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平城京

索引 平城京

平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.

111 関係: はげ山南都南都七大寺古都奈良の文化財史跡右京名勝坂本太郎 (歴史学者)大安寺大和の古道大和西大寺駅大和郡山市大内裏大極殿大津市天平勝宝奈良そごう奈良市奈良県奈良盆地奈良文化財研究所奈良時代寺院山城国左京不破関平城天皇平城宮平城遷都1300年記念事業平安京京奈和自動車道二行八門制伊勢湾北魏ライトアップヒノキ嵯峨天皇喜光寺呉音唐招提寺内裏元興寺元明天皇紫香楽宮紀寺続日本紀緑化羅城...田上山音読み遷都道路西大寺 (奈良市)西隆寺首都近畿日本鉄道近鉄奈良線都城鈴鹿関興福寺関野貞薬子の変薬師寺藤原京長安長岡京若草山難波京難波津恭仁京条坊制東大寺東山道東海道棚田嘉十郎江戸時代法隆寺法華寺洛陽市淀川漢字漢音木簡朱雀大路朱雀門海龍王寺新大宮駅新薬師寺文武天皇日本日本の首都教育委員会1852年1922年1952年2006年3月10日3月10日 (旧暦)707年708年710年740年745年752年784年810年9月12日9月6日 インデックスを展開 (61 もっと) »

はげ山

はげ山(はげやま、禿山、兀山(こつざんとも))とは、草木が生育していない山。人為的行為により、植生が破壊されて荒れ果ててしまった場合はげ山の研究 - 千葉徳爾や、自然的要因で荒れ果ててしまった場合があるはげ山の研究 - 千葉徳爾は人為的行為による研究観点から禿げ山を著しており、禿げ山の事を人為的荒廃林地としている。そのため、著作の中では人為的荒廃林地、自然的要因による荒廃林地に分けられている。特に自然要因においては禿げ山とは名指しで著してはいないが、自然と人為を対比させており、且つはげ山を人為的観点による研究ながら荒廃林地そのものを禿げ山地(はげ山の研究 16頁)としている事からここでは同じとして扱った。。.

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南都

南都(なんと)は、複都制において「南の都」を意味する語である。.

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南都七大寺

南都七大寺(なんとしちだいじ)は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を指す。.

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古都奈良の文化財

古都奈良の文化財(ことならのぶんかざい)は、奈良県奈良市にある寺院などから構成される世界遺産(文化遺産)である。1998年12月2日に京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で、日本で9件目の世界遺産(文化遺産)として登録された。.

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史跡

特別史跡「姫路城跡」(兵庫県姫路市) 史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。この語は一般には遺跡全般と同義で現在においてもその意味で使用される場合も多いが、日本においては1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法以降、特に法律で指定保護されている遺跡を指すようになり、現在では狭義の「史跡」は文化財の種別の一つとして文化財保護法第109条第1項に規定されている。.

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右京

右京(うきょう).

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名勝

自然的名勝の代表、特別名勝・特別天然記念物の上高地 名勝(めいしょう)とは、日本における文化財の種類のひとつで、芸術上または観賞上価値が高い土地について、日本国および地方公共団体が指定を行ったもの。特に、文化財保護法第109条第1項において規定された、国指定の文化財の種類のひとつ。.

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坂本太郎 (歴史学者)

坂本 太郎(さかもと たろう、1901年(明治34年)10月7日 - 1987年(昭和62年)2月16日)は、日本の歴史学者。東京大学・國學院大學名誉教授。文学博士(1937年・東京帝国大学)。専門は日本古代史。静岡県出身。 太平洋戦争終戦直後の混乱した東京大学国史学研究室の再建と、東京大学史料編纂所での史料編纂事業の復活および興隆に尽力した。.

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大安寺

大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。.

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大和の古道

大和の古道(やまとのこどう)とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいい、.

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大和西大寺駅

大和西大寺駅(やまとさいだいじえき)は、奈良県奈良市西大寺国見町一丁目にある近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅長配置駅である。.

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大和郡山市

大和郡山市(やまとこおりやまし)は、奈良県北部に位置する市。1954年1月1日に生駒郡郡山町が市制施行した際、市名については福島県の郡山市と区別するために「大和郡山市」と定められた。また、「郡山」単体で大和郡山市を指すこともある。.

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大内裏

平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.

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大極殿

大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。.

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大津市

大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.

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天平勝宝

天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.

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奈良そごう

奈良そごう(ならそごう)は奈良県奈良市にかつて存在した百貨店。長屋王邸宅跡に建設され、開業前の発掘調査で5万点の木簡が出土した佐藤正忠 『そごう」に新しい神話がはじまった』経済界、1994年5月。ISBN 978-4766702514。そごうグループ第24号店として1989年(平成元年)10月2日開業、キャッチコピーは「奈良最大の都市型本格百貨店」であった。敷地面積は41,516m2、延床面積は75,537m2 、売場面積は35,000m2 。 そごうグループの一員として約1231億円の負債を抱えて民事再生法を申請したものの存続店とならず東京商工リサーチ情報部 『なぜ、あの会社は潰れたのか 倒産企業21社に見る「失敗の本質」』 エイチアンドアイ、2000年11月。ISBN 978-4901032315、2000年(平成12年)12月25日閉店(1階の一部食品売場は2000年(平成12年)12月31日まで営業)。その後、この建物にイトーヨーカドー奈良店が2003年(平成15年)7月10日に開業したが、2017年9月10日に閉店した。2018年春には奈良平城プラザとしてオープン予定。.

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奈良市

奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.

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奈良県

奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.

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奈良盆地

龍王山城、北城本丸から見た奈良盆地 奈良盆地(ならぼんち)は、日本の奈良県北西部に位置する標高100メートル以下の断層盆地を指す。「大和盆地」「大和平野」とも呼ばれる。 東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積を持ち、菱形をなしている。またこの盆地を北から南へ流れる佐保川・富雄川など、南から北へ流れる寺川・曽我川・飛鳥川・高田川などは、いずれも大和川に合流し、西流して大阪湾に注いでいる。 一般的には盆地部の他に矢田丘陵・赤膚丘陵・京阪奈丘陵(奈良県域)・馬見丘陵などを含むことが多く、戦後は奈良市中心部や大阪市、京都市などへのベッドタウンとして盆地部の人口が増加し、矢田丘陵北部や赤膚丘陵や馬見丘陵ではニュータウンの開発がかなり進められた。京阪奈丘陵の一部はけいはんな学研都市の奈良県域として開発されている。これら丘陵地の一部には天野川や木津川など淀川水系に注ぐ河川もある。人口は奈良県全域(約140万人)の86%に当たる約120万人を占める。 平安京への遷都以前、奈良時代までは政治・文化の中心地として栄えた地域である。旧大和国の内で、奈良盆地に当たる場所を国中(くんなか)、山間部を山中(さんちゅう)とも呼ぶ。 Category:日本の盆地 Category:奈良県の地形.

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奈良文化財研究所

奈良文化財研究所(ならぶんかざいけんきゅうしょ)は独立行政法人国立文化財機構の一部門。古都奈良の文化財、埋蔵文化財の研究や平城宮跡、藤原宮跡の発掘調査も手がける。また奈良市や明日香村に資料館などを公開している。略称、奈文研(なぶんけん)。現所長は松村恵司(元文化庁文化財鑑査官)。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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寺院

日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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左京

左京(さきょう).

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不破関

不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった。「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673年)に関所として設置された。 東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(後には逢坂関)とともに三関と呼ばれ、壬申の乱の後からおよそ100年の間、治安維持のため畿内と東国との間の通行を厳重に監視した。三関から東は東国または関東と呼ばれた。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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平城宮

大極殿(復元) 平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。.

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平城遷都1300年記念事業

平城宮跡大極殿(復元) 平城遷都1300年記念事業(へいじょうせんとせんさんびゃくねんきねんじぎょう)とは、現在の奈良県奈良市付近にあった平城京への遷都から2010年(平成22年)で1300周年を迎えることを記念して開催された事業。平城遷都1300年祭とも。主催は奈良県などが設立した平城遷都1300年記念事業協会。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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京奈和自動車道

京奈和自動車道(けいなわじどうしゃどう、英称: KEINAWA EXPRESSWAY)は、京都府京都市を起点とし、奈良県を北から西に抜けて和歌山県和歌山市に至る延長約120キロメートル (km) の国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)である。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E24」が割り振られている。.

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二行八門制

二行八門制(にこうはちもんせい瀧浪「二行八門制」『日本歴史大事典』/にぎょうはちもんせい橋本「二行八門制」『国史大辞典』)は、古代の都城における条坊制に見られた地割制度。 条坊制においては最小単位である「町」(一辺が40丈=120mの正方形街区)を東西2つ・南北8つの16分割して宅地としての最小区画とした。従って、1区画は東西20丈(約60m)・南北5丈(約15m)となる。 藤原京では「町」を4分割であったと推定され、二行八門制は平城京で導入された制度であるが、だが宅地の最小区画としては広すぎたために奈良時代末期になると32分割されるケースも現れた。その影響を受けて平安京では四行八門制を導入して町を東西4つ南北8つの32分割することになった。.

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伊勢湾

伊勢湾紫色の部分が一般的な伊勢湾の範囲。濃い青色が大王崎から伊良湖までとした場合。 伊勢湾のランドサット画像 伊勢湾(いせわん)は、中部地方と近畿地方の太平洋(フィリピン海)側の境界の南側にある湾。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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ライトアップ

戸旧居留地) ライトアップされた橋(レインボーブリッジ) 桜(琵琶湖疏水) ライトアップされた紅葉(大田黒公園) ライトアップされた塔(東京スカイツリー「粋」) ライトアップ()とは、夜間に歴史的建造物、モニュメント、橋、タワー、樹木などを投光器などの機器や発光ダイオード(LED照明)などを用いて照明することで夜間景観を演出するもの日本建築学会編 『建築学用語辞典 第2版 普及版』岩波書店 p.753 1999年『建築大辞典 第2版 普及版』彰国社 p.1712 1993年。 街路灯などのように周囲を明るくするのではなく、対象物に効果的に光を当てることによって美しく浮かび上がらせることを目的としている。和製英語であり、英語では be動詞 + illuminated などと表現される。また、フラッドライトが使用される事が多いため、floodlighting、architectural floodlightingなどとも表現される。 反対語は「ライトダウン」で、こちらは都市の照明を極力落とす事で夜空の星などを楽しむこと。.

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ヒノキ

ヒノキ(檜、桧、学名:)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。人工林として多く植栽されている。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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喜光寺

喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領であったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。.

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呉音

呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。当時の南朝(日本では大和時代)の首都 建康(南京)付近の漢字音をいう。中国語の中古音の特徴を伝えている。 一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。 唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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元興寺

日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂) 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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紫香楽宮

紫香楽宮(しがらきのみや、信楽宮)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。のちに「甲賀宮(こうかのみや)」とも。.

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紀寺

紀寺(きのてら)は、.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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緑化

緑化(りょっか、りょくか)は、草や木を植えること、あるいはそれらが育つような算段をすること。またその後、育成管理すること。ただし、通例は収穫は目的ではない。 また、自然のなりゆきで砂漠などに植物が生えるようになることも緑化である。.

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羅城

羅城(らじょう).

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植え前の田 田植え後の田 夏の水田 スズメなどによる食害を防ぐため反射テープを張った田 秋の稲穂 刈田と稲木に架けた稲の天日干し 刈田完了後の田 鑑賞を前提に作られた田 イラン マーザンダラーン州の田 タイ王国 チェンマイ県の田 イタリア ロンバルディア州の田 田(た)は、穀物を栽培するために区画された農地をいう。田圃(たんぼ)、水田(すいでん)ともいう。.

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田上山

上山(たなかみやま)は、滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高400~600メートルの山々の総称である 読売新聞2012年11月21日配信。主峰は不動寺のある太神(たなかみ)山で、この他笹間(ささま)岳、国見(くにみ)山などで、ほぼ全域が花崗岩を主体とする 2013年10月5日閲覧。水晶や黄玉石、トパーズを産出する。田神山とも書く。.

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水田の周りに畦道が見える 畦(あぜ)は、稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたものである。畦は、水田の区画を成すと同時に、泥土のきめ細かさによって水漏れを防ぐ方法でもある。 畦畔(けいはん)や泥畦とも言われ、稲作の工程には、水を張る前に毎年修理を行う「畦作り」または「畦塗り」があり、「畦塗り機」も使われる。 水田を回る際の道としての役割も持っているもののことを、畦道(あぜみち)、畷(なわて、縄手とも)という。.

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音読み

音読みは、日本語における漢字の字音による読み方である。.

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遷都

遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.

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道路

道路(どうろ、ラテン語 strata、 フランス語 route、ドイツ語 Straße、英語 road)とは人や車両などが通行するためのみち、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。.

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西大寺 (奈良市)

西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。.

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西隆寺

西隆寺(さいりゅうじ)は、奈良時代に平城京に造営された尼寺。.

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首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

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近畿日本鉄道

近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、)は、大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県の2府3県にまたがる営業路線網を持つ大手私鉄である。JRグループをのぞく日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の路線網を持つ。近鉄グループホールディングスの子会社である。 一般的には略して近鉄(きんてつ、)や近鉄電車と呼ばれている(「社章・略称・ロゴについて」の節も参照)。.

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近鉄奈良線

奈良線(ならせん)は、大阪府東大阪市の布施駅と奈良県奈良市の近鉄奈良駅とを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 一般的には難波線と大阪線大阪上本町駅 - 布施駅間を含めた大阪府大阪市中央区の大阪難波駅から近鉄奈良駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)について記述する。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はA - 近畿日本鉄道、2015年8月19日。色は赤であり、2015年9月から順次案内などに導入された。.

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都城

都城(とじょう)とは、歴史上の都市計画に関する用語。中国を始源とする制度(都城制)に基づき建築された都市。 天子の居城(宮城)が北辺にあり、その南に宗廟及び官庁を設け(皇城)、その周辺市街地(京城)が形成され、各々防衛のため城郭(漢語本来の城)で周辺を囲んだ都市。学術的に都城の「宮」と京を総称して宮都と呼ぶこともある。典型的なものは長安城であり、古代日本においても、律令制の継承とともに藤原京、藤原京以前に首都を置いていた難波宮に難波京、などの都城が建設された(→都城制、条坊制)。 日本では都城が置かれた土地を京(きょう)と称し、和訓では「みやこ」と読まれた。「みやこ」とは、大王(天皇)の住まいであった「みや(宮)」に接尾辞の「こ(処)」がつけて成立した“やまとことば”で、万葉仮名では美夜古(『万葉集』巻5、806番)・弥夜古(同843番)などと表記されていた。日本においては都城制が成立する以前から、大王の住む「みや」とその所在地である「みやこ」と呼ばれる特別な区域が存在し、そこに律令制・都城制の概念が取り入れられる事で「宮」、「京」もしくは(類似の用法を持つ)「都」という漢字があてられてきたと考えられている。なお、古くは「さと(里)」に美称の「み(美)」を付けた「みさと」という和訓も存在していたが、都城制が導入された時期にはほとんど用いられなかったとみられている。 ヨーロッパの「都市」も多くが城壁に囲まれた構造をしている(→城郭都市)。その他、北アジアや西域の「バリク」も都城に類した構造を持つ(例:ビシュバリク、バイ・バリク、オルド・バリクなど)。.

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鈴鹿関

鈴鹿関(すずかのせき)は、伊勢国にあった古代東海道の関所である。三関のひとつ。 701年(大宝元年)に創設され、789年(延暦8年)7月に廃された。しかし、その後も即位、大喪、反乱のある際には(時代が下るにつれて儀礼化が進んだものの)かならず三関を警護し、このときは南の伊賀路すなわち加太越を通った。 光孝天皇の886年(仁和2年)、鈴鹿山の新道(阿須波道)が開かれた。すなわちこれが鈴鹿峠である。 関址は、三重県亀山市関町新所とする説が有力。2006年(平成18年)同所の観音山公園から北辺城壁と見られる築地が発見され、発掘調査が続いている。 Category:日本の関所 Category:伊勢国 Category:亀山市の交通 Category:亀山市の歴史 Category:三重県の交通史 Category:鈴鹿郡.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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関野貞

関野 貞(せきの ただし、慶応3年12月15日(1868年1月9日) - 昭和10年(1935年)7月29日)は、日本の建築史学者、東大教授。文化財の保存に努めたことで知られる。.

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薬子の変

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.

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薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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藤原京

藤原京条坊(拡大してご覧ください) 列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。 藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。 『日本書紀』には新益京持統天皇6年正月12日(692年2月4日)条。読みを「あらましのみやこ」「あらましきょう」「しんやくのみやこ」「しんやくきょう」などとしている。と著されている。藤原京の名は、宮が同じく『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に近世になって名づけた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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長岡京

長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。 延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。.

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若草山

若草山(わかくさやま)は、奈良県奈良市の奈良公園の東端に位置する標高342m、面積33haの山である。.

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難波京

難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は、古代日本において難波(現在の大阪府大阪市)の地に設営された都城である。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認されていない。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である。.

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難波津

難波津 (なにわつ、旧:なにはつ)とは、古代大阪湾に存在した港湾施設の名称である。現在の大阪市中央区付近に位置していたと考えられている。.

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恭仁京

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。.

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条坊制

大宰府条坊復元図 藤原京条坊復元図 平安京条坊復元図 条坊制(じょうぼうせい)とは、中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランである。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東山道

東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。.

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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棚田嘉十郎

棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう、1860年5月21日(万延元年4月5日) - 1921年(大正10年)8月16日)は日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて奈良県・平城宮の保存活動を行った。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.

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法華寺

南門 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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淀川

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川(せたがわ)、宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。この場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130km、流路延長に換算すると約170kmとなる。 瀬戸内海に流れる河川の中では流域面積が最も広く、流域人口は西日本で最も多い、また琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。.

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漢字

漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われる。20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い。.

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漢音

漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。.

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木簡

木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。.

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朱雀大路

朱雀大路(すざくおおじ/しゅじゃくおおじ)は、律令制時代の日本における都内の大路で、条坊制の都市において宮城・官衙の正面から南方に向かう道のこと。名称は南方の守護神である朱雀に因む。都を南北に走り、首都正門羅城門に始まり、大内裏正門朱雀門に終わる。 日本には遣隋使、遣唐使を通じて条坊制が伝わり、最初の整備都市藤原京造営時に採用された。藤原京は周礼に理想王朝である周の都城として伝わるモデルを基にしており、皇宮が正方形の都城の中央に位置するため、後の都より朱雀大路は短く、皇宮を挟んだ北側には対称をなして玄武大路があった。藤原京の朱雀大路の幅は2、30メートル程であったが、唐・長安の朱雀大街は幅147メートルもあったため、朝鮮半島の諸国に対する宗主権を主張していた当時の日本としては、それらの国の外交使節を迎える上で見劣りするものであった。外国使臣への示威に加え、大嘗祭での神饌運び込み儀式や軍隊の出征や凱旋といった朝廷の権威発揚の場となることが朱雀大路が担うべき役割であった。なお、藤原宮の南面から直進した途中地点より藤原京以前からのものとみられる古代寺院の遺構(和田廃寺)が発掘され、藤原京が持つ構造的問題(既存施設の存置)から朱雀大路の整備がされなかった可能性も指摘されている。 平城京からは長安同様に皇宮が都の北端にあり朱雀大路が長くのびる北闕型が採用され、平城京の朱雀大路は幅73メートル、平安京では幅82メートル(延喜式)となった。平安京朱雀大路は自動車道路の25車線分に相当し、日常の通行に必要な幅ではなかった。このサイズについては国家威信と現実の国力の兼ね合いで「長安の半分」を意図したという見方がある。平安京朱雀大路は全幅84.0メートル、側溝より内側の道路幅70.2メートルとする推定もある。 羅城門以南は、平城京では下ツ道、平安京では鳥羽作道に接続された。当時十数名ほどであった公卿を除いては大路に面して門を作ることが禁止されていたので、朱雀大路に面しては築地塀が続いた。道の脇の排水溝と街路樹の清掃や維持管理は沿道住民の義務とされた。もっとも、平安京遷都から20年後の時点で大路の管理が行き届かなくなっており、また平安時代にはいると外交使節の入京は渤海使のみとなり、渤海の滅亡により迎えるべき外交使節が途絶した。延喜式では牛馬が放牧されたり盗賊のねぐらとなったりしている状況を踏まえてこれらの取り締まりを謳っている。 しかし、朝廷の収税力減少、右京の衰退、管轄者の京職の形骸化に伴い荒廃が進んだ。鎌倉時代初期には朱雀大路を含む道路の農地化が横行していることが記されている。戦国時代には防衛上の理由から左京とその北側のうちそれぞれごく一部が惣構を持つ囲郭都市の下京と上京になり、もとの朱雀大路は市街地から切り離されることとなった。その後、豊臣政権が惣構を解体して上京・下京を一体に囲む御土居を構築し、もとの朱雀大路の区域の多くも御土居内部西辺に取り込まれたが、朱雀大路が復活することはなく、同じ場所には南北に千本通が通じている。 平城京の朱雀大路も一旦その姿を消したが、現代の奈良市では平城宮跡歴史公園内の「朱雀門ひろば」として、復元された朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備された。 鎌倉の鶴岡八幡宮参道の若宮大路が朱雀大路に見立てて設けられたとする見方もある。また、大宰府においては政庁地区から伸びる中央南北大路の事を平城京・平安京の例に倣い朱雀大路と呼ぶ事もある。 中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都は余り作られなくなり、朱雀大街も見られなくなった。.

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朱雀門

朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門であった。「しゅじゃくもん」ともいう。.

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海龍王寺

海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。.

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新大宮駅

| 新大宮駅(しんおおみやえき)は、奈良県奈良市芝辻町四丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線の駅。駅番号はA27。 奈良市内の併用軌道区間の地下化の際に、大和西大寺駅と近鉄奈良駅(当時は近畿日本奈良駅と呼称)間に新設された駅である。.

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新薬師寺

南門 新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本の首都

この項では、日本の首都(にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について解説する。.

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教育委員会

教育委員会(きょういくいいんかい、)は、教育に関する事務をつかさどる行政委員会である。.

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1852年

記載なし。

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1922年

記載なし。

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1952年

この項目では、国際的な視点に基づいた1952年について記載する。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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3月10日

3月10日(さんがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から69日目(閏年では70日目)にあたり、年末まであと296日ある。.

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3月10日 (旧暦)

旧暦3月10日は旧暦3月の10日目である。六曜は赤口である。.

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707年

記載なし。

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708年

記載なし。

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710年

記載なし。

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740年

記載なし。

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745年

記載なし。

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752年

記載なし。

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784年

記載なし。

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810年

記載なし。

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9月12日

9月12日(くがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から255日目(閏年では256日目)にあたり、年末まであと110日ある。.

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9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。.

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