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律令制と日本

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律令制と日本の違い

律令制 vs. 日本

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。. 日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

律令制と日本間の類似点

律令制と日本は(ユニオンペディアに)共通で47ものを持っています: 壬申の乱大宝 (日本)大宝律令大和国天子天皇天武天皇天智天皇太上天皇奈良時代封建制岩波書店平安時代建武の新政徴兵制度後醍醐天皇ベトナム儒教白村江の戦い百済隋書蝦夷飛鳥浄御原令飛鳥時代近江令関東地方...開元院政推古天皇東アジア戦国時代 (日本)明治明治維新新羅日本書紀摂関政治10世紀11世紀7世紀8世紀9世紀 インデックスを展開 (17 もっと) »

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.

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大宝 (日本)

大宝(たいほう、だいほう、正字体:大寶)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。701年 - 704年の期間を指す。この時代の天皇は文武天皇。 大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、元号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年 - 650年)、白雉(650年 - 654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、「大宝」の改元により元号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在に至るまで続いている。.

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大宝律令

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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天子

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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封建制

封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。 中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還や廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説やマルクス経済学の唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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徴兵制度

徴兵制度(ちょうへいせいど)とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度である。徴兵制とも言い、国民国家や国民皆兵の思想とかかわりが深く、志願兵(募兵)制度の対義語である。 北アフリカ諸国の他、ベトナム、イスラエル、ウクライナ、キプロス、韓国、スイス、オーストリア等、CSTOに加盟しているアルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ロシアなどでは徴兵制が続いているが、冷戦終結後は、西側諸国ではフランス(2002年)、ドイツ(2011年)のように徴兵制度を廃止する国が増え、また、実施している国でも良心的兵役拒否した場合の代替服務を選択可能を導入している場合が大半である。 NATOに加盟している28か国を例にとると、90年代から00年代にかけて冷戦の終結に伴い次々と徴兵制を廃止し、2010年12月時点でNATO加盟国において徴兵制を採用している国はエストニア、トルコ、ギリシャ、デンマーク、ノルウェーの5か国にまで減少している。 徴兵制による国民皆兵武装を基盤として永世中立を掲げるスイスとオーストリアでは国民投票で徴兵制の廃止が否決され、2013年に徴兵制を廃止したウクライナでは、翌年発生したロシアのクリミア侵攻の後に徴兵制が復活するなど、国是や国家を取り巻く情勢によって左右されている状況にある。また、2010年7月に廃止していたスウェーデンでもウクライナと同様に、ロシアの脅威を理由に、2018年1月から新たに女性も対象にした徴兵制が復活することになった AFP(2017年3月3日)2017年3月3日閲覧。 有事の際にかぎり徴兵制を認めている国もあり、常備軍を持たないコスタリカでは、有事の際に徴兵制を実施できることが憲法に明記されている。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、.

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白村江の戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

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隋書

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.

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蝦夷

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.

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飛鳥浄御原令

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。.

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飛鳥時代

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。 この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのもこの時代と考えられている。.

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近江令

近江令(おうみりょう)は、日本の飛鳥時代(天智天皇の治世)に制定されたとされる法令体系。全22巻。古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられるが、原本は現存せず、存在を裏付ける史料にとぼしいことから、存在説と非存在説の間で激しい論争が続いている。両説とも、律が制定されなかったという点では、ほぼ見解が一致している。.

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郡(ぐん)は、行政区画の一種。中国・日本・朝鮮などの漢字文化圏に導入されたものである。 なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。.

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関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

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開元

開元(かいげん)は、中国・唐代の元号のひとつ。玄宗の治世に行われた。 この時期は、玄宗の治世の前半にあたり、「開元の治」と呼ばれ唐の絶頂期と評価されている。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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推古天皇

推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)であるベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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律令制と日本の間の比較

日本が1995を有している律令制は、252の関係を有しています。 彼らは一般的な47で持っているように、ジャカード指数は2.09%です = 47 / (252 + 1995)。

参考文献

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