104 関係: 埴輪、即位、参議、吉川弘文館、大同 (日本)、大学寮、大和国、天平勝宝、天応 (日本)、太政官、外位、外記、奈良時代、宝賀寿男、宿禰、官位、官僚、官職、宇治谷孟、尊卑分脈、少納言、三代格式、平城天皇、平安時代、享年、延暦、伊予親王の変、弁官、弘仁、侍従、従三位、従五位、従四位、土師氏、北陸道、刑部省、嵯峨天皇、内位、内記、公卿、公卿補任、六国史、兵衛府、勘解由使、皇太子、系図、続日本紀、菅原古人、菅原氏、菅野真道、...、観察使、講談社、講談社学術文庫、貴族、近衛府、近衛兵、薬子の変、葬儀、野見宿禰、致仕、造寺司、連座、桓武天皇、森田悌、正五位、正八位、正六位、正四位、添下郡、朝臣、春宮坊、改姓、1月10日 (旧暦)、2月15日、752年、781年、782年、784年、787年、789年、790年、791年、793年、796年、797年、798年、799年、800年、802年、803年、805年、806年、807年、808年、809年、810年、811年、812年、813年、814年、815年、818年、820年、821年。 インデックスを展開 (54 もっと) »
埴輪
武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝 埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物。古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。.
即位
即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.
参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
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大同 (日本)
大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.
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大学寮
大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.
天応 (日本)
天応(てんおう、正字体:天應)は、日本の元号の一つ。宝亀の後、延暦の前。西暦の781年から782年に相当する。この時代の天皇は光仁天皇、桓武天皇。.
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太政官
太政官.
外位
外位(げい/がいい)とは、律令制における位階体系の1つ。中央の貴族・官人に与えられた内位に対して傍系と看做される。.
外記
外記(げき)は律令制において朝廷組織の最高機関・太政官に属した職の一つである。四等官の中の主典(さかん)に相当する。唐名は外史・門下起居郎・門下令史。和訓は「とのおおいしるすつかさ」。.
奈良時代
奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.
宝賀寿男
宝賀 寿男(ほうが としお、「寶賀壽男」とも表記。1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚で、現在は弁護士。.
宿禰
宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺))は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた金井清一「スクナヒ コナの名義と本質」1971 。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。.
官位
日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.
官僚
官僚(かんりょう、bureaucrat ビューロクラート)とは、一般に、国家の政策決定に大きな影響力を持つ公務員をいう。.
官職
官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.
宇治谷孟
宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年 - 1992年11月5日)は、日本の歴史学者、国文学者。はじめて『日本書紀』の現代語訳を行ったほか、『続日本紀』の現代語訳も担当した。.
尊卑分脈
『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.
少納言
少納言(しょうなごん/すないものもうし)は、日本の朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。.
三代格式
三代格式(さんだいきゃくしき)とは、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(律令の補助法令)の総称である。.
平城天皇
平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
享年
享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.
延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
伊予親王の変
伊予親王の変(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。.
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弁官
弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.
弘仁
弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.
侍従
服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従五位
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.
従四位
従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.
土師氏
土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族。 天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。.
北陸道
北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.
刑部省
刑部省(ぎょうぶしょう)は、古代日本の律令制下の八省の一つ、もしくは明治時代の省庁の一つ。.
嵯峨天皇
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.
内位
内位(ないい)とは、日本律令制の位階の中核をなす序列である。文位(ぶんい)とも呼ばれている。地方豪族などに与えられる外位や武功によって授けられる勲位と対置される。.
内記
内記(ないき)は律令制において中務省に属した品官。唐名は起居郎・柱下。和訓は「うちのしるすつかさ」。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
公卿補任
公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.
六国史
六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。.
兵衛府
兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.
勘解由使
勘解由使(かげゆし)は、日本の律令制下の令外官の一つ。平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。和名は「とくるよしかんがふるのつかさ」。.
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
系図
系図(けいず)は、ある一族の代々の系統を書き表した図表。系譜(けいふ)ともいうが、系譜と言った場合は血縁関係のみならず、学芸の師匠から弟子への師承関係を表した図表をいう場合も多い。特定の家の家督相続の継承の系統(家系)を記した系図は家系図(かけいず)、家譜(かふ)ともいう。.
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.
菅原古人
菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。.
菅原氏
菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。.
菅野真道
菅野 真道(すがの の まみち、天平13年(741年) - 弘仁5年6月29日(814年7月23日))は、平安時代初期の公卿。津山守の子。姓は津連のち菅野朝臣。官位は従三位・参議。.
観察使
観察使(かんさつし)は、唐代の中国、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
講談社学術文庫
講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.
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貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
近衛府
近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.
近衛兵
近衛兵(このえへい)とは、君主を警衛する君主直属の軍人または軍団をいう。近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな名称がある。 君主制が廃止された国でも、歴史的経緯などから近衛兵や親衛隊などの名称が存続した例がある。ただし日本語では、「近衛」とは主に世襲の元首を警衛するものを指し、世襲ではない元首を警衛するものには通常この語を充てない。 法治国家が発展した現代では軍と警察の職務分離が進んでおり、平時の警護は警察などの法執行機関や国家憲兵が担当し、軍は儀仗や海外訪問や緊急時の警護を担当する国が多い。 本記事では、君主を警衛する近衛兵のほかにも、そこから派生した制度などについても紹介する。また過去においては兵権と警察権の区別が必ずしも明確でないことから、軍に属する兵卒以外についての記述も含まれる。.
薬子の変
薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.
葬儀
葬儀(そうぎ)あるいは葬式(そうしき)とは、人の死を弔うために行われる祭儀、葬制の一部である。.
野見宿禰
野見宿禰像(荒川亀斎作) 野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。阿陀勝、来日田維穂命の父。.
致仕
致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した。.
造寺司
造寺司(ぞうじし)とは、奈良時代に官寺あるいはこれに准じた寺院を造営するために設置された令外官のこと。.
連座
連座(れんざ、連坐とも)とは刑罰の一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである。なお、江戸時代までは家族などの親族に対する連座は縁座(えんざ、縁坐)と呼称され、主従関係やその他特殊な関係にある者に適用される一般の連座とは区別して扱われていた。 英語の"Collective Punishment"の訳語として、「集団罰(しゅうだんばつ)」「集団懲罰(しゅうだんちょうばつ)」「集団的懲罰(しゅうだんてきちょうばつ)」などの語も使われる。民族や国民全体など、非常に広範囲への連座をも指す用語になっている。.
桓武天皇
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.
森田悌
森田 悌(もりた てい、1941年4月12日 - )は、日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。文学博士。 1965年、東京大学文学部国史学科を卒業。1967年、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。.
正五位
正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.
正八位
正八位(しょうはちい)は、日本の位階における位の一つ。従七位の下、従八位の上に位する。 律令制においては、さらに正八位上と正八位下の二階に分けられた。明治時代初期の太政官制においては上下の別がなくされた。正八位は、神祇官の権少史、太政官の主記などに相当する。.
正六位
正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.
正四位
正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.
添下郡
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朝臣
朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.
春宮坊
春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.
改姓
改姓(かいせい)とは姓を改める事を指す。.
1月10日 (旧暦)
旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。.
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2月15日
2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。.
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752年
記載なし。
781年
記載なし。
782年
記載なし。
784年
記載なし。
787年
記載なし。
789年
記載なし。
790年
記載なし。
791年
記載なし。
793年
記載なし。
796年
記載なし。
797年
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798年
記載なし。
799年
記載なし。
800年
記載なし。
802年
記載なし。
803年
記載なし。
805年
記載なし。
806年
記載なし。
807年
記載なし。
808年
記載なし。
809年
記載なし。
810年
記載なし。
811年
記載なし。
812年
記載なし。
813年
記載なし。
814年
記載なし。
815年
記載なし。
818年
記載なし。
820年
西暦820年の世界地図.
821年
記載なし。
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