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平宗盛と平重衡

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平宗盛と平重衡の違い

平宗盛 vs. 平重衡

平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。. 東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.

平宗盛と平重衡間の類似点

平宗盛と平重衡は(ユニオンペディアに)共通で95ものを持っています: 南都焼討吾妻鏡墨俣川の戦い壇ノ浦の戦い室山の戦い安徳天皇寿永富士川の戦い一ノ谷の戦い平基盛平家物語平完子平安時代平徳子平知度平知盛平維盛平維衡平盛子平頼盛平重盛平氏平氏政権平治の乱平清宗平清経平清盛平清房平滋子平時子...二条天皇仁安 (日本)以仁王の挙兵伊勢平氏御子姫君後白河天皇従三位従五位従四位保元保元の乱応保土肥実平園城寺嘉応備中国公卿六条天皇国司倶利伽羅峠の戦い玉葉福原京継室鎌倉幕府養和馬寮高倉天皇鶴岡八幡宮近衛府興福寺藤原邦綱藤原育子院近臣松殿基房正三位正五位正四位武将水島の戦い治承治承三年の政変源実朝源範頼源義仲源義経源義清 (矢田判官代)源頼朝源行家春宮坊愚管抄承安 (日本)1157年1162年1163年1166年1168年1171年1178年1179年1180年1181年1182年1183年1184年1185年 インデックスを展開 (65 もっと) »

南都焼討

南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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墨俣川の戦い

墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)は、治承5年(1181年)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。.

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壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。.

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室山の戦い

室山の戦い(むろやまのたたかい)は、寿永2年(1183年)11月29日、播磨国室山(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)に陣を構える平氏軍を、源行家軍が攻撃して敗れた戦い。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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寿永

寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.

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富士川の戦い

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。 石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での割拠を確立させた。.

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一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。.

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平基盛

平 基盛(たいら の もともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。.

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平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

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平完子

平 完子(たいら の さだこ/かんし、生没年未詳)は平安時代末期の平家一門の女性。平清盛の六女。近衛基通の正室。寬子(かんし)とも。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平徳子

水野年方筆「寂光院」徳子を描いた錦絵 平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。 『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。.

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平知度

平 知度(たいら の とものり、生年不詳 - 寿永2年5月11日(1183年6月2日))は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の七男。従五位上三河守。 清盛の七男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から、三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥維盛、叔父忠度とともに大将軍の一人として東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。 石川県河北郡津幡町にはその首塚と伝わる石碑が現存する。なお、『系図纂要』はその子に重義を挙げるが、上述の岡田重義を知度の子と読み違えた誤謬とみられる。 Category:平安時代の武士 とものり とものり とものり Category:生年不明 Category:1183年没 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物.

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平知盛

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。.

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平維盛

平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。 平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺したとされている。.

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平維衡

平 維衡(たいら の これひら、生没年不詳)は、平安時代の武将。平貞盛の四男。子に正度、正済、正輔、正能らがある。官位は、従四位上、下野守、伊勢守、上野介、常陸介。伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となった。.

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平盛子

平 盛子(たいら の もりこ/せいし、保元元年(1156年)- 治承3年6月17日(1179年7月23日))は、摂政・近衛基実の正室(北政所)。父は平清盛、母は不詳。近衛基通の養母。後に高倉天皇准母として准三宮に叙せられ、白河殿・白河准后と号する。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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平氏政権

平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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平清宗

平 清宗(たいら の きよむね)は、平安時代末期の武将である。平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・建春門院の同母妹である平清子。.

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平清経

平 清経(たいら の きよつね)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の三男。母は正室の藤原経子。横笛の名手として聞こえた。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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平清房

平 清房(たいら の きよふさ、生年未詳 - 寿永3年2月7日(1184年3月20日))は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の八男。 治承3年(1179年)のクーデターで淡路守に任官する。 寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいては、兄知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、覚悟を決め、従兄弟の経俊、義弟の清貞とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。 Category:平安時代の武士 きよふさ きよふさ きよふさ Category:生年不明 Category:1184年没 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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平時子

平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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仁安 (日本)

仁安(にんなん、にんあん)は、日本の元号の一つ。永万の後、嘉応の前。1166年から1168年までの期間を指す。この時代の天皇は六条天皇、高倉天皇。.

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以仁王の挙兵

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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御子姫君

御子姫君(みこのひめぎみ、長寛2年(1164年)? - 治承5年(1181年)?)は、平安時代末期の平家一門の女性。平清盛の七女。母は厳島内侍。冷泉局とも。 『玉葉』によれば、治承5年(1181年)正月、高倉上皇が危篤に陥ると、崩御したのちは中宮・平徳子を後白河法皇の後宮に入れるよう進言した者がおり、清盛・時子夫妻も承諾したが、徳子はこれを強く拒絶し、髪を切って出家しようとしたため、代わりに18歳の御子姫君が選ばれた。 法皇はこれを辞退したが清盛は強く押し進め、正月25日、御子姫君は法皇の後宮に入侍した。『平家物語』「廻文」によれば、大勢の女房・公卿にかしずかれ、女御の入内のようであったという。九条兼実は高倉上皇が亡くなって間もない時期の後宮入りを批判している。清盛は諸国で反平氏勢力が拡大する情勢の中、法皇との連携を模索するべく、縁戚関係を保つ政策をとったのである。 美貌の女性であったが、法皇は御子姫君に心を寄せることなく、御子姫君付きの女房(藤原伊実の娘)に手をつけている。 『源平盛衰記』によれば、御子姫君は入侍後間もなく没したという。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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応保

応保(おうほう)は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1162年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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土肥実平

土肥の椙山の「しとどの窟」。真鶴にも「しとどの窟」跡がある 土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。 相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。 現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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嘉応

嘉応(かおう)は、日本の元号の一つ。仁安の後、承安の前。1169年から1171年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。.

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玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.

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福原京

福原雪見御所碑 福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。.

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継室

継室(けいしつ)は、後妻のこと。 正室と同じく、日本の歴史において身分の高い者が継室となる場合が多い。一般的に誤解されがちだが、寵愛深かった側室が正室の死後(もしくは離婚後)継室として格上げされるという例は、日本の奥方のありようから可能性が低く事例としては少ない。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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養和

養和(ようわ)は、日本の元号の一つ。治承の後、寿永の前。1181年の晩夏から翌年初夏にかけての10か月間にあたる。この時代の天皇は安徳天皇。源平合戦の時代で、源頼朝の源氏方では、この元号を使用せず治承を引き続き使用していた。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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藤原邦綱

藤原 邦綱(ふじわら の くにつな)は、平安時代後期の公卿。右馬権助・藤原盛国の子。官位は正二位・権大納言。五条大納言と号す。.

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藤原育子

藤原 育子(ふじわら の むねこ(いくし)、久安2年(1146年) - 承安3年8月15日(1173年9月23日))は、平安時代末期の后妃。二条天皇の中宮、六条天皇の養母。 姓は藤原、初名は香子。実父については、閑院流の徳大寺左大臣実能と、摂関流の法性寺関白忠通の二説がある。前者は育子を実能の実娘、忠通の養女、義兄基実の猶子とし、後者は忠通の乙姫君(皇嘉門院につぐ忠通の次女)として異母兄基実の猶子になったとする。史料性としては、前者が室町期の作成であることに対し、後者の方はほぼ同時代人による記録で、ことに愚管抄の作者である慈円(忠通息)は育子の身内であった。以下、育子は忠通の実子、という推定のもとで記述する。 生母は忠通家女房、督殿源俊子(村上源氏、地方の受領源顕俊の娘)。.

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院近臣

院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。.

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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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水島の戦い

水島の戦い(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。寿永2年閏10月1日(ユリウス暦1183年11月17日 グレゴリオ暦換算1183年11月24日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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治承三年の政変

治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源義清 (矢田判官代)

源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)の祖。通称は矢田判官代(やたのはんがんだい)。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源行家

行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.

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春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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承安 (日本)

承安(じょうあん、しょうあん)は、日本の元号の一つ。嘉応の後、安元の前。1171年から1174年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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1157年

記載なし。

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1162年

記載なし。

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1163年

記載なし。

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1166年

記載なし。

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1168年

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1171年

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1178年

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1179年

記載なし。

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1180年

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1181年

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1182年

記載なし。

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1183年

記載なし。

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1184年

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1185年

記載なし。

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上記のリストは以下の質問に答えます

平宗盛と平重衡の間の比較

平重衡が164を有している平宗盛は、244の関係を有しています。 彼らは一般的な95で持っているように、ジャカード指数は23.28%です = 95 / (244 + 164)。

参考文献

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