石。 多川家は藩内でも有数の重臣家。赤穂浪士のうち小野寺秀和・間瀬正明・岡野包秀・中村正辰・大高忠雄などと親族の関係にある。元禄15年(1702年)11月16日に小野寺が寺井玄渓にあてた書状の中で「多川は浅野家第一の武功がある者の養子なのに卑怯極まりない者である」と罵っていることから、多川は養子であったと考えられる。 元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩(内匠頭)が吉良義央(上野介)に殿中刃傷に及んだ際には赤穂におり、同年3月29日、大石良雄が「浅野家の家臣は無骨なものばかりなので、ただ主君のことを思い、赤穂城を離れようとしません。吉良上野介様へ処分を求めるわけではありませんが、家臣が納得のいくような筋道をお立てください」というような内容の嘆願書を赤穂城収城目付と決まった荒木政羽と榊原政殊に宛ててしたためると、多川と月岡治右衛門にこれを持たせて江戸へ派遣した。 しかし、多川たちは江戸で収城目付たちと行き違いとなり、大石の「収城目付に直接手渡せ」という命令に背いて浅野家江戸家老安井彦右衛門に相談する。驚きあわてた安井は浅野長矩の親族の大名戸田氏定にその書状を見せた。戸田はすぐさま「内匠頭殿は日ごろから幕府を重んじていたのだから、穏便に開城をすることこそが内匠頭殿の存念にもかなうはずである」という内容の書状を良雄に宛てて書き、多川達に持たせて赤穂へ帰した。多川と月岡のせいで書状は荒木の目には入らなかった(なお、荒木らが赤穂に到着した後、大石の三度にわたる嘆願もあって荒木は老中への取り成しを約束している)。 その後、大石良雄の浅野家お家再興と吉良家への仇討ちの盟約に名を連ねたが、元禄15年(1702年)7月に浅野長広がお預かりとなり、お家再興の望みが消えると、大石良雄の神文返しを好機として閏8月15日付けの書状で脱盟を表明して一党から去った。その後の消息は不明である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:17世紀生 Category:18世紀没.

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多胡真蔭

多胡 真蔭 (たご さねかげ、生年不詳 - 享保2年12月14日(1718年1月15日))は、江戸時代前期の武士。津和野藩亀井家の江戸家老。500石。通称は外記(げき)。主水と記している書もあるが、誤伝である。 石見国津和野藩初代家老多胡真清の四男として誕生。正保3年(1644年)9月に200石で召しだされ、藩主亀井茲政の嫡男茲朝付きの家老となった。万治3年(1660年)正月に100石の加増を受けるが、寛文5年(1665年)7月、不調法があり暇を願い出て、15年間京都で隠居した。延宝7年(1679年)再び茲政に召返され、先の知行のままで家老職に復した。茲政の死後も新藩主亀井茲親を支えた。貞享3年(1686年)7月、加判役となり、のちに加増されて都合500石となる。 元禄11年(1698年)3月、藩主茲親が勅使(この年は柳原資廉、正親町実豊)の饗応役を任じられたが、この際に吉良義央のいじめを受けて、耐えかねた茲親はこの苦情を真蔭にもらしたという。真蔭は刃傷に及ばぬよう諫める一方で、密かに金遣役を呼んで、納戸金一箱を取り出させ、これを「菓子源氏巻」として吉良本邸へ持参し、主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願した。翌日より義央の茲親へ急に優しくなったので、茲親も無事に役目をやりとげることができたという。この時の逸話がモデルとなって歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の桃井若狭之助(亀井茲親)と加古川本蔵(多胡真蔭)が誕生した。 享保2年(1717年)12月14日に死去。島根県鹿足郡津和野町後田の永明寺に葬られた。法名は無為休伯居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:江戸時代の武士 Category:石見国の人物 Category:17世紀生 Category:1718年没.

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多門重共

多門 重共(おかど しげとも)は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって多門伝八郎(おかどでんぱちろう)と呼ばれることが多い。赤穂事件において浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大島義也

大島 義也(おおしま よしなり、万治3年(1660年) - 享保8年11月3日(1723年11月30日))は、江戸時代中期の武士。大身旗本。.

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大久保忠鎮

大久保 忠鎮(おおくぼ ただしげ、寛永15年(1638年) - 正徳元年9月20日(1711年10月31日))は、江戸幕府の旗本。幕府目付。通称は権左衛門(ごんざえもん)。浅野長矩の刃傷の際に吉良義央への取調べにあたり、また長矩の切腹の副検死役をつとめた。.

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大佛次郎

大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年(明治30年)10月9日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の小説家・作家。神奈川県出身、本名は野尻 清彦(のじり きよひこ)。『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学の作者として有名な他、歴史小説、ノンフィクション、さらには新作歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。作家の野尻抱影(正英)は兄。.

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大石くう

大石 くう(おおいし くう、元禄3年(1690年) - 宝永元年9月29日(1704年10月27日))は、江戸時代中期の女性。 元禄3年(1690年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りく(香林院)の長女として赤穂の大石邸で生まれる。 赤穂藩が改易されたあと、大石家の屋敷も召し上げられたので元禄14年(1701年)5月に母りくや兄の大石良金、弟の大石吉之進、妹のるりとともにりくの実家但馬国豊岡藩石束毎公邸に移った。その後、7月に父・良雄が山科に住居を落ち着けると、りくも子らを連れて山科へ移った。その後、吉良家討ち入り計画が進む中で連座を避けるために良雄は、討ち入りに加わることを望んだ長男良金を除いて妻りくや子らを絶縁し、元禄15年(1702年)4月15日に母りくとともに但馬豊岡へ戻ることとなった(赤穂事件)。 宝永元年(1704年)9月29日に死去。享年15。豊岡の正福寺に葬られた。法名は正覚院本光妙智信女。 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:但馬国の人物 くう Category:1690年生 Category:1704年没.

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大石吉之進

大石 吉之進(おおいし きちのしん、元禄4年(1691年) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、江戸時代中期の武士、僧。名は良以(よしもち)。通称の吉之進は書状によって吉千代(きちちよ)となっているものもある。僧名は元快(げんかい)。 元禄4年(1691年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りくの次男として赤穂の大石邸で生まれる。元禄14年(1701年)、赤穂藩改易後、遠林寺で藩政残務処理にあたる父良雄は、事が落ち着くまで5月11日に妻のりくや子の良金・吉之進・くう・るり達を但馬国豊岡の石束毎公のもとに送った。同年7月に大石が京都の山科に住居を落ち着けると、妻子も山科へ移ったが、吉之進だけは豊岡に留めおかれた。 その後、元禄15年(1702年)4月頃に討ち入りに加わる決意をした兄・良金を除き、討ち入りに連座しないように絶縁された母達が豊岡に戻ってきた。吉之進も連座しないようにするためか、同年10月に豊岡の城崎郡竹野村須谷の円通寺に滞在していた大休(元南禅寺和尚)に弟子入りして仏門に入り、祖錬元快と称した。その後、豊岡の興国寺の雪村のもとに移ったが、宝永6年(1709年)3月1日に死去した。享年19。姉くうと同じ豊岡の正福寺に葬られた。.

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大石大三郎

大石 大三郎(おおいし だいさぶろう、元禄15年7月5日(1702年7月29日) - 明和7年2月14日(1770年3月11日))は、江戸時代中期の武士。安芸国広島藩士。名は良恭(よしやす)。通称ものちに代三郎、さらに外衛と変えている。.

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大石主税良金ら十士切腹の地

大石主税良金ら十士切腹の地(おおいし ちから よしかねら じっし せっぷくの ち)は東京都港区三田二丁目にある史跡。かつて伊予松山藩の中屋敷だった。現在は駐日イタリア大使館となっている。 元禄16年(1703年)2月4日に江戸幕府の命により以下の赤穂浪士が切腹した地で、その碑が昭和14年(1939年)に当時の駐日イタリア大使によって大使館敷地内に建立された。揮毫は徳富蘇峰による。毎年10浪士の命日には駐日イタリア大使がそこで供養をおこなっている。.

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大石信清

『義士四十七図 大石瀬右衛門』(尾形月耕画) 大石 信清 (おおいし のぶきよ、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、はじめ源蔵(げんぞう)、のちに瀬左衛門(せざえもん)。.

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大石るり

大石 るり(おおいし るり、元禄12年(1699年) - 寛延4年6月29日(1751年7月21日))は、江戸時代中期の女性。広島藩番頭浅野直道の妻。 赤穂藩浅野氏筆頭家老の大石良雄とその妻りく(香林院)の次女として生まれる。元禄14年(1701年)、3歳の頃に父良雄の叔母の夫にあたる進藤俊式の養女となったが、同年赤穂藩改易の騒ぎの中で大石家に戻り、5月には生母りくや兄の大石良金・吉之進、姉くうとともにりくの実家但馬国豊岡藩に移った。その後、7月に良雄が山科に住居を落ち着けると、りくも子らを連れて山科へ移った。その後、吉良家討ち入り計画が進む中で連座を避けるために良雄は、討ち入りへの参加を望んだ長男良金を除いて妻りくや子らを絶縁し、元禄15年(1702年)4月15日にりくとともに但馬豊岡へ戻ることとなった。 その後、良雄や良金は吉良義央を討ち、お預かりの大名屋敷で切腹(赤穂事件)、この事件を契機に父良雄は英雄化し、正徳3年(1713年)9月に弟大石大三郎の広島藩浅野家への仕官が決まると、大三郎やりくと一緒に広島へ移住した。正徳4年(1714年)には藩主浅野吉長の命令により浅野氏一族の浅野直道(知行1000石)と結婚した。 寛延4年(1751年)6月29日に広島で死去。享年53。広島の禅林寺に葬られた。法名は正聚院定誉寿真大姉。 るり Category:浅野氏 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:広島藩の人物 Category:但馬国の人物 Category:1699年生 Category:1751年没.

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大石神社

大石神社(おおいしじんじゃ)は、赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る神社。江戸時代には江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、1868年(明治元年)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。.

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大石良金

『義士四十七図 大石主税吉金』(尾形月耕画) 大石主税藤原良金 大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。.

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大石良雄外十六人忠烈の跡

大石良雄外十六人忠烈の跡 (都営高輪アパート内) 大石良雄等自刃ノ跡 (道標) 大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)は東京都港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩江戸下屋敷がここにあった。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府及び諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。目付の上位。.

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大高忠雄

『義士四十七図 大高源吾忠雄』(尾形月耕画) 大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。.

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大阪市

大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.

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大野知房

大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩浅野家の末席家老650石。『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。一方で優秀な経済官僚であったといわれる。通称は九郎兵衛(くろべえ)。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天野屋利兵衛

八文字利兵衛の墓所、京都市下京区寺町通四条下ル 天野屋利兵衛 (あまのやりへえ、寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の商人。名は直之(なおゆき)。.

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奥田行高

『義士四十七図 奥田貞右衛門行高』(尾形月耕画) 奥田 行高(おくだ ゆきたか、延宝6年(1678年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は貞右衛門(さだえもん)。.

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奥田重盛

『義士四十七図 奥田孫太夫重盛』(尾形月耕画) 奥田 重盛(おくだ しげもり、正保4年(1647年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫太夫(まごだゆう)で、最初は兵右衛門を名乗った。.

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奥野定良

奥野 定良(おくの さだよし)、正保4年(1647年) - 享保12年5月22日(1727年7月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。組頭1000石。通称は将監(しょうげん)。 父は家老奥野定次。母は大石信云の娘奈津。赤穂浪士四十七士の大石信清とは従兄弟の関係である。 元禄14年(1701年)3月、江戸城松之大廊下で主君浅野長矩が吉良義央に刃傷におよび、浅野長矩は切腹。赤穂藩は改易となった。赤穂城明け渡しに際して、家老大野知房が逐電したために、代わりに大石良雄を補佐して明け渡しを行った。奥野は大石良雄の義盟に加わり、御家再興運動でも引き続き大石を補佐した。しかし、元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると、京都円山の会議で大石は吉良義央への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟した。 奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも、浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったともいわれるが、真相は不明である。 その後は播磨国に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて新田開発に尽力した。晩年には播磨国多可郡中村の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に奥野のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると1727年(享保12年)5月22日に死去したとある。享年81。 なお、奥野の組に属していた藩士のうちからは潮田高教・木村貞行が吉良邸討ち入りに加わった。 司馬遼太郎の短編小説「池田屋異聞」(『新選組血風録』収録)では、新選組隊士山崎烝を奥野定良の子孫として描いているが、これは創作である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1647年生 Category:1727年没.

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妙海尼

妙海尼 (みょうかいに、貞享3年(1686年) - 安永3年2月25日(1774年4月5日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の一人堀部武庸(安兵衛)の妻を自称した。 元文の頃、妙海尼と名乗る老婆の尼が「自分は赤穂義士の一人堀部安兵衛の妻である」と称して泉岳寺の近くの庵に住み、堀部武庸の墓を参拝していた。当時の人々は彼女を本物の武庸の妻と思い込み、妙海尼の庵にお布施をする人が多く出て、大金をせしめている。また興味を持って妙海尼の庵を訪れた丹波国篠山藩士の佐治為綱は、彼女の話を口述筆記して『妙海語』を執筆している。しかし、実際の武庸の妻・堀部ほりは、享保5年(1720年)に肥後国熊本で死去しており、堀部家の内部事情に詳しかったことから堀部家の女中ではないかともいわれている。 妙海尼は91歳で死去するまで武庸の墓守りに従事し、死後は泉岳寺に葬られた。 なお、妙海尼を題材にした小説も執筆されており、井上ひさしの『不忠臣蔵』や柴田錬三郎の『裏返し忠臣蔵』がある。 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:身元詐称者 Category:1686年生 Category:1774年没.

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婿養子

婿養子(むこようし)は、婚姻と同時に夫が妻の親と養子縁組すること、またその場合に養子になった夫のことをいう。本記事では主に日本の民法における規定を説明する。歴史的な事柄は入婿を参照。.

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定府

定府(じょうふ)とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態を示す。.

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宝井其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。.

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室鳩巣

室 鳩巣(むろ きゅうそう、万治元年2月26日(1658年3月29日) - 享保19年8月12日(1734年9月9日))は、江戸時代中期の儒学者。室玄樸の子。諱は直清、字は師礼、通称は新助(信助とも)、号は鳩巣・滄浪。.

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家臣団

家臣団(かしんだん)とは、将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団である。特に主君のそば近くに仕えるものは近臣と呼んだ。.

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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安井彦右衛門

安井 彦右衛門(やすい ひこえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。江戸家老。650石(江戸扶持9人半)。 安井家は浅野長政の実家にあたり、子孫は浅野家に仕えたが、彦右衛門はその庶流の一つと思われる。彦右衛門は長く江戸家老を任されたとされる。なお、『赤穂浅野家分限帳』には安井彦右衛門と別に、安井新三郎なる江戸詰めの部屋住みの者が確認できる。 元禄14年(1701年)2月に藩主・浅野長矩が勅使饗応役を拝命した際には、上席家老藤井宗茂と共に補佐役にあったが、3月14日に長矩は吉良義央に刃傷に及び浅野家は改易に処された。3月16日、鉄砲洲上屋敷から退去した後は、上屋敷近くの築地飯田町(現在の中央区築地7丁目東部あたり)に藤井宗茂、槽谷勘左衛門(用人・150石役料20石)、早川宗助(藩大目付・200石役料10石)らとかたまって暮らしていた。 堀部武庸ら江戸急進派は、彦右衛門を仇討ちの盟主に仰ごうとするが、彦右衛門は態度をあいまいにし、その後で武庸らを陰口したため、武庸の怒りを買ったらしい。吉良邸討ち入り後には赤穂浪士たちが引き揚げた泉岳寺を訪ね、面会を申し出たが浪士たちに追い返されたという。事件後の事跡は不明である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:消息不明となった人物 Category:生没年不詳.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安部信峯

安部 信峯(あんべ のぶみね、万治2年(1659年) - 宝永3年5月21日(1706年7月1日))は、武蔵岡部藩の第4代藩主。 第3代藩主安部信友の長男として生まれる。母は内藤忠政の娘。正室は秋月種信の娘。子は安部信賢(次男)、内藤長頼(三男)、安部信政(四男)、安部信昌(五男)、娘(松平忠盈継室)。官位は従五位下、丹波守。 延宝2年(1674年)に初めて将軍徳川家綱に御目見する。貞享3年(1686年)10月に従五位下丹波守に叙任された。播磨国赤穂藩主の浅野長矩とは、ともに母が内藤忠政の娘、つまり母方の従兄弟の関係にあるため元禄14年(1701年)3月14日に起こった浅野長矩による吉良義央への刃傷事件の際には、一族連座して一時出仕をとめられた。しかし5月にはまず出仕が許され、6月には将軍拝謁も許されるようになった。なおこの際に、同じく従兄弟にあたる戸田氏定(美濃国大垣藩主)も一緒に出仕をとめられていた。6月29日に家督相続したが、この際に弟安部信方に2,000石を分知している。8月に初めて領地入りした。宝永2年(1705年)に岡部村に陣屋を移した。正確にはこのときから岡部藩は始まった。宝永3年(1706年)に死去した。次男・信賢が跡を継いだ。 のふみね *04 Category:赤穂事件関係人物 Category:1659年生 Category:1706年没.

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寺坂信行

『義士四十七図 寺坂吉右衛門信行』(尾形月耕画) 寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。.

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寺井玄渓

寺井 玄渓(てらい げんけい、元和8年(1622年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期から中期にかけての医師。 玄渓とその父はもともと播磨国明石藩主本多政利(6万石)に仕えていたという。しかし本多政利は何かと不行跡が多く、天和2年(1682年)藩政を咎められて陸奥国大久保藩主1万石に減知転封されてしまう。この大幅な減知にも玄渓は本多家に残れたが、主君政利はその後も些細なことで侍女を殺害するなどの不行跡が絶えず、ついに元禄6年(1693年)に完全に領地を召し上げられた。 主家を失った玄渓は京都で医業を開業していたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えた。元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷(赤穂事件)時には江戸藩邸に詰めていたが、その後直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動する。赤穂城開城後は京都へ移った。元禄15年(1702年)7月、浅野長広の広島藩お預かりが決まり、良雄が江戸へ下る決意をすると玄渓もお供しようとしたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止している。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送って赤穂浪士たちの医療を担当させたという。 宝永8年(1711年)2月20日に京都で死去。享年90。墓は京都の長楽寺にある。法名は桐庵玄渓居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:江戸時代の医師 Category:1622年生 Category:1711年没.

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富森正因

『誠忠義士肖像 富之森祐右衛門正固』(歌川国芳画) 『誠忠義士傳 富守祐右衛門正固』(歌川国芳画) 富森 正因(とみのもり まさより、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は助右衛門(すけえもん)。.

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小山田一閃

小山田 一閃(おやまだ いっせん、生年不詳 - 元禄15年12月18日(1703年2月3日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。隠居前の通称は十兵衛(じゅうべえ)。.

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小山田庄左衛門

小山田 庄左衛門(おやまだ しょうざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。.

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小山良師

小山 良師(おやま よしもろ、慶安元年(1648年) - 正徳5年9月4日(1715年10月1日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称は源五左衛門(げんござえもん)、一説に源五右衛門(げんごえもん)。.

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小野寺秀富

『義士四十七図 小野寺幸右衛門秀富』(尾形月耕画) 小野寺 秀富(おのでら ひでとみ、延宝4年(1676年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は幸右衛門(こうえもん)。大高忠晴の二男。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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小野寺秀和

『誠忠義士傳 小野寺十内秀和』(歌川国芳画) 『誠忠義士傳 斧寺十内妻』(歌川国芳画) 小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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小林平八郎

『月百姿 小林平八郎』(月岡芳年画) 小林 平八郎(こばやし へいはちろう、? - 元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。「平八郎」は通称であり、諱(実名)は央通(こばやし ひさみち)である。.

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山吉盛侍

山吉 盛侍(やまよし もりひと)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。吉良義央の家臣 ・近習(吉良義周の中小姓)。通称は新八郎(しんぱちろう)。.

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山田宗偏

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日(1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人。宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。.

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山鹿流

山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。.

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山本健一 (マツダ)

山本 健一(やまもと けんいち、1922年9月16日『プロジェクトX 挑戦者たち ロータリー 47士の闘い ~夢のエンジン 廃墟からの誕生~』(Reader Store版、6/35) - 2017年12月20日 - 朝日新聞 2017年12月25日 - 読売新聞 2017年12月25日 - 日本経済新聞 2017年12月25日 - 中国新聞 2017年12月25日)は、元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業(現・マツダ)に入社し、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功した自動車技術者。のち同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。.

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岡島常樹

『義士四十七図 岡島八十右衛門常樹』(尾形月耕画) 岡島 常樹 (おかじま つねしげ、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は八十右衛門(やそえもん)。.

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岡田俊陳

岡田 俊陳(おかだ としのぶ、寛永19年(1642年) - 享保11年10月18日(1726年11月11日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。通称は庄大夫(しょうだゆう)。 岡田俊矩の次男として誕生。母は神尾忠次の娘。延宝8年(1680年)には館林藩主徳川徳松(徳川綱吉の子)の家臣となり、また幕府御家人に列して、切米100俵を支給された。徳松が西の丸に移ると、岡田もそれに従って西の丸で勤務するようになる。この時に旗本に昇格したと思われる。天和3年(1683年)に徳松が死去すると勘定方に転じた。貞享4年(1687年)に50俵を加増された。元禄2年には材木の問題で信濃国へ派遣された。元禄8年(1695年)2月15日、代官に就任し、各地の天領に派遣されてその統治にあたった。 元禄14年(1701年)3月14日には播磨国赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだため、赤穂藩は改易となり、藩の領地もしばらく天領となった。そのため幕府は3月18日に岡田と石原正氏の両名を赤穂の代官に任命し、岡田らは4月17日に赤穂入りする(なお収城目付の荒木政羽と榊原政殊は4月15日には赤穂入りしている)。赤穂藩国家老大石良雄はその日のうちに岡田らの宿泊する宿を訪れて面会している。翌日4月18日、荒木・榊原・石原とともに大石や奥野定良らの案内で赤穂城を検分した。 その後、岡田は玉虫七郎右衛門の屋敷を代官屋敷として赤穂の統治にあたり、大石ら遠林寺で藩政残務処理にあたった者達には関所手形や仮宿証文を支給して労をねぎらっている。元禄15年(1702年)9月に永井直敬(下野国烏山藩主3万石)が赤穂藩に移されることが決まったため、岡田は10月21日をもって赤穂での役目を終えて退去した。 以後も幕府代官として各地に転々と派遣された岡田は、享保11年(1726年)10月18日に死去した。享年75。浅草の龍宝寺に葬られた。法名は求道。妻は千種勝重の娘。.

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岡部藩

岡部藩(おかべはん)は、武蔵国榛沢郡岡部(現在の埼玉県深谷市(旧大里郡岡部町))に存在した藩。藩庁は岡部陣屋。.

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岡野包秀

『義士四十七図 岡野金右衛門包秀』(尾形月耕画) 岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓は藤原氏。家紋は釘貫。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。.

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岡林直之

岡林 直之(おかばやし なおゆき、延宝7年(1679年) - 元禄15年12月28日(1703年2月13日)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。杢之助(もくのすけ)と称す。.

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岡本重之

岡本 重之 (おかもと しげゆき、慶安4年(1651年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。大阪留守居役400石。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。 浅野家臣である大石信澄(450石)の次女べん(元禄3年(1690年)12月6日に20歳で死去)を妻に持ち、赤穂浪士の一人である大石信清(信澄の二男)の義兄にあたる。 元禄14年(1701年)3月14日の刃傷事件があったのち、筆頭家老大石良雄の指示により大阪藩邸を引き払い、4月10日に赤穂へ戻った。『江赤見聞記』によると赤穂城開城前に大石良雄に神文血判書を提出した79人の1人として名前が挙がっているが、他の書にはその名は除かれている。いずれにしても赤穂城開城後は伏見に移住して大石良雄らによる浅野家御家再興運動に助力している。しかし、元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。大石良雄は仇討計画に切り替えるため、一度神文返しをして脱盟希望者を募ると岡本は脱盟した。 その後は山城国乙訓郡で暮らし、宝永8年2月20日に死去した。享年61。嵯峨称念寺に改葬された。法号真堂義融居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1651年生 Category:1711年没.

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左右田孫兵衛

左右田 孫兵衛(そうだ まごべえ、寛永13年(1636年) - 享保8年2月29日(1723年4月4日))は、江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。名は重次(しげつぎ)という。 米沢藩4代藩主上杉綱憲の次男・吉良義周が吉良家を相続した際に義周付きの家老となる。100石取り。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には、子と見られる左右田源八郎(中小姓・7両)が討ち死にしたが、孫兵衛は生き残ったため、同じく家老の斎藤宮内とともに長屋の壁を切り破って逃げたという不名誉な噂がたった。なお、左右田は討ち入り後の12月16日に吉良義央の首級が納められた泉岳寺から吉良の首を返還され受け取っている。同僚家老斎藤宮内連名の文書(覚.

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上杉綱憲

上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国米沢藩4代藩主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉氏に養子入りする。藩主在任中は、教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方、財政窮乏を悪化させた。.

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上方

上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.

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不破正種

不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓は平氏。家紋は隅角切に横一。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中村正辰

『義士四十七図 中村勘助正辰』(尾形月耕画) 中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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三村包常

『三村次郎左衛門包常』(尾形月耕画) 三村 包常(みのむら かねつね、寛文7年(1667年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。.

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一関藩

一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥磐井郡一関(現在の岩手県一関市)に藩主居館を置いた。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩・伊達氏の内分分知の分家に当たる一関伊達家と田村家の2家である。前者は11年で改易・廃藩となったが、後者は180年余り続いて明治維新を迎えた。以下、後者の田村家一関藩を主として記述する。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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広島市

広島市(ひろしまし)は日本の広島県の都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で最大の人口を有する市でもある。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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庄田安利

庄田 安利(しょうだ やすとし、慶安3年(1650年) - 宝永2年9月5日(1705年10月22日))は、江戸時代前期の旗本。江戸幕府大目付。幼名は万千代(まんちよ)。通称は三左衛門(さんざえもん)、小左衛門(こざえもん)。別称は荘田下総守。官位は従五位下下総守。.

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亀井茲親

亀井 茲親(かめい これちか、寛文9年4月(1669年) - 享保16年5月29日(1731年7月3日))は、江戸時代前期の外様大名。石見津和野藩第3代藩主。津和野藩亀井家4代。第2代藩主・亀井茲政の三男。母は側室・水崎豊庵の娘。正室は対馬府中藩主・宗義真の娘。子は茲長(長男)、菅沼定好(次男)、茲満(六男)らがいる。通称は松之助。官位は従五位下、能登守、のち隠岐守。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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仮名手本忠臣蔵

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。 大石内蔵助こと大石良雄の家紋「二つ巴」。この家紋のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。.

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仙石久尚

仙石 久尚(せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) - 享保20年7月23日(1735年9月9日))は、江戸時代中期の旗本。江戸幕府大目付。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守・伯耆守。隠居後には丹波入道と呼ばれた。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊達村豊

伊達 宗春(だて むねはる) / 伊達 村豊(だて むらとよ、天和2年11月8日(1682年12月6日) - 元文2年6月30日(1737年7月27日))は、江戸時代中期の外様大名。伊予吉田藩第3代藩主。.

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■) 弟(おとうと)とは本人から見て傍系2親等の年少の男性、通常は同じ父母から生まれた年少の男性をいう。「おとと」ともいう。また自分の妹と結婚した男性、すなわち妹婿や配偶者の弟も本人から見たら弟になる。その場合、義弟(ぎてい)と書いて「おとうと」と呼ぶ場合が多く、対象者より年下であるとは限らない。また、親の養子や親の再婚相手の連れ子が年下だった場合も義弟にあたる。 血縁関係である2親等である場合、現在の日本では対象者と婚姻することは民法上できない。 いとこのうち、対象者より年下の男性を従弟(じゅうてい)と呼ぶ。いとこは4親等である。従弟は一人息子や長っ子(長兄)の場合もよく使われる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。 蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。 小説家の徳冨蘆花は弟。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 夜討人数ノ内 堀辺弥津兵衛 堀辺弥次兵衛肖像」 歌川国貞画。 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。 なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある(赤穂事件参照)。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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俳諧

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.

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心中

心中(しんじゅう、旧仮名遣い:しんぢゆう)とは、本来は相思相愛の仲にある男女が双方の一致した意思により一緒に自殺または嘱託殺人すること。情死とも。.

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土屋逵直

土屋 逵直(つちや みちなお、万治2年(1659年) - 享保15年8月3日(1730年9月14日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本寄合。通称は主税、一般には土屋 主税(つちや ちから)として知られる。上総久留里藩主土屋直樹の嫡男。妻は甲斐庄正親の女。子に亮直、好直、友直、伊奈忠正室。.

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土屋政直

土屋 政直(つちや まさなお)は、江戸時代中期の大名、老中。常陸土浦藩主、駿河田中藩主。.

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マツダ

マツダ株式会社(Mazda Motor Corporation)は、広島県を本拠地としている日本の自動車メーカーである。.

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ロータリーエンジン

ータリーエンジンのローター(マツダミュージアム、2005年2月撮影) ロータリーエンジン()とは、一般的なレシプロエンジンのような往復動機構による容積変化ではなく、回転動機構による容積変化を利用して、熱エネルギーを回転動力に変換して出力する原動機である。 ドイツの技術者フェリクス・ヴァンケルの発明による、三角形の回転子(ローター)を用いるオットーサイクルエンジンが実用化されている。ヴァンケル型ロータリーエンジンとレシプロエンジンとでは構造は大きく異なるが、熱機関としては同等に機能する。本項ではこのヴァンケルエンジン()について述べる。.

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テレビドラマ

テレビドラマとは、テレビ番組の一種で、ドラマ形式のもののこと。.

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切腹

切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.

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喧嘩両成敗

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)とは、中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。.

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グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内田元知

内田 元知(うちだ もととも(寛永11年(1634年)- 正徳元年5月8日(1711年6月23日)))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府旗本。三郎右衛門(さぶろうえもん)。 旗本内田貞親(550石)の長男。母は野村新蔵の娘。大久保忠隣が改易された際、忠隣と近しい関係にあった貞親の兄・谷俊次(旗本)とともに連座して所領を召し上げられ、浪人中に元知は生まれた。 元禄13年(1700年)5月20日、内田家は再び召しだされることとなり、元知は村上伊予守の組下の小普請旗本となった。元禄14年(1701年)12月1日、はじめて将軍徳川綱吉に拝謁し、同年12月25日に切米150俵支給される。 同時にこの頃(12月下旬)、赤穂浅野氏の断絶で浪人していた元・赤穂藩士の甥で、槍の達人と伝わる高田郡兵衛を養子(娘婿)に請い、元赤穂藩士らが企図していた敵討ちの連盟から郡兵衛を脱盟させたといわれる。しかし、後に内田元知の家督を継いだのは内田正備(武沢氏からの養子)で、郡兵衛は家督を継がなかった。討ち入り後、赤穂浪士が世情で英雄化するに及び、「脱盟した高田郡兵衛」という世間の悪評に耐えかねて追放したとも、または郡兵衛が自主的に退去したとも考えられる。 正徳元年(1711年)5月8日に死去。享年78。法名は心。目黒の長徳寺に葬られた。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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公弁法親王

公弁法親王(こうべんほっしんのう、寛文9年8月21日(1669年9月16日) - 正徳6年4月17日(1716年6月6日))は、江戸時代の天台宗僧侶。後西天皇の第6皇子、貴宮秀憲親王。出家後、親王宣下を受け法親王となる。 毘沙門堂門跡のほか日光山(東照宮、輪王寺門跡)、東叡山寛永寺貫首、東叡山輪王寺門跡、比叡山延暦寺天台座主を兼任した。一品、准三宮。号は脩礼、玄堂。隠居後は大明院と称した。 狩野常信に書を学び能筆家としても知られる。.

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六本木

六本木(ろっぽんぎ)は、東京都港区の地名。現行行政地名は六本木一丁目から六本木七丁目。郵便番号は106-0032(芝局管区)。 港区北部に位置し、北で南青山、東で赤坂、南東で虎ノ門、南で麻布台・麻布永坂町・麻布十番・南西で元麻布、西で西麻布と接する。なお、東麻布とは僅かに接していない。旧・麻布区に属し、六本木一丁目、六本木二丁目、六本木四丁目、六本木五丁目の高台地域は番町、市谷船河原町、市谷砂土原町、そして赤坂の高台地区と並び特に六本木四丁目のフランシスカン・チャペルセンター周辺と六本木五丁目の鳥居坂周辺は1990年代前半頃までは独特の佇まいを残していた。 現在は繁華街というイメージが強い傾向にある。また、六本木ヒルズや泉ガーデンといったビジネス街や高級マンション、大使館も多くあり、多面的な顔を見せている。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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前原宗房

『義士四十七図 前原伊助宗房(尾形月耕画)』 前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。.

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勝田武尭

『義士四十七図 勝田新左衛門武尭』(尾形月耕画) 勝田 武尭(かつた たけたか、延宝8年〈1680年〉 - 元禄15年2月4日〈1703年3月20日〉)は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は新左衛門(しんざえもん)。.

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勅使

勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.

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国学

国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.

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倉橋武幸

倉橋 武幸 (くらはし たけゆき、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伝助(でんすけ)。.

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皇子

皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.

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矢田助武

『誠忠義士肖像』(歌川国芳画) 矢田 助武 (やだ すけたけ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は五郎右衛門(ごろうえもん)。.

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矢頭教兼

頭 教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。.

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石原正氏

石原 正氏 (いしはら まさうじ、生年不詳 - 宝永7年9月14日(1710年11月4日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本。通称は新左衛門(しんざえもん)。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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礒貝正久

『義士四十七図 磯貝十郎左衛門』(尾形月耕画) 礒貝 正久(いそがい まさひさ、延宝7年(1679年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十郎左衛門(じゅうろうざえもん)。 .

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神崎則休

『誠忠義士肖像』(歌川国芳画) 神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。本姓は源氏。家紋は蛇の目。大高忠雄・萱野重実と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。赤穂浪士の中でも随一の酒豪として伝わっている。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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細川綱利

細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。 吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。.

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細井広沢

細井 広沢 (ほそい こうたく、万治元年10月8日(1658年11月3日) - 享保20年12月23日(1736年2月4日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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義士

義士(ぎし)は、節義を厚い者のことをいう。類似する概念として志士、烈士などがある。 日本では、赤穂事件で活躍した赤穂浪士の47士を「赤穂義士」と敬意を込めて呼んだことが有名で、これは赤穂藩の側からその節義を礼賛した歴史観であるが、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目 『忠臣蔵』の影響である。 また朝鮮語の称号・敬称のひとつでもあり、特に大韓民国では、伊藤博文を暗殺して死刑となった安重根など、朝鮮独立運動の活動家のほとんどが義士と尊称される。.

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真壁郡

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真壁藩

真壁藩(まかべはん)は、常陸国(現在の茨城県桜川市真壁町)に存在した藩。.

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瑤泉院

泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは「ようぜんいん」と読む。.

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田中貞四郎

田中 貞四郎(たなか さだしろう、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。 赤穂藩主・浅野長矩の近習として片岡高房や礒貝正久に次いで寵愛を受けていた。元禄13年(1700年)の『赤穂分限帳』には150石手廻者頭とある。元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際にも長矩にお供して江戸にいた。長矩の切腹後、片岡・磯貝らとともにその遺体を引き取り、泉岳寺に埋葬し、その墓前で髻を切って吉良の首級をあげることを誓ったメンバーの一人である。 その後も片岡らと行動をともにし、3月20日には同志を募るために江戸をたち、30日に赤穂に入った。しかし、赤穂城中では殉死切腹が主流になっており、吉良へのかたき討ちを唱える3人とは意見がかみ合わなかった。結局、3人は大石良雄の盟約には加わらずに江戸へ戻っていった。堀部武庸ら江戸急進派と合流しようとしたが、こちらとも上手くいかず3人は孤立した。その後、元禄15年(1702年)3月に大石良雄に派遣された吉田兼亮が江戸下向した際にようやく大石の傘下に合流し、江戸急進派とも和解する。 しかし、片岡と磯貝は主君浅野長矩から受けた寵愛を忘れることなく仇討ちを志し続けたが、田中は酒に溺れ、梅毒でその形相もすっかり変わるほど堕落した。ついには自分の命も惜しくなり、討ち入りの1ヶ月ほど前の11月7日付けの書状で脱盟する旨を大石に伝えて一党を去った。その後の消息は不明である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:17世紀生 Category:18世紀没.

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田村建顕

村 建顕(たむら たつあき)は、江戸時代前期の大名。陸奥岩沼藩第2代藩主、のち田村氏一関藩初代藩主。.

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町野幸重

野 幸重(まちの ゆきしげ、生年不詳 - 宝永元年5月20日(1704年6月21日))は、旗本。町野幸宣の三男。左門、酒之丞。室は岡部豊明の娘(岡部行隆の養女)。継室は稲葉正吉の娘(寛政重修諸家譜による。断家譜では稲葉正休の娘)。 江戸に生まれ、天和3年(1683年)12月、家督を継ぐ。弟町野幸次に500石を分知し、4,500石を知行する。貞享元年(1684年)父の幸宣の時代から年貢が重かったが、さらに幸重が年貢を課したので、海老名郷大谷村名主鈴木三太夫が幕府に直訴を企て発覚し斬首される事件が起こった。貞享4年(1687年)9月25日駿府加番となり、元禄10年(1697年)閏2月28日、使番となり12月18日に布衣を許される。元禄12年(1699年)7月12日、新番頭となる。元禄14年(1701年)5月大坂城番引渡御用を務め、金三枚時服二羽織賜る。7月12日に江戸に帰り、8月5日、父に対する親不孝により改易となり、前田利昌に預けられる。宝永元年(1704年)、配流先で死去。墓所は善昌寺。法名涼樹院仁徳休心。娘2人をもうけたが、ともに夭折している。すぐ下の弟利有は斎藤利意の養子となり、次弟幸次は家名存続、三弟幸政(初名幸通)は尾張藩に仕えた(のちに職を辞し利有のもとに)。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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片岡高房

『義士四十七図 片岡源五右衛門高房』(尾形月耕画) 片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。.

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目付

付(めつけ)とは、.

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瀬尾孫左衛門

尾 孫左衛門(せお まござえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂事件で活躍した大石良雄の家臣。脱盟者の一人である。 大石良雄は赤穂藩主浅野長矩の家臣だが、1500石という高禄を賜っているので、大石家に仕える武士というのも存在した。そのうちの1人がこの瀬尾孫左衛門である。したがって浅野長矩から見れば瀬尾は又家臣(家臣の家臣。陪臣)である。本来、瀬尾に浅野家家臣の盟約に加わる資格はないのだが、大石良雄に懇願して特別に入れてもらったらしい。 瀬尾も士分であるので寺坂信行(吉田兼亮家臣。陪臣)などの足軽層よりは上格であったが、又家臣である以上、士分の同志達の中での序列は、もっとも低かったと思われる。しかし大石の瀬尾への信任は厚かったようで、元禄15年(1702年)10月、大石が江戸下向の途中に川崎平間の百姓軽部五兵衛の家の離れに滞在した際には瀬尾孫左衛門の名義で借りている。大石が江戸へ入った後も足軽矢野伊助とともに川崎平間村を留守していたが、吉良邸討ち入り直前の12月12日になって矢野とともに逃亡した。 その後の消息は不明であるが、一説には赤穂に戻り、剃髪して休真と号したという。討ち入りから間もない元禄16年(1703年、ただし年号は推定)2月26日に大石の妻理玖が「休真」に送った手紙の写しとされるものが『赤穂義人纂書』に収められていることからすると、寺坂と同様、瀬尾の逐電も単純な「逃亡」ではない可能性がある。.

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芝 (東京都港区)

芝(しば、中国語:芝/zhī)は、東京都港区の町名。または旧東京市芝区の範囲を指す地域名である。.

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花岳寺

花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)。 現在の住職はパーリ仏教研究者で駒澤大学仏教学部教授の片山一良。.

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遊女

遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称『大百科事典』 (平凡社, 1935)。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。.

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荷田春満

荷田 春満(かだ の あずままろ、寛文9年1月3日(1669年2月3日)- 元文元年7月2日(1736年8月8日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。通称は、斎宮(いつき)。初名は信盛と称し、のちに東丸。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。.

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。.

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荒木政羽

荒木 政羽(あらき まさはね / あらき まさは『寛政重修諸家譜』第十三 より。、寛文2年(1662年) - 享保17年2月14日(1732年3月10日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本。通称は與十郎・内蔵助・十左衛門。官位は従五位下・志摩守。.

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菅谷政利

菅谷 政利(すがや まさとし、万治3年(1660年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は半之丞(はんのじょう)。.

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萱野重実

萱野 重実(かやの しげざね、延宝3年(1675年)- 元禄15年1月14日(1702年2月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名。俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。父は萱野重利。.

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萱野重利

萱野 重利 (かやの しげとし、寛永6年(1629年) - 元禄15年8月6日(1702年8月28日))は、江戸時代中期の武士。旗本大島家の家老。通称は七郎左衛門(しちろうざえもん)。.

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香林院

大石りく遺髪塚(正福寺) 香林院(こうりんいん)、りく(理玖とも)(寛文9年(1669年) - 元文元年11月19日(1736年12月10日))は、江戸時代前期の女性。赤穂藩家老大石良雄の妻。当時用いられた名乗りではないが、現代では大石りくとも呼ばれることもある。.

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諸大夫

諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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高田馬場の決闘

場の決闘(たかたのばばのけっとう)は、元禄7年2月11日(グレゴリオ暦1694年3月6日)に江戸郊外戸塚村の高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘である。中山安兵衛こと堀部武庸が菅野に助太刀して名を挙げた。 講談・逸話・芝居が多いので諸説が入り乱れているが、ここでは作家で義士研究家の佐々木杜太郎が調査し発見された『細川侯爵家文庫』に所蔵されている「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」(闘死した菅野に代わって中山安兵衛が西条松平家組頭丹羽弥二郎に提出した始末報告書)を、最も史実に近い文書としてその内容を記述する。.

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高田郡兵衛

郡兵衛(たかた ぐんべえ、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。宝蔵院流高田派槍術開祖の高田吉次の孫と見られ、槍の達人と伝わる。名は『赤穂記』によれば資政(すけまさ)とあるが、他の書に記述は無く、事実かどうかは不明。.

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高輪

輪(たかなわ)は、東京都港区の地名。現行行政町名は高輪一丁目から高輪四丁目。高輪地区総合支所管内に属する地域である。郵便番号は108-0074(高輪局管区)。.

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高齢者

齢者(こうれいしゃ)は、社会の中で他の成員に比して年齢が高い一群の成員のことである。ただ高齢者という年齢の定義はさまざまであり一定のものはない。 日本語においては、同義語として老人(ろうじん)、年寄(としより)、お年寄り(おとしより)などの言葉がある。また、この世代を老年(ろうねん)と称する場合がある。日本の公共交通機関には高齢者・障害者・病人・怪我人・妊婦などのための優先席が設けられているが、日本国有鉄道や東京都交通局など一部の事業者は、これを「シルバーシート」と表現していた。ここから、日本においては高齢者のことをシルバーとも呼ぶようになった。また、高齢者が自身を「シルバー」と表現することも多く見受けられる。高齢者の職業技能を生かすための、「シルバー人材センター」という名称の施設が各地に存在している。.

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高野保春

野 保春(たかの やすはる、慶安3年3月3日(1650年4月3日) - 正徳2年5月26日(1712年6月29日))は、江戸時代前期の公卿。主に霊元天皇・東山天皇の御世の朝廷に仕えた。持明院基定の三男。母は持明院基久の娘。高野家の祖にあたる。また浅野長矩が元禄14年(1701年)に接待役を命じられていた勅使の一人(もう一人は柳原資廉)としても知られる。.

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貝賀友信

『義士四十七図 貝賀弥左衛門友信』(尾形月耕画) 貝賀 友信(かいが とものぶ、慶安3年(1650年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥左衛門(やざえもん)。本姓は藤原氏。家紋は重ね扇。.

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鳥居利右衛門

鳥居 利右衛門(とりい りえもん、寛永20年(1643年) - 元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。高家旗本吉良義央の家臣。名は正次(まさつぎ)。 寛永20年(1643年)、吉良家臣の鳥居吉次の子として生まれる。父は元禄4年(1691年)12月23日に死去しており、この頃に家督相続したと思われる。用人50石。 元禄15年(1703年)12月15日、吉良義央に遺恨のある大石良雄ら元赤穂藩の浪人(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした(赤穂事件)。上杉氏の『大河内文書』によれば、討ち入りの際に吉良義央を逃がした後、須藤与一右衛門(50石近習頭・討死)とともに台所で赤穂浪士たちと戦ったが、相手は鎖帷子をつけていたため、致命傷を与えられず、首を斬りおとされた。幕府検死方はこの2人の働きぶりを褒めたという。 享年60。愛知県吉良町大字吉田西福寺に墓がある。法名は一峰暁颯信士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:江戸時代の武士 Category:1643年生 Category:1703年没.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足守藩

陣屋遺構 藩主庭園・近水園(おみずえん) 足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置いた。.

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足軽

蓑を身に着け、雨中を火縄銃の射撃姿勢をとる足軽 火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 射撃姿勢をとる足軽 足軽行列のパフォーマンス 足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近藤正憲

近藤 正憲(こんどう まさのり ? - 享保3年2月15日(1718年3月16日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。甲州流軍学者。源八(げんぱち)と称した。 西村伝碩(大矢知伝碩・近松行重の母方の祖父)の子。妻は、筆頭家老大石良欽の娘ちょう。甲州流兵法の学者近藤正純の養子に入る。正純は寛文2年(1662年)1月2日に死去しているので家督を継いだのはその前後と考えられる。なお、一説に生家の大矢知家は、三河国吉良庄出身だという伝承もある。 正憲は禄高1000石の組頭であり、大石良雄ら藩士に甲州流兵法を教授したと伝えられる(後世花岳寺へ国立博物館から送られた甲州流平山城模型は正憲が設計して作らせたものである)。しかし、元禄10年(1697年)に組頭を解任されて、組外へ編入のうえ蟄居させられている。 元禄15年(1701年)3月の浅野刃傷・赤穂藩改易時にはかなりの高齢だったと見られ、仇討ちの義盟には加わらなかった。享保3年(1718年)2月15日赤穂郊外の中村で死去。随鴎寺に葬られた。法号は臥龍院関鉄道玄大居士。 なお、赤穂城開城後、赤穂浪士の一人吉田兼亮が甲州流兵学を学ぶため正憲のところに通ったという逸話があるが、真相は不明。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:江戸時代の軍学者 Category:17世紀の学者 Category:18世紀の学者 Category:17世紀生 Category:1718年没.

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近松行重

『義士四十七図 近松勘六行重』(尾形月耕画) 近松 行重 (ちかまつ ゆきしげ、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘六(かんろく)。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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茨城郡

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茅野常成

『義士四十七図 茅野和助常成』(尾形月耕画) 茅野 常成(かやの つねなり、寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は和助(わすけ)。.

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赤埴重賢

『義士四十七図 赤垣源蔵重賢』(尾形月耕図) 赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる。.

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赤穂城

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は、赤穂城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」などと表記するものもあった。.

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赤穂市

赤穂市(あこうし)は、兵庫県の南西部、岡山県との県境に位置する市。瀬戸内海国立公園の一部を成す。西播磨県民局の管轄。旧赤穂郡。.

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赤穂市立歴史博物館

赤穂市立歴史博物館(あこうしりつれきしはくぶつかん)は、兵庫県赤穂市にある歴史博物館。赤穂城内の米蔵があったところに建っている。建物の西側外観は5連の白壁土蔵を模しており、米蔵を再現したものである。 赤穂に関する歴史資料の収集、保管、調査研究および公開による文化の振興と発信の拠点を目指して、1989年に設立された。愛称は「塩と義士の館」。赤穂浪士と塩をメインテーマとする史学系博物館である。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂義士祭

赤穂義士祭(あこうぎしさい)は、兵庫県赤穂市で毎年赤穂義士たちが討ち入りを果たした12月14日に行われる祭りである。1903年(明治36年)から行われており、100回を超える赤穂市最大のイベントとして盛大に行われる。 最大の目玉である忠臣蔵パレードは、市内小学生による金管バンドパレードを皮切りに、東映剣会による「殺陣」、色艶やかなお姫様衣装を身にまとった赤穂義士娘による「義士娘人力道中」、当時の赤穂藩主の参勤交代を偲ばせる「大名行列」、歌舞伎や文楽、講談などに登場する忠臣蔵ゆかりの人物などに扮してパレードコースを練り歩く「義士伝行列」、殿中刃傷の場や討ち入りの場など忠臣蔵の7つの名場面をそれぞれの車上で演じる「山車」、そして意気揚々と芝高輪泉岳寺へと向かう四十七義士に扮した「義士行列」へと続き、沿道を埋めつくした数万人の観客を元禄絵巻さながらの世界へと誘う。 このほか、義士が眠る花岳寺の追慕法要、義士を祀る大石神社の祭典、近隣の市町村や義士親善友好都市により行なわれる「忠臣蔵交流物産市」などが催される。 また、12月14日の赤穂義士祭までの1週間を、「忠臣蔵ウイーク」とし、期間中は、市内各所で連日多彩なイベントが行なわれる。.

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赤穂郡

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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間光延

『義士四十七図 間喜兵衛光延』(尾形月耕画) 間 光延(はざま みつのぶ、寛永12年(1635年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛。.

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間光風

間 光風(はざま みつかぜ、延宝8年(1680年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は新六(しんろく)、新六郎(しんろくろう)。.

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間光興

『義士四十七図 間光興十次郎』(尾形月耕画) 間 光興(はざま みつおき、延宝6年(1678年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十次郎もしくは重次郎(じゅうじろう)。.

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間瀬正辰

『義士四十七図 間瀬孫九郎正辰』(尾形月耕画) 間瀬 正辰(ませ まさとき、天和元年(1681年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫九郎(まごくろう)。間瀬の呼び方は一説に「まなせ」。.

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間瀬正明

『義士四十七図 間瀬久太夫正明』(尾形月耕画) 間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫、久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。 .

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閉門

閉門(へいもん)は、江戸時代の刑罰の一つで、武士、僧侶などに科せられた。逼塞より重く、門扉、窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許さなかった。ただし蟄居より軽い。.

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藤井宗茂

藤井 宗茂(ふじい むねしげ、? - 享保18年8月22日(1733年9月29日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。800石。通称は又左衛門、のちに左門。 赤穂藩内では主席家老・大石良雄に次ぐ上席家老であり、藩主が参勤交代で江戸へ出る際には、末席家老の大野知房と交代でどちらかが御供して江戸へ向かい、どちらかが在藩していたという。なお、松の廊下の刃傷事件があった際には、藤井が江戸にあり大野が赤穂にあった。 元禄15年(1701年)江戸家老安井彦右衛門とともに勅使饗応役の主君浅野長矩を補佐した。3月14日の長矩による殿中刃傷後、浅野家が改易されると、3月16日に鉄砲洲上屋敷を立ち退き、上屋敷近くの築地飯田町(現在の中央区築地7丁目東部あたり)に安井彦右衛門や用人石槽勘左衛門(150石役料20石)・藩大目付早川宗助(200石役料10石)らと暮らしていた。堀部武庸ら江戸急進派から仇討ちの義盟への参加を求められるも加わらなかった。 その後、知己であった越中国富山藩前田家(加賀国金沢藩前田家の分家)の家臣金森八三衛門(山林見回り奉行)を頼り、越中国射水郡小杉村に身を寄せ、藤井左門と称した。大手崎村の豪農赤井屋九郎平の娘を妻に娶り、その間に二男一女をもうけた。なお、長男は後に明和事件で処刑される藤井直明である。 直明の手記によると父宗茂は享保18年(1733年)8月22日、姫路城下の網干で死去したとされている。兵庫県明石市竜門寺に墓が残る。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:17世紀生 Category:1733年没.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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脇坂安照

脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩2代藩主。龍野藩脇坂家4代。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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色部安長

色部 安長(いろべ やすなが)は、江戸時代中期の武士。米沢藩上杉氏江戸家老。.

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連座

連座(れんざ、連坐とも)とは刑罰の一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである。なお、江戸時代までは家族などの親族に対する連座は縁座(えんざ、縁坐)と呼称され、主従関係やその他特殊な関係にある者に適用される一般の連座とは区別して扱われていた。 英語の"Collective Punishment"の訳語として、「集団罰(しゅうだんばつ)」「集団懲罰(しゅうだんちょうばつ)」「集団的懲罰(しゅうだんてきちょうばつ)」などの語も使われる。民族や国民全体など、非常に広範囲への連座をも指す用語になっている。.

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進藤俊式

進藤 俊式 (しんどう としもと、正保4年(1647年) - 享保15年(1730年)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。足軽頭400石。通称は源四郎(げんしろう)。 進藤家は、公家近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた。父は赤穂藩士の進藤与四郎俊順。母は大石良勝(良雄の曽祖父)の娘ヨウであり、俊式は大石良雄の母方の大叔父にあたる。また俊式も大石良欽(良雄の祖父)の娘お通を妻とし、お通の死後は、良雄の推挙で石束毎公(りくの父)の甥・田村瀬兵衛の娘を後妻とした。のちに良雄の次女るりを養女にしており、大石家とは大変な重縁をもっていた。 元禄14年(1701年)の赤穂藩改易時には、足軽頭の地位にあった。赤穂城での論争では一貫して大石良雄派として行動し、大野知房らと対立。その後、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後、山科へ移ったが、これは山科が関白近衛基熙領であって、親戚の進藤長之(近衛家家司)が管理していた土地だったからと思われる。藩政残務処理を終えたあとの大石良雄も山科へ入っている。 大石とともに浅野家お家再興を目指したが、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広の広島藩お預けが決まり、お家再興が絶望的になる。俊式はこの頃からやる気を失ったとみえ、7月28日の円山会議にも出席していない。また大石は仇討ち一本の方針に切り替えたが、この際、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を行うと、俊式は閏8月8日に脱盟の書状を提出した。また大石の叔父にあたる小山良師もこの時に脱盟しており、大石は2人に再考するよう浅野家侍医の寺井玄渓を通じて一度慰留を行なっているが、これに対しても俊式は閏8月22日付けの断りの書状を送って再度脱盟の意思を伝えている。この脱盟の背景には、浅野本家に仕えた叔父の進藤俊重が仇討ち参加を自重するように説得していたためとされる。 俊式は、その後も山科で暮らし、半髪にして可言と号したが、享保15年(1730年)に死去。享年84。泉湧寺来迎院に葬られた。法名は爰疑院帰山宗休居士という。 category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1647年生 Category:1730年没.

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進藤長之

進藤 長之(しんどう ながゆき)は、江戸時代前期から中期の青侍。近衛家諸大夫を務めた。 青侍の進藤長昌(輪王寺宮守澄法親王の家臣)の次男として生まれる。父・長昌の母は大石良勝の娘。長昌の跡は長男の泰通が継いだため、長之は親族で近衛家家臣の進藤長房の養子に入った。その後、近衛基煕・家煕・家久の三代にわたって近衛家に仕えた。摂関近衛家の諸大夫であるため天皇よりしばしば官位を下され、延宝8年(1680年)には正六位下修理大進に叙任し、修理亮任官をへて、元禄14年(1701年)には正五位下刑部大輔に補された。 元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件のあった同年3月には、勅使の柳原資廉、高野保春らにお供して江戸へ下向していた。事件の後、京都へ戻った長之は、主の近衛基煕に経緯を報告し、さらに基煕から東山天皇に報告された。『近衛基煕日記』では基煕も天皇もこの事態を喜んでいるような反応を示している。 長之は赤穂城開城後に親族の赤穂藩士進藤俊式や大石良雄を、管理していた近衛家領の山科へ迎え入れた。なお、良雄が江戸に下向する際に金の無心をすると断っており、後で仇討ちのためだったと知ると、金を貸さなかったことを後悔したという逸話が伝わっている。 元禄16年(1703年)に従四位下。宝永5年(1708年)に従四位上。さらに享保元年(1716年)には正四位下となる。享保10年(1725年)に隠居して落飾し、鴨河西涯三本木に移った。 享保12年(1727年)に死去し、浄華院に葬られた。享年63。 Category:江戸時代の青侍 Category:赤穂事件関係人物 Category:1666年生 Category:1727年没.

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逃亡

逃亡(とうぼう)とは、束縛や義務などから逃げ、身を隠すこと。.

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退位

退位(たいい、)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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柳原資廉

柳原 資廉(やなぎわら すけかど)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。権大納言・柳原資行の次男。官位は従一位。柳原家12代当主。.

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柳沢吉保

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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松平忠郷

松平 忠郷(まつだいら たださと、? - 享保20年7月15日(1735年9月1日)は、江戸時代中期の武士。江戸幕府旗本。通称は孫三郎(まごさぶろう)、左門(さもん)、孫左衛門(まござえもん)。.

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松平信望

松平 信望 (まつだいら のぶもち、延宝2年(1674年) - 宝暦7年9月4日(1757年10月16日))は、江戸幕府の旗本。通称は玄蕃(げんば)、登之助(のぼりのすけ)。官位は従五位下駿河守。養子に松平信晴。.

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村松秀直

『義士四十七図 村松喜兵衛秀直』(尾形月耕画) 村松 秀直(むらまつ ひでなお、寛永19年(1642年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛(きへえ)。.

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村松高直

『義士四十七図 村松三太夫高直』(尾形月耕画) 村松 高直(むらまつ たかなお、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は三太夫・ 三大夫(さんだゆう)。.

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杉野次房

『義士四十七図 杉野十平次次房』(尾形月耕画) 杉野 次房(すぎの つぎふさ、延宝4年(1676年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十平次(じゅうへいじ)。.

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栗崎道有

栗崎 道有(くりさき どうう、寛文4年(1664年)? - 享保11年10月20日(1726年11月13日))は、江戸時代中期の蘭学医。諱は正羽(まさゆき)。号は道仙。道有は栗崎家世襲の号で、「露」を意味するオランダ語dauw(英dew)に由来し、時に道宇とも書かれる。.

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梶川頼照

梶川 頼照(かじかわ よりてる)は、江戸時代前期の旗本。.

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梅嶺院

梅嶺院(ばいれいいん、寛永20年6月11日(1643年7月26日) - 宝永元年8月8日(1704年9月20日))は、江戸時代中期の女性。高家・吉良義央の正室。俗名上杉富子。.

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榊原政殊

榊原 政殊 (さかきばら まさよし、生年不詳 - 享保7年5月18日(1722年7月1日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本。姫路藩榊原氏の分家出身。幼名は七之丞。通称は主計、采女。官位は従五位下、周防守。.

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横川宗利

『横川勘平宗利』(尾形月耕画) 横川 宗利(よこかわ むねとし、寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘平(かんぺい)。.

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橋本平左衛門

橋本 平左衛門(はしもと へいざえもん 貞享元年(1684年) - 元禄14年11月6日(1701年12月5日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。名は公之(きんゆき)。赤穂藩では馬廻り役100石。 橋本茂左衛門の子といわれる。『赤穂藩分限帳』(元禄13年頃)には馬廻り役百石橋本兵助(岡林直之組所属)とある。「兵助」は平左衛門の幼名だといわれるが、年齢的に父の可能性もある。 主君浅野長矩の刃傷後、当初から大石良雄に従ったが、赤穂城開城後に京都で暮らし、大坂曽根崎新地へ足を踏み入れ、淡路屋のお初という遊女と馴染みを重ねるようになり、元禄14年(1701年)11月6日の夜に心中した。享年18。『早見家文書』によれば、同じ岡林の組に属していた早水満尭が駆けつけて、一切の後始末をしたとしている。 category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:自殺した人物 Category:心中 Category:1684年生 Category:1701年没.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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武林隆重

三代目市川八百蔵扮する武林唯七(勝川春英画) 武林 隆重(たけばやし たかしげ、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は唯七(ただしち)。.

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毛利小平太

毛利 小平太(もうり こへいた、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。名は元義(もとよし)とされる。 元禄13年(1700年)の「浅野家分限帳」によれば大納戸役20石5人扶持とある。大石良雄の吉良義央への仇討ちの盟約に加わり、吉良邸討ち入り前には木原武右衛門と変名して本所林町五丁目の堀部武庸の借家に入っていた。 討ち入り1か月前の元禄15年(1702年)11月14日に作成された討ち入り手配(寺井玄渓宛てに送られたもの)には、裏門隊屋敷内突入部隊の中に毛利小平太元義の名がある。大石が11月29日付けで落合勝信に提出した瑤泉院への書状には、毛利小平太・瀬尾孫左衛門・矢野伊助の後に脱盟する3名を加えて忠死する者50名と書いている。 しかしその後、小平太は脱盟する旨の書状(12月11日付けとなっている)を残して逐電した。討ち入り口上書のなかには毛利小平太の名があるものが残っている。一方、12月12日に逃亡した矢野伊助や瀬尾孫左衛門の名は書かれていないことから、大石良雄らが小平太脱盟を知ったのは討ち入り直前だったと見られている。そのため小平太を「最後の脱盟者」と呼ぶことが多い。小平太の脱盟を受けて急遽、三村包常が表門隊から裏門隊へ編成替えされている。 逐電の理由として、大垣新田藩主戸田氏成に仕えていた小平太の兄に説得されて脱盟した説が残っている。 また、赤穂事件を題材にしたフィクション作品では、脱盟の内訳を多様に描いており、親族によって討ち入り参加を止められる(日本テレビ『忠臣蔵』、大河ドラマ『元禄繚乱』)、討ち入りに向かう途中に死亡(戦死・病死など)する(テレビ東京『大忠臣蔵』、テレビ朝日『忠臣蔵 CHUSHINGURA』)などがある。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:17世紀生 Category:18世紀没.

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毛利甲斐守邸跡

毛利甲斐守邸跡(もうりかいのかみていあと)は、東京都港区六本木六丁目にある史跡。長門長府藩主(長州藩毛利氏の分家)だった毛利綱元の麻布上屋敷の跡地である。 現在は六本木ヒルズ内の毛利庭園(もうりていえん)となっており、ひょうたん池の傍に跡地である旨を示す標柱が建てられている。.

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水野監物邸跡

水野監物邸跡(みずのけんもつ てい あと)は、東京都港区芝5-20-20にある三河岡崎藩主・水野家の中屋敷跡である。現在は灯籠のみが残っている。 水野監物(忠之)が藩主の時、この屋敷には赤穂事件で吉良上野介(義央)の屋敷に討ち入った赤穂浪士9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになり、元禄16年(1703年)2月4日同屋敷で切腹した。現在の慶應仲通りが三田二丁目から田町側に向かい、商店街の終点で東南に折れる場所の正面の医院の前に位置する。実際の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた場所にあった。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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泉岳寺

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。 現在の住職は駒澤大学名誉教授の小坂機融。.

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津和野藩

津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。.

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港区 (東京都)

港区(みなとく)は、東京都の特別区の一つ。23区のうち、千代田区や中央区とともに都心3区と位置づけられる。.

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清閑寺熈定

清閑寺 熙定(せいかんじ ひろさだ、旧字体:淸閑寺 煕定)は、江戸時代中期の公卿。明正天皇・後光明天皇・後西天皇・霊元天皇・東山天皇の五代に仕えた。浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際に江戸に下向していた院使として知られる。本姓は藤原。.

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清水一学

五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画) 二刀流で奮戦する一学の典型的イメージ 清水 一学(しみず いちがく)は、元禄時代の武士。忠臣蔵(赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に討ち死にしている。江戸時代の歌舞伎では実際の赤穂事件関係者の名称を使うことが禁じられていたため、「清水一角」 『忠臣いろは実記』 、「清水大学」『四十七石忠箭計』などと表現されている。 忠臣蔵の芝居や講談などでは剣の達人として伝わるが、実際は吉良家の中小姓佐々木杜太郎、赤穂義士顕彰会 『赤穂義士事典―大石神社蔵』 新人物往来社、1983年(昭和58年)。 p390-391(用人『山本博文 『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』 小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346。 第六章三節「吉良側の人的損害」)である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ。 なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」とあり、近習なのか用人なのか不明。 また今日の忠臣蔵のドラマでは清水一学を二刀流の剣士として描くことがあるが、彼を描いた明治期の歌舞伎では二刀流として扱っておらず 、二刀流というイメージは近代に入ってからのものだと思われる。.

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潮田高教

『潮田又之丞高教』(尾形月耕画) 潮田 高教(うしおだ たかのり、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は又之丞(またのじょう)。.

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木下公定

木下 㒶定(きのした きんさだ、承応2年6月7日(1653年7月1日) - 享保15年12月24日(1731年1月31日))は、備中足守藩の第5代藩主。足守藩木下家5代。 第4代藩主・木下利貞の長男。母は金森重頼の娘。正室は木下俊長の娘。官位は従五位下、肥後守。幼名は熊之助。弟に木下藤栄(内記)。養子に木下利安、木下公福、木下利潔。養女に浅野長恒妻(遠山友貞娘)。 延宝7年(1679年)8月14日、父の死去により跡を継ぐ。元禄14年(1701年)3月、赤穂事件で有名な浅野長矩の改易の際、龍野藩主脇坂安照とともに赤穂城の受け取り役を務めた。宝永5年(1708年)5月には仙洞御所と中宮御所の普請で功を挙げた。 藩政においては「桑華蒙求」を著して家臣教育に務めるとともに、果樹栽培を奨励し、領民を豊かにしたと言われている。また、祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった。享保14年(1729年)5月2日、養嗣子の利潔に家督を譲って隠居し、享保15年(1730年)12月24日に78歳で死去した。 法号は敬文院殿観翁慧定大居士。墓所は京都市東山区の高台寺円徳院と岡山市北区足守の大光寺。 弟の利安を養嫡子とするが、不行状を理由に廃嫡。替わって同じ木下一族の豊後日出藩から木下公福を養子としたが、最終的には弟の藤栄(内記)の子・利潔が跡を継いだ。.

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木村貞行

『義士四十七図 木村岡右衛門貞行』(尾形月耕画) 木村 貞行(きむら さだゆき、万治元年(1658年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は岡右衛門(おかえもん)。.

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本妙寺 (京都市)

本妙寺(ほんみょうじ)は、京都府京都市左京区仁王門通東大路東入北門前町にある日蓮宗の寺院。山号は祥光山。旧本山は京都妙覚寺、奠師法縁(奠統会)。境内には赤穂義士の吉田忠左衛門と沢右衛門父子、貝賀弥左衛門の墓があり、赤穂義士の寺と呼ばれる。.

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戸田氏定

戸田 氏定(とだ うじさだ、明暦3年3月30日(1657年5月13日) - (享保18年7月23日(1733年9月1日))は、江戸時代中期の大名。美濃大垣藩の第4代藩主。大垣藩戸田家5代。 第3代藩主・戸田氏西の長男。母は内藤忠政の娘。正室は藤井松平信之の娘。子に戸田氏長(次男)、戸田定浩(三男)、戸田氏房(五男)、娘(水野忠恒正室)、娘(太田資晴正室)。官位は従五位下、采女正。 明暦3年(1657年)3月30日生まれ。寛文11年(1671年)12月28日に従五位下采女正に叙任。貞享元年(1684年)6月7日父氏西の死没したため、8月に家督を継いだ。元禄元年(1688年)7月10日に弟戸田氏成に新田3000石を分知した。氏成の養父・戸田氏利の所領を合わせて1万石を超え、大名となり、分家の支藩(三河畑ヶ村藩(大垣新田藩)が誕生した。元禄7年(1694年)3月27日、飛騨国が高山藩主金森氏移封ののち幕領となったため、幕府より戸田が飛騨国検地総奉行に任じられた。 元禄14年(1701年)3月14日、母方の従弟にあたる播磨赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に刃傷に及ぶ。実弟浅野長広は閉門となり、戸田や安部信峯ら従兄弟の大名達も連座して出仕を止められた。その後、赤穂城収城を前に浅野家筆頭家老大石良雄は、「我が藩は無骨な家臣どもばかりなので、上野介様への処断がはっきりしないと開城を納得させられない」といった、暗に吉良へのお仕置きを求める嘆願書を月岡治右衛門と多川九左衛門を使者にして幕府収城目付の荒木政羽と榊原政殊に出そうとした。しかし月岡と多川は収城目付と行き違いになったまま江戸へ到着、大石の「江戸家老には見せるな」という命令に背いて江戸家老安井彦右衛門にこれを相談してしまう。案の定、安井はすぐさま戸田にこれを報告した。驚いた戸田は「開城こそが公儀を重んじた内匠の意思のはず」といった内容の書を月岡と多川に渡して大石に届けさせた。こうして嘆願は失敗に終わる。 結局、赤穂藩内の論争はお家再興・かたき討ちを前提とした開城でまとまったため、赤穂城は無血で開城された。その後は戸田も浅野家再興のために尽力し、元禄14年(1701年)7月には大石良雄・小野寺秀和らを大垣に招いて浅野家再興について議した。しかし、功を奏せず、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広は安芸広島藩お預かりとなり、事実上再興の可能性はなくなった。その後、大石良雄らは吉良義央への仇討ち計画を本格化させ、年末には義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に捧げた後に切腹となった。 戸田自身は、その後平穏な人生を送り、享保8年(1723年)4月に次男の氏長に家督を譲って隠居し、享保18年(1733年)7月23日に死去。享年77。駒込蓮光寺に葬られた。法名は霊台院瑞誉松厳大居士。 Category:大垣藩主 Category:譜代大名 うしさた Category:赤穂事件関係人物 Category:1657年生 Category:1733年没.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明星院 (広島市)

月光山大日蜜寺 明星院 明星院(みょうじょういん)は、広島県広島市東区二葉の里2-6-25にある真言宗御室派の寺院。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号は月光山。大日蜜寺と称する。広島藩の藩内五ケ寺の一つであり、寺領400石、ご城下真言宗一派の札書を勤めた。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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浅野綱長

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期の国主外様大名。安芸広島藩第4代藩主。浅野家宗家5代。.

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浅野長広

浅野 長広(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟、のち養子。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長直

浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。.

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浅野長恒

浅野 長恒 (あさの ながつね、万治元年(1658年) - 享保17年9月7日(1732年10月25日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本寄合。播磨国赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は長三郎(ちょうさぶろう)のち隼人(はやと)。官位は従五位下、美濃守・壱岐守・市正(いちのかみ)。浅野氏は土岐氏の支流と称しているので、その通りならば本姓は清和源氏。.

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浅野長武

浅野 長武(あさの ながたけ、寛文3年(1663年) - 正徳2年9月21日(1712年10月21日))は、江戸幕府の旗本。播磨赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は左兵衛(さへえ)。 赤穂藩浅野家の江戸家老大石良重の次男として誕生。母は赤穂藩主浅野長直の娘。兄に浅野長恒がいる。はじめ大石酒之允と名乗ったが、母方の血統ゆえに貞享元年(1684年)4月に赤穂藩浅野家の分家旗本の浅野長賢(3500石)の婿養子に迎えられ、浅野左兵衛と改名した。 貞享3年(1686年)3月1日、はじめて将軍徳川綱吉に謁見。12月6日、養父長賢の隠居で家督を相続した。元禄11年(1698年)4月1日、御書院番の組頭となり、12月29日には布衣の着用を許された。元禄14年(1701年)3月15日には宗家の浅野長矩の刃傷に連座して出仕を禁止された。5月6日に出仕が許され、6月25日になって将軍拝謁も許された。元禄15年(1702年)12月19日、又従兄弟にあたる大石良雄が吉良義央を討ち取った事件で再び出仕を止められたが、元禄16年(1703年)3月8日には許された。正徳2年(1712年)正月11日に持弓頭に就任したが、9月21日には死去。享年50。 妻は浅野長賢の娘、のちに甲斐庄正親の娘。子に浅野長時と浅野長豊に嫁いだ娘がいる。 Category:大石氏 なかたけ Category:江戸幕府旗本 category:赤穂事件関係人物 Category:1663年生 category:1712年没.

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浅野長澄

浅野 長澄(あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、第3代備後三次藩主。 安芸広島藩主浅野綱晟の次男。母は左大臣九条道房の娘・八代姫。兄は第4代広島藩主・浅野綱長。正室は小笠原忠雄の娘。子に浅野長経(長男)、浅野長寔(次男)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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斎藤宮内

斎藤 宮内 (さいとう くない、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。高家・吉良家の家老。『赤城年鑑』にある吉良家からの届書の花押から、諱は忠長(ただなが)と推定されている。 赤穂事件の頃、吉良家の家老職にはこの斎藤と小林平八郎・左右田孫兵衛・松原多仲の4名がおり、斎藤はその中でも150石取りの筆頭家老の地位にあった。しかし吉良屋敷討入り当日は長屋の壁を壊して逃げたとも、赤穂浪士にお茶を出して機嫌をとったとも噂され、不名誉な逸話が多い。4家老のうち、討ち死にした小林平八郎、負傷した松原多仲、吉良家改易後吉良義周に付き従って信濃国諏訪藩の預り所までお供した左右田孫兵衛に比べ、当日は無傷で改易後は消息が知れない斎藤宮内は不忠の臣と見なされた。なお、斎藤は討入り後の12月16日に吉良義央の首級が納められた泉岳寺から吉良の首を返還され受け取っている。同僚家老左右田孫兵衛連名の文書(覚.

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新発田藩

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は 6万石(のち 5万石 → 10万石と推移)。.

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旧家

旧家.

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早水満尭

『義士四十七図 早水藤左衛門満尭』(尾形月耕画) 早水 満尭 (はやみ みつたか、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は藤左衛門(とうざえもん)。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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敵討

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。.

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12月14日

12月14日(じゅうにがつじゅうよっか、じゅうにがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から348日目(閏年では349日目)にあたり、年末まであと17日ある。.

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12月14日 (旧暦)

旧暦12月14日(きゅうれきじゅうにがつじゅうよっか)は、旧暦12月の14日目である。六曜は先勝である。.

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1703年

記載なし。

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1月30日

1月30日(いちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から30日目に当たり、年末まであと335日(閏年では336日)ある。.

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