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日本の書道史

索引 日本の書道史

日本の書道史(にほんのしょどうし)では、有史以来、現在までの日本における書道の歴史を記述する。この記事では時代ごとに、その背景・書風・筆跡・書人・教育など書に関連した事跡を記す。

目次

  1. 602 関係: 加藤千蔭助詞埼玉県立さきたま史跡の博物館厳島神社博覧会即非如一千字文古墳古事記古今和歌集古典古筆古筆了佐古文書台東区立書道博物館右筆名古屋大学出版会名古屋市美術館吉田苞竹墨 (書道雑誌)多田親愛多賀城碑多胡碑大原重徳大口周魚大学大学寮大宝律令大乗仏教大久保利通大徳寺大倉集古館大聖武大阪市立美術館大正大江朝綱大沼枕山大澤雅休大政翼賛会天平天平宝字天皇天鳳 (元号)天明天智天皇太政官 (明治時代)奥付奴国奈良国立博物館奈良県立橿原考古学研究所... インデックスを展開 (552 もっと) »

加藤千蔭

加藤 千蔭(かとう ちかげ、享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。通称は又左衛門。字は常世麿。号は芳宜園など。

見る 日本の書道史と加藤千蔭

助詞

助詞(じょし)とは、日本語の伝統的な品詞の一つである。他言語の後置詞、接続詞に当たる。

見る 日本の書道史と助詞

埼玉県立さきたま史跡の博物館

将軍山古墳展示館 入口 埼玉県立さきたま史跡の博物館(さいたまけんりつさきたましせきのはくぶつかん)は、埼玉県行田市のさきたま古墳公園(9基の大型古墳からなる埼玉古墳群(国の特別史跡)を整備した公園)内にある博物館である。1969年(昭和44年)開館。

見る 日本の書道史と埼玉県立さきたま史跡の博物館

厳島神社

境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。 平成8年(1996年)12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。

見る 日本の書道史と厳島神社

博覧会

博覧会(はくらんかい)とは、物品や資料などを集めて一般公開する催しのことである。 様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年、フランス革命の時期のパリで開催された。1849年までにパリで11回にわたり開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年にフランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催された。 本項では、日本における主な博覧会を歴史的に記述する。

見る 日本の書道史と博覧会

即非如一

即非如一(そくひ にょいつ、万暦44年5月14日(1616年6月27日)- 寛文11年5月20日(1671年6月26日))は、江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は林氏。字は即非。福建省福州府福清県の出身。

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千字文

『千字文』(せんじもん、中国語ピンイン:Qiānzìwén)は、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。すべて異なる1000の文字が使われている。

見る 日本の書道史と千字文

古墳

じじょうしている。画像は国土航空写真。 古墳(こふん)とは、。

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古事記

真福寺収蔵の『古事記』(国宝。信瑜の弟子の賢瑜による写本) 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)「解説」は、日本の日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物である「一 古事記」。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。上中下の3巻。内容は天地のはじまりから推古天皇の記事である。 8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典と見なされ、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある「第一章 神話と叙事詩の時代 四 日本紀、祝詞、風土記」。

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古今和歌集

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の歌集。全二十巻 国立文化財機構「e国宝」(2024年4月19日閲覧)。醍醐天皇の命により編纂され、905年(延喜5年)に奏上され、最初の勅撰和歌集として位置づけられる。後世の勅撰和歌集の範となり、国風文化、歌論を中心とした日本文学に影響を残した。 仮名序(後述)と全二十巻が揃った最古の写本は、平安時代後期にあたる元永3年(1120年)の奥書がある上下巻である(所謂「元永本古今和歌集」)。 略称を『古今集』(こきんしゅう)といい、更に「古今」と呼ばれることもある(古今伝授など)。 日本の国歌『君が代』歌詞の源流は、『古今和歌集』に収められた読み人知らずの賀歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(343番)である。

見る 日本の書道史と古今和歌集

古典

古典(こてん)は、古い書物、形式のこと。また、長く時代を超えて規範とすべきもののこと。 英語のclassic/classical、またはそれに相当する西洋語の単語の訳に使われる。これらの語は、分野によっては、古典派と訳されたり、(classicかclassicalかを問わず)クラシックと音訳されたりすることもある。古典と訳されることのない用語については、#関連項目を参照。 古典の定義は、分野によって、厳密に決まっているものも、曖昧なものもある。「注釈書がたくさん書かれている本が、古典だ」と述べているものもいる。曖昧な場合、その基準は衆知、あるいは(自称)識者の決するところによるため、価値観や世代の違いに影響されやすい。

見る 日本の書道史と古典

古筆

古筆(こひつ)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様の名筆をさしていう。時にはもっと範囲を狭くしてその名筆中でも特に「かな書」をさす。単に古代の筆跡という意味ではない。 また、僧による名筆は墨跡と呼ばれ区別される 春名好重 『古筆百話』 淡交社 1984 ISBN 447300872X pp.10-13.。

見る 日本の書道史と古筆

古筆了佐

古筆 了佐(こひつ りょうさ、元亀3年(1572年) - 寛文2年1月28日(1662年3月18日))は、近江国生まれの古筆鑑定家。古筆家初代。 本姓は平沢、通称は弥四郎、諱は範佐(のりすけ)といい、出家して名を了佐と改めた。その後、古筆の鑑定を専業とするため、関白・豊臣秀次の命により古筆に改姓した。 手鑑や茶会の床の掛物として古筆切の鑑賞が盛行すると、その筆者が誰であるのかということが重要になってくる。そして鑑定を依頼するようになり、古筆の真贋を鑑定する古筆鑑定家が生まれた。大村由己、鳳林承章、烏丸光広など多くの人が鑑定に携わっていたが、古筆了佐はこの古筆の鑑定を生業とした酒本弘「『古筆名葉集』に見る古今集」(「古今和歌集」『墨』P.26 - 28)。

見る 日本の書道史と古筆了佐

古文書

古文書(こもんじょ)とは、特定の対象に伝達する意志をもってする所の意思表示の所産である。広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は古記録と区別されることがある。

見る 日本の書道史と古文書

台東区立書道博物館

台東区立書道博物館(たいとうくりつ しょどうはくぶつかん)は、東京都台東区根岸にある中国および日本の書道に関する博物館。

見る 日本の書道史と台東区立書道博物館

右筆

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

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名古屋大学出版会

名古屋大学出版会(なごやだいがくしゅっぱんかい)は、1982年に任意団体として設立され、「中部地方の、さらにはわが国の学術・文化の振興に寄与するため」1985年に財団法人化された大学出版会であり、中部地方を軸に、広く全国の大学・研究機関の研究者による研究書・大学教科書等の出版を行っている。 これまで、名古屋大学を中心としながらも、愛知教育大学、名古屋工業大学、愛知県立大学、名古屋市立大学、愛知学院大学、金城学院大学、椙山女学園大学、中京大学、中部大学、名古屋学院大学、南山大学などの各大学が、理事・評議員を出してきた。 公益法人制度改革に伴い、2012年に一般財団法人となった。 1998年、梓会出版文化賞特別賞を受賞、また2006年には、「学術分野での先駆的出版活動」に対して中日文化賞を受賞している。研究書・大学教科書(単著・共著・翻訳)を中心に、大部の著作も積極的に刊行するのが特徴で、2024年3月31日現在で出版点数は1129点、受賞件数は262件に及ぶなど編集には定評がある。

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名古屋市美術館

名古屋市美術館(なごやしびじゅつかん、英語表記:Nagoya City Art Museum)は、愛知県名古屋市中区の白川公園(「芸術と科学の杜」)内にある美術館である。 1988年(昭和63年)4月22日に開館。建物は建築家である黒川紀章の代表作として名高い。地元出身でもある黒川が名古屋城や大須観音、熱田神宮など名古屋の伝統的な建築物の意匠を随所に取り入れている。鴻池組施工。

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吉田苞竹

吉田 苞竹(よしだ ほうちく、明治23年(1890年)12月20日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県生まれの書家である。字は子貞、苞竹は号で、別号に無為庵主人・逍遙窟主人・清泉などがある。晩年の作品の落款には「苞竹懋」・「懋」など、懋を使用していることが多い。

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墨 (書道雑誌)

『墨』(すみ)は、芸術新聞社発行の隔月刊書道専門誌。 1976年7月に創刊(発行人は小針代助)され、2024年5月の2024年5・6月号で288号を迎えた。現在の発行人は相澤正夫。タイトルロゴは米芾の「墨」の字。 2008年より『墨』評論賞を設け、2017年まで10回を数えた。 2023年には大東文化大学書道研究所と芸術新聞社の共同企画である『38の書斎 書家が語る文化と墨縁』の発刊に際し、芸術新聞社の業績として本誌の発行が示されている。

見る 日本の書道史と墨 (書道雑誌)

多田親愛

多田親愛 多田 親愛(ただ しんあい、天保11年11月15日(1840年12月8日) - 明治38年(1905年)4月18日)は、明治時代の歌人、書家。本名も親愛であるが「ちかよし」と読む。号には翠雲、雲亭がある。

見る 日本の書道史と多田親愛

多賀城碑

多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。1998年(平成10年)6月に国の重要文化財に指定され、2024年(令和6年)3月15日に文化庁文化審議会によって国宝への指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)。 当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。

見る 日本の書道史と多賀城碑

多胡碑

多胡碑 多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)。多胡郡の建郡を記念して和銅4年(711年)頃に建碑された。 国の特別史跡に指定されており、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」に登録されている。また、書道史の上からは日本三古碑の一つとされる。

見る 日本の書道史と多胡碑

大原重徳

大原 重徳(おおはら しげとみ、1801年11月21日(享和元年10月16日)- 1879年(明治12年)4月1日)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿。権中納言・大原重尹の五男。官位は従二位・権中納言、贈正二位。

見る 日本の書道史と大原重徳

大口周魚

大口 周魚(おおぐち しゅうぎょ、元治元年4月7日(1864年5月12日) - 大正9年(1920年)10月13日)は、名古屋生まれの歌人、書家、古筆研究家、宮内省御歌所寄人。本名は鯛二(たいじ)、本名の「鯛」の字を分けて周魚と号した。

見る 日本の書道史と大口周魚

大学

ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵。 日本の学習院大学の正面玄関。 日本を代表する国立大学の東京大学(安田講堂) 大学(だいがく、college、university)は、学術研究および教育における高等教育機関。 日本の現在の学校教育制度では、高等学校もしくは中等教育学校卒業者、通常の課程による12年の特別教育を修了した者、またはこれと同等以上の学力を有する者を対象に専門的な高等教育を行うものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて学位(短期大学士、学士、修士、専門職学位、博士)の学位授与を行う(なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる)。大学は通例「最も程度の高い学問を学ぶ学校」とされ、最高学府ともいうしたがって、最高学府=東京大学とすることは誤用である。

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大学寮

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。

見る 日本の書道史と大学寮

大宝律令

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。

見る 日本の書道史と大宝律令

大乗仏教

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、महायान, Mahāyāna、Mahāyāna Buddhism、)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称であり、単一の派を指しているわけではない保坂俊司監修 『決定版 よくわかる世界三大宗教―キリスト教・イスラム教・仏教』 学研パブリッシング、2012年、118頁。。日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は釈迦の死後、500年以降に成立しており、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判(大乗非仏説)にあった。 大乗仏教は、出家による自力救済を説く初期仏教(阿含経に色濃く反映)の世界観・救済観を乗り越える形で形成・発展されてきたという経過があるため、釈迦の教えそのものから(少なくとも言語表現上)変容している面があり、その特色は初期仏教(阿含経)の内容と対比することでより鮮明になる。大乗仏教に分類される代表的な仏教経典としては、般若経(般若心経はその核心を簡潔に記したもの)、法華経、浄土三部経、華厳経、(大乗の)涅槃経、大日経、金剛頂経などが挙げられる。

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大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の内閣総理大臣。

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。

見る 日本の書道史と大徳寺

大倉集古館

大倉集古館(おおくらしゅうこかん)は、東京都港区虎ノ門二丁目にある日本初の私立美術館である。日本・東洋の古美術を中心に収蔵する。運営は公益財団法人大倉文化財団。

見る 日本の書道史と大倉集古館

大聖武

大聖武(おおじょうむ)は、奈良時代に書写された賢愚経の一本。紙本墨書。 聖武天皇宸筆の伝承があり、また1行12字前後の堂々とした大字で書写されていることからの名称。その書風は、龍門造像記(特に始平公造像記)との類似が指摘され、またその影響は奈良時代後期の写経に認められるとする意見もある。料紙はマユミを原料とする真弓紙(檀紙)で、混入する粒子を骨粉に見立て荼毘紙と呼ばれている。もと17巻か。 東大寺戒壇院に伝来したが、遅くとも室町時代後期には流出し切断された。聖武天皇宸筆の伝承と風格ある字形から珍重され、手鑑の冒頭に押されることが定式化されるなど人気の高い古写経であるが、結果として度重なる切断を招き数行程度の遺品が多い。

見る 日本の書道史と大聖武

大阪市立美術館

大阪市立美術館(おおさかしりつびじゅつかん)は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館した。2019年より大阪市博物館機構が運営している。

見る 日本の書道史と大阪市立美術館

大正

大正(たいしょう)は、日本の元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。 日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間をという。本項ではこの時代についても記述する。

見る 日本の書道史と大正

大江朝綱

大江 朝綱(おおえ の あさつな)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・学者・書家。丹後守・大江玉淵の子。官位は正四位下・参議。 同じく参議に至った祖父音人が江相公と称されたことから、後江相公と称された。

見る 日本の書道史と大江朝綱

大沼枕山

肖像画。明治半ばすぎの最晩年まで髷(まげ)を結った。(大沼千早蔵) 大沼枕山(おおぬま ちんざん、文化15年3月19日(1818年4月24日) - 明治24年(1891年)10月1日)は、江戸時代後期から明治前期の漢詩人。名は厚、字は子寿、通称は捨吉、号は水竹居、臺領、枕山。野にあって詩人として生き、最期まで髷姿を通した。 墓は東京都台東区谷中の瑞輪寺にある。縁者にあたる永井荷風は『下谷叢話』で枕山の人となりを愛惜こめて伝えている。

見る 日本の書道史と大沼枕山

大澤雅休

大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年12月17日 - 1953年9月12日)は、昭和時代の日本の書道家。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。

見る 日本の書道史と大澤雅休

大政翼賛会

大政翼賛会(たいせいよくさんかい、)は、1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在した日本の政治結社。公事結社(公益のみを目的とする結社。後述のように、日本独自の概念である)として扱われる。「大政」は、天下国家の政治、「天皇陛下のなさる政治」という意味の美称、「翼賛」は、力を添えて(天子を)たすけること。

見る 日本の書道史と大政翼賛会

天平

天平(てんぴょう、)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。

見る 日本の書道史と天平

天平宝字

は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。

見る 日本の書道史と天平宝字

天皇

天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。

見る 日本の書道史と天皇

天鳳 (元号)

天鳳(てんぽう)は、新の王莽の治世に行われた2番目の元号。14年 - 19年。

見る 日本の書道史と天鳳 (元号)

天明

天明(てんめい、)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。

見る 日本の書道史と天明

天智天皇

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

見る 日本の書道史と天智天皇

太政官 (明治時代)

太政官(だじょうかん)とは、明治維新が開始された慶応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された最高行政機関である。立法・行政・司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。明治18年(1885年)に内閣制度の発足に伴い、廃止された。

見る 日本の書道史と太政官 (明治時代)

奥付

とは、本の本文が終わった後や巻末に設けられる書誌に関する事項(書誌事項)が記述されている部分。 和書には奥書を付ける慣習がある。洋書には通常は奥付はなく扉に標題、著者名、出版社、出版年等を記す図書館用語辞典編集委員会『最新図書館用語大辞典』柏書房、2004年、433頁。

見る 日本の書道史と奥付

奴国

奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多い。

見る 日本の書道史と奴国

奈良国立博物館

奈良国立博物館(ならこくりつはくぶつかん)は、奈良県奈良市登大路町にある、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は井上洋一。2020年3月31日時点で、国宝13件、重要文化財114件を含む収蔵品の総数は1,911件。これとは別に、国宝52件、重要文化財306件を含む総数1,974件の寄託品を収蔵している。2019年度の平常展の展示替え件数は239件、展示総件数は461件。同年度の来館者数は約61万人で、平常展来場者は約16万人。

見る 日本の書道史と奈良国立博物館

奈良県立橿原考古学研究所

奈良県立橿原考古学研究所 奈良県立橿原考古学研究所(ならけんりつかしはらこうこがくけんきゅうしょ)は、奈良県橿原市畝傍町に設置された県立の埋蔵文化財調査研究機関。奈良県に属する機関である。 現在まで存続している公的な埋蔵文化財研究機関としては最も古い歴史を持つ。橿考研(かしこうけん)と略されることもある。主に奈良県内の遺跡発掘調査を手がけ、初期の纒向遺跡をはじめ、ホケノ山古墳、黒塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、藤ノ木古墳、高松塚古墳などの学史に残る著名な古墳や、飛鳥京跡や東大寺、唐招提寺などの発掘で全国に名を知られる。附属博物館を併設するほか、宇陀市に室生埋蔵文化財整理収蔵センターを設置している。

見る 日本の書道史と奈良県立橿原考古学研究所

奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、第43代元明天皇により平城京(奈良・現奈良県奈良市)や聖武天皇の難波宮に都が置かれた時代。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。

見る 日本の書道史と奈良時代

妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園妙心寺町にある臨済宗妙心寺派の大本山の寺院。山号は正法山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約5,650か寺のうち、約3,350か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

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学会

学会(がっかい、英語: learned society、scholarly society、academic associationなど)は、学問や研究の従事者らが、自己の研究成果を公開発表し、その科学的妥当性をオープンな場で検討論議する場である。また同時に、査読、研究発表会、講演会、学会誌、学術論文誌などの研究成果の発表の場を提供する業務や、研究者同士の交流、文化団体として学者の利益を代表するなどの役目も果たす機関でもある。

見る 日本の書道史と学会

実業家

実業家(じつぎょうか、businessperson)は、商工業、金融など経済的な事業を営む人物。 業を経済的な側面を考慮し人的、財政的、知的に資本と物理的資本の組み合わせを利用してキャッシュフロー、売上、収益を生み出す目的で開発と成長を促す側面があり、起業家は実業家、ビジネスマンの一例である。英語の「ビジネスパーソン」という用語は、創業者、所有者、大多数の株主を指す場合がある。また、経営幹部が所有者ではないにもかかわらず、ビジネスの日常的な運営や管理を担当する高級幹部を表すために使用することもできる。 この用語は企業、組織、または代理店の上位管理職に携わる人を意味する場合もある。 これは企業、会社、組織、または代理店の総管理を担当する創業者、所有者、マネージャ、エグゼクティブ、または管理者に特に当てはまる。

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宣命

宣命(せんみょう)とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。宣命体は、漢字仮名交じり文の源泉となった文体で、かなの発達史上、大変重要な文書である。

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代を指す。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。

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宮城

宮城(みやぎ、みやぐすく、みやしろ、きゅうじょう); 日本の地名。

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宮島詠士

宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる上條信山 pp..111-112横山淳一 p.227渡部清 p.111。

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関のひとつ。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為である外国大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務および御璽・国璽の保管等を所管する内閣府の機関である。 なお、宮内庁は以前は総理府の外局(総理府設置法17条)であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条、第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法第48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。

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宸翰

宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰の書風を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。 鎌倉時代末期の伏見天皇を筆頭に、能書家の天皇が多かったため、日本の書道史上重要な作品も多い。著名な能書帝には伏見の他、「三筆」の一人に数えられる嵯峨天皇、伏見と共に宸翰様を代表する後醍醐天皇(およびその父の後宇多天皇)、後柏原院流を開いた後柏原天皇(およびその息子の後奈良天皇)などがいる。

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宗峰妙超

宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られている。 諱は妙超、道号は宗峰。播磨(兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都の大徳寺の開山。

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日〈貞観9年5月5日〉- 931年9月3日〈承平元年7月19日〉)は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)。 諱は定省(さだみ)。 後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。

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宇治橋断碑

宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は、京都府宇治市の橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑の断片で、大化2年(646年)に僧道登が架橋したと記す。日本現存最古の石碑のひとつと考えられる。重要文化財。

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安井息軒

安井 息軒(やすい そっけん、寛政11年1月1日〈1799年2月5日〉 - 明治9年〈1876年〉9月23日)は、江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。日向国宮崎郡清武郷(現・宮崎県宮崎市)出身。飫肥藩士。その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。門下からは谷干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。妻の佐代は、森鷗外の歴史小説『安井夫人』のモデル。 有名な言葉としては「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」。

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安土桃山時代

安土城 豊臣秀吉 伏見城(洛中洛外図屏風の中の伏見城の部分) 聚楽第を描いている聚樂第屏風圖(三井文庫蔵) 安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋・南宋もともに、宋・宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。

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寺子屋

寺子屋(てらこや)とは、江戸時代の上方において、寺院で手習師匠が町人の子弟に読み書き・計算等を教えた学問施設。

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寂厳

寂厳(じゃくごん、元禄15年9月17日(1702年11月6日) - 明和8年8月3日(1771年9月11日))は、江戸時代中期の真言宗の僧。備中・足守藩の藩士の家の生まれとされる。俗姓は富永氏。字は諦乗。備中国都羅島(現在の岡山県倉敷市内)宝島寺の僧。墨書に秀でて、近世四大書僧あるいは江戸時代中期の桑門三筆とも呼ばれる。

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寂室元光

寂室元光(じゃくしつげんこう、正応3年5月15日(1290年6月23日)- 貞治6年/正平22年9月1日(1367年9月25日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。美作高田の出身。俗姓は藤原氏。一説によれば小野宮藤原実頼の後裔とされる。諱は元光。道号は初め鉄船と号したがのちに寂室と称する。諡号は円応禅師、昭和3年11月には正燈国師の諡号あり。

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寂蓮

寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。

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寛永

寛永 (かんえい、寛󠄁永)は、日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1644年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。

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尊円法親王

尊円法親王(そんえんほうしんのう、永仁6年8月1日(1298年9月7日)- 延文元年/正平11年9月23日(1356年10月17日))は、青蓮院第十七世門跡。伏見天皇の第6皇子。母は三善俊衡の娘。初名は守彦親王。尊円入道親王とも。

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尊円流

尊円流(そんえんりゅう)は、尊円法親王が興した書の流派(書流)である。青蓮院流(しょうれんいんりゅう)、御家流(おいえりゅう)、粟田流(あわたりゅう)とも呼ばれる。

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尊道入道親王

尊道入道親王(そんどうにゅうどうしんのう、正慶元年8月21日〈1332年9月11日〉 - 応永10年7月5日〈1403年7月24日〉)は、青蓮院第十八世門跡。天台座主(第134世・138世・145世)。後伏見天皇の第11皇子。母は権大納言正親町実明の女。初名は尊省。尊道法親王とも。

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小大君

上畳本 歌仙絵 小大君(こおおきみ、天慶3年(940年)から天暦4年(950年) - 寛弘2年(1005年)もしくは寛弘8年(1011年)頃藤原朝光と恋愛関係にあったのは、『小大君集』の詞書から、朝光が右少将だった天禄元年(970年)12月10日から、蔵人に転ずる天禄4年(973年)正月8日までに限定される。当時、小大君は20代から30歳頃だったと推測できることから、生年を逆算。また、源頼光が美濃守任官期(長保3年(1001年)から寛弘2年(1005年))に小大君は歌を贈っている。更に三条天皇が東宮だったのは、寛和2年(986年)から寛弘8年(1011年)までで、この頃まで生きていたのは確実である。

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小学校

小学校(しょうがっこう)は、初等教育を施し、学校系統上最も基礎的な段階をなす学校であり、国際標準教育分類(ISCED)では一般的にISCED-1に分類される。 英語表記には、米国式のElementary Schoolと英国式のPrimary Schoolがあるが、いずれも「初等学校」という意味であり、日本の文部科学省では米国式のElementary Schoolという表記を用いている。 どこまでを小学校と区切るかは様々であり、6・3制もあれば、4・3・2制も存在し、一方で15歳までの小中一貫教育を行う国もある。

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小野道風

小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。官位は正四位下・内蔵頭。 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。

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小野鵞堂

小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日(1862年3月11日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。

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小野湖山

小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。

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小林斗盦

小林 斗盦(こばやし とあん、1916年2月23日 - 2007年8月13日)は、日本の書道家、篆刻家である。埼玉県生まれ。本名は庸浩(こうよう)、号は斗盦(斗庵)。全日本篆刻連盟会長。篆刻家初の文化勲章受章者。勲三等瑞宝章。 篆刻家・河井荃廬、書家・西川寧に師事。

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小松茂美

小松 茂美(こまつ しげみ、男性、1925年3月30日 - 2010年5月21日)は、古筆学者、美術史学者。

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小杉榲邨

小杉 榲邨(こすぎ すぎむら、天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)は、国学者。阿波国(現徳島県)出身。 小杉榲邨。

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尾上柴舟

尾上 柴舟(おのえ さいしゅう/しばふね、1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。

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屏風

屏風(びょうぶ)とは、部屋の仕切りや装飾に用いる調度品の一種。木の枠に小さなふすまのようなものを数枚つなぎ合わせて折り合わせた構造である。「風を屏(ふせ)ぐ」という言葉に由来する。元々は、布団の枕元に立てて冷気を防ぐ風よけのためにあり、昔は屏風をすべて「枕屏風」と呼んでいた。今ではそれに絵画などを描く美術品として扱われる。

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屏風土代

尋春花」の「尋来から春鳥」を参照) 屏風土代(びょうぶどだい)は、醍醐天皇の勅命に応じて小野道風が書いた屏風の下書き土代とは下書きのこと。である。三の丸尚蔵館蔵書道全集 pp.154-156小松茂美 p.367。国宝。

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山岡鉄舟

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、)。諱は高歩(たかゆき、)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

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山中静逸

山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年10月16日) - 明治18年(1885年)5月25日)は、三河国碧海郡棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)出身の書家・政治家である。山中 信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。 幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。号を信天翁、静逸と称した。

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山ノ上碑

山ノ上碑 山ノ上碑 拓本 山ノ上碑(やまのうえのひ/やまのうえひ、山上碑)は、群馬県高崎市山名町にある古碑。隣接する山ノ上古墳(山上古墳)と合わせて国の特別史跡に指定されている(指定名称は「山上碑及び古墳」)。 日本国内で完全な形で残るものとしては最古の石碑とされる。金井沢碑・多胡碑とともに「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」に登録されている。

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山本竟山

山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日(1863年11月9日) - 昭和9年(1934年)1月24日)は、近代日本の書家。名は由定。竟山、聾鳳と号した。美濃国厚見郡岐阜町(現在の岐阜県岐阜市)の出身。

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岡本半介

岡本 半介(おかもと はんすけ、文化8年11月21日(1812年1月5日) - 明治31年(1898年)4月12日)は、幕末期の彦根藩の家老、漢詩人。半介は初代岡本宣就以来続く代々の襲名で、この幕末の有名な半介は黄石の号で知られる人物である。諱は宣迪、字は吉甫。

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岡本椿所

岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈明治3年12月1日〉 - 1919年〈大正8年〉10月10日『』(平凡社、1957年)p.570 - 国立国会図書館デジタルコレクション)は、近代日本の篆刻家である。 本名は岡本義邦(旧姓・山名)、字は叔礼、椿所は号。津山出身。

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、、1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。

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岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、岩波書店が刊行する新書シリーズである。

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、)は、日本の出版社である。 文芸・学術の幅広い分野における専門書から一般啓蒙書までを広く扱い、国内外の古典的著作を収めた「岩波文庫」や「岩波新書」などの叢書や、国語百科事典『広辞苑』の刊行でも有名。

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岸田吟香

岸田 吟香(きしだ ぎんこう、1833年6月15日(天保4年旧暦4月28日)、一説に同天保4年旧暦4月8日(1833年5月26日)- 明治38年(1905年)6月7日は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。

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島崎藤村

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂。越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。

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島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。 同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。

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川原寺

川原寺(かわらでら)は、飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村川原)にあった仏教寺院。跡地は国の史跡に指定されている。 飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を継承する。

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川崎克

川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に実業家の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫、川崎秀人は曾孫にあたる。

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川田甕江

川田 甕江(かわた/かわだ おうこう、文政13年6月13日(1830年8月1日) - 明治29年(1896年)2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。本名は剛(たけし)であるが、これは師である山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。号は毅卿(きけい)。錦鶏間祗候。

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川村驥山

川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 - 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。

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巻子本古今和歌集

巻子本古今和歌集(かんすぼんこきんわかしゅう)は、平安時代後期(12世紀初め)に書写された『古今和歌集』の古写本。巻子装。伝称筆者は源俊頼だが、書風などから藤原定実を筆者とするのがほぼ定説である。平安古筆の代表的遺品の一つ。

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巻物

巻物(まきもの)とは、図書形態の1つ。巻子本(かんすぼん、けんすぼん)ともいう。また、装丁法は巻子装本(巻子装)という。

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巻菱湖

巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家・漢詩人・文字学者である。篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名・飛白の7体を巧妙に書くことが出来たが、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は世に広く書の手本として用いられ(千字文など)、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。

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巖谷小波

巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。

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巖谷一六

巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日(1834年3月17日) - 明治38年(1905年)7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。

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上代特殊仮名遣

上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)とは、上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた、古典期以降には存在しない仮名の使いわけのことである。 名称は国語学者・橋本進吉の論文「上代の文献に存する特殊の仮名遣と当時の語法」に由来する。単に「上代仮名」とも呼ばれる。

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上代様

上代様(じょうだいよう)とは、平安時代の三跡の書や古筆などの和様書と仮名書の総称である。平安時代中期の古筆(仮名書)だけを指す場合もある。

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上品蓮台寺

上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は、京都市北区紫野十二坊町(蓮台野の附近)にある真言宗智山派の寺院。山号は蓮華金宝山。院号は九品三昧院。本尊は延命地蔵菩薩。

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上田桑鳩

上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月11日 - 1968年〈昭和43年〉9月4日)は、日本の書道家である。 前衛書道の分野でよく知られる。本名は上田順(旧姓:藤田)。 兵庫県三木市(旧美嚢郡吉川町)奥谷出身。二松學舍専門学校卒。

見る 日本の書道史と上田桑鳩

上條信山

上條 信山(かみじょう しんざん、1907年9月20日 - 1997年2月12日)は、日本の教育者、書家。信山は号で、本名は周一。宮島詠士に師事し、独自の書風を確立。戦後、毛筆書道を学校教育で復活させる必要性を訴え、実現させた。文化功労者。

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帝国劇場

帝国劇場(ていこくげきじょう)は、東京都千代田区丸の内三丁目にあるプロセニアム形式の劇場である。1911年(明治44年)3月1日開場、3月4日に杮落し公演の初日を迎えた。収容人数は1,897人。東宝が運営している。帝劇(ていげき)の通称で知られる。

見る 日本の書道史と帝国劇場

師範学校

師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、戦前の日本および日本の統治地域に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関のひとつ。 1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等師範学校。東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)の固有名称であった。これが1873年(明治6年)8月に他の6大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称したため、以降「師範学校」は教員養成機関の総称となった。 修了までの年限は高等小学校卒業後4年(後に5年)、中等教育課程(旧制中学校等)修了者は1年(後に2年)。

見る 日本の書道史と師範学校

中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。

見る 日本の書道史と中央公論新社

中学校

中学校(ちゅうがっこう、 国立教育政策研究所(2018年月14日閲覧))は、日本における中等普通教育を施す学校である。修業年限は3年間で、小学校の6年間とあわせ9年間の義務教育を構成する。就学については原則として満12歳となった最初の4月1日を基準とする年齢主義がとられている。

見る 日本の書道史と中学校

中国の書家一覧

中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。

見る 日本の書道史と中国の書家一覧

中国の書道史

『蘭亭序』(部分)王羲之 中秋帖』王献之書 中国の書道史(ちゅうごくのしょどうし)では、有史以来、清代までの中国における書の歴史について、その背景・書体の変遷・書風・筆跡・書人・書論など書に関連した事跡を記す。

見る 日本の書道史と中国の書道史

中国の書論

功宣禮楽。妙擬神仙。猶挺埴之罔窮西林 P.57。 中国の書論(ちゅうごくのしょろん)では、中国における書論の概要と歴史を記す。

見る 日本の書道史と中国の書論

中国文明

「チャイナ (china)」という磁器。欧米文化圏では中国文明を代表するものとして認識されている 武則天、中国史上初で唯一の女性皇帝 「鶴梅松」という清王朝の時の水墨画、北京故宮博物館所属 中国文明(ちゅうごくぶんめい)とは、中国本土における文明・文化などの総称である。世界最古の文明の一つであり、東アジアにおける中心文化でもある。歴史的には同文化圏内で広大な地域や人口を保有し、中国各地の文化は四千年もの発展を経た。中華文明あるいは中華文化とも。 中国大陸だけに限らず、香港・台湾・マカオ・マレーシア・シンガポール等の中華圏や、日本・韓国・ベトナム・モンゴル等の漢字文化圏の国々にもかなり重要な影響を与えた。

見る 日本の書道史と中国文明

中田勇次郎

中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、明治38年(1905年)1月7日 - 平成10年(1998年)10月23日)は、日本の文学者。大谷大学教授・京都市立美術大学など歴任。専門は書道史、中国文学。号は有廬(ゆうろ)、書斎を心花室(しんげしつ)と称した。

見る 日本の書道史と中田勇次郎

中華民国

中華民国(ちゅうかみんこく、中華民國、、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、Republic of China)は、東アジアに位置する共和制国家。実効支配している領土の大半が台湾島であることと、中華人民共和国が「一つの中国」原則を唱えている政治情勢により、台湾(たいわん、臺灣/台灣、Taiwan)が通称として国際的にしばしば使用されている。現在(1949年以降)の首都は台北市。 アジアで2番目の共和国アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であると見なす場合。ただし、当時のフィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下から脱し切れていなかったため異論がある。

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中林梧竹

中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。号は梧竹、別号に剣閣主人など。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。

見る 日本の書道史と中林梧竹

中村不折

中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られる。本名:中村鈼太郎(なかむら さくたろう)。 中国の書の収集家としても知られ、唐代の書家である顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「顔真卿自書建中告身帖」などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現:台東区立書道博物館)を開館した。

見る 日本の書道史と中村不折

中村正直

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎。字は敬輔、号は敬宇、鶴鳴、梧山。洗礼名はジョン(John)。

見る 日本の書道史と中村正直

中村春堂

中村 春堂(なかむら しゅんどう、1868年(慶応4年)7月3日 - 1960年(昭和35年)3月14日(享年93歳)は、日本の能書家。漢学者中村芳平の子。仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。

見る 日本の書道史と中村春堂

中沢雪城

中沢 雪城(なかざわ せつじょう、文化7年(1810年) - 慶応2年2月1日(1866年3月17日))は、江戸時代後期に活躍した書家。名は俊卿、字は子国、通称を行蔵という。雪城は号で雪生とも号した。堂号は蕭間堂。

見る 日本の書道史と中沢雪城

帰依

仏教用語において帰依(きえ、saraṇagamana、梵: )とは、拠り所にするという意味。 一般的に仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、仏・法・僧を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる。宗教的には仏教以外の教えを信じることをやめ、「五戒」を守ることを誓ってはじめて正式な仏教徒となるのである。 サンスクリットの「 शरण」パーリの「saraṇa」は、保護所・避難所という意味である。いわゆる中国語には「依帰」という言葉が『書経』に出てくるが、この場合は「頼りにする」という程度の意味である。

見る 日本の書道史と帰依

丹羽海鶴

丹羽海鶴顕彰碑(岐阜県中津川市田瀬)「春如海(はるうみのごとし)」 丹羽 海鶴(にわ かいかく、文久3年11月25日(1864年1月4日) - 昭和6年(1931年)7月5日)は、岐阜県生まれの書家。本名は正長、幼名は金吾、字は寿郷、海鶴は号。晩年には落款に海隺とも書いた。日下部鳴鶴に師事。

見る 日本の書道史と丹羽海鶴

世尊寺家

世尊寺家(せそんじけ)は、藤原北家から出た公家。九条流の嫡流であった摂政藤原伊尹の孫行成を祖とする。 「三跡」「四納言」として知られた初代・行成以降、代々入木道(書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。

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世尊寺行季

世尊寺 行季(せそんじ ゆきすえ、文明8年(1476年) - 享禄5年2月11日(1532年3月17日))は、戦国時代の公卿・書家。世尊寺家の最後の当主。参議・世尊寺行康の養子。実は権大納言・清水谷実久の子。官位は正二位・参議。

見る 日本の書道史と世尊寺行季

世尊寺行能

世尊寺 行能(せそんじ ゆきよし、治承3年(1179年) - 建長7年(1255年)?)は、鎌倉時代前期の公卿・能書家・歌人。太皇太后宮亮・藤原伊経の長男。官位は従三位・右京大夫。世尊寺家の第8代目当主。「世尊寺」の家名は行能の代より用いられたとされている。

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世尊寺流

世尊寺流(せそんじりゅう)は、平安時代、藤原行成を祖とする和様書道の流派の一つ。小野道風、藤原佐理のあとをうけて上代様の書風を完成したとされる。書風は、世尊寺様とも呼ばれ、宮廷や貴族などでは最も権威ある書法として用いられた。 藤原行成が晩年、母の里方の代明親王の邸宅に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立し、またその子孫が世尊寺家を名乗り、代々そこを住居としたためこの名で呼ばれた。 初代藤原行成から17代を数えるが、1532年(享禄5年)、17代目世尊寺行季没をもって、世尊寺家は断絶し、それにより世尊寺流は断絶した。

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市河寛斎

市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年6月16日(1749年7月29日) - 文政3年7月10日(1820年8月18日))は、江戸時代の儒学者で漢詩人。名は世寧、字は子静、嘉祥、号は寛斎、半江、江湖詩老。

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市河米庵

市河 米庵(いちかわ べいあん、安永8年9月16日(1779年10月25日) - 安政5年7月18日(1858年8月26日))は、江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。 名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。また米葊河とも呼ぶ。

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万葉仮名

元暦校本『万葉集』、額田王の歌 万葉仮名(まんようがな)は、古代の日本で日本語を表記するために漢字(真名)の音を借用(仮借)して用いられた文字である。片仮名や平仮名の誕生前の日本において、漢字のみで日本語を記述するために用いられ、『萬葉集』(万葉集)での表記に代表されるため万葉仮名と呼ばれる。 万葉仮名は、漢字(真名)を使った仮名の始まりとされ、真仮名(まがな)、真名仮名(まながな)とも言い、用法上は仮名の一種だが、字形としては漢字である。9世紀に入ると、この万葉仮名をもとに片仮名や平仮名が考案され使われ始めた。

見る 日本の書道史と万葉仮名

万葉集

元暦校本万葉集 「万葉集」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。

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三十六歌仙

三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)は、藤原公任の『三十六人撰』(さんじゅうろくにんせん)に載っている平安時代の和歌の名人36人の総称である。36人の家集を集大成した現存する最古の写本は、西本願寺本三十六人家集である。 これに影響されて、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙などが後世にできた。 なお連句の形式で三十六句のものを「歌仙」と呼ぶのは、これにちなんだものである。

見る 日本の書道史と三十六歌仙

三島中洲

三島 中洲(みしま ちゅうしゅう、文政13年12月9日(1831年1月22日) - 大正8年(1919年)5月12日)は、江戸時代末期から大正時代の漢学者、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者である。重野安繹、川田甕江とともに明治の三大文宗の一人に数えられる。正三位。大東文化協会初代理事長。 本名は毅で、字は遠叔、通称貞一郎、中洲は号。 地元の名族三村氏の子孫を称した。

見る 日本の書道史と三島中洲

三井家

三井家(みついけ)は、藤原道長の六男藤原長家、近江源氏六角氏の後裔と自称する商人、華族だった日本の家。江戸時代の豪商、三井財閥の創業者一族で、宗家と2分家は華族の男爵家にも列した。

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三井記念美術館

三井記念美術館(みついきねんびじゅつかん)は、東京都中央区日本橋室町にある、旧財閥三井家の伝来品を収蔵展示するために設立された、公益財団法人三井文庫が運営する私立美術館である。

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三国時代 (中国)

三国の勢力圏とその地方行政区分の変遷 三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の勃発(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)あるいは三国が分立した229年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末) 215年に曹操(華北地域)、劉備(巴蜀・荊州地域)、孫権(江南地域)によって後の三国のそれぞれの勢力範囲が概ね確立した。220年に曹操の子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて'''魏'''を建国し、221年に劉備が漢(蜀漢)、229年に孫権が'''呉'''の皇帝としてそれぞれ即位し、三国が正式に鼎立した。

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三筆

空海(三筆の領袖神田喜一郎 p.21) 三筆(さんぴつ)は、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3名の並称である。時代によりそれぞれの三筆が存在するが、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3名を嚆矢とする春名好重 pp.106-107。

見る 日本の書道史と三筆

三経義疏

『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書(義疏、注疏)である。 『日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』と『法華経』を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。

見る 日本の書道史と三経義疏

三越

三越(みつこし、)は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店である。戦前の三井財閥及び、現在の三井グループの源流企業であった。 また、株式会社三越()は、2011年3月31日までこれを運営していた会社である。

見る 日本の書道史と三越

三跡

三跡(さんせき)は、書道の能書家として平安時代中期に活躍した小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名を指す。 用字は三蹟とも綴られる。入木道の三蹟(じゅぼくどうのさんせき)ともいう。彼らの生きた平安時代には三賢といわれた。 同様にその時代を代表する能書家を指す三筆は他にも存在するが、書道における影響で三跡が上位とされる。

見る 日本の書道史と三跡

三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。三条家31代。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、)。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣臨時代理も兼任している。

見る 日本の書道史と三条実美

一山一寧

一山一寧(いっさん いちねい)は、元の渡来僧。俗姓は胡。台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。寧一山ともいう。

見る 日本の書道史と一山一寧

一休宗純

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

見る 日本の書道史と一休宗純

丙戌

丙戌(ひのえいぬ、へいかのいぬ、へいじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの23番目で、前は乙酉、次は丁亥である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の戌は陽の土で、相生(火生土)である。

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。

見る 日本の書道史と九条兼実

九条良経

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。関白・九条兼実の次男。官位は従一位・摂政、太政大臣。九条家2代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。

見る 日本の書道史と九条良経

平城京

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう/ならのみやこ)は、奈良時代の日本の首都。710年に藤原京から遷都するにあたり、唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。現在の奈良県奈良市、大和郡山市に存在する。 中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊 (約 4.3 km) の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。 大阪湾や淡路島(八島のひとつ)にも近い奈良盆地(奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部)には、5世紀中頃にはすでに天皇陵である佐紀盾列古墳群が作られ、またのちには大神神社、7世紀には興福寺も建立されているが、京となった8世紀には、東大寺や巨大な仏像である東大寺盧舎那仏像、法華寺などが建立された。

見る 日本の書道史と平城京

平家納経

『平家納経』(へいけのうきょう)は、古代日本の装飾経(装飾を凝らした写経)の一つ。平安時代に平家一門がその繁栄を願って厳島神社に奉納した一品経であり、装飾経および附属物の総称である。『厳島納経(いつくしま - )』「厳島経」ともいう。

見る 日本の書道史と平家納経

平安京

平安京創生館の展示物)正面側から見た平安京。条坊制を採用しており、街路が直交する 東山 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、日本における古代最後の宮都。794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。 桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の長安城を模して793年(延暦12年)から建設された。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。 遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都であり、1869年(明治2年)まで続いた日本大百科全書「平安京」。今日の京都市街が形成されるに至る。

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。

見る 日本の書道史と平安時代

平仮名

平仮名(ひらがな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。異体字は変体仮名と呼ばれる。

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が漢字の八のように末広がりになった旧字体「異体字セレクタを用いたUnicodeの符号位置はU+5E73,U+E0101またはU+5E73,U+0103」を用いる(大正末期創業のため)。

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyoto)は、日本の地名、都市。794年以降日本の首都であった平安京が位置し、都もしくは京などとも呼ばれていた。古くから日本の政治・文化の中心地として栄え、金閣寺や清水寺をはじめとする文化財が多く残る地域である。 現在京都といえば、広義では京都府を、狭義ではその府庁所在地たる自治体の京都市、もしくはその中心部の地域を指す。

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京都国立博物館

京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん)は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。1897年(明治30年)5月に開館した。現館長は松本伸之。 主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2–4回行われている。 2020年3月31日時点で、国宝29件、重要文化財200件を含む収蔵品の総数は8,130件。これとは別に、国宝88件、重要文化財615件を含む総数6,520件の寄託品を収蔵している。2019年度の平常展の展示替え件数は1,140件、展示総件数は1,147件。同年度の来館者数は約38万人で、平常展来場者は約16万人。

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京都霊山護国神社

京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)は、京都市東山区清閑寺霊山町にある神社(護国神社)。現在は神社本庁の管理を離れた別表神社。神紋は桜に菊。境内の東側は維新の志士らを祀る霊山墓地となっている。

見る 日本の書道史と京都霊山護国神社

府中

府中(ふちゅう)。

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二玄社

二玄社(にげんしゃ/英記 Nigensha Co, Ltd)は、日本の出版社。書道等の東洋美術専門の出版社として設立された。自動車雑誌「カーグラフィック」創刊以降は、「書道・美術部門」と「自動車関係部門」の2部門を特徴としていたが、『NAVI(ナビ)』誌の休刊と『カーグラフィック』誌の移管以降は美術関連のみ取り扱っている。

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広沢真臣

広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日))は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治の武士(長州藩士)、政治家。維新の十傑の1人。賞典禄は1,800石。

見る 日本の書道史と広沢真臣

五山文学

五山文学(ござんぶんがく)は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。

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五島美術館

五島美術館(ごとうびじゅつかん)は、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある美術館。1960年(昭和35年)4月18日に開館し、所蔵品は日本・東洋の古美術を中心に国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件にのぼる。運営主体は公益財団法人五島美術館で、同法人は五島美術館および大東急記念文庫の運営を行っている。

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井伊直憲

井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江彦根藩第17代(最後)の藩主。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。

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井土霊山

井土 霊山(いど れいざん、1859年(安政6年) - 1935年(昭和10年)7月22日)は、日本のジャーナリスト、文筆家、漢詩人、自由民権家。

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亀井南冥

亀井 南冥(かめい なんめい、寛保3年8月25日(1743年10月12日) - 文化11年3月2日(1814年4月21日))は、江戸時代の儒学者、医者、教育者、漢詩人。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生まれる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。

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亀田鵬斎

亀田鵬斎像 谷文晁画 北村探僊縮模 亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい、宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。

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仏典

仏典(ぶってん)とは、仏教典籍の略称で、仏教の聖典の総称である。「律蔵」「経蔵」「論蔵」という分類形態から三蔵とも呼ばれる。言語的には、パーリ語・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語、チベット語、モンゴル語、満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。 大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の阿含経典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀の言葉」という意味である。 大乗仏教の代表的な仏典としては、『般若経』、『維摩経』、『涅槃経』、『華厳経』、『法華三部経』、『浄土三部経』、『金剛頂経』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によってサンスクリット語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする大乗非仏説もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としてのブッダの説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。

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仏足跡歌碑

仏足跡歌碑(ぶっそくせきかひ)は、奈良県奈良市の薬師寺に伝わる奈良時代の歌碑。仏(釈迦)の足跡を礼拝する功徳などを詠んだ和歌21首から成る。その歌を仏足跡歌(仏足石歌)といい、そのすべてが仏足跡歌体と呼ばれる特殊な形式で作られている。文字は、平易な漢字に統一された一字一音式の万葉仮名で表現され、上下2段に刻まれている。 仏足跡を石に刻んだものを仏足石というが、753年(天平勝宝5年)の年紀を有する仏足石が本歌碑とともに薬師寺の大講堂に安置されている。その仏足石と歌碑が、もと一具のものであったとする文献はないが、本歌は、仏足石の周囲を回りながら謡われた歌と推定されている。歌碑の製作年代は不明であるが、その歌の内容や用字法などから770年(宝亀元年)ごろと見なされている。

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仏教

仏教(佛敎、ぶっきょう、बौद्धधर्म、ພຸດທະສາສະໜາ、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。仏陀(仏、目覚めた人、Buddha)の説いた教え。キリスト教・イスラム教に次ぐ世界宗教の1つで、世界で4番目に大きな宗教である(信者の数はヒンドゥー教の方が多いが、ヒンドゥー教は信者がほぼインドに限られているため、世界宗教とは言いがたい)。世界人口の7%である5億2000万人以上が仏教徒(信者)であり、特に東アジア、東南アジア、南アジアで広まっている。 教義は苦の輪廻からの解脱を目指す。原因と結果の理解に基づき、諸々の現象が縁起するとされる。

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仮名 (文字)

仮名(かな)とは、日本語の表音文字の一種。漢字を基にして日本で作られた文字を指す。古代の万葉仮名に起源を持つ。漢字の字義を捨て表音文字として用いる(借字・仮借)ことからこのように呼ぶ。 現在一般には平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節を表す音節文字に分類される。漢字(かんじ)に対して和字(わじ)ともいう。

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仮名交じり文

仮名交じり文(かなまじりぶん)とは、漢字を主体としてこれに仮名を含めて書かれた文章。

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延暦

は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する。 平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。 比叡山、または叡山(えいざん)とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺(ほくれい)、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。「建仁寺の学問面」などと呼ばれる。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。 俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。 なお、しばしば日本最初の禅寺といわれるが、これは間違いで、博多の聖福寺(妙心寺派)が最初の禅寺である。

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建武中元

建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。『後漢書』の光武帝紀では中元となっているが、祭祀志・東夷伝(倭伝)では「建武中元」となっており、「中元」は「建武中元」の誤写か省略だと考えられている。

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伊勢華

伊勢 華(いせ さかえ、1822年(文政5年) - 1886年(明治19年)2月1日『国民過去帳 明治之巻』216頁では明治19年1月31日没。)は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。倉敷県知事。宮内省京都支庁長官。名は華、諱は氏華、字は君韡、通称は織之助、瀬兵衛、(北条)新左衛門、変名は小淞、秋航、管田。旧姓は北条。

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伊藤博文

伊藤博文(いとう ひろぶみ、、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 大久保利通らの路線を受け継いで初代内閣総理大臣に就任し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。 4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め、一次内閣時には大日本帝国憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた。その他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した。 今太閤とも称されたように、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引した、日本及びアジアの近代史を代表する人物の一人。

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、1265年5月10日〈文永2年4月23日〉- 1317年10月8日〈文保元年9月3日〉)は、日本の第92代天皇(在位:1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉- 1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉)。諱は熙仁(ひろひと)。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。 持明院統の天皇で、在位中には大規模な訴訟制度改革を実行。皇太子時代より新しい歌風を模索し、京極為兼とともに京極派を成立させ、『玉葉和歌集』の勅撰を行った。書道にも優れ、「書聖」とも称される。

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弥生時代

弥生時代(やよいじだい、)は、日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代」とされる。年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立した。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。

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弘仁

は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。

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張猛龍碑

張猛龍碑(ちょうもうりょうひ)は、中国の南北朝時代、北朝の北魏で正光3年(522年)に彫られた地元官吏の顕彰碑。六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟として知られる。 原石は現在も山東省曲阜の孔廟内に保存されている。

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佐藤慶太郎

佐藤 慶太郎(さとう けいたろう、1868年11月22日〈明治元年10月9日〉1940年(昭和15年)1月17日)は、福岡県出身の実業家。

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何如璋

何 如璋(か じょしょう、1838年 - 1891年)は、清末の官僚、外交官。初代駐日公使。字は子峨。広東省潮州府大埔県出身。 同治7年(1868年)に進士となり、翰林院に入った。光緒3年(1877年)に初代駐日公使となり3年間在職、光緒5年(1879年)の琉球処分に際しては、日本の強行措置に対し強く抗議した。一方で清日の提携路線を模索し、アジア主義の先駆けである興亜会に対しては外国人会員となって歓迎していたが、日本に警戒感も抱いていたという。高名な文人であったことから、大河内輝声など私的交流を望む日本の文人墨客の訪問が絶えなかった。著書に『使東述略』があり、駐日公使時代に見聞した明治維新の様子が記述されている。同書は近代中国人による日本見聞録としては、羅森(マシュー・ペリーの中国人通訳)の『日本日記』に次ぐものとなった。

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征夷大将軍

江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。

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徐三庚

徐 三庚(じょ さんこう、1826年 - 1890年)は、中国清朝末期の篆刻家である。 字は詵郭、号は金罍山民・井罍山民・褎海・似魚室主・翯然散人。紹興府上虞県の人。

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御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本14巻、古写本12巻が伝わる。国宝に指定。現存する世界最古の直筆日記とされ、平成23年(2011年)5月には、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦、平成25年(2013年)6月18日に登録された。

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御家流

御家流(おいえりゅう)とは、身分の高い家において伝承される流儀、あるいは藩における公式の流儀のこと。したがって、本来は家や藩によって異なる流儀を指すことになるが、芸道では単に御家流と言った場合に特定の流儀を指すことがある。

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御物

御物(ぎょぶつ、古典では ごもつ、おもの とも)は、日本の皇室の私有品になっている絵画、書跡、刀剣などである。 「御物」の用例としては、室町幕府8代将軍足利義政の所蔵品を指して「東山御物(ひがしやまごもつ)」、徳川家伝来の名物茶道具を指して「柳営御物(りゅうえいごもつ)」などと言う場合があるが、単に「御物」と言えば皇室の私有物を指し「ぎょぶつ」と読むのが通例である。

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。

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徳川美術館

源氏物語絵巻 竹河二 徳川美術館(とくがわびじゅつかん)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園に隣接する、公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品など。2019年現在で、国宝9件、重要文化財59件を収蔵する。国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭礼図屏風、「初音の調度」などの所蔵品で知られる。

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、1220年4月1日〈承久2年2月26日〉- 1272年3月17日〈文永9年2月17日〉)は、日本の第88代天皇(在位:1242年2月21日〈仁治3年1月20日〉- 1246年2月16日〈寛元4年1月29日〉)。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は源通宗の娘の通子。 2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。後嵯峨天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では3月17日、グレゴリオ暦では3月24日となるが、約140年間にわたり1日後の3月25日に祭祀を行っていたことになる。

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後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、、1359年1月11日〈延文3年12月12日〉- 1393年6月6日〈明徳4年4月26日〉)は、日本の北朝第5代天皇(在位:1371年4月9日〈応安4年3月23日〉- 1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉)。諱は緒仁(おひと、)。 後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女の広橋仲子(崇賢門院、実父は石清水八幡宮の神職善法寺通清〈紀通清〉)。仲子の実姉紀良子が生母にあたる室町幕府第3代将軍足利義満とは、従兄弟同士に当たる。 譲位後の永徳3年(1383年)には、配偶者にあたる三条厳子(後小松天皇生母)への傷害事件を起こしている。

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。

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後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、1464年11月19日〈寛正5年10月20日〉 - 1526年5月18日〈大永6年4月7日〉)は、日本の第104代天皇(在位:1500年11月16日〈明応9年10月25日〉 - 1526年5月18日〈大永6年4月7日〉)。諱は勝仁(かつひと)。 後土御門天皇の第一皇子。母は庭田重賢の女の庭田朝子(蒼玉門院)。

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後漢

後漢(ごかん、後漢、、25年 - 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢(東漢、)と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋の范曄で、「志」の編纂者は西晋の司馬彪。

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律令制

律令制(りつりょうせい)とは、中国の律令・律令法に基づく国家の法体系・制度を指す。 また古代日本において、それを取り入れた体系・国家制度・統治制度を指す。本稿では主にこの日本の制度を述べる。

見る 日本の書道史と律令制

応神天皇

応神天皇(おうじんてんのう、、仲哀天皇9年12月14日 - 394年?〈応神天皇41年2月15日〉)は、第15代天皇。『日本書紀』での名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)。記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。

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志紀郡

志紀郡(しきぐん)は、かつて河内国・堺県・大阪府にあった郡。

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志賀島

志賀島および海の中道(手前)を空撮(2021年) 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島(半島)である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。

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土方久元

土方 久元(ひじかた ひさもと、1833年11月23日〈天保4年10月12日〉 - 1918年〈大正7年〉11月4日)は、日本の政治家。栄典は正二位勲一等伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。

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医師

医師(いし、doctor、physician)は、医療および保健指導を司る医療従事者である。医学に基づく傷病の予防、診療および公衆衛生の普及を責務とする職業。医者とも俗称される。

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北原白秋

北原 白秋(きたはら はくしゅう、本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。 詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。

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北山抄

『稿本北山抄』巻10(部分、藤原公任撰・筆、京都国立博物館蔵、国宝、縦30.3cm) 北山抄(ほくざんしょう)は、平安時代中期に成立した私撰の儀式書。藤原公任の撰。全10巻。『北山納言記』・『四条大納言記』・『四条記』とも。

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北島雪山

北島 雪山(きたじま せつざん、寛永13年(1636年) - 元禄10年閏2月14日(1697年4月5日))は江戸時代前期の書家・陽明学者。黄檗僧などから文徴明の書法を学び、唐様の書風の基礎を築いた。 名は三立、雪山・雪参・花隠・蘭隠・花谿子・蘭隠立・蘭畹等と号した。肥後の人。

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北碑

北碑(ほくひ)は、中国の南北朝時代、北魏を中心に彫られた北朝の金石文の総称。対義語は「南帖」(なんじょう)。北魏に多く制作されたことから魏碑とも呼ばれることがある。 清代の考証学者・阮元の唱えた「北碑南帖論」に由来する語である。実際には南北朝時代の書は完全に南北には分かれないというのが現在の見解であるが、今も北朝側の書蹟を総称する端的な言葉として一般的に用いられている。

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北方心泉

北方 心泉(きたがた しんせん、嘉永3年4月28日(1850年6月8日) - 明治38年(1905年)7月29日)は真宗大谷派の僧侶。書家としても知られる。心泉は号、俗名は蒙(きざし)。 北方心泉/矢吹雲岳他2名共作。

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北方文化博物館

大広間の南面座敷 北方文化博物館(ほっぽうぶんかはくぶつかん)は、新潟県新潟市江南区沢海(そうみ)にある戦後初の私立博物館。第二次世界大戦後の農地改革で、財団法人(史蹟文化振興会)の道を選択し、豪農・伊藤文吉の邸宅を米国連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育部門(CIE)の長として着任したラルフ・E・ライト中尉の援助のもと、博物館として整備した。美術工芸品や考古資料等を展示している。運営主体は一般財団法人北方文化博物館。理事長は八代目伊藤文吉没後、伊藤家南浜分家当主・伊藤勝也(新潟分館館長)が就任した。 分館として新潟市中央区南浜通に会津八一が晩年を過ごした新潟分館、新発田市大栄町に新発田藩下屋敷であった清水園(しみずえん)がある。

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

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僧(そう、संघ Saṃgha)は、サンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。 「僧伽に属する人々」の意である僧侶(そうりょ)が転じて個人を僧と呼ぶことが多くなっていったが、原義として僧とは戒師により親しく具足戒(波羅提木叉)を授けられ(=受戒)、これを守る出家修行者たちの集団そのものを集合的に指す。

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フォッグ美術館

フォッグ美術館(フォッグびじゅつかん、Fogg Art Museum)は、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学に付属する美術館。 実業家ウィリアム・ヘイズ・フォッグのコレクションを基に1895年に開設。 その後、グレンヴィル・リンドール・ウィンスロップ(1864年-1943年)のコレクションが加わった。印象派、後期印象派、ラファエロ前派、ピカソのコレクションが充実している。

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初唐の三大家

九成宮醴泉銘』(部分)欧陽詢筆 雁塔聖教序』(部分)褚遂良筆 初唐の三大家(しょとうのさんたいか)とは、中国の唐代の初期に、皇帝である太宗に仕えた書の大家である欧陽詢・虞世南・褚遂良の3名を指す。

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、786年10月3日〈延暦5年9月7日〉- 842年8月24日〈承和9年7月15日〉)は、日本の第52代天皇(在位:809年5月18日〈大同4年4月1日〉- 823年5月29日〈弘仁14年4月16日〉)。 諱は神野(賀美能・かみの)。嵯峨源氏の祖に当たる。 桓武天皇の第五皇子(諸説あり)。母は皇后の藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り。

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周興嗣

周 興嗣(しゅう こうし、470年? - 521年)は、中国南北朝時代における南朝の王朝である斉および梁に仕えた官僚で文章家。字(あざな)は思纂。初学者むけの漢字習得用・習字用のテキストとして知られる『千字文』の撰者である。

見る 日本の書道史と周興嗣

呉大澂

呉 大澂(ご だいちょう、Wú Dàchéng、1835年 - 1902年)。本来の名は「大淳」であって、のちに清の同治帝の名の載淳を避諱して「大澂」に改めた。字は止敬または清卿、号は恒軒または愙斎。清末の金石学者、書画家。

見る 日本の書道史と呉大澂

和銅

は、日本の元号のひとつ。慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。

見る 日本の書道史と和銅

和様

和様(わよう)とは、日本風あるいは、日本様式の事物を意味し、中国風・中国様式を意味する唐様に対して用いられる。狭義では和様建築を指して用いられる場合が多いが、書道をはじめとして絵画や彫刻など、日本美術史において日本風が顕著になった平安時代中期から後期にかけての作品に対して広く用いられる用語である。ただし、和様とされるものの多くは純粋な意味での日本古来のものではなく、その原形は飛鳥・奈良時代に唐から受容された文物を日本の風土と日本人の感性に合わせる形で改良することによって成立した文化様式である。 9世紀半ば以後、中国を支配してきた唐の衰退に伴って遣唐使が派遣されることが無くなり(894年に正式に廃止)、代わって日本独自の文化(国風文化)が登場するようになった。特に日本語表記が確立された点が大きく、仮名の使用は長い間女性に限定されていたと言われてきたが、実際には和歌を中心として男性が非公式の場において平仮名を用いる事もあり、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』も平仮名交じりの文体が採用されている。日本語の表記において漢字と仮名が交用されていく中で漢字の点画も平仮名のような曲線を帯びるようになっていった。こうした中で書道において、和様の書道が形成されるようになる。

見る 日本の書道史と和様

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」「哥」の字が宛てられることもある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、俳句、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、一般には和歌には含めない。 長歌と短歌を合わせて和歌という分類方法もある。原則的に日本語で作成したものを指し、英語俳句のような外国の短歌は和歌には含めない。 明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称し「和歌」とは称さないことがある。

見る 日本の書道史と和歌

や行え

この項目では、や行え段(やぎょうえだん、ye)について述べる。

見る 日本の書道史とや行え

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

見る 日本の書道史と唐

儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。

見る 日本の書道史と儒学者

冷泉家時雨亭文庫

冷泉家表門 公益財団法人冷泉家時雨亭文庫(れいぜいけ しぐれてい ぶんこ)は、京都市上京区にある公益財団法人。 藤原定家の子孫であり、歌道の家として知られる冷泉家(上冷泉家)に伝わる古写本、建築、年中行事などの文化遺産を保存活用し、冷泉流歌道を継承することを目的として設立された。主たる事務所の所在地は京都市上京区今出川通り烏丸東入ル玄武町。

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円山大迂

円山 大迂(まるやま たいう、天保9年(1838年) – 大正5年11月5日(1916年))は、近代日本の篆刻家である。 名は真逸。名古屋の人。

見る 日本の書道史と円山大迂

円仁

円仁(えんにん、)は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。

見る 日本の書道史と円仁

写経

国立歴史民俗博物館展示。 写経(しゃきょう)とは、仏教において経典を書写すること、または書写された経典のことを指す。 写経は、印刷技術が発展していなかった時代には仏法を広めるためにされていた。また、複数の僧侶が修行・講義・研究するために写経をすることは必要なことであった。その後 、写経することに功徳があると言われるようになった。

見る 日本の書道史と写経

出光美術館

出光美術館(いでみつびじゅつかん)は、東京都千代田区丸の内及び福岡県北九州市門司区の門司港レトロ地区にある、東洋古美術を中心とした美術館である。運営は、東京の「出光美術館」が公益財団法人出光美術館、門司の「出光美術館(門司)」が公益財団法人出光佐三記念美術館。

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兪樾

兪 樾(ゆ えつ、、1821年12月25日(道光30年12月2日) - 1907年2月5日(光緒32年12月23日))は、中国清代末期の学者・文人。字は「蔭甫」、号は「曲園」、堂号は「春在堂」。

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公家

日本の公家 公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、源氏・平氏・藤原氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。

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六朝

六朝(りくちょう)とは三国時代の呉・東晋および南朝の宋・斉・梁・陳つまり六国王朝。建康(建業)つまり現・中華人民共和国江蘇省南京市を都としていた。 呉滅亡(280年)から東晋成立(317年)までを含む「222年 - 589年」を六朝時代(りくちょうじだい)と呼び、六朝時代の文化を六朝文化(りくちょうぶんか)と呼ぶ場合もある。

見る 日本の書道史と六朝

元 (王朝)

元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。

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元勲

元勲(げんくん)とは、歴史上の王政復古(朝権回復)に対して大きな功績があった者をさす用語で、現在に至るまでに古代の大化改新、中世の建武新政、近代の明治維新の三度の革新があったが、近代日本においては特に明治維新によって政界に影響力を持った有力政治家を指すことが多い。

見る 日本の書道史と元勲

元永本古今和歌集

元永本古今和歌集(げんえいぼんこきんわかしゅう)は、平安時代末期(12世紀)に書写された『古今和歌集』の古写本。仮名序および全20巻を完存する『古今和歌集』の写本としては、最古の遺品。綴葉装(列帖装)冊子本、上下二帖。平安時代後期、元永3年(1120年)頃に書写され、仮名書道の絶頂期における代表的古筆の一つ。伝称筆者は源俊頼だが、書風から藤原定実を筆者とするのがほぼ定説である。国宝。東京国立博物館蔵。

見る 日本の書道史と元永本古今和歌集

元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、661年〈斉明天皇7年〉 - 721年12月29日〈養老5年12月7日〉)は、日本の第43代天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。 女性天皇(女帝)の一人。諱は、阿閇(あへ)。阿陪皇女(あへのひめみこ)とも。天智天皇第四皇女子。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

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光武帝

光武帝(こうぶてい)こと劉秀(りゅう しゅう、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことにより「光」、禍乱を平定したことにより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。

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光明皇后

光明皇后(こうみょうこうごう、701年〈大宝元年〉- 760年7月23日〈天平宝字4年6月7日〉)は、聖武天皇の皇后で孝謙天皇の生母。藤原不比等と県犬養橘三千代の子で、聖武の母藤原宮子は異母姉。一般に知られる光明皇后という名前は、在世中に名乗った光明子(こうみょうし)に因んで後世に付けられたもので、『拾遺和歌集』が初出である。本来の尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)。諱は安宿媛(あすかべひめ)。そのほかに藤三娘(とうさんじょう)などの署名が現存するほか、法名は沙弥万福と伝わる。本記事での呼称は光明子で統一する。 光明子は不比等が権力基盤を固めつつあった時期に生まれ、藤原氏を中心とした権力闘争や皇位継承など、周囲に政争が絶えない生涯を過ごした。とくに光明子自身の立后および息子基王と娘阿倍内親王の立太子などの前例のない政治的決定と、紫微中台による政治運営において、その中心にいた人物である。光明子は藤原氏あるいは不比等の娘であることを強く意識しており、またこの頃の政策には則天武后の政策をなぞらえるものも多く、光明子と則天武后を関連付ける見方も少なくない。しかし、それらの政争・皇位継承・政治運営に光明子の意向がどの程度働いたのかは記録にほとんど残されておらず、断片的な情報から研究されている状況である。そのため、光明子を「病弱でひ弱な聖武を傀儡とした」「女帝に即位する野心があった」などと権力欲をもった人物と評する意見もあるいっぽうで、藤原武智麻呂や藤原仲麻呂ら藤原氏の権力掌握に利用されただけとの見方もあり、評価が分かれる人物である。

見る 日本の書道史と光明皇后

前田黙鳳

前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 - 大正7年(1918年)11月19日)は、播州龍野(兵庫県たつの市)生まれの書家。名は圓、字は士方、黙鳳は号で、別号に龍野人がある。

見る 日本の書道史と前田黙鳳

前田育徳会

公益財団法人前田育徳会(まえだいくとくかい)は、加賀藩主前田家伝来の古書籍、古美術品、刀剣などの文化遺産を保存管理する公益法人。元文部科学省所管。所在地は東京都目黒区駒場。所蔵の古書籍類は尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)の名で知られる。

見る 日本の書道史と前田育徳会

前衛書道

前衛書道(ぜんえいしょどう)とは、前衛的に書かれる書道のこと。 第二次世界大戦後に新しい芸術観に基づいて起こった革命的な書道芸術運動によって開拓された新しい書道の分野。運動の先駆者には主に上田桑鳩や宇野雪村、比田井南谷が挙げられる。 その後、急速に発展し、現在では盛んに書かれている分野の一つになった。 墨象(ぼくしょう) とも呼ばれる。

見る 日本の書道史と前衛書道

前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。西漢(せいかん)とも呼ばれる。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。

見る 日本の書道史と前漢

副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日〈1828年10月17日〉- 明治38年〈1905年〉1月31日)は、日本の政治家。侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

見る 日本の書道史と副島種臣

勝山城博物館

勝山城博物館(かつやまじょうはくぶつかん)は、福井県勝山市平泉寺町にある天守風建築物の博物館。天守風の建物の高さは57.8メートルあり、日本一の高さである。姫路城天守に似せたコンクリート製模擬天守であり、二の丸、三の丸、馬出などの曲輪は存在しないが、堀や城門は重厚な造りになっている。石垣には勝山市を流れる九頭竜川と、勝山市から発見される恐竜化石にちなんで9匹の龍が彫り込まれており、通常の城郭建築ではないことを強調している。

見る 日本の書道史と勝山城博物館

勝海舟

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。東京都本所出身。

見る 日本の書道史と勝海舟

勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編纂された歌集。 『古今和歌集』(延喜5年(905年)成立)に始まり、『新続古今和歌集』(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集が編纂された。このことから「二十一代集」と総称される。さらに編纂時期により、「八代集」(『古今集』から『新古今集』)と「十三代集」(『新勅撰集』から『新続古今集』)に大別され、八代集のうち最初の三集は特に「三代集」(『古今集』・『後撰集』・『拾遺集』)と呼ばれる。また、このほかに南朝で編纂された『新葉和歌集』があるが、これは準勅撰集に位置づけられる。 なお、後水尾天皇は『類題和歌集』を、霊元天皇は『新類題和歌集』を勅撰させたが、これらは二十一代集や一般的な勅撰和歌集に含まれない。

見る 日本の書道史と勅撰和歌集

回向院

両ごく回向院元柳橋(歌川広重「名所江戸百景」のうち) 回向院(えこういん)は、東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院、および、過去にその別院であった東京都荒川区南千住五丁目にある寺院。

見る 日本の書道史と回向院

国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん、, 略称:れきはく、歴博)は、千葉県佐倉市の佐倉城趾にある、日本の歴史、民俗学、考古学を総合的に研究・展示する歴史博物館。国立の研究機関かつ教育機関で、人間文化研究機構が運営している。展示総件数は約9千件、収蔵資料件数は約22万件。建物は芦原義信の設計で、第24回BCS賞を受賞した。

見る 日本の書道史と国立歴史民俗博物館

国立文化財機構

独立行政法人国立文化財機構(こくりつぶんかざいきこう、英:National Institutes for Cultural Heritage)は、文化庁所管の中期目標管理法人たる独立行政法人。 独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所が統合して2007年4月に設置された。役職員は非公務員型。法人本部所在地は東京国立博物館内。主務大臣は、文部科学大臣。文部科学省内における所掌部署は、文化庁文化財部美術学芸課美術館・歴史博物館室。 有形文化財を収集・保管し国民の観覧に供するとともに、調査・研究により文化財の保存と活用を図ることを目的としている(独立行政法人国立文化財機構法第3条「機構の目的」より)。

見る 日本の書道史と国立文化財機構

国風文化

国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。 江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。

見る 日本の書道史と国風文化

四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。 宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

見る 日本の書道史と四天王寺

犬養毅

犬養 毅(いぬかい つよし毅は「つよき」とも称する(参照:、国立国会図書館)。憲政記念館では「つよき」と表記する。また『犬養木堂伝』上巻(東洋経済新報社、昭和13年)口絵(ノンブルなし)の憲政国民党時代「」では「イヌカヒ ツヨキ」となっている。昭和3年の選挙ポスターに於いては「イヌカイ キ」としている。、、1855年6月4日〈安政2年4月20日〉- 1932年〈昭和7年〉5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。 中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。

見る 日本の書道史と犬養毅

石山寺

石山寺の寺紋。 石山寺硅灰石 (国の天然記念物) 多宝塔と紅葉 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。開山は良弁。西国三十三所第13番札所。 鷲尾光遍が1910年(明治43年)石山寺座主となって以来、座主は旧華族鷲尾家が世襲している。 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

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石川丈山

石川 丈山(いしかわ じょうざん、天正11年(1583年) - 寛文12年5月23日(1672年6月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。父は石川信定(石川正信の子)。三河国出身 京都観光Navi(京都市観光協会)、2021年3月9日閲覧。。大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲し、丈山と号した。子には石川之昌が、子孫に石川竹厓がいる。 江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。 諱は初め重之、後に凹、通称は初め三彌、後に嘉右衛門、字は丈山、号は六六山人、四明山人、凹凸窠、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東渓、三足など。

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石川九楊

石川 九楊(いしかわ きゅうよう、男性、1945年〈昭和20年〉1月13日 - )は、昭和・平成時代の日本の書家・書道史家。京都精華大学客員教授。同大学表現研究機構文字文明研究所所長。 福井県今立郡粟田部町(1956年以降は同郡今立町。現在の越前市粟田部町)出身。京都大学法学部卒業。

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石上神宮

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

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王仁

王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である(記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ鈴木靖民「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」志田諄一マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、記録では楽浪郡の王氏という言及はなく、百済人である記録だけ存在する。また志田諄一も王氏を名乗る朝鮮系の人々が存在したことを認めている:。一方、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立しておらず、この矛盾については、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されており、実在の人物とは認め難いとする説も多数存在する。また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」。

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王維

王 維(おう い、生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 - 上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家・書家・音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。本貫は太原郡祁県。 同時代の詩人李白が“詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物・孟浩然・柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。

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王羲之

王羲之 王 羲之(おう ぎし、、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれている。本貫は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市蘭山区)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族の琅邪王氏の出身である。 曾祖父は王覧(王祥の弟)。祖父は王正。父は王曠(東晋の淮南郡太守)。妻は郗鑒の娘の郗璿。子は王玄之(長男)・王凝之(次男)・王渙之(三男)・王粛之(四男)・王徽之(五男)・王操之(六男)・王献之(七男)。子孫に王楨之(王徽之の子)・智永らがいる。

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王韜

王韜 王 韜(おう とう、Wang Tao、1828年11月10日 - 1897年5月24日)は、清末の改革派思想家、政治評論家、ジャーナリスト。字は紫詮、蘭卿。号は天南遁叟、甫里逸民、淞北逸民、欧西富公、弢園老民、蘅華館主、玉鮑生、尊聞閣王など。「長毛状元」とも呼ばれた。

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王莽

王莽が発行した貨幣の一種。小刀を模した形状であり、「一刀平五千」の名で五銖銭5000枚分の名目価値とされた。 王 莽(おう もう、前45年 - 23年10月6日)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后の王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟にあたる。王曼の次男。子は王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡ら。娘は平帝の皇后王氏・王曄・王捷ら。孫(王宇の子)は王千・王寿・王吉・王宗・王世・王利。孫娘(王宇の娘)は王妨(王宗の姉。衛将軍に任じられた王興の妻)・王氏(下の名前は不明。定安公に封じられた後の孺子嬰の妻)。兄は王永。甥(王永の子)は王光。正妻は丞相王訢の孫の宜春侯王咸の娘。

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碑帖

碑帖(ひじょう)とは、。

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神山鳳陽

神山鳳陽(ごうやま ほうよう、文政8年(1824年) - 明治22年(1889年))は、明治時代に活躍した書家・漢詩人である。 名は述、字を為徳・古翁、号は鳳陽のほかに、三野々史・三野老人・至明。通称四郎。美濃の人。

見る 日本の書道史と神山鳳陽

神代文字

かむながら」と書かれている。 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)は、「漢字伝来以前に存在した」とみなされる、日本語を表記する固有の文字のことである。

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神護寺

神護寺(じんごじ)は、京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある高野山真言宗の遺迹(ゆいせき)本山の寺院。山号は高雄山。本尊は薬師如来。開基は和気清麻呂である。

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祝允明

祝允明書『嵆康酒会詩』 祝 允明(しゅく いんめい、天順4年12月6日(1461年1月17日) - 嘉靖5年12月27日(1527年1月28日))は、中国明代の書家、文人、官吏 ブリタニカ国際大百科事典。 字は希哲、号は枝山・枝指生。(現蘇州市)出身。多指症のため生まれつき右手の指が6本あった 国立故宮博物院。1492年郷試に合格したが、進士の試験には落第し続けた。1514年広東省興寧県(現興寧市)の県令を経て、1521年首都南京の応天府の通判に任ぜられたが、病気を理由に1年足らずで帰郷した。 詩文をよくし、唐寅・文徴明・徐禎卿とともに「呉中四才子」の一人に数えられる。

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福岡市博物館

福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん)は、福岡県福岡市早良区に位置する市立博物館である。

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福岡県

福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は福岡市。 九州地方北部に位置し、九州地方の県では最も人口が多い。県庁所在地の福岡市は、九州地方最多の人口を擁する市であり、西日本ここでは近畿・中国・四国・九州の総称とする。 においても大阪市に次ぐ人口を擁する。福岡市と北九州市の2つの政令指定都市を抱え、いわゆる三大都市圏以外では人口密度が1,000人/km2を超える唯一の県である。全国では人口は兵庫県に次ぐ8位、面積は千葉県に次ぐ29位。

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福岡藩

舞鶴公園 福岡城下の橋大手門 福岡藩領域図(慶長期) 福岡藩(ふくおかはん)は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。

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福澤諭吉

福澤 諭吉(または福沢 諭吉、ふくざわ ゆきち、、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。 もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

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福昌寺 (鹿児島市)

福昌寺(ふくしょうじ)は、薩摩国鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島県鹿児島市池之上町)に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。

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禅(ぜん)。

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禅宗

禅宗(ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国において発達した、禅那(ぜんな)に至る真の教えを説くとする大乗仏教の一宗派。南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。『涅槃経』の四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。

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禅林

禅林(ぜんりん)とは、禅宗寺院のことで、禅院(ぜんいん)とも呼ばれている。また、叢林(そうりん)という名称で用いられる場合もあるが、日本において「叢林」は中世以後の五山制度及びそれに所属していた寺院(曹洞宗及び臨済宗大応派)を一括した総称としても用いられている。この場合には、五山叢林(五山派)などとも称せられている。「僧堂」も参照。

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禅林墨跡

圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝) 虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝) 与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝) 宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝) 禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧の真跡のこと。印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟・墨迹とも書く。 墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風を禅宗様という中西慶爾 p.595峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128小松茂美 pp..26-27。

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秋山白巌

秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日(1864年3月27日) - 昭和29年(1954年)2月23日)は、日本の書家。諱は純、通称は隆道、白巌は号で、別号を碧城・探淵という。晩年、白巌と号し、碧城でも名が通っている。飯島春敬 P.4。

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秋萩帖

秋萩帖第1紙 秋萩帖第13、14紙 秋萩帖(あきはぎじょう)は、平安時代の書の作品の一つで、草仮名の代表的遺品。巻子本、1巻。和歌48首と王羲之尺牘(せきとく)臨書11通が書写されている。伝称筆者は小野道風及び藤原行成。書写年代は不明だが10世紀ないしは11世紀か。国宝。東京国立博物館蔵。

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稲荷山古墳出土鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。 所有者は日本国(文化庁)で、埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。(約73.5cm)。

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空海

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。 日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。 仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。

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立正安国論

『立正安国論』巻頭部分(日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日)に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、福岡県の大部分に属する。

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筆跡

筆跡(ひっせき)とは、ワードプロセッサなどを介さずに、筆、ペンなどの筆記用具を用いて人の手によって直接書かれた文字のこと。または、その書き方の癖などを指す言葉。 古代では、亀の甲羅や動物の骨に対して、先を鋭利に尖らせた石などで、これに天と地や農作物などを象形化した甲骨文といわれる文字を「ひっかき」、占いの道具として使用するために用いられたのが最初の筆跡といわれている。

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篆刻

「仏法僧宝(佛灋僧 篆刻(てんこく)とは、印章を作成する行為である。中国を起源としており、主に篆書を印文に彫ることから篆刻というが、その他の書体や図章の場合もある。また金属(銅・金など)を鋳造して印章を作成する場合も篆刻という。その鋳型に彫刻を要するからである。書と彫刻が結合した工芸美術としての側面が強く、特に文人の余技としての行為を指す。現代でも中国・日本を中心に篆刻を趣味とする人は多い。

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篆書体

篆書体(てんしょたい、モンゴル語:、ᡶᡠᡴᠵᡳᠩᡤᠠᡥᡝᡵᡤᡝᠨ 転写:fukjingga hergen)は、漢字やモンゴル文字、満洲文字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。 公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、書体の中では最も息が長い。

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築地本願寺

築地本願寺(つきじほんがんじ)は、東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院である。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。 住職は門主の大谷光淳が兼ねる。事務執行機関として宗務長(旧:輪番)1人、副宗務長2人で構成される。初代宗務長は浄土真宗本願寺派前総長(当時)の不二川公勝。2010年代半ばより2022年まで宗務長を務めた安永雄彦(雄玄)によりデジタル化や境内再整備をはじめ、大規模な改革が行われた。

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米芾

米 芾(べい ふつ、皇祐3年(1051年)- 大観元年(1107年))は、中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。 初名は黻(ふつ)。字は元章(げんしょう)。官職によって南宮(なんぐう)、住拠によって海嶽(かいがく)と呼ばれ、号は襄陽漫仕(じょうようまんし)・海嶽外史(かいがくがいし)・鹿門居士(ろくもんこじ)などがあり、室名を宝晋斎といった。子の米友仁に対して大米と呼ぶ。襄州襄陽県の人で、後に潤州(現在の江蘇省鎮江市)に居を定めた。

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細井広沢

細井 広沢 (ほそい こうたく、万治元年10月8日(1658年11月3日) - 享保20年12月23日(1736年2月4日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は二郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。

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紀貫之

紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈位、従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。

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紙背文書

紙背文書(しはいもんじょ)とは、和紙の使用済みの面を反故(ほご)として、その裏面を利用して別の文書(古文書)が書かれた場合に、先に書かれた面の文書のことをいう。後で書かれた文書が主体となるので、先に書かれた文書が紙背(裏)となる。裏文書(うらもんじょ)ともいう。

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」)を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。 これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた。しかし、近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。

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真珠庵

真珠庵(しんじゅあん)は京都府京都市北区紫野にある、臨済宗大本山大徳寺の塔頭である。型破りの禅僧として著名な一休宗純ゆかりの寺院である。特別公開時を除き、通常は非公開である。

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絶海中津

絶海中津(ぜっかい ちゅうしん、建武元年11月13日〈1334年12月9日〉 - 応永12年4月5日〈1405年5月3日〉)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが入谷, 1990.

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経典

経典(きょうてん、きょうでん、けいてん); 経典(きょうてん、きょうでん): 仏典、仏教の教典(聖典)の一範疇。元来は経(スートラ)を指す。; 経典(きょうてん): 転じて仏教以外の教典をいうこともある。例:『モルモン経典』。; 経典(けいてん): 主に儒教において、聖人・賢人の教えを記した書物のこと。四書五経など。経書を参照。

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絵因果経

絵因果経(えいんがきょう)は仏伝経典の代表的なものの1つである『過去現在因果経』の写本の一種で、巻子本の下段に経文を書写し、上段に経文の内容を説明した絵画を描いたもので、日本において平安時代以降盛行する絵巻物の原初的形態とみなされている『週刊朝日百科 日本の国宝』61号、p.7 - 26。

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田中光顕

若き日の田中光顕(1868年(慶応4年)京都にて撮影) 田中光顕邸(小田原文学館)小田原市内 護国寺(東京都文京区)内 田中光顕墓 田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日〈天保14年閏9月25日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月28日)は、日本の政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。

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田代秋鶴

田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。

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畠山記念館

畠山記念館(はたけやまきねんかん)は、東京都港区白金台2丁目にある美術館。所蔵品は茶道具を中心とした日本・東洋の古美術品、国宝6件を含む。実業家畠山一清(号:即翁、1881 - 1971)が自らの収集品を公開するために開館した。運営主体は公益財団法人荏原畠山記念文化財団である。

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片仮名

片仮名(カタカナ)は、音節文字の一つ。かなの一種である。

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狩谷棭斎

狩谷 棭斎(かりや えきさい、安永4年12月1日(1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日(1835年8月27日)は、江戸時代後期の考証学者である。名は初め高橋真末、後に改名して望之(もちゆき)、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。

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独立性易

独立 性易(どくりゅう しょうえき、万暦24年2月19日(1596年3月17日) - 寛文12年11月6日(1672年12月24日))は、中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画・篆刻を伝えた。 その書の識見は高く中国伝統の本流の書を日本に示し、のちの唐様流行の基となった。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性偀とともに長崎桑門の巨擘と称賛される。篆刻においても日本篆刻の祖として称揚される。 俗姓を戴、諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易(どくりゅうしょうえき)と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一閒人(てんがいいっかんじん)、天閒老人、就庵などを号とした。

見る 日本の書道史と独立性易

相国寺

法堂(側面) 相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派の大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。本尊は釈迦如来。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

見る 日本の書道史と相国寺

発祥

発祥(はっしょう)とは、物事が起こり始まることである。同様のニュアンスを持つ言葉として起源(起原)、ルーツ、原点、源流、由来、元祖、誕生などがある。

見る 日本の書道史と発祥

白隠慧鶴

白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。

見る 日本の書道史と白隠慧鶴

百済

百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語:백제〈ペクチェ〉、旧字体:百濟、4世紀前半? - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満洲地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。

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隠元隆琦

宇治川岸に建つ隠元隆琦上陸地の記念碑(右) 隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、厳統大師)は、明末清初の禅宗の仏教僧。江戸時代初期に来日し、日本黄檗宗の祖となった。俗姓は林氏。福建省福州府福清県の出身。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅と様々教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。

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隷書体

隷書体(れいしょたい)は、漢字の書体のひとつ。八分隷・八分・分書とも呼ばれる。古文に対して今文と呼ばれる。画像は『西嶽華山廟碑』(拓本、部分)。

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隅田八幡神社

隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)は、和歌山県橋本市隅田町にある神社。旧社格は県社。花菖蒲園が有名で、6月中旬前後には観光客で賑わう。

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隅田八幡神社人物画像鏡

隅田八幡神社人物画像鏡 和歌山県立紀伊風土記の丘企画展示時に撮影。 隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する、5世紀から6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料である。国宝に指定されている。

見る 日本の書道史と隅田八幡神社人物画像鏡

隋(呉音: ずい、漢音: すい、 swěɪ、581年 - 618年)は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。開祖楊堅は後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるというが、これには疑義が多い(詳しくは楊堅#出自についてを参照)。

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韓藍花歌切

韓藍花歌切(からあいのはなのうたぎれ)とは、万葉仮名で書かれた『韓藍花歌』(短歌)の断簡である。

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鎌倉

鶴岡八幡宮 鎌倉大仏(高徳院 阿弥陀如来像) 鎌倉(かまくら)は、三浦半島西岸の地名であり精選版 日本国語大辞典 「鎌倉」、同半島の基部にあたり、相模湾に面している旺文社日本史事典 三訂版 【鎌倉】。 平安時代に河内源氏のゆかりの地となり、源頼朝が1180年(治承4年)に当地に根拠地を置き、後年ここで鎌倉幕府を開いて1185年(文治元年)、1192年(建久3年)説など複数の見解がある。、政治の中心地となった。しかし、室町時代末期には衰退した。 現在も長谷の大仏、鶴岡八幡宮、鎌倉五山など史跡や寺社が多く残っている。また高級住宅地として有名。観光地・行楽地としても知られ、その海岸(由比ヶ浜および材木座海岸)は有名な海水浴場でもある。

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

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鎌倉時代

蒙古襲来絵詞 鎌倉時代(かまくらじだい、、12世紀末 - 正慶2年/元弘3年〈1333年〉)は、幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた約一世紀半の時代を指す日本の歴史の時代区分である。鎌倉時代は、京都の朝廷と並んで相模国鎌倉に置かれた鎌倉幕府が全国統治の中心となり、日本史上で本格的な武家政権による統治が初めて行われた時代である。鎌倉時代には、二度の元寇(蒙古襲来)という未曾有の国難のほか、地震、飢饉、疫病が多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われ、仏教(鎌倉仏教)が広く庶民と武家にまで広まった。 始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照。)。

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鎖国

鎖国(さこく、)とは、江戸幕府が、オランダ(及び一時期のイギリス)を除くキリスト教国の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。

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遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。 舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は承和5年(838年)。さらにその後、寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。 遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。

見る 日本の書道史と遣唐使

遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代に倭国(俀國)が技術や制度を学ぶため隋に派遣した朝貢使の事を言う。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。608年の遣隋使で天皇という君主号が使われたと『日本書紀』は記すが、懐疑的な意見が多い。なお、日本という名称が使用されたのは702年の遣唐使からである。 大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もあった。

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選書

選書(せんしょ)とは、同一の装丁で出版される、本のシリーズ、叢書のひとつ。一般向けだが新書などに比べてより多くの分野を扱い、専門性・独自性の高い論説を集めたものが多い。

見る 日本の書道史と選書

聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、 厩戸皇子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 叔母の推古天皇の下、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむてんのう、、701年9月18日〈大宝元年8月12日〉 - 756年6月8日〈天平勝宝8歳5月2日〉)は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。 諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

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道元

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月26日)- 建長5年8月28日(1253年9月29日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている。

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草書体

草書体(そうしょたい)は、漢字の書体の一つ。

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菟道稚郎子

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年壬申年は応神天皇41年(崩御時)の2年後で、仁徳天皇元年(即位時)の前年にあたる(いずれも『日本書紀』による)。)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。

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鏨(たがね、chisel)とは、金属や岩石を加工するための工具の一種。2019年5月2日閲覧。。鋼鉄製で、一般的につち(ハンマー)とともに用いる。たがね とひらがなで表記されることが多い。漢字では鏨と書く。 なお、英語ではchiselという用語で呼ぶが、chiselは日本語の「たがね」と「のみ(鑿)」を含んでおり、欧米の用語では一般に、金工用と木工用を区別をせず呼んでいる。

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菱田重禧

菱田 重禧(ひしだ しげよし、1836年7月27日(天保7年6月14日)#徳田 大垣維新史47頁。 - 1895年(明治28年)3月9日#徳田 大垣維新史356頁。)は、幕末の大垣藩士・漢詩人、明治期の官僚・裁判官。青森県権令。字・士端、通称・文蔵、号・海鴎。

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萬福寺

萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗の大本山の寺院。山号は黄檗山。本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。

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青山霊園

青山霊園(あおやまれいえん)は、東京都港区南青山二丁目にある東京都立の霊園である。

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青山杉雨

青山 杉雨(あおやま さんう、1912年6月6日 - 1993年2月13日)は、書家。愛知県葉栗郡草井村大字村久野(現・江南市)生まれ。大東文化大学教授。号は杉雨、本名は文雄。

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頼山陽

書斎山紫水明處 京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人。大坂生まれ広島育ち。幼名は、名は、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。 主著『日本外史』は、幕末から明治にかけてベストセラーとなり、尊王倒幕運動にも影響を与えた揖斐高『頼山陽 詩魂と史眼』岩波新書、2024年。275;283頁。。戦後は顧みられなくなったが、中村真一郎らに再評価された。

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行書体

清朝 王鴻緒の行書 行書体(ぎょうしょたい)とは、。

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顔真卿

『晩笑堂竹荘畫傳』より 顔 真卿(がん しんけい、景龍3年〈709年〉 - 貞元元年8月3日〈785年8月23日〉)は、唐代の政治家・書家。字は清臣。本貫は琅邪郡臨沂県。中国史でも屈指の忠臣とされ、また唐代随一の学者・芸術家としても知られる。

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顕浄土真実教行証文類

『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)は、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典である。正式な表題は『顯淨土眞實敎行證文類』と記述されている。自身の師(本師)である法然が著した『選択本願念仏集』(『選択集』)の解説書とその正しさを証明した文書とされている。;略称;浄土真宗立教開宗の書;真跡本;「坂東本」の修復。

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風信帖

風信帖』(1通目) 空海筆 風信帖(ふうしんじょう)は、空海が最澄に宛てた尺牘(せきとく)3通の総称である。国宝に指定されており、指定名称は弘法大師筆尺牘三通(風信帖)(こうぼうだいしひつ せきとく さんつう)。

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裴迪

裴 迪(はい てき、生没年不詳)は、五代後梁の武将。本貫は河東郡聞喜県。

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飛鳥井雅経

飛鳥井 雅経(あすかい まさつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。官位は従三位・参議。飛鳥井家の祖。小倉百人一首では参議雅経。

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飛鳥時代

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。

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褚遂良

雁塔聖教序』(部分、拓本) 褚 遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は、唐代の政治家・書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。

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西川寧

西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。

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西川春洞

西川 春洞(にしかわ しゅんどう、弘化4年5月25日(1847年7月7日) - 大正4年(1915年)8月10日)は、江戸生まれの書家。名は元譲、字は子謙、春洞は号。別号に如瓶人、大夢道人、茄古山民、謙慎書主人などがある。西川寧は三男。

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西琳寺

西琳寺(さいりんじ)は、大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺院。

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西行

西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 文治6年2月16日〈1190年3月23日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。 和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。

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西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。

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西脇呉石

西脇 呉石(にしわき ごせき  1879年(明治12年)3月8日 - 1970年(昭和45年)11月7日)は、日本の書家。名は静、字は如練・子遠。

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西洋

西洋(せいよう、、Occident(オクシデント))は、東洋(the East, Orient、オリエント)の対概念。歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたる二つの文化圏が存在し、現代日本語では二つの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。 日本語では洋が西洋の略語として使われており、明治頃には、洋式・洋風とは西洋の方式および西洋風を意味し、洋画、洋風建築、洋式トイレ、和洋折衷、洋服、洋傘、洋食、洋楽などの語句が広く使われるようになった。中国語圏でも:zh:洋服、:zh:洋葱(タマネギ)、:zh:洋酒など洋に西洋の意味を持たせている熟語もあるが、日本語の洋式にあたる中国語は西式である。

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西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。 文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。

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西本願寺本三十六人家集

西本願寺本三十六人家集(にしほんがんじぼん さんじゅうろくにんかしゅう)は、三十六歌仙の和歌を集めた平安時代末期の装飾写本である。三十六人家集のまとまった写本としては最古のもので、国宝に指定されている。京都市・西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)の所蔵である。

見る 日本の書道史と西本願寺本三十六人家集

親鸞

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。、既成の仏教教団や、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

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香川県立ミュージアム

館内 香川県立ミュージアム(かがわけんりつミュージアム)は香川県高松市玉藻町にある人文科学系博物館。主に歴史と美術の展示を行っている。分館として香川県文化会館と瀬戸内海歴史民俗資料館の2館を有している。

見る 日本の書道史と香川県立ミュージアム

香川松石

香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。

見る 日本の書道史と香川松石

香紙切

香紙切 (こうしぎれ)とは、完本が伝わらない平安時代の散逸歌集『麗華集』を書写した古筆切。伝小大君筆。元は粘葉装冊子本。切名は、防虫のため丁字の花弁や蕾を濃く煎じ、その汁で黄色に染めた香染め(丁字染め)の料紙を用いているから名付けられた。書風や簡略化された仮名の字体から11世紀末から12世紀初め頃の筆写と見られ、上代様が中期から後期に移行する時期の作風を示す。

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詩仙堂

詩仙堂の添水(そうず) 詩仙堂(しせんどう)は、京都市左京区にある曹洞宗の寺院。山号は六六山。本尊は馬郎婦観音(めろうふかんのん)。現在は丈山寺という。江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡であり、国の史跡に指定されている。

見る 日本の書道史と詩仙堂

評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位である。日本では7世紀後半に各地で置かれたが、701年以降は「郡」に改められた。 『日本書紀』は大化の改新(645年)の時に郡が成立したと記すが、実際に郡が用いられるのは大宝律令(701年)制定以降であり、それ以前は評を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。

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誉田八幡宮

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市誉田にある神社。旧社格は府社。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南に隣接して鎮座する。

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諸井春畦

諸井 春畦(もろい しゅんけい、1866年3月30日(慶応2年2月14日) - 1919年(大正8年)5月9日)は、明治期から大正期にかけての実業家、書家。諱は直行、字は習郷、通称は時三郎。春畦は号である。

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高塚竹堂

サムネイル 髙塚 竹堂(たかつか ちくどう、本名・髙塚 錠二(たかつか ていじ)、1889年5月23日 - 1968年3月30日)は、日本の書家。竹堂または笹舟と号し、特に仮名書の大家。書斎は笹舟書院という。

見る 日本の書道史と高塚竹堂

高崎正風

高崎 正風(たかさき まさかぜ、1836年9月8日(天保7年7月28日 ) - 1912年(明治45年)2月28日は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、作詞家、歌人。通称は左太郎、他に伊勢、左京、豊麿とも。号は宝義堂。長男元彦は日露戦争で戦死し、その跡は正光、正人と続く。

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論語

朱熹『論語集注』八佾 『論語』(ろんご、)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、)は、東京都文京区音羽に本社を置く日本の大手総合出版社。系列企業グループ「音羽グループ」の中核企業。 「週刊少年マガジン」「モーニング」「週刊現代」「FRIDAY」「ViVi」「群像」など30を超える雑誌のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。 小学館・集英社(両社とも一ツ橋グループに所属)と並ぶ日本国内の出版業界最大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年(平成14年)には戦後初の赤字決算となった。近年は紙の出版物への依存体質の改善に注力し、2015年(平成27年)以降は電子書籍などのデジタル関係、および国際や権利関係の収入が急増したことにより増収増益が続いている。

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)6月に発足講談社サイトでは「学術文庫」と表記している担当者(出版部長)による回想記は下記池永陽一『学術の森の巨人たち 私の編集日記』(熊本日日新聞社、2015年)宇田川眞人『日本に碩学がいたころ』(三恵社、2013年)。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多いが、合本改版や改訂再刊、電子書籍化されることもある。

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魚住和晃

魚住 和晃(うおずみ かずあき、1946年 - )は、日本の書研究者。専門は書論、書跡学。神戸大学名誉教授。日中の書道史を研究した。筆跡鑑定学の第一人者であり、神戸連続児童殺傷事件の犯行声明文や一澤帆布工業の遺言書などの鑑定を手がけた。 三重県生まれ。東京教育大学芸術学科卒業。同大学院教育学研究科修士課程修了。1997年、大英博物館に10作品が収蔵された。2000年「張裕釗書法における理念形成と形象の研究」で神戸大学文学博士。神戸大学教育学部助教授、国際文化学研究科教授。2010年定年退任、名誉教授、天津大学客員教授。

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。

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護国寺

月光殿入口(重要文化財の月光殿(旧日光院客殿)はこの建物の背後にあり、この画像では見えない) 護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院大聖護国寺と称する。

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谷中霊園

谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中七丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地(やなかぼち)と呼ばれることも多い。面積は102,537mであり。 約7,000基の墓がある。鳩山一郎・鳩山秀夫・横山大観・渋沢栄一・渋沢敬三・穂積陳重・穂積重遠・阪谷芳郎・阪谷希一などが埋葬されている。JR日暮里駅から徒歩6分。 なお、東京都公園協会の管理区域外であるが、谷中霊園に取り囲まれる形で寛永寺の寛永寺谷中第一霊園や寛永寺谷中第二霊園、天王寺の天王寺墓地、了俒寺の了俒寺墓地等が存在する(案内図)。このほか「徳川慶喜公墓所」が寛永寺谷中第二霊園に隣接する形で存在する。

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豊道春海

豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉9月26日)は、大正から昭和に活躍した天台宗の僧、書家。幼名は川上 寅吉(かわかみ とらきち)、得度後の僧名は慶中(けいちゅう)。別号に龍渓(りゅうこく)、谷門道人(こくもんどうじん)、天門海翁(てんもんかいおう)がある。栃木県佐久山町(現:大田原市)の出身。子に天台僧で書道家の印南溪龍、孫に天台僧で書道家の印南溪峻がいる。

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)は、戦国時代 - 安土桃山時代の日本の武将、戦国大名、公卿。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。官位は従一位、関白、太政大臣、贈正一位。 幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、豊臣の姓を賜った。

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豪徳寺

豪徳寺(ごうとくじ)は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。

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貫名菘翁

貫名 菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者・書家・文人画家。江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。 姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。

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賢愚経

『賢愚経』(けんぐきょう、Bālapaṇḍita-sutta, バーラパンディタ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第129経。『癡慧地経』(ちえじきょう)とも。 類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第199経「癡慧地経」等がある。 釈迦が、比丘たちに、三業の善悪とその果報について説いていく。

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鳥尾小弥太

鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日(1848年1月10日) - 明治38年(1905年)4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。

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鳩居堂

鳩居堂(きゅうきょどう)は、書画用品・香の老舗専門店である。1663年に薬種商として創業し、蛇頂石などの民間療法薬を販売したが、その後徐々に業態を転換し、香や文房具を扱うようになった。京都に本店、東京に銀座本店を置いており、東京鳩居堂はさらに5つの支店を持つ。1万点の商品があり、4、5千点は常時店内に置いているという。

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趙孟頫

『鵲華秋色図』 趙 孟頫(ちょう もうふ、Zhào Mèngfǔ、宝祐2年9月10日(1254年10月22日)- 至治2年6月16日(1322年7月30日))は、南宋から元にかけての政治家・文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪。諡は文敏。湖州烏程県の人。出自は宋の宗室で、南宋の第2代皇帝孝宗の同母兄の趙伯圭の玄孫である。字から趙子昂、号から趙松雪と呼ばれることも多い。 妻の管道昇も画家として有名である。曾祖父は趙師垂。祖父は趙希戭。父は趙与訔。兄は趙孟頔・趙孟頒・趙孟碩・趙孟頌・趙孟頖・趙孟顥。弟は趙孟龥・趙孟頵・趙孟願。王蒙は外孫にあたる。

見る 日本の書道史と趙孟頫

黒木欽堂

黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年3月11日-1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。

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黒木拝石

黒木拝石(くろき はいせき、1886年10月 - 1950年9月14日)は熊本県出身の書家。拝石は号で、本名は一二。

見る 日本の書道史と黒木拝石

黄庭堅

黄庭堅・『晩笑堂竹荘畫傳』より 黄 庭堅(こう ていけん、慶暦5年6月12日(1045年7月28日)- 崇寧4年9月30日(1105年11月8日))は、中国北宋の士大夫、政治家・書家・詩人・文学者である。洪州分寧県(現在の江西省九江市修水県)の人。 字は魯直(ろちょく)、号は山谷道人(さんこくどうじん)、涪翁(ふうおう)などがある。黄山谷と呼ばれることが多い。師の蘇軾と並んで宋代の代表的詩人とされ、書家としては蘇軾・米芾・蔡襄(蔡京)とともに宋の四大家に数えられる。

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黄遵憲

黄 遵憲(こう じゅんけん、道光28年3月24日(1848年4月27日) - 光緒31年2月23日(1905年3月28日)、満56歳没)は、清朝末期の詩人・外交官・政治改革者であり、また知日家としても知られる。

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龍光院 (和歌山県高野町)

龍光院(りゅうこういん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある真言宗寺院で、高野山真言宗の別格本山である。本尊は大日如来。

見る 日本の書道史と龍光院 (和歌山県高野町)

龍池会

龍池会(りゅうちかい)は、明治時代初期の美術団体。「竜池会」と書かれる場合もある。明治20年(1887年)に「日本美術協会」(にほんびじゅつきょうかい)へと改称した(日本美術協会は現在も存続している)。

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辻本史邑

辻本 史邑(つじもと しゆう、明治28年(1895年)5月3日 - 昭和32年(1957年)12月22日)は、奈良県出身の書家。名は勝巳、字は士礼といい、史邑は号、別号に寧楽庵主人、江村がある。

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近体詩

近体詩(きんたいし)とは、漢詩の詩体の一つ。今体詩(きんたいし)ともいう。古体詩に対する。古体詩より遅れて唐代初期に完成した。近体(今体)詩とは、「現代の詩体」の意味で、唐代の呼称がそのまま伝わったものである。一定の格律(字数・句数・平仄・押韻・対句といった形式や韻律のこと)の制約を受けることが特徴である。

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近衛家熙

近衛 家熈(このえ いえひろ、)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。後陽成天皇の男系四世子孫である。近衛家21代。

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近衛信尹

近衛 信尹(このえ のぶただ、)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。太政大臣・近衛前久の子。官位は従一位・関白、准三宮、左大臣。近衛家18代当主。号は三藐院(さんみゃくいん)。本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」とよばれる。初名に信基、信輔。

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近藤雪竹

近藤 雪竹(こんどう せつちく、文久3年6月20日〈1863年8月4日〉 - 昭和3年〈1928年〉10月14日)は、江戸生まれの書家。名は富壽、字は考卿、雪竹は号。別号を聴泉楼主人という。落款には必ず「雪竹富壽」(号と名)と書いた。日下部鳴鶴に師事。

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、湯を沸かし、茶を練(ね)るか点(た)てる、あるいは淹れ、茶を振る舞う日本伝統の行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯(さのゆ、ちゃのゆ)」といった。千利休は「数寄道」、古田織部は「茶湯」と呼んでいたが、小堀遠州は「茶の道」という呼んで「道」の字が使われ始め、やがて江戸時代17世紀後半には茶道(さどう)とも呼ばれるようになった(『茶話指月集』『南方録』など)。表千家や千家以外の多くの流派では「さどう」、裏千家では「ちゃどう」と読む。「茶道」の英語訳としては tea ceremony (ティーセレモニー) のほか、茶道の表千家と裏千家ではそれぞれ the way of tea(ザ ウェイ オブ ティー)、chanoyu を用いている。

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鈴木翠軒

鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)、翠軒は号。

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阪正臣

阪 正臣(ばん まさおみ、安政2年3月23日(1855年5月9日) - 昭和6年(1931年)8月25日)は、 歌人、書家、古筆研究家、宮内省御歌所寄人。現在の愛知県名古屋市生まれ。正四位勲三等。 本名は坂 正臣。幼名、政之介、字は従叟、号は茅田、観石、桃坪など、居を樅屋と称す。

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蘭学者

杉田玄白 / 蘭学の開拓者の一人で天真楼で後発蘭学者の教育も手がけた。 蘭学者(らんがくしゃ)は、日本において蘭学、すなわちオランダ語を通じて輸入された西洋の学問文化を修め研究した人のことである。

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阿直岐

阿直岐(あちき)は、『日本書紀』『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済から日本に貢上されたとされる人物。『古事記』には阿知吉師と登場し、応神天皇のとき、百済王が馬2匹を阿知吉師につけて貢上したとあるが(貢上=「貢物を差し上げる」)、吉師は一種の尊称であり、阿知は阿直岐の略称とみなせることから、阿直岐と同時代の人物の阿知使主を同一人とする説もある。。一方、「実在したか否かは不明」という指摘があり、津田左右吉は、後人の造りごととしている。

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蘇軾

蘇 軾(そ しょく、、景祐3年12月19日〈1036年1月8日〉- 建中靖国元年7月28日〈1101年8月24日〉)は、中国北宋の政治家、文豪、書家、画家。政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。 号は東坡居士(とうばこじ)、字は、諡は文忠公。号から、とも呼ばれ、坡公や坡仙などの名で敬慕された。 蘇洵の長男で、弟は蘇轍であり、この三名に韓愈、柳宗元、欧陽脩、曽鞏、王安石を加えた八人を「古文」の唐宋八大家という。子に蘇邁・蘇迨・蘇過・蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材の夫人(蘇公弼の娘で、耶律鋳の生母)がいる。

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関戸本古今和歌集

関戸本古今和歌集(せきどぼんこきんわかしゅう)は、名古屋の豪商・素封家関戸家に伝来する『古今和歌集』の零本。関戸家所蔵の冊子本(27丁)と諸家蔵の断簡数十点ほどが確認されている。書写は11世紀後半か。伝称筆者は藤原行成。平安古筆の代表的遺品の一つで、書家に人気の高い一品。

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薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山の仏教寺院。山号はなし。本尊は薬師三尊。南都七大寺の一つ。開基は天武天皇。 1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)により世界文化遺産に登録されている。

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闍那崛多

闍那崛多(じゃなくった、Jñānagupta、ジュニャーナグプタ、523年 - 600年?)は、北インドのガンダーラ出身の訳経僧である。中国の北周から隋の時代に来朝して仏典を漢訳した。

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藤原定実

藤原 定実(ふじわら の さだざね)は、平安時代後期の貴族。権中納言・藤原伊房の子。官位は従四位上・右京大夫。世尊寺家第4代当主。

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。

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藤原定信

藤原 定信(ふじわら の さだのぶ)は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。

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藤原家隆 (従二位)

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆(猫間中納言)の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。

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藤原伊行

藤原 伊行(ふじわら の これゆき)は、平安時代後期の貴族・能書家。藤原北家世尊寺家、宮内権大輔・藤原定信の子。官位は従五位上・宮内少輔。世尊寺家6代。

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藤原伊房

藤原 伊房(ふじわら の これふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公家。世尊寺流の能書家。権大納言・藤原行成の孫で、参議・藤原行経の長男。官位は正二位・権中納言。

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藤原佐理

藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり名前は「すけまさ」だが、「さり」と有職読みすることが多い。)は、平安時代中期の公卿・能書家。藤原北家小野宮流、摂政関白太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。

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藤原俊成

藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(https://www.city.gamagori.lg.jp/unit/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。

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藤原公任

藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。中古三十六歌仙の一人、百人一首では大納言公任、『和漢朗詠集』の撰者としても知られる。

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藤原為家

藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。藤原北家御子左流、正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。

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藤原道子

藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。

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藤原道子 (女御)

藤原 道子(ふじわらの みちこ、長久3年(1042年) - 長承元年8月17日(1132年9月27日))は、平安時代の女御。承香殿女御と号す。

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年〈966年〉- 万寿4年12月4日〈1028年1月3日〉)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。

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藤原行経

藤原 行経(ふじわら の ゆきつね)は、平安時代中期の公卿・能書家。権大納言藤原行成の三男。従二位・参議。和様書道の流派世尊寺流二代目。

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藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい名前の読みは「ゆきなり」だが、「こうぜい」と音読みすることも多い。、天禄3年〈972年〉 - 万寿4年〈1028年〉)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」「権大納言の筆跡」の意。(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。

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藤原関雄

藤原 関雄(ふじわら の せきお)は、平安時代初期の貴族・文人。藤原北家、参議・藤原真夏の五男。官位は従五位下・治部少輔。

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藤原有年

藤原 有年(ふじわら の ありとし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家乙麻呂流、右衛門権佐・藤原高扶の子。官位は正五位下・播磨守。

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藤原敏行

藤原 敏行(ふじわら の としゆき)は、平安時代前期の貴族・歌人・書家。藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。

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藤原教長

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。

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董其昌

董 其昌(とう きしょう、嘉靖34年1月19日(1555年2月10日) - 崇禎9年9月28日(1636年10月26日))は、中国明代末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残した。清朝の康熙帝が董其昌の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董其昌が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた。また、黄公望・陳継儒・王思任・楊龍友・倪瓚・王時敏・夏雲鼎・孔尚任とあわせて「金陵九子」と呼ばれる。 字は玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いている。

見る 日本の書道史と董其昌

著作家

著作家(ちょさくか)とは、文章を書くことを職業とする者。文筆家(ぶんぴつか)・文筆業(ぶんぴつぎょう)、著述家(ちょじゅつか)、物書き(ものかき)などともいう。 主な著作が小説である場合は小説家と呼ばれ、小説家、随筆家、ノンフィクション作家などは作家と呼ばれる。

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那須国造碑

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、なすこくぞうひ)は、栃木県大田原市湯津上にある飛鳥時代の石碑。国宝に指定されている。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。

見る 日本の書道史と那須国造碑

肥前国

肥前国(ひぜんのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。

見る 日本の書道史と肥前国

鄭道昭

鄭 道昭(てい どうしょう、? - 516年)は、中国の南北朝時代の北魏の官吏・書家。字は僖伯(きはく)、号は中岳先生。本貫は滎陽郡開封県。 六朝楷書の名手であり、鄭文公碑の作者として有名。無署名が普通であり、署名されていても無名の人物ばかりの南北朝時代の書家の中で、確実に名と伝が残されている数少ない書家である。

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、885年2月6日〈元慶9年1月18日〉- 930年10月23日〈延長8年9月29日〉)は、日本の第60代天皇(在位:897年8月4日〈寛平9年7月3日〉- 930年10月16日〈延長8年9月22日〉)。諱は維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)。 現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下ののちに敦仁親王に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。

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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山となる寺院。山号は醍醐山(深雪山とも)。本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵している。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 札所本尊真言(准胝観音):おん しゃれい それい そんでい そわか ご詠歌(上醍醐):逆縁(ぎゃくえん)ももらさで救う願(がん)なれば 准胝堂はたのもしきかな。

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野村素介

野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。

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至文堂

至文堂(しぶんどう)は、東京都江東区に本社をおく日本の出版社。

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金印

金印(きんいん)は、金で作られた印章のこと。

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金子鷗亭

金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年5月9日 - 2001年11月5日)は、日本の書家。近代詩文書を提唱した。 北海道松前郡生まれ。本名は金子賢藏。鷗亭は雅号で、他に琴城、薊谷がある。子息は書家の金子卓義。

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金井之恭

金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。

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金井沢碑

金井沢碑 金井沢碑 拓本 金井沢碑(かないざわひ、かないざわのひ)は、群馬県高崎市山名町にある古碑であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、多胡碑とともに「上野三碑」と称される。

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金剛場陀羅尼経

thumb 金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)は隋の闍那崛多が漢訳した雑密経典である。本項では日本の文化庁が保管する、同経の飛鳥時代の写本について述べる。

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金石文

金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。 ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。

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金田心象

金田 心象(かねだ しんしょう、1908年1月18日 - 1990年2月16日)は、北海道幌延町出身の書家である。文部省事務官なども務めた。心象は号で、本名 吉尾。

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長尾雨山

長尾 雨山(ながお うざん、元治元年9月18日(1864年10月18日) – 昭和17年(1942年)4月1日)は、明治期の日本の漢学者・書家・画家・篆刻家。狩野直喜(君山)・内藤湖南とともに中国学を開花・進展させたひとりに挙げられる。 名は甲(こう)、字を子生、号は雨山のほかに石隠、无悶など。斎室名は何遠楼、漢塼斎、艸聖堂など。通称は槙太郎。

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長三洲

長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。

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長谷寺

二本の杉 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院。山号は豊山(ぶさん)。院号は神楽院(かぐらいん)。本尊は十一面観音(十一面観世音菩薩)。開山は道明とされる。西国三十三所第8番札所。寺紋は輪違い紋。 本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか ご詠歌:いくたびも参る心ははつせ寺 山もちかいも深き谷川。

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長谷寺銅板法華説相図

銅板法華説相図 長谷寺銅板法華説相図(はせでら どうばん ほっけせっそうず)は、奈良県桜井市の長谷寺に伝わる7世紀の仏教工芸品。銅板の表面に『法華経』見宝塔品に説かれる宝塔出現の光景が図相化されている。銅板の下方には銘文があり、造立の由来などが陰刻され、その文中に、「敬造千仏多宝仏塔」とあることから、本銅板を千仏多宝仏塔とも呼ぶ。1963年(昭和38年)7月、国宝に指定された。指定名称は銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)。所有者は長谷寺で、奈良国立博物館に寄託保管されている。森岡隆(書道史年表事典) p.278二玄社編書道辞典 p.213名児耶明 p.20片岡直樹・2012 pp.1-2片岡直樹・2008 pp.15-16片岡直樹・2012 pp.14-15。

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長谷川耕南

長谷川 耕南(はせがわ こうなん、1905年〈明治38年〉 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の書道家。勲四等 瑞宝章。

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長恨歌

「長恨歌」(ちょうごんか)は、中国唐の詩人白居易によって作られた長編の漢詩である。陳鴻の長恨歌伝によれば、白居易、陳鴻、王質夫の三人が仙遊寺に集まり、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを語り合い感嘆した際、王質夫が「夫れ希代の事は、出世の才の之を潤色するに遭ふに非ずんば、則ち時と消没し、世に聞こえず。楽天は詩に深く、情に多き者なり。試みに為に之を歌はば、如何と。」(「世にも奇妙な出来事は、一代の傑出した才人の手で潤色されるのでなければ、時と共に消滅してしまって、世の中に伝わらなくなってしまう。楽天、君は詩に造詣が深く、情に豊かな人だ。試みにこの出来事で歌を作って見てはどうか」という意)と言われたことをきっかけに、「長恨歌」を作ったと書かれている。『源氏物語』をはじめ平安時代の日本文学にも多大な影響を与えた。

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長松幹

長松 幹(ながまつ つかさ『平成新修旧華族家系大成』下巻、243頁。 / みき『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』329-332頁。、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固『明治維新人名辞典』706頁。。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。

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良寛

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。名は栄蔵。

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鉄舟寺

鉄舟寺(てっしゅうじ)は、静岡県静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は補陀落山。本尊は千手観音菩薩。

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雪村友梅

雪村友梅(せっそんゆうばい、正応3年(1290年)- 貞和2年12月2日(1347年1月14日))は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧である。

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雄山閣

株式会社雄山閣(ゆうざんかく)は、東京都千代田区にある出版社。創業は1916年(大正5年)で、以来日本の歴史・宗教・民俗学・考古学などに関する書籍を出版し続けている。

見る 日本の書道史と雄山閣

送りがな

送りがな(おくりがな)とは、日本語の漢字仮名交じり文において、漢字表記した和語を読みやすくするために、縦書きならば漢字の下に、横書きならば漢字の右につける仮名のことである。ただし、語のすべてが仮名表記された語(助詞・助動詞を含む)は送りがなとは呼ばない。 また、漢文訓読において、漢字の右下に小さく付した片仮名も送りがなと呼んでいるが(漢文訓読#送り仮名参照)、これは上記の送りがなの範疇を越えて、訓読上必要な助詞等も読み添えるもので、厳密には「添えがな」というべきものである。

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造形芸術

造形芸術(ぞうけいげいじゅつ、)は、「プラスチック・アート」とも呼ばれ、セラミックなどのモデリング可能なメディアの造形技術による芸術である。この用語は、文学や音楽とは対照的に、すべての視覚芸術(絵画、彫刻、映画、写真など)に広く使用される場合がある。より狭い定義のプラスチック・アートが使用する材料には、石や木材、コンクリート、ガラス、金属、粘土などがあり、成形が可能なものの彫刻が含まれる。「プラスチック」という用語は、ある種の合成有機樹脂が発明されて以来、それらを意味するために使用されていたが、「プラスチック・アート」という言葉は、造形芸術を表す用語として以前から使用されている。

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虞世南

虞 世南(ぐ せいなん、永定2年(558年)- 貞観12年5月25日(638年7月11日))は、中国の唐の書家・政治家。字は伯施。越州餘姚県(現在の浙江省餘姚市)の人。初唐の三大家の一人。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。

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陽明文庫

陽明文庫(ようめいぶんこ)は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設及び公益財団法人(公益財団法人陽明文庫)。 公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衞家伝来の古文書(こもんじょ)、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約10万件に及ぶ史料を保管している。昭和13年(1938年)、当時の近衞家の当主で内閣総理大臣であった近衞文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に財団法人陽明文庫を設立した。近衞家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衞文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、調査研究事業、展示出陳事業、複製本の刊行などの事業を行っている。2012年4月より公益財団法人に移行した。

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MOA美術館

MOA美術館 (エムオーエーびじゅつかん、MOA Museum of Art) は、静岡県熱海市にある私立美術館。1982年(昭和57年)1月11日に開館 - 岡田茂吉美術文化財団 - コトバンク。岡田茂吉の収集品を収蔵展示、運営は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団。 前身である熱海美術館(あたみびじゅつかん)は、1957年(昭和32年)1月1日に開館。

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折り本

250px 折り本(おりほん)とは、横に長くつなぎ合わせた紙を一定間隔で折り畳んで作った蛇腹状の本。折本(おりほん)と表記することもある。装丁法は折本装本といい、この装丁法を折本ということもある。

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掛軸

掛軸(かけじく)とは、書や東洋画を裂(きれ)や紙で表装したもの。日本では床の間などに掛けて鑑賞し、「床掛け」と言われることもある。後述のように、掛け軸と同様な方法で保管・鑑賞される書画は中国美術に古来存在する。 各名称 仏教を広めるための道具として日本に流入した後、日本の文化と融合し、室内装飾で重要な役割を果たしている。「床掛け」に近い掛軸としては、茶道の茶室内で用いる禅語などを書いた、やや細い「茶掛け」がある。それ以外では、仏壇の中で使う「仏掛け」があり、本尊や脇侍の絵像が描かれていたり、名号・法名軸に仕立てられたりしている。 現代においても、昔の掛け軸が文化財として保護・展示されていたり、骨董として収集・売買されたり、肉筆や印刷で新たに制作されたりしている。

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東大寺

日本の各大仏の存立期間(時系列) 東大寺(とうだいじ、Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である東大寺の記録には良弁以来の歴代別当が記録されているが、奈良時代期の重要決定・文書が別当ではなく三綱の名義で出されていることなど矛盾も多く、良弁が東大寺の初代の住持であったのは事実であるが、実際に彼が就任したのは「造東大寺司」の別当であり、東大寺の代表者としての別当職の成立は「造東大寺司」が廃された平安時代初期ごろと推定されている。。 正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら仏教語の「金光明」は呉音で「こんこうみょう」と読むことが多いが、東大寺では公式サイトで「きんこうみょう - 」を正式の読みとしている(参照:(東大寺公式サイト)。

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東大寺献物帳

『国家珍宝帳』冒頭 東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)は聖武天皇の菩提を弔うなどの目的で光明皇后(当時は皇太后)が東大寺に奉献した宝物の目録である。東大寺献物帳は5通あり、それぞれ『国家珍宝帳』『種々薬帳』『屏風花氈等帳』『大小王真跡帳』『藤原公真跡屏風帳』と通称される。東大寺献物帳は単なる目録に留まらず、正倉院宝物の来歴や用いられた技法などを記した貴重な記録であり、またそれ自体が宝物である。

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東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある、東寺真言宗総本山の日本の仏教寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。寺紋は雲形紋(東寺雲)。食堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第23番札所。 創建由来は、平安京鎮護のための朝廷の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。このため国宝や重要文化財を含む文化財が多数残る。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。

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東山御文庫

東山御文庫(ひがしやまごぶんこ)は、京都市上京区の京都御所内の東北隅に位置する皇室の文庫。禁裏御文庫(きんりごぶんこ)・東山文庫(ひがしやまぶんこ)とも呼ばれる。歴代天皇の宸翰及び収集・手沢の書画・道具など約6万点が収蔵されている。

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東久世通禧

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、1834年1月1日 〈天保4年11月22日〉- 1912年〈明治45年〉1月4日『平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。茶人。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。

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東京堂出版

株式会社東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。

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東京国立博物館

東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する、日本の国立博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。1872年(明治5年)に創設された日本最古かつ最大の博物館であり、本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。 2023年4月時点で、国宝89件、重要文化財649件を含む収蔵品の総数は約12万件 東京国立博物館。日本政府は同年5月時点で美術・工芸品のうち902件を国宝に、10,820件を重要文化財に指定しているので、当館は美術・工芸品の国宝の約10%、重要文化財の約6%を収蔵していることになる。また2023年3月末時点でこれとは別に、国宝54件、重要文化財260件を含む総数2,668件の寄託品を収蔵している。これらの収蔵品のうち総合文化展(平常展)に一度に展示している文化財の件数は約3,000件で、それぞれの文化財は4週間から8週間ごとに展示替えされており、2020年度の平常展の展示替え件数は5,041件、展示総件数は9,048件。

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東京芸術大学

東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく、英語: Tokyo University of the Arts)は、東京都台東区上野公園12番地8号に本部を置く日本の国立大学。1887年創立、1949年大学設置。略称は藝大、東京藝大、TUA。 1878年(明治11年)に伊沢修二が目賀田種太郎と連名で音楽教育の意見書を文部大臣に提出したことに始まる。 国立大学法人法(および旧国立大学設置法)に基づく法的な正式名称は「東京芸術大学」である。大学設置時点では当用漢字ではなかった旧字体の「藝」も通称として使用している。 2008年(平成20年)4月1日から、英語表記をそれまでの Tokyo National University of Fine Arts and Music (TNUFAM) から、Tokyo University of the Arts (TUA) に変更した。

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東京都美術館

東京都美術館(とうきょうとびじゅつかん)は、東京都台東区上野公園8番36号(上野恩賜公園内)にある都立美術館である。略称都美。旧称東京府美術館。

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東野治之

東野 治之(とうの はるゆき、1946年12月20日 - )は、日本の歴史学者。専攻は日本古代史、文化財史料学。奈良大学名誉教授、東京国立博物館客員研究員、日本学士院会員、博士(文学)(東京大学)。紫綬褒章受章。

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東本願寺

東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派の本山寺院。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)正式名称…1987年(昭和62年)までは「本願寺」が正式名称であった。であり、山号はない。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。

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松岳山古墳

松岳山古墳(まつおかやまこふん)は、大阪府柏原市国分市場にある古墳。形状は前方後円墳。松岳山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され、出土品は柏原市指定有形文化財に指定されている。

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松川敏胤

松川 敏胤(まつかわ としたね、安政6年11月9日(1859年12月2日) - 昭和3年(1928年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功二級に至る。宮城県仙台市出身。幼名は恭輔。

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松井如流

松井如流(まつい じょりゅう、1900年3月31日-1988年1月16日)は、歌人、書家。

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松田雪柯

松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月15日) - 明治14年(1881年)9月3日)は、伊勢山田(現在の三重県伊勢市)生まれの書家。名は元修、字は子践、幼名は慶太郎、通称は縫殿(ぬい)、雪柯は号で、別号に澹所などがある山本棠舟「松田雪柯日記…」(『墨』P.90)。

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松花堂昭乗

松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。 書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出した。近衛信尹、本阿弥光悦とともに「三筆」と称せられた。茶道は小堀政一に学んだ。 なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」、それを好んだ昭乗に敬意を払って「松花堂弁当」と名付けられたとする説がある。

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松蔭寺 (沼津市)

松蔭寺(しょういんじ)は、静岡県沼津市原にある臨済宗系の寺院。往時の東海道原宿東町に当たり、白隠慧鶴所縁の寺として知られ、白隠さんの名前で親しまれている。

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松陰神社

松陰神社(しょういんじんじゃ)は、山口県萩市および東京都世田谷区にある神社である。幕末の思想家・教育者である吉田松陰、および彼の門人である伊藤博文、山縣有朋はじめ、松下村塾の生徒を祭神とする。学問の神として崇敬を受ける。

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松本芳翠

松本 芳翠(まつもと ほうすい、明治26年(1893年)1月29日 - 昭和46年(1971年)12月16日)は、愛媛県伯方島生まれの日本の書家。 日本芸術院会員。本名・英一。字・子華。別号・樗盦・二葉・栖霞山人・來吉齋。法号・書海院徳藝芳翠大居士。

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杉溪言長

杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年閏5月13日)- 1944年(昭和19年)10月30日)は、明治から大正期の神職、宮内官、政治家、日本画家(南画)、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・山科、幼名は狟丸。雅号は六橋。

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根津美術館

初代 根津嘉一郎 根津美術館(ねづ びじゅつかん)は、東京都港区南青山に所在する私立美術館である。現在の英称は Nezu Museum、以前は Nezu Institute of Fine Arts であった。

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桑原翠邦

桑原翠邦(くわはら すいほう、1906年9月20日‐1995年3月27日)は、北海道帯広市出身の書家である。本名 清美。翠邦は号で魚目とも号した。 書家の桑原呂翁は長男。

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梁川紅蘭

梁川 紅蘭(やながわ こうらん、文化元年3月15日(1804年4月24日) - 明治12年(1879年)3月29日)は、江戸時代後期から明治時代初期の漢詩人で、詩集「紅蘭小集」を著している。絵画にも優れており、「群蝶図」が知られる。名は「景」または「景婉」、後に、名を「芝香」、字を「玉書」「月華」「紅鸞」とも称していた。紅蘭は号。姓を「張」とし、「張 紅蘭」「張氏 紅蘭」とも称していた。本姓は稲津。

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梁川星巌

梁川星巌之碑、霊山護国神社、京都市左京区 梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日) - 安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。

見る 日本の書道史と梁川星巌

森春濤

森 春濤(もり しゅんとう、文政2年4月2日(1819年4月25日) - 明治22年(1889年)11月21日)は、江戸幕末期より明治初期にかけての漢詩人。名は魯直、字は希黄、通称は浩甫、号は春濤、方天、古愚。幼名は泰一郎、元雄、春道。漢詩人・森槐南の父。

見る 日本の書道史と森春濤

楊守敬

楊守敬 楊 守敬(よう しゅけい、、1839年5月27日(道光19年4月15日) - 1915年1月9日)は、清末の学者・蔵書家・文人。字は惺吾、号は隣蘇。

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楷書体

楷書体(かいしょたい)とは、漢字の書体の一つ。「手書き書体」と「印刷書体」の2種類に分かれ、。

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横笛 (源氏物語)

「横笛」(よこぶえ)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第37帖。巻名は夕霧の歌「横笛のしらべはことにかはらぬをむなしくなりし音こそつきせぬ」による。柏木遺愛の横笛が人から人へと渡って光源氏に届くまでを書く。

見る 日本の書道史と横笛 (源氏物語)

橘逸勢

橘 逸勢(たちばな の はやなり)は、平安時代初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。

見る 日本の書道史と橘逸勢

橋姫 (源氏物語)

「橋姫」(はしひめ)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第45帖。第三部の一部「宇治十帖」の第1帖にあたる。

見る 日本の書道史と橋姫 (源氏物語)

檀王法林寺

檀王法林寺(だんのうほうりんじ)は、京都市左京区法林寺門前町にある浄土宗の寺院。山号は朝陽山。本尊は阿弥陀如来。正式な名称は「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」であるが、人徳厚かった第2世住持の團王良仙を人々が親しみを込めて「だんのうさん」と呼んだことから、当寺の呼称も檀王法林寺として定着した。琉球王国より帰国後、袋中が創建した浄土寺院の1つ。

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欧陽詢

欧陽 詢(おうよう じゅん、557年 - 641年)は、唐の儒家・書家。字は信本。本貫は長沙郡臨湘県。父は南朝陳の広州刺史の欧陽紇。子は欧陽愷・欧陽粛・欧陽倫・欧陽通。陳寅恪の研究によると、南蛮の血統。

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欧陽通

欧陽 通(おうよう とう、? - 691年)は、唐の書家。字は通師。本貫は長沙郡臨湘県。父は欧陽詢。子は欧陽幼明・欧陽幼譲・欧陽幼緘。高宗の儀鳳年間(676年 - 679年)、官は中書舎人になった。その後、累進して、武周の天授2年(691年)には司礼卿・判納言事となり、宰相の列に加わったが、間もなく張嘉福らが武承嗣を立てて皇太子にしたことに反対したため、武則天の怒りに触れて誅殺された。官爵(官職と爵位)は、神龍2年(706年)に追復されている。 父の欧陽詢を大欧陽、欧陽通を小欧陽と称される。幼少の時、父を失ったので、母の徐氏から書法を授けられ、その家学を継承した。遺存する作品は、『道因法師碑』(どういんほうしひ)と『泉男生墓誌銘』(せんだんせいぼしめい)のみである。

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欽明天皇

欽明天皇(きんめいてんのう、509年〈継体天皇3年〉 - 571年5月24日〈欽明天皇32年4月15日〉)は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日?〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年5月24日?〈欽明天皇32年4月15日〉)。 和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。

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正倉院

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(高床倉庫)。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

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正木美術館

正木美術館(まさきびじゅつかん)は、大阪府泉北郡忠岡町にある大阪府の登録博物館。正木孝之の収集品を収蔵展示、運営は公益財団法人正木美術館。 素封家・正木孝之が禅林文化に惹かれて収集した水墨画を中心とする日本・東洋の古美術品の収蔵・展示を目的として1968年11月に開館した。 国宝3件、国の重要文化財13件を含む所蔵品は約1300点に及ぶ。

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武士

武士(ぶし、もののふ)は、日本における戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ、幕末期まで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。

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武家

武家(ぶけ)は、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。

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毎日新聞社

株式会社毎日新聞社(まいにちしんぶんしゃ、The Mainichi Newspapers Co., Ltd.)は、全国紙『毎日新聞』を発行する日本の新聞社。ニュースサイトの「毎日新聞デジタル」の運営も行う。大阪毎日新聞と東京日日新聞を源流とし、1970年代までは本社と本店を大阪に置いていたが、その後東京に移転した。選抜高等学校野球大会(春の選抜高校野球)などのスポーツや文化事業の企画開催も行っている。 毎日新聞グループホールディングス(毎日新聞GHD)傘下の中核事業会社である。株式会社毎日新聞社と名乗る企業名は通算3代目(現在のそれは、毎日新聞GHDの設立後に新たに設立されたもの)である。

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毎日書道展

毎日書道展(まいにち・しょどうてん)とは、毎日新聞社と、その関連団体である一般財団法人「毎日書道会」が主催する書道の公募展である。

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比丘

比丘(びく、Bhikkhu、Bhikṣu)は、仏教において出家し、具足戒を守る男性の修行者である。女性の出家修行者は比丘尼(びくに, Bhikkhunī)。梵語形のBhikṣuの音写から苾芻(びっしゅ)ともいう。日本では一般には僧侶、お坊さんと呼ぶ。 比丘の生活は涅槃に達することを目的としており、質素な生活を送ることで自身の修行の助けとなるよう設計されている。 インドでは紀元前六世紀ごろから、出家し各地を遊行しながら托鉢する修行者がおり、釈迦もその一人であった。釈迦の弟子が増え仏教教団(サンガ)が成立してからは、その主要な構成員として、信徒に教えを説き、教団を維持する働きをもつ。しかし日本の伝統宗派とネパールのネワール仏教、チベットのニンマ派とカギュ派(ならびにその影響下にあるブータン)においては、僧侶の妻帯と世襲が常態化しており、戒律を始めから受けていないか、あるいは受戒しても守っていない。

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比田井南谷

比田井 南谷(ひだい なんこく、Nankoku Hidai)、明治45年(1912年)2月1日 - 平成11年(1999年)10月15日)は書家。本名は漸(すすむ)。神奈川県出身。

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比田井天来

比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号に画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)、象之(ぞうし)、淳風(じゅんぷう)も用いる林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「比田井天来石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)。

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比田井小琴

比田井 小琴(ひだい しょうきん、1885年(明治18年)6月3日 - 1948年(昭和23年)5月3日)は、日本の書家。比田井天来の妻。小琴は号で本名、元子。旧姓、田中。 大正から昭和初期にかけて、かな書道の最高指導者として活躍した。息子に、現代書道家の比田井南谷がいる。

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毛利邸

毛利邸(もうりてい)は、毛利家が近代(江戸時代後)に建てた邸宅である。現存する毛利邸には、山口県防府市にある毛利宗家の本邸(現在の毛利氏庭園と毛利博物館)と、下関市にある長府毛利家の邸宅(長府毛利邸)がある。

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毛利敬親

毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。

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水無瀬神宮

鳥居 水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は水無瀬宮。境内には環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。

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永平寺

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗の仏教寺院。總持寺と並んで、日本における曹洞宗の中心的な寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。

見る 日本の書道史と永平寺

永青文庫

永青文庫(えいせいぶんこ)は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館。旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵展示研究、運営主体は公益財団法人永青文庫。理事長は細川護光。 熊本市の熊本城二の丸にある熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、東京国際空港第2旅客ターミナル内にあった「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されていた。

見る 日本の書道史と永青文庫

江馬天江

江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日(1825年12月12日) - 明治34年(1901年)3月8日)は書家・漢詩人・医師。幕末から明治期の京都を代表する文人。 本姓は下阪氏。名は聖欽。字は永弼、のちに正人。近江の人。

見る 日本の書道史と江馬天江

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 日本の書道史と江戸幕府

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 日本の書道史と江戸時代

池大雅

福原五岳筆 池大雅像 楼閣山水図 左隻 同 右隻 十便十宜図のうち、釣便図 Fishing in Springtime クリーブランド美術館 池 大雅(いけの たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人画家 (南画家)、書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。

見る 日本の書道史と池大雅

河内国

河内国(かわちのくに、かはちのくに、)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

見る 日本の書道史と河内国

法帖

法帖(ほうじょう)とは、書道において紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存・鑑賞・学書用に供するために仕立てられたもののこと。ほとんどの場合中国の書蹟に用いられる語である。 多くは本人が制作したものではなく、後から紙をつなぎ合わせるなどの加工を行ったり、模写・複製などを行って制作したものである。また俗にはある程度の分量を持った近世以前の書蹟をこう称することもある。

見る 日本の書道史と法帖

法福寺

法福寺(ほうふくじ)。

見る 日本の書道史と法福寺

法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺。

見る 日本の書道史と法隆寺

法隆寺五重塔初層天井組木落書

法隆寺五重塔初層天井組木落書(ほうりゅうじ ごじゅうのとう しょそうてんじょうくみき らくがき)とは、法隆寺五重塔の初層(1階)天井の組み木に残る墨で書かれた万葉仮名の落書きである。通称は法隆寺五重塔落書。

見る 日本の書道史と法隆寺五重塔初層天井組木落書

法隆寺金堂薬師如来像光背銘

法隆寺金堂薬師如来像光背銘(拓本) 薬師如来像 法隆寺金堂薬師如来像光背銘(ほうりゅうじ こんどう やくしにょらいぞう こうはいめい)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背裏面に刻された銘文である。 題号の「金堂薬師如来像」を薬師如来・薬師仏・薬師像・薬師などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘・造像記とも称す。ゆえに法隆寺薬師造像銘などと称す文献も少なくない矢島恭介 p.142藤原鶴来 p.171二玄社(書道辞典) p.237。

見る 日本の書道史と法隆寺金堂薬師如来像光背銘

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(拓本) 釈迦三尊像 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文である。 題号の「釈迦三尊像」を釈迦三尊・釈迦如来・釈迦仏・釈迦像・釈迦などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘・造像記とも称す。ゆえに法隆寺金堂釈迦造像銘などと称す文献も少なくない名児耶明 p.19榧本杜人 p.143伊藤滋 p.15六人部克典 p.21。

見る 日本の書道史と法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

法華経

法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。。 法華経(ほけきょう、ほっけきょう、Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教(密教も含まれる)の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれており、法華経が開発した菩薩や如来は密教に引き継がれている。また、壮大なフィクションや、法華経の無限連鎖などの独創性は他に類を見ない。法華経は、仏教側が信者獲得のため「下位カースト在家集団」が創作した独自経典であるため、矛盾する思想が混在している。また、カルト的という特色を持つ一方で、誰もが平等に成仏できるという、新しい仏教思想が説かれているNHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。新版・NHK「100分de名著」ブックス、2021年6月。

見る 日本の書道史と法華経

法華経寺

法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)とも呼ばれる。 山号は正中山(しょうちゅうざん)で、所在地名である中山の由来になったとの説もある。

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法性寺流

法性寺流(ほっしょうじりゅう)は、藤原忠通を祖とする書道の流派の一つ。小野道風、藤原行成などの和様で優雅な書風に、雄渾さを加えた書風。忠通は、行成から世尊寺流を学び、それに工夫を加えて成立させ、どちらも鎌倉時代を代表する書風となった。開祖である忠通は、法性寺関白とも呼ばれたことから、当流を法性寺流という。

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渡辺沙鴎

渡辺 沙鷗(わたなべ さおう、文久3年12月21日(1864年1月29日) - 大正5年(1916年)10月15日)は、名古屋生まれの書家。名は周、沙鷗は号で、別号に飛清閣主・清華道人・東海道人などがある。若い頃は清華と号した。

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渡来人

渡来人(とらいじん)とは、古代に中国や朝鮮半島から日本に渡来した人々およびその子孫のことブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「渡来人」。縄文時代ないし弥生時代にすでに日本へ渡来した人々がいたことが窺われ、また平安時代以降も日本に渡って来た人々はいたが、歴史上特に重要な意味をもつのは4世紀末から7世紀後半に移住した渡来人である。 人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い ではこの意味で「渡来人」の語が用いられている。。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しては、朝鮮半島、中国大陸、満洲にシベリア大陸、中東諸国などさまざまである。

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清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

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源兼行

源 兼行(みなもと の かねゆき)は、平安時代中期の貴族・能書家。陽成源氏、上総介・源延幹の子。官位は正四位下・大和守。

見る 日本の書道史と源兼行

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。

見る 日本の書道史と源頼朝

源氏物語絵巻

'''東屋一''' 手前は女房に髪を梳かせている宇治の中の君(後姿)。中の君の右に横顔の見えるのは女房の右近。奥は浮舟。匂宮に強引に言い寄られて傷心の浮舟をなぐさめようと、異母姉の中の君は物語絵を持ち出す。右近が物語の詞書を朗読し、浮舟はそれを聞きながら冊子の物語絵に見入る。この図は、当時の物語鑑賞や絵画鑑賞のあり方を具体的に伝える貴重な資料である。 源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)は、源氏物語を題材にした絵巻物である。源氏物語を題材とする絵巻物は複数存在するが、本項では通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている平安時代末期の作品で、国宝に指定されている作品について述べる。

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満洲

満洲(まんしゅう、、Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。 この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに亘った。中国初の統一王朝は秦王朝だったが短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定した王朝は直後の漢王朝とみなされることとなった。これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。

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漢委奴国王印

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

見る 日本の書道史と漢委奴国王印

漢学

漢学(かんがく)とは、前近代、特に江戸時代の日本における、中国伝来の漢籍・中国思想・漢詩文の研究。学問の総称。国学・洋学(蘭学)に対して用いられる。西洋由来の中国学(支那学、シノロジー)とはやや異なる。

見る 日本の書道史と漢学

漢字

漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で最初に発祥した表記文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約15万字に上る。古代から周辺諸国家や地域に伝わり漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用するベトナム語の記述に使われる。現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である。

見る 日本の書道史と漢字

漢訳

漢訳(かんやく)は、漢字文化圏に外側から入ってきた文章や、概念などを漢文・漢語へと翻訳を行なうことである。

見る 日本の書道史と漢訳

漢語

日本語における漢語(かんご)とは、語種の一区分である。比較的古い時代の中国語から借用された形態素、すなわち漢字の字音から構成される語彙体系である。漢字の音読みと対応する語彙体系であるので字音語と称することもある佐藤喜代治(1996)、88頁。。固有語である「和語」、漢語以外の借用語である「外来語(洋語)」と対立する概念である。 漢語の原義は「漢民族の言語」であり、本来は漢民族が母語である中国語を自称する際の用語なのだが、日本においては国語として定着した中国由来の語彙体系を「漢語」と総称することが多い。また、漢字の字音は複合の自由度が高く、日本で独自に造語されたいわゆる「和製漢語」も多い。 日本語以外でも、朝鮮語、ベトナム語などの言語は同様の語彙体系を有している。これら言語が有する中国由来の語彙体系をまとめて「漢語系語彙(Sinoxenic vocabulary)」と呼ぶことがある。

見る 日本の書道史と漢語

漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。

見る 日本の書道史と漢文

漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。

見る 日本の書道史と漢書

持明院流

持明院流(じみょういんりゅう)は世尊寺流17代世尊寺行季が享禄5年(1532年)に没し、世尊寺家および世尊寺流が滅亡することになったことをうけ、後奈良天皇が、世尊寺流の滅亡を惜しみ、持明院基春に、その業を独立継承発展させた書流。 持明院家は、世尊寺流の筆頭門人格であったためと思われる。

見る 日本の書道史と持明院流

朝鮮半島

は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、という。

見る 日本の書道史と朝鮮半島

朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。ニュースサイトの「朝日新聞デジタル」の運営も行う。 産業経済新聞社(産経新聞社)、大阪毎日新聞社(毎日新聞大阪本社の前身)などとともに大阪府大阪市を発祥とする新聞社であり、現在でも登記上の本店を大阪に置いている。 新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演などの文化事業や、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)といったスポーツ大会の開催などの幅広い事業活動も行う。

見る 日本の書道史と朝日新聞社

木庵性瑫

木庵性瑫(もくあん しょうとう)は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。勅諡号は慧明国師。福建省泉州府晋江県の出身。

見る 日本の書道史と木庵性瑫

木村卜堂

木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1975年8月9日)は、日本の書家。本名は信太郎、卜堂は号。木村東道は長男。栃木県足利市。

見る 日本の書道史と木村卜堂

木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる(コトバンク)。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

見る 日本の書道史と木戸孝允

本行寺 (荒川区)

本行寺(ほんぎょうじ)は、東京都荒川区西日暮里にある日蓮宗の寺院。山号は長久山。本尊は一塔両尊四菩薩。旧本山は平河山法恩寺。潮師法縁。

見る 日本の書道史と本行寺 (荒川区)

本能寺

本能寺(ほんのうじ)は、京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山の寺院。山号はなし。本尊は本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。株式会社本能寺文化会館の株主であり、本能寺に隣接するホテル本能寺や境内にある博物館の本能寺大寶殿宝物館などを経営している。 住職は「貫首」と呼ばれており、現在は140世の桃井日英が福井県敦賀市の本勝寺より晋山し貫首を務めている。 現在の本能寺は、本能寺の変のあとに豊臣秀吉により移転の上再建されたもので、旧所在地は 京都府京都市中京区蛸薬師下る山田町513に位置し、石碑が置かれている。

見る 日本の書道史と本能寺

本阿弥切

本阿弥切(ほんあみぎれ)は、12世紀初め頃の書写と推定される『古今和歌集』の写本の通称である。古来小野道風を伝承筆者とするが、書風・料紙等から見て道風より2世紀ほど後の院政期の作と思われる。近世初期の能書家本阿弥光悦が一部を愛蔵していたことから「本阿弥切」の名がある。『古今和歌集』の平安時代の古写本として高野切と並び貴重なものであり、書道史上も重要な作品である。なお、「切(きれ)」とは、元来、冊子本や巻物であった和歌集、漢詩集などの写本を、後世鑑賞用に切断して掛軸などに仕立てたものを指す。

見る 日本の書道史と本阿弥切

本阿弥光悦

本阿弥光悦 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の数寄者。通称は次郎三郎。号は徳友斎・自得斎・大虚庵など。

見る 日本の書道史と本阿弥光悦

最澄

最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる最澄に対する称名は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。

見る 日本の書道史と最澄

戊辰

戊辰(つちのえたつ、ぼどのたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。

見る 日本の書道史と戊辰

成瀬大域

成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。

見る 日本の書道史と成瀬大域

成瀬映山

成瀬 映山(なるせ えいざん、1920年3月1日 - 2007年7月16日)は、日本の書家。東京都渋谷生まれ。本名・栄三(えいぞう) 日展参事、読売書法会顧問、謙慎書道会最高顧問などを歴任。全日本書道連盟顧問。槙社文会代表。警視庁自警会審査顧問。現代書道二十人展出品(朝日新聞社主催)。聖徳大学客員教授。勲四等旭日小綬章叙勲。

見る 日本の書道史と成瀬映山

明(みん)は、中国の王朝である。1368年から1644年まで存在し、明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配した。

見る 日本の書道史と明

明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 日本の書道史と明治

明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、)。お印は。 倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる。東京に皇居を置いた最初の天皇。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇にして、内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇でもある。

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明治維新

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。

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明月記

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。 2019年日本天文遺産に選定された。

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春名好重

春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 2004年6月27日)は、書の研究家、国士舘大学名誉教授。

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海晏寺

海晏寺(かいあんじ)は、東京都品川区南品川五丁目にある曹洞宗の寺院。建長3年(1251年)開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補陀落山。

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浜村蔵六 (五世)

五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。

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浄住寺

浄住寺(じょうじゅうじ)は、京都市西京区にある黄檗宗の寺院。山号は葉室山。本尊は釈迦牟尼仏。京都洛西観音霊場第三十番札所。 鉄牛禅師によって再興されて以来、黄檗宗では本山に次ぐ寺格を有していた。左右対称で回廊を擁する伽藍や、方丈庭園等、本山である萬福寺を意識した設計がなされた。よって、鉄牛禅師を祖とする長松派(萬福寺塔頭長松院)の筆頭寺院にあたる。

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浄土宗

# 伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。

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浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明(顕)らかにされた浄土往生を説く真実の教え(顕浄土真実)『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。

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浅見筧洞

浅見 筧洞(あさみ けんどう、1915年(大正4年)12月13日 - 2006年(平成18年)1月27日)は、東京都出身の書家。名は精一。謙慎書道会顧問。元大東文化大学教授。

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新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。国号の「新」は、成帝の時期に王莽が新都侯に封じられたことに由来する。莽新とも呼ばれる。

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文字

文字(もじ、もんじ、writing system)とは、言語を点や線の組合せで単位ごとに記号化するもの『日本大百科全書』【文字】。文字と書いて基本的には「もじ」とよむが、「もんじ」ともよむ。

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文人 (曖昧さ回避)

文人(ぶんじん、)。

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文徴明

文 徴明(ぶん ちょうめい、成化6年11月6日(1470年11月28日) - 嘉靖38年2月20日(1559年3月28日))は、中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。 蘇州府長洲県の人。幼名を壁または璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。

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文化庁

文化庁(ぶんかちょう、Agency for Cultural Affairs、略称: ACA)は、日本の行政機関のひとつ。所在地は京都府京都市上京区。文化に関する施策の推進、国際文化交流の振興、博物館による社会教育の振興、宗教に関する行政事務を所管する文部科学省の外局である。

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文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験

文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(もんぶしょうしはんがっこうちゅうがっこうこうとうじょがっこうきょういんけんていしけん)は、1884年(明治17年)より1948年(昭和23年)まで行われていた中等教員免許の検定試験である。「文検」(ぶんけん)と略されるほか、「文部省教員検定試験」(もんぶしょうきょういんけんていしけん)、「中等教員検定試験」(ちゅうとうきょういんけんていしけん)と略される場合もある。 試験名称は時代と共に変遷しているが、最も長く続いた正式名称は「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」である。文部省が戦前期に実施していた教員検定としては、この他、高等学校教員検定試験(略称「高検」)、実業学校教員検定試験(略称「実検」)があるが、最も歴史が古く規模の大きい試験であった中等教員検定試験についてのみ「文検」と略称されていた。

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文藝春秋

株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。

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文検

文検(ぶんけん)。

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文春新書

文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。

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日展

日展(にってん)は、官展の流れを汲む日本最大の総合美術展覧会である。開催団体の定款では「日本美術展覧会」が正式名称であるが、日展の呼称で広く知られる。 また、同展覧会を年1回で通年主催する開催団体の名称が、展覧会と同じ公益社団法人日展であるため、ここでは団体の歴史的変遷と美術展覧会の開催歴を合わせて解説する。

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日下部鳴鶴

日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。

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日高秩父

日高 秩父(ひだか ちちぶ、嘉永5年12月5日(1853年1月14日) - 1920年(大正9年)4月19日)は、明治から大正期の内大臣秘書官『人事興信録 第3版 く之部―す之部』、ひ7頁。『人事興信録 第4版』、ひ2頁。『人事興信録 第5版』、ひ2頁。、東宮御学問所御用掛、書家。正五位勲三等。号は梅渓。槑谿とも書く。

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日蓮

本蓮寺 妙傳寺 日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。

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日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、。

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日比野五鳳

日比野 五鳳(ひびの ごほう、1901年2月20日 - 1985年1月27日)は、日本の書家。息子の日比野光鳳も書家。

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日本

日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。

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日本と中国の書史

『日本と中国の書史』(にほんとちゅうごくのしょし)は、社団法人 日本書作家協会発行による木村卜堂の著書。1971年初版発行。日本と中国の書跡を年代順に解説している。

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日本の書家一覧

日本の書家一覧(にほんのしょかいちらん)は、飛鳥時代から江戸時代までの書名のある人物(能書)を時代能し別に分類した一覧である。

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日本の書論

日本の書論(にほんのしょろん)では、日本における書論の概要を記す。

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日本の書流

日本の書流(にほんのしょりゅう)とは、和様書の流派の総称である。平安時代中期の世尊寺流から分派した和様の流派が、江戸時代中期、御家流一系に収束するまでを本項の範囲とし、それ以外の著名な書流はその他の書流に記す。唐様は含めない。

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日本美術

興福寺の阿修羅像、734年) 日本美術(にほんびじゅつ)には、実に多様な種類がある。工芸( 漆工、金工、陶芸、七宝、染織工芸等)、彫刻、絵画、書道など、その種類は多い。また長い歴史をもっており、日本に人間が住み始めた紀元前10000年頃から現在まで継承されている。

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日本芸術院

日本芸術院(にほんげいじゅついん、、英語:The Japan Art Academy)は、美術・文芸・音楽・演劇など芸術のさまざまな分野において優れた功績のある芸術家を優遇し顕彰するために置かれた国の栄誉機関かつ国立アカデミーであり、文化庁の特別の機関である。国立の芸術アカデミーとしての性格は、その正式英語名称で明示されており、日本芸術院は、栄誉機関としての役割の他、芸術の発達に寄与する活動を行うとともに、芸術に関する重要事項を審議し、これを文部科学大臣または文化庁長官に意見を述べる役割を担っている。

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日本書作家協会

公益社団法人日本書作家協会(にほんしょさっかきょうかい)は、書道の普及事業などを実施している公益法人。元文部科学省所管。1959年に中央区京橋に開設し、1973年に社団法人の認可を得る。書道通信教育講座、文化庁と毎日新聞社の後援(2008年第49回展実績)による新興書道展、協賛する書人による書作家展等を実施している。略称は、書作家協会。

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日本書紀

『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ、やまとふみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

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日本書鏡院

日本書鏡院は、1933年(昭和8年)に、長谷川耕南によって創設された書道団体。道の芸術性と実用性の両面を通じて、理想的人間関係並びに人間形成に努め、年令層を問わず創造性と個性に富む書道教育を目的としている。本部は、東京都品川区。2代目会長は、長谷川耕生。現会長は、3代目の長谷川耕史である。

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旺文社

株式会社旺文社(おうぶんしゃ、Obunsha Co., Ltd.)は、1931年(昭和6年)に創業した教育専門の出版社。

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改葬

改葬(かいそう)とは、墳墓に埋葬されている遺体・遺骨を別の墳墓に移して供養することを言う。 転居で墓の管理ができない場合など、墓を自宅の近くの墓地に改葬して管理・供養を続けることができる。 なお、改葬の手続きは、墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)第2章に定められており、自分の家の墓であっても自由に遺骨を持ち出すことはできない。

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放生院 (宇治市)

放生院(ほうじょういん)は、京都府宇治市宇治(近世においては山城国宇治郡宇治郷内)にある真言律宗の寺院。山号は雨宝山(うほうざん)。寺号は常光寺(じょうこうじ)。本尊は地蔵菩薩。通称の橋寺(はしでら)の由来は、近くの宇治川に架かる宇治橋をかつて当寺が管理していたことによる。

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教育出版

教育出版株式会社(きょういくしゅっぱん、略称:教出、英語:KYOIKU-SHUPPAN Co., Ltd.)は、東京都江東区に所在する日本の総合教科書出版社。

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扇面法華経冊子

扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)または扇面古写経(せんめんこしゃきょう)は、大阪市・四天王寺に伝来した装飾経の遺品。扇形に切った料紙(扇面)に絵を描いて2つに折り、折り目で貼り合わせて冊子とし、そこに法華経・無量義経・観普賢経の経典の経文を書写したものである。

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手島右卿

手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年(明治34年)11月3日 - 1987年(昭和62年)3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県安芸町(現安芸市)出身。本名・南海巍(なみき)。ニックネームは「ライオンの右卿」。 妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。

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更級日記

藤原定家の書写、80丁 『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中期頃に書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一に数えられる「」『日本経済新聞』朝刊2020年9月30日(文化面)2020年10月10日閲覧。江戸時代には広く流通して読まれた。

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書学書道史学会

書学書道史学会(しょがくしょどうしがっかい)は、書学書道史とこれに関連する文化に関する研究の発展向上、国際交流の促進を図ることを目的として1990年に設立された学会。 本部事務局を東京都渋谷区桜丘町29-35美術新聞社内に置いている。

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書家

『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。

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書体

書体(しょたい)とは、一定の文字体系のもとにある文字について、それぞれの字体が一貫した特徴と独自の様式を備えた字形として、表現されているものをいう。基礎となる字体の特徴、およびその字形の様式から導かれる、形態の差異によって分類される。例えば、漢字という文字体系のもとにある書体として、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体に加え、印刷用の書体(明朝体やゴシック体など)、さらにはデジタルデバイスでの表示に最適化することを指向した書体が存在する。これらはいずれも共通の文字集合から生まれながら、時代・地域・目的などにより、その形態を変化させていったものである。 英語の typeface の訳語としても用いられる。この場合は、広義における活字とその意匠についての概念として扱われる。

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書道

京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であり従来より漢字作品があるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、朝鮮語圏(朝鮮の書芸)ではハングル、ベトナム語圏()では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。それ以外の文字・地域については書 (造形芸術)を参照。

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書道 (大学寮)

書道(しょどう)とは、日本律令制の大学寮において、書道について教えた学科。 書博士が書生を教えることとされていたが、学令には書生に関する規定はあるものの、学生定員を定めた職員令には書生の定員規定が書かれておらず、若干名であったと考えられている(『続日本紀』天平宝字2年11月甲午条に淳仁天皇から書生に生糸が授けられたとする記事があり、全くいなかった訳ではない)。書生は書の良し悪しによって優越が判定され、『説文解字』の理解など字体などについての知識も求められた唐の制度よりも簡素化されており、試験に及第して内記などの書記的な官職に配されたようである。また、書博士の職務も本科(後の明経道)の学生に書を教えることが主であったようである。

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書道展

書道展(しょどうてん)は、書の展覧会のこと。書展、書作展ともいう。書道団体による公募展や企画展などがある。美術館で開催されることが多いが、2000年ごろからインターネット上での書道展も開催されるようになった。個展や遺墨展も含まれる。

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書道界

書道界(しょどうかい)とは、書を専門とする者(書家)とそれに関係する者の社会のこと。日本では書壇ともいう。中国語では書法界(繁体字)という。日本では昭和時代から安定した大きな書道団体が創立されたが、それ以降の書家だけによって造られた純粋な書道界を書壇という場合が多い。

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曇徴

曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日した僧である。

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普勧坐禅儀

『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)とは、日本曹洞宗の開祖である道元が、1227年(嘉禄3年/安貞元年)に中国から帰国後初めて著した宗教書。全1巻。大正蔵続諸宗部No2580。 文字通り、万人に坐禅の実践を勧める内容となっている。

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智証大師諡号勅書

『智証大師諡号勅書』(ちしょうだいししごうちょくしょ)は、円珍への醍醐天皇の命を伝える勅書。『円珍勅書』とも称す。撰者は式部大輔・藤原博文、筆者は小野道風である。『円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書』(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ「大和尚」の読みについては、所蔵者である東京国立博物館のサイトでは「だいかしょう」とするが、以下のように「だいわじょう」「だいおしょう」とする資料も存在する。「和尚」の読みは宗派によって異なり、天台宗では「かしょう」と読む習慣があることから(参照:)、本項では「だいかしょう」とする。

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時原春風

時原 春風(ときはら の はるかぜ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・能書家。氏姓は秦忌寸のち時原宿禰、時原朝臣。官位は従五位下・采女正。

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1900年

19世紀最後の年である。暦年が4の倍数であるが閏年に該当しない100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。、現時点で最後の年である。

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1911年

この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。

見る 日本の書道史と1911年

1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。

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1947年

この項目では、国際的な視点に基づいた1947年について記載する。

見る 日本の書道史と1947年

1948年

この項目では、国際的な視点に基づいた1948年について記載する。

見る 日本の書道史と1948年

1951年

この項目では、国際的な視点に基づいた1951年について記載する。

見る 日本の書道史と1951年

1982年

この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。

見る 日本の書道史と1982年

3月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。冬と春の境目の季節である。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。。 ヨーロッパ諸言語での呼び名である mars, marzo, March などはローマ神話のマルス(Mars)の月を意味することもある。Martius から取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残で閏年の日数調整を2月に行う。

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。国土航空写真 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏の文成帝の時代に曇曜の奏上によって、都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 Etchmiadzin Cathedral。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。

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8月13日

8月13日(はちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。

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