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幕末

索引 幕末

は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。

目次

  1. 790 関係: 功山寺功山寺挙兵厚岸町お台場ちくま学芸文庫ええじゃないか千代田形南北戦争南紀派南東北台場右大臣参勤交代参預会議吉川弘文館吉田東洋吉田松陰吉村虎太郎君沢形坂下門外の変坂本龍馬堀利煕堀田正睦壬生浪士大原重徳大名大坂城大久保一翁大久保利通大和国大輪田泊大老大村益次郎大橋訥庵大日本帝国陸軍大日本帝国海軍大政奉還天保小判天璋院天然痘天狗党の乱天誅天誅組天誅組の変天津条約 (1858年)天明太田資始太陽暦夜明け前外務省... インデックスを展開 (740 もっと) »

  2. 1850年代の日本
  3. 1860年代の日本

功山寺

毛利家墓所 功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。 仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。

見る 幕末と功山寺

功山寺挙兵

高杉晋作挙兵像(功山寺境内) 功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。

見る 幕末と功山寺挙兵

厚岸町

厚岸町(あっけしちょう)は、北海道釧路総合振興局にある町。

見る 幕末と厚岸町

お台場

東京港埋立第13号地」の全景 お台場(おだいば)は、東京都の特別区南部東京港に位置するエリア。 港区台場・品川区東八潮・江東区青海からなる埋立地「東京港埋立第13号地」北部の商業地を指す。南部全域を占める青海三丁目・四丁目を除く。 また広義では、隣接する「東京港埋立第10号地」北部を含む「東京臨海副都心」全体や「東京港埋立第13号地」全体を指す。

見る 幕末とお台場

ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門の文庫判レーベルである。

見る 幕末とちくま学芸文庫

ええじゃないか

「ええじゃないか」騒動に興じる人々 ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼し、集団で町を練り歩きながら熱狂的に踊った。大政奉還、王政復古の大号令の時期である。 伊勢神宮の御札が降るおかげ参りと違い、ええじゃないかの御札は地域で信仰されている社寺の御札が降ったため、現地で祭祀が行われる事が多かった。降札があると、藩に届け出た上で屏風を置く、笹竹で家を飾る、酒や肴を供えるなどして町全体で札を祀った。名古屋の場合、降札後の祭事は7日間に及び、その間は日常生活が麻痺した。

見る 幕末とええじゃないか

千代田形

千代田形(ちよだがた)は幕府海軍の、後に日本海軍の軍艦。千代田は江戸城の別称で、形がつくのは同型艦が予定されていたため#艦船名考(1928)pp.18-19、千代田(千代田形)ちよだ(ちよだがた)Tiyoda(Tiyodagata).。

見る 幕末と千代田形

南北戦争

last。

見る 幕末と南北戦争

南紀派

南紀派(なんきは)とは、江戸時代後期に13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派。

見る 幕末と南紀派

南東北

南東北(みなみとうほく)は、東北地方の南部地域のことで、特に宮城県、山形県、福島県の3県を指す。気象予報の分野においてはこの3県は東北南部と呼称される。方角と区別する意味で、「東北」を平仮名書きした「南とうほく」という記載がなされる場合がある。令制国名を用いた南奥羽(みなみおうう)という雅称もある。対義語は北東北(きたとうほく)。

見る 幕末と南東北

台場

台場(だいば)とは、幕末に設置された砲台で、要塞の一種である。日本各地に築かれた。 当初は幕府や各藩において異国船の打払いを企図したものが多く海岸や河岸に築かれるものが多かった。しかし、幕末から明治にかけて起こった戊辰戦争や箱館戦争や西南戦争においては、堡塁や塹壕、胸壁などの野戦築城の数々も台場と呼ばれるようになった。これらは海岸線に限らず、峠・高台・交通の要衝に築かれる事が多々あった。 明石海峡を防衛する明石藩舞子台場跡。

見る 幕末と台場

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。

見る 幕末と右大臣

参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代において各藩の主である大名や交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵。

見る 幕末と参勤交代

参預会議

参預会議(さんよかいぎ、表記は参予会議/参与会議とも)は、江戸時代末期(幕末)の文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、朝廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された合議制会議、およびその制度である。当時流行した公武合体論および公議政体論の一つの帰結ではあったが、参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数か月で崩壊した。

見る 幕末と参預会議

吉川弘文館

株式会社吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は、日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。

見る 幕末と吉川弘文館

吉田東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。

見る 幕末と吉田東洋

吉田松陰

吉田松陰山河襟帯詩碑、京都府立図書館前、京都市左京区 吉田 松陰「松蔭」の表記割れもある。(よしだ しょういん、、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。

見る 幕末と吉田松陰

吉村虎太郎

吉村 虎太郎(よしむら とらたろう、天保8年4月18日(1837年5月22日) - 文久3年9月27日(1863年11月8日))は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。「寅太郎」と記されることもある。 土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋騒動で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく京都で中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)。

見る 幕末と吉村虎太郎

君沢形

君沢形一番船「ヘダ号」の絵図。ロシア人によって運用中の状態が描かれており、ロシア海軍の軍艦旗を掲揚している。 君沢形(きみさわがた、くんたくがた)は、幕末に日本の君沢郡戸田村などで建造された西洋式帆船の型式。原型は、下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産した。帆装形式はスクーナーに分類される。ヘダ号の名は戸田村に由来し、君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来する。ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となった。なお、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられることがある。

見る 幕末と君沢形

坂下門外の変

坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件。

見る 幕末と坂下門外の変

坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道公立高校入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。

見る 幕末と坂本龍馬

堀利煕

堀 利煕(ほり としひろ、文政元年6月19日(1818年7月21日) - 万延元年11月6日(1860年12月17日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。通称は織部、織部正、省之助。字は欽文、士績虎。号は有梅、梅花山人。初名は利忠。プロイセンとの不平等条約である日普修好通商条約交渉中に自決した。

見る 幕末と堀利煕

堀田正睦

堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代後期の大名・老中首座。下総国佐倉藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、贈従三位。正俊系堀田家9代。

見る 幕末と堀田正睦

壬生浪士

壬生浪士(みぶろうし)あるいは精忠浪士(せいちゅうろうし)は、新選組の前身集団。

見る 幕末と壬生浪士

大原重徳

大原 重徳(おおはら しげとみ、1801年11月21日(享和元年10月16日)- 1879年(明治12年)4月1日)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿。権中納言・大原重尹の五男。官位は従二位・権中納言、贈正二位。

見る 幕末と大原重徳

大名

大名(だいみょう)とは、もともとは私田の一種の名田の所有者のことであり、名田の大小によって大名・小名に区別された。平安時代末頃からこの語が見られるようになり、鎌倉時代以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった。

見る 幕末と大名

大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。 「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。1931年に復興された天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。

見る 幕末と大坂城

大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての旗本、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。

見る 幕末と大久保一翁

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の内閣総理大臣。

見る 幕末と大久保利通

大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。

見る 幕末と大和国

大輪田泊

大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい武藤(1979)p.311、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。 現在でも漢字表記は異なるものの「和田岬(わだみさき)」として名が残っている。

見る 幕末と大輪田泊

大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。

見る 幕末と大老

大村益次郎

靖国神社参道の中央にある大村益次郎像 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。

見る 幕末と大村益次郎

大橋訥庵

大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年〈1816年〉 - 文久2年7月12日〈1862年8月7日〉)は、江戸時代後期の儒学者、尊王論者。諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号で「とっつあん(父っつあん)」の言葉に洒落て漢字を宛てたもの『国史大辞典』678頁『明治維新人名辞典』206頁。坂下門外の変を計画した人物であり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。

見る 幕末と大橋訥庵

大日本帝国陸軍

大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、、Imperial Japanese Army、IJA)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。 解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。

見る 幕末と大日本帝国陸軍

大日本帝国海軍

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、だいにほんていこくかいぐん、、Imperial Japanese Navy、IJN)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた海軍である。通常は、単に海軍や帝国海軍、日本海軍と呼ばれた。 解体後は、海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍または旧海軍とも呼ばれている。第二次世界大戦の後、残存部隊は改組を経て現在、海上自衛隊のほか関連する国家機関等になっている。

見る 幕末と大日本帝国海軍

大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。

見る 幕末と大政奉還

天保小判

天保小判(てんぽうこばん)とは、天保8年7月21日(1837年8月21日)から鋳造が始まり同年11月15日(1837年12月12日)より通用開始された一両としての額面を持つ小判であり、保字小判(ほうじこばん/ほじこばん)とも呼ばれる。 また天保小判および天保天保一分判を総称して天保金(てんぽうきん)あるいは保字金(ほうじきん/ほじきん)と呼ぶ。同時に吹替えが行われた保字銀と合わせて天保金銀(ほうじきんぎん)と呼ぶ。

見る 幕末と天保小判

天璋院

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日〈1836年2月5日〉 - 明治16年〈1883年〉11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門今和泉島津家に生まれ、島津本家の養女となり、更に五摂家筆頭近衛家の養女として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍・徳川家定御台所となった人物。 実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。 幼名は一(いち)、その後に、市。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君〈あつぎみ〉となった)。

見る 幕末と天璋院

天然痘

天然痘(てんねんとう、variola, smallpox)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである(IDWR 2001年第40号掲載)。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

見る 幕末と天然痘

天狗党の乱

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱(げんじかっしのらん)元治元年(甲子年)に起こったことから。ともいう。

見る 幕末と天狗党の乱

天誅

天誅(てんちゅう)。

見る 幕末と天誅

天誅組

天誅組志士之墓、霊山護国神社、京都市左京区 天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。その活動は文久3年8月17日(1863年)の大和国五條代官所討ち入り(挙兵)から、幕府の追討を受け転戦してのち、同年9月24日から27日にかけて大和国東吉野村で多くの隊士が戦死して壊滅するまでの約40日間である(天誅組の変)。天忠組とも。

見る 幕末と天誅組

天誅組の変

天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末の文久3年8月17日(1863年9月29日)に起こった尊皇攘夷派志士の挙兵事件である。 吉村虎太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が、公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。大和義挙(やまとぎきょ)、大和の乱(やまとのらん)などとも呼ばれる。

見る 幕末と天誅組の変

天津条約 (1858年)

天津条約(てんしんじょうやく、Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。

見る 幕末と天津条約 (1858年)

天明

天明(てんめい、)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。

見る 幕末と天明

太田資始

太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期の大名、老中。遠江国掛川藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、備後守、備中守。掛川藩太田家9代。

見る 幕末と太田資始

太陽暦

太陽暦(たいようれき、)とは、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にして作られた暦(暦法)である。1年の日数を1太陽年に近似させている。ユリウス暦や、現在、世界の多くの地域で使用されているグレゴリオ暦は、太陽暦の1種である。似ている言葉として、太陰暦があるがこれとは異なる。 簡単に説明すると、太陽を基準にして1年を基本的に365日とし、12か月に分けることである。

見る 幕末と太陽暦

夜明け前

『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村による長編小説、2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで始まる。 藤村の父をモデルに明治維新前後の歴史を、当時の資料をふんだんに使い、個人と社会の動向を重層させて描いた小説。

見る 幕末と夜明け前

外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称: MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」(外務省設置法第3条)。

見る 幕末と外務省

外国奉行

外国奉行(がいこくぶぎょう)とは、江戸時代末期(幕末)における江戸幕府の職名。外交を担当した。

見る 幕末と外国奉行

外様大名

外様大名(とざまだいみょう)とは、大名の出自による分類の一つ。譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川家の支配体系に組み込まれた大名を指す。また、徳川家と同族である親藩の大名を別の分類とすることもある。

見る 幕末と外様大名

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権 日本大百科全書(井上勲執筆項)。 奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。

見る 幕末と奥羽越列藩同盟

奇兵隊

奇兵隊(きへいたい)とは、江戸時代末期(幕末)に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」も、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語に由来する。 主に結成された奇兵隊は以下の通りで、順次詳細をこの項にて述べる。

見る 幕末と奇兵隊

姉小路公知

姉小路 公知(あねがこうじ きんとも / きんさと)は、江戸時代後期の公家。姉小路公前の子。官位は正四位下・右近衛権少将。朔平門外の変で暗殺された。維新後に生前の功により正二位を追贈された。

見る 幕末と姉小路公知

孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位: 1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。 仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。 今上天皇(第126代天皇・徳仁)の5世祖先である。

見る 幕末と孝明天皇

学研ホールディングス

株式会社学研ホールディングス(がっけんホールディングス)は、学習塾などの教育サービス、出版物の発行や保育用品などの製作販売、サービス付高齢者向け住宅や認知症グループホームなどの介護施設・子育て支援施設の運営等の事業を統括する日本の持株会社である。 2009年(平成21年)10月1日に学習研究社(がくしゅうけんきゅうしゃ)より組織改編・社名変更を実施した。

見る 幕末と学研ホールディングス

実包

写真左から6mm SAW6.5mm Grendel6.8×43mm SPC7mm ベンチレスト280/30 ブリティッシュ7mm-087mm セカンドオプチウム276 ピーダーセン308x1.75"7.62x51mm NATO弾 実包(じっぽう)、弾薬筒(だんやくとう)、カートリッジ(Cartridge)は、拳銃、小銃、機関銃、散弾銃などの火器に用いられ、弾丸に爆薬を内蔵していない火工品である。弾薬の一種であることから、弾薬と呼ばれる場合もある。散弾銃用の実包は、装弾(そうだん)とも呼ばれる。

見る 幕末と実包

宝永

は、日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。

見る 幕末と宝永

室町幕府

は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。

見る 幕末と室町幕府

宮古湾海戦

宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。宮古港海戦とも呼ばれる。

見る 幕末と宮古湾海戦

宮崎十三八

宮崎 十三八(みやざき とみはち、1925年(大正14年)7月8日 - 1996年(平成8年)5月11日『現代物故者事典 1994~1996』(日外アソシエーツ、1997年)p.548)は、日本の郷土史家。福島県会津若松市生まれ。旧制新潟高等学校文科卒業。会津若松市商工観光部長。会津史学会会長、顧問。会津史談会相談役。

見る 幕末と宮崎十三八

家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

見る 幕末と家老

官軍

官軍(かんぐん/すめらみいくさ)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指し「皇軍」、「皇師(みいくさ)」、「王師」とも書かれる『日本書紀』。

見る 幕末と官軍

宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。

見る 幕末と宇和島藩

宇都宮藩

宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。

見る 幕末と宇都宮藩

安島帯刀

安島 帯刀(あじま たてわき)は、幕末に活躍した水戸藩の家老。安政の大獄で切腹を命じられた。維新後、靖国神社・護国神社・回天神社に合祀された。諱は信立(のぶたつ)。 父は戸田三右衛門忠之、母は安島七郎左衛門信可の女。養父は安島彦之允信順。

見る 幕末と安島帯刀

安藤信正

安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。

見る 幕末と安藤信正

安永 (元号)

は、日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

見る 幕末と安永 (元号)

安政

安政(あんせい)は、日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。大化以降223番目、239個目の元号。1855年から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。

見る 幕末と安政

安政の大獄

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。 幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発したとされており、家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、尾張藩主・徳川慶勝や福井藩主・松平慶永、水戸藩の徳川斉昭・慶篤父子と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られる。

見る 幕末と安政の大獄

安政の改革

安政の改革(あんせいのかいかく)は、嘉永6年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが来航して一気に政局が混乱した際、江戸幕府が行った幕政改革および雄藩が行った藩政改革である田中彰。歴史学者・田中彰によれば、主として西南雄藩(薩長土肥)の藩政改革をさす。 幕政改革は、老中首座・阿部正弘が主導して行なった。。

見る 幕末と安政の改革

安政五カ国条約

安政五カ国条約 安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約(治外法権がないこと/関税自主権が日本にない)の総称。勅許なく調印されたため安政の仮条約(あんせいのかりじょうやく)ともいう。

見る 幕末と安政五カ国条約

寺田屋事件

寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の文久2年4月23日(1862年5月21日)、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた尊皇攘夷の過激派志士が弾圧された事件。 薩摩藩の事実上の指導者で藩主茂久の父島津久光はこのとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に勝手に挙兵討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと、藩士に命じて従わぬものを上意討ちさせた。同郷の藩士同士が斬り合う凄惨な乱闘となり、7名が死亡して2名が致命傷を負い、後に切腹したものを含めて9人の殉難者を出した。事件後、久光は多くの志士を京都から追放し、勅使大原重徳を擁して江戸に向い、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とする幕政改革を行った。

見る 幕末と寺田屋事件

対馬

対馬(つしま、)または対馬島(つしまとう、Tsushima Island)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県(ながさきけん)に属する島で、島全域が対馬市の1島1市体制である。面積は日本第10位で国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 、島内人口は3万470人(2019年9月現在)。

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部ならびに基山町)および浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩である。別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称されることが多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。

見る 幕末と対馬府中藩

富士山 (スループ)

富士山(ふじやま)は、幕府海軍・大日本帝国海軍の軍艦。1887年(明治20年)までの日本海軍の正式艦名は富士山艦。艦名は富士山から採られた。

見る 幕末と富士山 (スループ)

寛永寺

旧寛永寺五重塔(重要文化財) 広重『名所江戸百景』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。 寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光であり、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務めて朝廷との繋がりが深かった。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、幕末の動乱期に主要な伽藍が焼失した。かつての境内の大部分は上野公園となっている。

見る 幕末と寛永寺

寛政

寛政(かんせい、旧仮名遣: くゎんせい、)は、日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。

見る 幕末と寛政

尊王論

錦旗。 尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。

見る 幕末と尊王論

尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、天皇を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。

見る 幕末と尊王攘夷

小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区一ツ橋にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。 社名は創設時に小学生向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。特に学年別学習雑誌は長らく小学館の顔的存在として刊行され続けてきたが、「出版不況」や児童の減少と嗜好の多様化のあおりを受け、2000年代から2010年代にかけて相次いで休刊され、2017年以降、月1回発売されているのは『小学一年生』のみとなっている。1926年に娯楽誌出版部門を集英社として独立させたが、太平洋戦争後は娯楽図書出版に再進出し、総合出版社へ発展した。

見る 幕末と小学館

小御所会議

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定〈ぎじょう〉・参与)が行った最初の会議である。大政奉還を行った徳川慶喜の官位(内大臣)辞退および徳川宗家領の削封(辞官納地)が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。

見る 幕末と小御所会議

小笠原長行

小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、唐津小笠原家の世嗣(藩主とする資料もある)。江戸幕府の老中、外国事務総裁。

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小銃

小銃(しょうじゅう)は、銃の分類の一つ。兵士が個人用に使うための軍用銃として軍隊では最も一般的な小火器で、カービン・狙撃銃・自動小銃などの総称である。ライフル(英:Rifle)あるいはライフル銃とも呼ばれる。

見る 幕末と小銃

小西四郎

小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。幕末史が専門。

見る 幕末と小西四郎

小林良典

小林 良典(こばやし よしすけ、文化5年3月28日(1808年4月23日) - 安政6年11月19日(1859年12月12日))は、幕末の地下人。小林元次の長男、母は小森頼望の娘・叙子。 鷹司家の諸大夫。正四位下民部権大輔と筑前守を兼ねた。 尊皇の志篤く、青蓮院宮尊融法親王や近衛忠熙、三条実万らと交流する一方で、日下部伊三治・橋本左内ら志士たちとも接点を持ち国事に奔走した。将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を説いて攘夷派の重鎮へと転換させた。また一橋派に属して政通・輔煕父子を補佐する。しかし安政5年(1858年)安政の大獄に連座して江戸に捕えられる。翌安政6年(1859年)水戸・福井藩を密勅降下のために入京させたとして遠島刑となる。後に肥後人吉藩預かりに減刑されるも、江戸に獄中で病没した。享年52。

見る 幕末と小林良典

小栗忠順

小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。

見る 幕末と小栗忠順

小沢健志

小沢 健志(おざわ たけし、1925年1月9日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.476 - 2019年7月4日)は、日本の写真評論家、写真研究家。

見る 幕末と小沢健志

尾張藩

尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。

見る 幕末と尾張藩

将軍宣下

将軍宣下(しょうぐんせんげ)とは、天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のこと。公卿(三位以上)にも補任されていることから公権力を行使することが制度上認められた。

見る 幕末と将軍宣下

将軍後見職

将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された政事総裁職、京都守護職と並ぶ江戸幕府の三要職の一つである。 安政5年(1858年)、年少の徳川家茂が14代将軍に就任したために、同年8月、前将軍・徳川家定の遺命と、同じく年少で将軍に付いた4代将軍・徳川家綱時の保科正之、11代将軍・徳川家斉における松平定信時の先例を名目に御三卿田安家の徳川慶頼が任命された。ただし、実際には大老・井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。 ところが、文久2年(1862年)5月、朝廷内部に幕府内の親井伊派の処分を要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、御三卿一橋家の徳川慶喜を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように勅諚が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。

見る 幕末と将軍後見職

将軍継嗣問題

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)は、江戸幕府13代将軍・徳川家定の後継を巡って生じた政争である。

見る 幕末と将軍継嗣問題

山岡鉄舟

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、)。諱は高歩(たかゆき、)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

見る 幕末と山岡鉄舟

山内容堂

山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉 - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉)は、幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。位階は従一位。諱は豊信。隠居後の号は容堂。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。

見る 幕末と山内容堂

山内豊範

山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名、明治前期の日本の華族、実業家。位階爵位は正二位侯爵。 土佐藩第16代(最後)藩主で、同藩初代(最後)藩知事。三条実美の従弟にあたる。

見る 幕末と山内豊範

山砲

山砲(さんぽう、Mountain Gun、Pack gun、Pack howitzer、Gebirgsgeschütz)は、大砲の一種。同口径の野砲ないし軽榴弾砲と比べて軽量・小型かつ分解が可能で、砲口直径に対する砲身長が短く、低初速・短射程である。

見る 幕末と山砲

山陵志

『山陵志』(さんりょうし)は、江戸時代後期に蒲生君平が著した書物で、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料である。 特に、この書物の中では「宮車説」を記している。

見る 幕末と山陵志

居留地

居留地(きょりゅうち)。

見る 幕末と居留地

岡山藩

岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。備前岡山藩、備前藩ともいう。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現・岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。

見る 幕末と岡山藩

岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、、1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。

見る 幕末と岩倉具視

岩瀬忠震

岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村の『夜明け前』にも岩瀬肥後の名で登場する。

見る 幕末と岩瀬忠震

岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、岩波書店が刊行する新書シリーズである。

見る 幕末と岩波新書

岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。

見る 幕末と岩波文庫

島崎藤村

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂。越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。

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島田正辰

島田 正辰(しまだ まさたつ、? - 文久2年7月20日(1862年8月15日))は、江戸時代末期の地下官人、九条家青侍。位階・官職は従六位下左近衛権大尉。官職から島田 左近(しまだ さこん)の通称で知られる。諱は他に龍章などを名乗った。安政年間に、同家諸大夫の宇郷重国とともに強権的な手法を用いて尊皇攘夷派を一掃したほか、14代将軍継嗣問題に介入したことでも知られ、京で絶大な政治力を有した。 なお、同じ九条家の諸大夫である嶋田正辰(陸奥守、橘氏)と同名であり、誤伝を避けるため通称の左近で呼称を統一される場合が多い。

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島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。 同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。

見る 幕末と島津久光

島津斉彬

島津 斉彬(、しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩11代藩主。島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・徳川家定の御台所。 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。

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崩御

崩御(ほうぎょ、)は、天皇、皇帝、国王(女王)等の君主や、太皇太后(太王太后)、皇太后(王太后)、皇后、上皇、上皇后、王妃などの死亡を表す最高敬語。 中国においては、主に『礼記』等にも見られる「駕崩」(がほう)の語が用いられる。 本項では、これらに準じる「薨去」(こうきょ)などについても扱っている。

見る 幕末と崩御

川路聖謨

川路 聖謨(かわじ としあきら)は、日本の武士(旗本)。号は敬斎。 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。

見る 幕末と川路聖謨

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。

見る 幕末と左大臣

上野

上野(うえの)は、東京都台東区の町名。また、上野駅を中心とした副都心隣接する浅草とともに上野・浅草副都心として指定。。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。

見る 幕末と上野

上野戦争

上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。

見る 幕末と上野戦争

不平等条約

不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。民事事件については訴えられる側の国の司法機関、刑事事件については被疑者の国の司法機関で裁判を行うとした条約もある(治外法権)。

見る 幕末と不平等条約

帝国主義

1898年当時の帝国主義列強勢力図 帝国主義(ていこくしゅぎ、p)またはインペリアリズムとは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。.

見る 幕末と帝国主義

両都両港開市開港延期問題

両都両港開市開港延期問題(りょうとりょうこうかいしかいこうえんきもんだい)は、日本の幕末期における外交問題。江戸幕府は安政五カ国条約によって、江戸・大阪(両都)の開市と新潟・兵庫(両港)の開港を約束していたが、国内問題によって、それを遅延せざるをえなくなった問題である。 幕府は交渉のため、文久遣欧使節(正使・竹内保徳)を送り、最終的にロンドン覚書やパリ覚書によって遅延が認められたが、代わりに輸入関税の低減化や特定品目の輸出自由化などの代償を負うことになった。

見る 幕末と両都両港開市開港延期問題

中山忠光

中山 忠光(なかやま ただみつ)は、江戸時代後期(幕末期)の公家。極官は従四位下侍従。過激な攘夷論者であり、天誅組の変を起こしたが敗れ、後に暗殺された。

見る 幕末と中山忠光

中山忠能

中山 忠能(なかやま ただやす/ただよし、1809年12月17日 - 1888年6月12日)は、江戸時代後期の公家、明治時代の日本の政治家、華族。位階勲等爵位は、従一位大勲位侯爵。明治天皇国母中山慶子の父にあたり、維新期に孫の明治天皇を補佐して倒幕に貢献し、明治政府において議定や神祇伯などを歴任した。華族の侯爵にも列した。

見る 幕末と中山忠能

中山道

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。

見る 幕末と中山道

中岡慎太郎

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日〈1838年5月6日〉 - 慶応3年11月17日〈1867年12月12日〉)は、日本の幕末の志士。陸援隊隊長。贈正四位(1891年〈明治24年〉4月8日)。

見る 幕末と中岡慎太郎

中御門経之

中御門 経之(なかのみかど つねゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治期にかけての公卿、華族。麝香間祗候、大納言、留守長官等を歴任する。位階勲等は、従一位勲一等。

見る 幕末と中御門経之

中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベル9の1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。

見る 幕末と中公新書

中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。

見る 幕末と中公文庫

中立

中立(ちゅうりつ、neutrality)とは、理念が無い状態。対立した際に、そのどちらにも属さない第三者の立場のことである。

見る 幕末と中立

七卿落ち

御手洗七卿落遺跡(広島県呉市) 徳山港にある五卿登陸碑(山口県周南市) 七卿落ち(しちきょうおち)は、1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件。

見る 幕末と七卿落ち

世直し一揆

世直し一揆(よなおしいっき)は、江戸時代後半から明治時代初期にかけて多発した一揆。

見る 幕末と世直し一揆

市場経済

市場経済(しじょうけいざい、market economy)とは、市場を通じて財・サービスの取引が自由に行われる経済のことである。対立概念は、計画経済である。また、市場機能を重視する経済のことを、特に市場主義経済(しじょうしゅぎけいざい)や自由主義経済(じゆうしゅぎけいざい)などと呼ぶことがある。

見る 幕末と市場経済

万延

は、日本の元号の一つ。安政の後、文久の前。大化以降224番目、240個目の元号。1860年から1861年の期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

見る 幕末と万延

万延小判

万延小判 万延小判(まんえんこばん)とは、万延元年4月9日(1860年5月29日)から鋳造が始まり翌4月10日(1860年5月30日)より通用開始された一両としての額面を持つ小判である。新小判(しんこばん)吹替えが行われる度に新しく鋳造された金銀は「新金」「新銀」と呼ばれるのが常であり、当時の文書には「新小判」と記録され、これが江戸時代最後の小判であるからその名称が残存した。あるいは雛小判(ひなこばん)とも呼ばれる。また万延小判および万延一分判を総称して万延金(まんえんきん)と呼ぶ。

見る 幕末と万延小判

万延元年遣米使節

万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した77名から成る使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。

見る 幕末と万延元年遣米使節

万国公法

万国公法(ばんこくこうほう)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、東アジア各国に多大な影響を与えた国際法解説書の翻訳名であり、同時に“” の現在の訳語「国際法」以前に使用されていた旧訳語でもある。以下では最初に翻訳命名されたの『万国公法』とその重訳本原語から一旦他言語に訳されたものを、さらに別の言語に訳した著作。を中心に記述し、この本がもたらした西欧起源の国際法がアジア諸国にどのように受容されていったかについても触れる。

見る 幕末と万国公法

三重津海軍所

三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)は佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所に所在し、佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設。 西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていた。実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造した。 2000年代に入り発掘・文献調査が進められ、2013年に国の史跡に指定、2015年には「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。 なお、名称が類似している三重県津市とは無関係である。

見る 幕末と三重津海軍所

三条実万

三条 実万(さんじょう さねつむ、)は、江戸時代後期の公卿。内大臣・三条公修の子。官位は従一位・内大臣、贈右大臣、贈正一位。明治期の元勲・三条実美の父。明治維新で忠成公の諡号を贈られた。

見る 幕末と三条実万

三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。三条家31代。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、)。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣臨時代理も兼任している。

見る 幕末と三条実美

下克上

下剋上/下克上(げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵し、権力を奪取する行為をさす。

見る 幕末と下克上

下田

下田(しもだ、しもた、しただ)は、日本の自治体名、地名などを指す。

見る 幕末と下田

下関市

下関市(しものせきし)は、山口県の西部、本州の最西端にある都市。中核市および中枢中核都市に指定されている。 海峡ゆめタワーから下関市中心部東側と関門海峡を望む(中央部に見えるのは関門橋、右上は北九州市門司区) 火の山から望む下関市中心部。

見る 幕末と下関市

下関戦争

下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。 敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。 歴史的には、元治元年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、文久3年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。馬関は下関市の古い呼び名。今では文久3年のことを下関事件、元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、文久3年のことを「下関事件」、元治元年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある。

見る 幕末と下関戦争

一会桑政権

一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治動向の中心地京都において、徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者により構成された体制。一会桑体制、一会桑権力ともいう。

見る 幕末と一会桑政権

一揆

一揆(いっき)とは、日本において、一つの目的のために成立した集団の組織またはその行動を意味した概念。 一揆の史学における研究は、中世の一向一揆や土一揆などから深められたため、民衆の一揆として捉えられ、領主(支配者)から禁じられるべきもので、民集の結合や暴動であるというイメージで捉えられるようになったとの指摘がある。しかし、例えば肥前松浦党は一揆契諾書に署名して結束を確認していた。日本史研究の初期の歴史学ではこれらの武士の結合は「党」(肥前国の松浦党や紀伊国の隅田党など)と呼び、一揆とは異なる継続的な政治的組織として分けて考えていた。これに対しては勝俣鎮夫などから中世の一揆について必ずしも反権力的なものに限られず、むしろ特定の作法や儀礼によって結ばれた組織であると主張されるようになった。また、近世の一揆についても、『編年百姓一揆史料集成』での調査から江戸時代の百姓一揆に武器が携行・使用された例は全体の1%弱であることがわかっている。こうしたことから歴史学における一揆のイメージの転換も示唆されるようになっている。

見る 幕末と一揆

一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川将軍家の一門である御三卿の一つ。単に一橋家とも言う。

見る 幕末と一橋徳川家

一橋派

一橋派(ひとつばしは)は、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、御三卿の一つである一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派。

見る 幕末と一橋派

丙辰丸

日の丸と、長州藩船を示す毛利家家紋の「一文字に三つ星」の旗を掲げている。なお、この図は旗の位置などが正確ではないhttp://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/index/page/id/679 『防長と海 -その記録と記憶-』26 長州藩洋式軍艦の図~丙辰丸と庚申丸~、山口県文書館。 丙辰丸(へいしんまる)は、幕末に長州藩で建造された西洋式帆船。長州藩最初の洋式軍艦として使用され、長州藩士と水戸藩士の密約締結の舞台にもなった。

見る 幕末と丙辰丸

九条家

九条家(くじょうけ、九條)は、藤原北家九条流嫡流である公家、華族の家。公家としての家格は摂家、華族としての爵位は公爵。五摂家筆頭で公爵家だった近衛家と双璧するほど高い格式を持った家で、やはり五摂家で公爵家だった二条家と一条家は九条家の分家である。

見る 幕末と九条家

九条尚忠

九条 尚忠(くじょう ひさただ)は、江戸時代後期の公卿。左大臣・二条治孝の十一男。実兄で権大納言・九条輔嗣の養子。官位は従一位・関白。九条家29代当主。 孝明天皇の妃・夙子(英照皇太后)は長女、大正天皇の后・貞明皇后は長男・道孝の四女。昭和天皇の曽祖父にあたる。

見る 幕末と九条尚忠

干支

干支(かんし、えと、干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。 暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。

見る 幕末と干支

平凡社ライブラリー

平凡社ライブラリー(へいぼんしゃライブラリー)は、平凡社が刊行する叢書レーベル。

見る 幕末と平凡社ライブラリー

平野国臣

平野 国臣(ひらの くにおみ)は、日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。変名に都甲楯彦、宮崎司、草香江水際、佐々木将監など。贈正四位。

見る 幕末と平野国臣

幕府陸軍

幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1860年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。幕府陸軍に対して海上任務を想定した幕府海軍も存在しており、これらをまとめて幕府軍と呼称する場合が多い。

見る 幕末と幕府陸軍

幕府海軍

幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。

見る 幕末と幕府海軍

幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。

見る 幕末と幕藩体制

幕末の外国人襲撃・殺害事件

ここでは、開国後から維新直後にかけて攘夷運動から頻発した、外国人襲撃・殺害事件を述べる。

見る 幕末と幕末の外国人襲撃・殺害事件

幕末の年表

幕末の年表(ばくまつのねんぴょう)は、江戸時代後期(幕末)に関する年表。 凡例。

見る 幕末と幕末の年表

幕末の人物一覧

幕末の人物一覧(ばくまつのじんぶついちらん) 幕末に活躍した人物の一覧。幕末の期間には明確な定義はないが、原則としてペリーアメリカ軍の黒船来航の1853年(嘉永6年)から1867年(慶応3年)の大政奉還まで活躍していた人物。 江戸時代の人物一覧・明治時代の人物一覧と一部重複する。

見る 幕末と幕末の人物一覧

幕末の砲艦外交

この項では、幕末の砲艦外交(ばくまつのほうかんがいこう)について概説する。

見る 幕末と幕末の砲艦外交

幕末の通貨問題

幕末の通貨問題(ばくまつのつうかもんだい)とは、日米和親条約締結後に決められた日本貨幣と海外貨幣の交換比率に関する問題。日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本から大量の金が流出した。

見る 幕末と幕末の通貨問題

久坂玄瑞

久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年(天保11年5月) - 1864年8月20日(元治元年7月19日))は、幕末の長州藩士。幼名秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。

見る 幕末と久坂玄瑞

久世広周

久世 広周(くぜ ひろちか)は、江戸時代末期の大名。下総国関宿藩主。関宿藩久世家7代。

見る 幕末と久世広周

久邇宮朝彦親王

久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう / くにのみや ともよししんのう、文政7年1月28日〈1824年2月27日〉 - 明治24年〈1891年〉10月25日 )は、日本の皇族。伊勢神宮祭主。神宮皇學館(現・皇學館大学)の創設者。伏見宮邦家親王の第4王子。久邇宮初代当主。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。香淳皇后(昭和天皇后)の祖父であり、明仁上皇の曽祖父、今上天皇の高祖父にあたる。

見る 幕末と久邇宮朝彦親王

久里浜

久里浜(くりはま)は、神奈川県横須賀市東部の地名。黒船来航の地である浦賀に岬を隔てて隣接し、ペリー艦隊の一行が上陸した場所として知られる。 この項目では横須賀市久里浜行政センター管轄内(岩戸、内川、内川新田、久比里、久村、久里浜、久里浜台、佐原、神明町、長瀬、ハイランド、舟倉、若宮台の13地区)にほぼ相当する地域の諸元および歴史について説明する。

見る 幕末と久里浜

京都守護職

京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末の文久2年(1862年)に将軍後見職、政事総裁職とともに設けられた江戸幕府の三要職の一つである。役料五万石。大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位。非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有する国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第四巻』吉川弘文館、1984年、p.341。

見る 幕末と京都守護職

京都見廻組

京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織。

見る 幕末と京都見廻組

京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。 永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府の侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。

見る 幕末と京都所司代

二条斉敬

二条 斉敬(にじょう なりゆき、)は、江戸時代後期から明治時代にかけての公卿。左大臣・二条斉信の次男。官位は従一位、関白、左大臣。二条家26代当主。日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政。茶の湯を嗜み、自作の茶杓などが現存している。

見る 幕末と二条斉敬

二本松少年隊

二本松少年隊群像 二本松少年隊顕彰碑 二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊。幕府側で戦った。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。

見る 幕末と二本松少年隊

広島市

広島市(ひろしまし)は、広島県の西部、安芸地方にある市。広島県の県庁所在地であり、中国・四国地方最多の人口を有する市。政令指定都市の一つ。 地方中枢都市の中では唯一、狭義の地下鉄が通っておらず(建設計画はあった→広島市営地下鉄)、市内交通は路面電車の広島電鉄とバスが担っている。 中国地方の中西部にあり、市域は中区・東区・南区・西区・安佐南区・安佐北区・安芸区・佐伯区の8区で構成されている。 中国地方を管轄する大企業の支店や官公庁の出先機関が置かれる支店経済都市・地方中枢都市でもある。

見る 幕末と広島市

広島藩

広島城 広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。現在の広島県の大半を占める浅野家時代は備後国の南西部が福山藩。。藩庁は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。

見る 幕末と広島藩

広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中國普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、Guangdong)は、中華人民共和国南部に位置する省。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。

見る 幕末と広東省

広沢真臣

広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日))は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治の武士(長州藩士)、政治家。維新の十傑の1人。賞典禄は1,800石。

見る 幕末と広沢真臣

五品江戸廻送令

五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)は、江戸幕府が1860年(万延元年)に発令した生糸・雑穀・水油・蝋・呉服を対象とした貿易統制法令。

見る 幕末と五品江戸廻送令

五稜郭

五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。

見る 幕末と五稜郭

五箇条の御誓文

200px 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、、The Charter Oath、五箇条の誓文とも)は、京都御所の正殿・紫宸殿で1868年4月6日(明治元年3月14日)原本の日付は「慶応四年戊辰三月」である。ただし、1868年10月23日(慶応4年9月8日)に出された改元の詔書により、同年は1月1日にさかのぼって明治元年と定められたため、「明治元年」でもある。に明治天皇が天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。

見る 幕末と五箇条の御誓文

庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある(酒井忠明を参照のこと)。

見る 幕末と庄内藩

井上勝生

井上 勝生(いのうえ かつお、1945年3月19日 - )は、日本の歴史学者。北海道大学名誉教授。専門は日本近代政治史(幕末、明治維新史)。博士(文学)(京都大学、1992年)。岐阜県生まれ。

見る 幕末と井上勝生

井上馨

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。

見る 幕末と井上馨

井上清直

井上 清直(いのうえ きよなお、文化6年(1809年) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))は、幕末の江戸幕府御家人(後に旗本)。 内藤歳由の三男、母は高橋誠種の娘。家禄現米80石の幕府御家人・井上新右衛門の養子。同じく旗本の川路聖謨は実兄。江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)は従弟。幼名は松吉。通称は新右衛門、官位は信濃守。

見る 幕末と井上清直

井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、江戸時代後期から幕末の譜代大名。近江彦根藩の第16代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、後に鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異体字:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。

見る 幕末と井伊直弼

廷臣八十八卿列参事件

廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)は、1858年(安政5年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。

見る 幕末と廷臣八十八卿列参事件

廃藩置県

1872年(明治4年12月)の地方行政区画(冨山房『大日本読史地図』) 廃藩置県(はいはんちけん、)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す(#その他の異動を参照)。 300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。

見る 幕末と廃藩置県

伊達宗城

伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族。位階は従一位、勲等は勲一等。江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定、外国事務総督などを務めて外交担当者となった。また民部卿・大蔵卿、清国への欽差全権大臣などを歴任した。

見る 幕末と伊達宗城

伊藤博文

伊藤博文(いとう ひろぶみ、、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 大久保利通らの路線を受け継いで初代内閣総理大臣に就任し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。 4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め、一次内閣時には大日本帝国憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた。その他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した。 今太閤とも称されたように、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引した、日本及びアジアの近代史を代表する人物の一人。

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会津藩

若松城 は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。

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会津戦争

戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。 同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。

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伏見街道

伏見街道(ふしみかいどう)は、。

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伝習隊

伝習隊(でんしゅうたい)とは、江戸幕府が陸軍(幕府歩兵)編成し、フランス軍事顧問団の直接指導を受けた西洋式軍隊のこと。精鋭部隊として戊辰戦争では旧幕府軍の主力となり、隊長の大鳥圭介は箱館政権において陸軍最高位の陸軍奉行となった。

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弾丸

ベルトリンクで連結された7.62x54mmR弾 弾丸(だんがん、)とは、火器から発射されて飛ぶ物体のこと広辞苑第六版「弾丸」。銃弾および砲弾の総称である。一般的には単に「弾(たま)」ともいう。

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弘化

弘化(こうか、旧仮名遣: こうくゎ、)は、日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。

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休戦協定

休戦協定(きゅうせんきょうてい)あるいは停戦協定(ていせんきょうてい、armistice)とは、戦争や武力紛争を行う双方の勢力が戦闘を停止するための協定。英語の "Armistice" は、ラテン語の arma(兵器)と stitium(停止)から来ている。

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佐幕

佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。

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佐賀藩

佐賀城の鯱の門 佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。

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佐野真由子

佐野 真由子(さの まゆこ、1969年-)は、日本の文化学者。専攻は文化交流史・文化政策。京都大学大学院教育学研究科教授。

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国犬上郡など近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊家。支藩として一時、彦根新田藩があった。

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彰義隊

彰義隊(しょうぎたい)は、幕末期の1868年(慶応4年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け、江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。

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但馬国

但馬国(たじまのくに、古文書では「儋馬國」と表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

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征夷大将軍

江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。

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御側御用取次

御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は、江戸幕府の役職のひとつで、将軍近侍職にあたる。

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御陵衛士

京都 御陵衛士屯所跡 御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織。高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代将軍(在任:1853年 - 1858年)。第12代将軍・徳川家慶の四男。

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。 徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男早世した兄がいたため次男とみなされることもある。であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっており年齢も家定より年上なのでどちらも将軍後継者候補 としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代将軍(在職:1837年 - 1853年)。

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徳川宗家

徳川宗家(とくがわそうけ)は、徳川氏の宗家。徳川氏は1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた。

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徳川昭武

京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ、、1853年〈嘉永6年〉10月26日 - 1910年〈明治43年〉7月3日)は、幕末から明治にかけての大名、華族。位階勲等は従一位勲一等。清水徳川家第6代当主を経て水戸徳川家を継ぎ、水戸藩第11代(最後)の藩主・藩知事を務めた。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。初名は松平 昭徳(まつだいら あきのり)初名の昭徳は、元は異母兄の池田慶徳に付けられていた。慶徳は、昭武の誕生以前に水戸家を出て、鳥取藩池田家を継いでいる。

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徳川斉昭

徳川斉昭と七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像(茨城県水戸市、千波公園) 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。 天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名・政治家・華族。尾張徳川家(尾張藩)第14代・第17代当主。明治維新後に議定、名古屋藩知事。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。

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後装式

後装式(こうそうしき)は、銃砲の装填方式を2つに大別した1つで、銃砲口から装填する前装式に対して銃砲身の尾部から砲弾と装薬を装填する方式である。 後込め、元込め、砲尾装填式とも呼ばれる。後装式の銃砲を後装銃、後装砲、ブリーチローダー(breechloader)と言う。後装式では銃砲の尾栓(閉鎖機)に工夫が必要となる。

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後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。

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信牌

信牌(しんぱい)とは、海舶互市新例によって、中国(清)船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証である。

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信越地方

信越地方(しんえつちほう)は、長野県と新潟県の総称である。令制国名の信濃国・越後国に因むが、旧佐渡国である佐渡島も一括りにすることが多い。 北陸3県(富山県、石川県、福井県)と併せて、北信越地方(ほくしんえつ)や北陸信越地方と呼ぶこともある。また、群馬県と併せて上信越地方、山梨県と併せて甲信越地方と呼ぶことがある。

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志士

志士(しし)は、一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。

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土佐勤王党

土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。土佐勤皇党と表記される場合もある。

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土佐藩

'''土佐藩'''の居城・'''高知城 ''' 土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内家が支配した。 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』。

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地主

地主(じぬし、)とは、(農地などの)土地を貸し付けて、それで得た地代(つまり「土地の貸し付け料」)を主たる収入として生活する人のこと『日本大百科事典』「地主」。地主というのは、古代から現代に至るまで存在するが、その存在のありかたは各時代において異なる。封建社会では、支配階級を構成する領主が地主(封建的土地所有者)として最高の領有権を持ち、農奴から地代を収取した(領主権という強力な権力にものを言わせて、取り立てた)。封建制から資本主義へ移行したのにともない、「地主的土地所有」は「近代的土地所有」へと転化し、地主の存在も社会のなかで変化してきた、という歴史がある。 このように地主の性質は時代(歴史)とともに変化してきているので、以下、古い時代から順を追って解説してゆく。地域ごとに歴史が異なるので、地域別に解説する。

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北ドイツ連邦

北ドイツ連邦の地図 北ドイツ連邦(きたドイツれんぽう、、)は、1867年4月26日にドイツ北部のプロイセン王国を主体に22の領邦から成立した連合体を指す。1871年のドイツ帝国(ドイツ国)の母体となり、機構の大部分は引き継がれた。 なお北ドイツ連邦は連邦国家(独:Bundesstaat)ではなく、領邦や自由都市の緩やかな連合体すなわち国家連合 (独:Staatenbund)であるとし、北ドイツ同盟と訳す考えもある。

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北白川宮能久親王

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。

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北越戦争

北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日〈1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。 なお、同時期に進行していた会津藩をめぐる戦闘については会津戦争を参照。

見る 幕末と北越戦争

北関東

北関東(きたかんとう)は、関東地方の北部または中北部地域を指す名称である。茨城県、栃木県、群馬県の3県、若しくは埼玉県を加えた4県。同じく関東地方の南部または中南部地域を指す呼称として南関東がある。

見る 幕末と北関東

北陸道

北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つで、本州の日本海側の中部の行政区分であった。また、古代から近世にかけて、同所を通る幹線道路を指す名称であった。

見る 幕末と北陸道

ナポレオン3世

ナポレオン3世(ナポレオン3せい、Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。本項でもそのように記述する。 フランス皇帝ナポレオン1世の甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年のフランス革命で7月王政が打倒されるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデターを起こし、独裁権力を掌握。

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ナショナリズム

ナショナリズム(nationalism)とは、国家という統一、独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想や運動を指す用語。日本語では内容や解釈により国家主義、国民主義、国粋主義、国益主義、民族主義などとも訳されている。パトリオティズムとは区別される。

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ミニエー銃

ミニエー弾の断面図、空洞内には半球型の鉄製カップが内蔵されている。銃を発射した時に、このカップが空洞の奥に食い込んでクサビのように作用し、弾丸を拡張させる。 ミニエー銃(ミニエーじゅう、Minié rifle)は、弾丸の空洞内に、弾丸の拡張を助ける役割を持つ鉄製のキャップが挿入されている弾丸を使用したパーカッションロック式(雷管式)の前装式ライフル歩兵銃の総称である。椎の実弾を使うライフル銃としては初期の物で、弾丸は1849年にフランス陸軍の大尉によって開発された。 本来は、滑腔銃身であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、とも呼ばれる。従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造される場合もあった。ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。

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マックス・フォン・ブラント

マクシミリアン・アウグスト・スツィーピオ・フォン・ブラント(, 1835年10月8日 - 1920年8月24日)は、プロイセン王国・ドイツ帝国の外交官、東アジア研究者。1862年から1895年にかけて日本に赴任して領事、総領事、公使を歴任した。

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マシュー・ペリー

版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)ごろ 1855-56年ごろのダゲレオタイプの写真 マシュー・カルブレイス・ペリー(、 1794年4月10日 - 1858年3月4日)は、アメリカ合衆国の海軍軍人。最終階級は海軍代将(Commodore、当時の日本語呼称で提督)。聖公会信徒。兄はオリバー・ハザード・ペリー。 江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」と表記されていた。

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ハリー・パークス

サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官。幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。

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ハーバード大学

ハーバード大学(ハーバードだいがく、Harvard University、略称:HU)は、マサチューセッツ州ボストン近郊のケンブリッジに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学。 イギリス植民地時代にマサチューセッツ湾植民地政府が1636年に設置したアメリカ最古の大学で、学部・大学院ともに各種ランキングで常に上位に位置する名門校としてアイビー・リーグの一角を占める。校名は創設初期の献金者だったジョン・ハーバードの名前にちなむEly Jacques Kahn Jr., Harvard: Through Change and Through Storm (W.

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ポサードニク (コルベット)

ポサードニク(ロシア語:Посадникパサードニク)は、ロシア帝国の保有した11門級コルベット(Корвет «11-пушечного ранга»)である。動力関係からは、蒸気機関で航走する機走コルベット(Винтовой корвет)に分類される。艦名は、ノヴゴロド公国やプスコフ公国など、ルーシの諸公国における官職名「ポサードニク」に由来する。

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モーリツ・ベニョヴスキー

モーリツ・ベニョヴスキー(Móric Benyovszky、Maurycy Beniowski 1746年9月20日 - 1786年3月23日)は、東欧出身の軍人、冒険家であり、その数奇な遍歴において鎖国中の日本を含む多くの国を訪れた。

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ヤン・ドンケル・クルティウス

ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius、1813年4月21日 - 1879年11月27日)は、江戸時代末期の最後のカピタン(オランダ商館長)、オランダの外交官。

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ヤクーツク

ヤクーツク(, Yakutsk, (ジョクースカイ))はロシア連邦に属するサハ共和国の首都。レナ川の中流に接しており、河港を持つ。人口は約32万人。 1632年に建設された要塞を起源とする。北東連邦大学やロシア科学アカデミーの支部がある。シベリアの強い寒気により冬季には気温が例年-30を下回り、最も寒かった記録では-64.4を記録している。

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ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト

ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829年5月5日、ブルッヘ - 1908年10月7日、ブリュッセル)は、オランダ海軍の二等軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。

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ライフリング

ライフリング (rifling) は、銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝を意味し、日本語では施条(しじょう)、あるいは腔綫(腔線)(こうせん、綫は線の別体。常用漢字でないため、「線」と書くこともある)、もしくは腔旋と呼ぶ『銃の科学』(かのよしのり著 サイエンス・アイ新書 2012年)18頁「1-05 ライフルとはなにか」。この螺旋状の浅い溝により、銃身内で加速される弾丸に旋回運動を与え、ジャイロ効果によって弾軸の安定を図り、直進性を高める目的で用いられる。 ライフリングのない滑腔銃砲身から椎の実弾を発射すると、旋転されない弾丸は空気抵抗を受けて横弾となったり、でんぐり返りながら飛ぶので命中精度はまったく期待できない(こうしたタイプの銃に、FP-45などの超至近距離用の簡易拳銃が存在する)。なお、同じく滑腔銃身の散弾銃用スラッグ弾は、さまざまな方法(設けた翼により、空気抵抗を受けて回転するなど)でジャイロ効果を発揮させている。

見る 幕末とライフリング

ライフル砲

ライフル砲(ライフルほう)とは、砲身内に施条(ライフリング)を持つ大砲である。

見る 幕末とライフル砲

ラザフォード・オールコック

フェリーチェ・ベアト撮影 サー・ジョーン・ラザフォード・オールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809年5月 - 1897年11月2日)は、イギリスの医師、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。開国前後の幕末日本見聞記『大君の都』の日本語訳は、長年重版している。

見る 幕末とラザフォード・オールコック

レオン・ロッシュ

ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches、1809年9月27日 - 1900年6月23日)は、フランスの外交官。駐日フランス帝国公使。幕末期の江戸幕府を支援した。

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ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ

ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ(英:Robert B. Van Valkenburgh、1821年9月4日 - 1888年8月1日)はニューヨーク代表のアメリカ合衆国下院議員。南北戦争では北軍の将校だった。幕末日本に駐在し、第3代アメリカ代理公使を務めた(1866–1869)。

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ロバート・H・プリュイン

ロバート・H・プリュイン(プルーイン、プライン、 、1815年2月14日 - 1882年2月26日)はアメリカ合衆国の法律家、軍人、外交官(駐日アメリカ合衆国弁理公使)、政治家である。

見る 幕末とロバート・H・プリュイン

ロンドン万国博覧会 (1862年)

1862年の第2回ロンドン万国博覧会(ロンドンばんこくはくらんかい, London International Exhibition on Industry and Art 1862, Expo 1862)は、1862年5月1日から11月1日までイギリスのロンドンで開催された国際博覧会である。サウスケンジントンの王立園芸協会のガーデン近く、現在ロンドン自然史博物館やサイエンス・ミュージアムなどの博物館がある場所を会場に開催された。 成功裡に終わった1回目のロンドン万国博覧会 (1851年)より規模は拡大したが、入場者はさほど増えず収支は芳しくなかった国立国会図書館電子展示会「博覧会」。特徴としては、国家主義が前面に出る万博となったこと、軍需産業の比重が高まったこと、産業機械製品ばかりでなく、彫刻や絵画といった美術品を数多く展示し、植民地からの製品も数多く展示するなど、展示品の幅が広がったことなどがある。

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ロンドン覚書

ロンドン覚書(ロンドンおぼえがき)とは、1862年(文久2年)に江戸幕府が派遣した文久遣欧使節(正使・竹内保徳)がイギリスと結んだ、日本の開市・開港を延期する覚書のことである。

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ロシア帝国

ロシア帝国(ロシアていこく、Россійская Имперія、ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。

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ロシア人

ロシア人(ロシアじん)、ロシア民族(ルースキエ;русскиеルースキイェ)は、東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を持つ。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心として旧ロシア帝国や旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。

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ロシア軍艦対馬占領事件

対馬 ロシア軍艦対馬占領事件(ロシアぐんかんつしませんりょうじけん)は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。

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ワシントンD.C.

コロンビア特別区(コロンビアとくべつく、District of Columbia)は、アメリカ合衆国の首都。アメリカ合衆国東部に位置する連邦直轄地である。東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。通称は、ワシントンD.C.(ワシントン・ディー・シー、Washington, D.C.)。 アメリカ合衆国連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。その構造は、首都としての機能を果たすべく設計された計画都市である同様な計画都市としては旧満州国の新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)、オーストラリアのキャンベラ、ブラジルのブラジリア(共に首都)がある。

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ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ

カッテンディーケ ウィレム・ヨハン・コルネリス・リデル・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke、1816年1月22日 - 1866年2月6日)は、オランダの海軍軍人、政治家。 日本においては単にカッテンディーケ、カッテンダイケ、カッテンデイケ、カッテンデーケなどと記されることが多いが、本来の姓は「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」で、「リデル」は騎士爵の称号である。

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ボルトアクション方式

ボルトアクション方式(ボルトアクションほうしき)とは、ボルト(遊底)を手動で操作することで弾薬の装填、排出を行う機構を有する銃の総称である。比較的簡素で堅牢な構造ながら当時の歩兵銃としては良好な速射能力を発揮したため、金属薬莢の普及とともに本方式のライフルは19世紀末期から第二次世界大戦初中期にかけて各国軍の歩兵主力兵器となった。主力兵器の座を自動小銃やそれを小型化したアサルトライフルに譲った現在も、この方式は狙撃銃などに多く利用されている。日本語では鎖閂式(ささんしき)とも呼ばれる。

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トーマス・ブレーク・グラバー

トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。 武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。 維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。

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ヘルハルト・ペルス・ライケン

ヘルハルト・ペルス・ライケン(1860年) 長崎海軍伝習所 ヘルハルト・クリスティアン・クンラート・ペルス・ライケン(Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken, 1810年1月10日 - 1889年5月2日)は、オランダの海軍軍人である。 安政2年(1855年)にスームビング号艦長として来日。同号は日本に贈呈され、観光丸と改名、日本で最初の蒸気船となった。それから約2年間、長崎海軍伝習所教授として日本に雇用された。主に航海術と運用術を担当し、勝海舟らの第一期生を教えた。スパルタ教官だったと言う。1857年にはヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケがライケンの職を継いだ。帰国したのち、海軍少将で外交顧問兼海軍大臣となる『』新異国叢書第10巻、雄松堂書店、1968年、緒言、p.

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ヘンリー・ヒュースケン

ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken, オランダ語名:ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヘースケン「フースケン」と発音されることもある。, Hendrick Conrad Joannes Heusken, 1832年1月20日 - 1861年1月15日)は、幕末伊豆国下田の玉泉寺に設置された駐日アメリカ総領事館の通弁官(通訳)。攘夷派によって暗殺された。

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プロイセン

プロイセン(、、、プロシア語: Prūsa)は、現在のポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)・リトアニアにかけての地域。歴史的には、北にグダニスク湾からクルシュー砂州にかけてのバルト海、そしてヴィスワ川流域西方からネマン川の間にある内陸の(Mazury)にかけての地域である。プロシア(普魯西)は、英語名(Prussia)に基づく名称である。 プロイセン公国とブランデンブルク辺境伯を起源とし、ドイツ統一(ドイツ帝国)の中核となったプロイセン王国(ドイツ語: Königreich Preußen、ポーランド語: Królestwo Prus)の国名は、この地域の名称に由来している。

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プロイセン王国

プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた。

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パリ

パリ市(パリし、Ville de Paris)、通称パリ(Paris、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。

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パリ万国博覧会 (1867年)

1867年のパリ万国博覧会(せんはっぴゃくろくじゅうななねんのパリばんこくはくらんかい, Exposition Universelle de Paris 1867, Expo 1867)は、1867年4月1日から10月31日までフランスの首都パリで開催された国際博覧会である。42か国が参加し、会期中1500万人が来場した。 このパリ万博は、日本が初めて参加した万国博覧会として有名である。また、ここで発表された水族館と電気にまつわる出展作品から、ジュール・ヴェルヌが『海底二万里』の着想を得たことでも知られる。

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パベル・レベデフ=ラストチキン

パベル・セルゲイビッチ・レベデフ=ラストチキン(ロシア語:Павел Сергеевич Лебедев-Ласточкин、ラテン文字表記:Pavel Sergeyevich Lebedev-Lastochkin)は、18世紀後半のロシア帝国ヤクーツクの商人。鎖国中の日本と接触した最初のロシア人の一人である。

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ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック

ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック 横浜の自宅 ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek、1833年8月29日アムステルダム - 1916年6月27日)は、日本で成功を収めたオランダの外交官。1863年7月、駐日総領事兼外交事務官に就任した。また、欧米諸国と日本との多くの外交交渉において主要な役割を果たした。また、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの代表も務め、一時的にではあるがプロイセンとスイスの代表も兼ねた。

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、)、通称フランス()は、西ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はパリ 日本国外務省(2022年12月7日閲覧)。フランス・メトロポリテーヌ(本土)のほか、フランス植民地帝国の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関を構成している。 フランス本土は、北は北海、イギリス海峡、大西洋(ビスケー湾)に、南は地中海に面する。陸上では、東はベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、イタリアと、西ではピレネー山脈でスペイン及びアンドラと国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家のモナコがある。 国際政治や安全保障、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義の大国、先進国の一つである。

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フランス軍

フランス軍(フランスぐん、Forces armées françaises)は、フランス陸軍()・フランス海軍()・フランス空軍()およびフランス国家憲兵隊()を保有するフランスの軍隊。仏軍とも。

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フランス軍事顧問団 (1867-1868)

第一次フランス軍事顧問団(1867-1868年)は、西洋式陸軍の訓練のために日本に派遣された、最初の顧問団である。顧問団の一部は、明治政府成立後も幕府側に加担し、戊辰戦争に参加した。

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フリントロック式

18世紀に使用されていた猟銃のフリントロック。燧石は挟まれていない。 フリントロック式(フリントロックしき、Flintlock)、燧発式(すいはつしき)または燧石式(すいせきしき)とは、マスケット銃などの火器で使われた点火方式の1つ。 開発された時期については諸説あるが、フランス人のマラン・ル・ブールジョワ(Marin le Bourgeoys)によって17世紀の初頭に完成された、とする説が有力である。 ここでいう「完成された」とは、装填時の暴発を防止するハーフコックの機能を備えたという意味で、それ以前にあったジャコビニアンロック等とはその点で区別される。 1840年頃から、より信頼性の高いパーカッションロック式(雷管式)に置き換えられた。

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フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク

フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵(, 1815年6月29日 - 1881年6月2日)は、で知られる幕末(ドイツ版は1848年 - 1870年)のプロイセン王国の外交官、政治家。1861年1月24日、江戸幕府との間に日普修好通商条約を成立させた。これは他のヨーロッパ列強と同様の不平等条約であったという説もある。

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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。出島の三学者の一人。 標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」「ジーボルト」に近いが、日本では「シーボルト」と表記されることが多い。

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フェリーチェ・ベアト

フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)は、イタリア生まれのイギリスの写真家。後に英語風にフェリックス・ベアト(Felix Beato)と名乗った。フェリス・ベアトあるいは苗字がベアートと表記されることもある。1863年から21年間横浜で暮らしたVisualizing Cultures, MIT, 2009。 東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人であり、また初期の従軍写真家の一人でもある。日常写真、ポートレイト、またアジアや地中海の風景や建物のパノラマ写真で有名である。ベアトはいくつもの国に旅行し、それらの国、人々、事件を撮影したが、遠く離れてそれらになじみの少ないヨーロッパや北アメリカの人々にとって記憶に残るものであった。

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ドライゼ銃

ドライゼ銃(ドライゼじゅう、Dreyse Zündnadelgewehr)は、1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。 この銃はプロイセンの銃工であったヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼによって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。 先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが国土拡張に転じたことによって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。 ドライゼ銃は、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構、および弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、撃針銃、旧日本軍の公文書にはドイツ語の Zündnadelgewehr の発音「ツュントナーデルゲヴェーア」から“普式ツンナール銃”と記されている。

見る 幕末とドライゼ銃

ドイツ関税同盟

ドイツ関税同盟(ドイツかんぜいどうめい、Deutscher Zollverein)は、プロイセンを中心としたドイツの諸邦国によって形成された関税同盟。1833年に成立し、翌1834年より正式発足。歴史学派の経済学者フリードリッヒ・リストが提唱した。

見る 幕末とドイツ関税同盟

ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский ニカラーイ・ニカラーイェヴィチュ・ムラヴィヨーフ・アムールスキイ;ラテン文字転写の例: Nikolai Nikolaevich Muraviyov-Amurskii、1809年8月23日(ユリウス暦8月11日) - 1881年11月30日(ユリウス暦11月18日))はロシア帝国の政治家、外交官、軍人。1847年東シベリア総督に就任後、ロシアの極東政策に深く関わり、1858年のアイグン条約によるロシア領土の大幅な拡大を成し遂げた人物である。また日本と交渉し、樺太の国境線を確定させた。なお、「アムールスキー」は「アムールの」という意味の渾名である。

見る 幕末とニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー

ニコライ・レザノフ

ニコライ・レザノフ ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東およびアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その短い生涯はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。

見る 幕末とニコライ・レザノフ

刈谷藩

刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。

見る 幕末と刈谷藩

列強

代替文。

見る 幕末と列強

切腹

切腹(せっぷく、Seppuku)は、刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)・伐腹(ばっぷく)・斬腹(ざんぷく)ともいう。日本では、主に武士などが行った独特の習俗。 海外でも日本独自の風習として知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として辞書に掲載されている。

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嘉永

は、日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。孝明天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。

見る 幕末と嘉永

善福寺 (東京都港区)

善福寺(ぜんぷくじ)は、東京都港区元麻布一丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は麻布山(あざぶさん)。「麻布山善福寺」あるいは単に「麻布山」と呼ばれることもある。東京都内では、浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つで、境内には著名人の墓も多い。浄土真宗関東七大寺の一つ。

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咸臨丸

咸臨丸(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

見る 幕末と咸臨丸

和宮親子内親王

親子内親王(ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。 「和宮」(かずのみや)は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。品位は二品、薨後贈一品。

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、、英語略称: 、、)は、北アメリカに位置し、大西洋および太平洋に面する連邦共和制国家。通称は米国(べいこく)またはアメリカ()。略称は米(べい)。首都はコロンビア特別区(ワシントンD.C.)。現在も人口の増加が続いており、2024/5/19時点で3億4160万5622人を記録する。

見る 幕末とアメリカ合衆国

アメリカ合衆国大統領

アメリカ合衆国大統領(アメリカがっしゅうこくだいとうりょう、、略称:)は、アメリカ合衆国の元首であり、行政府の長たる大統領。4年ごとに実施されるアメリカ合衆国大統領選挙によって選出される。

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アメリカ合衆国国務長官

アメリカ合衆国国務長官(アメリカがっしゅうこくこくむちょうかん、Secretary of State of the United States)は、アメリカ合衆国の外交を担当する内閣の1人。他国の外務大臣に相当する。大統領が指名し、上院の指名承認公聴会での質疑応答を経た後で、上院本会議にて出席議員の過半数以上の賛成多数をもって就任が承認される。なお初代国務長官はトーマス・ジェファーソンであった。2021年1月26日にバイデン大統領よりアントニー・ブリンケンが第71代国務長官に指名され、上院にて人事案の承認を経て就任している。

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アメリカ連合国

アメリカ連合国(アメリカれんごうこく、Confederate States of America, 略号:CSA)は、1861年から1865年まで存在した北米の未承認共和国である。1861年に分離独立を宣言してから、南北戦争でアメリカ合衆国と争ったが、1865年に降伏してアメリカ合衆国に再び併合された。

見る 幕末とアメリカ連合国

アメリカ海軍

アメリカ海軍(アメリカかいぐん、、USN)は、アメリカ合衆国の海軍である。アメリカ軍の6つの軍種の1つ。アメリカ合衆国に8個ある武官組織の1つ。

見る 幕末とアメリカ海軍

アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード (初代リーズデイル男爵)

初代リーズデイル男爵アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale, 、1837年2月24日 - 1916年8月17日)は、イギリスの外交官、政治家、収集家、作家、貴族。 幕末から明治初期にかけて、外交官として日本に滞在した。あだ名は「バーティ」。著名な「ミットフォード姉妹」の祖父に当たる。

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アロー戦争

アロー戦争(アローせんそう、第二次鴉片戰爭、Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。戦争の理由の一つであった、中国人による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、アヘン戦争に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の戦争であることから第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ばれる。この戦争で清は再び敗北し、不平等条約である天津条約や北京条約を締結させられ、アヘン輸入の合法化を強いられることになった。

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アントン・ポートマン

アントン・L・C・ポートマン(Anton L. C. Portman、生没年不詳)は、アメリカ合衆国の外交官。 日本の同時代資料にはホットメン(省略されている半濁点を補えばポットメン)として現れる。

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アントニウス・ボードウィン

アントニウス・ボードウィン アントニウス・フランシスクス・ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日 - 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。父はフランシスクス・ドミニクス・アンドレアス・ボードウィン、母はマリア・ヤコバ・マション。弟に駐日オランダ領事を務めたアルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィン(アルベルト・ボードイン)がいる長崎歴史文化博物館。

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アーネスト・サトウ

サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。雅号に薩道静山。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者の武田久吉は次男。

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アームストロング砲

アームストロング砲(アームストロングほう、)は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1854年に発明した大砲。初めて大規模に実用化された後装式のライフル砲である。

見る 幕末とアームストロング砲

アヘン戦争

アヘン戦争(アヘンせんそう、鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。

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アダム・ラクスマン

アダム・ラクスマン アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(, 、1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民の大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。

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イギリス

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、英語略称: 、、)、通称イギリスは、ヨーロッパ大陸北西岸に位置し、グレートブリテン島、アイルランド島北東部その他多くの島々から成る立憲君主制国家。首都はロンドン。日本語における通称の一例として、英国(えいこく)がある(「国名」を参照)。 イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという歴史的経緯に基づく4つのカントリー(「国」)が、同君連合型の単一主権国家を形成している。また、2020年1月31日まで欧州連合(略称:EU)に属していたが離脱した (ブレグジットを参照)。イギリスは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、G7・G20に参加する先進国である。また、経済協力開発機構、北大西洋条約機構、欧州評議会の原加盟国である。

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ウィレム2世 (オランダ王)

ウィレム2世(、ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク・ファン・オラニエ=ナッサウ、、1792年12月6日 - 1849年3月17日)は、第2代オランダ国王(在位:1840年10月7日 - 1849年3月17日)、ルクセンブルク大公(ドイツ語名:ウィルヘルム2世、Wilhelm II.

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エンフィールド銃

エンフィールド銃(エンフィールドじゅう、Enfield Rifle Musket)とは、イギリスのエンフィールド造兵廠で開発されたパーカッションロック式の前装式小銃(施条銃)である。弾丸は、初期にガス圧で拡張するプリチェット弾、後期にプラグを使って拡張するエンフィールド弾を使用したので、ミニエー銃ではなくライフルマスケットに分類される。1853年から1871年までイギリス軍の制式小銃として使用され、4つのバージョンが存在するほか、銃身長の異なるタイプ(2バンド・3バンド)が製造された。この記事では、1853年型の解説を行う。 1866年以降は一体型の実包を使うスナイダー・エンフィールド(Snider-Enfield)への改造が進められた。日本では幕末の1864年頃から輸入されるようになり、戊辰戦争でもっとも多く使用された。

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エンゲルベルト・ケンペル

ケンペルの想像図 エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー、Engelbert Kämpfer、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。

見る 幕末とエンゲルベルト・ケンペル

エフィム・プチャーチン

エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(、1803年11月8日(グレゴリオ暦11月20日) - 1883年10月16日(グレゴリオ暦10月28日))は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、教育大臣(在任期間:1861年6月26日 – 1861年12月25日)。 1853年に日本の長崎に来航。その後1855年には、日本と日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した。

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エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)

エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、 (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。 プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。

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オランダ

オランダ(,, Nederlân, Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。それ以外にも、カリブ海に海外特別自治領としてBES諸島と呼ばれる、ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島がある。 オランダは世界において、報道の自由、経済的自由、人間開発指数、クオリティ・オブ・ライフの最上位国の一つである。2019年では、世界幸福度報告では世界第5位、一人あたりGDPでは世界第7位、人間開発指数で10位であった。

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オランダ風説書

オランダ風説書(オランダふうせつがき、阿蘭陀風説書)は、日本が鎖国政策をとっていた時期に江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類である。

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オランダ東インド会社

ロゴ historicalオランダ東インド会社の旗 オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC。1602年 - 1799年)は、ネーデルラント連邦共和国でアムステルダム証券取引所と同時に設立された植民地会社。アメリカに植民地ニューネーデルラントを創設したが、これをオランダ西インド会社に移管したのちアジア貿易に従事していた。 世界初の株式会社といわれている。また商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとなってアジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。

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オーガスタス・レオポルド・キューパー

サー・オーガスタス・レオポルド・キューパー(Augustus Leopold Kuper、1809年8月16日 - 1885年10月28日)は、英国王立海軍の提督で祖先はドイツ系、バス勲章の受勲者である。薩英戦争および下関戦争の司令官を務めた。 1837年6月19日にサー・ジェームズ・ジョン・ゴードン・ブレマー(James John Gordon Bremer)の長女であるエマ・マーガレットと結婚している。

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オットー・フォン・ビスマルク

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen, 1865年からビスマルク=シェーンハウゼン伯爵〈Graf von Bismarck-Schönhausen〉,1871年からビスマルク侯爵〈Fürst von Bismarck〉, 1890年からラウエンブルク公爵〈Herzog zu Lauenburg〉、1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、ドイツ(プロイセンおよびドイツ帝国)の政治家。 プロイセン王国首相(在職1862年 - 1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年 - 1871年)、ドイツ帝国宰相(在職1871年 - 1890年)を歴任した。

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カムチャツカ半島

カムチャツカ半島(カムチャツカはんとう、Полуостров Камчатка パルオーストラフ・カムチャートカ、あるいはカムチャッカ)は、ユーラシア大陸の北東部にある半島である。南南西方向に伸びた半島であり、面積は37万平方キロメートル、長さ約1200キロメートル、最大幅は約480キロメートルある。気候は亜寒帯気候からツンドラ気候。日本では、古くはと呼んでいた。現在、全域がロシア連邦の領土であり、以前は南部がカムチャツカ州、北部がコリャーク自治管区に属していたが、2007年7月に両地域が合併してカムチャツカ地方となった。

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カピタン

カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)は、江戸時代にオランダ東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。ポルトガル語のは、英語のに相当する、即ち「船長・隊長」の意である。南蛮貿易時代最初の交易国がポルトガルだったため西洋の商館長をと呼んでいたが、オランダが取って代わってからもオランダ語の商館長を意味するにはならなかった。

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ガルトネル開墾条約事件

ガルトネル開墾条約事件(ガルトネルかいこんじょうやくじけん)あるいはガルトネル事件(ガルトネルじけん)は、日本の幕末から明治時代最初期にかけ、函館(当時、箱館)における開墾地租借契約をめぐりプロイセン貿易商との間で発生した外交事件である。

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ガトリング砲

ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。 複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。 固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲(Gatling gun)」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「rotary cannon」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。

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キリスト教

キリスト教(キリストきょう、Χριστιανισμός、Christianitas、Christianity)は、イエスを救い主(キリスト、メシア)として信仰する宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年、第一版、714頁。「」デジタル大辞泉、小学館、コトバンク。。キリスト教では、イエスが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(「三位一体」)として信仰する。基督教とも表記される。 2020年時点で、世界における信者数(キリスト教徒)は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての宗教の中で最も多い。

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ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール

ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt、1817年2月23日 – 1881年7月29日)は、フランスの外交官で初代駐日フランス帝国領事(後、公使に昇進)。1858年の日仏修好通商条約に基づいて日本に派遣され、1859年から1864年までその職にあったMedzini, p.22。

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クーンラート・ハラタマ

クーンラート・ヴォルテル・ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama、1831年4月25日 - 1888年1月19日)は、オランダの化学者で、幕末から明治初めにかけて、長崎および大阪で教え、日本の理化学教育の創始に貢献した。

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クーデター

クーデター()とは、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる変革のことを指す。 フランス語で「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ、)、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup」(クー)と表記されることが多い。中国語では「政変」という。 クーデターは支配階級内部の権力の移動にすぎず、被支配階級が権力を奪取し、体制そのものの変革を図る革命とは性格を異にする。したがって、革命は既存の体制の転覆であるが、クーデターは支配階級内部の権力争奪にすぎず、一般に支配階級の一部が自己の権力をさらに強化するために、あるいは他者がもつ権力を奪取するために遂行される。

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グレゴリオ暦

グレゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。 グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日。

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グイド・フルベッキ

グイド・フルベッキことギドー・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者・宣教師。

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ゲベール銃

ゲベール銃(ゲベールじゅう)とは、前装式、滑腔銃身(ライフリングがない)、フリントロック式(燧石式)、またはパーカッションロック式(雷管式)の洋式小銃である。すなわち、マスケットと呼ばれるものと同一であるが、幕末の日本では特にこう呼ぶものである。 「ゲベール」(Geweer、標準ドイツ語の「ゲヴェーア (Gewehr) に該当」)とはオランダ語で「小銃」を意味するが、本来のオランダ語での発音は「ヘヴェール」に近い。

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シャスポー銃

シャスポー銃(シャスポーじゅう、、正式には)は、1870-1871年の普仏戦争で使用されたフランス軍のボルトアクション後装式歩兵銃である。

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ジョン・ボウリング

サー・ジョン・ボウリング(バウリング、 、1792年10月17日 - 1872年11月23日)は、イギリスの政治経済学者、旅行家、翻訳家、政治家。第4代香港総督。漢字表記は宝寧、宝霊(マンダリン風)もしくは包令(広東語風)。

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ジョン・ニール

エドワード・セント・ジョン・ニール(Edward St. John Neale、1812年 - 1866年12月11日)は、イギリスの軍人、外交官。生麦事件、薩英戦争の際に駐日英国代理公使を務めた。

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ジョン・カルフーン

ジョン・コールドウェル・カルフーン(John Caldwell Calhoun, 1782年3月18日 - 1850年3月31日)は、アメリカ合衆国の19世紀前半の政治家。民主共和党所属。強力な知性を持つカルフーンは当時のあらゆる問題に対して雄弁に語ったが、しばしばその立場を変えることがあった。その政治経歴は国家主義者、保護貿易の提唱者として始められた。その後彼は立場を州の権限、小さな政府、、および自由貿易に切り替えた。彼はその気性の激しさ、奴隷制度の擁護、少数派の権利拡大、南部の合衆国からの脱退に関してよく知られる。

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ジェームズ・ブキャナン

ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(James Buchanan, Jr., 1791年4月23日 - 1868年6月1日)は、アメリカ合衆国の政治家。第15代大統領を務めた。18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、ペンシルベニア州から選出された初の大統領でもある 2人目はジョー・バイデン。『文藝春秋オピニオン 2021年の論点100』2021年1月1日、p.114。 ブキャナンは人気があり経験豊富な州の政治家で、非常に成功した弁護士であった。彼はペンシルベニア州選出の下院議員となり、後には上院議員に転身、アンドリュー・ジャクソン内閣ではロシア担当大臣を務めた。また、ポーク内閣では国務長官も務めている。2017年時点では国務長官を経験した最後の大統領である。最高裁長官の指名を断った後、ピアース内閣ではイギリス担当大臣を務め、オステンド・マニフェストの作成を手助けした。

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ジェームズ・ビドル

ジェームズ・ビドル(James Biddle、1783年2月18日 - 1848年10月1日)は、フィラデルフィアの名門出身のアメリカ海軍の士官。東インド艦隊司令長官として浦賀に来航、アメリカとして初めて公式に開国を求めた。ビッドルと呼ぶ場合もある。

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ジェームズ・ホープ

サー・ジェームズ・ホープ(Sir James Hope、1808年3月3日 - 1881年6月9日)は、イギリス海軍の元帥でバス勲章の受勲者。東インド・中国艦隊の司令官として、幕末の対日政策に影響を与えた。

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ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)

right ジェームズ・スターリング(Admiral Sir James Stirling, 1791年1月28日 - 1865年4月23日)は、イギリスの海軍将校、政治家、外交官。 1804年海軍入隊。ナポレオン戦争、米英戦争に参加した。 1827年、西オーストラリアに植民地を設立するためパースとフリーマントル周辺の現地調査を行った。1831年から1838年まで初代州総督を務めた。任期終了後は海軍に復帰し、地中海艦隊の軍艦の艦長に任命された。主な任務はマルタを拠点にフランス軍を警戒することだった。その後、東インド・中国艦隊の司令官に任命された。 1854年9月7日、スターリング提督率いるイギリス艦隊が長崎に来港、江戸幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳と目付永井尚志が同年10月14日(旧暦嘉永7年8月23日)、日英和親条約に調印した。

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スペンサー銃

スペンサー銃(スペンサーじゅう)、スペンサー連発銃(スペンサーれんぱつじゅう、英:Spencer repeating rifle)は、管状弾倉装填式のレバーアクションライフルである。 南北戦争中の北軍、特に騎兵隊に採用された。しかし当時の標準装備である前装式ライフルマスケットを置き換えることはなかった。 スペンサー騎兵銃(スペンサーきへいじゅう、Spencer carbine)は騎兵向けに短銃身化されたカービン。

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スナイドル銃

スナイドル銃(スナイドルじゅう、Snider-Enfield スナイダーエンフィールド)とは、イギリスのエンフィールド造兵廠 (RSAF) が前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したの名に由来する。 今日広く使用されているセンターファイア式実包に使用される、ボクサー型雷管の原型となった口径14.7 mmのボクサーパトロン (.577 Snider) を使用した。 1866年にイギリス陸軍が制式採用した。日本にも明治維新前後から輸入されるようになり、明治7年(1874年)には旧日本陸軍の制式歩兵小銃として採用された。

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スネル兄弟

スネル兄弟 / シュネル兄弟(スネルきょうだい / シュネルきょうだい)は、江戸時代末期(幕末)の商人。兄はジョン・ヘンリー・スネル(、日本名:平松 武兵衛〈ひらまつ ぶへえ〉、1843年? - 1871年?)。弟はエドワルド・スネル(、1844年? - 没年不明)。長らくオランダ出身とされていたが、プロイセン出身であること、彼らの父の仕事の都合により、オランダの植民地であったインドネシアで育ったこと、そして、開港直後に横浜に来たことが判明した。

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タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス(, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、民主党員、聖公会信徒。「タウンゼンド・ハリス」とも表記される。 江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。ニューヨーク市立大学シティ・カレッジを創設した教育者でもある。

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サンクトペテルブルク

'''人工衛星写真'''サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург,, IPA: )は、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市で、レニングラード州の行政府がある(レニングラード州の州都は別の都市)。人口は約560万人で、首都モスクワに次ぎロシア第2の都市である。1711年から1917年まで、約206年にわたってロシア・ツァーリ国とロシア帝国の首都だった古都でもある。

見る 幕末とサンクトペテルブルク

備中松山藩

松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。

見る 幕末と備中松山藩

備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。

見る 幕末と備後福山藩

唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。

見る 幕末と唐津藩

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。

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内覧

内覧(ないらん)とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職。本項ではこれを扱う。 転じて、事前展示により一般公開前に特定の人(上得意、会員カード保有者など)に商品などを公開することを内覧、または内覧会とも言う。また、特定の取引先などをターゲットにした展示会も内覧会という。

見る 幕末と内覧

出島

出島(でじま、Dejima、Deshima)は、1634年江戸幕府が対外政策の一環として長崎に築造した日本初の本格的な人工島、扇型で面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVOC)を通して対オランダ貿易が行われた。 明治以降は長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり扇形の面影は失われたが、出島全体は1922年(大正11年)10月12日「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定され、1996年(平成8年)より江戸当時の姿への復元を目指す長崎市が出島復元整備事業計画(後述)を進めている。

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函館市

函館市(はこだてし)は、北海道南部(道南地方)に位置し、渡島総合振興局に属する市。 北海道南端の渡島半島南東部で天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。振興局所在地であり、札幌市・旭川市に次ぐ北海道第3位の人口(約24万人)を有する中核市である。

見る 幕末と函館市

函館港

西防波堤と副堤 函館港(はこだてこう)は、北海道函館市に位置している港湾。港湾管理者は函館市。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。

見る 幕末と函館港

凌霜隊

凌霜隊(りょうそうたい)は、慶応4年(1868年)に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊。戊辰戦争において、旧幕府側に立って新政府軍と戦った。

見る 幕末と凌霜隊

問屋

問屋(といや、とんや)とは、現代における一般的意味としては卸売業者を指すが、歴史用語及び法律用語として用いられる場合は異なる意味を持つ。

見る 幕末と問屋

八月十八日の政変

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期の1863年9月30日(文久3年8月18日)に発生した政変。 孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したクーデター。堺町御門の変(さかいまちごもんのへん)、文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)などとも呼ばれる。

見る 幕末と八月十八日の政変

公卿

公卿(くぎょう)は日本の律令の規定に基づく太政官の高官で、国政を担う最高の職位をさす。 すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官を指す(総称して議政官という)。 平安時代に、「公」は大臣、「卿」は参議または三位以上の廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、京都御所に仕える上級廷臣を指した。 公卿は、国政の公務に準ずる職位として、政所・荘園を持つことが許された。

見る 幕末と公卿

公家

日本の公家 公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、源氏・平氏・藤原氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。

見る 幕末と公家

公武合体

公武合体(こうぶがったい、)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。

見る 幕末と公武合体

元号

内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。 インターネット配信された。 元号(げんごう、、)または年号(ねんごう、)とは、古代中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2024年(令和6年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体年号による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。

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元治

は、日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。大化以降226番目、242個目の元号。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

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兵庫開港要求事件

兵庫開港要求事件(ひょうごかいこうようきゅうじけん)は、慶応元年9月(1865年11月)、イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件。アメリカ合衆国は艦隊を派遣しなかったものの公使が同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件などともよばれる。

見る 幕末と兵庫開港要求事件

前装式

前装式のL16 81mm 迫撃砲を使用する陸上自衛隊 前装式の艦砲 前装式の銃に、弾を込める人々 前装式(ぜんそうしき)は、火器での装填方式の1つであり、砲身や銃身の先端側ガンバレルから弾薬を装填する方式である。先込め、砲口装填式、マズルローディング(muzzle loading)とも呼ばれる。そのため前装式の銃砲は「前装銃」や「前装砲」「マズルローダー」(muzzle loader)とも呼ばれる。 対義語はガンバレル後端側の薬室から装填する「後装式」、「元込式」「ブリーチローダー」(breech loader)である。

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勝海舟

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。東京都本所出身。

見る 幕末と勝海舟

勤王

勤王(きんのう、勤皇とも言う)とは、王や天皇に忠義を尽くすことである。

見る 幕末と勤王

勘定奉行

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。勘定所の最高責任者で財政や幕府直轄領を支配する郡代や代官の指揮監督などを司った。 寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。

見る 幕末と勘定奉行

勅許

ジョージ4世が1827年に認可した、キングス・カレッジ・トロント(現トロント大学)を設立する勅許状。 1829年のキングス・カレッジ・ロンドンの勅許認可を祝う彩色版画(H. D. スミス作)。 勅許(ちょっきょ、)または勅許状(ちょっきょじょう)とは、君主が、大権に基づき発する公的な認可である。英米法系の国々と、日本などの国では法的位置付けが異なる。 英米法系の国々においては、歴史的には公法の公布のために用いられてきた。最も知られた例はイギリスの1215年のマグナ・カルタ(またの名を大憲章、)である。14世紀以降は、個人または団体に法的な権利または法人格を与える私法としてのみ用いられてきた。自治体()、大学や学会などの重要な組織の設立のため用いられることもあり、この点は現代においても同様である。

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回天丸

回天丸(かいてんまる)は、幕末期の江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本のコルベットである。 宮古湾海戦における活躍で知られている。

見る 幕末と回天丸

四侯会議

四侯会議(しこうかいぎ)は、慶応3年(1867年)5月、京都において設置された諸侯会議である。有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。幕末に流行した公議政体論の流れの中で、薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、慶喜との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。この結果、薩摩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。 ※本項における日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。

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四稜郭

ステレオ空中写真(1976年) 国土航空写真 四稜郭(しりょうかく)は、箱館戦争において蝦夷共和国(箱館政権)が、1869年(明治2年)に五稜郭の北方(現在の北海道函館市陣川町)に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。国の史跡。 なお、北海道北斗市の松前藩戸切地陣屋跡(国指定史跡)も構造の観点から「四稜郭」と述べられることがある。

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四斤山砲

四斤山砲(よんきんさんぽう, 仏語:Canon de montagne de 4 rayé modèle 1859, Canon de montagne de 4 La Hitte )とは、1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲である。「四斤」とは、砲弾重量が4キログラムであることを意味する幕末軍事史研究会(2008年)、90頁。。日本でも幕末から明治初期にかけて主力野戦砲として使用された。

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倒幕運動

倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。 主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。 これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(今日の都道府県知事)の前身にあたる。藩名を冠す場合には◯◯藩知事(◯◯はんちじ)と語順が入れ替わる(→「知藩事と藩知事」節を参照)。

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石井寛治

石井 寛治(いしい かんじ、1938年2月3日 - )は、日本の経済学者・歴史学者。専門は日本経済史。経済学博士(東京大学・論文博士・1974年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員。東京府(現・東京都)出身。妻は元恵泉女学園大学学長の石井摩耶子。

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玄武隊

玄武隊(げんぶたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、50歳から56歳までの武家の男子によって構成された予備隊の部隊である。総督は黒河内式部で、隊員は約400名。他に白虎隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「玄武」からである。

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王政復古 (日本)

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火縄銃

火縄銃(江戸時代) 愛知万博のポルトガル館展示物) 火縄銃(姫路城天守閣蔵) 火縄銃(ひなわじゅう、Matchlock gun / Arquebus)は、初期の火器の形態のひとつで、黒色火薬を使用し、前装式で滑腔銃身のマスケット銃のうち、マッチロック式(火縄式)と分類される点火方式のものをさす。日本では小型のものを鉄砲、大型のものを大筒と称した。 マッチロック式は、板ばね仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造である。 火縄銃は、15世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した。最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。

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火薬

本記事では火薬や火薬類について解説する。

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火打石

火打石(ひうちいし)とは、鋼鉄片の火打金にとがった石英などを打ちあわせて出る火花を火口に点火する「火花式発火法」に用いる硬質の石、またその発火具。古くは燧石とも表記される。 材質としては玉髄、チャート、石英、ジャスパー、サヌカイト、黒曜石、ホルンフェルスなどが用いられた。西ヨーロッパなどでは白亜層や石灰層に産出し、ドーヴァー海峡の両岸などに多数あるフリント型チャートの一種であるフリントを用いたため、欧米の翻訳から始まった考古学や歴史学では火打石=フリントという誤解が生じた。 ヨーロッパの石器時代には黄鉄鉱(パイライト。ギリシャ語で火の石という意味)や白鉄鉱の塊にフリントを打ちつけて火花を飛ばし、発火具とした考古学的な資料もあるが、鋼鉄の火花と違って温度が低く、木と木をこすり合わせる摩擦発火具に比べて必ずしも効率がよくはなかった。古代以降は鋼の火打金と硬い石を打ち合わせる発火具が普及した。

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獄門

江戸時代の獄門(『古事類苑』) 獄門に懸けられる信西の首(『平治物語絵巻』) 獄門(ごくもん)とは、日本において行われた、死後に首を晒しものにする刑罰。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいう。斬首刑執行後に晒しものにする場合と、戦死・自害など死刑以外の死因による死者の首を胴体から切り離して晒しものにする場合の両方を含む。斬首と晒し首を一体の刑罰として獄門と呼ぶこともある。 元来は、平安京の左右衛門府(検非違使)に隣接する獄所(拘置所)の門を指す。朝廷の命により討ち取られた者の首が運ばれ、その門前に一時的においた。朝廷の命により討ち取られ者と確認された後、東もしくは西市へ移送し木に吊るして晒したが、その後、移送せず門前の楝(おうち)の木に吊るすようになった。

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琉仏修好条約

琉仏修好条約(りゅうふつしゅうこうじゃうやく、Convention entre la France et les Iles Liou-tchou)は、1855年11月24日(咸豊5年・安政2年10月15日)に琉球王国とフランス第二帝政(フランス帝国)が締結した通商条約。 琉蘭修好条約及び琉米修好条約とともに「三条約」と総称される。ただし、本条約の仏語文にはタイトルが付されているが、漢語文の原文にはタイトルが見られない。名称については「条約」ではなく「約定」「協約」「協定」を当てる場合もある。また、琉球とアメリカやフランスとの間の文書の英文や仏文では"CONVENTION"とされているのに対し、オランダとの間の文書では"TRAKTAAT"(条約)と明記されており、区別するため「約条」と訳されることもある。

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく、)は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家。正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」は琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに日本復帰後最初の沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である。

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砲術

砲術(ほうじゅつ)。

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磐城平藩

磐城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた藩である。藩庁は磐城平城(いわき市平)。

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神戸港

神戸港(こうべこう)は、兵庫県神戸市にある港湾。港湾法上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、スーパー中枢港湾の指定を大阪港と共に受けている。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港。港湾管理者は神戸市。 港則法・関税法上は、尼崎西宮芦屋港・大阪港・堺泉北港と合わせて阪神港の一部とみなされ、阪神港神戸区となる(港則法上は特定港に指定されている)。 神戸港夕景(新港第一突堤から西を望む)。

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神戸海軍操練所

海軍操練所跡碑 神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の元治元年(1864年)5月に、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。慶応元年(1865年)まで続いた。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。本項では勝海舟の私塾「海軍塾」についても触れている。

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禁門の変

禁門の変新選組研究家の中村武生により「元治甲子戦争」という名称が提唱されているが、すでに水戸において同年発生の天狗党の乱を「元治甲子の乱」とも呼んでいる。(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。

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福岡孝弟

福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日〈1835年3月3日〉- 大正8年〈1919年〉3月7日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代をゆえに北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。

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福地源一郎

福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の幕末の幕臣。明治時代の政論家・劇作家・小説家河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。。幼名八十吉(やそきち)。号星泓のち櫻癡(おうち、新字体:桜痴)、別号吾曹。福地桜痴の名で知られる。東京日日新聞社長、最晩年は衆議院議員西田長寿「福地源一郎」『世界大百科事典』26巻350頁(平凡社、1981)、河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。 「江湖新聞」発刊で筆禍を得、大蔵官僚を経て東京日日新聞社主筆・社長に就任。当時の言論界・政界に大きな影響力を揮ったが、のち声望傾き西田長寿「福地源一郎」『世界大百科事典』26巻350頁(平凡社、1981)、河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)、退社後は演劇改良運動に傾注して活歴劇を創始河竹繁俊「福地桜痴」久松潜一他4名編『現代日本文学大事典』965頁(明治書院、1965)。

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秋田戦争

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)などが、薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)・肥前藩(現在の佐賀県)などと共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。

見る 幕末と秋田戦争

秋月悌次郎

秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。

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第二回天

第二回天(だいにかいてん)は、幕末に箱館政権が所有していた軍艦。元は秋田藩所有の新政府軍艦高雄丸(たかおまる)。

見る 幕末と第二回天

第二次世界大戦

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日または9月2日まで約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。また、中立国も存在した。最終的には連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。 1939年8月23日の独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻が発端であり、終結後の2019年に欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている。そして同月のイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。

見る 幕末と第二次世界大戦

筑波山

筑波山(つくばさん)は、日本の関東地方東部、茨城県つくば市北端にある標高877 m(メートル)の山。筑波山神社の境内地で西側の男体山(標高871 m)と東側の女体山(標高877 m)からなる。雅称は紫峰(しほう)。筑波嶺(つくばね)とも言い、茨城県のシンボルの一つとされている。

見る 幕末と筑波山

箱館戦争

箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。

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篠田鉱造

篠田 鉱造(篠田 鑛造、しのだ こうぞう、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1965年〈昭和40年〉3月18日)は、日本の新聞記者、実話蒐集作家、明治文化研究家。俳人としての号は胡蝶。

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米墨戦争

メキシコ。アルタ・カリフォルニアは領土の最北西に位置する。 米墨戦争(べいぼくせんそう、, )は、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の間で戦われた戦争。アメリカ・メキシコ戦争とも呼ばれる。 アメリカ合衆国においては、メキシコ戦争()として知られている。メキシコにおいてはアメリカ合衆国のメキシコ介入(, )、。

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。

見る 幕末と紀州藩

紀元

紀元(きげん)とは、ある出来事が起こった年を始点として、それから何年経過したかで時間を測定する、無限の紀年法である。

見る 幕末と紀元

紙製薬莢

紙製薬莢(かみせいやっきょう)とは、小火器が用いる多様な種類の弾薬の中の一種で、金属製薬莢が出現する以前に使用されていたものである。こうした弾薬は紙製の筒もしくはコーン状に成型されたものに弾頭と発射薬を詰めて構成された。また少数の例では雷管や潤滑剤、銃身の詰まりを防ぐための薬剤が使われた。燃尽式薬莢は紙製薬莢であり、これは紙が点火によって完全に燃え尽きやすくなるよう、酸化剤で処理したものである。

見る 幕末と紙製薬莢

維新の十傑

維新の十傑(いしんのじっけつ)は、明治維新に尽力した志士のうち、山脇之人『維新元勲十傑論』(1884年3月刊)において挙げられた特に優れた10人を指す名数。 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成る。10人ともに幕末から明治まで生き抜いたが、明治に入り3人が病死、7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。

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織物

手織機で織る女性(インド) 織物(おりもの)とは、糸を縦横に組み合わせて作った布地である。織物を作ること、あるいはその織り方や風合いを織り(おり)といい、完成した製品(織物)も技法や産地を冠して「〜織」(おり)というものが多い。漢字では伝統的に植物繊維による織物を「布」、絹織物を「帛」といい、両者をあわせた布帛(ふはく)も織物を指すことばである。また、織物は英語風にテキスタイルまたはテクスタイル(英語:textile)とも呼ばれる。 織物は一般的には織機で製作される。織機は「はた(機)」とも呼び、織機を使って織ることを機織り(はたおり)とも言う。織機の基本的な原理は、経糸(たていと)を張りその間に緯糸(よこいと)を通すもので、この通し方(織り方)と糸の素材や太さ等によって、布地の基本的な性格が決まる。代表的な織り方には平織・綾織(斜文織)・繻子織の3種があり、これを「三原組織(さんげんそしき)」と呼び、更に絡み織(綟り織、もじりおり)を加えて四原組織とする場合もある。これらの組織を複雑にしたり、使用する糸の色や太さ等を変えたり、あるいは多様な染色を施すことによって、複雑な染織品が生産される。

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義祭同盟

義祭同盟(ぎさいどうめい)、または楠公義祭同盟は、佐賀藩士で藩校弘道館教授で国学者の枝吉神陽が中心となり、1850年(嘉永3年)に佐賀城下で設立した結社。南北朝時代の武将楠木正成、正行親子の忠義を讃える祭祀(義祭)を執り行う崇敬団体。 この義祭同盟から、実弟の枝吉次郎(副島種臣)のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇、久米邦武ら、明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出した。神陽は水戸の藤田東湖と並び「東西の二傑」と称される。 龍造寺八幡宮境内の義祭同盟之碑(右)。

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翔鶴丸

翔鶴丸(または翔鶴、しょうかく、しやうかく)は幕府海軍、明治政府の運輸船(または軍艦)。 日本海軍艦籍の第2号。 艦名は「上空を翔る鶴」の意味#艦船名考(1928)pp.2-3。

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真木保臣

真木 保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年4月7日)『世界大百科事典』 41頁。 - 元治元年7月21日(1864年8月22日)『世界大百科事典』 42頁。)は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。父は真木旋臣、母は中村柳子。神官として従五位下・和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。雅号は紫灘(したん)。贈正四位。

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絹 カイコの繭 絹(きぬ, Silk)は、カイコの繭からとった動物繊維である。カイコが体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。独特の光沢と滑らかな質感を持ち、古来、衣類の材料(絹織物)などとして珍重されてきた。 カイコの繭を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられ始めたのは19世紀(明治維新)以降であり、昔の文献や製品にあたる際には現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野生の繭を使う野蚕絹に分けられる。

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生麦

生麦(なまむぎ)は、神奈川県横浜市鶴見区の地名。現行行政地名は生麦一丁目から生麦五丁目。住居表示実施済み区域。1980年(昭和55年)7月28日に廃止された生麦町(なまむぎちょう)についてもこの項で述べる。 文久2年8月21日に生麦村を通行していた薩摩藩国父である島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を薩摩藩士が殺傷(無礼討ち)する事件が発生し(生麦事件)、この事件を発端に薩英戦争と呼ばれる薩摩藩とイギリスとの戦争が勃発した。

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生麦事件

生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年(1863年)7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。 後年、事件の現場付近に建てられた石碑が京急本線生麦駅近くに残っており同所にて平成22年12月より首都高速神奈川7号横浜北線建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。、1988年(昭和63年)11月1日に市の地域史跡に登録された。

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生野の変

生野の変(いくののへん)は、幕末の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(現在の兵庫県朝来市生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱、生野義挙とも言う。

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田沼意次

田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)。第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である「田沼時代」に名前を残す。

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由利公正

由利 公正(ゆり きみまさ / ゆり こうせい、文政12年11月11日〈1829年12月6日〉- 明治42年〈1909年〉4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。

見る 幕末と由利公正

甲陽鎮撫隊

甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)は、慶応4年(1868年)に新選組が旧幕府から甲府鎮撫を命ぜられた際の名称である。 なお、本稿では甲陽鎮撫隊の編成についてのみ述べる。編成されて以降、甲府までの進軍過程ならびに甲州勝沼での新政府軍との合戦については甲州勝沼の戦いを参照。

見る 幕末と甲陽鎮撫隊

無主地

無主地(むしゅち)とは、所有者の定まっていない土地のことである。主に国際法と日本史の分野で用いられるが、その土地に対する法律などは大変複雑である。

見る 幕末と無主地

異国叢書

『異国叢書』(いこくそうしょ)は、16世紀から19世紀にかけて来日した西洋人の、日本に関する見聞録・研究書などを日本語訳して刊行した叢書である。1927年(昭和2年) - 1931年(昭和6年)刊、全13巻。続編として『新異国叢書』(1968年(昭和43年) - 2005年(平成17年)刊、全35巻・索引1巻)がある。

見る 幕末と異国叢書

留萌

留萌(るもい)。

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特命全権公使

特命全権公使(とくめいぜんけんこうし、)とは、外交使節団の長の上から2番目の階級であり、接受国の国家元首に対して派遣される者である(最上位は接受国の国家元首に対して派遣される特命全権大使、第3位は接受国の外務大臣に対して派遣される代理公使())。

見る 幕末と特命全権公使

版籍奉還

版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。

見る 幕末と版籍奉還

相楽総三

相楽 総三(さがら そうぞう、天保10年(1839年) - 慶応4年3月3日(1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。江戸出身。赤報隊隊長。

見る 幕末と相楽総三

白虎隊

白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。 会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた。

見る 幕末と白虎隊

SIG XM5 RPK 銃(じゅう)とは、筒状の銃身から弾丸を発射する道具であり、大砲(砲)より小型の物を指す。

見る 幕末と銃

銃口

銃口(じゅうこう)。

見る 幕末と銃口

銃床

銃床(じゅうしょう、Stock:ストック、Buttstock:バットストック)は、銃やクロスボウの照準を安定させ、発射時の反動を抑えるために、肩に当てる部品を指す。吊り紐や二脚と併用すれば、さらに発砲時の安定が得られる。本来の銃床は銃のframe(フレーム)と呼ばれる部分で、銃床の前部(手を添える部分)を前床、後部(肩に当てる部分)を後床または台尻と言う。特に木製のものを木被といった。

見る 幕末と銃床

銃剣

G3用の銃剣。銃身の上側に着剣する SG550用の銃剣。銃身の下側に着剣する 銃剣(じゅうけん)は、銃の先端部に装着して、槍のような戦い方ができるように工夫された武器のことである。現代ではが一般的だが、歴史上では刺突に特化したのものも多い。 銃剣を装着できる小銃のことを「銃剣銃」と称することがある。また、歴史的には、江戸末期から昭和初期頃までは着剣状態の小銃を「剣付き鉄砲(けんつきでっぽう)」とも言った。

見る 幕末と銃剣

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

見る 幕末と鎌倉幕府

鎖国

鎖国(さこく、)とは、江戸幕府が、オランダ(及び一時期のイギリス)を除くキリスト教国の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。

見る 幕末と鎖国

遠国奉行

遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。

見る 幕末と遠国奉行

適塾

適塾 適塾説明板 適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福澤諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。

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萩城

萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城。別名は、指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。 現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。

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萩原延壽

萩原 延壽(はぎはら のぶとし、1926年(大正15年)3月7日 - 2001年(平成13年)10月24日)は、日本の歴史家・作家。1976年から1990年まで、休載を挟みつつ1,947回にわたり朝日新聞に連載した『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)の著者で知られる。姓の萩原は「はぎはら」と読むのが正しい萩原延壽:みすず書房が、間違って「はぎわら」と読まれることがある。名の「延壽」は「延寿」と表記されることがある。

見る 幕末と萩原延壽

蝦夷地

近世における蝦夷地(えぞち)とは、松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島、およびサハリン島(樺太島)や千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。大部分はアイヌの居住地であったが、他所から移り住む和人も存在した。またサハリン島では樺太アイヌ以外にウィルタやニヴフも居住していた。1869年に北海道の名称が定められると用いられなくなった。

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蝦夷共和国

蝦夷共和国(えぞきょうわこく、)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した旧江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。蝦夷政権、箱館政権、北海道共和国とも言う。

見る 幕末と蝦夷共和国

靖兵隊

靖共隊(せいきょうたい)は、幕末に出来た旧幕府軍に属する組織。精兵隊は誤読・誤記から派生した。

見る 幕末と靖兵隊

青龍隊

青龍隊(せいりゅうたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、36歳から49歳までの武家の男性によって構成された国境守備隊である。総督は黒河内式部で、隊員は約900名。他に白虎隊、玄武隊、朱雀隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「青龍」からである。

見る 幕末と青龍隊

頬を側面から見たところ 頬(頰、ほお、ラテン語:buccae、英語:cheek チーク)とは、。

見る 幕末と頬

頼三樹三郎

大蘇芳年(月岡芳年)画) 頼三樹筆 頼 三樹三郎(らい みきさぶろう、1825年7月11日(文政8年5月26日) - 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。諱は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。

見る 幕末と頼三樹三郎

領事

領事(りょうじ、consul)は、外国に駐在して自国民の保護及び自国の通商の促進にあたる外交官の一種。またその業務内容。領事が職務を行う機関として領事館がある。また、領事には大使その他の外交官に準じた特権・免除(領事特権)が認められているが、その範囲は外交特権よりも狭い。

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領事裁判権

領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、外国人がその在留国において本国の領事による裁判を受ける権利をいう。日本が江戸時代に締結した不平等条約などにみられる。 例 日本で外国人が殺人をしたが日本人が裁くのではなくその外国人の国の人が裁く。つまり被告人に対し罪が軽くなる場合がある。

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額兵隊

額兵隊(がくへいたい)は、江戸時代末期(幕末)に仙台藩で結成された洋式銃隊(西洋式軍隊)である。

見る 幕末と額兵隊

飯泉喜内

飯泉 喜内(いいいずみ きない、文化2年(1805年) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士。初め渡辺六蔵を名乗った。諱は唯明、のち友輔。別称は一蔵。

見る 幕末と飯泉喜内

装甲艦

装甲艦(そうこうかん)は、鉄ではなく鋼の装甲を施した軍艦を指す用語である。日本では甲鉄艦ともいい、明治時代にはより一般的な名称であった。装甲艦という種別は装甲の存在を表すものであり、艦の用途や艦形に関するものではない。そのため動力も手漕ぎ、帆走や蒸気機関による機走などさまざまなものが用いられ、船の大きさも数百トン程度から一万トンに及ぶものまで、実に様々であった。 なお、19世紀末以降20世紀前半の戦艦、装甲巡洋艦から発展した巡洋戦艦も、19世紀以来の定義では装甲艦であるが、今日ではこれらを別分類とし、初期の装甲艦のみを指す艦種名称として用いられることが多い。

見る 幕末と装甲艦

西尾藩

西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多家(膳所)、松平家 (大給府内)、太田家、井伊家(与板)、増山家、土井家(刈谷)、三浦家、松平家(大給西尾)が就封した。

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西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。

見る 幕末と西郷隆盛

西欧

西欧(せいおう)。

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親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「ら く」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍の指揮を執り戦争に出ることを広く指す。

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親藩

は、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。

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観光丸

観光丸(かんこうまる、)は江戸幕府の、後に軍務官直轄(明治政府)の軍艦(コルベット)。 観光とは、中国の『易経』の「観国之光(国の光を観る)」からとったものである#銘銘伝2014pp.191-192。ちなみに観光旅行等の「観光」は、この後にここからとった言葉であるという。

見る 幕末と観光丸

香港総督

香港総督旗 (1959年-1997年) 香港総督(ホンコンそうとく、Governor of Hong Kong、香港總督/香港总督、略称港督)は、イギリス政府により任命されて植民地時代の香港を統治し、香港政庁の首長である。日本の占領時には、日本政府任命による総督が居た。

見る 幕末と香港総督

駐日アメリカ合衆国大使

駐日本国アメリカ合衆国大使(ちゅうにほんこくアメリカがっしゅうこくたいし)とは、日本に駐在するアメリカ合衆国連邦政府が派遣した特命全権大使。在日本アメリカ合衆国大使(ざいにほんアメリカがっしゅうこくたいし)、駐日米大使(ちゅうにちべいたいし)ともいう。

見る 幕末と駐日アメリカ合衆国大使

駐日英国大使

駐日本国英国大使(ちゅうにほんこく えいこくたいし)とは、日本に駐在するイギリス政府が派遣した特命全権大使。

見る 幕末と駐日英国大使

駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。明治時代に再設置され、府藩県三治制により明治2年8月7日(1869年9月12日)に静岡藩(しずおかはん)となった。

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討幕の密勅

討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書、または綸旨である。

見る 幕末と討幕の密勅

騎兵

騎兵(きへい、cavalry, trooper)は、兵種の一つで、動物、主に馬に騎乗して戦闘行動を取る兵士である。最初はロバが使用されていたが、後に馬が主流になった。最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であったが、後に動物に跨る騎兵に移行していったサイモン・アングリム『戦闘技術の歴史1 古代編』創元社142頁。 騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。狭義には乗馬したまま戦闘するものだけを騎兵と呼び、下馬して戦闘するものを乗馬歩兵 (mounted infantry) と呼んで区別することもある。

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高崎正風

高崎 正風(たかさき まさかぜ、1836年9月8日(天保7年7月28日 ) - 1912年(明治45年)2月28日は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、作詞家、歌人。通称は左太郎、他に伊勢、左京、豊麿とも。号は宝義堂。長男元彦は日露戦争で戦死し、その跡は正光、正人と続く。

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高輪

高輪(たかなわ)は、東京都港区の町名。現行行政町名は高輪一丁目から高輪四丁目。郵便番号は108-0074(高輪局管区)。

見る 幕末と高輪

高杉晋作

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉)は、日本の武士(長州藩士)。幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊などの諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)6月に発足講談社サイトでは「学術文庫」と表記している担当者(出版部長)による回想記は下記池永陽一『学術の森の巨人たち 私の編集日記』(熊本日日新聞社、2015年)宇田川眞人『日本に碩学がいたころ』(三恵社、2013年)。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多いが、合本改版や改訂再刊、電子書籍化されることもある。

見る 幕末と講談社学術文庫

講武所

講武所(こうぶしょ)は、幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。はじめ江戸の築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、のちに神田小川町に移転する。

見る 幕末と講武所

鯖江藩

鯖江藩(さばえはん)は、越前国今立郡西鯖江村の鯖江陣屋(現在の福井県鯖江市)に藩庁を置いた藩。1720年に譜代大名の間部氏が5万石で入る。幕末期の藩主間部詮勝は老中となるが、井伊直弼のもとで安政の大獄を指揮したため、1862年にその責を問われて減封などの処分を受ける。以後、4万石の藩として廃藩置県まで続いた。

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。

見る 幕末と鳥羽・伏見の戦い

鳥羽街道

鳥羽街道(とばかいどう)は、京都の羅城門跡(京都市南区)から鳥羽を通り淀(京都市伏見区)へと至る街道である。淀からは大坂へと通じる道が続いており、京街道、大坂街道とも呼ばれた。

見る 幕末と鳥羽街道

鳳凰丸

鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。 鳳凰は聖天子が国を治める時に現れる想像上の鳥で、「鳳」が雄で「凰」が雌を指す。

見る 幕末と鳳凰丸

資本主義

サンパウロ証券取引所(2007年4月)。 資本主義(しほんしゅぎ、capitalism)または資本制は、国政によってよりも営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業が制御(コントロール)されている、経済的・政治的システム。特に近現代の資本主義の根幹は、自由資本主義・リベラルキャピタリズム(liberal capitalism)と呼ばれており、資本主義を肯定・擁護・推進する思想や主張は、普通は自由主義とされる。資本主義に基づく社会は「資本主義社会」「市民社会」「近代社会」「ブルジョア社会」等という。 資本主義は封建主義の後に現れた体制である。産業革命および、アメリカ独立革命やフランス革命等の資本主義革命(市民革命)によって確立された。資本主義は、一切全てを商品化していく「市場システム」であり、かつ、諸々の近代国家に蓄積・競合をさせる「世界システム」でもあるという。その主体は企業であり、これが物財やサービスを生産し流通させている。構造的には、資本(としての生産手段)を私有する資本家が、労働者から労働力を買い、それを上回る価値のある商品を生産し、利潤を得ている。

見る 幕末と資本主義

越後長岡藩

長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域および三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀家(8万石)、のちに牧野家に交替した。牧野家の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ6万2千石、後に加増されて7万4千石になった。正徳2年(1712年)の内高は約11万5300石、。

見る 幕末と越後長岡藩

鷹司輔煕

鷹司 輔煕(たかつかさ すけひろ、名の表記は輔凞、輔熈とも)は、江戸時代末期(幕末)の公卿。孝明天皇時代の関白、藤原氏摂関家鷹司家の当主。東山天皇の男系五世子孫(皇別摂家)である。

見る 幕末と鷹司輔煕

鷹司政通

鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家。東山天皇の男系四世子孫。曽祖父は閑院宮直仁親王。祖父は関白・鷹司輔平。父は関白・鷹司政煕、母は正室で徳島藩主・蜂須賀重喜の娘・蜂須賀儀子。正室は水戸藩主・徳川治紀の娘・鄰姫(徳川清子)。

見る 幕末と鷹司政通

鹿児島城

1873年以前に撮影された御楼門 鹿児島城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 石垣と水堀 鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山町(薩摩国鹿児島郡城山麓)にあった江戸時代の日本の城。別名鶴丸城(つるまるじょう)。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。 1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。

見る 幕末と鹿児島城

軍艦操練所

軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)は、江戸幕府が幕末に海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関である。築地軍艦操練所とも呼ぶ。

見る 幕末と軍艦操練所

黒船

ナオ。黒色で塗られているため黒船と呼ばれた 黒船(くろふね)は、大型の西洋式航洋船のことで、語としては江戸時代の前から近世の日本で用いられた。

見る 幕末と黒船

黒船来航

ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。

見る 幕末と黒船来航

龍岡城

龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市田口にあった日本の城。幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。龍岡藩は1万6千石の小藩で、城主の格式は認められていないため、厳密には城ではなく田野口陣屋であった。日本に二つある五芒星形の星形要塞のうちの一つである(もう一つの例は北海道函館市の五稜郭)。別名は龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城。国指定の史跡。

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近代

近代(きんだい、〈モダン・ピリオド〉, 〈モダン・タイムス〉, 〈モダン・エイジ〉)とは、現代に近い時代(時代区分)、または現代。広義には「近世」と同義だが、一般的には封建主義時代(近世)より後の資本主義社会・市民社会の時代を指す。

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近衛忠煕

近衛 忠熈(このえ ただひろ、)は、江戸時代後期の公卿。官位は従一位・左大臣、関白。贈正一位。勲一等。翠山と号す。 左大臣を務めた近衛基前の長男として生まれ、近衛家の第27代当主となった。母は徳川宗睦の養女(松平義当の娘)・静子。左大臣や関白などを歴任し、公武合体派として活動した。

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近藤茂左衛門

近藤 茂左衛門(こんどう もざえもん、寛政11年11月8日(1799年12月4日) - 明治12年(1879年)6月6日)は、幕末の志士。諱は弘方。楽平斎、道林と号した。 信濃国松本城下で名主を務める近藤弘美の家に生まれる。生家は旧藩主水野氏の松本入封に従い、寛永19年(1642年)以来、同地で飛脚問屋、麻問屋、醸造や薬舗を生業としており、江戸では祖父の代から水戸藩邸の用達も務めていた。幼い頃から学問に励み、弟の貞一郎とともに出雲の神官中村守臣や、その師匠にあたる香川景樹に国学や和歌を学んだ。母は伊那郡の旗本(伊那衆)座光寺氏の家老堀尾直賢の三女で、貞一郎は母の出身地である伊那郡山本村の旗本(旧近藤藩主の末裔)近藤石見守の家臣久保田信右衛門に養子入りし、山本姓を名乗った。

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近江屋事件

近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において殺害された事件。実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である。

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錦の御旗

錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。「朝敵」討伐者の旗。承久の乱(1221年〈承久3年〉)に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。

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茅根伊予之介

茅根 伊予之介(ちのね いよのすけ、文政7年(1824年) - 安政6年8月27日(1859年9月23日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。本姓は藤原氏。家系は常陸国の豪族小野崎氏の一門茅根氏。諱は為宜、泰。字は伯陽、士誠。号は寒緑。

見る 幕末と茅根伊予之介

航海遠略策

航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。後述するように長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に提唱したものが特に有名である。他に佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形にし、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものである。異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折した。

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阿部正外

阿部 正外(あべ まさと/まさとう)は、江戸時代後期の旗本・譜代大名・老中。陸奥国白河藩の第7代藩主。忠秋系阿部家(豊後守家)15代。初め旗本だったが、後に本家を継いで大名となり、幕府の要職を歴任した。

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阿部正弘

阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。

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阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。徳島県にあたる。

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赤報隊

赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。

見る 幕末と赤報隊

赤蝦夷風説考

『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)は、江戸時代中期の医師・経世家(経済学者)である工藤平助が著したロシア研究書。天明初年(1781年)に下巻が先に書かれ、天明三年に序文・上巻と付属する地図2枚が成稿された岩崎奈緒子「「加摸西葛杜加国風説考」の歴史的意義」、九州史学研究会(編)『境界から見た内と外』 下 岩田書院 2008年 ISBN 978-4-87294-534-8 pp.59-75.。写本の中には『加摸西葛杜加国風説考』の書名を持つものがあり、この名称を正とする研究も定着しつつある。また「魯西亜略説」などの異名もある。またのちに最上徳内が『別本赤蝦夷風説考』という書を著しているが、内容は全くの別物である。

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鵜飼吉左衛門

鵜飼 吉左衛門(うがい きちざえもん)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。

見る 幕末と鵜飼吉左衛門

鵜飼幸吉

鵜飼 幸吉(うがい こうきち、文政11年(1828年) - 安政6年8月27日(1859年9月23日))は、幕末期の水戸藩士。父は鵜飼吉左衛門知信、母は佐々木氏。諱は最初は知好、後に知明と改名。幼名は菊次郎。

見る 幕末と鵜飼幸吉

関口製造所

関口製造所(せきぐちせいぞうしょ)は、江戸幕府が幕末に設置した兵器製造工場である。「関口大砲製造所」とも呼称された。明治政府に官収され、その設備は東京砲兵工廠へ引き継がれた。本項では、「湯島大小砲鋳立場」に始まる江戸幕府の洋式兵器製造の歴史を含めて記述する。

見る 幕末と関口製造所

関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国葛飾郡(現在の千葉県野田市)関宿三軒家に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。

見る 幕末と関宿藩

関税自主権

関税自主権(かんぜいじしゅけん)とは、国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。一般に関税自主権が話題にあがる時は、関税自主権がない事について述べられることが多いが、一般にここでいう「関税自主権がない」とは他国が勝手に税率を設定できることを指すのではなく、税率の改定に他国との交渉を必要とする状態を指す(協定税率)。 日本史においては、江戸幕府末期に諸外国と結ばれた不平等条約に関する話題として関税自主権が取り上げられることが多い。 現在の日本は世界貿易機関(WTO)協定に基づきほとんど品目について協定税率を設定しているが、この状態を捉えて「関税自主権がない」とはいわれない。これは不平等条約における関税自主権の喪失は、片務的であったが、現在の協定税率は相手国の交渉に基づき互恵的(相手国も義務を負う)に設定されているからである。

見る 幕末と関税自主権

関白

関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が就きうる最高の職位であった。敬称は殿下。

見る 幕末と関白

関門海峡

航空機内から撮影した関門海峡。上が下関市、下が北九州市門司区。 火の山駅より撮影) 夜景(同上) 関門海峡(かんもんかいきょう)は、日本の本州(山口県下関市)と九州(福岡県北九州市)を隔てる海峡。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を取ったものである。穴戸海峡(あなとかいきょう)、馬関海峡(ばかんかいきょう)、下関海峡(しものせきかいきょう)とも称された。 2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として日本遺産に認定された。

見る 幕末と関門海峡

薩土盟約

薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬まで結ばれていた、薩摩藩と土佐藩の間の政治的提携。薩土連約などともいう。(これより1ヶ月前に、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた薩土同盟に関しては薩土密約の項を参照)。

見る 幕末と薩土盟約

薩長同盟

薩長同盟所縁之地石碑(京都市上京区) 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいう。

見る 幕末と薩長同盟

薩長土肥

薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。西海道と南海道の有力諸藩で「西南雄藩」。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治政府に人材を供給させた。

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薩英戦争

薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日 – 4日〈新暦: 1863年8月15日 – 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国 (イギリス当時はアイルランド島全体がイギリス領であった。)の間で起こった戦闘である。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。 薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。

見る 幕末と薩英戦争

薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。

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薬莢

薬莢(やっきょう、Case, Étui)または薬きょうは、銃砲の発射薬を詰める容器であり、これを用いると弾頭や火薬を銃砲へ迅速に装填することができる。また、発射薬を湿度や乾燥など環境の影響から保護することも、薬莢の重要な役割である。 現代では、薬莢は真鍮や軟鋼などの金属で作られている場合が多い。金属薬莢の利点は、発射時に発生する高温・高圧ガスの漏れを防ぐことができる点にある。

見る 幕末と薬莢

間部詮勝

間部詮勝寓居跡、京都市中京区寺町通二条下る東側 間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、江戸時代後期の大名。越前鯖江藩第7代藩主。間部家8代。幕末に老中首座を務めた。

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開国

開国(かいこく)とは、「鎖国」という言葉の対義語として、すなわち外国との交流を行うことを表す意味でよく用いられる。大日本帝国では、開国進取が国是とされていた。 この言葉には歴史的な用例として同時に〈建国〉、〈開拓〉などの意味もあった。大島明秀によれば、この言葉には「鎖国」と同様に文明的に〈進んでいる/遅れている〉ことに対する眼差しも内包されており、日本が歴史書の中で、中国や朝鮮の歴史を「鎖国」/「開国」と刻印していった営為の背景には、そのような眼差しが潜んでいるという。 丸山眞男は「開国」(『忠誠と反逆』)で「第二の開国」論を展開した。松本健一は『開国のかたち』で丸山に倣って「第三の開国」論を唱えた。

見る 幕末と開国

開陽丸

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型フリゲート。 江戸幕府大老井伊直弼の意思を継いだ老中安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で、オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ入港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが柏倉p.9、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。 1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した柏倉p.1。大砲やシャフト等の遺構から古文書まで3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。

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開成丸

開成丸は仙台藩の洋式帆船、軍艦。 「開成丸」は2檣スクーナーで、水線長9丈、甲板長11丈、甲板最大幅2丈5尺であった。 仙台藩主伊達慶邦は安政2年4月に藩校である養賢堂の学頭大槻習斎らを大銃及び軍艦製造係に任命し、大槻の指揮の元で養賢堂が中心となって「開成丸」は建造された。安政2年冬に大槻によって派遣された養賢堂兵学主任小野寺鳳谷と船大工2名は君沢形の建造や「鳳凰丸」、「旭日丸」を視察し、また長崎で造船関係の技術などを学んだ三浦乾也と出会った。安政3年1月18日、造艦命令が出され、仙台に招聘された三浦が総棟梁に任命された。造船場は寒風沢島に設けられ、8月26日に起工式を実施。安政4年6月28日に進水して「開成丸」と命名され、同年11月に完成した。

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開成所

開成所(かいせいじょ / かいせいしょ)は、文久3年(1863年)に設置された江戸幕府の洋学教育研究機関である。

見る 幕末と開成所

藤田小四郎

藤田 小四郎(ふじた こしろう、天保13年(1842年) - 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。水戸天狗党の首領格。贈従四位(1891年)。

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藤本鉄石

藤本鉄石邸址、京都市中京区御幸町通三条上る東側 藤本 鉄石(ふじもとてっせき、文化13年3月17日(1816年4月14日) - 文久3年9月25日(1863年11月6日))は、幕末の志士・書画家。諱は真金。通称を学治・津之助、字を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数の号がある。 岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。

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蒲生君平

蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩の林子平や上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。

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肩(かた、英:shoulder)とは、。

見る 幕末と肩

野砲

野砲(やほう、Field gun)は、大砲の一種。定義は時代により異なるが、口径100mmクラス以下の軽カノン砲(加農)。

見る 幕末と野砲

野村望東尼

野村望東尼像 平尾山荘 野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうに - 日本経済新聞朝刊女性面 2013年7月20日 - 福岡市の文化財(福岡市経済観光文化局文化財保護課))、文化3年9月6日(1806年10月17日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))は、幕末の女流歌人・勤王家。贈正五位。

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野戦築城

野戦築城(やせんちくじょう、Field Fortification)は、軍隊が野戦を実行している際、必要に応じて攻撃・防御を問わず防護性を高めつつ戦闘力の発揮を容易にするための、土地に施す工事とその結果建設された各種構築物のことを言う。

見る 幕末と野戦築城

自由貿易

自由貿易(じゆうぼうえき、free trade)は、関税や、数量制限などの国家の介入や干渉を排して自由に行う貿易を指す。学説としては、重商主義にもとづく保護貿易に対して、イギリスのアダム・スミスやデヴィッド・リカードやオマンティス2世らによって唱えられた。貿易が利益になるというのは経済学における最古の命題の一つであり、自由貿易はこの命題にもとづいている。また、営業の自由をはじめとする経済活動の自由や移動の自由と密接に関係している。通史は、貿易史#近世・近代および貿易史#現代を参照のこと。今日、主流経済学では、自由貿易は保護貿易よりも各国の経済発展に役立つと一般的に評価されている。

見る 幕末と自由貿易

金銀比価

金銀比価(きんぎんひか)とは、金と銀の価値比率のこと。ただし、両替商や銀行における金貨と銀貨の両替のための金銀相場とは直接関連しないことに注意を要する。

見る 幕末と金銀比価

長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は、江戸幕府の遠国奉行の一つで、遠国奉行首座。

見る 幕末と長崎奉行

長崎養生所

長崎養生所(ながさきようじょうしょ)は、1861年(文久元年)9月に長崎で開院した江戸幕府(長崎奉行管轄)の病院・医療施設である。正式名称は「養生所」。この記事では前身である「医学伝習所」(いがくでんしゅうじょ)、後身機関である「精得館」(せいとくかん)についても扱う。 養生所は日本最初の西洋式近代病院として知られる。幕府に招聘され医学教育を行ったオランダ人医師ポンペの進言により設置され、所内には医学生の教育を行う「医学所」が併設された。のち両者は「精得館」として統合された。 明治期になって長崎府医学校病院と改称され、長崎医科大学(現 長崎大学医学部、および長崎大学病院)の源流となった。精得館の理化学部門は、大阪舎密局となった後、理学校となり第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となった。

見る 幕末と長崎養生所

長崎英語伝習所

長崎英語伝習所(ながさきえいごでんしゅうじょ)は、幕末期の安政5年(1858年)7月、江戸幕府によって英語通詞養成を目的として設置された学校である。日本初の系統的な英語教育機関といわれ株式会社みろく屋 2002/05/15、幕末から明治において、外交で活躍する人材を輩出した。 英語伝習所はその後、英語稽古所⇒洋学所⇒語学所⇒済美館と改称を重ねた。明治維新後には長崎府管轄の広運館、官立の長崎英語学校などへの変遷を経て、1878年(明治11年)に旧・長崎県立長崎中学校となった。現在の長崎市立長崎商業高等学校、長崎県立長崎東高等学校、長崎西高等学校の源流となっている。

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長崎海軍伝習所

「長崎海軍伝習所絵図」http://www.nabeshima.or.jp/main/ 鍋島報效会蔵 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)から江戸幕府が海軍士官養成のため長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。組織としての長崎海軍伝習所なるものは存在はしていない。 幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された。 併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。

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長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の将軍・徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。

見る 幕末と長州征討

長州藩

長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。版籍奉還後の名は、山口藩。 現在の山口県に相当する。 萩城址。

見る 幕末と長州藩

長州藩諸隊

長州藩諸隊(ちょうしゅうはんしょたい)とは、幕末期に長州藩で編成された、藩士以外の様々な身分の者からなる部隊の総称。長州諸隊。

見る 幕末と長州藩諸隊

長府

長府(ちょうふ)は山口県下関市南部にある地域。仲哀天皇滞在、和同開珎の鋳銭、大内氏滅亡、四国艦隊下関砲撃事件、功山寺挙兵など歴史的な出来事は多い。地理的には東側および南側で海に面し、現在はほとんどが住宅である。この記事では下関市役所長府支所の所管する区域を長府とする。

見る 幕末と長府

長井雅楽

長井 雅楽(ながい うた、文政2年5月1日〈1819年6月22日〉 - 文久3年2月6日〈1863年3月24日〉)は、日本の江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、諱は時庸(ときつね)。 長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。

見る 幕末と長井雅楽

長野主膳

長野 主膳(ながの しゅぜん)は、江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。通称は初め主馬(しゅめ)、のち主膳。諱は義言(よしとき)。桃之舎と号した。

見る 幕末と長野主膳

蕃書調所

「蕃書調所跡」の碑。1856年(安政3年)開設時の所在地に建立(東京都千代田区九段南) 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学、 東京外国語大学の源流諸機関の一つ。蛮書調所とも表記する。

見る 幕末と蕃書調所

酒井忠義 (小浜藩主)

酒井 忠義(さかい ただあき)は、江戸時代後期から末期の大名。若狭小浜藩の第12代、第14代藩主。小浜藩酒井家13代、15代。

見る 幕末と酒井忠義 (小浜藩主)

酒井忠毗

酒井 忠毗(さかい ただます、文化12年6月20日(1815年7月26日) - 明治9年(1876年)2月12日)は、越前敦賀藩(鞠山藩)の第7代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家7代。第6代藩主・酒井忠藎の四男。母は有馬純養(有馬孝純の長男)の娘。正室は酒井忠方の娘。継室は永井尚佐の娘。子に酒井忠経(四男)、万木忠之(五男)、佳子(酒井忠道正室)、娘(永井尚弼室)、娘(桜井忠剛室)。官位は従五位下・右京亮。「ます」の字は田+比(「毘」の異体字)。

見る 幕末と酒井忠毗

若年寄

若年寄(わかどしより)とは。

見る 幕末と若年寄

英仏横浜駐屯軍

英仏横浜駐屯軍(えいふつよこはまちゅうとんぐん)は、幕末から明治維新にかけて、攘夷派から日本・横浜の居留地を防衛することを名目として横浜の山手に駐屯したイギリス(イギリス軍)・フランス(フランス軍)の軍隊。

見る 幕末と英仏横浜駐屯軍

蛮書和解御用

蛮書和解御用(蕃書和解御用、ばんしょわげごよう)は、1811年(文化8年)に江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。蛮(蕃)書和解御用とも。 天文方高橋景保の提唱により設置され、大槻玄沢、宇田川榕菴、青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命された。シーボルト事件後は、同じ天文方の山路諧孝、彰常父子が引き継いだ。その後も、洋学所、蕃書調所、洋書調所と名を変えて存続し、現在の東京大学の起源の一つとなった。

見る 幕末と蛮書和解御用

雷神隊

雷神隊(らいじんたい)は戊辰戦争の際に桑名藩抗戦派が組織した部隊の一つ。

見る 幕末と雷神隊

雷管

雷管(らいかん、detonator、blasting cap)は、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めた火工品。 微量の起爆薬(爆粉、ばくふん)と、それによって点火される添装薬(導爆薬)で構成され、火薬・爆薬などに、意図通りのタイミングで確実に点火するため、主に軍事用途のほか発破など工業用途で用いられている。 アンホ爆薬などは雷管だけでは起爆できず、伝爆薬(プライマーブースタ)を必要とする。 なお、信管は「雷管」に「起爆時期を感知する装置」と「安全装置」を組み込み、一体化させたものである。 1865年、アルフレッド・ノーベルによりダイナマイト点火用として、併せて発明された。

見る 幕末と雷管

電流丸

電流丸(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦。3檣バーク形の木造砲艦、またはコルベット。

見る 幕末と電流丸

雄藩

雄藩(ゆうはん)とは、江戸時代の日本における勢力の強い藩のこと。経済力や政治力のある有力藩に対する呼称である。

見る 幕末と雄藩

雄松堂書店

株式会社雄松堂書店(ゆうしょうどうしょてん)は、東京都新宿区に本社を置いていた洋書輸入販売業者、出版社。

見る 幕末と雄松堂書店

集成館事業

1872年頃の磯地区。集成館事業に関連する建物が多く見える 集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)は、薩摩藩第28代当主島津斉彬によって起こされたアジア初の近代的西洋式工場群をさす。

見る 幕末と集成館事業

老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府に常設された最高職。2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執ったが、筆頭者(老中首座)は事実上の執政として幕政を主導した。 なお、諸藩で通常藩政を統括する者を家老というが、藩によって名称や職制はさまざまであり、老中と呼ぶところもあった。

見る 幕末と老中

陸軍総裁

陸軍総裁(りくぐんそうさい)は、幕府陸軍の最高職である。陸軍省の陸軍大臣また陸軍長官に相当する。

見る 幕末と陸軍総裁

陸援隊

中岡慎太郎 陸援隊(りくえんたい)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年5月25日(1867年6月27日)、土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織された武力討幕のための武力集団(浪士隊)。

見る 幕末と陸援隊

林復斎

林 復斎(はやし ふくさい)は、江戸時代末期の儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。復斎は号。岩瀬忠震、堀利煕は甥にあたる。

見る 幕末と林復斎

掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。

見る 幕末と掛川藩

東征大総督

東征大総督(とうせいだいそうとく)は、旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官である。

見る 幕末と東征大総督

東禅寺 (東京都港区)

東禅寺(とうぜんじ)は、東京都港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。江戸四箇寺の1つ。寺名は開基の日向飫肥藩主伊東祐慶の法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本最初のイギリス公使館が置かれていた。2010年2月、境内が国の史跡に指定された。

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東禅寺事件

東禅寺事件(とうぜんじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件。1861年と1862年の2回発生した。

見る 幕末と東禅寺事件

東艦

東艦(あずまかん、前名 甲鉄艦〈こうてつかん〉)は、日本海軍の軍艦。浅瀬で使用される衝角と大砲3基が備わっており、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。 元をたどると、南北戦争中に南軍が発注した艦であり、仮称艦名は「スフィンクス」であった。北軍の抗議により引き渡しができなくなるとデンマークへ売却となるも、戦争で敗勢となったデンマークに引き取り拒否され、次いで南軍の手にわたってキューバへ向かったが、南北戦争終結によりキューバ、続いてアメリカ合衆国へ売却される。それを日本が購入した。1874年の佐賀の乱、台湾出兵に就役したが、1877年の西南戦争ではほとんど使用されず、1888年に廃船となった。

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。

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松島剛蔵

松島 剛蔵(まつしま ごうぞう、文政8年3月6日(1825年4月23日) - 元治元年12月19日(1865年1月16日))は、幕末の長州藩士、医師。尊王攘夷および倒幕運動派の志士として活動したが、長州藩の俗論派(幕府派)によって処刑された。甲子殉難十一烈士の一人である。

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松下村塾

松下村塾 松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。 吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日〈1759年1月25日〉- 文政12年5月13日〈1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩の第3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は前任の田沼意次の政策をことごとく覆したとされているが、近年では、寛政の改革による政治は、田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされている。

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松平定敬

函館戦争中の松平定敬 高須四兄弟(1878年9月撮影)左から定敬、容保、茂栄、慶勝 松平 定敬(まつだいら さだあき)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩主。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。

見る 幕末と松平定敬

松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり、天保6年12月29日〈1836年2月15日〉- 明治26年〈1893年〉12月5日)は、幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

見る 幕末と松平容保

松平乗全

松平 乗全(まつだいら のりやす)は、江戸時代後期の大名・老中。三河国西尾藩4代藩主。大給松平家宗家14代。官位は従四位下・侍従、和泉守。

見る 幕末と松平乗全

松平忠固

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末の譜代大名、老中。信濃国上田藩6代藩主。伊賀守系藤井松平家8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務め、反対を押し切り、調印を断行した。徳川斉昭、井伊直弼と対立しながら、終始一貫して開国と交易を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。一方で、養蚕業を推進し、海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。 最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。孫のキンジロー・マツダイラは在米の日系人として初めて市長に選ばれた。

見る 幕末と松平忠固

松平茂昭

松平 茂昭(まつだいら もちあき)は、幕末から明治初期にかけての大名・華族。越後国糸魚川藩7代藩主、越前国福井藩17代(最後の)藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第15代となる。。維新後は福井藩知事、侯爵となる。

見る 幕末と松平茂昭

松平春嶽

松平春嶽 松平 春嶽 / 慶永(まつだいら しゅんがく / よしなが、)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代前期にかけての大名、政治家、華族。越前国福井藩16代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。位階・勲等は従一位勲一等。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いた。 第11代将軍・徳川家斉の弟で田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。母は閑院宮家司・木村大進政辰の娘である青松院(れゐ)。松平斉善の養子。第12代将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末の四賢侯の一人と謳われていた。著作に幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』がある。

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松前崇広

松前 崇広(まつまえ たかひろ、)は、江戸時代後期の大名。蝦夷地松前藩の第12代藩主。のちに老中にもなった。官位は従四位下侍従。

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松前藩

松前藩(まつまえはん)は、松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。

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松本奎堂

松本 奎堂(まつもと けいどう、天保2年12月7日(1832年1月9日) - 文久3年9月25日(1863年11月6日))は、三河国出身の幕末の志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。 三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち、脱藩して私塾を開いて尊攘派志士と交わった。文久3年(1863年)には天誅組を結成して大和国で挙兵し、吉村寅太郎(土佐脱藩)、藤本鉄石(岡山脱藩)とともに三総裁の一人となったが、八月十八日の政変後に孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、9月25日には松本も戦死した(天誅組の変)。

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板倉勝静

板倉 勝静(いたくら かつきよ)は、幕末の大名。備中松山藩7代藩主。板倉宗家13代当主。江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)を歴任した。

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根室

根室(ねむろ)。

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栗本鋤雲

栗本鋤雲 栗本 鋤雲(くりもと じょうん、文政5年3月10日(1822年5月1日)- 明治30年(1897年)3月6日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、思想家、ジャーナリスト。

見る 幕末と栗本鋤雲

桜田門

桜田門(さくらだもん)は、江戸城(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。1961年に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。江戸城三十六見附の一つ。なお江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多い。 この一帯は古くから桜田の地名で呼ばれた。

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桜田門外の変

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)にある豊後杵築藩・松平親良の上屋敷前(右下の画像4枚目も参照)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う。

見る 幕末と桜田門外の変

桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国桑名に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。越後国の中部にも領地があり柏崎陣屋が統治した。

見る 幕末と桑名藩

梅田雲浜

梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日〈1815年7月13日〉- 安政6年9月14日〈1859年10月9日〉)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質(よしただ)、のちに定明(さだあきら)。号は雲浜のほか、湖南、東塢がある。

見る 幕末と梅田雲浜

植民地主義

植民地主義(しょくみんちしゅぎ、)とは、国境外の領域を植民地として獲得し支配する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。大航海時代から20世紀後半にかけては強国が盛んに植民地を獲得し、たがいに覇を競っていた。

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椋梨藤太

椋梨 藤太(むくなし とうた)は、日本の武士・長州藩士。長門国の萩に生まれた。諱は景治。

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 - 1908年〈明治41年〉10月26日)は、幕末・明治期の武士(幕臣)、海軍軍人、政治家、外交官。海軍中将正二位勲一等子爵。

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横井小楠

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱はであり、朝臣としての正式な名のりは。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に、がある。字は子操。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

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横須賀造船所

横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は、江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。 構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われる。

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横浜仏語伝習所

横濱佛蘭西語傳習所(よこはま ふらんすご でんしゅうじょ)は、江戸時代末期にかつて存在した日本の語学学校である。通称横浜仏語伝習所(よこはまふつごでんしゅうじょ)。江戸幕府が横浜に開校した。

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横浜鎖港談判使節団

横浜鎖港談判使節団(よこはまさこうだんぱんしせつだん)とは、池田長発(筑後守)を正使、河津祐邦(伊豆守)を副使、河田熙(相模守)を目付とし、文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて(1864年2月6日 - 8月23日)幕府が第二帝政期フランスに派遣した外交団である。第2回遣欧使節、池田使節団とも呼ばれる。

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横浜開港資料館

新館 横浜開港資料館(よこはまかいこうしりょうかん、Yokohama Archives of History)は、神奈川県横浜市中区の山下公園の近くにある近代史系歴史資料館。

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横浜港

横浜港(よこはまこう)は、神奈川県横浜市の東京湾岸にある港湾である。港湾管理者は横浜市。港湾法上の正式名称は横浜港だが、港内の船舶交通を図る港則法では京浜港横浜区と称される京浜港は他に、川崎区(川崎港)と東京区(東京港)がある。。その範囲は鶴見区沖合いより金沢区八景島の辺りまで7,260.5haに及ぶ。 東アジアの大規模港に対抗するため新たに設けられた国際戦略港湾・京浜港(ハブ港)の一翼を担い、国土交通省より「国際コンテナ戦略港湾」の指定も受けている。1859年7月1日(安政6年6月2日)開港。いわゆる「安政の開国」による開港五港である。金港の美称を持つ。他に関税法施行令上の開港で国際貿易港(五大港)、日本三大貿易港などに含まれる。

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樺太

樺太(からふと)またはサハリン()は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は72,492kmで、北海道(78,073km)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。 樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

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樺太・千島交換条約

樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、1875年(明治8年)5月7日に日本とロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太(サハリン)で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約。樺太に対する日本の領有権と当時のロシア領千島列島(北千島列島)とを交換した内容であり、サンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された。 千島・樺太交換条約たとえば、1984年(昭和59年)に実施された、函館ラ・サール高等学校の入学試験の社会の大問1(正誤の判定をさせる問題)(8)には、正しい文として、「ロ 1875年, 千島・樺太交換条約をロシアとの間にむすび, 千島を日本領, 樺太をロシア領とした。」が記載されていた。このことから、当時の中学校の社会科では、「千島・樺太交換条約」と教えていたことがわかる。何よりも、この条約について太政官布告では「千島・樺太交換條約」と表記されている。

見る 幕末と樺太・千島交換条約

機関銃

機関銃(きかんじゅう、)は、弾薬を自動的に装填しながら連続発射する銃である。略して機銃とも。

見る 幕末と機関銃

橋本左内

橋本 左内(はしもと さない)は、日本の武士(福井藩士)、志士、思想家。号は景岳、黎園(れいえん)。諱は綱紀(つなのり)。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。安政の大獄で25歳で死罪となった。

見る 幕末と橋本左内

欧米

欧米(おうべい)は、ヨーロッパ(欧州)とアメリカ(米国)の総称であり、文化的には西洋の概念と緩やかに重なっている。

見る 幕末と欧米

正親町三条実愛

正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、1821年1月8日 - 1909年10月20日)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿・政治家、麝香間祗候。権中納言・正親町三条実義の子。正親町三条家28代。官位は従一位・権大納言。明治維新後、改名して嵯峨 実愛(さが さねなる)。

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武市瑞山

武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日〈1829年10月24日〉- 慶応元年閏5月11日〈1865年7月3日〉)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で称されることも多い。

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武田耕雲斎

武田 耕雲斎(たけだ こううんさい、享和3年(1803年)- 元治2年2月4日(1865年3月1日))は、幕末の武士。水戸藩の天狗党の首領。 名は正生(まさなり)。通称は彦九郎(ひこくろう)。号は如雲(じょうん)。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)334頁。

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歴史群像

『歴史群像』(れきしぐんぞう)は、ワン・パブリッシングが発行する日本の歴史、軍事に関する隔月刊専門雑誌である。 1992年6月に学習研究社(現・学研ホールディングス)より創刊され、2009年10月から2015年9月までは学研パブリッシングが、2020年6月まで学研プラス(現・Gakken)が発行していた。

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毛利元徳

毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)は、江戸時代末期から明治時代の大名、華族。位階・勲等・爵位は、従一位勲一等公爵。毛利氏28代当主で長州藩14代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。

見る 幕末と毛利元徳

毛利敬親

毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。

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水郡善之祐

水郡 善之祐(にごり ぜんのすけ、文政9年12月12日(1827年1月9日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、幕末の勤皇家。河内の大庄屋・神主であり、天誅組河内勢の首魁として知られる。諱は長雄、姓は紀氏であり紀有常の後裔を称する。贈正五位。

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水野忠徳

水野 忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年) - 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。諏訪庄右衛門頼篤の子。文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。忠敬の父。初名は忠篤。号は癡雲(ちうん)。官名は筑後守・下総守。

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水野忠邦

水野 忠邦(みずの ただくに)は、日本の江戸時代後期の大名、江戸幕府老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。天保の改革の指導者。

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水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは天保期であり、「天保学」とも呼ばれる。 儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。

見る 幕末と水戸学

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。

見る 幕末と水戸藩

永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末の武士(旗本)。

見る 幕末と永井尚志

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど、) は、現在の東京の前身・原型に当たる都市を指し、その旧称である。現在の東京都区部の中央部に位置した。 平安時代後期に東京湾の日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。 徳川家康が1590年に入府し、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。

見る 幕末と江戸

江戸城

江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。 千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)、東京城(とうけいじょう)が別名として知られている。

見る 幕末と江戸城

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 幕末と江戸幕府

江戸薩摩藩邸の焼討事件

江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸薩摩藩三田屋敷(現在地・東京都港区芝5丁目7-1 NEC本社ビル附近)が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった。 薩摩藩邸焼討事件とも。

見る 幕末と江戸薩摩藩邸の焼討事件

江戸開城

江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。

見る 幕末と江戸開城

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 幕末と江戸時代

池内蔵太

池 内蔵太(いけ くらた、天保12年(1841年) - 慶応2年5月2日(1866年6月14日))は、幕末期の土佐藩の郷士。諱は定勝。別名に細川左馬之助。細井徳太郎。

見る 幕末と池内蔵太

池田屋事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。 池田屋の変、池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。

見る 幕末と池田屋事件

河井継之助

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年11月9日(6-7面)2020年7月19日閲覧。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。

見る 幕末と河井継之助

河内国

河内国(かわちのくに、かはちのくに、)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

見る 幕末と河内国

津藩

津藩(つはん)は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。伊賀国の上野城も所有した。石高は当初伊勢・伊賀2国を合わせた22万石で、大坂の陣の後に山城国・大和国(いわゆる「城和領」)などが加増され最大32万3000石となった。

見る 幕末と津藩

淀藩

淀藩(よどはん)は、山城国久世郡(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。

見る 幕末と淀藩

渡辺京二

渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - 2022年12月25日)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』が著名。

見る 幕末と渡辺京二

清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

見る 幕末と清

清河八郎

清河 八郎(きよかわ はちろう、文政13年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、自らも虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。 幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階は贈正四位。

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澤宣嘉

澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養嗣子(娘婿)。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。

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朝陽丸

朝陽丸 / 朝陽(ちょうようまる / ちょうよう、旧仮名:テウヤウ)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦。朝陽は「朝日」または「山の東」の意味。 江戸幕府が海軍創設のため、初めてオランダに注文した艦のうちの1隻。内輪式の蒸気船で、木造スクーナー型コルベット。「咸臨丸」は姉妹艦になる。旧名は「エド(Yedo、江戸)」。 維新後、明治新政府の手に渡り、明治政府軍に所属。箱館戦争に参加し沈没した。

見る 幕末と朝陽丸

朝日新聞

大阪本社) 1944年5月27日の海軍記念日式典。頭上にはためく朝日新聞社の社旗が見える。 有楽町マリオン)の社屋が見える。 中之島にある朝日新聞大阪本社(朝日新聞社の登記上本店) 中央区築地にある朝日新聞東京本社 栄にある朝日新聞名古屋本社 北九州市小倉北区リバーウォーク北九州にある朝日新聞西部本社 福岡市博多区博多駅前にある朝日新聞福岡本部 朝日新聞(あさひしんぶん、The Asahi Shimbun)は、大阪府大阪市に登記上の本店を置く朝日新聞社が編集・発行する日本の新聞である。日刊、全国紙。

見る 幕末と朝日新聞

朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。ニュースサイトの「朝日新聞デジタル」の運営も行う。 産業経済新聞社(産経新聞社)、大阪毎日新聞社(毎日新聞大阪本社の前身)などとともに大阪府大阪市を発祥とする新聞社であり、現在でも登記上の本店を大阪に置いている。 新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演などの文化事業や、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)といったスポーツ大会の開催などの幅広い事業活動も行う。

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朝日文庫

朝日文庫(あさひぶんこ)は、株式会社朝日新聞出版が発行している文庫レーベル。毎月5日前後に、約8点ずつ刊行している。本項目では1990年代に刊行されていた朝日文芸文庫(あさひぶんげいぶんこ)についても記述する。

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木綿

収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロースである。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。

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木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる(コトバンク)。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

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本間精一郎

本間精一郎遭難の地 京都三条木屋町下ル 本間 精一郎(ほんま せいいちろう、天保5年(1834年) - 文久2年閏8月20日(1862年10月13日))は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。幼名は精兵衛、名は正高、字は至誠、号は不自欺斎。

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朱雀隊

朱雀隊(すざくたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、18歳から35歳までの武家の男性によって構成された実戦部隊である。野戦を想定した従来の長沼流兵学からフランス軍制への改革により作られ、主力部隊であった。総督は黒河内式部で、隊員は約1200名。他に白虎隊、玄武隊、青龍隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「朱雀」からである。 会津藩軍隊名は誰が名付けたのか判明していない。新たな説として推論であるが、易師中川万之丞は信者に与えた霊符に吉の青龍を使い、四方を護る神々を語った。遺品の式盤は陰陽道安倍清明の式盤占いと同じで、十二天将に朱雀・青龍・白虎・玄武などがある。自宅に藩士が出入り、短刀、明治に松平容保の築城300年祭祝歌が贈られ、万之丞が提案した可能性がある。式盤占いの青龍将は吉、朱雀将・白虎将・玄武将は凶とされる。精鋭部隊は年齢順の朱雀隊で、万之丞の青龍隊提案は藩の上層部に届かなかったことになる。

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朔平門外の変

推定事件現場と姉小路公知の推定足跡 朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)は、江戸時代末期(幕末)の文久3年5月20日(1863年7月5日)、破約攘夷を唱える公家の指導者であった姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺された事件。現場に残された太刀から薩摩藩士田中新兵衛に容疑がかかったが、京都町奉行所に監禁された新兵衛は釈明せずに自刃したため、暗殺者は今なお不明。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。幕末において要職にある殿上人が暗殺された事件は空前絶後であり、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変が起きるきっかけにもなった。

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有馬新七

有馬 新七(ありま しんしち)は、日本の武士(薩摩藩士)、学者。諱は正義。位階勲等は贈従四位。

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫の二・二六事件pp.76-77が、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。

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最恵国待遇

最恵国待遇(さいけいこくたいぐう、most favored nation treatment)は、通商条約、通商航海条約において、ある国が対象となる別の国に対して、最も有利な待遇を受けることを現在および将来において約束すること。ついて別の第三国に対する優遇処置と同様の処置を供することを指す場合が多い。また経済分野でも企業間の契約条件の決め方に使われる。なお、米国の通商法では、1998年以降、通常貿易関係 (normal trade relations)と呼んでいる。

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戊午の密勅

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。

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戊辰

戊辰(つちのえたつ、ぼどのたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。

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戊辰戦争

戊辰戦場址碑 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強は条約による内戦への局外中立を解除した。これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められた。 以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい、)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

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星形要塞

星形要塞(ほしがたようさい)は、火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。イタリア式築城術(イタリアしきちくじょうじゅつ)、稜堡式城郭(りょうほうしきじょうかく・りょうほしきじょうかく)、ヴォーバン様式(ヴォーバンようしき)という名で分類されることもある。 1750年の状態に復元されたブルタング要塞 オランダ。

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明和

明和(めいわ、)は、日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

見る 幕末と明和

明石書店

明石書店(あかししょてん)は、日本の出版社。1978年創業。

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明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 幕末と明治

明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、)。お印は。 倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる。東京に皇居を置いた最初の天皇。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇にして、内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇でもある。

見る 幕末と明治天皇

明治維新

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。

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春日大社

春日大社(かすがたいしゃ、Kasugataisha Shrine)は、奈良県奈良市春日野町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。 全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。 奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

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昌平坂学問所

昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島「湯島」は古代の豊島郡湯島郷に由来する地名で、「本郷」という地名も湯島郷の本郷に由来するという説もある。一方、「神田」は神田明神もしくは伊勢神宮の神田に由来する地名であったことから、由来の異なる両方の地名が被る地域も存在した。そのため、湯島聖堂・昌平坂学問所とその周辺地域は「神田」とも「湯島」とも称されたが、1887年に神田区と本郷区の境界が確定した際に湯島聖堂・昌平坂学問所のあった神田区宮本町は本郷区に編入されて湯島二丁目(現在の湯島二丁目とは境域が異なる)と改称された(参照:『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社、2002年) P509-511)。

見る 幕末と昌平坂学問所

昇平丸

昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦である。 後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称、練習船として使用された。 明治維新以後は開拓使で輸送船として使用されたが、 明治3年(1870年)に座礁して失われた。

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浦賀

浦賀(うらが)は、神奈川県横須賀市東部にある地域。狭義には横須賀市浦賀またはそこに西浦賀町・東浦賀町を加えた区域、広義には浦賀行政センターの管轄(町村制による明治の大合併で誕生したかつての三浦郡浦賀町付近)を指す。マシュー・ペリーが黒船で来航した歴史をもつが、それ以前にも通商や補給を求めて外国船がしばしば来航していた。

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浪士組

浪士組(ろうしぐみ)は、文久3年(1863年)2月の江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、将軍警護のために作られた組織。実は幕府が江戸にいる過激な尊皇攘夷浪士達を体よく追い出すための策だったとする説もある。壬生浪士、新選組、新徴組の前身。

見る 幕末と浪士組

浪人

大石良金は浪人、赤穂事件。大石主税藤原良金 浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分には囚われず、全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。

見る 幕末と浪人

海岸防禦御用掛

海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)は、江戸幕府の職名の一つ。通称して海防掛ともいう。寛政4年(1792年)に設置され、当初は常設ではなかったが、弘化2年(1845年)からは常設となった。嘉永6年(1853年)のペリー来航に際して強化され、安政5年(1858年)に外国奉行の設置に伴い廃止された。

見る 幕末と海岸防禦御用掛

海禁

海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。

見る 幕末と海禁

海軍総裁

海軍総裁(かいぐんそうさい)は、幕府海軍の最高職である。海軍省の海軍大臣また海軍長官に相当する。

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海援隊

海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、物資の運搬や貿易の仲介など商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動をおこなった。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。 1865年(慶応元年)に結成された「亀山社中」(かめやましゃちゅう)が海援隊の前身とされ、通説では亀山社中も「商社」のような活動をしたとされてきた - 長崎市亀山社中記念館。しかし、2010年代以降は、「亀山社中」の実態(特に坂本龍馬の関与が史料上確認できない慶応2年前半まで)に関して従来の通説を修正・否定する見解が示されている(詳細後述)。

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斬首刑

斬首刑(ざんしゅけい)とは、罪人の首を刃物等により胴体から切断する死刑の一種である。 古代から現代まで世界各国で行われ、フランスでギロチンによる斬首が廃止されたのは1981年のことである。2021年現在、正式に刑罰としての死刑の方法に採用しているのはサウジアラビアとナイジェリア北部(特定の種類の犯罪でシャリーア裁判所で死刑判決を下された場合)であるが、法的手段によらないものを含めるとメキシコの麻薬組織メキシコでは刑罰としての死刑制度が1917年に廃止されているやイスラーム過激派においても行われている。

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の100%出資による新人物往来社(新社)が新人物往来社(旧社)から出版事業の営業権を取得、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。

見る 幕末と新人物往来社

新徴組

新徴組(しんちょうぐみ)は、江戸時代末期の文久3年(1863年)1月に結成された、江戸幕府による警備組織。

見る 幕末と新徴組

新選組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。特に尊攘派構成員の摘発活動に従事した。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改める。しかし明治2年(1869年)5月18日、戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。

見る 幕末と新選組

文久

文久(ぶんきゅう、旧仮名遣: ぶんきう、)は、日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。大化以降225番目、241個目の元号。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

見る 幕末と文久

文久の改革

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。

見る 幕末と文久の改革

文久遣欧使節

文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。竹内遣欧使節とも 国立国会図書館電子展示会「博覧会」。

見る 幕末と文久遣欧使節

文化 (元号)

文化(ぶんか、旧仮名遣: ぶんくゎ、)は、日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。

見る 幕末と文化 (元号)

文化露寇

日本側が記録したレザノフの船と部下 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。

見る 幕末と文化露寇

文政

文政(ぶんせい、)は、日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。仁孝天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。前元号の文化期と併せ、町人文化が顕著に発展した時期であり、それを化政文化という。

見る 幕末と文政

日下部伊三治

日下部 伊三治(くさかべ いそうじ、伊三次とも、文化11年(1814年) - 安政5年12月17日(1859年1月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩、薩摩藩士。海江田訥斎連の子、母は樫村昔行の娘。諱は信政、後に翼。九皐、実稼と号。深谷佐吉、宮崎復太郎の変名を用いた。通称は伊三次。なお、家名の「日下部」は海江田氏の本姓は日下部氏であることから。

見る 幕末と日下部伊三治

日仏修好通商条約

日仏修好通商条約(にちふつしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年9月3日(グレゴリオ暦1858年10月9日)に日本とフランスの間で結ばれた通商条約。 フランス側全権はジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵、日本側全権は水野忠徳・永井尚志・井上清直・堀利煕・岩瀬忠震・野々山鉦蔵の六名。 幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。

見る 幕末と日仏修好通商条約

日米修好通商条約

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の2つ。 江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。

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日米和親条約

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく、英:Japan–US Treaty of Peace and Amity)は、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日本とアメリカ合衆国が締結した条約。神奈川条約(かながわじょうやく、英:Convention of Kanagawa)とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権はマシュー・ペリー。 この条約では「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」として、アメリカに対し下田と箱館(現在の函館)の2港を開港し、200年あまり続いた鎖国は終わり日本は開国した。なお、日米間の通商(貿易)開始は、4年後に締結された日米修好通商条約からとなる。

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日露和親条約

日露和親条約、日魯通好条約(にちろわしんじょうやく、にちろつうこうじょうやくСимодский трактат)は、日本とロシア帝国の間で締結された条約。安政元年12月21日(1855年2月7日)、伊豆国下田(現・静岡県下田市)長楽寺において締結された。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督エフィム・プチャーチン。 本条約によって、蝦夷地に国境が引かれた。東は、択捉島と得撫島の間の択捉海峡とされ、北は北蝦夷地(樺太、サハリン島)が国境未画定とされた(日露国境)。樺太はこれまで通り両国民の混住の地と定められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。

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日露間樺太島仮規則

日露間樺太島仮規則(にちろかんからふととうかりきそく)とは、1867年(慶応3年)に、日本の江戸幕府とロシア帝国の間で仮調印された仮条約。仮樺太規約(かりからふときやく)、樺太雑居条約(からふとざっきょじょうやく)ともいう。日露間サハリン島仮規則、サハリン雑居条約。 樺太における日露国境画定のためにロシアに派遣された箱館奉行小出秀実と目付石川利政はロシア外務省アジア局長との間で交渉を行った。 3月30日(旧暦2月25日)にサンクトペテルブルクにおいて仮調印されたが、日本は条約の一部条項の承認を拒絶し、その旨ロシア領事に通告した。結局、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り両国の所領とされた。

見る 幕末と日露間樺太島仮規則

日蘭修好通商条約

日蘭修好通商条約(にちらんしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、安政5年7月10日(1858年8月18日)に江戸において日本(江戸幕府)とオランダとの間で結ばれた条約である。 安政五カ国条約の一つ。全11条及び税則7則によって構成されている。

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日蘭和親条約

日蘭和親条約(にちらんわしんじょうやく)とは、安政2年12月23日(グレゴリオ暦1856年1月30日)に江戸幕府とオランダが締結した和親条約。 1854年に日米和親条約が締結されたことを受けて、江戸幕府はオランダとも新たな関係を規定することになった。

見る 幕末と日蘭和親条約

日英修好通商条約

日英修好通商条約(にちえいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of peace, friendship and commerce, between Her Majesty and His Majesty the Tycoon of Japan)は、日本時間1858年8月26日(安政5年7月18日)、イギリス代表のエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府の間に調印された日英両国の通商に関する条約。日本が結んでいた不平等条約の一つである。日本時間1859年7月11日(安政6年6月12日)に徳川家茂が、「源家茂」の署名と「経文緯武」と篆刻された銀印の押印を以って批准した。 この条約の締結により日本と英国との外交関係開設および交流開始の基礎が築かれた。

見る 幕末と日英修好通商条約

日英和親条約

日英和親条約(にちえいわしんじょうやく、Anglo-Japanese Friendship Treaty)は、幕末の嘉永7年(1854年)、日本とイギリスの間で締結された最初の条約。当時の正式な文書名は日本国大不列顛国約定。日英約定(にちえいやくじょう)とも。

見る 幕末と日英和親条約

日本

日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。

見る 幕末と日本

日本の降伏

加瀬俊一 日本の降伏(にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の日本による、連合国(事実上のアメリカ合衆国)のポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から玉音放送および日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。 なお、掲げられたのは星条旗(アメリカ合衆国の国旗)のみで、日本の国旗や他の連合国の国旗も掲げられなかった。

見る 幕末と日本の降伏

日本の歴史

この項目では日本の歴史(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。

見る 幕末と日本の歴史

日本刀

太刀 銘 正恒 附 菊桐紋散糸巻太刀拵。刀身は12世紀、拵えは18世紀作。東京国立博物館蔵 打刀。メトロポリタン美術館蔵 脇差の刀身と拵え。刀身は15世紀から16世紀前半の相州房宗作、拵えは18世紀作。メトロポリタン美術館蔵 重文 銘 国光(新藤五国光)金梨地葵紋散蒔絵合口拵 小柄付。刀身は13世紀か14世紀作。佐野美術館蔵 日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。 さらに広義には、日本で製作された刀剣を指す。 狭義には、平安時代末期に出現し、それ以降、日本の刀の主流となった湾刀を指す - 刀剣博物館。本稿では主にこちらを説明する。寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。

見る 幕末と日本刀

日本歴史学会

日本歴史学会(にほんれきしがっかい)は、日本史研究の学術団体である。

見る 幕末と日本歴史学会

摂政

摂政(せっしょう、regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。 多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。

見る 幕末と摂政

改税約書

改税約書(かいぜいやくしょ)とは、安政五カ国条約付属貿易章程の改訂協約である。江戸協約とも呼ばれる。

見る 幕末と改税約書

改革

改革(かいかく、英語: reform)とは、ある対象を改め、変化させること。革命とは異なり、現時点での基本的な体制を保ちつつ、内部に変化を作ることをいう。変革(へんかく)とも呼ばれる。

見る 幕末と改革

政事総裁職

政事総裁職(せいじそうさいしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。

見る 幕末と政事総裁職

政権

政権(せいけん)とは、国の政治機構を動かす政治権力のことである。議院内閣制のもとでは、選挙を通じて議会で多数を得た政党が政権を担当する『政治・経済用語集』(山川出版社)。 なお、同じ漢字圏の中国語で「政権(政权)」と書いた場合、「レジーム(・)」の中国語訳であり、日本語における「政権」と意味が異なることに注意、また、現在日本の政権は自由民主党と公明党による自公連立政権である。

見る 幕末と政権

攘夷論

攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている) 攘夷論(じょういろん)は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。

見る 幕末と攘夷論

慶応

紋が描かれている。 とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。

見る 幕末と慶応

慶応の改革

慶応の改革(けいおうのかいかく)は、慶応2年(1866年)以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた改革。結果的には江戸幕府最後の幕政改革となった。

見る 幕末と慶応の改革

打ちこわし

打ちこわし(うちこわし)とは、 民衆が米屋を始め、質屋、酒屋などの富豪を襲撃し、家屋の破壊や家財の略奪などを行う暴動のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。

見る 幕末と打ちこわし

打刀

打刀の刀身と拵え。 打刀(うちがたな)は、日本刀の一種。室町時代後期より、徒戦向けに作られ、それまでの太刀に代わり武士が用いる刀剣の主流となった。 腰の帯に差し、通常は刃を上に向けて帯刀した(太刀とは逆)。接近した相手に対して素早く鞘から抜き、切りつけるまでの連続動作が可能となった。 室町時代中期以降に広まり、日本刀の主流となり、以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い。 正座の時には鐺(こじり)が床に当たらないように気を配る必要があった。もしくは外す必要があった。

見る 幕末と打刀

10月13日

10月13日(じゅうがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から286日目(閏年では287日目)にあたり、年末まであと79日ある。

見る 幕末と10月13日

10月14日

10月14日(じゅうがつじゅうよっか、じゅうがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から287日目(閏年では288日目)にあたり、年末まであと78日ある。

見る 幕末と10月14日

10月14日 (旧暦)

旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と10月14日 (旧暦)

10月16日

10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。

見る 幕末と10月16日

10月21日 (旧暦)

旧暦10月21日は旧暦10月の21日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と10月21日 (旧暦)

10月23日

10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。

見る 幕末と10月23日

10月24日 (旧暦)

旧暦10月24日は旧暦10月の24日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と10月24日 (旧暦)

10月25日 (旧暦)

旧暦10月25日は旧暦10月の25日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と10月25日 (旧暦)

10月3日 (旧暦)

旧暦10月3日(きゅうれきじゅうがつみっか)は旧暦10月の3日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と10月3日 (旧暦)

10月4日

10月4日(じゅうがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から277日目(閏年では278日目)にあたり、年末まであと88日ある。

見る 幕末と10月4日

10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と10月5日 (旧暦)

10月9日

10月9日(じゅうがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から282日目(閏年では283日目)にあたり、年末まであと83日ある。

見る 幕末と10月9日

11月11日

11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。

見る 幕末と11月11日

11月15日

11月15日(じゅういちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日ある。

見る 幕末と11月15日

11月19日

11月19日(じゅういちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から323日目(閏年では324日目)にあたり、年末まであと42日ある。

見る 幕末と11月19日

11月22日

11月22日(じゅういちがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から326日目(閏年では327日目)にあたり、年末まであと39日ある。

見る 幕末と11月22日

11月4日

11月4日(じゅういちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から308日目(閏年では309日目)にあたり、年末まであと57日ある。

見る 幕末と11月4日

11月5日 (旧暦)

旧暦11月5日(きゅうれきじゅういちがついつか)は、旧暦11月の5日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と11月5日 (旧暦)

11月9日

11月9日(じゅういちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から313日目(閏年では314日目)にあたり、年末まであと52日ある。

見る 幕末と11月9日

12月11日

12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。

見る 幕末と12月11日

12月11日 (旧暦)

旧暦12月11日は旧暦12月の11日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と12月11日 (旧暦)

12月14日 (旧暦)

旧暦12月14日(きゅうれきじゅうにがつじゅうよっか)は、旧暦12月の14日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と12月14日 (旧暦)

12月21日 (旧暦)

旧暦12月21日は旧暦12月の21日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と12月21日 (旧暦)

12月23日 (旧暦)

旧暦12月23日は旧暦12月の23日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と12月23日 (旧暦)

12月25日 (旧暦)

旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と12月25日 (旧暦)

12月2日 (旧暦)

旧暦12月2日(きゅうれきじゅうにがつふつか)は、旧暦12月の2日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と12月2日 (旧暦)

12月30日 (旧暦)

旧暦12月30日は、旧暦12月の30日目である。年によっては12月の最終日となる。六曜は大安である。

見る 幕末と12月30日 (旧暦)

12月31日

12月31日(じゅうにがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦において年始・1月1日から365日目(閏年においては366日目)にあたり、12月の末日、1年の末日(大晦日)である。この日の23時59分を過ぎると翌日0時0分から翌年1月1日となる。また、平年の場合にはその年の1月1日と同じ曜日になる。

見る 幕末と12月31日

12月3日

12月3日(じゅうにがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から337日目(閏年では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。

見る 幕末と12月3日

12月5日 (旧暦)

旧暦12月5日(きゅうれきじゅうにがついつか)は旧暦12月の5日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と12月5日 (旧暦)

12月7日

12月7日(じゅうにがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。

見る 幕末と12月7日

12月9日 (旧暦)

旧暦12月9日(きゅうれきじゅうにがつここのか)は、旧暦12月の9日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と12月9日 (旧暦)

1871年

この年にドイツが統一されたため、世界史の大きな転換点となった。

見る 幕末と1871年

1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。

見る 幕末と1945年

1月10日

1月10日(いちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から10日目に当たり、年末まであと355日(閏年では356日)ある。

見る 幕末と1月10日

1月12日

1月12日(いちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から12日目に当たり、年末まであと353日(閏年では354日)ある。

見る 幕末と1月12日

1月16日 (旧暦)

旧暦1月16日は、旧暦1月の16日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と1月16日 (旧暦)

1月18日

1月18日(いちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から18日目に当たり、年末まであと347日(閏年では348日)ある。

見る 幕末と1月18日

1月21日 (旧暦)

旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と1月21日 (旧暦)

1月24日

1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。

見る 幕末と1月24日

1月25日

1月25日(いちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から25日目にあたり、年末まであと340日(閏年では341日)ある。

見る 幕末と1月25日

1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。

見る 幕末と1月27日

1月30日

1月30日(いちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から30日目に当たり、年末まであと335日(閏年では336日)ある。

見る 幕末と1月30日

1月3日

1月3日(いちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)ある。日本ではこの日まで正月休みとされることがある。

見る 幕末と1月3日

1月3日 (旧暦)

旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は、旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と1月3日 (旧暦)

1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。

見る 幕末と1月9日

1月9日 (旧暦)

旧暦1月9日(きゅうれきいちがつここのか)は、旧暦1月の9日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と1月9日 (旧暦)

2月13日

2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。

見る 幕末と2月13日

2月25日 (旧暦)

旧暦2月25日は旧暦2月の25日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と2月25日 (旧暦)

2月3日 (旧暦)

旧暦2月3日(きゅうれきにがつみっか)は、旧暦2月の3日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と2月3日 (旧暦)

2月7日

2月7日(にがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。

見る 幕末と2月7日

3月14日

3月14日(さんがつじゅうよっか、さんがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から73日目(閏年では74日目)に当たり、年末まであと292日ある。

見る 幕末と3月14日

3月22日 (旧暦)

旧暦3月22日は旧暦3月の22日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と3月22日 (旧暦)

3月23日 (旧暦)

旧暦3月23日は旧暦3月の23日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と3月23日 (旧暦)

3月24日

3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。

見る 幕末と3月24日

3月25日 (旧暦)

旧暦3月25日は旧暦3月の25日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と3月25日 (旧暦)

3月27日 (旧暦)

旧暦3月27日は旧暦3月の27日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と3月27日 (旧暦)

3月30日

3月30日(さんがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から89日目(閏年では90日目)にあたり、年末まであと276日ある。

見る 幕末と3月30日

3月31日

3月31日(さんがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日(月末)。年度末。

見る 幕末と3月31日

3月3日 (旧暦)

旧暦3月3日(きゅうれきさんがつみっか)は、旧暦3月の3日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と3月3日 (旧暦)

3月7日

3月7日(さんがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から66日目(閏年では67日目)にあたり、年末まであと299日ある。

見る 幕末と3月7日

4月11日 (旧暦)

旧暦4月11日は旧暦4月の11日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と4月11日 (旧暦)

4月17日 (旧暦)

旧暦4月17日は旧暦4月の17日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と4月17日 (旧暦)

4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と4月19日 (旧暦)

4月1日 (旧暦)

旧暦4月1日(きゅうれきしがつついたち)は旧暦4月の1日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と4月1日 (旧暦)

4月23日 (旧暦)

旧暦4月23日は旧暦4月の23日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と4月23日 (旧暦)

4月27日

4月27日(しがつにじゅうななにち、しがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から117日目(閏年では118日目)にあたり、年末まではあと248日ある。

見る 幕末と4月27日

4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日)にあたり、年末まではあと247日ある。

見る 幕末と4月28日

5月10日 (旧暦)

旧暦5月10日は、旧暦5月の10日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と5月10日 (旧暦)

5月13日 (旧暦)

旧暦5月13日は、旧暦5月の13日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と5月13日 (旧暦)

5月15日 (旧暦)

旧暦5月15日は、旧暦5月の15日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と5月15日 (旧暦)

5月17日

5月17日(ごがつじゅうななにち、ごがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から137日目(閏年では138日目)にあたり、年末まであと228日ある。

見る 幕末と5月17日

5月18日 (旧暦)

旧暦5月18日は、旧暦5月の18日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と5月18日 (旧暦)

5月1日 (旧暦)

旧暦5月1日(きゅうれきごがつついたち)は、旧暦5月の1日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と5月1日 (旧暦)

5月20日

5月20日(ごがつはつか、ごがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から140日目(閏年では141日目)にあたり、年末まではあと225日ある。

見る 幕末と5月20日

5月21日 (旧暦)

旧暦5月21日は、旧暦5月の21日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と5月21日 (旧暦)

5月22日

5月22日(ごがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から142日目(閏年では143日目)にあたり、年末まではあと223日ある。

見る 幕末と5月22日

5月24日 (旧暦)

旧暦5月24日は、旧暦5月の24日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と5月24日 (旧暦)

5月26日 (旧暦)

旧暦5月26日は、旧暦5月の26日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と5月26日 (旧暦)

5月28日 (旧暦)

旧暦5月28日は、旧暦5月の28日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と5月28日 (旧暦)

5月29日 (旧暦)

旧暦5月29日は、旧暦5月の29日目である。年によっては5月の最終日となる。六曜は先負である。

見る 幕末と5月29日 (旧暦)

5月2日

5月2日は、グレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。

見る 幕末と5月2日

5月3日

5月3日(ごがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から123日目(閏年では124日目)にあたり、年末まではあと242日ある。

見る 幕末と5月3日

5月3日 (旧暦)

旧暦5月3日(きゅうれきごがつみっか)は、旧暦5月の3日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と5月3日 (旧暦)

5月4日 (旧暦)

旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と5月4日 (旧暦)

5月7日

5月7日(ごがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から127日目(閏年では128日目)にあたり、年末まではあと238日ある。

見る 幕末と5月7日

5月9日 (旧暦)

旧暦5月9日は、旧暦5月の9日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と5月9日 (旧暦)

6月11日

6月11日(ろくがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から162日目(閏年では163日目)にあたり、年末まであと203日ある。

見る 幕末と6月11日

6月12日 (旧暦)

旧暦6月12日は旧暦6月の12日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と6月12日 (旧暦)

6月18日

6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。

見る 幕末と6月18日

6月19日 (旧暦)

旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と6月19日 (旧暦)

6月22日 (旧暦)

旧暦6月22日(きゅうれきろくがつにじゅうににち)は、旧暦6月の22日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と6月22日 (旧暦)

6月24日

6月24日(ろくがつにじゅうよっか、ろくがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から175日目(閏年では176日目)にあたり、年末まであと190日ある。

見る 幕末と6月24日

6月25日

6月25日(ろくがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から176日目(閏年では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。

見る 幕末と6月25日

6月26日

6月26日(ろくがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から177日目(閏年では178日目)にあたり、年末まであと188日ある。

見る 幕末と6月26日

6月27日

6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。

見る 幕末と6月27日

6月3日 (旧暦)

旧暦6月3日(きゅうれきろくがつみっか)は、旧暦6月の3日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と6月3日 (旧暦)

6月4日

6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。

見る 幕末と6月4日

6月6日

6月6日(ろくがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。

見る 幕末と6月6日

6月7日 (旧暦)

旧暦6月7日(きゅうれきろくがつなのか)は旧暦6月の7日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と6月7日 (旧暦)

7月10日 (旧暦)

旧暦7月10日(きゅうれきしちがつとおか)は、旧暦7月の10日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と7月10日 (旧暦)

7月11日

7月11日(しちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から192日目(閏年では193日目)にあたり、年末まであと173日ある。

見る 幕末と7月11日

7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と7月14日 (旧暦)

7月18日

7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。

見る 幕末と7月18日

7月18日 (旧暦)

旧暦7月18日は、旧暦7月の18日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と7月18日 (旧暦)

7月19日

7月19日(しちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から200日目(閏年では201日目)にあたり、年末まであと165日ある。

見る 幕末と7月19日

7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と7月19日 (旧暦)

7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と7月20日 (旧暦)

7月21日 (旧暦)

旧暦7月21日(きゅうれきしちがつにじゅういちにち)は、旧暦7月の21日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と7月21日 (旧暦)

7月23日

7月23日(しちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から204日目(閏年では205日目)にあたり、年末まであと161日ある。

見る 幕末と7月23日

7月29日

7月29日(しちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から210日目(閏年では211日目)にあたり、年末まであと155日ある。

見る 幕末と7月29日

7月2日 (旧暦)

旧暦7月2日(きゅうれきしちがつふつか)は旧暦7月の2日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と7月2日 (旧暦)

7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。

見る 幕末と7月4日

7月5日

7月5日(しちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日ある。

見る 幕末と7月5日

7月8日

7月8日(しちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。

見る 幕末と7月8日

7月9日 (旧暦)

旧暦7月9日(きゅうれきしちがつここのか)は、旧暦7月の9日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と7月9日 (旧暦)

8月10日 (旧暦)

旧暦8月10日(きゅうれきはちがつとおか)は、旧暦8月の10日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と8月10日 (旧暦)

8月13日 (旧暦)

旧暦8月13日は旧暦8月の13日目である。六曜は友引である。

見る 幕末と8月13日 (旧暦)

8月14日

8月14日(はちがつじゅうよっか、はちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から226日目(閏年では227日目)にあたり、年末まであと139日ある。

見る 幕末と8月14日

8月15日

8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。

見る 幕末と8月15日

8月17日 (旧暦)

旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と8月17日 (旧暦)

8月18日

8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。

見る 幕末と8月18日

8月18日 (旧暦)

旧暦8月18日(きゅうれきはちがつじゅうはちにち)は、旧暦8月の18日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と8月18日 (旧暦)

8月20日

8月20日(はちがつはつか、はちがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から232日目(閏年では233日目)にあたり、年末まであと133日ある。

見る 幕末と8月20日

8月20日 (旧暦)

旧暦8月20日(きゅうれきはちがつはつか)は、旧暦8月の20日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と8月20日 (旧暦)

8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。

見る 幕末と8月21日

8月21日 (旧暦)

旧暦8月21日は旧暦8月の21日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と8月21日 (旧暦)

8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。

見る 幕末と8月22日

8月23日 (旧暦)

旧暦8月23日は旧暦8月の23日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と8月23日 (旧暦)

8月24日 (旧暦)

旧暦8月24日(きゅうれきはちがつにじゅうよっか)は、旧暦8月の24日目である。六曜は先勝である。

見る 幕末と8月24日 (旧暦)

8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。

見る 幕末と8月29日

8月29日 (旧暦)

旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。

見る 幕末と8月29日 (旧暦)

8月5日 (旧暦)

旧暦8月5日(きゅうれきはちがついつか)は、旧暦8月の5日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と8月5日 (旧暦)

9月14日

9月14日(くがつじゅうよっか、くがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から257日目(閏年では258日目)にあたり、年末まであと108日ある。

見る 幕末と9月14日

9月16日 (旧暦)

旧暦9月16日は、旧暦9月の16日目である。六曜は赤口である。

見る 幕末と9月16日 (旧暦)

9月21日 (旧暦)

旧暦9月21日は旧暦9月の21日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と9月21日 (旧暦)

9月28日

9月28日(くがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から271日目(閏年では272日目)にあたり、年末まであと94日ある。

見る 幕末と9月28日

9月29日

9月29日(くがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から272日目(閏年では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。

見る 幕末と9月29日

9月30日

9月30日(くがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から273日目(閏年では274日目)にあたり、年末まであと92日ある。9月の最終日である。

見る 幕末と9月30日

9月3日 (旧暦)

旧暦9月3日(きゅうれきくがつみっか)は旧暦9月の3日目である。六曜は大安である。

見る 幕末と9月3日 (旧暦)

9月5日

9月5日(くがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から248日目(閏年では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。

見る 幕末と9月5日

9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。

見る 幕末と9月6日

9月7日 (旧暦)

旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。

見る 幕末と9月7日 (旧暦)

9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。

見る 幕末と9月8日 (旧暦)

参考情報

1850年代の日本

1860年代の日本

幕末期、江戸幕末、江戸時代末期 別名。

外国奉行外様大名奥羽越列藩同盟奇兵隊姉小路公知孝明天皇学研ホールディングス実包宝永室町幕府宮古湾海戦宮崎十三八家老官軍宇和島藩宇都宮藩安島帯刀安藤信正安永 (元号)安政安政の大獄安政の改革安政五カ国条約寺田屋事件対馬対馬府中藩富士山 (スループ)寛永寺寛政尊王論尊王攘夷小学館小御所会議小笠原長行小銃小西四郎小林良典小栗忠順小沢健志尾張藩将軍宣下将軍後見職将軍継嗣問題山岡鉄舟山内容堂山内豊範山砲山陵志居留地岡山藩岩倉具視岩瀬忠震岩波新書岩波文庫島崎藤村島田正辰島津久光島津斉彬崩御川路聖謨左大臣上野上野戦争不平等条約帝国主義両都両港開市開港延期問題中山忠光中山忠能中山道中岡慎太郎中御門経之中公新書中公文庫中立七卿落ち世直し一揆市場経済万延万延小判万延元年遣米使節万国公法三重津海軍所三条実万三条実美下克上下田下関市下関戦争一会桑政権一揆一橋徳川家一橋派丙辰丸九条家九条尚忠干支平凡社ライブラリー平野国臣幕府陸軍幕府海軍幕藩体制幕末の外国人襲撃・殺害事件幕末の年表幕末の人物一覧幕末の砲艦外交幕末の通貨問題久坂玄瑞久世広周久邇宮朝彦親王久里浜京都守護職京都見廻組京都所司代二条斉敬二本松少年隊広島市広島藩広東省広沢真臣五品江戸廻送令五稜郭五箇条の御誓文庄内藩井上勝生井上馨井上清直井伊直弼廷臣八十八卿列参事件廃藩置県伊達宗城伊藤博文会津藩会津戦争伏見街道伝習隊弾丸弘化休戦協定佐幕佐賀藩佐野真由子彦根藩彰義隊但馬国征夷大将軍御側御用取次御陵衛士徳川家定徳川家光徳川家茂徳川家慶徳川宗家徳川昭武徳川斉昭徳川慶喜徳川慶勝後装式後藤象二郎信牌信越地方志士土佐勤王党土佐藩地主北ドイツ連邦北白川宮能久親王北越戦争北関東北陸道ナポレオン3世ナショナリズムミニエー銃マックス・フォン・ブラントマシュー・ペリーハリー・パークスハンガリーハーバード大学ポサードニク (コルベット)モーリツ・ベニョヴスキーヤン・ドンケル・クルティウスヤクーツクヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトライフリングライフル砲ラザフォード・オールコックレオン・ロッシュロバート・B・ファン・ファルケンブルグロバート・H・プリュインロンドン万国博覧会 (1862年)ロンドン覚書ロシア帝国ロシア人ロシア軍艦対馬占領事件ワシントンD.C.ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケボルトアクション方式トーマス・ブレーク・グラバーヘルハルト・ペルス・ライケンヘンリー・ヒュースケンプロイセンプロイセン王国パリパリ万国博覧会 (1867年)パベル・レベデフ=ラストチキンディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックフランスフランス軍フランス軍事顧問団 (1867-1868)フリントロック式フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトフェリーチェ・ベアトドライゼ銃ドイツ関税同盟ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーニコライ・レザノフ刈谷藩列強切腹嘉永善福寺 (東京都港区)咸臨丸和宮親子内親王アメリカ合衆国アメリカ合衆国大統領アメリカ合衆国国務長官アメリカ連合国アメリカ海軍アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード (初代リーズデイル男爵)アロー戦争アントン・ポートマンアントニウス・ボードウィンアーネスト・サトウアームストロング砲アヘン戦争アダム・ラクスマンイギリスウィレム2世 (オランダ王)エンフィールド銃エンゲルベルト・ケンペルエフィム・プチャーチンエカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)オランダオランダ風説書オランダ東インド会社オーガスタス・レオポルド・キューパーオットー・フォン・ビスマルクカムチャツカ半島カピタンガルトネル開墾条約事件ガトリング砲キリスト教ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールクーンラート・ハラタマクーデターグレゴリオ暦グイド・フルベッキゲベール銃シャスポー銃ジョン・ボウリングジョン・ニールジョン・カルフーンジェームズ・ブキャナンジェームズ・ビドルジェームズ・ホープジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)スペンサー銃スナイドル銃スネル兄弟タウンゼント・ハリスサンクトペテルブルク備中松山藩備後福山藩唐津藩内大臣内覧出島函館市函館港凌霜隊問屋八月十八日の政変公卿公家公武合体元号元治兵庫開港要求事件前装式勝海舟勤王勘定奉行勅許回天丸四侯会議四稜郭四斤山砲倒幕運動知藩事石井寛治玄武隊王政復古 (日本)火縄銃火薬火打石獄門琉仏修好条約琉球王国砲術磐城平藩神戸港神戸海軍操練所禁門の変福岡孝弟福井藩福地源一郎秋田戦争秋月悌次郎第二回天第二次世界大戦筑波山箱館戦争篠田鉱造米墨戦争紀州藩紀元紙製薬莢維新の十傑織物義祭同盟翔鶴丸真木保臣生麦生麦事件生野の変田沼意次由利公正甲陽鎮撫隊無主地異国叢書留萌特命全権公使版籍奉還相楽総三白虎隊銃口銃床銃剣鎌倉幕府鎖国遠国奉行適塾萩城萩原延壽蝦夷地蝦夷共和国靖兵隊青龍隊頼三樹三郎領事領事裁判権額兵隊飯泉喜内装甲艦西尾藩西郷隆盛西欧親征親藩観光丸香港総督駐日アメリカ合衆国大使駐日英国大使駿府藩討幕の密勅騎兵高崎正風高輪高杉晋作講談社学術文庫講武所鯖江藩鳥羽・伏見の戦い鳥羽街道鳳凰丸資本主義越後長岡藩鷹司輔煕鷹司政通鹿児島城軍艦操練所黒船黒船来航龍岡城近代近衛忠煕近藤茂左衛門近江屋事件錦の御旗茅根伊予之介航海遠略策阿部正外阿部正弘阿波国赤報隊赤蝦夷風説考鵜飼吉左衛門鵜飼幸吉関口製造所関宿藩関税自主権関白関門海峡薩土盟約薩長同盟薩長土肥薩英戦争薩摩藩薬莢間部詮勝開国開陽丸開成丸開成所藤田小四郎藤本鉄石蒲生君平野砲野村望東尼野戦築城自由貿易金銀比価長崎奉行長崎養生所長崎英語伝習所長崎海軍伝習所長州征討長州藩長州藩諸隊長府長井雅楽長野主膳蕃書調所酒井忠義 (小浜藩主)酒井忠毗若年寄英仏横浜駐屯軍蛮書和解御用雷神隊雷管電流丸雄藩雄松堂書店集成館事業老中陸軍総裁陸援隊林復斎掛川藩東征大総督東禅寺 (東京都港区)東禅寺事件東艦東海道松島剛蔵松下村塾松平定信松平定敬松平容保松平乗全松平忠固松平茂昭松平春嶽松前崇広松前藩松本奎堂板倉勝静根室栗本鋤雲桜田門桜田門外の変桑名藩梅田雲浜植民地主義椋梨藤太榎本武揚横井小楠横須賀造船所横浜仏語伝習所横浜鎖港談判使節団横浜開港資料館横浜港樺太樺太・千島交換条約機関銃橋本左内欧米正親町三条実愛武市瑞山武田耕雲斎歴史群像毛利元徳毛利敬親水郡善之祐水野忠徳水野忠邦水戸学水戸藩永井尚志江戸江戸城江戸幕府江戸薩摩藩邸の焼討事件江戸開城江戸時代池内蔵太池田屋事件河井継之助河内国津藩淀藩渡辺京二清河八郎澤宣嘉朝陽丸朝日新聞朝日新聞社朝日文庫木綿木戸孝允本間精一郎朱雀隊朔平門外の変有馬新七有栖川宮熾仁親王最恵国待遇戊午の密勅戊辰戊辰戦争戦国時代 (日本)星形要塞明和明石書店明治明治天皇明治維新春日大社昌平坂学問所昇平丸浦賀浪士組浪人海岸防禦御用掛海禁海軍総裁海援隊斬首刑新人物往来社新徴組新選組文久文久の改革文久遣欧使節文化 (元号)文化露寇文政日下部伊三治日仏修好通商条約日米修好通商条約日米和親条約日露和親条約日露間樺太島仮規則日蘭修好通商条約日蘭和親条約日英修好通商条約日英和親条約日本日本の降伏日本の歴史日本刀日本歴史学会摂政改税約書改革政事総裁職政権攘夷論慶応慶応の改革打ちこわし打刀10月13日10月14日10月14日 (旧暦)10月16日10月21日 (旧暦)10月23日10月24日 (旧暦)10月25日 (旧暦)10月3日 (旧暦)10月4日10月5日 (旧暦)10月9日11月11日11月15日11月19日11月22日11月4日11月5日 (旧暦)11月9日12月11日12月11日 (旧暦)12月14日 (旧暦)12月21日 (旧暦)12月23日 (旧暦)12月25日 (旧暦)12月2日 (旧暦)12月30日 (旧暦)12月31日12月3日12月5日 (旧暦)12月7日12月9日 (旧暦)1871年1945年1月10日1月12日1月16日 (旧暦)1月18日1月21日 (旧暦)1月24日1月25日1月27日1月30日1月3日1月3日 (旧暦)1月9日1月9日 (旧暦)2月13日2月25日 (旧暦)2月3日 (旧暦)2月7日3月14日3月22日 (旧暦)3月23日 (旧暦)3月24日3月25日 (旧暦)3月27日 (旧暦)3月30日3月31日3月3日 (旧暦)3月7日4月11日 (旧暦)4月17日 (旧暦)4月19日 (旧暦)4月1日 (旧暦)4月23日 (旧暦)4月27日4月28日5月10日 (旧暦)5月13日 (旧暦)5月15日 (旧暦)5月17日5月18日 (旧暦)5月1日 (旧暦)5月20日5月21日 (旧暦)5月22日5月24日 (旧暦)5月26日 (旧暦)5月28日 (旧暦)5月29日 (旧暦)5月2日5月3日5月3日 (旧暦)5月4日 (旧暦)5月7日5月9日 (旧暦)6月11日6月12日 (旧暦)6月18日6月19日 (旧暦)6月22日 (旧暦)6月24日6月25日6月26日6月27日6月3日 (旧暦)6月4日6月6日6月7日 (旧暦)7月10日 (旧暦)7月11日7月14日 (旧暦)7月18日7月18日 (旧暦)7月19日7月19日 (旧暦)7月20日 (旧暦)7月21日 (旧暦)7月23日7月29日7月2日 (旧暦)7月4日7月5日7月8日7月9日 (旧暦)8月10日 (旧暦)8月13日 (旧暦)8月14日8月15日8月17日 (旧暦)8月18日8月18日 (旧暦)8月20日8月20日 (旧暦)8月21日8月21日 (旧暦)8月22日8月23日 (旧暦)8月24日 (旧暦)8月29日8月29日 (旧暦)8月5日 (旧暦)9月14日9月16日 (旧暦)9月21日 (旧暦)9月28日9月29日9月30日9月3日 (旧暦)9月5日9月6日9月7日 (旧暦)9月8日 (旧暦)