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源顕基

索引 源顕基

源 顕基(みなもと の あきもと)は平安時代中期の公卿。醍醐源氏、安和の変で失脚した源高明の孫で、権大納言・源俊賢の子。後一条天皇の側近として仕えた。.

68 関係: 十訓抄即位参議叙爵大納言安和の変寛仁寛弘小右記崩御左大臣中納言万寿平安時代享年侍従御堂関白記後一条天皇徒然草従三位従五位従四位出家公卿公卿補任兵衛府銃殺賀茂神社近衛府藤原実成藤原忠君藤原道長藤原行成蔵人頭醍醐源氏長保長和長元正五位永承治安 (元号)源俊賢源高明源資綱源資通流罪懐刀1000年1011年1013年...1014年1015年1016年1018年1020年1021年1023年1024年1026年1027年1028年1029年1030年1035年1036年1047年9月30日9月3日 (旧暦) インデックスを展開 (18 もっと) »

十訓抄

『十訓抄』(じっきんしょう、じっくんしょう)は鎌倉中期の教訓説話集。編者は未詳、菅原為長、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業に充てる説と佐治重家に充てる説がある)説がある。 仏典「十善業道経」に発想し、「十訓」こと十ヶ条の教誡を掲げ、古今和漢の教訓的な説話約280話を通俗に説く。儒教的な思想が根底を流れる。年少者の啓蒙を目的に編まれ、その後の教訓書の先駆となった。三巻/十編。 序文には「広く和漢の書物に目を通し、その中から教訓となる話を集めた」と書かれている。平安朝を中心に本朝・異邦の説話280を収め、『大和物語』『江談抄』『古事談』などの先行説話集や『史記』『漢書』など引用書の範囲は広い。また、平清盛など平家一門の生活圏における説話に、作者が直接見聞したと考えられるものも含まれている。『古今著聞集』と重複する話も多い。 「新訂増補国史大系」(吉川弘文館)、「新編日本古典文学全集」(小学館)、「岩波文庫」(岩波書店)所収。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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安和の変

安和の変(あんなのへん)は、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。.

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寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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小右記

『小右記』(おうき / しょうゆうき)は、平安時代の公卿藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣(実資のことを指す)の日記という意味。全61巻。全文は漢文で書かれている。『野府記』(やふき)ともいう。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。 平成23年(2011年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、平成25年(2013年)6月18日に登録された。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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徒然草

徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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銃殺

銃殺(じゅうさつ)、または射殺(しゃさつ)は、銃を用いて主に人間の命を絶つこと。 「銃殺」は、特に「銃殺刑」を執行する場合を指すこともある。他方、「射殺」は動物や人間を撃ち殺す行為一般を指し、弓などを含む飛び道具全般について用いることができる。銃殺刑でない場合は、戦争行為も含めて後に殺人罪として刑罰に問われることが通常である。 ソ連のスパイを拳銃で処刑するフィンランド兵(1942年) 日本における銃器死者の記述(記録上の鉄砲の実戦使用)は、16世紀中頃の天文19年(1550年)7月14日、洛中の合戦で三好長慶軍の部将三好弓介の与力1人が細川晴元軍の鉄砲に当たって死亡したのが文献上の初見とされる。 その後明治から昭和にかけて政治家に対する突発的な銃殺事件が増えた。伊藤博文暗殺や、五・一五事件、二・二六事件などが挙げられる。.

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賀茂神社

賀茂神社(かもじんじゃ)とは、京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の2つの神社の総称である。 古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、古くは賀茂大神とも呼称した。両社の例祭である葵祭は特に有名で、天皇の勅使を迎える三勅祭のひとつで古来の格式が伝わっている。また、この賀茂神社から勧請を受けた、「加茂神社」・「賀茂神社」・「鴨神社」などといった神社が日本各地に約300社ある。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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藤原実成

藤原 実成(ふじわら の さねなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流、太政大臣藤原公季の長男。正二位、中納言、大宰権帥。.

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藤原忠君

藤原 忠君(ふじわら の ただきみ)は、平安時代中期の貴族・歌人。名は忠尹とも記される。藤原北家、右大臣・藤原師輔の五男。官位は正四位下・右兵衛督。冷泉天皇・円融天皇の外叔父。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.

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蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

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醍醐源氏

醍醐源氏(だいごげんじ)は、第60代天皇である醍醐天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓は朝臣。.

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長保

長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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長元

長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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永承

永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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治安 (元号)

治安(じあん、ちあん)は、日本の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1023年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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源俊賢

源 俊賢(みなもと の としかた)は平安時代中期の廷臣。西宮左大臣源高明の三男。藤原公任、同斉信、同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源資綱

源 資綱(みなもと の すけつな)は平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。醍醐源氏、権中納言・源顕基の長男。.

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源資通

源 資通(みなもと の すけみち)は、日本の平安時代中期の公卿。播磨守・源済政の長男。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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懐刀

懐刀(ふところがたな)とは、日本の慣用句、比喩表現の一つ。.

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1000年

月曜日から始まる。また、10世紀および1千年紀における最後の年でもある。.

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1011年

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1013年

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1014年

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1015年

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1016年

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1018年

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1020年

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1021年

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1023年

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1024年

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1026年

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1027年

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1028年

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1029年

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1030年

記載なし。

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1035年

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1036年

記載なし。

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1047年

記載なし。

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9月30日

9月30日(くがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から273日目(閏年では274日目)にあたり、年末まであと92日ある。9月の最終日である。.

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9月3日 (旧暦)

旧暦9月3日(きゅうれきくがつみっか)は旧暦9月の3日目である。六曜は大安である。.

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