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後漢書

索引 後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

312 関係: 劉康 (後漢)劉建劉彊劉ヘイ劉テイ (建安七子)劉嘉劉エン (伯升)劉コン劉祉劉焉劉盆子劉隆劉表劉裕劉賜劉茂劉蒼劉長劉長卿劉良劉英 (後漢)劉虞劉陶劉暢劉植劉歙劉毅劉永 (新朝)劉昭劉慶厳光南匈奴南北朝時代 (中国)南蛮卓茂古墳時代史料司馬彪吉川忠夫堅鐔大秦天竺太守夫余奴国孔融宣秉安帝 (漢)宋 (南朝)...宋弘宋皇后 (漢霊帝)寇恂岩波書店岑彭崔寔崔烈左雄左慈帥升中国万修三国志 (歴史書)三韓二十四史仲長統延熹建武中元任安 (後漢)任光伏寿伏隆伏湛張奐張奮張倹 (後漢)張玄張純 (伯仁)張綱張衡 (科学者)張譲張超張歩張湛彭寵何休何ギョウ何進徐キュウ徐稚侯覇後漢応劭志賀島北宋マルクス・アウレリウス・アントニヌスヤマト王権ユウ婁ローマ帝国ワイ人トウ禹トウ猛女トウ晨パルティアヒトウテン良ホータン王国ホウ徳公ホウ萌周防周景呂布呉 (三国)呉良呉漢和帝 (漢)アオルソイタイマイ傅俊公孫サン公孫述元嘉 (南朝宋)光武帝倭・倭人関連の中国文献倭国倭国大乱皇太子皇甫嵩王常 (後漢)王丹王コウ王允王先謙王充王符王隆王覇王郎王梁班彪班固班超班昭祭遵福岡県禰衡稀代麻也子章帝竇妙竇融竇武竇憲紀伝体続漢書献帝 (漢)献穆曹皇后烏桓疏勒無弋爰剣焉耆盧芳盧植銚期隗囂韓説莎車荀イク荀爽荀悦華佗順帝 (漢)袁宏袁安袁山松袁紹袁隗袁術袁譚裴松之西晋馬融馬援馬武馬成馮勤馮異許劭許慎高句麗高宗 (唐)謝沈謝承魏志倭人伝鮮卑鮑宣鮑永象牙費長房 (後漢)質帝賈復賈ソウ賈逵 (漢)趙娥趙岐趙咨趙憙車師黄エン黄瓊黄香辺譲霊帝 (漢)霊思何皇后范曄郭丹郭キュウ郭聖通郭泰蘇竟薛瑩董卓董扶邪馬台国蓋延蔡ヨウ蔡エン蔡倫蔡茂鄭玄鄭衆 (大司農)鄭衆 (宦官)鄭泰臧宮臧洪耿エン耿国耿秉耿純陰識陰麗華陳寔陳俊陳紀陳蕃陶謙陸康恵棟李弘 (唐)李忠 (漢)李固李賢 (唐)李膺 (後漢)李通 (次元)李恂李憲 (後漢)李慈銘条支国来歙東観漢記杜茂杜林桓帝 (漢)桓焉桓譚梁 (南朝)梁女瑩梁冀梁統梁松楊彪楊修楊賜楊震樊宏橋玄欧陽歙武則天歴史書殤帝 (漢)永初 (漢)永楽大典汲古書院沃沮沖帝渡邉義浩漢委奴国王印服虔朱コ朱儁朱浮月氏明帝 (漢)明徳馬皇后文帝 (南朝宋)日本更始帝曹節 (宦官)曹騰景丹107年147年166年189年2001年2007年398年432年445年57年 インデックスを展開 (262 もっと) »

劉康 (後漢)

劉康(りゅう こう、? - 97年)は、後漢の皇族。光武帝の第5子、母は郭皇后。東海恭王劉彊、沛献王劉輔の同母弟。明帝の異母弟。 39年(建武15年)に済南公に封じられ、2年後に進爵して王となる。52年(建武28年)に封国に赴くが、法令を守らず食客と交遊にふけった。明帝の代に、州都に奸猾の徒である顔忠、劉子産を招じ入れ、謀反を企てたかどで告発された。謀反を上奏された明帝であったが、劉康との親密な関係があったため厳罰を与えず、封地5県を減じただけで処理している。 83年(建初83年)には、甥の章帝によりさらに5県を減じられている。劉康は多くの蓄財により宮廷の大改修を実施、さらに奴婢1,400人、厩馬1,200匹、私田800頃を有し奢侈な生活を送っていた。その生活は国傅である何敞により諫言されたが終生改まることはなかった。 97年(永元)に薨去し、安王と謚された。子の劉錯(簡王)が後を継いだ。.

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劉建

劉 建(りゅう けん)は、中国の歴史上の人物。.

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劉彊

劉 彊(りゅう きょう、25年 - 58年)は、後漢の光武帝の長男。当初皇太子に立てられ、後に廃位されて東海王となった。.

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劉ヘイ

劉 昞(りゅう へい、? - 440年頃)は、中国の五胡十六国から北魏にかけての学者。字は延明。本貫は敦煌郡。.

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劉テイ (建安七子)

劉 楨(りゅう てい、? - 217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。兗州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)。.

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劉嘉

劉 嘉(りゅう か、? - 39年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は孝孫。父は劉憲。伯父は舂陵侯劉敞。子は劉廧、劉参。従兄弟は劉祉。妻の兄は来歙。新末後漢初における漢宗室出身の武将。.

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劉エン (伯升)

劉 縯(りゅう えん、? - 23年)は、中国の新代の武将。字は伯升。皇族の諱を避けるため、史書では劉伯升と表記されることが多い。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。後漢初代皇帝光武帝(劉秀)の長兄。父は劉欽。母は樊嫺都。姉に劉黄、劉元、弟に劉仲、劉秀、妹に劉伯姫、子に劉章、劉興、劉彦(劉御筆)中国の書道史および清代の『項城県志』によると、父が殺されると、劉彦は一族の劉載に匿われて成長した。後に叔父の光武帝から汝陽王に封じられ、81年に66歳で没して恭敦王と諡されたと述べている。、叔父に劉良、従弟に劉栩がいる。.

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劉コン

劉 琨(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。.

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劉祉

劉 祉(りゅう し、紀元前7年 - 35年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は巨伯。父は舂陵侯劉敞。後漢の光武帝(劉秀)の祖父劉回は劉敞の父劉仁の従弟にあたるため、光武帝の族兄にあたる。弟は劉終、子は劉平、劉堅。.

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劉焉

劉 焉(りゅう えん、? - 194年)は、中国後漢末期の政治家。字は君郎。荊州江夏郡竟陵県の人。子に劉範・劉誕・劉瑁・劉璋。『後漢書』と『三国志』蜀志に伝がある。 後漢末の動乱期において、各地に割拠した群雄の1人。益州の地方官として赴任しそのまま独立勢力を築き、三国時代の蜀の先駆けとなる。.

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劉盆子

劉 盆子(りゅう ぼんし、10年 - ?)は、新末後漢初に新朝に対して叛乱を起こした赤眉政権の皇帝。兄に劉恭、劉茂がいる。.

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劉隆

劉 隆(りゅう りゅう、? - 57年)は、後漢の武将。字は元伯(げんはく)。長沙定王劉発の子の一人である安衆康侯劉丹の子孫の安衆侯劉㱈・劉崇の一族(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第16位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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劉表

劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) - 建安13年(208年)8月)は、中国後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。兗州山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。.

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劉裕

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。.

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劉賜

劉 賜(りゅう し、? - 52年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は子琴。祖父は劉利。父の名は不詳。兄は劉顕。甥(劉顕の子)は劉信。子は劉閔。義弟は樊宏(劉賜の妹の夫)。更始帝(劉玄)の従兄弟で、後漢の光武帝(劉秀)の族兄にあたる。.

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劉茂

劉 茂(りゅう も) 古代中国の人物。特に漢の宗室系に同姓同名の人物が多い。.

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劉蒼

劉 蒼(りゅう そう、生年不詳 - 78年)は、後漢の人。漢の光武帝劉秀の皇子で、明帝の同母弟。東平王に封建された。.

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劉長

劉 長(りゅう ちょう、紀元前199年 - 紀元前174年)は、前漢の人。漢の高祖劉邦の第7子。『淮南子』で有名な劉安の父である。.

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劉長卿

劉 長卿(りゅう ちょうけい、生没年不詳)は中国・唐代中期の詩人。字は文房。.

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劉良

劉 良(りゅう りょう、? - 41年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は次伯。劉回の子、劉欽の弟で、後漢の光武帝(劉秀)の叔父。甥には他に劉縯、劉仲が、姪に劉黄、劉元、劉伯姫がいる。子は劉栩。.

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劉英 (後漢)

劉 英(りゅう えい、? - 71年)は、中国の後漢の光武帝の三男。母は許美人。明帝の異母兄にあたる。建武17年(41年)に楚王の位を与えられたため、一般には楚王英の呼び名で知られる。.

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劉虞

劉 虞(りゅう ぐ、? - 初平4年(193年))は、後漢の宗室(広義の皇族)。字は伯安。徐州東海郡郯県(現山東省臨沂市郯城県)の人。子は劉和。.

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劉陶

劉 陶は中国の人名。.

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劉暢

劉 暢(りゅう ちょう、劉暢、1994年4月17日 - )は、中華人民共和国出身の男性フィギュアスケート選手(アイスダンス)。パートナーは劉涵淼、趙悦。.

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劉植

劉 植(りゅう しょく、? - 建武2年(26年))は、後漢の武将。字は伯先(はくせん)。鉅鹿郡昌城県(河北省深州市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第28位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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劉歙

劉 歙(りゅう きゅう、? - 34年)は、中国の新代から後漢時代にかけての政治家、武将。荊州南陽郡蔡陽県(現・湖北省棗陽市)の人。字は経孫。子は劉終、劉柱。後漢の光武帝(劉秀)の族父にあたる。.

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劉毅

劉毅(りゅう・き、1955年- )は、中国人民解放軍の軍人。出生地、籍貫地は、山東省。2013年11月現在、海軍中将、中国人民解放軍海軍副司令員である。.

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劉永 (新朝)

劉 永(りゅう えい、? - 27年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将、政治家。豫州梁郡睢陽県の人。父は梁王・劉立。弟は劉防、劉少公。子は劉紆。前漢の梁孝王劉武の8世の子孫で、新代から後漢初期にかけて梁国に割拠した、漢宗室の群雄の一人である。.

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劉昭

劉昭(りゅう しょう、生没年不詳)は、南朝梁の官僚・文人・歴史家。『後漢書』の注釈で知られた。字は宣卿。本貫は平原郡高唐県。.

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劉慶

劉 慶(りゅう けい).

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厳光

厳 光(げん こう、紀元前39年 - 41年)は中国・後漢時代初期の隠者・逸民。字は子陵、別名は遵。.

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南匈奴

南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。.

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南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

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南蛮

四夷の名称 南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。 日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジア・スペインやポルトガルの文物や人物を指す語となった。.

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卓茂

卓 茂(たく も、? - 28年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は子康。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の人。父祖は皆郡守であった。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。.

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古墳時代

古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.

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史料

史料(しりょう、Quellen、Source, historical materials)は、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。.

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司馬彪

司馬 彪(しば ひょう、? - 306年)は、西晋の皇族。字は紹統。後漢の史書である『続漢書』の編者。.

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吉川忠夫

吉川 忠夫(よしかわ ただお、1937年1月5日 - )は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授、日本学士院会員。専門は中国中世思想史。父は中国文学者の吉川幸次郎。.

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堅鐔

堅 鐔(けん たん、? - 50年)は、後漢の武将。字は子伋(しきゅう)。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第22位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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大秦

1532年に作成された世界地図『四海華夷總圖』。西の果てに大秦国の表記がある 大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。 「ローマ帝国」を現代中国語で書くと「羅馬帝国」となる。.

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天竺

天竺(てんじく)とは、インドの旧名。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。.

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太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.

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夫余

夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。.

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奴国

奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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孔融

孔 融(こう ゆう、永興元年(153年) - 建安13年8月29日壬子(208年9月26日))は、中国後漢末期の人物。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。孔子と同じく青州魯国曲阜県の出身である。父は孔宙。兄は孔褒。子の名は不詳。娘は羊衜(羊祜の父)の妻。.

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宣秉

宣 秉(せん へい、? - 30年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は巨公。司隷馮翊(左馮翊)雲陽県(陝西省淳化県)の人。子は宣彪。.

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安帝 (漢)

安帝(あんてい)は、後漢の第6代皇帝。第3代皇帝章帝の孫。父は清河孝王劉慶。母は側室の左小娥。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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宋弘

宋 弘(そう こう、生没年不詳)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は仲子。.

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宋皇后 (漢霊帝)

宋皇后(そうこうごう、? - 178年)は、中国後漢の霊帝の最初の皇后で廃后。扶風平陵(現咸陽市)の出身。父は宋酆。 建寧3年(170年)、後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏をさんざんけなした。 霊帝は傍系から桓帝の帝位を継いだため、桓帝の弟の渤海王劉悝に対して猜疑心を抱き忌避していた。熹平元年(172年)、宦官の王甫は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は178年に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。 数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。 霊帝は驚き恐れたが、宋氏と劉悝の名誉回復は拒んだ。間もなく霊帝は崩御した。.

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寇恂

寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将、政治家である。字は子翼。上谷郡昌平県(北京市昌平区)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。爵位は雍奴侯。諡号は威侯。光武帝の功臣であり、河内太守、潁川太守、汝南太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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岑彭

岑 彭(しん ほう、? - 35年)は、後漢の武将。字は君然(くんぜん)。南陽郡棘陽県(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第6位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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崔寔

崔寔(さい しょく、? - 170年ごろ)は、後漢の政治家、学者。『四民月令』『政論』を著したが、いずれも現存せず、逸文のみが残る。.

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崔烈

崔 烈(さい れつ、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・軍人。字は威考。父は崔盤。子は崔均(字は元平、議郎)・崔鈞(字は州平、虎賁中郎将・西河太守)。幽州涿郡安平県(現河北省衡水市)の人。 『後漢書』・『三国志』に記述がある。司徒・太尉・城門校尉。「漢故博陵太守孔府君碑」の碑陰に、「故吏、司徒掾」として名があることから、博陵郡の役人と司徒掾を経験していると推測される。.

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左雄

左 雄(さ ゆう、? - 138年)は、中国後漢代の政治家。字は伯豪。南陽郡涅陽県(河南省鎮平県)の人。 安帝の時代、孝廉に推挙され、やがて冀州刺史となった。当時、州には豪族が多く、刺史に請託を好んだが、左雄は常に門を閉ざし、彼らと交際しなかった。また、貪猾な太守を訴えて忌避することがない人物だった。 順帝の永建年間(126年-132年)初め、公車で徴されて議郎を拝命した。当時順帝が新しく即位したばかりで、大臣は懈怠し、政事には欠けるところが多かった。左雄はしばしば提言し、この言葉は心からのものだった。当時の廷臣の無為を嘆いていた尚書僕射の虞詡が、左雄を、忠誠で公正、節義があると推薦し、尚書に抜擢された。 のちに昇進して尚書令となり、政務を執ることになった。左雄の上奏によって太学が修繕され、これは陽嘉1年(132年)に完成して、増員が施された。同年、孝廉の被推挙者に40歳以上という年限を設け、着任の前に試験を課すことで官吏の質の維持を試みた。この制度は胡広や張衡らの激しい反対を受けたが、順帝はあくまで施行を命じ、翌年、胡広らをはじめ十数人が誤った者を推挙したとして罷免された。試験を通って郎中を拝命した者は、陳蕃、李膺、陳球など三十数人に過ぎなかった。太守達はおそれおののき、軽率な推挙をする者はなくなった。これによって、順帝の存命中、推挙登用は清平となり、多くの人材を得ることになった。 左雄は孝廉を改革する一方、上奏や尚書の運営には古典に倣う人物であり、九卿を鞭打つ刑に処すことを取り止め、順帝の乳母の宋娥を山陽君に封じることを災異を理由に重ねて反対した。宋娥はのちに誣告の罪が発覚して爵位を取り上げられた。 やがて司隷校尉に転属となった。左雄はかつて周挙を尚書に推薦したが、司隷校尉になってから、もとの冀州刺史の馮直という人物を将帥として推挙した。しかし馮直は収賄の罪を犯し、周挙は連座として左雄をも弾劾した。左雄は法を遵守して恩人にも阿らない人物を推挙できたことに「これぞ韓厥の挙なり」と喜んだ。その態度に天下は感服した。この事件によって左雄は罷免された。 のちに復職して尚書となったが、永和3年(138年)に死去した。後漢書は左雄を順帝の朝廷に集った賢才の一人に数え、特に孝廉の制度を改革したことを高く評価している。しかし、順帝は朝廷に多くの逸材を集めたが、結局は宦官や愛妾を重んじて旧弊を正すことができず、左雄の言も用いられることは少なかった。.

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左慈

左 慈(さ じ、)は、中国後漢時代末期の方士。字は元放()。揚州廬江郡の人。 正史では『後漢書』82巻方術列伝下に伝記がある。そのほか『捜神記』『神仙伝』などに詳しい。.

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帥升

帥升(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期・後期の倭国(まだ統一国家ではないクニの一つ)の有力な王と推測される。西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物。 後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。また、帥升(師升)とは名前なのか職名なのかもはっきりしない。これより以前の西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた倭(委)奴国との関係は不明。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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万修

萬 脩(ばん しゅう、? - 26年)は、後漢の武将。字は君游(くんゆう)。扶風茂陵県(陝西省興平市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第26位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.

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三韓

2世紀頃の三韓諸国周辺。 4世紀頃の三韓諸国周辺。 三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。衛氏朝鮮の「辰国」である。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属した。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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仲長統

仲長 統(ちゅうちょう とう、181年-220年)は、中国後漢末期の人物。字は公理。兗州山陽郡高平県の出身。.

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延熹

延熹(えんき)は、後漢の桓帝劉志の治世に行われた6番目の元号。158年 - 167年。延熹10年は6月に改元されて永康元年となった。.

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建武中元

建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。『後漢書』の光武帝紀では中元となっているが、祭祀志・東夷伝(倭伝)では「建武中元」となっており、「中元」は「建武中元」の誤写か省略だと考えられている。.

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任安 (後漢)

任安(じん あん、124年 - 202年)は、中国後漢末期の学者。字は定祖。益州広漢郡綿竹県の人。『蜀書(正史三国志)』秦宓伝・『後漢書』儒林伝に記述がある。 太学において儒学を修める一方、同郷の在野の学者であった楊厚に師事し図識(としん、天文による予知のこと)を学びこれを究めたという。郡や州の役人を務めたこともあるが長続きせず下野し、さらに朝廷から車を差し向けられた上で仕官を呼びかけられたものの、これも拒絶した。 同郷の学者であった秦宓と親交があり、秦宓は劉焉に働きかけ任安を朝廷に再び推挙させたが、このときは戦乱のために召命が下されなかった。 その後、秦宓は劉備に仕えるようになってから、諸葛亮に対し任安の長所を語っている。 任安と同門の学者に董扶・周舒がおり、弟子には杜微・杜瓊・何宗がいた。 Category:三国志の登場人物 Category:漢代の人物 Category:124年生 Category:202年没.

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任光

任 光(じん こう、? - 29年)は、後漢の武将。字は伯卿(はくけい)。南陽郡宛県(河南省南陽市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第24位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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伏寿

伏 壽(ふく じゅ、? ‐ 214年)は、後漢最後の皇帝献帝の皇后。徐州琅邪郡東武県(いまの山東省諸城市)の出身。前漢の伏湛の末裔。父は伏完。生母は盈(姓は不明)。嫡母は劉華(桓帝の娘の陽安公主)。兄は伏徳・伏典ら。.

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伏隆

伏 隆(ふく りゅう、? - 27年)は、中国の後漢時代初期の政治家。字は伯文。徐州琅邪郡東武県(山東省諸城市)の人。父は後漢第2代大司徒伏湛。弟は伏咸、伏翕。子は伏瑗。.

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伏湛

伏 湛(ふく たん、? - 37年)は、中国の前漢時代から後漢時代初期にかけての政治家。字は恵公。徐州琅邪郡東武県(山東省諸城市)の人。済南の伏生と呼ばれた伏勝の9世の子孫である。父の伏理は名儒者として知られ、成帝に『詩経』を教え、高密太傅となり、一学派を形成した。子は伏隆、伏咸、伏翕。また、伏湛の子孫には『三国志』や小説『三国志演義』で知られる後漢末の伏完、その娘の伏寿(伏皇后)がいる。.

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張奐

張 奐(ちょう かん、、103年 - 181年)は、中国後漢時代の官僚。字は然明。敦煌淵泉(甘粛省瓜州県)の人で漢陽太守張惇の子。使匈奴中郎将などを歴任し、主に辺境地域で活躍した。.

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張奮

張 奮(ちょう ふん).

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張倹 (後漢)

張 倹(ちょう けん、生没年不詳)は後漢の人物。山陽高平の人。字は元節。『後漢書』党錮列伝に記録がある。.

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張玄

張.

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張純 (伯仁)

張 純(ちょう じゅん、? - 56年)は、前漢末から後漢初期の人。字は伯仁。京兆尹杜陵県の人。大司馬衛将軍富平侯張安世から6代目の子孫。新、後漢においても爵位を失わず、官位も司空に至った。.

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張綱

張 綱(ちょう こう、98年 - 143年)は、中国後漢時代の政治家。字は文紀。犍為郡武陽県(四川省彭山県東北)の人。前漢の名臣張良の子孫。張晧の子。張続の父。蜀(蜀漢)の張翼の曾祖父。『後漢書』に伝がある。 「豺狼路に当たれりいずくんぞ狐狸を問わん」「魚の釜中に遊ぶが如し」の故事成語の由来となった人物である。.

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張衡 (科学者)

張衡の切手(1955年発行) 張衡の地動儀(模型) 張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は、後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。.

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張譲

張 譲(ちょう じょう、陽嘉4年(135年)? - 光熹元年(189年))は、中国後漢末期の宦官。豫州潁川郡の人。弟は張朔。子(養子)の妻は何太后の妹。.

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張超

張 超(ちょう ちょう、生没年不詳)は、後漢末の文士。字は子並。河間郡鄚県の人。前漢の張良の末裔といわれる(『後漢書』文苑伝)。一説には張耳の子孫ともいう(『新唐書』世系表)。車騎将軍の朱儁の別部司馬として黄巾党の乱の鎮圧に従軍した。草書の達人で、賦・頌などの19篇を残している(『後漢書』文苑伝)。 Category:漢代の人物.

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張歩

張 歩(ちょう ほ、? - 32年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は文公。徐州琅邪郡不其県の人。弟は張弘、張藍、張壽。新代から後漢時代初期にかけて、中国東部に割拠した群雄の一人である。.

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張湛

張 湛(ちょう たん、生没年不詳)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は子孝。司隷右扶風平陵県(陝西省咸陽市)の人。.

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彭寵

彭 寵(ほう ちょう、? - 29年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は伯通。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の人。父は彭宏。弟は彭純。子は彭午。従弟は子后蘭卿。父の彭宏は、哀帝時代の漁陽太守で、優れた容姿を持ち、大食漢、大酒飲みで、北方の辺境で威光と人望があった。しかし、王莽が摂政となった際に、彭宏は王莽に味方しようとしなかったため、何武、鮑宣と共に誅殺されてしまっている。.

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何休

何 休(か きゅう、129年-182年)は後漢時代の中国の儒学者。字は邵公。.

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何ギョウ

何 顒(か ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は伯求。荊州南陽郡襄郷県の人。党錮を受けた党人の一人として、後漢書党錮列伝に立伝されている。.

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何進

何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日(189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。字は遂高。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏。.

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徐キュウ

徐 璆(じょ きゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。字は孟玉(又は孟平)。広陵郡海西の人。『魏書』・『後漢書』に記録がある人物である。.

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徐稚

徐 稚(じょ ち、97年 - 168年)は、後漢の隠士。字は孺子、号は聘君。「南州高士」と称せられる。.

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侯覇

侯 覇(こう は、? - 37年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は君房。司隷河南尹密県(現在の河南省鄭州市新密市)の人。後漢草創期の功臣の1人で、尚書令・大司徒として内政・制度整備に貢献し、約200年に渡る後漢の治世の基礎を築いた上で最も貢献した政治家と言っても過言ではない。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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応劭

応 劭(おう しょう、? - 204年8月以前)は、中国後漢末期の政治家。字は仲瑗。豫州汝南郡南頓県(河南省項城市)の人。『風俗通』・『漢官儀』といった著作や『漢書』の注釈を著した。父は応奉。弟は応珣。甥は応瑒(建安七子の一人)・応璩。.

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志賀島

志賀島の位置(赤色が東区) 海ノ中道上空からの志賀島(右)。他に能古島(左)と玄界島(右奥)も見える。 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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マルクス・アウレリウス・アントニヌス

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus 121年4月26日 - 180年3月17日)は、第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。 外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女を嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。 ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。 軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。 また、後漢書に見られる大秦国王の安敦とは、彼のことだとされている 。.

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ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.

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ユウ婁

挹婁(ゆうろう、)は、後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ワイ人

(わい、)は、中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族。現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる。.

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トウ禹

鄧 禹(とう う、2年 - 58年)は、後漢の武将。字は仲華(ちゅうか)。南陽郡新野県(河南省南陽市新野県)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の筆頭に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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トウ猛女

鄧 猛女(とう もうじょ、? - 165年)は、後漢の桓帝の2番目の皇后。.

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トウ晨

鄧 晨(とう しん、? - 49年)は、中国の新代から後漢時代初期の政治家、武将。後漢草創期の功臣。字は偉卿。荊州南陽郡新野県の人。鄧家は2千石の高官の家柄で、曽祖父は揚州刺史の鄧隆、祖父は交阯刺史の鄧勲。父は豫章都尉の鄧宏。妻は光武帝(劉秀)の姉劉元。子は鄧汎、鄧棠。甥は鄧奉、鄧終。.

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パルティア

パルティア(、前247年-後224年)は古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。.

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ヒトウ

邳 彤(ひ とう、? - 30年)は、後漢の武将。字は偉君(いくん)。信都郡信都県(河北省衡水市冀州区)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第27位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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テン良

滇良(てんりょう、、生没年不詳)は、中国新~後漢時代の羌族の首領のひとり。焼当の玄孫。.

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ホータン王国

紀元前1世紀の西域諸国。 ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ、Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)。コータン王国とも書かれる。.

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ホウ徳公

徳公(ほう とくこう、163 - ?)は、中国後漢末期の人物。襄陽の名士であり、人物鑑定の大家。中国襄樊帶の民間伝承では字を子魚としている。一方で『宋書』や『四庫全書・巵林』においては尚長となっている。子は龐山民。孫は龐渙。従子は龐統。なお、西涼の龐徳とは名前が似ているが、全くの別人である。 荊州の襄陽に住み、親交があった司馬徽を「水鏡」、諸葛亮を「臥龍」、そして龐統を「鳳雛」と名付けたという。正史では、劉備が劉表の客将だった頃に司馬徽を訪ねた際、その弟子の牧童が劉備に話した言葉の中に、龐統の従父としてその名が言及されている。また、子は諸葛亮の姉と結婚しており、諸葛亮とは縁戚関係にあたる。.

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ホウ萌

萌(ほう ぼう、? - 30年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。兗州山陽郡の人。.

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周防

周防(すおう).

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周景

周 景(しゅう けい、? - 168年)は、中国後漢に仕えた将。字は仲饗。揚州廬江郡舒県(安徽省舒城県)の人。祖父は周栄。父は周興。子は周崇、周忠。甥は周異、周異。孫は周暉。従孫は周瑜。.

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呂布

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年12月24日癸酉〔199年2月7日〕)は、中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『三国志』巻七 呂布伝、『後漢書』列伝六十五 呂布伝などに記録がある。 丁原・董卓に仕え、抜群の軍事力を誇った。董卓との亀裂から彼を殺した後天下を失い、放浪するも最期は曹操との戦いに敗れ、殺された。作品によっては項羽と共に最強とされ、三国志関係の物語等でもしばしば最強の武将として描かれる。.

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呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.

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呉良

呉 良(ご りょう、1323年 - 1381年)は、明初の将軍。初名は国興であり、後に良の名を賜る。定遠(現在の安徽省滁州市定遠県)の人。朱元璋に仕え、明建国の功臣となった。弟の呉禎も朱元璋に仕え、明建国の功臣となった。.

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呉漢

呉 漢(ご かん、? - 44年)は、後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛県(河南省南陽市)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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和帝 (漢)

和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.

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アオルソイ

紀元前1世紀頃のアオルソイの位置。 アオルソイ(ギリシア語:Αορσοι)は、かつてカスピ海の西部に存在したサルマタイ系遊牧民族。アオルシ,アオルシーとも言い、紀元前1世紀にその存在が確認されている。また、中国史書に出てくる奄蔡(えんさい、拼音:Yǎncài)はその転写であると思われる。.

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タイマイ

タイマイ(玳瑁『広辞苑 第5版』、岩波書店、瑇瑁、)は、ウミガメ科タイマイ属に分類されるカメ。本種のみでタイマイ属を構成する。.

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傅俊

傅 俊(ふ しゅん、? - 31年)は、後漢の武将。字は子衛(しえい)。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第21位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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公孫サン

公孫 瓚(こうそん さん、、 ? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将。字は伯圭、または伯珪。「公孫瓉」とも表記されることがある。幽州遼西郡令支県(現在の河北省遷安市)の出身。従弟は公孫範・公孫越。子は公孫続ら。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。 後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠した。河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。.

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公孫述

公孫 述(こうそん じゅつ)は、新末後漢初の群雄の一人。四川(巴蜀)に地方王朝「成家」を建てた。扶風茂陵県の人。.

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元嘉 (南朝宋)

元嘉(げんか)は、南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年 - 453年。.

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光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

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倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、.

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倭・倭人関連の中国文献

倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。.

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倭国

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。.

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倭国大乱

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇甫嵩

皇甫 嵩(こうほ すう、? - 195年)は、中国後漢末期の武将。字は義真。涼州安定郡朝那県(寧夏回族自治区彭陽県)の出身。曾祖父は皇甫棱。祖父は皇甫旗。父は皇甫節。子は皇甫堅寿・皇甫叔献。娘は射援(字は文雄)の妻。曾孫は皇甫謐。伯父は皇甫規。甥は皇甫酈。.

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王常 (後漢)

王 常(おう じょう、? - 36年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。後漢草創期の功臣の1人。字は顔卿。豫州潁川郡舞陽県の人。父は王博。子は王広。最初は緑林軍の部将、下江軍の頭領、更始帝(劉玄)配下の武将であった。光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。.

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王丹

王 丹(おう たん、ワン・タン、1969年2月26日 - )は、中華人民共和国の政治活動家、人権活動家、歴史学者。1989年の第二次天安門事件の学生指導者の筆頭であり、現在でも中国民主化運動の象徴的存在。国立清華大学(台湾)客員助理教授。ハーバード大学博士。.

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王コウ

王 閎(おう こう、生没年不詳)は、中国の前漢時代から後漢時代初期の武将、政治家。冀州魏郡元城県(河北省大名県)の人。新の皇帝王莽の従兄弟。父は王莽の叔父、平阿侯王譚。王莽一門にありながら、反王莽の姿勢をとり続け、一門内の異端的存在となった人物である。.

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王允

王 允(おう いん、137年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家。字は子師。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市太谷県)の人。呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。兄は王宏。子は王蓋・王景・王定(王宗『後漢書』王允伝)。孫は王黒。甥は王晨・王淩。.

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王先謙

王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年 - 1917年)。字は益吾。清末の儒学者。葵園先生と呼ばれた。 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、岳麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。とはいえ王先謙は空理空論に反対し、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。.

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王充

王 充(おう じゅう、建武3年(27年) - ?)は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもした。.

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王符

王符(おう ふ)は、後漢の思想家。主著に『潜夫論』がある。 『後漢書』は、王充・王符・仲長統の3人にひとつの伝を割りあて、韓愈はこの3人を「後漢三賢」と呼んでいる。.

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王隆

王 隆(おう りゅう、)または王 龍建(おう りゅうけん、ワン・ヨンゴン、)は、高麗の太祖王建の父。廟号は世祖。諡号は威武大王。.

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王覇

王 覇(おう は、? - 59年)は、後漢の武将。字は元伯(げんはく)。潁川郡潁陽県(河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝10・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第23位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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王郎

王 郎(おう ろう、? - 24年)は、中国の新代の武将、政治家。冀州趙国邯鄲県の人。新末後漢初の群雄の1人で、河北に勢力を張った人物である。本名は王昌で、王郎は別名である。しかし『後漢書』は王郎を多用し、一般にも王郎の名で知られている。そのため本記事も便宜を兼ね、王郎を用いる。.

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王梁

王 梁(おう りょう、? - 38年)は、後漢の武将。字は君厳(くんげん)。漁陽郡要陽県(河北省豊寧満族自治県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第18位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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班彪

班 彪(はん ひょう、3年 - 54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班況は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭が、孫に班勇(班超の三男)。 班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。 『後漢書』に列伝が掲載されている。 Category:近代以前の中国の歴史家 Category:1世紀から5世紀の学者 Category:漢代の人物 Category:咸陽出身の人物 Category:3年生 Category:54年没.

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班固

班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.

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班超

班 超(はん ちょう、32年 - 102年(建武9年 - 永元14年)は、中国後漢の軍人。字は仲升(ちゅうしょう)。雍州扶風郡平陵の人。封号は定遠侯。父は班彪、兄妹は兄の班固、妹の班昭。子は長男の班雄と三男の班勇(字:宜僚)ら、孫は(班雄の子)。歴史家一家に生まれたが、一人武人としての成功を望み、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。『後漢書』では「燕頷虎鬚」と描写される。.

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班昭

班 昭(はん しょう、45年? - 117年?)は、中国・後漢の作家。中国初の女性歴史家。一名・姫。字は恵姫、または恵班。.

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祭遵

祭 遵(さい じゅん、? - 33年)は、後漢の武将。字は弟孫(ていそん)。潁川郡潁陽県(河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝10・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の9位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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福岡県

福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方北部にある県。県庁所在地は福岡市。2017年現在の人口は約511万人で、全国の都道府県中9位である。.

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禰衡

衡(でい こう、あるいは「ねい こう」とも、173年-198年)は、中国後漢末期の人。字は正平。青州平原郡般県(山東省楽陵市)の出身。.

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稀代麻也子

代 麻也子(きしろ まやこ)は、中国六朝文学研究者。筑波大学人文社会科学研究科文芸・言語専攻准教授。2003年「沈約論:『宋書』の文学的考察を中心として」で文学博士(青山学院大学)。.

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章帝

帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。.

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竇妙

竇 妙(とうみょう、? - 172年)は、後漢の桓帝の3番目の皇后。扶風郡平陵の人。大将軍竇武の長女。.

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竇融

竇 融(とう ゆう、紀元前15年 - 62年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将、政治家。字は周公。司隷右扶風平陵県(陝西省咸陽市秦都区)の人。河西に割拠した新末後漢初の群雄の一人で、後に後漢草創期の功臣となった人物である。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。 弟は竇友。子は竇穆(内黄公主の夫、内黄公主が誰の娘であるかは不明)。甥に対匈奴戦で活躍した竇固(竇友の子、光武帝の娘である涅陽公主の夫)、孫に竇勲(東海恭王彊の娘である沘陽公主の夫)など。従弟は竇士。の弟で章武侯に封じられた竇広国の7世の子孫。また、曾孫に竇憲・、玄孫に竇武がいる。.

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竇武

竇 武(とう ぶ、? - 168年)は、後漢末の人物。字は游平。 扶風平陵(陝西省咸陽市)の人。安豊戴侯となった竇融の玄孫。父は定襄太守となった竇奉である。妹は竇瓊英。竇武は若いころから学問と行いで名を立て、大澤中で教授し、時事に交わらず、関西地方(長安方面)で名を挙げた。 延熹8年(165年)、長女の竇妙が桓帝の後宮に入って撰ばれて貴人となり、時を置かず皇后に立てられると、外戚となった竇武もその引き立てに与り、郎中へ、そして越騎校尉へと昇進し、槐里侯に封じられる。 外戚ゆえに引き立てられ厚遇を受けていることを知る竇武は自らの行いを清め、一族にもそれを勤めさせ、礼としての賂さえ慎んで清名を得、名士を数多引き立てて、他者の嫉視に備えた。 この頃党錮の禁が行われており李膺、杜密等が既に獄に繋がれていた。そのことについて竇武は永康元年(167年)に城門校尉、槐里侯であった自らの進退をかけて桓帝を諫め、党錮の禁を解くことに成功する。 冬桓帝が崩御すると、解瀆亭侯の劉宏を擁立し帝位へ即けた。これが後の霊帝である。この功績によって竇武は大将軍に就くこととなり、更に改めて聞喜侯に封じられ、竇氏一族の主だったものも皆封侯の沙汰を受けた。 大将軍として自らの政権を磐石にしたい竇武と、清流派の雄として賄賂の横行で政府が腐敗することを憎む陳蕃は、宦官排斥で目的が一致した。二人は清流派と目される才能ある人材を数多登用して要職に配置し、政府への掌握力を高めると、建寧元年(168年)五月の日食に因って竇太后に宦官を除きたい旨を伝える。宦官の尽くを廃するのは止めて欲しい、除くなら罪のあるものだけにすべきとの竇太后の返答を得ると、二人は当時省内にあって専権を誇った中常侍の管霸及び中常侍の蘇康等を誅戮した。 この成功に気をよくした竇武・陳蕃は続いて曹節等を除きたいと竇太后に諮るが、とめどない要求を危惧する太后はこれを許さず、徒に時間が過ぎていった。 建寧元年(168年)八月に入り、天文の変遷を見てとった劉瑜が竇太后と竇武・陳蕃のそれぞれに釘を刺し、これに促されるように竇武・陳蕃は宦官一掃を計画する。 宦官尽くを族滅させるという計画は余りに急進的であった。その急進さゆえに一気呵成に成し遂げることを主張する陳蕃に対し竇武は万全を期すことにした。しかしそれが仇となり計画は長楽五官史の朱瑀へ漏れた。事は宦官側に知れ渡り、竇武・陳蕃は今上帝の廃立を図っていると濡れ衣を着せられ、兵によって攻められることになった。 大将軍の竇武は中央軍である五営を動かし、宦官側は近衛にあたる北軍五校士数千人を動かし、両者は衝突した。宦官側は兵を率いる将軍として護匈奴中郎将の張奐を抱き込むことに成功していた。張奐は当代随一の驍将であったため、その指揮下にあった北軍五校は次第に五営を圧倒していった。ついに宦官側の首魁である王甫が戦況不利となった五営の兵士たちに、叛乱したのは大将軍の竇武のほうだと叱りとばすと、戦況は一気に瓦解することになった。竇武らは敗れたのである。 その場は逃れたものの、追跡の手は弛まず、ついに包囲されて自殺した。 竇氏は殆ど滅ぼされたが、竇武の孫の竇輔のみは奇遇を得て生き延びることができた。彼は後に後漢末にあって荊州牧の劉表に従事として引き立てられ、次いで荊州を収めた曹操のところへ向かうことになる。 後漢書竇武伝ではその最後に竇武が生まれた時、その母は同時に一匹の蛇も生んだ。その蛇は竇武の母が死んだ時に姿を現し、人が葬にあたって哀礼を尽くすようにその母に礼を尽くした。それを時の人は竇氏にとってこれは瑞祥だろうとみなした、と書き残している。.

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竇憲

竇 憲(とう けん、? - 92年)、字は伯度、扶風平陵(現在の陝西省咸陽市)の人。竇融の曾孫に当たり、後漢朝では外戚の地位を占め要職を歴任した。.

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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続漢書

『続漢書』(ぞくかんじょ、しょくかんじょ)は、中国・西晋の司馬彪が編纂した、後漢に関する紀伝体の歴史書。 范曄『後漢書』には志が欠けていたため、のちに『続漢書』の志が合刻されるようになった。多くは散佚したが、志の部分はよく残っている。.

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献帝 (漢)

帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は美人の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。.

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献穆曹皇后

皇后(けんぼくこうごう、? - 260年)は、後漢最後の皇帝献帝の皇后。姓は曹氏。諱は節(せつ)。父は曹操。兄に曹丕。姉に曹憲。妹に曹華。一説には次女。.

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烏桓

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 2世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。『三国志』などでは烏丸と表記する。.

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疏勒

紀元前1世紀の西域諸国。 疏勒(呉音:しょろく、漢音:そろく、拼音:Shūlè)は、かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区カシュガル(喀什)市にあたり、タリム盆地の西端に位置する。漢代から唐代にかけてシルクロード交易の要所として栄えた。玄奘の『大唐西域記』では佉沙国と記されている。.

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無弋爰剣

無弋爰剣(むよくえんけん、拼音:Wúyìyuánjiàn、生没年不詳)は、中国春秋戦国時代の羌族の首領。「無弋」とは羌族の言葉で「奴隷」を意味する。.

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焉耆

焉耆(呉音:えんぎ、漢音:えんき、拼音:Yānqí)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 バインゴリン・モンゴル自治州 焉耆回族自治県にあたる。玄奘の『大唐西域記』では阿耆尼国(あぎにこく)と記されている。別名イエンチー。 紀元前1世紀の西域諸国と焉耆国の位置(地図右上)。.

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盧芳

盧 芳(ろ ほう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は君期。涼州安定郡三水県(寧夏回族自治区同心県)の人。兄は盧禽。弟は盧程。北方辺境で活動し、一時は皇帝を自称した、新末後漢初の群雄の1人である。.

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盧植

盧 植(ろ しょく、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・将軍・学者。字は子幹。子は盧毓・他少なくとも3人。幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の人。『後漢書』に伝がある。また、『三国志』魏志「盧毓伝」が引く『続漢書』にも記述がある。 後漢の末期に文武の才能を見込まれ立身した。黄巾の乱の追討に功績を挙げた将軍の1人である。儒学者としては『礼記』の注釈者としても知られる。三国時代の蜀漢を興した劉備の師でもある。.

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銚期

銚 期(ちょう き、? - 34年)は、後漢の武将。字は次況(じきょう)。潁川郡郟県(河南省郟県)の人(『後漢書』列伝10・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第12位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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隗囂

隗 囂(かい ごう、? - 33年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将、政治家。字は季孟。涼州天水郡成紀県(甘粛省静寧県)の人。叔父は隗崔。兄は隗義。子は隗恂、隗純。隴右に割拠した新末後漢初の群雄の1人で、蜀の公孫述と共に、光武帝(劉秀)の統一事業に立ちはだかった人物である。.

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韓説

韓 説(かん えつ、? - 紀元前91年)は、前漢の人物。字は少卿。韓王信の曾孫にあたり、弓高侯韓頽当の孫で韓嫣の弟。.

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莎車

紀元前1世紀の西域諸国。 莎車(呉音:しゃしゃ、漢音:さしゃ、拼音:Shāchē)は、中国にかつて存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区ヤルカンド県にあたり、タリム盆地の西に位置する。一時期はタリム盆地一帯を支配したこともあった。.

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荀イク

荀 彧(じゅん いく、163年(延熹6年) - 212年(建安17年))は、中国後漢末期の政治家。字は文若(ぶんじゃく)。豫州潁川郡潁陰県(現・河南省許昌市)の人。『三国志』魏志「荀彧荀攸賈詡伝」、及び『後漢書』「鄭孔荀列伝」に伝がある。 若いことから才名をうたわれ「王佐の才」とも称揚され、後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した。しかし、曹操の魏公就任に反対した事で曹操と対立し、晩年は不遇だった。.

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荀爽

荀 爽(じゅん そう、128年 - 190年)は、字は慈明。一名に諝。潁川郡潁陰県(現・河南省許昌市)の人。後漢の政治家。荀淑の子。甥に荀彧。なお子に荀棐、その子に荀肸がおり、さらにその子には荀勗がいる。.

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荀悦

荀 悦(じゅん えつ、148年 - 209年)は、中国後漢末の人。字は仲豫。潁川郡潁陰県(現・河南省許昌市)の人。前漢を扱った編年史『漢紀』の編者。荀彧の従兄。.

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華佗

華 佗(か だ、? - 建安13年(208年))は、中国後漢末期の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な医師。字は元化。諱は不明。本籍は豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区。また河南省永城市という説もある)。「華陀」とも書く。なお、「華佗」とは「先生」を意味する尊称が人名として用いられたもの。高き医徳を積みつつも権力に屈する事を拒んだ事から非業の死を遂げたとされる。言語学的観点からイラン系胡人との説もある。.

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順帝 (漢)

順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。.

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袁宏

袁宏(えん こう、328年頃 - 376年頃)は、中国の東晋の文人・歴史家。『後漢紀』の編纂者として知られる。字は彦伯。本貫は陳郡陽夏県。.

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袁安

袁 安(えん あん、? - 92年)は、後漢初期の中国の官僚。字は邵公。汝南郡汝陽(現河南省商水県)の人で、袁安自身を含め4世代で5人の三公を出した後漢時代の名門汝南袁氏の始祖となった。袁賞、袁京、袁敞の父。.

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袁山松

袁山松(えん さんしょう、生年不詳 - 401年)は、中国の東晋の官僚・歴史家・音楽家。本貫は陳郡陽夏県。.

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袁紹

袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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袁隗

袁 隗(えん かい、? - 190年)は、中国後漢末期の人物。字は次陽。太傅・都郷侯。父は袁湯。兄は袁平・袁成・袁逢。子は袁満来・袁懿達・袁仁達。甥は袁基・袁紹・袁術・袁胤・袁叔ら。.

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袁術

袁 術(えん じゅつ/すい、? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将・政治家。 父は袁逢(司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗。 後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と称した。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。.

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袁譚

袁 譚(えん たん、? - 建安10年(205年))は、中国後漢時代末期の武将。字は顕思。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の人。父は袁紹。弟は袁煕・袁尚(母は劉氏)。袁尚とは異母兄弟と思われる。従兄弟は高幹。伯父は袁基(太僕)。一族は袁買。.

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裴松之

裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の人。字は世期。裴珪の子。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟・裴徽の6世の孫に当たるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。.

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西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

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馬融

融(ば ゆう、79年(建初4年) - 166年(延熹9年))は、中国後漢中期の学者・政治家。右扶風茂陵県(陝西省興平市)の人。字は季長。後漢の伏波将軍馬援の従孫。祖父は馬余(馬援の次兄)。父は馬厳(後漢の将作大匠)。兄に馬続。叔父に馬敦。娘の馬倫は袁隗の妻。従妹(馬敦の娘)は趙岐の妻。族子に馬日磾。『後漢書』に伝がある。.

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馬援

援(ば えん、紀元前14年 - 49年)は中国新末期から後漢初期の武将。字は文淵。諡は忠成。兄に馬況・馬余・馬員、その娘(馬皇后)は後漢第2代明帝の皇后となった。子孫に後漢末期・三国時代の武将の馬騰・馬超父子がいる。.

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馬武

武(ば ぶ、? - 61年)は、後漢の武将。字は子張(しちょう)。南陽郡湖陽県(河南省唐河県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の15位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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馬成

成(ば せい、? - 56年)は、後漢の武将。字は君遷(くんせん)。南陽郡棘陽県(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第17位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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馮勤

馮 勤(ふう きん、? - 56年)は、中国の後漢時代初期の政治家。字は偉伯。冀州魏郡繁陽県の人。曽祖父の馮揚は、宣帝の代の弘農太守。祖父は馮偃。父は馮伉。.

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馮異

馮 異(ふう い、? - 34年)は、後漢の武将。字は公孫(こうそん)。潁川郡父城県(河南省宝豊県)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第7位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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許劭

許 劭(きょ しょう、 和平元年(150年) - 興平2年(195年))は、中国後漢末期の人物批評家。字は子将。豫州汝南郡平輿県の人。従兄は許靖。兄は許虔(字は子政)。子は許混。族弟は許湯(陳国の相)。従姪(許靖の実兄の娘)の子は陳祗。一族の許敬・許訓・許相などは、皆三公まで昇っている。 18歳のときに謝甄の人物評価を受け、その後は自らも人物批評家としての活動を行うようになった(『三国志』)。若い頃は従兄と共に、月に一度に「月旦評」と呼ばれる人物評論会を開いていた(『後漢書』)。彼の影響力は絶大で、彼に称賛された者は出世し、称賛されなければ没落の道を辿ったといわれる(『太平御覧』)など、人物批評家として当時の一大家であった。現代においても、この許劭の故事に由来し、「月旦評」は人物の批評を意味するようになった。 同郷の袁紹は、許劭から批判されることを怖れて、その華美な装いを改めたという(『後漢書』)。また、若い頃の曹操も橋玄の薦めにより彼と会って自分を評価してもらい、「子治世之能臣亂世之奸雄」(『三国志』魏書武帝紀)または「君清平之奸賊亂世之英雄」(『後漢書』許劭傳)と称されている(現代日本語では「治世の能臣、乱世の奸雄」)。曹操はその人物評を聞いて、相当に喜んだという(『三国志』)。 その後、徐璆は彼を功曹として登用した。さらに曹操や楊彪など様々な人物が許劭を招聘しようとしたが、彼は全て断った(『後漢書』)。やがて、中央が戦乱に巻き込まれるようになると、難を避けて江南に移住した。劉繇の元にいた時期があり、劉繇が孫策に敗れると共に豫章へ落ち延び、曹操や劉表の助けを受けるよう勧めている。興平2年(195年)、病のために豫章郡で亡くなった。享年46。 彼の人物批評の手法は、対象が誰であっても憚らず、自らが善と見なす人物に対しては賞賛を与えるが、そうでない人物に対しては徹底的な批判を与えるというものであった。ただ、そういった手法に対して批判的な言説もあり、曹丕などは許劭のことを批判している(『三国志』)。そのほか蒋済なども、許劭の人物批評が私情を交えた不公平なものだと批判している(『三国志』)。というのもそれは、諸葛亮をはじめ王朗や蒋済など、多くの人士から尊敬を集めた許靖を、全く評価しなかったためである。許劭と許靖は、従兄弟同士でありながらその仲が険悪であり、許劭も人物批評の上では許靖を黙殺していたという。.

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許慎

許慎 許 慎(きょ しん、、58年? - 147年?)は、後漢時代の儒学者・文字学者。許沖の父。最古の部首別漢字字典『説文解字』の作者として知られる。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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高宗 (唐)

宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.

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謝沈

謝沈(しゃ しん、生没年不詳)は、中国の東晋の学者・歴史家。字は行思。本貫は会稽郡山陰県。.

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謝承

謝 承(しゃ しょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての人物。字は偉平。揚州会稽郡山陰県の出身。父は謝煚。叔父は謝貞。姉は謝夫人(孫権夫人)。子は謝崇・謝勗。孫娘は謝仙女。.

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魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。.

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鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

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鮑宣

鮑 宣(ほう せん、生年不詳-3年)は、前漢の人。字は子都。渤海高城(河北省塩山県)の人。.

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鮑永

鮑 永(ほう えい、? - 41年?)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は君長。并州上党郡屯留県の人。父は、哀帝の代の司隷校尉で、王莽に殺された鮑宣。弟は鮑升。子は鮑昱。.

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象牙

全形象牙。ほぼ全ての国で取引が禁止されているが、日本では自宅の押し入れや床の間から出てきた「押し入れ象牙」「床の間象牙」などの名目で流通しており、新作の根付や印鑑など幅広く活用されている 象牙(ぞうげ)とはゾウの長大に発達した切歯(門歯)である。.

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費長房 (後漢)

壺公と費長房(仙仏奇踪) 費長房(ひちょうぼう)は後漢の方士。汝南郡(現中華人民共和国河南省平輿県一帯)の出身であるが、生没年を含めて後漢時代の人という以外の大凡の生存年代も不明。 当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り、壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に3匹の虫が蠢く臭穢な糞を食すよう求められて遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る1巻の護符を授かって帰郷する。なお、山中での修行は僅か10日程であったが、地上での実歳月は10年以上を経るものであった。 帰郷後は治病に従事したり、壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して瞬時にに赴いてを買ったり、1日の中で数千里(1里はおよそ550米)を隔たる複数処を往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙の例に挙げている。.

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質帝

質帝(しつてい)は、後漢の第10代皇帝。父は渤海孝王・劉鴻。祖父は楽安王・劉寵。曽祖父は千乗王・劉伉。 沖帝が在位6ヶ月で崩御した後、梁冀により章帝の玄孫である劉纘が皇帝に擁立された。『後漢書』には梁冀とその一族による専権が強まり朝政は腐敗していたが、梁冀の権勢を恐れて誰も諫言を行おうとしなかったとある。梁冀の専横を不満に思った質帝が「跋扈将軍」と揶揄したために、梁冀により毒殺された。 Category:後漢の皇帝 Category:中国の幼君 Category:暗殺された人物 Category:138年生 Category:146年没.

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賈復

賈 復(か ふく、? - 55年)は、後漢の武将。字は君文(くんぶん)。南陽郡冠軍県(河南省鄧州市)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第3位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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賈ソウ

賈琮(かそう).

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賈逵 (漢)

賈 逵(か き、30年 - 101年)は、後漢時代の儒学者・天文学者。字は景伯。扶風平陵(現陝西省咸陽市西北)の人。 前漢の賈誼の9世の孫にあたる。父の賈徽は劉歆から『春秋左氏伝』を受け『左氏条例』21篇を作り、また『国語』『周官』を習った。そのほか塗惲からは『古文尚書』を、謝曼卿から『毛詩』を受けている。賈逵は父の業をことごとく受け継ぎ、弱冠にして『春秋左氏伝』や五経本文を暗唱したという。『左伝』の古文学を主としたが、『春秋穀梁伝』五家の学(尹更始・劉向・周慶・丁姓・王彦)にも通じていた。身長8尺2寸(約195cm)で諸儒は彼を「問事不休の賈長頭」と称した。 明帝の時、朝廷が神秘主義的な予言怪異の書、讖緯を好むのを利用し、『春秋左氏伝』を讖緯で説いた。また班固とともに校書郎に任じられ共に宮中図書の校定や東漢史の整理に当たっている。章帝は儒学好きで、特に『春秋左氏伝』『古文尚書』を好み、建初元年、賈逵は北宮白虎観、南宮雲台にてこれを講じた。また今文公羊家の李育を反駁したり、『古文尚書』を『爾雅』で訓詁したり、詔勅により『今文尚書』と『古文尚書』の異同、今文三家詩(『斉詩』『魯詩』『韓詩』)と『毛詩』の異同を集めたり、『周礼解詁』も作るなど古文学の地位を高めるのに貢献した。 また天文暦学に造詣が深く、元和年間、四分暦が施行された後、詔勅により賈逵が四分暦修正のための責任者となっている。また「賈逵論暦四則」(92年)として知られる優れた暦論を遺し月の運行の遅速などを指摘している。これは『後漢書』律暦志に記載されている。 著書には『春秋左氏伝解詁』『国語解詁』を始めとする経注や詩・頌・誄など多数存在した。そのほとんどが散佚して現在に伝わらないが、清の馬国翰の『玉函山房輯佚書』や黄奭の『漢学堂叢書』に集められている。また『左伝』に関する注釈の一部は清の劉文淇の『春秋左氏伝旧注疏証』に載せられている。 Category:中国の儒学者 Category:中国の天文学者 Category:1世紀から5世紀の学者 Category:漢代の人物 Category:30年生 Category:101年没 Category:天文学に関する記事.

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趙娥

趙 娥(ちょう が、生没年不詳)は、中国後漢の人物。父は趙安。龐子夏(子夏は字)の妻。子は龐淯。皇甫謐の列女伝では龐娥親とされている。 父が同じ県のに殺されたため、趙娥たち兄弟・姉妹は皆で復讐をしようと考えたが、次々に亡くなってしまった。李寿は自分の命を狙う者がいなくなったと喜んだという。しかし、その様子を龐淯から聞いた趙娥は己の手で復讐をすることを誓った。その後、名剣を買って夜な夜な剣を砥ぐようになったが、周囲の人々から馬鹿にされた。しかし趙娥は周囲の非難に屈せず、179年2月の白昼に李寿と遭遇した際、見事にこれを討ち取ってみせた。趙娥は李寿の首を持ってすぐに自首したが、全く裁かれなかった。このため、法を曲げずに罰するよう頻りに訴えたが、拒絶され強制的に家へ帰された。彼女の功績は称賛され、その列女ぶりを讃えて村の門には石碑が建てられたという。 Category:三国志の登場人物 Category:生没年不詳 Category:漢代の人物.

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趙岐

趙岐(ちょう き、? - 201年)は、後漢末の政治家、学者。『孟子』の注釈で知られる。.

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趙咨

趙 咨(ちょう し、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。呉に仕えた。字は德度。荊州南陽郡の人。.

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趙憙

趙 憙(ちょう き、紀元前3年? - 80年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は伯陽。荊州南陽郡宛の人。子は趙代。.

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車師

車師(しゃし、拼音:Jūshī)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。古くは姑師といい、漢代に車師前王国、車師後王国などに分かれ、シルクロード交易の要所として栄えた。 紀元前1世紀の西域諸国。.

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黄エン

(こう えん、141年 - 192年)は、中国後漢末期の人物。字は子琰。曾祖父は黄香。祖父は黄瓊(黄琼)。荊州江夏郡安陸県の出身。.

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黄瓊

(こう けい、86年 - 164年)は、中国後漢代の政治家、儒者。字は世英。「黄琼」とも呼ばれる。荊州江夏郡安陸県の人。尚書令・魏郡太守の黄香の子。黄琬の祖父。娘は黄景華。.

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黄香

香(こう こう、生没年不詳)は、中国後漢代中期の政治家、文人。字は文彊。江夏郡安陸県の人。中国の孝子を数える「二十四孝」の一人。父は黄況。子に黄瓊(黄琼)、曾孫に黄琬がいる。.

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辺譲

辺 譲(へん じょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。兗州陳留郡浚儀県(河南省開封市)の出身。字は文礼。 若くして能弁博学で文才があった。その作による章華賦は、楚の霊王の遊蕩を淫麗に描写しながら、最後にはこれを改め正すという作風で、司馬相如の如くと評された。 何進はその才を聞いて招聘しようとしたが、辺譲が恐れて応じなかったため、軍事の徴召(皇帝による招聘)と偽って呼び寄せ、自分の令史とした。 任官すると、何進は礼を以って辺譲に対応した。辺譲は占射(器の中身を易で当てる術。射覆)や弁論に秀で、賓客で堂を一杯にしたため、それを羨まない者はなく、孔融や王朗もこれを偵察した。また、蔡邕は辺譲を深く尊敬し、より高い任に付けるよう何進に薦めた。このため何進は、辺譲を高才として抜擢昇進させた。また九江太守にもなったが、これは辺譲の能力にそぐわない職責だった。 初平年間、董卓の乗政などで漢室が乱れると、官を去って郷里に帰った。後に曹操が兗州一帯を支配する事になるが、辺譲は自分の才気を恃んで曹操に屈せず、軽侮する言葉が多かった。建安年間、同郷人が辺譲のそのような態度を曹操に告発したため、曹操は郡に告げてこれを殺させた。 袁紹が曹操を破るために大動員を掛けた際の、陳琳の筆による檄文では「英才俊逸で天下に名の知られた辺譲が、曹操に対して直言を諂わなかったために晒し首となったことが、張邈・張超らの兗州の乱に繋がった」としている。但し、後漢書本伝による辺譲の死は建安年間(196年-220年)であり、興平元年(194年)の兗州の乱とは時期が合わない。.

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霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.

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霊思何皇后

何皇后(かこうごう ? - 189年)は、中国後漢の霊帝の皇后で、諱は不明。諡は思で、諡号としては夫の諡を重ねて霊思皇后。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の出身。父は何真。母(舞陽君)は何真の後妻。子は少帝弁。異母兄は何進。異父兄は何苗(朱苗)。妹は張譲の子(養子?)の妻。 身長は七尺一寸(約163cm)。屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝い手で後宮に入った。後宮に入った後、霊帝の寵愛を受け、男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、妃嬪たちは皆彼女を恐れていた。 霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた(180年)。父に車騎将軍と爵位が追贈され、母にも舞陽君の称号が贈られた。 霊帝の寵妃であった王美人が劉協(献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺した。霊帝が激怒し、何氏は廃されそうになったが、宦官の取りなしにより何とか免れた。 189年、霊帝の崩御後に少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。政敵であった姑の董太后との争いに勝ち、董太后を洛陽から追放し、幽殺した。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官(十常侍)が争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、何苗と共に何進の計画に反対した。結果、何進と十常侍が政争で共に滅び、また何苗も殺害されてしまい、洛陽に入った董卓が権限を手中にすることとなった。 董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就かせた。さらに董卓は何太后に対し、かつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行ないだと問責した上で、永安宮に幽閉して、後に殺害した。何太后が霊帝の陵に合葬されると、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという(董卓伝)。.

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范曄

范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。.

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郭丹

郭 丹(かく たん、紀元前24年 - 62年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は少卿。荊州南陽郡穣県(河南省鄧州市)の人。父の郭稚は、成帝の代に廬江太守となり、清廉をもって名声があった。.

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郭キュウ

郭 伋(かく きゅう、紀元前38年 - 47年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は細侯。司隷右扶風茂陵県の人。父は蜀郡太守の郭梵。.

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郭聖通

郭 聖通(かく せいつう)は、後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の皇后。諡は武、光武郭皇后。冀州真定国稾県の人。.

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郭泰

郭 泰(かく たい、128年 - 169年)は、中国後漢代の儒者。字は林宗。太原郡界休県の人。当時の名儒を数え上げた八顧の一人。後漢書では、編者の范曄が父の諱を避けて「郭太」「郭林宗」と表記される。.

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蘇竟

蘇 竟(そ きょう、生没年不詳)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は伯況。司隷扶風平陵県の人。.

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薛瑩

薛 瑩(せつ えい、? - 282年)は、中国三国時代の呉の政治家。字は道言。豫州沛郡竹邑県(安徽省濉渓県)の人。父は薛綜。兄は薛珝。子は薛兼。孫は薛顒。.

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董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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董扶

董 扶(とう ふ、生没年不詳)は、中国後漢末期の官僚。益州広漢郡綿竹県の出身。字は茂安。『後漢書』方術伝に記述がある。 太学で儒学を学ぶ一方で、同郷の学者の楊厚に師事し、同門の任安と共に図識(天文による予言の一種)を学び、名声をほしいままにした。 仕官の誘いを断り続けていたが、霊帝の時代に何進の招聘を受け入朝し、侍中に任命された。劉焉が朝廷内の混乱を避けたいと考えていた折、交趾行きを希望する劉焉に対し、董扶は密かに「益州には天子の気がある」と進言した。これを聞いた劉焉は、自ら益州牧になることを願い出て認められた。この時に董扶は蜀郡都尉に任じられ、これに同行し故郷への帰還を果たした。後に朝廷が戦乱で乱れたことを聞き、官を退いて引退した。82歳で没した。 とう ふ.

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邪馬台国

邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが又問耶馬臺耶摩堆之号若各有心哉?答師説雖有三号、其義不異。皆取称倭之音也。(釈紀第一 開題)、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した『外国之事調書』新井白石。ただし未公刊の草稿であることから、流布した経緯は不詳。、ことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。.

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蓋延

蓋 延(がい えん、? - 39年)は、後漢の武将。字は巨卿(きょけい)。漁陽郡要陽県(河北省豊寧満族自治県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の11位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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蔡ヨウ

蔡 邕(さい よう、132年または133年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい)。兗州陳留郡圉県の人。父は蔡棱。娘は蔡琰。従弟は蔡谷。外孫は羊徽瑜(西晋の景献皇后)・羊祜。.

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蔡エン

蔡琰 蔡 琰(さい えん、177年(熹平6年)? - 249年(嘉平元年)?後述))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡邕。甥は羊祜。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。.

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蔡倫

蔡倫 蔡 倫(さい りん、50年? - 121年?)は、後漢の宦官。桂陽(現在の湖南省耒陽市)生まれで、字を敬仲といった。 後漢は外戚と宦官の間で国家権力掌握を激しく争ったが、鄭衆と蔡倫はその初期の人物である。 また、木や竹、絹の布などに文字が書かれていた時代で製紙法を改良し、実用的な紙の製造普及に多大な貢献をした人物として知られている。.

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蔡茂

蔡 茂(さい も、紀元前24年 - 47年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は子礼。司隷河内郡懐県の人。.

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鄭玄

鄭 玄(てい げん、127年(永建2年) - 200年(建安5年))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。字は康成。祖父は鄭明。父は鄭謹。子は鄭益(字は益恩)。孫は鄭小同(字は子真)。.

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鄭衆 (大司農)

鄭衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の政治家、学者。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。 字を仲師という。大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない。有名な宦官の鄭衆とも関係はない。.

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鄭衆 (宦官)

鄭衆(てい しゅう、? - 114年)は、後漢の宦官。和帝と協力して外戚の竇憲を誅殺したことで知られる。後漢末まで国家の患いとなった外戚と宦官の対立は鄭衆にはじまる。 大司農になった後漢初の鄭衆とは無関係。.

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鄭泰

鄭 泰(てい たい、 生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。司隷河南郡開封県の人。曾祖父は鄭衆。弟は鄭渾。子は鄭袤。尚書侍郎・奉車都尉・議郎・揚州刺史を務めた。『後漢書』に伝がある。 計略に優れた人物との評判があった。何進の招聘を受け、その側近となり活動した。いち早く董卓の危険性を見抜き、何進が董卓と結ぶことに反対したが、進言が容れられることはなかった。何進暗殺後の政変の結果、董卓が政権を握ると、表面上は忠実な振りをしつつ董卓の打倒を謀った。まず、逃亡した袁紹を赦免させ勃海太守に任命させた。そして反董卓連合軍が挙兵すると、関東の諸侯についての情報を董卓に伝え、自分に軍勢を率い討伐させることを要求した。しかし、かえって警戒され軍権を取り上げられた。後に長安への遷都に同行し、董卓暗殺を荀攸や何顒と結び計画し謀議をめぐらせたが、発覚してしまった。しかし、荀攸達のように投獄されることはなかった。董卓死後、李傕の長安進攻時には武関を通って逃走し、袁術の下へ逃れた。後に袁術から揚州刺史に任命されたが、任地へ赴く途中で病死した。41歳であった。 弟は袁術の下を離れ、曹操に仕えて功績を挙げたため、魏書に立伝されている。.

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臧宮

臧 宮(ぞう きゅう、? - 58年)は、後漢の武将。字は君翁(くんおう)。潁川郡郟県(河南省郟県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の14位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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臧洪

臧 洪(ぞう こう、? - 196年)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子源。徐州広陵郡射陽県(江蘇省宝応県)の人。父は、匈奴中郎将・中山太守・太原太守などの臧旻。.

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耿エン

耿 弇(こう えん、3年 - 58年)は、後漢の武将。字は伯昭(はくしょう)。扶風茂陵県(陝西省興平市)の人(『後漢書』列伝9・本伝)。父は上谷太守の耿況。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第4位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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耿国

耿 国(こう こく、? - 58年)は、中国の後漢時代初期の政治家。字は『後漢書』では叔慮、『東観漢記』では叔憲となっている。司隷扶風茂陵県(陝西省興平市)の人。雲台二十八将の1人である耿弇の弟。父は耿況、次兄は耿舒、弟は耿広、耿挙、耿覇。子に耿秉、耿夔、子孫に耿紀がいる。.

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耿秉

耿 秉(こう へい、? - 91年)は、中国の後漢時代初~中期の軍人。字は伯初。司隷扶風茂陵の人。雲台二十八将の耿弇の弟である耿国の子で、後漢代の対外戦争に活躍した。子は耿沖、曾孫は耿紀。諡は『後漢書』では桓侯、『後漢紀』では壮侯。.

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耿純

耿 純(こう じゅん、? - 37年)は、後漢の武将。字は伯山(はくざん)。鉅鹿郡宋子県(河北省趙県)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の13位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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陰識

識(いん しょく/いん しき、? - 59年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将・政治家。後漢草創期の功臣の一人である。字は次伯。荊州南陽郡新野県の人。陰皇后(陰麗華)の異母兄で、光武帝の義兄。父は陰陸。異母弟に陰興、陰訢、陰就。子に陰躬。従祖兄弟に陰嵩。管仲の末裔とされる。.

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陰麗華

麗華(いん れいか、5年 - 64年)は、後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈(夫の諡を重ねては光烈皇后という)。異母兄に陰識、同母弟に陰興、陰訢、陰就がいる。 劉秀と同じ南陽郡(今の河南省と湖北省にまたがる)の新野県出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙兵前の光武帝もあこがれるほどであったという。更始1年(23年)に劉秀に嫁いだ。 建武1年(25年)に劉秀が即位すると貴人として洛陽に迎えられた。しかしこの時、光武帝が後に娶った郭昌の娘の郭聖通(郭貴人)が先に男子の劉彊を産んでいた。光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思うものの、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。 建武2年(26年)に劉彊は皇太子になり、郭貴人が皇后に立てられた。建武4年(28年)、陰麗華は劉荘を産んだ。建武17年(41年)に、郭皇后がそのわがままな性格から、光武帝に疎まれるようになり皇后を廃されたため、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられることになった。 建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位し、陰麗華は皇太后となる。陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であったという。また、己の一族には政治に関与させないようにした聡明な女性でもあった。このため、明帝皇后の馬皇后と並んで、中国史上でも優れた皇后の一人として称えられている。.

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陳寔

陳 寔(ちん しょく、104年 - 187年)は、後漢の人。字は仲弓である。 子に陳紀。三国時代の陳羣は孫。陳霸先や玄奘三蔵や小説家陳舜臣の祖先ともされる。潁川郡許県の出身。太丘県の長を務めていたので陳太丘とも呼ばれた。潁川陳氏の高祖であり、潁川清流派の中心人物でもある。 貧しい家に生まれた陳寔は若い頃から学に親しみ、また公平無私で寛容な政治を行ったので民からすこぶる評判がよかったが、宦官の専横に反対したため、党錮の禁を受けることとなる。官を辞した後は郷里で隠居していたが、その村人達は訴訟事が起これば彼に裁断を求め、そのとき陳寔は道理を以って解決した為、郷里の人々は誰も彼を怨むことが無く、『陳寔様に正しくないと言われるくらいなら、むしろ刑罰を受けるほうがましである』と言わしめた。 後に禁が解けると何進らは人を遣って陳寔を官職に召し出そうとしたが、出仕することを拒み、そのまま亡くなった。その葬式の際には国中から参列者が3万人集まったという。また、喪に服した者も韓融、荀爽らをはじめ100人を超えた。.

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陳俊

陳 俊(ちん しゅん、? - 47年)は、後漢の武将。字は子昭(ししょう)。南陽郡西鄂県(河南省南陽市臥竜区)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第19位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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陳紀

陳紀(ちんき).

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陳蕃

陳 蕃(ちん はん、99年以前 - 168年)は、後漢の政治家。字は仲挙、汝南平輿(現在の河南省平輿県)の人。子に陳逸。『後漢書』に伝がある。.

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陶謙

陶 謙(とう けん、陽嘉元年(132年) - 興平元年(194年))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は恭祖。揚州丹陽郡の人。『後漢書』と『三国志』魏志に伝がある。.

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陸康

康(りく こう、126年 - 195年)は、後漢末期の人物。字は季寧。呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。祖父の陸続は、後漢書独行伝に伝が立てられている。父は陸褒。子に陸儁・陸績。孫に陸尚(孫権の徐夫人の前夫)・従孫に陸遜がいる。.

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恵棟

恵 棟(けい・とう、康熙36年10月5日(1697年11月18日) - 乾隆23年5月22日(1758年6月27日))は中国・清代中期の儒学者。字は定宇、松崖と号し小紅豆先生と称される。戴震に始まる皖派とともに、呉派の創始者として清朝漢学を大成する。.

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李弘 (唐)

李 弘(り こう、651年か652年? - 675年)は、中国・唐の皇太子。父は3代皇帝高宗、母は武照(武則天)。はじめ代王。義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られた。同母弟に李賢(章懐太子)、4代皇帝中宗、5代皇帝睿宗らがいる。.

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李忠 (漢)

李 忠(り ちゅう、? - 43年)は、後漢の武将。字は仲都(ちゅうと)。東莱郡黄県(山東省竜口市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第25位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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李固

李固(り こ、93年-147年)は、後漢時代の中国の学者、政治家。字は子堅。父は司徒であった李郃、少子は李燮、娘は李文姫。.

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李賢 (唐)

李賢(り けん、永徽5年(654年) - 文明元年(684年))は、中国・唐の皇太子。高宗の六男で、母は武則天。字は明允。諡号は章懐太子(しょうかいたいし)。中宗、睿宗の同母兄である。.

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李膺 (後漢)

李 膺(り よう、生年不明 - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李瓚。生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。.

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李通 (次元)

李 通(り つう、? - 42年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。後漢草創期の功臣の1人。字は次元。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の人。父の李守は、身長9尺で、容貌は非常に奇異、性格は厳粛にして剛毅で、家中でも公務と同様に厳粛であった。家は代々商業を営んでいた。妻は光武帝(劉秀)の妹劉伯姫(寧平長公主)。従弟は李軼、李松、李汎。子は李音、李雄。日本語での読みには、「り とう」もある。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。.

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李恂

李 恂(り じゅん)は、五胡十六国時代の西涼の第3代(最後)の君主。公としては正式に即位しておらず、涼州刺史を称した。.

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李憲 (後漢)

李 憲(り けん、? - 30年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。豫州潁川郡許昌県の人。.

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李慈銘

李 慈銘(り じめい、Li Ciming、1830年 - 1895年)は、字は愛伯、李慈とも呼ばれる。号は蒓客、清末の詩人・歴史家。書斎を越縵堂と名付けたことから、越縵先生と呼ばれる。.

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条支国

條支国(じょうしこく)は、中国の歴史書に登場する国名。西域に存在していたといわれる。 後漢書に班超の部下である甘英がたどり着いた国として登場する。この「條支国」は現在のシリアに存在していた国家だといわれている(一説にはカラケネ王国のことを指したものだという)。史記「大宛伝」には次のように記されている。「條支は西海に臨み、暑くて湿度が高い。田畑を耕してイネを植えている。大きな鳥がおり、その卵は甕のようだ」。ほかに、『旧唐書 巻194下 突厥伝』には「武徳三年、遣使貢條支巨卵。」という記述がある。このことから、條支は620年(武徳3年)前後に存在した異民族王朝の一つではないかとも考えられている。ただし、両者の記述の間には数百年の隔たりがあるため、果たして同一の対象を指したものなのかについては疑問の残るところである。 中国産の絹織物は当時のオリエント一帯を支配したパルティア王国やローマ帝国において非常に好まれた。甘英は一説にはローマ帝国と直接交易を行う道を求めて西進したとされるが、シリアまで到達した段階で中継貿易による利益が失われるのを恐れたパルティア人の案内人によってローマはまだ遥か彼方であると教えられ、やむなく引き返したという。 Category:シルクロード.

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来歙

来 歙(らい きゅう、? - 35年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。後漢草創期の功臣である。字は君叔。荊州南陽郡新野県(河南省新野県)の人。武帝時代に光禄大夫を務めた来漢の6世の子孫。父は、哀帝時代に諫大夫を務めた来仲。また、来仲の妻は、光武帝(劉秀)の祖父の姉妹である。妹の夫は劉嘉。弟は来由。子は来褒。.

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東観漢記

『東観漢記』(とうかんかんき)は、後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書。もと143巻であったが、のちに失われ、現在見ることができるのは清代以降に佚文を集めたものである。 後漢一代を紀伝体によって記す。官撰によって編纂された。書名は後漢宮城の南宮東観にて編纂が行われたことにちなむ。後漢時代についての基本的な史料の一つであり、史料的価値は高い。 三国時代以後、司馬遷『史記』・班固『漢書』と並び重んじられ、合わせて「三史」と尊ばれたが、唐代以後はこれに范曄『後漢書』が取って代わるようになる。.

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杜茂

杜 茂(と も、? - 43年)は、後漢の武将。字は諸公(しょこう)。南陽郡冠軍県(河南省鄧州市)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第20位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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杜林

杜 林(と りん、? - 47年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、学者。字は伯山。司隷右扶風茂陵県(陝西省興平市)の人。父は成帝、哀帝の代の涼州刺史を務めた杜鄴。弟は杜成。子は杜喬。.

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桓帝 (漢)

桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝。章帝の曾孫、河間王劉開の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼の子。弟は渤海王劉悝、平原王劉碩。順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の6世孫(寇栄の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ『後漢書』寇恂伝付寇栄伝。。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。.

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桓焉

桓 焉(かん えん、? - 143年)は後漢の官僚で今文経の学者。字は叔元。沛国竜亢(現在の安徽省懐遠県)の人で、太常桓栄の孫、太常桓郁の子にあたる。後漢ではいわゆる「累世帝師」の家柄で著名である。家学は今文経で後漢では皇帝家の学でもあった「欧陽尚書」を教授する宗家的存在の家である。 若くして「父任」いわゆる任子によって郎中となった。安帝即位の年である永初元年(107年)、安帝の侍講(学門の教師)となった。後に侍中・歩兵校尉に遷った。永寧元年(120年)に劉保(後の順帝)が立太子された際、太子少傅となった。一か月もたたないうちに太子太傅に遷ったが、後に母の死にともない辞職を願い出た。官を去ることなく大夫(散官)の服喪が許可された。年が改まるとともに詔を下して使者をつかわし牛酒を賜い、服喪期間を切り上げさせて、光禄大夫とした。その後、太常に遷った。 安帝の末、延光3年(123年)、外戚閻氏、乳母王聖および宦官の一党とそれに迎合する官僚集団と、それらに対抗する官僚集団で対立があった。これは太尉楊震の自殺という結末で終わる。この際、楊震ら一党を支持していた九卿等の官僚は皇太子(順帝)の側近集団とも交友関係があり、王聖ら一党は、安帝死後に彼らの巻き返しがあることを恐れて、廃太子を計画した。三公はすでに楊震の死を以て王聖らに迎合する官僚によって占められていたため、九卿がこれに反発した。主に太常の桓焉、太僕来歴、廷尉張晧らがこれに反発するも、結局廃太子が実行されることとなった。光禄勲祋諷以下、順帝時代に三公に進むことになる、時の中堅官僚層が反発に鴻都門において非を訴えるも覆ることはなかった。 その後安帝が崩御し、孫程らのクーデターの後、順帝が即位し、当時太傅・三公にあった王聖等に迎合した官僚が一掃されると太傅となり太尉朱寵と「尚書の事を録した(録尚書事)」。あわせて再び侍講し、宴会の席で三公・尚書を省事(せいじ)に参加させるよう建言し、初めてそれが実行されることとなった。これは後漢制度史上の一大転機と言えるであろう。この際、侯爵に封ぜらたが、固辞している。太傅は前漢の三公同様、有爵者であることが理想であったが、後漢に於いては太傅就任後、爵位を得ることが多かった。しかしそれも固辞した希有な例である。 永建2年(127年)、禁錮(出仕禁止)者を辟召して官吏とした罪で罷免され、光禄大夫に遷った。陽嘉2年(133年)、大鴻臚、太常と遷官し、永和5年(140年)、太尉となった。この間、陽嘉4年(135年)には梁商を大将軍とする際の使者となり、梁商を政権内に参画させている。漢安元年(142年)、日食を理由に策免された。以後は無官で翌年、死去した。 弟子は数百名を数える。弟子の中には桓帝時代、梁冀の専横に歯止めをかける黄瓊や、霊帝時代、霊帝の侍講となり、また政治的影響力を持つにいたる楊賜などがいる。 Category:漢代の人物 Category:143年没.

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桓譚

桓譚(かん たん)は、前漢末から後漢はじめにかけての政治家、思想家、音楽家。当時流行していた讖緯(しんい)などの迷信的な儒学に正面から反対した。主な著書に『新論』(しんろん)がある。 字の君山で呼ばれることも多い。.

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梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.

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梁女瑩

梁 女瑩(りょう じょえい、? - 160年)は、後漢の桓帝の1番目の皇后。義理の姑であった順烈皇后(順帝の皇后)の妹、また梁冀の妹である。.

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梁冀

梁 冀(りょう き、? - 159年)は、後漢の政治家、外戚。字は伯卓。 安定郡烏氏県の人。後漢草創期の功臣の1人梁統の玄孫、梁竦の曾孫である。祖父は梁雍。父は梁商(和帝の生母・梁貴人の甥)、妹は順帝の皇后梁妠(妠は女偏に内)、桓帝の皇后梁女瑩。 子は襄邑侯・梁胤、孫は城父侯・梁桃(梁胤の子)。.

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梁統

梁 統(りょう とう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。字は仲寧。涼州安定郡烏氏県の人。河西に勢力を張った新末後漢初の群雄の1人である竇融の片腕と言うべき人物。後に後漢草創期の功臣の1人となった。 春秋時代の晋の大夫梁益の末裔。父は梁延。兄は梁巡。子は梁松、梁竦。従弟は梁騰。梁統の祖先は元々は河東郡に居住していたが、梁統の曾祖父梁橋の代(哀帝・平帝の末)に安定に移住した。後漢後期の外戚・権臣である梁冀は梁統の玄孫(梁竦の曾孫)にあたる。.

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梁松

梁 松(りょう しょう、? - 61年?)は、後漢時代初期の政治家。字は伯孫。父は梁統。妻は光武帝の娘の舞陰長公主劉義王。弟は梁竦。子は梁扈。涼州安定郡烏氏県の人。.

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楊彪

楊 彪(よう ひょう、142年 - 225年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家、学者。字は文先。司隷弘農郡華陰県(陝西省華陰市)の人。曾祖父は楊震。祖父は楊秉。父は楊賜(臨晋侯)。子は楊修。妻は袁術の妹。.

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楊修

楊 修(よう しゅう、175年中国『三国志全人名事典』、P349 - 219年)は、中国後漢末期の政治家。字は徳祖。「楊脩」とも表記される。司隷弘農郡華陰県(陝西省華陰市)の人。曾祖父は楊震。祖父は楊賜。父は楊彪。子は楊囂。孫は楊準。母は袁術の妹。『三国志』魏志「曹植伝」、およびその注に引く『典略』などに記録がある。 名門の子弟として生まれ、曹操に仕えその才能を愛されたが、曹氏の後継者争いで曹植に味方したため、その才能を警戒され殺害された。.

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楊賜

楊 賜(よう し、? - 185年)は、後漢の驃騎将軍、司空、臨晋文烈侯。字は伯献(または伯猷)。 「四世三公」や「四世太尉」として著名な弘農楊氏の出である。楊賜は祖父の楊震、父の楊秉、子の楊彪と同じく三公に至っている。また霊帝時代の国三老(郡国の国ではなく漢の三老、時期は異なるが、霊帝の時代では袁逢と楊賜の2人が三老)で、同時代最も影響力のある官僚の一人だった。霊帝の侍講になったことがあり、また楊氏ではじめて封爵された人物でもある。 太尉楊秉の長子にあたり、若いころから家学の「欧陽尚書」を授けられた。大将軍梁冀に辟召されるが父同様、梁冀を嫌っていた事から陳倉令に除任された。陳倉令に就くことなく、公府の辟召や、徴辟を悉く受けなかった。その後、司空府に辟召され、その掾属となり、高第に挙げられ侍御史となり、侍中・越騎校尉を歴任した。 その後、霊帝が立つと沛国桓氏の教授していた「欧陽尚書」に通じている者として三公に選ばれ、霊帝の侍講となった。霊帝の初めには少府・光禄勲など九卿(大臣)の職に遷り、同世代で婚姻関係があり、政治的にも路線が同じだった袁逢・袁隗等と朝廷に於いて影響力を発揮しつつあった。 その後、司空、司徒、太尉を歴任し、三公を策免された際は、光禄大夫などの職にあったが、秩石は中二千石(光禄大夫の本来の秩石は比二千石)であり、特別待遇を受けていた。九卿の頃、党錮があったが、これには連座していない。 ひところ言われた党錮に連座した者が「清流」で、朝廷に残ったものは「濁流」という発想は近年、批判対象となることが多くなった。霊帝時代の三公に言える特徴だが、前代の宰相大臣と同じく「名臣」と称されている者が、必ずしも党錮に坐した者と共通の利害があったわけではない。ただし、霊帝時代の「名臣」は党錮で巻添えをうけた陳寔等の「儒學行義」者に対しては積極的な庇護をおこなっている。 楊賜の場合は、三公にある頃、本来出仕禁止の党人を辟召したことから三公を罷免されている。史料に残っている中で、党錮が解かれていない中で党人を辟召したのは楊賜と袁逢の二人である(陳耽も辟召した可能性がある)。 また蔡邕とともに曹節、王甫を批判した事から、罪に抵てられたが、師傅の恩によって特別に許された。他にも苑囿を築造する際や張角が挙兵する前の討伐など、多く上奏したが、霊帝の政策に反映されることはなかった。前者は嫌っていた鴻都門学出身の楽松の意見を霊帝が鵜呑みにしたため、また後者は上奏文を省みなかったためである。 鴻都門学に対する批判は、政治的に立場が遠い陽球も別に批判しており、士大夫からは評判が悪かった。また張角の問題については、その嫌っていた鴻都門学生を巻き込んで反対したが、今度は宦官によって阻まれる事になった。 張角の挙兵後、楊賜の意見があったことを霊帝が閲覧し、侍講の功とあわせて臨晋侯に封ぜられた。この封爵はあくまで侍講の功というのが重要であったようで、ともに侍講の任にあった劉寛および張済にも封爵するよう上書し、許されている。なお、この侍講の功による封爵ということによって、恩沢侯として扱われ、曹操執政の頃に爵土を奪われている。 185年(中平2年)、また司空となってすぐに薨じた。特進を追贈され、驃騎将軍・司空の印綬が贈られた。後漢後期より印綬追贈がはじまるが、司空印綬の追贈は楊賜のみである。この際の使者は左中郎将の郭儀であった。 霊帝時代、名実ともに影響力が有り、士大夫層からも支持され、儀礼の上でも特別待遇を受けていたのは、この楊賜と袁逢の二人であり、また霊帝時代、印綬が追贈されたのはこの二人のほかは、侍講の任にあった劉寛、張済を含めた四名である(袁逢・劉寛は特進の追贈と車騎将軍印綬、張済は車騎将軍印綬の下賜。袁逢のみ使者の位が判っており、袁逢の場合は五官中郎将。なお文書形式は策書であった。但し策書については、死後追贈の場合、公・孤でなくとも、卿・大夫にも見られる)。 宰相(司空、士大夫では最高のもの)を葬する際の儀礼にのっとり、中謁者陳遂、侍御史馬助、桓典らが取り仕切り、三公九卿尚書三臺以下が会葬した。臨晋侯の爵土は楊彪が嗣いだ。 Category:漢代の人物 し Category:2世紀生 Category:185年没.

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楊震

楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の政治家。字は伯起。楊牧、楊里、楊秉、楊譲、楊奉らの父。楊賜、楊敷(楊奉の子)の祖父。楊琦、楊彪、楊衆(楊敷の子)の曾祖父。楊亮・楊修の高祖父。弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の出身。『後漢書』に伝がある。.

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樊宏

樊 宏(はん こう、? - 51年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家。字は靡卿。荊州南陽郡湖陽県の人。父は樊重。弟に樊丹、姉妹に樊嫺都(劉欽の妻)、子に樊儵、樊鮪、樊茂、甥(兄の子)に樊尋がいる。光武帝(劉秀)、劉縯らの舅(母方のおじ)にあたり、また劉賜の義弟(劉賜の妹が樊宏の妻)にあたる。.

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橋玄

橋 玄(きょう げん、永初3年(109年) - 光和6年(183年))は後漢代の政治家。字は公祖。梁国睢陽県(河南省商丘市睢陽区)の人。七代前の祖、橋仁は前漢の大鴻臚。祖父の橋基は広陵太守、父、橋粛は東莱太守。息子の橋羽は任城相。族子に橋瑁がいる。.

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欧陽歙

欧陽 歙(おうよう きゅう、? - 39年)は、後漢の儒学者・政治家。字は正思。楽安千乗の人。.

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武則天

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.

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歴史書

歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.

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殤帝 (漢)

殤帝(しょうてい)は、後漢の第5代皇帝。 後漢の第4代皇帝和帝は多くの皇子をもうけたが、いずれも夭折していた。宦官、外戚による謀殺の疑惑を抱いた和帝は、皇子を民間で養育することとした。元興元年(105年)12月、和帝が崩御した際、長子の劉勝は病気を理由に即位が見送られ、劉隆が宮廷に迎えられて皇帝に即位した。劉勝は殤帝即位と共に平原王に立てられた。 即位した殤帝は生後100日余りであり、朝政は外戚の鄧氏(和帝の皇后だった鄧綏と、その兄の車騎将軍鄧騭)により掌握された。翌延平元年(106年)8月辛亥、病気により崩御し、夭折を意味する「殤」を諡号に贈られた。 中国の歴代皇帝のうち、最年少の皇帝である。 Category:後漢の皇帝 Category:中国の幼君 Category:105年生 Category:106年没.

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永初 (漢)

永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号。107年 - 113年。.

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永楽大典

永楽大典(えいらくたいてん)とは、中国明代に編纂された中国最大級の類書のことである。22,877巻・目録60巻・11,095冊からなる。1408年(永楽6年)に成立した。.

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汲古書院

株式会社汲古書院(きゅうこしょいん)は、日本の学術出版社である。主に日本古典・古典中国文学の学術研究に加え、文献学・書誌学の出版・販売を手掛ける。発足に大きく関わった長沢規矩也の「著作集」を始め、2001年から約15年かけ『後漢書』全訳書(全19冊)を刊行した。 中国からの古典・学術図書の輸入をしていた大安の活動を引き継いでいる。 同じ性格を持つ出版社に研文出版がある。.

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沃沮

沃沮(よくそ、옥저)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。.

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沖帝

沖帝(ちゅうてい)は、後漢の第9代皇帝。 順帝の子として生まれ、144年(建康元年)に立太子される。同年に順帝が崩御すると、わずか2歳で即位した。幼少のため、外戚の梁氏により朝政は掌握され、朝政腐敗と民衆の負担増による不満により九江などで叛乱が発生している。145年、3歳の沖帝は病死したが、外戚の梁冀による毒死も噂された。 Category:後漢の皇帝 Category:中国の幼君 Category:143年生 Category:145年没.

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渡邉義浩

渡邊 義浩(わたなべ よしひろ、1962年1月4日 - )は、日本の中国史学者、早稲田大学教授。 東京都生まれ。1991年、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。「後漢国家の支配と儒教」で文学博士。北海道教育大学講師、大東文化大学文学部助教授・教授、早稲田大学文学学術院教授。専門は中国古代史。三国志学会事務局長。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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漢委奴国王印

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。.

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服虔

服 虔(ふく けん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。字は子慎。司隸河南郡滎陽県の出身。『春秋左氏伝』・『漢書』の注釈で有名な大儒。.

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朱コ

朱 祜(しゅ こ、? - 48年)は、後漢の武将。字は仲先(ちゅうせん)。南陽郡宛県(河南省南陽市)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第8位に序せられる(『後漢書』列伝12)。.

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朱儁

朱 儁(しゅ しゅん、? - 195年)は、中国後漢末期の武将、政治家。字は公偉。揚州会稽郡上虞県(浙江省紹興市上虞区)出身。子は朱符・朱皓。『後漢書』に伝がある。.

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朱浮

朱 浮(しゅ ふ、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家または武将。字は叔元。徐州沛郡蕭県の人。父は沛郡の役人朱詡。.

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月氏

月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。 紀元前3世紀、秦帝国と北方民族。.

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明帝 (漢)

明帝(めいてい)は、後漢の第2代皇帝。.

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明徳馬皇后

馬皇后(ばこうごう、40年 - 79年8月16日)は、後漢の第2代皇帝明帝の皇后。諡は徳、諡号としては、夫の諡を重ねて明徳皇后(めいとくこうごう)。武将として光武帝の漢朝再興に貢献した馬援の娘である。 光武帝皇后の陰麗華と共に、歴代でも屈指の賢夫人とされ、政治に対しての介入は一切せず、親類が外戚として権力を振るうことを押さえ込んだ。ゆえに光武帝・明帝の2代には後漢朝の通弊である外戚禍がほとんどなかった。ただその馬皇后も一度だけ権力を私的に使ったことがある。前漢の時代に反乱を起こした一族の馬何羅のことを『漢書』に載せないで欲しいと班固に頼んだのだが、班固はこれを断った。ただし、『漢書』で馬何羅を「莽何羅」と記していることが多いのは、馬皇后らとの関係を隠蔽しようとしたからである可能性がある。 は めいとく Category:馬氏 Category:40年生 Category:79年没.

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文帝 (南朝宋)

文帝(ぶんてい)は、南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟に当たる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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更始帝

更始帝(こうしてい)は、新末後漢初の緑林軍による更始政権の皇帝。姓は劉、諱は玄。南陽郡蔡陽県(現在の湖北省棗陽市西南)の人。元来は前漢の宗室であり、祖父は蒼梧郡太守の劉利、父は劉子張で、光武帝劉秀の族兄に当たる。正室は趙萌の娘。側室は平林の豪族の娘・何氏と韓氏。子は劉求・劉歆・劉鯉(寿光侯)。孫は劉巡(求の子)、曾孫は劉姚(巡の子)。.

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曹節 (宦官)

曹 節(そう せつ、? - 181年)は、後漢の宦官。南陽郡新野県の人。字は漢豊。『後漢書』「宦者列伝」に記録がある。従子に曹紹。.

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曹騰

曹 騰(そう とう、生没年不明)は、中国後漢末期の宦官。字は季興。沛国譙県の人である。曹萌(曹節)の子。曹褒の弟。曹鼎の兄。子供を作れない宦官のため血の繋がりはないが、曹嵩(曹操の父)の養父。三国時代の魏の武帝曹操の祖父。諡号は高皇帝。『後漢書』「宦者列伝」に伝がある。.

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景丹

景 丹(けい たん、? - 26年)は、後漢の武将。字は孫卿(そんきょう)。馮翊櫟陽県(陝西省西安市閻良区)の人。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第10位に序せられる。.

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107年

記載なし。

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147年

記載なし。

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166年

記載なし。

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189年

記載なし。

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2001年

また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.

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2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

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398年

記載なし。

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432年

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445年

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57年

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