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明治

索引 明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

目次

  1. 829 関係: 加藤弘之加波山事件嚶鳴社お雇い外国人くじ博物館明治村印刷即位千島列島南下政策南北朝時代 (日本)南満洲鉄道反戦運動台湾台湾出兵右大臣右院又新会参与参謀本部 (日本)参議名字名主君が代報知新聞堺利彦士農工商士族士族反乱壬午壬午軍乱壬子壬寅壬申壬申戸籍壬辰夏目漱石大名大同団結運動大坂城大学寮大審院大久保一翁大久保利通大井憲太郎大区小区制大化大和民族大納言... インデックスを展開 (779 もっと) »

加藤弘之

加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の政治学者、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。

見る 明治と加藤弘之

加波山事件

加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。

見る 明治と加波山事件

嚶鳴社

嚶鳴社(おうめいしゃ)は、明治時代前期の政治結社。新聞記者、弁護士、開明派官吏などを中心に結成された代表的都市民権結社。1873年(明治6年)開設の法律講義会を前進とし、元老院大書記官の沼間守一が1878年(明治11年)に設立。1882年(明治15年)の立憲改進党結成に尽力し、同年6月の集会条例追加改正により解散した。主要メンバーは、青木匡、沼間守一、肥塚龍、島田三郎、野村本之助、波多野伝三郎、高梨哲四郎、丸山名政など。自由民権・国会開設を主張。「東京横浜毎日新聞」や「嚶鳴雑誌」の発行、地方遊説などで啓蒙活動を展開。東京に本社を設立、関東や東北など全国各地に29の支社を置き、盛期には社員1000人以上の規模となった。

見る 明治と嚶鳴社

厘(りん)は、(100分の1)の数を表す単位である。尺貫法では分量単位として用いられる。元の用字は「釐」で、厘はその俗字である。 1厘は 10毛、100糸、1000忽に相当し、SI接頭語ではc(センチ)に相当する。これは中国、台湾の国際単位系(SI)でも同じであり、のセンチ(centi、記号は c)には「厘」を使用している(:zh:国际单位制词头)。ただし、のミリ(milli、記号は m)には「毫」を使用している。

見る 明治と厘

お雇い外国人

お雇い外国人(おやといがいこくじん、御雇外国人)は、幕末から明治 にかけて日本政府や各府県などによって雇用された外国人。 人々は欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進める目的で雇用されていった。当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいた。官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいた。お抱え外国人とも呼ばれることもある。

見る 明治とお雇い外国人

くじ

くじ(籤・鬮)とは、正負や順序が割り当てられる対象について、その割り当て情報をあらかじめ与えずに選択させること、またはその対象のこと。割り当て情報は、対象に見えないよう封入されていてもよく、選択の後に無作為な手段で割り当ててもよい。日本語の「くじ」という言葉は10世紀頃からみられるようになり古くは「孔子」と表記された 貞昌院 2021年1月1日閲覧。。 通常、くじ引きの確率はくじを引く順番にかかわらず平等である(確率保存)。宗教的に神の意志を問うために用いられることもあるが、世俗世界では確率の上で平等な割り当てを行うために用いられることが多い。この場合は結果について、あらかじめ公にされている単純な確率計算以上の予測を行えないことが必要である。

見る 明治とくじ

博物館明治村

村内風景(左は東松家住宅、右は千早赤阪小学校講堂) 村内風景(宗教大学車寄) 博物館明治村(はくぶつかん めいじむら)は、愛知県犬山市字内山1にある野外博物館・テーマパーク。通称は明治村(めいじむら)。 明治時代の建造物等を移築して公開し、また明治時代の歴史的資料を収集し、社会文化の向上に寄与することを目的とする。管理運営は公益財団法人明治村。 敷地面積が大きく、日本のテーマパークとしては同じく名鉄インプレスが経営するリトルワールドに次いで第3位である。歴史的建造物の多さやその広さから、ドラマの撮影やアニメのモチーフに頻繁に使われている。また明治東亰恋伽などゲームとのコラボレーションや、世界コスプレサミットのサブ会場としての提供なども実施している。

見る 明治と博物館明治村

印刷

左上から順に: 紀元前1800年ごろのバビロニアの円筒印章、インドの捺染用木版印刷ブロック、李氏朝鮮の活字、(2行目)活版印刷機、リトグラフ印刷機、オフセット印刷機、(3行目)ライノタイプ、デジタル印刷機、3Dプリンタ 印刷(いんさつ、printingあるいはpress)とは、版にインキをつけて、それを紙(など)に押し付け、版と表裏が逆の模様を何枚も簡単に速くつくること、その作業(仕事)『日本大百科全書』【印刷】。

見る 明治と印刷

即位

即位(そくい)とは位に即(つ)いて皇帝・天皇・国王など君主に成ること。また、ローマ教皇など宗教職にも用いる。稀に「しょくい」と読むこともある。

見る 明治と即位

千島列島

は、北海道本島の東にある根室海峡からカムチャツカ半島の南にある千島海峡までの間に連なる列島であり広義の日本列島。ロシア語ではクリル列島(Кури́льские острова́、Kuril Islands。)と呼ばれる。 全島がロシア連邦の実効支配地域である。最も北東にあるのが占守島で、そこから南西方向に幌筵島・温禰古丹島・得撫島などの20以上の島々が点在する。 また、得撫島より南西にある択捉島・国後島・色丹島および歯舞群島の4島(いわゆる北方四島または南クリル列島)については、ロシア連邦と日本国との間に領土問題(北方領土問題)が存在し、この4島を『千島列島(クリル列島)』に含めるかどうかについては、立場によって解釈が異なる。

見る 明治と千島列島

南下政策

南下政策(なんかせいさく)とは、ある国家が南方に進出しようとする政策。単に南下政策といった場合はロシア帝国の南下政策を指すことが多い。

見る 明治と南下政策

南北朝時代 (日本)

日本の歴史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい、)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。

見る 明治と南北朝時代 (日本)

南満洲鉄道

南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、)は、南満洲の鉄道会社。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され、鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業であり、日本の満洲経略において重要な位置を占めた企業へと発展した。略称は満鉄(まんてつ、)。

見る 明治と南満洲鉄道

反戦運動

ハリバートンと書かれている) CNDデザインのピースマーク 反戦運動(はんせんうんどう、Anti-war movement。)とは、平和主義の観点から戦争に反対する個人または団体の運動や活動である。平和運動よりもやや狭義で捉えられるが、厳密な区分はない。

見る 明治と反戦運動

台湾

台湾(たいわん、)は、東アジアの島(台湾島)、およびそれを中心とした地域の名前であり、フォルモサ(Formosa、福爾摩沙)という別称がある。全域が中華民国の実効支配下にある。

見る 明治と台湾

台湾出兵

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に台湾原住民による日本人漂流民虐殺事件を理由に日本が行った清国領台湾への軍隊派遣である。「征台の役」、「台湾事件」ともいう。日清両国互換条款が調印により、清国が日本の出兵を認めて虐殺被害者に見舞金を支払うことを条件に日本は撤兵に同意することにより事件は解決した。この事件により、また琉球の日本帰属が国際的に確認される形となった。

見る 明治と台湾出兵

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。

見る 明治と右大臣

右院

右院(ういん)は、明治初期の行政機関。1871年9月13日(明治4年7月29日)太政官三院制導入により正院・左院と共に設けられた。1875年(明治8年)元老院設置にともない廃止。 従来の二官六省制でそれぞれの省庁の意見が対立した反省に基づき、各省庁の政策の連絡調整を担う機関として設けられた。各省の長官である卿と次官である大輔で構成されている。右院の決定事項は正院の裁決事項として位置づけられるなど、正院に比してその権限は弱かった。また大蔵省の権限は省庁の中でも突出していたため、しばしば右院の機能不全の原因となった。

見る 明治と右院

又新会

又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。

見る 明治と又新会

参与

参与(さんよ)とは、事務・職務に参画する意。参預、賛与とも。

見る 明治と参与

参謀本部 (日本)

参謀本部(さんぼうほんぶ、)は、大日本帝国陸軍の軍令機関である。ドイツ帝国陸軍の軍制に倣って、1878年(明治11年)に陸軍省参謀局が独立する形で創設された。 政府省庁である陸軍省とは独立した形で大元帥である天皇に直隷して陸軍を統帥せしめ、作戦計画並びに指揮及び遂行する等を職務とした。ただし、1893年(明治26年)の参謀総長の職掌改定により、戦時における軍令は大本営の所掌となった。 なお、1886年(明治19年)から1888年(明治21年)までの間、旧日本海軍の軍令機関が旧日本陸軍と統合されていた時期を除いた、旧日本海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む)については軍令部を参照。

見る 明治と参謀本部 (日本)

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つ。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。

見る 明治と参議

名字

名字または苗字(みょうじ、英語: surname)は、日本の家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏(民法750条、790条など)現行民法における氏の性格については「家の名」だけでなく、学者の間で議論がある。井戸田博史『夫婦の氏を考える』世界思想社、2004年 ISBN 4790710750、通俗的には姓(せい)ともいう。

見る 明治と名字

名主

名主(みょうしゅ)は、日本の古代末期から中世日本にかけて、公領・荘園領主から名田の経営を請け負うとともに、領主への貢納(年貢・公事・夫役)の責務を担った階層である。大名(だいみょう)は、大名主より転じた語である。概して、名主は関東で用いられ、関西では庄屋、東北・北陸では肝煎と呼ばれる 2022年6月閲覧。多くは、武士よりも経済的に裕福で、広い屋敷に住み、広大な農地を保有し、また、文書の作成に携わるという仕事柄、村を代表する知識人でもあった 2022年6月閲覧。江戸時代に名主(庄屋)を務めた家系は、もともと名門家系だったことが多く、戦国武将の有力な家臣が、江戸時代に入って名主(庄屋)となったケースは、かなり見られる。

見る 明治と名主

君が代

『君が代』(きみがよ)は、日本の国歌である。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている高橋(1979)pp.475-476『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典2』(1973)p.282。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」 を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌『世界大百科事典 7』(1988)山住「君が代」p.134となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。 その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降『』、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌として定着した。

見る 明治と君が代

報知新聞

『報知新聞』(ほうちしんぶん)は、かつて日本で発行されていた日刊新聞の題号。1872年(明治5年)に創刊された郵便報知新聞が前身。明治末から大正期にかけて「東京五大新聞」の一角を占めた有力紙の一つで、直営販売店制度の開始、日本初の新聞写真の掲載、日本初の女性ジャーナリストの採用や箱根駅伝の創設など、新聞史・社会史に大きな足跡を残した。第二次世界大戦後はスポーツ紙「スポーツ報知」となった。

見る 明治と報知新聞

堺利彦

堺 利彦(さかい としひこ、1871年〈明治3年〉1月15日(旧暦11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。

見る 明治と堺利彦

士農工商

士農工商(しのうこうしょう)または四民(しみん)は「国中のすべての人びと」といった意味合いの儒学的表現である。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになった。 1990年代頃からは、同時代的に現実に施行された制度ではないと否定する考えもみられる(東京書籍小学校(平成27年度から)社会 よくある質問Q&A)。

見る 明治と士農工商

士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。法律上平民と比しての特権はなかったが、戸籍に表示された。第二次世界大戦後1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により士族は他の身分とともに廃止された。戸籍の記載事項としての廃止は、1947年12月22日公布、1948年1月1日施行の戸籍法により行われた。士農工商の「士」である。

見る 明治と士族

士族反乱

士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。

見る 明治と士族反乱

壬午

壬午(みずのえうま、じんすいのうま、じんご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの19番目で、前は辛巳、次は癸未である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の午は陽の火で、相剋(水剋火)である。

見る 明治と壬午

壬午軍乱

壬午軍乱(じんごぐんらん)または壬午事変(じんごじへん)は、1882年(明治15年)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。

見る 明治と壬午軍乱

壬子

壬子(みずのえね、じんすいのねずみ、じんすいのね、じんし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの49番目で、前は辛亥、次は癸丑である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の子は陽の水で、比和である。

見る 明治と壬子

壬寅

壬寅(みずのえとら、じんすいのとら、じんいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの39番目で、前は辛丑、次は癸卯である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の寅は陽の木で、相生(水生木)である。

見る 明治と壬寅

壬申

壬申(みずのえさる、じんすいのさる、じんしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの9番目で、前は辛未、次は癸酉である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の申は陽の金で、 相生(金生水)である。

見る 明治と壬申

壬申戸籍

壬申戸籍(じんしんこせき)は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。

見る 明治と壬申戸籍

壬辰

壬辰(みずのえたつ、じんすいのたつ、じんしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの29番目で、前は辛卯、次は癸巳である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)である。

見る 明治と壬辰

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は。俳号は愚陀仏。 明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。

見る 明治と夏目漱石

大名

大名(だいみょう)とは、もともとは私田の一種の名田の所有者のことであり、名田の大小によって大名・小名に区別された。平安時代末頃からこの語が見られるようになり、鎌倉時代以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった。

見る 明治と大名

大同団結運動

大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)とは、明治中期の日本(1886年から1891年頃)における自由民権運動の一局面。帝国議会開設に備えて、運動体各派の統一が企図された。

見る 明治と大同団結運動

大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。 「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。1931年に復興された天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。

見る 明治と大坂城

大学寮

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。

見る 明治と大学寮

大審院

大審院(だいしんいん、たいしんいんNHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「だいしんいん」ではなく「たいしんいん」と読むと解説されている(NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.122 2005年)、英語: Supreme Court, Supreme Court of Judicature, Great Court of Cassationなど)は、1875年(明治8年)から1947年(昭和22年)にかけて日本において設置されていた司法裁判所の中における最上級審の裁判所である。明治8年太政官布告59号により設置され、1890年(明治23年)の裁判所構成法において最上級審の裁判所と規定された。

見る 明治と大審院

大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての旗本、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。

見る 明治と大久保一翁

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の内閣総理大臣。

見る 明治と大久保利通

大井憲太郎

大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。

見る 明治と大井憲太郎

大区小区制

大区小区制(だいくしょうくせい)とは、日本の明治時代に施行された地方制度である。 従来の小規模の町村では効率的な行政が実施できないため、町村を大区・小区に再編成したものであった『わかりやすい岐阜県史』(2001年3月31日、岐阜県発行)416ページ『地方自治制度の展開』より。。府県の下に大区を置き、大区の下に小区を置くことを基本とするが、実際は府県によって様々である。例えば「第9大区6小区」など、数字で行政区域が表された。

見る 明治と大区小区制

大化

大化(たいか、)は、日本の最初の元号。白雉の前。西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。

見る 明治と大化

大和民族

大和民族(やまとみんぞく)は、日本列島の住民の大半を占める民族である。ほとんどが日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。和人倭人は古い日本人の呼称だが、中国中南部の百越の一部を起源とする説があるなど、大和民族と同義ではない。-->(わじん)とも呼ばれる。日本列島の住民のうち、古代の大和朝廷や中世の武家政権の施政下にあった人のみを大和民族とし、近世に幕藩体制下に組み込まれた奄美群島および琉球諸島の琉球諸語を話していた住民を琉球民族、北海道に住むアイヌ語を話していたアイヌ民族と分類する考え方もあり、。

見る 明治と大和民族

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職の一つ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。現代の国務大臣に相当する政府の高官。

見る 明治と大納言

大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。

見る 明治と大隈重信

大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗。 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾や大勲位菊花大綬章など様々な勲章を纏った純宗。(1910年〜1920年) 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗。(1910年代初頭) 『大韓全図』(1899年、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、〈テハンジェグク〉)は、1897年(光武元年)から1910年(隆熙4年)の滅亡に至るまで李氏朝鮮が用いた国号である。大韓(だいかん、)、韓国(かんこく、)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 日本は日清戦争に勝利したことで、1895年(開国504年)に下関条約で李氏朝鮮を清の冊封体制から離脱させた。それを受けて、清朝との宗属関係も消滅した自主独立国家となったことを内外に示すため、第26代李氏朝鮮王である高宗が皇帝に即位し、あわせて国号を改称した。ただし、専制政治・経済機構は李氏朝鮮時代の状況が続いた。

見る 明治と大韓帝国

大阪

大阪(おおさか、Osaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名、都市。 律令国では摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心地。 かつては大坂と表記し、古墳時代から江戸時代以降の長きにわたり、日本経済と文化の中心地であった。そのため、京都と共に上方と呼ばれ、古都・副都・水都としての歴史も持つ。 現在の「大阪」は、近畿地方に位置する包括的地方公共団体・大阪府や、その府庁所在地であり西日本最大の都市・大阪市を指し、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏〈阪神都市圏〉、京阪神大都市圏、近畿圏など)を漠然と総称することにも使われる。

見る 明治と大阪

大阪事件

大井憲太郎 大阪事件(おおさかじけん)とは、1885年(明治18年)に起こった自由民権運動の激化運動の一つである。

見る 明治と大阪事件

大阪会議

中央区北浜) 大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。

見る 明治と大阪会議

大蔵省

大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance, MOF)は、明治維新から2001年(平成13年)1月6日まで存在した日本の中央官庁である。後継官庁は財務省と金融庁。

見る 明治と大蔵省

大連市

大連のスカイライン 大連市(だいれん-し/ターリエン-し、、、旧名:ダルニー市、)は、中華人民共和国遼寧省の南部に位置し、中国五つの「計画単列都市」の一つで、15個の「副省級都市」の一つである。中国東北地方随一の港口・工業・観光都市であるのみならず、中国政府指定の東北アジア国際航運センターかつ、東北アジアの有数の国際金融・交通・物流センターである。

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大逆事件

大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)は、明治15年(1882年)に施行された旧刑法の116条、および明治41年(1908年)に施行された現行刑法の73条(昭和22年の刑法改正の際に同条削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子、皇太孫、皇太后、太皇太后を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外でも皇帝や王に叛逆し、また謀叛を企てたことに対する犯罪を大逆罪と訳すことがある。

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大院君

大院君(たいいんくん、だいいんくん、テウォングン、)は、李氏朝鮮において、王位が父から子への直系継承が行われなかった場合に、新しい国王の実父に対して贈られる尊号である。

見る 明治と大院君

大東亜戦争

国庫債券」(戦争国債)。戦後のインフレーションによりほぼ無価値となった。 「大東亜戦争第一周年記念」として日本勧業銀行(現:みずほ銀行)が販売した「戦時報国債券」 大東亜戦争(だいとうあせんそう、、)は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月2日にかけて行われた、日本(大日本帝国)と中華民国・アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダなどの連合国との全ての戦線の戦争を指す日本側の呼称「なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか: アジア主義者の夢と挫折」p22-31, 田原総一朗 · 2011。 当項目では主に名称関係について記述する。

見る 明治と大東亜戦争

大村益次郎

靖国神社参道の中央にある大村益次郎像 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。

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大楽源太郎

大楽 源太郎(だいらく げんたろう)は、幕末期の武士・長州藩士。

見る 明治と大楽源太郎

大正

大正(たいしょう)は、日本の元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。 日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間をという。本項ではこの時代についても記述する。

見る 明治と大正

大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年〈明治12年〉8月31日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位: 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 1879年(明治12年)8月31日誕生。明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)である。 今上天皇(第126代天皇・徳仁)の曽祖父である。 生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。8歳で儲君、11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経て九条節子と結婚し、後の昭和天皇をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけた。また、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した。

見る 明治と大正天皇

大津市

大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市。滋賀県の県庁所在地で中核市に指定されている。

見る 明治と大津市

大津事件

大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれる - 読売新聞会社案内サイト「読売新聞へようこそ」 - 国立公文書館アジア歴史資料センター。 当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。

見る 明治と大津事件

大日本帝国

大日本帝国(だいにほんていこく、だいにっぽんていこく、、Empire of Japan)とは、大日本帝国憲法時代に使用された日本の国号のこと。日本と海外領土等の総称あるいは別称としても使用された。 大日本帝国憲法は1890年(明治23年)11月29日に施行され、第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法の施行に伴い失効するまで効力を有した。国号は江戸時代末期(幕末)に外交文書に使用され始め、公式には1947年(昭和22年)まで使用されていた。ただし、現在まで一貫して日本の正式な国号は法的に確定しておらず、「大日本帝国」もまた正式国号ではない(後述)。 大日本帝国憲法下における日本の領土は、現在の日本国の領土に加えて、南樺太・千島列島・朝鮮・台湾などを含み、また関東州・南洋諸島などいくつかの租借地・委任統治領が存在した。

見る 明治と大日本帝国

大日本帝国陸軍

大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、、Imperial Japanese Army、IJA)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。 解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。

見る 明治と大日本帝国陸軍

大日本帝国海軍

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、だいにほんていこくかいぐん、、Imperial Japanese Navy、IJN)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた海軍である。通常は、単に海軍や帝国海軍、日本海軍と呼ばれた。 解体後は、海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍または旧海軍とも呼ばれている。第二次世界大戦の後、残存部隊は改組を経て現在、海上自衛隊のほか関連する国家機関等になっている。

見る 明治と大日本帝国海軍

大日本帝国憲法

憲法発布略図1889年(明治22年)、楊洲周延画 新皇居於テ正殿憲法発布式之図1889年(明治22年)、安達吟光画 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本(旧通称大日本帝国)の憲法 大日本帝国憲法には、表題に「大日本帝国」が使用されているが、詔勅では「大日本憲法」と称しており、正式な国号と規定されたものではない。1936年(昭和11年)から第二次世界大戦終戦までは外交文書において「大日本帝国」に統一されたが、それ以外では「日本国」「日本」などの名称も使用された。

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大日本帝国憲法第3条

大日本帝国憲法第3条(だいにほん/だいにっぽん ていこくけんぽう だい3じょう)は、大日本帝国憲法第1章にある。この条文では「天皇の神聖不可侵」(天皇の尊厳や名誉を汚してはならないこと)を規定している。また天皇の尊厳や名誉を汚してはならない為に55条において「国政は国務大臣が輔弼し、その責任を負う」となっている。 法解釈としては、無答責の法理の根拠とされ、不敬や身体を害する行為が不敬罪として刑罰の対象になり、また、天皇はあらゆる非難から免れることを意味している(君主無答責)。

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大日本帝国憲法第4条

大日本帝国憲法第4条(だいにほん/だいにっぽん ていこくけんぽう だい4じょう)は、大日本帝国憲法第1章にある。

見る 明治と大日本帝国憲法第4条

大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。

見る 明治と大政奉還

天保暦

天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがあるなお明治維新の際、陰陽頭・土御門晴雄が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。

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天和 (日本)

は、日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

見る 明治と天和 (日本)

天皇

天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。

見る 明治と天皇

天皇誕生日

23歳)。 天皇誕生日(てんのうたんじょうび)は、日本の国民の祝日の一つである。旧称は、天長節(てんちょうせつ)。法律上の定めはないが、外交上では国家の日(ナショナル・デー)として扱われている。 日付は、第126代天皇徳仁の誕生日である2月23日(2020年〈令和2年〉以降)。

見る 明治と天皇誕生日

天狗党の乱

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱(げんじかっしのらん)元治元年(甲子年)に起こったことから。ともいう。

見る 明治と天狗党の乱

天津条約 (1885年4月)

天津条約(てんしんじょうやく、英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。 日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれる。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。

見る 明治と天津条約 (1885年4月)

太陰太陽暦

太陰太陽暦(たいいんたいようれき、)とは、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。

見る 明治と太陰太陽暦

太陽暦

太陽暦(たいようれき、)とは、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にして作られた暦(暦法)である。1年の日数を1太陽年に近似させている。ユリウス暦や、現在、世界の多くの地域で使用されているグレゴリオ暦は、太陽暦の1種である。似ている言葉として、太陰暦があるがこれとは異なる。 簡単に説明すると、太陽を基準にして1年を基本的に365日とし、12か月に分けることである。

見る 明治と太陽暦

外務大臣 (日本)

外務省庁舎 外務大臣(がいむだいじん、)は、日本の外務省の長および主任の大臣たる国務大臣。 通称は外相(がいしょう)。

見る 明治と外務大臣 (日本)

外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称: MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」(外務省設置法第3条)。

見る 明治と外務省

外国人

外国人(がいこくじん、, )とは、ある国家の国民から見て、その国家の国籍を有しない者のこと。外人(がいじん)とも呼ばれる「外人墓地」や「外人部隊」など公的な名称としても使われる。。 居住国の市民権を持たない者の権利の基盤に関しては、私的所有物の不当な没収やはく奪などを受けた場合に出身国政府である主権国家がその外交的保護権の行使として自国民の保護などを求める対外的市民権(external citizenship)、市民権を持たない居住者にも保障される外国人の権利(aliens'rights)、永住市民権保持者に認められる定住外国人の権利(denizenship)、人として保障される普遍的人権(universal personhood)などがあり内容には差異がある。

見る 明治と外国人

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権 日本大百科全書(井上勲執筆項)。 奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。

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奇兵隊

奇兵隊(きへいたい)とは、江戸時代末期(幕末)に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」も、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語に由来する。 主に結成された奇兵隊は以下の通りで、順次詳細をこの項にて述べる。

見る 明治と奇兵隊

奉天会戦

奉天会戦(ほうてんかいせん、フォンティエンかいせん)は、1905年2月21日から3月10日にかけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である(日露戦争において最後の戦闘は樺太の戦いとなる)。 奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。

見る 明治と奉天会戦

姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田家で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏で続いた。石高ははじめ52万石、のち15万石。

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学制

学制(がくせい、明治5年8月2日太政官第214号)は、明治5年8月2日(1872年9月4日)に太政官より発された、日本最初の近代学校教育制度を定めた教育法令である。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定した。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により、1879年(明治12年)9月29日に廃止された。

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定期乗車券

定期乗車券の例(日本国有鉄道) JR西日本) 定期乗車券(ていきじょうしゃけん)とは、鉄道・バスなどの公共交通機関において、通勤・通学を主に特定の区間を繰り返し乗車する乗客を対象として、一定の期間を区切って発行される乗車券である。一般的に定期券(ていきけん)または定期(ていき)と略して呼ばれる。

見る 明治と定期乗車券

宮古島島民遭難事件

宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年、同治10年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説もあり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。 現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する大浜。

見る 明治と宮古島島民遭難事件

宮地正人

宮地 正人(みやち まさと、1944年1月17日 - )は、日本の歴史家。東京大学名誉教授。前国立歴史民俗博物館館長。九条の会賛同者。専門は日本近代史。福岡県久留米市出身。

見る 明治と宮地正人

宮内省

宮内省(くないしょう、)とは、近代の日本にあった皇室事務を司る省庁。1869年(明治2年)に古代の宮内省に倣って太政官制のもとで発足した組織で、当初の長官は宮内卿だったが、1885年(明示18年)以降の内閣制度下においては宮中と行政各官庁は区別され、宮内省を所管する宮内大臣は内閣の閣員とはされず独立していた。GHQ占領下の1946年(昭和21年)に縮小再編され、1947年(昭和22年)に宮内府、1949年(昭和24年)に現在の宮内庁となった。

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家制度

家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された明治憲法下の民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。この規定が効力を有していたのは、1898年7月16日から1947年5月2日までの48年9か月半ほどの期間であった。

見る 明治と家制度

家父長制

家父長制(かふちょうせい、、)は、主に男性が支配的で特権的な地位を占める社会システムのことである。歴史的に、家父長制はさまざまな異なる文化の社会的、法的、政治的、宗教的、経済的組織において、その姿を現してきた。ほとんどの現代社会は、実際には家父長制的である。

見る 明治と家父長制

家族制度

家族制度(かぞくせいど)とは、家族の在り方を、法や慣習などの規範によって規定したものを指す。フリードリヒ・エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』で明らかにしたように、財産や職業などを世襲する目的で制定されたものが多い。

見る 明治と家族制度

官吏

官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、国家機関(官公庁や軍など)に勤務する者を指す。「官人胥吏」の合成語。 各国の官吏については官僚の項目も参照のこと。 ただし日本では官吏かどうかを区別せず「官」と呼ぶ慣用例も見られる(教官、試験官など)。

見る 明治と官吏

官僚

官僚(かんりょう、bureaucrat)とは、国家の政策決定に大きな影響力を持つ国家公務員。「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。 英語のbureaucratは、フランス語の「bureaucratie ビューロクラティ」(官僚制)に起源を持つ。「官僚制度(官僚制)」は、ピラミッド型に整理された、権限の分担とその指揮系統に関する官僚の階層構造を意味する。これは統治構造の一種であり組織は問わないが、歴史的に政治統治組織が起源であるため「官僚制」と呼ばれることとなった。ヘーゲルによる定義では、「官僚」とは国家への奉仕かつ私有財産の配慮を行う者の総称となっている。

見る 明治と官僚

官営八幡製鐵所

官営八幡製鐵所 東田高炉記念広場の転炉 官営八幡製鐵所(かんえいやはたせいてつしょ、かんえいやわたせいてつしょ、、The Imperial Steel Works, Japan)は、1901年(明治34年)の明治時代に操業を開始した福岡県北九州市の製鉄所。1887年(明治20年)に操業を開始した釜石鉱山田中製鉄所(岩手県釜石市)に続き、日本国内で2番目の製鉄所である。第二次世界大戦前には日本の鉄鋼生産量の過半を製造する国内随一の製鉄所で、鋼板類や条鋼類、兵器材料の特殊鋼など多品種の鋼材を製造していた。 1934年(昭和9年)には官営製鉄所が中心となって民間業者と合同して日本製鐵が発足。同社の八幡製鐵所となった。現在は後身企業のひとつである日本製鉄の九州製鉄所八幡地区の一部となっている。

見る 明治と官営八幡製鐵所

官営模範工場

富岡製糸場(明治時代の写真) 官営模範工場(かんえいもはんこうじょう)は、明治政府が殖産興業の政策のため、率先して新しい産業を興すべく創設した工場である。八幡製鉄所、造幣局、富岡製糸場は日本三大官営工場とも称される。 明治維新後、新政府は江戸幕府や諸藩が経営した造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、工部省が中心となって官営模範工場を新たに開設し、日本の近代化、資本主義化を図った。閣議は事業放棄に難色を示したが、参議・工部卿の佐々木高行は、構わず工部省の改革に邁進、組織改変と工場・鉱山払下げに熱心に取り組んだ。 西南戦争後の財政難のため、1880年(明治13年)に「官営工場払下概則」が施行された後に軍事・造幣・通信などを除いた官営工場の多くが整理され、民間に払い下げられた。歳出削減をはかる過程で、政府は、政府と密接な関係を持つ政商に安い価格で払い下げられた。このことは、財閥の形成を促すとともに、日本の産業の中核を担う分野の育成に大きな役割を果たした。一方で、政界と財界の癒着もしばしば問題視されていた。

見る 明治と官営模範工場

宗主国

国際法において宗主国(そうしゅこく、suzerain state)とは、従属国(藩属国とも)に対して宗主権を持つ国。

見る 明治と宗主国

宗教

は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」としている。

見る 明治と宗教

安重根

安 重根(あん じゅうこん、アン・ジュングン、안중근、1879年9月2日旧暦では1879年7月16日。 - 1910年3月26日)は、大韓帝国(韓国)の独立運動家、テロリストであり、伊藤博文を殺害した暗殺者である。本貫は順興安氏。 開化派の流れを汲むカトリック教徒であるが、華夷秩序を主張した旧守派及び東学党や、後継たる天道教及び一進会とは終生敵対したため、民族主義者としての立場は不明確とされている。そのため、生前に本人が何を明確に主張していたのかは、はっきりとしていない。親露派との関係性は不明。1909年10月26日に韓国併合阻止のために尽力していた伊藤博文をハルビン駅構内で襲撃し暗殺に至った。

見る 明治と安重根

安政

安政(あんせい)は、日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。大化以降223番目、239個目の元号。1855年から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。

見る 明治と安政

寺島宗則

寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉 - 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴 アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、p.107、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。

見る 明治と寺島宗則

寺請制度

寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。 その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。

見る 明治と寺請制度

富岡製糸場

富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸富岡製糸場は上毛かるたで「日本最初」と謳われているが、製糸器械を導入した工場としては、ごく小規模なものではあったが、前橋製糸場が日本初である(本文参照)。富岡は「本格的」あるいは「大規模」といった点において日本初の器械製糸工場といえる(cf.、)。なお、当初導入された製糸器械は、人手に依存する部分も多いので、「機械」ではなく「器械」の語があてられる(、)。ただし、「器械」と「機械」の使い分けは分野ごとの慣例に基づくものにすぎないとして、当初のマシンを「機械」として問題ないとする認識を示す者もいる()。

見る 明治と富岡製糸場

尊王論

錦旗。 尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、天皇を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。

見る 明治と尊王攘夷

尚泰王

尚 泰王(しょう たいおう、1843年8月3日〈道光23年7月8日〉- 1901年〈明治34年〉8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。

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封建制

封建制度(ほうけんせいど)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。 諸侯たちは、領有統治権の代わりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。

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小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区一ツ橋にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。 社名は創設時に小学生向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。特に学年別学習雑誌は長らく小学館の顔的存在として刊行され続けてきたが、「出版不況」や児童の減少と嗜好の多様化のあおりを受け、2000年代から2010年代にかけて相次いで休刊され、2017年以降、月1回発売されているのは『小学一年生』のみとなっている。1926年に娯楽誌出版部門を集英社として独立させたが、太平洋戦争後は娯楽図書出版に再進出し、総合出版社へ発展した。

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小作人

小作人(こさくにん)とは、農業生産資本である田畑を保有する地主が、生産手段としての土地を持たない農奴を強制的に農作物生産に従事させる生産形態の被支配身分。小作人は時代や地域により隷属性が緩和され或は逆に強まった。 田畑の所有者である地主が小作人(こさくにん、農村奉公人或いは地主使用人とも呼ばれる)に土地を耕作させ、成果物である米や麦などの農作物から公儀への租税分と地主の地代を足した小作料(こさくりょう)を上納させる身分体系を指す。小作人は、諸外国では農奴,奴隷(時代によって奴隷から農奴へ)と呼ばれる下層身分。 大日本帝国滅亡に伴い連合国軍最高司令官総司令部は、地主と小作人の身分体制が日本の軍国主義に加担したとして、日本列島本土の農地改革を行った。「農村では, 地主と小作人との関係を根本から改める農地改革が行われた。村に住んでいない地主(不在地主)の全耕地と在村地主の約1ha(北海道は4ha)以上の耕地は国が買い上げて, もとの小作人に安く売りわたした。」「農地改革については, 日本政府が策定した第1次改革は不徹底で, GHQ勧告により, 在村地主の所有限度を小作地1町歩(北海道は4町歩)・自作地と小作地の合計3町歩(北海道は12町歩)に制限し, それをこえる分を政府が買収し, 小作人に売り渡す第2次改革が実施され, 1950年に終了した。」。

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小御所会議

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定〈ぎじょう〉・参与)が行った最初の会議である。大政奉還を行った徳川慶喜の官位(内大臣)辞退および徳川宗家領の削封(辞官納地)が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。

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小笠原諸島

黒字は'''小笠原諸島'''。 小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都小笠原村の行政区域を指す。東京都特別区の南南東約1,000キロメートルの太平洋上にある30余の島々からなる。総面積は104平方キロメートル。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。小笠原諸島は別名をボニン諸島(Bonin Islands)という。

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小松清廉

小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末から明治初期の政治家。維新の十傑の1人。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された。 薩摩国吉利(2,600石)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与、総裁局顧問、外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去った。 明治に入ってすぐの病死だったため、その後に明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ『朝日新聞』朝刊2020年10月26日(扉面)2020年10月30日閲覧。

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小村壽太郎

小村 寿太郎(こむら じゅたろう、、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる半藤(1983)pp.68-73。爵位は侯爵。

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尾張藩

尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。

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尖閣諸島

尖閣諸島(せんかくしょとう)は、東シナ海の南西部にある島嶼群(とうしょぐん)。石垣島北方約130から150キロメートル、北緯25度43分から56分、東経123度27分から124度34分の海域に点在する。尖閣列島(せんかくれっとう)ともいう。 日本が一貫して実効支配しているが、中華人民共和国(中国)および中華民国(台湾)もそれぞれ領有権を主張している。「尖閣諸島」および「尖閣列島」は日本における呼称であり、中国では釣魚群島あるいは釣魚島およびその付属島嶼、台湾では釣魚臺列嶼と呼ばれている。詳しくは尖閣諸島問題を参照。

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少将

少将(しょうしょう)は、日本ではもともとは律令制における官職の一つ。転じて軍隊の階級の一。将官に区分され、中将の下、大佐、上級大佐、准将または代将の上に位置する。 北大西洋条約機構の階級符号(NATO階級符号)では、OF-7に相当する。また、陸海空軍でそれぞれ呼称の異なる少将を総称しtwo-star rankと呼ぶこともある。 将官のなかでは、最下級、又は准将がある場合には下から2番目の階級となる。英呼称は、陸軍:major general(メイジャー ジェネラル)、海軍:rear admiral(リア アドミラル)、ただし、他国の海軍は基本的にcounter admiralと呼ぶ。空軍は通常陸軍と同一の呼称を用いるが、イギリス連邦方式 (Commonwealth system)ではエアー・ヴァイス・マーシャル (air vice-marshal) と呼ぶ。なお、フランス革命方式を使用する国々では補職制度により「師団将軍」(divisional general) あるいは「旅団将軍」(brigade general) と呼称する。アメリカ軍やフランス陸軍および空軍(海軍は中将)では、正規階級(regular rank)における最高位とされ、それよりも上の二階級は役職に応じた臨時階級(temporary rank)である。

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屯田兵

屯田兵(とんでんへい)は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。

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山城屋事件

山城屋事件(やましろやじけん)は、明治5年(1872年)、留守政府体制下で発覚した疑獄事件。 御用商人山城屋和助は陸軍省をはじめとする省庁から公金の貸付を受けていたが、損失を出して返済が不可能となった。これが発覚して陸軍省内では陸軍大輔山縣有朋の排斥運動が勃発。和助は自害、山縣も一時的に失脚した。山城屋の借り出した公金は総額約65万円であり、極めて巨額であった。

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山城屋和助

山城屋 和助(やましろや わすけ、天保7年〈1836年〉 - 明治5年11月29日〈1872年12月29日〉)は、明治時代初期の陸軍省御用商人。本名は。道蔵とも。元・長州藩奇兵隊隊士。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し割腹自殺したことで知られる。

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山口尚芳

山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日(1839年6月21日) - 明治27年(1894年)6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵早稲田大学百年史 第一編,第十五章,致遠館 ―早稲田大学プレリュード―。

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山口県

山口県(やまぐちけん)は、日本の中国地方に位置する県。県庁所在地は山口市。

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山岡鉄舟

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、)。諱は高歩(たかゆき、)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

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山内容堂

山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉 - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉)は、幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。位階は従一位。諱は豊信。隠居後の号は容堂。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。

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山縣有朋

山縣 有朋(やまがた ありとも、、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。

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岩下方平

晩年の岩下方平 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』1頁。、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。

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岩倉使節団

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる。

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、、1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。

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島義勇

島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日(1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、明治政府官吏。札幌市の建設に着手し、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。江藤新平と共に佐賀の乱を起こし刑死した。(現在では佐賀の八賢人とも呼ばれる。)。

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島田一郎

島田 一郎(しまだ いちろう、嘉永元年(1848年) - 明治11年(1878年)7月27日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治の武士(加賀藩士)、陸軍軍人。一名に一良(いちろう)、朝勇(ともいさみ)。大久保利通暗殺の主犯(紀尾井町事件)。

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島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。 同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。

見る 明治と島津久光

崩御

崩御(ほうぎょ、)は、天皇、皇帝、国王(女王)等の君主や、太皇太后(太王太后)、皇太后(王太后)、皇后、上皇、上皇后、王妃などの死亡を表す最高敬語。 中国においては、主に『礼記』等にも見られる「駕崩」(がほう)の語が用いられる。 本項では、これらに準じる「薨去」(こうきょ)などについても扱っている。

見る 明治と崩御

工業

工業(こうぎょう、industry)は、原材料を加工して製品を造る(つくる)こと、および、製品を造ることにかかわる諸事項のこと。工業の語には、製品を造る働き、製品を造る事業などについても含まれる。 工業は、第二次産業のうち(鉱業を除く)建設業および製造業の大部分に該当し、加工組立業といったりもする。

見る 明治と工業

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。

見る 明治と左大臣

左院

左院(さいん)は、明治初期の立法府である。

見る 明治と左院

己卯

己卯(つちのとう、きどのうさぎ、きどのう、きぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの16番目で、前は戊寅、次は庚辰である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の卯は陰の木で、相剋(木剋土)である。

見る 明治と己卯

己巳

己巳(つちのとみ、きどのみ、きし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの6番目で、前は戊辰、次は庚午である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の巳は陰の火で、相生(火生土)である。

見る 明治と己巳

己丑

己丑(つちのとうし、きどのうし、きちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの26番目で、前は戊子、次は庚寅である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の丑は陰の土で、比和である。

見る 明治と己丑

己亥

己亥(つちのとい、きどのいのしし、きがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの36番目で、前は戊戌、次は庚子である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の亥は陰の水で、相剋(土剋水)である。

見る 明治と己亥

己酉

己酉(つちのととり、きどのとり、きゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの46番目で、前は戊申、次は庚戌である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の酉は陰の金で、相生(土生金)である。

見る 明治と己酉

丁丑

丁丑(ひのとうし、ていかのうし、ていちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの14番目で、前は丙子、次は戊寅である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の丑は陰の土で、相生(火生土)である。

見る 明治と丁丑

丁亥

丁亥(ひのとい、ていかのいのしし、ていがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの24番目で、前は丙戌、次は戊子である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の亥は陰の水で、相剋(水剋火)である。

見る 明治と丁亥

丁酉

丁酉(ひのととり、ていかのとり、ていゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの34番目で、前は丙申、次は戊戌である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の酉は陰の金で、相剋(火剋金)である。

見る 明治と丁酉

丁未

丁未(ひのとひつじ、ていかのひつじ、ていび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの44番目で、前は丙午、次は戊申である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の未は陰の土で、相生(火生土)である。

見る 明治と丁未

不平等条約

不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。民事事件については訴えられる側の国の司法機関、刑事事件については被疑者の国の司法機関で裁判を行うとした条約もある(治外法権)。

見る 明治と不平等条約

帝国主義

1898年当時の帝国主義列強勢力図 帝国主義(ていこくしゅぎ、p)またはインペリアリズムとは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。.

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帝国党

帝国党(ていこくとう、)は、明治時代後期の日本の吏党系政党(1899年7月5日 - 1905年12月23日)。国民協会のあとを受け結成された。委員長は佐々友房。

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帝国議会

帝国議会(ていこくぎかい、、The Imperial Diet)は、1890年(明治23年)の帝国憲法により設置された日本の議会である。公選の衆議院 (しゅうぎいん)(下院)と非公選の貴族院 (きぞくいん)(上院)から構成された。「議会」もしくは「国会」と略称された。 1890年(明治23年)11月29日開会の第1回議会から、1947年(昭和22年)3月31日閉会の第92回議会まで行われた。同年5月3日の帝国憲法の失効及び日本国憲法の施行により、国会を立法府とし、下院には衆議院が維持され、上院には貴族院に代わって参議院が設置された。

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両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。

見る 明治と両

両院制

議会がない国 両院制(りょういんせい、Bicameral system)とは、二つの「議院」によって構成される議会がそれぞれ独立して活動する制度である。二院制(にいんせい)とも呼ばれる。対照的な制度に一院制がある。

見る 明治と両院制

中央交渉会

中央交渉会(ちゅうおうこうしょうかい)とは、明治時代に存在した院内会派(1892年4月23日-1893年3月1日)。一般には中央交渉部(ちゅうおうこうしょうぶ)という名称で知られているが、これは本部が置かれた建物名に由来する通称であり、当時の議会の資料には「中央交渉会」と記述されている。 大成会を中心とした政府(第1次松方内閣)支持の政党・会派に属する95名が結成した。古荘嘉門・太田實・津田真道・井上角五郎・末松謙澄・佐々友房・曾禰荒助らが所属する。ところが、中央交渉会の政党化を図る古荘・佐々・曾根らとこれに反対する井上・末松らが対立、結成2ヶ月後の6月22日に古荘らが西郷従道・品川弥二郎を盟主として国民協会が結成すると、同協会への合流を巡って分裂状態に陥り離脱者が続出する。その一方で国民協会は独自の院内会派を結成しなかったために、国民協会所属のまま会派だけは中央交渉会に籍をおく議員が存在するなど複雑な状態となった。後に国民協会が院内会派・議院倶楽部を設立するとほとんどが移籍してしまい、他の政党・会派に移籍する者も出た。このため、翌年にはわずか11名にまで減少してしまい、路線対立から第4議会終了と同時に残った全議員が離脱したために自然消滅した。

見る 明治と中央交渉会

中央集権

中央集権(ちゅうおうしゅうけん、centralization)とは、。

見る 明治と中央集権

中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名は「なかのまつりごとのつかさ」。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。

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中村正直

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎。字は敬輔、号は敬宇、鶴鳴、梧山。洗礼名はジョン(John)。

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中江兆民

中江 兆民(なかえ ちょうみん、1847年12月8日〈弘化4年11月1日〉-1901年(明治34年)12月13日)は、日本の思想家、政治家。本名は中江 篤介(なかえ とくすけ)。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。 「兆民」は本名ではなく号であり、『億兆安撫国威宣揚の御宸翰』に基づく「億兆の民」の意味。「秋水(しゅうすい)」とも名乗り、弟子の幸徳秋水に譲渡している。また、他の号に「青陵」「木強生」がある。幼名は竹馬(ちくま)。

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丸山作楽

丸山 作楽(まるやま さくら、1840年10月27日(天保11年10月3日) - 1899年(明治32年)8月19日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』166頁。)は、明治時代の外交官・実業家・政治家。別名:正虎、正路、佐久良。号:神習処・素行・磐之屋。

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常任理事国 (国際連盟)

常任理事国(じょうにんりじこく、英:Permanent Members)は、かつて国際連盟に設置されていた理事会の理事国のうち、任期が設定されていない国のこと。 その構成国は以下のように変遷している。

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七卿落ち

御手洗七卿落遺跡(広島県呉市) 徳山港にある五卿登陸碑(山口県周南市) 七卿落ち(しちきょうおち)は、1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件。

見る 明治と七卿落ち

世界の歴史

世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。

見る 明治と世界の歴史

世襲

とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。

見る 明治と世襲

市制

市制(しせい)は、従前の郡区町村編制法に替わり、日本の市の基本構造を定めた法律である。1888年(明治21年)4月25日の「明治21年4月25日法律第1号」の前半により規定され、1911年(明治44年)4月7日の「明治44年4月7日法律第68号」により全部改正され、1947年(昭和22年)5月3日の「地方自治法」の施行によって廃止された。 制定時の第1条に「此法律ハ(中略)市ト為スノ地ニ施行スルモノトス」とあり、市となる区域で順次この法律を施行(適用)したことから転じて、当該法律が廃止された後も、町・村から新たに市を設けることを「市制を施行する」あるいは「市制施行」と表現するようになった。

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三府

三府(さんぷ)。

見る 明治と三府

三国干渉

1895年11月8日、三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印した。 三国干渉(さんごくかんしょう、)は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日清戦争の日本の勝利とそれに伴う下関条約により日本に割譲された遼東半島を清国に返還することを要求する内容だった。

見る 明治と三国干渉

三菱財閥

三菱財閥(みつびしざいばつ)(mitsubishi)は、かつて存在した日本の財閥である。戦前は三井や住友とともに日本三大財閥に数えられた。現在の三菱グループ。 土佐藩出身の岩崎弥太郎が現在の大阪市で創立した三菱商会(後の日本郵船)を基盤に、明治政府の許可も得て海運業を独占。1893年に三菱合資会社を設立し、これを持株会社として金融業・造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出する。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により他の財閥と共に解体された(財閥解体)が、その後しばらくして企業集団としての再統合が進められ、現在のような三菱グループが形成された。

見る 明治と三菱財閥

三重県

三重県(みえけん)は、日本の近畿地方に位置する県。県庁所在地は津市。 江戸時代から、お伊勢参り(お蔭参り)の名で知られる伊勢神宮を擁する地域として発展した。令制国では、伊勢国・志摩国・伊賀国の全域と、紀伊国(当初は熊野国)の一部、計4国より構成される。包括する旧律令国の数は、7国を包括する兵庫県に次ぐ。北勢、伊賀、中勢、南勢(伊勢志摩)、東紀州の5地域に区分される。

見る 明治と三重県

三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。三条家31代。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、)。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣臨時代理も兼任している。

見る 明治と三条実美

下関条約

下関条約(しものせきじょうやく、)または馬関条約(ばかんじょうやく、)、または日清媾和条約(にっしんこうわじょうやく、)は、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に日本と清の間に締結された日清戦争(1894年-1895年)の講和条約。 山口県下関市の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て締結された。調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方である下村(1979)pp.426-427。 前文および11か条からなり、これには付属議定書があって、解釈・批准等について規定している。朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖列島の日本への割譲、清から日本への2億テールの賠償金支払い、清の一部市港の開港、最恵国待遇などを内容とする。ただし批准交換までに三国干渉があり、遼東半島は清に返還した。かつては、会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般に馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称であり、中国では、今でも「馬関条約」()と呼んでいる「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、これを江戸時代の漢学者が縮めて「馬関」とした。明治期に作られた「鉄道唱歌」の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬関条約結びたる 春帆楼の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介された。調印後の1902年に赤間関市が下関市に改称されても「馬関条約」の名称は長らく使われた。「下関条約」の表記が完全に定着するのは、第二次世界大戦後のことである。

見る 明治と下関条約

一世一元の制

一世一元の制(いっせいいちげんのせい)とは、君主(皇帝、天皇、国王)1人につき年号(元号)を一つ制定する制度である。 一代一号、一代一元とも言う。

見る 明治と一世一元の制

一世一元の詔

一世一元の詔(いっせいいちげんのみことのり)は、グレゴリオ暦 1868年10月23日(慶応4年9月8日)、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。明治改元の詔ともいう。 国立国会図書館が運営する日本法令索引(明治前期編)では、1979年(昭和54年)の「元号法」制定によって一世一元の詔は効力が消滅したとされているが、法務省大臣官房司法法制調査部編集『現行日本法規』では、1889年(明治22年)の旧・皇室典範の制定により失効したとされている。

見る 明治と一世一元の詔

丙午

丙午(ひのえうま、へいご)は、干支の1つ。 干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。

見る 明治と丙午

丙子

丙子(ひのえね、へいかのねずみ、へいかのね、へいし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの13番目で、前は乙亥、次は丁丑である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の子は陽の水で、相剋(水剋火)である。

見る 明治と丙子

丙申

丙申(ひのえさる、へいかのさる、へいしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの33番目で、前は乙未、次は丁酉である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の申は陽の金で、相剋(火剋金)である。

見る 明治と丙申

丙戌

丙戌(ひのえいぬ、へいかのいぬ、へいじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの23番目で、前は乙酉、次は丁亥である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の戌は陽の土で、相生(火生土)である。

見る 明治と丙戌

九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で 国土地理院 (注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。世界の島の面積順位より抜粋、出典 List of islands by area (島:オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) ---- ---- ---- ---- 地質学や考古学、交通などの分野では九州島という名称も使用される。

見る 明治と九州

九条家

九条家(くじょうけ、九條)は、藤原北家九条流嫡流である公家、華族の家。公家としての家格は摂家、華族としての爵位は公爵。五摂家筆頭で公爵家だった近衛家と双璧するほど高い格式を持った家で、やはり五摂家で公爵家だった二条家と一条家は九条家の分家である。

見る 明治と九条家

干支

干支(かんし、えと、干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。 暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。

見る 明治と干支

平田鐵胤

平田 銕胤(ひらた かねたね)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の国学者。「鐵胤」「鉄胤」とも書く。出羽国久保田藩士。幼名篤実(あつさね)『秋田人名大事典 第2版』「平田銕胤」(2000)pp.475-476、のちに篤眞(あつま)、通称は内蔵介(くらのすけ)、号は伊吹舎(いぶきのや)・大角(だいかく)伊東(1979)p.247。平田篤胤に師事し、その養子となった。

見る 明治と平田鐵胤

平民

平民(へいみん)は、官位や爵位を持たない普通(一般)の人民、市民のこと。貴族と対比されることが多い。

見る 明治と平民

平民苗字必称義務令

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。

見る 明治と平民苗字必称義務令

幸徳事件

幸徳事件(こうとくじけん)は、大逆事件の一つ。実際に明治天皇の暗殺が計画された明科事件を発端に、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や有期刑判決を下した政治的弾圧・冤罪事件である。 幸徳秋水事件とも呼ばれ、一般に「大逆事件」と言われる際はこの事件を指す。

見る 明治と幸徳事件

幕府海軍

幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。

見る 明治と幕府海軍

幕臣

幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。

見る 明治と幕臣

幕末

は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。

見る 明治と幕末

幕末の四賢侯

幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)は、日本の幕末に活躍した4人の大名をいう。

見る 明治と幕末の四賢侯

久我建通

久我 建通(こが たけみち、)は、江戸時代後期の公卿。関白・一条忠良の子。内大臣・久我通明の養子。官位は正二位・内大臣、維新後従一位、勲一等。久我家34代当主。翠君、素堂と号した。

見る 明治と久我建通

乙巳

乙巳(きのとみ、おつぼくのみ、いっし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの42番目で、前は甲辰、次は丙午である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の巳は陰の火で、相生(木生火)である。

見る 明治と乙巳

乙亥

乙亥(きのとい、おつぼくのいのしし、いつがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの12番目で、前は甲戌、次は丙子である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生(水生木)である。

見る 明治と乙亥

乙酉

乙酉(きのととり、おつぼくのとり、いつゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの22番目で、前は甲申、次は丙戌である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の酉は陰の金で、相剋(金剋木)である。

見る 明治と乙酉

乙未

乙未(きのとひつじ、おつぼくのひつじ、いつび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの32番目で、前は甲午、次は丙申である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の未は陰の土で、相剋(木剋土)である。

見る 明治と乙未

乙未事変

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が、1895年10月8日、三浦梧楼、岡本柳之助らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人と、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父興宣大院君派ら反閔妃朝鮮人により暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう。 真霊君への心酔による国政壟断・散財への朝鮮内部からの批判、大院君派との暗殺合戦まで至っていた深い対立、親露派となったことへの日本側の警戒、様々な思惑が一致した末に実行されたため、死後に興宣大院君による平民への身分格下げ措置と日本側による身分回帰措置などで反閔妃派同士でも対応に乱れが生じたものの、実行者の一人である禹範善暗殺事件・暗殺犯への減刑措置を持って当時は日本政府・朝鮮王族側で決着とされた「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)「李朝滅亡」p58,片野次雄 · 1997年 「朝鮮王族も一枚岩でなく、双方の派で殺し合いまでしていたほど反明成皇后である興宣大院君、表立って父を批判出来ないが、明成皇后への身分下げ措置等には反対する高宗と純宗とに分かれていた。1898年に大院君が死亡するとそれまで明成皇后と大院君の指示を受けていただけの高宗が実権を握るようになる。1903年に明成皇后殺害した朝鮮人の一人である禹範善が暗殺された。1907年8月31日付往電第31号によると、明成皇后の息子の純宗は明成皇后殺害の犯人である禹範善の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとして主張していた。反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、双方で減刑措置が和解案となり、主犯は当初死刑判決だったものの、無期懲役で確定となり、無期にもかかわらず5年間の懲役で朝鮮半島に返される措置を受けている。」。王妃に対する評価が異なるため、事変を主導した興宣大院君、息子の高宗間の断絶が決定的となった。

見る 明治と乙未事変

庚午

庚午(かのえうま、こうきんのうま、こうご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの7番目で、前は己巳、次は辛未である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の午は陽の火で、相剋(火剋金)である。

見る 明治と庚午

庚午事変

庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを一方的に襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。 結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。

見る 明治と庚午事変

庚子

庚子(かのえね、こうきんのねずみ、こうきんのね、こうし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの37番目で、前は己亥、次は辛丑である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の子は陽の水で、相生(金生水)である。

見る 明治と庚子

庚寅

庚寅(かのえとら、こうきんのとら、こういん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの27番目で、前は己丑、次は辛卯である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の寅は陽の木で、相剋(金剋木)である。

見る 明治と庚寅

庚辰

庚辰(かのえたつ、こうきんのたつ、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの17番目で、前は己卯、次は辛巳である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の辰は陽の土で、相生(土生金)である。

見る 明治と庚辰

庚戌

庚戌(かのえいぬ、こうきんのいぬ、こうじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの47番目で、前は己酉、次は辛亥である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の戌は陽の土で、相生(土生金)である。

見る 明治と庚戌

交詢社

一般財団法人交詢社(こうじゅんしゃ)は、日本の一般財団法人。福澤諭吉を中心に設立された日本最初の社交クラブである。

見る 明治と交詢社

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyoto)は、日本の地名、都市。794年以降日本の首都であった平安京が位置し、都もしくは京などとも呼ばれていた。古くから日本の政治・文化の中心地として栄え、金閣寺や清水寺をはじめとする文化財が多く残る地域である。 現在京都といえば、広義では京都府を、狭義ではその府庁所在地たる自治体の京都市、もしくはその中心部の地域を指す。

見る 明治と京都

京都守護職

京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末の文久2年(1862年)に将軍後見職、政事総裁職とともに設けられた江戸幕府の三要職の一つである。役料五万石。大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位。非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有する国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第四巻』吉川弘文館、1984年、p.341。

見る 明治と京都守護職

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方に位置する府。府庁所在地は京都市。

見る 明治と京都府

京都御所

京都御所(きょうとごしょ、)は、京都府京都市上京区にある。 1337年(建武4年)から1869年(明治2年)までの間の内裏・禁中・禁裏・宮中(歴代天皇並びに後宮や世子などが居住し朝廷として儀式・公務を執り行った場所の事で、現在の皇居とほぼ同義)。現存する建物は概ね1855年(安政2年)に造営した安政度内裏である。現在の京都御所は、宮内庁京都事務所が管理している。

見る 明治と京都御所

京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。 永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府の侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。

見る 明治と京都所司代

人力車

日本の人力車(1897年) 人力車(じんりきしゃ、人力俥)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。 日本では、主に明治・大正期に移動手段とし用いられた。現在では「観光人力車」が観光地などで使われている。

見る 明治と人力車

人口

は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。人口の計測方法や変動を研究する学問は、人口統計学と呼ばれる。 イギリスの経済学者であるトマス・ロバート・マルサスは、1798年に『人口論』を著し、人口問題を論じた。また、人口の歴史的な変遷を研究する「歴史人口学」や、人口現象の地理的分布などを研究する「人口地理学」がある。

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府(ふ)。

見る 明治と府

二卿事件

二卿事件(にきょうじけん)は、明治4年(1871年)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀った政変未遂事件。「外山・愛宕事件」とも呼ばれる。

見る 明治と二卿事件

府県制

府県制(ふけんせい)とは、1890年(明治23年)に制定された日本の地方行政制度であるとともに、それを規定した法律でもある。

見る 明治と府県制

二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。 京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置する。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である。 二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。  明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。

見る 明治と二条城

広島藩

広島城 広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。現在の広島県の大半を占める浅野家時代は備後国の南西部が福山藩。。藩庁は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。

見る 明治と広島藩

広沢真臣

広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日))は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治の武士(長州藩士)、政治家。維新の十傑の1人。賞典禄は1,800石。

見る 明治と広沢真臣

五箇条の御誓文

200px 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、、The Charter Oath、五箇条の誓文とも)は、京都御所の正殿・紫宸殿で1868年4月6日(明治元年3月14日)原本の日付は「慶応四年戊辰三月」である。ただし、1868年10月23日(慶応4年9月8日)に出された改元の詔書により、同年は1月1日にさかのぼって明治元年と定められたため、「明治元年」でもある。に明治天皇が天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。

見る 明治と五箇条の御誓文

五榜の掲示

五榜の掲示(ごぼうのけいじ)は、1868年4月7日(慶応4年3月15日)に、太政官(明治政府)が立てた五つの高札。明治政府が民衆に対して出した最初の禁止令。

見る 明治と五榜の掲示

五日市憲法

五日市憲法(いつかいちけんぽう)は、明治時代初期に民間で創作され、1968年(昭和43年)に発見された私擬憲法の一つである。 東京経済大学の色川大吉ゼミ受講生であった新井勝紘によって、東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)にある深沢家の土蔵から発見されたため、この名で呼ばれる。本文は「日本帝国憲法」の題で書き始められている。

見る 明治と五日市憲法

庄屋

庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長 三省堂 2013年12月18日閲覧。いずれも中世からの伝統を引く語で、庄屋は「庄''')園の」、名主は「中世の'''名主''' (みょうしゅ)」からきた語とされている。概して、庄屋は関西で、名主は関東で、肝煎は東北・北陸で用いられる 2022年6月閲覧。庄屋の多くは、武士よりも経済的に裕福で、広い屋敷に住み、広大な農地を保有し、また、文書の作成に携わるという仕事柄、村を代表する知識人でもあった 2022年6月閲覧。江戸時代に庄屋を務めた家系は、もともと名門家系だったことが多く、戦国武将の有力な家臣が、江戸時代に入って庄屋となったケースは、かなり見られる。

見る 明治と庄屋

庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある(酒井忠明を参照のこと)。

見る 明治と庄内藩

井上馨

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。

見る 明治と井上馨

井上毅

井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉 - 明治28年〈1895年〉3月17日)は、幕末・明治期の日本の武士(熊本藩士)、官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は正三位勲一等子爵。

見る 明治と井上毅

建国記念の日

建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から適用された。

見る 明治と建国記念の日

廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味である。

見る 明治と廃仏毀釈

廃刀令

大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた、大礼服着用者・勤務中の軍人や警察官吏以外は刀を身に付ける(=武装する)ことを禁じる内容の太政官布告。 布告文自体に題名はなく、便宜的に付された呼称(いわゆる件名)である。略称として、廃刀令または帯刀禁止令。

見る 明治と廃刀令

廃藩置県

1872年(明治4年12月)の地方行政区画(冨山房『大日本読史地図』) 廃藩置県(はいはんちけん、)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す(#その他の異動を参照)。 300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。

見る 明治と廃藩置県

伊勢神宮

伊勢神宮(いせじんぐう)は、日本の三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。 「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる。 律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め萩原龍夫編『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1985)序、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。

見る 明治と伊勢神宮

伊東巳代治

1895年 伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5月29日〉 - 昭和9年〈1934年〉2月19日)は、明治から昭和の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位勲一等伯爵。

見る 明治と伊東巳代治

会沢正志斎

会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。

見る 明治と会沢正志斎

会津藩

若松城 は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。大学寮・散位寮の2寮を管掌していた。唐名は吏部省又は吏部。 天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間は、文部省(ぶんぶしょう)へ改称された。

見る 明治と式部省

佐々木隆 (歴史学者)

佐々木 隆(ささき たかし、1951年2月20日 - )は、日本の歴史学者。聖心女子大学文学部史学科教授。専門は日本近代史。

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佐賀の乱

佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。

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佐賀県

佐賀県シンボルマーク 佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は佐賀市。 お茶や唐津・伊万里・有田などの古くからの陶磁器の産地として有名で、玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。九州地方の中では最も面積、経済規模が小さい県である。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県滋賀県宮城県と近い人口密度がある。

見る 明治と佐賀県

佐賀藩

佐賀城の鯱の門 佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。

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征夷大将軍

江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。

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征韓論

征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。 1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契を発送した。 しかし、朝鮮政府は西界の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されたが、これを「征韓論」という。1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが辞職した。 この事件は1873年政変または明治6年政変と呼ばれるが、政変の背景に朝鮮出兵議論があり、征韓論政変ともいわれる。

見る 明治と征韓論

御用商人

御用商人(ごようしょうにん)は、前近代の日本において封建領主の庇護のもとに、各種の御用及びそれに関連する物資等の調達に携わる代わりに様々な特権が与えられた商人。御用達・御用聞きなどによって構成される。

見る 明治と御用商人

御親兵

御親兵(ごしんぺい)は、天皇及び御所の護衛を目的とする軍隊。制度的には文久3年(1863年)と慶応4年(1868年)、明治4年(1871年)と3度設置されている。慶応以降に設置されたものは明治政府直属の軍隊としての性格を持ち、徴兵令による新式軍隊成立後は、近衛師団に再編成された。主に薩長土の藩士中心に編成された。単に親兵とも。

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徳大寺実則

德大寺 實則(とくだいじ さねつね、天保10年12月6日〈1840年1月10日〉 - 1919年〈大正8年〉6月4日)は、日本の公卿、政治家。宮内卿、内大臣、明治天皇の侍従長等を務めた。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。東山天皇の男系七世子孫である。新字体で徳大寺 実則と表記されることもある。

見る 明治と徳大寺実則

徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。 天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。

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徴兵令

徴兵令(ちょうへいれい、明治22年1月22日法律第1号)は、国民の兵役義務を定めた日本の法令。1873年(明治6年)に陸軍省から発布された後、太政官布告によって何度か改定が繰り返され、1889年(明治22年)に法律として全部改正された。1927年(昭和2年)の全部改正の際に、名称も「兵役法」に変更され、1945年(昭和20年)に廃止された。

見る 明治と徴兵令

後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。

見る 明治と後藤象二郎

待詔局

待詔局(たいしょうきょく)は、士民有志からの建言を受理、処理する明治政府の機関である。

見る 明治と待詔局

律令制

律令制(りつりょうせい)とは、中国の律令・律令法に基づく国家の法体系・制度を指す。 また古代日本において、それを取り入れた体系・国家制度・統治制度を指す。本稿では主にこの日本の制度を述べる。

見る 明治と律令制

保安条例

保安条例(ほあんじょうれい)は、1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である(明治20年勅令第67号)。全7条。1898年6月25日、保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止されたが、同法の機能は集会及政社法(明治26年4月14日法律第14号)に、労働運動の規制という新たな機能を付加した上で、2年後の1900年3月10日に制定された治安警察法によって発展的に引き継がれた。

見る 明治と保安条例

土佐藩

'''土佐藩'''の居城・'''高知城 ''' 土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内家が支配した。 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』。

見る 明治と土佐藩

土木工学

土木工学(どぼくこうがく、civil engineering)とは、自然災害等の社会課題の解決および環境の創造・維持発展を目的として、社会基盤を整備する工学である。主な対象として、鉄道、道路、橋梁、トンネル、港湾、空港、海岸、河川、ダム、廃棄物処理、水道(上水道、工業用水道、下水道)、砂防、土木景観などがある。また、土木工学部分の発電施設、通信施設、環境保全、造成、交通、国土計画なども含まれ、対象は多岐にわたる。これらを取り巻く人工物は総称して「土木構造物」と呼ばれる。一般的に土木構造物は、公共事業として建設され、長期間に亘って社会・経済活動を支えている。

見る 明治と土木工学

地主

地主(じぬし、)とは、(農地などの)土地を貸し付けて、それで得た地代(つまり「土地の貸し付け料」)を主たる収入として生活する人のこと『日本大百科事典』「地主」。地主というのは、古代から現代に至るまで存在するが、その存在のありかたは各時代において異なる。封建社会では、支配階級を構成する領主が地主(封建的土地所有者)として最高の領有権を持ち、農奴から地代を収取した(領主権という強力な権力にものを言わせて、取り立てた)。封建制から資本主義へ移行したのにともない、「地主的土地所有」は「近代的土地所有」へと転化し、地主の存在も社会のなかで変化してきた、という歴史がある。 このように地主の性質は時代(歴史)とともに変化してきているので、以下、古い時代から順を追って解説してゆく。地域ごとに歴史が異なるので、地域別に解説する。

見る 明治と地主

地価

地価(ちか)とは、土地の価格を指す。または、公定地価を指す。 地価は一般に単位土地面積あたりの価格で表される。一般に大都市の商業地区は地価が高く、農地や山林、原野などは地価が低い。 住宅地の地価はその土地のブランドイメージによっても左右されるが、高級住宅街と化した住宅地についてはその傾向が顕著にみられるのである。そこに住んでいるということがステイタス的なイメージを帯びることもみられ、アメリカのビバリーヒルズなど著名な映画スターが暮らしている、といった状況が付加し、そこから高級住宅街のブランドを形成していった。ただし周りを塀や柵で囲み、警備員が24時間監視することで大変治安がよい住宅街(ゲーテッドコミュニティ)が発展したが、これもまた一種の安全というブランドである。

見る 明治と地価

地券

地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示すために明治政府が発行した証券のこと。

見る 明治と地券

地租

地租(ちそ)は、明治6年(1873年)の地租改正法によって制定された土地を対象に賦課された租税である。近代日本の国税の中軸を占める存在であったが、昭和22年(1947年)に地方税とされ、昭和25年(1950年)に廃止されて新設の固定資産税に継承された。

見る 明治と地租

地租改正

地租改正(ちそかいせい)は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。

見る 明治と地租改正

地租改正反対一揆

地租改正反対一揆(伊勢暴動、1876年) 地租改正反対一揆(ちそかいせいはんたいいっき)とは、1873年(明治6年)7月より明治政府によって推進されてきた地租改正に反対する農民一揆である。

見る 明治と地租改正反対一揆

地方官会議

地方官会議(ちほうかんかいぎ)とは、戦前の日本における府県長官の会議である。 始まりは、明治政府が招集した府県長官の会議である。戦前の府県知事は内務省から各地に派遣される官僚(官選知事)であり、1890年に大日本帝国憲法が施行されると、地方長官会議に名称が変更され、内務大臣の招集によって、毎年東京で開催された。 戦後にも、内閣が招集する形で継続した。全国知事会の前身、全国地方自治協議会連合会が1947年に組織され、民選知事の時代に繋がる。

見る 明治と地方官会議

地方三新法

地方三新法(ちほうさんしんぽう)とは、明治時代の日本が制定した3つの地方制度関連法のことである。三新法ともいう。具体的には郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の3つの法令をいう。 これにより明治時代において、全国統一の本格的な地方自治制度が確立したのである。

見る 明治と地方三新法

北京市

北京市(ペキンし、、、Municipality of Beijing)は、中華人民共和国の首都。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末)。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。

見る 明治と北京市

北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家や大覚寺統を含む皇族が支持した、持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統後醍醐流の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉時代末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇が京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。

見る 明治と北朝 (日本)

北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北海道地方に位置する道。道庁所在地は札幌市で、47都道府県中唯一の「道」である。 行政区画の「北海道」を構成する最大の島自体も北海道と称されるが、区別するときには北海道本島とも称する。

見る 明治と北海道

ノルマントン号事件

三代目歌川国貞による絵画 メンザレ号の沈没を、ノルマントン号の乗組員の行動と比較している。 ノルマントン号事件(ノルマントンごうじけん、Normanton Incident)とは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton、)が、紀州沖で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。日本人乗客を見殺しにした疑いで船長の責任が問われたものの不問となり、船長らによる人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。

見る 明治とノルマントン号事件

ハルビン市

ハルビン市(哈爾浜市、ハルビンし、ハルピンし、、、、ᡥᠠᡵᠪᡳᠨᡥᠣᠳᠣᠨ、満洲語転写:harbin hoton、、)は、中華人民共和国黒竜江省に位置する副省級市。黒竜江省人民政府の所在地であり、黒竜江省の政治・経済の中心である。2019年時点での市区人口は約709.3万人の大都市である。市域全体の人口は約1076.3万人。

見る 明治とハルビン市

ハワイ王国

ハワイ王国(ハワイおうこく、、)は、1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国。 先住民を弾圧していたサンフォード・ドールなどイギリス人末裔のアメリカ移民による先住民の投票を奪った選挙で起こされた1893年のハワイ併合(ハワイ革命)で立憲君主制が無理矢理廃止され、アメリカ合衆国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州として併合されて消滅した。

見る 明治とハワイ王国

ハーグ密使事件

ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)とは、1907年(明治40年)に、大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人を送った事件。日本による朝鮮半島の権益を狙っていたロシアに招待されたことで第二次日韓協約によって日本に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも、招待したはずのロシアが手のひらを返したため、参加国全てから拒絶され、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった。事件後、高宗は責任追及され退位し、内政権も法的にも失った。手のひらを返されて招待していないことにされたが、当初は日本の持っていた朝鮮半島管轄権を狙っていたロシアに公式招待されていたため、大韓民国では「ハーグ特使事件」と呼ぶ。

見る 明治とハーグ密使事件

バルチック艦隊

バルチック艦隊、バルト海艦隊、バルト艦隊(バルト(かい)かんたい、Baltic Fleet (ボールティック・フリート)、Балтийский флот, БФ、ラテン文字転写:Baltiyskiy flot)は、ロシアないし旧ソビエト連邦海軍のバルト海に展開する艦隊を指す。 バルチック艦隊という呼び名は特に日本において広く定着しており、日露戦争の際にロシア帝国が編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことを指して「バルチック艦隊」と呼ぶ場合も多い。すなわち旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するために上記のバルト海艦隊から戦力を引き抜いて、太平洋艦隊の一艦隊として新たに編成した艦隊を指す(後述)。第二・第三太平洋艦隊が連合艦隊との日本海海戦で惨敗したことで、バルチック艦隊は多くの主力艦を失う損害を受け、復興に時間を要する事となった。

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バイエル (企業)

バイエル (Bayer AG) は、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州レーヴァークーゼンに本部を置く化学工業及び製薬会社(多国籍企業)。アスピリンやヘロインなどを送り出した世界的な医薬品メーカーである。

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ポーツマス条約

ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty、Портсмутский мирный договор)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。 また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。

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ユリウス通日

ユリウス通日(ユリウスつうじつ、Julian Day、JD)は、ユリウス暦紀元前4713年1月1日、すなわち西暦 -4712年1月1日の正午(世界時)からの日数である。単にユリウス日(ユリウスび)ともいう。時刻値を示すために一般には小数が付けられる。 例えば、協定世界時(UTC)でのCURRENTYEAR年CURRENTMONTHNAMECURRENTDAY日のユリウス通日の値は、おおむねである。

見る 明治とユリウス通日

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日循環論法となってしまうため、参考として他の暦法の期日を示す。同日は中国暦初元3年11月29日、ユダヤ暦3716年4月29日である。計算はhttp://hosi.orgによる。 から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。

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ヨーロッパ

ヨーロッパ(ポルトガル語・ )は六大州の一つ。漢字表記は欧羅巴であり欧州(おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は欧の一字を用いる。 ヨーロッパの原風景の一つであるイギリスの世界遺産ダラム城とダラム大聖堂。 国連による世界地理区分。

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ロシア

ロシア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、通称ロシア(Россия)は、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家である。首都はモスクワ。 国土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東におよぶ。面積は17,090,000 km2(平方キロメートル)以上と世界最大である。

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ロシア帝国

ロシア帝国(ロシアていこく、Россійская Имперія、ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。

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ヴェルサイユ条約

『ヴェルサイユ宮殿、鏡の間における講和条約調印、1919年6月28日』。作・ウィリアム・オルペン ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、Traité de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。「ベルサイユ条約」とも表記される(「ヴ」の記事も参照の事)。 正文はフランス語と英語であり、正式な条約名はそれぞれTraité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l'Allemagne、Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germanyであるが、ヴェルサイユ宮殿で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。

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トイレットペーパー

トイレットペーパー(toilet paper, toilet-paper)とは、用便の際に排泄器官の汚れを清拭するために用いる紙をいう他の辞典類での定義として、『大辞泉』第2版では、うんこ用の紙。。

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ヘルマン・ロエスレル

カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(Karl Friedrich Hermann Roesler、1834年12月18日 - 1894年12月2日)は、ドイツの法学者・経済学者。明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人である。日本の独逸学協会会員。

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ヘアスタイル

ヘアカットの練習をする理容師(東京)。 三つ編み。 相撲の力士の髷(まげ)。 女子のモヒカン刈り。 ヘアスタイル()または髪型、髪形(かみがた)とは、頭から生えている髪の毛を使って作られたスタイルのこと。 長くする、同じ長さに揃える、固まりを作る、編むなどの様々な手を加えて作られるが、スキンヘッドのように毛髪を利用しないスタイルも髪形のバリエーションの一つとして認識されている。 ヘアスタイルを作るために髪を切り揃えることをヘアカット(散髪)と言うが、整髪する前の基礎作りとして髪を切る場合や、カットだけで髪型を作る場合がある。 宗教、民族、所属する集団などによって髪型に社会的な役割と規制が設けられている場合がある。

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ブルジョワジー

19世紀のブルジョワジーを描いた絵画 ブルジョワジー(bourgeoisie)は、中産階級のことであり、有産階級とも呼ばれる。特に17~19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合も有る。貴族や農民と区別して使われた。 短くブルジョワ(仏: )ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。

見る 明治とブルジョワジー

プロレタリアート

プロレタリアート(Proletariat)とは、資本主義社会における賃金労働者階級のこと。無産階級とも呼ばれる。個々の賃金労働者はプロレタリアと呼ばれる。雇用する側の資本家階級を指すブルジョワジーと対になった概念で、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』で使った例によって広く普及した。

見る 明治とプロレタリアート

プロイセン王国

プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた。

見る 明治とプロイセン王国

パーセント

パーセント(percent, percentage, %)、百分率(ひゃくぶんりつ)は、割合を示す単位で、全体を百として示すものをいう。 割合を示す単位には、他に全体を千とするパーミル(千分率、‰)や、万とするパーミリアド(ベーシスポイント、万分率、‱)などがある。

見る 明治とパーセント

テレビ朝日

株式会社テレビ朝日(テレビあさひ、TV Asahi Corporation)は、テレビ朝日ホールディングスの連結子会社であり、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送事業を行う特定地上基幹放送事業者地上アナログテレビジョン放送の放送区域には、本来は沖縄県の放送対象地域である大東諸島が含まれていた。東京都港区六本木のテレビ朝日本社ビル(六本木ヒルズ)に本社を置く。 愛称はテレ朝(てれあさ)、略称はEX。リモコンキーIDは「5」。オールニッポン・ニュース・ネットワーク(ANN)のキー局。スカパー!をプラットフォームとしてテレ朝チャンネルの2つのチャンネルの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。

見る 明治とテレビ朝日

フランス民法典

フランス民法典(フランスみんぽうてん、Code civil des Français)は、フランスの私法の一般法を定めた法典。ナポレオン・ボナパルトが制定に深く関わっている経緯から、ナポレオン法典(Code Napoléon)ともいう。なお、ナポレオン"諸"法典(codes napoléoniens)と言うときはナポレオン治下に制定された諸法典、すなわちナポレオン"五"法典(cinq codes napoléoniens)をさす。 国籍において血統主義を定め、出版において検閲と著作権を規定した。 ローマ法とフランス全土の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、近代私法の三大原則たる、法の前の平等、私的所有権の絶対、契約の自由、過失責任の原則や、「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れており、近代市民社会の法の規範となった。後に日本の旧民法編纂の際にも参考とされた。

見る 明治とフランス民法典

ドイツ帝国

ドイツ帝国(ドイツていこく、)は、1871年1月18日から1918年11月9日までドイツ国において存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く体制を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。

見る 明治とドイツ帝国

ニコライ2世 (ロシア皇帝)

ニコライ2世(、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。愛称はニッキー。ニコライ2世は様々な対外戦争を行った。皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。イギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども銃殺された。

見る 明治とニコライ2世 (ロシア皇帝)

ベーリング海

ベーリング海(ベーリングかい、Bering Sea)は、カムチャツカ半島とチュクチ半島、スワード半島、アラスカ本土、アラスカ半島、アリューシャン列島に囲まれた太平洋最北部の海。 セントローレンス島、ヌニヴァク島、プリビロフ諸島などの島があり、ベーリング海峡で北極海に繋がる。面積は231万km2。 都市は、アメリカ側のアラスカ州にはノームなどが、ロシア側のチュクチ自治管区にはアナディリがある。ベーリング海内の湾には、ロシア側のアナディリ湾、アメリカ側のブリストル湾、ノートン湾などがある。 サケやカニなどの好漁場として知られているが、暴風や巨大波が多く、日本近海と同じく海難事故が多い、危険な海である。

見る 明治とベーリング海

列強

代替文。

見る 明治と列強

刑部省

刑部省(ぎょうぶしょう、和名: さばきつかさ「刑部」を「おさかべ」と読むのは「忍坂部」の当て字であり刑部省の「刑部」の意味を表した言葉ではないので「刑部省」を「おさかべのつかさ」と読むことはない。、)は、古代日本の律令制下の八省の一つ、もしくは明治時代の省庁の一つ。

見る 明治と刑部省

切腹

切腹(せっぷく、Seppuku)は、刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)・伐腹(ばっぷく)・斬腹(ざんぷく)ともいう。日本では、主に武士などが行った独特の習俗。 海外でも日本独自の風習として知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として辞書に掲載されている。

見る 明治と切腹

嘉納治五郎

嘉納 治五郎(かのう じごろう、、万延元年10月28日〈1860年12月10日〉- 昭和13年〈1938年〉5月4日)は、日本の柔道家・教育者・貴族院議員。兵庫県出身。別表記:加納治五郎。 講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本におけるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また、「日本の体育の父」とも称される。

見る 明治と嘉納治五郎

嘉永

は、日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。孝明天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。

見る 明治と嘉永

喰違の変

喰違の変(くいちがいのへん)は、明治7年(1874年)1月14日に東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などとも。

見る 明治と喰違の変

和暦

は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。やとも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2023年は令和5年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。

見る 明治と和暦

め、メは、日本語の音節の1つであり、仮名の1つである。1モーラを形成する。五十音図において第7行第4段(ま行え段)に位置する。

見る 明治とめ

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、、英語略称: 、、)は、北アメリカに位置し、大西洋および太平洋に面する連邦共和制国家。通称は米国(べいこく)またはアメリカ()。略称は米(べい)。首都はコロンビア特別区(ワシントンD.C.)。現在も人口の増加が続いており、2024/5/19時点で3億4160万5622人を記録する。

見る 明治とアメリカ合衆国

アジア

アジアを中心とする地域の衛星写真 アジア(英語, ラテン語, ギリシャ語) は、世界の大州の一つ。現在では一般的にヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指すが、政治的・経済的な立場の違いにより、さまざまな定義がなされる場合がある。漢字表記は亜細亜で、亜州(亜洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は亜の一字を用いる。 古代メソポタミアのアッカド語 “ 出る ” が語源で、本来は “東、東方” を意味する言葉である。現在の一般的な定義は、ヨーロッパの人たちから見た東・西の区分を反映したものになっている。

見る 明治とアジア

インフレーション

インフレーション(inflation)とは、一定期間にわたって物価の水準が上昇し続けることである。略称としてインフレとも呼び、日本語では通貨膨張(つうかぼうちょう)とも呼ぶ。経済学において物価が上昇すると、1単位の通貨で購入できる財やサービスの数が減る。その結果、インフレーションは1単位の通貨あたりの購買力の低下、つまり経済における交換手段や会計単位の実質的な価値の低下を反映する。対義語はデフレーションであり、財やサービスの一般的な価格水準が持続的に低下することである。インフレーションの一般的な指標はインフレ率で、物価(通常は消費者物価指数)の長期的な変化率を年率換算したものである。 経済学者は、非常に高いインフレ率やハイパーインフレーションは有害であり、マネーサプライの過剰な増加が原因であると考えている。一方、低・中程度のインフレ率を決定づける要因については、より多様な見解がある。低・中程度のインフレは、財・サービスに対する実質的な需要の変動や、物資が不足しているときなどの供給可能量の変化に起因すると考えられる。しかし、長期的に持続するインフレは、マネーサプライが経済成長率を上回るスピードで増加することによって起こるというのが共通の見解である。

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イギリス

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、英語略称: 、、)、通称イギリスは、ヨーロッパ大陸北西岸に位置し、グレートブリテン島、アイルランド島北東部その他多くの島々から成る立憲君主制国家。首都はロンドン。日本語における通称の一例として、英国(えいこく)がある(「国名」を参照)。 イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという歴史的経緯に基づく4つのカントリー(「国」)が、同君連合型の単一主権国家を形成している。また、2020年1月31日まで欧州連合(略称:EU)に属していたが離脱した (ブレグジットを参照)。イギリスは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、G7・G20に参加する先進国である。また、経済協力開発機構、北大西洋条約機構、欧州評議会の原加盟国である。

見る 明治とイギリス

イタリア王国

イタリア王国(イタリアおうこく、)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国である。イタリア統一運動の流れの中で1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。

見る 明治とイタリア王国

エチオピア帝国

エチオピア帝国(エチオピアていこく、)は、1270年から1974年まで存続したアフリカ東部の国家である。現在のエチオピアおよびエリトリアにほぼ一致する領域を支配し、最大版図は現在のソマリア、ジブチ、ケニア、スーダン、南スーダン、エジプト、アラビア半島の一部まで及んだ。欧米のアフリカ分割の最中にあって独立を保ったアフリカ最古の独立国である。 実際は複数の王朝が交代し、また皇帝の存在しなかった時代もあるため、エチオピアの歴代王朝の総称ないし国家の系譜と考えることもできる。また、前身のザグウェ朝もエチオピア帝国の歴史の一部として捉える説もあり、その場合に推定される国家成立年は1137年である。1974年に、軍事クーデターによって皇帝ハイレ・セラシエ1世は帝位を追われ、翌1975年に帝政廃止。700年にわたる長いエチオピア帝国の歴史は終焉した。

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オホーツク海

オホーツク海とその周辺地図。 オホーツク海(オホーツクかい、Охо́тское мо́ре、Sea of Okhotsk)は、樺太(サハリン)・千島列島・カムチャツカ半島などに囲まれた海で、北海道の北東に位置する。 太平洋の縁海であり、カムチャツカ半島・千島列島によって太平洋と、また、樺太・北海道によって日本海と隔てられている。

見る 明治とオホーツク海

カラカウア

デイヴィッド・カラカウア(David Kalākaua、1836年11月16日 - 1891年1月20日)は、ハワイ王国の第7代国王である。正式名は David La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua で、名字の発音は「カラーカウア」に近い。1874年2月12日からサンフランシスコで亡くなるまで国王の座にあった。また、史上初めて日本を訪れた外国の国家元首でもある。

見る 明治とカラカウア

ガス灯

ガス灯 ランプ部分の拡大 姉小路通、京都市中京区 ガス灯(ガスとう)は、ガス燃料の燃焼による照明。

見る 明治とガス灯

キリスト教

キリスト教(キリストきょう、Χριστιανισμός、Christianitas、Christianity)は、イエスを救い主(キリスト、メシア)として信仰する宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年、第一版、714頁。「」デジタル大辞泉、小学館、コトバンク。。キリスト教では、イエスが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(「三位一体」)として信仰する。基督教とも表記される。 2020年時点で、世界における信者数(キリスト教徒)は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての宗教の中で最も多い。

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ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(Gustave Émile Boissonade de Fontarabie、1825年6月7日 - 1910年6月27日)は、フランスの法学者、教育者。近代日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。勲一等旭日大綬章受章。 呼称については、ボワソナード、ボアソナド、ボワソナドとも表記される。

見る 明治とギュスターヴ・エミール・ボアソナード

ギリシャ

ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。2011年の国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約3分の1である。アテネは首都および最大都市であり、テッサロニキは第2の都市および中央マケドニアの州都である。

見る 明治とギリシャ

グレゴリオ暦

グレゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。 グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日。

見る 明治とグレゴリオ暦

シベリア鉄道

シベリア鉄道(シベリアてつどう、Транссибирская магистраль)は、ロシア連邦のシベリアとヨーロッパロシアを東西に横断する鉄道。全長は9,297キロメートルで、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。 ロシア帝国時代に建設され、2022年時点では会社形態のロシア鉄道により運営されている「前進 シベリア鉄道/速度向上、バイパス活用へ設備改良/東西物流逼迫、復活の好機」『北海道新聞』夕刊2021年6月15日1面掲載の共同通信記事「シベリア鉄道、日欧貨物100倍/双日・JRなどと協力へ」記事およびロシア鉄道ミシャリン第一副社長インタビュー。『日経産業新聞』2019年6月28日(グローバル面)。

見る 明治とシベリア鉄道

スポーツ

スポーツ(sports、sport)は、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動(競技)の総称である。

見る 明治とスポーツ

スタンダードチャータード銀行

スタンダードチャータード銀行(スタンダードチャータードぎんこう、Standard Chartered Bank、英語略称SCB、あるいはStanChart )は、ロンドンに本拠を置き、世界70ヵ国に事業ネットワークを展開する世界的な銀行金融グループである。香港ドル発券銀行の一つ。ジョン・メージャーを輩出した。 同行はFTSE100種総合株価指数の採用銘柄であり、筆頭株主はシンガポール政府系ファンドのテマセク・ホールディングスである。

見る 明治とスタンダードチャータード銀行

セオドア・ルーズベルト

セオドア ・ルーズベルト・ジュニア(Theodore Roosevelt Jr.、、1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国の政治家、軍人で第26代大統領に1901年から1909年まで在任した。愛称のテディ(Teddy)やイニシャルのT.R.として知られており、ニミッツ級の4番艦セオドア・ルーズベルトの艦名のもととなった人物である セオドア・ルーズベルトはその精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男性らしさでよく知られる。共和党のリーダー、および短命に終わった進歩党の創設者であった。大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍した。また政治家としての業績とほぼ同等に、軍人、作家、ハンター、探検家、自然主義者としての名声も併せ持つ。

見る 明治とセオドア・ルーズベルト

品川弥二郎

品川 弥二郎(しながわ やじろう、、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。

見る 明治と品川弥二郎

冊封体制

冊封体制(さくほうたいせい)とは、近代までの東アジアにおいて、中国の歴代王朝と周辺諸国・諸民族が形成した国際秩序のこと。称号・任命書・印章などの授受、つまり冊封(さくほう、さっぽう)を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を理念上の中核とする。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。

見る 明治と冊封体制

円 (通貨)

円(えん)は、日本国の法定通貨の通貨単位。通貨記号は¥(円記号)、ISO 4217による通貨コードはJPY。旧字体では圓、ローマ字ではyenと表記され、しばしば日本円(にほんえん、にっぽんえん)ともいう。 通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年法律第42号)により「通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。」と定められている(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第1項)。

見る 明治と円 (通貨)

円山

円山、圓山(まるやま)。

見る 明治と円山

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。

見る 明治と内大臣

内地雑居

内地雑居(ないちざっきょ)とは、内地開放(ないちかいほう)とも呼ばれ、外国人居留地などの外国人に対する居住・旅行・外出の制限を撤廃して国内における自由な居住・旅行・営業を許可すること。明治時代の日本では条約改正と絡んで激しい論争となった。

見る 明治と内地雑居

内務省 (日本)

内務省(ないむしょう、、Home Ministry)は、1873年(明治6年)11月10日から1947年(昭和22年)12月31日まで存在した日本の行政機関。警察や地方行政など内政一般を所管した。 旧憲法(大日本帝国憲法)下の日本では内政・民政を担う行政機関であり、強大な権限の集中から「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」 などと呼ばれる最有力官庁であり、設立当初から国民生活統制の中核となったが、太平洋戦争の敗戦後、GHQの指令によって解体・廃止された。 内務大臣は、内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った官職とみなされていた(太政官制での歴代内務卿、及び1885年(明治18年)12月22日の内閣制度発足後の歴代内務大臣については「内務大臣 (日本)」を参照)。また、内務次官、警保局長、警視総監は「内務三役」と称された重職で、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選出された。

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内国勧業博覧会

内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)は明治時代の日本で開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、東京(上野)で3回、京都・大阪で各1回の計5回を政府主導で開催し、最も規模が大きかったのは最後となった第五回であった。

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内覧

内覧(ないらん)とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職。本項ではこれを扱う。 転じて、事前展示により一般公開前に特定の人(上得意、会員カード保有者など)に商品などを公開することを内覧、または内覧会とも言う。また、特定の取引先などをターゲットにした展示会も内覧会という。

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内閣

内閣(ないかく、Cabinet)は、主に議院内閣制や半大統領制などの国家において、行政を担当する合議体の執行機関である『政治・経済用語集』(山川出版社)。権力を担わない場合には、大統領顧問団(だいとうりょうこもんだん)などと訳される場合もある『』 - コトバンク。

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内閣 (日本)

内閣(ないかく、Cabinet)は、日本の行政府。首長たる内閣総理大臣およびその他の国務大臣で組織される合議制の機関である(日本国憲法第66条第1項)。 内政では法律を執行して国務を総理し、公務員事務を掌握し、予算案を国会に提出し、政令の制定や恩赦の決定等を行う。外交では外交権を行使し、条約を締結する(憲法第73条)。

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内閣官制

内閣官制(ないかくかんせい、明治22年12月24日勅令第135号)は、1889年(明治22年)に定められた日本の勅令。1947年(昭和22年)5月3日廃止。

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内閣顧問

内閣顧問(ないかく こもん)は、内閣総理大臣の諮問機関。以下の3種がある。

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内村鑑三

内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。

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内村鑑三不敬事件

第一高等中学校本館 内村鑑三不敬事件(うちむらかんぞう ふけい じけん)は、内村鑑三が、不敬を理由に第一高等中学校の教職を追われた事件である。第一高等中学校不敬事件(だいいち こうとうちゅうがっこう ふけい じけん)ともいわれる。 内村は1890年(明治23年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、その年は10月30日に第一次山県内閣のもとで教育勅語が発布された年でもあった。翌1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。

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出納

出納(すいとう)は、蔵人所の職員の1つで蔵人所の財物の出納をはじめ、一切の庶務を掌った。江戸時代には蔵人方地下人を統括して地下官人としては、少納言局局務・太政官官務とともに「催官人」と呼ばれた。 平安時代には定員3名で蔵人所における出納業務を行ったほか、蔵人所が出す牒・下文・返抄などの文書を蔵人に代わって起草・作成して蔵人とともに連署したことから、学識と事務能力を必要とされ、明法道出身者や官司の事務官出身者が任じられることが多く、また要人などからの推挙も多かった。宇多天皇は退位後に自己の在位中の出納を後院の主典代に任じて事務にあたらせており、天皇とも密接なつながりがあった。ところが、堀河天皇の頃から蔵人に代わって出納が全てを取り仕切り「僭上」とみなされて掣肘が加えられて以後、雑掌的な業務に限定され、地下人が任じられる地位となった。

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函館市

函館市(はこだてし)は、北海道南部(道南地方)に位置し、渡島総合振興局に属する市。 北海道南端の渡島半島南東部で天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。振興局所在地であり、札幌市・旭川市に次ぐ北海道第3位の人口(約24万人)を有する中核市である。

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凌雲閣

凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代に東京と大阪に建てられた眺望用の高層建築物である。東京の凌雲閣は、1890年竣工の高さ52m・12階建て、大阪の凌雲閣は、1889年竣工の高さ39m・9階建てだった。 名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。いずれも現存しない。

見る 明治と凌雲閣

啓蒙思想

啓蒙思想(けいもうしそう、Enlightenment、Lumières、Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光」あるいは「光で照らすこと」である、平凡社。。自然の光(lumen naturale)としての理性を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。 時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近世哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や倫理学、文芸活動などを指すことが多い。

見る 明治と啓蒙思想

商法

商法(しょうほう)。

見る 明治と商法

公卿

公卿(くぎょう)は日本の律令の規定に基づく太政官の高官で、国政を担う最高の職位をさす。 すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官を指す(総称して議政官という)。 平安時代に、「公」は大臣、「卿」は参議または三位以上の廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、京都御所に仕える上級廷臣を指した。 公卿は、国政の公務に準ずる職位として、政所・荘園を持つことが許された。

見る 明治と公卿

公家

日本の公家 公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、源氏・平氏・藤原氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。

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公議政体論

公議政体論(こうぎせいたいろん)は、幕末から明治初期にかけて、議会制度を導入して合意(「公議輿論(こうぎよろん)」)を形成することによって日本国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想。佐幕派にとっては江戸幕府再生の構想として、倒幕派にとっては明治維新後の政治の理想像の1つとして唱えられた。

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元号

内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。 インターネット配信された。 元号(げんごう、、)または年号(ねんごう、)とは、古代中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2024年(令和6年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体年号による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。

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元首

元首(げんしゅ、国家元首、dux civitatis、chef d’État、英語:Head of state)とは、国の首長または、国家を外に向って一般的に代表する資格をもつ機関。 歴史的には、三権を統合する国家の統治者としての絶対君主(皇帝、国王など)を指したが、三権分立が広がるに従い国家元首の権限は(行政権を除き)空洞化し、三権を統合する国家を憲法に従って統治する立憲君主(イギリスなど)、三権を統合する国家の儀礼的な長である名誉職型大統領(ドイツ、イタリアなど)、三権を統合する国家の長と行政府の長を兼任するアメリカ型大統領、三権を統合する国家の長と行政府の一部の長を兼任する半大統領制の大統領(フランスなど)などがある。三権分立の国家では、行政府の長ではない国家元首の権限は儀礼的なものが多く、行政府に対し首相の任命、立法府に対し議会の招集、法律の公布、司法府に対し最高裁判所長官の任命などの権限が残るのみである。

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元老

元老(げんろう)は、第二次世界大戦前の日本において天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。明治初期に置かれた元老院と直接的な関係はない。

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元老院 (日本)

元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。

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元治

は、日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。大化以降226番目、242個目の元号。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

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元文

元文(げんぶん、)は、日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

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前原一誠

宇龍港で捕縛される前原一誠(月岡芳年画) 前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。 位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日〈1828年10月17日〉- 明治38年〈1905年〉1月31日)は、日本の政治家。侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

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勝海舟

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。東京都本所出身。

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国家神道

国家神道(こっかしんとう、)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度『日本大百科全書』(小学館)”国家神道" 、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。 皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道(じんじゃしんとう)」(神社を中心とする神道)を指す語である岩井洋『知恵蔵』(朝日新聞社)”国家神道"。 王政復古を実現した新政府は、1868年(明治元)、祭政一致、神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去した。その後、政府主導の神道国民教化策が不振に終わると、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる公的な扱いとした。ここに国家神道が成立し、教化など宗教的側面にかかわる教派神道と役割が分担されることになった。

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国会開設の詔

国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)または国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)は、1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅。1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。

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国会期成同盟

国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)は、明治時代に日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社。自由党の母体ともなった。

見る 明治と国会期成同盟

国立銀行 (明治)

明治の国立銀行(こくりつぎんこう)とは、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関である。

見る 明治と国立銀行 (明治)

国立銀行条例

国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい、明治5年太政官布告第349号、明治9年太政官布告第106号)は、国立銀行について定めた太政官布告。最初は、明治5年11月15日(ユリウス歴1872年12月3日)に明治5年太政官布告第349号として制定され、明治8年8月1日(ユリウス歴1876年7月20日)に全部改正された。

見る 明治と国立銀行条例

国粋主義

国粋主義(こくすいしゅぎ、nationalism)とは、国家主義、民族主義と同じくナショナリズム(Nationalism)、ナショナリティ(Nationality)の日本語における訳語の一つ。 近代日本においては欧化主義に対抗して コトバンク. 2018年10月23日閲覧。、日本の文化・伝統の独自性を強調・発揚し コトバンク.

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国際連盟

国際連盟(こくさいれんめい、国際聯盟()、League of Nations(LON)、Société des Nations(SDN、SdN))は、第一次世界大戦後のの確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった「国際連盟」『国際法辞典』、145-146頁。。 当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月19日に活動を終了した。

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国権

国権(こっけん)。

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国民

国民(こくみん、national)とは、国家を構成する人民のことである。 「国に属する個々の人間」を指す場合と、「国に対応する社会集団全体」を指す場合とがある。国によっては議員のみの状態を表す単語でもある。共産主義的なニュアンスを嫌悪するなどの理由で「人民」(people)(じんみん)の言い換えとして用いられることも多いが、外国人を含むかどうかなど意味合いも変わるため、「国民」ではなく「人々」などと言い換える場合もある。ネーションも参照されたい。

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国民皆兵

国民皆兵(こくみんかいへい、)とは、国民全員で国防を担おうという国家の姿勢、それに基づいた一定年齢の国民に対する皆兵制度。イスラエルやスイスが代表例である。

見る 明治と国民皆兵

倒幕運動

倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。 主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。 これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。

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皇太子

皇太子(こうたいし/ひつぎのみこ荒木 1985 p.116/もうけのきみ)、王太子(おうたいし)は、皇位、帝位、国王の第一継承者を指す語であり、称号。 現代日本の皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは『今上天皇の皇子たる親王』が皇嗣である場合のみとなる。 より広義には、日本の皇室における天皇位だけでなく、国外の君主国の王室における君主位(王位等)の法定推定相続人の称号(例:Crown Prince)の対訳として使われる。女性君主を容認している場合は、法定推定相続人である女子の称号(例:Crown Princess)の対訳にも用いられる。

見る 明治と皇太子

皇室

皇室(こうしつ、Imperial House of Japan)は、日本の天皇およびその一族の総称。 2023年(令和5年)1月現在、天皇・上皇および皇族15名(皇后・上皇后・親王・親王妃・内親王・女王)の計17名により構成される。 狭義には天皇・内廷皇族のみを、広義には天皇とその近親である皇族を指すが、皇室の範囲は時期によって異なる。近世では傍系の四親王家(伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮)、近代以降では十一宮家(旧宮家)を含んでいた。終戦以降は、天皇および内廷皇族と、内廷外皇族(宮家に属する皇族)を総称して皇室とする。

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皇室典範 (1889年)

皇室典範(こうしつてんぱん)は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された現行の皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。単に典範(てんぱん)とも呼ばれる。

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皇居

皇居(こうきょ)は、日本の天皇及び皇族の居所。東京都千代田区千代田1番1号に位置し、宮内庁も所在する。区の中央部に立地しており、総面積は千代田区の約2割に相当する。 1888年より1948年までは宮城(きゅうじょう)と公称されていた。また皇城(こうじょう)や皇宮(こうぐう)などとも称せられた。1948年の宮内庁告示に伴い、正式に「皇居」と呼ばれるようになった(後述)。

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皇族

皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。

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矢野玄道

矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年11月17日) - 1887年〈明治20年〉5月19日)は、江戸後期・幕末・明治の国学者・神道学者。平田篤胤門下。幼名は茂太郎。名は敬逵。道号は天放散人、子清、神臣、谷倶久、後楽閑人、扶桑眞人倚松、谷蟆、梅屋。本姓は平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。伊予国喜多郡阿蔵村有松(現・愛媛県大洲市)の人。 維新後は神祇官・神祇省事務局判事、内国事務権判事を経て、京で教え、のち東京に移り、御系図取調御用、1877年文部省修史館御用掛、1878年6月正七位に叙せられ、宮内省御系譜掛となる。1882年皇典講究所初代学部長、1884年宮内省図書寮御用掛勤務など、明治初期の文教行政に深くかかわった。

見る 明治と矢野玄道

知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(今日の都道府県知事)の前身にあたる。藩名を冠す場合には◯◯藩知事(◯◯はんちじ)と語順が入れ替わる(→「知藩事と藩知事」節を参照)。

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玄洋社

玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれる。

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玉松真弘

玉松 真弘(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) - 明治5年2月15日(1872年3月23日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者。通称は操(みさお)。雅号は毅軒。

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ、英語: restoration)は、共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す。通常はイングランドにおける共和政崩壊後のチャールズ2世の即位、フランスにおけるナポレオン1世没落後のルイ18世の即位、日本の明治維新、以上三つのいずれかを指すことが多い。

見る 明治と王政復古

王政復古 (日本)

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく、)は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家。正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」は琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに日本復帰後最初の沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である。

見る 明治と琉球王国

琉球藩

琉球藩の印 琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。

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磐梯山

磐梯山(ばんだいさん)は、福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯町、北塩原村にまたがる1,816mの活火山である。会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士(あいづふじ)、あるいは民謡にあるように会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれている。日本百名山に選定されており、福島県のシンボルの一つとされている。

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神仏分離

神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。 その動きは早くは中世から見られるが、一般には、広義では、江戸時代中・後期以後の儒家神道や国学・復古神道に伴うものを指し、狭義では、明治新政府により出された神仏分離令又は神仏判然令と総称される一連の通達に基づき、全国的に公的に行われたものを指す。

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神田孝平

神田 孝平(かんだ たかひら、1830年10月31日(文政13年9月15日) - 1898年(明治31年)7月5日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家。男爵。号は淡崖。元は諱を孟恪、通称を孝平(こうへい)と名乗っていた。兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任した。東京数学会社初代会長。 日本最初の探偵小説の訳者として、神田楽山名義で「和蘭美政録」を訳出。写本で広まり後に、前半の「」のみ成島柳北が大幅に手を入れて雑誌に連載後、書籍として刊行。その後博文館の雑誌「日本之法律」に元の稿本に神田自身が多少譯語を変えるなどして掲載されたの事であるが当該雑誌は発見に至って居ない。前半のみ「明治文化全集」翻訳文芸篇に吉野作造の校訂で収録、後半は雑誌「明治文化」の第五巻第九号及び第十号に分載。戦後各種の版本がある。

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神道

樹齢約3000年の武雄神社の御神木 神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。開祖や教祖、教典を持たず、森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づく。神話、八百万の神、自然や自然現象など、アニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。 神と自然は一体と認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。

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神風連の乱

神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9年)に熊本区(現在の熊本市)で起こった、明治政府に対する士族反乱。敬神党の乱(けいしんとうのらん)ともいう。 1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により、廃刀令への反対運動として起こされた。この敬神党が反対派から「神風連」と戯称されていたため、神風連の乱の名がある。

見る 明治と神風連の乱

神武天皇

神武天皇(じんむてんのう、、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『日本書紀』による。)は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))にて紹介されている人物である。 諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は。 天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して'''日本国を建国'''したと言われる人物。

見る 明治と神武天皇

神武天皇即位紀元

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年を西暦(キリスト紀元)前660年としている。 通常は略して皇紀(こうき)という。その他、神武紀元、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等の異称がある。

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神戸

神戸(こうべ)は、兵庫県南東部に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。付近一帯が生田神社の神戸だったことに由来する。当地においては、平安時代の「神戸郷」から、「神戸村」(江戸時代)、「神戸町」(1868年)、「神戸区」(1879年)、「神戸市」(1889年)と、神戸の地名が継承されている。

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祭政一致

祭政一致(さいせいいっち、など)とは、祭祀と政治とが一元化、一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。 、日本でも巫の告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権を始めとする古代の神権政治、琉球王国の統治体制に遡ることができる。 神道はアニミズム的宗教であり、その特徴の一つに祭政一致がある。日本語において神道には必ずしも限定されていないものの、祭政一致は英語ではSaisei itchiとしてそのまま神道の用語として用いられており、柳川啓一は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義したBetween Unity and Separation: Religion and Politics in Japan, 1965-1977 Yanagawa Keiichi and David Reid, Japanese Journal of Religious Studies 6/4 December 1979.

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禁教令

禁教令(きんきょうれい)は、ある宗教を信仰し布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、キリスト教禁止令(キリシタン禁制、禁令)とも呼ばれる。 NewsCrunch.

見る 明治と禁教令

福岡孝弟

福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日〈1835年3月3日〉- 大正8年〈1919年〉3月7日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。

見る 明治と福岡孝弟

福島事件

福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動のなかで1882年(明治15年)、県令三島通庸が会津三方道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件。喜多方事件も含んでいう。民権激化事件のひとつ。

見る 明治と福島事件

福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代をゆえに北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。

見る 明治と福井藩

福地源一郎

福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の幕末の幕臣。明治時代の政論家・劇作家・小説家河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。。幼名八十吉(やそきち)。号星泓のち櫻癡(おうち、新字体:桜痴)、別号吾曹。福地桜痴の名で知られる。東京日日新聞社長、最晩年は衆議院議員西田長寿「福地源一郎」『世界大百科事典』26巻350頁(平凡社、1981)、河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。 「江湖新聞」発刊で筆禍を得、大蔵官僚を経て東京日日新聞社主筆・社長に就任。当時の言論界・政界に大きな影響力を揮ったが、のち声望傾き西田長寿「福地源一郎」『世界大百科事典』26巻350頁(平凡社、1981)、河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)、退社後は演劇改良運動に傾注して活歴劇を創始河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。

見る 明治と福地源一郎

福澤諭吉

福澤 諭吉(または福沢 諭吉、ふくざわ ゆきち、、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。 もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

見る 明治と福澤諭吉

租税

とは、国や地方公共団体が公共財や公共サービスを提供するにあたって、法令の定めに基づいて国民や企業などの主体に、必要経費などの捻出方法として負担を強制する金銭(通貨、お金)で、日本ではと言われる。一部の国で国防に係る徴兵制などが見られるが、安定した税収を確保するため、物納や労働を採用することは減ってきている。 (租税制度)は、歳入(財政)の根幹および政治や経済(経世済民)の要因となる。商売や契約・取引などの行為および所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを、課税された税を納めることを、徴収することを、それらについての事務をという。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを、逆に増額することをという。

見る 明治と租税

私学校

私学校(しがっこう)は、明治初期の鹿児島県に存在した学校の俗称。現在の鹿児島市城山町(鹿児島医療センター敷地)にあった。 当初は西郷隆盛によって不平士族の暴発を抑えるための教育機関として設立されたが、後に生徒が暴発して西南戦争の直接的原因が生まれ、薩軍の軍事拠点となった。

見る 明治と私学校

私擬憲法

私擬憲法(しぎけんぽう)とは、明治時代の大日本帝国憲法発布以前に、民間で検討された憲法の私案のこと。

見る 明治と私擬憲法

秩禄処分

秩禄処分(ちつろくしょぶん、)は、明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。経過措置として公債が支給された。支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる。

見る 明治と秩禄処分

秩父事件

秩父事件(ちちぶじけん)は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。

見る 明治と秩父事件

秋月の乱

秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

見る 明治と秋月の乱

穢多

穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。長吏、調里(ちょうり)とも。

見る 明治と穢多

竹橋事件

竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動とも呼ばれる。

見る 明治と竹橋事件

立志社 (政治団体)

立志社(りっししゃ)は、自由民権運動の中心となった高知県の政治団体。社長は片岡健吉宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、923頁。ISBN 4-06-203994-X。。

見る 明治と立志社 (政治団体)

立志社の獄

立志社の獄(りっししゃのごく)とは、1877年の西南戦争に乗じて立志社の林有造や大江卓が元老院議官・陸奥宗光らと共謀して高知県で挙兵を企てたとされ処罰された事件。

見る 明治と立志社の獄

立法

とは、行政および司法と並ぶ国家作用の一つである。形式的意味においては議会の議決を経て法律を制定することをいうが、実質的意味においては特定の法規範を定立させる国家作用のことである。この国家作用を行う権能を立法権という。

見る 明治と立法

立憲君主制

立憲君主制(りっけんくんしゅせい、constitutional monarchy)とは、君主制における君主の権力が憲法によって規制されている政体。制限君主制(せいげんくんしゅせい)ともいう。立憲君主制には法的分類があり、憲法下で議会が権力を持ち君主権は名目であるイギリス型と、憲法下でも実際は君主権が制限されないドイツ帝国型とがある。 現代の君主制のほとんどは、イギリス型の立憲君主制とされる。一方、立憲君主制が歴史的に発展した型を指す用語として「(人民主権下の)議会君主制」があり、それは現代のイギリス、日本、スウェーデン、スペイン、ベルギーなどに見られる。

見る 明治と立憲君主制

立憲帝政党

立憲帝政党(りっけんていせいとう)は、1882年に結成した明治時代の政党。藩閥政府を支持する代議士グループ「吏党」の淵源である季武嘉也・武田知己編 『日本政党史』 吉川弘文館、2011年、82頁。ISBN 978-4-642-08049-1。。略称は帝政党。

見る 明治と立憲帝政党

立憲主義

立憲主義(りっけんしゅぎ、constitutionalism)とは、単に憲法に基づいて統治がなされるべきであるというのみならず、政治権力が憲法によって実質的に制限されなければならないという政治理念である。日本語での表現は「憲法に立脚する」という意味合いであるが、そこにいう「憲法」は権力の制約を伴う規範的憲法であり、名目的憲法に基づく統治は本来の意味での立憲主義に結びつかない(外見的立憲主義)。 立憲主義を前提とした民主制を立憲民主主義、やはり立憲主義を前提とした君主制を立憲君主制と呼ぶ。憲政主義とも言う。

見る 明治と立憲主義

立憲改進党

立憲改進党(りっけんかいしんとう)は、明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ。1882年から1896年まで存在した。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。

見る 明治と立憲改進党

立憲政友会

立憲政友会(りっけんせいゆうかい、)は、明治時代から昭和時代(戦前)にかけての日本の政党。略称は政友会(せいゆうかい)。 立憲民政党とともに1925年から1931年にかけて衆議院において二大政党制を形成した。 当時としては議会制民主主義や地方分権を訴えるなど進歩主義的な側面もあった。

見る 明治と立憲政友会

立憲政体の詔書

立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ、、明治8年4月14日太政官第58号布告)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。明治8年太政官布告第58号により布告された。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。御誓文ノ趣旨ニ基ク立憲政體樹立ニ關スル詔書、元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸次立憲政体樹立ノ詔勅国立公文書館所蔵の資料名は「元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅」と登録してあるため、「漸次」ではなく「漸時」を使って検索等する必要がある。(#大審院参照)。、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。

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第10回衆議院議員総選挙

第10回衆議院議員総選挙(だい10かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1908年(明治41年)5月15日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第10回衆議院議員総選挙

第11回衆議院議員総選挙

第11回衆議院議員総選挙(だい11かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1912年(明治45年)5月15日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第11回衆議院議員総選挙

第1回衆議院議員総選挙

第1回衆議院議員総選挙(だい1かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1890年(明治23年)7月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第1回衆議院議員総選挙

第2回衆議院議員総選挙

第2回衆議院議員総選挙(だい2かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1892年(明治25年)2月15日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第2回衆議院議員総選挙

第2次伊藤内閣

伊藤は1896年(明治29年)8月31日に総理大臣を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで枢密院議長の黒田清隆が総理大臣を臨時兼務した。

見る 明治と第2次伊藤内閣

第2次桂内閣

前政権の第1次西園寺内閣は、立憲政友会を政権与党として運営されていたが、政党内閣制を嫌う藩閥長老の山縣有朋元老が妨害し、嫌気がさした西園寺首相の主導で内閣総辞職する。当時、西園寺首相は藩閥の主宰者でありながら政友会首班の内閣を容認していた桂太郎前首相を信頼しており、元老会議の手続きを経ずして後継に桂を奏請、1908年7月12日に大命降下、14日に組閣する。

見る 明治と第2次桂内閣

第3回衆議院議員総選挙

第3回衆議院議員総選挙(だい3かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1894年(明治27年)3月1日に行われた日本の帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第3回衆議院議員総選挙

第4回衆議院議員総選挙

第4回衆議院議員総選挙(だい4かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1894年(明治27年)9月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第4回衆議院議員総選挙

第5回衆議院議員総選挙

第5回衆議院議員総選挙(だい5かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1898年(明治31年)3月15日に行われた日本の行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第5回衆議院議員総選挙

第6回衆議院議員総選挙

第6回衆議院議員総選挙(だい6かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1898年(明治31年)8月10日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。 前回からわずか5か月弱での総選挙となった。1年で2度総選挙が行われたのは1894年以来で、現時点で最後となっている。6月22日に自由党・進歩党が合同し、憲政党となってからまもなく行われた選挙であり、第1次大隈内閣の与党である憲政党が大勝をおさめた。しかし10月には憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂し、大隈内閣も倒れた。

見る 明治と第6回衆議院議員総選挙

第7回衆議院議員総選挙

第7回衆議院議員総選挙(だい7かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1902年(明治35年)8月10日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。 任期満了に伴う初の総選挙である。

見る 明治と第7回衆議院議員総選挙

第8回衆議院議員総選挙

第8回衆議院議員総選挙(だい8かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1903年(明治36年)3月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第8回衆議院議員総選挙

第9回衆議院議員総選挙

第9回衆議院議員総選挙(だい9かいしゅぎいんぎいんそうせんきょ)は、1904年(明治37年)3月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。

見る 明治と第9回衆議院議員総選挙

第一次世界大戦

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称:WWI)は、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で行われた世界規模の戦争である。 7000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万人)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。 戦争が長引いたことで、各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年に第二次世界大戦が勃発した。

見る 明治と第一次世界大戦

第一次エチオピア戦争

第一次エチオピア戦争(だいいちじエチオピアせんそう、First Italo–Ethiopian War)は、1894年から1896年にかけて戦われた、エチオピア帝国とその植民地化を図るイタリア王国との戦争。エチオピアに対する当時のヨーロッパ側からの呼称であるアビシニアを用いて、(第一次)アビシニア戦争とも呼ばれる。

見る 明治と第一次エチオピア戦争

第二次日韓協約

第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく、)は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。日韓保護条約とも言う。これにより大韓帝国の外交権は、ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。

見る 明治と第二次日韓協約

筑摩県

筑摩県(ちくまけん)は、1871年(明治4年)に飛騨国および信濃国中部、南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方・南信地方、および岐阜県飛騨地方のほぼ全域と岐阜県中津川市の一部にあたる。

見る 明治と筑摩県

箱館戦争

箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。

見る 明治と箱館戦争

篠原国幹

篠原国幹 篠原 国幹(しのはら くにもと、天保7年12月5日(1837年1月11日) - 明治10年(1877年)3月4日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。位階は贈正五位。

見る 明治と篠原国幹

米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は外様大名の上杉氏。石高は当初30万石で国主大名だったが、1664年に15万石に減封される。幕末に一時的に18万7千石に加増されるも戊辰戦争後に14万7千石に減封となり、支藩を併合して廃藩置県を迎えた。

見る 明治と米沢藩

紀尾井坂の変

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、斬奸状をたずさえた士族6名によって暗殺された事件である。襲撃現場は正確には紀尾井坂ではなく坂下付近(現在の清水谷公園前)に位置する。「紀尾井町事件」「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。

見る 明治と紀尾井坂の変

紀元前660年

紀元前660年(きげんぜん660ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元94年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前660年と表記されるのが一般的となった。

見る 明治と紀元前660年

紀元節

紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は紀元前660年2月11日。1873年(明治6年)に定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。 1948年7月20日の「国民の祝日に関する法律」公布・施行により、紀元節を含む四大節は廃止された。1966年(昭和41年)に同じ2月11日が「建国記念の日」として国民の祝日となり、翌年から適用された。 2月11日の日付は、日本書紀で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(紀元前660年)1月1日の月日を、明治に入りグレゴリオ暦に換算したものである。

見る 明治と紀元節

紙幣

紙幣(しへい、英: bill)とは、紙製の通貨のことである。

見る 明治と紙幣

維新の三傑

維新の三傑(いしんのさんけつ)は、日本において倒幕・維新に尽力した、志士の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人を指す。

見る 明治と維新の三傑

総務省

総務省(そうむしょう、Ministry of Internal Affairs and Communications、略称: MIC)は、日本の行政機関のひとつ。行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など国家の基本的諸制度を所管している。

見る 明治と総務省

総裁

総裁(そうさい)とは、政(まつりごと)に携わる政府機関・政党・公団などにおいて最終決裁権を持つ代表職の名称。 元々は、後述する幕末の江戸幕府の役職名として使用され、その後、明治時代における新政府の長の名称として用いられ、以後様々な組織や団体における「長」たる職の名称として用いられている。また、諸外国における英語のdirectorまたはpresidentに相当する語の訳語として用いられている。

見る 明治と総裁

緯度

緯度(いど、Latitude, Breite)とは、経緯度(=経度・緯度。すなわち天体表面上の位置を示す座標)の一つである。以下特に断らない限り、地球の緯度について述べる。余緯度とは緯度の余角。

見る 明治と緯度

署名

署名(しょめい、sign, signature)とは、行為者がある行為(例えばクレジットカードの利用時)をする際に、自己の氏名を自署すること、また自署したものである。

見る 明治と署名

群馬事件

群馬事件(ぐんまじけん)は、1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で起こった自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件である。 明治15年からの松方デフレにより全国的に農民は困窮し、負債で苦しんでいた。群馬県北甘楽郡でも30余の村の村民が県へ陳情するほどであった。党本部の政府寄り姿勢に憤っていた群馬の自由党指導者・清水永三郎は、この状況を見て党勢拡大を意図し、集会などを開いて反政府感情を煽っていた。そして1884年3月、清水は湯浅理平・小林安兵衛・三浦桃之助ら同志とともに、北甘楽郡周辺の農民のほか猟師・博徒も誘って政府転覆を計画する。だがこの最初の計画は4月に清水らが政府密偵謀殺容疑をかけられ他県へ逃亡したことにより一旦頓挫した。

見る 明治と群馬事件

義和団の乱

義和団の乱(ぎわだんのらん、、満洲語: 転写:ciowan sere ehe hūlha i facuhūn)は、1900年(1899年)に起こった、清朝末期の動乱である。義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。 「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開された が、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2カ月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため八カ国連合軍が北京に進出し日本は最大の兵力8000人を投入した。

見る 明治と義和団の乱

県(けん)とは、地方のための行政機関の一種。正字(旧字体)は「縣」で、もと釣り下がる意を表した。元は中国の地方行政の名称で官庁を指したが、県の長の管轄する範囲(行政区画)も表すようになった。 現在の日本では地方自治法(昭和22年4月17日法律第67号)施行後、市町村を包括する広域の地方公共団体となり、県の行政事務を扱う役所は県庁といい、法人格を持つ。 漢字文化圏以外の国の行政区画の日本語訳としての利用でも、日本での順序に準じて用いられる(日本語訳としての「県」を参照のこと)。

見る 明治と県

烏丸光徳

烏丸 光徳(からすまる みつえ、天保3年7月20日(1832年8月15日) - 明治6年(1873年)8月15日)は、幕末・明治期の政治家。尊王攘夷派公家として活動し、明治維新後は初代東京府知事を務めた。

見る 明治と烏丸光徳

爵位

爵位(しゃくい、、、)とは、主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである例えば、ナイト爵は「元来は、封建時代のヨーロッパで甲冑等で重装した騎乗戦士で、社会の支柱的存在であったが、転じて栄誉称号となり、イギリスでは爵位の最下位をさす」とされる。(田中英夫著『英米法辞典 5版』(東京大学出版会、1991年)492頁参照)。 別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。

見る 明治と爵位

統監府

統監府(とうかんふ)は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。韓国統監府(かんこくとうかんふ、)とも呼ばれる。 明治38年(1905年)11月23日、韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(明治38年勅令第240号)に基づいて置かれた。設置根拠はその後、統監府及理事庁官制(明治38年12月21日勅令第267号)となる。初代韓国統監は伊藤博文。事務の開始は明治39年(1906年)2月1日。韓国統監も正式名称は統監であり、「韓国」は付かない。 明治43年(1910年)8月29日韓国併合により朝鮮総督府が設置されたが、統監府及び所属官署は、当分の間存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使するとされた。その後9月30日に朝鮮総督府官制が制定され、統監府は、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。

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統計局

統計局(とうけいきょく、)は、総務省の内部部局の一つである。日本国政府の中枢的な統計機関として、国勢調査を始めとする国の基本的な統計の作成を担当している。総務省第2庁舎(東京都新宿区若松町19-1)内にある。なお、敷地内には国立国会図書館の支部図書館である「統計図書館」や一般向けの展示施設「統計博物館」がある。

見る 明治と統計局

産業革命

は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。1733年から1840年付近までの第一次産業革命と、それ以降の第二次産業革命に大別することも可能である。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。 経済史において、それまで安定していた1人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったともいえ、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をすることもあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に「産業革命」という用語が用いられている。

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田畑永代売買禁止令

田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)は、本百姓体制を維持するため寛永20年(1643年)に江戸幕府によって出された法令の総称。田畠永代売買禁止令とも書く。代官宛に出された17か条からなる「土民仕置条々」のうち、田畑の売買(永代売)を禁止する3条(13条)を指す。 前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に幕府は本格的な農政へ乗り出し、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布されたとされている。明治5年2月15日(1872年3月23日)に廃止されるまで名目上の効力を持った。 主に天領に向けて発布されたと考えられているが、質流れなどで実際上は江戸時代を通じて土地の売買が行われており、幕府においても江戸時代中期以後に入ると、法令違反の訴えがない限りは同法違反の取締りを行うことはなかったという。

見る 明治と田畑永代売買禁止令

由利公正

由利 公正(ゆり きみまさ / ゆり こうせい、文政12年11月11日〈1829年12月6日〉- 明治42年〈1909年〉4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。

見る 明治と由利公正

甲午

甲午(きのえうま、こうぼくのうま、こうご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの31番目で、前は癸巳、次は乙未である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の午は陽の火で、相生(木生火)である。

見る 明治と甲午

甲午農民戦争

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に李氏朝鮮で起きた李氏朝鮮王朝に対する農民暴動、内乱である。主要な関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱(とうがくとうのらん)とも呼ばれる。 李朝の統治理念である儒教(朱子学)思想を揺るがす、身分差別を否定する内容が含まれる新興宗教「東学」を1860年から布教しだした第1世教主崔済愚が、1863年に李氏朝鮮王族や支配層である士族(両班)の怒りを買って捕らえられ、翌1864年に「邪道亂正」の罪で処刑された糟谷憲一 著「朝鮮近代社会の形成と展開」p.223-227、武田幸男編集 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史2〉、2000年8月。

見る 明治と甲午農民戦争

甲申

甲申(きのえさる、こうぼくのさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの21番目で、前は癸未、次は乙酉である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の申は陽の金で、相剋(金剋木)である。

見る 明治と甲申

甲申政変

甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。

見る 明治と甲申政変

甲辰

甲辰(きのえたつ、こうぼくのたつ、こうしん、ちんそうのたつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの41番目で、前は癸卯、次は乙巳である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の辰は陽の土で、相剋(木剋土)である。

見る 明治と甲辰

甲戌

甲戌(きのえいぬ、こうぼくのいぬ、こうじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの11番目で、前は癸酉、次は乙亥である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の戌は陽の土で、相剋(木剋土)である。

見る 明治と甲戌

町人

町人(ちょうにん)は、江戸時代に城下町など大きな都市に住んでいた職人、商人の総称である。または当時の都市在住の庶民階級の総称であり、昔ながらの農地に住む庶民階級の百姓や都市在住の武士階級と区別して用いられた。

見る 明治と町人

町村制

町村制(ちょうそんせい)は、1888年(明治21年)から1947年(昭和22年)までの日本にあった地方自治に関する法律である。都市部の自治体を律した市制と並ぶもので、町と村の制度を規定した。明治44年4月7日法律第69号。

見る 明治と町村制

熊本藩

熊本城 熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石(細川家の時代に、八代領と両支藩を分封ののち高直しで54万石)。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。熊本藩細川家は肥後一円を領有していないが、国持ち大名(大身国持)とされた。

見る 明治と熊本藩

留守政府

留守政府(るすせいふ)とは、明治初期において、明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された国内の体制を指す。明治4年11月12日(1871年12月23日)-明治6年(1873年9月13日)。

見る 明治と留守政府

煉瓦

アルチザンスクエア) 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を直方体の型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。焼成レンガは原料中の鉄分量および焼成時の酸素量によって色が変わる。日本においては一般的な製法を用いた場合は赤褐色となるが、世界的には白色の物など様々であり、釉薬などで着色することもできる。耐火レンガは炉材にも使われる。 日本においては、飛鳥時代から奈良時代に、磚、塼、甎(読みは全て、せん)と呼ばれていた。その後廃れ、近代化とともに再導入されたが、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災などでは多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。

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版籍奉還

版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。

見る 明治と版籍奉還

片山潜

片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。

見る 明治と片山潜

癸卯

癸卯(みずのとう、きすいのうさぎ、きすいのう、きぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの40番目で、前は壬寅、次は甲辰である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の卯は陰の木で、相生(水生木)である。

見る 明治と癸卯

癸巳

癸巳(みずのとみ、きすいのみ、きし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの30番目で、前は壬辰、次は甲午である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の巳は陰の火で、相剋(水剋火)である。

見る 明治と癸巳

癸酉

癸酉(みずのととり、きすいのとり、きゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの10番目で、前は壬申、次は甲戌である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の酉は陰の金で、相生(金生水)である。

見る 明治と癸酉

癸未

癸未(みずのとひつじ、きすいのひつじ、きび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの20番目で、前は壬午、次は甲申である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の未は陰の土で、相剋(土剋水)である。

見る 明治と癸未

白人

戦国時代、日本に到来したイエズス会員などの南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。 バルトと北欧起源のそれぞれ。 金髪碧眼の白人女性 白人(はくじん、White (people)、Caucasian)は、通俗的人種概念の一つで、肌の色が薄く白に近い人種の総称。白色人種(はくしょくじんしゅ)。 いずれも文化的・宗教的・社会的・政治的に形成され、便宜的に使用される用語であり、生物学的分類として有効な概念ではない。

見る 明治と白人

百姓

百姓(ひゃくしょう)とは、農業従事者(農家、農民)の事を指す語。そのほか、江戸時代における本百姓のことや、あかぬけない人や情趣を解さない人に対する侮蔑語でもある。 百姓(ひゃくせい)は、一般の人民。庶民。多くの役人または人民の事を指す漢語に由来する。本項の#漢語としての語義と日本での変遷で説明。 ---- 本項では、百姓の語義の変遷と共に日本史上における百姓ないし農民について記述する。西洋における農民(peasant)については「農民」を、現代の農業従事者については「農家」を参照されたい。

見る 明治と百姓

DM三井製糖ホールディングス

DM三井製糖ホールディングス株式会社(ディーエムみついせいとうホールディングス、英: Mitsui DM Sugar Holdings Co., Ltd.)は、2021年4月1日に日本の製糖業界最大手の食料品会社である三井製糖(2代)と、同じく製糖業界大手の大日本明治製糖(DM)が経営統合し発足した持株会社。

見る 明治とDM三井製糖ホールディングス

銭(せん、錢/钱 チエン、전 チョン)は、東アジアのいくつかの国の通貨である。 「銭」(旧字体「錢」)は元は農具の「鋤」を意味する漢字だったが、鍬形の貨幣があったことから貨幣の意味に転じた。通貨としては複数の意味があるが、主に。

見る 明治と銭

銀本位制

本位銀貨として広く流通した"メキシコドル"1768年銘 ポトシ鋳造 銀本位制(ぎんほんいせい、silver standard)とは、一国の貨幣制度の根幹を成す基準を銀と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を銀貨とし、これに自由鋳造、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である。この場合、その国の通貨は一定量の銀の量を持って表すことができ、商品の価格も銀の価値を標準として表示される。

見る 明治と銀本位制

韓国併合

韓国併合(かんこくへいごう、朝: 경술국치(庚戌國恥)/한일병합(韓日倂合)/국권피탈(國權被奪)、Japanese annexation of Korea)とは、ポーツマス条約の調印後、1910年(明治43年)8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」へ基づき、大日本帝国が大韓帝国を併合して統治下に置いた出来事を指す。朝鮮併合、日韓併合、日韓合邦とも表記される。 日本による朝鮮半島の統治は大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も行われ、実質的には1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまでの約35年間、韓国併合は続いた。1965年(昭和40年)、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約にて韓国併合ニ関スル条約が失効した。

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韓国併合ニ関スル条約

韓国併合ニ関スル条約(かんこくへいごうにかんするじょうやく、)とは、1910年(日: 明治43年 / 韓: 隆熙4年)8月22日に漢城府(現ソウル特別市)で寺内正毅・統監と李完用・総理が調印し、同年8月29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約である。 大日本帝国は、この条約に基づき大韓帝国を併合した(韓国併合を参照)。通称は「韓国併合条約」や「日韓併合条約」。韓国では「韓日併合条約()」と呼ばれている。 調印された条約文書、並びに明治天皇と純宗がそれぞれの国に発した勅諭寺内と李の8月22日付「覚書」には「併合条約及両国皇帝陛下ノ詔勅ハ総テ双方打合ノ上、同時ニ交付スルコト」とある(海野福寿編「外交史料韓国併合(下)」724頁)。海野は史料解説で「『双方打合』としていたから統監府が作成・交付にかかわったと見られる」とする(同書636頁)。寺内は8月27日午後2時30分京城発の文書で本国小村外相に対し「日韓併合ニ関スル韓帝ノ詔勅文ハ別紙ノ通決定シ」、同日午後6時55分京城発の文書で再度小村外相に対し「前電韓皇詔勅文左ノ通修正セラレタリ」と経過を報告している(同書731頁)。

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選挙

日本の選挙戦で使う候補者ポスター掲示板(選挙戦が公示されると候補者のポスターが届け出順で貼り付けられる) 日本の選挙で使用される投票箱 選挙(せんきょ)は、組織または集団において、投票などの手続きによって、代表者や役員などを決定するイベントである。国政に関する選挙は国政選挙(こくせいせんきょ)、地方自治に関する選挙は地方選挙(ちほうせんきょ)と称される。 動詞で「選挙する」と言った場合、公職に就任する者を選定する行為のことを指す。歴史的には挙手や起立、喝采などの方法が採用されたこともあるが、現代の選挙は投票によって行われることが多い(日本の公職選挙法35条も参照)。 明治維新前後の時期の表記・訳語では撰挙・選択とも。

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選挙権

選挙権(せんきょけん、Suffrage)とは、政治における参政権の一種であり、国や地域での選挙に参加できる資格またはその地位を指す。これは選挙において投票する権利(投票権)のみならず、選挙人名簿への登録や選挙の公示を受ける権利や、議員定数に著しい不均衡が生じた際に選挙人がその是正のための立法措置を求める権利なども含まれる。 広義では、被選挙権を含める場合がある。

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、辽东半岛、)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島。山東半島・雷州半島と並ぶ中国三大半島の一つ。遼東という名称は、遼河の東岸に位置することに由来している。

見る 明治と遼東半島

鍋島直正

鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日〈1815年1月16日〉- 明治4年1月18日〈1871年3月8日〉)は、江戸時代末期の大名。肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。李晋・李玖兄弟は玄孫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。

見る 明治と鍋島直正

華族

華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。

見る 明治と華族

華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。1907年(明治40年)制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は1947年(昭和22年)に廃止された。

見る 明治と華族令

萩の乱

萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9年)に山口県の萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。 1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も当時13歳で反乱に参加している。

見る 明治と萩の乱

萬朝報

『萬朝報』(よろずちょうほう)は、かつて存在した日本の日刊新聞。紙名は「よろず重宝」の洒落から来ている。万朝報と新字体で表記されることもある。

見る 明治と萬朝報

非人

非人(ひにん)は、主に、。

見る 明治と非人

非戦論

平民新聞創刊号 非戦論(ひせんろん)とは、戦争および武力による威嚇や武力の行使を否認し、戦争ではない手段・方法によって問題を解決し、目的を達成しようという主張、社会運動である。

見る 明治と非戦論

蝦夷地

近世における蝦夷地(えぞち)とは、松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島、およびサハリン島(樺太島)や千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。大部分はアイヌの居住地であったが、他所から移り住む和人も存在した。またサハリン島では樺太アイヌ以外にウィルタやニヴフも居住していた。1869年に北海道の名称が定められると用いられなくなった。

見る 明治と蝦夷地

革新倶楽部

革新倶楽部(かくしんくらぶ、)は、日本の帝国議会における大正時代の政党である。

見る 明治と革新倶楽部

青木周蔵

青木 周蔵(あおき しゅうぞう、、1844年3月3日〈天保15年1月15日〉 - 1914年〈大正3年〉2月16日)は、明治・大正期の日本の外交官、政治家。栄典は贈正二位贈勲一等子爵。

見る 明治と青木周蔵

領域 (国家)

領域(りょういき)は、国家の主権下にある区域である「領域」、『国際法辞典』、339頁。。国家領域(こっかりょういき)ともいわれる。国家の3要素のひとつであり、領土、領水、領空からなる。これらのうちで最も基本的なものは領土であり、単に領域といった場合には領土のことを指す場合もある。天然資源の開発などについて主権的権利が及ぶ大陸棚や排他的経済水域は領域に準ずるものではあるが、こうした主権的権利は主権に付随して認められる権利であって、主権そのものではない「主権的権利」、『国際法辞典』、178頁。。

見る 明治と領域 (国家)

領事裁判権

領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、外国人がその在留国において本国の領事による裁判を受ける権利をいう。日本が江戸時代に締結した不平等条約などにみられる。 例 日本で外国人が殺人をしたが日本人が裁くのではなくその外国人の国の人が裁く。つまり被告人に対し罪が軽くなる場合がある。

見る 明治と領事裁判権

行幸

第18回都市対抗野球大会開幕式における昭和天皇、香淳皇后、三笠宮崇仁親王の行幸啓(1947年8月3日) 行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が居所から外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸という。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)という場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。

見る 明治と行幸

行政

行政(ぎょうせい、Administration)とは、国家の統治作用のうち、立法・司法を除いた作用の総称であり、以下を指す。 1. 法律に従って国を治めること。 2. 国の機関または地方公共団体が法律・政令の範囲内で行う政務。

見る 明治と行政

行政機関

行政機関(ぎょうせいきかん)とは、行政権の行使にたずさわる国や地方の機関をいう。立法機関(立法府)、司法機関(裁判所)と対比される。

見る 明治と行政機関

衆議院

衆議院(しゅうぎいん、House of Representatives)は、日本の立法府たる国会(両院制)の議院のひとつである(日本国憲法第42条)。 帝国憲法施行後の1890年(明治23年)11月29日に帝国議会の下院として設立された議院であり、上院の貴族院とともに帝国議会を構成していた。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行後は国会の下院として再編され、上院の参議院(さんぎいん)とともに国会を構成している。

見る 明治と衆議院

血税一揆

血税一揆(けつぜいいっき)とは、新政反対一揆のひとつであり、主に1873年(明治6年)に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。徴兵令反対一揆ともよばれる。

見る 明治と血税一揆

裁判官

裁判官(さいばんかん)とは、司法権を行使して裁判を行う官職にある者をいう。 各国の訴訟法制に応じて裁判官の職掌は定まり、陪審制を採用している国などでは事実認定について裁判官が担当しないことがあることから、裁判官を法廷における審理を主宰する者として位置づけることがより妥当な場合もある。 裁判官の心証は裁判手続きにおいてその判断に大きな意義を有しているが、多くの裁判官はそれらの手続きの際に「スジ」や「スワリ」という概念を用いており、それは裁判官集団の中から、実務を通じてその集団特有のものとして歴史的に自生してきた概念である。それは法律家集団の中でも特に裁判官集団の専門性を特徴づける。

見る 明治と裁判官

裁判所

は、裁判官によって構成され司法権を行使する国家機関、及びその庁舎を指す。日本語の「裁判所」は、1890年に公布された裁判所構成法(明治23年法律第6号)から一般的な呼称になった。法院とも言う。

見る 明治と裁判所

製鉄所

製鉄所(せいてつじょ・せいてつしょ)とは、製鉄を行い鉄鋼製品を作る一連の設備がまとまって存在する工場のことである。 本稿では、その中でも日本の鉄鋼業の主流である、鉄鉱石から鉄を取り出すところから最終製品の製造までを一つの敷地内で行う(間接製鋼法による)銑鋼一貫製鉄所を取り上げる。 日本における事実上の銑鋼一貫製鉄所は、日本製鉄7(室蘭・鹿島・君津・名古屋・和歌山・八幡・大分)、JFEスチール6(千葉・京浜・倉敷・福山・知多・仙台)、神戸製鋼所1(神戸・加古川)の14か所である(2019年現在)。 日本初の銑鋼一貫製鉄所としては一般的に北九州の官営八幡製鐵所(1901年(明治34年)操業開始)が挙げられるが、操業当初には生産が不安定で、開始の翌年から2年間稼動が停止(1904年まで)されている。一方、民間では岩手県の釜石鉱山田中製鉄所(1887年(明治20年)創業)が1903年(明治36年)より銑鋼一貫製鉄所となって稼動しているので、こちらの方が時期的に早い。

見る 明治と製鉄所

飛脚

飛脚(ひきゃく)は、信書や金銭、為替、貨物などを輸送する職業またはその職に従事する人のことである。佐川急便の商標でもある。単純な使い走りとは違い、事業が組織化されているのが特徴である。

見る 明治と飛脚

西南戦争

西南戦争/西南の役(せいなんせんそう/せいなんのえき)は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。

見る 明治と西南戦争

西周 (啓蒙家)

西周 は、日本の啓蒙思想家、西洋哲学者。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。西 周助とも。

見る 明治と西周 (啓蒙家)

西郷従道

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家。最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている佐々木隆(2002)p.96。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。

見る 明治と西郷従道

西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。

見る 明治と西郷隆盛

西暦

とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す1582年10月4日まではユリウス暦による紀年法を指す。。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。

見る 明治と西暦

西洋

西洋(せいよう、、Occident(オクシデント))は、東洋(the East, Orient、オリエント)の対概念。歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたる二つの文化圏が存在し、現代日本語では二つの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。 日本語では洋が西洋の略語として使われており、明治頃には、洋式・洋風とは西洋の方式および西洋風を意味し、洋画、洋風建築、洋式トイレ、和洋折衷、洋服、洋傘、洋食、洋楽などの語句が広く使われるようになった。中国語圏でも:zh:洋服、:zh:洋葱(タマネギ)、:zh:洋酒など洋に西洋の意味を持たせている熟語もあるが、日本語の洋式にあたる中国語は西式である。

見る 明治と西洋

西洋事情

『西洋事情』(せいようじじょう、)は、福沢諭吉が幕末から明治にかけて著した書物。地理書などの翻訳や調査などを通して、西洋社会の最新事情を紹介した概説書である。初編3冊、外編3冊、二編4冊の10冊からなる。

見る 明治と西洋事情

西日本旅客鉄道

西日本旅客鉄道株式会社ロゴの「鉄」の字は、金を失うという意味を避けるため「金偏に矢」という「鉃」の文字を使い、「西日本旅客鉃道株式会社」と表記している。ただし、登記上の商号は常用漢字の「鉄」の字を用いている。また、四国旅客鉄道以外のJR各社もロゴタイプで同様に表記している。 (インターネットアーカイブ)も参照。(にしにほんりょかくてつどう、)は西日本を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道(国鉄)から大阪・天王寺・福知山・岡山・米子・広島・金沢の各鉄道管理局民営化後に移管された各鉄道管理局は、阪奈支社、金沢支社などのように「支社」として残っている。

見る 明治と西日本旅客鉄道

親藩

は、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。

見る 明治と親藩

親政

親政(しんせい)とは、君主(天皇・皇帝・国王など)自身が「親(みずか)ら政治を行うこと」、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。

見る 明治と親政

馬車

馬車(ばしゃ)とは、人を乗せたり、荷物を運搬したりする、馬などに引かせる車である。ウマだけでなく、ロバやラバなどに引かせることもある。 現在は世界的に自動車にとって代わられつつあるが、農業の機械化が進展していない国や地域の農村部では、現在でも荷馬車を日常的に見ることができる。

見る 明治と馬車

香川県

香川県(かがわけん)は、日本の四国地方に位置する県。県庁所在地は高松市。 令制国の讃岐国に当たる。県名は旧讃岐国のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡である香川郡から採られた。面積は47都道府県で一番小さく、1945年~72年にかけてアメリカの統治下であった沖縄県を除くと最も遅く成立した県である。都市の利便性と豊かな自然が調和した生活環境を持つかがわ暮らしガイドブック(香川県発行)。

見る 明治と香川県

解放令

穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス(えたひにんのしょうをはいしみぶんしょくぎょうともへいみんどうようとす)は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。

見る 明治と解放令

駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。明治時代に再設置され、府藩県三治制により明治2年8月7日(1869年9月12日)に静岡藩(しずおかはん)となった。

見る 明治と駿府藩

駿河

駿河(するが)。

見る 明治と駿河

詔(しょう/みことのり)は、天子(皇帝・天皇)の命令、またはその命令を直接に伝える国家の公文書。特にこの文書形式のものを詔書(しょうしょ)(英:Imperial edict)と称する。主として、古来より国家・朝廷の大事に際し、広く一般に天皇の意思を伝達するために発布された。御言宣(みことのり)、大御言(おおみこと)とも。

見る 明治と詔

誕生日

誕生日(たんじょうび)は、特定の人の生まれた日、あるいは、毎年迎える誕生の記念日のこと。派生的に、動物・物・サービスなどにも用いる場合がある。「○年○月○日」のような「年」の部分をつけてある特定の人などの誕生の日を示すこともあれば、単に「○月○日」のみで記念日を示すこともある。前者の「○年○月○日」の用法は、生年月日(せいねんがっぴ)と同義。 一般に、人は誕生日を迎えると1歳年齢を加えるものと考えられているが、法的な基準とは若干異なる(後述)。対義語は命日。

見る 明治と誕生日

、あるいはは、漢字文化圏において、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

見る 明治と諡

諸生党

諸生党(しょせいとう)は、水戸藩の保守・門閥派。幕末に家老市川弘美(三左衛門)らを中心に、藩内で改革派・天狗党と激しい抗争を繰り広げた。市川派あるいは諸生派とも呼ばれた。当時水戸城三ノ丸にあった藩校、弘道館の諸生(書生)が多かったためこの名がある。

見る 明治と諸生党

高知県

高知県(こうちけん)は、日本の四国地方に位置する県。県庁所在地は高知市。

見る 明治と高知県

高札

高札(こうさつ・たかふだ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である。なお、特定の相手や事柄を対象として制定された法令(特別法)を記した同様の掲示を制札(せいさつ)と呼ぶが、その実際の運用上は厳密に区別されていたとは言い難いので、高札には制札も含む。 木製の板札に墨書きで表題・本文・年月日・発行主体が書かれ、往来が盛んで人々の目をひきやすい場所、たとえば市街中心の辻、出入口、橋の、関所などに高く掲げられた。

見る 明治と高札

警視庁 (内務省)

鍛冶橋第一次庁舎(旧津山藩江戸藩邸)。1874年(明治7年)1月15日から1882年(明治15年)12月4日まで使用。 1877年(明治10年)1月11日から1881年(明治14年)1月14日まで、内務省警視局「東京警視本署」に改編された。庁舎はそのまま使用。 鍛冶橋第二次庁舎。1882年(明治15年)12月4日から1911年(明治44年)3月30日まで使用。 日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月30日から1923年(大正12年)9月1日まで使用。 関東大震災による火災で炎上する日比谷赤煉瓦庁舎。1923年(大正12年)9月1日。 関東大震災後の仮庁舎。1930年(昭和5年)。 警視庁(けいしちょう、)は、1874年(明治7年)から1948年(昭和23年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。

見る 明治と警視庁 (内務省)

議奏

議奏(ぎそう)とは、。

見る 明治と議奏

議定

議定(ぎじょう)は、明治時代初期に置かれた明治政府の官職。 王政復古(慶応3年12月9日(1868年1月3日))の際に総裁・議定・参与の三職が設置された。議定には仁和寺宮純仁親王・中山忠能・松平慶永・島津茂久・徳川慶勝・山内豊信・山階宮晃親王・正親町三条実愛・中御門経之・浅野長勲の10名が任じられ、その後岩倉具視・三条実美・伊達宗城・長谷信篤の4名が追加された。 翌年1月に三職七科制が導入されると、議定には皇族・公卿・諸侯が任命され、七科を分督して議事を決する職とされ各科の事務総督は議定が兼ね、最大31名まで増員した。更に4月に政体書に基づく職制に移行し、議定は議政官上局に移されて、法律の制定、条約の締結、和戦の宣告、三等官以上の人事を司った。また、議定であった三条実美と岩倉具視が行政官の長である輔相(定員2名)を兼務した。9月に一旦議定は行政官に属するものとされたが、翌1869年(明治2年)4月に上局に戻されるなど複雑な変遷を遂げる。

見る 明治と議定

議定官

議定官(ぎじょうかん)は、内閣の賞勲局に設けられた賞勲会議を組織する官職。 勲位・勲章・年金の授与・剥奪の当否を論じた。

見る 明治と議定官

議員

議場に集まった国会議員 議員(ぎいん、legislator)とは、国や地方自治に設置されている議会を構成し、表決権を行使することを通じて有権者の意思を反映させることのできる立場にある者を指す。 現代の議員の選出は原則として公選制であり、その国の法律で定めるところの選挙権を有する有権者からの投票によって選出される。なお、日本の公職選挙法第10条において、被選挙権は日本国民が有するものと定められている。

見る 明治と議員

議院内閣制

議院内閣制(ぎいんないかくせい、parliamentary government/cabinet system)とは、行政府の主体たる内閣を議会(特に下院)の信任によって存立させる政治制度。

見る 明治と議院内閣制

護憲運動

護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次護憲運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。

見る 明治と護憲運動

譜第

譜第、譜代(ふだい)は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。なお、中世以後には譜代という表記も用いられた。なお、『令集解』職員令治部省条には『古記』を引用して、“譜第”を「天下人民の本姓の札名(ふだな)也」と定義している。

見る 明治と譜第

讒謗律

讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28日太政官布告第110号)は、明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告。板垣退助らによって制定された。

見る 明治と讒謗律

谷干城

谷 干城(たに たてき / たに かんじょう、1837年3月18日〈天保8年2月12日〉- 1911年〈明治44年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。

見る 明治と谷干城

財閥

財閥(ざいばつ、, 〈金融派閥〉)は、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態。

見る 明治と財閥

財政

財政(ざいせい、public finance)とは、国家や地方公共団体がその任務(「資源配分機能」と「所得再分配機能」と「経済の安定化機能」の三つをしっかりと持続的に果たす事)を遂行するために営む経済行動で、総体収入の取得のための権力作用と、取得した財・役務の管理・経営のための管理作用とがある。これらの現象を学ぶ学問が財政学である。

見る 明治と財政

貢士

貢士(こうし、満洲語:、sonjosi)は、中国の人材登用に関する称号の一つ。時代によって概念が異なる。 周代では諸侯が天子に推薦した士のことを指した。漢代では封国や郡県が推挙した孝廉を指し、唐代・宋代では州や府で行われる試験のことを郷貢といい、合格者を郷貢士といった。 明・清代では会試に合格した者を貢士と呼ぶようになった。貢士のなかで第一等の者を「会元」、10位までの者を「元魁」、11位から20位までの者を「会魁」と称した。 貢士は最終的に殿試で順位が決定し進士となるが、北宋からは殿試で貢士を落第させることがない慣例になったため、一般に会試に合格するとすぐに進士と称された。

見る 明治と貢士

貨幣法

貨幣法(かへいほう、明治30年3月29日法律第16号)は、戦前の日本で、金本位制を基本とした、貨幣の製造および発行に関する事項を定めた法律である。1897年(明治30年)3月29日公布、同年10月1日施行。 この法律は通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行に伴い、1988年(昭和63年)3月末を以て廃止された。すなわちこの時点で、貨幣法により規定された本位貨幣の金貨が廃止となった。

見る 明治と貨幣法

貴族院 (日本)

貴族院(きぞくいん、House of Peers)は、明治憲法下の日本において帝国議会を構成した上院。1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月3日まで設置されていた。貴院と略称された。両院制(二院制)である帝国議会の一翼を担い、下院にあたる衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が有していた。 貴族院令に基づき皇族議員、華族議員及び勅任議員によって構成され、解散はなく、議員任期は7年の者と終身任期の者があった。全議員が非公選であるが、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により、華族制度と同時に廃止され、国会の上院として参議院(さんぎいん)が設立された。参議院は解散せず、任期6年の3年毎の半数の改選による通常選挙で、総選挙による衆議院議員の選出と同様、全員公選の議員により構成されることになり、皇族が議員の職に就くことはなくなり、終身任期制・勅任議員職が廃止された。

見る 明治と貴族院 (日本)

貿易

貿易(ぼうえき、international trade、trade)とは、ある国(またはそれに準ずる地域)と別の国(同)との間で行われる商品の売買。商品を外国に対して送り出す取引を輸出、外国から導入する取引を輸入という。通常は、形のある商品(財貨)の取引を指すが、サービス貿易や技術貿易のように無形物の取引を含める場合もある。

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賞典禄

賞典禄(しょうてんろく)は、明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。支給期間によって永世禄、終身禄および年限禄の3種に分類される。

見る 明治と賞典禄

賢所

賢所(かしこどころ、けんしょ)とは、日本の天皇が居住する宮中において、三種の神器の一つであり、天照大神の御霊代(神体)とする神鏡(八咫鏡)を祀る場所。現在の皇居においては宮中三殿の一つである。

見る 明治と賢所

賤民

賤民(賎民、せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指す。

見る 明治と賤民

鳥尾小弥太

鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日(1848年1月10日) - 明治38年(1905年)4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。

見る 明治と鳥尾小弥太

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

見る 明治と越後国

足尾鉱毒事件

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件である。 足尾銅山の精錬所から出た排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり、国に問題提起するものの、加害者決定はされなかった。 1972年(昭和47年)3月31日、板橋明治を筆頭代理人とした群馬県太田市毛里田地区(旧・山田郡毛里田村)の被害農民(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)971名が、古河鉱業株式会社(現:古河機械金属株式会社)を相手とし、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴。2年後の1974年(昭和49年)5月11日、調停(銅等の重金属汚染・土地改良事業・損害補償・自治体との公害防止協定など)を成立させた。「100年公害」と言われたこの事件の加害者をついに古河鉱業と断定、加害責任を認めさせるという歴史的な日となった。 足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。

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践祚

践祚(せんそ、)とは、天子の位を受け継ぐことであり、先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは足で踏むこと、転じてその地位を踏むこと、「阼」は祭祀の際に主人が登る東側の階(きざはし)すなわち阼階(そかい)のこと、また天子の即位の祭りを行う際に登る東方の階。天皇が践祚(せんそ)の後、帝位についたことを天下万民に告げる儀式を即位という。先帝譲位と崩御の両方を含むのが本来の意味であり、古くは即位とも同義に用いられた小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)「践祚」杉本一樹。

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鹿児島城

1873年以前に撮影された御楼門 鹿児島城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 石垣と水堀 鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山町(薩摩国鹿児島郡城山麓)にあった江戸時代の日本の城。別名鶴丸城(つるまるじょう)。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。 1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は鹿児島市。 九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。

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鹿鳴館

鹿鳴館(ろくめいかん、)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。 国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する目的があったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1941年(昭和16年)に取り壊された。

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麝香間祗候

麝香間祗候(じゃこうのましこう)は、明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格。職制・俸給等はない名誉職。宮中席次等では勅任官に準じた待遇を受けた。下位に錦鶏間祗候がある。

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軍人勅諭

『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ、)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍軍人に下賜した勅諭である。正式名称は、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(りくかいぐんぐんじんにたまわりたるちょくゆ)。漢文が一般的だった当時の勅語としては珍しく、平仮名交じりの平易な文になっている。

見る 明治と軍人勅諭

軍令部

1930年代の海軍省及び軍令部。 軍令部(ぐんれいぶ)は、大日本帝国海軍の軍令機関。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。旧正式名称は海軍軍令部(かいぐんぐんれいぶ)。

見る 明治と軍令部

軍務官

軍務官(ぐんむかん)とは、新政府の軍事防衛を司った機関である。1869年(明治2年)、兵部省に改組された。この項では軍務官に至る新政府初期の軍事防衛担当部門の変遷を含めて記述する。

見る 明治と軍務官

黒田清隆

黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆󠄁」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆󠄁」ないし「黑田淸隆󠄁」である。、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。

見る 明治と黒田清隆

黒船

ナオ。黒色で塗られているため黒船と呼ばれた 黒船(くろふね)は、大型の西洋式航洋船のことで、語としては江戸時代の前から近世の日本で用いられた。

見る 明治と黒船

農地

農地(のうち、)とは、一般的には耕作の目的に供される土地のこと。国際的な統計では農業地域(農地)は耕作地と永年草地・放牧地の総称をいう。農林統計上使われる用語としては、耕地と呼ばれる。

見る 明治と農地

農民

解放された。 農民 (のうみん、英語: peasant)は、農業労働者、特に中世封建社会・前工業社会において、領主に年貢や地代、その他さまざまな税や労働を提供していた人々を指す。日本史上,ヨーロッパ史上の農民は、その人間の地位によって、完全に領主の個人的資産として扱われた農業奴隷、家庭や住居、農具など最低限の財産所有権はあるものの土地と領主に縛られ隷属する小作人,農奴、自ら土地を所有し農業事業の自営が可能な独立自営農民の3階級に分けられる。さらに細かく見れば、農民の地位は土地保有権、免役地代、借地権、謄本土地保有権など様々な義務と権利で規定された。 長きにわたり、農民(peasant)という語は、貧しく土地を持たない農業従事者に対して、「無学な」、「無知な」、「都会の洗練からは程遠い」などといった意を含んで軽蔑的に用いられてきた。また現代においても、開発途上国で人口の大部分を占めるような農業従事者に対して若干侮蔑的なニュアンスを含んで使われることがある。

見る 明治と農民

辛卯

辛卯(かのとう、しんきんのうさぎ、しんきんのう、しんぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの28番目で、前は庚寅、次は壬辰である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の卯は陰の木で、相剋(金剋木)である。

見る 明治と辛卯

辛巳

辛巳(かのとみ、しんきんのみ、しんし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの18番目で、前は庚辰、次は壬午である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の巳は陰の火で、相剋(火剋金)である。

見る 明治と辛巳

辛丑

辛丑(かのとうし、しんきんのうし、しんちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの38番目で、前は庚子、次は壬寅である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の丑は陰の土で、相生(土生金)である。

見る 明治と辛丑

辛亥

辛亥(かのとい、しんきんのいのしし、しんがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの48番目で、前は庚戌、次は壬子である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の亥は陰の水で、相生(金生水)である。

見る 明治と辛亥

辛未

辛未(かのとひつじ、しんきんのひつじ、しんび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの8番目で、前は庚午、次は壬申である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の未は陰の土で、相生(土生金)である。

見る 明治と辛未

近代

近代(きんだい、〈モダン・ピリオド〉, 〈モダン・タイムス〉, 〈モダン・エイジ〉)とは、現代に近い時代(時代区分)、または現代。広義には「近世」と同義だが、一般的には封建主義時代(近世)より後の資本主義社会・市民社会の時代を指す。

見る 明治と近代

近代化

近代化(きんだいか)またはモダナイゼーションとは、封建的なものを排除して物事を科学化・合理化していくことであり、具体的には産業化・資本主義化・民主化などがある。「近代」は一般的には、封建的時代より後の資本主義社会・市民社会の時代。

見る 明治と近代化

近衛 (日本軍)

近衛(このえ)は、1872年に従来の御親兵を改組して設置された日本陸軍の近衛部隊の名称。当初は「近衛局」と呼称。

見る 明治と近衛 (日本軍)

近衛兵

近衛兵(このえへい)や近衛(このえ)()とは、君主を護衛(警護)する(君主直属の)軍人・軍団や、直属の護衛のこと。また広義には大統領などを警護する役割の兵や部隊もこう呼ぶ。 本記事では、君主に限らず、国家元首の身辺警護を行う役割についても解説する。 歴史的なことを中心に説明するので、軍か警察かの区別は明確ではない場合も多いので、その場合あまり区別せずに解説する。

見る 明治と近衛兵

郡区町村編制法

郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう、明治11年7月22日太政官布告第17号)は、1878年(明治11年)7月22日に制定された、日本の地方制度に関する太政官布告である。

見る 明治と郡区町村編制法

郡制

郡制(ぐんせい、明治32年3月16日法律第65号)は、日本における府県と町村との間に位置する郡を地方自治体として定めた制度であり、また、その制度を規定した法律である。明治期から大正期にかけて実施された。最初の法律は、1890年(明治23年)5月17日に公布され(明治23年5月17日法律第36号)、後に全部改正された。

見る 明治と郡制

部落問題

部落問題(ぶらくもんだい)は、明治より前の主として江戸時代における厳しい身分制度の下で下に置かれ差別された身分の人々、さらには、それらの人々が身分制社会の下ではしばしば一定地域に居住することが義務付けられていた為そういった地域の出身者に対する差別あるいはそれを基に発生する諸問題である。「同胞融和(どうほうゆうわ)」から略して、同和問題(どうわもんだい)とも称される。同和利権問題や差別自演事件らも含まれる。

見る 明治と部落問題

郵便

郵便(ゆうびん)とは、郵便物を送達する(送り届ける、郵送(ゆうそう))制度のことである。また、郵便物のこと。 250px日本の郵便配達の様子。

見る 明治と郵便

舞踏会

ウィリアム・ホガース、『舞踏会』、1745年 フランツ・ヨーゼフ1世の周囲に貴族たちが集まる 舞踏会(ぶとうかい、ball, Bal, Tanzball)は西洋における正式なダンスパーティーである。英語の「ball」はこうした舞踏会で踊られる正式なダンス(ボールルームダンス・社交ダンス、民衆のダンスであるフォークダンスとは対をなす)のことも指す。この語はラテン語で「踊る」を意味する「ballare」に由来している(スペイン語やポルトガル語では「ballare」は「bailar」に変化している)。 宮廷で催される舞踏会を宮廷舞踏会という。17世紀から18世紀にかけて、宮廷舞踏会はヨーロッパ諸国の宮廷で典礼、儀式などの機会に開催された。こうした場でのダンスは社交界に必須のものとしてイギリスで社交ダンスとして大成された。

見る 明治と舞踏会

蘇州市

蘇州市(そしゅうし、、、)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。 古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。 蘇州で話されている蘇州語(蘇州方言/蘇州話)は、北部呉語を代表する方言と考えられていたが、現在は上海語にその座を譲っている。蘇州方言と上海方言とでは、異なる語彙や発音があるが、しばらく会話すれば意志の疎通に大きな支障はなくなる。但し、学校での普通話(標準語/共通語)一辺倒による教育により、上海語の事例同様、若者は蘇州語を話せなくなってきている。その問題に対し、学校・教育側は方言の授業を設ける等を検討している。また、上海に比べ方言(蘇州語)によるTV番組が多く見られる。

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赤旗事件

赤旗事件(せっきじけん/あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」「錦輝館赤旗事件(きんきかんせっきじけん)」とも言う。

見る 明治と赤旗事件

閏年

閏年のポケットカレンダー。2024年2月29日がある。 1900年2月のカレンダー。西暦年が100で割り切れるが400では割り切れないため、1900年は平年となる(詳細は本文参照)。 閏年(うるうどし、じゅんねん、、)とは、閏のある年である。これに対し、閏年ではない年を平年(へいねん、)と呼ぶ。 閏年は、太陰太陽暦では、月の運行を基準にしていることで生じる季節(太陽の運行)とのずれを補正するために、平年より暦月が一つ多く、太陽暦では季節(天動説では太陽の運行)と暦のずれとを、太陰暦では月の運行とのずれを補正するために、平年より暦日が一つ多い。その追加された日や月を閏月・閏日、総称して閏と呼ぶこれに対し、「閏年」は「閏(つまり閏月や閏日)のある年」のことであって「追加された年」のことではないし、そもそも「平年の間に年が1年追加される」ということも行われない。

見る 明治と閏年

関税自主権

関税自主権(かんぜいじしゅけん)とは、国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。一般に関税自主権が話題にあがる時は、関税自主権がない事について述べられることが多いが、一般にここでいう「関税自主権がない」とは他国が勝手に税率を設定できることを指すのではなく、税率の改定に他国との交渉を必要とする状態を指す(協定税率)。 日本史においては、江戸幕府末期に諸外国と結ばれた不平等条約に関する話題として関税自主権が取り上げられることが多い。 現在の日本は世界貿易機関(WTO)協定に基づきほとんど品目について協定税率を設定しているが、この状態を捉えて「関税自主権がない」とはいわれない。これは不平等条約における関税自主権の喪失は、片務的であったが、現在の協定税率は相手国の交渉に基づき互恵的(相手国も義務を負う)に設定されているからである。

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関白

関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が就きうる最高の職位であった。敬称は殿下。

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関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。

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関東州

満洲国成立後の満洲の鉄道。赤の部分が関東州時代からの南満洲鉄道 関東州(かんとうしゅう、)は、日露戦争の講和条約ポーツマス条約に基づき、ロシアから日本が引き継いだ租借地である。1905年12月の日本と清朝の間で締結された満洲善後条約から1945年8月のソ連による占領までの期間、日本は同地の租借を続けた。現在の中華人民共和国遼寧省大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。

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関東都督府

関東都督府(かんとうととくふ、)は、大日本帝国時代の日本の機関。遼東半島先端部の関東州を統治する任務を帯びた。

見る 明治と関東都督府

薩長

薩長(さっちょう)は、薩摩藩と長州藩の略称である。 当初公武合体を掲げてきた薩摩藩と尊王攘夷を掲げてきた長州藩は禁門の変などで激しく対立していたが、坂本龍馬、中岡慎太郎らの周旋で1866年に薩長同盟が締結、薩摩藩は江戸幕府による長州征伐から離脱した。明治新政府の要職や陸海軍の幹部には薩長出身者が多く占めていた。

見る 明治と薩長

薩長土

薩長土(さっちょうど)は、幕末期、「雄藩」と呼ばれ、多くの志士を輩出し、明治維新の原動力となった薩摩藩、長州藩、土佐藩の「勤皇三藩」の総称、あるいは、この3藩出身の志士たちの総称。戊辰戦争の頃から肥前藩を加え、「薩長土肥」と呼ばれる明治の主要政治勢力の母体となった。

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薩長土肥

薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。西海道と南海道の有力諸藩で「西南雄藩」。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治政府に人材を供給させた。

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。

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閔妃

閔妃(びんひ、ミンビ、ミンピ、1851年11月17日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも称される。本貫は驪興閔氏。本名は閔 玆暎(びん じえい、ミン・ジャヨン、민자영)。尊号は孝慈元聖正化合天 、諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后。仁顕王后の兄・閔鎮厚の5代孫。 国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言依存と閔氏一族を中心に反対派を糾合し、親族を政府の要職に登用する勢道政治を行ったことで、官吏の汚職が蔓延・国庫の浪費もしたため、義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた。

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開陽丸

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型フリゲート。 江戸幕府大老井伊直弼の意思を継いだ老中安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で、オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ入港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが柏倉p.9、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。 1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した柏倉p.1。大砲やシャフト等の遺構から古文書まで3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。

見る 明治と開陽丸

開拓使

開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。 樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県、函館県、根室県が設立された。

見る 明治と開拓使

開拓使官有物払下げ事件

黒田清隆 開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)は、北海道開拓使長官であった黒田清隆が、開拓使の資産であった工場や土地などの官有物を安価、無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。参議大隈重信が情報を漏洩したとして政府から追放される明治十四年の政変のきっかけとなったとされる。

見る 明治と開拓使官有物払下げ事件

藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。

見る 明治と藩

藩閥

藩閥(はんばつ)とは、明治時代を通じて日本の政府や陸海軍の要職をほぼ独占していた「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身の有力者によって形成されていた概念的な寡頭制に対する批判的な呼称。西洋言語では「明治寡頭制」(Meiji oligarchy、Oligarchie de Meiji、Meiji Oligarchie)と訳される。

見る 明治と藩閥

藩札

備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。 藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。以下では、狭義の「各藩が発行した藩札(大名札)」を中心に述べるが、実際上は、旗本が発行した旗本札、寺社が発行した寺社札、宮家が発行した宮家札、地域で発行した町村札、私人が発行した私人札なども、広義の藩札として取り扱われることも多い。

見る 明治と藩札

重工業

重工業(じゅうこうぎょう)とは以下の要素のいくつかを含む製造を行う産業である: 1) 大型で重い機器および設備 (重機、大型工作機械、巨大な建築物、大規模なインフラストラクチャなど) 2) 複雑なプロセスを伴う 3) 多数のプロセスを伴う。 これらの要因により、重工業は軽工業よりも資本集約度が高く、投資と雇用の循環がより激しくなることがある。 重工業は、経済発展と工業化にとって重要だが、重大な負の副作用をもたらす可能性もある。重工業は空気と水の両方を汚染する副産物を生成する傾向があり、地域社会と労働者の両方が頻繁に健康上のリスクにさらされる。また産業サプライチェーンとしての鉱業や輸送も環境問題に関与している。 重工業は気候変動の原因となる温室効果ガスも多く排出しており、特に金属加工やセメント生産で使用される高熱プロセスは脱炭素化が困難である。 鉱業は化学的に分解できない重金属の汚染をもたらし、環境に非常に有害である。

見る 明治と重工業

重慶市

重慶市(じゅうけいし、チョンチンし、、、)は、中華人民共和国の直轄市。長江の上流地域経済の中心であり、西南圏総合交通拠点である。 人口は約3,205万人で、単独の市域では世界最多の人口である。2017年の都市圏人口は1962.66万人のメガシティである。 略称は渝で、重慶市内にある嘉陵江の古称「渝水」を由来とする。2019年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第105位の都市と評価されている。

見る 明治と重慶市

臣民

臣民(しんみん、英:subject  独:Untertan)は、君主国において、君主に支配される者としての人民を指す語『世界大百科事典』(1988年版)(平凡社)「臣民」の項目。

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臥薪嘗胆

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)は、復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王勾践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来、臥薪嘗胆』(11世紀後半に成立)に求められる。明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。

見る 明治と臥薪嘗胆

自由党 (日本 1881-1884)

自由党(じゆうとう)とは、1881年に板垣退助らが結成した、日本最初の近代政党。1884年に急進派の行動を抑えきる事が出来ず解散した。

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自由党 (日本 1890-1898)

自由党(じゆうとう)は、明治時代の日本の政党。結党時の党名は立憲自由党(りっけんじゆうとう)。

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自由民権運動

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう、、)とは、明治時代の日本において行われた、憲法制定や国会開設のための政治運動ならびに社会運動である。

見る 明治と自由民権運動

釜山広域市

釜山広域市(プサンこういきし、ふざん こういきし、부산광역시 Busan Metropolitan City)は、大韓民国南東部に位置する広域市。 ソウルに次ぐ韓国第2の都市であり、古来より日本と朝鮮半島を結ぶ交通の要衝として知られる。コンテナ取扱量で世界7位の釜山港を有する大規模港湾都市でもある。

見る 明治と釜山広域市

金子堅太郎

金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853年3月13日〉 - 1942年〈昭和17年〉5月16日)は、日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵。

見る 明治と金子堅太郎

金禄公債

金禄公債(きんろくこうさい)は、明治維新で、秩禄処分の一環として、禄制の廃止により強制的に禄を廃止したすべての華族・士族にその代償として交付された公債である。数年前に、自主的に禄を返上したものに交付された秩禄公債とは異なる。

見る 明治と金禄公債

金本位制

金本位制(きんほんいせい、)とは、狭義には、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度であり、広義には、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額を表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、これを法定金平価という日本では1871年、新貨条例が定められ、この時金平価は1円。

見る 明治と金本位制

長岡城

長岡城(ながおかじょう)は、越後国古志郡長岡 (現:新潟県長岡市)にあった日本の城。

見る 明治と長岡城

長崎県

長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから海岸線の長さは47都道府県中第2位となっている(※「地形」節にて詳説)。

見る 明治と長崎県

長州

長州(ちょうしゅう);日本。

見る 明治と長州

長州藩

長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。版籍奉還後の名は、山口藩。 現在の山口県に相当する。 萩城址。

見る 明治と長州藩

長享

は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1489年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。

見る 明治と長享

長春市

長春市(ちょうしゅん-し/チャンチュン-し、、、)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。総人口約909万人(2022年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっている。住民は漢族、満族、朝鮮族、回族、モンゴル族、シベ族など38の民族から構成される。

見る 明治と長春市

酒井忠邦

酒井 忠邦(さかい ただくに)は、江戸末期の大名、明治前期の日本の華族。位階は従三位。 雅楽頭系酒井家23代当主で、播磨姫路藩の第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。

見る 明治と酒井忠邦

鉱山

鉱山(こうざん)とは、資源として有用な鉱物の試掘や採掘、さらに鉱物の選鉱や製錬などの鉱業活動を行う事業場。

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鉄道

地下に敷設されたレールを走る地下鉄(写真は最古の地下鉄、ロンドン地下鉄) 鉄道(てつどう、 )とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関であるデジタル大辞泉「鉄道」。

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鉄道国有法

は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。 1906年(明治39年)3月31日公布、1920年(大正9年)8月5日改正。1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法(昭和61年法律第93号)第110条の規定により日本国有鉄道法と共に廃止。 これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。 国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円(当時)に達した日露戦争費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた。

見る 明治と鉄道国有法

若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城。別名鶴ヶ城(つるがじょう)で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城(あいづ わかまつじょう)とも呼ばれる。さらに文献では黒川城(くろかわじょう)や、会津城(あいづじょう)とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡(わかまつじょうせき/わかまつじょうあと)として国の史跡に指定されている。

見る 明治と若松城

雲井龍雄

雲井 龍雄(くもい たつお)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての志士、集議院議員。本名は小島守善(もりよし)。 壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年(1868年)頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。

見る 明治と雲井龍雄

電信

印刷式電信受信機と電鍵(右下) 電鍵と音響器 日本陸軍九五式電信機 電信(でんしん、Electrical telegraph)とは、符号の送受信による電気通信である。有線と無線がある。

見る 明治と電信

集会条例

集会条例は明治13年(1880年)4月に公布された日本の太政官布告。明治23年(1890年)7月25日に集会及政社法により消滅した。

見る 明治と集会条例

集議院

集議院(しゅうぎいん)は、明治政府が設けた国政諮問機関。

見る 明治と集議院

造幣局

とは、硬貨の鋳造や貴金属の品位証明を行う、政府の機関である。

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連署・副署

連署(れんしょ)・副署(ふくしょ)は、別の者が重ねて署名すること、または重ねて署名されたもののことである。2人以上の署名者が同一の文書等に署名を連ねる場合を連署といい、既に署名されている文書等に追記する(副える)別の署名について副署という場合があり、両者ではその署名の意味そのものが異なる場合もある。 署名の認証や検証を目的とする副署では、証人による副署の他、署名者本人による副署もある。

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進歩党 (日本 1896-1898)

進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。

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陰陽五行思想

right 陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。

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陸奥宗光

陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に多大な影響を与え、第2次伊藤内閣の外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した。

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陸軍大学校

陸軍大学校(りくぐんだいがっこう、)は、大日本帝国陸軍の参謀将校養成機関(参謀学校)。略称は陸大(りくだい)。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚課程に相当する。 陸大は参謀本部の管轄であり、陸大卒業生(参謀適格者)の人事も参謀本部の総務部庶務課が行った。期ごとの人数は草創期を除いて50名から60名で推移し、最終期である60期は120名。卒業者は通算で3,007名。 陸軍現役兵科将校(士官候補生に採用され、陸軍士官学校〈陸士〉を卒業して陸軍少尉に任官した者)のうち、陸士同期生の1割程度が陸大に入校できたとされる。 なお、陸軍士官学校は、1937年(昭和12年)に、航空兵将校を養成する陸軍航空士官学校(航士)と、航空兵科以外の兵科将校を養成する陸軍士官学校(名称/略称は変更なし)の2つに分かれたが、本記事では昭和12年以降についても陸士・航士を区別せずに記述する。

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陸軍省

陸軍省(りくぐんしょう)は、かつて存在した日本の中央官庁。旧日本陸軍の軍政を管轄した機関。主任の大臣は陸軍大臣。 1903年(明治36年)以降、1945年(昭和20年) に至るまでの主な附属官庁に航空本部・技術本部・兵器廠・造兵廠・科学研究所・被服廠・糧秣廠などがあり、内局に、大臣官房・人事局・軍務局・整備局・兵器局・経理局・医務局・法務局があった。

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GN (デンマークの企業)

GNあるいはGNグループ(持株会社名GN Store Nord A/S、日本語表記:GNストア・ノール、GNストアー・ノード又はGNストア・ノード)は、デンマーク・コペンハーゲン近郊のBallerupに本社を置き、補聴器およびヘッドセットを中心とする音響機器を製造・販売する企業集団。かつては電気通信事業を手掛け、日本では一般に大北電信会社(たいほくでんしんかいしゃ)と呼ばれていた。

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JR

JR(ジェイアール、)は、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化により1987年に発足した鉄道事業者の統一的総称。6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などから構成される。全体としてJRグループ()とも呼ばれる。 国鉄の英文字略称が「JNR ()」であったことから、「国有」を表すNを除いて「JR」とした、と説明されることもあるが、実際には「NR」(Nは日本。

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暴動

暴動(ぼうどう、riot)とは、多数の市民・民衆が集合的に暴行・脅迫・破壊などの暴力的な活動を行うことである。

見る 明治と暴動

柔道

柔道(じゅうどう / Judo)は、嘉納治五郎が興した日本の武道。日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。オリンピック正式競技にもなっている。日本の国内競技連盟は全日本柔道連盟(AJJF)、国際競技連盟は国際柔道連盟(IJF)。 柔術修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、1882年(明治15年)にその考察から創始した文武の道である。「柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」の柔の理を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した「精力善用」「自他共栄」の原理を完成させる。

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枢密院 (日本)

枢密院(すうみついん、)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮詢機関。憲法および憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関でその性質上「憲法の番人」とも呼ばれた。1888年(明治21年)に大日本帝国憲法草案審議のために創設され、1947年(昭和22年)5月2日、翌日の日本国憲法施行に伴い廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。

見る 明治と枢密院 (日本)

林子平

林子平肖像(大槻磐渓賛) 仙台市龍雲院にある林子平の墓 林 子平(はやし しへい)元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。諱は友直。のちに六無斎主人と号した。 高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月1910年8月まで大韓帝国として存続した。にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。

見る 明治と李氏朝鮮

条約改正

鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画) 日本史における条約改正(じょうやくかいせい、Treaty Revision)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること。また、そのために行った明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす『新版 日本外交史辞典』(1992)では、条約改正を「幕末から明治初年にかけて、日本が欧米諸国と締結した不平等条約を平等条約に締結し直そうと試みた明治政府の一連の外交交渉」と定義している。『国史大辞典』(1986)では「明治政府の締結した北ドイツ連合・オーストリア。

見る 明治と条約改正

来島恒喜

来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 - 1889年〈明治22年〉10月18日)は、日本の右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会・玄洋社元社員。条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画して1889年10月18日に決行におよび、大隈に爆弾を投げつけて右脚切断の重傷を負わせ、自身はその場で自害した。

見る 明治と来島恒喜

杭州市

杭州市(こうしゅう、杭州市、、Hangzhou)は、中華人民共和国浙江省の省都。

見る 明治と杭州市

東久世通禧

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、1834年1月1日 〈天保4年11月22日〉- 1912年〈明治45年〉1月4日『平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。茶人。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。

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東京

21世紀の東京の断片西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷スクランブル交差点/国会議事堂#ギャラリーも参照のこと 東京(とうきょう、Tokyo)は、関東平野の南部に位置し、東京湾に面する都市。日本の首都である大辞泉「東京」東京奠都の曖昧・複雑な経緯を考慮して「日本の事実上の首都」とも。詳細は後述。 「東京」は広域的地方公共団体である東京都を指す場合と、特に東京都区部(東京23区)を指す場合とがある。

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東京大学

東京大学(とうきょうだいがく、)は、東京都文京区に本部を置く日本の国立大学である。略称は東大(とうだい)。

見る 明治と東京大学

東京奠都

東京奠都(とうきょうてんと)とは、明治維新に際して武蔵国江戸が東京に改称(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)され、都(首都)として定められたこと。京都(平安京)との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京に改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に明治天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。遷都と奠都の用語の違いについては後述する(#奠都と遷都の語義)。

見る 明治と東京奠都

東京府

東京府(とうきょうふ)は、かつて存在した日本の府。府庁所在地は東京市麹町区有楽町(現在の千代田区有楽町)。 1868年(明治元年)に武蔵国江戸に江戸府が設置され、ほどなくして東京府に改称されたが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴って、いったん廃止され、周辺地域を含める形で、改めて東京府が設置された。 1880年(明治13年)に伊豆諸島・小笠原諸島が編入され、1889年(明治22年)に15区から成る東京市が設置された。さらに、1893年(明治26年)には神奈川県から三多摩郡が移管された。1932年(昭和7年)に周辺町村の合併で東京市は35区になった。 1943年(昭和18年)に東京都制が施行されて東京府と東京市が統合され、東京都に改組された。

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東京行幸

明治天皇の東京行幸フランスの新聞雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 東京行幸(とうきょう ぎょうこう)とは、明治元年(1868年)と明治2年(1869年)の2回に亘って行われた東京(当時は東亰〈とうけい〉)への行幸である。略して東幸(とうこう)ともいう。当時の表現では東亰行幸(とうけいぎょうこう)。

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東京日日新聞

東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号、および毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。共に略称は「東日」(とうにち)。 前者は現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身である。

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東京時代

東京時代(とうきょうじだい)とは、日本の歴史における時代区分で、1869年(明治2年)の東京奠都に伴い東京(東京都)が事実上の首都となってからの日本を指す呼称として考え出された概念の一つ。

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東征大総督

東征大総督(とうせいだいそうとく)は、旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官である。

見る 明治と東征大総督

東アジア

東アジア(ひがしアジア、East Asia)は、アジアの東部にあたる国々を指す地域区分である。東亜などとも呼ばれる。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、日本列島などを含む。

見る 明治と東アジア

東清鉄道

東清鉄道周辺の路線図 1903-1919年頃の路線図 1900年前後 私有車(寝台車)客室内部。1903-1919年 一等寝台車と食堂車。1903-1919年 東清鉄道(とうしんてつどう)は、ロシア帝国が満洲に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから南下して大連・旅順へと続く支線からなる。後に中東鉄道(ちゅうとうてつどう)に改称された。 東清鉄道は、現在の中国の鉄道路線のうち浜洲線(ハルビン-満洲里)、浜綏線(ハルビン-綏芬河)、哈大線(ハルビン-大連)の各路線に相当する。

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松平春嶽

松平春嶽 松平 春嶽 / 慶永(まつだいら しゅんがく / よしなが、)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代前期にかけての大名、政治家、華族。越前国福井藩16代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。位階・勲等は従一位勲一等。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いた。 第11代将軍・徳川家斉の弟で田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。母は閑院宮家司・木村大進政辰の娘である青松院(れゐ)。松平斉善の養子。第12代将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末の四賢侯の一人と謳われていた。著作に幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』がある。

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松方デフレ

180px 松方デフレ(まつかたデフレ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が1881年(明治14年)より行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも言う。

見る 明治と松方デフレ

松方正義

松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日〈1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年〉7月2日)は、日本の政治家、財政家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。 幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる『板垣退助105回忌に寄せて』衆議院議員・中谷元著(『NPO法人板垣会』会報第11号1頁より)。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

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栄光ある孤立

栄光ある孤立()とは、特に1885年から1902年にかけてのソールズベリー卿政権下で、恒久的な同盟関係を避けるという19世紀の大英帝国の外交慣行を表す言葉である。この概念は、大英帝国が1815年以後のヨーロッパ協調体制から離脱した1822年に早くも生まれ、1902年の日英同盟と1904年の英仏協商まで続いた。大英帝国はドイツ帝国、オーストリア。

見る 明治と栄光ある孤立

桐野利秋

桐野 利秋(きりの としあき、天保9年12月2日(1839年1月16日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。 桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。

見る 明治と桐野利秋

桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国桑名に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。越後国の中部にも領地があり柏崎陣屋が統治した。

見る 明治と桑名藩

森有礼

森 有礼(もり ありのり、、1847年8月23日(弘化4年7月13日) - 1889年(明治22年)2月12日)は、日本の政治家、外交官、思想家、教育者。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。 第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により大日本帝国期の教育制度を確立した。また明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に数えられる。

見る 明治と森有礼

植民地

植民地(しょくみんち、殖民地、英: colony)とは、本国からの移住者によって経済的に開発され(植民・移民)、本国に従属する地域18世紀末から20世紀末に至る約200年間に例えば、アメリカ合衆国がイギリスから独立したのは1776年であり、仏領ルイジアナをフランスからアメリカが購入したのは1803年である。アルゼンチンやパラグアイは1810年代にスペインから独立している。一方、多くのアフリカ諸国は1960年に至るまで植民地として残っていた。西サハラからは1975年にスペインが撤退しているが、2004年現在も独立できていない。グリーンランドとフェロー諸島も2018年現在デンマークの自治領である。

見る 明治と植民地

植木枝盛

植木 枝盛(うえき えもり、1857年2月14日〈安政4年1月20日〉 - 1892年〈明治25年〉1月23日)は、日本の思想家、政治家。自由民権運動家。

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 - 1908年〈明治41年〉10月26日)は、幕末・明治期の武士(幕臣)、海軍軍人、政治家、外交官。海軍中将正二位勲一等子爵。

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槇村正直

槇村 正直(まきむら まさなお、天保5年5月23日(1834年6月29日) - 明治29年(1896年)4月21日)は、日本の官僚、政治家。貴族院議員、男爵。幼名・半九郎。

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権力分立

は、権力が単一の機関に集中することによる権利の濫用「濫用」にかえて「乱用」の字が用いられることがある(憲法学の文献としては芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第5版』2011年、岩波書店、p.277など)。『改訂 新潮国語辞典 ー現代語・古語ー』(株式会社 新潮社。監修者:久松潜一。編集者:山田俊雄・築島裕・小林芳規。昭和53年10月30日 改訂第6刷発行)p 2083に、「ラン ヨウ【*濫用・乱用】みだりにもちいること。」と記載されている。なお「*」は、この国語辞典の「記号・略語表」によれば「当用漢字表補正試案にある字で、当用漢字表に加えられる字、または、削られる字」という意味である。を抑止し、権力の区別・分離と各権力相互間の抑制・均衡を図ることで、人民の権利や自由の確保を保障しようとするシステムである。

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横山安武

横山 安武(よこやま やすたけ、天保14年1月1日(1843年1月30日) - 明治3年7月27日(1870年8月23日))は、日本の武士(薩摩藩士)、陽明学者。通称は喜三次、元四郎、正太郎。明治新政府の腐敗・悪政を批判して28歳で諫死した。森有礼の兄。

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横井小楠

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱はであり、朝臣としての正式な名のりは。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に、がある。字は子操。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

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横浜市

横浜市(よこはまし)は、神奈川県東部に位置する市。神奈川県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。日本有数の港湾都市・商工業都市でもある。 東京大都市圏(首都圏)に属する。市の人口は約377.2万人で東京23区を除く全国の市区町村としては最多の人口である。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国鎌倉郡(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区1980年(昭和55年)に緑区長津田町と旭区上川井町から一部を編入した、卸本町の一部を除く。 の全域と港南区、南区、金沢区の一部)。

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横浜毎日新聞

横浜毎日新聞(よこはままいにちしんぶん)は、かつて存在した日本の新聞。日本初の日刊新聞とされる(のち夕刊新聞)。たびたび改題されており、東京毎日新聞(略称:「東毎」)と名乗っていた期間が最も長い。現存する全国紙の毎日新聞とは別系統である。

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樺太

樺太(からふと)またはサハリン()は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は72,492kmで、北海道(78,073km)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。 樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

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樺太・千島交換条約

樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、1875年(明治8年)5月7日に日本とロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太(サハリン)で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約。樺太に対する日本の領有権と当時のロシア領千島列島(北千島列島)とを交換した内容であり、サンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された。 千島・樺太交換条約たとえば、1984年(昭和59年)に実施された、函館ラ・サール高等学校の入学試験の社会の大問1(正誤の判定をさせる問題)(8)には、正しい文として、「ロ 1875年, 千島・樺太交換条約をロシアとの間にむすび, 千島を日本領, 樺太をロシア領とした。」が記載されていた。このことから、当時の中学校の社会科では、「千島・樺太交換条約」と教えていたことがわかる。何よりも、この条約について太政官布告では「千島・樺太交換條約」と表記されている。

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樺太開拓使

樺太開拓使(からふとかいたくし)は、明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日まで、樺太開拓のために設けられた官庁である。開拓使から分離して設置されたが、1年余りで廃止して元に戻った。 樺太は慶応3年(1867年) 江戸幕府がロシア政府と結んだ日露間樺太島仮規則で日露混住の地とされ、王政復古の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。裁判所時代から現地の行政は岡本監輔(けんすけ)が執り、明治元年(1868年)と2年(1869年)から移住した日本人入植者約500人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。

見る 明治と樺太開拓使

欧化主義

欧化主義(おうかしゅぎ)とは、近代化を進めるためにヨーロッパの様々な制度や文化を取り入れようとした思潮をいう。

見る 明治と欧化主義

正徳 (日本)

正徳(しょうとく、)は、日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。

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正親町三条実愛

正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、1821年1月8日 - 1909年10月20日)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿・政治家、麝香間祗候。権中納言・正親町三条実義の子。正親町三条家28代。官位は従一位・権大納言。明治維新後、改名して嵯峨 実愛(さが さねなる)。

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正長

は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年から1429年までの期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。

見る 明治と正長

武士

武士(ぶし、もののふ)は、日本における戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ、幕末期まで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。

見る 明治と武士

武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史上の政治形態の一つ。武家が独自の権力と組織をもって行なった政治的支配のことで、12世紀末の鎌倉幕府の樹立から1867年(慶応3年)の江戸幕府の終末までの約700年間がこれにあたる。 平安時代末期に、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的台頭が起こり、その時の平氏政権は武家の政権ではあったが、独自の武士階級としての権力と組織をもたず瓦解したため、鎌倉幕府の成立をもってその開始期とし、鎌倉幕府、室町幕府、織豊政権、江戸幕府の4つの時期を経て明治維新にいたって終結とする。この700年の内、織豊期を除けば、征夷大将軍が幕府を組織した。武家政権は公家政権と対抗して武家法を樹立し、武家の棟梁のもとに主従制を展開し、全国支配権を拡張した。

見る 明治と武家政権

殖産興業

殖産興業(しょくさんこうぎょう)とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業川上義明、「」『福岡大学商学論叢』 49巻 2号, 2004-09, p.203-225,, 、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。 狭義では明治政府による新産業の育成政策を指す。国策であるから民営化は黒田清隆などに否定された。広義では、明治政府以外の各政府(江戸時代の各藩など)による新産業の育成政策も含める。殖産興業による好景気で「殖産興業景気」と呼ばれることがある。

見る 明治と殖産興業

毛利敬親

毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。

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水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは天保期であり、「天保学」とも呼ばれる。 儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。

見る 明治と水戸学

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。

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民党

民党(みんとう)とは、明治時代の日本において自由民権運動を推進した自由党・立憲改進党などの民権派各党の総称。主に帝国議会開設から日清戦争の頃にかけて使われた。政界が二大政党に収斂されていくにしたがって使用されることは減っていったが、その後も「民衆代表政党」の意味を込めて大正期まで使用された。

見る 明治と民党

民法

民法(みんぽう)とは、民法の名称を持つ法典それ自体、または私法の一般法をいう。前者を形式的な意義における民法(code civil、bürgerliches Gesetzbuch)といい、後者を実質的な意義における民法(droit civil、bürgerliches Recht)という。 「民法」という名称の法典(民法典、形式的意味の民法)に収録されるほとんどの規定は実質的意味の民法と重なるが、民法典には処罰規定のように公法規定に属するものもある『補訂版図解による法律用語辞典』自由国民社、2003年、p.215。また、実質的意義の民法は民法典などの制定法のほか慣習法などの不文法として存在することもある。

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民撰議院設立建白書

民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は、1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。「民撰議院設立の建白書」と言われる場合もある。

見る 明治と民撰議院設立建白書

江華島事件

海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。

見る 明治と江華島事件

江藤新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議、佐賀征韓党首を歴任。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。

見る 明治と江藤新平

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど、) は、現在の東京の前身・原型に当たる都市を指し、その旧称である。現在の東京都区部の中央部に位置した。 平安時代後期に東京湾の日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。 徳川家康が1590年に入府し、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。

見る 明治と江戸

江戸城

江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。 千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)、東京城(とうけいじょう)が別名として知られている。

見る 明治と江戸城

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 明治と江戸幕府

江戸開城

江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。

見る 明治と江戸開城

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 明治と江戸時代

汐留駅 (国鉄)

汐留駅(しおどめえき)は、東京都港区東新橋1丁目にあった日本国有鉄道(国鉄)の駅である。東海道本線の貨物支線(東海道貨物線)上にあった。 かつての日本の鉄道開業時に建設された新橋駅(初代)であり、日本初の起点となる鉄道駅であった。長らく東京のターミナル駅として機能し、1900年(明治33年)に大和田建樹が作詞した「鉄道唱歌」では「汽笛一声新橋を はやは離れたり 愛宕の山にりのこる 月を旅路の友として」と歌われた。 その後1914年の東京駅開業により旅客営業を終了、汐留駅に改称し貨物駅となる。1986年に貨物駅としても廃止され、その役目を東京貨物ターミナル駅に譲った。

見る 明治と汐留駅 (国鉄)

治外法権

治外法権(ちがいほうけん、extraterritoriality)とは、外交官や領事裁判権が認められた国家の国民について、本国の法制が及び、在留国の法制が(立法管轄権を含めて)一切及ばないことをいう。在留国の法制が及ぶことを前提に、一定の免除が与えられることを指していうこともある。

見る 明治と治外法権

治安警察法

治安警察法(ちあんけいさつほう、明治33年3月10日法律第36号)は、日清戦争後に高まりを見せ始め、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に、1900年(明治33年)3月10日、第9代内閣総理大臣山縣有朋率いる第2次山縣内閣下で制定された法律である。 それまで、自由民権運動を念頭に置いて、政治活動の規制を主な目的としていた保安条例(明治20年勅令第67号)と集会及政社法(明治26年4月14日法律第14号)に、労働運動の規制という新たな機能を付加した上で、継承発展させる形で制定された。大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)終結直後の1945年(昭和20年)11月21日、第44代内閣総理大臣幣原喜重郎率いる幣原内閣の手により廃止された。

見る 明治と治安警察法

治部省

治部省(じぶしょう)は、律令制に於ける八省の内の一つ。 和名は「おさむるつかさ」。唐名は礼部。

見る 明治と治部省

沖縄県

沖縄県(おきなわけん、沖縄語: ウチナー 、Okinawa Prefecture)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は那覇市。

見る 明治と沖縄県

沙市市

沙市市(さしし、、、)は中国の湖北省中部に1949年から1994年まで存在していた長江の北岸に位置する港湾都市である。最終的な市域は現在の沙市区大半で、旧岑河鎮および旧観音壋鎮を除いた部分に当たる。

見る 明治と沙市市

法務大臣

法務大臣(ほうむだいじん、)は、日本の法務省の長および主任の大臣たる国務大臣。略称は法相(ほうしょう)である。

見る 明治と法務大臣

法治国家

法治国家(ほうちこっか)。

見る 明治と法治国家

洋服

ブレザーを着たクリケットの選手たち。 洋服(ようふく)とは、西洋服の略で、西洋風の衣服のこと広辞苑第6版「洋服」。英語の western clothes におおむね該当する。ヨーロッパの服飾に起源を持つが、列強各国の各地進出に伴なって、アメリカ大陸やオセアニア等の植民地をはじめ、世界各地で広く用いられ、19世紀末以降の近代化とともに、中国や日本等でも使用されるようになった。この過程で、日本語や中国語、朝鮮語において、伝統的な衣服(日本の場合和服・着物)に対する概念として、これらの西洋起源の衣服が「洋服」と呼ばれるようになった辻ますみ「洋服」『日本大百科全書』中山千代「洋服」『国史大辞典』。

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清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

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渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

見る 明治と渋沢栄一

満年齢

満年齢(まんねんれい)とは、年齢や年数の数え方の一種。数え年とは異なる。 2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから、一般には数え年が使われてきたが、現在ではほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。

見る 明治と満年齢

満洲

満洲(まんしゅう、、Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。

見る 明治と満洲

漁業権

漁業権(ぎょぎょうけん、fishery rights, fishing rights)とは、漁業を行うことに関する、あらゆる種類の権利。

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澎湖諸島

澎湖諸島(ほうこしょとう、ポンフーしょとう)は、台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。澎湖列島、澎湖群島とも呼ばれる。島々の海岸線は複雑で、その総延長は約300kmを誇っている。大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島である。また、かつて「澎湖」の名を冠した日本海軍の艦艇があった。

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濃尾地震

濃尾地震(のうびじしん)とは、1891年(明治24年)10月28日に濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震であり、日本史上最大級の内陸地殻内地震(直下型地震)である。 濃尾は美濃国と尾張国の併称であり、美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)とも呼ばれている。辛卯の年に発生したことから辛卯震災(しんぼうしんさい)と呼んでいる報告書もある。

見る 明治と濃尾地震

朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、、)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、韓国、北朝鮮共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に南半部は韓国が、北半部は北朝鮮が実効支配している。

見る 明治と朝鮮

朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定されたの制度で新たに作られたで、上から二番目に相当する。 上から一番目のは、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中で事実上、最も上の地位にあたる。 古くは「あそみ」と読み、阿曽美や旦臣とも書いた。

見る 明治と朝臣

朝敵

朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇および朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。朝敵が率いる軍のことを賊軍と呼ぶ。

見る 明治と朝敵

木下直之

木下 直之(きのした なおゆき、1954年(昭和29年) - )は、美術史研究者。東京大学名誉教授(文化資源学)、静岡県立美術館館長、神奈川大学国際日本学部歴史民俗学科教授。専門は、博物館学、美術史、写真史、見世物研究。

見る 明治と木下直之

木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる(コトバンク)。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

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木曽三川分流工事

木曽三川分流工事(きそさんせんぶんりゅうこうじ)は、1887年(明治20年)から1912年(明治45年)に行われた木曽三川の完全分流を目的とした河川改修。オランダ人技師のヨハニス・デ・レーケが作成した計画をもとに施工された。 工事の名称としては「分流工事」のほかに「改修工事」や「下流改修工事」といった表現も散見され、施工された時期から「明治改修(工事)」「明治治水」とも呼ばれる。また、三川分流を「木曽三川下流の改修で行われた事業の1つ」と位置づけている自治体も存在する。

見る 明治と木曽三川分流工事

朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。 北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

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有色人種

有色人種(ゆうしょくじんしゅ)とは、帝国主義の時代から20世紀中頃まで使用された人種分類である。有色人種という言葉は、白色人種と対で使用される言葉であり、ヨーロッパ系のコーカソイドを除いた、その他人種を指す。 有色人種という概念は優生学の思想に基づき、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などを中心としたヨーロッパ系コーカソイドが、植民地の拡大・奴隷制の維持を正当化する根拠として唱えられたものであり、そのため、自分たちと被植民地国の国民および奴隷との、外見で区別しやすい皮膚の色や血統などの特徴を利用し、人種を細分化したものである。 そのため、有色人種と対で使用される場合の白色人種とは、現在の一般的人種分類(コーカソイド・ネグロイド・オーストラロイド・モンゴロイド)とは定義の範囲が異なり、人種差別と密接に結びついた概念であるため、用語毎にその対象範囲が異なる。

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫の二・二六事件pp.76-77が、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。

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最高裁判所 (日本)

最高裁判所は、日本国憲法が施行された1947年5月3日に、日本国憲法および同日に施行された裁判所法に基づき設置された、日本の司法機関における最高機関である。 最高裁判所裁判官は、最高裁判所長官1名と最高裁判所判事14名の15名で構成される。 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について最高裁判所規則を制定する権限(憲法77条1項)、下級裁判所裁判官を指名する権限(憲法80条1項)、最高裁判所の職員並びに下級裁判所及びその職員を監督する権限を持つ(裁判所法80条1号)。 最高裁判所における司法行政は、全員の裁判官で構成する裁判官会議により行われるとされている(裁判所法第20条)。

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戊子

戊子(つちのえね、ぼどのねずみ、ぼどのね、ぼし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの25番目で、前は丁亥、次は己丑である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の子は陽の水で、相剋(土剋水)である。

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戊寅

戊寅(つちのえとら、ぼどのとら、ぼいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの15番目で、前は丁丑、次は己卯である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の寅は陽の木で、相剋(木剋土)である。

見る 明治と戊寅

戊申

戊申(つちのえさる、ぼどのさる、ぼしん、、、무신、Mậu Thân)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの45番目で、前は丁未、次は己酉である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の申は陽の金で、相生(土生金)である。

見る 明治と戊申

戊辰

戊辰(つちのえたつ、ぼどのたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。

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戊辰戦争

戊辰戦場址碑 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強は条約による内戦への局外中立を解除した。これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められた。 以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

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戊戌

戊戌(つちのえいぬ、ぼどのいぬ、ぼじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの35番目で、前は丁酉、次は己亥である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の戌は陽の土で、比和である。

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戦争賠償

戦争賠償(せんそうばいしょう、戦時賠償とも言う)は、戦争で生じた損害の賠償として、ある国が他の国へ金品や資産を提供すること。 多くの場合賠償金の形を取る。通常、戦争賠償が支払われるのは敗戦国から戦勝国に対してのみであり、逆の例は少ない。賠償する対象は戦勝国の費やした戦費も含まれ、戦争法規違反には限らない。よく似た概念語として「戦後補償」があるが、一般に戦争賠償は国家間、戦後補償は国家対個人の賠償・補償を指す場合に使われる。 第二次世界大戦を例にとるならば、日本の場合は国家間の戦争賠償、ドイツの場合は国家対個人の戦後補償にも応じている(ただしドイツの公式な立場は「個人が戦争で受けた被害を自国政府以外に請求することはできない」というものであり、ドイツ国民以外の戦争被害の請求は認めていない)。ドイツの個人に対する賠償の場合は、敗戦国であっても戦勝国に対し自国民が受けた被害(戦勝国内や独立国内に遺棄されたインフラや資産など)に対する賠償を請求し実際に賠償がなされたことがあり、この点は敗戦国にのみ負担が偏るという賠償に対する批判に類しない。また、遺棄された在外資産は中間賠償と呼ばれる賠償の一部という形態をとることもある。

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戸籍

戸籍(こせき)とは、戸(こ/へ)と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。 かつては東アジアの広い地域で普及していたが、21世紀の現在では日本と中華人民共和国と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。

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戸籍法

戸籍法(こせきほう、昭和22年法律第224号)は、各人の身分関係を明らかにするための戸籍の作成・手続などを定める日本の法律。主務官庁は、法務省民事局民事第一課である。

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戸長

白石家戸長屋敷(栃木県栃木市) 戸長(こちょう)とは、明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。

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星亨

星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日〈1850年5月19日〉 - 明治34年〈1901年〉6月21日)は、日本の英学者、弁護士、政治家。

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明(みん)は、中国の王朝である。1368年から1644年まで存在し、明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配した。

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明六社

明六社(めいろくしゃ)は、明治初期に設立された日本最初の近代的啓蒙学術団体。 明六雑誌。1874年(明治7年)発行の第十号。

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明治の人物一覧

明治の人物一覧(めいじのじんぶついちらん)は、明治時代に活躍したことが知られている人物の一覧である。

見る 明治と明治の人物一覧

明治十四年の政変

大隈重信 明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信が明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した。

見る 明治と明治十四年の政変

明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、)。お印は。 倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる。東京に皇居を置いた最初の天皇。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇にして、内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇でもある。

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明治学院大学

1886年(明治19年)の東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校の合同時に新校名として「一致学院」「共同学院」「明治共立学院」の3案が示され、同年6月21日の理事会で議論を重ねた結果、植村正久が提案した明治学院を採用することに決定した。

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明治安田生命保険

明治安田生命保険相互会社(めいじやすだせいめいほけん、英称:Meiji Yasuda Life Insurance Company)は、東京都千代田区丸の内に本社を置く、三菱グループの大手生命保険会社。旧安田生命の流れから芙蓉グループ(みずほ銀行系列)にも属する。1881年に設立された。

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明治屋

株式会社明治屋(めいじや、)は、東京都中央区京橋に本社を置く、食料品・和洋酒類の小売・輸出入、船舶に対する納入業を営む日本の小売業者である。 なお、食品メーカーの明治などを傘下に持つ明治ホールディングスとの資本関係はない。

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明治三陸地震

明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった地震である。マグニチュード8.2- 8.5震度分布に基づいて長らくマグニチュード7.6とされてきたが、津波の大きさを考慮して数値が改められた(『理科年表 平成18年』)。の巨大地震であった。さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高津波の遡上高とは、陸を駆け上って到達した高さ。だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。 なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた(参照)。

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明治乳業

明治乳業株式会社(めいじにゅうぎょう、英文社名:Meiji Dairies Corporation)は、明治ホールディングス傘下の食品・一般用医薬品メーカーである株式会社 明治が、2011年3月31日まで用いていた旧商号である。 株式会社明治は、法人格の上では1917年12月21日に設立された極東煉乳を継承しており、1940年12月28日に商号を明治乳業に改めている(#沿革節参照)。

見る 明治と明治乳業

明治ホールディングス

明治ホールディングス株式会社(めいじホールディングス、)は、食品メーカーの明治、製薬会社のMeiji Seika ファルマを傘下に持つ持株会社。2009年(平成21年)4月1日設立。日経平均株価の構成銘柄の一つ。

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明治六年政変

西郷隆盛の生涯を描いた錦絵『西郷隆盛前功記』の「征韓議論図」 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)または、明治六年の政変は、明治6年(1873年)に発生した政変。西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。直接の原因が征韓論にあったため、征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも称される。

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明治国際医療大学

明治国際医療大学(めいじこくさいいりょうだいがく、英語: Meiji University of Integrative Medicine)は、京都府南丹市に本部を置く日本の私立大学。2007年度まで大学名を明治鍼灸大学(めいじしんきゅうだいがく、英語: Meiji University of Oriental Medicine)と称しており、2008年4月1日より現校名に改称した。

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明治維新

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。

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明治用水

明治用水(めいじようすい)は、愛知県の西三河地方南西部に農業用、工業用、上水道水の水を供給する用水である。 幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中流に位置する安城市が「日本のデンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった(当時、かつて流域を治めていた岡崎藩が5万石)。 埼玉県・東京都の葛西用水路・見沼代用水とならび、日本三大農業用水と称されている122p - 内閣府防災情報。

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明治製菓

明治製菓株式会社(めいじせいか)は、明治ホールディングス傘下の医療用専業の医薬品メーカーであるMeiji Seika ファルマの1916年10月9日から2011年3月31日までの旧商号である。 社名の通り、菓子類を中心とした各種食品の製造販売業者として一般に広く認知されていた一方、現行事業である薬品部門についても有数の規模を持つという特色のある企業であり、薬品部門が売上高で全体の28%、営業利益ベースでは59%(2010年3月期)を占めるまでになっていた。 2009年4月1日には、グループ企業ではなかったものの、同根(同門)企業である明治乳業と共同持株会社「明治ホールディングス株式会社」を設立し、明治製菓は明治ホールディングスの完全子会社となった。経営統合後はブランドマークも変更され、2009年7月から明治グループ共通スローガン「明日をもっとおいしく」が導入された。

見る 明治と明治製菓

明治館

明治館(めいじかん)。

見る 明治と明治館

明治薬科大学

1920年(大正9年)調査、幡ヶ谷笹塚町地籍図(縮尺1/1,500)、編集兼発行者・船橋治『復刻版、東京地籍図渋谷区編・第1巻』発行所・不二出版、発行・2012年(平成24年)11月22日 明治薬科大学(めいじやっかだいがく、)は、東京都清瀬市野塩2丁目522-1に本部を置く日本の私立大学。1902年創立、1949年大学設置。大学の略称は明薬。

見る 明治と明治薬科大学

明治通り

明治通り(めいじどおり)は、日本国内で見られる道路の通称。

見る 明治と明治通り

明治機械

明治機械株式会社(めいじきかい)は、日本の機械メーカー。

見る 明治と明治機械

明治文化全集

明治文化全集(めいじぶんかぜんしゅう)は、「明治文化研究会」の編集により、明治期の基本的文献を集成した叢書で、1927年から1932年にかけ日本評論社で刊行された(全24巻)。その後も新たな文献を収録した増補版が刊行され、1967年-1974年刊行の第3版(全32巻)で決定版となっている。

見る 明治と明治文化全集

明治書院

株式会社明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。

見る 明治と明治書院

明海グループ

明海グループ株式会社(めいかいグループ、)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く海運会社である。2023年9月までの商号は明治海運株式会社(めいじかいうん、)。なお、本社機能は事実上、東京本部に移管されている。本業の海運以外に不動産事業、1992年からはホテル事業も手掛ける。

見る 明治と明海グループ

昭和

は、日本の元号の一つ。 1958年(昭和33年)に竣工した東京タワー。 大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。昭和天皇の在位期間昭和天皇は父・大正天皇の病状を受け1921年(大正10年)11月25日に「摂政宮」に就いている。 である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御し、皇太子明仁親王(現・上皇)が同時刻に直ちに皇位継承。同日中に元号を改める政令が新天皇の署名によって公布され、同政令の附則の施行期日の定めに基づき、昭和は同日午後12時を以て幕を閉じ、翌1月8日午前0時を以て平成と改元された。

見る 明治と昭和

昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。4 現在、天皇に在位する第126代今上天皇 (徳仁)の祖父。

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易経

『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物で五経の一つ。著者は厳密には不明だが、『周易正義』等に載せる伝説では六十四卦を作ったのが伏羲、本文(卦爻辞)を作ったのが周公旦とされている高田眞治『易経(上)』岩波文庫、1969による。高田によれば本文は周の文王の作とする説など、古来から複数の異説がある。。 中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説き、人間処世上の指針・教訓の書とされる。語句は簡潔で、含蓄が有るとされる。 「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。

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海軍大学校

海軍大学校(かいぐんだいがっこう、)は、日本海軍の上級将校教育機関である。略語として海大とも呼称される。日本陸軍では陸軍大学校、現在の海上自衛隊では、海上自衛隊幹部学校に相当する。

見る 明治と海軍大学校

海軍省

海軍省(かいぐんしょう、)は、かつて存在した日本の中央官庁の一つ。旧日本海軍の軍政を司った機関である。主任の大臣は海軍大臣。軍令は最高司令官である天皇に直属する軍令部が担当する。1945年(昭和20年)にアメリカの占領軍により廃止された。

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと、天保13年7月23日(1842年8月28日)-昭和12年(1937年)2月1日)は、江戸時代末の大名、明治時代から昭和初期の日本の政治家、外交官、実業家、社会事業家、華族。位階勲等爵位は従一位勲一等侯爵。 浅野家27代当主で、安芸広島新田藩第6代藩主、広島藩第12代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、元老院議官、駐イタリア公使、宮内省華族局長官などを歴任。

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新聞

ウォール・ストリート・ジャーナル創刊号の1面 は、社会情勢一般(ニュース)または特定分野の出来事を報じ、対象とする層の中で広く読まれることを前提に定期刊行される紙媒体である。 新聞紙と呼ばれる低質の紙に印刷し、折り畳んだ状態で発売される。 日本の新聞社の発行する新聞紙の大きさは、ブランケット判と呼ばれている。

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新聞紙条例

新聞紙条例(しんぶんしじょうれい、明治20年12月29日勅令第75号)は、明治時代の日本で施行された新聞を取り締まるための太政官布告また勅令。自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定された。 なお、台湾総督府は1900年1月24日、台湾新聞紙条例を制定した(律令)。

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新貨条例

新貨条例(新貨條例、しんかじょうれい)は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された日本の貨幣法である。日本の貨幣単位として「圓(円)」を正式採用した。 明治8年(1875年)6月25日の改正に伴い、名称も貨幣条例(貨幣條例、太政官布告第108号)に改められ、明治30年(1897年)10月1日の貨幣法施行により廃止された。

見る 明治と新貨条例

新暦

新暦(しんれき)とは、改暦が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。日本ほか東アジアの諸国においては太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言う。

見る 明治と新暦

文久

文久(ぶんきゅう、旧仮名遣: ぶんきう、)は、日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。大化以降225番目、241個目の元号。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

見る 明治と文久

文明開化

文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西洋化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。その社会が変化していく時代を強調し「開化期(かいかき)」、「御一新(ごいっしん)」とも呼ばれる。

見る 明治と文明開化

日墨修好通商条約

日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)は、1888年(明治21年)11月30日に日本とメキシコの間で締結された条約。 日本にとっては初めての(アジア諸国を除く)治外法権が無く、関税自主権のある平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国と初めて締結した条約であった。 当時ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ公使との間で調印された。

見る 明治と日墨修好通商条約

日墺修好通商航海条約

日墺修好通商航海条約(にちおうしゅうこうつうしょうこうかいじょうやく、Freundschafts-, Handels- und Schifffahrtsvertrages zwischen Österreich-Ungarn und Japan)は、日本とオーストリア=ハンガリー帝国との間で1869年10月18日(明治2年9月14日)に締結された条約。これによって両国の国交が開かれた。 しかし同時に、欧米列強による日本に対する不平等条約の集大成とも言われている。 なお、ハンガリーの略表記である「洪(きょう)」を加えて「日墺洪(にちおうきょう)修好通商航海条約」と表記する場合もある。

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月から1905年9月にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた。陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。また日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するには至らず、戦後に外務省に対する不満が軍人や民間人などから高まった。

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日英同盟

日英同盟(にちえいどうめい、Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である。 1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸()オーバルルームにおいて調印された。 その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した。

見る 明治と日英同盟

日英通商航海条約

日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく、Treaty of Commerce and Navigation between Great Britain and Japan)は、1894年に締結された日本とイギリスの通商条約。1894年7月16日に駐英日本公使青木周蔵と、英外相キンバーリーによって調印された。領事裁判権と協定関税率を定めた幕末の日英修好通商条約を改訂したものであり、この条約の締結により日本は維新以来最大の懸案だった条約改正に成功した。ともいう。

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日比谷

日比谷(ひびや)は、日比谷公園や内幸町や日比谷通り一帯からJR有楽町駅西側にかけての地域を漠然と指す地名。大手町や丸の内から連続する都心のオフィス街となっている。もともとは日比谷入江およびその周辺域を指していた地名であり、それは現在の東京都千代田区の南東部あたり、永田町から有楽町あたりを指していた。江戸時代以前は比々谷とも。 現在、「日比谷」は行政上の正式な地名ではないが、日比谷通り、日比谷交差点、日比谷駅、日比谷公園、日比谷濠など公共施設に「日比谷」の地名が残っており、都心に通勤・通学あるいは都心を通過する人々は日頃から意識する地名である。また全国公立高校で東京大学進学者数9年連続1位の日比谷高校の校名もこの地に由来しており、「日比谷」の知名度は全国的にも高い。

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日比谷焼打事件

日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年(明治38年)9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件。

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日清修好条規

日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日、同治10年)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった小島・丸山(1986)pp.39-41。 ただし、互いに領事裁判権と協定関税率を認め、最恵国待遇を欠くなどの面で、変則的な対等条約であった。相互に開港することなどを定めており、この条約と同時に、通商章程と海関税則も調印された。

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう、)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。

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日朝修好条規

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、병자수교조약)ともいう。

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日本 (新聞)

『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日から、1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞。その後、1925年(大正14年)に小川平吉の手により『日本新聞』として再創刊、1935年まで10年にわたり、日本主義を主張する新聞として出版された。

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日本の仏教

日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。 2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる。現代では、仏教と神道は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする神仏習合と呼ばれる見方もあった。 伝統的な仏教の宗派は漢訳経典を用いる大乗仏教で、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の13宗がある。 文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属し、浄土教系(浄土宗及び浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めている。

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日本の国旗

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、白地に紅色で丸が描かれた旗。法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる。日本では聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を"日出づる国"とする考え方があり、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴する。 また紅白は日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。 1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(通称:国旗・国歌法)の規定によれば、「旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。地色は白色、日章は紅色」とされている。上下・左右対称である。

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日本の警察官

日本における警察官(にほんにおけるけいさつかん)とは、警察法の定めにより警察庁、都道府県警察に置かれる公安職の警察職員をいう(警察法第34条第1項、第55条第1項)。警察官は、個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等の職権職務を忠実に遂行すること等を任務とする(警察官職務執行法第1条第1項、第8条)。 旧警察法においては、公安職の警察職員のうち国家公務員である者を「警察官」、地方公務員である者を「警察吏員」と呼び区別していたが、現警察法においては「警察官」の名称に統一されている。なお、都道府県警察の警察官のうち警視正以上の者は国家公務員とされ「地方警務官」と呼ぶのに対し、それ以外の警察官その他の職員は「地方警察職員」と総称される(警察法第56条第1項、第2項)。

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日本の鉄道開業

錦絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜) 日本の鉄道開業(にっぽんのてつどうかいぎょう)では、日本初の鉄道路線である新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現:桜木町駅)間が、1872年10月14日(明治5年9月12日 (旧暦))の正式開業を迎えるまでについて記す。

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日本史時代区分表

日本史時代区分表(にほんしじだいくぶんひょう)は、日本史における各時代の関連と時代区分を示す表である。多くの時代の始期・終期に関しては異なる説もあるが、ここでは主要な説に基づき記載した。 なお以下、北海道から先島までの地域区分は、大まかな区分である。

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日本国籍

日本国籍(にほんこくせき、にっぽんこくせき)は、日本国憲法第10条を受けた国籍法によって規定される日本の国籍。 日本の国籍法(昭和25年法律第147号)では「日本国民たる要件」を定めており、日本国籍を所有する者が、すなわち日本国民(にほんこくみん、にっぽんこくみん、日本の国民)であるとされている。原則として父母両系血統主義を採用しているが、例外的に生地主義による取得及び帰化による取得も認められている。

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日本国憲法

は、現在の日本における国家形態等を規定している憲法。 この憲法は、象徴君主制('''無権天皇'''ともいう。)・国民主権(直接民主主義が中心)・日本人一人ひとりの権利の尊重・三権分立を基本原理とする大日本帝国憲法(後述)の改正という形で制定されたが、改正元の憲法と異なり、国民主権(間接民主制が中心)・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としている。同じように見える権利の尊重でも、大日本帝国憲法が天皇を除く日本民族の権利を国内外問わずに保障する「民族の権利」の立場なのに対し、この憲法は日本国籍を有する者の権利を日本国内だけで保障する立場をとっている。 草案作成から議会審議まで一貫してGHQの統制がおよび、国際法違反で無効ではないかという指摘もある(後述)。

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日本法

日本法(にほんほう)とは、日本の法律をいう。

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日本海海戦

東郷平八郎(1907年〈明治40年〉) ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー 日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦である。 主力決戦は対馬東方沖海域で行われた。日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼ぶ(ロシア語「Цусимское сражение」、英語「Battle of Tsushima」)。

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旧暦

旧暦(きゅうれき)とは、改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す.。

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旗本

旗本(はたもと)とは、元来は戦場で主将の旗下にあって主将を護衛する武士団のことを指す。 一般的には江戸時代の徳川将軍家直属の家臣のうち石高が1万石未満で御目見以上の家格だった武士の身分を指す。主人は殿様(大名と同様)、正妻は奥様と呼ばれた。 これに対し、御目見以下の家臣は御家人という。

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旅順口区

旅順口区(りょじゅんこうく、リューシュンコウく)は、中華人民共和国遼寧省大連市に位置する市轄区。遼東半島の最西部(突端部)にあり、天然の良港として知られ、旅順軍港を有する軍港都市として栄えた。区人民政府の所在地は新城大街1号にある。大連市内からは45kmの距離で、国家級風景名勝区、国家級自然保護区に指定されている。陸地面積506.8平方km、海岸線の長さは169.7km。沿海では真珠の養殖が盛んである。 旅順口区は長らく閉鎖都市であったが、旅順口区政府は2009年3月20日付の招待会で、旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになったと発表した。しかし、この発表は大連市や国家レベルの承認も得たものでない旨、日本領事館大連事務所から注意喚起されている。市および国家からの正式文書を得た段階で、下の「現状」にある訪問制限の記述も変更される。

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旅順攻囲戦

第3軍の旅順への前進 第3軍による旅順包囲 攻撃準備中の日本軍 砲撃によって生じた黄金山麓石油庫の火災 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、リュイシュンこういせん、,, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。

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摂政

摂政(せっしょう、regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。 多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。

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改元

改元(かいげん)とは、元号を改める(変更する)こと。

見る 明治と改元

改進党

改進党(かいしんとう)は、かつて存在した日本の政党。1952年から1954年にかけて活動した。

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改暦

改暦(かいれき)とは、まず従来用いていた暦法を改良や統一を目的に改めること、あるいは日本において宣明暦に対し吉凶や誤差などの問題の解決を目的に行われた「宣明暦の改暦」のことである。

見る 明治と改暦

政体書

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱永原慶二監修『岩波 日本史辞典』1999年 650頁、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)に発布された。同年4月27日頒布。

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政商

政商(せいしょう)とは、政府つまり政治家(政治)や官僚(行政)とのコネや癒着(官民癒着)により、優位に事業を進めた事業家、あるいは企業グループのこと。江戸時代には、御用商人(ごようしょうにん)と呼ばれた。戦前日本の財閥はその代表例である。

見る 明治と政商

政権

政権(せいけん)とは、国の政治機構を動かす政治権力のことである。議院内閣制のもとでは、選挙を通じて議会で多数を得た政党が政権を担当する『政治・経済用語集』(山川出版社)。 なお、同じ漢字圏の中国語で「政権(政权)」と書いた場合、「レジーム(・)」の中国語訳であり、日本語における「政権」と意味が異なることに注意、また、現在日本の政権は自由民主党と公明党による自公連立政権である。

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政治体制

政治体制(せいじたいせい)とは、ある国家における政治的諸制度の総体のことを指す。

見る 明治と政治体制

政教分離原則

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家と宗教団体の分離の原則をいう。 また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。 ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し広義には「君主」や「国家」を指す『宗教の事典』、山折哲雄、2012年、朝倉書店、p862。。 世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。 国家により、フランスなどに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年小原克博「日本人の知らないの多様性」『論座』2001年10月号 などに分かれる。

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愛媛県

愛媛県(えひめけん)は、日本の四国地方に位置する県。四国地方では最も人口が多い県。県庁所在地は中核市指定の松山市。都市規模は、計量特定市指定の今治市・新居浜市が続く。令制国の伊予国に当たる。

見る 明治と愛媛県

愛国公党

愛国公党(あいこくこうとう)は、。

見る 明治と愛国公党

憲政党

憲政党(けんせいとう、)は、明治時代の日本の政党。 後述の経緯から、同名の二つの政党が連続して存続しており、本記事では両者を扱う。

見る 明治と憲政党

憲政本党

憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日 - 1910年3月13日)。

見る 明治と憲政本党

教育ニ関スル勅語

教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご、)または教育勅語(きょういくちょくご、)は、明治天皇が近代日本の教育の基本方針として下した勅語。 1890年(明治23年)10月30日に下され、1948年(昭和23年)6月19日に国会によって排除または失効確認された"" コトバンク、2020年8月24日閲覧。。

見る 明治と教育ニ関スル勅語

慣習法

慣習法(かんしゅうほう)とは、社会の成員の間に存在する一定の慣行のうち、その慣行が成員によって法的拘束力があるものと意識されているもの(法的確信を伴うもの)をいう。不文法(不文律)の一種であり、成文法と対比される - コトバンク。成文法化が進んだ今日の近代国家においても、商法・国際法等の分野を中心に、成文法の不足を補充する役割を果たしている。

見る 明治と慣習法

慶安

は、日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。

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慶応

紋が描かれている。 とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。

見る 明治と慶応

承応

は、日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

見る 明治と承応

所領

所領(しょりょう/そりょう)とは、領主・地主によって私有され、支配(知行)権が行使されている土地のこと。

見る 明治と所領

思案橋事件

思案橋事件(しあんばしじけん)は、1876年(明治9年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。思案橋の変ともいわれる。 1876年(明治9年)10月28日に山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。

見る 明治と思案橋事件

10月12日

10月12日は、グレゴリオ暦で年始から285日目(閏年では286日目)にあたり、年末まであと80日ある。

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10月1日

10月1日(じゅうがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。

見る 明治と10月1日

10月23日

10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。

見る 明治と10月23日

10月26日

10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。

見る 明治と10月26日

11月29日

11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。

見る 明治と11月29日

12月1日

12月1日(じゅうにがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から335日目(閏年では336日目)にあたり、年末まであと30日ある。

見る 明治と12月1日

12月2日 (旧暦)

旧暦12月2日(きゅうれきじゅうにがつふつか)は、旧暦12月の2日目である。六曜は先勝である。

見る 明治と12月2日 (旧暦)

12月3日 (旧暦)

旧暦12月3日(きゅうれきじゅうにがつみっか)は旧暦12月の3日目である。六曜は友引である。

見る 明治と12月3日 (旧暦)

12月4日 (旧暦)

旧暦12月4日(きゅうれきじゅうにがつよっか)は、旧暦12月の4日目である。六曜は先負である。

見る 明治と12月4日 (旧暦)

1860年代

1860年代(せんはっぴゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1860年から1869年までの10年間を指す十年紀。

見る 明治と1860年代

1870年代

1870年代(せんはっぴゃくななじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1870年から1879年までの10年間を指す十年紀。

見る 明治と1870年代

1871年

この年にドイツが統一されたため、世界史の大きな転換点となった。

見る 明治と1871年

1880年代

1880年代(せんはっぴゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1880年から1889年までの10年間を指す十年紀。

見る 明治と1880年代

1890年代

1890年代(せんはっぴゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1890年から1899年までの10年間を指す十年紀。

見る 明治と1890年代

1900年

19世紀最後の年である。暦年が4の倍数であるが閏年に該当しない100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。、現時点で最後の年である。

見る 明治と1900年

1901年

20世紀最初の年である。

見る 明治と1901年

1911年

この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。

見る 明治と1911年

1912年ストックホルムオリンピック

1912年ストックホルムオリンピック(1912ねんストックホルムオリンピック)は、1912年5月5日から7月22日まで、スウェーデンのストックホルムで行われたオリンピック競技大会。ストックホルム1912(Stockholm 1912)と呼称される。

見る 明治と1912年ストックホルムオリンピック

19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 ヴィクトリア女王の治世にこの国は絶頂期を迎え、首都ロンドンの装いも新たにされた。画像はテムズ川の畔に建つウェストミンスター宮殿(国会議事堂)と大時計塔(ビッグ・ベン)。 ヴィクトリア時代の中産階級。ヴィクトリア女王のモラル重視とお上品ぶりは新興市民層の趣味に合致し、芸術面では保守的なアカデミズムが美の規範となった。画像はこの時代に風俗画で一世を風靡したウィリアム・フリスの「ロイヤル・アカデミーの招待日1881年」。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。

見る 明治と19世紀

1月1日

1月1日(いちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。平年の場合には年の最終日である12月31日と同じ曜日になる。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。

見る 明治と1月1日

1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。

見る 明治と1月9日

2000年代

2000年代(にせんねんだい)。

見る 明治と2000年代

2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。

見る 明治と2009年

2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。

見る 明治と2010年

2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。

見る 明治と2011年

2017年

この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。

見る 明治と2017年

2019年

この項目では、国際的な視点に基づいた2019年について記する。

見る 明治と2019年

2月11日

2月11日(にがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から42日目にあたり、年末まであと323日(閏年では324日)ある。

見る 明治と2月11日

2月13日

2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。

見る 明治と2月13日

2月14日

2月14日(にがつじゅうよっか、にがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から45日目にあたり、年末まであと320日(閏年では321日)ある。

見る 明治と2月14日

2月1日

2月1日(にがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。 翌年の春分の日および秋分の日をはじめとする日本の国民の祝日は、この日発行される官報によって発表される(発行されない日の場合は、この日以降最初に発行される日)。

見る 明治と2月1日

2月24日

2月24日(にがつにじゅうよっか、にがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から55日目にあたり、年末まであと310日(閏年では311日)ある。グレゴリオ暦では、閏年の場合に限り、閏日とも呼ばれる。詳細は閏日の項を参照。

見る 明治と2月24日

3月1日

3月1日(さんがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から60日目(閏年では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。

見る 明治と3月1日

4月11日 (旧暦)

旧暦4月11日は旧暦4月の11日目である。六曜は友引である。

見る 明治と4月11日 (旧暦)

4月14日

4月14日(しがつじゅうよっか、しがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から104日目(閏年では105日目)にあたり、年末まではあと261日ある。

見る 明治と4月14日

4月29日

4月29日(しがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から119日目(閏年では120日目)にあたり、年末まではあと246日ある。

見る 明治と4月29日

5月18日 (旧暦)

旧暦5月18日は、旧暦5月の18日目である。六曜は仏滅である。

見る 明治と5月18日 (旧暦)

5月3日

5月3日(ごがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から123日目(閏年では124日目)にあたり、年末まではあと242日ある。

見る 明治と5月3日

6月20日

6月20日(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から171日目(閏年では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。

見る 明治と6月20日

6月27日

6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。

見る 明治と6月27日

6月28日

6月28日(ろくがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から179日目(閏年では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。

見る 明治と6月28日

7月29日

7月29日(しちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から210日目(閏年では211日目)にあたり、年末まであと155日ある。

見る 明治と7月29日

7月30日

7月30日(しちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から211日目(閏年では212日目)にあたり、年末まであと154日ある。

見る 明治と7月30日

7月8日

7月8日(しちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。

見る 明治と7月8日

8月31日

8月31日(はちがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から243日目(閏年では244日目)にあたり、年末まであと122日ある。8月の最終日である。

見る 明治と8月31日

9月20日

9月20日(くがつはつか、くがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から263日目(閏年では264日目)にあたり、年末まであと102日ある。

見る 明治と9月20日

9月30日

9月30日(くがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から273日目(閏年では274日目)にあたり、年末まであと92日ある。9月の最終日である。

見る 明治と9月30日

9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。

見る 明治と9月8日 (旧暦)

㍾、明治10年代、明治20年代、明治30年代、明治40年代、明治初年、明治期 別名。

大隈重信大韓帝国大阪大阪事件大阪会議大蔵省大連市大逆事件大院君大東亜戦争大村益次郎大楽源太郎大正大正天皇大津市大津事件大日本帝国大日本帝国陸軍大日本帝国海軍大日本帝国憲法大日本帝国憲法第3条大日本帝国憲法第4条大政奉還天保暦天和 (日本)天皇天皇誕生日天狗党の乱天津条約 (1885年4月)太陰太陽暦太陽暦外務大臣 (日本)外務省外国人奥羽越列藩同盟奇兵隊奉天会戦姫路藩学制定期乗車券宮古島島民遭難事件宮地正人宮内省家制度家父長制家族制度官吏官僚官営八幡製鐵所官営模範工場宗主国宗教安重根安政寺島宗則寺請制度富岡製糸場尊王論尊王攘夷尚泰王封建制小学館小作人小御所会議小笠原諸島小松清廉小村壽太郎尾張藩尖閣諸島少将屯田兵山城屋事件山城屋和助山口尚芳山口県山岡鉄舟山内容堂山縣有朋岩下方平岩倉使節団岩倉具視島義勇島田一郎島津久光崩御工業左大臣左院己卯己巳己丑己亥己酉丁丑丁亥丁酉丁未不平等条約帝国主義帝国党帝国議会両院制中央交渉会中央集権中務省中村正直中江兆民丸山作楽常任理事国 (国際連盟)七卿落ち世界の歴史世襲市制三府三国干渉三菱財閥三重県三条実美下関条約一世一元の制一世一元の詔丙午丙子丙申丙戌九州九条家干支平田鐵胤平民平民苗字必称義務令幸徳事件幕府海軍幕臣幕末幕末の四賢侯久我建通乙巳乙亥乙酉乙未乙未事変庚午庚午事変庚子庚寅庚辰庚戌交詢社京都京都守護職京都府京都御所京都所司代人力車人口二卿事件府県制二条城広島藩広沢真臣五箇条の御誓文五榜の掲示五日市憲法庄屋庄内藩井上馨井上毅建国記念の日廃仏毀釈廃刀令廃藩置県伊勢神宮伊東巳代治会沢正志斎会津藩式部省佐々木隆 (歴史学者)佐賀の乱佐賀県佐賀藩征夷大将軍征韓論御用商人御親兵徳大寺実則徳川慶喜徴兵令後藤象二郎待詔局律令制保安条例土佐藩土木工学地主地価地券地租地租改正地租改正反対一揆地方官会議地方三新法北京市北朝 (日本)北海道ノルマントン号事件ハルビン市ハワイ王国ハーグ密使事件バルチック艦隊バイエル (企業)ポーツマス条約ユリウス通日ユリウス暦ヨーロッパロシアロシア帝国ヴェルサイユ条約トイレットペーパーヘルマン・ロエスレルヘアスタイルブルジョワジープロレタリアートプロイセン王国パーセントテレビ朝日フランス民法典ドイツ帝国ニコライ2世 (ロシア皇帝)ベーリング海列強刑部省切腹嘉納治五郎嘉永喰違の変和暦アメリカ合衆国アジアインフレーションイギリスイタリア王国エチオピア帝国オホーツク海カラカウアガス灯キリスト教ギュスターヴ・エミール・ボアソナードギリシャグレゴリオ暦シベリア鉄道スポーツスタンダードチャータード銀行セオドア・ルーズベルト品川弥二郎冊封体制円 (通貨)円山内大臣内地雑居内務省 (日本)内国勧業博覧会内覧内閣内閣 (日本)内閣官制内閣顧問内村鑑三内村鑑三不敬事件出納函館市凌雲閣啓蒙思想商法公卿公家公議政体論元号元首元老元老院 (日本)元治元文前原一誠副島種臣勝海舟国家神道国会開設の詔国会期成同盟国立銀行 (明治)国立銀行条例国粋主義国際連盟国権国民国民皆兵倒幕運動皇太子皇室皇室典範 (1889年)皇居皇族矢野玄道知藩事玄洋社玉松真弘王政復古王政復古 (日本)琉球王国琉球藩磐梯山神仏分離神田孝平神道神風連の乱神武天皇神武天皇即位紀元神戸祭政一致禁教令福岡孝弟福島事件福井藩福地源一郎福澤諭吉租税私学校私擬憲法秩禄処分秩父事件秋月の乱穢多竹橋事件立志社 (政治団体)立志社の獄立法立憲君主制立憲帝政党立憲主義立憲改進党立憲政友会立憲政体の詔書第10回衆議院議員総選挙第11回衆議院議員総選挙第1回衆議院議員総選挙第2回衆議院議員総選挙第2次伊藤内閣第2次桂内閣第3回衆議院議員総選挙第4回衆議院議員総選挙第5回衆議院議員総選挙第6回衆議院議員総選挙第7回衆議院議員総選挙第8回衆議院議員総選挙第9回衆議院議員総選挙第一次世界大戦第一次エチオピア戦争第二次日韓協約筑摩県箱館戦争篠原国幹米沢藩紀尾井坂の変紀元前660年紀元節紙幣維新の三傑総務省総裁緯度署名群馬事件義和団の乱烏丸光徳爵位統監府統計局産業革命田畑永代売買禁止令由利公正甲午甲午農民戦争甲申甲申政変甲辰甲戌町人町村制熊本藩留守政府煉瓦版籍奉還片山潜癸卯癸巳癸酉癸未白人百姓DM三井製糖ホールディングス銀本位制韓国併合韓国併合ニ関スル条約選挙選挙権遼東半島鍋島直正華族華族令萩の乱萬朝報非人非戦論蝦夷地革新倶楽部青木周蔵領域 (国家)領事裁判権行幸行政行政機関衆議院血税一揆裁判官裁判所製鉄所飛脚西南戦争西周 (啓蒙家)西郷従道西郷隆盛西暦西洋西洋事情西日本旅客鉄道親藩親政馬車香川県解放令駿府藩駿河誕生日諸生党高知県高札警視庁 (内務省)議奏議定議定官議員議院内閣制護憲運動譜第讒謗律谷干城財閥財政貢士貨幣法貴族院 (日本)貿易賞典禄賢所賤民鳥尾小弥太鳥羽・伏見の戦い越後国足尾鉱毒事件践祚鹿児島城鹿児島県鹿鳴館麝香間祗候軍人勅諭軍令部軍務官黒田清隆黒船農地農民辛卯辛巳辛丑辛亥辛未近代近代化近衛 (日本軍)近衛兵郡区町村編制法郡制部落問題郵便舞踏会蘇州市赤旗事件閏年関税自主権関白関東大震災関東州関東都督府薩長薩長土薩長土肥薩摩藩閔妃開陽丸開拓使開拓使官有物払下げ事件藩閥藩札重工業重慶市臣民臥薪嘗胆自由党 (日本 1881-1884)自由党 (日本 1890-1898)自由民権運動釜山広域市金子堅太郎金禄公債金本位制長岡城長崎県長州長州藩長享長春市酒井忠邦鉱山鉄道鉄道国有法若松城雲井龍雄電信集会条例集議院造幣局連署・副署進歩党 (日本 1896-1898)陰陽五行思想陸奥宗光陸軍大学校陸軍省GN (デンマークの企業)JR暴動柔道枢密院 (日本)林子平李氏朝鮮条約改正来島恒喜杭州市東久世通禧東京東京大学東京奠都東京府東京行幸東京日日新聞東京時代東征大総督東アジア東清鉄道松平春嶽松方デフレ松方正義板垣退助栄光ある孤立桐野利秋桑名藩森有礼植民地植木枝盛榎本武揚槇村正直権力分立横山安武横井小楠横浜市横浜毎日新聞樺太樺太・千島交換条約樺太開拓使欧化主義正徳 (日本)正親町三条実愛正長武士武家政権殖産興業毛利敬親水戸学水戸藩民党民法民撰議院設立建白書江華島事件江藤新平江戸江戸城江戸幕府江戸開城江戸時代汐留駅 (国鉄)治外法権治安警察法治部省沖縄県沙市市法務大臣法治国家洋服渋沢栄一満年齢満洲漁業権澎湖諸島濃尾地震朝鮮朝臣朝敵木下直之木戸孝允木曽三川分流工事朱子学有色人種有栖川宮熾仁親王最高裁判所 (日本)戊子戊寅戊申戊辰戊辰戦争戊戌戦争賠償戸籍戸籍法戸長星亨明六社明治の人物一覧明治十四年の政変明治天皇明治学院大学明治安田生命保険明治屋明治三陸地震明治乳業明治ホールディングス明治六年政変明治国際医療大学明治維新明治用水明治製菓明治館明治薬科大学明治通り明治機械明治文化全集明治書院明海グループ昭和昭和天皇易経海軍大学校海軍省浅野長勲新聞新聞紙条例新貨条例新暦文久文明開化日墨修好通商条約日墺修好通商航海条約日露戦争日英同盟日英通商航海条約日比谷日比谷焼打事件日清修好条規日清戦争日朝修好条規日本 (新聞)日本の仏教日本の国旗日本の警察官日本の鉄道開業日本史時代区分表日本国籍日本国憲法日本法日本海海戦旧暦旗本旅順口区旅順攻囲戦摂政改元改進党改暦政体書政商政権政治体制政教分離原則愛媛県愛国公党憲政党憲政本党教育ニ関スル勅語慣習法慶安慶応承応所領思案橋事件10月12日10月1日10月23日10月26日11月29日12月1日12月2日 (旧暦)12月3日 (旧暦)12月4日 (旧暦)1860年代1870年代1871年1880年代1890年代1900年1901年1911年1912年ストックホルムオリンピック19世紀1月1日1月9日2000年代2009年2010年2011年2017年2019年2月11日2月13日2月14日2月1日2月24日3月1日4月11日 (旧暦)4月14日4月29日5月18日 (旧暦)5月3日6月20日6月27日6月28日7月29日7月30日7月8日8月31日9月20日9月30日9月8日 (旧暦)