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日朝関係史

索引 日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。

目次

  1. 708 関係: 労働組合基肄城厳原町垂仁天皇博多博多港十三湊十四か条の平和原則千字文南宋南北朝時代 (日本)南洋諸島南朝 (日本)南海道反共主義反日吐蕃吉州郡吉備氏吉野作造境港市壬午軍乱壱岐島大名行列大宝律令大宰府大伴古麻呂大内氏大統領 (大韓民国)大韓帝国大韓航空機爆破事件大韓民国臨時政府大般若波羅蜜多経大野城 (筑前国)大野健一大英博物館大連市大東亜省大正大正デモクラシー天平天平宝字天平勝宝天禄天然痘天授 (日本)天正天武天皇天文 (元号)天智天皇... インデックスを展開 (658 もっと) »

  2. 日本の国際関係史

労働組合

労働組合(ろうどうくみあい、trade union、labor union、workers union)とは、労働者の連帯組織であり、労働市場における賃労働の売手の自主的組織である。その目的は組合員の雇用条件を維持し改善することであり ch. I、誠実な契約交渉の維持・賃上げ・雇用人数の増加・労働環境の向上などの共通目標達成を目的とする。略称は、労組(ろうそ、ろうくみ)、ユニオン。単に組合と呼ぶこともある。社会的には労働者の利益団体としても機能している。 資本主義において賃労働は商品の一つであるため、商品市場(労働市場)をコントロールし、より高い価格(賃金)で、かつ売れ残れないよう(完全雇用)労働者たちが「労働力の売り手」として結んだカルテルという側面も持つ。

見る 日朝関係史と労働組合

基肄城

基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている。

見る 日朝関係史と基肄城

厳原町

厳原町(いづはらまち)は、九州の北沖に当たる長崎県の対馬の南部にあった町。対馬振興局(旧対馬支庁、旧対馬地方局)の所在地であった。2004年3月1日に、平成の大合併で対馬市となり自治体としては消滅した。

見る 日朝関係史と厳原町

垂仁天皇

垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人であり、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。

見る 日朝関係史と垂仁天皇

博多

博多総鎮守'''櫛田神社''' 博多(はかた)とは、九州地方北部の筑前国、現在の福岡県福岡市博多区の一部地域である。博多湾に面する港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。 戦国時代の合戦により博多一帯が荒廃したが、豊臣秀吉による都市整備(太閤町割り)により、博多商人の協力の下、那珂川の東側に博多の町(流)が整備され、現在の博多区の基盤となる。江戸時代以降は黒田氏により那珂川の西側に築かれた城下町「福岡」と対をなす双子都市として栄えた。1889年の市政施行時に「福岡」と合併して福岡市が誕生した。 現代においては博多区の中心である博多駅周辺のエリアを指すことが多く、広義では福岡市自体を指すこともある。古くからの博多の市街地は博多部や博多旧市街と呼ばれる。

見る 日朝関係史と博多

博多港

博多港(はかたこう)は、福岡県福岡市にある港湾。海の中道、博多平野及び糸島半島により囲まれた博多湾の湾奥に位置している。港湾管理者は福岡市。港湾法上の国際拠点港湾、港則法上の特定港に指定されている。1899年8月4日に開港した。古くは、那の津・那大津・博多津と呼ばれていた。三津七湊。 近年、博多港は九州地域の経済を支える中枢港湾として、東アジア諸港における国際競争力の確保から国際海上コンテナターミナルの整備を進めており、高度物流の拠点港湾を形成している。外貿コンテナ取扱個数国内第6位。 外国人旅客数およびクルーズ船寄港数は日本一となっている。また、神戸港より西の西日本では貿易額、コンテナ取扱量ともに首位である。

見る 日朝関係史と博多港

十三湊

十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の下でとりわけ隆盛を極めた湊である。 地域名「十三」は、語源はアイヌ語の「トー・サム」(湖畔)ではないかという説があるが、12世紀に藤原秀衡の弟の藤原秀栄が福島城 (陸奥国鼻和郡)と十三湊を整備し拠り所としたときに兄の秀衡が「古くから朝廷から遣わされた遠国支配の長官が駐在したその府港(十三湊)」を「遠長湊」(とおおさのみなと)と命名しそれが縮まって「十三湊」(とさみなと)なったとの説『日本歴史』561号 1995、「平泉の世紀」高橋富雄 1999 P112もあり、時代的には奥州藤原氏が名付け親であったとする説のほうが古く当時の実情にも近い藤原秀栄の十三湊整備は12世紀(初代福島城10世紀)、アイヌ文化期成立は13世紀後半であり時系列的にアイヌの十三湊参加はそれよりさらに後の安藤の時代となると県内(本州)にアイヌ遺跡・遺構がないこと鑑みてもアイヌ語由来である根拠は薄い。江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(:じふさん)」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる「十三湖」「十三村」「十三」など、「十三湊」関連以外は江戸時代後期以降の読みを踏襲している。

見る 日朝関係史と十三湊

十四か条の平和原則

十四か条の平和原則(じゅうよんかじょうのへいわげんそく、Fourteen Points)は、1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。 十四か条平和原則(じゅうしかじょうへいわげんそく)百科事典マイペディアは、十四ヵ条平和原則(じゅうしかじょうへいわげんそく)としている。・十四か条平和構想(じゅうよんかじょうへいわこうそう)ブリタニカ国際大百科事典は、十四ヵ条平和構想(じゅうよんかじょうへいわこうそう)としている。・十四か条(じゅうよんかじょう、じゅうしかじょう)日本大百科全書(ニッポニカ)は、十四か条(じゅうしかじょう)としている。だが、十四か条(じゅうよんかじょう)のページは十四か条(じゅうしかじょう)に転送している。

見る 日朝関係史と十四か条の平和原則

千字文

『千字文』(せんじもん、中国語ピンイン:Qiānzìwén)は、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。すべて異なる1000の文字が使われている。

見る 日朝関係史と千字文

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。

見る 日朝関係史と南宋

南北朝時代 (日本)

日本の歴史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい、)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。

見る 日朝関係史と南北朝時代 (日本)

南洋諸島

南洋諸島(なんようしょとう、)は、かつて大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域である。 別名は南洋群島(なんようぐんとう)。当時の日本人は内南洋(うちなんよう)とも言ったちなみに外南洋は、内南洋以外のミクロネシア、メラネシア、島嶼部東南アジアを指す。。

見る 日朝関係史と南洋諸島

南朝 (日本)

南朝(なんちょう)または吉野朝廷(よしのちょうてい)は、日本の南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1337年(和暦との対応上は1336年)から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。

見る 日朝関係史と南朝 (日本)

南海道

南海道(なんかいどう、みなみのみち)は、五畿七道の一つ。紀伊半島、淡路島、四国ならびにこれらの周辺諸島の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。

見る 日朝関係史と南海道

反共主義

この文書はウィキペディア日本語版の方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。<https://w.wiki/3JVc> >出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(【出典のない記述は除去されても文句は言えません】)。 >【信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません】。<https://w.wiki/6ark>--> または、とは、共産主義に対し反対 コトバンク.

見る 日朝関係史と反共主義

反日

とは、日本に対して悪意や反感を抱くこと。「反日運動」「反日感情」などを指す。

見る 日朝関係史と反日

吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。

見る 日朝関係史と吐蕃

吉州郡

吉州郡(キルチュぐん)は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道にある郡。郡所在地は吉州邑。2005年、北朝鮮の核実験基地として報じられている。

見る 日朝関係史と吉州郡

吉備氏

吉備氏(きびうじ)は、「吉備」を氏の名とする氏族。古代日本の吉備国(岡山県)の豪族。姓は朝臣。

見る 日朝関係史と吉備氏

吉野作造

吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男、袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。

見る 日朝関係史と吉野作造

境港市

日本海の方向から撮影した境港市空撮画像。手前側の植物の多い部分は島根県。写真の右下の湾が美保湾。写真奥の水域が中海で、ここにある江島や大根島などの島々も島根県。その中海の対岸側の陸地も全て島根県である。写真の中央部やや左に米子空港の滑走路が写っており、この付近が米子市との行政境界である。 境港市(さかいみなとし)は、中国地方の北部に位置する鳥取県の西部の市で、日本海側の重要港湾として栄えてきた街である。 白砂青松の続く弓ヶ浜半島は東南にそびえる大山を背景に風光明媚な景観を呈しており、「日本の白砂青松100選」や「日本の渚100選」に選ばれている。 日本の著名な漫画家の水木しげるの出身地でもあり、代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターの銅像がならぶ水木しげるロード、市が発行する住民票の写しの透かしに『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターが使われていること、境線に「鬼太郎列車」が運転されていることでも有名である。

見る 日朝関係史と境港市

壬午軍乱

壬午軍乱(じんごぐんらん)または壬午事変(じんごじへん)は、1882年(明治15年)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。

見る 日朝関係史と壬午軍乱

壱岐島

壱岐島(いきのしま)は、長崎県の離島であり、九州と対馬の間に位置する。

見る 日朝関係史と壱岐島

大名行列

大名行列(だいみょうぎょうれつ)は、大名が公用のために随員を引き連れて外出する際に取る行列のこと。参勤交代における江戸と領地との往来が典型的な形態である。その様相は、各大名家の石高や格によって幕府が定めた規定があり、また大名家独自の慣習も見られた。

見る 日朝関係史と大名行列

大宝律令

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。

見る 日朝関係史と大宝律令

大宰府

大宰府(だざいふ)おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。なお多くの史書では太宰府とも記される太宰府について記された全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例。8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているもの。

見る 日朝関係史と大宰府

大伴古麻呂

大伴 古麻呂(おおとも の こまろ)は、奈良時代の貴族。父親については複数の説があり確実なことは不明だが、『万葉集』の「(大伴旅人の)姪胡麻呂」という記述から、旅人の兄弟の子(大伴宿奈麻呂の子)であると考えられる。また、右大臣・大伴長徳あるいは大納言・大伴御行の子とする系図も存在する。官位は正四位下・左大弁。

見る 日朝関係史と大伴古麻呂

大内氏

大内氏(おおうちし、おほちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。

見る 日朝関係史と大内氏

大統領 (大韓民国)

大韓民国大統領(だいかんみんこくだいとうりょう、대한민국 대통령、漢字:大韓民國大統領)は、大韓民国の元首であり、行政府の長たる大統領である。

見る 日朝関係史と大統領 (大韓民国)

大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗。 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾や大勲位菊花大綬章など様々な勲章を纏った純宗。(1910年〜1920年) 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗。(1910年代初頭) 『大韓全図』(1899年、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、〈テハンジェグク〉)は、1897年(光武元年)から1910年(隆熙4年)の滅亡に至るまで李氏朝鮮が用いた国号である。大韓(だいかん、)、韓国(かんこく、)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 日本は日清戦争に勝利したことで、1895年(開国504年)に下関条約で李氏朝鮮を清の冊封体制から離脱させた。それを受けて、清朝との宗属関係も消滅した自主独立国家となったことを内外に示すため、第26代李氏朝鮮王である高宗が皇帝に即位し、あわせて国号を改称した。ただし、専制政治・経済機構は李氏朝鮮時代の状況が続いた。

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大韓航空機爆破事件

大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん、대한항공 858편 폭파 사건)は、1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。 日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。

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大韓民国臨時政府

大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ、朝鮮語ハングル表記: 대한민국 임시정부、朝鮮語チョソングル表記: 상해림시정부)は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮民族の組織である。中国国民党支援を受けるために国民党傘下に属し、軍事さえも1945年5月まで国民党の中国軍事委員会の下部組織であった。そのため、国民党と共に日中戦争勃発後は所在地を上海から重慶に移した。たえまない党派間の対立と連合を続けていたため、蔣介石や国民党が党派間の融和や指導を行っていた権寧俊, 「」『県立新潟女子短期大学研究紀要』 44巻 2007年 p.253-265, 県立新潟女子短期大学,,。。戦後の国共内戦後に中国国内では「光復軍は中国共産党の支援を得て重慶に設立された」と改変されている。

見る 日朝関係史と大韓民国臨時政府

大般若波羅蜜多経

『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)とは、唐代に玄奘が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典。通称は『大般若経』(だいはんにゃきょう)で、『般若経』(はんにゃぎょう)と略称することもある。全16部(会)600巻に及ぶ膨大な経典群である。大正蔵220。

見る 日朝関係史と大般若波羅蜜多経

大野城 (筑前国)

大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。

見る 日朝関係史と大野城 (筑前国)

大野健一

大野 健一(おおの けんいち、1957年9月25日 - )は、日本の経済学者。専門は、開発経済学、途上国経済論。政策研究大学院大学名誉教授、スタンフォード大学経済学博士。ベトナム友誼勲章、ベトナム教育事業勲章受章。サントリー学芸賞、アジア・太平洋賞特別賞、外務大臣表彰受賞。

見る 日朝関係史と大野健一

大英博物館

大英博物館(だいえいはくぶつかん、British Museum)は、イギリス・ロンドンのブルームズベリー地区にある人類の歴史、芸術、文化を専門とする公的機関であり、世界で最初の公立の国立博物館である。大英帝国時代に広く収集された約800万点の常設コレクションは、現存するものの中で最大かつ最も包括的なものであり、人類の文化の始まりから現在までを記録している彫刻と応用美術はヴィクトリア&アルバート博物館に、大英博物館には初期の美術、非西洋美術、版画、デッサンが収蔵されている。大英博物館では、初期の美術品、非西洋美術、版画、デッサンが展示されており、後期の美術品はテート・モダンにある。ナショナル・ギャラリーは西欧美術のナショナル・コレクションを所蔵している。

見る 日朝関係史と大英博物館

大連市

大連のスカイライン 大連市(だいれん-し/ターリエン-し、、、旧名:ダルニー市、)は、中華人民共和国遼寧省の南部に位置し、中国五つの「計画単列都市」の一つで、15個の「副省級都市」の一つである。中国東北地方随一の港口・工業・観光都市であるのみならず、中国政府指定の東北アジア国際航運センターかつ、東北アジアの有数の国際金融・交通・物流センターである。

見る 日朝関係史と大連市

大東亜省

大東亜省(だいとうあしょう、)は、戦時中の1942年(昭和17年)から1945年(昭和20年)にかけて設置されていた日本の省庁。委任統治領、及び占領地域の統治を業務とした。

見る 日朝関係史と大東亜省

大正

大正(たいしょう)は、日本の元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。 日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間をという。本項ではこの時代についても記述する。

見る 日朝関係史と大正

大正デモクラシー

大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。 何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立、マルクス主義、アジア主義など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。

見る 日朝関係史と大正デモクラシー

天平

天平(てんぴょう、)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。

見る 日朝関係史と天平

天平宝字

は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。

見る 日朝関係史と天平宝字

天平勝宝

は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。

見る 日朝関係史と天平勝宝

天禄

は、日本の元号の一つ。安和の後、天延の前。西暦の970年から973年までに対応する。この時代の天皇は円融天皇。

見る 日朝関係史と天禄

天然痘

天然痘(てんねんとう、variola, smallpox)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである(IDWR 2001年第40号掲載)。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

見る 日朝関係史と天然痘

天授 (日本)

天授 (てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方で使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。

見る 日朝関係史と天授 (日本)

天正

天正(てんしょう)は、日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。1573年から1592年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。

見る 日朝関係史と天正

天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。 諱は。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇。壬申の乱に勝利して即位した。

見る 日朝関係史と天武天皇

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん、)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。

見る 日朝関係史と天文 (元号)

天智天皇

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

見る 日朝関係史と天智天皇

太宗

太宗(たいそう)は、東アジア世界における王朝における君主(主に太祖に次ぐ皇帝)の廟号の一つ。以下の人物に贈られた。

見る 日朝関係史と太宗

外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称: MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」(外務省設置法第3条)。

見る 日朝関係史と外務省

外国人登録制度

外国人登録制度(がいこくじんとうろくせいど)は、日本において、市町村と特別区で作成されていた外国人の住民に関する記録であった。2012年(平成24年)7月に制度そのものが廃止され、現在は在留カードとなり、日本の外国人も住民基本台帳で管理されている。

見る 日朝関係史と外国人登録制度

夕刊フジ

夕刊フジ(ゆうかんフジ)は、産業経済新聞社(通称「産経新聞社」)が発行している日本の夕刊紙。関東・近畿での即売が中心。発行日は原則日曜日と祝日を除く毎日中央競馬が月曜日に開催される場合は、前日の日曜日に電子版のみ「競馬特別号」を発行する。。ただし年末年始は、12月29日に元日付け「新春特別号」を発行し、12月30日〜1月3日休刊。日本新聞協会・共同通信社に、同じ産経新聞社が発行する一般紙の産経新聞、スポーツ紙のサンケイスポーツとは別々に加盟している。

見る 日朝関係史と夕刊フジ

女子挺身隊

女子挺身隊 敬礼して工場に入る女子挺身隊 女子挺身隊(じょしていしんたい、)は、大日本帝国が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働および農業に従事した。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳〜40歳の内地(日本)の女性が動員された。日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった。1945年の国民勤労動員令によって女子挺身隊は国民義勇隊として改組され、消滅した。

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女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山(白頭山)とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は遼王朝の興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったといわれる。12世紀、女真族は中国東北部に金王朝を建てたが、金を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。

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奴国

奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多い。

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好太王

好太王(こうたいおう、374年 - 412年)は、高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。

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好太王碑

好太王碑(こうたいおうひ, )は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われる。付近には陵墓とみられる将軍塚や太王陵もあり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)という。 4世紀末から5世紀初頭の朝鮮半島史や古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、第43代元明天皇により平城京(奈良・現奈良県奈良市)や聖武天皇の難波宮に都が置かれた時代。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。遊牧民であったとされている。 契丹人は、原モンゴル人から鮮卑人を経た子孫であり、モンゴル語族の汎モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した。契丹人は、シベリア、モンゴル、中国北部の広大な地域を支配した遼王朝(916〜1125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。 1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である。

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妖怪人間ベム

『妖怪人間ベム』(ようかいにんげんベム)は、1968年(昭和43年)10月7日から1969年(昭和44年)3月31日までフジテレビ系列にて毎週月曜日19時30分 - 20時00分の時間帯で放送されたテレビアニメ。全26話(以下「第1作」「前作」などと略記)。人間になることを願う妖怪人間3人の戦いや哀しみを描く。 本項では、その後に上記作品を原作として製作されたリメイクアニメやコミカライズ、実写ドラマなどメディアミックス作品群についても記載する。

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姉妹都市

は、文化交流や親善を目的とした地方政府同士の関係を指す。、などとも呼ばれる。国同士の外交関係とは別のものである。

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう、)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう、、718年〈養老2年〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)は、日本の第46代天皇(在位:749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉- 758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉)および第48代天皇(在位:764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。諱は阿倍で、これは阿倍氏に養育されたためであった。

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実学

実学(じつがく、独:raktische Wissenschaft)。

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宝亀

は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。

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宝暦

は、日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。

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宣祖

宣祖(ソンジョ、せんそ、1552年12月26日 - 1608年3月17日)は、李氏朝鮮時代の第14代国王。諱は昖、初名は鈞(ギュン、균)。即位前は河城君(ハソングン、ほうじょうくん)。父は第11代国王・中宗と昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたる。

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室町幕府

は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代を指す。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関のひとつ。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為である外国大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務および御璽・国璽の保管等を所管する内閣府の機関である。 なお、宮内庁は以前は総理府の外局(総理府設置法17条)であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条、第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法第48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。 鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。

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官僚

官僚(かんりょう、bureaucrat)とは、国家の政策決定に大きな影響力を持つ国家公務員。「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。 英語のbureaucratは、フランス語の「bureaucratie ビューロクラティ」(官僚制)に起源を持つ。「官僚制度(官僚制)」は、ピラミッド型に整理された、権限の分担とその指揮系統に関する官僚の階層構造を意味する。これは統治構造の一種であり組織は問わないが、歴史的に政治統治組織が起源であるため「官僚制」と呼ばれることとなった。ヘーゲルによる定義では、「官僚」とは国家への奉仕かつ私有財産の配慮を行う者の総称となっている。

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宗像氏

宗像氏、宗形氏(むなかたし)は、筑前国の古族である。胸形君(むなかたのきみ)とも。 また、上代より宗像の地を支配した海洋豪族、宗像大社を奉じる一族も「宗像氏」(胸形氏、宗形氏、胸肩氏とも)を冠する事があり、併せて記す。

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宗義智

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬国領主宗氏20代当主。対馬府中藩初代藩主。 秀吉の命令で、小西行長らと共に、李氏朝鮮との交渉に尽力。文禄・慶長の役では一番隊の先導役として活躍し、講和交渉にも尽力した。関ヶ原の戦いでは西軍についたが所領は安堵され、日本と朝鮮との国交回復に尽力し、朝鮮との和平条約を結んだ。

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宗貞盛

宗 貞盛(そう さだもり、生年不明 - 1452年7月9日(享徳元年6月22日))は、室町時代前・中期の武将。対馬の守護大名で、宗氏の第9代当主。第8代当主・宗貞茂の子。

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安史の乱

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使の安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。 安禄山・史思明両者の姓をとって、「安史の乱」と呼称される。

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安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。

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宋明理学

宋明理学(そうみんりがく)は、中国の宋代から明代にかけて流行した思想を指す言葉で、朱子学と陽明学のこと。宋以後の思想史の中で最も重要な位置を占める。宋代・明代の儒学を代表するテーマが「理」であることからその名がつき、単に「理学」とも呼ばれる。 その新しい思想傾向を強調して「新儒教」とも称され、英語では と訳される(現代の新儒家(現代新儒学)とは別物である)。また、宋明理学のうち、北宋・南宋の学術は特に宋学と呼ばれる。

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宋書

『宋書』(そうじょ、そうしょ)は、中国南朝の宋の60年間について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が南朝斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 南朝宋のうちに何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。南朝宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。 北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。

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察度

察度(さっと、1321年(至治元年) - 1395年11月17日(洪武28年10月5日))は琉球の国王の一人。三国統一以前で初代中山王を名乗る。現在の宜野湾市の出身だという。宜野湾市の偉人の一人。神号は、大真物(うふまもの)。

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対馬

対馬(つしま、)または対馬島(つしまとう、Tsushima Island)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県(ながさきけん)に属する島で、島全域が対馬市の1島1市体制である。面積は日本第10位で国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 、島内人口は3万470人(2019年9月現在)。

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部ならびに基山町)および浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩である。別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称されることが多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。

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対馬国

対馬国(つしまのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

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富本銭

桜井市立埋蔵文化財センター展示。 富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。鋳造年代は708年(和銅元年)に発行された和同開珎より古いとされる。この貨幣が実際に流通したのか、厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。 富本銭よりも前の貨幣として無文銀銭が知られている。無文銀銭・富本銭・和同開珎の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多く、今後の研究課題である。

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寛平

寛平(かんぴょう/かんぺい/かんへい、)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。

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寛仁

寛仁 (かんにん、)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1021年までの期間を指す。この時代の在位した天皇は、後一条天皇(第68代)。

見る 日朝関係史と寛仁

寛延

寛延(かんえん、)は、日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。

見る 日朝関係史と寛延

小幡人形

小幡人形(おばたにんぎょう)とは、滋賀県東近江市五個荘小幡町で作られている伝統的な土人形。 始まったのは享保年間。小幡において京都への飛脚業を営んでいた安兵衛が、京都伏見において作られる伏見人形の製作方法を習得し持ち帰ったのが始まりとされる。鮮やかな原色、特に桃色による彩色が特徴である。 小幡人形を絶やしていけないと1983年の秋に愛好家らと立ち上げて、「小幡人形保存後援会グループ凸(でこ)」を結成、2019年に役割を果たし解散、そして保管し続けてきた13点は東近江市に寄贈した。1994年には滋賀県伝統的工芸品に指定。 1984年(昭和59年)と1992年(平成4年)には年賀切手の図柄に採用されたことがある。

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小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。

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小渕恵三

小渕 恵三(おぶち けいぞう、1937年〈昭和12年〉6月25日 - 2000年〈平成12年〉5月14日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。 衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣官房長官(第49代)、外務大臣(第121代)、内閣総理大臣(第84代)、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁(第18代)、自由民主党群馬県連会長などを歴任した。

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尼港事件

廃墟となったニコラエフスク(尼港) ニーナ・レペデワ(レベジェワ)・キャシコ。 その隣、左端の椅子に座った人物が副司令のラプタ。背後には日本人から略奪した屏風が見え、撮影時期は1920年4月と推定されている。 尼港事件(にこうじけん、Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, Nikolayevsk Massacre『尼港事件と日本社会、一九二〇年』p.

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射撃統制システム

射撃統制システム(しゃげきとうせいシステム、)は、射撃統制を行うためのシステム。射撃指揮システム、射撃管制システム、射撃統制装置、射撃指揮装置、射撃管制装置、射撃指揮管制装置とも称される。海戦分野では射撃指揮システム、陸戦分野では射撃統制システム、航空戦分野では火器管制システムと称されることが多い。

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履中天皇

履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、日本の第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。『日本書紀』での名は去来穂別天皇。仁徳天皇の嫡子。

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山縣有朋

山縣 有朋(やまがた ありとも、、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。

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山鹿素行

赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像昭和33年(1958年)建立の二の丸庭園奥にあった元々の銅像は、顔に涙を書く悪戯で緑青が蔓延して撤去され(廣山尭道「播州赤穂の城と町」)、平成22年(2010年)に二の丸門跡に再建立されたもの。 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)または高興(たかおき)、義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。長男に政実(まさざね)、次男に高基(たかもと)がいる。

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山陰本線

山陰本線(さんいんほんせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から中国地方の日本海沿岸(山陰地方)を経由し、山口県下関市の幡生駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、仙崎支線あるいは仙崎線と呼ばれる長門市駅 - 仙崎駅間の支線を持つ。 京都駅 - 園部駅間については、「嵯峨野線」も参照。

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島津氏

島津氏(しまづし)は、武家・華族だった日本の氏族。 鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し、廃藩置県後に公爵家となった薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の分家がある。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。 通字に「忠」・「久」。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。

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崇仁親王妃百合子

崇仁親王妃百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では「皇太子」を除いて、皇族に宮号が冠されることはないため、官報での表記は「崇仁親王妃百合子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。、1923年〈大正12年〉6月4日 - )は、日本の皇族。元華族。三笠宮家第2代当主。三笠宮崇仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下。勲等は勲一等。お印は桐(きり)。旧名は高木 百合子(たかぎ ゆりこ)。皇室会議予備議員。子爵・高木正得第2女子。 第126代・今上天皇(徳仁)の大叔母。 明治以降の女性皇族として最長寿である。2023年(令和5年)6月に百寿を迎えた。存命の皇族の中では最年長者であり、上皇のおじ・おばとしては民間人も含め唯一の存命者。また大日本帝国憲法下、旧皇室典範下の成年皇族として、明治宮殿での儀式に参列した唯一の存命者。

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上皇后美智子

上皇后美智子(じょうこうごうみちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の皇族。第125代天皇・明仁の皇后。身位は上皇后。敬称は陛下。お印は白樺。勲等は勲一等。旧名は正田 美智子(しょうだ みちこ)。 第126代・今上天皇(徳仁)の母。 明治時代以降初めての民間出身ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后の光明皇后(藤原光明子)である。光明皇后は父親が藤原不比等、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。

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不平等条約

不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。民事事件については訴えられる側の国の司法機関、刑事事件については被疑者の国の司法機関で裁判を行うとした条約もある(治外法権)。

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両班

両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる朝鮮王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。

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中央日報

は、韓国の朝鮮語の日刊新聞(朝刊)である。1965年創刊。本社をソウル特別市中区におく。時事通信社、日本経済新聞社と友好関係にあり、東京総局を東京都中央区銀座の時事通信ビルに置く。

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中宗 (朝鮮王)

中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年 - 1544年)。諱は懌。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。

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中国人

中華人民共和国政府が公式に認めた全56の民族すべてを描いた北京の一壁。 中国人(ちゅうごくじん)とは、東アジアに存在する地域としての中華圏、またはそれに根ざした国家、民族などにまつわる多数の意味を持つ広範な概念上の呼称であり、さまざまな場所、あるいは立場上により全て異なる概念になることがある。

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中国人民志願軍

中国人民志願軍(ちゅうごくじんみんしがんぐん、中国人民志愿军)は、朝鮮戦争に参戦した中華人民共和国の部隊の名称。初代司令員は、彭徳懐が担当した(政治委員を兼任)。人民義勇軍、抗美援朝義勇軍ともいう。

見る 日朝関係史と中国人民志願軍

中国東北部

中国東北部 中国東北部(ちゅうごくとうほくぶ、中国东北、)とは、中華人民共和国の東北側外縁に存在する地域である。歴史的には満洲と呼ばれていた地域にあたる。 豊富な鉱産資源を背景として満洲国時代に東アジアで最も工業化が進んだ先進地域となり、第二次世界大戦後の中華人民共和国では共和国長子(きょうわこくちょうし)と呼ばれた。しかし、現在は経済の低迷と人口流出により「中国のラストベルト」と呼ばれている。

見る 日朝関係史と中国東北部

中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、)、通称中国(ちゅうごく、)は、東アジアに位置する社会主義共和制国家。首都は北京市。

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中華民国

中華民国(ちゅうかみんこく、中華民國、、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、Republic of China)は、東アジアに位置する共和制国家。実効支配している領土の大半が台湾島であることと、中華人民共和国が「一つの中国」原則を唱えている政治情勢により、台湾(たいわん、臺灣/台灣、Taiwan)が通称として国際的にしばしば使用されている。現在(1949年以降)の首都は台北市。 アジアで2番目の共和国アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であると見なす場合。ただし、当時のフィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下から脱し切れていなかったため異論がある。

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中華民国国軍

中華民国国軍(ちゅうかみんこくこくぐん、、Republic of China Armed Forces)は、中華民国の軍隊。陸軍、海軍(海軍陸戦隊)、空軍、憲兵で構成されるほか、戦時には海巡署(各国の沿岸警備隊に相当)が国軍に編入される。

見る 日朝関係史と中華民国国軍

中華思想

中華思想(ちゅうかしそう)は中華が天下(世界)の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する思想・価値観・道徳秩序を指す。漢民族が古くから持っていた自民族中心主義である。 自国の美称として夏、華夏、中国を用い「中華思想」項、王朝の庇護下にない化外の異民族もしくは非漢民族を文化程度の低い夷狄(蛮族)であるとして劣位へ秩序づける。このため、華夷思想(かいしそう)の同義語として扱われる場合もあるが百科事典マイペディア、より蛮夷排斥に重点を置いた語として「華夷思想」を用いる場合もある「華夷思想」項。 「中華思想」は主として日本学界の用語であり、中国語と英語では「華夷秩序」(、)と「中国中心主義」(、)、二つの概念に分けられている。

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中曽根康弘

中曽根 康弘(中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位菊花章頸飾。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第32・33代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長を歴任した日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。

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帯方郡

帯方郡(たいほう-ぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡である。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。

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世宗

世宗(せそう、せいそう、朝鮮:セジョン)は、東アジア世界における王朝における君主の廟号の一つ。以下の人物に贈られた。

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世宗 (朝鮮王)

世宗(せいそう、セジョン、せそう、세종、1397年5月7日 - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である。姓は李、名は裪(裪は衣へんに陶の旁)(とう、ド、도)。即位前は忠寧(大)君(ちゅうねい(たい)くん、チュンニョン(デ)グン)と呼ばれていた。

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世界の記憶

世界の記憶(せかいのきおく、Memory of the World、略号 MoW、)は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業の一つ。危機に瀕した古文書や書物などの歴史的記録物(可動文化財)を保全し、広く公開することを目的として、1992年に創設された。選定件数は2022年12月時点で地域登録を含め490件超である。 日本政府は2010年に日本ユネスコ国内委員会の小委員会で「記憶遺産」と訳すことを了承したが、「」など遺産を意味する英単語が正式名称に含まれていないことから、外務省や文部科学省では2016年6月から直訳である「世界の記憶」を用いている。

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世界恐慌

Florence Owens Thompsonと判明した。 1910年から1960年までの米国の年間実質GDP(世界恐慌(1929年~1939年)をハイライト表示 1910-60年のアメリカの失業率、世界恐慌(1929-39年)の年をハイライト表示 世界恐慌(せかいきょうこう)または大恐慌(だいきょうこう、The Great Depression)とは、1930年代にアメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のことである。世界恐慌の時期は国によって異なるが、ほとんどの国では1929年に始まり、1930年代後半まで続いた。それは20世紀の中で最も長く、最も深く、最も広範な不況であったCharles Duhigg, "Depression, You Say? Check Those Safety Nets", The New York Times, March 23, 2008.。世界恐慌により日本国内で起きた不況のことを昭和恐慌という。世界恐慌は、世界経済がいかに激しく衰退するかの例として一般的に使われている。

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万景峰号

万景峰号(マンギョンボンごう、まんけいほうごう、ばんけいほうごう, )は、北朝鮮の貨客船。船名は平壌郊外にある山、万景峰から名付けられた。『万景峰号』と、金日成主席の80歳記念に1992年に寄贈された『万景峰92』がある。北朝鮮を支援する在日韓国・朝鮮人らの資金により建造された - 朝鮮日報 2018年2月11日(archive.is)。

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三・一運動

三・一運動(さん・いちうんどう、サミルうんどう、삼일운동)は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動。 独立万歳運動(どくりつばんざいうんどう)、己未独立運動(きびどくりつうんどう、)とも。日本では、朝鮮騒擾事件(ちょうせんそうじょうじけん)、萬歳騒擾事件(ばんざいそうじょうじけん)、万歳事件(ばんざいじけん)、三・一独立運動(さん・いちどくりつうんどう、サミルどくりつうんどう)とも呼ばれる。 現在の韓国では肯定的に評価され、3月1日を「三一節(3·1절)」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席して演説を行う記念式典が開催されるなどしている。

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三別抄

三別抄(さんべつしょう、朝:)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。

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三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

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三国干渉

1895年11月8日、三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印した。 三国干渉(さんごくかんしょう、)は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日清戦争の日本の勝利とそれに伴う下関条約により日本に割譲された遼東半島を清国に返還することを要求する内容だった。

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三国時代 (朝鮮半島)

朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)は、朝鮮半島および満洲に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。韓国では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。後者の時代区分は高麗時代の史書に依拠する。

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三韓征伐

新羅征伐を前に釣り占いをする神功皇后と武内宿祢。月岡芳年筆 三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。 『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし、三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

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三谷太一郎

三谷 太一郎(みたに たいちろう、1936年9月29日 - )は、日本の政治学者(日本政治外交史)。勲等は文化勲章。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。 東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、東京大学大学院法学政治学研究科研究科長、成蹊大学法学部教授などを歴任した。

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三浦の乱

三浦の乱(さんぽのらん、サムポのらん)とは、1510年(中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱(경오 삼포 왜란)。

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下関市

下関市(しものせきし)は、山口県の西部、本州の最西端にある都市。中核市および中枢中核都市に指定されている。 海峡ゆめタワーから下関市中心部東側と関門海峡を望む(中央部に見えるのは関門橋、右上は北九州市門司区) 火の山から望む下関市中心部。

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下関条約

下関条約(しものせきじょうやく、)または馬関条約(ばかんじょうやく、)、または日清媾和条約(にっしんこうわじょうやく、)は、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に日本と清の間に締結された日清戦争(1894年-1895年)の講和条約。 山口県下関市の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て締結された。調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方である下村(1979)pp.426-427。 前文および11か条からなり、これには付属議定書があって、解釈・批准等について規定している。朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖列島の日本への割譲、清から日本への2億テールの賠償金支払い、清の一部市港の開港、最恵国待遇などを内容とする。ただし批准交換までに三国干渉があり、遼東半島は清に返還した。かつては、会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般に馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称であり、中国では、今でも「馬関条約」()と呼んでいる「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、これを江戸時代の漢学者が縮めて「馬関」とした。明治期に作られた「鉄道唱歌」の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬関条約結びたる 春帆楼の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介された。調印後の1902年に赤間関市が下関市に改称されても「馬関条約」の名称は長らく使われた。「下関条約」の表記が完全に定着するのは、第二次世界大戦後のことである。

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一進会

一進会(いっしんかい、イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。 1904年に李容九、宋秉畯らの開化派によって創設された。日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国(日本)に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。 当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人 アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200, pp.12, "種別 政社, 名称 一進会, 設立年月 光武八年八月, 事務所 永楽町二丁目, 重ナル役員 会長 李容九 副会長 洪肯燮, 会員数 ?八十万名"。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もある内田良平『日韓合邦秘事』下巻 合邦主唱者タル一進会ガ実数四千ニ満サル会員ヲ以テ漫リニ百万ト称スルハ虚勢モ亦甚シが、日露戦争をロシア帝国(ロシア)に代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品を運搬する業務に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている。

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一支国

一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。 1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。

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九州大学

九州大学(きゅうしゅうだいがく、)は、福岡県福岡市に本部を置く日本の国立大学。略称は九大(きゅうだい)。 国内の旧帝国大学7校の1つで、 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。

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九州国立博物館

九州国立博物館(きゅうしゅうこくりつはくぶつかん)は、福岡県太宰府市石坂にある歴史系の博物館。独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館の1つで、2005年10月16日に開館。太宰府天満宮裏で、同宮所有の丘陵地に建設された。通称「九博」(きゅうはく)「九国」(きゅうこく)。館長は富田淳。2020年3月31日時点で、国宝4件、重要文化財42件を含む収蔵品の総数は1,279件。これとは別に、国宝2件、重要文化財12件を含む総数1,300件の寄託品を収蔵している。2019年度の平常展の展示替え件数は1,641件、展示総件数は1,894件。同年度の来館者数は約67万人で、平常展来場者は約35万人。

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。

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平壌市

平壌市(ピョンヤンし、평양시, Pyongyang City)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都であり、国内最大の都市である。 朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、道級の直轄市となっている。

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享保

1729(享保14)年版。国立科学博物館の展示。 享保(きょうほう)は、日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

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京城帝国大学

京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく、旧字体: 京城󠄀帝󠄁國大學、경성제국대학)は、京畿道京城府に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は城大(じょうだい、성대)。 1924年(大正13年)に、日本としては6番目の帝国大学として設立された朝鮮唯一の旧制大学。内地の帝国大学が文部省管轄であったのに対し、城大は朝鮮総督府管轄だった。1946年、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁法令102号により、閉鎖された。

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京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。 永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府の侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。

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康応

は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。嘉慶の後、明徳の前。1389年から1390年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。

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広州市

広州市(こうしゅう/クワンチョウ-し、、、、Canton)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。

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五島列島

五島列島の位置 五島列島(ごとうれっとう)は、長崎県西部に位置する列島。人口は約7万人。北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて152の島々からなる。旧松浦郡。

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五個荘町

五個荘町(ごかしょうちょう)は、滋賀県神崎郡にかつて存在した町。近江商人発祥地の一つとして知られる。2011年2月11日周辺市町と合併し、東近江市の一部となった。

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五百籏頭眞

五百籏頭 眞(いおきべ まこと、1943年〈昭和18年〉12月16日 - 2024年〈令和6年〉3月6日)は、日本の政治学者、歴史学者(日本政治外交史)。国際問題評論家。位階は従三位、勲章は瑞宝大綬章。 学位は法学博士(京都大学・1987年)。専門は日本政治外交史、政策過程論、日米関係論。 公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長、前兵庫県公立大学法人理事長、神戸大学名誉教授、防衛大学校名誉教授、熊本県立大学特別栄誉教授、文化功労者。 姓の「籏」は「旗」の異体字、名の「眞」は「真」の旧字体であるため、五百籏頭 真、五百旗頭 眞、五百旗頭 真とも表記される。

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井上馨

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。

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仁川広域市

1930年頃の地図 仁川広域市(インチョンこういきし、인천광역시、Incheon Metropolitan City)は、大韓民国西北部の市(京畿道地方)。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。沖合には仁川国際空港がある。 人口は約300万人で、広域市に指定されている。ソウル、釜山に次いで韓国で3番目の人口を誇るが、ソウル市の衛星都市的な性格が強いため、韓国第三の都市は仁川ではなく大邱とされることが多い。 仁川都心部には富平、九月洞、月尾島などの繁華街がある。郊外の埋立地は韓国最大の経済自由区域である仁川経済自由区域に指定されており、松島新都市、青羅国際都市などの建設が進められている。

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仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう、、神功皇后摂政57年 - 427年?〈仁徳天皇87年1月16日〉)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。実在したとすれば4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。

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仁祖

仁祖(じんそ、インジョ、1595年12月7日 - 1649年6月17日、在位:1623年4月12日 - 1649年6月17日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(そう、ジョン、종)。クーデター(仁祖反正)によって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。

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仏師

江戸時代の仏師 仏師(ぶっし)は、彫刻家の中で特に仏像を専門に作る者を指す。

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仏舎利

仏舎利(ぶっしゃり、Śarīra)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨を指す。舎利はシャリーラの音写であり、遺骨または遺体を意味する言葉。従って、仏舎利とは仏陀である釈迦の舎利のことを意味する。遺骨の他にも、仏歯と呼ばれる歯を含む。 日本に現存する仏舎利のうち、考古学的な裏付けがされている真の仏舎利(真舎利、真身舎利)としては、インドで発掘され、タイ王国を経由して覚王山日泰寺(名古屋市)に納められているものがある(仏教学者による連続講義動画)のうち121~129回。スリランカのジャヤワルダナ大統領が大統領官邸において阿含宗に寄贈した仏舎利にもスリランカ国の公文書の由来書が付されており釈迦山大菩提寺に祀られている。

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仏教

仏教(佛敎、ぶっきょう、बौद्धधर्म、ພຸດທະສາສະໜາ、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。仏陀(仏、目覚めた人、Buddha)の説いた教え。キリスト教・イスラム教に次ぐ世界宗教の1つで、世界で4番目に大きな宗教である(信者の数はヒンドゥー教の方が多いが、ヒンドゥー教は信者がほぼインドに限られているため、世界宗教とは言いがたい)。世界人口の7%である5億2000万人以上が仏教徒(信者)であり、特に東アジア、東南アジア、南アジアで広まっている。 教義は苦の輪廻からの解脱を目指す。原因と結果の理解に基づき、諸々の現象が縁起するとされる。

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延世大学校

韓国では、ソウル大学校・高麗大学校と共に「SKY」と呼ばれる3大トップの最難関大学の一つである。

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延暦

は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。

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建治

建治 (けんじ、)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1278年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。

見る 日朝関係史と建治

任那

任那(みまな/にんな、임나、?-562年)は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域を指す歴史地理的地名。主として『日本書紀』に代表される日本の史料において用いられる他、広開土王碑文等に用例がある。一般的に伽耶と同一、または重複する地域を指す用語として用いられる。

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仙台東照宮

仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社。承応3年(1654年)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建。正式名称は東照宮。唐門、本殿など4棟と鳥居1基が国の重要文化財に指定されている。

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伊万里焼

伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼、波佐見焼、鍋島焼なども含む。

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伊都国

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。

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伊藤仁斎

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。 諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。

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伎楽

伎楽(ぎがく)は、日本の伝統演劇のひとつである。日本書紀によれば、推古天皇20年(612年)、推古天皇の時代に百済人味摩之(みまし)によって伎楽が伝えられた。中国南部の呉で学んだという(『教訓抄』)。奈良時代の大仏開眼供養(天平勝宝4年(752年))でも上演され、正倉院には、その時使用された伎楽面と衣装が残され、他には法隆寺献納宝物として面が残る。伎楽面は、後の能楽などに比べずっと大型で、頭からスッポリと後頭部含めて被る形式である。行道という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇と舞と楽奏で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが、鎌倉時代に至って次第に衰退し絶えた。

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弥生土器

壺形土器・後期(1〜3世紀)東京都大田区久が原出土 弥生土器(やよいどき)は、弥生時代に使われた軟質素焼きの土器。一般的に「縄文土器と比べると形・装飾が簡素で、高温で焼かれて明るく硬い」と評されるが、実際には一概に言い切れるものではなく、地域ごとに個性豊かに発達した。また、先行する縄文土器や後続する土師器との区別も明確ではなく、その線引きは研究者でも一致していない。 弥生土器は狩猟採集社会から農耕社会に変化する過程で、在来土器に朝鮮半島の無文土器の製作技術や彩文手法を採り入れて成立したとする説が有力である。縄文時代に煮炊きに用いられた深鉢は、弥生土器では蓋を被せる甕に変化し、さらに穀物を保存するための壺が大量に作られるようになる。また、食器として用いた高杯や、葬祭・祭祀に用いる甕棺や特殊器台・特殊壺などは、弥生文化の一面を表すと考えられる。現在の弥生土器研究は地域ごとに行われているが、いわゆる広域編年については見解が一致していない。

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弘安

は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1288年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。

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弘仁

は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。

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弘治 (日本)

は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。

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張保皐

張 保皐(ちょう ほこう、790年頃 - 841年)は、統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物。張宝高とも記される。朝鮮語でもどちらもチャン ボゴ(장 보고)と読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。

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引き揚げ

引き揚げ(ひきあげ、)とは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が第二次世界大戦で連合国に降伏したことを受け、日本の外地台湾、朝鮮、関東州及び南洋諸島。 や日本軍占領地満洲国(法律上は外国)及びその他日本軍の占領地。 または内地のソ連軍被占領地南樺太及び千島列島。 に生活基盤を有する一般(民間)日本人が日本の本土(内地)への帰還を指す河原(2011年)12ページ軍人や軍属を召集解除または解雇し、軍籍から外すことを「復員」という。軍人軍属が日本本土以外にいる場合は、日本への帰還が完了することで最終手続きとなるため、所定の「復員手続」を済ませて、帰郷旅費を支給するまでの面倒を見ることまでが「復員業務」とされた。本項では、一般日本人の「引き揚げ」に加え、軍人軍属の「復員業務」を併せて扱う。以上は河原後掲書による。

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佐賀県

佐賀県シンボルマーク 佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は佐賀市。 お茶や唐津・伊万里・有田などの古くからの陶磁器の産地として有名で、玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。九州地方の中では最も面積、経済規模が小さい県である。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県滋賀県宮城県と近い人口密度がある。

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佐藤栄作

佐藤 栄作(さとう えいさく、、1901年〈明治34年〉3月27日 - 1975年〈昭和50年〉6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階勲等は従一位大勲位。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務め、日韓基本条約に批准、非核三原則を提唱、沖縄返還を実現。内閣総理大臣として、2,798日の連続在任を記録。1974年にノーベル平和賞を受賞。 旧制山口中学校、旧制第五高等学校、東京帝国大学出身。運輸次官、内閣官房長官(第4代)を経て政界に転身。造船疑獄で危機に陥るも、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第4・21・22代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第20代)、科学技術庁長官(第12・13代)、内閣総理大臣(第61・62・63代)を歴任した。1957年から1960年まで内閣総理大臣を務めた岸信介の弟。

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征韓論

征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。 1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契を発送した。 しかし、朝鮮政府は西界の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されたが、これを「征韓論」という。1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが辞職した。 この事件は1873年政変または明治6年政変と呼ばれるが、政変の背景に朝鮮出兵議論があり、征韓論政変ともいわれる。

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる。

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代将軍(在任:1853年 - 1858年)。第12代将軍・徳川家慶の四男。

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徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府の第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。初名は綱豊(つなとよ)。

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍(在職:1651年 - 1680年)。

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。 徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男早世した兄がいたため次男とみなされることもある。であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっており年齢も家定より年上なのでどちらも将軍後継者候補 としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。

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徳川家重

徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代中期の江戸幕府の第9代将軍(在任:1745年 - 1760年)である。

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徳川家治

徳川 家治(とくがわ いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍(在任:1760年 - 1786年)である。第9代将軍徳川家重の長男。

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)。8代将軍吉宗の曾孫。10代将軍家治は養父かつ従伯父(実父のいとこ)にあたる。

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代将軍(在職:1605年 - 1623年)。

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。

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後三国時代

後三国時代(ごさんごくじだい、892年 - 936年)は、朝鮮の歴史の時代区分の一つ。

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後百済

後百済(ごくだら/こうひゃくさい/フベクチェ、892年 - 936年)は、後三国時代、挙兵した甄萱(キョン・フォン)が、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。

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律詩

律詩(りっし)は、漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。8句からなる。

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保安隊

保安隊(ほあんたい、英語表記:National Safety Forces)は、かつて存在した日本の準軍事組織。1952年(昭和27年)10月15日に警察予備隊を改編して発足した。その後、1954年(昭和29年)7月1日に陸上自衛隊に改組された。

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応天門の変

応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件。 応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。 事件は国宝『伴大納言絵詞』に詳しく描かれている。

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応安

は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争い合う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。 明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 11年に渡る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。

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応神天皇

応神天皇(おうじんてんのう、、仲哀天皇9年12月14日 - 394年?〈応神天皇41年2月15日〉)は、第15代天皇。『日本書紀』での名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)。記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。

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応永

応永(おうえい、)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1428年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。

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応永の外寇

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。 当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」 朝鮮王朝実録 世宗元年7月10日 柳廷顯更啓: “對馬島戰亡者, 百八十人。”。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

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土師器

半坂峠南尾根支群1号墳(兵庫県豊岡市)から出土した古墳時代前期の壺(兵庫県立考古博物館蔵) 宮城県仙台市の郡山遺跡から出土した7世紀の坏 奈良県天理市柳本町出土 高坏(重文、東京国立博物館蔵) 土師器(はじき)とは、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師質土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。 須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、一般的に土師器の方がより日常的で格下の存在とみなされていたと考えられてきた。しかし、『正倉院文書』中の土器の器種別の価格表を記録した文書によれば、須恵器と土師器のあいだの価格差はほとんどなく、蓋付のものはないものに比較しておよそ倍の価格がついていることが判明した後藤(2007)pp.145-161。なお、埴輪も一種の土師器である。

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在原業平

在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。

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在日韓国・朝鮮人

在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん、; )は、日本に在留する韓国・朝鮮籍 の外国人。これらは国籍上は大韓民国(韓国)の人々である。 彼らの多数を占める特別永住者はサンフランシスコ平和条約により日本国籍喪失、1966年の日韓法的地位協定で永住者権が付与、1991年の日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法により特別永住者の地位へと変わった。1980年初頭の大韓民国政府によって、日本を含む他国への留学行為、1989年から一般韓国人も海外渡航が解禁になり、新在日韓国人も誕生した。 日本の法務省の在留外国人統計によると、2023年末時点で中長期在留者・特別永住者は、434,461人(総在留外国人とは別)、そのうち韓国籍は410,156人、朝鮮籍は24,305人、しばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍の特別永住者は277,707人となっている。帰化者やその子孫も含めた総人口は、818,865人から1,000,000人以上と推計されている。

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在日朝鮮人文学

在日朝鮮人文学(ざいにちちょうせんじんぶんがく)は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称である。

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在日本朝鮮人総聯合会

在日本朝鮮人総聯合会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体。 1945年(昭和20年)結成の在日朝鮮人連盟がGHQによって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された在日朝鮮統一民主戦線を経て1955年に設立「第二章 移民国家日本の歴史」()。略称は朝鮮総聯(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、조선총련)で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは朝鮮総連とも表記される。最高責任者は、2012年より許宗萬中央常任委員会議長が務める。

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北鮮

北鮮(ほくせん、) は、朝鮮半島に関して次のような意味で用いられる:。

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職:1268年 - 1284年)。5代執権北条時頼の次男(嫡男)。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。官位は、正五位下相模守。贈従一位。

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北朝鮮による日本人拉致問題

北朝鮮による日本人拉致問題(きたちょうせんによるにほんじんらちもんだい)とは、1970年代から1980年代にかけて、北朝鮮の工作員や土台人、よど号グループなどが、日本人の人権や日本や欧州の国家主権を無視して、数十人から数百人の日本人を日本や欧州から北朝鮮に拉致した問題である。北朝鮮による日本人拉致事件も参照。

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北朝鮮核問題

北朝鮮核問題(きたちょうせんかくもんだい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による核兵器の開発および核拡散に関する問題。 北朝鮮の最高指導者である金正恩は、2013年に「経済建設と核武力建設の並進路線」をみずからの総路線とする談話を発表し、核保有の恒久化を宣言した朴(2018)pp.115-116。また、2016年以降、北朝鮮が核保有国であることを正式に認めている。2013年4月、北朝鮮は「自衛的核保有国の地位をより強固にする法律」を採択し、「敵対的核保有国」であるアメリカ、米韓相互防衛条約を結んでいる韓国、日米安全保障条約を結んでいる日本を「核兵器による攻撃対象」に定めた。 北朝鮮はこれらに先立つ1993年と2003年にはNPT脱退を表明し、2006年、2009年、2013年、2016年1月、2016年9月、2017年に核実験を実施した。また1998年のパキスタン核実験への関与疑惑、1993年以降の核弾頭運搬手段ともなりうるミサイル発射実験、第三国やテロリストへの核兵器技術移転の疑惑あるいは懸念が持たれている。

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(Περσίαラテン文字表記:)は、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。

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マツタケ

マツタケ(松茸、Tricholoma matsutake)は、キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節の中型から大型のキノコの一種。日本やロシアを含むアジアとヨーロッパ、北アメリカに分布する(「#主な産地」参照)。腐植質の少ない比較的乾燥した土壌を好む。秋にアカマツの単相林のほか針葉樹が優占種となっている混合林の地上に生える。菌糸体の生育温度範囲は5 - 30℃、最適温度は22 - 25℃、最適pHは4.5 - 5.5であり、菌糸の成長速度は遅い。生育地となる松林が世界的に松枯れなどの病気に悩まされていることなどもあって、減少傾向にある(「#保全状況」参照)。国際自然保護連合(IUCN)が2020年7月に絶滅危惧種に指定した【ニュースの門】山肥えて マツタケ消ゆる秋『読売新聞』朝刊2020年10月11日(解説面)。

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マイクロサテライト

マイクロサテライト(microsatellite)は、細胞核やオルガネラのゲノム上に存在する反復配列で、とくに数塩基の単位配列の繰り返しからなるものである。縦列型反復配列(short tandem repeat; STR)あるいは単純反復配列(simple sequence repeat; SSR)とも呼ばれる。繰り返し回数が多くなると遺伝子もしくはその産物であるタンパク質が不安定になりやすく、疾患の原因となるものも存在する。ゲノム中に広く散在しており、普通は中立で共優性を示すことから、集団遺伝学やDNA鑑定のための遺伝マーカーとして利用されている。

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マシュー・ペリー

版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)ごろ 1855-56年ごろのダゲレオタイプの写真 マシュー・カルブレイス・ペリー(、 1794年4月10日 - 1858年3月4日)は、アメリカ合衆国の海軍軍人。最終階級は海軍代将(Commodore、当時の日本語呼称で提督)。聖公会信徒。兄はオリバー・ハザード・ペリー。 江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」と表記されていた。

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チョー・ヨンピル

チョー・ヨンピル(조용필、漢表示: 趙 容弼、1950年3月21日 - )は、大韓民国出身の代表的歌手、シンガーソングライター。

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ハワイ大学システム

ハワイ大学(ハワイだいがく、University of Hawaii、略称:UH)は、アメリカ合衆国ハワイ州の州立大学である。 3つの大学キャンパス、および7つのコミュニティーカレッジなど米国のハワイ州全土の6つの島に分布する様々な研究施設を含む総合大学である。 同州オアフ島マノア地区に本部があり(ハワイ大学マノア校)、本部を合わせ3つの四年制大学、7つの二年制短期大学を抱える。1907年創立。特にアジア太平洋研究、海洋学などが有名である。 10箇所あるハワイ大学のキャンパスと教育施設は6つのハワイ諸島、カウアイ島、オアフ島、モロカイ島、ラナイ島、マウイ島、ハワイ島に所在する。

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ハンギョレ

ハンギョレ(한겨레、中:韓民族日報)は、韓国の日刊新聞である。1987年6月の民主化宣言直後の9月に発刊準備委員会が構成され、翌1988年5月に創刊された。当初の題字は「ハンギョレ新聞」(한겨레신문)であったが、1996年10月に題字を「ハンギョレ」に変更した。「ハンギョレ」とは「一つの民族」あるいは「一つの同胞」という意味。

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ハングル

ハングル(한글)およびチョソングル(조선글)は、朝鮮語を表記するための表音文字(素性文字)である。 1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、訓民正音(훈민정음、略称: 正音)の名で公布した。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」であるが、「ハン」を「大韓帝国」の「」とする説もある。

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ハーグ密使事件

ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)とは、1907年(明治40年)に、大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人を送った事件。日本による朝鮮半島の権益を狙っていたロシアに招待されたことで第二次日韓協約によって日本に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも、招待したはずのロシアが手のひらを返したため、参加国全てから拒絶され、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった。事件後、高宗は責任追及され退位し、内政権も法的にも失った。手のひらを返されて招待していないことにされたが、当初は日本の持っていた朝鮮半島管轄権を狙っていたロシアに公式招待されていたため、大韓民国では「ハーグ特使事件」と呼ぶ。

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ハイジャック

ハイジャック(hijack、hijacking)は、不法に輸送機関や貨物の強奪や乗っ取りを行うことで、特に航空機に対する行為に用いられ、日本の法律用語では「航空機強取」や「航空機不法奪取」と呼ばれる。以下、本項では航空機のハイジャックを中心に扱う。 ハイジャックの手段には、武器などによる脅迫や威嚇・詐術などがある。ハイジャックの目的には、逃亡や亡命、金品の強奪や身代金要求、なんらかの政治的意図の遂行などが挙げられる。また、心神喪失状態にあった者が起こした目的がはっきりしない事件もある。 ハイジャックを防止するために様々な対策が複合的にとられている。ハイジャック対策は国や空港・航空会社によって差異はあるが、国際条約により加盟各国による協調体制が構築されている。凶器や危険物が航空機に持ち込まれないよう規制されており、空港では手荷物検査などが行われている。機上では航空保安官が警乗し、ハイジャッカーの進入を阻止するよう操縦室のドアは強化されている。

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バーレーン

バーレーン王国(バーレーンおうこく、مملكة البحرين, ラテン文字:, マムラカト・アル=バフライン)、通称バーレーンは、西アジア・中東に位置し、ペルシア湾のバーレーン島および大小33の島(ムハッラク島など)からなる立憲君主制国家。首都はマナーマ。 王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じく出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派が占める。 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって、絶対王政の首長制から立憲君主の王制へ移行と共に王国へ改名した。

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バーツ

#バーツ()はタイ語の単語で、サンスクリット。

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ポーツマス条約

ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty、Портсмутский мирный договор)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。 また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。

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ポツダム宣言

1945年8月14日、ホワイトハウスにて日本のポツダム宣言受諾を発表するハリー・S・トルーマン米国大統領ポツダム宣言(ポツダムせんげん、Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する。

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の領土。

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モンゴル民族

モンゴル民族(もんごるみんぞく、英:Mongols、モンゴル文字:Монголчууд, Mongolchuud, 、キリル文字:Монгол、中:蒙古族)は、7世紀から歴史上に登場し、13世紀 - 14世紀にユーラシア大陸の大部分を版図としたモンゴル帝国を築いた民族。モンゴル語を話す。大きくハルハとチャハルに分けられる。現在はモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区などにその多くが住んでいる。

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ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。 大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼし、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築いた。 旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。

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ヨーロッパ

ヨーロッパ(ポルトガル語・ )は六大州の一つ。漢字表記は欧羅巴であり欧州(おうしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は欧の一字を用いる。 ヨーロッパの原風景の一つであるイギリスの世界遺産ダラム城とダラム大聖堂。 国連による世界地理区分。

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ラングーン事件

ラングーン事件(ラングーンじけん)は、1983年10月9日にビルマの首都ラングーンのアウンサン廟で発生した爆弾テロ事件。「ラングーン爆破テロ事件」、「アウンサン廟爆破事件」 とも呼ばれる。

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ロシア帝国

ロシア帝国(ロシアていこく、Россійская Имперія、ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。

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ロシア人

ロシア人(ロシアじん)、ロシア民族(ルースキエ;русскиеルースキイェ)は、東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を持つ。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心として旧ロシア帝国や旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。

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ワーキング・ホリデー

ワーキング・ホリデー (Working Holiday)とは、2国間の協定に基づいて、青年(18歳~25歳、26歳、29歳または30歳)が異なった文化(相手国)の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労をすることを認める査証及び出入国管理上の特別な制度である。 原則として、各相手国ごとに一生に一度しか利用できない。 査証に関する申請条件などは絶えず変化しているため、申請にあたっては、各国の大使館や出入国管理が開設している公式サイトで、公式な情報を確認することが重要である。

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ヌルハチ

ヌルハチ(努爾哈赤、満洲語:, nurgaci、、nurhaci)は、後金の創始者。後金の初代ハーンとされる。

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トウガラシ

トウガラシ(唐辛子、蕃椒、学名: )は、ナス科トウガラシ属の多年草または低木(日本など温帯では一年草)。また、その果実のこと。メキシコ原産(南米アンデス地方という説もある)。果実は、辛味のある香辛料(唐辛子)または野菜として食用にされる。 広義にはトウガラシ属をトウガラシと総称することがあるが、ここでは主に 1種について述べる。この はリンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物の一つである。

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プラザ合意

プラザ合意(プラザごうい、Plaza Accord)とは、1985年9月22日、先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議により発表された、主に日本の対米貿易黒字の削減の合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。 会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・ベイカー、イギリス蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス経済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下登蔵相である。以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。

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デタント

ゴルバチョフ。初会合から打ち解けた雰囲気となったジュネーブ会談(1985年11月19日) デタント(Détente)とは、戦争の危機にある二国間の対立関係が緊張緩和することを意味する。

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フィリピン

フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、フィリピン語/Republika ng Pilipinas、Republic of the Philippines、スペイン語: República de Filipinas) 通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。7641の島々がある島国であり、そのうち有人島に暮らす総人口は1億人を超える。首都はルソン島にあるマニラ市またはマニラ首都圏。 最大の都市はルソン島では人口が一位で旧首都のケソン市、ビサヤ諸島では大都市のセブ市、ミンダナオ島では面積が大きいダバオ市である。

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ドナルド・トランプ

ドナルド・ジョン・トランプ(、1946年6月14日 - )は、アメリカ合衆国の政治家、実業家。第45代アメリカ合衆国大統領(在任:2017年1月20日 - 2021年1月20日)。不動産業の富豪として著名になり、リアリティ番組の司会などタレント業も行ったのち、2016年の大統領選に共和党から出馬して当選し、合衆国大統領を一期務めた。2024年5月、有罪評決を受けた最初のアメリカ合衆国大統領経験者となった。

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ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサーマッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。とりわけ、終戦後における日本においては、新聞を中心としたマスコミにおいて「マックアーサー」という表記が使用されていた。(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を主席で卒業し、その後はアメリカ陸軍のエリート軍人として、セオドア・ルーズベルト大統領軍事顧問補佐官、陸軍長官副官・広報班長、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校長、アメリカ陸軍参謀総長などアメリカ陸軍の要職を歴任した。 戦争でも勇名を轟かせ、第一次世界大戦と第二次世界大戦(太平洋戦争)に従軍して、抜群の戦功を挙げていった。特に太平洋戦争では、大戦序盤のフィリピンの戦いで大日本帝国軍に敗れオーストラリアに撤退し、敵前逃亡の汚名を着せられたが、「I shall return(私は必ず帰ってくる)」の約束を果たし、日本軍からフィリピンを奪還して「アメリカ合衆国が生んだ最も有能な軍人」としての勇名を欲しいままにした。

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ベトナム共和国

ベトナム共和国(ベトナムきょうわこく、、)は、1955年から1975年までベトナム南部に存在した国家である。ベトナム国の継承国であり、北緯17度線以南の地域を統治していたことから、南ベトナムと略称される。

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ベトナム戦争

ベトナム戦争(べとなむせんそう、、Vietnam War)は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義陣営の北ベトナム(ベトナム民主共和国)と資本主義陣営の南ベトナム(ベトナム共和国)との間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こったアメリカ合衆国とソビエト連邦の代理戦争とされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。 建国当初よりベトナム南北両国は対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して軍や警察などと衝突していた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は軍事顧問を送り込むなどして以前より南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んでこの戦争から撤退することとなった。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで継続した。

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分断国家

軍事境界線。 分断国家(ぶんだんこっか)は、本来ならひとつの国家であるべきであるが、人為的に分裂させられた状態の国家のことである。特定地域が分割されて2つ以上の国家が存在する状態を幅広く指すことができるが、特に第二次世界大戦後の冷戦時代に西側陣営と東側陣営とで国内が分裂した国家を指して使われることもある。分裂国家(ぶんれつこっか)などの呼び方もある。

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刀伊の入寇

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。

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嘉吉

は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。

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嘉吉条約

嘉吉条約(かきつじょうやく)とは、日本史での室町時代、1443年(和暦 嘉吉3年)に李氏朝鮮と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた貿易に関する協定である。通交船や交易量の制限を定めたもの。また干支から名をとって癸亥約定(癸亥約条)とも。

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嘉慶 (日本)

は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。至徳の後、康応の前。1387年から1389年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。

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喜多川歌麿

「寛政三美人」 歌麿画 「江戸の花 娘浄瑠璃」 歌麿画 歌麿画。英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 「山姥と金太郎 盃」歌麿画 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、1753年(宝暦3年) - 1806年10月31日(文化3年9月20日)は、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

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呂運亨

呂 運亨(日本語読み:りょ・うんこうまたはろ・うんきょう、朝鮮語読み:ヨ・ウニョン、1886年5月26日 - 1947年7月19日)は、朝鮮独立運動家、政治家である。本貫は咸陽呂氏。 太平洋戦争終結後の1945年8月、朝鮮建国準備委員会を立ち上げ、9月には朝鮮人民共和国を建国した。1947年、ソウルからの移動中、白衣社の李弼炯ら5人によって狙撃され、殺害された。死後、2005年、韓国政府は建国勲章大統領章を、2008年には建国勲章大韓民国章を追叙した。実弟に独立運動家、政治家の呂運弘がいる。哲学者のの母方の叔父である。字は會叔、号は「夢陽」(モンヤン、몽양)。

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咸鏡北道

咸鏡北道(ハムギョンブクト、かんきょうほくどう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北東部に位置する行政区。

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咸鏡道

咸鏡道(かんきょうどう、 ハムギョンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。1467年から1470年までと1498年から1896年まで使われていた名称。1896年に咸鏡北道と咸鏡南道に分割された。西を平安道と接し、南を江原道と接し、北は中国と国境を接していた。 咸鏡道という名称は主要都市の咸州と鏡城(咸鏡北道鏡城郡)から取ったものである。

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和同開珎

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年6月3日(和銅元年5月11日)から、日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。

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和銅

は、日本の元号のひとつ。慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。

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アメリカ合衆国大統領

アメリカ合衆国大統領(アメリカがっしゅうこくだいとうりょう、、略称:)は、アメリカ合衆国の元首であり、行政府の長たる大統領。4年ごとに実施されるアメリカ合衆国大統領選挙によって選出される。

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アメリカ合衆国ドル

アメリカ合衆国ドル(アメリカがっしゅうこくドル、United States Dollar)は、アメリカ合衆国の公式通貨である。通称としてUSドル、米ドル、アメリカ・ドルなどが使われる。アメリカ合衆国ドルは、その信頼性から国際決済通貨や基軸通貨として、世界で最も多く利用されている通貨である。

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アメリカ軍

アメリカ合衆国軍(アメリカがっしゅうこくぐん、United States Armed Forces、別名:合衆国軍、米軍、アメリカ軍)は、アメリカ合衆国が保有する軍隊。陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍の5軍種からなる常備軍と、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある沿岸警備隊を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも8つの武官組織に含まれる。陸軍・空軍については普段からアメリカ合衆国連邦政府の指揮下にある連邦軍と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される州兵がある。なお各州政府の州防衛軍は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官はアメリカ合衆国大統領であり、合衆国連邦行政部のうちの国防総省と国土安全保障省と共に軍事政策を決定する。

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アジア通貨危機

アジア通貨危機(アジアつうかきき、Asian Financial Crisis)とは、1997年7月タイのバーツ暴落に始まった、アジアの中でもドルペッグ制を採用していたフィリピン・韓国・シンガポール・マレーシア・インドネシア各国にも波及し、これらの国では外貨準備不足な中での為替下落による「自国通貨で見た対外債務の急激な増加」によるデフォルト(債務不履行)危機・外資の大量かつ急激な国外への資本逃避(キャピタルフライト)が起きた出来事。その他の東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響を及ぼした。タイの輸出が伸び悩みだしても、バーツ高が進行したことに対して、「経済情勢と通貨価値が大きく乖離している、通貨価値が高くなり過ぎている」と見なされ、1997年5月中旬からヘッジファンド等の機関投資家によるタイ・バーツの大量の空売りを受けたことにある。

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イネ

イネ(稲、稻、禾)は、イネ科イネ属の植物農研機構編『最新農業技術事典』(農山漁村文化協会 2006年)p.105。属名Oryza は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「イネ」を意味する。種小名 sativa は「栽培されている」といった意味である。収穫物は米と呼ばれ、トウモロコシやコムギ(小麦)とともに世界三大穀物の一つとなっている。稲禾(とうか)、禾稲(かとう)などとも呼ばれる。

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インフラストラクチャー

インフラストラクチャー(infrastructure)とは、「下支えするもの」「下部構造」を指す観念的な用語であり、以下の意味がある。

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インド

インド(भारत、India)インド憲法上の正式名称。 またはインド共和国(インドきょうわこく、भारत गणराज्य、Republic of India)ヒンディー語の名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)を日本語訳したもの。 は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。

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イスラム帝国

イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。

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ウラジオストク

ウラジオストク( ヴラヂヴァストーク、,, 漢語: 海参崴、)は、ロシア沿海州最大の都市で行政の中心地である。日本海の金角湾周辺に位置し、面積は331.16平方キロメートル(127.86平方マイル)、人口は2021年現在で60万871人である。ウラジオストクは、極東連邦管区、および極東ロシア地域において、ハバロフスクに次いで2番目に大きな都市である。 1860年にロシア軍の前哨基地として設立された。1872年、太平洋に面したロシア海軍の主要基地が移設され、以後ウラジオストクは発展していく。1917年のロシア革命勃発後、1918年に外国軍に占領され、日本からの最後の撤退は1922年であった。このとき、ウラジオストクの反革命白軍部隊は速やかに崩壊し、ソ連政権が確立された。

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オランダ東インド会社

ロゴ historicalオランダ東インド会社の旗 オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC。1602年 - 1799年)は、ネーデルラント連邦共和国でアムステルダム証券取引所と同時に設立された植民地会社。アメリカに植民地ニューネーデルラントを創設したが、これをオランダ西インド会社に移管したのちアジア貿易に従事していた。 世界初の株式会社といわれている。また商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとなってアジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。

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キムチ

キムチ(Kimchi, 김치)は、白菜などの野菜、塩、唐辛子、魚介塩辛、ニンニクなどを主な材料とする朝鮮半島の代表的な漬物。本来、キムチは白キムチを指していたが、唐辛子が伝来した後はペッキムチ(白キムチ)と呼び、唐辛子を混ぜたものをキムチと呼ぶようになった。

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クビライ

クビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる。死後は諡を聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禅皇帝)。日本語での名前表記については揺れがあるため日本語による表記の節を参照。

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ジャップ

アメリカ兵(1945年のフランスにて) ジャップ (Jap) は、英語で日本人、日本語を意味する単語「Japanese」の略語であり、日本人への蔑称、人種差別用語として使用されることもある。蔑称としては、第二次世界大戦以前も一部では使用されていたが、日本の真珠湾攻撃を受けて日本への反感が爆発的に高まり、この用法が米国社会へと広がった。現在では、ほとんどこの用法は用いられていないが、歴史的な理由から一部の日系アメリカ人は苛烈な蔑称として捉える人も少なくない。

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スパイ

スパイ(spy)は、政府や他の組織に雇われて、秘密裏に敵や競争相手の情報を得る人のこと。 「spy」は、「espy (見つける、探し出す)」と同じで、古期フランス語で 「espion(見張る者)」を意味しており、「espionnage (諜報:現代仏語)」の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「Spek」に由来する。

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ソビエト連邦

ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、Союз Советских Социалистических Республик 、頭字語: СССР)は、1922年から1991年までユーラシア大陸北部に存在した社会主義国家。複数のソビエト社会主義共和国から構成される連邦国家であった。首都はモスクワ。 国土面積は約2240万km2で、世界最大の面積であった。国土の南西ではアジアとヨーロッパの各国と国境を接しており、一方の北東部では、海を挟んで北アメリカ大陸と向かい合っていた。また、人口は2億8000万人(1989年時点)と当時の中国とインドに次ぐ世界3番目と人口もかなり多かった。

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ソビエト連邦軍

ソビエト社会主義共和国連邦軍(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうぐん、ロシア語:Вооружённые силы Союза Советских Социалистических Республик、略称:ВС СССР(ヴェーエスエスエスエスエル))は、ソビエト連邦(ソ連)が保有していた軍隊である。通常は略してソビエト連邦軍またはソ連軍と呼ばれる。ラテン文字でBC CCCPと書くのは誤り。

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ソウル大学校

ソウル大学校(ソウルだいがっこう、서울대학교、Seoul National University)は、大韓民国のソウル特別市冠岳区に本部を置く国立大学。略称はソウル大、SNU。

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ソウル特別市

ソウル特別市(ソウルとくべつし、, )は、大韓民国の首都 2022年3月15日閲覧。。京畿地方に位置する特別市で、25の行政区からなる。市庁の所在地は中区。人口は約939万人(2023年12月)。 アジア最大級の都市であり、世界5位の都市圏人口と東京、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ世界4位の都市圏経済力を有するR.L.

見る 日朝関係史とソウル特別市

タイ王国

タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はバンコク都。 東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6609万人(2022年、 内務省による)である。

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よど号ハイジャック事件

よど号ハイジャック事件(よどごうハイジャックじけん)は、1970年(昭和45年)3月31日に、共産主義者同盟赤軍派のよど号グループが起こした日本初のハイジャック事件である。

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サハリン

サハリンとは、満洲語の sahaliyan ula angga hada「黒龍江の河口の岩山」の意であり、初出は1717年(康熙56年)完成の大清帝国地図である『皇輿全覧図』にみえる。同図はによってフランス語に訳された。日本でも、中国から直接とヨーロッパを経由して知られ、「サガリイン」(寛政6年〈1794年〉桂川甫周『北槎聞略』付録)や、「サハリン」(文化6年〈1809年〉『魯西亜国版世界全国所見蝦夷四境全図』)などと、記載されている。

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サツマイモ

サツマイモ(薩摩芋、学名: )は、ヒルガオ科サツマイモ属の多年生植物。あるいはその食用部分である塊根(養分を蓄えている肥大した根、芋)。別名で、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも)ともよばれる。中南米の原産で、ヨーロッパ、中国、日本などへ広まり、各地で栽培されている。食用される塊根はデンプンやビタミン類を豊富に含み、焼酎原料や飼料にも利用される。また食物繊維が多く、便秘改善にも役立てられる。

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債務不履行

債務不履行(さいむふりこう、default)とは、債務者が、正当な事由がないのに債務の本旨に従った給付をしないこと。債権者側からみた給付障害という概念が用いられることもある。 以下、民法の条文は条数のみ記載する。

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唐人おどり

唐人おどり(とうじんおどり)あるいは唐子踊(からこおどり)は、異国風の衣装を身にまとい、異国風の楽器の音にあわせて踊られる日本の伝統芸能のひとつ。「唐人」とは外国人の総称であり、必ずしも中国のみを指しているわけではない。また、地方によって様々なバリエーションがある。

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儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。

見る 日朝関係史と儒学者

儒教

儒教の始祖、孔子 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

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冬のソナタ

『冬のソナタ』(ふゆのソナタ、原題:)は、2002年に韓国の公共放送局である韓国放送公社のKBS第2テレビジョンで放送された全20話の連続テレビドラマ。監督はユン・ソクホ。主演はペ・ヨンジュンとチェ・ジウ。アジアと世界での韓流ブームのはじまりとなった作品だと広く認められている。2003年から2004年にかけて日本で放送され、「冬ソナ現象」と呼ばれるほどの大ブームを巻き起こし、日本で韓流ドラマが認知されるきっかけとなった。 監督・演出を担当したユン・ソクホにとっては前作2000年の『秋の童話』に続く作品で、本作の後に2003年に『夏の香り』が、2006年に『春のワルツ』が放送され、4作を総称して「四季シリーズ」と呼ぶ。4作とも現代韓国の若い男女を主人公とする恋愛ものの連続テレビドラマだが、それぞれ独立した物語で筋書きの連続性や舞台の共通性などは無い。

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冷戦

冷戦(れいせん、、)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国(アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営)との対立構造。主に米ソ関係を軸に展開した。米ソ冷戦(べいそれいせん)や東西冷戦(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、戦火を交えない戦争、つまり米ソが武力で直接には衝突しないという意味であるが、冷戦下では朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連・アフガン戦争のように両国が介入して東西各勢力を支援する代理戦争が多数勃発した。

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円仁

円仁(えんにん、)は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。

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内地

日本における内地(ないち)とは、憲法が定める通常の法律が行なわれる区域を指し、旧憲法下においては千島列島、南樺太、北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島、小笠原諸島、南西諸島及び前記の付属島嶼がこれに該当した。本土とも呼ばれた。 これらは行政及び法律(共通法第1条)上日本の本土(本国)とされていた地域だった。内地に対義する地域は一般に外地と称されたが、「内地」が共通法に基づく法的用語だったのに対し、「外地」は法律に規定された用語では無かった。 また北海道や沖縄県では、自らの住む道・県を除いた日本全域のことをこう呼ぶことがある。

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内務省 (日本)

内務省(ないむしょう、、Home Ministry)は、1873年(明治6年)11月10日から1947年(昭和22年)12月31日まで存在した日本の行政機関。警察や地方行政など内政一般を所管した。 旧憲法(大日本帝国憲法)下の日本では内政・民政を担う行政機関であり、強大な権限の集中から「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」 などと呼ばれる最有力官庁であり、設立当初から国民生活統制の中核となったが、太平洋戦争の敗戦後、GHQの指令によって解体・廃止された。 内務大臣は、内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った官職とみなされていた(太政官制での歴代内務卿、及び1885年(明治18年)12月22日の内閣制度発足後の歴代内務大臣については「内務大臣 (日本)」を参照)。また、内務次官、警保局長、警視総監は「内務三役」と称された重職で、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選出された。

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出入国在留管理庁

出入国在留管理庁(しゅつにゅうこくざいりゅうかんりちょう、Immigration Services Agency of Japan)は、日本の行政機関のひとつ。出入国管理、中長期在留者および特別永住者の在留管理、外国人材の受け入れ、難民認定などの外国人関連の行政事務を併せて管轄する法務省の外局である。日本語略称・通称は、入管庁(にゅうかんちょう)。 法務省の内部部局であった入国管理局(にゅうこくかんりきょく、略称:入管〈にゅうかん〉、Immigration Bureau)を前身としている。

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入唐求法巡礼行記

『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき、)とは、9世紀の日本人僧で、最後の遣唐使(承和)における入唐請益僧である円仁の旅行記である。 その記述内容は、円仁がちょうど遭遇してしまった、武宗による会昌の廃仏の状況を記録した同時代史料として注目される。また、正史には見られない、9世紀の中国の社会・風習についての記述も多く、晩唐の歴史研究をする上での貴重な史料として高く評価される。円仁は最澄に師事した天台僧で、のちに山門派の祖となる。 838年(承和5年)、博多津を出港した場面から始まり、揚州へ向かい、847年に帰国するまでを記述する。日記式の文体で書かれる。

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全斗煥

全 斗煥(チョン・ドゥファン、日本語読み:ぜん とかん、、1931年3月6日(陰暦1月18日) - 2021年11月23日)は、韓国の軍人、政治家。第11・12代大統領(在任:1980年 - 1988年)。軍での最終階級は陸軍大将。本貫は、完山全氏。号は「日海」(イレ/イルヘ、일해)。

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六者会合

六者会合(ろくしゃかいごう、Six-Party Talks、六方会谈、육자 회담・륙자 회담、Шестисторонние переговоры)は、主に北朝鮮の核問題に関して、解決のため関係国外交当局の局長級の担当者が直接協議を行う会議。六者とは日本、アメリカ、中国、ロシア、韓国、北朝鮮の6ヶ国を指す。六者協議(ろくしゃきょうぎ)、六ヶ国協議(ろっかこくきょうぎ)とも呼ばれる。2003年8月の第1回から2007年3月の第6回までいずれも中国の北京で計9次の会合が行なわれたが、それ以降開催されていない。

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共同通信社

一般社団法人共同通信社(いっぱんしゃだんほうじん きょうどうつうしんしゃ)は、東京を拠点とする日本の通信社である。日本国内外のニュースや写真、記事関連のデータを日本国内の新聞社、NHK、民間放送局などに提供・配信しており、また日本語のみならず英語や中国語などでも配信する、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社である。 傘下には総合コンサルティング企業の株式会社共同通信社(KK共同)、 共同通信デジタル、共同通信イメージズなどがある。

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共産主義者同盟赤軍派

共産主義者同盟赤軍派(きょうさんしゅぎしゃどうめい せきぐんは、略称:赤軍派)は、1969年に結成された共産同系の日本の新左翼党派の一つ。武装蜂起を主張して大阪戦争や東京戦争、よど号ハイジャック事件や銀行強盗・郵便局襲撃等を起こし、後の連合赤軍や日本赤軍などの母体ともなった。

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元 (王朝)

元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。

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元宗 (高麗王)

元宗(げんそう、1219年4月5日 - 1274年7月23日)は、第24代高麗王(在位:1260年 - 1274年)。姓は王、諱は禃、初名は倎、諡号は忠敬順孝大王。 太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが、1259年に父の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して江都で即位した(詳細はモンゴルの高麗侵攻を参照)。その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る。 ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが(王淐の項参照)、モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時に100年ほど続いた高麗の武臣政権に終止符が打たれた。

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元寇

元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。'''蒙古襲来'''とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。 なお、弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。

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元山市

元山市(ウォンサンし、げんざんし、원산시)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)江原道の道庁所在地(北朝鮮では道庁は道人民委員会と呼ばれている)。日本海側港湾工業都市であり、軍港である。 日本の新潟港に入港していた万景峰号の母港でもある。国際観光都市として開放されており、中国人の観光客が多い。

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元中

は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方で使用された。弘和の後、明徳の前。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。

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元禄

は、日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、661年〈斉明天皇7年〉 - 721年12月29日〈養老5年12月7日〉)は、日本の第43代天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。 女性天皇(女帝)の一人。諱は、阿閇(あへ)。阿陪皇女(あへのひめみこ)とも。天智天皇第四皇女子。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

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光武 (元号)

光武(こうぶ、、クァンム)は、李氏朝鮮・大韓帝国で用いられた元号。建陽2年(1897年)8月14日に改元して光武を用い、同年10月に国号を「大韓帝国」と改めた。1907年8月2日に隆熙に改元されるまで使用された。

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光海君

光海君(クァンヘグン、こうかいくん、1575年6月4日 - 1641年8月7日)は、李氏朝鮮の第15代国王(在位:1608年 - 1623年)。名は琿(ホン)。なお第10代国王燕山君同様暴君として廃位された王であるため、廟号・諡号・陵名はない。

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国宝

神社建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繡帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本語の第1義には、国の宝。第2義には、近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財を指し、具体的には、重要文化財のなかから特に価値の高いものとして指定した建造物、美術工芸品などをいう。

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国家

国家(こっか、)とは、国と同様に、「一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体ブリタニカ国際大百科事典、小項目辞典【国家】」や、「一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会」と言える。

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国家安全保障

F-2戦闘機 国家安全保障(こっかあんぜんほしょう、National security)は、国家の独立や国民の生命・財産などに対して何らかの脅威が及ばぬよう手段を講じることで安全な状態を保障することである。主として他国からの防衛をその主眼とするものであり、国防とほぼ同義語である。

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国家総動員法

国家総動員法(こっかそうどういんほう、)は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出されて可決成立し、同年4月1日に公布、5月5日に施行された法律。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。 第26代内閣総理大臣田中義一の下で1929年(昭和4年)に策定された「総動員計画設定処務要綱案」から発展した法律である。 1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗北にによって名目を失い、GHQ/SCAP被占領期にあって同年12月20日に公布された「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」(昭和20年法律第44号)により廃止され、効力が消失した。

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)は、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義であり、明確な違いは無い。

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国際協力銀行

株式会社国際協力銀行(こくさいきょうりょくぎんこう、Japan Bank for International Cooperation)は、株式会社国際協力銀行法(平成23年5月2日法律第39号)に基づく特殊会社であり、日本の輸出信用機関(ECA)である。略称はJBIC(ジェイビック)。前身は日本輸出入銀行(輸銀)である。

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国際通貨基金

国際通貨基金(こくさいつうかききん、)は、国際連合(国連)の専門機関の一つ。国際金融と為替相場の安定化を目的として設立された。本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。2018年現在、加盟国は189か国である。 加盟各国の中央銀行の取りまとめのような役割を負い、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定などへの寄与を目的とする。具体的には、経常収支が悪化した加盟国への融資、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。

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国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭(日本庭園)イサム・ノグチ製作 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、、、略称: UNESCO、ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進、世界遺産の登録などを目的とした国際協定である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。

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国際連盟

国際連盟(こくさいれんめい、国際聯盟()、League of Nations(LON)、Société des Nations(SDN、SdN))は、第一次世界大戦後のの確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった「国際連盟」『国際法辞典』、145-146頁。。 当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月19日に活動を終了した。

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国民学校

国民学校(こくみんがっこう、)とは、日中戦争勃発後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。

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国民政府

国民政府(こくみんせいふ、the Nationalist Government, Kuomintang (KMT))とは、大陸時代の中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。

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倭・倭人関連の朝鮮文献

倭・倭人関連の朝鮮文献(わ・わじんかんれんのちょうせんぶんけん)は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。

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倭国

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時中国の南東にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『後漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書、新唐書の間でも記述に差異がある。

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倭館

倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。

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BoA

BoA(ボア、本名、權珤雅(クォン・ボア) 권보아、1986年11月5日 - )は、大韓民国京畿道出身の歌手、女優で、大韓民国・日本・アメリカ合衆国を中心に活動している。2000年8月に韓国でデビューをし、翌2001年5月30日に日本デビュー。血液型はAB型。「A」が大文字なのは、韓国名のアルファベット表記の慣習による。カトリック教徒で洗礼名はキアラ。 長兄はピアニストのクォン・スンフォン、次兄はミュージックビデオ監督の(1981 - 2021)。

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皇太子

皇太子(こうたいし/ひつぎのみこ荒木 1985 p.116/もうけのきみ)、王太子(おうたいし)は、皇位、帝位、国王の第一継承者を指す語であり、称号。 現代日本の皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは『今上天皇の皇子たる親王』が皇嗣である場合のみとなる。 より広義には、日本の皇室における天皇位だけでなく、国外の君主国の王室における君主位(王位等)の法定推定相続人の称号(例:Crown Prince)の対訳として使われる。女性君主を容認している場合は、法定推定相続人である女子の称号(例:Crown Princess)の対訳にも用いられる。

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皇民化教育

皇民化教育(こうみんかきょういく、)とは、大日本帝国の統治地域における日本人以外の民族に対し行った同化教育である。内地・外地を問わず用いられる。

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皇族

皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。

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石上神宮

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

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石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。

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玄宗 (唐)

玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。

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玄月

玄 月(げん げつ1965年2月10日 - )は、小説家、教育者。大阪芸術大学教授 2020年4月22日閲覧。執筆活動の傍ら大阪南船場で文学バー「リズール」を経営している 2020年4月22日閲覧。

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玉音放送

玉音放送(ぎょくおんほうそう、)とは、天皇の肉声を放送すること。 通常、1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。 この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。

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王仁

王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である(記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ鈴木靖民「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」志田諄一マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、記録では楽浪郡の王氏という言及はなく、百済人である記録だけ存在する。また志田諄一も王氏を名乗る朝鮮系の人々が存在したことを認めている:。一方、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立しておらず、この矛盾については、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されており、実在の人物とは認め難いとする説も多数存在する。また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」。

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王公族

王公族(おうこうぞく、왕공족)は、韓国併合後の旧韓国皇帝とその一族(李王家)の日本における称号である王族と公族の総称である。皇帝の直系が王族、李王家の一族である2家が公族だった。 本記事では制度としての王族・公族について記述し、家系については李王家で記述する。

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ、英語: restoration)は、共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す。通常はイングランドにおける共和政崩壊後のチャールズ2世の即位、フランスにおけるナポレオン1世没落後のルイ18世の即位、日本の明治維新、以上三つのいずれかを指すことが多い。

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく、)は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家。正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」は琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに日本復帰後最初の沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である。

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磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。 なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に襲撃してきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

見る 日朝関係史と磐井の乱

社会主義

社会主義(しゃかいしゅぎ、)は、資本主義・市場経済の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想・運動・体制を指す用語The Oxford English Dictionary (1970年) C - 701pで、社会主義は、生産手段の社会的所有を特徴とし、さまざまな経済および社会システムを包含する政治哲学および運動である。広義には、社会を組織化することにより人々を支える制度であり、歴史的には・空想的社会主義・社会改良主義・社会民主主義・無政府主義・サンディカリスム・共産主義などが含まれる。狭義には資本主義・個人主義・自由主義・私有制などの対語として冷戦時代から使用されている。社会主義と共産主義はほぼ同義の意味として扱われることもある。

見る 日朝関係史と社会主義

社会主義国

社会主義国(しゃかいしゅぎこく)は、自国を社会主義と標榜し、憲法・国家理念・国家原則などの中に社会主義的な考え方を記載する共和国のこと。世界初の社会主義国は1917年に成立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国だが、1989年の東欧革命及び1991年のソ連崩壊によって、ほぼ全ての社会主義国が滅亡した。現在では、社会主義国を自称する国は中国・'''北朝鮮'''・ベトナム・ラオス・キューバの5か国のみである。

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福井県

福井県(ふくいけん)は、日本の中部地方に位置する県。令制国の越前国と若狭国に相当する。県庁所在地は福井市。 北陸地方で最も人口が少ない県である。

見る 日朝関係史と福井県

秋田城

秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。 秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。

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稲作

タイの田植え。東南アジアの稲作では1ヘクタールに満たない水田でも、田植え、除草、収穫に農業労働者が雇用されることが多い ミャンマーの水田における農作業 稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれるが、主に米を得るため稲作が行われている。 稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培品種は大きくジャポニカ米とインディカ米に分けることができ、ジャポニカ米はさらに熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)と温帯ジャポニカに区分される。形状によっても、短粒種、中粒種、長粒種に分類される。ジャポニカ米は短粒種で、インディカ米は長粒種とされるが、長粒種のジャポニカ米も存在するため正確ではない。

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稲荷山古墳出土鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。 所有者は日本国(文化庁)で、埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。(約73.5cm)。

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竹島問題

竹島(韓国名:独島) ---- 女島(東島、写真左)と男島(西島、写真右)の2つの島、および37の岩から成る。 竹島問題(たけしまもんだい)とは、 日本領隠岐諸島と韓国領鬱陵島との間に位置する島嶼(日本名:竹島、韓国名:独島。順不同)をめぐる日韓両国間の国際紛争である杉原(2008)、114頁。塚本(2013)、146頁。Fern(2005),pp.78-79.。竹島が日本の領土であることを主張する日本国政府は同島の領有権をめぐる紛争の存在を認めているのに対して、韓国の領土であることを主張する韓国政府は同島をめぐる領有権紛争は存在していないとの立場をとっている坂本(2014)、170-172頁。

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第一銀行

株式会社第一銀行(だいいちぎんこう)は、かつて存在した日本の銀行である。統一金融機関コードは、0001(第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行が承継)。 前身の第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう)は、1873年(明治6年)に渋沢栄一により創設された日本最古の銀行。当時の所在地は現在における東京都中央区日本橋兜町であり、現在はみずほ銀行兜町支店が置かれる。国立銀行という名称であるが、民間資本による民間経営の株式会社であり、国立銀行条例により発券機能等を有していた。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、1896年に一般銀行に改組し第一銀行となる。1943年、太平洋戦争戦時下の国策により、三井財閥の三井銀行と合併し帝国銀行となるが、戦後の1948年には再度分割し第一銀行として再建。

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第一次世界大戦

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称:WWI)は、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で行われた世界規模の戦争である。 7000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万人)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。 戦争が長引いたことで、各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年に第二次世界大戦が勃発した。

見る 日朝関係史と第一次世界大戦

第二次日韓協約

第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく、)は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。日韓保護条約とも言う。これにより大韓帝国の外交権は、ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。

見る 日朝関係史と第二次日韓協約

筑紫国

筑紫国(つくしのくに、7世紀ごろまで)は、現在の福岡県のうち東部(豊国の地域)を除いた範囲にあたる。古代の国である。645年の大化の改新と律令制により筑前国・筑後国(令制国)に分割された。 本項では、併せて筑紫国国造の筑紫国造についても解説する。

見る 日朝関係史と筑紫国

粛宗

粛宗(しゅくそう)は、東アジア世界の王朝における君主の廟号の一つ。 以下の人物に贈られた。

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紅巾の乱

紅巾の乱(こうきんのらん、、、1351年 - 1366年)は、中国の元末の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。 白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。

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紀元前10世紀

Jewish Museum (Manhattan)蔵)。 シバの女王。シバはイエメンかエチオピアに相当すると考えられ、この地と地中海東岸が紅海貿易で結ばれていたことを示す。 画像はピエロ・デラ・フランチェスカの「ソロモン王を訪問するシバの女王」(アレッツォの聖フランチェスコ聖堂フレスコ壁画)。 エジプト第21王朝の王プスセンネス1世。下エジプトのタニスを都とした第21王朝でこの王は半世紀近い治世を営んだ。またこの王の墓は古代エジプトを通じて唯一の未盗掘王墓だったことでも知られる。 は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀。

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紀元前1年

紀元前1年(きげんぜん1ねん)は、西暦(ユリウス暦)における紀元1年の前年に当たる。 これは西暦に限らず通常の紀年法では、0年を設けないからである。ただし、分野によっては後節のように「西暦0年」と表現することがある。 この年は、ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで13年間にわたって、閏年を停止したため、平年であったと推定されている(ユリウス暦#運用を参照)。

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。

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維新体制

維新体制(いしんたいせい)は、韓国第四共和国憲法の下、朴正煕が非常事態をちらつかせながら独裁を敷いた体制を指す。夜間外出禁止令など、国民生活に直接影響を及ぼす制約も少なくなかった。 もともと朴正煕政権の目標は、朝鮮半島の資本主義による統一にあった。しかし、急激な民族資本の育成は、労働者層に負担を強いるものであり、1971年に行われた大統領選挙では野党・新民党の金大中候補に90万票差まで詰め寄られた。そのため、1972年10月に非常戒厳令を宣布、憲法を自らの手で改正して「維新体制」を確立した。

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継体天皇

継体天皇(けいたいてんのう、、450年?〈允恭天皇39年〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇(在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。 元の名はヲホドノオウ。漢字では、男大迹王や乎富等王など。 『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。

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縄文土器

深鉢形土器(火焔型土器) 縄文中期 新潟県十日町市笹山遺跡出土 十日町市博物館蔵 国宝 縄文土器(じょうもんどき)は、日本の石器時代(縄文時代)の土器の呼称。現在では滅多に使われていないが縄紋土器という表記もある。

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署名

署名(しょめい、sign, signature)とは、行為者がある行為(例えばクレジットカードの利用時)をする際に、自己の氏名を自署すること、また自署したものである。

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。

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猿楽

猿楽(さるがく、)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。

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統監府

統監府(とうかんふ)は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。韓国統監府(かんこくとうかんふ、)とも呼ばれる。 明治38年(1905年)11月23日、韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(明治38年勅令第240号)に基づいて置かれた。設置根拠はその後、統監府及理事庁官制(明治38年12月21日勅令第267号)となる。初代韓国統監は伊藤博文。事務の開始は明治39年(1906年)2月1日。韓国統監も正式名称は統監であり、「韓国」は付かない。 明治43年(1910年)8月29日韓国併合により朝鮮総督府が設置されたが、統監府及び所属官署は、当分の間存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使するとされた。その後9月30日に朝鮮総督府官制が制定され、統監府は、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。

見る 日朝関係史と統監府

絹 カイコの繭 絹(きぬ, Silk)は、カイコの繭からとった動物繊維である。カイコが体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。独特の光沢と滑らかな質感を持ち、古来、衣類の材料(絹織物)などとして珍重されてきた。 カイコの繭を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられ始めたのは19世紀(明治維新)以降であり、昔の文献や製品にあたる際には現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野生の繭を使う野蚕絹に分けられる。

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絵師

絵師(えし)とは、。

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生口

生口(せいこう)は、かつての中国や朝鮮半島における捕虜または奴隷を示す言葉。

見る 日朝関係史と生口

生野区

生野区(いくのく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。大阪府の中央部に位置する。 あべのハルカスから見下ろす景色。左側の半分ぐらいは生野区に属する(2014年)。

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甲申政変

甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。

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焼肉

焼肉(やきにく)とは、肉を焼いたもの。また、牛・豚などの肉や内臓をたれにつけ、直火で焼きながら食べる料理小学館 デジタル大辞泉(2021年8月13日閲覧)。あるいは牛・豚などの肉をあぶり、またはいため焼きにしたもの。

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畠山氏

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武家・士族だった日本の氏族。桓武平氏系と清和源氏系の2家系あり、前者は秩父氏一族で平安時代末から鎌倉時代初期の豪族だが、北条氏に滅ぼされた(こちらについては畠山氏 (平姓)参照)。後者は足利氏一族で室町時代に守護大名、幕府管領家として栄えた。しかし同家の家督争いが応仁の乱の一因となり、その後も内紛が続いて没落した。江戸時代には高家として残り、明治維新後「足利」に復姓して士族。分家に能登の守護を代々世襲した能登畠山氏もあり、こちらも江戸時代の高家を経て維新後士族となった(こちらは畠山姓のまま)。

見る 日朝関係史と畠山氏

物部麁鹿火

物部 麁鹿火(もののべ の あらかひ/あらかい)は、古墳時代の豪族。物部麻佐良の子。

見る 日朝関係史と物部麁鹿火

特別高等警察

特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ、Special Higher Police, SHP)は、日本の秘密警察。国事警察として発足した「高等警察」から分離し、国体護持のために無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることが目的であった。内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県北海道庁警察部、警視庁、神奈川県警察部、長野県警察部、愛知県警察部、京都府警察部、大阪府警察部、兵庫県警察部、山口県警察部、福岡県警察部に設置されたが、その後、1928年(昭和3年)に全国一律に未設置県にも設置された。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う。

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特別支援教育

特別支援教育(とくべつしえんきょういく)は、日本の学校教育において、障害のある幼児・児童・生徒の自立や社会参加への主体的な取り組みを支援するための指導及び支援を意味する概念。英語表記はspecial needs education、またはspecial support education、exceptional student educationなど。

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狩野派

狩野永徳筆『唐獅子図』宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。 室町幕府の御用絵師となった狩野正信(狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。

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狼煙

インディアンの狼煙 狼煙(のろし)とは、物を焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって、情報を伝達する手段である。夜間など煙が見えない場合は、火そのものも使われる。烽火、狼火(ろうか)、狼燧(ろうすい)とも言う。

見る 日朝関係史と狼煙

盧武鉉

盧 武鉉(ノ・ムヒョン、노무현、日本語読み:ろ ぶげん、1946年9月1日〈旧暦8月6日〉 - 2009年5月23日)は、韓国の政治家。大韓民国第16代大統領(2003年2月25日〜2008年2月24日)、第13・15代国会議員。 弁護士出身。本貫は光州盧氏。カトリック教徒。妻の権良淑との間に1男1女。歴代韓国大統領で初の日本統治時代を経験していない世代の大統領である。大統領退任後の2009年、投身自殺した。

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盧泰愚

盧 泰愚(ノ・テウ、日本語読み:ろ たいぐ、、1932年12月4日 - 2021年10月26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第13代大統領(在任: 1988年 - 1993年)。 同国最後の軍人出身の大統領であり、軍での最終階級は大将。第12代国会議員。ハナフェの一員。本貫は交河盧氏(祖籍は山東省)。号は「庸堂」(ヨンダン、용당)。仏教徒。

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相国寺

法堂(側面) 相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派の大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。本尊は釈迦如来。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

見る 日朝関係史と相国寺

瀬戸内海

瀬戸内海の多島美(山口県周防大島町) 瀬戸内海(せとないかい)は、本州西部、四国、九州に囲まれた日本最大の内海で面積は2万3,203km2である。

見る 日朝関係史と瀬戸内海

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。

見る 日朝関係史と白村江の戦い

百済

百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語:백제〈ペクチェ〉、旧字体:百濟、4世紀前半? - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満洲地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。

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百済王氏

百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王を指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられている。

見る 日朝関係史と百済王氏

隼人

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々。

見る 日朝関係史と隼人

隋書

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。

見る 日朝関係史と隋書

韓国の地下鉄

韓国の地下鉄(かんこくのちかてつ)では大韓民国で運用されている地下鉄に関して詳述する。2017年現在、韓国ではソウル特別市と5つの広域市(仁川広域市・釜山広域市・大邱広域市・光州広域市・大田広域市)、3つの道(京畿道、慶尚南道、慶尚北道)で地下鉄が運行されている。

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韓国併合ニ関スル条約

韓国併合ニ関スル条約(かんこくへいごうにかんするじょうやく、)とは、1910年(日: 明治43年 / 韓: 隆熙4年)8月22日に漢城府(現ソウル特別市)で寺内正毅・統監と李完用・総理が調印し、同年8月29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約である。 大日本帝国は、この条約に基づき大韓帝国を併合した(韓国併合を参照)。通称は「韓国併合条約」や「日韓併合条約」。韓国では「韓日併合条約()」と呼ばれている。 調印された条約文書、並びに明治天皇と純宗がそれぞれの国に発した勅諭寺内と李の8月22日付「覚書」には「併合条約及両国皇帝陛下ノ詔勅ハ総テ双方打合ノ上、同時ニ交付スルコト」とある(海野福寿編「外交史料韓国併合(下)」724頁)。海野は史料解説で「『双方打合』としていたから統監府が作成・交付にかかわったと見られる」とする(同書636頁)。寺内は8月27日午後2時30分京城発の文書で本国小村外相に対し「日韓併合ニ関スル韓帝ノ詔勅文ハ別紙ノ通決定シ」、同日午後6時55分京城発の文書で再度小村外相に対し「前電韓皇詔勅文左ノ通修正セラレタリ」と経過を報告している(同書731頁)。

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韓国銀行

2010年から現在まで使用されている韓国銀行のロゴ 1946年から1950年まで使われた朝鮮銀行のロゴ。 1950年から2010年まで韓国銀行のロゴとしても使われた。 韓国銀行(かんこくぎんこう、한국은행、Bank of Korea)は、大韓民国の中央銀行である。略称は、韓銀(かんぎん)。1948年の大韓民国政府樹立に伴い、1950年5月に韓国銀行法が制定され、同年6月12日に創設された。現在はソウル特別市中区南大門路3街110番地に本部を置き、総裁は李柱烈(2014年4月就任)である。

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韓流

韓流(はんりゅう、; )は、1990年代後半から東アジアで起こった韓国大衆文化の流行。2000年には音楽デュオ・の楽曲「初恋」が台湾でヒットし、音楽においても注目され始めた、ハンギョレ、2019年5月13日。。また、日本では2003年頃から韓国ドラマ『冬のソナタ』放送が契機となって始まった2013-04-16 朝日新聞 朝刊 1外報 ドラマ「冬のソナタ」の放送が2003年4月に始まり、主役のペ・ヨンジュンが中高年の女性らを中心に熱狂的なファンを生んだ。音楽のKポップは女性グループの「KARA」「少女時代」が若者らに支持され、紅白歌合戦にも出場した。大辞泉 戦後70年 ニッポンの肖像 俗語辞典 2015年6月23日 2004年(平成16年:戦後59年後)。ドラマ、映画、音楽などの韓国大衆文化の高まりにより、韓国のブランドイメージの上昇と関心向上、外交への貢献などの波及効果などがあったJETRO 韓国のコンテンツ振興策と海外市場における直接効果・間接効果の分析 国際的には、韓流の波及効果は、テレビ番組の輸出増加と商品の販売増加だけでなく、料理、観光、ファッションなど韓国のスタイルやトレンドはもちろん、韓国そのものへの関心の高まりにまで及んでいる。

見る 日朝関係史と韓流

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

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鎖国

鎖国(さこく、)とは、江戸幕府が、オランダ(及び一時期のイギリス)を除くキリスト教国の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。

見る 日朝関係史と鎖国

遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。 舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は承和5年(838年)。さらにその後、寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。 遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。

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聯合ニュース

聯合ニュース(れんごうニュース、ヨンハプ(ヨナプ)ニュース)は、大韓民国の通信社である。1980年設立。本社をソウル特別市鐘路区に置く。

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遼寧省

遼寧省(りょうねいしょう、辽宁省、、Liaoning)は、中華人民共和国東北部に位置する省。省都は瀋陽、他の主要都市として大連がある。旧称は盛京省、後に奉天省。

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、辽东半岛、)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島。山東半島・雷州半島と並ぶ中国三大半島の一つ。遼東という名称は、遼河の東岸に位置することに由来している。

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聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、 厩戸皇子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 叔母の推古天皇の下、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。

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聖王 (百済)

聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明禯(めいのう)。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。 名は、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む。通称は。と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「」「物茂卿」とも号した。 父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓。

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、武家・華族だった日本の氏族。平安時代より九州肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠とした豪族で南北朝時代には歴代当主が南朝方武将として活躍したが、南北朝合同後に衰退し、戦国時代に大友氏に滅ぼされた。支流が米良氏として残り、江戸時代には交代寄合、明治維新後は菊池に復姓して華族の男爵家に列した。

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蝦夷

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である。 大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、俘囚と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。

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靖国神社

靖国神社(やすくにじんじゃ、)は、東京都千代田区九段北にある神社。招魂社に起源を発し、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。 1869年(明治2年)に勅命により東京招魂として創建され、1879年(明治12年)に現社名に改称された。旧別格官幣社。1887年(明治20年)から陸海軍が管轄。第二次世界大戦後、国家の管理を離れて宗教法人となった。

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靖国神社問題

靖国神社 靖国神社問題(やすくにじんじゃもんだい)は、政教分離の原則との関連や、戦争責任などの歴史認識、周辺国との外交関係の配慮などを理由とした、靖国神社への参拝をめぐる諸問題を指す。「靖国問題」と略称されることが多い。

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須恵器

日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館蔵) 須恵器(すえき)は、古墳時代から平安時代にかけての日本で生産された陶質土器(炻器)。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。

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衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん、前195年?-前108年)は、古代の朝鮮半島に存在した王朝である。燕(現代の中国河北省北部から遼寧省に跨る地域)の人衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が朝鮮半島北部に建国したと伝わる。

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風水

風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、「気の流れを物の位置で制御する」という思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。

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飛鳥寺

本堂 飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳥形山(とりがたやま)。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。現在は正式には安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。思惟殿は新西国三十三箇所第9番札所で本尊は聖観音である。

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飛鳥文化

飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。 朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。

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西人

西人(せいじん、서인、ソイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。 大地主両班が中心の勲旧派に対抗した、中小の地主が基盤になっている新興官僚の一派・士林派がそのルーツである。 士林派が、1567年、宣祖の即位により士林派政権を樹立する事に成功すると、1575年、今度は官職の任官権を巡り士林派の沈義謙と金孝元による党争が始まった。 その中の沈義謙派の事をその領袖が漢陽(ソウル)の西側に住んでいたので西人と呼んだ。この党争は、朱子学の解釈の違いにまで及び、西人は、李珥(栗谷)の学説を指示する主気派(朱子学の中で、宇宙の成り立ちの根元の気と理の内、気を本質的なものとして考える学派)が多かった。 これに相反する金孝元派の事を東人と呼んだ。

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西海道

西海道(さいかいどう、にしのみち)は、五畿七道の一つ。九州とその周辺の島々の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。

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西日本

西日本(にしにほん、にしにっぽん)とは、日本を大きく分ける時に使用される語で、日本の西側を指す。対比されるのは東日本や中日本(中部地方)。

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親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法

親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(しんにちはんみんぞくこういしゃざいさんのこっかきぞくにかんするとくべつほう)とは、大韓民国の法律の一つ。2005年にウリ党の崔龍圭、民主労働党の魯会燦など与野党169人の議員が国会に提出し、12月8日に可決、同月29日に公布された。大統領直属の国家機関として親日反民族行為者財産調査委員会を設置し親日であった反民族行為者の財産を選定して国家に帰属することとしている。

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代、観応元年/正平5年10月26日(1350年11月26日)から正平7年2月26日(1352年3月12日)にかけて、足利政権の内紛によって行われた戦乱。 将軍・足利尊氏の弟足利直義の派閥が、幕府執事・高師直の派閥に反乱を企てたため、征夷大将軍である足利尊氏がこれを制圧した。 実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、公家と武家同士の確執なども背景とする。複雑な政治状況の中で、日本全国には地域ごとの権力者が存在し、彼らもまた南朝と北朝のどちらを支持するかで立場を変えていた。 また、本項では、この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統や、北朝の再擁立・足利直冬の再起についても併せて解説する。

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高句麗

高句麗(こうくり、コグリョ、고구려、紀元前1世紀頃 - 668年10月22日)または高麗(こま、こうらい、コリョ、고려)は現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国北部から満洲の南部にかけての地域に存在した国家。最盛期には朝鮮半島の大部分、中国東北部南部、ロシア沿海地方方の一部を支配した。朝鮮史の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した百済・新羅とともに朝鮮の三国時代を形成した一国とされる。 『三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。漢の支配から自立し、3世紀以降、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余(扶余)、靺鞨、百済、新羅、倭など周辺諸国と攻防を繰り広げ、5世紀には最盛期を迎えた。高句麗は東アジアで大きな影響力をもったが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝の隋・唐から繰り返し攻撃を受けた。高句麗は長らくこれに耐えたが、660年には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって668年に滅ぼされ、唐に吸収されて安東都護府が設置された。

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高宗 (朝鮮)

高宗(こうそう、コジョン、고종、1852年9月8日〈旧暦7月25日〉 - 1919年2月21日〈旧暦1月21日〉)は、李氏朝鮮の第26代国王(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)である。本名は李 㷩(り き、イ・ヒ)、初諱は載晃(さいこう、チェファン、)、幼名は命福(めいふく、ミョンボク、)、小字は明夫(めいふ、ミョンブ、)、字は聖臨(せいりん、ソンニム、)、号は珠淵(しゅえん、チュヨン、)。諡は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳堯峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝。即位時の年号をとって光武皇帝(こうぶこうてい、クァンムファンジェ、)または光武帝(こうぶてい、クァンムジェ、)と称されることもある。即位前は翼成君(よくせいくん、イクソングン、)に封じられていた。

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高麗

高麗(こうらい、コリョ、; )は、918年に王建(太祖)が後高句麗王弓裔を易姓革命で追放することで建国し、936年に朝鮮半島の後三国の統一を成し遂げ、1392年の李氏朝鮮建国まで続いた国家である。首都は開京。

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高麗八万大蔵経

高麗八万大蔵経(こうらいはちまんだいぞうきょう)は、大韓民国の伽耶山海印寺に保存されている仏教聖典が書かれた木版から刷られた経典またはその版木のこと。「大正新脩大蔵経」の底本となったことでも知られる。

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高麗神社

拝殿 高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社。旧社格は県社。

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高麗郡

埼玉県高麗郡の範囲 高麗郡(こまぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。

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高野新笠

高野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳 - 延暦8年12月28日(790年1月17日))は、光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと)。 先祖は百済の武寧王である。父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の史姓の和乙継(やまとのおとつぐ)、母は宿禰姓の土師真妹(はじのまいも)(真姝とも)。高野朝臣(たかののあそん)は光仁天皇即位後の賜姓。

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高速国道

高速国道(こうそくこくどう、고속국도)は、大韓民国(韓国)の高速道路。自動車のみ が通行可能な道路であり、高速国道法に定められた道路のことを指す。 2024年現在、路線網の総延長は5,016キロメートルで、路線数は47である。 250px 金浦空港、4B老梧地JCT ソウル外郭循環高速道路 高陽(一山) 韓国国際展示場(KINTEX)、4A老梧地JCT 板橋 桂陽。

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論語

朱熹『論語集注』八佾 『論語』(ろんご、)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。

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魚介類

魚介類(ぎょかいるい、)、魚貝類、魚や貝など水産動物の総称「魚介類」『広辞苑』第6版。水族(すいぞく)とも。魚類、貝類、エビ、カニ、タコ、イカ、ウニ、ナマコなど。人間の食用となる種は「シーフード」とも呼ばれる。 加えてコンブ・ワカメなど海藻まで含める場合は「魚介類」の範囲を越えている部分があるので水産物となる。

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魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

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警察予備隊

警察予備隊(けいさつよびたい、英語表記:Japan Police Reserve Corps(JPR)又は、National Police Reserve(NPR))は、日本において1950年(昭和25年)8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された準軍事組織。1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組された。

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貞観 (日本)

は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。

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財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(ざいさんおよびせいきゅうけんにかんするもんだいのかいけつならびにけいざいきょうりょくにかんするにほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきょうてい、대한민국과 일본국간의 재산 및 청구권에 관한 문제의 해결과 경제협력에 관한 협정、Agreement Between Japan and the Republic of Korea Concerning the Settlement of Problems in Regard to Property and Claims and Economic Cooperation)とは、1965年(昭和40年)に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)と同時に締結された付随協約のひとつ。日韓請求権並びに経済協力協定。

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鳥海靖

鳥海 靖(とりうみ やすし、1934年1月21日 - 2020年2月29日、p.5)は、日本の歴史学者・日本近現代史研究者。東京大学名誉教授。立憲政治体制や歴史の相互理解を研究する。

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賃金

賃金(ちんぎん、wage、salary)とは、労力を提供したものが、報酬として受け取るお金のことをいう。かつては賃銀という別表記もあった。

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資本主義

サンパウロ証券取引所(2007年4月)。 資本主義(しほんしゅぎ、capitalism)または資本制は、国政によってよりも営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業が制御(コントロール)されている、経済的・政治的システム。特に近現代の資本主義の根幹は、自由資本主義・リベラルキャピタリズム(liberal capitalism)と呼ばれており、資本主義を肯定・擁護・推進する思想や主張は、普通は自由主義とされる。資本主義に基づく社会は「資本主義社会」「市民社会」「近代社会」「ブルジョア社会」等という。 資本主義は封建主義の後に現れた体制である。産業革命および、アメリカ独立革命やフランス革命等の資本主義革命(市民革命)によって確立された。資本主義は、一切全てを商品化していく「市場システム」であり、かつ、諸々の近代国家に蓄積・競合をさせる「世界システム」でもあるという。その主体は企業であり、これが物財やサービスを生産し流通させている。構造的には、資本(としての生産手段)を私有する資本家が、労働者から労働力を買い、それを上回る価値のある商品を生産し、利潤を得ている。

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。 南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。 邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府の第4代征夷大将軍(在任:応永元年12月17日(1394年1月8日) - 応永30年3月18日(1423年4月28日))。第3代将軍・足利義満の嫡男。母は側室の藤原慶子。 応永元年 (1394年) 12月17日に将軍職を継承するも、父義満の生前は実権を持たなかった。しかし、義満没後は幕府の様々な場面で義満とは異なる独自の政策を実施した(→#政策)。義持の治世中には、明との外交関係断絶、応永の外寇、上杉禅秀の乱や異母弟義嗣の殺害、鎌倉公方足利持氏との対立など、重大な政治的事件や争乱が発生したが、義持は室町幕府の歴代将軍の中では比較的安定した政権を築き上げた。将軍在職28年は室町将軍中では最長である。

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ、永享8年1月2日〈1436年1月20日〉- 延徳2年1月7日〈1490年1月27日〉)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍(在職:文安6年4月29日(1449年5月21日) - 文明5年12月19日(1474年1月7日))。 第6代将軍・足利義教の五男。母は日野重子。第7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。 幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなった。東山文化を築くなど、文化人的側面でも知られる。息子である義尚に将軍の地位を譲った後も、大御所として政治に関与し続けた。

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黒曜石

レイク郡で採取された黒曜石 黒曜石(黒耀石、こくようせき、Obsidian)は、火山岩の一種、およびそれを加工した宝石である。岩石名としては黒曜岩(こくようがん)という。英語名の「オブシディアン」は、エチオピアでオブシウス (Obsius) なる人物がこの石を発見した、という、大プリニウスの『博物誌』の記述による。

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輪王寺

輪王寺 観音堂(旧四本龍寺所在) 輪王寺 大猷院廟唐門 輪王寺 慈眼堂 輪王寺 慈眼堂 天海墓 輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされているCM(後述)やウェブサイトでも『日光山 輪王寺』として宣伝している。。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。 輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。

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近江大津宮

近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩御後に朝廷の指導者となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料上は「近江大津宮」のほかに「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。

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霊亀

は、日本の元号のひとつ。和銅の後、養老の前。715年から717年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

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防人

防人(さきもり / ぼうじん)は、古代中国や、日本の飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。 温故創生乃碑(熊本県山鹿市)に見る防人。

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阿倍比羅夫

阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、東北以北にて粛慎と交戦した。

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蘇我氏

蘇我氏(そがうじ、そがし)は、「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。 古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。

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赤軍

赤軍(せきぐん、Красная армия、読み:クラースナヤ・アールミヤ)は、1918年1月から1946年2月までロシア帝国およびソビエト連邦に存在した軍隊。ソビエト連邦軍の前身に当たる。十月革命後に勃発したロシア内戦の最中である1918年1月に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия、ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА、エールカーカーアー。Workers' and Peasants' Red Army)として設立され、1937年12月にソ連海軍が赤軍から独立した後は、ソ連地上軍(陸軍)を指す呼称となった。

見る 日朝関係史と赤軍

関東軍

関東軍(かんとうぐん、)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。 関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。 現地の佐官級参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件や張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の日中戦争や太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。なお、満洲事変は参謀本部や陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥で統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。

見る 日朝関係史と薩摩藩

間島

間島(かんとう)は、豆満江以北の満洲にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。墾島ともいった。

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閔妃

閔妃(びんひ、ミンビ、ミンピ、1851年11月17日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも称される。本貫は驪興閔氏。本名は閔 玆暎(びん じえい、ミン・ジャヨン、민자영)。尊号は孝慈元聖正化合天 、諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后。仁顕王后の兄・閔鎮厚の5代孫。 国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言依存と閔氏一族を中心に反対派を糾合し、親族を政府の要職に登用する勢道政治を行ったことで、官吏の汚職が蔓延・国庫の浪費もしたため、義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた。

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。

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藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し、藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣・藤原武智麻呂の次男。官位は正一位・太師。恵美大臣とも呼ばれた。

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藤原清河

藤原 清河(ふじわら の きよかわ)は、奈良時代の公卿。藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。唐名は。官位は従三位・参議、贈従一品。 遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂と唐朝に仕えたが、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去した。

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藤原朝狩

藤原 朝狩(ふじわら の あさかり)は、奈良時代の公卿。名は朝猟、朝獦とも記される。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、大師・藤原仲麻呂の四男。官位は従四位下・参議。

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葛飾北斎

葛飾 北斎(かつしか ほくさい、、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師である。19歳で勝川派の頭領勝川春章に師事し絵師としての活動を始めて以降、安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵、黄表紙、読本、狂歌本、絵手本、春画など多岐に渡った(→代表的な作品)。

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肥薩線

肥薩線(ひさつせん)は、熊本県八代市の八代駅から鹿児島県霧島市の隼人駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。このうち八代駅 - 吉松駅間には吉都線全線と合わせて「えびの高原線」(えびのこうげんせん)の愛称が付けられている。

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蔚山広域市

蔚山広域市庁 蔚山広域市(ウルサンこういきし、韓: 울산광역시、Ulsan)は、大韓民国南東部にある広域市。

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鄭夢周

鄭 夢周(チョン・モンジュ、てい むしゅう、至元3年12月22日〈1338年1月13日〉 - 洪武25年4月4日〈1392年4月26日〉)は、高麗末の儒学者。号は圃隠(ポウン)。本貫は延日。

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脱北者

脱北者(だっぽくしゃ、탈북자)、あるいは脱北民(だっぽくみん、だつほくみん、탈북민)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から国外脱出した北朝鮮国籍者のこと。北朝鮮本国では処罰・処刑対象であり、中国では不法滞在として扱われている。大韓民国(韓国)における法律上の用語は北韓離脱住民(ほっかんりだつじゅうみん、引用)である。 脱北者は主に韓国、他には日本やアメリカ合衆国、ヨーロッパなどに居住している「」 - NHK 2019年6月24日。2018年時点で韓国へ亡命して定着した約3万1500人は外国籍を除いて韓国国民となっている。

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言う。身分制度が廃止された日本国憲法下においては、皇籍を喪失することを「降下」と表現するのは不適切とされ、皇籍離脱(こうせきりだつ)が用いられる。本記事では、一旦臣籍に下ったもの(あるいはその子孫)が再び皇族となる皇籍復帰についても記載する。

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自衛隊

自衛隊(じえいたい、Japan Self-Defense Forces、略称: JSDF)は、日本の保有する実力組織であり、国際法上は軍隊として取り扱われるにおける中山太郎外務大臣(第2次海部内閣)の答弁。 陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊航空自衛隊は、2027年までに"「航空宇宙自衛隊」に改称される。の3軍種からなり、最高指揮官である内閣総理大臣及び隊務統括を担う防衛大臣による文民統制(シビリアン・コントロール)の下、防衛省によって管理される。1954年(昭和29年)7月1日設立。 イギリスの有力シンクタンクである国際戦略研究所(IISS)の年次報告書「ミリタリー・バランス」では、2020年の日本の軍事費は世界第8位に位置付けられている。

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釜山広域市

釜山広域市(プサンこういきし、ふざん こういきし、부산광역시 Busan Metropolitan City)は、大韓民国南東部に位置する広域市。 ソウルに次ぐ韓国第2の都市であり、古来より日本と朝鮮半島を結ぶ交通の要衝として知られる。コンテナ取扱量で世界7位の釜山港を有する大規模港湾都市でもある。

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釈道安

釈 道安(しゃく どうあん)は、五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築いた。

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。 国姓は完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。

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金城一紀

金城 一紀(かねしろ かずき、1968年10月29日 - )は、日本の小説家・脚本家である。埼玉県川口市出身。慶應義塾大学法学部卒業。

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金九

1949年ごろ 金 九(日本語読み: きん きゅう、朝鮮語読み: キム・グ、김구、1876年8月29日(陰暦7月11日) - 1949年6月26日)は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。 本名は金昌洙(김창수、キム・チャンス)、改名して金亀のちに金九(김구、キム・グ)、幼名は昌巖(창암、チャンアム)、字(あざな)は蓮上(연상、ヨンサン)、号は蓮下(연하、ヨンハまたはヨナ)のちに白凡(백범、ペクポム)、法名は円宗(원종、ウォンジョン)、還俗して斗来(두래、トゥレ)。本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。

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金弘集 (政治家)

金 弘集(きん こうしゅう、キム・ホンジプ、、1842年8月11日 - 1896年2月11日)は、李氏朝鮮末期の政治家。内閣総理大臣。甲午改革によって朝鮮の近代化を図ったが、親露派のクーデターによって殺害された。

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金達寿

金 達寿(キム・タルス/キムダルス、、1920年1月17日〈陰暦1919年11月27日〉 - 1997年5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。北朝鮮・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った。

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金賢姫

金 賢姫(キム・ヒョンヒ、김현희、1962年1月27日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員。 1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯として死刑判決が確定していたが、後に特赦されている。

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金正恩

は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。同国第3代最高指導者(2011年 - )、朝鮮労働党総書記。 第2代最高指導者で朝鮮労働党総書記であった金正日の三男。2011年の父の死により事実上最高指導者の地位を継承した。朝鮮労働党総書記、国務委員会委員長、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党政治局常務委員、国家武力最高司令官を務める。党内序列は第1位。軍事称号(階級)は共和国元帥。2019年4月の社会主義憲法改正により国務委員会委員長は国を代表すると規定され、名実ともに元首に位置付けられた。

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金日成

金日成の肖像(1960年代に撮影)。 金日成(きん にっせい、キム・イルソン、김일성、Kim Il-sung、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1994年7月8日)は、北朝鮮の政治家、軍人、独裁者。同国初代最高指導者(1948年9月9日 - 1994年7月8日)。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮の最高指導者に就任してから死去するまで権力を握り続け、死後はに位置付けられた。

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。

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長崎貿易

江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。

見る 日朝関係史と長崎貿易

長徳

は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。

見る 日朝関係史と長徳

若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

見る 日朝関係史と若狭国

難民

難民(なんみん、refugee)は、対外戦争、民族、紛争、人種差別、宗教的迫害、思想的弾圧、政治的迫害、経済的困窮、自然災害、飢餓、伝染病などの理由によって、国境を越えて庇護を求めて外国へ逃避した人々。母国を自分の意志で離れた、又は強制的に追われた人々を指す。 その多くは陸路、海路、河路で国外に脱出し、他国の庇護と援助を求める。統計上、先進国等の母国より経済的に豊かな国に難民認定された場合は母国が停戦又は復興が開始されても母国への帰国は希望しない傾向が示されている。短期間の滞在許可のみを求め、母国の復興開始時に帰宅を希望する'''避難民'''(ひなんみん、evacuees)と異なる『日本經濟新聞』第43巻(1991年)p.34。日本でも第二次世界大戦後の国境警備が完全回復するまでの1960年頃まで、朝鮮半島から日本への密入国・自由意志で来日した者らの帰国拒否・送還拒否が問題になった。

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雨森芳洲

雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日(1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))は、江戸時代中期の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。

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雪舟

紙本墨書題雪舟山水図詩〈了庵桂悟筆/〉。、藤田美術館) 雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年)生誕600年 雪舟 実像解明へ 「拙宗」同一人物 ほぼ認定/「漂泊」実は公務出張か『読売新聞』朝刊2020年3月12日・文化面 - 永正3年(1506年)8月8日(諸説あり))は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。

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雅楽

御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版 雅楽(ががく)は、日本の古典音楽の一つ。以下、重要無形文化財/ユネスコ無形文化遺産の宮内庁式部職楽部に伝わる雅楽を中心に述べる。 中国、朝鮮、ベトナムについては、それぞれ「中国の雅楽」「朝鮮の雅楽」「ベトナムの雅楽」を参照。

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連合国 (第二次世界大戦)

第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、聯合国()、AlliesまたはUnited Nations(現在の国際連合と同名))とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。具体的にはアメリカ、ソビエト連邦、中華民国、イギリス、フランスなど26カ国が該当する。 第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月8日の日本によるマレー作戦及び真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、オーストラリアを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦争状態にあったが、日ソ中立条約によってソビエト連邦が対日戦に参戦したのは1945年8月のことである。日ソ中立条約は、法的有効期間中にソ連によって破棄された。

見る 日朝関係史と連合国 (第二次世界大戦)

連合国軍最高司令官総司令部

連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部()、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。 極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官とも、Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)。日本では、総司令部(General Headquarters)の頭字語であるGHQ(ジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。

見る 日朝関係史と連合国軍最高司令官総司令部

耳塚

耳塚(みみづか、朝:귀무덤)もしくは鼻塚(はなづか、朝:코무덤)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以外にも日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在するが、実際に耳や鼻が葬られているものは確認されていない。

見る 日朝関係史と耳塚

耽羅

耽羅(たんら、ちんら『古事類苑』、神宮司庁、1903年、269頁、「耽羅ハ一二耽牟羅二作ル、或ハ度羅二作ル」とされ、同頁の和漢三才図会 十三 異国人物 耽羅 耽牟羅の記載において、耽羅のふりがなに「ちんら」がみえる。、とむら『日本史小辞典』、山川出版社、1957年、505頁、辞典内で「耽羅島(とむらのしま)」と読み仮名が付けられている。ここで言う耽羅島は済州島を指すものの、説明に耽羅(とむら)についても述べている。、탐라)は、朝鮮半島沖の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記されるほかに、州胡(チュホ)、渉羅(ソムナ)、純羅(スルラ)、度羅(トラ)という表記も見られる。

見る 日朝関係史と耽羅

陶芸

陶芸(とうげい、Pottery)とは、粘土を成形して高温で焼成することにより陶磁器などを作る技術のこと。陶磁器以外にも種類はある。焼きものとも呼ばれる。生業として陶芸を行う者を陶工もしくは陶芸家と呼ぶ。 焼きものは施釉しない土器(および高温で焼成した炻器)と施釉した陶磁器(陶器と磁器)とに大別されるが、この区分には地域や文化によりばらつきがあり、欧米では施釉されたものも炻器(ストーンウェア)に含み、また中国では土器と陶器を区別しない。 九谷焼で使用された窯 造形方法には、手びねり、型を用いて土の形を整える方法、轆轤(ろくろ)の上に置き手足や機械で回しながら両手で皿や壷などの形を作っていく方法などがある。焼き方には、窯を用いない「野焼き」や、七輪を用いる「七輪陶芸」などという手法もある。土の種類やこね方、釉、そして焼く温度など、様々な要素が作品に貢献する。したがって、世界中にいろいろな技法が存在する。

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陸軍士官学校 (日本)

陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。

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柳宗悦

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日)は、民藝運動の主唱者である、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。名前はしばしば「そうえつ」と読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。 宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。

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柳川一件

柳川一件(やながわいっけん)は、江戸時代初期に対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。

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推古天皇

推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。 日本史上最初の女帝とされる。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。 成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。 彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)義江 2020。

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林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。

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恭譲王

恭譲王(コンヤンワン、きょうじょうおう、王瑤 ワンヨ、おうよう(1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の子の襄陽公王恕の六代の孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に禅譲し、李成桂の命令で子供とともに殺された。

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李垠

李 垠(り ぎん、イ・ウン、、1897年〈光武元年〉10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、韓国併合後には王世子として日本の王族に列し、1926年には王位を継ぎ「昌徳宮李王垠」と称された。皇太子時代の称号は英王。王族時代の敬称は「殿下」。諡号は文仁武莊至孝明暉懿愍皇太子。

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李完用

李 完用(り かんよう、イ・ワニョン、リ・ワニョン、이완용、리완용、1856年7月17日(旧暦咸豊6年6月7日) - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。勲等は大勲位。爵位は侯爵。大韓帝国の内閣総理大臣、大日本帝国の朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。甥に韓相龍。

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李王家

李王家(りおうけ、이왕가、イワンガ)は、李成桂(太祖)が1392年に朝鮮王位に就いたのに始まり、以降518年にわたり李氏朝鮮王家、大韓帝国皇帝家として続いた家。1910年の韓国併合でその地位を失い、日本の王公族に転じて皇族に準じる待遇を受けた。第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴ってその身分を失い(身位喪失)、サンフランシスコ平和条約発効後は日本国籍からも離脱した。

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李鍾元

李 鍾元(イ・ジョンウォン、り しょうげん、이종원、Lee Jong Won、1953年8月10日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.353 - )は、日本在住の韓国人政治学者。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授。立教大学名誉教授。国際政治学専攻。 在籍する早稲田大学やマスメディアでは、名前の表記を李鍾元(リー・ジョンウォン)として活動している。しばしば「李鐘元」と誤記される。

見る 日朝関係史と李鍾元

李恢成

李 恢成(り かいせい、イ・フェソン、、1935年2月26日 - )は、韓国の小説家。樺太真岡郡真岡町出身。

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李恩恵

李 恩恵(リ・ウネ)は、大韓航空機爆破事件の実行犯だった金賢姫の日本人化教育係荒木(2005)pp.186-187。北朝鮮による拉致被害者、政府認定の拉致被害者である日本人女性田口八重子の仮名と見られている。 日本の警察庁が全国の警察に指示を出して失踪者の洗い直しを行ったほか、金賢姫自身の証言などにもとづき、1991年(平成3年)5月、埼玉県警察は記者会見を開き、従来「李恩恵」として報道されてきた女性は拉致被害者の田口八重子であることを事実上断定した。また、日本政府は、拉致被害者支援法に基づく「李恩恵拉致容疑事案」の認定拉致被害者を田口八重子だとしている。 → 「田口八重子」を参照。

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月1910年8月まで大韓帝国として存続した。にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。

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李成桂

李 成桂(り せいけい、イ・ソンゲ、이성계、太祖 康献大王、1335年10月27日 - 1408年6月18日)は、李氏朝鮮の始祖であり初代国王。在位は1392年から1398年である。 高麗の有力武官であったが、昌王の親元反明政策へ反対し、明への遠征中に起こしたクーデターで高麗王を廃位せしめ、1392年に新政権を作り王位についた。当初は国号を高麗のまま明を宗主国として関係の改善に努めたことで、翌1393年に明により権知高麗国事(高麗知事代理)に冊封され、同年に「朝鮮」の名を新国号として与えられて李氏朝鮮の創始者となった。1394年に漢陽(漢城、現ソウル)に遷都し、抑仏崇儒政策推進で高麗の国教仏教、寺院や緑茶など仏教に結びついているを法規制や重税で弾圧し、朱子学(儒教)を国教とした。しかし、1398年に息子たちの王位継承争いに苦しみ退位したが、それでも収まらなかったために晩年は仏教徒になって仏門帰依をした。1401年に第3代国王太宗の時代に漸く明により朝鮮国王として冊封されたことで、死後に初代李氏朝鮮国王の称号が送られ、1897年からの大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。

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李方子

李 方子(り まさこ、이방자〈イ・バンジャ〉、1901年〈明治34年〉11月4日 - 1989年〈平成元年〉4月30日)は、日本の元皇族であり、李王垠の妃。梨本宮守正王と同妃伊都子の第1王女子。旧名は、方子女王(まさこじょおう)。皇室典範における敬称は殿下。 宮家(梨本宮家)の第1王女子(女王)として生まれ、日本国内で王公族として皇族に準じる待遇をうけた李垠(旧大韓帝国、高宗第七皇子)に嫁した。「李方子」とは、第二次世界大戦後、王公族としての身分を喪失したことにより夫の姓を名乗ったものである。

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李承晩

李 承晩(り しょうばん、イ・スンマン、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン(리승만)」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音ㄹの脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。

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李承晩ライン

大韓民国 初代大統領 李承晩 李承晩ライン(りしょうばんライン現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語の音読みにする慣例があった。、イスンマンライン)は、1952年(昭和27年)1月18日に韓国初代大統領・李承晩が大統領令(国務院告示第14号)「隣接海洋に対する主権宣言」を公表して設定した「韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のため」と主張する海洋境界線である。 戦前の朝鮮総督府時代、朝鮮半島の周囲に機船トロール禁止区域線および機船底曳漁業禁止区域線が設けられ、これによって日本本土からの漁船の侵入を防止する漁業規制が講ぜられていた。

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東南アジア

東南アジア(とうなんアジア、Southeast Asia, Southeastern Asia)は、アジアのうち南シナ海周辺に位置している国々を指す地域区分である。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。

見る 日朝関係史と東南アジア

東夷

東夷(とうい)は、周代及びその後の中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 なお、「夷」という漢字は矢に縄を巻き付けたさまを象る象形文字で、これを異民族を指す単語に当てるのは仮借による。『説文解字』では「大」と「弓」とから構成されると説明されているが、これは訛変を経た後世の形に基づく誤った分析である。甲骨文字や金文の形を見ればわかるように、「大」とも「弓」とも関係がない。 本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島・日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。

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東山道

東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された。

見る 日朝関係史と東山道

東京大学史料編纂所

東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所で、国内外の史料の調査、収集・複写、分析、編纂、公開を行い、歴史情報学研究を推進することを目的とする研究所である。1793年(寛政5年)、徳川幕府の援助を受けた国学者塙保己一が開設した和学講談所を源流とする。 近年では複写に最新の写真技術やデジタル画像技術が駆使されている。 附属施設として画像史料解析センターと前近代日本史情報国際センターを持つ。 共同利用・共同研究拠点に指定されている(「日本史史料の研究資源化に関する研究拠点」)。

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東人

東人(とうじん、韓国語:동인、トンイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。

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東亜日報

は、大韓民国の日刊新聞(朝刊)である。日本統治時代の1920年4月1日 に創刊。本社をソウル特別市鐘路区に置く。発行部数は737,342部(韓国ABC協会への申告部数、2018年度)。朝鮮日報、中央日報とともに韓国の三大紙と称され、中央日報と発行部数第2位の座を競っている。

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東医宝鑑

東医宝鑑(とういほうかん、)は、李氏朝鮮時代の医書。23編25巻。許浚著。1613年に刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した。(東アジアでは漢文が公文書に用いられたため、教養人は漢文の素養を持っており、書籍は翻訳の必要がなく交流が盛んであった。) 初版本は光海君の1613年に発行され、重版が重ねられている。日本では江戸時代初の官版医書として、徳川吉宗の命で享保9年(1724年)に日本版が刊行されており 『温知会会報』34号、寛政11年(1799年)にも再版本が刊行されている。中国においては清代の乾隆28年(1763年)に乾隆版本が刊行されており、日本から版木が輸出され光緒16年(1890年)に日本再版本を元とした復刻本が出ている。

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東近江市

延命公園から望む東近江市街 東近江市(ひがしおうみし)は、滋賀県の東部にある市である。愛知川に沿って三重県との県境である鈴鹿山脈から、琵琶湖岸まで東西に長い市域を持つ。市名は旧国名(近江国)に由来する。

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ、The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズで1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」が発足している。

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。

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松平信綱

松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。

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松浦党

松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。

見る 日朝関係史と松浦党

村上春樹

村上 春樹(むらかみ はるき、Haruki Murakami、1949年〈昭和24年〉1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市育ち。 早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。それらの作品は、50ヵ国語以上で翻訳されている。

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまべ)。 平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇であり、桓武平氏の始祖となる。

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梨本宮

梨本宮(なしもとのみや)は、日本の皇室における宮家の一つ。

見る 日朝関係史と梨本宮

検察庁

検察庁(けんさつちょう、Public Prosecutors Office)は、日本の行政機関のひとつ。検察官の事務を統轄する法務省の特別の機関である。最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁および区検察庁の4庁が設置されている。

見る 日朝関係史と検察庁

楽浪郡

楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した朝鮮半島の郡である田中 2000, p. 34。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く、韓氏がこれに次ぎ、この2氏でかなりの率を占めていた。

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横田めぐみ

横田 めぐみ(よこた めぐみ、1964年〈昭和39年〉10月5日 - )は、北朝鮮による拉致被害者、政府認定の拉致被害者。中学1年生(13歳)のとき、部活動を終えて帰宅するところを拉致されたとされる。

見る 日朝関係史と横田めぐみ

欽明天皇

欽明天皇(きんめいてんのう、509年〈継体天皇3年〉 - 571年5月24日〈欽明天皇32年4月15日〉)は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日?〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年5月24日?〈欽明天皇32年4月15日〉)。 和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。

見る 日朝関係史と欽明天皇

正長

は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年から1429年までの期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。

見る 日朝関係史と正長

武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。匈奴討伐などで前漢の最大版図を築いた。

見る 日朝関係史と武帝 (漢)

武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。

見る 日朝関係史と武蔵国

歴史修正主義

歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、historical revisionism)とは、歴史の再定義や再解釈の言説を指す用語である。一般に否定的・批判的な意味合いを込めて使用されることが多く、特に第二次世界大戦に関わる戦争犯罪・戦争責任に関わる議論で、それを否定または相対化する言説を指して歴史修正主義という用語が使用される。 確立された歴史を「修正」することそれ自体は歴史の記述を発展させ洗練させるための一般的なプロセスであり、特に議論を呼ぶものではないKrasner 2019,.。しかし、主流の歴史家が(例えば)正の力と捉えていたものが負の力として描かれるような、道徳的知見の逆転を含む議論は遥かに物議を呼ぶ。このような修正は、主流の見解の支持者から(特に激しい言葉で)異議を唱えられる。そして不適切な方法を用い、あるいは最初から事実と異なる言説を広めること、ジェノサイドの否定などを目的とする場合には、特に批判の対象とされる。欧米圏においてはホロコースト否認に代表されるような事実と異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定する言説は「歴史修正主義」ではなく「否定論(denial)」と呼ぶようになっており武井 2021, p.

見る 日朝関係史と歴史修正主義

歴史教科書問題

歴史教科書問題(れきしきょうかしょもんだい)では、歴史教科書の記述や、ある歴史の認識や解釈をめぐって国内や関係各国で発生した諸問題を扱う。

見る 日朝関係史と歴史教科書問題

水城

水城(みずき)は、福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた日本の古代の城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている。

見る 日朝関係史と水城

永享

は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年から1441年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。

見る 日朝関係史と永享

永和 (日本)

は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。応安の後、康暦の前。1375年から1379年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。

見る 日朝関係史と永和 (日本)

永正

は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。

見る 日朝関係史と永正

民主化宣言

民主化宣言(みんしゅかせんげん)は、1987年6月29日に、大韓民国の盧泰愚大統領候補(民主正義党代表委員)が発表した政治宣言である。正式名称は「国民の大団結と偉大な国家への前進のための特別宣言」。 翌年に控えたソウルオリンピックの成功的終了を条件とした、大統領直接選挙制の導入と、金大中ら反体制派政治家・政治活動家の赦免・復権を骨子とした。

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民族自決

ヨーロッパにおける民族自決 (1920年) 民族自決(みんぞくじけつ、英:self-determination)とは、各民族・人民(英:peoples)が,みずからの意志によってその運命を決定するという政治原則以下、国際社会で一般に法的権利として確立していない歴史的場面、あるいは概念としての説明をする際には「民族自決」という言葉を使うこととする。一方、法的権利として確立したのちの場面の記述では「民族自決『権』」という言葉を使うこととする。これは「外的自決」・「内的自決」・「政治的自決」・「経済的自決」についても同様である。。 民族自決には「外的自決」と「内的自決」の2つの意味がある。外的自決は人民が植民地状況を脱し、独立を達成したり、他国と連携をしたり、はたまた施政国と統合をすることである。「植民地人民」を享有主体とする場合の外的自決権については、国際連合憲章のときには権利としては認められていなかったが、植民地独立付与宣言や友好関係原則宣言などを通して権利として認められるようになった(民族自決権)。一方内的自決は、一国内で政治的地位や経済的地位を自由に決定するという意味である。政治的地位の決定を「政治的自決」、経済的地位の決定を「経済的自決」ということもある。

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江華島事件

海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。

見る 日朝関係史と江華島事件

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 日朝関係史と江戸幕府

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 日朝関係史と江戸時代

治安維持法

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。 1925年(大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)された。 第二次世界大戦敗戦直後の1945年(昭和20年)10月15日、GHQの人権指令を受け、『昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク治安維持法廃止等ノ件』により廃止された。

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沖ノ島

沖ノ島(おきのしま)は、福岡県の宗像市に属する九州本土から約60キロメートル離れた、玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの島。福岡県最北端の地でもある。宗像大社の神領(御神体島)で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。 2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界文化遺産に登録された。

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洛陽市

洛陽市(らくようし、、)は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市。 中国史上、しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。

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添谷芳秀

添谷 芳秀(そえや よしひで、1955年5月1日 - )は、日本の政治学者。専門は、国際政治学・外交政策。学位は、政治学博士(ミシガン大学)。慶應義塾大学名誉教授。

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渡来人

渡来人(とらいじん)とは、古代に中国や朝鮮半島から日本に渡来した人々およびその子孫のことブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「渡来人」。縄文時代ないし弥生時代にすでに日本へ渡来した人々がいたことが窺われ、また平安時代以降も日本に渡って来た人々はいたが、歴史上特に重要な意味をもつのは4世紀末から7世紀後半に移住した渡来人である。 人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い ではこの意味で「渡来人」の語が用いられている。。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しては、朝鮮半島、中国大陸、満洲にシベリア大陸、中東諸国などさまざまである。

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渤海 (国)

渤海(ぼっかい、朝鮮語:발해 パレ、渤海、、Бохай、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。靺鞨族の大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

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済州島

済州島(チェジュとう、さいしゅうとう、제주도、Jeju Island)は、朝鮮半島の南西、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845 km2。以前には、英語などの西洋言語では Quelpart(クエルパート、퀠파트)とも呼ばれていた。 1402年まで耽羅という独立した王国があった。現在は、首都ソウルとともに代表的な韓国の観光地となっている。なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ発音と表記であるが、漢字においては「済州島(チェジュド)」と「済州道(チェジュド)」となる。

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済州島四・三事件

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮李承晩政権下の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察など朝鮮半島の李承晩支持派が1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す 大阪産業大学藤永壯教授HP。李承晩の統治下で 1948年8月15日に韓国が独立すると、暴動に対する暴力的な鎮圧が激化した。南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、武装蜂起した多くの民間人が死亡した。犠牲者は少なくとも約1万4200人、推定では合計25,000人から30,000人が死亡したとされ、一部の情報源は80,000人もの死者を出したとしているともいわれる。また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという。

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清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

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清仏戦争

清仏戦争(しんふつせんそう、、、Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、Guerre franco-chinoise)は、1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。 フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。

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満洲

満洲(まんしゅう、、Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。

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満洲事変

満洲事変(まんしゅうじへん、、英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍満洲駐留の大日本帝国陸軍がポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件石原莞爾と板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判の田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満洲鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政・北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』))に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。

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満洲国

満洲国の地図 満洲国(まんしゅうこく、、)は、満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。 首都は新京(旧長春)。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。

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満洲民族

満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく、z)は、ツングース系民族の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族である。満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく)、満族(まんぞく、マンぞく)などとも呼ばれる。 同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八旗(z、八つの旗)に組織され(満洲八旗)、蒙古八旗、漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベ、ウデヘ、ナナイ、ウリチ、ウィルタなどがある。

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滋賀県

こちら) 滋賀県(しがけん)は、日本の近畿地方に位置する県。県庁所在地は大津市。かつての近江国に相当するが、1876年から1881年までは若狭国および越前国敦賀郡(現在の福井県嶺南)も含んでいた。

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漁業権

漁業権(ぎょぎょうけん、fishery rights, fishing rights)とは、漁業を行うことに関する、あらゆる種類の権利。

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漢字

漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で最初に発祥した表記文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約15万字に上る。古代から周辺諸国家や地域に伝わり漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用するベトナム語の記述に使われる。現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である。

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した体系的な詩のこと。中国文化の伝来に伴い、奈良時代から日本でも詠まれるようになった。

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、主に中華人民共和国および中華民国(台湾)にいる民族。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいう。華僑として華人・唐人と自称することが多い。清朝の時代、人口の80%以上はどの族にも含まれていない農奴だった。支配者である満州族と被支配層の漢族のような族名は貴族と平民に降等された人々だけ持つことが許された呼称で、百姓は族という呼称を持つことができなかった。中華人民共和国が建国されて、近代化の政策が進み、苗字と族を持たなかった殆どの人口は苗字と漢族という民族名をもらうことになった。 注意すべきなのは、「漢民族」という言葉が近代になって現れたことである。これまでは「漢人」と呼ばれていた。「漢民族」は近代に西洋の概念を導入して定型化した名詞で、「漢人」という言葉は古代中国ではずっと文化共同体の名称に似ていた。

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漢江の奇跡

漢江の奇跡(ハンガンのきせき、かんこうのきせき、한강의 기적)は、朝鮮戦争で壊滅的打撃をうけた大韓民国(韓国)が、1960年代後半以降、外債を累積させながら急速に復興し、経済成長と民主化を達成した現象を指す。

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漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。

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朝鮮労働党

朝鮮労働党(ちょうせんろうどうとう、、)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の支配政党。北朝鮮国内での略称は労働党、または単に党である。 党旗は赤地が革命、中心の鎌は農民、槌は労働者、筆は知識人を、それぞれ表す。

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朝鮮半島

は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、という。

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朝鮮中央通信

朝鮮中央通信(ちょうせんちゅうおうつうしん、조선중앙통신, Korean Central News Agency, 略: KCNA)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国営通信社である。また、国内で唯一の通信社でもある。

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朝鮮人民軍

軍事境界線で警備に当たる朝鮮人民軍兵士 朝鮮人民軍(ちょうせんじんみんぐん、조선인민군)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊である。

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朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。

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朝鮮総督府

朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ、、)は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、同年8月29日に設置された官庁である。 韓国併合の8月29日の設置の勅令は、暫定的なもので朝鮮総督府、朝鮮総督の設置を定めるほかは、統監府及び所属官署、当分の間存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使するとされた。その後9月30日に朝鮮総督府官制が制定(施行は10月1日)され本格的な機構が設置された。1905年(明治38年)に第二次日韓協約(日韓保護条約)を基に設置した韓国統監府を改組して作られたもの。 初代韓国統監伊藤博文とする韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていた。

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朝鮮特需

P-51)修理。奥には南アフリカ連邦空軍貸与機の姿も見える。 朝鮮特需(ちょうせんとくじゅ)は、朝鮮戦争に伴い、在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービス需要を指す。また、在日国連軍や外国関係機関による間接特需という分類も存在する。朝鮮戦争勃発直後の8月25日には横浜市に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われる。 なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は「特需景気」、「朝鮮戦争ブーム」、「朝鮮動乱ブーム」、「ガチャマン景気」、「糸ヘン景気」、「金ヘン景気」などと呼ばれた。

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朝鮮銀行

株式会社朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、조선은행)は、1911年に設立された日本の特殊銀行の一つである。略称はまたは。

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朝鮮語

またはは、主に朝鮮半島で使用されている言語で、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国語である。 この言語の名称については議論があるが(後述)、日本の言語学・音韻論など学術的には、表記として「朝鮮語」が用いられてきたことから、本項目では「朝鮮語」に統一し記述する(詳細は「朝鮮語の呼称問題」を参照)。

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)と言う。 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から豊臣秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。

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朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所

管理所・教化所(2014年、国連人権理事会、北朝鮮人権調査委員会発行) 朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所とは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)において、政治犯や刑事犯を収容する強制収容所である。

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朝鮮民族

朝鮮民族(ちょうせんみんぞく、조선민족)は、をそのアイデンティティー・母語とする民族。大韓民国における民族名は韓民族(한민족)。

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朝鮮日報

は、大韓民国の日刊新聞である。東亜日報と並んで韓国で最も歴史が長い新聞社であり、発行部数は韓国最大。政治的には保守的な論調が多い。 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総聯)の機関紙「朝鮮新報」とは無関係。 日本の毎日新聞とは、1963年より提携関係にある。

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木簡

木簡(もっかん)とは、主に古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、完全に存在を消したわけではなく、荷札などには長く用いられた。竹片に書かれた竹簡と木簡を合わせて、簡牘と呼ぶ。

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本居宣長

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者(文献学・言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、鈴屋。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「」の一人とされる。

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。 北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

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朴槿恵

朴 槿恵(パク・クネ、日本語読み:ぼく きんけい、rr、、英語ではPark Geun-hyeと表記し、と発音する、1952年2月2日 - )は、韓国の政治家、第18代大統領、第15・16・17・18・19代国会議員。 ハンナラ党(保守政党)代表、セヌリ党非常対策委員会委員長を経て、2012年の大統領選挙で革新政党民主統合党の文在寅に勝利し、2013年2月25日に女性として東アジア初、韓国史上初の大統領に就任したが、崔順実ゲート事件など一連の不祥事により、2017年3月10日に大統領弾劾が成立して罷免された。1987年の民主化で弾劾制度が導入されてから初めての大統領罷免のケースとなった(後述)。

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朴正煕

朴 正煕(パク・チョンヒ、パク・ジョンヒ、日本語読み: ぼく せいき、、1917年〈大正6年〉11月14日 - 1979年10月26日)は、大韓民国の政治家、軍人。軍での最終階級は陸軍大将。 1961年5月の軍事クーデターで第二共和国体制を崩壊させて国家再建最高会議議長に就任し、民政移管後の1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めた。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現され、韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される。 一方、1972年の自己クーデター及び憲法改正(十月維新)で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作や司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けていた。

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朴正煕暗殺事件

朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん、ぼく・せいきあんさつじけん)は、1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で、朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。韓国では起きた日付から「10・26事件」、また発生した場所から「宮井洞事件」とも呼ばれている。

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朴春琴

朴 春琴(パク チュングム、ぼく しゅんきん、、1891年4月17日 - 1973年3月31日)は、朝鮮人の政治家。戦前日本の帝国議会で初の朝鮮人代議士となった。

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朴憲永

朴 憲永(パク・ホニョン、박헌영、1900年〈光武4年〉5月28日 - 1956年12月)は、朝鮮の独立運動家・共産主義者・政治家である。南朝鮮労働党(南労党)の指導者として、韓国側から朝鮮戦争の開始に関わったが、1953年に金日成に「米帝国主義のスパイ」罪に問われて処刑された。字は徳永、号は而丁(イジョン・이정)、金 成三(キム・ソンサム・김성삼)。

見る 日朝関係史と朴憲永

指紋

指紋(しもん、Fingerprint)とは、指先(指腹部・指の腹)にある紋様。

見る 日朝関係史と指紋

戸籍

戸籍(こせき)とは、戸(こ/へ)と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。 かつては東アジアの広い地域で普及していたが、21世紀の現在では日本と中華人民共和国と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。

見る 日朝関係史と戸籍

明(みん)は、中国の王朝である。1368年から1644年まで存在し、明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配した。

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明徳

は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1394年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。

見る 日朝関係史と明徳

明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 日朝関係史と明治

明治維新

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。

見る 日朝関係史と明治維新

明月記

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。 2019年日本天文遺産に選定された。

見る 日朝関係史と明月記

昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。4 現在、天皇に在位する第126代今上天皇 (徳仁)の祖父。

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昌原市

昌原市(チャンウォンし)は、大韓民国慶尚南道の道庁所在地。大韓民国の地方自治法第198条に基づいて特例が適用される特例市。 1970年代に韓国最初の計画都市として建設された都市で、2010年に軍港都市である鎮海、港湾都市である馬山が市域に編入された。 韓国プロ野球のNCダイノス、韓国バスケットボールリーグの昌原LGセイカーズとサッカー・Kリーグの慶南FCの本拠地である。

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海禁

海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。

見る 日朝関係史と海禁

海賊

海賊旗(ジョリー・ロジャー) ジョン・ラカムの海賊旗 海賊(かいぞく、)は、海上を航行する船舶を襲撃し、暴行や略奪など航海の安全を脅かす行為をする者のことである。

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海東諸国紀

海東諸国全図 『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。 1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。

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浄瑠璃

浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫がを語る音曲・劇場音楽である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめてと呼ぶ。 江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節義太夫節は浄瑠璃の一流派であるが、上方では義太夫節以外の一中節・豊後節・宮薗節などが早くに廃れたため、「浄瑠璃」がもっぱら義太夫節を意味する場合がある。・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。

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斎藤実

斎藤 実(さいとう まこと、、1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階勲等爵位は従一位大勲位子爵。功級は功二級。第30代内閣総理大臣。

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新座郡

埼玉県新座郡の範囲(薄黄:後に他郡に編入された区域) 新座郡(にいくらぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。

見る 日朝関係史と新座郡

新石器時代

新石器時代(しんせっきじだい、)は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始したとされ、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。

見る 日朝関係史と新石器時代

新羅

新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代(とういつしらぎじだい)、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代(ごさんごくじだい)という。ただし1970年代以降の韓国では、渤海を朝鮮民族の歴史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)から、統一新羅時代を南北国時代(なんぼくこくじだい)と称しているので注意が必要である。

見る 日朝関係史と新羅

新興工業経済地域

新興工業国(しんこうこうぎょうこく、Newly industrialized country、newly industrialized economy, NIE)、または、新興工業経済地域(しんこうこうぎょうけいざいちいき)は、政治学者及び経済学者により世界の複数の国に適用される分類である。新興国と同義になる場合もある。略称はNIES。

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新潟市

開港五港の1つである新潟港。手前の建物は新潟市歴史博物館(みなとぴあ) 新潟市(にいがたし)は、新潟県の下越地方に位置する市。新潟県の県庁所在地及び人口が最多の市であり、政令指定都市である。市域には8行政区が設けられている(後述)。1889年(明治22年)に市制施行。 本州の日本海側では、唯一の政令指定都市であり、最多の人口を有する都市である(76.9万人 新潟市 総人口参照)。「新潟」の表記については「新潟県#「潟」の字について」を参照。

見る 日朝関係史と新潟市

新潟県

新潟県シンボルマーク 新潟県(にいがたけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は新潟市。

見る 日朝関係史と新潟県

方広寺

日本の各大仏の存立期間(時系列) 方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。 かつて方広寺に存在し、日本一の高さ・規模を誇っていた大仏及び大仏殿の詳細については「京の大仏」の記事を参照のこと。

見る 日朝関係史と方広寺

文学

ジャン・オノレ・フラゴナール『読書する女』(1772年) 文学(ぶんがく、)は、言語によって表現された芸術のこと。詩、小説、戯曲、脚本、随筆、評論などの総称である。また、それらを研究する学問(文芸学を参照)。文芸(ぶんげい)ともいう。 原初的な文学は口承文芸であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在では電子書籍やインターネットを利用した電子メディア上で表現されるものもある。

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文中

文中 (ぶんちゅう、)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方で使用された。建徳の後、天授の前。1372年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。

見る 日朝関係史と文中

文世光事件

文世光事件(ムン・セグァンじけん、문세광 사건)は、1974年8月15日に大韓民国(韓国)大統領・朴正煕ファーストレディの陸英修夫人が在日韓国人の文世光に射殺された事件のこと。同時に、式典に合唱団の一員として参加していた女子高生の張峰華(当時17歳)も、朴大統領に迫る犯人に向けて応戦した大統領警護室のセキュリティポリスが撃った流れ弾に当たり死亡した。 この日は、韓国での日本からの独立記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。

見る 日朝関係史と文世光事件

文化 (元号)

文化(ぶんか、旧仮名遣: ぶんくゎ、)は、日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。

見る 日朝関係史と文化 (元号)

文化放送 (韓国)

株式会社文化放送(ムナほうそう)(Munhwa Broadcasting Corporation)(주식회사 문화방송、ムナバンソン)(朝鮮漢字:文化放送)は、大韓民国の全国を放送エリアとするテレビ・ラジオ兼営放送局である。 略称は「MBC」だが、日本においては、東京都港区にあるラジオ局の文化放送と区別するために「韓国文化放送」と呼ばれたり、鹿児島県鹿児島市にあるラテ兼営局の南日本放送の略称MBCと区別するために「韓国MBC」と呼ばれたりしている。 キャッチコピーは「좋은친구MBC(いい友達MBC)」。

見る 日朝関係史と文化放送 (韓国)

文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)の元号や朝鮮の。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった歴史評論第573~578号p86,1998年。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。

見る 日朝関係史と文禄・慶長の役

文永

文永 (ぶんえい、)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1275年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王。執権は北条長時、北条政村、北条時宗。

見る 日朝関係史と文永

文明 (日本)

文明 (ぶんめい、)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1487年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。

見る 日朝関係史と文明 (日本)

斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう、、594年〈推古天皇2年〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。

見る 日朝関係史と斉明天皇

日宋貿易

日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。 中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。

見る 日朝関係史と日宋貿易

日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法

日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法(にっていきょうせんかはんみんぞくこういしんそうきゅうめいにかんするとくべつほう、旧名:日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法、通称親日反民族特別法)とは、大韓民国の法律。 2004年3月2日に国会通過、3月22日公布された。2005年1月27日施行の改正法で法律名から「親日」が外されている。これは、日本との外交関係に配慮したためとされる。この法律については、過去に法的に犯罪とされなかった行為を後に作った法律で裁くいわゆる事後法であるとする意見とそうでないとする意見がある。

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日中国交正常化

日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。

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日中戦争

は、盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争である。支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる日支事変 (満洲事変と上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。英語圏では、1894年 - 1895年の日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年 - 1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。

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日光東照宮

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている。 隣接する仏教寺院の輪王寺は、勝道による日光山開山を奈良時代の天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方の霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた。頼朝は、母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。

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日米修好通商条約

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の2つ。 江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。

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日韓問題

日韓問題(にっかんもんだい)とは、日本と大韓民国(以下、韓国)との間で起きている諸問題のことである。歴史的・政治的背景から解決が困難な課題が多い。なお、韓国では「韓日紛争(朝:한일 분쟁)」と呼称する。

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日韓共同宣言

日韓共同宣言 21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ(にっかんきょうどうせんげん 21せいきにむけたあらたなにっかんパートナーシップ、朝: 21세기의 새로운 한일 파트너십 공동선언)は、1998年10月8日に日本国内閣総理大臣の小渕恵三と大韓民国大統領の金大中が、1965年の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約によって国交が結ばれて以来、過去の両国の関係を総括し、現在の友好協力関係を再確認するとともに、これからあるべき日韓関係について意見を出し合い、新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意を宣言した文書。単に日韓共同宣言とも。 2001年7月18日、韓国議会は日韓共同宣言の破棄を韓国政府に求める全会一致の決議を行った 朝日新聞 2001年7月18日。

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月から1905年9月にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた。陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。また日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するには至らず、戦後に外務省に対する不満が軍人や民間人などから高まった。

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日英同盟

日英同盟(にちえいどうめい、Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である。 1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸()オーバルルームにおいて調印された。 その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した。

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう、)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。

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日朝平壌宣言

日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん、조일평양선언 朝日平壌宣言)は、2002年に北朝鮮の首都・平壌で発表された日朝両国政府による共同宣言。「小泉・金宣言(こいずみ・きむせんげん)」とも称する。その後の日朝関係の基礎となった政治宣言原田(2005)pp.65-67。

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日朝修好条規

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、병자수교조약)ともいう。

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日朝首脳会談

日朝首脳会談(にっちょうしゅのうかいだん)は、日本国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との首脳同士による会談。2002年(平成14年)9月と2004年(平成16年)5月の計2回開かれた。この会談により日本人拉致被害者の5人が帰還した。

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日本労働組合総評議会

日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称は総評(そうひょう)。1950年に設立され、日本社会党を支持・議員を多数輩出し、戦後日本における最大の全国的労働組合の中央組織・圧力団体であった。1980年代後半以降の労働戦線統一の流れにより、日本労働組合総連合会(連合)に発展的解消を遂げる形で1989年に解散した。

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日本の分割統治計画

日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国が分割統治しようとした計画案。 ソビエト連邦は、北方四島と北海道占領計画を持っており、またアメリカ合衆国もイギリス、ソ連、中華民国の連合国での分割統治する案を検討したが、結局、日本占領は分割占領でなく連合国軍最高司令官総司令部による日本国政府を介した間接統治となった。

見る 日朝関係史と日本の分割統治計画

日本の降伏

加瀬俊一 日本の降伏(にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の日本による、連合国(事実上のアメリカ合衆国)のポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から玉音放送および日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。 なお、掲げられたのは星条旗(アメリカ合衆国の国旗)のみで、日本の国旗や他の連合国の国旗も掲げられなかった。

見る 日朝関係史と日本の降伏

日本国との平和条約

日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。

見る 日朝関係史と日本国との平和条約

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(にほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきほんかんけいにかんするじょうやく、대한민국과 일본국 간의 기본 관계에 관한 조약〈大韓民國과 日本國 間의 基本關係에 關한 條約〉)は、1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。通称日韓基本条約。12月18日、ソウルで批准書が交換され発効した。

見る 日朝関係史と日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

日本国籍

日本国籍(にほんこくせき、にっぽんこくせき)は、日本国憲法第10条を受けた国籍法によって規定される日本の国籍。 日本の国籍法(昭和25年法律第147号)では「日本国民たる要件」を定めており、日本国籍を所有する者が、すなわち日本国民(にほんこくみん、にっぽんこくみん、日本の国民)であるとされている。原則として父母両系血統主義を採用しているが、例外的に生地主義による取得及び帰化による取得も認められている。

見る 日朝関係史と日本国籍

日本国憲法

は、現在の日本における国家形態等を規定している憲法。 この憲法は、象徴君主制('''無権天皇'''ともいう。)・国民主権(直接民主主義が中心)・日本人一人ひとりの権利の尊重・三権分立を基本原理とする大日本帝国憲法(後述)の改正という形で制定されたが、改正元の憲法と異なり、国民主権(間接民主制が中心)・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としている。同じように見える権利の尊重でも、大日本帝国憲法が天皇を除く日本民族の権利を国内外問わずに保障する「民族の権利」の立場なのに対し、この憲法は日本国籍を有する者の権利を日本国内だけで保障する立場をとっている。 草案作成から議会審議まで一貫してGHQの統制がおよび、国際法違反で無効ではないかという指摘もある(後述)。

見る 日朝関係史と日本国憲法

日本社会党

日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう、The Social Democratic Party of Japan、Japan Socialist Party、略称: JSP)は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1088頁。ISBN 4-06-203994-X。.

見る 日朝関係史と日本社会党

日本経済新聞

日本経済新聞(にほんけいざいしんぶん、題字: 日本經濟新聞、NIKKEI、Nihon Keizai Shimbun)は、日本経済新聞社の発行する新聞(経済紙)である。広義の全国紙の一つ、略称は日経(にっけい)、または日経新聞(にっけいしんぶん)である。社是は「中正公平、我が国民生活の基礎たる経済の平和的民主的発展を期す」である。

見る 日朝関係史と日本経済新聞

日本航空

日本航空株式会社(にほんこうくう、Japan Airlines Co., Ltd.、略称: JAL)は、東京都品川区に本社を置く日本の航空会社。2023年の利用旅客数は、国際・国内線共に第2位。日本では航空会社として最も長い歴史を持つ。 コーポレートスローガンは「明日の空へ、日本の翼」。 英国スカイトラックス社による「エアライン・レーティング(航空会社格付け)」において、2018年から2024年現在まで最高評価となる「5つ星航空会社(5-STAR AIRLINES)」の認定を受けている。

見る 日朝関係史と日本航空

日本海

は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。

見る 日朝関係史と日本海

日本書紀

『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ、やまとふみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

見る 日朝関係史と日本書紀

旧皇族

旧皇族(きゅうこうぞく)とは、日本の皇室にかつて所属していた者およびその男系子孫。特に、日本国憲法・現行皇室典範施行後の1947年(昭和22年)10月14日に臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家51名およびその男系子孫を指すことが多く、本項目ではこれらの人物及びその家について解説する。『旧宮家』ともいう。

見る 日朝関係史と旧皇族

旧石器時代

旧石器時代(きゅうせっきじだい、Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・サピエンスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には260万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。

見る 日朝関係史と旧石器時代

憲仁親王妃久子

憲仁親王妃 久子(のりひとしんのうひ ひさこ、1953年〈昭和28年〉7月10日 - )は、日本の皇族。学者。高円宮家第2代当主。身位は親王妃。敬称は殿下。お印は扇(おうぎ)。勲等は勲一等。旧名は、鳥取 久子(とっとり ひさこ)。 第126代・今上天皇(徳仁)の父のいとこである高円宮憲仁親王の妃。 鳥取滋治郎第1女子。子爵・曾我祐邦の曽孫。大阪芸術大学客員教授を務める。日本サッカー協会の名誉総裁。2023年11月1日より公益財団法人日本バドミントン協会の名誉総裁。

見る 日朝関係史と憲仁親王妃久子

敏達天皇

敏達天皇(びだつてんのう、、538年?〈宣化天皇3年?〉 - 585年9月14日?〈敏達天皇14年8月15日〉)は、日本の第30代天皇(在位:572年4月30日?〈敏達天皇元年4月3日〉- 585年9月14日?〈同14年8月15日〉)。 和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。「古事記」では沼名倉太珠敷命)。別名、他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)。漢風諡号の「敏達天皇」は他の代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。

見る 日朝関係史と敏達天皇

慶応

紋が描かれている。 とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。

見る 日朝関係史と慶応

慶長

慶長(けいちょう)は、日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。日本史の時代区分においては安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。天下人は豊臣秀吉、豊臣秀頼。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。

見る 日朝関係史と慶長

扶余豊璋

扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は余豊璋、余豊もしくは名のみの豊璋、豊章であるが、『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊、『旧唐書』では扶余豊もしくは余豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。 倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国したが、復興は果たせなかった。

見る 日朝関係史と扶余豊璋

承平 (日本)

承平(じょうへい/しょうへい、)は、日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。931年から938年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇。

見る 日朝関係史と承平 (日本)

承応

は、日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

見る 日朝関係史と承応

承和 (日本)

は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。

見る 日朝関係史と承和 (日本)

書家

『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。

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普通選挙法

普通選挙法(ふつうせんきょほう、)とは、1925年(大正14年)、加藤高明内閣によって制定された、満25才以上男子による普通選挙を規定する法律(大正14年5月5日法律第47号)である。普通選挙法というのは通称であり、正確には、1900年(明治33年)制定の衆議院議員選挙法(明治33年3月29日法律第73号)を全部改正して成立した法律である。

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時事通信社

株式会社時事通信社(じじつうしんしゃ、Jiji Press Ltd.)は、1945年(昭和20年)11月に創立された日本の民間通信社である国際地域研究センター『世界のメディア』p90。同盟通信社の法人サービス部門が母体。国内60カ所、海外24カ所の支社や総支局を有する。 報道機関や出版社などに事件や政治といった一般ニュースを配信しているほか、行政機関や金融機関に対しても行政・経済の専門ニュース(実務ニュース)配信を行っている。 以前は略語に JP (JijiPress) を使用していたが、現在は Jiji を使用している。

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10月10日

10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。

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10月15日

10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。

見る 日朝関係史と10月15日

10月1日

10月1日(じゅうがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。

見る 日朝関係史と10月1日

10月20日

10月20日(じゅうがつはつか、じゅうがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から293日目(閏年では294日目)にあたり、年末まであと72日ある。

見る 日朝関係史と10月20日

10月26日

10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。

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10月8日

10月8日(じゅうがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から281日目(閏年では282日目)にあたり、年末まであと84日ある。

見る 日朝関係史と10月8日

10月9日

10月9日(じゅうがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から282日目(閏年では283日目)にあたり、年末まであと83日ある。

見る 日朝関係史と10月9日

11月15日

11月15日(じゅういちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日ある。

見る 日朝関係史と11月15日

11月17日

11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。 毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。

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11月1日

11月1日(じゅういちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。

見る 日朝関係史と11月1日

11月29日

11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。

見る 日朝関係史と11月29日

12月17日

12月17日(じゅうにがつじゅうななにち、じゅうにがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から351日目(閏年では352日目)にあたり、年末まであと14日ある。

見る 日朝関係史と12月17日

12月18日

12月18日(じゅうにがつ じゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。

見る 日朝関係史と12月18日

12月25日

12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。

見る 日朝関係史と12月25日

12月28日

12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。

見る 日朝関係史と12月28日

12月4日

12月4日(じゅうにがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。

見る 日朝関係史と12月4日

1748年

オーストリア継承戦争終結後のヨーロッパ情勢。

見る 日朝関係史と1748年

1900年

19世紀最後の年である。暦年が4の倍数であるが閏年に該当しない100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。、現時点で最後の年である。

見る 日朝関係史と1900年

1911年

この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。

見る 日朝関係史と1911年

1940年東京オリンピック

1940年東京オリンピック(1940ねんとうきょうオリンピック)は、1940年(昭和15年)9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現在の東京都区部)での開催が予定されていた夏季オリンピックである。東京1940(Tokyo 1940)と呼称される。 史上初となるアジアで行われる五輪大会と紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争(支那事変)や軍部の反対などから日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。

見る 日朝関係史と1940年東京オリンピック

1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。

見る 日朝関係史と1945年

1946年

この項目では、国際的に注目されたものを列挙する。

見る 日朝関係史と1946年

1948年

この項目では、国際的な視点に基づいた1948年について記載する。

見る 日朝関係史と1948年

1949年

この項目では、国際的な視点に基づいた1949年について記載する。

見る 日朝関係史と1949年

1950年

この項目では、国際的な視点に基づいた1950年について記載する。

見る 日朝関係史と1950年

1952年

この項目では、国際的な視点に基づいた1952年について記載する。

見る 日朝関係史と1952年

1960年

アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地であった地域の多数が独立を達成した年であることにちなみ、アフリカの年と呼ばれる。

見る 日朝関係史と1960年

1964年

この項目では、国際的な視点に基づいた1964年について記載する。

見る 日朝関係史と1964年

1964年東京オリンピック

1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうおりんぴっく)は、1964年(昭和39年)10月10日(後のスポーツの日)から10月24日までの15日間、日本の東京都で開かれた第18回オリンピック競技大会。東京オリンピック、東京五輪、東京1964(Tokyo 1964)と呼称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。 1940年東京オリンピックの開催権を返上したため、日本およびアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1956年メルボルン大会以来8年ぶり2回目となった。また、「有色人種国家における史上初のオリンピック」である。

見る 日朝関係史と1964年東京オリンピック

1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり過去最も長かった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1972年について記載する。

見る 日朝関係史と1972年

1973年

この項目では、国際的な視点に基づいた1973年について記載する。

見る 日朝関係史と1973年

1974年

この項目では、世界の1974年の出来事について記載する。日本については1974年の日本を参照のこと。

見る 日朝関係史と1974年

1975年

この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。

見る 日朝関係史と1975年

1977年

この項目では、国際的な視点に基づいた1977年について記載する。

見る 日朝関係史と1977年

1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。

見る 日朝関係史と1984年

1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。

見る 日朝関係史と1988年

1988年ソウルオリンピック

1988年ソウルオリンピック(1988ねんソウルオリンピック)は、1988年(昭和63年)9月17日から10月2日までの16日間にわたって韓国の首都・ソウルで開催されたオリンピック競技大会。ソウル1988(Seoul 1988、서울 1988)と呼称される。初めて選手宣誓を男女が行った大会でもあった。

見る 日朝関係史と1988年ソウルオリンピック

1989年

この年にベルリンの壁が崩壊したり冷戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。

見る 日朝関係史と1989年

1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。

見る 日朝関係史と1994年

1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。

見る 日朝関係史と1996年

1999年

西暦1000年代、1900年代、1990年代最後の年である。この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。

見る 日朝関係史と1999年

1月11日

1月11日(いちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から11日目に当たり、年末まであと354日(閏年では355日)ある。

見る 日朝関係史と1月11日

1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。

見る 日朝関係史と1月9日

2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。西暦2000年代最初の年でもありミレニアムとも呼ばれ、Y2Kと表記されることもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。

見る 日朝関係史と2000年

2001年

21世紀最初の年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。

見る 日朝関係史と2001年

2002 FIFAワールドカップ

2002 FIFAワールドカップ(韓: 2002 FIFA 월드컵、2002 FIFA World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて日本と韓国で開催された17回目の大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。

見る 日朝関係史と2002 FIFAワールドカップ

2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。

見る 日朝関係史と2002年

2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。

見る 日朝関係史と2003年

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。

見る 日朝関係史と2005年

2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。

見る 日朝関係史と2011年

2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。

見る 日朝関係史と2012年

2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。

見る 日朝関係史と2013年

2015年

この項目では、国際的な視点に基づいた2015年について記載する。

見る 日朝関係史と2015年

2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。

見る 日朝関係史と2016年

2017年

この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。

見る 日朝関係史と2017年

2018年

この項目では、国際的な視点に基づいた2018年について記載する。

見る 日朝関係史と2018年

2019年

この項目では、国際的な視点に基づいた2019年について記する。

見る 日朝関係史と2019年

2月11日

2月11日(にがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から42日目にあたり、年末まであと323日(閏年では324日)ある。

見る 日朝関係史と2月11日

2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。

見る 日朝関係史と2月12日

2月23日

2月23日(にがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から54日目にあたり、年末まであと311日(閏年では312日)ある。

見る 日朝関係史と2月23日

2月3日

2月3日(にがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。

見る 日朝関係史と2月3日

38度線

38度線(38どせん、38th parallel north)は、本来は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。大韓民国(韓国)では38線(38선、三八線)と呼んでいる。 韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立から朝鮮戦争勃発までは、それらの国の境界線(国境)となっていた。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。北緯38度線と軍事境界線は、の地点(朝鮮民主主義人民共和国開城特別市長豊郡沙是里/大韓民国京畿道漣川郡百鶴面梅峴里)で交差する。

見る 日朝関係史と38度線

3月1日

3月1日(さんがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から60日目(閏年では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。

見る 日朝関係史と3月1日

3月24日

3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。

見る 日朝関係史と3月24日

3月31日

3月31日(さんがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日(月末)。年度末。

見る 日朝関係史と3月31日

3月5日 (旧暦)

旧暦3月5日(きゅうれきさんがついつか)は旧暦3月の5日目である。六曜は先勝である。

見る 日朝関係史と3月5日 (旧暦)

4月22日

4月22日(しがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から112日目(閏年では113日目)にあたり、年末まではあと253日ある。

見る 日朝関係史と4月22日

4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日)にあたり、年末まではあと247日ある。

見る 日朝関係史と4月28日

5・16軍事クーデター

5・16軍事クーデター(5・16ぐんじクーデター)は、朴正煕少将(第2野戦軍副司令官、後の韓国大統領)などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター。1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。

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5月16日

5月16日(ごがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から136日目(閏年では137日目)にあたり、年末まではあと229日ある。

見る 日朝関係史と5月16日

5月31日

5月31日(ごがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から151日目(閏年では152日目)にあたり、年末まであと214日ある。5月の最終日である。

見る 日朝関係史と5月31日

6世紀

地中海の再統一。ゲルマン系諸国家を滅ぼし、イタリアと北アフリカを回復して、東ローマ帝国の勢威は地中海周辺に轟いた。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 Aksumite–Persian wars。東ローマ帝国とサーサーン朝の対立から、紅海周辺の諸国家も複雑な国際関係から紛争に巻き込まれた。画像はイエメンをめぐるエチオピアのアクスム王国とサーサーン朝の衝突を描いたエジプトの毛織物。 Antarah ibn Shaddadの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟の『慧可断臂図』。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。閻立本の「歴代帝王図巻(ボストン美術館蔵)」に描かれた隋の文帝。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 Rossano Cathedral教区博物館が所蔵する。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている(クリーブランド美術館蔵)。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。

見る 日朝関係史と6世紀

6月13日

6月13日(ろくがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から164日目(閏年では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。

見る 日朝関係史と6月13日

6月14日

6月14日(ろくがつじゅうよっか、ろくがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から165日目(閏年では166日目)にあたり、年末まであと200日ある。

見る 日朝関係史と6月14日

6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。

見る 日朝関係史と6月22日

6月25日

6月25日(ろくがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から176日目(閏年では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。

見る 日朝関係史と6月25日

6月27日

6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。

見る 日朝関係史と6月27日

7世紀

ジブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 夜の旅(イスラー)」を行った聖地であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。画像は東京国立博物館所蔵の玄奘の肖像画。 ナーランダ僧院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ僧院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繡帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 飛鳥の石造物。奈良県明日香村は飛鳥時代に都が置かれたこともあり、幾つもの遺構が残るが、その用途が知られないものも多い。画像は酒船石遺跡の小判形石造物と亀形石造物で、斉明朝の両槻宮との関連があるとも考えられている。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポ。この王のもと吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。画像は王とその二人の妃である唐から来た文成公主とネパールから来たチツン。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 奉先寺大仏。洛陽近郊の龍門にある石窟寺院で、仏教信仰に篤い則天武后の命で造営されたもの。中央の大仏は毘盧遮那仏で、その顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。

見る 日朝関係史と7世紀

7月27日

7月27日(しちがつにじゅうななにち、しちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から208日目(閏年では209日目)にあたり、年末まであと157日ある。

見る 日朝関係史と7月27日

7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。

見る 日朝関係史と7月4日

820年

西暦820年の世界地図。

見る 日朝関係史と820年

8月13日

8月13日(はちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。

見る 日朝関係史と8月13日

8月14日

8月14日(はちがつじゅうよっか、はちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から226日目(閏年では227日目)にあたり、年末まであと139日ある。

見る 日朝関係史と8月14日

8月15日

8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。

見る 日朝関係史と8月15日

8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。

見る 日朝関係史と8月22日

8月27日

8月27日(はちがつにじゅうななにち、はちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から239日目(閏年では240日目)にあたり、年末まであと126日ある。

見る 日朝関係史と8月27日

8月4日

8月4日(はちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から216日目(閏年では217日目)にあたり、年末まであと149日ある。

見る 日朝関係史と8月4日

9世紀

ヴァイキング船博物館蔵)。 エドマンド王が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 崇文の治。薬子の変から承和の変までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は三筆の一人でも名高い嵯峨天皇の肖像画(御物)。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 カバー遺跡。ユカタン半島北部の遺跡で、プウク式装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神チャク神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿のファサードで、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。 Galerie des Batailles」蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。

見る 日朝関係史と9世紀

9月17日

9月17日(くがつじゅうななにち、くがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から260日目(閏年では261日目)にあたり、年末まであと105日ある。

見る 日朝関係史と9月17日

9月1日

9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。

見る 日朝関係史と9月1日

9月20日

9月20日(くがつはつか、くがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から263日目(閏年では264日目)にあたり、年末まであと102日ある。

見る 日朝関係史と9月20日

9月23日

9月23日(くがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。

見る 日朝関係史と9月23日

9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。

見る 日朝関係史と9月6日

9月9日

9月9日(くがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から252日目(閏年では253日目)にあたり、年末まであと113日ある。

見る 日朝関係史と9月9日

参考情報

日本の国際関係史

日本と北朝鮮の関係、日本朝鮮関係史 別名。

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